2021年12月31日金曜日

年越しの準備

        
「一夜飾り」はよくない、大みそかには正月様を飾るな、といわれている。たまたま今年(2021年)の師走は28日に回覧資料の配布を終えた。年賀状の文案も考えた。

というわけで、みそかの30日午前、夏井川渓谷の隠居へ行って正月様を玄関に飾った。床の間には鏡餅を供えた。隠居へ通い続けて四半世紀、師走のうちに正月様を飾るのは初めてだ。

「歳神(としがみ)様」は、大みそかの早朝にはその家に来ているそうだ。で、前年の歳神様と元日の午前零時に引き継ぎをする。玄関の正月飾りが、そのための目印になる。

大みそか当日の飾りだと、せっかちな歳神様が来たときにはまだ目印がない。家を素通りしてしまう。だから、遅くともみそかまでには飾っておくのだ――と、これはだれの話だったか。

正月飾りのためだけに隠居へ行ったわけではない。26日の日曜日は、街で「洟をたらした神」の上映会と、映画に主演した樫山文枝さんのトークショーがあった。それを見た。急に寒気が襲来したこともあって、11日ぶりに隠居の様子を確かめることにしたのだった。

これもすっかり渓谷の年越しの風景になったようだ。渓谷の玄関口、JR磐越東線江田駅の南西、夏井川沿いにいわき市が管理するキャンプ場がある。炊事場、トイレが完備し、テントなら30張ていどは設営できる。

おととし(2019年)までは紅葉シーズンが終わると、利用者がなくて閑散としていた。ところが、コロナ禍で「3密」回避がいわれると、冬場も利用者がいる。

去年師走の日曜日(隠居へ行った6、20日)は、駐車場が満パイ状態、テントがいくつも張ってあった。それから1年。きのうのみそかもテントが三つも四つも張ってあった=写真。

日曜日朝、隠居へ行く途中で江田を通る。この2年、感染拡大でキャンプ場が閉鎖されたときを除くと、いつもテントがあった。朝早くから熱心なことと感心していたが、認識不足だった。キャンプ場だから、前日からそこにいるのだ。

さて、隠居では真っ先に台所、洗面所、風呂場をチェックする。11日前と変わったところはない。水道管は無事だった。

それを確かめてから、今年最後の土いじりをした。前より厚く土が凍っていた。三春ネギのうねを掘り起こすのに苦労する。

凍った土をほぐしてネギを収穫し、さらに掘って生ごみを埋める。今回からネギうねの跡に埋めることにした。そこならまだなんとか穴が掘れる。

ネギを掘り取り、生ごみを埋めたら、すぐ退散した。冬場は寒くてやることがない。ドクターからも寒い時期の外歩きは控えるように言われている。

そうそう、年越しの準備は正月飾りだけではない。このところ暖房用の灯油の消費が早い。みそかは朝、スタンドへ行って灯油を買った。これで正月の三が日は「灯油がない」などと慌てることもないだろう。年賀状も隠居から帰って印刷した。

 あと、足りないものは――糖分・プリン体ゼロの焼酎だ。夕方、コンビニから買ってきて、ひとまず正月を迎える準備がととのった。

2021年12月30日木曜日

新しいノートパソコン

                      
 最近やっと新しいノートパソコンを使いだした=写真。「そろそろダメになるよ」と息子にいわれ、「手ごろな値段で使いやすいもの」を頼んで買ったのが、今年(2021年)、いや去年だったか。少なくとも1年ほどは買ったままにしておいた。

 古いパソコンの画面が乱れる。画面の角度を変えたり、ヘリを撓(たわ)めたりすると、いっとき正常な画面に戻る。そうやってなだめながら使ってきた。

 若い仲間に来てもらい、新しいパソコンをインターネットに接続しようとしたが、つながらない。何度か来てもらって、ようやく接続できるようになった。まだ使えない機能もある。それをいいことに、古いパソコンにしがみついてきた。

 会社を辞めて、自分のノートパソコンを買ったのは2007年秋。翌年2月下旬、若い仲間にセットアップしてもらい、ブログを始めた。

第1回は2008年2月25日。2021年12月29日時点で通算4878回になった。このまま毎日書き続ければ、122日後の4月30日には5000回を迎える。ブログも積もれば記録の山になる。

一日に1回、締め切りを持つ――。病気や旅行などのとき以外は、それを胸に刻んで書き続けてきた。

マラソンと同じだが、競技ではないので、ゴールは設定していない。しかし、あそこに見えるあの電柱まで走ろう、そしたらまたその先の電柱まで走ろう、そうしてゴールを目指すマラソンランナーと意識は変わらない。

