2020年1月31日金曜日

木版画の中のキノコたち

 この何年か、「キノコ」をキーワードにいわき総合図書館にある文学や自然科学、民俗関係の本を漁っている。
最近、たまたまある家のダンシャリでいわきの本を手に入れた。『伊藤集三木口(こぐち)木版画集』(2007年、自費出版)。街や森や海をパッチワークしたような、シュールな作品が並ぶ。

それらを構成する花や木々はリアルだが小さい。最小1~2ミリの花たちのなかに、キノコがまぎれているのではないか――。そんな直感がはたらいて、拡大鏡で作品を見たら、あった。10点ほどにキノコが彫られていた=写真(部分)。

画集に載る略歴によると、伊藤さんは1930(昭和5)年、現本宮市に生まれた。高坂小学校長で定年退職をする2年前の1989(平成元)年、いわき市立美術館で開かれた木口木版画の技法講座を受講する。講師は版画家の柄澤齊さん。以来、木口木版画に精魂を傾け、いわき市美展で市教育長賞を受賞するまでになった。

木口木版画は銅版画に似る。精緻な表現が特徴だ。その第一人者・柄澤さんが手がけた肖像シリーズのうち、童話作家のアンデルセン、哲学者のガストン・バシュラールの2点を持っている。どちらも若いころ、夢中になって読んだ。あるところでガラクタ並みの値段で売りに出されていたので、“救出”した。たぶん、誰かのコレクションが流れ流れてたどり着いたのだろう。

アンデルセンの作品には仕掛けが施されている。シルクハットをかぶった肖像の右側の影は、実はアンデルセンの横顔だ。そのこともあって、伊藤さんの作品を見ているうちに、「もしや……」という思いがわいた。

建物を彫っている。森を彫っている。花を彫っている。魚を彫っている。虫を彫っている。要は、森羅万象。ということは、キノコもどこかにあるのでは――。それが当たった。

キノコの傘の裏が描かれている。ヒトヨタケらしいものがある。小さくても形がはっきりしている。研究者なら一目で種類がわかるに違いない。それほど緻密だ。黒い(墨一色なので)傘に白いポツポツがあるのは、たぶんベニテングタケ。

伊藤さんの作品は市美展やグループ展で見てきた。が、そのときにはキノコには気づかなかった。今回初めて、画集を細部まで眺めて、してやられた、という感じになった。伊藤さんはもしかしたら、<キノコ、わかるかな>といった気持ちで彫っていたのかもしれない。

2020年1月30日木曜日

福祉避難所

 いわき市から行政区に貸与された防災ラジオをわが家で管理している。ふだんラジオは聞かないが、緊急時には自動的に音声が流れる。きのう(1月29日)がそうだった。
 前線を伴う南岸低気圧=写真上1(1月27日、NHK)=が東~北東に進み、いわき地方は季節はずれの大雨に見舞われた。パソコンで防災メールをひんぱんにチェックしていると、いわき市北部・久之浜町の大久川がはんらん注意水位を超えたとかで、市が午前11時過ぎ、避難準備・高齢者避難開始(警戒レベル3)を発令した。さらにその南、四倉町の仁井田川でもほどなく同じ措置が取られた。久之浜では久之浜中体育館、四倉では四倉高体育館に避難所が開設された。

防災ラジオから突然、音声が流れたのは午後1時45分。大久川で避難勧告(警戒レベル4)が発令されたという「お知らせ」だった。それからほどなくして、また音声が流れた。仁井田川でやはり避難勧告が出された。去年(2019年)10月12日の台風19号では、防災ラジオでこうした「お知らせ」はあったかなかったか。

夜、福島地方気象台のホームページで降水量をチェックした。きのうの最大値は小名浜で95.0ミリ、山田で127.0ミリ、平で144.0ミリだった。いずれも「1月の観測史上最大」とあった。雨脚が弱まったり強まったりしたあと、正午から20分ほど続いた土砂降りには、ちょっと息が詰まりそうになった。冬の、この時期の豪雨は記憶にない。

今回は久之浜地区に福祉避難所も開設された。午後2時過ぎの防災メールにこうあった。「久之浜地区の避難勧告の発令に伴い、高齢者、障がい者、妊産婦、乳幼児、病弱者などで避難生活において一定の配慮を要する方が対象の福祉避難所を開設します」。高台の福島県いわき海浜自然の家がそれに充てられた。

台風19号のときの防災メールをチェックしたが、福祉避難所開設の「お知らせ」はなかった。わが家に定期的に顔を見せる女性(障がいを持つ子がいる)の話では、行政から問い合わせがあった。「避難したか」というので「しなかった」。逆に、「避難所はどこか教えてと聞いたら、黙っていた」という。ローカルテレビの特集で指摘されたこともあり、それを教訓に今回、開設に踏み切ったか。何はともあれ、一歩前進には違いない。

晩酌を始めた午後5時45分ごろ、また防災ラジオから音声が流れた。同5時35分、大久川、仁井田川の避難勧告が解除され、避難所も閉鎖されたことを知る。
青空が広がった午後遅く、夏井川の堤防から海岸道路を経由して道の駅よつくら港へ買い物に行った。夏井川は水かさが増していた=写真上2=が、橋脚が見えなくなるほどではなかった。南から暖気が吹き込んだためか、気温が上昇し、小名浜では最高気温が16度を超えた。いやはや、まだ1月ではないか。

2020年1月29日水曜日

焼夷弾と防空頭巾

 4日後の日曜日、2月2日午後1時――。いわき駅から歩いて10分ほどのいわきPITで、映画「東京大空襲 ガラスのうさぎ 」が上映される。
原作は、高木敏子さん(1932年~)が著したノンフィクション作品『ガラスのうさぎ』(金の星社)。いわきでロケした映画ではないが、原作に勿来の親切なおばさんが登場する。いわきにゆかりのある映画ということで、いわきロケ映画祭実行委員会(緑川健代表)がイワキノスタルジックシアター第5弾に選んだ。

きのう(1月28日)の夕刊いわき民報に予告記事が載った=写真上1。昭和20(1945)年の平空襲でB29から投下されたとみられる焼夷(しょうい)弾の残骸も、写真とともに紹介されていた。会場ロビーに展示されるという。

実は、焼夷弾の残骸を手に入れた?のは若い仲間だ。フェイスブックに写真をアップしていた。それに刺激されて焼夷弾の構造をネットで調べた。クラスター爆弾で、ベトナム戦争で使われたナパーム弾のもとになった。「焼夷」は焼き払うことだが、英語は「incendiary bomb(インセンディアリー・ボム)」、つまり“放火弾”。長谷川平蔵が目をむきそうな名前が付いていた。

 ノスタルジックシアター第1弾は、いわきの作家吉野せい1899~1977年原作の映画「洟をたらした神」だった。原作が田村俊子賞を受賞したとき、せいを取材した。それで上映後のトークショーに引っぱり出された。今度も、似たような理由で上映後に緑川代表と対談する。

『ガラスのうさぎ』の初版が昭和52(1977)年12月に出た翌年9月、高木さんからいわき市役所広報広聴課に、「恩人を捜し当てたい」という手紙が届いた。それを記事にした。『ガラスのうさぎ』もそのときに読んだ。そのへんの経緯を、2019年8月1日の拙ブログに書いた。一部を抜粋する。
                   ☆
高木さんは、ロングセラーの児童文学作品『ガラスのうさぎ』の作者。作品のなかに、常磐線の列車でたまたま同席し、一夜の宿と食事の世話をしてくれた「勿来のおばさん」が登場する。

