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2021年4月22日木曜日

身欠きニシンの話

                      
 いつもの魚屋さんにカツオの刺し身を買いに行ったら、身欠きニシンがあった。軟らかいという。

 そこから、食の好みは地域によって異なる、という話になった。「須賀川の人が買いに来て、『身欠きニシンは硬くなくちゃ』といっていた」。若だんながトンデモナイといった口調でいう。裏を返せば、いわきでは軟らかい身欠きニシンが好まれる、ということらしい。身欠きニシンは硬いもの――それが当たり前の食文化のなかで育った私には驚きだった。

 いわきの食文化の特徴をおさらいする。身欠きニシンに対する認識の違いはそこからきているように思われるので。

いわきの歴史・民俗に精通していた故佐藤孝徳さん(江名)によると、いわきの食文化の一大特徴は、ハマの料理が多彩で豪華なことだ。農山村は、といえば、よごし類・てんぷらなど全国共通のものが多い。

そのハマの料理はしかし、沿岸部に限られる。わずか数キロ内陸に入ると、もうハマとは無縁の食文化になる。

いわきの食文化といっても一つではない。身欠きニシンについても、ハマ・マチ・ヤマの視点で考えるとわかりやすい。

 山間部は中通りと食習慣がそう変わらないだろう。つまり、硬い身欠きニシン派。としたら、軟らかい身欠きニシン派は平野部(市街地)と沿岸部、ということになる。

しかし、元は船主の奥方だった女性は「身欠きニシンは食べたことがない」という。「いつも生の魚があったから、保存食(身欠きニシン)を食べる必要がなかった」。マチに住む人間には、身欠きニシンを食べない理由が衝撃的だった。

 4月に入って間もなく、後輩からフキが届いた。晩酌のおかずに身欠きニシンとフキの煮物が出た=写真。庭のサンショウの若葉が添えられていた。フキは軟らかい。ニシンは普通に硬かった。懐かしい味と食感だ。

昔は6月に田植えをした。そのときのごちそうが身欠きニシンとフキの煮物。今は5月の大型連休をはさんで田んぼに水が張られ、機械で田植えが行われる。4月のフキとニシンの煮物は、田植えとは無関係に、異常に早い今年(2021年)の「初夏」がもたらしたものだろう。

魚屋さんから軟らかい身欠きニシンを手に入れたのは、この煮物を食べた10日後だった。知人からもらったタケノコを加えて、ニシンとタケノコの煮物にした。もちろんこれにも庭のサンショウの若葉を添えた。ニシンは確かに軟らかい。歯ごたえが少し物足りなく感じたのは、硬い身欠きニシン派だからか。

食文化は風土と結びついている。つまり、風土はフード。語呂合わせだが、意外と本質を突いているのではないかと、ひそかに思っている。「全国共通」などというものは、ほんとうはありえない。

福島県という限られた地域でさえ、西から会津・中通り・浜通りに分けられる。身欠きニシンひとつとっても硬軟、食べる・食べない、がある。身欠きニシンが硬いのは、そこまでしないと持たない、ということもあるらしい。「風土はフード」をまた教えられた。

2018年3月23日金曜日

「一町目横町」のカフェタヒラ

『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』(郷土出版社・1996年)に、「カフェタヒラ」が載る=写真。大正14年の撮影とある。この写真の場所はどこなのか、ずいぶん前からわからずに悶々としてきた。太陽光線の影が決め手になる。東西だったら午後の日差し、南北だったら昼前の日差し――。
 大正12(1923)年11月13日付常磐毎日新聞に載った広告を見ると、カフェタヒラは当初、平町紺屋町(「住吉屋本店前」というから、現せきの平斎場の西隣付近)にあった。そのあと、「一町目横町」に移る(ふと思ったが、それは経営者が同じという前提に立ってのことだ。違う可能性も否定できない)。
 
 前にも書いたが、その横町がわかった。いわき市暮らしの伝承郷で、あさって(3月25日)まで「伝承郷収蔵品展 いわきのいろいろ」が開かれている。なかに「大日本職業別明細図之内 信用案内 福島県」(大正15年、東京交通社)の複製が展示されている。平町・一町目の本町通り南側に「カフェタヒラ」の文字が見える(今のひまわり駐車場の東隣あたりのようだ)。

 平の本町通りは東西に延びている。横町はそれと交差して南北に延びる。その角にカフェタヒラがあった。本町通りの建物は間口が狭く奥行きが長い。カフェタヒラのような横長の建物が本町通りにあるとは思えない。横町の角なら同じスペースでも横長に利用できる。つまり、カフェタヒラは南北に長い東向きの建物で、横町沿いに出入り口があった。日光の影もそれで説明がつく。

 やっと写真についてあれこれ想像することができる。――店は2階建て。屋根には「(サッ?)ポロビヤホール」の看板。2階の窓には、欧米の街角を行くテレビの旅番組でよく見かける花台・手すり。真ん中の窓ガラスには「カフェータヒラ」と「西洋御料理」の文字。1階は、通りに自転車立て。出前用らしい自転車が1台止まっている。入り口の前には木製のプランターが二つ。若い針葉樹が4本ほど植わっている。一種の目隠しなのだろう。

