2012年4月30日月曜日

渓谷の花見客


日曜日(4月29日)朝、2週間ぶりに夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。

さきおととし、近所のTさんから30センチほどのモチタラボ(タラノキ)の苗木10本をもらって道路そばの菜園の一角に植えた。おととしは50センチ、去年は人間の背丈ほどに育って新芽を出した。

去年は3・11の直後だ。放射能を恐れて渓谷へ花見に来るような人間はいない。たかをくくっていたら、やられた。今年も背丈の低いタラノキの新芽を採られた=写真

切り口の鋭利さとみずみずしさから、私が無量庵に着いた午前10時半の直前、渓谷へ花見に来た誰かが無量庵へ入り込んで、鎌で切り取ったのだろう。今の時期、山菜採りに精を出す人間は車に鎌を積んでいる。その鎌をどこで使うかは、その人の倫理観による。

4月18日にも書いたが、犯人はだいたい想像がつく。どこかのジイ・バア、なかでもバア・バアだろう。無量庵の東隣は「錦展望台」。古い家と杉林を解体・伐採して、行楽客の休み場にと持ち主が開放した。西隣は東北電力の社宅跡。車を止めてあたりを散策するには好都合な場所だ。無量庵のタラの芽は「棚からぼたもち」、いや「道からタラの芽」。

社宅跡にいわき市が設置したエコトイレがある。が、ジイ・バアはそんなものは使わない。2週間前、あるバアさまが無量庵に入り込んで用を足しているのをカミサンが目撃した。つつましさから遠くなれば、ついでにタラの芽をひょいと採る、なんてこともできるのだろう。「錦展望台」の持ち主は思い余って「トイレは100m先」の看板を立てた。

若者が礼儀知らずだとか、なんとかいうのは一面的なこと。大人の大人である年寄りの方が礼儀知らずの場合もある。始末に負えないのはこちらの方だ。今年、渓谷へ花見に来ているのは、ほとんどがジイ・バア。それで不行跡が推測し得る。

タラの芽から基準を超える放射性セシウムが検出されたために、市が摂取・出荷自粛を市民に要請した。そうした情報を承知のうえで“窃盗”におよんでいるのかどうか。

――ほんとうは渓谷の花見の様子を書きたかった。渓谷の花と言ったら、アカヤシオ(岩ツツジ)だ。真っ先に渓谷に春がきたことを告げる。その花が散ったあと、ヤマザクラが咲き誇り、木々が芽吹いて、山が笑う。初夏の陽気になったきのう、ヤマザクラが満開だった。自然はパステルカラーに染まり、人間を包み込むようにほほえんでいた。

2012年4月29日日曜日

リサイクル


3・11の大地震の影響で家を解体することにした。欲しいものはどうぞ――。いわき市平の中心市街地の一角、カミサンの同級生の家から洗濯機や食器、その他=写真=を救出して、わが家の近くの伯父宅に運んだ。去年の4月中旬のことだ。

いわきのハマ(豊間)にあって、津波が家と人をさらっていくなか、ぎりぎりで助かった。が、しばらく避難所生活を余儀なくされた、という知人夫妻がいる。震災直後、連絡がとれた際に「あるなら欲しい」というので、解体前にマチの家から洗濯機などをもらってきたのだった。

知人夫妻はときどきわが家に来る。早く自分たちの“持ち物”を引き取っていけばいいのに、もうちょっと待って、もうちょっと待ってで1年がすぎた。先日、その夫妻から「火事で焼け出された人がいる」という電話が入った。直接の知り合いではないが、知り合い(県議)を介して連絡がきたのだという。

窮状を知った以上は応援しないわけにいかない。自分たちの“持ち物”である洗濯機などを、そちらに回すことにした。

きのう(4月28日)、知人夫妻のほかに、市議時代から知っている県議が男性一人を乗せて、軽トラを運転してやって来た。洗濯機などのほかに、カミサンの同級生から届いたばかりのふとん一組、手元にあった食器を提供した。

大地震をしのいだら、火災に遭った。火事になればすべてが灰になる。震災と違って支援も行き届きにくい。震災で出たとはいえ、家電・家具・食器などが必要とされるところで再利用される――ダンシャリをした被災者にとっては喜ばしく、一時保管をした私らにとってはすっきりできるリサイクルとなった。

2012年4月28日土曜日

キジが鳴く


夏井川下流の河川敷では、キジ=写真=の縄張りがよくわかる。こっちで「ケン、ケーン」、あっちで「ケン、ケーン」。姿も遠目で小さいが見える。

曇天のおととい(4月26日)、午前6時半ごろ。堤防の上を歩いていると、キジの鳴き声が聞こえた。音源を探る。河川敷に広がるヨシ原だ。

枯れヨシの野焼きが行われて見晴らしがよくなった。岸辺にはヤナギ、ニセアカシアの高木が並び、ヨシ原にはイタチハギやオニグルミなどの若木が散在する。その一角にぽつんと黒い点がある。動く。キジの雄だ。鳴いて、ほろを打つ。

国道6号バイパスの夏井川橋から上流へ進んで、中神谷公園の近くで堤防を下りる。川はS字状になっている。その間ざっと1キロ。ケータイの万歩計で1100歩ほど、歩幅は90センチとみての計算だ。

対岸で3羽、こちらの河川敷で4羽、計7羽の雄が鳴いて縄張りを主張していた。対岸のキジのうち2羽は川はさんで向かい合っている。それだけ両岸の河川敷が広い。あとは片方だけ河川敷が広がっている。そこにいた5羽についてみると、雄と雄との距離は200メートル。200メートルごとにキジの縄張りがあるということになる。

4年前の今ごろ、やはりキジの縄張りを計算した。そのときの計算とまったく変わっていない。

そこからまた同じ夢想を始める。夏井川の河口から水源までおよそ67キロある。200メートルに1羽、雄がいるとして流域全体の河川敷では何羽になるか。雄がいて、雌と雛たちがいて……。ただし夏井川渓谷にはいない。その上流、田村郡には少しいるか、などと空想をころがす。――たまには少年に戻らないと身が持たない。

2012年4月27日金曜日

自宅に放火


夜火事を“取材”した=写真。おととい(4月25日)、午後10時半すぎ。わが家からざっと600メートル先、旧国道に沿って住宅地が展開する一角だ。

26日付の夕刊(いわき民報)によると、25日午後10時5分ごろ、84歳の老人が自宅に火をつけた。木造平屋建て住宅1棟が全焼した。警察は26日午前6時すぎに老人を放火の疑いで逮捕した。

――晩酌をすませ、ブログの原稿を書き終えようとしていたときだ。自宅前の旧国道を消防車がサイレンを鳴らしながら通過した。1台。また1台。またまた1台。おかしい。2階の窓を開けたら、東の夜空にうっすら灰色の煙が高く、高く立ちのぼっていた。近い。

消防本部の火災情報サービス(電話)で確かめたら、わが行政区ではない。カメラを首からぶら下げて道路に出ると、隣の奥さんがちょうど家から出てきたところだった。「どこでしょう」「あれ、煙が見えるでしょ」「あら」。気持ちは小走りになっているが、足はさっぱり前に進まない。警察回りのころのすばやさはとっくになくなっている。