高木さんはそのとき、13歳。終戦直後の昭和21(1946)年2月末、寄留していた宮城県・秋保の親戚の家を飛び出し、焼け野原の東京へ戻る途中だった。

 それから32年後の同53(1978)年9月、『ガラスのうさぎ』を出版したばかりの高木さんから、いわき市役所に尋ね人の手紙が届いた。当時、私は30歳。いわき民報の市役所担当記者だった。広報広聴課長から耳うちされて記事にした。他社も何紙か報じた。

 記事に高木さんの手紙の一部が載っている。「勿来の親切な女の方に、ひと晩大変お世話になりました。今でもその時のご恩、有り難さは忘れることが出来ません。しかし、残念なことにお名前がわかりません。現在六十歳から七十歳位の方だと存じます。是非お目にかかり形ばかり御礼の印を――との思いがつのります」

 幸い、勿来のおばさんが判明し(77歳になっていた)、高木さんは翌54年1月4日、再会を果たす。いわき民報によると、広報広聴課長が勿来のおばさん宅へ高木さんを案内した。勿来のおばさんは「あの時、私は七人の子持ち。一人位増えてもという気持ちだった。大したことをしたわけではない」とこたえている。高木さんはピンクのちゃんちゃんこを贈り、勿来のおばさんはつきたての紅白のもちでもてなした。
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 きのう朝、たまたまカミサンと日曜日の上映会の話になったとき、伯父(故人)の奥さんが持っていた防空頭巾=写真上2=があるという。伯父は東京の下町で生まれ育ち、やがて埼玉で小さな工場を経営した。奥さんが亡くなったあと、いわきへ転居し、わが家の近くに土地を買って家を建てた。防空頭巾も東京~埼玉~いわきと移動したわけだ。焼夷弾と一緒に、この防空頭巾も会場ロビーに展示してもらうことにした。

もし映画を見たいという人がいれば、いわきPITへ連絡をどうぞ(☎0246-38-3826)。

2020年1月28日火曜日

台風19号㊶情報交換

 3カ月前の台風19号の話に終始した。夏井川の左岸域でつながる上流、いわき市平・平窪地区の惨状に比べれば、被害は小規模だった。それでも悩ましい時間を送ったのだ。
 平・神谷地区と草野地区は隣り合っている。夏井川でいうと、河口まで含んだ上・下流の関係にある。古い家では隣の地域に姻戚がいる、親戚がいる、そんな人が少なくない。つながりが密接な土地柄なので、夏には神谷側、冬には草野側が主催して、情報交換を兼ねた区長の合同懇親会が開かれる。土曜日(1月25日)に冬の懇親会が開かれた。

 近況報告では、計17人の区長全員が台風19号時の取り組みについて話した。そばの夏井川と地形の関係から床上・床下浸水被害に遭ったところがある。災害ごみの仮置場を設けると、不法投棄が相次いだ。そして、全域に及んだ断水。

避難の勧告・指示にはどこの区長も頭を痛めた。避難所は最寄りの小学校かと思ったら、何キロも離れた高台の平二中だ。これでは家にとどまって、2階に“垂直避難”をした方がいい。私も問い合わせがきたらそう話すつもりでいた。「近くの小学校の教室を開放してもらわないと」。これには全員がうなずいた。

流れ着くごみは下流の草野地区の方が多い。草刈りが下手だと用水路を介して刈り草が流れてくる。上流の農家では、そのへんを意識して草を刈っているのだが、なかには無頓着な人間もいる。

市北部浄化センターそばの堤防が台風19号のときに一部、越水したという。大水が引いたあと、河口まで堤防をたどったことがある。同センターのそばでは、堤防ぎりぎりまで残留ごみがあった。それがとぎれたところがある。越水したかもしれない。そう思っていたので、「やっぱり」とうなった。

 堤防の下、河川敷にはサイクリングロードが設けられている。同センター排水口から下流側の同ロードは流木が50メートルほど堆積している。岸辺には竹林がのびる。ちょうど蛇行して、堤防にぶつかるように流れてきた大小さまざまな木が、堤防と竹林の“隘路(あいろ)”にはさまり、本流と遮られて次から次に積み重なり、詰まって、長い流木の山ができた。これも越水の一因になったのではないか。

 同センターのすぐ下流には畑が広がり、家が点在する。1枚の畑は晴れていても、いつも水が溜まっている=写真。ストリートビューで確かめることができる。地元の区長に聞いたら、足がめり込んでしまうそうだ。原因は、はっきりしなかったが、「土質もあるのではないか」とは神谷地区のある区長。

 わが区から見ると、同センターはすぐ下流に位置する。越水の話を聴いた以上、大雨のときには同センター周辺の情報も集めないといけなくなった。懇親会の翌日、区の役員会が開かれた。さっそく、越水の情報を伝える。みんな驚いていた。

2020年1月27日月曜日

白鳥は悲しからずや……

 夏井川渓谷の隠居へ行くのに、平・神谷~平窪の田んぼ道を通る。土曜日(1月25日)の朝10時前、下平窪に入ると、道の前方、平四小の裏山の先をハクチョウの集団が横切って行った。
 その空の下には中平窪の田んぼが広がる。1枚の田んぼにハクチョウがひしめいていた=写真上。奥に横たわるのは標高735メートルの水石山。5日前の1月22日、山頂の公園駐車場で車の中からいわき市内の母子4人の遺体が見つかった。110番通報をした男も運転席でけがをしていた。警察は男の回復を待って殺人の疑いで事情を聴くという。

 いわき市の、おおよそ北半分を占める夏井川流域には、ハクチョウの越冬地が3カ所ある。飛来歴の古い順からいうと、平・平窪、同・塩、小川・三島の夏井川で、数としては平窪が最も多い。

 平窪には「夏井川白鳥を守る会」がある。鳥インフルエンザが問題になってからは、えづけを中止した。ハクチョウは、日中は中平窪、あるいは左岸の平・赤井の田んぼで二番穂などをついばんでいる。一部はさらに、下流の塩と上流の三島を行き来し、そこからまた周辺の田んぼへと分散して、えさをついばんでいるのではないだろうか。

 平窪地区は台風19号で大きな被害を受けた。冠水したあと、稲刈りが放棄された田んぼが何枚かある。

 隠居の帰りに再び平窪の田んぼ道を通ると、朝とは道路をはさんだ反対側の田んぼに、やはりハクチョウが集団で羽を休めていた。朝と同じ集団かどうかはわからない。そばに刈られずに残った稲穂が枯れて倒れている=写真下。ハクチョウには、稲穂のじゅうたんは今すぐにでも卵を産み落としたくなる産座のようなものだろう。今まで見たことのないシュールな光景ではある。
 目の前には刈られずに残った稲穂の田んぼ、遠くには水石山。若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」が胸の底のあたりをよぎる。白鳥は悲しからずや、水石山は悲しからずや、稲穂は悲しからずや――。

2020年1月26日日曜日

しぶき氷は?ない

 強風注意報が解除され、風もやんだきのう(1月25日)朝9時過ぎ、ほぼ3週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。
 1月下旬の今が極寒期だ。いくら暖冬とはいえ、渓谷の「籠場の滝」も、対岸の林の中にある「木守の滝」も、しぶき氷くらいはできているだろう(木守の滝から氷をかち割って持ち帰り、冷蔵庫で冷凍保存をするのが真冬の楽しみ)――。隠居の庭の畑に生ごみを埋めるついでに、滝の凍り具合を確かめることにした。

