2022年5月31日火曜日

エレンがいなくなった


 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。朝、小川町に入ると、三島地内の夏井川に残留コハクチョウ「エレン」がいることを確かめる。

 5月最後の日曜日、29日――。いつもいる対岸の浅瀬にエレンの姿がなかった。午後4時前、隠居からの帰りに見ると、対岸を人が歩いていたが、エレンはやはりいなかった。

 どうしたんだろう。心配しながら帰宅すると間もなく、エレンの世話をしている小川町のSさんから電話が入った。

 27日に大雨が降って、エレンがいつも休んでいる中洲の草むらが水没した。姿が見えないので動物にやられたかと思ったが、それらしい様子はない。下流の平窪まで見てきたが、エレンの姿はなかった――。

 前に羽をけがして平窪に残留したコハクチョウがいる。このハクチョウの「その後」とエレンが重なった。

日本野鳥の会いわき支部の支部報「かもめ」第126号(2015年4月1日発行)に、同支部の事務局長を務めた峠順治さんが「左助・左吉と過した2200日~馬目夫妻の白鳥物語」を寄稿した。

 左助と左吉は飛来後、高圧線にぶつかり、翼をけがして北帰行がかなわなくなったハクチョウだ。

平成15(2003)年9月の大水で、夏井川の越冬地(平・中平窪)から約8キロ流され、そのまま下流の平・塩~中神谷に定着した。この2羽が呼び水になって、塩にもハクチョウの越冬地ができた。

左助たちの世話をしたのが、対岸・山崎の馬目さん夫妻で、峠さんは馬目さんの死とともに終わったハクチョウと馬目さんの9年間の交流(うち6年間、2200日は左助たちのために毎日)をつづっている。

左助と左吉には、越冬地直下の愛谷江筋取水堰が「壁」になったはずだ。その壁を越えて流されたわけだが、エレンも流されたとしたら、そこが第二の関門になる。

第一の関門は三島の越冬地直下の磐城小川江筋取水堰だが、ここは多段式の木工沈床なので、大水になればエレンだって簡単に流される。

 エレンは去年(2021年)の春に残留した。今年も1羽だけ残った。そこへ幼鳥が1羽飛来し、およそ1カ月、エレンのそばにいた=写真(左が幼鳥、4月17日撮影)。Sさんは「コレン」と名付けた。

コレンは、体力が回復したからか、5月6日になると姿を消した。本能に従って北を目指したのだろう。

そして、またまた自然の脅威がエレンを直撃した。エレンは去年の真夏にも姿を消したことがある。連日の猛暑が原因で岸辺の竹林にでも避難していたのではないか、私はそう解釈したが、もとより単なる推測に過ぎない。

単に猛暑(5月29日)が理由だったら、また三島に現れる可能性がある。が、今回は大水と同時に姿を消したのが気になる。

   翌30日、街へ行った帰りに堤防を利用した。対岸・山崎の岸辺に白く光るものがあった。エレンか! 双眼鏡で確かめたら、透明なごみ袋が日光を反射していた。大水で流れ着いたのだろう。 

2022年5月30日月曜日

真夏日にはならなかったが

        
 きのう(5月29日)は吹き荒れる風にも熱を感じた。夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。直射日光にさらされる時間を減らし、日曜日だけ坪庭の洗い場にホースを出して流しっぱなしにしている井戸水をがぶがぶ飲んだ。

 後輩が草刈りに来てくれた。私ら夫婦が隠居に着いたのは午前9時半ちょっと前。上の庭はすでにあらかた刈られてきれいになっていた。

何を刈らずに残すかも、これまでの経験で承知している。たとえば、風呂場の前のアヤメ=写真。これはそのままだった。菜園のネギのうねのそばに、辛み大根の花が咲いて種ができかけている。これも残った。

後輩が上の庭の残りと下の庭の草刈りを進めるなかで、三春ネギの苗を定植した。先週に続いて今週も100本ほど植えたところで作業をやめた。

風まで熱いカンカン照りだ。そんなときには「熱中症を避けるために、土いじりに熱中しない」と決めている。

種採り用のネギ坊主はかなりある。冬、ネギを収穫せずに残しておいたのだ。しかし、しっかりした太さのネギは数えるほどしかない。実際に結実するネギ坊主は限られる。

それはそれとして、越冬し、ネギ坊主をいただいたネギは根元に新しい茎を形成している。ネギ坊主を摘んだら終わり、ではない。

うねを掘り起こして溝をつくり、新しく形成された茎と苗床に残っている苗を定植する。それでようやく定植作業が完了する。

苗床にはまだ100本以上残っている。最終的には300本。そんなもくろみを立てながら、早々と日陰に退散した。

この日、北関東の栃木県佐野市と群馬県高崎市では最高気温が35.2度と、全国で今年(2022年)初めての猛暑日になった。

いわき市はどうか。福島地方気象台のホームページを開いて最高気温を確かめると、山田で29.6度、小名浜で25.8度だった。隣の広野町は県内最高の31.8度と真夏日を記録した。

隠居の室温が25度だったことから、渓谷は山田、ひょっとしたら広野の気温に近かったかもしれない。

この猛暑は、暮らしの上では今年の画期になった。季節が冬と夏の二つしかないとしたら、きのうでスパッと夏に切り替わった。カミサンは隠居のこたつカバーを外して、座卓だけにした。

初めて蚊に刺された日を記録している。今年は5月14日に耳の周りで飛び回り始めた。が、刺されたのは平年(5月20日)より遅い同25日だった。

わが家の庭には、カミサンが飾りとして陶器の鉢などを置いている。雨が降れば水がたまる。すると、ボウフラがわく。私は、朝、歯を磨きながらそれらの水を捨てる。

きのうの夕方になると、蚊が波状的に攻撃をしかけてきた。今年初めて、蚊取り線香をたいた。

2022年5月29日日曜日

スズメバチが侵入

                     
 「クモの巣を嫌って、庭に花を植えない家がある」。知り合いがフェイスブックに投稿した文章を読んで、「なるほど」と思ったことがある。

一種の食物連鎖だ。花が咲けば、蜜を吸いに虫が来る。虫がいれば、それをえさにするクモが現れる。そのクモや虫を狩るハチもやって来る。

 前に一度、1階部分を覆う三角屋根の直下の塩ビ管を出入り口にして、屋根裏(茶の間の天井裏)にスズメバチが棲みついたことがある。

三角屋根の手前、玄関わきの台所の壁に絡まった常緑のつたを切ったタイミングで、スズメバチは姿を消した。

茶の間の縁側の上、波形のポリカーボネートの庇(ひさし)には、毎年、アシナガバチが小さな巣をかけた。

アシナガバチは樹皮の繊維と自分の唾液(だえき)で巣をつくる。その巣は横から見ると、ワイングラスに似る。

正六角形ハニカム構造の巣房(すぼう)がボウル、柄(脚)がステム、付け根がプレートだ。ワイングラスと違って、アシナガバチのステムはとても短い。プレートも小さい。

この巣が2年前の8月下旬、突然消えた。庇の下には物が積みあげられている。一番上には飼っていた猫の寝床(元は人間の乳児を入れておいたわら製の“えじこ”)が載っている。そこをのぞくと、巣があった。ハチたちも動き回っていた。

