2018年7月31日火曜日

原爆神話と情報操作

図書館から立て続けに新刊の原爆関連本を借りて読んだ。ひとつは、井上泰浩著『アメリカの原爆神話と情報操作――「広島」を歪めたNYタイムズ記者とハーヴァード学長』(朝日新聞出版)=写真下。
 アメリカ国内には、「原爆は戦争を終結させアメリカ人の命を救った救世主」という「原爆神話」が根強くある。その神話化に重要な役割を果たした一人が、ニューヨークタイムズの記者だった。この記者は本業の記事だけではない、トルーマン大統領の声明や演説も起草した。

原爆に詳しい科学記者が裏では軍のプロパガンダに協力し、その見返りに原爆に関する情報を独占する。新聞社だけでなく、軍からも給料をもらっていた。隠ぺい・ねつ造・歪曲のお先棒をかついだ記者が長崎原爆投下報道などでピュリツァー賞を受賞する――。アメリカン・ジャーナリズムも日本の大本営発表も五十歩百歩ではないか、まずそんな感想を抱いた。

 戦争が終わっても、アメリカでは原爆に関する記事・写真などが軍による事前検査を義務づけられた。日本国内ではGHQによる事前検閲が続いた。

その結果、アメリカ国民は①原爆は民間人の犠牲を避けるため、事前の警告をしたうえで軍事目標に投下された②原爆の衝撃によって戦争を早く終結させた③それで日本本土決戦が回避され、50万~100万人のアメリカ人とそれ以上の日本人の命を救った④原爆はアメリカと日本にとって救世主である⑤原爆の熱と爆破が日本人を殺したのであり、放射能障害はほとんどない――と信じ込まされた。アメリカ流情報操作だ。

 もう1冊はその逆をいくようなノンフィクション、石井光太著『原爆――広島を復興させた人びと』(集英社)だ=写真左。

著者に記憶があった。東日本大震災直後、津波で亡くなった人々が仮の遺体安置所に運び込まれる。その遺体を検分した関係者などにインタビューした本『遺体――震災、津波の果てに』(新潮社、2011年10月刊)の著者でもある。

「遺体はどれも濡れていたり、湿っていたりしており、艶を失った髪がべっとりと白い皮膚に貼りついている。/しゃがんで顔をのぞき込んでみると、多くの遺体の口や鼻に黒い泥がつまっていた。目蓋の隙間に砂がこびりついていることもある」(釜石医師会長の話)。こういう細部に至る表現によって、ようやく津波の死者一人ひとりの像が立ち上がってきた。

『原爆』も基本的には同じようにインタビューを積み上げ、資料を読み込んで構成された。被爆直後の生々しい惨状の描写は『遺体』の表現に通じる。

 こちらは広島平和記念資料館の初代館長・長岡省吾を中心に、最初の広島公選市長・浜井信三、平和記念公園・資料館を設計した丹下健三、市職員で反核運動をリードした高橋昭博らをオムニバス形式で取り上げている。その根底にあるのは、<それぞれの立場はちがっていても、胸にある思いは同じだった。「広島を、かならず焦土から平和都市として生まれ変わらせる」>だろう。

 この2冊とは別に、若い人から教えられて、漫画家こうの史代の『夕凪の街 桜の国』(双葉社)を読んだ。その流れで『大田洋子集』(三一書房)を図書館から借りてきて読んでいる。

 私にとっての広島は、10代後半に読んだ原民喜の「夏の花」。これが原風景だ。被爆直後の広島の超現実的な光景を描いて、衝撃的だった。小2で遭遇した山の町の大火事の惨状がこれに重なった。東日本大震災の大津波、そのほかの自然災害にも通じる“地獄”だ。

 朝日新聞はきのう(7月30日)、連載「うねり――核兵器禁止条約から」を始めた。原爆に対するアメリカと日本の受け止めの違いから筆を起こしている。どこまで踏み込むか、ちょっと興味を持っている。

2018年7月30日月曜日

キュウリの棚が切れる

 台風12号の影響は、いわきではほぼ皆無と思っていたが――。阿武隈の山々では風が吹いて、雨も平地よりは降った。おととい(7月28日)ときのうの降水量は、平地の平で計11.5ミリ、山地の川前では49.5ミリ、川内村では80.0ミリだった。
 夏井川渓谷は平地と山地の接点にある。きのう早朝、渓谷の隠居へ出かけた。ところどころ道路に木の葉と枝が散乱していた。台風のときよりはずっと少ないが、地形が地形だけに平地より風が強く巻いたようだ。地続きの川前の降水量から推して、雨もけっこう降ったらしい。

 隠居の庭にあるキュウリは、ビニールひもでつくった棚が切れて、葉が裏返しになって地面に触れていた=写真。

ビニールは強いようで弱い。猛暑続きで紫外線にさらされているうちに色が落ち、劣化が早まった。そこへキュウリが実るようになって重みが増し、風が吹き荒れて支えきれなくなったのだろう。

隠居の庭から一段下の空き地にはヨシが繁茂している。そのヨシの先端が南の方向になびいていた。キュウリの葉も同じ。三春ネギの苗も数本、南側に倒れていた。渓谷では北からの風が卓越したか。

とりあえず同じビニールひもでキュウリの棚をつくり直し、つるを支柱に結んで葉が天を向くようにした。ネギ苗は土を寄せてまっすぐにした。

週末、渓谷通いを続けているせいか、天気が荒れると、平地(わが家)と同時に渓谷(隠居)の様子が気になる。菜園の野菜は、庭木は大丈夫か? 落石は? 

そのおかげで、夏井川を軸に河口部(ハマ)・下流部(マチ)・上流部(ヤマ)と、同じいわき市内でも3地域に分けて比較・検討するクセがついた。ハマもそうかもしれないが、ヤマは良くも悪くも自然と人間の関係が濃密なところだ。ときに痛めつけられるが、恵みも大きい。この雨で夏キノコが少し目覚めるかもしれない。

2018年7月29日日曜日

新舞子のオニユリ

 台風12号は、通常とは“逆コース”できょう(7月29日)未明1時ごろ、三重県伊勢市付近に上陸し、西へと進んでいる。
東北南部のいわき市は暴風雨圏のはじっこだったのか、きのうは朝から風が吹き、午後遅くなって雨が降ったものの、わが家のあるあたりではおしめりにさえならなかった。台風がもたらした雨の量(48時間降水量)は、いわきの平で9.5ミリ、小名浜で4.5ミリ、山田で10.5ミリだった。西に降らす分を少しおいていってくれてもよかったのに……。

 7月最後の週末。いわき市内では夏まつりがスタートしたが、イベントによっては中止・延期が相次いだ。きのう午後、カミサンがかしま荘夏祭りに出店するので、荷物と本人を送り届けた。帰りは一番海寄りの道を利用した。鹿島から豊間へ抜け、灯台のふもとに出て薄磯~沼ノ内~新舞子海岸と進んだ。

 海は少し荒れていた。海岸堤防がかさ上げされたため、橋の上でしか白波は見えない。薄磯海水浴場はもちろん遊泳禁止になっていた。駐車場には、それでも車が数台止まっていた。

新舞子には、道路沿いに点々とオニユリが咲いている=写真上1。オニユリは7月下旬~8月上旬が花期だが、今年(2018年)は猛暑続きで開花が早まったようだ。

 東日本大震災後、夏井川河口右岸の砂浜にCSG(セメンテッドサンド・アンド・グラベル=コンクリートガラにセメント・水を練り混ぜたもの)を主材料にした、高さ7.2メートル、長さ920メートルの海岸堤防が完成した。
その陸側にクロマツ苗木が植えられている。<みずほ>の森という。ふだんは閉まっているゲートが開いていた。下草刈りを終えて帰るのか、堤防をぞろぞろと人が歩いている=写真上2。こちらも日中は雨の影響が少ないと判断して行事を実施したのだろう。