 籠場の滝は隠居の手前、県道小野四倉線沿いにある。まずはこれをチェックする。しぶき氷は? ひとつもない。岩盤が水しぶきで茶色く濡れているだけだ=写真上。どんな暖かい冬にもうっすら白くしぶき氷は張っていた。全くないのは初めてだ。木守の滝も推して知るべし。つり橋を渡って見に行くまでもない。去年(2019年)に続いて今年も夏のオンザロックはかなわないか。

ヤブツバキの花前線はどうだろう。いわきの平地ではとっくに咲いている。渓谷の入り口、小川町高崎地内のJR磐越東線上小川トンネル・磐城街道高崎踏切の手前、右カーブになっている道端に咲いていた=写真下。
ヤブツバキは冬から春にかけて咲く。暖冬との関係はわからないが、もともと照葉樹林を代表する樹種のひとつだ。夏井川流域では渓谷の谷間あたりが分布の限界らしい。

4年前の拙ブログによると、1月中旬にヤブツバキの花前線は高崎の上流、渓谷の江田にまで到達していた。暖冬にはやはり開花が早まるようだ。今回は高崎でしか確認できなかったが、歩いてじっくり見れば、江田あたりでも花を確かめられたかもしれない。

隠居の庭の下の空き地にフキが自生している。例年、師走に入るとフキノトウが現れる。ところが最近は、草刈りを年2回から1回に減らしたため、ヨシがフキの自生地まで侵食し、日光を遮るようになった。きのうも確かめたが、ヨシの枯れ葉と茎に覆われてわからなかった。

隠居と道路の境にある白梅は、さすがに小さなつぼみのままだ。庭のアセビもつぼみが小さい。あとわずかで、花よりだんご、いや氷――がないまま、1月が終わる。

2020年1月25日土曜日

アレッポのせっけん工房再開

今は福島市で暮らす若い知人が年末、フェイスブックで「アレッポのせっけん」に関するAFP(フランス通信社)の記事をシェアしていた=写真。「がれきに漂うせっけんの香り、内戦で閉鎖の工房が再開 アレッポ(再掲)」とタイトルにあった。
記事は去年(2019年)5月に配信された。「再掲」とあるのは、およそ半年がたってまた発信したからだろう。アレッポのせっけんを愛用している人間にとっては朗報だった。

シリア内戦が始まった翌年(2012年)、反体制派がアレッポを掌握し、「2016年にロシア軍の支援を受けた政府軍が奪回するまで4年にわたり戦闘が繰り広げられた。せっけん工房が多数あるアルナイラブ地区もこの戦闘で大打撃」を受けた。

内戦が始まると製造業者は内陸部のアレッポを脱出し、トルコやシリア国内の別の都市でせっけん製造を続けた。しかし、アレッポほどのせっけんはできない。そう判断した業者が、政府軍が奪回したアレッポに帰還して工房を再開した。がれきの山が残るなかに、ローレル(月桂樹)オイルとオリーブオイルの香りが戻ってきた――というのが、記事の内容だ。(アレッポのせっけんは両方のオイルでつくられる)

 若いときはテレビコマーシャルに登場するシャンプーを使っていた。ところが、すぐ頭がかゆくなり、フケがこぼれ落ちる。たまたまアレッポのせっけんに切り替えたら、フケもかゆみも止まった。長年使っているうちに、足の指の水虫も、足裏のひび割れも治まりつつある。いよいよアレッポのせっけんを手放せない。

 カミサンが店で扱っているアレッポのせっけんの製造業者は、やはり内戦が始まると、アレッポから南西に位置する港町ラタキアへ脱出し、そこで製造を再開した。せっけんは出荷まで2~3年は寝かせるという。アレッポ時代の在庫は切れたろうから、今使っているのは「ラタキアのせっけん」か。

 それはともかく、東日本大震災とシリア内戦がほぼ同時に起きた。以来、私のなかではシリア難民も原発難民も同等・同質、受け入れコミュニティとの関係も同じ――そう考えるようになった。ときどき、アレッポのせっけんを手にして、ほんとうに戦争は壮大なムダ、庶民の生業と生活を破壊する――とも思う。

AFPの記事にはこんなことが書いてあった。帰還した業者のことば。「せっけんは『国の宝』で『サウジアラビアにとっての石油、スイスにとってのチョコレート、ドイツにとっての自動車』に匹敵する」。せっけんは平和産業そのものだ。

2020年1月24日金曜日

天下一の能面師

 きのう(1月23日)の続き――。いわき市勿来関文学歴史館の企画展「出目洞白(でめとうはく)――いわきが生んだ天下一の能面師」には、6面の能面(うち「若女」は複製)が展示されている。
いつもだとすぐ見終わって、展示スペースの狭さだけが印象に残るのだが、今回はそれが気にならなかった。館長らの説明を聴きながら、面を一つひとつ、じっくりと眺めた。ホンモノが持つ磁力、見る角度で異なる能面の表情、つまりは奥深さに引きずり込まれた。洞白が晩年、ふるさと・泉町下川の菩提寺・源養院(明治の廃仏毀釈で廃寺)に奉納した「黒石大明神縁起絵巻」も見応えがあった。

洞白は若いころ、一時ふるさとに戻り、下川の根渡神社に自作の翁面(白式尉)、津神社に同じく翁面(黒式尉)、出羽神社に雷電面を奉納した。白式尉は現在行方不明だが、2面の能面と「黒石大明神縁起絵巻」はいわき市の指定文化財になっている。

 図録と『いわき史料集成』第3・第4冊、『いわき市の文化財』をめくって、にわかにかき集めた知識で書いてみる。

能面は思ったより小さい――。それが、最初に感じたことだった。翁と雷電=写真上1(図録から)=の特徴は、『いわき市の文化財』によれば、次のようなものだ。

翁は、正月などに演目に先立って登場する。天下泰平、国家安泰を祝祷する。津神社の面はキリ材で、切顎(きりあご)になっている。まなじりは下がり、歯の欠けた様子など、翁の風貌をよく伝えている。(見るからに好々爺という印象)

 雷電は菅原道真の化身でもある。道真は不遇のうちに大宰府で死ぬ。死後、雷電となって内裏に飛び込み、生前果たせなかった恨みを晴らそうとする。面はヒノキ材。「炯々(けいけい)たる金色の両眼、さかだつような眉、口をかっと開き朱の舌を出し、牙をむき出した形相は鬼気迫るもの」がある。(鼻が大きい。鼻息だけで毒されそうだ)
 思わずニヤリとしたのはわが地元、平中神谷の出羽神社が所蔵する「茗荷悪尉(みょうがあくじょう)」=写真上2(図録から)。『いわき史料集成』第3冊の口絵にも面が載る。歴史家の故菊池康雄さんが神社と面の関係について解説している。

享保10(1725)年2月、神社の神庫に賊が入り、社宝や別人作の茗荷悪尉面などが盗まれた。磐城平藩主の父、内藤政栄(号露沾=1655~1733年)は2代目洞白(洞水=洞白のせがれ)に命じて猿田彦面と茗荷悪尉面をつくらせ、同11年9月に奉納した。

