2022年11月30日水曜日

倚りかかりたい

                     
   長く忘れていた詩に茨木のり子の「倚(よ)りかからず」がある。座椅子が壊れて「倚りかかりたい」とつぶやいたら、カミサンさんが反応した。「倚りかからず」

その詩をあらためて読んでみた。「もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない」という書き出しで始まる16行の短詩だ。

できあいの思想だけでなく、できあいの宗教・学問・権威にも倚りかかりたくないと続け、長く生きてきて学んだのはそのくらい、自分の耳目と二本足で立っていてなんの不都合があると開き直り、最後にこう記す。「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」

この落ちに苦笑した。「そのとおりだ」。ひじ掛けの付いたリクライニング座椅子とこたつで「在宅ワーク」をやっている。座椅子を倒して昼寝をしようとしたら、ガクンと背もたれが壊れて畳につきそうになった。

背もたれの角度を二段に分けて調節する座椅子の基部の片方が、椅子底部の板からはがれてしまったのだ。

片方はまだ生きている。とはいっても、倚りかかるわけにはいかない。座椅子をずらして、座布団を3枚重ねて座り、ノートパソコンを開いてみたが……。

座布団だけではどうも落ち着かない。背もたれがないので、疲れると体が揺れる感じがする。それに、立ち上がるのに時間がかかる。

若いころは簡易なリクライニング座椅子だった。その意味では2代目だ。義伯父が埼玉からわが家の近所に家を建てて引っ越して来た。その義伯父が亡くなったあと、座椅子を引き継いで使ってきた。

固定電話がかかってくる。若いころはひじ掛けの有無に関係なくサッと立ち上がることができた。今はひじ掛けに手をついて弾みをつけないとなかなか立ち上がれない。

ひじ掛けの効用は腕を休ませるだけではない。立ち上がるための、そして手をついて腰を上げ、背筋を伸ばすための支えでもある。

故義伯父の家にはひじ掛けのないリクライニング座椅子もある。とりあえずそれを持ってきて使ってみた。

倚りかかる分にはいいが、立ち上がるのが難しい。電話がかかってきても、すぐには受話器までたどり着けない。

で、カミサンがカバーの外れた脇息(きょうそく)にクッションを巻いて、右わきに置いた。左には本が積んである。片方だけでは、やはり簡単には立ち上がれない。

カミサンもあれこれ考えたようだ。翌朝、壊れた座椅子をこたつに戻し、支えとして後ろに豆椅子を置いた=写真。

これだとまあ豆椅子が支えになって、倚りかかっても倒れない。が、次第に背もたれが後ろへ傾く。豆椅子の位置を逆にして、背もたれで背もたれを支えたら、ずれが収まった。

背もたれを倒して昼寝をするときには、豆椅子を前向きにして高さを調節し、背中のクッションを減らしたり、小さなものに替えたりする。

倚りかかれて、すぐ立ち上がれるようにするとなれば……。畳部屋ながら、床まであるカバー付きのテーブルと椅子の洋風茶の間か。そのときは、昼寝はベッドでするしかない。

2022年11月29日火曜日

冬の刺し身

                     
 日曜日の夜は刺し身と決めている。さすがにカツオは終わりになった。今年(2022年)初めてカツ刺しを食べたのはいつだったか。1月下旬? 2月上旬? 日記(ブログ)に当たると、1月23日だった。

 それからは11月13日までの毎日曜日、40回はカツ刺しをつつきながら晩酌をしたことになる。もちろん、にんにく+わさび醤油で。以前に比べると、出回る時期が早まり、遅くまで口に入るようになった。

 11月20日の日曜日、行きつけの魚屋さんに行くと、「(カツオは)ないんです」「何があるの?」「ハガツオ」。長崎から卸売市場に入ったという。

 ではと、マイ皿を出してハガツオの刺し身を盛り付けてもらう=写真上1。ハガツオの刺し身はたぶん初めてだ。記憶にない。赤身のカツオに比べるとピンク色だ。

 併せて、ネットでハガツオの情報を探る。鋭い歯を持っているので「歯鰹(ハガツオ)」、顔がとがっているので「狐鰹(キツネガツオ)」ともいう、とあった。

 新鮮なものは刺し身が一番。口に入れると、カツオより早く身がほぐれる。味もさっぱりしている。

鮮度はすぐ落ちるらしい。それが遠い長崎からやって来た。冷蔵技術と空輸を組み合わせて、新鮮な状態でいわきに届いた、ということか。

 カツ刺しがない冬場は、いわばカツオ以外の刺し身を楽しむ時期でもある。前はサンマ、次にタコ・イカ・ヒラメ、そしてメジマグロといった流れだったが、サンマはさっぱり口に入らなくなった。

 例年だと、とっくにいわき沖まで南下し、漁が終わるころなのに、まだサンマは北にとどまっているという。

 漁獲海域と水揚げ港の間には漁船の燃料費の問題がある。赤字になっては出漁する意味がない。

 これは野菜の直売所でも同じだが、生産者~販売者~消費者の直線的な流れではなく、フィードバックが可能な関係ができると、食べ物の旬や調理法、主な産地など、いろいろ付加的な情報が得られるようになる。

 11月最後の日曜日(11月27日)は、やはりカツオはなかった。「何があるの?」「タコ、サーモン、タイですね」。その盛り合わせにしてもらった=写真上2。

 これはこれで面白い組み合わせだ。サーモンはどこから入って来たのか。聞くのを忘れたが、以前、北欧を旅行したとき、ノルウェーではサーモンを養殖している、生食用は日本に空輸されると聞いたから、ノルウェー産かもしれない。甘くて軟らかかった。

 タコだけが、噛みごたえがあった。歯が悪い義弟はたぶん無理だろうと思っていたら、口にした。硬さはそう気にならなかったらしく、「大丈夫だった」という。

 この何年かは、冬になるとメジマグロが恋しくなる。天然ブリの刺し身を食べたこともある。こちらの想定を超えた魚を勧められると、何か新しいものを発見したような気になって楽しい。

2022年11月28日月曜日

川を思考の軸にする

  わが生活圏を流れる夏井川は、水源がふるさとの大滝根山(1193メートル)だ。同山は南北に連なる阿武隈高地の最高峰でもある。

 ふるさとは大滝根山の北西側、阿武隈川の支流・大滝根川沿いにある。夏井川はその反対、南東側から太平洋に向かって流れ出す。

 夏井川が大滝根山を水源にしていると知ったのは30代前半。この川はふるさとと今住んでいる場所をつなぐ「紐帯(ちゅうたい)」ではないか――。以来、職場への行き帰り、夏井川に架かる橋を渡るたびにチラッと川面を見やる(40年以上たった今もそれは続いている)。