いわきの平地は暴風雨ともならず慈雨ともならず、といったところだが、山地はどうだったか。これから夏井川渓谷の隠居へ車を走らせて様子を見てくる。キュウリの収穫も兼ねて。

2018年7月28日土曜日

心平が乗ったガソリンカー

 ある晩、客人が来るまで時間があったので、いわきの詩人・三野混沌の詩集『阿武隈の雲』の復刻版(詩季の会、1994年)をパラパラやって過ごした=写真下1。原本は昭和29(1954)年7月に発行された。盟友の草野心平が自分の詩「故郷の入口」を引用しながら長い序文を書いている。
昭和17(1942)年10月、心平は中国・南京から一時帰国し、その足で帰省する。詩の冒頭4行。「たうとう磐城平に着いた。/いままで見なかったガソリンカーが待ってゐる。/四年前まではなかったガソリンカーだ。/小川郷行ガソリンカーだ。」。

 磐越東線をガソリンカーが走っていたのはいつ?――。昔、この詩を読んで以来、頭に刻まれた問いだ。

 心平に関して注意しなければならないことがある。既成の心平年譜は「基本的に心平の自筆と口述に基づき、若干の資料に当って作成されたものである。間違い、勘違いの類は壮大多数、実証的研究には役立たない部分が多い」草野心平研究 2003・11 5」)。

「心平の自筆と口述」がそもそも、裏付けなしの“直感表現”らしい。ということは、詩作品はともかく、いや、それも含めて心平が書いていることは、一度こちらで裏を取る必要がある、ということになる。

『阿武隈の雲』の序文で自作の「故郷の入口」を「故郷への入口」と書いているのがわかりやすい「勘違い」の例だろう。となれば、詩の中に出てくる「四年前」も怪しい。

 きのう(7月27日)、渡辺伸二著『磐越東線ものがたり 全通90年史』(2007年)をふと思い出して、図書館から借りて来て読んだら、疑問が氷解した。「このガソリン動車、磐越東線では昭和11年(1936)4月15日から平・小川郷間を走っていた」、太平洋戦争末期の「昭和20年(1945)6月のダイヤ改正時には姿を消している」。

 心平のいう同17年の「四年前まではなかった」どころか、6年前には運行が開始されていた。

ここからは“古新聞シリーズ”6――に切り替える。さっそく図書館のホームページを開いて、デジタル化された昔の地域紙・常磐毎日新聞で裏を取る。昭和11年4月16日付(15日の夕方配達)にガソリンカー営業運転の記事が載っていた=写真下2。
4月はこの日をはさんで9回もガソリンカーのことを取り上げている。見出しを紹介する。

7日付「ガソリン車の試運転を延期」(乗務員がまだ運転不慣れのため期間を延長)、8日付「ガソ車の運転陳情」(仙台鉄道局に久之浜町長)、11日付「予定通りにガソ車走る 花の15日から 当分中間に停留しない」(常磐線は湯本駅~平駅~久之浜駅、磐越東線は平駅~小川郷駅)、14日付「ガソリンカーの運転時刻決定 来る15日より開通」。

そして、当日=16日付「平地方の交通網 画期的の一進展 けふから一本立ちのガソリンカー颯爽と疾駆」。

17日付「ガソ車の出現で発着時刻が変更」、18日付「未だお客がつかず ガソ車淋し お天気を待ち 平駅至極楽観」、21日付「乗客俄かに増す 有卦に入るガソリン車 これも花のお蔭」。24日付では「最近出現の事物を画材に 平第二校が図画の指導」と、ガソリンカーやアドバルーンなどが新しい題材になっていることを伝えている。

心平の“反面教材”のおかげで、やっとガソリンカーの運行時期・区間・当時の様子がわかった。

2018年7月27日金曜日

夏井川河口の閉塞問題

“古新聞シリーズ”5は、夏井川河口の閉塞問題を報じる昭和8(1933)年6月9日付常磐毎日新聞=写真。見出しに「折角の工事/河口が埋る/夏井川逆流し/地元民が陳情」とある。本文記事を補筆しながら紹介すると――。
昭和7年度に時局匡救(きょうきゅう)事業として、夏井川河口部で改修工事が始まった。右岸・夏井村下大越(おおごえ)、左岸・草野村沢帯(ざわみき)から防波堤が設置された。

ところが、左岸河口で合流する横川(仁井田川)の改修工事が手つかずのため、最近、荒天のたびに河口が土砂で埋まり、河流が沢帯地内に逆流するようになった。思わぬ被害の発生に、地元区長ら代表数人が平土木監督所を訪れ、横川の改修促進を陳情した。

今の夏井川と横川の関係をあぶり出すような記事だが、昭和8年の前にも夏井川河口の閉塞問題は起きていた。大正2(1913)年に脱稿、同11年に刊行された『石城郡誌』にも、「時に奇と称すべきは旱天(かんてん)の水害なり(略)、川水漸(ようや)く涸(か)れ其(そ)の勢ひ海沙(かいさ)を排寡(はいか)する能(あた)はず。河口塞(ふさ)がつて通せず、……」とある。

夏井川は、水源から河口まで流路が67キロしかない中小河川だ。中小河川は吐き出す流量が少なく、海からの波浪などによって河口が閉塞しやすいという。その時代、その時代に陳情・要望―対策事業が繰り返されてきたものの、自然の威力はいつも人知を超える、という状況が続いている。

平成の世に入ってからは、支流・仁井田川の台風による河口開口、東日本大震災による地盤沈下などの影響を受けて、夏井川河口の閉塞と横川への逆流が常態化した。2年前の平成28年8月の豪雨時には、横川の水位が上昇し、沿川に避難勧告が発令された。

先日、夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会が開かれた。下流平坦部の区長らが出席した。毎年、総会後は福島県いわき建設事務所の課長が管内の夏井川の改修工事について説明する。

それによると、専門家による技術検討会で決定した方針に基づき、今年度(2018年度)から抜本的な治水対策を実施することになった。ポイントは①横川の築堤・護岸②夏井川左岸河口部の築堤・護岸③横川合流部の水門設置――などだ。

 以前、といっても10年ほど前だが、横川との合流点に夏井川の水の逆流を遮る“石のダム”ができた。それで夏井川河口の閉塞を打破しようともくろんだのだろうが、あえなく失敗した。流れは石のダムを超えて滝のように横川へ逆流した。今度は鉄とコンクリートの門で流れを遮ろう、というわけだ。

 夏井川河口の閉塞とそれに伴う横川沿川の浸水問題は、記録で知るかぎり100年に及ぶ。今回の復興予算が「百年の大計」となるかどうか。

2018年7月26日木曜日

霧の夏井川渓谷

きのう(7月25日)は早朝4時半に家を出て、5時すぎに夏井川渓谷の隠居へ着いた。
渓谷に入ると、霧が視界を遮っていた=写真。車のライトをつけて走った。対向車両もライトをつけている。夏至から1カ月余、夜明けが遅くなっているせいもあるだろう。

隠居の畑で、ちょうどいい大きさになったキュウリを4本、4日後の日曜日まで置くと肥大しすぎてしまいそうな小さいのを1本とる。あとは、いつものように風呂場から伸ばしたホースでキュウリの根元に水をやりながら、ネギの溝に潜んでいる根切り虫を退治し、草むしりをした。6時には隠居を離れた。