面は、材質がヒノキで、目の詰んだ良材を用いている。頬骨は高く張って、口を開く。上の歯は4本だが1本が欠け、下の歯も2本のうち1本が欠けている――。菊地さんはそう解説したあと、「植毛の口ひげやあごひげを付けた顔は、さぞ恐ろしげな老人であったろう」「彩色は剥落して能面特有の美しさは見られないが、古雅な味は豊かである」と続ける。

口元が緩んだのは、“八の字眉の歯っかけじいさん”を連想したからだが、本来は“怖いじいさん”でないといけないらしい。

「黒石大明神縁起絵巻」は『いわき史料集成』第4冊に口絵が載り=写真右・下、いわき地域学會の先輩である小野一雄さんが詳細な解説を書いている。ここはそれを下敷きにした文歴の図録で簡単に紹介しておく。

 題字と詞書(ことばがき)は内藤家に仕えた能書家佐々木文山、絵は長府藩の御用絵師狩野洞学(子孫に明治期の狩野芳崖がいる)。八岐大蛇(やまたのおろち)伝説に弘法大師伝説、巨石伝説、長者伝説などがごちゃまぜになった“下川版絵巻”といったところか。

 小野さんによれば、この絵巻もまた数奇な運命をたどった。廃仏毀釈の嵐のなかで市外に流失し、大正に入ってすぐ、地元の篤志家が東京・浅草の骨董市に出ていたのを買い戻し、その後、下川・神笑(かみわらい)区に寄贈した(神が降りて笑うところ? その伝説がある。今度はカミワライという地名が気になってきた)。ぜひ、下川の宝を、洞白のウデの冴えを見に勿来文歴へ――。

2020年1月23日木曜日

港の交易で栄えた下川

 いわき市勿来関文学歴史館で企画展「出目洞白(でめとうはく)――いわきが生んだ天下一の能面師」が開かれている(3月17日まで)。
洞白(1633~1715年)は本名・水野谷加兵衛。江戸時代初期、今のいわき市泉町下川に生まれた。そのころの下川はどんなところだったのか。風光明媚な河口と浜が広がり、港(津)があって、古くから栄えていた――。人の文章や話から漠然としたイメージは浮かんでも、よくはわかっていなかった。

能面に引かれ、ついには京へ上って「天下一」の称号を与えられるまでになる人物について、いわきの歴史学も十分に調査・研究してきたとは言いがたい。結局、洞白は下川以外では広く知られることがなかった。

これは偶然だが、先の土曜日(1月18日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。会員で元いわき明星大教授の江尻陽三郎さんが、地元の「泉町下川地区の環境改善に向けて」と題して話した=写真上。洞白についてなにかしら得られるものがあるのではないか。そんな期待を抱きながら聴講した。図星だった。下川では、洞白はまちづくりのシンボル、いや原点のような存在だった。

下川地区は三方を工業専用地域に囲まれている。藤原川の河口をはさんで、左岸域は小名浜臨海工業地帯、右岸域の下川地区も河口部が昭和40年代に埋め立てられ、石油タンク群が建設された=写真下(レジュメから)。工場もつくられた。そんな下川地区の当面の課題として、歴代区長やまちづくりを考えるボランティア団体「下川を考える会」が住民アンケートを取ってまとめた環境改善策について、江尻さんが解説した。
具体的には、①藤原川河口右岸とそれに交わる宝殊院川を普通の土手に②萱手堤に周回遊歩道を③南部清掃センターの移転④石油タンク群の防災対策――の4点で、東日本大震災の大津波で気仙沼のタンク群が流失・炎上し、市街地が大火災になったことに危機感を抱いての提言だった。

高度経済成長時代以前の下川は、自然景観の美しさが醸しだす「風格のある佇まい」があった。そうした自然景観と風格が洞白を生んだと、江尻さんはいう。

講座が終わり、質疑応答に入って質問した。「風格のある佇まい」が洞白を生んだという説明には納得がいった。しかし、自然景観だけでなく、人文的な要素、たとえば下川は港(津)で栄えた歴史があるそうだから、そうした文化的、経済的な環境も「風格のある佇まい」を形成する要素になったのではないか――。

地元の下川から洞白研究者の三戸利雄さんという人が来ていた。江尻さんからうながされて三戸さんが代わりに答える。「今から400年前、下川には廻船問屋があって栄えた。そういったことも洞白を生んだ要因だろう」

実は、先の連休中、文歴を訪ねて洞白の能面を見た。能面のもつ魔力のようものに引かれた。2月8日には、三戸さんが文歴の近くにある体験学習施設「吹風殿(すいふうでん)」で洞白について講演する。同じ日の同じ時間帯に防災関係の研修会がある。残念ながら聴講はかなわないが、レジュメがあれば手に入れたいとは思っている。

文歴には洞白が地元の神社に奉納した能面のほかに、菩提寺に寄進した「黒石大明神縁起絵巻」が展示されている。それらの感想については、いずれ――。

2020年1月22日水曜日

阿武隈のシイタケ栽培

 カミサンの朋友から手紙が届いた。なかに、東京新聞の切り抜きが入っていた=写真。
「広葉樹の里山で人は 福島・阿武隈」というタイトルで、今年(2020年)1月6日に連載がスタートした。サブタイトルは<失われたシイタケ栽培>。切り抜きはその1~3、5回分だ。私がキノコに興味を持っていることを知っていて、わざわざ切り抜いてくれた。4回目と6回目はきのう(1月21日)、ネットで読んだ。やはり、切り抜きの方が味がある。

 初回に、取材を担当した文化部の記者が書いている。「原発事故まで福島県の阿武隈山地(吉田註・国土地理院によれば、「阿武隈高地」)は、シイタケ栽培用原木生産の日本の一大拠点で、シイタケ生産も盛んだった。事故からまもなく9年、米や野菜、果物などは出荷再開の朗報が届く中、里山で栽培する原木やシイタケは放射能の影響で生産が滞ったままという」

記者は「以前から、里山と人々との関わりに強く引かれていた」。それが、阿武隈のシイタケ栽培と原木の「今」を取材する原動力になった。田村市都路町や船引町で原木シイタケを生産していた農家や、中通りの玉川村でシイタケ原木の生産・販売をしている業者を訪ねて話を聴いた。(このごろは山里を里山という言葉で表現することが多くなっているようだが、里山は本来、家の裏山のような身近な山のことだろう)

都路町は私の母親の生まれ故郷だ。隣の常葉町に嫁ぎ、夫婦で床屋を営んだ。その意味では、阿武隈は先祖の墳墓の地でもある。と同時に、豊かで美しい里山、澄んだ空気、清らかな水、日本の原風景ともいえる景観、さまざまな農産物、伝統文化、生活文化を体感できる、「スイスの山村さながら」(田中澄江『花の百名山』)の山里だ。何か思い屈するときには、心は阿武隈に帰る。連載はそのふるさとに光を当てる。

田村市の東部に位置する都路町は事故を起こした1Fから近い。町がすっぽり30キロ圏内に入る。町の東部は20キロ圏内で、一時、警戒区域(立ち入りが禁止)に指定された。除染が進んで人が住めるようにはなったが、森林そのものはあらかた手つかずのままだ。

シイタケ用の原木は、基準値がキロ当たり50ベクレル。森林総合研究所によると、シイタケの移行係数は平均0.43だが、安全のために全体の90%が含まれるなかでの上限1.99として、シイタケの基準値100ベクレルの半分に設定した。