私にとっての「電柱」は日常のなかで撮影した写真や見聞、あるいは実体験だ。そこからキーワードを絞り込んで書く。そうでないと書き続けられない。新聞でコラムを書いてきた経験と技術も支えになる。

ノートパソコンは今度で3台目だ。前は6年ほど使って更新した。2台目はまる7年使っている。いよいよガタがきたらしく、いろんな症状が出てきた。

新パソコンでは、ブログのアップと検索、フェイスブック、ツイッターの閲覧を、旧パソコンでは画像取り込みとメールのチェックをしている。

画像は残容量があとわずかというところまで取り込んできた。そのため、ヒマを見つけては不要な画像を削除している。旧パソコンの重荷をそれだけ減らせると思えば、気も楽になる。

いずれは新パソコンですべて用が足せるようにしないといけないが、これも若い仲間の力を借りてこそ、だ。

旧パソコンとの操作の違いにとまどうこともある。これはしかし、慣れるしかない。手探りで少しずつ、少しずつなじんでいくしかない。車でいえば、慣らし運転の段階。

まずはブログの画面の大きさを年寄り用に調整する。若い人向けが「標準」なのか、表示される字が小さい。これを大きくした。ワードの入力画面も大きくした。

と書けば簡単そうだが、実際若い人には簡単なのだろうが、これだけでも緊張して操作し、思った通りにいったときには「やった!」、胸の中で叫んでいた。アナログ人間はそんなものだ。

2021年12月29日水曜日

モーニングコーヒー

        
 年の瀬を寒波が襲った。昔も寒い年末がなかったわけではない。が、ここはいわきの平地。これほどの寒さを感じることは近年なかった。

極寒期は1月末。それが真冬。この年末は全国的に真冬並みの寒さになった。日本海側を中心に、大雪に見舞われた。

福島県は西から会津、中通り、浜通りの三つの地域に分けられる。その境をなすのが奥羽山脈(西)と阿武隈高地(東)。

大陸から吹いてきた北西の季節風は日本海上で水蒸気を含み、奥羽山脈にぶつかって上昇し、会津地方に大雪を降らせる。中通りも雪が積もり、ときに太平洋側の山間部も白くなる。季節風は阿武隈高地を越えたころには、冷たい「からっ風」になっている。空も晴れている。

そのからっ風が早くも年末に吹き荒れた。日曜日(12月26日)は、いつもなら夏井川渓谷の隠居で過ごすのだが、午後に用事があって平地の家にいた。

朝、隠居へ出かけても畑の土は凍っている。土いじりはできない。たまたま買い物が延び延びになっていたので、10時前に草野のマルトへ出かけた。

買い物へ行くのは、ふだんは平日の夕方だ。日曜日の朝は、若いときには家族連れで行ったかもしれないが、夫婦だけになってからは初めてだ。

カートに買い物かごを載せて品物を選ぶ。私が選ぶのは中粒のナメコ、わさび漬け、沖縄のモズクくらい。あとは野菜、パン、調味料その他、カミサンの品選びについて回る。

年末ということもあって、買い物の量が増えた。シャプラニール=市民による海外協力の会が扱っているジュート(黄麻)のレジバッグが、いつもよりかなり重く感じられた。

買い物は30分で終わった。午後に用があるのは2時から。それまでだいぶ時間がある。「コーヒーを飲みに行こう」。カミサンがいうので、薄磯海岸のカフェー「サーフィン」へ直行した。

ほぼ1カ月前の日曜日、カミサンの用事で隠居へ行くのをよして街へとどまった。サーフィンで昼食をとった。そのときの店内の様子を前に書いた。

カウンターとテーブルに透明アクリルのパーテーション(ついたて)が置いてある。席に着いたテーブルのパーテーションには女性のイラストが描かれていた。

吹き出しには「お姉さんまってェー、カフェオーレのみたいね」「カフェオーレも好きだけどウインナーコーヒーもいいね。どっちでもいいから早くして!」。右上隅の女の子は「まってェー」。

今回は11時の開店前に着いた。ちょうどテーブル席の真ん中に窓から陽光が差し込んでいた。パーテーションのイラストがテーブルに映っている。

前回の隣の席に陣取り、パーテーションと水の入ったコップの「影絵」を楽しみながら、コーヒーを飲む=写真。「久しぶりに外で飲むモーニングコーヒーだわ」

モーニングコーヒー? 忘れていた、すっかり「死語」になっていた。記者になって警察回りをしていたころ、同業他社氏とつるんで喫茶店へモーニングコーヒーを飲みに行った。