4日前の日曜日(7月22日)、同じように朝早く出かけた。なにか小さな虫に刺されたらしく、上唇がしびれて少し腫れた。カミサンは腕を刺された。あとでホームセンターへ寄って、腕カバーを買った。唇にはアロエの果肉を塗った。

渓谷にはアブやブユがいる。きのうは虫刺され対策として、長ズボンに長靴、Tシャツに手袋・腕カバーという格好で皮膚の露出部を減らした。顔にまとわりついてくるのはブユだろう。唇を刺したのはこれか。

さて、昔の言葉に「五風十雨(ごふうじゅうう)」がある。5日ごとに風が吹き、10日ごとに雨が降れば、農事がうまくいき、世の中も安泰、という意味だそうだ。

平ではもう何日も雨なし日が続いている。おとといは、雨の予報が空振りに終わった。パラパラとほんの一瞬、セミのおしっこのようなものが降ってきただけだった。きのうはほぼ一日、曇天だった。この土・日には傘のマークが付いている。台風が近づいている。どの程度の雨になるのか。暴風雨か慈雨か。

渓谷のがけに生えている幼木の葉が枯れて黄変していた。隠居からの帰路、車で通り過ぎただけだからよくわからなかったが、カエデだったかもしれない。緑のトンネルが切れて、太陽に照らされるS字カーブだ。生育環境としては厳しい。そんな所から日照りの影響が出始めているのか。雨乞い祭りが必要だ。

2018年7月25日水曜日

朝井まかての本

 きっかけは、この酷暑続き。横になって読む本、発見――というところだろうか。
直木賞作家の朝井まかて(1959年~)の本を、カミサンが何冊か移動図書館と総合図書館から借りてきた。なかに『御松茸騒動』(徳間書店、2014年)があった。タイトルに引かれて読んでみた。

尾張藩の若い江戸詰め藩士が国元の「御松茸同心」を命じられる。マツタケの生える御林のことも、村のことも知らない堅物のシティボーイだが、“山流し”(島流し)にめげず頑張って、マツタケがなぜ不作になったのか=盗木防止を理由にした留め山=を知り、“小知恵”をはたらかせて松葉掻きを続け、マツタケ山を再生させる。今風にいえば、主人公が「自然と人間の交通」に気づき、実践する物語だ。

「赤松と松茸の菌は、いわば主君と家臣のようなものでござります」。アカマツの根と、菌根菌としてのマツタケの関係を、上司にわかるように説明する。「共生」と「主従」は違うのではと思いながらも、たとえの面白さにうなった。

山里の食習慣のひとつに「漬松茸(つけまつたけ)」がある。マツタケ産地、たとえば夏井川渓谷の小集落でも、採れたマツタケを味噌に漬ける。それにも言及していた。なかなかの「ネイチャー・ライティング」だ。

 ついでながら、カミサンが借りた“まかて本”はというと――。明治神宮の森づくりを描いた『落陽』(祥伝社、2016年)、江戸の庭師を主人公にした『ちゃんちゃら』(講談社、2010年)、幕末・天狗党の志士に嫁いだ歌人の一生を描いた『恋歌(れんか)』(同、2013年=直木賞受賞)。ほかに、江戸の庶民の暮らしを描いた短編集『福袋』(同、2017年)だ。

『福袋』の装画=写真上1=と扉絵は、イラストレーター白浜美千代さん(1950年~)が描いた。白浜さんのイラストには昔からなじみがある。シャプラニール=市民による海外協力の会の単行本や冊子の装画・挿し絵は、白浜さんの作品であることが多い。
2016年9月1日、「防災の日」に発行されたシャプラの『いわき、1846日――海外協力NGOによる東日本大震災支援活動報告』のイラストも、白浜さんが担当した。なかに、こんなイラストもある=写真上2。『御松茸騒動』の次には『福袋』を読んでみるとしよう。

2018年7月24日火曜日

「大暑」の事業所回り

 9月2日に地区(旧・神谷村)の市民体育祭が開かれる。その全体打ち合わせが金曜日(7月20日)の夜に行われた。プログラム終了後の大抽選会のために、毎年、地元事業所から協賛金を募る。今年(2018年)は締め切りが7月31日だという。
 事業所によっては受付―決裁―支出までに1週間かかる。時間がない。酷暑が続いている。きのう(7月23日)午前10時からざっと1時間、首にアイスバンドと汗ふき用のタオルを巻いて、太陽の直射熱とアスファルトからの輻射熱に攻められながら、区の会計さんと一緒に区内の事業所を回った(1週間後も、同じようにして回る)。

 歩きはじめるとすぐ、汗が全身から噴き出して流れる感じになった。ときどき、ポカリスエットをのどに流し込む。あとで知ったが、この日は二十四節気中の「大暑」。さいわいというべきか、少し風があった。主に北から吹いてきた。ときどき涼風に変わるので、気分的には救われた。

 戻るとすぐ、水風呂につかった。前日、涼みに行った薄磯海水浴場=写真=を思い浮かべながら、海で遊泳したつもりになる。それでも、ほてった背中は湯気が立つように熱い。風邪は背中から引く――と作家の故池波正太郎さんが言っていた。夏は背中から熱中症になるのだろうか。

 炎天下の歩行5000歩。熱中症の自覚症状はなかったものの、体は相当こたえたようだ。水風呂から上がったあとはずっと横になっていた。それでも、なかなか思考力が戻らない。「ボーっと生きてんじゃねえよ」とチコちゃんにしかられそうな状態が続いた。

 さて――と、夕方、気合を入れて台所に立つ。いわき昔野菜の「小白井きゅうり」が3本残っていた。最初は「どぶ漬け」をと考えたが、完熟しかかっているので「一夜漬け」に切り替える。皮は薄い。しかし、硬い。古い木製の皮むき器で皮をすべてむき、四つ割りにして種を取ったあと、1センチ幅のザク切りにして塩をまぶし、バネ式の重しが付いた即席漬物器に入れた。

宵の6時前には、北からの風のおかげで室温が30度を下回る。何日ぶりかで見る「20度」台だった。晩酌を始めると、庭でヒグラシが鳴いた。どこか近所の屋敷林あたりで羽化したのが飛んで来たのだろうか。

きょうの浜通りの天気は「東の風、くもり、所により昼前から雨」の予報だ。現在4時20分、未明の空が少し明るくなり、鳥が歌い始めた。まずは小白井きゅうりの一夜漬けの味だ。つまみ食いをしたら、いいあんばいにやわらかくなっていた。冷やしておけば、ご飯だけでなく、晩酌のおかずにもなる。

2018年7月23日月曜日

キュウリの食べ方

 キュウリが採れる。キュウリが届く。とりあえず、糠床に入れる。浅漬けにする。何本か残るときがある。そのまま漬けておく。ほかに、別の容器でキュウリの古漬けをつくる。糠床の古漬けはすぐ食べるが、こちらは秋~冬用の保存食だ。
 この7月の、ある日の食卓――。まだ緑色の残る浅漬け、あめ色になった糠床の古漬け、青ジソと生を刻んだきゅうりもみがそろった=写真上。それぞれに味、食感が違う。

10日前の7月13日にも書いたが、水分たっぷりのもぎたてキュウリは、「もみ」はもちろん、浅漬け、古漬けにしてもいい。「もみ」はとてもやわらかい。浅漬けも生のあおみと歯ごたえを残しながらも、しんなりして口にやさしい。古漬けは、塩分が濃いので薄切りにする。ときには水にさらして塩抜きをする。パリパリした感じとやわらかさがまじりあって食欲を誘う。この時期、塩分補給にもなる。

