2011年2月28日月曜日

マンサクが咲いた


きのう(2月27日)朝、夏井川渓谷の無量庵へ出かけて森を巡った。とにかく歩く。なにかがあってもいい、なくてもいい。そんな気持ちで森に入る。なにかがあれば、あったことを記録する。なければ、ないことを記録する。この「ある・ない」記録の積み重ねが大事だ。

たとえば、赤松の巨木の立ち枯れはこの十数年の現象だが、それは1本、1本、目にしていて、そのつどメモしていたからこそ分かることだ。で、卒塔婆になった赤松の巨木は、でんとは倒れない。梢の方から折れ崩れていく。暴風に襲われて根っこから倒れるのは若い木。これは赤松に限らない。もう15年余、定点観測をしているので、なんとなくわかる。

一年中、キノコを探している。真冬は天然エノキタケが目当て。しょぼくれたエノキタケがあったことは2月20日に書いた。タイミングが合わなかった。で、どこかにエノキタケがあるはずだと思って歩いたが、やはりない。

となれば、キノコはもういいではないかとなる。意識をニュートラルな状態に戻す。歩くことが楽しい――そこに立ち返る。

アセビの花が咲いていた。マンサクの花も咲いた=写真。溪谷にも春が目覚めつつある。あと1カ月もすれば、景色がやわらかく、ふんわりと見えるようになるだろう。

2011年2月27日日曜日

歌集『縄のれん』


ざっと1カ月前、「いわき民報ふるさと出版文化賞授賞式」に臨席した。いわき地域学會としての招きだった。わが古巣のイベントである。久しぶりに“現場”の雰囲気を味わった。

最優秀賞は稲村泉さんの少年少女小説『一本松と杉の子の約束』。優秀賞には曽我朗子さんの歌集『縄のれん』、高橋彦彦さんの句集『邂逅』が入った。特別賞は社会福祉法人希望の杜福祉会の『私たちの歩んできた道』。「出版文化賞」だが4冊のうち3冊は文学、たまたま今回は「文学賞」になってしまったのだろう。

授賞式の祝辞で、いわき市長代理の鈴木英司副市長が新聞発表後、4冊全部を読んだことを明かした。こちらも負けてはいられない。『私たちの歩んだ道』は手元にある。『縄のれん』=写真=は授賞式当夜、本人からいただいた。残るは小説と句集だ。

いわき総合図書館で『一本松と杉の子の約束』『邂逅』を立ち読みし、あとで残る二つ、なかでも歌集を熟読した。

平の白銀町でご主人と「暮六」という居酒屋を開いていた。焼き鳥が売りではなかったか。そんなにしょっちゅう通ったわけではないが、いつのまにか「ミスいわき」の娘さんも含めてなじみになっていた。

そのころをほうふつさせる歌――。

 バイトの子も吾もきりりと髪結ぶ居酒屋に立つ夕べの習い
 大鍋を四つ火にかけ炒る茹でる真夏の仕込みサウナのごとし
 閉店を告げても話し込む客に泊まられますかと言へば皆立つ
 カウンターに頬杖ついて客を待つ鍋の仕込みは食べ頃なのに

3首目の歌はなんとなく覚えがあるような……。それよりなにより、今も記憶に残る「冷奴」に納豆をのせたものは「つきだし」だったか。牛だかなんだかの「タマタマ」も記憶にある。夫であるマスターがにやにやしながら出して、食べたあとに正体を明かした。

ま、そんなことはさておき、あとがきを読むと、マスターが挿し絵をかき、いわきでフリーペーパーを発行している娘さんが編集・デザインをした。なんと3年がかりだったとか。忙しい仕事の合間に少しずつ編集するしかなかったのだろう。

そうしてできた夫婦・親子合作の歌集である。表紙のイラストにある「暮六」(赤ちょうちんが懐かしい)の縄のれんをかき分け、戸を開けて中に入ると、おいしい焼き鳥ならぬ歌が並んでいるという仕かけがにくい。

2011年2月26日土曜日

調練場の砂利採取


いわき市平の市街地を過ぎて河口に近づいた夏井川は、「旧神谷村」でS字状に蛇行しながら東進する。浅瀬には砂州ができる。平中神谷字調練場の砂州はなかでも最大級だ。

地名の由来については2年前に書いた。笠間藩の神谷陣屋藩士の兵式調練場だったのが、そのまま字名になった(志賀伝吉著『神谷村誌』)。小学校の運動会が開けるくらいに広い。

ここにある日、ショベルカーがやって来た。やがてダンプカーが現れ、砂利を採取・運搬するようになった。ショベルカーが砂利をかき集めて山をつくり、山の上から砂利をすくってダンプカーに投入する=写真

私が日常、目にする左岸の砂利採取現場としては最も下流だ。平塩地内では2カ所、これはとっくに採取が終了した。右岸、平山崎地内の河川拡幅工事(「土砂撤去」名目だから、ここも砂利採取に違いはあるまい)も終わった。

調練場は、半分は枯れヨシ原だ。堤防を下りて枯れヨシ原を過ぎると、広い砂州に出る。ここで藩士たちはどんな訓練をしたのだろう。戊辰戦争では本藩が「官軍」側についたから、陣屋は「賊軍」の磐城平藩などに囲まれて四面楚歌になった。

砂利採取が続く調練場の光景に、日本が近代化する過程での「内戦」(戊辰戦争)を思い浮かべ、その連想でイスラム世界の「ジャスミン革命」に思いが走る。とりわけ、リビアの独裁者の頭の中はどうなっているのかと、問わないではいられない。

2011年2月25日金曜日

どろんこハクチョウ


またまたハクチョウの話で恐縮です。

わが家から夏井川渓谷の無量庵へは、途中まで阿武隈高地の先端、丘に沿って流れる小川江筋を視野におさめながら車を走らせる。要は田園地帯のど真ん中。水の流れをさかのぼる形になる。

その逆。帰り道。川の水になったつもりで風景を見る。夏井川溪谷を過ぎると豁然と視界が開ける。小川の片石田から太平洋へと一気に扇状地が広がる。平は開いた扇の先端部三分の二くらいを占めるだろうか。

小川江筋が丘のふもとを縫って流れるのは、片石田の下流・三島から。扇状地の真ん中あたり、場所としては平中平窪、平四小の裏側だ。

一部、田んぼに水が張ってある。「冬水田んぼ」だ。そこに朝、無量庵へ行く途中、ハクチョウが飛んで来た。無量庵からの帰り、午後2時過ぎに通ったら、ハクチョウたちがピチャピチャ泥水にくちばしを突っ込んでえさをあさっていた。