現場に着いたら、ほぼ鎮火していた。人でごった返していた。近くの人が警察に説明している。「窓の外が明るいなと思って開けたら、家が燃えていた」「熱気を感じた」。別の警察・消防の人間が「Sさん、いませんか。Sさん、いませんか」と大声で連呼していた。自宅に放火した老人を探しているのだった。

夕刊の記事で二つ、気になった。警察の取り調べに対して「生活の先行きに不安を感じ、犯行に及んだ」ことをほのめかしているという。近所の人の話として「隣組に入っていなかったので、あまりつきあいはなかったものの、会えばあいさつはいしていた」。今朝の福島民報によれば、独り暮らしだった。

憶測はもちろん避けなければならない。が、犯行に至った84歳の老人の心象風景にどこまで近づけるか。ヤジウマでは済まない火事になった。

2012年4月26日木曜日

川内村へ帰ります


「『残された花々』展~川内村へ帰ります――志賀敏広+土志工房 絵画と陶器展 2012」が4月24日、いわき市平のエリコーナで始まった=写真。29日まで。「二絃三絃のしらべ」と銘打ち、27日午後6時半から二胡とピアノ、翌28日午後2時から三味線と尺八のコンサートが同会場で開かれる。

志賀さんは浪江町で生まれ育った。父は旧小高町、母は双葉町の生まれ。ご両親とも花が好き。庭で草花も育てていた。今、志賀さんが居を構えているところは阿武隈高地の川内村。山野に木の花、草の花が満ちる。その双葉郡が放射能で汚染された。

あの日3・11のあと、原発の建屋が爆発する。たぶんその前からだろう。「隣の町から、村の倍以上の人が、川内村に逃げ込んできた。さらに爆発が続き、避難して来た人たちは更に、我々も又、村を離れなければならなくなった」

志賀さんは避難するとき、「家の庭に咲く花をひとかかえ切り取り、荷物で一ぱいになった車に積み込むことにした。絵具と画用紙とともに。/それがこの、花の絵画展の始まりである」と記す。

2011年秋。「この半年間、前半は災害にまきこまれ、後半は体調にめぐまれなかった。でもどちらも花を描くのに問題はなかった。ほとんど毎日のように花を描いても飽きることはなかった。日課になってくると描くものがなくなるととても淋しくなってしまう。/川内村に帰ろう、と思う」

そうした心の軌跡を経て、3月に郡山展、福島展が開かれた。最後のいわき展だ。会場はざっと3部構成になっている。画用紙に描いた草木の花、富士山をモチーフにした絵、陶器。

「2011、10月『富士』」と題された文章を抜粋する。「体調を崩した頃より、なぜか強く富士を意識するようになった。/富士山には、多くの人があこがれをもっていたようで、富士の傑作を描いた先人は、北斎、大観、操、球子ときりがないほどである」「やはり一度は挑戦してみたいテーマではあったので、この際、と思い私なりの富士を描いてみた」

富士をテーマにした作品を数えたら、121点あった。北斎の「富嶽百景」を越えているではないか。驟雨の向こうにそっと富士が顔を出している絵を求めた。富士は、ときには屹立する孤絶の存在だが、志賀さんの富士は庶民的で親しみやすい。「イメージとしての富士、模様と化した富士をテーマにしぼって表現」しているからだろう。

2012年4月25日水曜日

ヨシダクン


きのう(4月24日)の福島民報。若松紀志子先生=写真=の死亡記事に、しばし呆然として言葉もなかった。川崎の病院で、肺炎で亡くなった。享年96。

最後にお会いしたのはおととし(2010年11月3日)、いわき市立美術館で「若松光一郎展――律動する色彩」が開かれたときのオープニングパーティーの席だった。いすに座っている紀志子先生にあいさつすると、ニコッとした。先生が開設したエリコーナで「松田松雄展」(2008年11月)を開いたときには、ツーショットに応じてくれた。

昭和39(1964)年4月、開校3年目の平高専(現福島高専)に入学した。授業はきつかった。その合間に音楽(1年生)があり、美術(2年生)があり、体育があった。三つの授業だけが自分を取り戻す、数少ない時間だった。

音楽は紀志子先生、美術はご主人の光一郎先生。理系の授業になじんでいる学生も、なじめないでいる学生(私たち)も、やがて若松家に出入りするようになる。

そのへんの経緯は小欄(2010年11月4日付「若松光一郎展」)に書いた。「道で会ったらすぐ思い出せる人間と、思い出せない人間がいるの。あなたはすぐ分かる」。ありがたいことに15歳の出会い以来、45年以上、「ヨシダクン」で接してくれた。

エリコーナではきのうから、知人の志賀敏広さん(川内村)の個展が開かれている。夕方、会場をのぞいた。先生の娘婿であるNさんにお悔やみをのべつつ、先生の最晩年の様子を聴いた。

川崎には上の娘さんがいる。で、大震災後、そちらへ移った。この二、三日の間に体調が急変した。此岸から彼岸へ、いつものように颯爽と歩きながら渡って行く先生の姿が思い浮かぶ。合掌。

2012年4月24日火曜日

バングラ交流報告会


3月の春休みに中・高校生を対象にしたバングラデシュのスタディツアーが実施された。シャプラニール=市民による海外協力の会が主催した。「中学生によるバングラデシュとの交流報告会inいわき」がおととい(4月22日)、いわき市社会福祉センターで開かれた=写真

シャプラは「東日本大震災」後、北茨城からいわきに入って緊急支援活動を展開した。今も交流スペース「ぶらっと」(4月1日、いわき駅前のラトブから駅東のイトーヨーカドー平店に移転)を運営して、被災者支援を続けている。

スタディツアーは3月24日~4月1日に実施された。被災地特別枠で、いわきから3人の中学生を招待することにした。作文による選考が行われた。作文を読んで意見を、と言われた。こちらの判断が甘いと感じられるほど、シビアな選考になった。

3月には中学生だった3人(うち2人は兄妹)だが、4月がきて2人が高校生になった。もう1人も進級して中学2年生になった。

人は旅をすることで新たな「光」を「観」る。「観光」とは本来的に「スタディツアー」なのだと思う。

私は、かつての同級生たちと60歳を過ぎて初めて海外(北欧)旅行をし、翌年には一緒に台湾を旅した。そのときの経験と、かつて故里見庫男さん(いわき市観光物産協会長、初代のいわき地域学會代表幹事)から学んだことなどを踏まえて思うのは、観光=修学旅行ということだ。

そういう認識で3人の話を聴いた。気候・風土・文化……。違いに戸惑い、しかしその違いを受容する。「貧しい、かわいそうな国だと思って行ったが、それは間違いだった。人々は心が豊かだった」「物乞いする子どもがいてつらい気持ちになった」

3人はバングラの「光」と「影」を「観」てきた。いまだ体験が十分、意識化(言語化)されていないとしても、やがて深く、広く言葉としてとらえられる――そういうときがくるはずだ。

3人の話で特に印象深かったのは、農村部へ行ったときに村人が「そこら辺に咲いている花を摘んでプレゼントしてくれた」ことだ。バングラデシュの人たちの、客を思いやる心、もてなす心がしのばれるエピソードだ。

2012年4月23日月曜日

ネオン復活


手前みそながら、わが家(古田部米店)のネオンが復活した=写真。いわき市平中神谷の旧国道。江戸時代には「浜街道」と呼ばれた通りだ。字名「宿畑(しゅくはた)」は郷宿の畑があったことに由来するのだという。