ポリカーボネートが直射日光で熱せられ、アシナガバチの巣を支えていた根元の“ノリ”が、連日の酷暑で溶けてゆるみ、そっくりそのまま落下したのだろう。この事故が起きてからは、アシナガバチは軒下に巣をかけなくなった。

庭の緑が濃くなり、虫たちが活発に飛び交うようになるのは5月下旬。なかでも、イボタノキの白い花が満開になると弾みがつく。

この花にはアオスジアゲハが吸蜜に来る=写真(2018年5月撮影)。今年(2022年)はしかし、アオスジアゲハより早くスズメバチが現れた。しかも、茶の間に。

ただ迷い込んで来た? いやいや、どうも様子が違う。天井付近、あるいはテレビの裏や本棚、さらにこたつのカバーなどにも下りてくる。なにかを探っているような、変な飛び方だ。もしかして、巣をつくる場所を探している?

 何日か前にも1匹、スズメバチが台所に現れた。窓を開けて外へ誘導したが、それがきっかけになってスズメバチが家の中を飛び交うようになったら困る。

 カミサンは前に、夏井川渓谷の隠居でスズメバチに刺されている。痛みと腫(は)れがひどかったので、救命救急センターへ連れて行った。「また刺されたら、すぐ救急車を呼ぶように」といわれている。

いったん庭へ戻ったスズメバチが再び茶の間にやって来た。いよいよおかしい。ハエたたきを手に様子をうかがうと、天井板のすき間に入り込もうとする。

それはだめだ、天井裏に巣をつくられたら、人間が茶の間にいられなくなる。間合いをはかってパシッとやった。人間の暮らしの領域に侵入してきた以上は自衛するしかない。

2022年5月28日土曜日

半食品


   先日のブログでも触れたが、この春と初夏は、カミサンがいっぱいフキを摘んだ。夏井川渓谷の隠居の庭にフキが群生している。庭の草をとる感覚で収穫した。

 「きゃらぶき」は簡単だが、少し太くなったフキを煮たり、炒めたりするには下ごしらえが要る。毎週日曜日夜、カミサンは指先を黒くしてフキの皮むきに追われた。

 私はフキの油炒めが好きなので、直売所などに塩蔵品があるとつい買ってしまう。フキの油炒めそのものなら、なおさらだ。

子どものころは、フキノトウは苦くて食べられたものではなかった。が、その苦みが大人になったときに郷愁と結びついて、食を彩り豊かなものにしてくれる。フキノトウを刻んで味噌汁に放したり、ホイル蒸しにしたりしたのを、舌が受け入れるようになったのは20代半ばだった。

油炒めに関しては、フキノトウのような強烈な記憶はない。子どものときからご飯のおかずとしてなじんでいたのではないかと思う。

あるとき、街中にあるビルの食品コーナーをぶらぶらしていたら、ショーケースにフキの油炒めが陳列されていた。

さっそく買って、酒のつまみにした。ところが、フキの風味はどこかへ飛んでいた。ただただ砂糖の甘さが口に残った。

阿武隈の山里では、初夏に採って余ったフキを塩蔵する。ただし、それだけでは「半食品」にすぎない。

盆や正月などのハレの日に、塩抜きをして、5センチほどの長さに切って炒める。それがでんと大皿に盛られて出てくる。野趣を損なわない程度にやわらかく、あっさり甘く味付けされたフキは、いくら食べてもあきない。

先日のブログでは、「終わり初物」についても書いた。「初物」の反対で、山菜や木の実、キノコ、いや野菜も含めて、これで収穫・採取を終わりにする、というときに使う。

初物と終わり初物の間には旬がある。あっちでもこっちで採れる、となれば、お福分けが行き交う。いよいよ春から続くお福分けも先が見えてきた。

若いときは体力も気力もあったから、どっさりお福分けが届いても、なんとかなった。しかし、家族が減り、老いて夫婦2人だけになった今は、食べきれない量が届くと少々げんなりする。

それからの発想で、今年(2022年)、カミサンは「素材」として届いたお福分け、たとえばタケノコの場合だと、すぐ皮をむいて煮て「半食品」にしてから、近所にお福分けをした。

採ってきたフキも同じだ。タケノコもそうだが、ゆでて皮をむいた「半食品」だと、もらう人の表情が明るい。喜ばれていることが分かる。

三春ネギを定植する過程で、未熟な苗がいっぱい出た。捨てるのは忍びない。こちらは、よく洗って葉ネギとして利用することにした。

 カミサンが小口切りにして小パックに入れ=写真、冷凍保存にした。若いので香りも甘みもないが、彩りにはなる。こうするとやはり、喜んでもらってくれる人がいる。 

2022年5月27日金曜日

キュウリは交配しやすい

        
 いわき昔野菜保存会の通常総会が先日、中央台公民館で開かれた。会員は45人ほど。委任状をのぞけば、実際の参加者は10人ちょっとだった。

 去年(2021年)は新型コロナウイルス感染予防のため、資料郵送による書面審議にとどまった。やはり、対面の集まりはいい。総会後、ソーシャルディスタンスを保ちながら懇談した。

 いわき昔野菜とは、自家採種や株分けによって、世代を超えて受け継がれてきたいわきの在来作物のことをいう。

東日本大震災の1年前、市が昔野菜の発掘調査事業を始めた。平成27(2015)年度まで、6年間継続し、併せて実証圃(ほ)での栽培、フェスティバルの開催、冊子の発行などを実施した。