その後、夏井川の上流、小野町にあっては最下流に関東で焼却したごみの主灰などを埋め立てる一般廃棄物最終処分場が建設された。

水環境に危機感をもついわき市民が立ち上がり、反対運動を起こしたが、建設にストップはかけられなかった。それどころか、後年、増設問題が起きた。

このとき、水環境を守るには、行政的な「地域」ではなく、降った雨が合流する「流域」の視点をもたねばならないことを、下流域の住民は学んだ。

水環境だけではない。令和元(2019)年10月12~13日、台風がいわき市を直撃し、好間川・新川を含む夏井川水系に大きな被害をもたらした。

この「令和元年東日本台風」を契機に、防災面でも「ワンリバー・ワンコミュニティ」という視点が求められるようになった。

「ワンリバー・ワンコミュニティ」は、シャプラニール=市民による海外協力の会が打ち出した考えでもある。

シャプラニールはバングラデシュとネパールで支援活動を展開している。その一つが洪水被害を減らすための取り組みだ。

川を軸にした流域でみれば、上流も下流も同じ運命共同体。同じコミュニティの仲間として向き合う意識を――というところから始まった。

 で、最近ではウクライナに対するロシアの侵略戦争を、ドニプロ川を軸にしてみるようになった。

戦国時代を経て、徳川幕府が開かれたあと、磐城平藩(親藩)は北の伊達藩(外様)に対峙する「とりで」になった。それで、平城下の東、夏井川には橋が架けられなかった。

川は、人と物とが行き交う交通路だが、領土を分割する境界でもある。ロシアとウクライナの戦線の一つが、へルソン州を流れるドニプロ川だという。

ロシアは同州を一方的に占領したが、現在は左岸域に撤退した。右岸域はウクライナが奪還した。

どこがどうなっているのか、とりあえずグーグルアースと組み合わせて状況を確認するようにしている。

なかでも蛇が大きなえものを飲み込んだようにふくらんだ先、急に細くなったところ(カホフカ水力発電所?)=写真(グーグルアース)=から上流左岸にザポリージャ原発がある。これがいつも気になる。東電福島第一原発の二の舞にならぬよう、それだけを念じながらニュースを見ている。

2022年11月27日日曜日

最初の白菜漬け

                               
   先の日曜日(11月20日)は、時計回りに山越えをして夏井川渓谷の隠居へ出かけた。好間川沿いの国道49号から差塩(さいそ)に入り、川前に抜けて県道小野四倉線を下る、いつものマイクロツーリズムとは逆のコースだった。

 49号線へ出るまでは内郷市街から高野を通り、好間・榊小屋の生木葉ファームとギャラリー木もれびに寄った。そのあと、三和町のふれあい市場で白菜や漬物を買った。この冬最初の白菜漬けは、いわきでも山間部の三和産を、と決めていた。

 隠居で土いじりをし、ふれあい市場で買った赤飯おにぎりとサラダ、漬物で昼食をとったあと、地元の知人宅を訪ねて街へ戻った。

 途中、JR磐越東線江田駅前で、小野町のNさんが直売所を開いていたので、曲がりネギを買う。

 ナガイモやゴボウのほかに白菜も売っていた。カミサンが2玉買った。三和産2玉、小野産2玉がそろった=写真上1。どちらも中身が詰まっていて重い。

 小野と三和とどちらの標高が高いか。地理院地図で確かめると、場所によっては三和の方が高い。

 小野は本流・夏井川の上流域、三和は支流・好間川の上流域、それだけの理由で、まずは小野産の白菜を漬けることにした。

 火曜日(11月22日)。朝から晴天だったので、2玉をそれぞれ八つ割りにして干す。朝干したら夕方には漬け込む――そう決めているので、あとは待ったなしだ。

 漬け込むための甕(かめ)を洗う。風味用の柚子(ゆず)の皮をむいてみじんにする。干した蜜柑(みかん)と柿の皮に、旨味用の昆布を用意する。唐辛子は乾燥したものがなかったので、生の青唐辛子で代用することにした。

 夕方4時前、白菜を取り込み、葉の1枚1枚に塩を振って甕に並べ、昆布その他を散らしたあと、甕を90度ずらしてまた同じように白菜を並べる。井形に組むと四段になり、その上に落し蓋をかぶせて階段下に置き、重しを二つ載せた。

 家の南面にある台所だと、明るくて暖かい。上がった水の表面に白い産膜酵母が張る。それを遅らせるために、家の中で一番冷たくて暗い場所に甕を置くようにしている。猫を飼っていたとき、真夏にそこで昼寝をしていた。それにヒントを得た。

 漬け込んで2日目の朝、白菜の上まで水が上がったので、重しを一つはずす。さらに3日目の昼、時間にして68時間後、試食用に一株とって食卓に出した=写真上2。

 畑から収穫して間もないためか、水分をたっぷり含んでいた。水の上がりがそれで早かった。

しんなりするにはちょっと早いかと思いながら、最初の一切れを口にする。確かに、生な感じは残るが、食塩そのものの味はしない。塩分の浸透圧がまあまあうまくいっているようだ。

肝心の白菜の甘みは――。収穫した時期(11月中旬)を考えれば、まだ寒暖の波は弱い。白菜自身が糖分を十分蓄えるほどではない。が、きのう(11月16日)取り出したものは、それなりに甘かった。やはり高地の白菜だと知る。

2022年11月26日土曜日

日本語スピーチコンテスト

                      
 今年(2022年)のいわき地球市民フェスティバルが勤労感謝の日の11月23日、いわきPITで開かれた。

 いわき市民間国際交流・協力団体連絡会と市が共催した。シャプラニールいわき連絡会が同団体連絡会に名を連ねている。それで、私も初回からカミサンのアッシー君としてかかわってきた。

 以前は各団体がブースを持って展示・紹介をしていたが、平成29(2017)年からは日本語スピーチコンテストに衣替えをした。審査員は、前は5人、今は4人だ。私もその一人として、外国にルーツを持つ市民のスピーチに耳を傾ける。

 そのつどブログに書いているので、読むと当時の状況がよみがえる。最初はいわき駅前のラトブで、次は常磐の古滝屋、そして3年前からは平のいわきPITを会場にしている。

 おととし、去年とコロナ禍のために、動画による審査になった。とはいえ、出場者は会場に詰めかけ、ステージで表彰式に臨んだ。

 コロナ禍3年目の今年は、動画ではなく、本人が壇上に立ってスピーチをした。聴衆も受け入れた。

 テーマは「いわきでの忘れられない体験~うれしかったこと、悲しかったこと、そして、私の夢」。一般の部にベトナム、ニュージーランド、ネパール、中国出身の10人、高等教育機関の部にベトナム、韓国、ネパールの3人のほか、ロシア侵攻による戦火を避けていわきへやって来たウクライナ出身の学生1人が出場した。