「事故前の年間出荷量は阿武隈の木を中心に約20万本。今は約8分の1に減り、大半は県南西部の南会津町産だ。切り出してそのまま基準値を下回る阿武隈の木はまだ少ない」。玉川村の業者は非破壊検査機の判断基準を原木基準値の半分、25ベクレルに設定している。「実際、25ベクレル(以下)じゃないと、買ってもらえない」ともいう。厳しい状況が続く。

それでも――。阿武隈の山里では、江戸時代からシイタケ栽培が行われてきた。先進地の伊豆半島から出稼ぎ人がやって来て、栽培を指導した。そのまま土着した人もいる。歴史の長いシイタケ原木栽培を断ち切るまいと、みずから厳しい自己基準を設けて奮闘している原木供給業者がいる。原木栽培を再開させようと奮闘している人たちがいる。阿武隈の「シイタケ情報」をアップデート(更新)するいい機会になった。次は何をテーマにするのか。阿武隈の「今」を幅広く取材したものになるといいが。

2020年1月21日火曜日

浦項(ボハン)といわき

「しらみずアーツキャンプ2019」が日曜日(1月19日)、旧白水小で開かれた。「やっちき踊り」を調査・考究した講座「やっちき学概論」が朝のうちに開かれた。午前中は小名浜へ出かけていたので、講座のレジュメだけでも――と、午後に寄ってみた。ボリュームたっぷりのレジュメが手に入った。講演した本人とも会って話した。
 午後のイベントは「いわき・浦項(ボハン)潮目文化交流」。チラシには「2018年から韓国の浦項市文化財団と文化交流を継続している、いわき市地域活性団体MUSUBUとコラボ、浦項市で地域活動にあたる市民グループ『F5』の皆さんを迎え、災害と復興、文化と復興についての事例発表、トークセッションなどを行います」とあった。

MUSUBUの1人を知っている。途中までだが、彼女を含めて何人かの話を聴いた=写真。

浦項市は釜山(プサン)の少し北にある港湾都市で、人口は51万人。ウィキペディアによると、2017年11月15日、地熱発電所の稼働が地震を誘発し、多数の負傷者が出た。「F5」は災害からの心の回復、治癒に重点を置いた地域活動をしているという。

セウォル号で犠牲になった高校生の親たちとも連携している。亡くなった子の母親たちは劇に熱中し、修学旅行に向かう子どもたちを演じた。父親たちは木工に没頭した。プロ並みに腕を上げた人もいるという。わが子を思う親の気持ちがひしひしと伝わるエピソードだ。アートを介した回復・治癒への、一つのアプローチでもある。

東日本大震災と原発事故では、多くの人が理不尽な喪失を体験した。その一部を記録した本がある。『回復するちから――震災という逆境からのレジリエンス』(星和書店、2016年)。著者はいわき市で心療内科医院を開いている精神科医熊谷一朗さん。報告を聞きながら、この本のことを思い出していた。2016年3月4日付の拙ブログを抜粋して再掲する。
                ☆
賠償金をもらって遊んで暮らしている――原発避難者のなかにはそういう人もいるだろう。が、それは人の目に触れやすい「表層」の一部にすぎない。いわきの精神科医が見た、かつてない大災害(大津波と原発事故)による喪失体験、つまり心の「深層」はわれわれ一般被災者の想像を超えるすさまじいものだった。

『回復するちから』には、津波で妻と10カ月の息子を失った男性、海で自殺を図った電力会社の社員、仮設住宅に入居したものの「幻臭」に襲われる女性などの“物語”が載る。突然、生活が暗転し、つらく、苦しい体験を余儀なくされた。それでも、人間は生きる。生きるための回復力を持っている。希望の書でもある。
 
 もっとも涙したのは、翌月から小学1年生になるという男の子のレジリエンスの物語だ。2歳のときに小学校に入学する直前の兄を津波で失った。死の不安が知らずしらずのうちに幼い心に蓄積していった。入学を前に初めて怖くなり、眠れなくなった。食べ物も受け入れなくなった。この強迫症状は震災から4年後にあらわれた。

 精神科医がその子にわかるようにゆっくり話を続ける。「お兄さんが亡くなったことは、家族にとっても、君にとっても、とても悲しいできごとだった。けれどそれはもちろん、誰のせいでもない。それに○○君は○○君で、お兄さんとは全く別の存在だから、安心してね。夏には赤ちゃんも生まれるみたいだし、○○君も亡くなったお兄さんに遠慮することなく、学校に行って大丈夫だよ」

 幼い子は幼いなりに兄の年齢の死という、得体のしれない恐怖を抱いていたのだろう。「安心してね」「学校に行って大丈夫だよ」。そのあと、「彼はそのままの姿勢で前屈みに突っ伏し、うわーんと張り裂けるように、強く泣いた。長く泣いた。小さな身体の、どこからこれほどの声量が出てくるのかと驚くほどの、泣きっぷりだった。ほっとする。私もようやく肩の荷を下ろす」。
                ★
 悲しみやトラウマは個性的なものだ。一人ひとりが違っている。震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで5年間、開設・運営した交流スペース「ぶらっと」も、被災者や避難者の心の回復を支える場になった。震災後2年を迎えようとしていた段階での被災者の声(シャプラの会報「南の風」に掲載された)を、やはり拙ブログから紹介する。

・原発避難で借り上げ住宅に住む60代の夫婦――。津波で娘と孫を亡くした。以来、妻はうつ状態が続き、薬を飲んでいる。夫も肺に水がたまり、通院している。アパートに届く「ぶらっと通信」を見て、「ぶらっと」を利用するようになった。思い切ってスケッチ教室に参加したら、とても楽しかった。いつまでも悲しんでばかりいられないと、今は夫婦で定期的に「ぶらっと」に来ることが楽しみになった。

・原発避難で借り上げ住宅に住む、相双地区の70代後半の夫婦――。震災前までは自宅で野菜を作り、婦人会や町内会の行事などで毎日忙しく、楽しく過ごしていた。避難所、郡山市のアパート暮らしのあと、いわき市へ移った。運転は危ないと息子に止められ、車を手放したことで外出の機会が減った。「ぶらっと」の利用者と招待旅行に参加したのを機に、毎朝の散歩が日課になり、近所に言葉を交わす顔なじみもできた。
                ☆
 浦項の地震も、セウォル号の事件も、東日本大震災も、原発事故も、個別・具体、つまりそれぞれの心に寄り添ってこそ、共感が生まれ、悲しみやトラウマからのレジリエンスが可能になる。浦項の活動報告に触発されて、シャプラのような活動がある、アートによる活動もある、復興への道筋は多様でいいのだ――あらためてそんなことを思った。

2020年1月20日月曜日

今年も初観音へ

 きのう(1月19日)は午前中、いわき市小名浜大原の徳蔵院へ――。同寺では毎年、1月15日前後の日曜日に「初観音」が催される。同時に、境内で「かんのん市」が開かれる。住職の奥さんとカミサンが知り合いで、この20年ほど、欠かさずかんのん市でフェアトレード商品などを展示・販売している。
 私は荷物とカミサンの送迎役。送り届けたあとは寺の駐車場に車を止めて、かんのん市が終わるまで本を読んで待つ。晴れていれば、車中は“サンルーム”と化す。頬や手がほてる。そのうち、まぶたがふさがる。今年(2020年)もカミサンから車の窓をトントンされた。