道沿いには昔ながらの農家を主に、商店・県営住宅が並ぶ。夜になると、街灯はともるが暗い。深夜、酔ってタクシーで帰るときには、わが家のネオンが車を止める目安になる。「闇夜の灯台」だ。

そのネオンが老朽化し、点滅するようになったので、明かりをともすのを中止した。で、深夜、わが家を通り過ぎるようなことはないものの、タクシーを止めるのにやや注意を要するようになった。

そうして半年以上が過ぎたろうか。先日、業者が来て古いネオンを取り払い、新しいネオンを取り付けた。「地域の人にとっても、酔って帰るときにはどこでタクシーを止めるか、目安の一つになるはず」。地域の夜の道しるべ=灯台としての役割を、本店の社長(義弟)が理解した。

土曜日(4月21日)深夜、いや日曜日未明、四倉が自宅の飲み仲間と一緒にタクシーで帰った。道の先に学習塾のネオン、そしてその斜め向かいにわが家のネオンが見える。「そこで降りればいい」。ネオンの光とともに「安心」が復活したのを知る。商売はともかく、酔客にはネオンが役に立っている――それを実感した瞬間だった。

2012年4月22日日曜日

放射線量測定再開


3月下旬に開かれた中神谷南区の総会で、区内の放射線量を定期的に測ってデータを回覧してほしい、という要望が出された。もっともなことなので、保健委員の私が担当して線量を測ることになった。区内の新たな「見える化」作業だ。

いわき地域学會の新年度の活動がスタートし、週に一回、出かけて話す仕事も始まった。雑務を含めて急に身辺があわただしくなったために、新年度最初の区内の線量測定はきのう(4月21日)にずれ込んだ。

昨年秋には、福島県の補助金を利用して区内の通学路などで除染作業を行った=写真。その前後に放射線量を測定し、データを回覧した。が、やはり最新の情報を知りたいのだろう。市が定期的に測定している場所(3カ所)を除いて、月に一回、定点10カ所で線量を測り、データを報告することにした。

ガムテープを巻いて1センチ、50センチ、1メートルの目印とした竹の棒がある。昨秋の除染作業に合わせて用意した。それを使って1メートルの線量を測る。1センチの線量は線量計を握った指を地面につけて測る。市の職員がそうして測るのを見て覚えた。

東風が首筋を冷やす曇天下、通学路の側溝蓋の上、歩道、車道と1時間ほどかけて線量をチェックした。おおかたが0.203~0.295マイクロシーベルト/時におさまっていた。集会所の雨樋下(南北2カ所)は、除染前は1.671~1.684あったが、今回測ったら、南側が0.658、北側が0.471だった(いずれも地上1センチ)。

まずは事実を一覧にして伝える。地域の人たちが考え、判断し、行動するための情報を提供する。仕事柄、習い性になっていた「傍観者意識」をわきにやって、「当事者意識」を原動力にして――。そう言い聞かせてから区内を巡った。

2012年4月21日土曜日

ビートボクサー


ビートボクサーが“春風”をもたらした=写真。きのう(4月20日)夕方、イトーヨーカドー平店にある被災者の交流スペース「ぶらっと」を訪ねたら、彼がスタッフやボランティア、常連客の前でライブをやっていた。

口とのど、舌、指などを使って打楽器のような音を出す。テレビで見たことはあっても、生で演じるのを見る(聴く)のは初めて、という人が多かった。「のどにカエルを飼ってるみたい」。オバサンたちはびっくり仰天した。

「ぶらっと」は最初、ラトブにあった。そこでのイベントを、そしてそれに飛び入りで参加したビートボクサーのことを、昨年11月下旬に小欄で取り上げた。今年2月、彼から「その時のビートボクサーです! 時々ストリートライブをやってるんで見に来てくださいね!」というコメントが入った。

福島高専の1年生、いや4月になったから2年生だ。「ぶらっと」の新スタッフにも高専OGがいる。私も昔、その学校にいた。16歳、30歳、63歳。東日本大震災以来、ときどきある人間の不思議な出会いの一つといっていい。

開高健ではないが、去年の春は野原を断崖のように歩くしかなかった。断崖の連続だった。今もその思いに変わりはない。が、今年は野原を歩きながら花見でもしようか、という気持ちが芽生えている。同窓の人間との出会いも花見と同じような心地よさを伴う。精神的に少し落ち着きを取り戻してきたらしい。

津波の被害に遭った人たち、原発事故から避難を余儀なくされている人たちからは、「今も断崖にいるのに」としかられそうだが、仕方がない。散歩の途中で、車で出かけた先で、桜があれば見ほれる。それが私の花見。今年はどのソメイヨシノもきれいに見える。

さて、人は会って話してみるものだ、話すから出会えるものなのだと、あらためて思う。ビートボクサーはいつ、どこでストリートライブをやっているのか。「いわき駅前で、学校の帰り」。ということは午後の遅い時間だ。その現場にいつかは遭遇してみたい。

2012年4月20日金曜日

ハトの愛


朝の散歩のとき――。同じルートを巡るだけだが、発見がある。花が咲きだした。いのちの発見は驚きと喜びと元気の素(もと)をくれる。「野菜を盗るな」。そんな立て札を発見することもある。正も負も含めて発見があるから、散歩をやめられない。

高速バス駐車場の出入り口に作業服姿の人形が立った。その前を通るウオーカーは驚き、喜び、そしてニヤリとした。予想もしないことが目の前に現れる。事故でもないかぎり、人間がやったこと、あるいは動植物が演じたことが、好奇心を刺激する。

6号国道常磐バイパスの終点、夏井川橋のたもとでときどき、ドバトが休んでいる。ある朝、のどを鳴らしてくちばしとくちばしを交互に触れあっていた=写真

ロバート・バーンズの「故郷の空」は、なかにし礼さんの手にかかると「だれかさんとだれかさんが麦畑、チュッチュチュッチュしている いいじゃないか」になる。その歌を連想させる、みごとな“くち(ばし)づけ”だった。

ネットで調べたら、ハトの愛の行動らしい。もともとハトは目が赤い。そのために血走ったわけではない。が、向き合って、愛を確かめて、種の保存行動に及ぶ。かわいいものだ。

橋の手前、国道6号のそばにバイパス終点ののり面を利用した「草野の森」がある。いわきの潜在植生である照葉樹の苗木を植えたのが、順調に育った。ウグイスがすみつき、「ホー、ホケキョ」をやっている。ウグイスの愛のすみかになるほど、森らしくなったということだろう。

ドバトやウグイスだけではない。カルガモ、ハクセキレイ、スズメ、キジ……、みんな愛の生活に忙しい季節を迎えた。

2012年4月19日木曜日

牛小川踏切


「踏切が替わったよ」。夏井川渓谷の牛小川に磐越東線の踏切がある。警報機はあるが、遮断管はなかった。それが最近、遮断管つきのものに一新された=写真。4月15日(日曜日)の「春日様」のときに教えられた。黒と黄のトラ模様の棒が4本立っている。列車が通過するときにちゃんと両方・両側から遮断管が下りるのを確かめた。

私が牛小川に通い始めて17年になる。最初の年の1月に阪神・淡路大震災が発生し、3月に地下鉄サリン事件が起きた。そのあとの5月末、今は亡き義父に連れられて牛小川の隣組を回った。無量庵の管理人として、週末、寝泊まりしますから、と。