 一般の部で大賞を受賞したのは、技能実習生のグエン・ティ イエンさん(姓・名=ベトナム)で、「iwaki―優しい町」と題していわきを生活と労働の場として選んだこと、駅のホームで財布を置き忘れたら、高校生が駅員に届けてくれたことなどを話した。

 「選択肢があれば、ベストを選ぶこと。なければ、ベストを尽くすこと。人はどこで生まれるかは選べないが、どのように生きるかは選べる」。そうやって、自分はいわきへやって来た。

そして、置き忘れた財布が無事戻ったことで、「いい人は遠くにいるわけではなく、いつも身近にいる。あの高校生のような善良な人が、いわきにはたくさんいる」ことを実感する。スピーチの冒頭から、引きつけられる内容と明快さが評価された。

 高等教育機関の部では東日本国際大2年生のファム ティエン・リンさん(ベトナム)が大賞を受賞した。

 彼は「私の旅」と題して、「幸せ」について話した。ある日、知り合ったばかりの小学生と一緒にサッカーをした。

そのとき、「兄さん、一番何をしたい?」と聞かれ、冗談半分に「宇宙で輝いている星を触りたい」と答える。すると小学生が地面を触って、「ほら、触れたよ」という。

 彼は即座に理解する。目の前にある小さな幸せに気づかなかった、自分の探しているものは「いつかのもの」ではなく、「いつものもの」だった、と。

 大賞以外の出場者には特別賞が贈られた。そのあと、審査員も加わって記念撮影が行われた=写真。今回はなぜか胸にジンとくるスピーチが多かったように思う。

2022年11月25日金曜日

突然、中3生が来て

                      
 平や小川町をハクチョウが飛び交っている=写真(2011年1月4日撮影)。わが家の上空を通る個体もいる。その下では、いろんなことが起こる。

 「おばあさんが道に迷ってます」。夕方5時過ぎ、突然、中3男子が店(米屋)に飛び込んで来た。カミサンが応対した。学校は隣の学区にある。孫の同級生だという。

 「そこにいます」。同じ学校の3年女子がおばあさんに付き添っていた。わが家から600メートルほど先のスーパー付近でおばあさんと出会った。

 「ほっとけない」。中3なりにそう思ったのだろう。おばあさんを自宅へ送って行こうとしたら、逆の方向へ来た。

 住所を聞けば、隣の行政区、つまりは生徒たちが通う中学校の学区内だ。中3女子と一緒に、カミサンが付き添って自宅へ送り届けることにした。

 まずは、スーパー辺りまで戻る。それからもっと先へ……。でも、要領を得ない。中学校の近くまで来ると、校庭に明かりがついていて、まだ部活をやっている。女子生徒が駆けていくと、教頭先生がやって来た。

女子生徒が孫の名前を言って、カミサンを紹介する。孫が所属していた運動部の顧問だという。

 教頭先生が、おばあさんが覚えている番号に電話すると、つながった。あとは先生にまかせて、女子生徒と一緒に家路に就いた。

 もう4時半となれば、日は沈んでいる。車ならライトを付けないと走れない。そんな時間帯に、おばあさんが道に迷った。

 「加齢によるもの忘れ」と「認知症によるもの忘れ」がある。それを知りたくて、前にネットから情報を引っ張り出したり、図書館から本を借りて読んだりした。

医師で作家の久坂部羊さんが書いた『老乱』(朝日新聞出版、2016年)に、重度だが穏やかに暮らしている認知症者のおじいさんが登場する。

訪問診療をしている医師が、世話をしているお嫁さんに聞いた。なぜそこまでやさしくなれるのか、と。

「自分たちが若いころ、おじいちゃんにはずいぶん親切にしてもらったんです。いろんな面で助けられたし、支えになってもらいました。だから、今はその恩返しなんです」

そのやさしさとは違うかもしれないが、中3生は困った人がいるのに気づいて、通り過ぎることができなかった。それに、カミサンが反応した。

男子生徒と別れ、2人でおばあさんに付き添うこと1時間。おばあさんを教頭先生に託してからは、おしゃべりしながら戻った。

女子生徒は学校のことや将来の夢のことなどを語ったという。カミサンがあれこれ聞いたのだろう。結果的に、年が離れた女子2人の「長い夜の散歩」になった。

それはともかく、中学生ともなれば、もう立派な地域社会の一員だ。一人の人間として、ちゃんと判断ができ、行動がとれる。それで、おばあさんが道に迷ったまま夜気にさらされ続ける事態が避けられた。その「幸運」を思った。

2022年11月24日木曜日

高齢者の交通死亡事故

                     
 87歳の元官僚が池袋で起こした交通死亡事故と同じように、福島市で起きた97歳の交通死亡事故が大きなニュースになっている。

 事故は土曜日(11月19日)夕方に発生した。翌日の新聞は事故の概略を伝えるだけだった。調べが進んでいなかったのだろう。月曜日(11月21日)の続報に仰天した。

運転していたのはよく知られた歌人だった。会ったことはない。が、いわきの文学史をひもとくと、戦後短歌の項に名前が出てくる。いわき市出身で福島市に住む。弟に作家の故吉原公一郎がいる。

先日まで、いわき市勿来文学歴史館で歌人白木英尾のスポット展示が行われた。白木もまたいわきの戦後短歌史の一翼を担う。その白木よりはおおよそ一回り若い。

同館のこれまでの事業内容からすれば、いずれ企画展示の対象になってもおかしくない――そんな実力を備えた歌人だ。

それもあって、高齢者が車を運転して重大事故を起こした、というだけにとどまらず、間接的ながら知っている人間が起こした、という気持ちが強い。ヒトゴトではいられない。

突然亡くなった人の無念と、妻を、母を失った家族の悲しみを思う。同時に、「容疑者」となった歌人とその家族にも心が向かう

報道によると、歌人は独り暮らしだった。子どもたちは遠く離れて暮らしている。独りで日常のあれこれをこなさないといけなかった。

年齢的なことはともかく、地方都市では、自家用車がないと移動がままならない。池袋の交通死亡事故が起きてほどなく、磐梯熱海温泉でミニ同級会を開いたとき、東京在住の一人が「免許証を返納した」と話した。そのときのブログを抜粋する。

――東京の仲間の決断を理解しながらも、地方在住者としては、まだまだ返納は考えられない。

いわきでは、頼みの公共交通機関が貧弱だ。利用者減で電車(ディーセル車)の便数が減ったり、バスの路線が廃止されたりしている。車がないとどこへも行けない、つまり生活が成り立たない。

一方で、運転者は高齢化する。年を重ねるごとに運転技術が低下する。バックで庭から道路へ出る、街の駐車場に入れる、というとき、どちらかに寄りすぎたり、斜めに止まったりする回数が増えた。夜の運転はできれば避けたい、そんな気持ちにもなってきた。