事業に携わった人々を中心に、同保存会が結成された。退職後、家庭菜園を始めたという人や主婦も加わっている。

発掘された昔野菜は73種類に及ぶ。小白井きゅうり・いわき一本太ねぎ・山玉おくいも・おかごぼう・むすめきたか(小豆)などで、保存会としても市民レベルで昔野菜の発掘・保存・普及を目的に、種をつなぐ活動を続けている。

私も夏井川渓谷の隠居で、在来作物の「三春ネギ」(73種類の中には入っていない)を栽培している。渓谷の小集落でつくられているネギに、ふるさと・阿武隈の味の記憶を呼び覚まされた。

住人から種と苗をもらって栽培を始め、自家採種~保存~播種(秋まき)~定植~収穫の2年サイクルを守ってきた。ところが、東日本大震災に伴う原発事故が起きて、敷地の全面除染が行われた。

菜園の土が取り除かれ、いったん更地になった。ほかの作物はともかく、三春ネギの種だけは絶やさない、そう決めて、今も栽培・収穫・採種を続けている。

役員会や総会のあとの懇談会は勉強の場でもある。昔野菜を栽培していると、「あれっ」と思うものができることがある、という人がいた。

そこから「交配」が進みやすい野菜と進みにくい野菜の話になった。キュウリは交配しやすいのだという。

昔野菜の「小白井きゅうり」の苗と別のキュウリの苗を近くで栽培し、小白井きゅうりの種を採ったら……。翌年、小白井きゅうりとは違う形質のものが生まれたらしい。

その話を聴いて思い出した。私も去年(2021年)、地元の住人からもらった小白井きゅうりの苗=写真=と、市販のキュウリの苗を植えた。

どちらのキュウリもすべて収穫して食べた。小白井きゅうりの種を採っていたら、今年は違う形質のものができて、「あれっ」となったかもしれない。

それと、肥料も高騰しているという。ネットで情報を探ったら、カナダに次いでロシアやベラルーシが塩化カリの主要な生産国、とあった。ロシアのウクライナ侵攻後、両国からの供給が停滞しているそうだ。戦争は巡りめぐって庶民の足元をおびやかす。

2022年5月26日木曜日

『クスノキの番人』

           
 一世代若い元同僚と話していて、「なるほど」と思ったことがある。好きな作家は井坂幸太郎(1971年~)や星野智幸(1965年~)だという。

 私が本を読み始めたころは大江健三郎(1935年~)や石原慎太郎(1932~2022年)だった。なんといっても「同時代の作家」という思いがあった。

 元同僚にとってもそれは同じだろう。井坂や星野は自分たちと同じ時代を生きている作家という思いがあるに違いない。それよりさらに若い世代は、やはり自分たちと年齢的に近い作家に引かれるはずだ。

 10代で20代の大江に触れた人間は30代、50代、いや70代になっても、大江が気になる。しかし、あとから登場した井坂や星野にはなかなか目が向かない。

ということを「まくら」にして、最近読んだ小説の話を。いや、正確にはその本にからむ話を――。

 カミサンが移動図書館から東野圭吾(1958年~)の小説『クスノキの番人』(実業之日本社、2020年)を借りた=写真。

 以前、星野智幸の小説『植物忌』(朝日新聞出版、2021年)が新聞の書評欄に載った。変わったタイトルに引かれて、図書館のホームページでチェックしたら、「貸出中」になっていた。「貸出中」が消えるのを待って、借りて読んだ。

 簡単にいえば、人間が植物になったり、刺青の代わりに植物を生やしたりする変身の物語だった。

『クスノキの番人』も『植物忌』と同じように、人間と自然の交流を軸にした物語ではないだろうか。そんな見立てで読んでみた。

最初は東野と星野を混同していた。途中で混同に気づいて驚いた。作者は推理作家だった、しかも私より10歳若いだけではないか。

『白夜行』というタイトルの作品も書いている。「白夜」に引かれて読んでいたかもしれないと思ったが、それは佐伯一麦の『ノルゲ』(講談社、2007年)のことだった。佐伯はノルウェーに留学した妻に同行して、同地に1年間滞在した。その体験をつづっている。

『クスノキの番人』に登場するクスノキは、直径が5メートル、高さが10メートル以上もある巨樹だ。幹の内部に空洞ができている。新月と満月の夜、中で祈念すれば願いが叶うという。

クスノキに「念」を預ける、だれかがクスノキからそれを受け取る。「預念」と「受念」の関係では、「念」以外の心のひだまで受け取る側に伝わってしまう。人間と人間の間に巨樹を媒介させ、物語として成立させたところが人気の秘密なのかもしれない。

 図書館のホームページで確認すると、市内6図書館に10冊ある同書が常に「貸出中」になっている。裏を返せば、予約が殺到しているということだ。

ディーリア・オーエンズ/友廣純訳『ザリガニの鳴くところ』(早川書房、2020年)も、本のない内郷を除く5図書館ですべて「貸出中」」になっていたときがある。「貸出中」から市民がどんな本に興味を持っているかがうかがえる。

2022年5月25日水曜日

バターナイフ

もう1カ月前のことだ。四倉のワンダーファームで「福の島クラフトフェア」が開かれた。アッシー君を務めた。

会場入り口近く、直売所「森のマルシェ」の前にはフードブースがあった。私は、「焼き小籠包」と郡山ブランド野菜の「御前(ごぜん)人参」を買った。カミサンは、福島県授産事業振興会のブースから木製のバターナイフを買った=写真。

このごろは昼にパンを食べることが多くなった。先日、このナイフがバターとともに出てきた。

 バターナイフを買ったとき、リーフレットをもらった。それによると、同振興会は障がい者がつくった授産製品の販売促進、工賃向上支援、技術開発支援、農福連携支援事業などに取り組んでいる。

木製ナイフでパンにバターを塗りながら、なぜかシベリアに抑留された元日本兵の木製スプーンを思い出していた。同じ手製だったからだが、それだけではない。

中国大陸や朝鮮半島で終戦を迎えた日本兵が、スターリン体制下のソ連に抑留される。彼らは収容所に入れられ、過酷な労働を強いられた。

平成21(2009)年6月。いわきフォーラム’90主催のミニミニリレー講演会で、市内に住む帰還者から抑留体験を聴いた。拙ブログで振り返る。

過酷な労働と粗末な食事、仲間の衰弱死、望郷……。講演当時85歳の体験者3人と、亡くなった1人の奥さんの計4人が淡々と、ときに嗚咽(おえつ)を抑えながら体験談を語った。抑留生活を物語るバッグや靴とともに、自作の木製スプーンが展示された。