何年かあと、よもやここで、という踏切事故が起きた。ちょうどアカヤシオの満開時。日曜日、午後1時半ごろ。車と人とで道路はごった返していた。そうした混雑を避けて車を止める場所を探そうとしたのか、夫婦の乗った車が踏切を渡りかけて列車と衝突した。

踏切からちょっと先の線路わきにはじきとばされた車の中で、夫婦は意識不明になっていた。報道で知ったが、夫は私らの子どもが通っていた小学校の用務員だった。当時は市の支所に勤務していた。父兄として面識もあり、話をしたこともある。その人が、そして奥さんがよりによって無量庵の近くで、踏切事故で亡くなるとは。

牛小川踏切では、ずいぶん前に地元の人が列車にはねられて亡くなっている。それ以来の事故だった。

そうした背景、歴史と要望が重なって、やっと踏切に遮断管がつけられた。私が現役の記者だったら記事にするのだが――なんてことは言うまい。

2012年4月18日水曜日

ワサビ消える


夏井川渓谷の牛小川。人間は、V字谷の緩やかな左岸斜面、太陽の光が降りそそぐところに暮らしている。集落周辺にはいろんな山菜が顔を出す。ピンポイントながら、ワサビが花をつけた=写真。そのワサビが盗られた。花をつけはじめたと思ったら、一週間後には消えていた。

誰が盗ったか、だいたいは見当がつく。「盗った」というより「採った」としか思っていない人――イノシシより始末に負えないニンゲン。ジイ・バア族のだれかが見つけて、根こそぎ摘んでいったのだ。

これまでの被害経験からすると――。若い世代は自生のワサビなどには見向きもしない。花が咲いているのが目に入ったとしても、ただの花で終わる。第一、山は放射線量が高いと思っているから、アカヤシオの花が咲いても見に来る人は少ない。先の日曜日(4月15日)、無量庵の隣の「錦展望台」に姿を見せたのはほとんどがジイ・バアだった。

若い世代と違ってジイ・バアはワサビだとわかると張り切る。周りに家があってもなくても、目の前の獲物にとびかかる。ライオンになる。

昔、無量庵の樹下にハワサビを植えた。1年後には盗られた。おととし、Tさんからタラボの苗木10本をもらい、道路際の菜園の隅に植えた。2年目の去年、原発震災から1カ月余の4月下旬、タラの芽がきれいにカットされてなくなっていた。今年の春日様の祭礼でその話をTさんにした。「てっきり本人が摘んだと思ってた」

去年は、夏井川渓谷へアカヤシオの花を見に来るような人間はいなかった。が、山菜採りは別だった。花よりも、放射能よりもタラボ――人の庭にまで入り込んで採るのは窃盗と同じではないか、と思ったものだ。今年、タラボは背伸びしても手が届かないほど上空にある。まだ硬い。

きのう、用事があって小川へ出かけ、帰りに石森山に寄った。ワラビ狙いかどうかはしらないが、狭い林道に車を止めて土手をなめるようにしていたのはバア・バアだった。バア・バアは元気がいい。

2012年4月17日火曜日

渓谷の3・11


きのう(4月16日)、日曜日に夏井川渓谷(牛小川)にある小さな神社(春日様)の祭礼が行われたことを書いた。その続き。森の中にあるヤシロ(社)を参拝し、定宿の旅館でナオライ(直会)をした。その間の語らいで、溪谷の3・11の被害がおおよそわかった。

わが無量庵ではタンスの上にあった置き時計などが落下した。台所のこまごまとしたものが散乱したり、電灯のカサがずれたりした。雨戸のかぎがゆがんで使い物にならなくなった。屋内はその程度ですんだ。瓦も無事。が、庭の石垣が一部、崩れた。ブルーシートで覆ってから1年以上になる=写真

春日様を守るS家のサトシさんが、ヤシロの中で3・11に触れながらあいさつした。集落の対岸、北向き斜面の岩盤が崩落した。生活用水は無事だった。祭りは中止したが、よそに比べたら被害は軽くて済んだ。

ほかには? S家の庭の石垣がふくらみ、その上の門柱とブロック塀が庭側に傾いた。県道の石垣が一部崩れた。放射線量は? それもあまり気にしないで済む程度だ。

V字谷は西から東に延びる。家はすべて南向き斜面に張りついている。無量庵のあるところは畑だった。そこに盛り土をして石垣で庭を護りかため、義父が街の隠居を手に入れて解体・移築した。

すべての家が南向きだから、庭の石垣も、道路の石垣もすべて南に面している。それが、一部ながら数カ所でやられた。渓谷では3・11に、南北方向の揺れが大きかったということなのか。

2012年4月16日月曜日

春日様


夏井川渓谷の小集落・牛小川を護る小さな神社が森の中にある。春日神社、通称「春日様」だ。アカヤシオの花=写真=が咲くころを見計らって、日曜日に祭礼が行われる。集落の各家から1人が出てお参りをし、おととしから定宿になった溪谷唯一の旅館で「なおらい」をする。神主が来てお祓いをするわけでもない。参拝・なおらいだけの地味な祭礼だ。

今年はきのう(4月15日)、行われた。去年は3・11と原発事故の影響で祭礼が中止された。2年越しの祭りになった。

集落は実質8戸。これに週末だけの半住民である無量庵の人間(私)と、マチに家をつくって移り住んだ人間を加え、10戸の代表が顔をそろえた。

「春日様」は武運長久の神。戦争中はお参りに来る人が絶えなかった。「お参りに来た人はみんな生還している」と、前に聞いた。

渓谷は、尾根が二重、三重になっている。重畳としたV字谷で、谷から尾根へとアカヤシオがピンク色の花をつけると、壮大な点描画ができる。最初の尾根までが満開になった。渓谷全体から見れば三分咲きだ。厳冬のために例年よりは1週間ほど開花が遅れた。

「春日様」のやしろのなかで、みんなが3・11を振り返った。「春日様」は戦争どころか、災害からも守ってくれるのだという。東日本大震災では、集落への幹線道路が落石のために通行止めになった。一時、迂回路の通行を余儀なくされたが、集落そのものは被害が小さくてすんだ。春日様に感謝し、アカヤシオに乾杯する静かな一日になった。

2012年4月15日日曜日

同じ列車に乗って


福島県俳句連盟副会長で県文学賞俳句部門審査委員の結城良一さん(いわき市)が、先に23年度県文化振興基金顕彰を受賞した。祝賀会がきのう(4月14日)正午から、いわきワシントンホテル椿山荘で開かれた。

結城さんの俳句仲間や、いわき市文化協会の役員など約50人が参加した。花束=写真=と記念品が贈呈され、乾杯のあとは祝踊、カラオケなども披露された。

と書くと、騒々しかったのではと思われそうだが、そんなことはない。隣り合う人たちが静かに楽しく語り合う合間にひとつ踊りが入り、宴の終わり近くになって結城さんも加わり、2曲ほど歌を披露したといった程度。

結城さんを知って40年になる。昭和47(1972)年11月3日、県文化センターで開かれた県文学賞表彰式の席で初めて言葉を交わした。そのとき結城さん37歳、私23歳。