 きのう(7月22日)は朝めし前に夏井川渓谷の隠居へ行ってキュウリ4本を収穫した。1本は20センチ超と、思ったより生長が早かった。7時に帰宅して、2本は糠床に入れた。肥大キュウリは、カミサンがきゅうりもみにして、サケ缶をまぶした。さっぱりしてうまかった。

 一休みしたあと、某所へアッシーくんを務める。おみやげにいわき昔野菜の「小白井きゅうり」をもらった=写真下。平成23(2011)年3月、いわき市が発行した『いわき昔野菜図譜』によると、在来キュウリは「どぶ漬け」が一番らしい。ほかに、酢の物、きゅうりもみ、炒め物、味噌汁が紹介されている。カミサンに図譜を見せたら、暑いうえに日曜日だったせいか「自分でつくって」。
「太く育ったキュウリは肉厚でみずみずしく、皮をむき、種を取り除いて、炒め物や味噌汁の具などに加熱して」食べる。どぶ漬けは一度沸騰させた塩水に入れて重しをのせ、10時間ほど漬け込むと出来上がるそうだ。

 煮沸で思い出した。保存食用の古漬けは上がった水が濁ってきた。殺菌を兼ねて鍋に移して煮沸し、ごみやアクを取り除いた。水を流したままのボールに鍋を入れて冷ましたあと、容器に戻す。この猛暑続き、台所で火を使うことがいかにきついか、よくわかった。

2018年7月22日日曜日

早朝の回覧資料配布

 きのう(7月21日)早朝、人が動き出す前に回覧資料を行政区の役員さんのところへ届けた。朝日を浴びたが、汗がにじむ程度ですんだ。
わが行政区では月に3回、区長(行政嘱託員)が区の役員さんを介して隣組に行政資料を届ける。役員さんに配るのは、いつもは朝10時前後か、夕方4時前後。しかし、「いのちに関わるような暑さ」が続いている。どちらの時間帯も炎天下の配付になる。区長になって今年(2018年)で6年目、初めて朝6時台に役員さん回りをした。

時間が時間だから、ピンポンとやるわけにはいかない。ドアのわきに置いたり、郵便受けに差し込んだりした。1軒だけ、車のエンジン音を聞いて、ドアを開けて出て来た役員の奥さんがいる。「(日中は)暑いものだから」「ご苦労様です」。郵便受けに新聞が差し込まれたままのところもあった。

それからの連想――。今では遠いとおい昔、中学生のときにふるさとで、19歳のときに東京で、同じ時間帯に自転車で新聞配達をした。雨の日も雪の日もあった。が、朝焼けの美しい日には心が躍った。

8月に入るとすぐ、9月最初の日曜日に予定されている地区体育祭の準備のために、区内会と子どもを守る会の合同役員会を開かないといけない。一昨夜、その案内チラシをつくった。回覧資料の配付に合わせるため、朝6時のサイレンが鳴る前にコンビニで必要分をコピーした。それも含めて、朝めし前の7時には午前中に予定していた仕事を終えた。

朝4時、ないし5時には起きて、前夜、ほろ酔い気分で書き上げたブログを直してアップする。それが最初の仕事。あとは、そのときそのときの雑用をこなす。それを早朝のうちにすませたのだから、爽快な気分になった。

私よりもっと早起きの人もいる。玄関わきの柱のすき間に新聞が挟まれている。ある日、その上に切り花=写真=がのっかっていた。震災後知り合ったばあさんが持ってきてくれたのだ。夜明けとともに起きて花壇の手入れをしているのだろう。それぞれがそれぞれの方法で早朝、体を動かしている。

きのうの午後は、街でいわき地域学會の市民講座が開かれた。避暑を兼ねて、会場の市文化センターへ出かけた。が、「命にかかわる暑さ」だというのに、エアコンが十分機能しなかった。扇子をパタパタやりながら話を聴く人が少なくなかった。夕方5時、帰宅するとたまらず水風呂に入った。宵には別の行政区で変死事件が起きた、という情報が入る。なんということだ。

2018年7月21日土曜日

「う」の字のつく食べ物

 きのう(7月20日)は「土用のうしの日」だった。「う」の字のつく食べ物は? 梅干しがあった。コップに梅干しと水を入れてほぐし、氷を加えて飲んだ=写真。エキスがしみ出て味のなくなった梅肉も食べた。うなぎのかば焼きはこのごろ、高くて庶民の口には入らない。その代用だ。熱中症予防も兼ねた。
うな重ではなく梅干しなのは、半分は負け惜しみ、半分はコピーライター平賀源内(1728~79年)に対する尊敬と反発から。

八巻俊雄著『広告』(法政大出版局、2006年)によれば、平賀源内は日本最初のコピーライターだ。最初は「えびす屋兵助の漱石香(歯磨き粉)」を扱い、安永4(1775)年には「音羽屋多吉の清水餅」の広告コピーを書いた。うなぎ屋の広告も(通説だが)、人の心を動かし、今も人の心を支配している。

明和6(1769)年、源内は売れないうなぎ屋の相談を受け、「丑(うし)の日には『う』の字のつくものを食べると夏やせしない」という民間伝承にヒントを得て、「本日丑の日」の紙を店頭に張り出すことをアドバイスした。それが受けてうなぎ屋は大繁盛し、やがて土用うしの日にうなぎを食べる習慣が定着した。

その結果、うなぎが激減した。2014年には国際自然保護連合のレッドリスト最新版に「絶滅危惧種」として掲載された。

きのう、カミサンが聞いた、ある若い人の話だ。うなぎは高いから、代わりに新鮮ないわしを買ってきて開いて焼き、同じく市販されているうなぎのかば焼き用のタレをかけて食べるのだとか。

いわきの浜の料理に「うきき(まんぼうの腸)のかす漬け」がある。「うにの炊き込みごはん」もある。これもうなぎの代用になるのではないか。珍味、高級食かもしれないが。頭以外に「う」の字のつくものでもいいのなら、きゅうり、豆腐、そうめん、ごぼうなどが思い浮かぶ。

2018年7月20日金曜日

濃霧注意報

 このところ、10代後半に読んだフランス人作家の作品を思い出している。細部は忘れたが、エジプトの灼熱の昼と夜のにぎわいを描いたものだ。
記憶を頼りにネットで検索したら、53年前に発行された『現代フランス文学13人集』(新潮社、全4冊)のなかにあった。アンチ・ロマンの旗手の一人、ミシェル・ビュトール(1926~2016年)の「エジプト―土地の精霊―」だった。

 ラマダン月(断食月)にも触れていたかもしれない。が、イスラム世界の知識ゼロの17歳にとって、エジプトはただただ乾いて暑い国、人々は、日中は横になってやりすごし、夜になって動き出す――そんな読後感が刻まれて今に残る。

日本の夏は、東京もフィリピンのマニラ並みの高温になる、という点では、東南アジアの国々とそう変わらない。しかし、今年(2018年)の暑さはそれを超える。ビュトールの「エジプト」が記憶の底から浮上してきたのもそのためだ。実際、夏のカイロの気温は東京を上回る。ただし、向こうは砂漠が広がる乾燥地帯、こちらは台風が襲来する湿潤の国。うっとうしさが違う。

さてさて、日中はじっとしているかわり、早朝に用をすませよう、というわけで、きのう(7月19日)は、夏井川渓谷の隠居でキュウリを摘むために、5時半に家を出た。と、道路にも田んぼにも霧がかかっていた=写真。見通しがきかない。ライトをつけて進むと、市街の平・平窪から小川に入るあたりで霧が晴れた。渓谷に霧はなかった。海霧が内陸部まで流れて来ていたのだろう。