逆走運転をしたり、ブレーキペダルとアクセルペダルを踏み間違えて大事故を起こしたりするのは、こういうささいな運転技術の低下の繰り返しと、加齢による認識能力の低下が重なった結果ではないのか――。

それから3年半が過ぎて、また高齢者が加害者の重大事故が起きた。免許証返納と日常生活の維持と、どうバランスをとるのか、悩ましい。

 12年前のブログで、作家の故草野比佐さん(三和町)が若いころ、歌人と二人で出した歌誌「翅」=写真=に触れている。それもあって、なぜ事故が起きたのか、そのことが頭から離れない。

2022年11月23日水曜日

「軟らかい」が一番

        
 日曜日(11月20日)に生木葉ファーム(好間)の直売所でニンジンその他を買った。去年(2021年)、買って食べたら甘くて軟らかかった。

以来、行けばニンジンを探す。が、旬は晩秋~冬。展示スペースに並んでいたので、ようやく手に入れた。

 「てんぷらにするといい」と教えられた。その晩、てんぷらになって出てきた=写真。やはり、甘くて軟らかい。葉の香りも味も穏やかだ。1枚余ったので、翌日、また晩酌のおかずにした。

 ニンジンは硬い、というイメージが一変した。ニンジンだって軟らかい。いや、ニンジンに限らない。食べ物の基本は「軟らかい」ではないか。

 若いときは、そんなことは意識せずに硬い果物でもなんでも丸かじりした。が、今はそうはいかない。

 いつのころからか、江戸時代中期に生きた尾張藩士で俳人の横井也有(1702~83年)の狂歌が舌頭を転がるようになった。

 

 皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる

 手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる

 

最初は頭髪、次に目、そして歯と耳、やがて足。也有の自虐ネタではないが、肉体の老化が止まらない。

頭では足が上がっているつもりでも、実際には上がっていない。ちょっとした段差につまずく。階段に足のつま先をぶつける。そんなことが増えてきた。

 歯は、右上の親知らず(第三大臼歯)を抜いた。すると、今度は右下の親知らずに違和感を覚えるようになった。

舌で探ると、“横穴”が開いている。それに気づいてからは、朝だけでなく、夜も歯を磨くようにした。でも、そろそろ限界だ。モノを食べると、たまにうずく。歯医者へ行かないといけないようだ。

 それもあって、このごろは「軟らかい」が一番という思いが強い。その最たるものがジャガイモだろう。

 三春ネギを栽培している。香りがあって軟らかい。収穫したらネギとジャガイモの味噌汁にする――それを基本にしている。

 口に含むとすぐほぐれるようなジャガイモでないと、ネギとのハーモニーは生まれない。そのジャガイモに当たり外れがある。加熱しても硬い。

 大根にも同じことがいえる。煮物にしても、なかなか箸で割れないものがある。そうなると、歯の悪い義弟などは敬遠してしまう。

 糠漬けもそうだ。私はいろいろな味を確かめたくて、ニンジンや大根も漬ける。ところが、義弟やカミサンは、これにはなかなか箸を向けない。結局、私が全部食べることになる。

 で、今度は生木葉のニンジンを1本だけ、縦に二つに割って糠床に入れてみた。キュウリは12時間(半日)でいいが、念のために24時間漬けた。大根並みに軟らかい。カミサンに勧めたが、一切れで箸が止まった。

そうか、やはり歯の具合が関係している。いくら軟らかいといっても、糠漬けのニンジンは食べてもらえないことがわかった。

2022年11月22日火曜日

「小さな旅」余話


  「村に清流あり~福島県川内村~」。日曜日(11月20日)朝8時のNHK「小さな旅」は、いわき市の隣村が舞台だった。

 イワナを養殖している男性や古民家カフェの開業準備をしている友人の娘さんなどが紹介された。

 古民家カフェが週末だけプレオープン(現在は正式オープンまでお休み)をするというので、日曜日(10月23日)、夏井川渓谷の隠居から“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)と市・村道を経由して、下川内の友人の家を訪ねた。古民家カフェは敷地内にある。

 昼食を楽しみに出かけた。ちょうどNHKの取材クルーがいた。若いディレクター氏と少し話をする。番組は「小さな旅」だという。「旅人」のアナウンサーがいないので、「東北小さな旅」と勘違いしたが、全国放送だった。

 友人の話だと、取材は3日間に及んだ。旅人は山本哲也アナウンサー。彼が出演するシーンは早めに撮影を終え、私ら夫婦が訪ねたときには、詰めの取材だったのだろう。

 娘さんの友人夫妻もやって来た。私らと同じカレーを頼んだ。それも含めて、娘さんと客とのやりとりを撮影した。

 番組では、古民家カフェの店内が映しだされる。奥に帽子をかぶった私がいる。その手前、若いカップルのテーブルにカレーが届く。写真を撮る客。

そこに隣席からカメラを持ってカミサンが加わる。カメラを向けたカミサンが真ん中にいる。そのカミサンが撮ったカレーがこれ=写真。

 私らはそのあと村内を巡り、新しくできた国道399号十文字トンネルをくぐっていわきへ戻った。

その顛末を上・中・下の3回に分けて書いたブログが、「夕刊発磐城蘭土紀行」としていわき民報に転載された。

 夏井川渓谷の小集落でいわき民報を読んでいる知人が、偶然、「小さな旅」を見ていた。「夕刊発――」で記憶していた古民家カフェが出てきた。

“スーパー林道”は渓谷が起点だ。下川内へはすぐ行ける。いつかは訪ねてみようと思ったという。

この日、隠居で土いじりをしたあと、用があって知人の家を訪ねた。それで朝見た「小さな旅」の話になった。私らも映っていたことを伝えると、「再放送を見なくちゃ」。

番組のなかでは、プレオープンは「お披露目会」になっていた。清流が自慢の地域だけに、生活用水は井戸水か湧き水でまかなえる。村には上水道がない。そのへんが課題のようだった。

これは余談だが、「小さな旅」が放送された日、「川内村 古民家カフェ」で検索する人がかなりいたらしい。私のブログのアクセス数がふだんの倍近くになった。めったにないコトだ。

古民家カフェに興味を持つ人が多いのはなんとなくわかる。同時に、NHKの影響力の大きさを思わないではいられなかった。

2022年11月21日月曜日

燃料残量警告灯

        
 会社を辞めると同時に、車をパジェロからフィットに切り替えた。ガソリン消費、つまりは出費を抑えるためだ。

 以来、今日まで15年。街や山野を巡る足として重宝してきたが、車も年を取る。フィット以上に燃費がよくて、手ごろな値段の中古車をと、懇意にしている若い業者に頼んだ。まもなく新しい車がやって来る。

 燃費の良い車でよかった――。フィットには生涯忘れられない思い出がある。平成23(2011)年3月11日、東日本大震災が発生する。追い打ちをかけるように、東電の福島第一原発が事故を起こす。