実は何時間か前から“同行2人”だった。いわきから磐越東線の列車に乗った。近くの席にその人がいた。東北本線の列車に乗り継いだら、やはりその人がいる。福島駅前からバスで県文化センターへ向かおうとすると、やはりその人が乗り込んできた。その人が、つまり結城さんだった。

その後、結城さんは俳句を極め、私は詩を離れた。が、いわきの文化のためになにかできることを、という思いは共有していたように思う。この40年間を振り返れば、同じ列車に乗って、少し離れた席に座りながら、いわきの広野を旅し続けてきた――そんなイメージが浮かぶ。

浜通り俳句協会の俳誌「浜通り」(季刊)に、結城さんから頼まれて<いわきの大正ロマン・昭和モダン――書物の森をめぐる旅>を連載しているのも、一種の“同行2人”意識からだ。

「浜通り」はいわきで唯一発行されている俳誌だという。結城さんは謝辞の中で「浜通り」を出し続ける“意地”について触れた。同協会の会長にして編集の実務を担当している――なかなかできることではない。

3・11後、すぐ震災詠を掲載し、その後も「東日本大震災特集」を続けている。俳誌編集者としての問題意識、すごみと深さ、ネットワークの広さに舌を巻いた。しかもそんなことは胸にしまって、一庶民として人に接する。つかず離れずつきあってこられたのはそのためだろう。

2012年4月14日土曜日

乃木バー


『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』(郷土出版社・1996年)に、「カフェタヒラ」と「乃木バー」が載る=写真右と下。撮影は共に「平・大正14年」だ。乃木バーにも、カフェタヒラにも「西洋御料理」の看板がかかる。カフェタヒラでは詩人の詩集出版記念会が開かれた。いわきの「大正ロマン」を象徴する店だ。

3月下旬、スペインからふるさとの内郷御台境に帰っている知人を訪ねた。3・11からちょうど1カ月後の4月11日、強烈な直下型地震がいわきを襲った。庭に亀裂が走り、レンガ造りの蔵も縦にいっぱいひびが入った。

母屋も蔵も解体することになって、電話がかかってきた。いわき市暮らしの伝承郷へと救出できる民具があるかもしれない。都合、3日通った。乃木バーの“遺品”が出てきた。

いわきの大正ロマンを調べている。格好の素材だ。フォークやナイフ(さびている)、ナイフを包んだままのナプキン、大正10(1921)年6月、11年11月の通い帳、12年9月の買い物帳のほか、封書・はがきなど数点をあずかった。

知人の話では、祖父は獣医。東京の女性と結婚し、麻布で父親が生まれた。そのあといわきへ帰り、乃木バーを出した。祖母が実質的に切り盛りしていた。乃木バーの乃木は、自分たちが住んでいた麻布=乃木希典の生誕地に由来するものでもあったか。

ナプキンのロゴマークがしゃれている。ナイフとフォークを丸くかたどったなかに、右から左へ4行、「西洋御料理/乃木バー/電話三六九番/平郡役所通り」とある。通い帳には食パン・クリームパン・バターパン、清酒などの品が、買い物帳には焼き豆腐・豆腐・生揚げ・長ナス・椎茸などの食材ほかが並ぶ。

バーというからアルコールを出したのだろうが、主体は“洋風料理”ではなかったか。東京出身の、知人の祖母はかなりハイカラな人だったと思われる。タイラカフェもおそらく似たようなメニューだったろう(ちなみに、こちらの電話番号は六二〇番、店としては後発だった?)

乃木バーの所在地がナプキンや手紙からわかった。平三町目1(現在は佐川洋服店)。石城郡役所は、今の銀座通りの北、常磐線を背中に抱えた並木通り沿いにあった(現在はいわき駅の西側駐車場あたり)。

大震災から1年余、知人・友人の家の解体・ダンシャリに何度か立ち会った。今度も伝承郷へ届けるもの、古着リサイクルを手がけているザ・ピープルに届けるもののほかに、いわきの文化史を彩るものが出てきた。きちんと調べて報告しないと所有者に対して失礼になる。そんな気持ちでいる。

2012年4月13日金曜日

桜が咲いた


4月も中旬、さすがに寒気が緩んできた。きのう(4月12日)は早朝、ジャンパーをはおらずに散歩した。手袋もしなかった。

夏井川の堤防に出ると、上流側から旧知のサイクリニストがやって来た。前はよく堤防上ですれ違った。冬場は家にこもっていたらしい。「三日前から走り出しました。会いませんでしたね」。たまたま6時前に散歩へ出たため、サイクリングの再開がわかった。この冬は寒くて、6時前に外へ出るなんてことはしなかった。

冬ごもりをしていた人間も春を感じ始めている。植物はもっと敏感だ。近所の庭の、月決め駐車場の、堤防土手のソメイヨシノが開花した。

早咲きで知られる大円寺の桜はどうか。散歩コースから集落の中へ切り込んで墓地に近づいたら、すでに満開だった=写真。どんな品種かはわからないが、とにかくここの桜は開花が早い。墓地の入り口にソメイヨシノがある。こちらも咲き始めだった。

ソメイヨシノより早くハクモクレンが咲いた。梅の花がまだ残っている。レンギョウも、ユキヤナギも花を咲かせた。地べたにはスイセン、クリスマスローズ、スミレ、ムスカリ、セイヨウタンポポ。名前のわからない花もある。

夕方、車で出かけた。朝見たポイントのうち、月決め駐車場のソメイヨシノなど3カ所の桜の前を通った。暖気につぼみが緩んで三分咲きになっていた。

2012年4月12日木曜日

人形出現


散歩コース沿いに高速バスの駐車場がある。ある日、出入り口のわきに作業服姿の人形が据え付けられた=写真

つばのついた青い帽子をかぶり、白を基調にした、清潔そうな作業服を着ている。顔は緑色の球状で、黒縁のメガネをかけたちょっとのんきな兄さんが、柵によりかかって一服している、といった風情。

遠目には、人間がそこにいるように見える。なんだろうと人形をのぞきこんだとき、いつも散歩ですれ違う男性と目が合った。彼も「最初はびっくりしたー」という。だれもがそう思ったことだろう。

駐車場にいる人はと言えば、運転手さんだ。ユーモア感覚に富んだ運転手さんが休み時間を利用してセットしたか。毎朝、そばを通るたびに彼の後ろ姿をちらりと見る。上着の色の組み合わせがしゃれている、どんな職種の人が着ているのだろう、重機オペレーターかトラックの運転手か、などと想像してみたりもする。

何日か前からは「気をつけ」の姿勢に変わった。柵に寄りかかっていたのはいいが、長く休みすぎたらしい。まだまだプロに徹しきれない若者を相手に、上司がくどくど説教をしている――そんな場面を思い描いて、勝手に楽しんだ。ほかには? メガネがない。爆弾低気圧に吹き飛ばされたか。

2012年4月11日水曜日

穴ぼこだらけ

まずは4・11だ。去年、3・11から1カ月を迎えて黙祷した。その直後に激しく揺さぶられた。また黙祷する事態になった。1年前のきょう。夕方だった。強震、雨、落雷、そして壊れた原発。この世の終わりを覚悟した――。

 日曜日(4月8日)に夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。そのとき、途中で目に入ったノリ面の異変。枯れ草に若芽のまじる斜面が穴ぼこだらけになっていた=写真
土石がほじくり返されて散乱している。人間がわざわざこんなことをするはずがない。すさまじい掘削力と破壊力だ。犯人は動物、だとしたらイノシシ。それ以外に考えられない。 