水田の間を貫く農道だ。ハクチョウは農道のすぐそばにいる。車の窓を開けてカメラのレンズを最大にする。口のまわり、胸のあたりをどろんこにしているコハクチョウを撮った=写真。顔だけを狙った写真も撮れた。

ハクチョウの写真を撮り始めて何年になるだろう。パソコンに取り込んだものだけで3年分、今年の分を加えると4年だ。それ以前にプリントしたものもある。平山崎の「ハクチョウおじさん」ことMさんを、平塩~中神谷で撮り続けてきたから、十年は過ぎたかもしれない。

アマチュアであっても通い続ければ、いろんな写真が撮れる。雪の日、雨の日、霧の日、晴れの日。朝、昼、夕方。着水、離水、はばたき、群飛。けがをして居残ったハクチョウの孤独な四季。ただし整理が下手なので、以前の写真がどこにあるかわからない。それらがそろえば写真集だって出せるかもしれない。と言えるくらいに写真は撮った。

ともあれ、ハクチョウは写真のウデを鍛えてくれる被写体には違いない。

2011年2月24日木曜日

フキノトウ


日曜日にいわき市三和町の直売所「ふれあい市場」を訪ねたときのこと。「今年はフキノトウが小っちゃくてね。やっと1パック出てきたの」。2月下旬である。フキノトウが店頭に並ぶ時期なのに、出てこない。三和町も不作、いや“遅作”だったか。

夏井川渓谷の無量庵。庭にフキノトウが出る。暖冬だと、年末には頭を出す。いくらなんでもそれを摘む気にはならない。年が明けるのを待つ。正月三が日に摘んでわが家に持ち帰り、みじんにして雑煮に浮かせる――というのが、だいたいのパターンだ。今年はそれができなかった。頭を出してはいたが、小さくて小さくて……。

去年は真夏に猛暑が続いた。やっと秋分の日あたりから、雨らしい雨が降るようになった。フキノトウの生長がいまいちなのは、もしかしたらそのせいか。

「ふれあい市場」を訪ねた帰り、無量庵の庭をじっくり見る。1個だけイソギンチャクのように衣を開きかけたのがあった。それを摘んで、翌日、わが家でみそ汁に散らした。夏井川溪谷にもやっと春がきた。

と、「谷間の春」の余韻を楽しんでいたら、ゆうべ、近所の奥さんがフキノトウのてんぷらを持ってきてくれた=写真。ありがたいことに、ときどき、調理した旬のものをいただく。

早速、酒のつまみにした。飲み過ぎた。いつもだと晩酌を終えてからブログを書くのだが、べろべろになったので、今朝になった。わが脳みそにも春がきたらしい。

2011年2月23日水曜日

天平という人


去年暮れ、いわき市立草野心平記念文学館から「草野天平の作品とふるさと」というテーマでしゃべってくれ、という電話が入った。「オレは天平を読んでないよ」と言っても引き下がらない。「天平のいた小川の自然について語ってください」。それならば、というわけで引き受けた。

今度の日曜日(2月27日)午後1時半から、小川町の「心平生家」=写真=でしゃべります。PRです。時間があったらおでかけください。

天平は心平の弟。心平同様、詩人だ。マイナーが当たり前の詩人の世界で、心平はとびぬけてメジャーになった。天平はマイナーな詩人のなかでも、さらにマイナーな存在だ(と私は認識している)。要は、知る人ぞ知る。いや、知らない人が多い。

あまりにも「詩」を信じすぎている。「言葉なんて覚えるんじゃなかった」という詩人の対極にある。そう思っているので、私は天平のいい読者であるはずがない。それに、天平の詩を読むと打ちのめされる。ますます読まない。

それはこういうことだ。言葉を削って削って、もう言葉がないというぎりぎりのところに詩句が展開している。すごいことだが、俗世間にどっぷりつかっている私は、ついつい「ねばならない世界」を感じてしまって敬遠する。「ここまで自分を追い詰めなくてはだめなのか」。そんなことを感じてめいってしまうのだ。

が、逆も真なり。こちらがぼろぼろになっているときに天平の詩を読むと救われる。頑張らなくては、というエネルギーをもらえる。同じ詩句でも、そのときの心のありようで受け取り方は全く異なる。不思議なものだ。

そんなことが10年にいっぺんくらいはある。20代で読み始め、敬遠して間歇的に立ち返り、文学館から言われて初めて、本気になって天平の詩と向き合った。発見したことがある。

私は「歩く人」が気になって仕方がない。ウオーカー(散歩者)を尊敬する。天平も、同じ小川ながら平地から夏井川渓谷まで平気で歩くウオーカーだった。その一点にしぼって話すことにした。

2011年2月22日火曜日

買い出しツアー


「南の白菜」より「北の白菜」である。甘みが違う。いわき市で言えば、平より三和町、スーパーより直売所。スーパーで1玉およそ400円と結構な値段だ。ガソリン代をかけても直売所の白菜を買いたい――日曜日(2月20日)に車を走らせた。

夏井川沿いの県道同様、国道49号に雪はないだろう。直売所(三和町ふれあい市場=写真)は長沢峠の手前だ。そこまでならノーマルタイヤでも大丈夫のはず。結果的には長沢峠もOKだった。

ふれあい市場へは10時前に着いた。すでにオープンしていた。白菜はなかった。すると、店の人がどこかに電話をかけてくれた。残念ながら「足」がない――ということで、届くことはなかったが、直売所の魅力はこれだろう。

<よく来てくれたない>といった感じだろうか。店の人(おばさん)がお茶をどうぞ、大根の甘酢漬けにくるんだ干し柿もどうぞ、という。三和の家庭の味だ。

この時期は加工品が主体。漬物がいっぱいある。一升漬け、みそ漬け、白菜キムチ、キュウリの古漬け、梅干し、大根、おにぎりと買ったら、マイバッグにいっぱいになった。まるで買い出しツアーである。

三和町からひと山越えた夏井川渓谷の無量庵へ行くには二つのルートがある。直近の差塩ルートと、いったん小野町の夏井へ出て夏井川に沿って下るルートと。聞けば、どちらも雪の心配はない。

