2024年1月31日水曜日

中三坂にもクマが

                               
 いわき市は先日(1月24日)、ツキノワグマに関する注意情報を出した。併せて、市民からの通報内容とその処理概要も一覧にまとめた。

 直接には1月22日、三和町中三坂字湯ノ向地内でクマが目撃され、付近の畑でクマのものと思われる足跡が確認されたことが大きい。

 1月25日付のいわき民報=写真=によれば、狩猟免許を持つ住民が同20日午後3時ごろ、湯ノ向地内でクマ1頭を目撃した。体長は約80センチだった。

 通報を受けて市が調べたところ、目撃場所近くの畑で15センチほどの動物の足跡が見つかった。写真の提供を受けた県は、ツキノワグマの可能性が極めて高いとしている。

 いわき市内では去年(2023年)11月に遠野町深山田地内でツキノワグマの糞(ふん)らしいものが見つかり、新聞・テレビが報じた。

 遠野町と三和町は同じ山間部で隣り合っている。深山田と中三坂は直線距離にしてざっと20キロ。深山田に現れたクマが中三坂に移動したとしても不思議ではない。が、市の見解はちょっと違うようだ。

 令和5年度の「クマと思われる通報」一覧によると、去年10月23日から今年1月22日まで、12件の通報があった。

 内容は「クマらしいものを目撃した」「クマの糞ではないか」「クマの爪痕ではないか」といったもので、クマの可能性が大きいものは中三坂の1件だけだった。

深山田については、クマの痕跡(足跡や爪痕)は確認できなかった。別の日に通報のあった糞も、ハクビシンのものらしいということだった。

阿武隈高地の田村市で令和3(2021)年初夏、ツキノワグマが捕獲されたことがある。拙ブログを要約・紹介する。

――田村市船引町永谷の山林で5月19日、ツキノワグマが捕獲されたというニュースには仰天した。

同じ市の、船引の隣町で生まれ育った。グーグルアースで調べたら、永谷地区はJR磐越東線磐城常葉駅の西方ではないか。

ある年の春、実家からの帰り、船引町から国道349号に入って「小沢の桜」を見た。その先に永谷地区がある。

永谷地区の西端を磐越道がかすめる。それよりちょっと西側を県道郡山大越線が延びる。

いわき市から国道49号を利用して郡山市立美術館へ行くと、だいたいはこの県道~国道349号を経由して帰る。

永谷地区は「田村富士」と呼ばれる片曽根山(718メートル)の南麓に広がる。水田地帯を小丘群が取り囲んでいる。阿武隈高地の分水嶺から西側に特有の、穏やかな「準平原」だ。

クマはイノシシ用の罠(写真を見る限り箱罠だろう)にかかっていた。皮肉といえば皮肉だが、それで阿武隈高地にもクマが生息していることがわかった。

「阿武隈の山にはクマはいない」。昔からそういわれ、私もそう思ってきたが、最近はあちこちで姿や足跡が目撃されるようになった――。

田村市のクマ捕獲から2年半、中三坂のクマ情報にあらためて自然界の異変を思い知らされた。

2024年1月30日火曜日

1・17から続く大震災

                              
 元日の能登半島地震以来、ほぼ毎日のように大震災関係の本やネットの文章を読んでいる。

3・11の発災直後に書き始めた震災や原発避難に関する拙文(ブログ)も繰り返し読んだ。

どこであれ、発災から避難、帰還と復旧・復興への長い道のりを思うと、胸が痛む。

今思えば、近年の大地震は29年前の1995年1月17日に始まった。兵庫県南部地震(災害名=阪神・淡路大震災)で初めて震度7が適用された。

 その後に発生した震度7の大地震を列挙すると、次のようになる。2004年10月23日:新潟県中越地震、2011年3月11日:東北地方太平洋沖地震(災害名=東日本大震災)、2016年4月14・16日:熊本地震、2018年9月6日:北海道胆振(いぶり)東部地震、そして今年(2024年)1月1日の輪島半島地震。

兵庫県南部地震の前年に、石橋克彦著『大地動乱の時代』(岩波新書)が出た。そのタイトルを借りながら、1・17から5年後に次のようなことを書いた。

「大きな時間の流れを『本』にたとえるなら、1995年1月17日午前5時46分52秒の阪神・淡路大震災のページの次に、2011年3月11日午後2時46分18秒の東日本大震災が記され、さらに次のページにはやがてくる大震災が書き込まれている(今はまだ、場所と被害規模があぶりだされていないだけだ)」

 1・17と3・11の間に起きた新潟県中越地震が抜けていたが、「次のページ」には熊本地震などがあぶりだされた。

 1・17のときにもいろんな本を読んだ。なかでも『神戸新聞の100日――阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い』(プレジデント社、1995年)は、ヒトゴトではなかった。現役の記者だったので、本が出版されるとすぐ買い求めた。

 地震で自宅が崩壊し、父を失った論説委員長の三木康弘さんが書いた社説「被災者になって分かったこと」が「超社説」として有名になった。

社説は「大きな反響を呼び、あらゆるメディアで取り上げられた。そっくりそのまま転載した新聞もある。被災者の姿を被災者自身が初めて綴り、やりきれない思いがストレートに伝わったからである」(同書)。

 被災者を救助する、あるいは支える側の警察・消防その他の行政、メディアも被災した。犠牲者を回向(えこう)する寺院も同様だ。

西宮市の住職藤原栄善さんが書いた震災記が、巡りめぐってわが家へやってきた。『大震災の中から芽生える』(平凡社ブッククラブ、1995年)=写真=で、それを最近読んだ。

 神戸その他にある寺院の被災状況や、犠牲になった人々への回向、宗派としての支援活動などが詳細につづられる。こちらも、具体的な被災状況に触れるたびに、手を合わせたい気持ちになった。

亡くなった檀信徒については、「ほとんどの家がまともに葬儀も執り行えない状況」だった。能登半島、いや3・11の沿岸部でも……と、思いは風のように乱れる。

2024年1月29日月曜日

ここにもシュロが……

            
 温暖化の影響でシュロの分布域が北へ広がっているとわかってから、急にいわき市内の寺社林や民家の庭の樹木に目がいくようになった。

 わが家にはマサキとサンゴジュの生け垣がある。庭には柿の木を中心に、カミサンが植えたカエデ、ジンチョウゲ、フヨウ、そして子どもの小学校卒業記念樹のプラムなど。

 自然に生えてきたのはヤツデ(今では7本に増えた)、アオキ、シュロと、名前のよくわからない何本かの木。いずれも鳥が種を運んで来たらしい。

わが家の庭がそうなら、ほかでも……。まずは南隣の義弟の家の庭から観察を始める。

大きく育ったシュロの木が1本ある=写真。モジャモジャの繊維をまとった幹がすっくと立ち、先端にわんさと細長い葉を広げている。樹齢はすでに何十年、といったところか。

ん? 根元近くにも葉が……。よく見ると、太いシュロの木の奥にもう1本、細く小さなシュロが生えていた。

モジャモジャの幹はまだ40センチくらいだ。こちらは芽生えて10年ちょっとか。年数を隔てながらも、同じところに2本、ヤシ科の植物が活着した。

40年以上前は老夫婦が住んでいた。2人が亡くなると、カミサンの実家が土地と家を買い取った。

義弟が住むまでは、書庫のように使っていた。物置代わりでもあったから、庭は草を刈る程度だった。シュロを植えるようなことはむろんしなかった。老夫婦もそれは同じだったろう。