そのころのことを思い出していると、常連さんが1人、また1人とやってきた。私らも加わって雑談が始まった。どんなタコがうまいか、高いか――ハマのカフェーらしい話になった。

2021年12月28日火曜日

年輪の話・下

        
 冬のある日、雪に覆われた木の根元の両側に挽き手が陣取り、目立てをしたばかりの鋸(のこぎり)を当てる。「切り口からは、さながら歴史の断片のようなおがくずが芳香を放って飛び散」る。

アルド・レオポルド/新島義昭訳『野生のうたが聞こえる』の中に出てくるオーク伐採の情景だ。

レオポルドはアメリカの森林管理官・生態学者で、「環境倫理学の父」といわれる。1948年に61歳で亡くなった。同著は翌年に発刊され、200万部を超えるロングセラーになった。

著者はオークに蓄積された100年という時間に思いをはせる。「ほんの十数回挽いただけで、鋸の歯は、わが一家がこの農地を手に入れ、愛し、大切に守ってきた数年の歳月を通り過ぎ、あっという間に先住者の時代に突き当たった」

1930年代前半、禁酒法と大恐慌が重なった時代だ。先住者は酒の密造者で、畑仕事が大嫌いだったらしく、残っていた作物を収穫すると母屋に火を放って姿をくらました。土地は郡当局に没収された。

さらに鋸は木の内部へ迫る。著者の思考もまた時間をさかのぼる。オークは、「木々の愛護を目的とする、州議会の数々の立法措置――1927年の国有林法や森林資源保護法、1924年のミシシッピ川上流沿岸低地に対する大規模な保護、1921年の新森林政策――にも無関心だったようだ」。

ま、一種の擬人化で、オークの年輪にアメリカの環境保護の歴史を重ねていくわけだが、ここで向こうの100年を追いかけてもしようがない。

このくだりを読んですぐ思い出したエピソードがある。いわき地域学會が阿武隈の山里、川内村の村史編纂事業を請け負った。そのときの調査の一コマだ。

私は、山里にまで浸透した幕末の俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した=写真。

上川内の禅寺、長福寺の矢内俊晃住職の招きに応じて、心平が川内村を訪ねる。それがきっかけで村民との交流が始まる。

心平は名誉村民に推戴され、褒章として村から年100俵の木炭を贈られた。2年目からは辞退するが、お返しに寄贈蔵書3000冊のうち2000冊を帰りのトラックに載せて村へ届けた。この寄贈書を保管する仮称「心平文庫」の設置が議決される。今の「天山文庫」だ。

以下は心平との交友をつづった住職のガリ版刷り個人誌「蕭々無縫」からの引用(一部現代表記に変えた)。

あるとき、心平はまな板用に栗の木の切れ端を村の棟梁に削ってもらう。住職と一緒の帰り道、木の年輪を見て「君、こっちは北なんだね。こっちは南側だったんだね」という。「君、同じ南側でも育ち具合が違うんだね。育たなかった年は気候が悪かったんだね。この時は、この木も随分と苦労したろうね。木ばかりでなく、みんな苦労したんだね。凶作だったりして……」

アメリカの環境倫理学者と詩人に共通するのは、学識と直感に基づく生きいきとした想像力だ。文芸評論家粟津則雄さんが心平詩について語った「対象との共生感」といってもよい。

2021年12月27日月曜日

年輪の話・上

                              
 40歳のときに、2歳年下の哲学者内山節さんの『自然と人間の哲学』(岩波書店、1988年)を読んで、おおいに留飲を下げた。

その2年前、『山里の釣りから』(日本経済評論社、1986年)を読んで、内山哲学のファンになった。以来、内山さんの本は欠かさず買って読んでいる。

 水や大気、土壌などの汚染問題、いわゆる公害が少しずつ改善され、代わって地球規模での環境問題が顕在化しつつあった昭和50年代(1975~84年)――。

自然を守るには人間の立ち入りを制限すべきだ、という意見が自然科学系の一部で言われるようになった。それだと農林水産業はどうなる? とてもじゃないが、賛同できなかった。

私自身、人間が自然に濃密にかかわる山里で生まれ育った。自然は自然、人間は人間と切り離し、保全だけを前面に出したら、第一次産業を否定することになる。

そういうモヤモヤを一気に解消してくれたのが、内山さんの『自然と人間の哲学』だった。内山さんは自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の三つの交通としてとらえる。

その三つの交通を壊さないように、人間は自然を利用してきた。農村景観、これが美しいのは三つの交通が安定しているからだ。

美しいムラの景観が、人の手が加わらなくなったらどうなるか。つまり、生産と生活の基盤が壊れたら、たちまち自然は荒れる。

原発事故で避難を余儀なくされた町村のその後の風景は、「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」(民俗学者宮本常一)、その「暖かさ」とは真逆のものになった。