 いつなんどき、「放射能雲」が雨や雪になって降りかかるかわからない。3月15日、放射能への不安がピークに達して、息子一家、義妹と娘、われら夫婦と、2台の車で中通りの南端、西郷村の山中にある教育施設へとたどり着いた。そこに9日滞在した。

 春分の日を過ぎていわきへ戻った。問題は車の燃料だ。燃料計の針は「E(空っぽ)」からわずか4つめの目盛を指しているにすぎない。車載の取扱説明書を初めてじっくり読んだ。

以下は、当時のブログの抜粋。――ガソリンの容量は42リットル。燃料計の目盛は25。25で42を割れば、一目盛当たり約1.8リットルということになる。

車はフィット。「リッター20キロ」としてガソリン残量7.2リットル。140キロ超は走行が可能だ。いわきへの最短コース、国道289号を利用すればガス欠をせずに帰宅できるのではないか。

で、教育施設から国道289号に出て、ただひたすら南東方向のいわきを目指した。白河市から棚倉町へ抜け、鮫川村へ入ったところで、燃料残量警告灯が点灯する。

警告灯は残り7リットル前後で点灯すると、取扱説明書にあった。計算上はまだ100キロ以上は走行可能だ――。

そうやってドキドキしながら帰還した経験があるので、この12年間というもの、燃料計の針が半分を指すと、すぐ満タンにしてきた。

たぶん、フィットでは最後のドライブになる日曜日(11月20日)、燃料計の針の位置を確かめ(あのときと同じ「E」に近い)、12年前の経験をおさらいして出かけた。

好間の生木葉ファームで買い物をし、近くのギャラリー木もれびで「峰丘展」を見たあと、三和のふれあい市場で白菜や漬物などを買った。

 あとは山を越えて夏井川渓谷の隠居へ向かうだけ、という段になって、燃料残量警告灯が点灯した=写真。

 きたか! 12年前の経験で大丈夫とはわかっていても、気持ちがだんだん落ち着かなくなる。

隠居で土いじりをし、昼食をとったあと、渓谷から平地の小川町へ下ったところで、ガソリンスタンドに飛び込んだ。10リットルだけ補給する。

スタンドの従業員が車の窓ガラスを拭いてくれた。最後はきれいにして別れよう、そう思っていたので助かった。

同時に、燃料残量警告灯が消え、針も半分近くまで戻る。こうなったら、最後にまた一走り、どこかへ出かけてみるか、などと調子のいいことを考えた。

2022年11月20日日曜日

コウモリに注意

        
 人間と密着している鳥の代表はスズメだ。太古は木のうろなどに営巣したのだろうが、至る所に人間が住み始めた結果、家の軒下や瓦屋根のすき間などをすみかにして生き残る戦略をとってきたに違いない。

ツバメやアブラコウモリも人間の家を巧みに利用してきた。ところが今や、コンクリートの集合住宅や在来工法とは異なる住宅が増えて、彼らも「住宅難」にあえいでいるのではないだろうか。

たとえば、ツバメ。かつてはどの町も「ツバメのすむ町」だった。家々の軒下にツバメの巣ができた。

今は国籍不明の家、たとえば「西欧風」の家が建つ。2階建てでも1階にひさしのない建物が増えて、ツバメには住みにくい環境になった。コウモリも同じだろう。

先日、近くにある集合住宅を訪ねたら、1階の出入り口に、コウモリに注意を促す張り紙があった=写真。建物の中に入ってくるので玄関の戸をちゃんと閉めてほしい――。

別の棟の出入り口には、ツバメのイラストが張ってある。これも理由は同じ。階段に営巣すると、フン問題が発生する。

近くの夏井川まで散歩していたころは、日が沈むと青黒い空を背景に、鳥だかチョウだか分からない飛び方をする生きものに遭遇したものだ。コウモリだった。

図書館から本を借りて調べたら、アブラコウモリに関するこんな記述が目に留まった。「平地の人家付近に棲息する」「山間部とか家屋がない森林内には棲息しない」

さらに、「日中は家屋の天井裏、羽目板の裏、戸袋などに潜んでいる」「夕方まだ明るいうちから飛び出して、空き地の上、川の上などを飛びながら、飛翔している昆虫類を捕食する」「われわれが町中でよく見かけるのは、このコウモリ」とある。少なくともこれに該当する。

散歩コースだったところに、国道6号常磐バイパス(現国道6号)の終点、神谷(かべや)ランプ(本線車道への斜道)がある。

斜道に沿って照葉樹の「草野の森」が設けられ、広場の中央に「未来の風」と題した乙女のブロンズ像が立っている。

コウモリは夕方、この「草野の森」のあたりを越えて、近くの夏井川の上空へ虫を捕食しに行くようだった。

いや、それは一部で、「草野の森」から住宅街へ戻ると、コウモリが目の前までやって来て、ヒラリと方向転換をする。意外に大きい。

同じ「影絵」の比較でいえば、スズメより翼が長い。チョウならば、オオムラサキを一回り大きくした感じだった。これが薄暮時になると、何匹も中神谷の空を飛翔する。

 朝晩の散歩をやめてからは、すっかりコウモリの存在を忘れていた。集合住宅の張り紙を見た瞬間、懐かしい感情と困惑する住民の様子が思い浮かんだ。

 ツバメも、新しい建物に合わせて果敢に巣をかける。集合住宅でもツバメに寛容な棟がある。玄関わきの物置にフンが落ちているので、それがわかる。もう11月後半。翼を持ったこの「隣人」は、子育てを終えて暖かい国へ旅立った。

2022年11月19日土曜日

朔太郎と暮鳥と心平

                      
 「詩人萩原朔太郎の孫」「作家萩原葉子の息子」といわれるのが嫌で、文学とは異なる世界に身を置いてきた。

 寺山修司が主宰する演劇実験室・天井桟敷に俳優として参加し、その後、同劇団の演出を担当する。さらには映像の世界に転じ、雑誌「ビックリハウス」の編集長も務めた。

 しかし巡りめぐって、平成28(2016)年4月、萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち前橋文学館の館長に就く。

 11月13日の日曜日、いわき市立草野心平記念文学館で企画展「萩原朔太郎大全2022―詩の岬―」の記念講演会が開かれた。

萩原朔美前橋文学館長が、「私が出逢った詩人たち―草野心平さんの思い出―」と題して話した。冒頭の経歴は講演用のチラシ=写真=から引用した。

 前橋文学館は、原稿などの朔太郎資料が全国一の質量を誇る。朔太郎没後80年を記念する企画展「萩原朔太郎大全2022」には、全国で50を超える文学館や図書館、美術館、博物館、大学などが参加した。前橋文学館の企画に各施設が賛同したということだろう。

しかも、各施設は固有のテーマを通じて朔太郎やその土地の文学などを紹介している。草野心平記念文学館は、朔太郎の盟友・山村暮鳥の磐城平時代を取り上げ、両者に橋を架けた。