立花隆の『シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界』(文藝春秋)に、<再録「私のシベリヤ」>が収められている。

若く無名だったゴーストライターの立花(当時29歳の東大哲学科の学生)が香月にインタビューし、香月の名前で本になった。やはり、ここにも木のスプーンの話が出てくる。

「伐採した松の枝を少しへし折ってきて、収容所に帰ってから、スプーンをこしらえた。ハイラルにいるころ、立派な万能ナイフを拾ったことがある。(略)ネコババしてシベリヤまで持ってきていた。何度かの持物検査でも、無事に隠しおえてきた。このナイフとノミで形をつくり、後は拾ってきたガラスの破片で丹念に磨いて仕上げた」

バターナイフからシベリア抑留の木製スプーンに連想が飛んだのは、やはりロシアのウクライナ侵攻が影響している。

ロシアは投降したウクライナ兵を支配地域内に連行している。「捕虜」ではなく、「戦争犯罪人」として一方的に裁くのではないか、そんな懸念ももたれている。元日本兵の先例が頭をよぎる。

 さて、木製のバターナイフはどこの授産施設でつくられたものだろう、振興会のホームページをのぞいたが、木工品の中には見当たらなかった。それはそれとして、ナイフはシンプルで使いやすかった。 

2022年5月24日火曜日

そろそろ「終わり初物」に

                  
 この春と初夏は、カミサンが毎週日曜日、フキ摘みに精を出したために、食卓には「きゃらぶき」が絶えなかった。

 フキは、夏井川渓谷の隠居の庭に群生している。わざわざよそへ採りに行く必要はない。庭の草をとる感覚で摘むことができる。

 今年(2022年)は、フキノトウの 発生が遅れた。が、3月になって出始めると、次々に現れた。これも毎週、カミサンが採った。

 きゃらぶきは、若いフキを使うので皮をむく必要がない。しかし、丈がのびたフキはそうはいかない。煮物や炒め物にするのに、下ごしらえをする必要がある。

それでも、三和町のふれあい市場や道の駅よつくら港で売っているフキのようには軟らかくならない。何か下ごしらえで抜けているものがあるのだろうか。「食べるだけ」の人間にはよくわからない。

ミョウガタケ=写真上1=は、わが家の庭に出る。これは私が朝、根元に包丁を入れて切り取る。小口切りにして味噌汁に放す。口の中に広がる独特の香りに、春がきたことを実感する。

 シドケ(モミジガサ)=写真上2=は後輩が届けてくれた。いわき市南部からのお福分けのお福分けだった。けっこうな量だ。

 里山を巡り歩いていたころは、たまに少量を摘んでおひたしにした。この山菜も香りと苦みがある。

香りにはストレスを解消する働きがあり、苦みには体内の老廃物や毒素を排出する効果が期待できるという。

 コゴミ(クサソテツ)は隠居の近くに出る。今年(2022年)は見に行くのが遅れて、葉が開ききっていた。摘むのをあきらめていたら、お福分けがどっさり届いた。

 コゴミはワラビと違ってあく抜きをする必要がない。簡単におひたしにできる。温和な味は万民向きだろう。

 といっても、旬は決まっている。「賞味期限」がある。例えば、ミツバ。これがわが家の南隣、義弟の家の庭に群生している。

 カミサンが草むしりの延長で、大きい葉のミツバを摘んだ。刻んでみそ汁に放したら、葉が硬かった。中原中也の「骨」に出てくる「みつばのおひたし」のような感慨からはほど遠い。

ミョウガタケも、夏になると丈がのびて硬くなる。現役のころ、土曜日に隠居に泊まり、庭からミョウガタケを取って来て、小口切りにして味噌汁に放したが、硬くて食べられたものではなかった。

 夏井川渓谷の小集落で教えられたことばに「終わり初物」がある。「初物」はシーズン最初に収穫・採取、あるいは買って口にする野菜・果実・山菜・キノコなどのことだ。「終わり初物」はその逆、旬を過ぎたので収穫・採取をこれで終わりにする、というときに使う。

 ワラビは、渓谷では4月末に「初物」が手に入る。摘まれたワラビからはまた子ワラビが出る。これをまた摘む。そうして夏がくると、次の年のことを考えて「終わり初物」にする。

 わが家のミョウガタケも、丈が伸びて葉を広げるようになった。義弟の庭のミツバ同様、終わり初物にする時期が近づいてきた。

2022年5月23日月曜日

日曜日の震度5弱

        
 日曜日(5月22日)に夏井川渓谷の隠居へ出かけ、菜園の溝にネギ苗を100本ほど植えた。雨は上がったが、雲は湿って低い。残りのネギ苗は次の日曜に植えることにして、昼前に土いじりを終えた。

育ちがいまいちのネギ苗は葉ネギとして利用する。きれいに洗って、すぐ調理できるまでにするのが私の役目。大きく浅いざるが葉ネギでいっぱいになった=写真上1。

 ちょっと早めの昼食を済ませ、こたつに入って横になる。睡魔が下りかけたとたん、大きな揺れに見舞われた。スマホのエリアメール(緊急速報)のアラームも鳴った。

ラジオはすぐ地震放送に切り替わった。震源は茨城県沖。しかし、いわきが最大震度5弱だという。

東北地方太平洋沖地震が発生する2日前、やはり渓谷の隠居にいて、やや強い揺れを感じた。それを思い出した。3・11の前震だったとは、そのとき知る由もない。2011年3月10日付のブログを要約して紹介する。

――2011年3月9日は朝から昼過ぎまで、夏井川渓谷で過ごした。間もなく正午、というときに、家がカタカタいいはじめた。急に風が吹き始めたかと思うくらいに、揺れは遠くからやってきた。大地の底からグラッとくる感じではなかった。