 要は、自然と人間の関係が「収奪」ではなく、「共生」を保っているかどうか。共生状態を保っていれば、ムラはおのずと安定して美しい。

以上のことを思い出したのは、環境問題を論じたアメリカの本に、なにか内山哲学と共通するにおいのようなものを感じたからだ。

アルド・レオポルド/新島義昭訳『野生のうたが聞こえる』(講談社学術文庫、2005年第3刷)=写真。本の中に出てくる本が図書館にあれば借りて読む。本から本へ渡り歩くなかでこの本に出合った。

著者は森林管理官として働き、のちにウィスコンシン大学野生生物管理学科の教授を務める。「環境倫理学の父」と言われているそうだ。

「ぼくは週末にはいつも、近代化されすぎた都会を逃れて、家族ぐるみで奥地の農場の『掘立小屋』で過ごしている」。その観察と行動、自然保護にまつわる思考や感想などが、本の中に盛り込まれている。

週末は都会を離れて田舎で過ごす――。向こうは学者、こちらは日曜日に夏井川渓谷の隠居で過ごすただの市民、「月とスッポン」でも、共通性があるというだけでうれしくなった。

それと、もうひとつ。100年くらいの木が伐採される。2人の男がのこぎりを引き合う過程で年輪の、つまり木が生きてきた時間に思いをはせる。と、ここまで書いてきて、1200字ほどになってしまった。

年輪の話で思い出すのは、川内村と草野心平のこと。「下」ではそのことも含めて書くとするか

2021年12月26日日曜日

これも伝統郷土食

                     
 秋から冬、塩漬けのフキを山里の直売所で買う。カミサンが塩出しをして油いためにする。ところが、全く硬いままのときがある。「硬くなったのを採って漬けたから」だという。

 で、直売所にフキの油いためがあると、真っ先にカゴに入れる。手のひらに収まる程度の小パックなので、三つも四つも、となる。けっこういい値段だ。

 たぶん「団塊の世代」(昭和22~24年生まれ)には共通の「おふくろの味」なのだろう。食事を共にする1歳下の義弟も、私と好みが重なる。食卓に出たフキの油いため=写真=がたちまちなくなる。

 1けたの「つ」の年齢だった昭和30(1955)年前後、食べるものといえば、買ったものより、栽培したり、採ったりしたものが多かった(ように思う)。

 実家は床屋だが、家から離れた山際に畑があった。そこで野菜を栽培した。米はどうか。母親の実家や親戚の田植えと稲刈りを手伝った。もらうだけでは足りないから買っていたのだろうが、そのへんはよくわからない。

阿武隈高地の真ん中あたり、鎌倉岳の南東麓に母方の祖母の家があった。南の幹線道路に向かって畑と田んぼが広がる。祖母に連れられて沢へ下り、土手のフキノトウを摘んだのが最初の山菜採りの記憶だ。

 キノコ採りはたぶん、小学校の2、3年生のころが最初だった。母親と隣家のおばさんが連れ立って出かけるのについて行った。

場所は町の東方の「ミナミグラ」。ストリートビューでは、林と田畑だけの小風景が延々と続く。キノコ採りには入りやすかったのだろう。記憶にある林内の斜面もゆるやかだった。

そのとき、母親たちがどんなキノコを採ったのかは覚えていない。ただ、キノコは斜面の下から攻める、それを実地に学んだ。

フキの話に戻る。フキノトウを知った何年かあと、集団でフキを採った記憶がある。秋にイナゴ捕りや落ち穂拾いをした記憶もある。学校行事だったかどうかはあいまいなのだが、絶えず自然の中で遊ぶ、自然の恵みをちょうだいする、そんな暮らしの中に身を置いていた。