とすれば、いずれも鳥(たぶんヒヨドリ)が種を落としたのが芽生えたのだ。シュロは冬の平均気温が4度以下だと枯れるそうだ。つまり、いわきでも種が発芽するまでに温暖化が進んだ、ということになる。

1月下旬以降、平のマチへ行くときには、駐車場で待機しているときなどに、周囲の緑をチェックするようになった。

それともう一つ、グーグルマップのストリートビューを利用したときに、沿道の寺社林や緑地を拡大して、シュロらしい葉がないかどうかをチェックする。すると、どうだ。あちこちの林にシュロらしい葉が見える。

平のマチの西部に子鍬倉神社がある。その南側の林にシュロの葉が見られる。本数としては何本になるだろう。見た感じよりは多いかもしれない。

同神社と平一小の間にある坂の途中にもシュロの葉が見られる。常磐湯本町の温泉旅館街にある林にもシュロの葉があった。

まだ自分の生活圏さえチェックができていないが、最近、近所の家が解体されて見晴らしがよくなったとたん、裏にあって見えなかった家の庭にシュロが生えているのがわかった。植栽か自生かはむろん不明だが、シュロはけっこう増えているらしい。

東京の井の頭公園などではシュロが増えすぎて問題になっているようだ。いわきでもやがてはシュロの駆除が課題になってきそうな予感がする。

2024年1月27日土曜日

喪失と希望の物語

        
 作品は2部構成。分量で3分の2を占めるⅠ部は喪失、残り3分の1のⅡ部は喪失からの再生と希望がテーマだと気づく。

ラウラ・今井・メッシーナ/粒良麻央訳『天国への電話』(早川書房、2022年)。先日、この本に出合った経緯を書いた。

作品の冒頭に「これは、日本の東北地方、岩手県に実在する場所にインスピレーションを受けた物語だ。(略)/電話ボックスには一台の古い黒電話が置かれ、電話線のつながっていないその電話は、無数の声を風に届けている。(略)」=写真=とある。

 岩手県に実在する場所と電話ボックスは、東日本大震災のあと、国際的に知られるようになった大槌町の鯨山のふもとにある「風の電話」だ。

 作者は在日イタリア人作家で、2020年、この作品がイタリアで発表されると、ベストセラーになった。最近、その存在を知り、たまたま日本語訳が図書館にあったので、借りてきて読んだ。

 主人公の長谷川ゆいは31歳。母と3歳の娘を津波で亡くした。避難所生活も経験した。今は東京のラジオ局でパーソナリティとして働いている。藤田毅は35歳。同じ東京で外科医として働いている。がんで妻を亡くした。母とやはり3歳の娘がいる。

 その2人が「風の電話」のある庭園「ベルガーディア」で出会い、毎月そこへ通うようになる。庭園の管理人である夫婦と昵懇(じっこん)になり、それぞれの理由で庭園へやって来る人間とも交流を深める。

 高校生の啓太は病死した母親に電話をかけるためにやって来る。母親は東大卒で、啓太もそこを狙って、やがて合格する。

 研修医のシオの父親は漁師だった。あの日、沖へ船を出して津波を乗り越えようとしたが、陸に戻され、ビルの屋上に引っかかった。それ以来、父親は正気を失う。シオは父親に電話をかけるために庭園へやって来る。

 プロローグは、台風から庭園を守ろうと、一人ゆいが奮闘している姿を描く。実はⅠ部の終わりにこんな1行が置かれていた。

管理人が病気になり、今後は予約に合わせてボランティアが出迎えを担当する、そう決まった「数日後、さらに報せが入った。まもなく強烈な台風が鯨山を直撃する、と」。

Ⅰ部の終わりからプロローグに戻り、さらに荒れ狂う台風にゆいが翻弄されるところからⅡ部が始まる。物語は循環する。

けがをして気絶したゆいは啓太と彼の父親に発見される。病院に担ぎ込まれると、今度はシオが現れる。シオがいうには、父親が台風に刺激されて正気を取り戻しつつあった。

退院して東京へ帰ると、ゆいは毅と正式に結婚する。毅の娘の花はすでに失語症から回復していた。やがて2人の間に男の子が生まれる。

結婚を前にして、ゆいは初めて鯨山の電話ボックスに入り、受話器を握って母と娘に話しかけた。「もしもし?さちこ?ここだよ、ママだよ」――。喪失から再生へ、希望へと物語は紡ぎ直されて、ここで終わる。

2024年1月26日金曜日

天空の川

                    
   東北地方の太平洋側南端に位置するいわき地方は、冬は晴れて穏やかな日が多い。ところが、1月21日の日曜日は暴風雨、そして4日たった25日は暴風に見舞われた。

23日午後4時前に発表された風雪注意報が25日午前10時過ぎに解除され、代わって強風注意報が発表される。それが正午過ぎには暴風警報に切り替わった。

前夜、テレビの気象予報士が解説していたので、そうなることはある程度わかっていたが、やはり現実は想像を超える。

茶の間で昼寝をしていると、風のうなり声が耳に飛び込んで来る。ガラス戸がガタガタ鳴る。

そのうち屋根がフワッと持っていかれるのではないか、木が倒れるのではないか、といった不安が募るほどに風の勢いが増した。

 1時半過ぎ、家(米屋)の前に飾っておいた鉢植えが歩道に倒れ、鉢が割れてコノテガシワの根っこがむき出しになった=写真。

 風が吹き荒れる中、夫婦で片付けていると、フワッと体が吹き飛ばされそうになった。なんともすさまじい力だ。 

「西高東低」の冬型の気圧配置になると、決まって天空には西から東に川が流れるイメージが浮かぶ。

 川が標高の高いところ(山)から低いところ(平地)へ流れるように、空気も気圧の高いところから低いところへ流れる。

 1月24~25日の場合は、日本列島付近にある等圧線が狭くて縦縞模様になっていた。気圧の高低差がきついので、北日本を中心に暴風が吹き荒れると、テレビが解説していた。