隠居の庭でキュウリを摘み、キュウリ苗の根元にホースを置いて水をやりながら、草引きをすること30分。6時半には作業をやめて帰路に就く。平地に下り、平・神谷地区に入ると、丘陵にはまだ霧がかかっていた。

あとで福島地方気象台のホームページに当たると、「浜通りでは19日夕方まで濃霧による交通障害に注意してください」(午前10時38分発表)とあった。山の手の飯舘・葛尾・川内3村をのぞいて、浜通りの自治体には濃霧注意報が発令された。内陸まで霧が流れて来たせいか、日中の室温は31度をちょっと超える程度だった。おとといまでの暑さよりは多少しのぎやすかった。

いわきでもおとといの日中、土いじりをしていて熱中症で亡くなったお年寄りがいる。「天日燦(さん)として焼くが如(ごと)し いでて」、土いじりをしてはいけない、とあらためて肝に銘じる。

2018年7月19日木曜日

「平町特産」の蒸しかまど

“古新聞シリーズ”4は「平町特産」の蒸しかまどについて――。ガス釜や電気炊飯器(電子ジャー)が普及する前は、陶器の蒸しかまどでご飯を炊いていた。といっても、阿武隈高地のわが実家の場合は昭和30年代の一時期だけだったが(子どものころ、この蒸しかまどの当番をやらされた)。
           
 昭和7(1932)年1月13日付常磐毎日新聞に、蒸しかまどの図入り広告が載る=写真。「新案特許」「本品にニセ物有」といった言葉が躍る。

蒸しかまどは広告にあるように、お椀を二つくっつけたような卵型だ。高さは1メートル弱。炭をおこして蒸しかまどに入れ、その上に研いだ米の入った羽釜をのせて上蓋をかぶせる。先端の筒から勢いよく湯気が上がったら、素早くこの筒に蓋をし、下のかまどの空気穴もふさぐ。それでふっくらとしたご飯が炊き上がる。
 
 広告とは別に、同10(1935)年6月29日付同新聞には「平町特産の/ムシ竈製造/近年長足の進展/重要工業として町が助成」といった見出しの記事が載っている。

 ――平町で盛んに製造される蒸しかまどは、南は九州、北は北海道まで販路が拡張された。生産額は、昭和9年には1万2千個約4万円だったが、翌10年は製造業者も激増して倍加の見込み。蒸しかまどはわずかな木炭燃料で極めて軽便に、しかもおいしくご飯を炊けるので、家庭から歓迎されている。

 昭和2、3年ごろ、初めてつくられた当時は重くて不便だった。それとは隔世の感がある。で、「この製造工業を平町特産の重要工業化すべく相當町が助成の方法を講ずべきであると一部の意見が有力化して居る」――。

見出しからは、町がいかにも助成策を決めたかのような印象を受けるが、そこまではいっていない。しかし、昭和10年当時、蒸しかまどは“外貨”を稼ぐ重要な商品と評価されるようになっていた。

 平で蒸しかまどを製造していた人の話を聞いたことがある。3軒のメーカーがしのぎを削っていて、それぞれどこかに特徴があった。福島県浜通りの相双地区はおろか中通り、遠くは山形、岩手県辺りまで貨車で送ったそうだ。瓦製造業者が兼業するところもあったという。

 カミサンの実家で物置を解体したとき、蒸しかまどが出てきた。夏井川渓谷の隠居へ運んで、2回ほどこれでご飯を炊いた。ガスや電気が使えないときの、あるいは自分の体とウデを使って、できるだけ自然に負荷を与えないような暮らしをしたいと考える若い人にとっては、「もうひとつの調理器具」ではある。

 蒸しかまどは、平町で“発明”されたかどうかはともかく、昭和初期から高度経済成長期まで、燃料の安さと家事の簡素化で暮らしに貢献した。これもリノベーションの一例ではあるだろう。

2018年7月18日水曜日

セミの鳴く木

わが家の庭では6月末にニイニイゼミがささやきはじめ、やがて日中、アブラゼミとミンミンゼミが歌い、8月中旬にはツクツクボウシが鳴きだす。
日曜日(7月15日)の夜更け、寝るまで開けっぱなしにしているわが家の茶の間に、アブラゼミが飛び込んできた。翌朝、ガラス戸を開けようとしたら、枠に止まっているのでわかった=写真。触れた瞬間、戸と戸の間に落ちた。しばらくガラス戸の桟の上でギャーギャーやっていたが、そろりそろりと戸を開けて逃げ道をつくってやると、畳に落ちて庭へ飛んで行った。

庭に柿の木がある。セミたちはその木の周囲の地中で長い幼虫時代を過ごす。地上に現れると、そばの草や灌木の先っちょで羽化し、柿の木に止まって鳴き続ける。

実は、日曜日の宵にカミサンと隣に住む義弟とでセミの話になった。2人は庭の柿の木からニイニイゼミの声が聞こえるという。私には、右耳の耳鳴りと扇風機の音が重なって、認識できない。アブラゼミはニイニイゼミより音量もあるからはっきりわかるはずだが、それもまだちゃんと鳴き声としてとらえていない。

拙ブログでセミの記録を探っていたら、10年前に読んだ本の記述に出合った。すっかり忘れていた。面白いのでそれを紹介する。あるとき、柿の木に近づいてセミを見ていたら、不思議な「ささやき」を聞いた。そのわけが知りたくて図書館から本を借りてきて読んだのだった。

――橋本洽二著『セミの生活史』(誠文堂新光社、1991年)で、いろんな蝉の歌があることを知った。

 誰でも知っている鳴き方、たとえばミンミンゼミの「ミーンミンミンミー」、アブラゼミの「ジージリジリジリジリ…」は、便宜的に「本鳴き」と呼んでおく、と著者はいう。その伝で、1、2回鳴くごとに転々と場所を変える「鳴き移り」、恋歌でもある「さそい鳴き」、鳴いていないときにポツンと出す「ひま鳴き」、人間につかまったときの「悲鳴」などがあるそうだ。

 そして、近くに寄らなければ聞こえない弱い音「つぶやき」があるという。ミンミンゼミなら「ワーンワーン」。字に書けば「ワ」音の連想でにぎやかに聞こえそうだが、私の聞いた「ささやき」が著者のいう「つぶやき」と同じなら、小さな小さな音だ。その音は超音波のように透き通っている。

 両手の指で6人分ほど生きてきたが、そんな蝉の「つぶやき」に気づいたのは今度が初めてだ。なぜ今まで聞こえなかったのだろう。

 たぶん、蝉と言えば「本鳴き」という先入観にとらわれてしまっていたのだ。感受性がよろいを着て歩いていては、なにも見えない、聞こえない。いくつになってもそうだが、少年のように頭をからっぽにして相手と向き合うことだろう――。

 というわけで、ガラス戸の間に落ちてギャーギャーやったのは「悲鳴」だったにちがいない。にしても、明確にセミだとわかる鳴き声はこれだけ。今年(2018年)はこの猛暑がセミにも影響している?――とここまで書いた昨夕、外に出て大火事のような夕焼け空を見ていると、「ジージリジリジリジリ…」というアブラゼミの鳴き声が聞こえた。セミも日中は酷暑に耐えているのだろう。

2018年7月17日火曜日

海につかる

 年齢的に耐性が低下したのか、年齢に関係なく猛暑がこたえるのか――。三連休最後のきのう(7月16日)も海で夕涼みをした。
 おとといは四倉海水浴場、きのうは薄磯海水浴場へ=写真上。津波被害に遭って内陸部に移り住み、しかし、いつかまた薄磯での営業再開を心に決めて暮らしてきた女性喫茶店主がいる。今年(2018年)の「海開きまでには」と聞いていたので、再オープンしているかもしれないと、車を走らせた。夕涼みよりも、こちらが主目的だった。