どうしても白菜を買いたい。小野町のルートをとった。きのこセンターになければ、小野町の直売所まで足を延ばすつもりで、ふれあい市場を出発する。

きのこセンターに地物の白菜があった。1玉300円弱。3玉買った。レジの女性が株の切り口を見て傷みの少ないものと取り換えてくれた。

三和~小野~無量庵(夏井川渓谷)~わが家と、久しぶりに遠出を楽しんだ。帰るとすぐ白菜を八つ割りにして干した。きのうの夕方にはカメに漬け込んだ。4月いっぱい白菜漬けを食べるとして、漬けるのはあと1~2回。春は確実に近づいている。

2011年2月21日月曜日

「圏外」解消


話は聞いていた。夏井川渓谷でも「ケータイ」がかけられるようになる、と。

auはなんだか前からかかっていた。しかし、無量庵に遊びに来る人間はドコモがほとんど。で、「圏外」であることを喜んでいた。「男の隠れ家」になるから。それで森を歩く。夜には酒盛りをする。誰も連絡がつかない。連絡をしない。無量庵には固定電話がある。それは来訪した人間にしか教えていない。

どこかの社長がいる。窓際族がいる。そんな肩書は忘れて、還暦を過ぎた同級生が学生気分で一夜を過ごす。昔から同じ学科の人間でやっていたのが、このごろは学科を超えて飲むようになった。その飲み会で北欧に行く、台湾に行く――そんな話になって、還暦を過ぎた「修学旅行」を敢行している。今年も行く(話になった)。

ドコモがアンテナを立てるという話を聞いたのは、ざっと1年前。牛小川区の総会で、だったように思う。去年の6月にはケータイが使える、ということだった。

きのう(2月20日)、無量庵へ着いてなにげなくケータイを見たら、「圏外」の文字がない。ちゃんとアンテナがたっている。「オオッ」となった。

無量庵から道路と鉄道を越えた山の方にアンテナが立ったのは分かっていた。年が明けてすぐパチリとやった=写真。これがドコモのアンテナか。そう思って1カ月余が過ぎた。きのう、無量庵のとなりの広場で近所の娘さん二人がバドミントンをやっていた。ドコモのことを聞くと、2月の初めにはかかるようになったとか。

無量庵から記念すべき最初の通話をしなくては――。躊躇することなくかけたのは、同級生の水道屋。「牛小川からケータイをかけている。圏外でなくなった。用事がある」「聞いてる(水道管の凍結・破損の話を)」(わがブログを読んでいるO君から連絡がいったか)。その修理を頼んだ。いつものことなので、あとでいつやるかを打ち合わせることにした。

ケータイで連絡がつくのはいいが、連絡がつかない魅力は失われた。「ケータイがかからないので」という言い訳は、今にして思えば大事なことだったのかもしれない。

2011年2月20日日曜日

しおたれエノキタケ


夏井川渓谷の無量庵へ行くと、必ず屋敷の周りをチェックする。冬キノコ、つまりエノキタケが出ているかもしれない。年が改まって最初の月は、それらしいものが見当たらなかった。

2月に入って、半月ほど行くのを休んだあと――。いつものように敷地の境界をウオッチングしたら、あった。土手の木の根元にエノキタケが一本、しおれてひっくり返っていた=写真

まさか、一本だけ発生したわけではないだろう。それ以外に発生した形跡は? 見当たらなかった。かたまりになって発生したとしたら、同じようにかたまりとなってとろけているはずだが、そんな痕跡はない。とすると、やはり単独で発生した? いや、単独でしか発生できなかった?

エノキタケは、立派なものはシイタケくらいに大きくなる。それを収穫したこともある。それに比べたら未熟なまましおたれた。1週間前、いや10日前の建国記念日あたりだったら、きれいな姿を見ることができたかもしれない。見たとしても、ひょろひょろだったろうが。

エノキタケの菌に取りつかれた木が、何年間か菌に栄養を提供して立ち枯れ状態になり、それでエノキタケの子実体が貧弱なものになったか。土手の境界にはその木のほかに、エノキタケの発生する木が数本ある。しばらくは落胆もせず、期待もせずにチェックを続けることにしよう。

2011年2月19日土曜日

寒ゆるむ


朝6時に目を覚ましたら、窓の外がうっすら明るくなっている。冬至からおよそ2カ月。昼の時間が少しずつ長くなってきた。目覚めたときに外が暗いとうっとうしい。うっすらでもいい、明るいとガバッとはねおきたくなる。気持ちが軽くなる。人間は胸中に自然の移り行きを宿して生きている。きょう(2月19日)は「雨水(うすい)」だという。

2月も中旬から下旬へ――。ようやく季節が冬から春へと動き始めた。夏井川渓谷の、北向きの斜面には雪の「うすべり」が残っているものの、北向きの斜面と、それを縫うように走る県道には、早春の息吹が感じられるようになった。

籠場の滝の上流、道路にせりだしたハンノキの枝から赤紫色の花穂が垂れさがっている=写真。籠場の滝のしぶき氷も融けて小さくなった。北向きの斜面にある「木守の滝」の氷柱もだいぶしぼんだ。滝つぼの氷も融けた。水の流れがキラキラと春の光を乱反射している。

溪谷の無量庵へ出かけたのは5日前(2月15日)。庭に残っていた雪はもう消えただろうか。雪が積もると畑は静かに眠ることができる。雪がふとん代わりになるから、凍らないのだ。生ごみを埋めるにもスコップがさくっと入っていく。5日前がそうだった。

無量庵では地下水をポンプアップして使っている。洗面所の水道管が極寒期に凍結・破損した。ポンプの電源を切っておかないと洗面所が水浸しになる。というわけで、今も水は使えない。室温も氷点下1度ぐらいにゆるんできた。そろそろ同級生の水道屋に電話して水道管を取り換えることにしよう。

2011年2月18日金曜日

高原町義援金


いわき地域学會の総会が2月13日午後、いわき市文化センターに約60人が出席して開かれた。そのあと会場をいわき駅近くに移し、銀座通りの「wawawa」で懇親会が開かれた。30人ほどが参加した。

懇親会であいさつを兼ねながら、火山活動が活発化した新燃岳の東麓にある宮崎県高原町に義援金を贈ろう、と提案した。いわきは台風もめったに来ない。噴火するような山もない。いわきに住んでいる幸せに感謝しつつ、少しでも高原町の役に立つことをしたい。そのわけは――。

「高原町」は「タカハルチョウ」と読む。ニュースに出てくるたびに自分の名前を呼ばれているようだ、ヒトゴトとは思えない――「では、まず本人から」という声がかかったので、ワンコイン(500円)を入れて小さな菓子箱を回した。