 大正14(1925)年9月8日夜、会費50銭で詩の会が開かれ、開拓農民吉野義也(三野混沌)や、中国から帰国したばかりの若い無名の草野心平が詩を朗読したのは、この建物の2階ではないか。

『目で見るいわきの100年』では、カフェタヒラについて「大正から昭和初期にかけて、客の接待をする女給のいた西洋風の酒場である」と説明している。

 カフェタヒラに関する当時の新聞記事と、カフェタヒラが出した新聞広告を照らし合わせてみる限り、「西洋風の酒場」と言い切るのはどうかと思う。そういう一面もあったが、本筋は西洋料理店で、「酒場」、つまり風俗営業の色合いが濃くなるのは昭和に入ってからではないか、という感じがしてきた。

 大正時代の広告は「カキフライ1枚20銭」(紺屋町の時代)、「牛なべ 上なべ 一人前40銭」(一町目横町に移ってから)などと、洋風料理の値段の宣伝がほとんどだ。昭和2年11月には、財界が不況なので値下げを断行、といった広告も載る。カツレツ・メンチカツ・カレーライスなどみんな20銭――。

 やがて、カフェは風俗取り締まり対象の店になる。記事の見出しだけ紹介する。「私服密行して……/夜の街を取締まる/酌婦とカフェーを/五日夜平町を始め一斉に」(昭和4年10月8日付常磐毎日新聞)。これはカフェ一般について書いたものだが、こんな記事もある。「カフェータヒラの美人女給/実は家出のお尋ね者/福の神を奪はれてがっかり」(同4年10月2日付磐城時報)「カフェーの主人と女給/七名処罰さる/客に対し酌婦行為をして」(同10月26日付磐城時報)

「カフェ」といっても、カフェタヒラは最初から風俗営業の店ではなく、アルコールも飲ませる洋風料理屋としてスタートしながら、時代の波にもまれて女給の接待で売る「酒場」性を強めていった――ということだろう。

2018年2月25日日曜日

「石城ネギ」の時代があった

 ある記事を探しているうちに、別の記事が目に留まる。古い新聞をめくっていると(デジタル化された新聞だから、スクロールしていると、か)、そんなことがよくある。
これもそうだった=写真。昭和30(1955)年12月22日付いわき民報に、「石城ネギ驚異の収穫/品評会で一等に加藤氏」という記事が載っていた。

 石城ネギの産地である平市(現いわき市平)北白土に農事研究会があって、同地で栽培されている石城ネギの「坪掘り」による品評会が行われた。北白土のネギ栽培農家は56戸。そのなかで一等に選ばれたのは加藤邦広さん(47)。平均の2倍の収量をあげた。同研究会は宣伝のため東京の市場に石城ネギを送った――記事の要旨はこんなところだ。「坪掘り」とは一坪当たりの本数と重さのことか。
 
 加藤邦広さんにはうろ覚えながら記憶があった。20年以上前、夏井川渓谷の隠居で「三春ネギ」の栽培を始めた。いわきのネギ栽培の歴史も調べた。『いわき市史』に、「昭和25年いわきネギを相(注・会?)川一さんとはじめ、品種改良、30年夏系キュウリのトンネル栽培とハウストマトの研究に着手」したことで、昭和44(1969)年、加藤さんは福島県農業賞を受賞した、とある。篤農家の一人だ。
 
 昭和30年といえば、いわき市合併の11年前だ。その土地と結びついた名前、たとえば「川中子(かわなご)ネギ」とか「白土ネギ」とかと呼ばれていた時代から、いわき地方をくくる郡の名前「石城」を冠して東京などへ売り込む時代に変わり、ネギの収量増大が求められるようになったのだろう。
 
 記事には、「石城ネギは日本一の折り紙がつけられているが量が少ないので加藤さんの驚異的な栽培方法は各方面の注目の的になっている」ともあった。ネギ栽培のわが師匠、塩脩一さんも若手としてこの研究会に入っていたのではないか。
 
「石城ネギ」が「いわきネギ(いわき一本太ネギ)」になるのは、いわき市合併後だろう。とはいえ、「いわき一本太ネギ」と今の「いわきネギ」は別物だ。

 塩さんは、私の取材にこんなことを明かしている。「一括出荷するようになったことと、機械定植、風折れ対策のために、きめの細かく硬い品種が求められるようになった。太くて硬い、いかにもテカテカ輝いている、見た目のいいものを――。その結果、昔からの『いわきネギ』は出荷する人が減り、自家消費に追いやられた」
 
 塩さんが東京・神田の市場への出荷をやめると、取扱業者から連絡が入った。「宮内庁に納めているのだから、出荷を続けてほしい」。記事にある日本一の評価は、オーバーではなかった。「石城ネギ」は日本一だから宮内庁に納められていたのだ。