ポイントは「大正時代のいわき地域が、口語自由詩が確立されていく現場であり、詩壇の最先端であった」ことに尽きる。タイトルに「詩の岬」とあるゆえんだ。その詩風土から詩人草野心平が生まれた。

萩原館長は冒頭、田村隆一の詩行「ウィスキーを水でわるように/言葉を意味でわるわけにはいかない」を引用して、散文と詩の違いを説明した。

散文は言葉が手段、詩は言葉が目的――。水割りをつくるように、「意味」で「言葉」を薄めてはならない。むしろ、言葉と言葉が衝突して火花を散らす、その明滅にこそ詩のいのちがある、ということだろう。

典型例として、萩原館長はいわきの企画展でも紹介されている暮鳥の「囈語(げいご)」に触れた。バラバラにして紹介する。

「強盗喇叭」「殺人ちゅりつぷ」「放火まるめろ」「誘拐かすてえら」……。上2文字は刑法の罪名、それに続く言葉は身近な動植物や食べ物、楽器などだ。意味の連なりではなく、異質なものが結びつくことで、今までになかったイメージが現出する。

詩人に関しては、心平を中心に西脇順三郎や嵯峨信之、黒田三郎など、自分が出会った人たちの話をした。

心平とは、子どものとき、母・葉子に連れられて初めて会った。背中に何枚も膏薬(こうやく)を張ってやった。後年、凧(たこ)を天の膏薬に見立てた心平の詩を読んで、確かに「そうだ」と納得した。

バー「学校」(2代目)に行き、心平たちの同人誌・歴程祭に顔を出し、3分スピーチにも参加した。

最後に、心平の詩「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉」の1行「死んだら死んだで生きてゆくのだ」を紹介した。萩原館長に限らない、これこそが詩の力、生きる励みになる言葉といっていい。

2022年11月18日金曜日

カツオパーティー

                      
 この秋の空の雲=写真=を見上げる体力はもうなかったろう。今年(2022年)3月に胃がんが見つかった。ステージ4だったという。

 あるときから通院をやめて、地域医療機関による訪問看護に切り替えた。結果的には自宅での終末ケアになった。訃報に接するまで全く知らなかった。

 カミサンとは同年齢で、子どもが小学生のころ、「モノ言う母親」の一人としてPTA活動に携わった。

家族ぐるみで付き合った。夏には狭いわが家で「カツオパーティー」を開いた。カツオの刺し身をメーンに、何家族も集まって、大人はアルコールと談論を、子どもたちも食事をして、庭で線香花火をやったり、店の文庫(地域図書館)で絵本を読んだりして楽しんだ。

 画家や陶芸家、新聞記者や市職員、カミサンのPTA仲間と子どもたち、総勢20~30人が居間と庭にあふれた。

 大人だけ、特に父親だけ楽しむのは申し訳ない。子どもたちにとっても楽しい場であるように。つまり、田町(平の飲食街)から家に場所を移しての、免罪符のような集まりだった。

 ある年は、張り替えを予定していた無地の押入襖(ふすま)をキャンバスにした。「さあ、なにを描いてもいいぞ」と号令をかけると、子どもたちは好き勝手に筆を動かした。そう、「これをやってはダメ」「あれをやってはダメ」の反対を試してみたのだった。

襖に落書きをするのは、大人もやっている。新しく建てられた友人の家で飲み会を開いたとき、無地の襖に画家が墨で絵を描き、私も即興で1行詩をつくり、書家がそれを書き添えた。そうしたアナーキーな楽しみを子どもたちにも経験させたかった。

 それからもう40年ほどたつ。子どもたちは、ほとんどが親になった。その子どもたち、つまり私たちの孫世代もすでに高校生や中学生になっている。

 3年前、故陶芸家の回顧展が平のエリコーナなどで開かれたとき、カツオパーティーに参加した娘さんと久しぶりに顔を合わせた。

会場に入るやいなや、娘さんが駆け寄ってきて「ごぶさたしてます、〇〇です」「おお!」「私、もう50歳になります」。これには驚いた。

 知人の訃報を聞いて、カミサンが自宅を訪ねると、アメリカに住んでいる長女を除いて子ども3人が応対した。すぐカツオパーティーの話になったそうだ。

 通夜の晩、夫婦で葬祭場へ行くと、アメリカから帰国した長女がカミサンを見つけて近寄り、ハグしたあと、開口一番、「カツオパーティーは楽しかった」という。

 それを聞いて、カツオパーティーは大人だけでなく、子どもたちにとってもいい思い出になったのだと知る。

 あのころ小学生だった彼、彼女たちも、その後、人生の辛酸や挫折を味わったことだろう。幼いころの楽しい思い出が、少しでも自分を支えてくれる力になっていたとしたらうれしい。

通夜の席で、髪の毛の薄い老人と中年になった子どもたちが「あのとき」にタイムスリップをした。故人もその輪の中に入ってきてニコニコしていた。

2022年11月17日木曜日

本山は磐城平の専称寺

        
 きのう(11月16日)の続き――。11月5日にいわき市立草野心平記念文学館で吉野せい賞の表彰式が行われたあと、作家の佐伯一麦さん(仙台)が「厄災と文学」と題して記念講演をした。

作家は、ある意味では読書家でもある。さまざまな作品を読み、学び、自分の血肉としながら、独自の表現を模索する。佐伯さんの講演から、まずそのことを感じた。

演題を最初、私は「災厄」と読み違えていた。一般的には「災厄」だが、あえて「厄災」としたところに佐伯さんの思いが込められている。

災厄は地震や津波、水害などのイメージが強い。しかし、人為的な災害もある。災いを幅広くとらえたい、ということなのだろう。

東日本大震災の直後は、現地入りした記者も作家も惨状に言葉を失った。現地の人間はそれ以上に、被災前の様子と比較して心が真空状態に入ってしまった。

佐伯さんは「自分の実感を裏切らない」ことを、文学の基本においている。それを踏まえて、「日常とは時間を取り戻すこと」「言葉とは態度のこと」としつつ、ブレヒトやシェイクスピア、川端康成などの作品を紹介した。

なかでもよく知られているのが「ロミオとジュリエット」だろう。結ばれない恋を実らせるために、ジュリエットはロミオと駆け落ちしようとする。

彼女は修道士とはかって仮死状態になる薬を飲む。それが芝居であることを知らせる手紙をロミオに届けようとするのだが、使者が、たまたまペストが発生した地域で足止めを食らう。

その結果、ロミオは墓所に運ばれたジュリエットのそばで服毒自殺をし、それを知ったジュリエットもロミオの短剣で自分の命を絶つ。

川端康成の場合は、「魔界」をテーマにした、“元祖ストーカー小説”ともいうべき「みづうみ」を取り上げた。川端は原民喜の案内で原爆後の広島を訪ねている。「原爆小説」を書きたかったのではないか、と佐伯さんは推察した。