「地震かな」。軽い身震いのようなものがしばらく続いた。そのうち、全体がガタガタ揺れ始めた。横揺れが長く続いた――。

今度の地震はいきなりきた。2カ月半ほど前の3月16日深夜、やはりいわきで震度5強~5弱の大地震が起きた。それもいきなりだった。震源は福島県沖。

そのとき、渓谷の隠居では茶の間の蛍光灯の傘が外れた。3・16に比べたら、今回は落下物はない。が、逆に自宅の様子が気になった。カミサンも同じだったらしい。

いつもより早く隠居を出る。渓谷の落石は? なかった。家に着くとすぐ、中の様子を確かめた。

茶の間は無事。台所では楕円形のお盆と茶筒が、店では小さな飾りが一つ床に落ちていた。階段の本は、今回は無事だったが、寝室の本が一部落下していた。

2階は? 3月16日にかなり資料などが崩れた。まだ全部元に戻してはいない。また大きな地震がくるからと、このごろは必要な資料を探しながら片付ける程度にしている。

だから、見に行くつもりもなかったが……。やはり気になって、あとで確かめた。3・16の崩れは残っていたものの、「あれっ」となるほどの変化は感じられなかった。

カミサンが店の一角を地域図書館「かべや文庫」として開放している。壁に時計がかかっている。もう5、6年前から動かなくなっていたのが、3・16の揺れで自然に振り子が動き出した。あとで見ると、地震がきた時間のままで止まっていた=写真上2。

福島県沖といっても、南北に幅がある。3・16は北部だった。今回は南部のいわきに近い茨城県沖だ。南部でもいつかは、という覚悟が必要なのだろう。

2022年5月22日日曜日

動物行動学者

                               
 いわき総合図書館に『動物行動学者、モモンガに怒られる』(山と渓谷社、2022年)=写真=という新着図書があったので、借りてきた。

 著者は公立鳥取環境大学の小林朋道副学長で、副題に「身近な野生動物たちとの共存を全力で考えた!」とある。

 毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ通い続けて四半世紀になる。交通事故で死んだ生き物も、生きて森を動き回る鳥獣も見てきた。住民からもたびたび興味深い話を聞いた。

 渓谷の住民は日々、自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。ときにはしっぺ返しをくらうとしても、自然をなだめ,畏れ、敬いながら、折り合いをつけてきた。

その意味では、住民は動物行動学者以上に動物に詳しい。植物や菌類(マツタケなど)の生態にも通じている。

この四半世紀の渓谷での見聞、体験を重ねながら、『動物行動学者、モモンガに怒られる』を読んだ。

 モモンガは主にスギの葉を食べ、杉の樹皮をはいで巣の材料にするという。それで思い出した。

夏井川渓谷にはモモンガと同じげっ歯類で、モモンガよりは大きいムササビが生息する。森の中の小さな社(やしろ)の前に杉の木がある。幹の南側の樹皮がそそけだっていた。「ムササビかリスがはがしたんだ」と住民に教えられた。

夜間、車で走っていたとき、山側から谷へと滑空するムササビを見たことがある。ムササビも杉の樹皮をはいで巣の材料にするというから、食べ物も似ているか。

 タヌキたちは決まった場所に集中して糞や尿をする。「ヒトの公衆トイレと同じ」なのだとか。

去年(2021年)の冬、隠居の下の庭の隅に、この公衆トイレができた。震災前の師走、対岸の森から水力発電所の吊り橋を利用して渡って来るタヌキを目撃したことがある。人の気配が消えたところでは、昼間でも歩き回るらしい。「溜め糞」をしたグループも対岸の森からやって来たか。

ヤマカガシとヒキガエルは深い関係にあるという。ヤマカガシは自身が生産した毒のほかに、ヒキガエルが生産した毒も利用しているといわれているそうだ。

「ヤマカガシがヒキガエルを食べ、ヒキガエルの耳腺(じせん=耳の後ろにある分泌腺)や背中の分泌腺の毒を、自分の頸腺に溜めるのだ」という。

前に紹介した草野心平の詩「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉」を思い出した。「死んだら死んだで生きてゆくのだ」という1行が気に入っている。
 ゲリゲは、するとヒキガエルだったか。ヤマカガシに飲み込まれてもヒキガエルの毒はヤマカガシに受け継がれる。まさに、死んだら死んだで生きてゆくのだ――を実証するように。

文学を科学で説明しても仕方がない。が、文学と科学が交差するような場面がある。ゲリゲはそんな存在に思えてきた。

2022年5月21日土曜日

土地区画整理事業

 いわき市泉町に住むカミサンの知り合いから電話がかかってきた。「要らなくなったものがある」という。いつものようにアッシー君を務めた。

 あらかじめ住所を書いた紙を渡される。「泉町・滝尻一丁目〇×」とある。正式には「泉滝尻一丁目〇×」だろう。

初めてのところなので、行く前にグーグルマップで場所を確認しようとしたら……。肝心の地図が出てこない。普通は「泉滝尻」でも表示されるのに、どうしたことだろう。

 仕方がないから、検索を続けてそれらしい地域を絞り込む。福島臨海鉄道が小名浜からJR常磐線泉駅へ向かって大きくカーブし、それと交差するように常磐線が走っている。その南側に「泉滝尻一丁目」があることがわかった。

泉第三土地区画整理事業に伴う町名と郵便番号の変更を知らせる地図もあった=写真。変更予定日はなんと「令和4年2月26日」だ。

 それでわかった。町名が変更されて3カ月もたっていない。グーグルマップにはまだ新住所が反映されていないのだ。住所変更を告知する泉滝尻一丁目の企業も、検索は旧住所で――と説明していた。

なるほど。土地区画整理事業で生まれた泉滝尻一、二、三丁目、それに泉町一、七丁目に絞ると、ネット上は古いマップのまま、ということになる。

 とりあえず泉滝尻一丁目の大きな公園を目安に出かけ、公園に着いてからカミサンが電話を入れた。

 公園の北側だということは見当がついていた。が、いざ公園を起点に、カミサンを介して西だ、北だ、といわれてもよくわからない。

いったん大きな目標(スーパーマルト)まで戻る。そこから指示に従って、公園の西側を通りすぎ、常磐線の線路(土手)が見えるところまで北上すると、別の道にオレンジ色の旗が立っていた。

その旗の方へ向かうように、という。旗を目指して進むと、前方にケータイを耳に当てている女性がいた。カミサンの知り合いだった。というわけで、ようやく目的地にたどり着く。

いわき市の「いわきの『今むがし』――泉町」(フェイスブック)によると、泉駅の南側では昭和59(1984)年11月に泉第一土地区画整理事業が、同62(1987)年11月に同第二土地区画整理事業が完了した。駅の北側でも、平成2(1990)年11月に泉玉露土地区画整理事業が完了した。

