2016年1月31日日曜日

柿の実が消えた

 1月10日に見たときには、まだいっぱい柿の実が残っていた。夏井川渓谷の広場にある柿の木だ。昔は水力発電所の社宅があった。発電所が無人化され、社宅も解体されて広場になった。その広場の南端に枝を広げている。
 平地で見かける柿の実よりは小さい。毎年(いや、そうかどうかは気にも留めていなかったので自信がないが)たくさん実をつける。まだまだ元気がいい。

 人間は柿の実の写真を撮るだけ。たまたま離れたところから望遠で柿の実を撮影していたら、エナガの群れが現れた。ちょこまかと動き回って柿の実をつついていた。県道沿いのソメイヨシノの木のまたに、なぜか柿の実が置いてあった。そんなことをするのはカラスにちがいない。

 冬も柿の実は残った――そう思っていたのだが。ほぼ3週間後に見ると、朱色の点々が消えていた=写真。みごとに黒ずんだ柿の皮しか残っていない。ソメイヨシノの木のまたの柿もなくなっていた。

 エナガがつつくのは目撃してわかった。ほかにもヒヨドリがいる。エナガ以外のカラ類もいる。ジョウビタキやツグミもいる。厳寒期に入って、いよいよエサが少なくなったのだろう。あっという間に食べつくされた。

 師走にカエデの紅葉が散って、渓谷の落葉樹は深い眠りに入った。常緑針葉樹のモミやアカマツ、山頂部のキタゴヨウなどのほかは、わが隠居の隣の柿の実だけが暖色を散りばめていた。それも消えて、渓谷はとうとう冬枯れた風景になった。

 柿の実もまた、ほかの落葉樹ととともに秋から冬にかけて渓谷の風景を彩る“細胞“の一部にはちがいない。その細胞は毎年更新される。V字谷のスカイラインも、10年前、20年前に比べたらずいぶん変わった。松の立ち枯れが目立つ。東日本大震災では至る所で岩盤が剥離した。そのあとも冬ははっきりわかる。

 暴風雨に見舞われた1月18日。県道小野四倉線で土砂崩れが発生し、いわき市小川町塩田字平石地内から田村郡小野町夏井地内まで、渓谷を中心に42キロ区間が全面通行止めになった。土砂崩れ現場は渓谷でもロックシェッドがあるあたりと思っていたら、違っていた。

 下流側から見ると、平野からV字谷に入ったばかりの小川・高崎地内のガケだった。コンクリート吹き付けをした上からワイヤネットを張っている。そのモルタルが土砂とともに一部剥落した。現場は片側通行になっている。

 岩盤そのものも風化してもろくなっているところがある。渓谷では、小さな落石はしょっちゅうだ。渓谷を構成する“細胞”は、草木、動物も含めて絶えず更新・交代・入れ替えが行われている。渓谷もまた生きている。

2016年1月30日土曜日

しぶき氷が少々

 きょう(1月30日)は起きると、外は銀世界。いわきの平地では久しぶりの「大雪」だ。交通渋滞と追突事故の多発が予想される(除雪車はもう出動しているのではないか)。夏井川渓谷の隠居へ出かけるのは、きのうかきょうしかないということで、きのう行って正解だった。そのときの様子――。
 隠居に着いたとたん、庭のカエデにどこからか鳥の群れがやって来た。運転席から見た限りではエナガより大きい。シメかもしれない、と思ったが、ずんぐりしたくちばしまでは確認できなかった。望遠でパチリとやったものの、拡大するとボケ・ブレがひどい。私が車を降りると鳥たちはあわてて飛び去った。

 すぐ台所と洗面所をチェックする。水道管からヒューヒュー水が噴いているようなことはなかった。厳寒期だが、水抜きをしていれば凍結・破損の心配はない(それを怠ったために、これまで何度、床が水浸しになったことか)。

 朝のうちに雨になった。その雨が、いわきの平地では昼過ぎ、雪に変わった。ちょうど渓谷から街へ下り、用をすませて帰宅するころだった。山間部の三和町ではしかし、朝から雪だったようだ。

 隠居に着いたのは9時半過ぎ。小雨だったので、フード付きのコートを着て、庭に生ごみを埋めた。水道管は大丈夫、生ごみも埋めた――となれば、あとは傘をさして森を巡るだけだ。

 隠居の対岸にある「木守の滝」は、ほんの少し「しぶき氷」ができていた=写真。なにか大きな人間が使う野球グローブの中指と人差し指といった感じだ。そばの立ち枯れ大木は、よく見たらキツツキのつついた跡が上にも下にもある。ずいぶん前からキツツキのレストランになっていたようだ。
 
 道々、葉痕ウオッチングもした。が、葉痕は大きくて1センチほど、小さいのは1ミリ、2ミリ。隠居に置いてある、ひも付きの3枚ルーペを忘れた。花眼(老眼)ではさっぱりかたちがわからない。
 
 にしても、3週間近く足が遠のいていると、「渓谷の細胞は変わる」といった思いになる。それについては、あした。

2016年1月29日金曜日

葉痕を探しに

 この週末も予定が入っている。行政の回覧資料も仕分けして区の役員さんに届けないといけない。夏井川渓谷の隠居へは1月10日(連休のまんなか)以来、20日近く行っていない。
 18日は暴風雨の影響で渓谷のガケの一部が崩れ、翌19日午後5時まで通行止めになった。
 
 わが家の生ごみがバケツにいっぱいになった。それを、隠居の菜園に埋める。ついでに、土砂崩れがおきた場所を、隠居の対岸にある「木守の滝」の凍り具合を、立ち枯れ大木のキツツキのつつき跡を確かめる――朝食後に出かけて、昼には戻る。午後3時には近くの公民館で使用者団体の代表者会議がある。
 
 木々の葉痕もウオッチングしよう。一番好きな葉痕はオニグルミ=写真。「モヒカン刈りの面長プロレスラー」であり、「目覚めたばかりのヒツジ」でもある。冬の楽しみ方のひとつだ。フジは困って眉を寄せた肥満顔、アジサイは長い頭巾をかぶった三角顔、クズはパンダ顔――葉痕は樹種によって異なり、同じ木でも一つひとつ異なる。
 
 気になるのは天気だ。浜通りの予報は「雪か雨」。午前50%、午後70%、夜80%と降水確率は高い。
 
 実は、というべきか。葉痕ウオッチングなどは口実で、ほんとうは隠居の水道管が気になっているのだ。台所の温水器は水を抜いている(はず)。洗面所も栓を締めてある(はず)。凍結・破損はしていないだろうと思いつつも、この目で確かめないことには安心できない。
 
 漏水していたらモーターの電源を止め、「水道のホームドクター」である同級生に連絡する。それから傘をさして森の中を歩く。

2016年1月28日木曜日

墓も避難

 双葉郡内から現住地に墓を移す避難者が増えている、という1月26日付の読売福島版の記事=写真=を読んで、原発事故のむごさをあらためて思った。「震災5年」の企画である。元記者としては、暮らしの中から掘り起こして「ニュース」にする、こういう記事に引かれる。
「原則立ち入り禁止の帰還困難区域にあった墓」をいわき市に移した人の話を軸に、震災後のデータを踏まえて記事を構成している。

 その人が建てた新しい墓には「震災前に他界した母と妻、原発事故後に避難先の病院で亡くなった父」が眠る。元の墓には代々の先祖も眠っていたのだろう。「先祖には申し訳ないが、仕方ない」と決断した。同じ団塊の世代の人間として、その人の葛藤がよくわかる。いや、家や土地以上に「死者=墓」が葛藤を生んだ。
 
 私の実家の墓は田村市常葉町にある。「1F」からは30キロ以上離れている。それより東、同市都路町の母の実家の墓は25キロ余。たまたま避難指示区域外だから、墓を何とかしなくては、といったようなことにはならずにすんだ。
 
 でも、もしその地域まで強制避難の対象になっていたら、墓は、いや死者は――と考えたことがある。記憶にある祖父母や父母の墓は移転しても、記憶にない先祖の墓は、申し訳ないがそのままにしておく。なぜって、祖父母や父母は今でも胸中に生きているからだ。「生きている死者」を置き去りにはできない。

 記事はまた、寺自体も近隣の町に仮寺務所と墓をつくる計画があること、住民の帰還に向けて双葉郡内の自治体が地元にそれぞれ共同墓地を建設する動きがあることも伝える。

 いわきに根をはやした今は、ふるさとへ帰るのは、第一には父母の墓参りが目的だ。ふるさとはそういう地に変わった。双葉郡内には逆に、墓を避難先に移さざるを得なくなった人がいる。つらいことだ。(おっと、そうだった。寺へ自分の墓地の管理料を納めに行かないと。いつも忘れて滞納してしまう)

2016年1月27日水曜日

天知る地知る

 先日、いわき市小名浜大原の徳蔵院で「初観音」が開かれた=写真。寺の前方を流れるのは、たしか矢田川。すると、寺の山の陰(北東方向)は鹿島町御代か。寺のあるところは岸前。「山岸の前」でもあり、「川岸の前」でもある。
 そのとき、ふと70年近く前の幻像が立ち上がった。矢田川の堤防を、乳飲み子を背負った若い女性が足早に歩いている。背中の子は母親が歩を進めるたびに上下に揺すられる。それほど母親の足は速い――。

 矢田川は小名浜南富岡で藤原川に合流する。合流部に二ツ橋が架かる。その近くに1年先輩の友人の家がある。20歳前後のころから、友人宅へ行き、飲んでは泊まり、飲んでは泊まりを繰り返した。母上には頭が上がらない。