 東日本大震災と原発事故の影響でハンターが減った。イノシシから暫定基準値を上回るセシウムが検出された、森林の空間線量が高い、といったことから、ハンターの意欲が減衰したらしい。

いわき市はこのため、「イノシシの捕獲体制を維持し、農作物被害等の拡大防止を図る観点」から今年2月1日、「イノシシ捕獲報償金交付要綱」をスタートさせた。 イノシシを捕獲して北部ないし南部清掃センターへ搬入すれば、1頭1万円がもらえる――というものだ。4月からの新年度も継続して報償金を出す。24年度は820頭を対象にしている。

 夏井川渓谷の小集落――。イノシシの話には事欠かない。3・11以前のことだが、「夕方、道路でイノシシの親子に遭遇した」「線路を横断中、列車にはねられて下の道路に落っこちてきた」「ヤマユリの根もヤマイモもほじくり返して食べる」うんぬん。 わが無量庵へも出没する。2年ほど前には、ミミズを狙ってか菜園のそばの土手をラッセルした。広辞苑くらいの大きさの石などは平気で動かしてしまう。 

 日曜日に見たノリ面の惨状は、だからイノシシの仕業と察しがつく。が、これほどの荒らしようは初めてだ。厳冬によるえさ不足ということもあるのではないかと思うが、むろんそんなことはイノシシに聞かないとわからない。

2012年4月10日火曜日

カフェサーフィン再開へ


いわき市平の薄磯海岸にカフェテラス「サーフィン」があった。経営者の鈴木富子さんが31年前の4月20日、開業した。店は自宅に隣接して立ち、遠来の客は1階に車を止めて海の見える2階でくつろいだ。

鈴木さんはキルトなどの手仕事をライフワークにしている。3・11の大津波で店が流され、裏の自宅1階が津波にぶちぬかれた。家は立っているが、住める状況ではない。内郷の雇用促進住宅で「仮の暮らし」をしている。

被災後、確かめると、タンスのキルトが海水につかっていた。流されて砂に埋もれたキルトを回収した。店の看板、食器なども見つけた。

思い出の詰まったモノたちとともに、鹿島ショッピングセンター「エブリア」で「甦(か)えってきたキルトたち――カフェサーフィンすずきとみこの手仕事展」を開いた。津波に負けたくないから。それが昨年の10月29、30日。次は店の再開だ。

31年前に開業した4月20日に合わせて、常磐湯本町で「サーフィン」を再開業する。場所はJR常磐線湯本駅に近いメーンストリート(天王崎)の「菓子角田屋」跡だ。

日曜日(4月8日)、改装中の店をのぞき、再オープンにかける彼女の思いを聞いた=写真

なぜ湯本か――。母親の出身地で自分も湯本駅前で生まれた。3・11から半月余、被災したわが家を見て直観的に思った。「今度店を開くなら湯本だ、このまま終わったら一生後悔する」

自分の居場所であると同時に、お客さんにとっても居心地のいい場所にする。自宅と元の「サーフィン」をイメージして、大工さんに古材の調達を頼んだ。柱や床にそれが反映されている。テーブルと長いすは薄磯と同じものをそろえた。コンクリートのたたきにはビー玉を埋めた。

メニューも31年前のものを中心に据えた。焼き肉ランチ・ナポリタン・ミートソース・サンドイッチ・グリルサンド・焼きそば・焼きうどん。これに、コーヒー、手づくりのケーキなどが加わる。

“復興カフェ”の開店まであと10日。その準備に追われるのもまた楽しい。そんな様子の鈴木さんだった

2012年4月9日月曜日

春の妖精


早春植物、たとえばカタクリ。この「スプリング・エフェメラル」(春の妖精)は、いわきの平地では、県立高校の合格発表がある3月中~下旬に開花する。今年はしかし遅れている。やっと花に出合えるようになった、といったところか。

庭に、ニリンソウがある。親類の土地に自生していたのを、少し分けてもらった。いわきの春の進み具合を測る目安にしている。同時に、食材としての意味合いもある。

カタクリの葉を摘んでおひたしにする。同じころ葉を広げるニリンソウも摘んでおひたしにする。――30代前後に山菜に没頭して、食べられるものはひととおり口にした。

が、まかり間違えば中毒死、といったケースがないわけでもなかった。セリ。乾いた冬枯れの田んぼではなく、小流れにしぶとく生きている水ゼリを摘んでおひたしにする。春先は、そうして山の幸を味わう。ある山里の湿地で摘んだのを持ち帰り、根を切り落とす段になってン?となった。ドクゼリだった。

きのう(4月8日)のニュース。前日の土曜日夜、函館で男性2人がトリカブトの葉を食べて亡くなった。「ニリンソウなのでおひたしにするとうまい」。トリカブトの葉をニリンソウの葉と間違えて採ってきた、ということだ。確かに若い葉は似ている。要注意だ。

スプリング・エフェメラルは、夏井川渓谷にも生息している。日光が降りそそぐ空き地の小流れ。キクザキイチゲが小さな葉を広げ、花を咲かせた=写真。渓谷にもやっと妖精が躍り始めた。山菜採りらしい人間もちらほら見られるようになった。

2012年4月8日日曜日

「凍結・破損」やっと修理


水道工事業を営む同級生と金曜日(4月6日)午後、夏井川渓谷の無量庵で落ち合った。1月中旬に無量庵の洗面所の水道管が凍結・破損した。2年連続だ。通算では何回になるか、とにかく極寒期になるとやられる。そのつど同級生に連絡する。「花見の前に水が出ればいいから」。2カ月半は物置同然の無量庵行となる。

花見といっても、夏井川渓谷の花は桜ではない、アカヤシオ(イワツツジ)だ。いわきの平地でソメイヨシノが咲きだすころ、夏井川溪谷ではアカヤシオが冬眠から覚める。常緑のモミと松を除いては、木々はまだ裸のまま。殺風景な渓谷の斜面全体をピンクの花が彩る。

園芸種のソメイヨシノと違って、天然の春告げ花だ。自然が生み出した点描画を見るために人が押し寄せる。無量庵へも知人・友人がやって来る。

去年は、花見どころではなかった。3・11に伴う原発事故のために避難し、9日後に帰宅したあと、無量庵の様子を確かめに出かけた。

渓谷は、がけ崩れが起きて通行止め。警官の検問を受けながら、迂回路を使って無量庵へたどり着いた。置き時計などは落下していたものの、おおかたは無事だった。庭を支える石垣が一部崩れていた。石垣は今もブルーシートをかぶったままだ。

同級生と約束したのは午後1時。無量庵に着いて、部屋に入った途端に玄関が開いた。びっくりした。予定より早くやって来て、隣地(約30メートル先)にある井戸水のポンプを分解し、再起動にそなえていたのだという=写真。ありがたい。準備ができていれば、水道復活はすぐだ。

洗面所の水道の元栓を締め、電源を入れて呼び水をすると、ポンプから水がゴボゴボ噴き上げてきた。無量庵に戻って蛇口をひねると水が出た。以前はいちいち歩いて行ってOKのサインを出したが、ドコモのアンテナが立ってからはケータイでのやりとりだ。30分もたたずに工事が終了した。