総会の前々日、ある祝賀会があって、テーブルが一緒だった先輩から「地域学會の総会で義援金を募ったらどうだ」と水を向けられた。私のブログ(2月4日付「タカハルウチョウ」)を読んでのアイデアだろう。

「いや、いや」。手を振って断ったが、翌日、小2のときの出来事が思い浮かんで、ここはひとつ懇親会に提案してみようと心に決めた。町が大火事になって焼け出された。すべてが灰になった。子ども心にも、全国から寄せられた救援物資や義援金がありがたかった。

懇親会の翌日、地域学會の事務局長と箱を開けて金額を数えたら1万3,904円あった。最初、いわき民報を経由して日赤に寄託しようと思ったが、窓口が開設されていないとかで手元に義援金が戻ってきた。では、町役場に直送しよう――。高原町のHP=写真=をのぞいたら、タイミングよく義援金受付口座開設のお知らせが載っているではないか。

きのう(2月17日)朝、わが家の向かいにある郵便局から指定のゆうちょ銀行の口座に義援金を振り込んだ。手数料は「免除」。仲間の善意をすみやかに贈ることができてほっとした。

2011年2月17日木曜日

オナガ


オナガ(尾長)はカラスの仲間だ。昔は、いわきにはいなかった。関東から移動してきた。私が初めて目撃したのは1990 年代だったように記憶する。黒い頭、淡い灰褐色の背中、青灰色の翼と尾。この尾が長いので、オナガ。色の組み合わせがいい。しゃれている。

いつも同じところにいる、という鳥ではないようだ。いわき駅裏の物見ケ岡、夏井川渓谷、新舞子の海岸林、夏井川下流の河畔林と、さまざまな場所で見かけるのだが、それはたとえば3カ月ぶり、半年ぶり、そんなサイクルでのこと。一度現れると、しばらくそこでは見られない。

散歩コースの夏井川では、このごろ短い間隔で現れる。現れれば写真をと、狙ってはいるものの、夕方で光が足りずにぶれたり、ぼけたりして満足のいく写真が撮れなかった。そのオナガをやっと撮った=写真。撮ったといっても相当離れているから、オナガのいる風景写真でしかない。

いつものように夏井川の堤防を歩いていると、「ギューイ、ギューイ」とやや濁った鳴き声が前方上空から降ってきた。オナガの少群だった。河川敷を覆う枯れヨシ原に舞い降りると、若木の枝に止まった。そこを望遠でパチリとやった。心が少し躍った。

オナガを写真にと思い定めて10年、いや15年はたつ。遭遇するのは年に2~3回。たいてい不意に現れるから、失敗、失敗、失敗……。ようやくオナガの写真に向かって第一歩を踏み出した、といったところだろうか。

2011年2月16日水曜日

雪道を歩く


きのう(2月15日)昼前、半月ぶりに夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。平地から渓谷へ駆け上がると、道端に点々と雪のかたまりがころがっていた。除雪車が出動したのだろう。ところどころ路面はぬれていたが、ノーマルタイヤでも走行に支障はなかった。

無量庵の入り口にも雪のかたまりが鎮座していた=写真。車のボディーをこすりながら庭に入った。庭も畑も雪原と化している。長靴に履き替え、最初の痕跡をつける。くるぶしのあたりまでずぼっと入ってしまうところがあった。それからの推測だが、積雪量は5~15センチくらいか。

久しぶりに森を巡った。人間の靴跡、動物の足跡が雪で覆われている。この半月の間に、何度か雪が降ったに違いない。奥へ行くと、動物の足跡だけになった。おそらくタヌキ。森の雪道も、ところによっては積雪15センチを超える。

雪をラッセルしながら進む。坂道ではつま先に力を入れてブレーキをかけないといけない。足が疲れる。息も上がる。

先日、会津に住む後輩がいわきへやってきた。雪おろし・雪かきが大変らしい。「50年に一度の大雪だそうです。すっかり筋肉質になりましたよ」。こちらはせいぜい筋肉痛になるくらいだ。

時折、カケスのだみ声が響く。落ち葉の露出している地面にスズメより小さい野鳥がいた。マヒワの幼鳥かと思うのだがよくわからない。鳥たちは雪に覆われた森でえさ探しに必死だ。

森を抜けると、対岸の県道を黄色い大型特殊車両が下って行くのが見えた。もしかして仕事を終えた除雪車だったか。

2011年2月15日火曜日

テレビのない日々


テレビを見なくなってほぼ半月になる。画面にカラーの縦縞が現れ、オーロラのように目まぐるしく変化する、これは寿命か――テレビを買った店(わが家の“家電のホームドクター”)に連絡したら、本体を持って行って台だけになった=写真。直してくれるのだろう。

テレビを早く見たい。修理するのはいいが、新品より高くつくなら買い換える――とは言ってある。今のところそんな連絡はないから、こちらに負担はかけない、という覚悟はあるのだろう。なにしろ、何年か前に「新中古」をいい値段で買った。その値段に見合ったサービスはしてもらわないと。

と、最初は思っていたが、テレビがない生活に慣れたら、勝手なことだが、テレビは人をバカにする、そんなことを思い始めた。テレビに代わってラジオを聴き始めたからかもしれない。

ラジオは、団塊の世代にとっては必須のメディアだった。受験勉強を支える「深夜放送」というものがあった。それで、「ながら族」が誕生した。テレビが入り込んでからは、すっかりラジオから遠ざかった。週末、夏井川溪谷の無量庵でラジオを聴くだけになった。

わが家でもラジオを聴き始めて、ずいぶん面白いメディアだと再認識した。少なくとも、テレビのようにバカになる、という思いは抱かないですむ。いや、耳からしっかり言葉が入ってきて、いろいろ深く考えるきっかけにはなる。それを実感している。聞き流しているようで、面白いことがあると言葉が耳の奥深くにとどまるのだ。

映像が主体のテレビは物に即してわかりやすく伝えながら、結果として時間を消費するだけという印象をぬぐいきれないのだが、ラジオは言葉による想像力を必要とする人間の生理に合っているのかもしれない。

こういうことがあった。同じNHKのテレビとラジオだ。冬の乾燥肌について、同じようなことを教えてくれたのだが、テレビ(あさイチ)は瞬間的にはわかっただけで記憶化されない。ラジオは「アカ(垢)・アセ(汗)・アブラ(脂)」が大事――専門家の言った言葉がすんなり耳に入って、今も脳みそにとどまっている。