 その母上が亡くなり、師走に葬式が行われた。大正9(1920)年生まれの95歳だった。

 母上は鹿島町御代で産湯につかり、のちに小名浜南富岡の家に嫁いだ。ときどき二ツ橋を渡り、矢田川の堤防を歩いて、右手に見える小高い山陰の実家へ帰った。歩き方は駆けるように速かった、と75歳の弟、つまり友人の叔父もいう。その距離はざっと5キロ前後か。

 納骨後の精進あげで、競歩選手のように歩き方が速かった話だけでなく、「天知る地知る」という母上の口癖が話題になった。子どもはときになまけたり、ズルをしたりする。それを隠そうともする。と、すぐ「天知る地知る」という言葉が飛んできた。だれも見ていない、だれにもバレないと思ったら大間違いだ。天が知っている、地が知っている。

 母上の父親は旧鹿島村長で考古・歴史研究家として知られた八代義定(1889~1956年)だ。大正時代、牧師として磐城平に赴任した詩人山村暮鳥の理解者・協力者でもあった。「天知る地知る」はその父親から授かった人生訓だろう。

「天知る地知る」には続きがある。「我知る人知る」。世の中には不正や差別やごまかしがはびこっている。個人や企業、政治家まで、枚挙にいとまがない。見つからなければいい、バレなければいい――ではない。天が知っている。地が知っている。自分が知っている。人が知っている。金銭贈与を拒んだ古代中国の官僚の清廉さに由来する。

 人としての道を踏み外すな――地域の片隅に生きた一人の母親の、人間の矜持(きょうじ)のようなものが、この世の中を支えている。母上の方が拝金政治家や企業経営者よりよっぽど偉い。

2016年1月26日火曜日

浪江の特養が川向かいに

 社会福祉施設で働くことになった若い仲間が、正月に遊びに来た。いわき市錦町に双葉の特別養護老人ホームができるという。わが家から車で5分ほどの川向かい、平荒田目(あっため)には浪江の同ホーム「オンフール双葉」が引っ越してくるともいう。
「JAの施設か何かだと思ってたが、『オンフール双葉』なんだ!」。沿岸部の豊間や小名浜へ行くのに、ときどきその前の県道を利用する。夏井川に架かる六十枚橋を渡った先の交差点にJAの施設がある。その隣でなにかを建設していた。「オンフール双葉」と聞いて、なぜかホッとした。

 というのは――。2011年3月12日、「1F(いちえふ)」の1号機の建屋が、次いで14日に3号機の建屋が水素爆発をした。15日午後、孫や姪を含めて3家族で西へ避難した。真夜中に着いたところは白河市の奥、標高1000メートルほどの西郷村「国立那須甲子青少年自然の家」だった。そこに、「オンフール双葉」の入所者と職員の一部も避難してきた。

「オンフール双葉」の苦難は、あとで新聞で知った。あのとき、200人の入所者と職員が取り残された。福島県警の特別機動パトロール隊がバスで20キロ圏外に搬送したという。うち30人余が西郷村の「自然の家」にたどり着いたのだった。

「自然の家」には、ピーク時には700人の避難者がいたのではないか。食堂でいわきの知人に会い、後輩に会った。ふるさとの田村市常葉町の知人にも会った。

 そこで見たことのある人と、今も自宅の近くですれ違う。近所に住んでいながら知らなかったか、あるいはその後、近所に住むようになったか、そこはよくわからない。会えば、あいさつをする。向こうはなぜあいさつされるのか、たぶんわかっていない。それでもかまわない。私にとっては短い期間でも同じ屋根の下で過ごした“避難仲間”だったのだから。

「オンフール双葉」の入所者は、広いスペースの床に何人も寝かされていた。ベッドがあるわけではないから、そうするしかなかったのだろう。暖房は行き届いていた。「自然の家」スタッフの献身には感謝している。

 5年近くたつ今も、思い出すとゾッとすることがある。15日夜は山に入ると霧になった。翌朝は雪だった=写真。「ノーマルタイヤで来るのはアブノーマルですかね」。何日か後、施設のスタッフに軽口をたたいたら、真顔でうなずかれた。

「オンフール双葉」の避難行は、広島の市民団体「ボランデポひろしま」が展開する<東北まち物語紙芝居化100本プロジェクト>の中で紙芝居になった。師走にテレビでその活動が紹介されたときに知った。このプロジェクトにはいわき地域学會も関係している。仲間が何編かシナリオを書いた。
 
 川向かいにやって来る「オンフール双葉」は、私の中では同じ“避難仲間”だ。浪江町の広報「なみえ」2015年2月号によると、同施設は応急仮設で、今年(2016年)3月末には完成し、4月以降に開所する。ひとまず 落ち着く先が決まってよかった。

2016年1月25日月曜日

冬の刺し身

 先週の日曜日(1月17日)はイワシとヤリイカの刺し身だった=写真。きのうの日曜日(1月24日)はイワシとタコの刺し身にした。
 日曜日の夜は刺し身と決めている。カミサンも「家事から解放されるのでいい」というので、もう30年以上そうしている。いつもの魚屋さんに「マイ皿」を持っていく。この30年の間に魚屋さんはおやじさんから息子さんへと代替わりした。

 春から秋まではカツオの刺し身一本やりだ。秋にはサンマも加わるが、冬も生のカツオがあればそれにする。残念ながら、冬は生のカツオが入らない。で、自然と魚屋さんへは足が遠くなる。スーパーには解凍カツオの刺し身が並ぶ。一度買って食べたが、食欲を満たすものではなかった。
 
 2年前の春にはこんなことも。九州から空輸されてきた大型カツオがある。「きのう(土曜日)は胸を張って売れたのに、きょう見ると悪くなってたんです。新鮮だから生臭くはないし、食べられるんですが……」。私にとってはその年の「初ガツオ」だ。刺し身にしてもらったら、「カネはもらえません」という。理由がわかった。身がぼそぼそしていた。売り物にしたら信用を落とす。

 冬には冬の刺し身がある、と知ったのは震災後だ。ヒラメ、ホウボウ、皮をあぶったサワラ、タコ、イカ、タイ、メバチマグロ、天然ブリ。天然ブリもホウボウも甘い。ホウボウのあら汁は上品だ。というわけで、震災後はかえって1年をとおして通うようになった。
 
 師走に近所のスナックで飲み会があった。解凍カツオの刺し身が出てきたので、しばらく置いてから食べたが、やはりしっくりこなかった。カツオは生に限る。

 カツオに比べるまでもなく、イワシは小魚だ。カツオと同じ量(普通の大きさで一筋=4分の1)をさばくとなると、何匹必要か。前に「イワシの刺し身は常連さん用」と聞いたことがある。手間暇がかかるから、採算を考えたらやっていられない。このへんは30年余のつきあいのありがたさだ。

2016年1月24日日曜日

キツツキ

 前にも書いたが、半月前、夏井川渓谷の「木守の滝」がどのくらい凍っているか、見に行った。まったく凍っていなかった。滝の前に立ち枯れた大木がある。ひとめぐりしたら、根元近くにキツツキのつついた跡があった=写真。
 この木は何年か前、幹の上部が折れた。根元に横たわっている。倒木からサルノコシカケの仲間が生えてきた。立ち枯れのままの幹にも同じ腐朽菌が発生している。キツツキがつついたのは最近のようだ。穴も根元に散らばるおがくずも新しい。穴の大きさからすると、コゲラではなくアカゲラだろう。
 
 肝心の木の名前がわからない。20年以上、渓谷へ通っているが、鮮やかな花をつけるアカヤシオ(方言名イワツツジ)やシロヤシオ(同マツハダドウダン)、トウゴクミツバツツジなどのほかは、樹木図鑑を開いても「ウーン」となってしまう。樹種によっては幼木と成木では姿かたちが違う。
 
 きょう(1月24日)は日曜日。新聞を取りに玄関の戸を開けたら、車の屋根に雪がうっすら積もっていた。スタッドレスタイヤを履いているので、渓谷へ出かけてもいいのだが。滝の凍り具合と、キツツキのつついた跡が増えたかどうかも気になるのだが……。浜通りの天気予報は「晴れとときどき曇り、所により夕方まで雪」だという。
 
 なにかあって戻る時間がずれこむと、午後2時から生涯学習プラザで開かれる作家不破俊輔さん(北海道)の講演「天田愚庵とその時代」を聴くことができなくなる。午前中は家にいて、キツツキになったつもりで雑誌の校正に精を出そう。

2016年1月23日土曜日

初観音

 いわき市小名浜大原の徳蔵院では、1月15日前後の日曜日に「初観音」が催される。「かんのん市」も同時に開かれる。住職の奥さんとカミサンが国際交流のイベントで知り合って以来、毎年、カミサンが「シャプラニール=市民による海外協力の会」のフェアトレード商品を展示・販売する。今年(2016年)も17日、荷物と一緒にカミサンを送迎した。
 去年は同じ平・神谷に住む知人夫妻が「かんのん市」に参加した。今年も奥さんが友達と参加した。去年同様、白菜などを並べていたので、帰りに2玉を買った。
 
 去年は駐車場で本を読みながら「かんのん市」の終わりを待ったら、寝入ってしまった。今年は平消防署主催のいわき駅前防災大作戦に顔を出さないといけなかったので、そちらへ行ってすぐ戻った。境内にあるマンサクの若木が花をつけていた。去年もそうだった。それだけではない。去年は気づかなかったロウバイの花も満開だ=写真。

「かんのん市」終了まで少し時間があったので、本堂のわきから墓地へと裏山沿いに歩いてヤブツバキの花を眺めながら、頭上にある花を接写した。こういうときには、デジカメがいいおもちゃになる。