 同じ平・神谷に住む知人が自家栽培の白菜を直売する。白菜漬けが切れるころなので、市が始まる前に3玉を買った。去年は売り切れて買い損ねた。同じように「去年は買い損ねたので」という人がいた。市に参加しているのは奥様方がほとんど。互いに売り買いして品物をさばく一種の「花見酒の経済」だが、1玉100円とくれば安いものだ。

 それはそれとして、かんのん市では必ず撮影する花がある。境内のマンサクとロウバイだ。マンサクは枯れた葉が付いている=写真上1。不思議に思って調べたことがある。日本のマンサクのほかに、中国原産のマンサクがある。それらしかった。枯れ葉を付けたまま、日本のマンサクより早く咲く。
 去年と全く同じ光景に出合い、全く同じことをする。それは「無事」であることの証しでもある。今年はしかし、びっくりすることがあった。境内のそばの崖が一部、ブルーシートで覆われていた=写真上2。

 住職の奥さんの話では、台風19号のあとの大雨で土砂が崩れた。去年10月12日の19号は夏井川水系に被害が集中した。それから半月もたたない10月25日に低気圧が大雨をもたらした。気象台のデータをみると、10月12日の降水量は平227.5ミリ、小名浜176ミリ、10月25日は平197ミリ、小名浜193ミリ。短期間にドサッときた。

自然災害は忘れていても、忘れないでいても、どこにでも、容赦なくやってくる。

2020年1月19日日曜日

静電気ゼロ

 雪国に雪がない――この冬の異常気象が連日のように報じられる。しかし、おかしいのは雪国だけではない。冬は青空が広がる「サンシャインいわき」も変だ。大地が湿っぽい。
 毎日、太陽が顔を出していれば、空気も、家も、畑も乾く。この冬はしかし、車を降りてドアを閉めるとき、「ビビッ」となることはまだない。静電気ゼロのいわきの冬は、近年では珍しいのではないか。(家では石油ストーブを使っている。部屋の空気が乾いている。夜、服を脱ぐときにパチパチいうことはある)。

 ほかにも、おかしいと感じることがある。家の庭に車を止めている。タイヤのわだちができる。雨が降る。わだちに水がたまる=写真。雨が上がれば、ほどなく水は蒸発して庭は乾く。それが、この冬は乾きが遅い。乾かないうちにまたお湿りがくる。車を動かすと、泥がボデーにはねてバシャバシャ音を出す。わだちがさらに深くなる。

 風呂場の濡れタオルも乾きが遅い。変だな、と最初に思ったのは、実はこの濡れタオルだった。冬は気温が低いといっても、空気が乾燥していれば乾きは速い。それがこの冬は遅いのだ。

こうした現象を客観的に示すデータはないものか、考えをめぐらしていたら、「いわき市防災メールサービス(気象情報)」を思い出した。受信記録をみれば、乾燥注意報の発表・継続・解除日がわかる。

昨冬(2018~19年)と今冬(2019~20年)の、12月1日からきのう(1月18日)までの49日間に乾燥注意報が出ていた日数をチェックした。解除日も含めて数えたら、昨冬は合計35日間あったが、今冬はその3分の1の13日間でしかない。静電気が発生しないわけだ。

ついでに乾燥注意報が発表される基準を調べる。地域によって異なっていた。いわき市は「浜通り南部」の基準が適用される。二つある。一つは「最小湿度40%、実効湿度60%で風速毎秒8メートル以上」、もう一つは「最小湿度30%、実効湿度60%」だ。小名浜の今年1月の最小湿度は9日の31%が最小、実効湿度の計算のもとになる平均湿度は50%以下が2日間だけ。データからもカラカラになっていないことがわかる。

甕に漬けて上がった白菜の水にすぐ産膜酵母が張るのも、暖冬といわきの冬らしくない湿っぽさが影響している? 今が旬の根深ネギは? 影響がなければいいのだが。

2020年1月18日土曜日

旋回して海の方へ

 きのう(1月17日)の朝9時前、義弟をいわき市内郷の病院へ送り届けた。お昼前後には迎えに行かないといけない。2回、同じ道を行ったり来たりするのはつまらない。最初の戻りに夏井川の堤防を利用した。
わが生活圏では、夏井川と新川の合流地点でハクチョウが越冬する。左岸は平・塩、右岸は平・北白土~山崎地内。左岸の堤防を行き来しながら、ハクチョウを観察する。これが冬の楽しみの一つでもある。

 毎日、朝の7~9時台と夕方の3~4時台、ハクチョウが鳴きながらわが家(左岸の平・中神谷)の上空を飛んで行く。朝は夏井川から四倉方面へ、夕方は四倉方面から夏井川へ――。

 いろんな時間帯に、街へ行ったついでに、堤防を通ってハクチョウの有無をチェックしてきた。朝は9時を過ぎると姿を消す。午後は3時ごろには戻りはじめる。そばに住む“白鳥おばさん”がえさをやるからだ。

そんなことが頭に入っている。きのうも通ったのは9時過ぎだったので、合流地点には1羽もいなかった。

 が――。1キロほど下流へ進んだところで、こちらへ向かって飛んでくるハクチョウが3羽いた。あわてて車を止め、カメラを向けると、左へ(ハクチョウからすれば右へ)旋回し=写真上、海の方へ飛んで行った。後輩の情報で海岸寄り、平・高久でえさをついばんでいるグループがいることはわかっていた。その仲間だろうか。

 さらに500メートルほど進むと、夏井川にハクチョウが100羽前後、羽を休めていた=写真下。その場所ではめったに姿を見ない。合流地点で羽を休めているグループとは別のグループらしい。合流地点の上流、平・平窪の越冬地からやって来て、それから三々五々、周辺の田んぼに散らばるのか。
 すぐ下流には旧常磐バイパス(現国道6号)の夏井川橋がある。下流に向かって飛び立つと橋が邪魔になる。そこで、上流に向かって飛び立ち、右旋回して海の方へ向かったのではないだろうか。離陸して水平飛行になる前のジェット旅客機と同じ、と思ったが、順序は逆、飛行機の方が鳥の飛び方をまねて開発されたのだ。

 歩いて(昔は毎日散歩していた)、車で通過するだけだが、ハクチョウウオッチング歴はかなりになる。雪の日、雨の日、霧の日、晴れの日。朝、昼、夕方。着水、離水、はばたき、群飛。パソコンには12年分の撮影データが残っている。

けがをして1年中、夏井川で過ごさざるをえなかったハクチョウがいる。そのハクチョウが大水で上流の平窪から新川の合流地点付近まで流され、定留したのが呼び水になって、夏井川第2の越冬地が形成された。このハクチョウにえさをやり続けたMさんとの交流も忘れ難い。

2020年1月17日金曜日

「郷土雑誌の逸品たち」展

 随筆を寄稿したタウン誌(「ee(ぺえべえ)」=昭和51年・創刊号)がある。若い仲間からあずかっている文芸誌(「文祭」=昭和22年・第2号)がある。いわき地域学會初代代表幹事の故里見庫男さんからコピーをもらった文芸誌(「一九三〇年」=昭和5年・第1巻第1輯)がある――。
 いわき総合図書館で令和元年度後期の常設展「郷土雑誌の逸品たち」が始まった(5月31日まで)=写真(配布資料)。「三猿文庫開設100年記念」の冠が付いている。