せっけんで体を洗うのは2~3日に一度でいい、アカ・アセ・アブラが乾燥から肌を守るバリアー役を果たしているという。私もどういうわけか、冬は自然とそうなる。動物的な本能がそうさせるのかもしれない。

作家の池波正太郎さんも同じようなことを言っていた。「風邪を引きそうだなと思ったら、背中をせっけんで洗わない。風邪は背中から引く」

ラジオの妙味がこんなところにある。にしても、早くテレビが見たいと、もう一人の自分が言う。

2011年2月14日月曜日

ヒヨドリが家に


外から帰ってこたつにもぐり込んでいると、ガラス戸の向こう、隣室にうごめくものがいた。ヒヨドリだ=写真。もう一つ奥のガラス戸に張りつきながらパタパタしている。いつの間にか室内にまぎれこんだらしい。と思った瞬間、飼い猫がヒヨドリにとびついてパンチを入れた。

あらゆる戸が閉まっている真冬、ヒヨドリが家の中に迷い込むなどということは、まずない。茶の間のガラス戸を開けて庭へ出た飼い猫が、雪でえさ探しに夢中になっているヒヨドリをとらえ、くわえて家の中に持ち帰り、放してはパンチを入れたり、足で押さえつけたりして遊んでいたのだ、きっと。

猫は、キャットフードで腹は満たされている。ただ狩猟本能にしたがって鳥を襲っただけだ。一種のいたぶりである。ほうっておけば死んでしまう。猫を追い払い、写真を撮ってから体をつかみ、じっくり観察した。

脚は針より細い。その左脚がちょっとおかしい。床にべたっと張りついていたのはそのためか。玄関を開けて空へ放すと、波を打ちながら隣家の屋根の向こうに消えた。ン? 左の親指に少し血がついている。親指が触れたところは右の翼のつけ根付近。

すぐ写真をパソコンに取り込んでチェックした。翼の一部が変にほつれて濡れている。内部も見える。そこをくわえられたか。傷の具合はどうか。脚は大丈夫か。なんとなくヒヨドリのこれからが思われて欝な気分になった。

2011年2月13日日曜日

がっちりアカデミー


1月の終わりに変なことをいわれた。テレビでやっていたのだという。「いわきが日本一住みよいんだって」。<それは住みよいだろうよ。まず、台風はいわきをそれて行くし、雪は降らないし>。でも、よくわからない。どういう基準でそうなのか。新聞・雑誌のお決まりの統計では、いわきはいつも下の方だ。それが一気に横綱級だって?

きのう(2月12日)、カミサンから教えられた。いわき商工会議所の「ふるさと誘致センター」に記事が載っているよ、と。

彼女は、わがパソコンに登録されている「お気に入り」しかクリックしない。パソコンを閉じることは覚えたが、起動してあれこれすることはまだできない。私が自分のブログ「磐城蘭土紀行」を開くと、さっと読んで「お気に入り」をサーフィンする。

このごろは適当にクリックして、次から次に画面を開いて読んでいるようだ。「住みよさ日本一」の中身が、それでわかった。

で、「ふるさと誘致センター」の受け売り。テレビ番組は、1月28日に放送された「がっちりアカデミー」だとか。テーマは「老後の生活スタイル」。

地方暮らし、つまり田舎暮らしで「全国移住したい県№1」に福島県が選ばれたのだという(誰が選んだの)。なかで、積極的に誘致活動を展開しているいわき市の事例が紹介されたらしい。

老後に移住したいマチ、それはいわき。税とか医療とか、あるいは教育、福祉、交通といった社会資本・制度資本をわきにおけば、その通り。いわきは、「自然資本」に関しては全国に誇りうる質の高さを持っている、と私は思う。

写真はわが知り合いの山荘。そこにご夫妻は中年のころ、いわき市内から生活の拠点を移した。夫人はそれでいつのまにか病気が治ったという。いわきの中山間地は、市内の人間にとっても「移住したい場所」なのだ。

全国を渡り歩く国家公務員、たとえばいわきの塩屋埼の灯台長だった人が定年退職後、いわきについのすみかを求めた。雪国の大学の教授だった人が、縁もゆかりもないいわきについのすみかを求めた。そんな例が、いわきでは当たり前のようにある。年のいった人は平地の団地に、もっと若い人は山里に――。

だから、「いわきは老後に住みたいまち日本一」というのは、昔からわかっていることだ。温泉つき団地がある。そこに住んでいる人たちは、おおかたは退職後の移住者だ。そんな分譲団地のどこかに、東京でだいそれたことをしたと疑われる男性が住んでいた。彼はもっと若いときからいわきの人間になっていたという。


私は新聞・テレビ報道をだいたい3割引きくらいの感覚で読む。にしても、驚いた。と同時に、防犯カメラの映像でそこまで絞り込めるのかと、そちらの方にも驚いた。“デジタル刑事”が育っているのだな。

2011年2月12日土曜日

きょうも雪のマーク


「建国の日」のきのう(2月11日)は朝からみぞれがパラつきだし、昼過ぎにはボタ雪に変わった。日中、わが家で仲間といわき地域学會の総会の準備をしたが、時間がたつにつれて家の屋根や庭が白くなっていくのが、わかった。

夕方、ある祝賀会があって、雪の中を平の街へ出かけた。夜8時には帰宅した。往復とも同じ印象をいだいた。<西の平の街より東の神谷(かべや)地区の方が、降雪量が多い>

平の街と神谷は夏井川をはさんで隣り合っている。南岸低気圧の東進に伴い、北東海上から雪雲が入り込んできたために、東から雪になった。神谷地区はまだまだ田園風景が残る新旧混在の住宅地。かたや平はビルが密集する市街地。交通量や“地温”の違いが積雪量の違いになった?