 実際、「凶風」の中に身を置くと、「急流」に流されそうになった。いや、天空の川はそれこそしぶきを上げる滝のようだ――そんなたとえも大げさではない。

 テレビが伝える最大瞬間風速は小名浜で29.7メートル。北海道を除いてこの日、本州ではいわきが一番吹き荒れたのではないか。

 4年前の3月下旬にも、同じように凶風が吹いた。そのとき、近所で風のトラブルが起きた。

――朝5時過ぎ、風が轟音を伴って押し寄せた。そのうち電話が入った。カミサンが出ると、行政区の役員さんからだった。

家のそばにある県営住宅の案内板が倒れてガラスが散乱しているという。現場へ行くと、役員さんが散乱したガラス片を片付けていた。人や車の通行には支障がない。あとはその棟の管理人さんにまかせることにした。

春先に特有の季節風とはいえ、その威力が増している。あちこちでこうした被害が起きたのではないか。

強風に振り回された彼岸の中日。天空の川は夜になっても、茶の間のガラス戸を鳴らし続けた――。

今度も、何事もなければいいが……。そう思っていたら、近所に住むカミサンの茶飲み友達がやって来た。回覧箱を隣の家に置いてきたら、凶風で中の資料が吹き飛ばされた。

今回はたまたま予備があったが、やはり「風害」が起きた。行政の統計には載らない、些細な被害が身の回りにはいっぱい起きたことだろう。

2024年1月25日木曜日

「旅の終りに」

                      
   「孫」が中1の夏休みのときだったから、もう10年近く前になる。読書感想文のことで悩んでいた。課題図書は『星空ロック』といって、少年が旅をする話だ。

具体的な本の内容は知らない。ただ「旅」という言葉に刺激されて、こんなことを語った。「空間的な旅のほかに時間的な旅もある、人生は旅なんだよ、人間は死ぬまで旅をしてるんだよ」

ほろ酔い機嫌で言葉が走ったら、「孫」がたちまち4コマ漫画に仕上げた。ちゃんと起承転結を踏まえている。内心、舌を巻いた。

「孫」は小さいときから絵を描くのが得意だった。このとき、文章も書く「イラストライター」になったらいいのに、と思った。

歌手の冠二郎の訃報に接したとき、彼の代表曲「旅の終りに」が脳内に流れた。同時に、それを劇中歌にしたテレビドラマと、この「孫」とのやりとりが思い浮かんだ。

結婚して、古い木造平屋の市営住宅に住んで、子どもが生まれた。まだ20代だった。

白黒のポータブルテレビでドラマ「海峡物語」を見た。主人公は音楽プロデューサーの「艶歌の竜」(芦田伸介)。その劇中歌「旅の終りに」が心に沁みた。ドラマの原作も、作詞も五木寛之だった。

 「流れ流れて/さすらう旅は/きょうは函館/あしたは釧路……」。のちのち自分の転勤になぞらえて、「きょうは平/あしたは勿来」などと、地名を替えて「旅の終りに」を歌ったこともある。

 「艶歌」は「怨歌」でもあった。「新宿の女」でデビューし、「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」などで一世を風靡した藤圭子について、五木寛之は「怨歌」という言葉を使った。なるほど、「演歌」には「艶歌」も「怨歌」もあるのだと知った。

 その藤圭子が平市民会館(現・アリオス)でリサイタルを開いたとき、取材をした。短い黒髪、黒い衣装、端正な顔立ちはそのままだったが……。

テレビで見るのと違って、きゃしゃで小さいのには驚いた。20歳前後なのに、印象は「針金のような少女……」だった。

 それはともかく、最近は「時間の旅」を振り返ることが多くなった。同時に、日曜日には短いながらも「空間の旅」を楽しむ。

夏井川渓谷の隠居へ移動する途中、神谷耕土の上に広がる雲=写真=に圧倒され、小川町三島の夏井川で休むハクチョウに心を癒される。

日常(自宅)から非日常(夏井川渓谷の隠居)へ、そこへの往来も含めて「空間の旅」を楽しむだけではない。

なんとか馬齢を重ねてきた、という思いも胸の奥にはある。「時間の旅」は一日一日の積み重ねでもある。

日々の旅の繰り返しが人生になる。人生には交差する「生」があり、「病」や「災害」があり、「老」があって、最後に自分の「死」が待っている。

冠二郎、いや八代亜紀、遠くは藤圭子も含めて、「あのときはどこで何をしていた」などと、しばし「旅の途中」に思いが巡った。

2024年1月24日水曜日

これはシュロ?

                              
 1月の中旬はわりと暖かかった。朝は石油ストーブとヒーターをつけていても、やがてヒーターを止め、午後にはストーブを消す。そんな日が続いた。

 気分転換を兼ねて庭へ出る。青空が広がっている。風がないので寒さはあまり感じない。

さすがに地面には緑が少ない。そのなかで、スイセンがつぼみをふくらませていた。常緑のヤツデは、数えると7本もあった。

 ヤツデだけではない。シュロらしいものが細長い葉をいっぱい付けている=写真。そばにはアオキらしい幼木も。

 シュロは勝手に生えてくるものなのだろうか――。ネットで調べると、鳥が種を運び、温暖化の影響で北に分布域を広げていることがわかった。

 シュロにはワジュロ(和棕櫚)とトウジュロ(唐棕櫚)があるが、ここでは区別しないで、単にシュロと呼ぶ。

シュロが増えているわけは? NPO法人環境カウンセラー千葉県協議会が平成20(2008)年度に地域教材として作成した「シュロと環境変化」にその答えが載っている。

それによると、シュロはヤシ科の植物で、日本では南九州に自生する。暖地の庭園などに洋風樹木として植栽される。

冬、青黒く熟した果実が小鳥のえさになる。この小鳥が森や公園、住宅地を巡っているうちに、フンと一緒に種を落とす。

シュロは温度が4度以上でないと発芽しないそうだ。その生長速度は、関東付近では10年間で30センチといわれてきた。

ある地点の調査結果として、①生育場所は東~南の暖地に限られる②丈の高さは20センチ以下のものがほとんど(10年以内に爆発的に増えた)③発芽場所は温度が4度以上(10年間の温度上昇は地球温暖化によるものと考えられる)――などがわかった。

これはざっと15年前の千葉県の状況だから、シュロはさらに数を増やし、北へと分布域を広げているのではないだろうか。

わが家の庭のシュロ(らしいもの)は、幹がまだほとんど形成されていない。代わりに、茶色い繊維状のものが地上約10センチまで見られる。葉柄はそこから伸びている。この繊維状のモジャモジャが樹皮になるらしい。