 三猿文庫はいわきが誇る私設図書館、「郷土の文化遺産」でもある。昭和9(1920)年、大学を卒業して帰郷し、家業に就いた諸橋元三郎(1897~1989年)が私財を投じて開設した。元三郎夫妻と長男(いわき商工会議所会頭)の3人が火災で亡くなったあと、遺族から3万点余に上る文庫の資料がいわき市に寄託された。

草野心平記念文学館で資料の整理、目録作成が行われ、平成13(2001)年秋、同文学館で「三猿文庫――諸橋元三郎と文庫の歩み」展が開かれた。そのあと、資料は市立図書館が所管し、ラトブに総合図書館がオープンすると、いわき資料フロアの一角に「三猿文庫」コーナーが設けられた。

 同文庫の特徴は、いわきの地域新聞や出版物、全国の近代雑誌創刊号などを数多く保存していることだ。いわきの近現代史、あるいは地域メディア、文学を研究するうえで欠かせないライブラリーになっている。

地域新聞は、主要なものは電子化されて、いつでも、どこからでも図書館のホームページにアクセスすれば閲覧できるようになった。残念ながら、出版物はそこまではいっていない。開架資料にも含まれていない。「郷土雑誌の逸品たち」は、三猿文庫のもう一つの柱である郷土の出版物に光を当てるものになった。冒頭の3冊とはそうして“再会”した。

ホンモノはホンモノが持っている情報を多様に、多彩に伝える。大正時代、山村暮鳥が中心になって発行した文芸誌「風景」の創刊号がある。里見さんが手がけた復刻版の表紙絵は墨一色だが、ホンモノは紙質のせいかどうか、ちょっと違った印象を受けた。

大正時代、昭和時代・戦前、昭和20~30年代、同40~50年代と、大きく4つに時代を区分して、それぞれに創刊された雑誌を主に展示している。

 心平記念文学館で行われた「三猿文庫」展の図録に、諸橋元三郎を囲む鼎談(雑誌「6号線」に掲載)が収められている。「朝になると昨日のことはすでに歴史だ――こうした発想によって培いたくわえたのが『三猿文庫』です」

 鼎談に参加した一人、故中柴光泰さんは「元三郎さんは(略)長年にわたっていわきの文化の最大のパトロンとしてやってこられた。こうしたことは実にまれなことで、篤志・見識そして資力――そのなかのどれが欠けても駄目なんですね」と評している。そのおかげで、私もまた日常的に三猿文庫の恩恵にあずかっている。

2020年1月16日木曜日

防災緑地をバスが行く

 日曜日(1月12日)に薄磯の喫茶店「サーフィン」で昼ご飯を食べた。何気なく外を見たら、窓枠のなかにバスが入ってきた。急いでパチリとやった=写真。
「サーフィン」は薄磯の海岸堤防のそばにあった。大津波で店が流されたあと、一時、内陸の常磐湯本町で営業を続けた。ママさんはしかし、海とともにある暮らしが忘れられなかった。「高台住宅」用に薄磯の丘陵が開発されると、ふもとに店を新築した。2018年10月、通いで薄磯での営業を再開した。

震災前と同様、1階が駐車場、2階が店になっている。前は2階から海が見えた。震災後は海岸堤防のそばに防災緑地が築かれたため、海は見えない。

額縁のような店の窓から道が見える。カウンターからときどき眺める。たまに車が行き来する。と、何度目かで防災緑地と更地の間を行くバスが目に留まった。

昔からの道は防災緑地をつくる過程で少し移動したようだが、基本的には前と変わらないだろう。ママさんが少し前、「バス通り」とか「バス道」とか言っていたのを思い出す。あとで時刻表を確かめたら、近くにバス停「灯台入口」(写真に写っている)があって、いわき駅前行き「12:23」だった。バスは止まらずに視界から消えた。

まだ阿武隈の山里で洟(はな)を垂らしていたころ、祖母に連れられて小名浜の叔父の家へ泊まりに行ったことがある。平駅(現いわき駅)前からはひっきりなしにバスが出ていた。「カタハマジュンカンセン」(片浜循環線)という言葉を知ったのは、そのころではなかったか。

いわき民報の昭和31(1956)年2月2日付の記事、同10日付常磐交通の広告によると、片浜循環線は同年2月11日に運行が始まった。内回りは平―湯本―小名浜―江名―豊間―平、外回りはその逆コースで、内・外回りとも20分おきに出たというから、バスの利用客がいかに多かったことか。

外回りで小名浜へ向かった記憶がある。沼ノ内、薄磯、豊間の集落は、狭い道の両側に家が密集している。急なカーブでは、バスが軒先に触れるのではないかと冷や冷やしたものだ。そのときは気づかなかったが、運転手はハンドルさばきが絶妙だった。

今、バスは空気を運んでいるだけ、と揶揄されることがある。大津波に襲われた薄磯、豊間は、風景が一変した。どこかよその土地に来たような錯覚さえ覚える。バスの利用者も減ったにちがいない。でも、バスは今も震災前と同じように行き来している。震災後も変わらずにあるもの、そのひとつが路線バス――と考えると、なにかホッとするようなものが胸に広がった。

2020年1月15日水曜日

スポーツ新聞を買う

 小4の下の孫が所属するサッカーチームが優勝した。「スポニチに載っている」というので、きのう(1月14日)朝、近所のコンビニへ新聞を買いに行った。
 1面は、マレーシアで交通事故に遭い、けがをしたバドミントンの桃田賢斗選手の記事。「金最有力 バド男子エースに災厄」「桃田 死傷事故」。スポーツ新聞独特のカラー見出しが躍る=写真。

前日、テレビのニュースで事故があったことは承知していた。東京五輪出場と金メダルが確実視されている選手、というだけではない。福島県民にとっては、半分ふるさとの選手だ。香川県生まれだが、中学・高校といわき市の隣の双葉郡(富岡町)で過ごした。

富岡高校のバドミントン部はトップアスリート系列運動部の一つ。同校が休校した今は、ふたば未来学園高校(広野町)がそれを引き継いでいる。

 桃田選手は一時、やんちゃなことをして出場停止処分を受けたが、復活後は世界のトップアスリートとして活躍している。茶髪から黒髪に戻り、それを維持していることが本人の覚悟を表している。

 その桃田選手がまさかの交通事故だ。マレーシアの国際大会で優勝し、帰国するために空港へ向かう途中、乗っていたワゴンが大型トラックに追突した。運転手が亡くなり、桃田選手とコーチ、トレーナーがけがをした。

去年(2019年)3月、シャプラニール=市民による海外協力の会主催で、「みんなでいわきツアー」が行われた。そのときのことを思い出す。

2日目は富岡町視察だった。一行は、桜並木で知られる夜ノ森地区を見たあと、JR常磐線富岡駅前へ移動した。そこで一行と合流し、丘の上の富岡高校などを見た。同校には道路沿いの柵の内側に「祝 平成22年度全国高等学校総合体育大会出場 学校対抗バドミントン部男子・女子……」など10枚の掲示板が残っていた。なかに「桃田賢斗」の名が二つ――。

 スポーツ選手にけがは付き物だ。中学校の2年か3年のとき、バレーボール部員だったが、臨時に陸上競技の選手になった。ハードルの練習をやりすぎて、右太ももが肉離れを起こした。