『いわき市伝統郷土食調査報告書』(いわき市、1995年)をパラパラやって、フキに関する記述を確かめた。軟らかくする方法は書いてない。

調理法として、ゆでて皮をむき(その逆も可)、4~5センチの長さに切って煮物に入れたり、油いためにしたり、ニシンと煮つけたりする。

食べきれないほど採ったときには、ゆでて塩漬けにしておく。盆、正月など人寄せのときなどに使う。一晩くらい塩出しをして煮物や油いためにする、とあるだけだ。

昔は6月ごろに田植えが行われた。山菜はワラビやゼンマイを採り終え、タケノコが出回る。フキとタケノコを煮つけて田植えのごちそうにした。

カツオが獲れる初夏には、タマネギ、ヤマブキを加えた粗汁もある。カツオとフキの煮つけもある。報告書が紹介している、いわきのハマらしい食べ方だ。

硬くなったフキだから硬いままなのかどうか。三和のフキの油いためを口にするたびに、なにか軟らかくする秘訣があるのではないか、と思ってしまう。

2021年12月25日土曜日

『土中環境』を読む

            
 今年(2021年)7月、熱海市の伊豆山地区で盛り土が原因の土石流が起きた。事故直後、いろんな専門家が現地を調査した。その一人が造園設計事務所代表の高田宏臣さんで、フェイスブック友が彼のコラム「地球守」を紹介していた。土中環境に視点を据えた彼の論考が刺激的だった。

自然界のできごとはすべて水と空気の循環を通じた関連のなかで生じるという。「高田仮説」では、土石流は急傾斜の谷で川底が「泥つまり」することで発生しやすくなる。

山頂部で谷への残土埋め立てと平坦造成が行われれば、水が土中に浸透しにくくなる。大雨になれば泥水が流れる。自浄作用の許容量を越えれば、泥は堆積する。つまり、「泥つまり」がおきる。この土中環境の悪化が負の連鎖を招いた、というのが高田さんの見立てだ。

図書館で彼の本を検索すると、3冊あった。『ガーデンツリーお手入れ便利帳』『これからの雑木の庭』『土中環境』。

『土中環境』は「貸出中」だった。そんなことが最近よくある。とっかかりとして『これからの雑木の庭』を読んでみた。

それからしばらくたって再度チェックしたら、「貸出中」が消えていた。急いで総合図書館へ出かけ、『土中環境――忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技』(建築資料研究社、2020年)を借りた。

 現地調査のリポートでは触れられていなかった微生物、特に菌糸や菌根菌の話が出てくる。

キノコという言葉は使っていない。が、菌根菌の代表はマツタケだ。土石流の発生メカニズムを知る前に、キノコなどの菌糸が土中の健康状態と大いに関係することを知って驚いた。

たとえば、こんな記述。「団粒土壌の空隙を保つための糊のような働きをしているのが、土中の菌糸です」「この菌糸群が、土中でのいのちの循環において決定的に大切な役割を担います。その役割とは、土壌中の生物循環の養分、水、情報の伝達といった、大地全体の生命維持に欠かせない働きです」

ところが、なんらかの原因で土が圧密されると、土中の保水性も透水性も乏しい、重たい土に変わってしまう。高田仮説による土石流への負の連鎖が始まる。

夏井川渓谷の隠居は土砂災害警戒区域に入っている。隠居のそばを道路が通っている。近くに、山側からしみだした水でいつも濡れているところがある。そこから異変が起きないかと気がかりだったが、『土中環境』を読んで安心した。

泥水ではない、澄んだ水だ。山側の土中環境が健全で安定していることを示している。その証拠にこの四半世紀、何も起きていない。

菌根菌は「陸上植物の約八割の植物種と共生関係を結んでいる。菌と植物の共生である菌根が地球の緑を支えていると言えるだろう」。

齋藤雅典編著『菌根の世界――菌と植物のきってもきれない関係』(築地書館、2020年)を読んだときにも驚いたが、『土中環境』もまたキノコが果たしている大切な役割を教えてくれる。

伊豆山の土砂災害をきっかけに、キノコと防災、キノコと土中環境を考えるようになるとは……。「文化菌類学」は奥が深くて広い。

2021年12月24日金曜日

「古巣」の解体はじまる

                     
 これは解体中のビルへの極私的な「悼辞」だ。建物の解体に連動して、自分の体の骨が、筋肉が悲鳴をあげる――もちろん比喩にすぎないが、しかし、心理的にはそれに近い。

 いわき駅の西側で「並木通り地区第一種市街地再開発事業」が進められている。まずは区域内の古い建物を解体しないといけない、というわけで、いわき民報ビルなどが白いシートで覆われた。

いわき駅前再開発ビル「ラトブ」から西方をながめると、並木通り北側で3カ所、シートが張られている=写真(12月12日撮影)。一番左側の建物がいわき民報ビルだ。

 昭和45(1970年)2月下旬の深夜、いわき民報社とレストラン・ブラジルの入った木造2階建ての社屋が、隣家の火事で類焼する。2月いっぱいは休刊を、3月初めも減ページを余儀なくされたが、間もなく通常のページ建てに戻る。