2018年2月15日木曜日

モテネギとオクイモの味噌汁

 少し古い話になるが――。2月4日にいわき昔野菜フェスティバル(いわき昔野菜保存会主催)が開かれた際、里芋とオクイモ、モテネギが参加者におみやげとして配られた(いわき市発行の『いわき昔野菜図譜』やレシピ集では「おくいも」「もてねぎ」と平仮名表記だが、ここでは片仮名表記にした)=写真。
 オクイモはいわき市山玉町で栽培されている在来作物のジャガイモ。半分に切ると、中身が真っ白だ。でんぷん質が多く、栽培者の家では昔、この芋から片栗粉をつくっていたそうだ。

 いわきでしか手に入らないジャガイモを、市内の料理人が重宝している。クレープ、ピュレ、ヴィシソワーズ、ポム・パイヤソン、コロッケ。コロッケ以外はイメージが浮かばないが、なにかうまいものになるらしい。

 ネギは普通、「ねぎ坊主」から種を採って栽培する。モテネギは、ねぎ坊主ではなく、株分けで増やす「分げつネギ」だ。小川町下小川で栽培されている。今年の昔野菜フェスで昼食の昔野菜弁当に、トン汁がサービスで付いてきた。中にモテネギが入っていた。やわらかかった。酢味噌あえなどに向いているようだ。

 阿武隈の「おふくろの味」が舌の細胞にしみこんでいるせいか、ネギといえばジャガイモの味噌汁、が真っ先に思い浮かぶ。その際、“基準”にしているのがふるさとの田村地方で栽培されている曲がりネギの「三春ネギ」だ。白根はもちろん葉もやわらかい。そのうえ、香りがあって甘い。

 オクイモとモテネギも味噌汁にした。どちらもやわらかい。好みの食感だ。モテネギの甘みは? 三春ネギや「いわき一本太ネギ」まではいかない。やわらかさがモテネギの個性だろう。在来のネギの味をまたひとつ知った。

 オクイモ、そしてモテネギといわれるようになったわけは――。オクイモは晩生種、おくてのイモだ。それで「オクテのイモ」が縮まって「オクイモ」となったのではないかという。モテネギはいわきの方言由来だろう、という。いわき市教育委員会が発行した『いわきの方言調査報告書』(2003年)に「もでる(もてる)=作物が茂る。分けつ(注・正確には「げつ」)する」とある。なるほど。

 なんでもそうだが、なにかを調べれば調べるほど新たな疑問がわいてくる。同時に、栽培の歴史を利用しただけの、実態に合わないブランド戦略なんかも見えてくる。昔野菜の種には、なによりも「物語」がある。

2018年2月7日水曜日

いわき昔野菜フェス・上

 早春恒例のいわき昔野菜フェスティバルが日曜日(2月4日)、中央台公民館で開かれた。昔野菜弁当付きで参加費1000円だったが、定員100人に近い人が参加した。市民団体のいわき昔野菜保存会が主催した。
 午前中は生産者による栽培講座、藁(わら)納豆づくり講座が行われた。昼に昔野菜弁当を食べたあとは、初回2011年からの講師、江頭宏昌山形大農学部教授が「『伝える』意味を改めて考える」と題して講演した。保存会の一員なので、昼の催しに続いて夜の懇親会にも参加した。
 
 きょう(2月7日)は昔野菜栽培講座について。保存会のメンバーでもある農業川内一浩さん(錦町)が、枝豆のアオバタ・春野菜のおいしい菜・種ではなく株の“分げつ”で増えるモテネギの栽培体験を話した=写真。
 
 川内さんはサラリーマン生活のあと農業を継ぎ、4年前から本格的にいわき昔野菜を栽培している。畑の面積7反のうち6反(1800坪=5950平方メートル)を昔野菜の圃場(ほじょう)にした。発掘された昔野菜73種類のうち38種類をつくっている。今年(2018年)は60種類の栽培を目指す。「種を採るのが目的」だという。保存会の「種の管理人」でもある。
 
 体験談の一部――。アオバタは6月1、15、25日の3回に分けて種をまく。収穫時期を一斉にではなく、少しずつずらすためだ。おいしい菜は春の味。菜の花がおいしいらしい。茎は指で折り取る。すると、これは私の経験でもあるが、次から次にわきから“やご”=菜の花が出てくる。白菜で試したことがある。“やご”のおかげでしばらくやわらかい菜の花を楽しむことができた。
 
 モテネギは、1本が10本くらいになる。植える時期が決まっている。5月連休明けから月末にかけて、株をバラバラにして10センチ間隔で植える。畑に植えたままにしておけば1年中食べられるという。昼にトン汁がサービスされたが、それにモテネギが入っていた。とてもやわらかい。やわらかさがモテネギの個性だろう。
 
 保存会のメンバーの共通認識は、「種は市民の共有財産」。昔野菜は大規模流通システムにのらなかった、いや排除されたからこそ、“自産自消”と“お福分け”のなかで種などが伝承された。「地域の文化財」といわれるゆえんだ。規格化された野菜にはない個性がある。その一端が栽培講座からも感じられた。