西日本ではシュロを栽培し、このモジャモジャを縄に加工した。いわゆる「しゅろ縄」。「しゅろ箒(ほうき)」もつくられた。

千葉県の例からいえば、わが家の庭のシュロは芽生えて2~3年といったところか。しかし、南隣にある義弟の家(平屋)の庭のシュロは……。

わが家の茶の間から義弟の家を眺めていて気づいたのだが、屋根を超えてシュロの葉らしいものが見える。

確かめたら、そうだった。シュロの木が1本、モジャモジャの繊維に包まれて立っていた。幹の高さはざっと4メートル。もう何十年も前に芽生えたようだ。これも鳥が媒介したとしたら、地域温暖化はかなり前から始まっていたことになる。

2024年1月23日火曜日

1月の嵐

                     
 こんな中途半端な日曜日(1月21日)は久しぶりだった。朝起きると小雨。それがだんだん強くなる。午後になると雨だけでなく、風も強くなった。家にこもっているしかなかった。

 いわき市の防災メールによれば、前日午後5時12分、波浪注意報が発表され、翌21日未明からは時間を追って暴風警報、波浪警報が出された。さらに、同日午後遅くには、大雨・洪水・暴風・波浪の4警報が重なった。

 たびたびネットでいわきの雨雲の状況をチェックした。午後遅く(おそらく4時半ごろ)には、強い雨雲が去りそうだ。というわけで、いつもの魚屋さんへはそのあと行くことにした。

 日曜日には夏井川渓谷の隠居へ出かける。朝から雨では、行っても土いじりはできない。朝の小雨と天気予報を見て、「きょうはウチにいる」と決めた。

 ウチにいればやることは決まっている。ネットで調べものをする。本を読む。雨が上がればすぐ隠居へ行く――そんな心づもりでいたが、雨はやむどころかひどくなる一方だった。

 何もしないことにしびれを切らしたのはカミサンだった。昼近くなって、「ラトブへ行こう。3階と1階で買い物をする」という。ラトブはいわき駅前の再開発ビルだ。地下に駐車場がある。雨にぬれずに用が足せる。

 こちらもやることはない。なりゆきにまかせることにした。同じような思いの人が多かったのか、駐車場には車の列ができていた。

 ただ、雨の日のラトブ駐車場はコーティングされたフロアがぬれて、車が左折するたびに「キキキ、ガガガ」といやな音を発する。これはなじめない。

 カミサンの用事はすぐ済んだ。1階では、昼の弁当も買った。わが家へ戻ってそれを食べたあとは、テレビで都道府県対抗男子駅伝を見た。

 外では風と雨が強まっていた 台風並み、いやそれ以上の暴風雨だ。最初は南向きの縁側などに雨が吹きつけていた。が、午後からは東側の台所の窓がぬれ、勝手口の外にある灯油ボックスに雨がたまった。家のぬれ方が普段とは違っていた。

夕方は魚屋さんへ刺し身を買いに行った。ところが、雨雲は去るどころか、最後の大降りになっていた。

家の前の歩道が冠水し、車道は雨脚が強くて前がよく見えない。スピードはもちろん出せない。

国道に出て赤信号のときに前方をパチリとやった=写真。アメリカ人写真家、ソール・ライター(1923~2013年)のような画像を狙ったが、ワイパーをかけた直後だったので、ただの写真になった。

わが家同様、こんな嵐の中でも日曜日には刺し身を、という人が多いらしい。魚屋さんは国道側のシャッターを下ろし、西側駐車場と直結している旧・食堂の戸を客の出入り口にしていた。

日曜日に刺し身を買いに行くようになって数十年、初めて経験する、脇からの入店だ。東からの暴風雨がそれだけひどかったということだろう。

2024年1月22日月曜日

初イワシ

                      
 このところ毎週、異なった刺し身を楽しんでいる。1月14日の日曜日はイカとイワシだった=写真。

 その前の日曜日はイカ、ヒラメ、タイの盛り合わせにしてもらった。年末にはメジマグロを口にした。

 何年か前まで、日曜日に食べる刺し身の魚種は時期的に決まっていた。春から秋まではカツオ、冬はカツオ以外。

秋にカツオが切れると、サンマがあった。ところが、ここ何年かはサンマの刺し身とは縁がない。

行きつけの魚屋さんはたぶん、常連のお客さんの顔を思い浮かべながら、卸売市場で魚を調達する。

この冬は師走に入ってもカツオがあった。カツオに代わる赤身がない。そこで市場に入ってくるカツオを買い続けたのだろう。

マグロはある。私はしかし、メジ以外はどうもなじめない。それで、「メジがあります」といわれれば、「それで」となるが、「マグロは……」では首を横に振って、ほかの魚を頼む。

カツオが冬も食べられて、サンマがなぜ入ってこなくなったのか。あるいは、イワシがなぜ北海道で大量に死んで打ち揚げられたのか。

日曜日に行くたびに、魚屋の主人が問わず語りで教えてくれる。それに刺激されて、ときどきネットで海の魚の状況を調べる。

この冬初めてイワシの刺し身を食べたばかりだったので、その生態を知りたくなった。「イワシの大量死は急に冷たい海水に出合ったからですよ」。魚屋の主人の言葉が気になった。

イワシの大量死は、テレビや新聞のニュースでもやっていた。原因はやはり冷水塊だった。それ以外の魚では、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」が参考になった。

ちょうどいいタイミングというか、朝日新聞(1月19日付)の「ひと」欄に、ネットで魚介類の情報を発信している水産研究家が紹介された。

発信者は藤原昌高さん、67歳。研究機関にも大学にも属したことはないが、「市場関係者ら水産のプロも、その情報に絶大な信頼を寄せる」という。そのウェブサイトがこの「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」だった。

運営者がだれか知らずに、魚について調べようとすると、早い段階でこのサイトに出合う。それだけ人気のサイトなのだろう。

さっそくこのサイトでおさらいをする。このごろ、いわきでも食べられるようになったタチウオについて。太平洋側では、2000年以前は伊豆半島以西に多く、東日本では水揚げが少なかった。