これらの事業が進められた結果、泉はいわき市内でも人口・戸数が増え続けている地区として知られるようになった。

さらに、今年(2022年)、泉第三土地区画整理事業で泉滝尻一丁目などの新町名が誕生した、というわけだ。

カミサンの知り合いは、震災前は双葉郡に住んでいた。もともといわき出身者だ。原発事故でわが家の近くに避難し、あとで泉に引っ越した。前に古着類を引き取りに行った郷ケ丘の家もそうだった。

 新興住宅街には吸収力がある。そして、連絡がない限り、足を踏み入れることもない。なかでも泉の変わりようにはただただ驚いた。 

2022年5月20日金曜日

老楠も若葉を

                     
 いわき市小川町の関場を過ぎると、国道399号に夏井川が並行する。道路をはさんだ山側と岸辺で、ニセアカシアが白い花をまとっている=写真。

ずっと下流、中神谷の河川敷でもニセアカシアが自生し、5月になると花を咲かせていたが、令和元年東日本台風被害からの復旧・国土強靭化事業のなかで、立木伐採・堆積土砂撤去が行われ、ほとんど姿を消した。

 同じころ、いわきの平地の山では、暗い緑と明るい緑がまだら模様になる。5月中旬にはさらに、明るい緑に「黄色いかたまり」が点々と交じる。

それに気づいたのは、平菅波(国道6号)~同上高久(県道下高久谷川瀬線)を車で移動していたときだ。暗い緑は杉、明るい緑は落葉樹と照葉樹(常緑樹)。照葉樹のなかにはクスノキも交じっているかもしれない。

カミサンがたまたま現代の女性3人による連歌(れんが)の解説書を読んでいたときだ。

最初の連歌の発句に「老楠といへども五月(さつき)若葉かな」とあった。なにかピンときたらしい。「これ、この句」と本を差し出した。「おお、わかる」。私も応じた。

解説には「老い楠も若葉を茂らせる五月の力強さ。ハイネの『美しき五月になれば』や佐藤春夫の『望郷五月歌』を思い出す。『熟年女性のわれわれも、若さにあふれて、さあ世吉(よよし)連歌に挑戦しよう』という意気込みとか」とあった。

「世吉」とは44句を詠みつなぐ連歌のことである。その最初の例句に引かれたのは、解説にもあるように、老楠の若葉から熟年世代の元気を連想したからだった。

時の移り行きをどうとらえるか。時間は過ぎ去るのか、何度も巡って来るのか。若いときに、2歳年下の哲学者内山節さんの著書をむさぼり読んだ。そのなかで学んだことがある。

自然の中では、時間は循環している。落葉樹でいえば、春に木の芽が吹き、夏に葉を広げ、秋に実をつけて、冬には葉を落とす。1年ごとにこれを繰り返す。

つまり、時間は「年輪」となって木の内部に蓄積される。常緑のクスノキも基本的には同じだろう。初夏には若葉をまとって、古い葉を落とす。

老人も体力的にはともかく、蓄積された経験と時間のなかで生きている。初夏になれば気持ちが若々しくなる――そんな解釈が可能になる。

 「背筋がシャンとしている」。あるとき、知り合いの若い娘さんにいわれた。「背筋がシャンとしている人にボケている人は少ないよね」。そういう見方があるのかどうかはわからない。が、悪い気はしなかった。

 カミサンからはいつも注意される。「背中が丸まっているよ」。そのたびに陸上競技部時代の歩き方をイメージする。少なくとも、シャンとしているうちは「ボケ度」は目立たないだろう。これだって「老楠といへども五月若葉かな』だ。

2022年5月19日木曜日

農業機械

        
 日曜日のたびに平の郊外~小川町を通る。田んぼが耕起され、あぜ塗りが行われ、水が入ったと思ったら、もう田植えが終わっている。

4月末までは刈田だったのが、5月も中旬の今は、すっかり緑の苗がそよぐ水田に変わった。

私たちが子どものころは、梅雨時が田植えのピークだった。苗の生長に欠かせない水が天から降ってくる、そういう気象条件を利用していたのだろう。それからすると、今は1カ月は早い。

それに、昔は牛馬と人力が頼りだった。家族はもちろん、親戚その他が駆けつけて苗を植えた。私も母親の実家の田植えにくっついて行って、田んぼに苗を投げ込むのを手伝ったことがある。

阿武隈の山里で生まれ育った。両親は町の中で床屋を営んでいた。農家ではなかったが、親戚の田植えと稲刈りの手伝いには駆り出された。

そんな子どもにも忘れ難い田植えの光景がある。小学6年生になって間もない6月。汽車で小名浜港へ日帰りの修学旅行が行われた。夏井川渓谷を過ぎると、急に平野が広がり、人がいっぱい出て田植えをしていた。

いわきの住人になり、日曜日ごとに渓谷の隠居へ通っている今は、そこが小川町の片石田であることを知っている。

 ここでも、田植え時に人があふれるようなことはなくなった。トラクターが耕起し、水の張られた田んぼで代かきをし、田植え機が行ったり来たりする。稲刈り時期になるとコンバインが入る。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のひとつ、フェイスブックでも田植えの画像がアップされる。それで、米を作る側の情報も手に入る。耕運機はもちろんだが、田植え機にも人間が歩きながら動かすものがある。

稲作関係だけでも、多種多様な機械がある。機械がないと小人数ではやっていけない、ということは、田んぼの中の道路を行き来するだけの人間にもわかる。

 それ以外にも、農家にはいろんな機械があるようだ。先日は、小川町の道路沿いのナシ園で赤い車を見た=写真。

 なんだ、これは! カミサンはもちろん、私も初めて見る農業機械だ。あとで、ネットで検索したら、「スピードスプレーヤー」というものらしい。

 果樹園は広い。歩いて薬剤噴霧をするには骨が折れる。それをゴーカートのような機械でやるのだ。胴体にタンクがあり、その後ろに噴霧のための送風機が付いている。

「百姓バッパ」を自称した作家吉野せいは、夫の詩人三野混沌(吉野義也)とともにナシを栽培して生計を立てた。

どの芽を残すか、「この芽ならいい花がつくってことはもう冬のうちから見通しです」「果物づくりは面白いので、わたしはよく研究しました」。1歳にも満たずに亡くなった次女には、「梨花(りか)」と名づけた。