 息子も高校のときにラグビーの練習中、膝の靭帯が切れて入院したり、下の孫も何年か前、跳びはねて手首を骨折したり……。下の孫は運動神経を過信して、少しやりすぎのところがある。

 金曜日の夕方には、下の孫をサッカーの練習場へ送っていく。先週、家に行くと、「きょうは休み」という。聞けば、年明けすぐの試合で相手とぶつかり、足を痛めた。骨折こそしなかったものの、腫れが残っている。内出血のあとも痛々しい。それでも、この連休に行われた試合には出場したようだ。

 スポニチの裏1面は「福島版」。左肩に「第42回U-11サッカー大会最終日」(13日、いわき市、新舞子フットボール場)の結果と記事が載っていた。3グループに分かれて競った。孫が出たのは第1グループ。優勝チームの写真のなかにいた。「得点者」3人のなかにも名前があった。あんなに足が腫れていたのに……。フル出場ではなく、途中から、あるいは途中までの出場だったか(あとでユーチューブを見たら、フル出場だった)

 桃田選手は全身打撲のけがだったが、3月中旬の実戦復帰を目指すという。孫もけががいえたわけはないが、試合に出られる元気は残っていた。無事これ名馬――老爺(や)心ながら、そんな言葉が頭をよぎる。

2020年1月14日火曜日

イワシの刺し身

「何があるの?」「マグロ、ヒラメ、タコ」。それから一呼吸おいて、「イワシはどうですか」。なんだか耳うちするような口調になった。刺し身の話だ。
 日曜日の夜には刺し身と決めている。マイ皿を持って買いに行く魚屋がある。年が明けて最初の日曜日は休みだった。2日に店の前を通ったら開いていた。正月休みをあとにずらしたのだろう。そのことは経験的にもわかっていた。が、いちおう出かけて、シャッターが下りているのを確かめてから、近くのスーパーへ寄って刺し身の盛り合わせを買った。

 その意味ではおととい(1月12日)の日曜日が、店主とやりとりをして刺し身を食べた今年(2020年)最初の日になる。

 イワシは鮮度がいのちだ。「銚子で捕れたサバに混じっていました」。イワシとサバの関係はわからない。サバがイワシを捕食するのか、サバとイワシが一緒にプランクトンを食べていたところを捕らえられたのか。なにはともあれ、おまけの魚だったらしい。

 店主の動きを追う。イワシを3匹、ガラスケースの奥から取り出す。頭を切り、腹を裂いて内臓を除去する。水で洗ったあと、指で骨をはがし、2枚に分ける。次に、同じように指で皮をはがし、6枚を重ねるように並べて包丁を入れ、包丁の腹を使ってマイ皿にきれいに盛り付ける=写真。

イワシの刺し身は何年ぶりだろう。自分のブログで確かめたら、4年ぶりかもしれない。甘い。イワシは漢字で「鰯」と書く。「弱い魚」とあるように、小さくてすぐ鮮度が落ちる。生臭くなる。しかし、それがまったくない。抜群に新鮮だった。

 甘みもカツオとは違う。それでいてさっぱりしている。果物とかケーキ、あるいは糖度といった言葉が思い浮かぶ。

刺し身にするまでの流れは、カツオもイワシも同じだろう。しかし、同じくらいの量を確保するとなると、手間が違う。マイ皿ではカツオなら一筋、イワシは3匹。単価も安い。刺し身のメーンは、営業的にはマグロ・ヒラメ・タコ、ということになる。イワシはいわば、裏メニュー。冬はこうして、カツオと違った刺し身のあれこれを楽しむことができる。

2020年1月13日月曜日

成人式

 1月第2週の月曜日は「成人の日」。今年(2020年)はきょう、13日だ。暦の上では、土曜日からの3連休になる。「ハレ」と「ケ」でいえば、毎日が「食べて飲んで寝る」(ちょっと付け加えて「読んで書く」)だけの人間には、3連休もいつもの「ケの日」でしかない。
 いわき市では成人の日の前日、日曜日に旧市町村単位で成人式が行われる。連休初日の土曜日、カミサンと親しくしている近所の奥さんが息子クンとやって来た。大学2年生。身長およそ190センチ。背広とネクタイでビシッと決めている。前の日、テレビで見た樹木希林の孫を思い出す。「これから写真館へ行く」という。ハレの日の料理のお福分けにあずかった。

 きのうは午後、やはり大学2年生の“孫”から電話がかかってきた。「家に行きたいんだけど、今、どこにいるの?」。東京にいるはずだが、なぜ? そうか、成人式だ! 薄磯の喫茶店にいたので、「30分後には家に戻る」と伝える。

家に着くとほどなく、母親と一緒に振袖姿の“孫”が現れた。成人式に参加した。着替える前に、晴れ姿を見せに来た、というわけだ。家の中で、庭で記念の撮影をする=写真。

 いわきの高校を卒業して、東京の大学へ入学したのが2年前。そのとき、“孫”の成長記録のようなものをブログに書いた。

【2008年3月】“孫”は小3と小1。わが家へやって来て、ネコどもを抱いて「いじくりこんにゃく」にする。長女は作詞をする。それに母親が曲をつけた。最初は照れていたが、「タカじい」のために歌ってくれた。次女は絵をかくのが好き。「タカじいの顔をかいてよ」と催促すると、「かけない。だって、おでこツルツルだもの」

【2008年9月】夏井川渓谷の隠居で晩酌を始めると、電話が鳴った。「たかジイ、だれだか分かる?」。上の“孫”だった。あとで下の“孫”が出る。「もう酒を飲み過ぎてんでしょ。飲み過ぎると頭がばかになるよ。戸を開けていると蚊が入って来るよ」

【2010年7月】若い仲間一家4人、長男一家4人がやって来た。夫婦2人だけの夕餉が、その晩は一挙に10人になった。小5、小3の“孫”が、3歳、1歳の孫の面倒をみる。

【2012年6月】中1と小5の“孫”が「父(ジジ)の日」イラスト応援メッセージを持って来る。「いっしょにハゲ毛(もう)!」は妹、「いっしょにはげもう」は姉。(妹はハゲにこだわっている)

【2014年8月】中3の“孫”が家に来るなり、「いわき生徒会長サミット」の一員として訪れた広島・長崎でのことを話し始める。止まらない。マシンガントークだ。それだけ深く心にしみる体験だったのだろう。中1の“孫”は読書感想文に行き詰まっていた。いろいろ話したら、即興で4コマ漫画をかいてくれた。

【2016年6月】5月の終わりに高2の“孫”が「クラブソニックいわき」でギターの弾き語りをする。初ステージだというので、夫婦で出かける。

【2016年11月】上の“孫”が授業で福島大生の「いるだけ支援」を知り、「大学生になって、もし機会があればやってみたい」とフェイスブックでコメントしていた。「『来るだけ支援』もあるぞ」と書いたら、「なんだって!? 私がいつも吉田家に長年にわたり実施してきた支援(?)のことかしら……?」。そうだ。

これに新しい記録を付け加える――。

【2019年10月】台風19号の影響で“孫”の家の1階が浸水した。一方で、高3の下の“孫”は美大への入学が内定した、という知らせに接する。

【2020年1月】上の“孫”が成人式をすませ、振袖姿でやって来る。これも“ジイ・バア”にとっては「来るだけ支援」だ。困難な時代だからこそ幸多かれ、と祈るような気持ちになる。