きょうは朝5時半に起きた。雪はやんでいた。道路の状況を確かめた。家の周りだけだが、歩道・車道ともに凍ってはいなかった。アメダスのデータによれば、きのうから今朝にかけて降った雪の量は、平で6.5ミリ、小名浜9.5ミリ、同じく川前9.5ミリ。北隣の広野町は13ミリ、南相馬(原町)7.5ミリ。浜通り南部がやや多い。

1時間後、外を見ると、再び雪になっていた=写真。予報ではきょうも雪のマークだ。いわきの平地で2日続けて雪というのは、めったにないこと。結構な積雪量になるかもしれない。

2011年2月11日金曜日

クヌギの枯れ葉


わが散歩コースのちょっと先におかしな木のかたまりがある。それを遠目に、家へのコースをとる。特に目立つのが冬場だ。ひこばえが枯れ葉をまとっている=写真。そこは、いわき市平下神谷地内の市北部浄化センター前、夏井川の堤防だ。

堤防の斜面になぜその木があるのか。わざわざ斜面に苗木を植えるような人はいまい。河川敷にはところどころ若松が生えている。いろんな雑木もある。それと同じで実生の木が育ち、大木になった。倒れると堤防を損壊しかねない。で、伐採されたのか。

堤防の上をときどき車で行き来する。ちらりと見る。「気になる木」ながら、わざわざチェックしようというところまではいかなかった。先日、散歩のついでに近づいてじっくり観察した。冬場に枯れ葉をまとっているのはカシワ。いわゆる「かしゃはっぱ」だ。「かしわもち」に使う。それとはまるで違う。

外観はほぼ円錐形。どこから見ても「笑っていいとも」のトモダチの輪のかたちだ。それを構成しているのはひこばえ。ひこばえは、いうならば徒長枝だ。突っ立った髪の毛のようなひこばえの内側には、スパッと水平に切られた幹。幹は直径50センチくらいあるから、結構古い。樹皮の模様(皮目)からクヌギだと判断できた。

クヌギは、若い木ほど冬も枯れて枝にくっついている。ひこばえは幼樹、というより幼枝。幼いから枯れ葉を全身にまとって冬をやり過ごす。それもまた一種の防寒対策なのだろう。

だからどうなんだといわれても困るが、堤防という人工物にも絶えず自然が関与している。自然と人間の交通の結果として、そこにクヌギが根を張った、堤防を壊しかねないほどの大木になった――そんな「物語」を読み取ることもできる。

2011年2月10日木曜日

磯貝弥は郡山育ち


大正元(1912)年9月、磐城平に赴任した山村暮鳥は「キリスト教」と同時に「文学」の伝道を開始する。それに呼応した一人が文学少年の磯貝弥(わたる)だった。弥は暮鳥に将来を嘱望されるが、数え25歳で病没する。

おととし(2009年)の春分の日、カミサンの先祖の墓を詣でたら、かねて「磯貝弥は大伯父」という知人に遭遇した。すぐ近くに弥の墓があった。そのいきさつは去年、春分の日が近づいた3月19日に小欄で「磯貝弥の墓」と題して書いた。きょうはその続編。

先日、知人が弥ほか墓誌名にある先祖の没年月日と法名・俗名をメモした紙片をわが家に持参し、聞き知っているかぎりの話をしてくれた。

この2年間、折に触れて磯貝弥関連の資料を探索したものの、成果はまったく得られなかった。が、灯台下暗し。四半世紀も前に故里見庫男さん(当時は旗揚げして間もないいわき地域学會の代表幹事)からいただいて、そのままにしておいた大正~昭和初期の同人詩誌(コピー)をぱらぱらやっていたら、手がかりがあった。

大正13(1924)年1月15日発行の「みみづく」第2年第1号(通巻3号)=写真=に、弥と同じく暮鳥に師事した佐々木顕が「磯貝弥氏の書簡」と題して、顕あて9通の書簡を紹介している。書簡には短いコメントが付されていて、これが大いに役立った。

知人がやって来たときに、「みみづく」で得られた疑問をぶつける。弥自身については、それほどの進展はなかったが、周辺情報は一気に増えた。

現磐城桜が丘高(旧磐城女子高)は、明治37(1904)年に開校した私立磐城女学校が前身。その初代校長川島至善の長女が弥の母親だった。つまり、弥は至善の孫だ。長女は現郡山市湖南町の磯貝家に嫁ぎ、男3人を産む。弥は次男。やがて母親は子どもたちをおいて離婚し、郡山で助産婦の資格を取り、磐城へ帰って綴町(現いわき市内郷)で開業する。

弥は父のもとで育ち、長じて磐城の母のもとへやって来る。佐々木顕のコメントからはそのへんの消息がうかがえる。弥が亡くなると、今度は弟(三男)が母のもとへやって来た。知人の祖父にあたる。縁故のない土地で社会的地位を得たが、そのための刻苦勉励は大変なものだったろう。

細かいことは省略する。弥の墓、つまり磯貝家の墓は川島家の墓に併設されたこと、弥は死の直前、磐炭会社綴製作所(現常磐製作所)に勤めていたことを紹介して、ひとまず筆をおこう。

2011年2月9日水曜日

「かもめ」が届く


日本野鳥の会いわき支部の某氏(「あまりつきあいのよくない気まぐれの隣人より」とあったが、私より若い人に違いない)から、支部会報「かもめ」が届いた=写真。野鳥の会のフリーマガジン「トリーノ」第17号が発行された、ついては「かもめ」第101~106号も同封します、とあった。

おおよそ去年1年間の活動状況と野鳥情報がわかる。野鳥の会は「公益財団法人」になるため、去年4月の定時総会で名称変更を議決した。「日本野鳥の会いわき支部」は、現在は「日本野鳥の会いわき」というらしい。ここでは「かもめ」の発行団体名に従って、支部名で通す。

昨年6月にはチゴハヤブサが現れた。いわきでは珍鳥だという。北へと移動する途中だったらしい。第103号(8月1日付)の表紙を飾った。第104号(10月1日付)の表紙はヨシ原を集団ねぐらにしたツバメたちの写真。12月2日付の第105号は、これまたいわきでは珍鳥のケリが表紙を飾った。

最新ニュースは、1月15日に確認された亜種のシジュウカラガン。第106号(2月1日付)に写真が載っている。いわきでは初の確認だとか。某氏のメモによれば、夏井川と新川の合流点に飛来し、4~5日滞在してどこかへ去った。

私は夏井川の堤防をほぼ毎日行き来している。合流点にハクチョウたちが羽を休めているのを、ちらりと眺めて通り過ぎるだけだから、シジュウカラガンの飛来には気づかなかった。その一帯には結構、ガン・カモが来ているという。たまには双眼鏡でじっくりチェックしてみる必要がありそうだ。

2011年2月8日火曜日

野焼き


「フィット」のリコールが済んで帰宅する途中、夏井川の方からそばの国道6号へと白煙が流れこんでいた。節分・立春が過ぎれば、いわき市では堤防の「野焼き」が始まる。それに違いない。