 初観音・かんのん市・知人・白菜・花の撮影……。去年と全く同じ光景に出合い、全く同じことをする。それは「無事」であることの証しでもあるだろう。
 
 どうにかこうにか生きて新しい年を迎えることができた。「小事」はだれにでもある。が、こうしてまた去年と同じ人と会い、同じことをしている。いや、していられるのは喜ばしいことではないかと思うのだった。
                 *
 けさは目が覚めたら8時。田町から帰ったのは何時だったか。きのう、ブログに書いた津波生還者を含めて4人で2次会、2人で3次会をやったら、時間はどうでもよくなった。「風邪をひいて寝てるのに」と、怒る人がそばにいる。今年の「初般若」だ。

2016年1月22日金曜日

「何を残すか」

 このごろ、津波被災者の話すことばが重い。刑務所の塀のように高い海岸堤防と、丘のように土盛りされた防災緑地――。大津波では住むまちが破壊され、防災工事ではまちのかたちと思い出が破壊された、ということだろう。海の見えない不安が影響している。
 ハマの隣接地域に住む映像作家戸部健一さん(平下高久)が、震災前からいわき民報に「ファインダーがくもるとき」を連載している。今はタイトルに「続」が付く。

 おととい(1月20日)の文章=写真。震災当時、老母はハマ(豊間)の歯科医院に通院していた。送迎は戸部さんが担当した。たまたま津波の犠牲者にならずにすんだ、と書いている。読み終えて思い浮かんだことが二つある。

 一つは、「時間指定」の配達で同じ地域で大津波に襲われた知人がいたこと。「その家の屋根になんとかはい上がったが、周りは水、ずぶぬれになって死を覚悟した」。そう問わず語りに明かしたのは去年(2015年)の晩秋だった。これまで自分の体験を他人に話すことができなかったという。死を覚悟するほどの恐怖と絶望を言語化するには4年以上の時間が必要だった。

 もう一つは、街の本屋さんが持ってきた「農文協通信」2016年春号の記事。哲学者内山節さんの講演要旨などが載っている。

 内山さんへと連想が及んだ戸部さんの文章。「災害による『新しい風景』は私たちには馴染めないものだった。/いま、『ハマの街』は、すっかりその様相を変えてしまっていた。/人住まぬ巨大なコンクリートの壁に取り囲まれて、『街』は、そして『文化』は、どうなってしまうのだろう」。津波被災者の思いを代弁している。

文章を戸部さんはこう締めくくった。「私たちは、目先の施策や政策にまどわされることなく、百年先、いや千年、二千年先を見据えた、壮大なプランを樹(う?)ち立てることが、大切なのではないだろうか」

「農文協通信」の記事によれば、内山さんは「行政は何でも5年計画。目先の利益を追うから理念が生まれない。5年から100年に時間軸を延長すれば、“何をつくるか”から、“何を残すか”という計画にかわる」と、新聞に書いた。戸部さんの文章は、この「何を残すか」と響きあう。

 3・11から5年がたとうとしている今、急ピッチで「創造」中のハマにどんな100年後を思い描けるだろう。少なくとも「鳴き砂は残す」といったような配慮、想像力がはたらいているようにはみえない。

2016年1月21日木曜日

「一歩一報」展

「一歩一報 ともに歩んだNPO これまでとこれからのコト」展(3・11被災者を支援するいわき連絡協議会主催)が、2月1日から11日まで鹿島ショッピングセンター「エブリア」で開かれる=写真(チラシ)。
 東日本大震災直後からいわき市で津波被災者・原発避難者の支援活動を続けているNPOが、のちに連絡協議会をつくった。うち、交流スペース・サロンを運営している団体が、共同で情報紙「一歩一報」(月1回発行)を創刊したのが平成25(2013)年6月。以来2年半、昨年(2015年)12月、31号を持って発行を終えた。
 
 シャプラニール=市民による海外協力の会(交流スペース「ぶらっと」)、ザ・ピープル(小名浜地区交流サロン)、勿来まちづくりサポートセンター(なこそ交流スペース)、いわき自立生活センター(パオ広場)、そして連絡協議会が「一歩一報」に記事を寄せた。

 チラシにこうある(要約)――。この情報紙の歴史はいわき市の復興の歴史でもある。各NPO団体の情報のほかに特集ページを組み、市内で開催されるイベントや行政の情報も載せた。垣根を越え、手を取り合ってきた「一歩一報」の歴史を見ることで、いわき市やNPO法人の復興への取り組みが一望できる。

 最終号によれば、「パオ広場」は師走で閉所し、「ぶらっと」は3月12日に役目を終える。「小名浜地区交流サロン」はすでに「ピープル活動広場」に衣替えし、「なこそ交流スペース」も「岩間サロン」に変わる。

 昔からシャプラとつながりがあったので、震災の年の秋に「ぶらっと」がオープンし、情報紙「ぶらっと通信」の発行が決まると編集・校正の手伝いをした。流れで「一歩一報」の校正も。
 
 その意味では、「一歩一報」だけがいわきの復興の歴史を伝える情報紙ではない。それぞれのNPOに単独で発行していた情報紙がある。その「前史」があるからこそ「一歩一報」が生まれた。それらも参考資料としてそろえることで初めて、5年間を俯瞰できる展示になるのではないか。届いたチラシを見ながら、そんなことを思った。

2016年1月20日水曜日

「鳥」が見た隠居

 グーグルアースのおかげで簡単に「鳥」になれるようになった。空から見ると、夏井川渓谷にあるわが隠居は、庭がやけに白っぽい=写真。
 いわき市が業者に委託して放射線量を測ったら、全面除染の対象になった。 2013年の師走、隠居の庭の表土が5センチほどはぎとられ、山砂が投入された。今はスギナやスイセン、キノコのツチグリ(幼菌)などが復活したが、砂浜と変わらない。それが天空からはっきり見える。

 福島県内の中・浜通りで田畑や家の庭が異常に白っぽかったら、除染後に山砂が投入されたところ、とみていいのではないか。仮置き場に保管されているフレコンバッグも天空から見える。いわき市川前町では青色、双葉郡の楢葉町などでは黒色。そこに置かれたままだから、劣化も進んでいることだろう

 ふだんは虫の目で暮らしている。が、ときどきはこうやって、グーグルアースで自分の存在している場所を確かめる。アラシのときなどは、なおさら地理的位置を確認するために「鳥」になる。

 おととい(1月18日)、急速に発達した低気圧の影響で、いわきのハマ・マチは暴風雨、ヤマは雪に見舞われた。夏井川流域では県道小野四倉線が「土砂崩れ」のために、いわき市小川町塩田字平石地内から田村郡小野町夏井地内まで42キロ区間が全面通行止めになった(翌19日午後5時には復旧したらしい)。渓谷がすっぽり入る。

 夏井川渓谷で落石や土砂崩れが発生する場所はだいたい決まっている。ロックシェッドがあるあたりだ。崖は垂直に近い。今回もその近辺で小規模な「崩れ」がおきたのではないか――。今朝の福島民報に現場写真が載っていた。コンクリート吹き付けをしたあとにワイヤネットを張ったところといえば、やはりロックシェッドの上流側だ。

 東日本大震災のときも、これまでの暴風雨のときも、そのへんで土砂崩れがおきた。渓谷の住民はどこが崩れそうか、ふだんから観察しているので、そんなに驚かない。今回も脇道を利用して普通に職場へ出かけたことだろう。同じ小川町でも夏井川渓谷の山の陰、双葉郡川内村へと抜ける国道399号は標高が高いこともあって、除雪作業のために通行止めになった。

いわきは広い。しかし、「いちえふ」からは近い。グーグルアースを開くたびに、阿武隈高地の上空で私は「猛禽」になる。

2016年1月19日火曜日

ロードキル

 野生動物の交通事故死はタヌキが最も多い。全体の40%に及ぶらしい。高槻成紀著『タヌキ学入門』(誠文堂新光社、2016年)=写真=で知った。輪禍に遭うタヌキは高速道路だけで年間1万匹、一般道を含めると11万~34万匹と推定されている。
 英語で「ロードキル」(道路での殺し)というそうだ。なぜタヌキの交通事故死が多いのか――を含めて、生態的な基礎知識を知りたくて、いわき総合図書館の新刊書コーナーにあった『タヌキ学入門』を借りて読んだ。

 タヌキは環境の変化に応じて食べ物を変える適応力を備えている。そのうえ繁殖力が高い。あれだけロードキルに遭っても、集団の数が今のところ保たれているのは、ひとつにはこの繁殖力の高さだろうという。

 にしても、タヌキは車に対して無防備すぎないか。「タヌキは自動車が何であるかをわからないのではないかと思われる。(略)ヘッドライトそのものを何かの生き物と認識するのかもしれない。(略)秋になると子ダヌキの犠牲が増える」

 これまで目撃したロードキルは、市街地では犬、猫、ハクビシン。猫が圧倒的に多い。郊外では(夏井川渓谷へ行くまでの間も含めると)、タヌキ、テン、ヤマカガシ、スズメ、コジュケイ、ツバメ、フクロウ、ムクドリ、ノウサギ。

 おととい(1月17日)、目の前で猫のロードキルを目撃した。車列の間に歩道から猫がとびこんできたらしい。運転手はブレーキをかけるでもなく、ハンドルを切るでもなく、そのまま通過して行った。あとに猫が横たわり、ひくひくけいれんしたかと思ったら、すぐ静かになった。

 通過すれば通過できたが……。後続車両にひかれる。車を止めてハザードランプを点滅し、すぐ後ろの車に手を挙げて合図したあと、猫を歩道に移した。せめて外見がきれいなまま昇天していけよ――。