それほどせいはナシ栽培に打ちこんだ。せいが生きていた時代には、むろん赤い車はなかっただろう。が、働きづめの生産者としては、そういうものを夢に見ることはなかったかどうか――赤い車を見て、ふとそんなことを思った。

2022年5月18日水曜日

アミヒラタケが発生

                            
 夏井川渓谷の隠居に着くと、雨戸をあけて部屋の空気を入れ替える。それから庭の木を、地面を眺める。この1週間で変わったところがあるかどうかをチェックする。

 植物は生きている。菌類も生きている。1週間前よりは生長し、あるいは衰える。それは当然だが、1週間前にはなかったキノコが生えたり、花が咲いたりすると心が躍る。

キノコの生(な)る木がある。樹種がわからないのが悔しいのだが、木の内部には複数のキノコの菌糸が張り巡らされているようだ。

あるときはアラゲキクラゲが、ヒラタケが、といった具合にキノコが姿を見せる。5月15日に見ると、アミヒラタケが発生していた=写真上1。

初めてアミヒラタケに気づいたのは、平成30(2018)年の師走。ヒラタケに似るが、下から見える傘裏は“ひだ”ではなく“管孔”だ。

1週間後に採取し、図鑑に当たるとアミヒラタケだった。名前にヒラタケと付いているが、ヒラタケの仲間ではない。

ヒラタケはヒラタケ科、アミヒラタケはサルノコシカケ科(あるいはタコウキン=多孔菌科)だ。

やわらかい幼菌のうちは食べられるが、すぐ硬くなる、とネットにあった。確かに、発生に気づいてから何日かたっていたが、姿は変わらない。触ると硬かった。サルノコシカケの仲間だということが実感できた。

令和2(2020)年10月には、ヒラタケとアミヒラタケが同時に生えていた。今回はまだ5月中旬だ。条件がそろえば、いつでも姿を現すのだろう。

地面ではどうか。隠居の裏、道路との境に先週まで気づかなかった花のつぼみがあった=写真上2。サイハイランだ。

前に検索してわかったのだが、サイハイランは「部分的菌従属栄養植物」らしい。そのときに書いたブログを抜粋する。

――サイハイランは緑色葉を持っているが、薄暗い林床にいるため独立栄養だけで生育は難しいと考えられていた。そこで研究が進められた結果、ナヨタケ科の菌類と菌根共生をしていることがわかった。

緑色葉を持ちながらも菌根菌に炭素を依存する「部分的菌従属栄養植物」である可能性が考えられるという(谷亀高広「菌従属栄養植物の菌根共生系の多様性」)。

ついでに、ナヨタケ科のキノコはと、手持ちの図鑑に当たったら、ヒトヨタケ科にナヨタケ属があるばかり。こちらも近年、再編成されてナヨタケ科が設けられたようだ。ヒトヨタケ、キララタケ、イヌセンボンタケなどが入る――。

サイハイランは、ある年、突然、庭のモミの木の下に出現した。いつも同じところから生えるかというと、そうでもないようだ。

 今年(2022年)は隠居と道路との境に5株も現れたが、前に写真を撮ったところには影も形もなかった。

 下の庭に「フキ畑」がある。カミサンが若いフキを摘んでいたら、キノコがあった。サケツバタケらしいが、よくわからない。隠居ではこうして不意に、興味をそそられるものが現れる。

2022年5月17日火曜日

キューピット像

           
 いわき駅前の総合図書館で、「いわきの公園」をテーマに、令和3年度後期常設展が開かれている(5月29日まで)。先日、初めて展示コーナーをのぞいた。

 いわき市内にある公園のうち、平の松ケ岡公園、平中央公園、小名浜の三崎公園を取り上げ、沿革とエピソードを紹介している。

平中央公園に、彫刻家本多朝忠(ともただ)さん(1895~1986年)の作品「キューピット像」がある=写真。

もともとは、平駅前大通りと国道6号が交わる「ロータリー」(円形交差点)にあった。そこに設置されたのが昭和32(1957)年であることを、今度の展示で知った。

さらに、いわき市がフェイスブックに投稿している「いわきの『今むがし』――「平駅前大通り2」でロータリーの沿革を確かめ、子どものころに見たロータリーとキューピッド像をめぐる記憶の混同が整理された。

まずは、ロータリーについて。直径は20メートルあった。昭和20年代初め、平市街には、交通信号は一つもなかった。大町経由の新しい国道6号も建設中だった。「ロータリーは連合国軍総司令部(GHQ)の指示により、将来の新しい都市交通を見越して設けられた」のだという。

昭和32年、戦災復興事業10周年を記念してロータリーが小公園化され、中央に噴水付きのキューピット像が設置された。キューピット像は平ロータリークラブが寄贈した。

私は阿武隈高地の西側、田村郡常葉町(現田村市常葉町)で生まれ育った。昭和32年といえば、小学3年生だ。

小名浜に叔父一家が住んでいた。小学校に上がる前も、上がった後も、祖母に連れられて何度か訪ねたことがある。

平までは磐越東線を利用し、平駅前からはバスに乗った。昭和20年代後半から30年代前半のことで、トレーラーバス、ロータリー、キューピット像の記憶が、湯本回り小名浜行きのなかで一つになっていた。

今回ようやく、それらを解きほぐすかたちで幼年時代の記憶を再構成できた。ロータリーがまずあって、キューピット像はあとから視野に入ってきたのだ。

彫刻家の本多さんは義父や義父の兄と交流していた。それもあって、結婚して子どもが生まれてからは、ときどき家族で高台の洋館を訪ねた。

松ケ岡公園にある安藤信正像も本多さんの作品だ。大正11(1922)年に建てられた信正銅像が太平洋戦争で供出されたため、戦後の昭和37(1962)年に再建された。

 ついでに、もう一つ。ロータリーと同じような交差点にラウンドアバウトがある。ロータリーは左側の道路から進入する車優先、ラウンドアバウトは周回している車優先、という違いがある。