同じく、小名浜でも獲れるようになったイセエビは、生息域が「茨城以南の太平洋側」で、これも少しずつ北上している。

トラフグは、産地も、消費地も西日本が中心だが、最近は伊勢湾、駿河湾、関東と東北に漁場が広がっているという。

サンマは、2020年ぐらいから急激に減少している。中国・台湾の公海上での漁獲が始まったこともあるが、それ以上に温暖化の影響の可能性が大きい。

海水温の上昇が北上を促し、南下をとどめる。急な水温低下が大量死を招く。変温動物の魚にとっては生きづらい時代になった。

2024年1月20日土曜日

静電気

                     
 空気が乾燥しているだけではない。体の表面も乾いているようだ。お菓子のプラ包装を破いて、切れ端をくずかごに入れようとしたら、(カミサンの)指から離れない=写真。

 振り払おうとしてもくっついたままだ。別の指でつまむと、今度はその指にくっつく。ああ、冬だな――と思う。

 いわき地方は、冬は晴れた日が続く。「サンシャインいわき」をセールスポイントにしているのは、このため。

 その冬の明るさが空気の乾燥を招く。直近では、1月14日朝、浜通りに乾燥注意報が発表された。それが19日午後9時過ぎまで続いた。

 プラ包装の切れ端が指から離れないときには、ぬれた布巾(ふきん)に別の指を触れてからつまむと、すぐくずかごにポイできる。

 プラ包装がくっつくくらいなら、痛くもかゆくもない。厄介なのは、なにか金属類にさわったときだ。「ビビッ」とくる。これはこたえる。

東日本大震災がおきた年、というよりその2カ月前、この「ビビッ」をブログに書いていた。それを要約・再掲する。

――いわきでは冬も青空が続くために、洗濯物を外に干すことができる。これは太平洋側の気象的特性の一つだが、マイナスに作用することもある。空気の乾燥だ。

浜通りは町も、山野も乾いている。体も乾いている。足の裏と手のひらがそのセンサーだ。半月前あたりから、かかとと手の指にカサカサ感を自覚するようになった。

冬は暖房器具を使う。ますます部屋の空気が乾燥する。こたつを使えば、足の裏がピンポイントでカサカサになる。「指パッチン」もすべってできない。夜、服を脱ぐとパチパチいう。

NHKの「あさイチ」で、かかとと手の指がカサカサする理由がわかった。そこは乾燥から肌を守る皮脂がほとんど分泌されない。皮脂がないのだから、空気が乾燥すればカサカサしやすい。対策としては「尿素クリームを塗り、ラップをして3分ほどおく」ことだそうだ。

空気が乾燥していると、静電気が発生しやすくなる。いわき駅前のビルでエレベーターに乗り、「閉める」ボタンを押したらビビッときた。

エレベーターホールの出入り口ドアも「鬼門」だ。空気が乾いていると、車を降りたとき、エレベーターの出入り口ドアを開けたとき、ビビッとなる。車の場合は降りるときに一度、手で車体に触ると静電気は発生しない――。

 今年(2024年)も、パチパチ、ビビッが始まった。それよりこたえるのが足裏のガサガサだ。亀裂が入って歩くと痛いときがある。毎朝、尿素クリームを塗る。

 新聞もこのごろは1枚ずつではなく、2枚一緒にめくってしまう。印刷物を数えるときはつい、指をなめてしまう。

子どものころ、年寄りはなんで指をなめながら本をめくるのか不思議だったが、今はその理由がわかる。

2024年1月19日金曜日

さくら猫

                      
 月に3回、回覧資料を区の役員さん宅に届ける。バスが通る昔の街道(旧道)沿いにあるわが家と違って、いずれも静かな住宅地にある。迷路のように張り巡らされた細道を行ったり来たりする。

 ある日、車の前を横切って、そばの家の軒下にある箱に止まった鳥がいる=写真。頭とのど、背中が暗青色、胸と腹がレンガ色をしている。雄のイソヒヨドリだった。

 イソヒヨドリは名前に「イソ」(磯)が付くように、もともとは海岸一帯に生息する野鳥だ。それがいつのころからか、海岸から5キロ、あるいは10キロほど入った内陸でも見られるようになった。

 ブログを始めた平成20(2008)年以降では、同年12月、同22年1月と5月、イソヒヨドリについて触れている。その抜粋。

 ――朝と晩、夏井川の堤防を散歩していたころ、イソヒヨドリがふわりと現れて、そばの工場の屋根に止まった。雌だった。

 平市街にもいる。本町通りの東部で、さらにそこから少し離れた城東のマルト付近でイソヒヨドリを見た。

堤防そばの工場では、雄が屋根のすきまに消えるのを目撃した。工場を海岸の崖とみなして、中に巣をかけたのだろう――。

地べた近くに止まったイソヒヨドリを見ながら、そんなことを思い出しているうちに、現実に戻った。鳥は、こんなときこそが危ないのではないか。

 わが家の縁側をねぐらの一つにしている、トラの「さくら猫」(不妊・去勢手術が行われ、耳にV字の切れ込みがある猫)が、ときどきネズミや鳥を捕まえてカミサンに見せる。「キャーッ」となるのでわかる。

 カミサンはこのトラを「ゴン」と呼んでいる。ゴンがわが家の庭に現れるようになってから、ざっと2年がたつだろうか。最初は野鳥のえさが目当てだったらしい。

カミサンが鳥とは別に、ゴンにも残飯を分けてやるようになった(今ではキャットフードをスーパーから買ってくる)。

 そのうち、縁側に段ボール箱を置いて、中に古いシーツを敷いたら、いつの間にかそこで一夜を明かすようになった。

 といっても、毎夜ではない。別のところにもねぐらがあるらしい。一帯を巡り歩いているうちに、「本宅」のほかに「別宅」を確保した、そんな感じだ。

床下にはネズミが棲(す)んでいるようだ。あるとき、勝手口に目をやったら、床下に逃げ込む小動物がいた。ゴンは先刻承知のようで、ときどき床下にもぐりこむ。ここはゴンにまかせるしかない。

私はどちらかというと、ゴンには距離を置いていた。が、ネズミを退治してもらわないといけない。その分もみ手をして近づくと、向こうも「ニャ~」とあいさつをし、ズボンの裾にまとわりつくようになった。

 先日はネズミの代わりに、イソではなくヒヨドリが玄関の前で死んでいた。「ゴンがやったな」とそのときは思ったのだが……。

このブログを書いているうちに、はたと思い当たった。羽がむしられ、首がちょん切られていた。ここまで激しく攻めるのは猛禽ではないか。ゴンではなく、チョウゲンボウの精悍(せいかん)な顔が思い浮かんだ。

2024年1月18日木曜日

丸ごと避難

                     
 やはり能登半島地震のニュースから目が離せない。発災からすでに半月余り。いまだに地震が収まる気配はない。避難生活を強いられる被災者の心情を思うと胸が痛む。

 水道と電気が止まり、トイレも風呂も使えない。道路が波打ち、崩れ、亀裂が入ったために、車での移動も、支援物資の輸送もままならない。食糧が、灯油が、ガソリンが不足している。自宅であれ、学校であれ、避難生活は足りないものだらけだ。