場所は聞いていなかった。「高台移転」のために元・集落の背後の山が切り崩された。区画割りがすんで家も建ち始めた。しかし、それらしい建物はない。高台から下りてふもとを巡ると、あった。2階建てで、1階は駐車場。前の建物と似ている。近くにいた人の話では、再オープンは月遅れ盆のあとになるらしい。

それよりなにより、沿岸部は高い海岸堤防と防災緑地の連続で海が見えなくなった。その陸側に新・海岸道路ともいうべき“復興道路”ができた。薄磯は防災緑地をはさんで2本。海側と陸側を走る。

きのうは夏井川河口部からその道路を利用して薄磯まで行き、さらに豊間の先の合磯(かっつぉ)まで行って、薄磯へ戻って海につかった。

四倉は防災緑地から汀までが遠い。もともと砂浜が広くて大きいから、高度経済成長期前には、中通りから浜通りへ海水浴に、となると、汽車で四倉へ行くのが定番だった(ように記憶している)。砂浜を素足で歩くとやけどしそうになる。それが、四倉。薄磯はその点、すぐ汀にたどり着ける。車でも行きやすい。震災前の平成22(2010)年には、いわき市内でトップの入り込み数を記録した。

寄せては引く波に足をぬらしたが、海の感覚を失っていた。かわいい波なのにめまいを感じた。初めて海を見た幼年期に、同じようにめまいを覚えた。循環して完結するときが近いのか。

砂浜を引き上げるとき、階段の上に親子のシルエットが見えた=写真下。このあと、親子に続いて水で足首の砂を洗い流した。自宅へ戻るとすねに残っていた砂が畳にこぼれた。海につかった部分には砂が付く、足首から下を洗うだけでは、十分ではないことを知る。
 
さて、こんな暑さが続くようだと――と思う。年寄りはとにかく早く寝て、未明の3時か4時には起きて、朝めし前に仕事をすませる。日中は横になっている。水をたくさん飲みながら。というわけで、けさは4時に起きた。

2018年7月16日月曜日

樹下を吹き抜ける涼風

 畑仕事は7時半まで――夏井川渓谷に住む友人のいうとおりだった。きのう(7月15日)早朝7時、同渓谷の隠居に着いた。すぐキュウリを摘み、生ごみを埋めた。日なたには10分もいられない。
 去年(2017年)もらって、カミサンが置き忘れていたジャガイモがある。3月になると芽が出た。台所にあるものは、4月に入るとすぐ植えた。2カ月半がたって地上部の葉が枯れたので、掘り起こして子芋を掘りとった。「みそかんぷら」にした。

もうひとつ、別のところに段ボール箱入りのジャガイモがあった。四角い箱のなかでびっしり芽を出していた=写真上。カミサンが気づいたのは5月下旬。土の栄養にしてもいいと思って、これも植えた。地上に現れた葉が枯れかかったので、きのう、掘りおこして小芋を収穫した=写真下。また「みそかんぷら」が食べられる。
キュウリもジャガイモも、朝のうちはそばの木のおかげで日陰になっている。直射日光を浴びないだけ楽に作業ができた。小芋を掘り終えると8時になっていた。

朝食をとったあとは、もうやることはない。が、かみさんは木陰を選んで草むしりを続けた。私も、庭木の下でマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を探した。樹下を吹き抜ける風が涼しい。夏は室内で扇風機をかけているより、緑陰で風に吹かれている方が、気持ちがいい。

渓谷の森は天然のエアコン。その森が少しかすんで見える。葉という葉から盛んに水分が蒸散しているからか。

マメダンゴは、地上に頭を出しかけたものが二つ=写真下。もう大人の親指以上になっているはず、つまり中身は胞子ができて黒くなっているだろうから、写真だけ撮ってそのままにしておいた。
 あとは隠居の中で、扇風機をかけて過ごした。昼食は、隠居にあるものですませた。昼寝をしたあと、カミサンがまた木陰で草むしりを始めた。すると、間もなく「これマメダンゴ?」と持って来た。そうだった。3日前に4個見つけ、内部が黒くなっているはずと判断して埋め戻した。さらに、写真を撮ってそのままにしておいたものも掘り取った。

しようがない、今度はみそ汁の具にするか――。4個を二つに割くと、3個は胞子が形成されて“黒あん”だった。黒あんは土に戻して、殻だけ“白あん”とともに持ち帰ることにした。そのとき、ヒグラシの鳴き声が谷間に響いた。

2018年7月15日日曜日

海開き・梅雨明け・夕涼み

 きのう(7月14日)も朝から気温が上昇した。扇風機をかけっぱなしにした。それでも、8時ごろには茶の間で30度を超えた。少し仕事をしたあとは横になって過ごした。
 いわきではこの日午前、四倉・薄磯・勿来の3海水浴場で海開きが行われた。タイミングよく仙台管区気象台が東北南部の梅雨明けを発表した。

 東北南部の梅雨明けは、平年が7月25日ごろ。いわきで海開きが行われるころは、まだどんよりした天気が続き、肌寒かったりする。去年(2017年)は最初、カラ梅雨気味に推移したが、終盤になってぐずついた。東北の梅雨明けは、南部・北部含めて8月2日だった。その後検討が加えられ、「梅雨明けは特定できなかった」に変わる。

それが、今年はとっくに梅雨が明けたのではないか、と思わせるような猛暑続きだ。

 いわきの気候は東海・関東型(夏は温暖多雨、冬は冷涼乾燥)に入る。関東・甲信地方は6月29日に梅雨が明けた。いわきでは7月に入って、6・7日に天気が崩れた。勝手に解釈すれば、8日からきのうまでは一時的な雨をのぞいて猛暑が続いている。8日に梅雨が明けたも同じではないのか。

 きのうの最高気温は、さすがに沿岸部の小名浜でも31.5度の真夏日になった。内陸部の山田は、今年最高の34.5度だ。

 夕方、やっと動き出す。カレー料理店に米を届けたあと、海岸道路を通って四倉海水浴場へ行ってみた。海水浴客は引き上げていたが、サーファーが何人も白波に向かっていた。日没間近の6時だというのに、駐車場には関東圏などからの車がずらりと並んでいた=写真。3連休を利用して、駐車場でこのまま過ごす車が多いのだろうか。

防災緑地が海水浴場と駐車場の間に立ちはだかっている。緑地の階段を上らないと海は見えない、行けない。砂浜は相変わらず広かった。緑地のてっぺんで夕涼みをして帰った。

7月14日――。海開き。梅雨明け。なにかもうひとつあるような……。フランスの建国記念日、パリ祭の日だった。真冬に夏井川渓谷の「木守の滝」から取って冷凍庫にしまっておいた天然氷を砕いて、水のオンザロックにした。焼酎をなめては水を流し込む。水道水の氷と違って、やわらかい感じがした。

◆追記:日曜日夕方のニュースで知ったのだが、サーファーが集まっていたのには理由があった。15・16日の2日間、第1回東日本サーフィン選手権大会が四倉海水浴場で開かれた。

2018年7月14日土曜日

2回目の宮沢賢治展

 東日本大震災から1年後の2012年4月28日から6月17日まで、いわき市立美術館で「宮沢賢治・詩と絵の宇宙――理想郷イーハトーブを夢みて」展が開かれた。そのときの拙ブログを再掲する。
                    *
 20歳前後から賢治にとりつかれ、「雨ニモマケズ」に共感と反発を抱き続けてきた。反発しながらも、賢治を“卒業”できない。「雨ニモマケズ」は自分の生き方を考えるときに、真っ先にわきにおきたいフレーズだった。<「ジブンヲカンジョウニ入レズニ>生きられるのか。生きられない、と。