寄り道して写真を撮ろう。堤防へ出た。消防団員が河川敷に火を放ち、見守っていた=写真。サイクリングロードの奥にはポンプ車が待機していた。

日曜日(2月6日)朝、ポンプ車がなにごとかアナウンスしながら家の前を通過していった。「野焼き」の予告だったのだろう。が、さっと行ってしまうので、私には何を言っているのかさっぱりわからなかった(せめて「石焼き芋」の車くらいにゆっくりしたスピードでアナウンスすべきだろう)。

さて――。写真は撮った。堤防は煙に覆われて見通しがきかない。市民ランナーが煙の中から現れた。煙の奥に人がいる、あるいは車が来るかもしれない。煙に包まれれば体もきな臭くなるだろう。ここはバックして、国道へ戻るに限る。

私の住む区の役員会では、「野焼き」の話は出ない。これは農家の多い隣の区が担当しているのだろう。河川敷の夏の草刈りもその区の役員さんらがやっている。もちろん行政から援助があってのことだろうが。

きのう(2月7日)は散歩をしなかったので、「野焼き」の跡を確かめることはできなかった。きょうは昼間、街へ行くついでにそれを見てみようと思う。

2011年2月7日月曜日

リコール


本田技研工業からダイレクトメールが届いた。「フィット」のヘッドライトが点灯しなくなるおそれがある、ついては部品を交換する――いわゆる「リコール」(無料修理)だ。わが家の近くのディーラーが指定されていた。

きのう(2月6日)の朝、そこへ行ってみてもらった=写真。①ロービーム端子のみ長い配線に交換し結束バンドで固定する②接続カプラーが溶損しているものは前照灯操作スイッチとカプラーを新品に交換する――①の方だった。20分程度で作業が終わった。

その間、事務所兼応接室で待機したが、そこに備えてある「フィット」のハイブリッド車をPRするリーフレットに心が動いた。前の日、1月の国内新車販売で「フィット」が「プリウス」を抜いて1位になった、という新聞記事を読んだばかりだったからだ。

会社を辞めるときに「パジェロ」を手放した。「ガソリン食い」もいいところで、「プリウス」に乗る知人からは「環境破壊車だね」と嫌味を言われていた。「フィット」にするか、「プリウス」にするか――信頼するディーラーに尋ねたら、一発で「フィット」と言われた。

で、低価格・低燃費の「フィット」に乗っている。これに、安いハイブリッド車(159万円)が加わった。「プリウス」を抜いて販売台数が1位になったのはそのため。「プリウス」には手が届かないが、「フィット」なら――その気持ちはわかる。

今の「フィット」を乗りつぶしたら、同じ車種のHVにしよう。どこへ行っても「フィット」だらけで気恥ずかしいのだが、「環境破壊度」が低い車はやはり魅力だ。「フィット」の宣伝になってしまったか。

2011年2月6日日曜日

子鉄


鉄道ファンは、興味の対象や性別、年齢などによっていろいろ細かく分類されるようだ。何年か前、磐越東線をSLが走ったことがある。もちろんイベントとしての運行だ。沿線に「撮り鉄」(鉄道撮影ファン)が殺到した。車内には「乗り鉄」(鉄道旅行ファン)がいっぱいいたことだろう。

音声や音響を録音するのは「音鉄」「録(と)り鉄」、切符などのコレクターは「蒐集鉄」、途中下車組は「降り鉄」、車中で酒を楽しむのは「呑み鉄」、時刻表収集は「時刻表鉄」、駅弁マニアは「駅弁鉄」なのだとか。近ごろは女性の鉄道ファン「鉄子」が増えた。そして、NHKの番組で知ったのが、電車好きの子ども「子鉄」だ。

とっさに、間もなく4歳になる孫の顔が思い浮かんだ。寝ても覚めても鉄道のことが頭から離れない。「スーパーひたち」=写真=が大好き、常磐線が大好き、踏切が大好き。いわき駅前再開発ビル「ラトブの」の4階、いわき総合図書館の児童ライブラリーにある鉄道模型が大好き。

たまに来て、ジイバアと遊ぶ。「図書館へ行きたい」「スーパーひたちを見たい」。では行こうか、となるが、たいがいは買い物が目当てだ。

帰りは、必ずいわき駅の東、夏井川の鉄橋と鎌田山下のトンネルを過ぎたところにある常磐線の「神谷村踏切」を渡る。そうせよ、というのだ。時間は夕方5時から6時のあいだ。孫は、常に遮断機が下りて電車が来るものと思い込んでいる。

今年に入って、そこを渡ったのは2回。最初は踏切がうんともすんとも言わないから、駄々をこねられた。2回目は踏切に近づいたら、ちょうど遮断機が下りたところだった。普通列車がいわき駅へと驀進していった。大喜びだった。

もう一人のジイジは国鉄・JRマンだった。その遺伝子が刷り込まれているのかもしれない、などと、満足げな「子鉄」を見て偶然に感謝した。

2011年2月5日土曜日

テレビがおかしくなった


わが家の液晶テレビがおかしくなった。数日前から、スイッチを入れると色のついた縦縞が現れる。それがオーロラのように激しく動く。音声はある。朝だけの現象だったのが、きのう(2月4日)は一日中そうだった。

嵐になったとき、BS放送の画面が乱れることはある=写真。それとは別だ。液晶だから寒い朝は(今年は厳冬だから)動きが鈍いのかと、おとといまでは思っていたが、どうもそうではない。液晶は室温の変動なんかは当然、計算に入れてつくられているはず。それを越えた異常さだ。

家電製品その他に詳しい若い仲間がたまたまゆうべ来て、「寿命かな」という。「えっ、ン十万もしたのに!」とカミサン。

なじみの家電商から新中古の液晶テレビを安く買った。そのあとだ。液晶テレビが安くなること、安くなること。今は同じサイズが「5万円か、3万円くらい」だと、若い仲間が言う。修理が可能か。可能だとしてどのくらいかかるのか。買い換える方がいいかもしれないですよ、という。

というわけで、一日、テレビを見ないで過ごした。きょうもそう。あしたもそう。テレビを直すにしろ、買うにしろ、テレビが見られる日までは、ニュースは新聞だけ――そういう日々が続く。

それで、あらためて思ったことがある。「地デジ」対応ができずに、7月になってテレビが見られなくなるお年寄りのことを。

何とかしないと、という区の役員の新年会でのやりとりを2月1日に書いた。今度、故障でテレビが見られない状態になって、これはやはりただごとではないと感じた。「アナログはだめ」と勝手に決めたのは国で、それは何のために、という詮索は、今はしない。

市役所と地元の区と共同で、お年寄り(ばかりではないかもしれないが)の家のテレビ調査をする。で、チューナーをつければOK,あるいは買い換えを――そこまでしなくてはならない状況にきているのではないか。