 ロータリーは昭和42(1967)年に撤去され、交差点は対面交通になった。キューピット像は平市民会館前の緑地に移された。

そのあと、いわき芸術文化交流館「アリオス」の建設に伴い、平中央公園が再整備されるなかで、同公園西側に移設された。今は水を噴き上げることもない。

2022年5月16日月曜日

阿佐ヶ谷アタリ……

             
 カミサンが移動図書館から借りた本を持って来て、「真尾(ましお)さんのことが書いてある」という。

 真尾さんとは、作家の真尾悦子さん(1919~2013年)のことだ。夫の倍弘(ますひろ)さん、そして2歳に満たない娘とともに、昭和24(1949)年、縁もゆかりもない平市(現いわき市平)へやって来る。

同37(1962)年には帰京するが、それまでの13年間、夫妻が平で実践した文化活動は、大正時代の山村暮鳥のそれに匹敵するくらいの質量をもっていた、と私は思っている。

 真尾さんは平時代の昭和34(1959)年、最初の本『たった二人の工場から』を出したあと、『土と女』『地底の青春』『まぼろしの花』『いくさ世(ゆう)を生きて』『海恋い』などの記録文学を世に送り続けた。

私が30代後半のとき、ある集まりで初めてお会いした。以来、息子にそっくりだということで、真尾さんが平へ来るたびに声がかかり、お会いするようになった。わが家へ来たこともある。

その真尾さんが、青柳いづみこ『阿佐ヶ谷アタリデ大ザケノンダ――文士の町のいまむかし』(平凡社、2020年)=写真=に登場する。

タイトルからして『荻窪風土記』を書いた作家井伏鱒二の漢詩の意訳だとわかる。実際、高適「田園春望」の井伏訳を引用している。

阿佐ヶ谷あたりには戦前・戦後、井伏をはじめ作家の外村繁、上林暁、太宰治、仏文学者の青柳瑞穂といった文士がひしめくようにして住んでいた。

文士たちは「阿佐ヶ谷将棋会」を結成し、終われば飲み会を開いた。それが戦後、飲み会として復活する。

『阿佐ヶ谷アタリ……』の著者は青柳瑞穂の孫で、今も阿佐ヶ谷で暮らす。ピアニスト兼文筆家だという。真尾さんも『阿佐ヶ谷貧乏物語』(筑摩書房、1999年)を書いた。

真尾さんは、雑誌の編集者をしていた。夫も出版社の編集者だった。どちらも阿佐ヶ谷界隈の文士とは縁が深かった。

独身者のアパートに夫婦で住んでいた。妊娠すると追い出された。で、つきあいのある作家外村繁の家で一時、間借り生活をした。

 夫妻が阿佐ヶ谷に住んだのは昭和22(1947)年2月から1年ちょっとだ。『阿佐ヶ谷貧乏物語』には、2人の周辺にいた文士がたびたび登場する。

 『阿佐ヶ谷アタリ……』は、真尾さんより一世代若い、「阿佐ヶ谷っ子」が祖父たちの交流を追ったノンフィクション、いわば真尾さんの本の続編として読める。

 中に「女性から見た阿佐ヶ谷文士」という一項目がある。真尾さんのことだ。インタビューしたときの話が下敷きになっている。

 インタビュー記事は青柳いづみこ・川本三郎監修『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(幻戯書房、2007年)に収められている。

こちらの本は総合図書館から借りて読んだ。夫の倍弘さんが一度、阿佐ヶ谷会に出席したこと、平時代を切り上げて帰京すると、上林暁が自分の名刺に一筆書いて倍弘さんを各方面に紹介したことなど、真尾さん夫妻に関する“新情報”が載っていた。

2022年5月15日日曜日

ドライマンゴー

        
 フィリピン産の「ドライマンゴー」だという=写真。エド君がお国の食べ物をお礼に持ってきた。エド君といっても、私は会ったことがない。カミサンも先日まで知らなかった。

大型連休が始まって間もない日の宵、天気が急変して雨になった。すると、わが家(米屋)にフィリピンの若者が飛び込んできた。

 カミサンが応対した。体が雨でぬれている。「傘、ありませんか」。あったら売ってほしいということだった。

 傘は売っていない。が、透明なビニール傘が何本かあった。出先で急に雨に降られると、コンビニに飛び込んで安い傘を買う。確か500円だった。雨が上がれば、その場に置いていく人もいる。そんな傘がいつの間にか集まった。そのうちの1本を進呈した。

 ついでにカミサンがいろいろ聞いたらしい。名前はエド、32歳。ラーメン店で働いている。その近くにアパートがある。歩いてスーパーのマルトへ買い物に来た帰りだった。

「また来ます」といって店を出たそうだ。およそ1週間後、エド君が顔を出した。そのとき、ドライマンゴーを置いていった。

エド君の話を聴きながら、思い出したことがある。もう20年以上前になるだろうか。雨ではないが、店に飾ってあるわら細工(米俵など)や民具を見て、飛び込んできた若者がいた。茨城県から運転免許の合宿教習に来ていた大学生だった。

やがて、若者はいわきのじゃんがら念仏踊りを調査し、いわきでネット古書店を起業する。あとでリアル古書店も開いた。

ずっと変わらないことがある。「これから飲みに行ってもいいですか」。突然、電話がかかってくる。前触れなしで現れることもある。

あるときは、その日初めてリアル古書店にやって来たという、アメリカの学者の卵を連れて来た。日米の血が混じっている。コロンビア大学で文化人類学を専攻した。

3週間後、彼女がまたやって来た。わが家の近所に原発避難をした女性がいる。わが家で女性にインタビューをした。

そのほかにも、従業員だとか、その友達だとかが来た。そうやってときどき、若い人と話すと、時代の空気のようなものが感じられる。

老いては子に、いや若い人に従え。同時に、来る者は拒まず、去る者も、もちろん追わない――そんな間合いでいると接しやすい。

ドライマンゴーに戻る。包装紙には「金呂宋」や「芒菓乾」の漢字のほかに、「グァダルーペ」「フィリピン」 「セブ」といった英語が印刷されている。

「呂宋」はルソン、「芒菓」は「芒果」、つまりマンゴーだ。「セブ」はフィリピンのセブ市。セブ島=セブ州の州都でもある。セブでつくられた「グァダルーペ」という商品名のドライマンゴー、ということだろうか。

ドライといっても、せんべいみたいに硬いわけではない。しんなりしている。味も濃い。甘さがしばらく口に残る。

ドライマンゴーを口にしながら、フィリピンでは大統領選が行われたばかりだ、あのマルコスの長男が当選した、今度エド君が来たら、会って話を聞いてみたい――そんな思いがわいてきた。