 それよりもっと反発したのは、<農民芸術概論・序論>にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。いよいよダメだな、オレは賢治についていけないな。

 賢治の全集を二回買った。『校本宮沢賢治全集』がそろったときに、古い全集を友人の娘にプレゼントした。中学生になるかならないかだったか。娘は大学と大学院で賢治をテーマにした。

 で、今度は『校本宮沢賢治全集』だ。息子・娘の世代は父・母になった。つまり、その次の世代、孫たちに賢治を伝えよう。今年(注・当時)中学生になった疑似孫がいる。小学5年か6年生のときに全集の1冊をあげた。読みこなしているようだ。

 賢治について書かれた評論・エッセーなどのたぐいも手元にかなりある。“卒業”ではなく、“バトンタッチ”をしたい。少しずつ疑似孫にあげよう――と思っていたときに、東日本大震災がおきた。原発が事故を起こした。

 世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実になった。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。私は時折、この言葉を思い出しながら、非常な1年を過ごした。

「雨ニモマケズ」は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」からきているのだろう。病の床に就いた賢治の、死への自覚がもたらした「雨ニモマケズ」の根源に、圧倒的な死をもたらした大災害を経験してやっと触れ得た、という思いがする。
                    *
 この思いは展覧会から6年たった今も変わらない。先日、いわき市立草野心平記念文学館の事業懇談会に出席した。ちょうど夏の企画「宮沢賢治展―賢治の宇宙 心平の天」=写真(チラシとパンフレット)=のオープニングセレモニーが終わったところに着いた。人でごった返す企画展示室をのぞいた。

 同文学館では平成11(1999)年夏、開館1周年を記念して特別企画展「宮沢賢治―賢治と心平」を開催した。それに続く開館20周年記念企画だ。
 
 この間に東日本大震災がおきた。個人的には2年前の8月、学生時代の仲間と樺太(サハリン)を訪ね、賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる白鳥湖や栄浜駅跡に立った。帰って、「銀河鉄道の夜」を読み返した。カニ・トナカイ・ラッコ……。サハリンで目にし、耳にしたモノたちが出てくる。「銀河鉄道の夜」は北の街の物語であることを実感した。
 
 粟津則雄館長がパンフレットのあいさつのなかで書いている。「東日本大震災の時、賢治の『雨ニモマケズ』が悲しみに打ちひしがれた人々に寄り添ったことは、まぎれもない実りのひとつの形だったと言えるでしょう」。賢治は「明治三陸大津波」の年に生まれ、「昭和三陸大津波」の年に亡くなっている。それを踏まえた展覧会になったか。
 
 前回は賢治を、賢治と心平の関係を、かなり力を入れて紹介していたことが、図録からわかる。とりわけ、「イーハトブの詩地図」が新鮮だった。そういう発見を今回も期待したが……。既視感で終わった。
 
 安斉重夫さんの鉄の彫刻、「賢治ファンタジー」が企画展示室となりのアートパフォーミングスペースで同時開催されている。まとまった作品を見るのは初めてだ。こちらはおもしろかった。

2018年7月13日金曜日

キュウリは正直だ

 夏井川渓谷の隠居で栽培しているキュウリが花を咲かせ、実をつけはじめた=写真下。植えた苗は2本。その苗から、夫婦で食べるには十分の実が生(な)る。
 この時期、日曜日ごとに通っていては肥大しすぎる。キュウリを栽培した年には、週半ばの水曜か木曜日にも出かけた。それにならって、先週から4~5日おきに、摘みに行くようにしている。

 露地栽培のわずかな経験だが、7センチほどの未熟果の先に花が咲いているものは、3~4日後には20センチ近くになる。それからさらに収穫が遅れると、ヘチマのようになる。

 先週の金曜日(7月6日)は早朝6時半、隠居に着いた。キュウリを1本採って、7時には隠居を離れた。夏井川の上流、川前方面へ向かう車が十台前後あった。時間帯からすると、小・中学校の先生や市役所支所職員などの車か。

 きのう(7月12日)の木曜日は、朝9時過ぎに出かけた。収穫したキュウリは3本。4、5日単位でキュウリの親づる2本が生産する量は、今はそんなものだ。渓谷に「除草作業中」の看板が立っていた=写真下。7、8人が出て道端の草を刈っていた。平野部ではダンプカーが動き回っていた。乗用車に混じって「働く車」が増える、平日ならではの光景だ。
 きのうはさらに早朝6時すぎ、近所の知り合いが“朝もぎ”のキュウリ3本と、つくりたてのおかずを持って来た。キュウリの1本を味噌で食べるために四つに切ったあと、切断面をくっつけてみた。「あさイチ」でキュウリを特集した際、須賀川のキュウリが登場した。新鮮なキュウリは切断してもその面をくっつけるとつながる――それを思い出した。いやあ、その通りになった。水平にしても垂直にしても離れない。

 逆を言えば、新鮮かどうかは切ってつながるかどうかで判断できる。水分が飛んで、中身が綿のように白くなったキュウリは、むろんつながらない。漬けてもうまくない。このごろは直売所やスーパーにもそんなキュウリがまぎれこんでいる(大根は反対に、水分が少し飛んだ方がやわらかく漬かる)。

 キュウリは正直だ。朝採り(朝もぎ)をすぐ調理するか、糠床に入れる。それでも余るようだと、古漬け用の甕に塩をまぶして加える。とにかく、すぐ食べるか漬けるかすることだ、と知る。

わざわざガソリン代をかけて渓谷へキュウリ1本を採りに行く――自分でも「高いキュウリ」だとはわかっている。が、人間が自然に学ぶ「授業料」と思えば安いものだ。

2018年7月12日木曜日

「いわきの映画館史」展

 いわき市生涯学習プラザでは、エレベーターホールとロビー壁面を利用して、「写真に見るいわきの映画館――娯楽の王様映画の記憶」展を開いている。同プラザ開館15周年記念の特別展だ。同プラザが入居するティーワンビルは、映画館「聚楽館(しゅうらくかん)」があったところだ。 
 これとは別に、開館10周年を迎えたいわき芸術文化交流館「アリオス」では、東口ウォークギャラリーで公募展示企画「いわきニュー・シネマパラダイス」が開かれている=写真上。こちらは「いわきの映画館史」展だ。映画制作集団BUNZUが展示物を制作した。

 去年(2017年)秋、いわきロケ映画祭実行委員会がイワキノスタルジックシアター第一弾として、いわきPITで吉野せい原作の映画「洟をたらした神」を上映した。そのとき知り合ったBUNZUの若い仲間から、「いわきの映画館で見た映画の思い出を」と声がかかった。昭和41(1966)年1月、東宝民劇で上映された加山雄三主演の映画「エレキの若大将」と、主題歌「君といつまでも」について書いた。
 
 以下は昭和初期の映画と映画館にからむ“古新聞シリーズ”3――。吉野せいの短編「赭(あか)い畑」に、友人の女性教師が「子供を全部混沌(注・せいの夫)に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来た」というくだりがある。
 
「赭い畑」は「昭和十年秋」の出来事を描いている。同年(1935年)秋からアメリカで映画がつくられた1930年へと、戦前いわきで発行されていた地域紙・常磐毎日新聞をさかのぼって調べたら、同6(1931)年9月10日付で上映を告げる「平館」の広告に辿りついた。それで、せいが「西部戦線異状なし」を見た年月日が推測できた。