 タヌキは路上をのろのろ歩いて、逃げきれずにはねられる。猫は直前横断をしてひかれる。どちらにしても、ドライバーは直前でしか発見できない。猫の場合は、ドライバーははねたこと自体、気づかないのではないか。

 忘れていた。もう3年余り前になる。当時のブログによると、小雨が降って薄暗くなった夕方、小1の男児が道路を渡ろうとして車にはねられた。その直後にたまたま車で現場を通った。縁石のそばの車道に男児が横たわり、かたわらで若い男性がケータイを耳に当ててかがんでいた。男児は事故から約20時間後に亡くなった。

 肉親が、友人・知人が、地域の住民が、ある日突然、この世から拉致(らち)されるように逝ってしまう。交通事故で死んではいけない。ましてや安全なはずのスキーバスツアーが突然、暗転する。あれはバス会社によるロードキルではないのか――そんな疑念がぬぐえない。

2016年1月18日月曜日

防災大作戦2016

「大地動乱の時代」(石橋克彦)だ。大きな時間の流れを「本」にたとえるなら、21年前(1995年1月17日午前5時46分52秒)の阪神・淡路大震災のページの次に、5年前(2011年3月11日午後2時46分18秒)の東日本大震災が記され、さらに次のページにはやがてくる大震災が書き込まれている(今はまだ、場所と被害規模があぶりだされていないだけだ)
「防災とボランティア週間」(1月15~21日)に入った。阪神・淡路大震災がおきた1月17日(きのう)は「防災とボランティアの日」。平消防署はきのう、いわき駅前タクシープール広場で「防災大作戦2016」を実施した。

 管内の自主防災会にイベント案内の手紙がきた。行政区の役員がそのまま自主防災会の役員をしている。区長は会長。役員に諮った結果、代表してひとり出かけた。

 案内状には「自主防災会員の受付の協力を」とあった。近隣の会長(つまり区長)も「受付の手伝いをしないといけない」と思って参加した。「受付の協力」とはしかし、自主防災会から何人参加したか、その申告をすることにすぎなかった。人間の「誤読する力」を計算したうえでの文章か、単に不正確な表現か、ひととき会長仲間で盛り上がった。

 広場には消防車や起震車が並び、テントが張られた。親子型イベントと銘打っているだけに、①火を消せ!水消火器的当て体験=写真②瓦礫(がれき)の下から助け出せ!ジャッキアップ体験――など、10のコーナーが用意された。

 起震車は「揺れる部屋で身を守れ!巨大地震」のための“舞台”だろう。私らは実地に体験しているから起震車に乗るつもりはない。一方で、東日本大震災から5年もたっているのだから3・11を知らない子どももいる――「次のページ」の備えが必要なわけだ。

 ついでながら、21年前の大災害は、地震名「兵庫県南部地震」、震災名「阪神・淡路大震災」だ。NHKは「阪神・淡路大震災」だが、新聞は地元の神戸新聞を除いて「阪神大震災」と表記する。なぜ「淡路」を省略するのか、理由を知らない人間は、メディアの「本社」と「現場」の距離が呼称に反映しているのではないかと邪推する。要は東京中心主義。

 それはともかく、大災害発生直後には、「公助」はあてにならない。「自助」「共助」が重要と喧伝されてきた。福祉の面では地域包括ケアシステムがいわれ、「自助」と「共助」の間に「互助」が加わった。どんどん隣組や行政区、地域社会の仕事が増えていく。

2016年1月17日日曜日

柿の実とエナガ

 夏井川渓谷には、フォトコンテストで入選したり、写真雑誌に載ったりする特定の被写体がある。白く泡立つ渓流を背景にしたカエデの紅葉。葉を落とした柿の木の実。「この木」と「あの木」が、わが隠居(無量庵)をはさんですぐのところにある。
 今はカエデの紅葉も散って、渓谷の落葉樹は冬の眠りに入った。常緑針葉樹のモミやアカマツ、山頂部のキタゴヨウなどのほかは、隠居の隣の柿の実だけが唯一、鮮やかな朱色を点描している。入選写真の構図をまねて、ときに下から、横から、遠くから、柿の実にカメラを向ける。天気や時間を考えないから、まともな写真は撮れない。

 柿の木がそこにある不思議を思う。広場は水力発電所の社宅跡だ。ある日、発電所の職員がなにかの記念に植えた柿の苗木が大きくなったものか。柿の実は、平地のそれよりは小さい。60年ほど前、親戚が所長としてそこにいた。所長の一家が植えたものかどうかはわからない。が、実がたくさん生(な)るところをみると、柿の木はまだまだ元気がいい。

 先日(1月10日)、いつものようにカメラを持って隠居の周りをぶらついた。たまたま望遠で柿の実を撮っていたら、鳥がわらわらやって来た。エナガだった=写真。エナガは、長い尾を除けばスズメより小さい。いや、スズメより小さいメジロより、さらに小さい。

 距離にして約30メートル。かなり離れていたので、人間を気にせず柿の実をつついていた。が、せっかちな性格なのか少したつとパッと飛び立った。仲間のシジュウカラやコガラなどカラ類もみんなせわしない。

 この時期は混群になってあっちへ行ったり、こっちへ来たりしている。ほかのカラ類もいるのではと、撮影データを拡大してチェックしたが、エナガだけだった。
 
 話は変わって、きょう(1月17日)は阪神・淡路大震災の日。5時46分52秒に胸の中で手を合わせた。あちこちから黒煙を上げる様子をとらえたテレビの空撮映像が今も忘れられない。
 
 平消防署管内では、きょう午前11時からいわき駅前タクシープール広場で、「防災大作戦2016」が開かれる。「防災とボランティア週間」に伴うイベントだ。わが区の自主防災会長(私)あてに、自主防災会員の受付の協力を――という案内がきたので、時間をみて会場へ出かける。

2016年1月16日土曜日

家が「好き」な理由

 わが家には1年中、いきものがいる。飼っているわけではない。現れるのだ。冬だからもういないだろうと思っていたハエが、師走も年が明けた今も飛んでいる。夏目漱石は「うるさい」に「五月蠅い」の字を当てた。それにならえば「十二月蠅い」「一月蠅い」だ。
 師走のある日、少し大きめのクモがこたつカバーの上を動き回っていた=写真。ネコハエトリかと思ったが、ヒラタグモだった。人家の壁面などに巣をつくるという。この冬は植物が早々と花を咲かせただけでなく、虫たちもうごめいている。

 先日、小2と保育所年長組の孫の“学童保育”を引き受けた。そのときに聞いた、祖父母の家が「好き」な理由。

 上の子――。庭を見ながら「神谷の家(わが家)は汚いねぇ。久之浜の家(母親の実家)はきれいだから好き。2階の日本間は広いし」。わが家は、部屋という部屋が雑然としている。茶の間はもちろん、寝室、2階の二つの部屋は私の本や資料だらけ。物置同然だ。階段も半分は本棚になっている。庭も、ときどき風で吹き飛ばされてきたレジ袋やプラスチック容器が散乱している。

「きれい」でないのは事実だから、「なにを、こいつ!」と思いながらも、表面は「ふーん」と聞き流す。上の子が話し終わるとすぐ、下の子が別の意見を述べた。「ボクは神谷の家が好きだよ。スズメバチもいるし、ナメクジもダンゴムシもいる。ゴキブリもいるから」

 ゴキブリねぇ――。確かに、庭の木にはアマガエルがいる。カナチョロもすんでいる。家にはスズメやヒヨドリが入り込む。アゲハなどのチョウ類もガも、蚊もコオロギも出たり入ったりする。「いきものがいる家」だから好きなのはいいが、ゴキブリまで例に出されると、こちらも「うーん」とうなったまま二の句が継げない。
 
 祖父母と孫の関係だから、物言いは率直だ。見たまま、聞いたままを口にする。しかし、「批評する目」も感じられるようになった。すると、これからますます「ここが好き」「ここが嫌い」といったギロンが多くなってくるのだろう。自分の少年時代を振り返ればわかる。
 
 おととい(1月14日)の朝は急に冷え込んだ。新聞を取りに玄関のたたきに下りたら、ゴキブリがひっくり返っていた。凍死したか。あとで外出をするときに見たら、消えていた。カミサンに聞くと、ごみ袋に入れて出したという。「ゴキブリがいるから好き」。下の孫の顔が思い浮かんだ。

2016年1月15日金曜日

ピロリ菌

 ちょうど1週間前(1月8日)、新聞に「アイスマン」がピロリ菌で胃炎を患っていた、という記事が載った。アイスマンは今から25年前(1991年)、北イタリアのアルプスの氷河で発見されたミイラだ。生きていたのはおよそ5300年前。国際研究チームがミイラの胃腸から細菌の遺伝子を取り出して分析したところ、ピロリ菌に感染していたことがわかったという。
 アイスマンも慢性胃炎だったか――記事に接する2日前、いわき市立総合磐城共立病院でほぼ1年ぶりに胃カメラを飲んだ。慢性胃炎の原因はピロリ菌かもしれないという。除菌すればポリープが小さくなるのではないか、ともいわれた。

 上下水道が完備されていなかった時代に生まれ育った日本人は、かなりの割合で胃にピロリ菌を“飼って”いるらしい。「団塊の世代」(昭和22~24年生まれ)の私には心当たりがある。小学生のころまで井戸水を利用していた。20代で十二指腸潰瘍、30代で胃潰瘍で入院した。今思えば、ストレスよりピロリ菌が原因だったのかもしれない。

 きのう(1月14日)は大腸の内視鏡検査を受けた。こちらもほぼ1年ぶりだ。上から下まで消化器は1年に1回検査をした方がいい、ということだった。

 共立病院は新病院を建設中だ。それで、駐車場が使えない。おととし(2014年)の12月中旬、道のりにして1キロ余先、市総合保健福祉センターの隣に臨時駐車場ができた。5~10分間隔でシャトルバスが運行されている=写真。大小二つの駐車場があり、二つともかなり広い。それでも朝9時ですでにバスの乗降所付近は車で埋まっていた。