 一方ですぐ、紙面で地上5階・地下1階の新社屋ビル建設計画が発表される。わずか1年後の同46年5月、大型連休明けには臨時社屋から新しいビルに移転した。

 私は移転1カ月前にいわき民報社に入った。臨時社屋で先輩記者のお茶くみと鉛筆削りをしながら、記者見習を続けた。

 臨時社屋から新社屋への引っ越しは、ゴールデンウイークの5月2~3日に行われた。新しいビルには結婚式場「ことぶき会館」もできた。

さっそく婚礼キャンペーンが行われ、社長の一声で一番ヒマな記者見習が花婿のモデルをさせられた(2年半後、社員としてそこで結婚式を挙げる)。

 その後、警察回りから始まって、市政担当、勿来支局勤務、内勤を重ね、平成19(2007)年秋に役員をやめるまで、37年近くをこのビルとともに生きてきた。

 このビルは、その意味では社会へ乗り出しては帰って来る「母港」だった。地上5階のみならず、地下の工務局と食堂も含めて、ビルの隅々まで人生の喜怒哀楽がしみついている

 いわき民報ビルの壁面が開いてフレコンバッグが運び出されるのを、ラトブの5階あたりから見ると、痛みに似た感覚が走るのは、やはり「部内者」としての記憶が深く絡み合っているからだろう。

 解体現場ではいつも、公共建築物などを梱包する美術家として知られるクリストを思い出す。が、今回はそんなゆとりはない。

もう一つ、昭和46年で思い出すのがイトーヨーカドー平店だ。大型連休が始まる前日の4月28日にオープンした。いわき民報ビルよりは1週間ほど早い。同店も50年の歴史に終止符を打ち、解体作業が終盤を迎えた。

東日本大震災と原発事故が起きたあと、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきへ支援に入り、最初はラトブ、次いでイトーヨーカドー平店、最後はスカイストアで交流スペース「ぶらっと」を運営した。いずれも日常の生活用品を買うには便利なところだった。

駅の西と東で改造が進み、JR東日本も駅の西にホテルと商業の複合施設を建てる。北口でも総合病院の新しい建物が立つ。あっという間に駅周辺の景観は変わる。

2021年12月23日木曜日

V字谷の奥の世界

                      
 土地の人には当たり前のことでも、よそ者には驚きに近い「発見」だった。風景の奥にも自然と人間の暮らしがある――当たり前のことが、「好間のV字谷」からはイメージできなかった。

私は平に住んでいる。カミサンの実家(平・久保町)へ行くとき、あるいは夏井川渓谷の隠居へ行くために平商業高校(平・中塩)近くの田んぼ道を通るとき、「好間のV字谷」が見える。好間の小谷作と下好間の境に架かる樋口橋からだと、こんな感じだ=写真。

平の隣町なのに、好間には土地勘がない。作家吉野せいが夫とともに開墾生活に明け暮れた菊竹山のふもと、あるいはその下の好間川右岸を走る国道49号沿いの商店街など、ピンポイントで知っているにすぎない。V字谷も天然の風景画のように見ているだけだった。

谷の上流は好間・榊小屋。山に囲まれた里に、ギャラリー木もれびや有機無農薬栽培の直売所「生木葉」がある。最近、そちらへよく行くので、どこに何があるかは、これもピンポイントながら頭には入っている。

好間川の穏やかな流れも目に焼き付いている。それが、そのあと深いV字谷を刻んで好間の市街へ至ろうとは思いもよらなかった。

V字谷の奥と手前がつながったのは、若い仲間の話を聴いて、じっくり地図を読んだからだ。

いわき地域学會の第365回市民講座が12月18日、いわき市文化センターで開かれた。渡辺剛廣幹事が「地図の読み方」と題して話した。

ちょうど2年前にも同じタイトルで話をしている。今回はまず、水平に引かれた等高線を見て断面図を描く練習をした。

傾斜のきつい山と緩やかな山がある。なだらかな谷とV字谷がある。それを想像する力を養うきっかけになれば、ということなのだろう。

V字谷の実例として、好間川渓谷を取り上げた。等高線が何段も水平に伸びている。しかも間隔が狭い。つまりは傾斜がきつい、ということがよくわかった。

あとで『よしま ふるさとの歴史探訪』(好間地区関係団体会議、1998年)や『いわきの地誌』(いわき地域学會、2016年)に当たる。

で、やっと平から見るV字谷の向こうに好間・榊小屋の平坦な集落と、そこに住んでいる人、あるいは直売所へ、ギャラリーへ行く人などが、好間川とともにイメージできるようになった。