 その過程でもう一つ、ソ連映画「アジアの嵐」が同6年3月9~11日、平館で上映されたのを知る。予告記事が同8日付に載っていた=写真左。

 活字になったせいの日記に「梨花鎮魂」がある。次女梨花の死の1カ月後、昭和6年1月30日に書き起こされ、4月28日まで書き続けられた、せいの赤裸々な内面の記録だ。
 
 3月10日の項に「渡辺さんへ顔出しして墓参に行って来た。梅の花真盛りであった。混沌ぶどう剪定。夕方から『アジアの嵐』を見に出平したが、見ないで帰って来た(略)」とある。日記だから「出平」したのはせいのことだ、とはどうもいえない。混沌のことでも主語抜きで書いていることがある。
 
 せいは前々日、義兄方の祝儀で小名浜へ泊まり込みで出かけた。家を留守にしたばかりでまた夕方、映画を見に出かけるなんてことが、幼い子を抱えた母親にできただろうか。混沌が出かけたのか、せいが出かけたのか。混沌だったのではないか。

 この2カ月以上、昭和初期の平の映画館の新聞広告と記事をつぶさにチェックしていたために、頭が映画でいっぱいになっている。
 
 合間の6月10日には、いわき市立美術館で「追悼特別展 高倉健」を見た(7月16日まで)。同15日には、小名浜に大型商業施設「イオンモールいわき小名浜店」がオープンした。4階に最新鋭機器を備えた「ポレポレシネマズいわき小名浜」が入った。

平の映画館の始まりを旅していた人間には、映画を見る場所が小名浜・主、平・従に替わったというだけで“大事件”のように思われる。
 
 さて、イワキノスタルジックシアターは今年、第二弾として8月5日、同じPITで本木雅弘主演の「遊びの時間は終わらない」を上映する。先日、その主催仲間たちと飲んだ。チケットを1枚買った。あとで上映曜日と時間を見たら、日曜日の午後1時半からだ。1人で見に行くわけにはいかない。茶の間でブーイングがおきる。主催者に連絡して、もう1枚買うことにした。

2018年7月11日水曜日

日本固有のトリュフ、いわきにも

 きのう(7月10日)の夕方、いわき民報を手にして仰天した。1面トップで「県内初トリュフ “ホンセイヨウショウロ”発見」の見出しが躍っていた=写真。記事の前文に「会報で発表した」ともある。
 ざっと2カ月前、いわきキノコ同好会の会報23号が届いた。座卓のわきに、トーチカのように資料を積み重ねている。カミサンには不評だ。その上に載せておいたら、いつのまにか中段あたりにもぐっていた。あわてて引っぱり出してパラパラやると、会長の冨田武子さんの報文が載っていた。うかつだった。新聞に抜かれた。

 トリュフは、日本にはないと思われていた。が、福島県内でも海岸の松林からウスチャセイヨウショウロが、阿武隈の山中からはトリュフの仲間が――と、発見例が相次ぐようになった。山の中のトリュフの場合は、イノシシが掘った穴に残っていた。

 今度もイノシシが第一の“発見者”のようだ。新聞記事と会報を併せて読むと、去年(2017年)秋、同好会の女性会員が平の里山で開かれた観察会に、前日、小川町の林道側溝わきで採取したキノコを持参した。そばにイノシシがミミズを探して荒らしたらしい跡があった。そこに転がっていたのだという。

 冨田会長はこれをあずかり、『地下生菌 識別図鑑』(誠文堂新光社、2016年)の著者の一人、森林総合研究所の木下晃彦さんに鑑定を依頼した。結果は、2種ある日本固有のトリュフの一つ、ホンセイヨウショウロとわかった。冨田さんらは後日、裏付けのために現地調査をした。すると、前よりは少し小さい個体を発見した。これも木下さんによってホンセイヨウショウロと同定された。

 木下さんによると、①ホンセイヨウショウロの特徴は1子嚢(しのう)内で通常2個の球形胞子を持つ点でほかのトリュフと区別される②胞子の色は初め白色で、成熟するにつれて黄色に変化する③ナッツ様の香りがする④これまで宮城・栃木・茨城・大阪など6府県で確認されており、福島県内では初めての記録――だそうだ。

 キノコの世界はまだまだ知られていないことが多い。市民が新種・珍種・貴種に出合う確率は花や鳥より大きい。“キノコ目”で山野を巡り続けていれば、だれかがまた別のトリュフを発見する可能性がある。そんな期待が膨らむ超ビッグニュースだった。

2018年7月10日火曜日

昔野菜会報「ルート」第3号

 いわき昔野菜保存会の会報は、名前が「Root(ルート)」。命あるものすべての根源にある「根っこ」という意味と、複数形になることで「結びつき」や「ふるさと」を表す「ルーツ」という意味もこめた(会報第3号=写真下=の編集後記から)。
 原発震災前の平成22(2010)年、いわき市が伝統農産物アーカイブ事業を始める。いわきリエゾン企業組合が調査・フェスティバル開催・報告書作成などを受託した。6年で事業が打ち切りになったあとは、同組合を中心に、短期雇用でかかわった調査員や、昔野菜の生産者、興味を持つ市民などで構成するいわき昔野菜保存会が事業を継続している。会報発行もそのひとつだ。

 会報は、保存会の若いメンバーが取材・編集・デザインを担当している。「読ませる」だけでなく、「見せる」ことを意識したグラフィックなつくりが新鮮だ。年1回の発行で、先ごろ出た3号は、巻頭に「いわき昔野菜が、本になりました。」という記事を載せた。新聞の見出しなら「、」も「。」もない。広告デザインの世界で仕事をしてきたメンバーが担当しているからこそのタイトルだろう。

 元地方新聞記者の寺尾朱織(かおり)さんが4月下旬、会津若松市の歴史春秋社から単行本『今、なぜ種が問題なのか 食卓の野菜が!?』を出した(1500円+税)=写真左。

 本を紹介する会報の記事前文に、「F1品種と呼ばれる現在主流の野菜(種)と在来作物の違いを切り口に、いわき昔野菜に関わってきた『人』に焦点を当てた1冊」「『いわき昔野菜フェスティバル』をはじめ、何度もいわきを訪問、調査スタッフ、料理人、生産者に取材することで、『昔野菜のこれまでの軌跡』をあますところなく伝えて』いる、とある。そのライター寺尾さんへの特別インタビューだ。

 本は4章構成で、1章では『タネが危ない』(日本経済新聞出版社、2011年)で知られる野口勲さんに、F1品種と在来作物の違いや問題点などを聞いた。以下、2章・種を守る運動、3章・いわきの種の守り方、4章・種を受け継ぐ人たちと、いわきの在来作物に焦点を当てた内容になっている。いわき昔野菜の本、といわれるゆえんだ。
 
 わが家に毎月、書店の外商さんがお勧めの本とともに、岩波書店のPR誌「図書」を持ってくる。5月は『今、なぜ種が問題なのか 食卓の野菜が!?』だった。すぐ買って読んだ。

 会報のインタビューでは、ひんぱんにいわきへ足を運んだ理由が語られる。アーカイブ事業に携わった人間が種の魅力に引き込まれる、その心の動きに引かれたという。出会った生産者が魅力的だったともいう。なるほど、「種」がつなぐ「人」の物語をめざしたのか。
 
 いわきの元地域紙記者としては、いわきに関してアカを入れたくなる個所がいくつかある。が、テーマとしては今の時代にふさわしいものだろう。会報自体も、「種」と「人」を結ぶ、今までいわきになかったメディアといっていい。