 病院内は患者、付き添い、スタッフでいつもごった返している。患者を間違わないように(昔、妊婦取り違え中絶手術事故があった)、本人に生年月日をいわせるようにしている。が、これも万全ではない。ファイルと一緒に診察券を持って会計に行ったら、他人の診察券だった。どこで取り違えたのか(結局、診察券を再発行してもらった)。
 
 検査は午前10時すぎには終わった。検査結果を聞いたのは午後1時過ぎ。それまで3時間、診察室の前で順番がくるのをじっと待った。「何時ごろ」とわかっていれば食堂にも行けたが、そういう目安の説明はできないものか。すきっ腹のうえに、診察券取り違えのおまけまでついたので、ピロリ菌は大喜びしたことだろう。

2016年1月14日木曜日

講演会「天田愚庵とその時代」

 この連休に回覧資料をまとめて区の役員さんに届けた。なかに「プラザだより」があった。いわき市生涯学習プラザが1月23~24日に同所で生涯学習フェスティバルを開く。その特集号だ。
 2日目の24日午後2時から、北海道在住の作家不破俊輔さんが「天田愚庵とその時代」と題して講演する。おととい(1月12日)、いわき地域学會の先輩、小野一雄さん(歴史)から講演会案内のはがき=写真=がきて、開催がわかった。「プラザだより」をよく見ていなかった。

 不破さんは去年(2015年)の夏、福島宜慶さんとの共著で小説『坊主持ちの旅――江正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、税抜き2400円)を出した。2人は大学時代の友人で、福島さんの奥さんが江正敏の血を引いているそうだ。小説の取材でいわきを訪れたときには、小野さんらが協力した。その小野さんを介して本の恵贈にあずかった。

 天田愚庵(1854~1904年)は旧磐城平藩士で、明治の文学史に名を刻む歌僧。江正敏(ごう・まさとし=1851~1900年)も同じ旧藩士だ。2人は竹馬の友で、愚庵に『江正敏君伝』(明治30年刊)がある。小野さんによると、正敏は戊辰戦争後、国内を遊歴し、やがて北海道へ渡って漁業経営者として成功した。

 小説にこんなくだりがある。「藩の御用商人である十一屋小島忠平は正敏の親戚である。小島忠平は平町字三町目二番地に十一屋を創業し、旅館・雑貨・薬種・呉服等を商っていた。その忠平はかつて武士であった」。幕末、新島襄がこの十一屋に泊まった。大正初期には、詩人の山村暮鳥が出入りしていた。気にかかっていた店と経営者の情報が一気に増えた。

 講演会のテーマは愚庵だが、北からの「正敏の視点」で十一屋や平三町目にも言及するのではないかと、ひそかに期待している。もちろん、話を聴きに行く。

2016年1月13日水曜日

テレビドラマ「水戸黄門」

 きのう(1月12日)、1年半ぶりに孫の“学童保育”を引き受けた。前回と同じ通学路の途中にあるカレー料理店「マユール」の前で待ち合わせた。前は黄色い帽子の小1だった。2年生の今は白い帽子になった。黄色い帽子に続いて白い帽子がやって来た。黄色い帽子に比べたら背が高い。当たり前だが、足取りもしっかりしている。 
 孫を車に乗せ、いったん家に寄って、本人と保育所年長組の弟のスイミング用具を持ってわが家に移動した。宿題のノートも忘れずに。「保育所は3時50分、スイミングクラブは4時20分」と親から言われている。
 
 まずは宿題だ。午後3時台のテレビドラマ「水戸黄門」(再放送)を見ながら宿題をする癖がついているようだ。ときどきテレビに目をやりながら宿題をすませた=写真。
 
 私は、再放送の「水戸黄門」は見ない、と決めている。それを見るようだと年を取った証拠――。もうだいぶ前の話だが、近所の人が見ているといい、生まれ故郷の同級生も1人、還暦同級会で顔を合わせた際に見ていると打ち明けた。だから、よけい見ない。でも、孫に「見たい」と言われれば、つい「そうか」となる。
 
 孫が自分の家でスイミングパンツにはきかえながら、「水戸黄門」のテーマソングをくちずさむのを聞いて、ハッとした。なるほど、なるほど。孫が江戸時代に興味を持ったのは、この「水戸黄門」からか。
 
 弟を保育所まで迎えに行く道すがら、上の子と水戸黄門の話をした。「黄門さんはいわきに来たことがあるんだぞ」「えっ」「鮫川の方だけどな」。これは昔、歴史研究家の故佐藤孝徳さんに教えられたことだ。

「なんで来たの?」「物見遊山じゃないかな」「モノミユサン?」「花がきれいだから、葉っぱが赤くてきれいだからって、そんな感じ」。「勿来の関」に来たことを、そこまで拡大解釈をしていいものか、自信はない(「勿来の関」は史跡というより文学的存在、その点ではモノミユサンの対象だが)。
 
 それから保育所時代の友達のじいじの話になった。「なんで知ってるの?」と聞くから、「○○クンのじいじは市の職員、このじいじは新聞記者。それで会ってたの」「ふーん、そうなんだ」。○○クンのじいじは、趣味で「歌手活動」をしている。チケットがどうのこうの――と孫が言っていたが、それはきっと周りの人がチケットをさばくのに苦労した話だろう。
 
 孫がどこまで現実の社会を理解しているかはわからないが、大人の話が通じるようになった。わが子のときと同じく、孫にも、私が小2のころに体験し、感じたことを踏まえて、きちんと対応しないといけなくなった。はぐらかしは厳禁だ。
 
 間もなく小1になる下の孫も、サルから人間へと急速に変わりつつある。保育所から駐車場まで戻るのに、2人の孫はすぐ駆けだした。下の孫があとからのろのろついていく私を振り返って、「じいじは走れないの?」とニヤリとしながら言った。うーん、悔しいが走れない。
 
 スイミングクラブで、「歌手」の元市職員氏に会った。やはり、孫の送迎をしているのだという。このごろは、保育所の「おゆうぎ会」や「運動会」で顔を合わせる。少し立ち話をした。今はお互い、現役のころには想像もつかなかったことをしている。だから、人間はおもしろい。

2016年1月12日火曜日

梅とヤブツバキとアセビ

 おととい(1月10日)――。平地から山地の夏井川渓谷まで、梅とヤブツバキの「花前線」をチェックしながら、国道399号~県道小野四倉線を駆け上がった。標高は5メートル前後から200メートル余だろうか。暖地性のヤブツバキは、夏井川流域では海岸部から渓谷下部まで分布する。 
 上流ではおおむね夏井川に沿って道が伸びている。沿道の白梅ポイントは3カ所。①いわき駅に近い平・八幡小路と六軒門に架かる通称「幽霊橋」の下の急斜面②小川・高崎の知人の家③夏井川渓谷の小集落(牛小川)――。

 幽霊橋の梅はきれいに剪定されていた。花は来年(2017年)にならないと咲かない。高崎の梅も剪定されていたが、反対側の道端にある白梅はほぼ満開だった。隠居のある牛小川にも「梅前線」は届いていた。隠居の梅も、近所の梅も咲いていた。牛小川の手前、椚平の梅が咲いたのは「12月22日、ビックリポン」と、現地の友人がコメントを寄せた。
 
 もうひとつ、ヤブツバキはどうか。平地(平・胡麻沢)はもちろんだが、少し標高の高い高崎(小川)、もっと高い江田(小川)でも花が咲いていた。その先、椚平から牛小川にかけては見かけなかった。では、アセビはと見ると、わが隠居の入り口にあるものが二枝ほど花をつけていた。
 
 梅前線のチェックは牛小川止まり、つまり隠居まで、だった。が、今年はV字谷の奥、川前まで確かめてみようという気になった。川前駅周辺の次の集落は宇根尻。山里にしては豁然と開けた感じが好きで、たまに写真を撮りに行く。川前の最初の集落では紅梅が満開だった=写真。白梅も咲きだしていた。宇根尻の入り口付近にある白梅も咲いていた。
 
 その先は――。もうキリがない。宇根尻から隠居へ戻ったあと、庭にある辛み大根を引っこ抜いた。土は全く凍っていなかった。対岸の「木守の滝」にも氷はなかった。1月だからジャンバーを着るのは当たり前だが、ちょっと動き回っただけで汗ばんだ。
 
 予報ではこれから寒気が強まる。木守の滝が凍らないと、夏のオンザロック用の天然氷が取れない。やはり、ここは冬らしくなってくれないと。

2016年1月11日月曜日

カエデの露

 きのう(1月10日)は朝、夏井川渓谷の隠居へ行くとすぐ、写真撮りを始めた。テレビやラジオ、フェイスブックを介して、各地から梅やロウバイ、スミレなどの開花情報が届いた。それを確かめるのが目的だが、ついでにおもしろい被写体があればパチリとやる。ふだんはブラブラ歩きが中心で、目的を持って撮りに行くことはまずない。
 道路沿いにあるカエデの枝先に水滴がついていた。ほかの木にはない。なぜかカエデだけだ。「カエデのしずく」「カエデの涙」なんて言葉が浮かんだが、要は「カエデの露」。直径2~3ミリ、線香花火の火の玉くらいの大きさしかない。いつもの「オート」では拡大するとピンボケになる。