最後に、佐伯さんは吉野せいの「梨花」を取り上げた。「厄災」をバネにして「文学」まで昇華させる――その例に加えた。

これからは、佐伯さんの作品『川筋物語』についての、私の個人的な感慨。同書は、仙台市を流れる広瀬川をさかのぼり、最後は河口へ戻って来るルポ風物語だ。

〈定義(じょうげ)〉の章に「門前町の突き当たりの寺院が浄土宗の極楽山西方寺。正式名称よりも『定義さん』『定義如来』などの通称で親しまれている」とある。

東北地方の浄土宗の多くは、いわき市平山崎にある專称寺=写真(2019年4月撮影)=を本山とする元浄土宗名越派の末寺とみていい。佐藤孝徳著『專称寺史』に当たると、宮城県の末寺に極楽山西方寺があった。

表彰式の事務局である市の課長にいうと、「ぜひ直接話してください」。それに押されて、講演会終了後、佐伯さんに名刺を渡して「定義さん」の話をした。

佐伯さんは翌日、国宝白水阿弥陀堂を見学することになっていた。「白水阿弥陀堂は世界遺産レベル。白水阿弥陀堂もいいが、専称寺もいいですよ」。「定義さん」と専称寺がつながっていることをわかってもらえたらうれしい。

2022年11月16日水曜日

河林満作品集

                               
 もう10日以上前になる。いわき市立草野心平記念文学館で吉野せい賞の表彰式が行われた。そのあと、仙台在住の作家佐伯一麦さんが「厄災と文学」と題して講演した。

前振りとして、吉野せいの「春」に触れ、いわき出身の作家河林満さん(故人)の招きで、彼が主宰する「文藝いわき」で講演したことなどを語った。まずはその話を。

「文藝いわき」での講演は同誌第5号(2002年春)に載る。いわき中央図書館から借りて読み、さらに去年(2021年)11月10日に発刊された川村湊編『黒い水/穀雨 河林満作品集』(インパクト出版会)があることを知って、それも借りた=写真。

「文藝いわき」の講演は、「文学の豊かさを考える」と題して、河林さんが佐伯さんと対談するかたちで行われた。

 河林さんは立川市役所に勤務しながら創作活動を続け、「渇水」で文學界新人賞を受賞した。この作品と「穀雨」で2回、芥川賞候補になった。

 36歳のときに「海からの光」(のちに「海辺のひかり」と改題)で吉野せい賞奨励賞を受賞し、後年、同賞選考委員も務めた。

 河林さんは幼い時に母親を亡くしている。対談のなかで、私はこの土地に生まれて亡くなった母親のことを考えることから小説を書き始めた――と語り、佐伯さんも小さいころ、男に襲われた体験を踏まえて、それを書くことによってトラウマから自由になれた――などと応じた。

私が河林さんを知ったのは、平成8(1995)年に同人誌「文藝いわき」が創刊された前後だったように思う。

後年、朝日新聞出版のPR誌「一冊の本」(1999年1月号)に、小説「ある護岸」を発表した。その年、たぶん吉野せい賞の選考委員会が終わったあと、河林さんが「ちょっと時間がたちましたが」と、雑誌を携えてわが職場にやって来た。

鮫川で溺れ死んだいとこの33回忌に佐糠町を訪れた「わたし」は、鮫川べりに立つ水難供養塔に出合う。供養塔には廃仏毀釈によって捨てられた墓石を川岸に沈め、護岸強化が図られた、といった意味のことが彫られてあった。そこからさらに物語が展開する。

作品の末尾に参考文献として、いわき地域学會の『鮫川流域紀行』が紹介されていた。私がいわき民報社に勤めていたころ、同学會の協力を得て連載したのを本にまとめた。「墓石護岸」の話を聞いて、同書を進呈したのではなかったか。

平成10(1998)年には立川市役所を退職し、以後、ヘルパーやガードマンの仕事をしながら小説を書き続けた。平成20(2008)年1月、脳出血のため急逝。享年57――訃報に接して、晩年は苦闘の連続ではなかったか、という思いを禁じ得なかった。

私が読んだ河林作品は、「ある護岸」のほかには「渇水」「穀雨」「海からの光」と少なかった。

『黒い水/穀雨 河林満作品集』には、いわき出身の明治の歌僧天田愚庵を取り上げた「我が眉の」がある。鮫川が流れる「月明りのなかで」や「卒塔婆を売る男」もある。やっとそれらを読むことができた。

2022年11月15日火曜日

自転車で植物研究

           
 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。今の時期は、自宅で出た1週間分の生ごみを畑に埋め、自家消費用のネギを収穫するだけだ。

 11月13日も朝のうちに土いじりを終え、庭を一巡りしてキノコの有無を確かめた。この3週間近く、雨らしい雨がない。土が乾いている。モミの木と共生するアカモミタケも、今季はとうとう不作だった。

キノコ観察は採れたキノコだけをメモして終わりではない。目的のキノコがなければ、「なかった」と書きとめる。これもまたあとで貴重な記録になる。

というわけで、13日は庭巡りのあと、対岸のアカマツ=写真=を撮影して畑に戻った。アカマツには少し金色のメッシュが入っている。松枯れかどうか、これから経過を観察する。そのための記録写真でもある。

ネギの苗床を覆う落ち葉をよけ、立って一休みしていると、そばの道路から声がかかった。 旧知の元中学校長さんだった。自転車にまたがっている。「電動ですか」「いや、普通の自転車」

平・平窪の自宅から2時間半をかけて駆け上がって来た。なんという健脚! 確か、80歳になるかならないかだ。

 初めて言葉を交わしたのは、震災前の平成20(2008)年11月16日。隠居の隣の錦展望台を発着地に、第1回夏井川渓谷「紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれた。

 週末だけの半住民である私も地元・牛小川の住民と共に、森の案内人を務めた。元校長先生も森の案内人に加わった。

そのころ、福島県の野生動植物保護サポーターを務めていた。今も務めている。あらためてもらった名刺には、ほかに環境省レッドリスト調査員、福島県植物研究会会員とあった。

元校長先生はそのころ、背戸峨廊(セドガロ)を主なフィールドにしていた。今は渓谷全体の森を熟知している。対岸の森を見やりながら、「知らないところはないくらいに入った」という。

尾根筋には“獣道”がある。そこをカモシカのように走って移動する山伏のような健脚の持ち主がいた。もう20年ほど前になる。知り合いが山岳縦走、いわゆるトレイルランニングの達人を隠居に連れてきた。