きょう(4月8日)はこれからすぐ無量庵へ出かける。いい天気だ。雨戸を開けてふとんを干す、カメムシが越冬し、ノネズミが夜な夜な遊びまわる部屋を掃除して、少しでも人間くさい雰囲気を取り戻す。花見の前の大事な“儀式”だ。

2012年4月7日土曜日

いわきも「三春」に


滝桜で知られる福島県田村郡三春町の「三春」は、梅・桃・桜が一緒に咲くことに由来する。冬枯れの山野が、里が春になると花でいっぱいになる――いかにも桃源郷的なイメージがあって好ましい。その場合の桜は、ソメイヨシノではなくて山桜。ソメイヨシノは近代の交配種だから、三春の地名の由来にはふさわしくない。

東北で最初に春が訪れるいわき市もまた、今年は「三春」になりそうな気配だ。ただし、こちらはソメイヨシノを含めてのことだが。

わが散歩コースは、車で行けば河口まですぐ、という夏井川の下流域。対岸の丘陵中腹に梅の名所・專称寺がある。ふもとから山門にかけて植えられた白梅約500本がほぼ満開になった=写真。それが、こちらの堤防からもわかる。梅の香が川面を渡ってくるとうれしいのだが、それは無理か。

厳冬で梅の開花がだいぶ遅れた。4月に入ってようやく満開になった。マスメディアが取材するので知られるようになった平市街の早咲きソメイヨシノも、今年は開花が遅れた。

梅が咲き残るうちに、普通のソメイヨシノも咲きだすだろう。山桜も開花するだろう。庭の花桃も、ハクモクレンも……となれば、いわきの平地は一気に「三春」になり、「五春」にもなる。来週あたり、その気配が濃くなるのではないか。

厳冬に耐えていたいのちが、春の光をエネルギーに変えて目を覚ます――1年前は春がきたことも、花が咲いたことも、よくわからないままに過ぎた。今年は2年分、花見が楽しめる。

2012年4月6日金曜日

ツバメ飛来


ツバメが今年もいわきへやって来た。3月30日、イトーヨーカドー平店そばの禰宜町跨線橋付近を飛び交っていた。NGOのシャプラニールが運営する被災者のための交流スペース「ぶらっと」が、いわき駅前のラトブから駅東のヨーカドーへ引っ越した。その作業を手伝った帰りの初認だった。

厳冬のわりには、飛来は平年(4月11日=旧小名浜測候所調べ)より早い。ツバメにとっても「原発震災」2年目か、などと感慨にふけっていたら、2月初旬に共同通信がロンドン発で伝えた野鳥の放射性物質影響調査の不思議な記事を思い出した。

2月3日付の英紙インディペンデントに載った記事の要約だった。日米などの研究チームの調査によって、チェルノブイリ原発周辺より「福島の方が生息数への影響が大きく、寿命が短くなったり、オスの生殖能力が低下したりしていることが確認されたほか、脳の小さい個体が発見された」。

2月12日付小欄で次のような疑問をつづった。――いつ、どういうふうに調べたのかは書かれていない。が、3・11からまだ11カ月。鳥の交尾・産卵・孵化は基本的に一回きりだろう。なのに、随分詳細な知見が得られたものだ。寿命が短くなった? 調査が始まったばかりでそこまでわかるものなのか、と。

おととい(4月4日)、新聞の切り抜きを整理していたら、2011年9月8日付朝日新聞の「生物の静かな変化にも目を/チェルノブイリ研究者 福島でデータ収集」という記事が目に留まった。

そこには①夏に福島県内各地で、日米欧の研究者が放射能汚染の影響を調べて回った②計300カ所。一日14時間、100メートルごとに立ち止まり、5分間で聞いた鳥の声や見つけた昆虫、植物の生育状況などを詳しく記録した③警戒区域には入れなかった――とある。共同の「日米などの研究者」と朝日の「日米欧の研究者」は別か、別とは思えない。

「チェルノブイリでは、比較的汚染が少ない地域でもツバメの精子の異常や繁殖率の低下、くちばしや羽の奇形などの異常が増えていることが、過去の状態が書かれた膨大な文献との比較で分かった」(朝日)。福島ではなく、チェルノブイリだ。それも「膨大な文献との比較」の結果というから、長い時間をかけてのうえだろう。

昨年6月8日、いわき市川前町~川内村~田村市都路町ルートで実家の田村市常葉町へ帰った。母親の生家(都路町岩井沢)近くの店舗で、ツバメが営巣しているのを確認した=写真。この店の軒下では、私が小学生のころもツバメが子育てに励んでいた。そのことを思い出して、車を止めて様子をうかがっていたら、ツバメが巣に戻って来た。

親ツバメも、子ツバメも放射能の影響は受けただろうが、死んで解剖にでも付されなければ脳が小さくなったかどうか、などはわかるまい。共同の記事がいよいよ解せなくなったのだが、専門家にはそういうことがわかるらしい。

2012年4月5日木曜日

凶風一過


おととい(4月3日)午後からきのう午後遅くまで、いわき市は低気圧通過に伴う強風に見舞われた。雨も降った。が、ただの強風ではない。夜も、未明も「ビュビュビュ……」。強風をはるかに超える「凶風」だった。

西日本も、東日本も台風並みの暴風雨に見舞われた。被害も出た。いわきはどうだったか。列車が運休したり遅れたりしたほか、一部地域で停電になった。

低気圧が台風並みのエネルギーを持つようになった。それは前から実感していたことだ。2009年2月1日付「冬のアラシ」、2010年12月4日付「冬の狂風」。わがブログで低気圧が狂暴化していることを書いた。「アラシ」「狂風」ときて、今度は「凶風」だな――3・11から1年余、「半壊」の家に住む身としての実感だ。

風神が「ビュー」と息を吐く。が、「ビュビュビュ……」だ。息を吐いたら吸う、その瞬間は風がやむはずなのにやまない。吐き続けるだけになった。それゆえの「凶風」。テレビで知ったが、宮城県の仮設住宅では屋根が吹き飛ばされたところもある。

野口雨情の童謡に「葱坊主」がある。「びュ びュ 風が/山から/吹いた/昨日も 今日も/畑に/吹いた/畑の中の/葱坊主/寒かろな。」。ネギ坊主ができるころにはだいぶ暖かくなっている。「寒かろな」はありえないのではないか、と思っていたが、今度の爆弾低気圧だ。雨情は実景を詠んだのだと知る。

やっと風がやんだのは、きのう夕方。「凶風」一過だ。久しぶりに夏井川の堤防へ出た。

朝と夕ではコースを逆に取る。同じではつまらない。朝は国道6号常磐バイパスの終点から堤防に出る。夕方はその逆。夏井川と国道をまたいだ橋の下を歩く。そこに駐輪場がある。「凶風」のせいかどうかは知らないが、4台すべてが倒れていた=写真

2012年4月4日水曜日

マツモのみそ汁


いわきのハマの早春の味といえば、マツモのみそ汁、そして酢みそあえ。今は亡きハマの知人が語るハマの食の1年の始まりだ。

カツオ、サンマ、アンコウその他、季節ごとに展開されるハマの料理の豊かさに、マチの人間は、すべてを口にする機会がなくてもいわきに住む喜びを感じたものだった。

いわき地域学會がいわき市の委託を受けて、平成7(1995)年に『いわき市伝統郷土食調査報告書』をまとめた。それが、食文化の豊穣を思う源になっている。ハマの知人が調査責任者だった。