 ここは「接写」だな――半月前のクリスマスの晩、わが家へやって来た高1の疑似孫が、私のデジカメで自分の家族や私ら夫婦を撮影した。「花(チューリップ)」のマークに合わせれば接写(クローズアップ)ができる、という。昔、別のデジカメを買ったとき、息子にもそういわれた記憶がある。で、一時、接写に熱中した。それを忘れていた。
 
 以来、撮影モードダイヤルをときどき「花」のマークにして接写を楽しんでいる。梅の花、木の芽、木の実……。すると、ほかのマークはなんだろう。疑似孫に指摘されて初めて気になった。「使用説明書」が座右に置いてある。息子からは「ちゃんと読むように」と言われていた。それを読まずに「オート」一本やり、言い方を変えればデジカメの多機能性を使いこなせないでいたのだ。

 接写したカエデの露をパソコンに取り込んで拡大したら、露の表面に青空と白雲、おぼろな太陽、裸木が映っていた=写真。2ミリの露にも無限の世界が宿っている。極大と極小が同時に表現されている。それこそ「詩」そのものではないか。

 余韻にひたって晩酌を続けながら、Eテレの「日曜美術館」(再放送だが、童謡詩人まど・みちおさんの、「詩」ではなく「絵」を取り上げたもの)を見ていたら……。絵に関連して「ブドウのつゆ」という作品が紹介された。

「私の中に おちてくる/ブドウの つゆの/この一しずくの あまずっぱさが/こんなに はるかな 光の尾をひくのは/そのはじめ/かみさまの 心の中に/生まれていた思いだからなのか/そして私にたどりつくまでの/なんおく年間/そんなにまぶしい銀河の中を/めぐりめぐって いたからなのか(以下略)」

 詩人はたった「ひとしずく」のなかに宇宙を見た。自然はしかし、とっくにそれを表現していた。カエデの露に「目でさわる」ことができたからこそ、そんな感慨にひたった。

 本当は梅やヤブツバキの花前線のことを書くつもりでいたが、それはあしたに。「ひとしずくの宇宙」を見たからには、まずそれを、という気持ちになってしまった。

2016年1月10日日曜日

南隣の梅は三分咲き

 わが家の南隣は義弟の家。あるじは入院中で、カミサンが家の内外の手入れをしている。「庭の梅が一輪咲いた」と聞いたのはおととい(1月8日)。きのうの昼に見たら、もう三分咲きだった=写真。
 正月に花をつける梅の木が、わが生活圏(行動圏)の夏井川下流域にもある。2011年1月の場合(3月11日に東日本大震災が発生した)――。

 平の中心市街地の近く、八幡小路からお城山に架かる跨道橋、通称「幽霊橋」(高麗橋)の下、国道399号の急斜面にある梅の木が1月14日には満開に近い状態だった。夏井川堤防沿い、平字中神谷地内の農家の庭でも梅の花が見られた。国道399号と一部重なる県道小野四倉線沿いでは、平地から一段高くなる小川町・高崎あたり、知人の家の梅の木がちらほら花をつけていた。

 翌2012年は逆に、「梅前線」がなかなか到着しなかった。旧小名浜測候所による生物季節観測では、小名浜の梅開花の平年値は「2月18日」。この年、小名浜では開花が3月22日と、平年より1カ月も遅れた。
 
 平年をはさめば、梅の開花時期には2カ月ほどの幅がある。「遅速」に過剰に反応する必要はないが、この冬は(フェイスブックなどの情報によると)、ほかの花も狂ったように早く咲いている。
 
 きょうはこれから夏井川渓谷の隠居へ行く。途中で幽霊橋の下と小川・高崎の梅をチェックしよう。同じ高崎で師走のうちに咲きだしたヤブツバキも、どの辺まで咲いているか確かめよう。それこそ、渓谷でも咲いていたら、ビックリだ。
 
 そうだ、もうひとつ。夏井川渓谷には「地域温暖化」の指標にしている「木守の滝」がある。例年、1月後半から少しずつ氷結し、2月前半あたりでピークを迎える。年によって、もちろん日によって寒暖を繰り返すのが気象だが、日記を見る限り滝の氷柱(つらら)は20年前より小さくなっている。これも確かめる。

2016年1月9日土曜日

四倉図書館へ

 読みたい本を、いわき総合図書館(正確には「いわき市立図書館」)のホームページで探したら、四倉図書館にあった。総合図書館のあるいわき駅前と四倉図書館のある四倉のまちの中間あたりに住んでいる。なにも総合図書館経由で借りる必要はない。直接、借りに行けばよいのだ。
 四倉図書館は公民館に併設されている。近くに鉄筋コンクリート造りの中学校や病院がある。海岸に近いので、東日本大震災では一帯が津波に襲われた。海岸堤防のすぐそばでは家が流失し、図書館周辺では浸水被害に遭った。

 四倉図書館を利用するのは震災前の2009年6月以来、6年半ぶりだ。「総合」が長い図書整理期間に入ったとき、必要があって周辺の「内郷」や「四倉」に足を運んだ。「読む」よりは「調べる」ためで、純粋に「読む」楽しみのために借りるのは半分くらいか。

 確かスリッパを履いて本を探したな、小学校の教室2個分くらいだったな――と記憶を探りながら国道6号を北上した。クリナップ井上記念体育館前で赤信号になった。脇にいわき市の津波標識があった=写真。「津波避難場所/クリナップ体育館駐車場/避難場所の海抜4.0m」と表示されている。ふだんは通過するだけだから、標識は目に入らない。

 道路の向かい側にはクリナップの四倉工場がある。そこを過ぎると、右手に遠く海岸の松林が見える。このあたり、海岸線から国道6号まで1.5キロ前後だろうか。防潮林は津波塩害を受けて立ち枯れし、かなり伐採された。「密林」から「疎林」に変わっている。遠目にもはっきりわかる。

 借りたい本はすぐ見つかった。近くに併読したい本があったので、それも借りた。情報はいながらにしてネットで――確かに便利だが、現にそこへ出かけて行くことで手に入る情報もある。団塊の世代あたりまでは(その下の世代も、だろうが)、アナログが基本。デジタルとアナログの組み合わせだよと、若い人には言っている。

 帰りは国道6号ではなく、黒松の防潮林内を走る海岸道路を利用した。通るたびに(というのは正確ではないが)、風景が変わっている。海岸堤防のかさ上げ工事がかなり進んでいた。仁井田川河口では水門?工事(ではなく、「橋の架け替え工事」という情報をいただいた)が行われている。枯れた黒松が林内至る所に切断して積み上げられていた。防潮林の再生事業はすでに始まっている。海も川も大改造だ。

 変わらないのは海岸から西方(いや南も北も含む三方)、平野部の先に広がる阿武隈の山並みだけか。阿武隈は、いわきにとっては外界への回路を閉ざす「障壁」のように感じていたが、このごろは逆にいわきを守る「防壁」のように思えてきた。その両方の役目を果たしてきたのだろう。

 四倉図書館を目標に小世界を一周するだけの短いドライブだったが、車窓の風景にいろいろ考えさせられた。

2016年1月8日金曜日

年末年始のテレビ

 テレビは見る方かもしれない。ニュースのほかに、朝は薬を飲みながら「あさイチ」、ときどき民放の情報番組。夜は晩酌をしながら地デジとBSを半々くらい。お笑いタレントを動員した大味な番組はほとんど見ない。
 年末年始は、NHKも過去放送の総集編でお茶を濁す。そんなものは見たくないって――と思いながらも、「紅白歌合戦に人を取られるからか」なんて邪推する。年末恒例の感想だが、その「紅白」はしかし、やっぱり見てしまう。
 
「紅白」では新しい楽しみ方を見つけた。スマホを持っていないので、ノートパソコンでツイッターのタイムラインをのぞき、リアルタイムで流れる「紅白」のつぶやきを読みながら歌を聞いた。ときどきは、民放の格闘技イベントにチャンネルを切り替えながら。
 
 いやあ、おもしろかった。つぶやく人がそばにいるような感覚になった。著名なコラムニストなどがコメントを発するたびに、<なるほど、そうきたか>と“さじき席”でひとり盛り上がった。同じように、テレビとツイッターを組み合わせて「紅白」を楽しんだ人もいたようだ。
 
 年が明ければ、元日・実業団の駅伝、2~3日・箱根駅伝がある。が、見始めるとテレビの前から離れられなくなるので、今年は見なかった。代わりに、元日は朝からBS1の「映像の世紀デジタルリマスター版」=写真=をかけっぱなしにした。20年前のNHKスペシャルで、未明の午前零時に始まり、午後3時近くまで、ニュースをはさんで計15時間11本が再放送された。
 
 8時台の第7集「勝者の世界分割」(ヤルタ会談)あたりから見た。正午からの第10集「民族の悲劇果てしなく」は、思わず年賀はがきを書く手を休めて見入った。ヨーロッパ、中近東、アジア……。20世紀は革命で、戦争で、内戦で多くの難民が生まれた。21世紀の今も難民は発生している。特にシリア難民は深刻な状況にある。
 
 師走の上旬、主に関西で研修を続けていたフィリピン、スリランカ、アフガニスタン、スーダン、コソボ、東ティモール、ブルンジ、ルワンダ、南スーダン、ミャンマー、ザンビア11カ国の16人がいわき市へやって来た。紛争・災害後の復興期にある国・地域でコミュニティ開発プロジェクトの計画立案に当たっているNGOや行政機関の職員だった。
 