達人の縦走コースは尋常ではない。例えば、一般のハイカーは背戸峨廊に入渓すると、昼食の時間を入れて一周4時間はかかる。達人はここを1時間で回り切る。

隠居の目の前の山も、「あっちの沢、こっちの沢と、いろんな沢から尾根へはい上がって目印をつけ、それを頼りに川前から尾根筋を縦走した」という。それもこれもヒマラヤを目指してのことだといっていた。

元校長先生は駆け抜けるのではなく、植物をじっくり観察する、そのための山入りだ。夏井川流域のみならず、鮫川流域では、福島県レッドデータブックで未評価とされているスギランと、絶滅危惧Ⅰ類のクモランを確認した。

実は日曜日、隠居の行き帰りに自転車をこいでいる元校長先生をときどき見かけた。平窪地区は3年前の東日本台風で水害に見舞われた。それを乗り越えて植物研究を続けている。元校長先生も達人の一人といっていい。

2022年11月14日月曜日

電柱建て替え

                               
 先週の11月8日から12日までの4日間、家の前の通りにユアテックの作業車が止まって「配電線工事」をした。

 わが家に届いたチラシによると、工事の内容は目の前の電柱からざっと40メートル東に立つ、隣の電柱を建て替えるものだった。

 10代の終わりに宮沢賢治にはまり、全集を買って読んだ。その中の童話「月夜のでんしんばしら」は、文章の合間に「劇中歌」のような歌が挿入される。

 その一つの「ドッテテドッテテ、ドッテテド、/でんしんばしらのぐんたいは/はやさせかいにたぐいなし/ドッテテドッテテ、ドッテテド/でんしんばしらのぐんたいは/きりつせかいにならびなし。」

 その影響もあって、若いときに「長いデンシンバシラの短い話」という散文詩を書いた。きっかけは小学2年生になったばかりの4月中旬、ふるさと(現田村市常葉町)が大火事になったことだ。それを、10年以上たってやっと振り返られるようになった。その書き出しだけを紹介する。

「風と火がごっちゃになって、ある町を、一夜のうちに焼野原にしたときのこと。最後のさいごまで、みごとによく燃えたのは、道々のデンシンバシラであった。ほんとによく燃えた。そこでこんどは、燃えないコンクリのデンシンバシラが、酒屋だの、床屋だののバラックが、なかば完成した、ちょうどそのころに、昔よりはずっと立派にきれいにそろえて立てられた」

そんな人間なので、地中深く埋め込まれている電柱がどう引っこ抜かれて、新しい電柱がどう差し込まれるのか、とても興味がある。

でも現場監督よろしく、ずっと見ているわけにはいかない。チラシには、初日と2日目は準備作業、3日目が電柱建て替え作業、最終日は撤収作業とあった。

 3日目の作業を朝・昼・午後と、それぞれ10分ほどだが、家の前から眺めた。作業車が計6台。それぞれ役割が違っている。

 箱型の作業スペースを頭に載せた高所作業車がある。荷台に蓄電機のようなものを載せたトラックがある。

そのうち、1台から電柱のようなものが伸びて、古い電柱のそばに立った=写真。ネットで調べて「電柱元位置建替作業車『スキップ』」というものらしいことがわかった。ユアテックが東京電力、東北電力と共同で開発した、とある。

 従来の工法だと、元の穴での建て替えには、別の穴を掘って仮電柱を建てるなどするので、1~2カ月がかかった。

  それが、作業車両と一体化した伸縮自在の仮電柱を建てることで、一日で電柱を新しいものに取り換えることができるようになった。しかも、停電なしで。

 最終日は、お昼をはさんで、午前がわが家の前の電柱、午後が新しい電柱の「仮の器具」を取り外す作業のようだった。

なかでも感心したのは、「さすまた」のような棒を使って器具を外したり、取り付けたりしていることだった。高圧電線と向き合う配電部門ならではの道具なのだろう。

家の中でドライバーを握るくらいしかしない人間には、想像を超える不思議な光景だった。

(追記:けさも高所作業車が来て、新しい電柱のそばの電線を相手にいろいろやっている。別の隣組の人の話だと、同じ作業がそこでも始まるらしい。そのつなぎの作業か)

2022年11月13日日曜日

続・季語から考える

        
 きのう(11月12日)の続き――。晩秋~初冬の野菜と果物を食べた。いつものお福分けである。

 果物は柿が多かった。まず、甘柿と干し柿が近所から届いた。さっそく晩酌のつまみにした=写真上1。

 わが家の道路向かいの奥に故義伯父の家がある。30年ほど前、埼玉県から引っ越してきて、家を建てた。義弟が新築を祝って、家の北側に甘柿の苗木を植えた。

故義伯父の家の甘柿は次郎ないし富有系。果肉はみかん色に近い。近所の甘柿は、それがかなり黒っぽい。小ぶりで丸い。甘柿にもいろいろ種類があるのだろう。

 知人の家は通りに面してある。前の庭には、柿の木はない。若いころ、先代のおばあさんに頼まれて、裏庭にあるサクランボを摘んだことがある。通りからはほかの建物に隠れてよく見えないが、サクランボは、今はないようだ。代わりに、家を継いだ息子さん夫妻が柿の木を植えたのだろう。

 酒を飲む前に柿を食べると、悪酔いや二日酔いの予防になるという。で、このところ毎晩、甘柿と干し柿を食べている。

 後輩の農園を借りて野菜を栽培しているいわき昔野菜保存会の会員がいる。その人からは大根と紫大根、ニンジンをもらった。

 こちらは煮物になって出てきた。大根も、ニンジンも軟らかい。紫大根は甘酢漬けにした。これも軟らかかった。

 ではと、紫大根とニンジンを糠床に入れてみる。キュウリよりは硬いので、漬けておく時間を長めにした。

最初は丸一日、24時間。半分を取り出して試食する。やや硬さが残るが、味はしみている。ニンジンはやはり、軟らかい。甘みもある。紫大根もいい味をしている。

残りはさらに12時間おいて取り出した。計36時間。最初に塩味を感じたが、硬さはそう変わらない。これだと歯が悪い人はちょっと無理か。

大根もニンジンも今が旬。きのうも書いたが、自然と人事を季節ごとに整理した「俳句歳時記」でそれを確認する。

というより、歳時記を介して現実の季節感をより正確に把握する。歳時記はやはり、ブログ(あるいはコラム)を書く上で、貴重なハンドブックになる。

ということで、だんだん秋が深まってきた。糠漬けから白菜漬けに切り替えるときが近い。カミサンの実家からは柿の皮が届いた=写真上2。干して白菜漬けの風味用にする。

 ミカンの皮も干したのがたまりつつある。ユズは白菜を漬けるときに、皮をむいてみじんにして散らす。残りは唐辛子と昆布だが、これは買いおきを利用すればいい。

 今のところ、糠床をかき回してもゾクッとするほど冷たくはない。が、そろそろ表面にたっぷり食塩を敷き詰めて冬眠させるとしよう。白菜はどこか山里の直売所から調達することにしよう。