 3・11のときには、地震・津波のほかに原発事故が加わった。わが家は、海岸から5キロほど内陸なので、津波被害は免れた。が、10日近く原発避難を経験した。

 川を軸に、ヤマ・マチ・ハマで分けると、私は平地のマチ、そして隠居のあるヤマ(夏井川渓谷)の3・11しか知らない。でも、そこから輪島の被災者と避難生活の「今」を想像する。

 ヤマ・マチ・ハマでは被災の中身が異なる。ハマはあのとき、多くのいのちと家屋が失われた。マチは半壊の家が多かった。全壊判定の建物はあったものの、ぺしゃんこの家を見たのは数えるほどだった。ヤマは落石や土砂崩れが相次いだ。夏井川渓谷を縫う道路はそれで通行止めになった。

 V字谷が続き、ちょっと開けたところに小集落が点在する=写真。今の時期は朝9時ごろ、向かい山から太陽が顔を出し、午後3時にはもう尾根の陰に姿を消す。そういう場所だからこそ、住民は助け合って暮らしている。

 渓谷の小集落、例えば私ら夫婦が日曜日に通う牛小川は、わが隠居を含めて戸数は10戸ほどだ。常住しているのは7世帯で10人ちょっとだろうか。

 私らが隠居へ通い始めた29年前(阪神・淡路大震災の年の初夏)は、確か9世帯合わせて30人近くが住んでいた。

この四半世紀で住民自身が「限界集落」と口にするほど 子どもの姿が消え、老夫婦あるいは独り暮らし世帯に変わった。

能登半島のヤマも事情は変わらないだろう。道路が寸断されて孤立状態になっている集落が少なくないという。

石川県はそこで、当面の間(道路や生活インフラが復旧するまでの間)、集落ごとの「丸ごと避難」を進めることになった。

3・11はでは津波被災者のほかに、16万5千人弱の原発避難者が出た。住民は突然、家を、ふるさとを追われ、家族や友人・知人たちとも離れ離れになった。

拠って立つコミュニティなしには、人は生きられない――。過去の避難例を教訓に、今回はコミュニティごとの避難を進めることになったのだろう。

それはわかる。そして、「ばらばら」だろうと、「丸ごと」だろうと、避難生活が長引けば長引くほど、その土地の暮らしに染まっていく。

隣人と茶飲み話ができる。これは大事なことだが、やがて土いじりができない、森に入れない……といった心の空洞も広がる。やはり、早い帰還を前提にした丸ごと避難であってほしい。

2024年1月17日水曜日

気になる揺れ

                      
 あとで確かめると、1月14日午前1時36分ごろだった。寝床がほんの少し波打つように揺れた。震源が福島県沖だったら、もっとはっきりした揺れがある。半分覚醒したものの、なにごともなかったので、また眠りに落ちた。

震源はいわき市の西部、つまり内陸部だった。それだけではない。いわきでは無感だったが、11日にも西隣の古殿町を震源とする地震が発生している。深さはともに10キロで、至近距離で小さな地震が連続した。

 11日は古殿で震度1、ほかの地区は無感。14日は古殿で震度3、いわき市は三和町で2、平で1だった。

 震度はともかく、いやな感じがよみがえった。あのときから1カ月後、いわき市は直下型の大地震に見舞われた。その近辺が震源ではないか。

 街へ出かけるとき、あるいは日曜日に夏井川渓谷の隠居へ行くとき、街の西方に連なる山並み(湯ノ岳~三大明神山~鶴石山など)が目に入る=写真。

 なかでも三大明神山の山稜(さんりょう)には風力発電の風車がニョキニョキと立ち始めた。それを見ながら、山の陰は鮫川流域に属していることを再確認する。

 この湯ノ岳山系、つまり藤原川の水源を境に、いわき市は大きく夏井川流域(北部)と鮫川流域(南部)に分かれる。

3・11にはそれぞれの沿岸域で甚大な被害が出た。その1カ月後(4月11日)、今度は鮫川流域の塩ノ平断層(井戸沢断層の最も西側)でM7.1の地震が発生し、同時に東隣の「湯ノ岳断層」(遠野~常磐)が動いた。

田人(たびと)町石住地内では土砂崩れが発生し、車で通行中の1人を含む4人が死亡した。

翌12日にも井戸沢断層の北側でM6.3の地震が発生した。いわき市民はそれを含めて、わずか1カ月の間に3回、震度6弱を経験した。その後も、その近辺を震源とする大きな地震が続いた。

 さて、それからはだんだん日常にまぎれて思い出すこともなくなった。が、この二つの断層はやはり生きている。

 遠野町に住む知人が(旧ツイッター)で、14日の地震の前後から「異変」をつぶやいていた。

・1月12日=「南西方向からドーンドドドと音が聞こえた。揺れはないので空振とは思うのだが、原因は何?」

 そして、東日本大震災の1カ月後に起きた大地震を振り返って、その「前後しばらくの間、振動を伴わないドーンと発破をかけたような音を聞き続けた。今の音が大きな地震の予兆でなければ良いのだけれど」。

 ・1月14日=「地震。震度は3程度か? いきなり来た感がある。震源、近い?」「震源は、遠野? それとも三和? 微妙なところ。湯ノ岳断層のかかわりかな?」「最新の情報だと、震源は入遠野だったよう」

 ぼんやりと頭に浮かんでいた内陸地震の輪郭が鮮明になった。規模としては軽微だったとはいえ、4・11(と4・12)では大きな被害が出た。やはり、この断層のことは頭のどこかに置いておかないといけない。そして、きょうは1・17。

2024年1月16日火曜日

あのときは沈下した

                     
 1月14日の日曜日の朝、夏井川渓谷の隠居へ行ってネギを収穫した。それがすめばやることはない。

 カミサンからは出かける前、暮らしの伝承郷と薄磯のカフェ「サーフィン」へ行くといわれていた。

 ネギを収穫したあとはアッシー君だ。隠居の滞留時間は30分で切り上げ、すぐ街場へ戻った。

 伝承郷を経由してサーフィンへ行くと、ちょうどお昼になった。カミサンはいつものようにナポリタンを、私も同じくグリルサンドを注文した。

 カミサンはママさんと趣味(パッチワーク)が同じだ。そのため、年に何回かはサーフィンへ昼食を兼ねておしゃべりに行く。

 腹を満たしたあとは海岸で貝殻を拾うというので、防波堤そばの駐車場へ移動した。私は防波堤の上から海を眺めるだけにした。

 空は雲ひとつない、淡いブルー。海は群青だ。白い波が四つ、五つ。幼い子どもを連れた家族が遠くを歩いている=写真。

 あのとき、この海が壁となって沿岸を襲った。そのときまでサーフィンは、ほかの民家とともに防波堤のそばにあった。

立入禁止が解除されたあとに薄磯を訪ねると、一帯は更地化していた。サーフィンは店の部分が流され、すぐ裏の母家だけがポツンと残っていた。ママさんは地震の直後、近くの小学校へ避難して無事だった。