 前にも書いたが、彼らとの質疑応答から難民と現地コミュニティの問題に気づかされた。「民族の悲劇果てしなく」はその意味でも、遠いよその国の話ではなくなっていた。

2016年1月7日木曜日

手あぶりでスルメ

 三が日の最終日(1月3日・日曜日)、近所の「おじさんチ」(故義伯父の家)で息子一家と顔を合わせた。わが家は、私が茶の間を占拠しているものだから、暮れの大掃除ができなかった。「小掃除(こそうじ)」はしたつもりだが、新年を迎えるような環境ではない。カミサンの判断で、ふだんはだれもいない「ゲストハウス」で子と孫を迎えることにした。
 穏やかな三が日は、これまでにもあった。しかし、こんなに暖かい三が日は記憶にない。特に3日は快晴、そしてほぼ無風。玄関の戸を開けたままにしていた。茶の間にはこたつと座卓。私のそばにはケヤキ?の丸胴手あぶり。象嵌(ぞうがん)が施されている。手あぶりのおかげで、玄関を開けていても寒さを感じなかった。

 手あぶりは、14年ほど前に亡くなったドクターの形見だ。奥さんは昨年(2015年)、息子さんの住む東京へ引っ越したが、それまで十数回ダンシャリを重ね、その都度連絡がきて、本や未使用切手、衣類、食器、座卓、丸型プレートなどを引き取った。

 いわき市は昭和61(1986)年3月、「非核平和都市宣言」をした。「戦後40年」の節目の年に市民有志が集い、署名運動を展開した。ドクターはその事務局長を務めた。それからのお付き合いだった。

 手あぶりは最初、台所にあった。カミサンが炭を熾(おこ)し、もちを焼いたら、孫たちがのりを包んで食べた。そのあと、カミサンが茶の間に手あぶりを運び込んだ。正月用にスルメを買っておいたので、私だけあぶって食べた=写真。

 半世紀以上前の、小学1年生のころの記憶がよみがえる。正月になると、兄弟がこたつを囲んでミカンを食べた。ミカンの汁で紙に字や絵をかき、火鉢にかざしてあぶり出した。不思議だった。

 ミカンのほかにはスルメがあった。落花生も庶民のごちそうだった(「ピーナッツ」というようになったのはずっとあと)。

 熱を帯びて丸くなったスルメを、「アチ、アチ」といいながら裂く。ハサミで切ったりしたら、断面がツルッとしていて味がなかなかしみでてこない。裂くことで細い糸くずのように繊維がほぐれ、かめばかむほどジワッとうまみが広がる。「アチ、アチ」が大事だ。

 そばに手あぶりがある。ミカンもある。で、カミサンに言ったら、ミカンの実をしぼって紙に下の孫の名を書いた。字が浮き上がってきたら、孫に見せて驚かせてやろう、と思ったのだが。炭の火力が弱かった。字が浮き上がってこない。結局は、ジイバアが昔の正月を懐かしんだだけだった。

2016年1月6日水曜日

年賀はがき2016

 年賀はがきは友人・知人から届く1年に一度の“近況報告”でもある。悪い癖で、新年を迎えないと「明けまして……」となれないため、こちらから先に出したのは一度だけだ。元日から、届いた年賀はがきを見ながら一筆添えて返礼のはがきを出している。
 大震災・原発事故後は、西暦の前に「原発震災紀元○年」を入れている。自分のなかにある怒りのようなものが収まらない。今年は「原発震災紀元6年」だ。生きているかぎりは「原発震災紀元」を使う。

 3・11後は昔からの友人・知人のほかに、新しく知り合ったNGOのスタッフや若い研究者からも賀状が届くようになった。双葉郡から避難し、いっとき、わが家(米屋)のオープンスペース=まちの交流サロン「まざり~な」を利用した人からも。

 いわき地域学會の若い仲間からは、いわき市田人町の朝日山で撮影した富士山の賀状が届いた。「いわきから富士山が見えた」ことは元日付の当欄で紹介した。彼は元日にも朝日山に登った。初日の出と初富士を写真に撮ってフェイスブックにアップした。これも見事だった。私が現役であれば、“特ダネ”としていわきから見えた元旦の「赤富士」を新聞に載せるのだが。

 66歳の後輩からは「ピアノを習い始めました」という便り。年賀はがきに五線譜ならぬ「三線譜」が引かれ、音符にところどころ鳥が描かれていた。そらでは音符を読めないので、いずれギターで音を追いかけてみようと思う。

 元日に長男一家があいさつに来た。今春、小学校に入る下の孫からも年賀はがきが届いていた。上の孫は去年、年賀状に興味を示して出してよこした。今年は書かなかったようだ。それと同じで、一度は出してみたくなるのだろう。「あけましてうめでとうございす」。「お」が「う」になり、「ございます」の「ま」が抜けている。赤鉛筆でかかれた絵が“判じ物”に近い=写真。

 一見、「五郎丸」と思ったが、よく見ると鶏冠(とさか)がついている。恐竜にそんなのがいたな。カミサンが下の孫に「ありがとう、ウサギの絵?」といったものだから、母親らが爆笑した。ウサギではない。ネットで調べて、下の孫に確かめた。「パラサウロロフス」だった。

 暮れにクリスマスプレゼントを買ってあげた。上の子は歴史もの、下の子は昆虫図鑑、2人共通のものとして魚図鑑を選んだ。恐竜の絵本なんかはすでに持っているのだろう。子どもはどんどん知識を吸収する。「老いては子に従え」どころか、「孫にも従え」というところまで間もなくいく。
 
「老いては若い人にも従え」。富士山の賀状をくれた若い仲間と4日夜、2人で地域学會市民講座の案内はがきを印刷した。終わって、若い仲間がパソコンに昭和22年秋、アメリカが空撮した平市街の写真を取り込んでくれた。敗戦間際の空襲、いや「空爆」のあとがはっきりわかる。今年はこの写真をときどき見て、いろいろ考えを深めることにしよう。

2016年1月5日火曜日

ごみ片付けからスタート

 仕事始めのきのう(1月4日)は月曜日。わが区では最初の「燃やすごみ」の日だった。大みそかも木曜日で「燃やすごみの日」だったが、仕事納めのあとで収集は休みになった。そのため、年末年始6日分のごみがどっと出た。
 ごみネットをかぶせただけでは、脇が甘くなる。カラスがごみ袋を引っ張り出して破り、生ごみを食い散らかさないとも限らない。昨年(2015年)も仕事始めの日(1月5日・月曜日)と、最初の「燃やすごみの日」が重なった。カラスにしてやられた。今年は……。いやな予感が当たった。

家の前の通学路が集積所になっている。わが家でごみネットを保管している。朝7時すぎ、私がごみネットを電柱にくくりつけた。それから2時間ほどたった9時ごろ、カミサンが血相を変えて、チリ取りとほうきを持って集積所に向かった。カラスにごみ袋を破かれたという。ごみが散乱していた=写真。
 
 カラスにとって人の住むまちは格好のエサ場。それが、この年末年始はエサなしだった。きのうは待望のごみ袋が通りのあちこちに出た。群れをなして戻ってきた。
 
 以前と違って、収集車がやってくる時間が遅い。それだけカラスの目に留まる時間が長くなった。そのうえ、近所のアパートの住人が入れ替わって、カラスに無とんちゃくなごみの出し方をすると、たちまち狙われる。きのうも、やられるべくしてやられた感がある。

 いわき市には2万4000人ほどの原発避難者が住む。避難当初はごみの出し方が違うためにトラブルがおきた。わが集積所も例外ではなかった。しかし、5年近くたつ今は、ごみ問題は沈静化した。ときどき、こうしてさざ波が立つことは、震災前にもあった。原発避難者であれいわき市民であれ、カラスに思いがいかない人はいるのだ。

 先日、アジアや中近東、アフリカなど、紛争・災害後の復興期にある国・地域でコミュニティ開発プロジェクトの計画立案に当たっているNGOや行政機関の職員がいわき市へ視察にやって来た。一行政区の責任者として、原発避難者を受け入れている地域社会の現状を報告した。

「郷に入っては郷に従え」。難民とホームコミュニティ(受け入れ側地域社会)の関係構築に努めている彼らもまた同じ思いでいることを知って、地域社会の融和は「ごみ出しルールの順守」から始まることを再確認した。

 これまでにもカラス害を防ぎ、ごみ出しマナーをよくしてもらうために、一計、二計を案じてきた。黄色いごみネットにする。注意書きを電柱にしばる。今回も散乱ごみの写真を添付して、注意書きを掲げた。今までは、掲示から1、2回「燃やすごみの日」を経験すると、ルール通りになったが、今回はさて。

2016年1月4日月曜日

庭の防空壕跡

 神谷(かべや)公民館の後期市民講座のひとつを引き受けた。「地域紙で読み解くいわきの大正~昭和」と題して、昨年(2015年)11月から月1回、4回シリーズで話している。3回目の今月は銃後の「太平洋戦争」を予定している。
 日中戦争下の昭和15(1940)年秋、いわき地方の日刊5紙が「磐城毎日新聞」に集約される。同紙はやがて「1県1紙」政策のなかで福島民報の「磐城夕刊」になる。が、それも16年8月で息の根を止められ、9月から太平洋戦争が終わるまでいわきでは地域新聞は発行されなかった。戦争になると、まず地域メディアが整理される、ということだ。
 
 1カ月前にも当欄で書いたが、昭和16年の年初の情景は、すでに戦争一色だった。その前からずっとそうだった。1月22日付磐城毎日新聞には「市防空壕設計成る/物見岡稲荷神社下部貫通/工費二十万円で道路開鑿(さく)」「六号国道改良して/公園下隧道案/平市は労せず防空壕を得る」といった記事が載る。日中戦争下、さらに次の対米戦争に備えたものだったろう。
 
 その半月前、1月7日付(6日夕刊)に「家庭(防?)空群も参加/警防始めの式挙行/優良団員、火防組、防空群表彰」の記事が載る。今でいう「出初め式」だ。昭和12年に「防空法」ができる。「家庭防空群」はそれに基づいたものだろう。具体的には、室内の光の隠蔽、バケツリレーや火たたき(消火)など、隣組レベルでの防空(逃げずに火を消せ)をさすらしい。
 