生木葉の周囲を見渡したときに、稜線がスパッと切り落とされたようになっているところがあった。生木葉の畑の東方の山、それがV字谷の始点だったことを初めて知る。

『よしま ふるさとの歴史探訪』によれば、①硬い角閃片岩が凸面をつくるこの地域が沈降し、第三紀の堆積物に覆われた②第四紀に再び隆起したとき、古好間川が生まれ、谷を刻んだ③浸食が進み、軟らかな第三紀の地層が取り除かれても、最初の流路を変えることなく基盤の硬い角閃片岩体を横断して深い横谷を刻み続けた――。

こうしてできたV字谷を「表生谷(ひょうしょうこく)」というそうだ。日本でも極めて少ない谷の一つらしい。

「好間のお宝」というより「いわきのお宝」だ。いや、県の自然環境保全地域に指定されているのだから、「福島県のお宝」でもあるか。

2021年12月22日水曜日

忘年会

        
 2カ月に1回、定例的に開かれている飲み会がある。コロナ禍以来、場所がいわき駅前の飲み屋街から、わが家の向かいの故義伯父の家に替わった。

調理師免許を持つ若い仲間がいる。彼が参加するときには、ふだん味わえない料理が出る。目の前の台所でつくる。

去年(2020年)の夏には、カツオとスズキを丸ごと1匹持参した。刺し身、バーナーで皮をあぶった火山(ひやま)のほかに、スズキの洗い、カツオの摺(す)り流しが出た。火山も、洗いも、摺り流しも、“宅飲み”では初めてだった。 

 直近の土曜日(12月18日)には、鹿児島産のカンパチを1匹持って来た=写真上1。カンパチはアジ科の大形魚。鹿児島はカンパチ養殖日本一の県だそうだ。

 カンパチの刺し身=写真上2=のあとに、メーンのすき焼き鍋が出た。具だくさんで食べごたえがあった。わが家では豚肉の「ほうれんそう鍋」が定番なので、牛肉を口にするのはほんとうに久しぶりだ。

翌日は、残りをおじやにして食べた。これがまた、すき焼きの甘みとからまって奥深い味を出していた。

 たまたま師走の飲み会になった。そうか、忘年会でもあるのだ、個人的には今年(2021年)最初で最後の――そんな感慨がよぎった。

 現役を離れて以来、歓送迎会や暑気払い、忘年会などの「年中行事」からはすっかり足が遠のいた。

それでも、コロナ禍の前は二つか三つ、忘年会を兼ねた飲み会があった。午後6時始まりだと、国道のバス停4時23分のいわき駅前行きを利用する。6時半とか7時始まりだと、最寄りの旧道バス停6時ちょっと前の最終バスで行く。

駅前大通りにあるケヤキ並木には師走のイルミネーションがともる。この2年、駅前でバスを降りることがないものだから、夜の電飾もまったく見ていない。

 「きょうは忘年会だな」。そうつぶやくと、間もなく70歳になる酒友が反応した。まだ半分、現役だ。「もう忘年会はやったよ」。最初の忘年会のことで、年末までにあと何回やるかは、その人の立場や人とのつながりによる。

 40~50代のころはそれこそ、11月下旬に始まり12月下旬に終わるまで、二けたの忘年会をこなしたものだった。

仕事を離れて還暦を迎えたころからは、同好の会や同級生との忘年会を開くくらいで、静かな師走を迎えるようになった。

同級会との飲み会は夏井川渓谷の隠居で開くのが恒例になった。これもコロナ禍でストップしたままだ。

オミクロン株の影響次第だが、年が明けて春になったらいわき駅前で定例会をやりたいな、街の空気を吸いたいな――そんな気分が一方では強まっている。夜の街が恋しくなってきたようだ。

2021年12月21日火曜日

電線とケヤキの木

                      
 夏井川渓谷の隠居と道路(県道小野四倉線)の境界に、大きくなった木が何本かある。モミを除いて落葉したが、夏場は高い緑のフェンスができる。

 木の枝の間を電話線とテレビ共同アンテナの専用ケーブル、電線が走っている=写真上1。落雷や台風時、木の枝が電線切断の原因になりかねない。

ひと昔、いやふた昔前、東北電力にこの境界の木を剪定してもらったことがある。「また頼むしかないか」。もう何年も前から思い悩んでいたことだ。先日、それが実現した。

始まりはざっと半世紀前。故義父が、元は畑だったこの土地を借りて山側の半分を盛り土し、平の街なかにあった人の家を譲り受けて解体・再建した。道路との境には、塀の代わりにモミやケヤキ、その他の若木を植えた。