 地盤も沈下した。岬の灯台をはさんで南側の豊間では砂浜が消え、防波堤のすぐそばまで波が押し寄せていた(砂浜はこの13年で少し戻ってきた感じがする)。

 橋と道路、あるいは市街地のビルと歩道にも段差ができた。修復工事が行われると、一段高いところに橋がある――そんな印象の橋が多くなった。

 震災から3年近くたって、新舞子海岸に新しく海岸堤防が設けられた。高さは7.2メートルで、従来の堤防より1メートル、地震に伴う地盤沈下分50センチを加えて、1.5メートル高くなった。

 あのときを思い出したのは、元日に発生した能登半島地震が大きい。今度の地震では、海底が最大4メートルほど隆起したという。

大津波警報が発表されたが、津波による死者はどのくらいいたのだろう。石川県では13日現在、220人を超える人が亡くなっている。圧死が大半だったらしい。

能登半島自体、この隆起の繰り返しでできたそうだ。半島の海岸段丘がそれを物語る。「数千年に一度の現象」が今、目の前で起きたと専門家はいう。

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)はおよそ1100年前の貞観(じょうがん)地震以来の超巨大地震といわれた。こちらはいわば「千年に一度の現象」だ。

3・11は「歴史学的時間」のなかで思考を深めることができる。これに対して1・1(能登半島地震)はいわば、「地質学的時間」の中で起きた。

一瞬にして港が陸地化したところがある。そのまま元に戻らないとしたら……。やはり地球の脅威(驚異)を思わずにはいられない。

2024年1月15日月曜日

私労働小説

           
 物心づいたころから、1月15日が国民の祝日「成人の日」だった。それがハッピーマンデー制度によって、平成12(2000)年から1月第2月曜日に変わった。

今年(2024)は1月8日だったが、年寄りには今もって「月曜日の成人の日」がピンとこない。

 この日の「天声人語」は、成人の日にからめて、作家中島らも(1952~2004年)の生涯を振り返っていた。

 「異形の作家は酒を飲み、階段から落ちて亡くなった。その年に生まれた世代が、今年でもう20歳になる」

 それに続く落ちの部分。「らもさんは成人式に呼ばれると、ポール・ニザンが著した『アデン・アラビア』の冒頭を読み上げたという」

 おお、あんたもそうだったのか!(20歳前後に『アデン・アラビア』の冒頭部分を読んで胸を熱くした、その記憶がよみがえる)

 たまたまブレイディみかこ著『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』(KADOKAWA、2023年)=写真=の第1話「一九八五年の夏、あたしたちはハタチだった」を読み終えたばかりだった。

 日本を脱出してロンドンへ行きたくて、20歳の「あたし」は「中洲(なかす)のクラブと天神(てんじん)のガールズパブを掛け持ちして」働く。

 「日本にあるのはあたしの人生ではなかった。(略)音楽と服とダンスがバッドな国に、生きるに値する人生などあるわけがない。/だから、あたしは日本にいるときはいつも死んでいた。死んでいるときに人間がすることは金を稼ぐことだ。再び生きるための資金を得るのである」

 「労働」を主題にした私小説、つまりは「私労働小説」というわけだが、この20歳のころの心情はわかる。

 私も20歳になる前、学校をやめて東京へ飛び出した。そのころの人間がやることは決まっている。住み込みの新聞配達、宿舎に入ってのビル建設現場通い……。

バイトのたぐいも含めると、「私労働」歴は小学校高学年の新聞配達に始まる。高専では家庭教師、東京では大食堂のボーイも経験した。

バイトをせずにアパートで寝込んだこともある。何をする気にもなれない。食欲もない。かろうじて本を読むことだけが生存している「しるし」だった。その本の中に『アデン・アラビア』があった。

その冒頭部分はこうである。1966年晶文社刊、篠田浩一郎訳。「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」