日曜日(4月1日)夕方、久しぶりに行きつけの魚屋さんを訪ねた。もしかしてカツオが入ってないかと思ってのことだが、空振りだった。代わりに、小さなイカと三陸産のマツモを買った。マツモは早速、みそ汁にした=写真

ようやくだという、マツモが入ってきたのは。厳冬だからか。いや、違った。そもそもマツモは寒流系の海藻だ。寒さより、東日本大震災による地盤沈下が生育に影響したのだという。

『伝統郷土食調査報告書』には、マツモは①冬から春によく繁殖する②早春の出始めが美味③磯のちょっと高い岩場に生息する――とある。いわゆる潮間帯、海に沈んだり空気に触れたりする、微妙な環境の海藻なのだろう。いわきの場合だと、その潮間帯を含む磯が、つまり地盤がおよそ50センチは沈んだ。三陸はもっと沈んだのではないか。

「ちょっと高い岩場」が地盤沈下によって高くなくなった、つまり生息環境が狭くなった。繁殖量が減った。そういうことか。東日本大震災は、場所によっては岩場と潮とマツモの関係、つまり自然と自然の関係を変えた。

2012年4月3日火曜日

かやぶき母屋解体


夏井川下流域の平菅波地区に古い神社がある。大國魂神社という。本殿が立つ鎮守の森があり、ふもとに宮司の山名隆弘さん、禰宜の息子さんそれぞれの居宅がある。かたわらで、かやぶきの母屋が圧倒的な存在感を放っている。

この母屋は一時、いわき地域学會の役員会の会場になった。終われば、囲炉裏を囲んで一献――ということもあった。

東日本大震災で神社や居宅が被害に遭い、母屋も「半壊」の判定を受けた。母屋は江戸時代から300年余の歴史を持つ。磐城平藩を治めた内藤家の一人、松尾芭蕉のパトロンだった露沾公が神社を訪ね、母屋の奥座敷を使ったという伝承もある。歴史的建造物だ。が、震災で傷めつけられ、いかんともしがたくなった。

「むざむざ重機の破壊にまかせてはならない」(山名さん)。古建築史家の一色史彦さん(土浦市)のアドバイスもあって、母屋の解体材はアクアマリンふくしまに寄贈され、そこに移築復元されることになった。

つまり、いったん「三百年余の使命を完遂して、一切を丁寧に解きほぐすこと」になった。そのための工事安全祈願祭がおととい(4月1日)午前、母屋前で行われた=写真

一色さんがあいさつした。「言葉に言霊(ことだま)があるように、家にも家霊(いえだま)がある」。いかにも家霊がこもっていることを実感し得るかやぶきの母屋だ。それが解体され、縁あってアクアマリンの一角で活用されるという、まれな例を胸に刻んだ。

2012年4月2日月曜日

アイデツツモウ


3・11まであと2日、という3月9日金曜日の朝、NHKテレが定番の「NYスタイル」で、ニューヨークに住む母親らの支援活動を取り上げた。被災地の子どもたちが描いた絵をデザインしたラッピングペーパー(包装紙)を買うことが支援になる、その支援の輪が広がっている、というものだった=写真

もしかしてこれは「いわき発」だ。「アイデツツモウ」活動の第二弾だ。ニューヨークからいわきへと主婦のつながりを逆にたどれるはず――。後日、いわきで活動している本人に確かめたら、その通りだった。

インターネットで知りあったいわきの田中由里子さんと横浜の阿部知子さん、ニューヨークのフィッツジェラルド富沢直子さんら3人の主婦が、ニューヨークのデザイナー石田美沙子さんを加えて「アイデツツモウ」プロジェクトを立ち上げた。

第一弾は、クリスマスラッピングペーパーの販売だった。3・11の津波で壊滅的な被害を受けた久之浜第一幼稚園(いわき)を支援するため、園児の描いたサンタや雪だるまの絵をデザインしてクリスマス用の包装紙にし、国内とアメリカで販売した。印刷費用を除く益金約17万円が後日、同幼稚園に寄付された。

第二弾としては、原発事故のために避難生活を余儀なくされている東洋学園(富岡町)の知的障がい児と、自閉症児を中心とした家族の会スマイル(大熊町)の子どもたちの絵をデザインした包装紙、ポストカードなどを販売している。これがNHKの「NYスタイル」で紹介された。

田中さんは被災者のための交流スペース「ぶらっと」が発行する「ぶらっと通信」の編集ボランティアでもある。そのミーティングの席で知りあった。

クリスマス用の包装紙のときには、尋ねられるままに地元いわきの印刷所を紹介した。東洋学園の子どもたちの存在は、私のブログで知ったという。「スマイル」の存在は「ぶらっと」の利用者、そしてボランティアの大熊町の女性から教えられた。田中さんの活動の根っこの一つに「ぶらっと」があった。

第二弾の包装紙、ポストカードはいずれも1枚80円。第一弾同様、益金は東洋学園とスマイルに寄付される。ネット販売もしている。詳しくは田中さん(080・6055・7484)へ。

2012年4月1日日曜日

新年度スタート


新年度がスタートした。私の関係するいわき地域学會も、3・11を機に「1-12月」の会計年度を「4-3月」に改めた。日曜日、4月1日。平成24年度の初日だ。これから、会の事業ではないが深く関係する人の家(神社)の行事に立ち会う。3・11がなければしなくてもよかった神事だ。

この日、関係するNGO・シャプラニールがいわきで開設している被災者のための交流スペース「ぶらっと」も、いわき駅前のラトブから駅東のイトーヨーカドー平店に場所を変えて再オープンする。神事も、再オープンも始まりの時間は同じ午前10時。神事が終わってから、ヨーカドーに駆けつける。

「ぶらっと」の引っ越し作業は30日午後から31日午後まで行われた。飛び飛びに参加した。31日午後3時ごろにはあらかた作業がすんで、さあ帰ろうかとなったときに、ボランティアの一人から耳打ちされた。シャプラの現地採用スタッフの一人、斉藤クンが31日をもって退職する、ついてはサプライズの花束贈呈をやるからぜひ参加を――という。

夕方4時45分、ヨーカドー4階の書店付近でボランティア一同が待ち合わせることになった。スタッフとは打ち合わせ済み。ひとり斉藤クンだけ知らない。スタッフルームで打ち合わせが終わるころ、忍び足で10人余が新しい「ぶらっと」に集まった。

東京の本部スタッフ1人のほかに、現地採用のスタッフは2人増えて4人。そこから斉藤クンが欠ける。スタッフルームから最後に斉藤クンが出てきた。ボランティアの顔を見てびっくりした斉藤クンに、一斉に拍手が送られる=写真。それから、花束贈呈だ。

斉藤クンは、もともとはイタリア料理人。東京からいわきへ帰り、やがてシャプラのスタッフになり、津波被災者や原発事故避難者の支援活動に従事した。「ぶらっと」が開設してからは常駐スタッフとして、持ち前の「和みの力」で行事の調整や話の聞き役などをこなしてきた。

で、自分の店=パンケーキカフェ「ポップライフ」を出すための退職――が決まったとき、ボランティア仲間が最後にサプライズを用意した、というわけだ。3・11後、新しくできたきずなのひとコマだった。