テレビメディアの若い女性アナウンサーが共同でPRしても、お年寄りにはメッセージが届かない。言葉としての「アナ」も「デジ」も風のように通り過ぎていく。区の役員になって、つまり地域の「当事者」になって初めてそれを知った。

既存メディアが地域の隅っこまで情報を届けられるほど地域は単純ではなくなった。ならば、地域に暮らす人間が、ブログでもいい、ツィッターでもいい、それを市民メディアとして補完するところにきているのではないか――そんなことを感じている。

2011年2月4日金曜日

タカハルチョウ


鹿児島県霧島市にある新燃岳(標高1,421メートル)の噴火が収まらない。真東のふもとには宮崎県高原町(たかはるちょう)が広がる。大陸から寒風が吹き寄せれば風下になる。火山灰や噴石が降り注いでもいる。火砕流の危険があるため、町は約500世帯1,100人に避難勧告を出した。鹿児島・宮崎両県で計350人を超える人たちが避難しているという。

新燃岳も、高原町も初めて知った。テレビで噴火のニュースに接するたびに、耳がそばだつ。「タカハルチョウ」。自分の名前をだれかが呼んでいる、そんな感覚に襲われる。沖縄の「ハエバル」(南風原町)がそうであるように、九州の方では「原」を「ハル」「バル」と発音する。

高原町とはどんな町か。役場のHPをのぞいた。「たかはるニュース」のコーナーに噴煙を上げる新燃岳の写真が載っている。2月3日時点での噴火ドキュメント写真も見られる。

HPやウィキペディアの受け売りだが、町は宮崎県の西南部、国立公園霧島山を境に鹿児島県と接する静かな山あいに位置している。「天孫降臨」の神話のふるさととかで、人口は1万人弱。畜産を主にした農業が基幹産業だ。面積は85平方キロメートル。

いわき市を貫流する夏井川の上流、田村郡小野町は面積125平方キロメートル、人口1万2,000人弱。小野町から類推すれば、意外と人口が多い。豊かなのだろう。

いわき市は西に阿武隈高地が広がる。今年は寒気がきついために、時折、雪雲が山を越えてやって来る=写真。「吹っかけ雪」を眺めながら、「タカハルチョウ」を襲う火山灰はこんなものではないだろう――そんな思いがふくらむ。

2011年2月3日木曜日

滝の氷


夏井川溪谷の森は、左岸と右岸とでは全く様相が異なる。南向き(左岸)の斜面には「早春」の陽光が降り注いでいる。北向き(右岸)の斜面は「真冬」のままだ。雪が残っている。雪上に刻された生きものの足跡については、きのう(2月2日)書いた。

雪だけではない。滝が凍っている。北向きの森の中にある「木守(きもり)の滝」は、全面凍結とまではいかないが、かなり氷が成長してきた=写真。向かって左側はそれほどでもないが、右側は氷柱が重なり、つながり、肥大して、上から下までびっしり“よろい”を着たようだ。

極寒期(今だが)には、この滝の氷をかち割って持ち帰る。夏の行事に6月30日の「氷室開き」がある。それまで冷蔵庫に保管しておくのだ。およそ5カ月後。暑さがつのるころに焼酎、ウイスキーどちらでもいいが、オンザロックにして目の前の渓谷の自然に感謝する。

雪上の足跡探検をした帰りに、「木守の滝」と向き合った。アノラックにはアイスピックとポリ袋を二つしのばせてある。一番下の氷柱をかち割り、袋に詰めた。家庭の冷蔵庫だから、冷凍室は小さい。そんなに必要はない。

無量庵の冷蔵庫に二袋の氷を詰め込むのは無理だから、一袋はわが家に持ち帰り、だれか来たときにふるまうことにした。落ち葉入りの氷はちょっとないだろう。

2011年2月2日水曜日

雪上の足跡


夏井川渓谷の無量庵へ行く。洗面所の水道管が凍結・破損したため、「週末泊」は寒さが峠を越すまでおあずけだ。室温、氷点下5度。外気温は? 雨だれを受けるバケツの氷がずいぶん厚くなっている。

その溪谷に身を置く。生ごみを畑に埋める。そうして「平地のいわき」とは違う「山里のいわき」を体感する――「いわきとは何か」をライフワークにしている身としては、定点観測が欠かせない。

無量庵の畑は一部、雪をかぶっていた。タヌキか何かの足跡があちこちにある。無量庵の下の空き地にも雪が残る。北向きの森は、小道が雪で埋まっていた。冬の楽しみは雪上の足跡探検。さっそく歩き回る。

前脚の跡がそろって長く後ろが小さいのはノウサギ=写真。丸みを帯びて爪の跡があるのはタヌキ。丸いだけなのはイノシシか。リスの足跡はない。ヤマドリの足跡もなかった。

森の途中に沢へ下る坂道がある。滑りそうだ。引き返す。人間の歩く小道は「けものみち」。それを確かめただけで十分だ。

2011年2月1日火曜日

「地デジ」問題


平・中神谷南区。これが私の住むまち(行政区)だ。区の役員が参加して日曜日(1月30日)午後1時から、近所の飲食店で新年会が開かれた。新米役員である。昼間のアルコールにとまどいながらも、カモ鍋や刺し身、てんぷらなどに舌鼓を打った。

今年は前半、「地デジ」問題がピークを迎える。区の中に7月、パタッとテレビが見られなくなるお年寄りが出てきやしないか――そんな話になった。

80歳を過ぎた初代区長が「アナログだとか、デジタルだとかいう言葉は、年寄りにはわからない」という。大相撲が始まるとテレビ桟敷に陣取る。いわき市内に住む娘さんや隣県に住む娘さんが定期的にやって来るようだから、たぶんテレビのチェックはしているだろが、そうではないひとり暮らしのお年寄りは……。

テレビは盛んに「地デジ」切り替えをアナウンスする。が、初代区長と同じように「デジ」だの「アナ」だの、何のことやらわからずにいるお年寄りがいるのではないか。未対応であれば、突然、楽しみが奪われるという事態になりかねない。

わが家の液晶テレビが早朝、ときどきおかしくなる。スイッチを入れると縦縞画面=写真=になる。黒いだけの「薄型ラジオ」になることもある。アナログテレビは、これが砂嵐に変わる。

民生委員と協力して、それとなくお年寄りの家のテレビをチェックしましょう――という空気が生まれた。今年の大きな区の課題でもある。