この書き出しに引かれた。冒頭の文章が学校を飛び出して都会の孤独に押しつぶされそうになったときの支えになった。

ところが……。「天声人語」の方は微妙に言葉が違っている。「僕はそのとき20歳だった。それが人生の中で一番輝かしい時期だなどとはだれにも言わせない」

「いちばん美しい年齢」と、「一番輝かしい時期」と。言葉のリズムからいえば、篠田訳は心地よい。

「輝かしい」方は誰の訳だろう。もしかしたら、篠田訳を踏まえての「らも訳」だったか。

2024年1月13日土曜日

岸辺のハクチョウ

                     
 いわき市小川町の関場~上平地内で、国道399号(県道小野四倉線)と夏井川が並走する。

対岸の三島へ渡るには三島橋を利用する。その橋のそばに磐城小川江筋の取水堰(ぜき)がある。

夏井川のカーブを利用した多段式、木工沈床の斜め堰で、七段の白い水の調べが美しい。今からざっと350年前の江戸時代前期に築造された。

この堰があるために、すぐ上流は流れが緩やかになっている。ここにいつからか、ハクチョウが飛来して越冬するようになった。

 34年前の春、日本の鳥類学者が北海道のクッチャロ湖でコハクチョウに送信機を付け、北へ帰るコースを調べた。

それによると、コハクチョウはサハリンへ渡り、さらにシベリアの北極海に注ぐ巨大河川「コリマ川」を北上して河口に到達し、やや北東部に移ったところで通信が途絶えた。

そこは「大小何千もの湖沼からなるツンドラ地帯の一大湿地」、つまりコハクチョウの繁殖地だった。

ハクチョウは水鳥なので、湖沼や流れの緩やかな河川を選んで羽を休める。「白鳥の湖」というバレエ音楽があるように、ハクチョウと湖は切り離せない。

三島の夏井川も、流れはあるが緩やかで浅い。このため、「ふるさとの湖沼」に近い安心感をハクチョウに与えるのだろう。

夏井川渓谷にある隠居への行き帰り、ここを通る。で、必ず車を減速して、チラッと川面を眺める。

1月7日の日曜日。2週間ぶりに三島のハクチョウをウオッチングした。右岸の河川敷には、このところ毎日曜日、家族連れが現れ、ハクチョウたちにえさをやっている。

午後もまた、ここで車を減速する。7日も同様だった。右岸には複数の家族連れがいた。それを見ながら、ふと思い出したことがある。

年末に小川の「白鳥おばさん」から電話がかかってきた。「エレンが戻ってきた。ずっと見てきたので間違いない」

エレンとは、3年前の春、翼をけがして三島に残留したコハクチョウのことだ。このハクチョウに「白鳥おばさん」が「エレン」と名付けて、えさをやり続けた。

その後、エレンは大水で下流に流されたが、やがて飛べるようになって北へ帰ったと、「白鳥おばさん」から聞いた。

そして、今シーズン。去年(2023年)の10月17日、ハクチョウがわが生活圏に現れた。それを告げるブログに「エレンは、今はどこにいるのだろう」と書いた。

そのブログがいわき民報に転載された。「(新聞に)エレンはどこにいるんだろう、って書いてあったから」。返答を兼ねて電話をくれたのだった。

三島橋を渡って車を止め、河川敷に出ると、若い親子がハクチョウやカモたちにパンをちぎって与えていた=写真。

エレンはもちろん、どこにいるかわからなかったが、オナガガモやマガモも間近に見て、久しぶりに心が躍った。

2024年1月12日金曜日

在日イタリア人作家

                                 
 カミサンの高校時代の同級生がイタリアに住んでいる。東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では原発事故が起きた。その直後、イタリアへの避難を呼びかける国際電話が入った。

 日本は人の住めない国になってしまうのか――メディアが報じる「原発震災」に心が痛んだのだろう。

 元日に能登半島地震が起きた。半島の西側に志賀原発、それに連なる福井県の沿岸部に複数の原発がある。

余震がなお続く。少しずつ被害が明らかになっていく。イタリアから見てもヒトゴトとは思えなかったのだろう。

夜8時ごろ(向こうでは正午ごろ)、カミサンに国際電話がかかってきた。いわきは能登半島から遠く離れている。直接の被害はない。結局は3・11の話になったようだ。

 電話のあった翌朝、パソコンを開くとメールが届いていた。向こうは同じ年末年始でも、クリスマスシーズンだという。

シーズン最後の日、1月6日は祝日で、「魔女焼き」のイベントがある。子どものころに見た「どんど焼き」を思い出させる光景で、国が違っても似たようなことをするものだ、とあった。

ほかに、質問がひとつ。これは私に、だった。イタリアでは「よしむらけいこ」という人が書いた「108の鐘の音」という本が出回っている。ラウラ・イマイ・メッシーナというジャーナリストが翻訳した。この「よしむらけいこ」についての情報を知りたい、という。

「よしむらけいこ」については、結局、イタリアでわかる以上の情報はつかめなかった。同じネットの海をサーフィンするわけだから、日本でも新しい知見は得られない。

代わりに、翻訳者であるジャーナリストについては、イタリアの現代文学作家ということがわかった。

こちらの検索には俄然、興味がわいた。1981年、ローマに生まれた。23歳で東京へ移住し、国際基督教大学で文学修士号を取り、東京外国語大学で文学の博士課程を修了した。

在日イタリア人作家でもある。イマイは今井、つまりラウラ・今井・メッシーナ。2014年、小説「東京水平線」で作家としてデビューし、2020年の『風に託すもの』がイタリアでベストセラーになったという。

「風に託すもの」は、東日本大震災をきっかけに、国際的に知られるようになった岩手県大槌町の「風の電話」にインスピレーションを受けて書かれた小説だ。

この作品が2022年、粒良麻央訳『天国への電話』となって、早川書房から翻訳・出版された。いわば、「物語」の逆輸入。

図書館のホームページで確かめると、総合図書館にあった=写真。さっそく借りてきて読み始めた――というところで、きょうは終わり(読んだ感想は後日に)。

2024年1月11日木曜日

タコの刺し身

                      
 暮れに、氷詰めにされた「ゆでだこ」が手に入った=写真。下の子が持って来た。

 日曜日の夜は刺し身と決めている。よりによって大みそかがそうだった。いつもの魚屋さんは休まずに店を開いているはず。しかし……。目の前に、刺し身になる材料がある。

 カミサンは、歯が悪いので、たこ刺しは食べない。義弟も食べない。結局、大みそかと松の内は一人でたこ刺しを食べ続けた。頭は? 「いもたこ」になって出てきた。

 毎晩、たこ刺しを口にしているうちに、記憶の底で何かがはじけたようだった。

夜、海岸、いも……。あえて文字にしようとすればそんなところだが、具体的な映像を結ぶまでには至らない。ただ脈略もなく、「夜、海岸、いも、たこ」が脳内でうごめいている。

それからしばらくして、漫画に出てきたのではなかったか、そんな記憶のかけらが新しく浮上した。

 元日に起きた能登半島地震は、いまだに被害の全容が明らかになっていない。テレビが伝える現地の状況を耳に入れながら、パソコンで「たこ、いも、漫画」をキーワードに検索を続けた。

 埋もれていた記憶を再生する作業には違いないのだが、何時間たっても手がかりは得られない。

 そうこうしているうちに、確か作家が原作の漫画だったような気がする、しかも生物に詳しい……、そんな記憶の断片も浮かんできた。

 ではと、「日本の漫画原作者」で検索し、次に「日本の作家」で名前をスクロールすると、マ行でヒットした。光瀬龍(みつせ・りゅう=1928~99年)、これだ!

龍は今年(2024年)の干支(えと)だが、それは偶然として、もやもやした頭に具体的な名前が浮かべば、あとは簡単だ。

「光瀬龍」で検索すると、すぐ漫画のタイトルがわかった。「ロン先生の虫眼鏡」(画・加藤唯史)。「ロン先生」(作家)による「博物誌」とでもいうべき内容の作品だった。

 若いころから、休日の楽しみとして「森巡り」を習慣にしていた。この漫画(単行本)を夢中になって読んだのは、確か30代後半か40代前半だ。

毎週末、夏井川渓谷の隠居へ通うようになったのは、阪神・淡路大震災が起きた年の初夏で、46歳だった。それを目安にすると、ロン先生に出合ったのは渓谷へ通う前ではなかったろうか。

 漫画の単行本を買った覚えはない。上の子が大きくなって、漫画を買って読むようになった。それを借りて読んだのだろう。

 で、「ロン先生の虫眼鏡」に出てくるタコだが――。海岸の近くにサツマイモの畑がある。その畑の作物がなくなる。犯人は? 酔っ払いが見たのは、人間ではなく海からあがってきたタコだった。いや、現実には人間だろう、そう思わせる流れだったような気がする。

 「いもたこ」とはよく言ったもので、それまでは「里芋とたこ」の組み合わせしか頭になかったが、漫画を読んで以来、いもはサツマイモ、あるいはジャガイモでもOK、という思いに変わった。