 75年前の磐城毎日新聞は、今のいわき民報がそうであるように、大みそかに元日号が配達されたのではないか。そして、年明け最初の月曜日、6日に昭和16年の最初の新聞が発行された。今年は、きょう(1月4日)がその「仕事始め」だ。
 
 ま、それはそれとして、2日にカミサンの実家へ年始のあいさつに行ったついでに、敷地内に残る防空壕跡=写真=を撮影し、あらためてカミサンと義妹から話を聞いた。地図を書いてもらったので、庭から家の下へと続く防空壕の全体像がやっとつかめた。私の今年の「仕事始め」がこれだ。
 
 カミサンの実家は米穀店で、昔は屋敷のそばを流れる農業用水(好間江筋)を利用して、水車で精米をしていた。庭に水路が引かれていた。大半が暗渠で、その旧水路を防空壕に転用した。近所の人にも開放された。水路の幅は目測で2メートル弱はある。
 
 戦争が終わってからは、カミサンたちがかくれんぼをして遊んだり、一時、義父が開放部に水を張って鯉を飼ったりした。暗渠の部分はすでに劣化が進んでいる。開放部も石段ができたり、土砂や草で埋まったりしている。
 
 いわきの大正ロマンを調べ始めてから10年近く。いわきの近代史探検は、「昭和の戦争」まで広がってきた。街なかに残る数少ない戦争遺産も、体験者の記憶にまかせているだけでは、いずれただの空洞・溝になってしまう。というわけで、年始を利用して“聞き取り調査”をした次第。酒に酔いつぶれるだけの三が日ではなかったのでよかった。

2016年1月3日日曜日

「もしもし」の起源

 外部筆者による福島民報の「ふくしま人(びと)」(毎週土曜日掲載)は、師走の後半から<電信技術者 加藤木重教(しげのり)>に入った=写真。重教は安政4(1857)年、磐城平城下の田町で生まれ、阿武隈の山の向こうの三春で育った。柔術師範の父親が磐城平藩から三春藩に“転職”したことによる。
 三春で生まれた弟・富造は、のちに「福島県ハワイ移民の父」といわれる獣医師で、父親の旧姓である勝沼家に養子に入った。勝沼家はいわき市好間町に現存しており、同家の墓も平の長源寺にある。

 前にも書いたが、富造はアメリカ本土で大学へ通い、獣医師の資格を取り、アメリカの市民権をとった。モルモン教に入信し、やがてハワイへ渡り、一時、移民官として日本人受け入れに奔走した。『やまと新聞』の経営にも関係した。
 
 ハワイ在住の日本人や二世のための各種の慈善団体、奨学金基金、ロータリークラブの責任者や主要なメンバー、さらには『日布時事』の副社長と、日系人コミュニティの中で働き、信望も厚かったという。

 昨年(2015年)9月、いわき地域学會の市民講座として、外部講師の橋本捨五郎さん(郡山市)が「福島県移民の父・勝沼富造――父は旧磐城平藩安藤家家臣」と題して話した。富造の兄・重教についても触れた。電話の「もしもし」は重教が発案した、というエピソードが印象に残った。

「電話の第一声『もしもし』は、加藤木が考案したものといわれる」と、「ふくしま人」の1回目にも出てくる。第一声には「おいおい」「はい、よござんす」といった “前史”があるらしいが、それは、ここでは省略する。

 市民講座で橋本さんは、「申します」がやがて「申す申す」となり、「もしもし」となったと述べた。ネットにもそういう情報があふれている。「申し申し」からきている、という説もある。「申し申し」なら「もしもし」、「申す申す」なら「もすもす」となるのが自然だが、そのへんは定かではない。

 ただ、重教は2歳まで浜通り弁の世界に身をおき、以後は中通り弁を“母語”として成長した。重教になまりがあったかどうかはともかく、われわれが現に暮らしている生活圏の言語文化から生まれた「もしもし」である不思議を思い、一方で「もすもす」が電話の第一声として定着していたら……と、初夢ならぬ初妄想をしてみたのだった。

2016年1月2日土曜日

のぼり猿

 床の間には鏡もちとスイセン。ついでに、今年(2016年)は申(さる)年だからと、カミサンが宮崎県延岡市の郷土玩具「のぼり猿」を飾った=写真。スイセンの花には若松の代わりに月桂樹の葉を添えた。
 月桂樹はカミサンの実家にあった、若いときのフランス旅行の記念樹で、物置を建て替えるために伐採されたあと、根を掘り起こして夏井川渓谷の隠居に埋めたら再生した。わが家の近所にある故義伯父の家の庭にも根の一部を埋めたら根づいた。それから派生した枝の葉を切って飾った。スイセンも同じ庭に咲いていた。

 江戸時代、内藤の殿様が磐城平藩(現いわき市)を、次いで延岡藩(現延岡市)を治めた。その縁で、いわき市と延岡市は延岡転封250年の節目の年に当たる平成9(1997)年、「兄弟都市」のちぎりを結んだ。そのときだったか、いわき地域学會のメンバーも加わって訪問団が組織された。歴史研究家の故佐藤孝徳さんから、みやげだといって「のぼり猿」をもらったのだった。

 床の間に飾られた「のぼり猿」を眺めながら、不意に「武家の内職」と「磐城の小旗(絵のぼり)」ということばが思い浮かんだ。確か、「のぼり猿」のいわれを孝徳さんが解説してくれたはずだ。そのキーワードだったのかもしれない。

 ネットで検索すると、「武家の内職」は当たっていた。「のぼり猿」は延岡を代表する郷土玩具で、江戸時代、延岡藩の下級武士の奥さんたちが手内職としてつくったのが始まりだそうだ。なかには、その前から――というのもあるが、内藤家臣団の奥さんたちの手内職だったことには変わりがない。

 烏帽子(えぼし)をかぶり、鼓を背負った張り子の猿が、菖蒲(しょうぶ)が描かれた「のぼり」にぶら下がっている。のぼりが風をはらむと猿が上昇し、風がやむと下降する。「昇り猿」と思っていたが、ほんとうは「幟猿」だったか。端午の節句に子どもの立身出世や無病息災、五穀豊穣を願った。

 いわゆる吹き流しタイプの「鯉のぼり」が登場するのは近代になってから。いわき地方で端午の節句の「のぼり」といえば「絵のぼり」(小旗)のことだ。「のぼり猿」が内藤侯の時代に始まったものだとしたら、いやその前からあったものだとしても、藩士や家族の、磐城平への望郷の念がそれにこめられた、とはいえないだろうか。
 
 ま、貧乏藩の窮余の策が成功して、今は郷土玩具として延岡のシンボルにもなった。ローカルな現場にはいつも新しい「のぼり猿」が求められている。それはともかく、いわき市は今年、市制施行50周年の節目の年。兄弟都市の玩具にあやかって、「昇り猿」の1年であってほしいですね。

2016年1月1日金曜日

いわきから富士山が見えた

 縁起のいい初夢は「一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなすび)」。それが現実に見られるなら、なおいいわけで――。 
 2年前(2014年)の1月4日、わが家の西隣のアンテナに「キッキッキッキ」と鋭い声で鳴く鳥が止まった。ヒヨドリよりは大きく、カラスよりは小さい。ハト大のチョウゲンボウだった。初夢どころか、本物の「鷹」がわが家の隣にやって来た。そして、今年(2016年)は「富士山」が。
 
 師走の終わり、いわき地域学會の若い仲間が「いわきから見えた富士山」の写真をフェイスブックにアップした。その何日か前、同じ地域学會の副代表幹事矢内金五さんから「富士山の見える阿武隈の山々」と題する講演録(「いわき市勿来関文学歴史館の平成26年度年報=写真=所収)が届いた。「富士山」情報が頭を占領しつつあるところで2016年を迎えた。
 
 矢内さんの講演録から――。勿来文歴では平成26年度、企画展の一つとして「あぶくまから見える富士山」を開いた。会期中に矢内さんが「富士山の見える阿武隈の山々」と題して講演した。阿武隈高地の成り立ちを説明しながら、富士山の見える山として「北限」の日山(1057メートル、二本松市・葛尾村)、矢内さんの故郷・古殿町の三株山(842メートル)を紹介した。
 
 若い仲間は師走の29日早朝、三株山の南隣の朝日山(797メートル、いわき市・鮫川村)から雪化粧をした富士山を写真におさめた。矢内さんから届いた年報に刺激されたのかもしれない。「空の高さと天気図をにらめっこ」して出かけた。撮影場所は「三角点より東側なので、たぶんいわき市になります」。最大にアップしたものには宝永山も?
 
 富士山が見える北限の山は、現在では日山の北西隣にある麓山(はやま=羽山、897メートル)に替わった。日山は距離的な「最北遠」に変わった。
 
 いわき市内では、芝山(819メートル、いわき市・古殿町・平田村)からも、条件が合えば富士山が見えるという触れ込みだが、そして山頂には富士見台(展望台)もあるが、証拠写真にはまだお目にかかったことがない。(少なくとも記憶にない。ただし、それだって見たことがあるが忘れてしまっているだけかもしれない)
 
 マニアは必ずいる。だから、いわき市から富士山を撮った写真がないはずはない。でも、私の身近なところでは、若い仲間の撮った今度の写真が初めてだ。春になると杉花粉が飛ぶようになる。ちょうど今は年末年始の休みで首都圏の空が澄んでいる。いわきから富士山を撮る絶好のチャンス(早朝か夕方がいいそうだ)かもしれない。