50年も過ぎれば人間は枯れる。が、木は元気な時期に入る。気が付いたら幹が太く高くなっていた。なかでもケヤキが群を抜く。

どこでもそうだが、道端に沿って電柱が立ち、電話や電力の架空線が延びる。隠居のところでいきなり木の間に隠れる。そこまで木々が生長した。

まだ木が若かったころ(それでも電線に枝葉がひっかかるくらいに育っていた)、東北電力が電線保護のために枝葉を剪定した。

 それからだいぶたつ。ここまで大きくなると、素人では手に負えない。むしろ、危ない。

 ある日、カミサンが東北電力に電話をした。担当者が「現地を見てみましょう」というので、日時を決めて隠居で落ち合った。架空線を見るなり、「まずはNTTさんに連絡を。それでだめならこちらで対応します」という。

 そこからが「壁」に遮られた。カミサンがNTTの担当部署につなごうとしても、「ただ今込み合っています」の繰り返し。連絡が付かないままでいたら、電力から電話がかかってきた。事情を聞いて電力が剪定を引き受けてくれた。そのあとは話が一気に進む。

12月15、16日の2日がかりでやるという。初日朝の作業開始時間に合わせて出かけ、あいさつをする。そこで現場のリーダーと再確認したのが、切る高さだった。

こちらの希望は「家の軒下あたり」まで。それだと「木が枯れる恐れがある。突然倒れてそばを通る車にぶつかる心配も。屋根の上あたりまで残しておいた方がいい」という。なるほど、外見ではなく木の命を見ているのか。

 2日目、作業が終わると写真を持って担当者が来訪した。それから3日後の日曜日、この目で確かめた。美しさを感じる剪定だった=写真上2。

 道路に日が差している。以前は冬場、モミの木陰が圧雪されてアイスバーンになることがあった。これだと簡単に太陽が雪を解かしてくれる。屋根も「いがかり」による傷みが抑えられる。ありがたい剪定だった。

2021年12月20日月曜日

ネギ踏み

                     
 週末に寒波が襲来した。土曜日(12月18日)は、庭の轍(わだち)にたまった水が凍った。この冬の初氷だ。日曜日はさらに氷の厚みが増した。

 金曜日、浜通りに暴風雪警報が出される。いわきの平地は雨と風が強いものの、雪になることはなかった。

山はどうか。夏井川渓谷の隠居は、標高が200メートルほどだ。その上流、川前町や田村郡小野町、対岸の三和町上三坂など、標高が500メートル前後の山間地はみぞれか雪になったかもしれない。

雪が積もったとしたら残っている可能性がある。念のために、隠居へはいつもより1時間半遅く出かけた。

平地に近い好間町榊小屋の直売所「生木葉」は、雪やアイスバーンの心配がないはず。そこで買い物をしてから、国道49号~好間中核工業団地~西小川と、夏井川の右岸域から渓谷に入った。

渓谷の道路は乾いていた。が、日陰の道端の水たまりは凍っている。隠居の近く、山側からしみ出た水でいつもぬれているところが何カ所かある。ここも日陰の1カ所がシャーベット状=写真下=になっていたが、タイヤがすべることはなかった。

さて、隠居では前に洗面所の水道管の栓を締めた。台所の温水器も、帰るときには水を抜く。これまで何度か凍結・破損を経験しているので、師走に入るとすぐそうした。日曜日の19日、真っ先にチェックする。無事だった。

あとは庭の土がどうなっているか、だ。生ごみを埋めるためにスコップを持ち出し、軽く地面を突ついたら、硬い音がする。ん!もう凍みついたのか。そのとおりだった。スコップを突き刺そうとしてもはね返される。

刈り草で少し盛り上がったところがある。そこをひっくり返してスコップを差すと簡単に入っていく。穴を掘って生ごみを埋めたあと、また土をかけて刈り草を戻した。

ネギのうねも先端部は凍っていた。少し下からスコップを入れる。そこでグイッとやり、白根を切らないようにして土を砕く。そうやって白根を取り出す。

ネギはまだ半分も収穫していない。生木葉では、ネギ畑がもみがらで覆われていた。これだ、ネギのうねに「もみがらふとん」をかけてやらないと。

ネギ苗にはとっくにもみがらを敷いた。こちらは大丈夫だろう――そう思って見たら、「あれれ」。苗床がところどころ黒く盛り上がっている=写真上。モグラだ。モグラが苗床の地下にトンネルを掘ったのだ。

前にも同じことがあった。場合によっては根が宙に浮いて枯れてしまう。それを防ぐには上から土を押し戻してトンネルをふさがないといけない。

去年(2020年)の、やはり師走。たまたまテレビで下仁田ネギの番組を見た。下仁田では「麦踏み」ならぬ「ネギ踏み」をする。これも霜柱で根が浮かないようにする防寒対策だ。

トンネルによる盛り上がりを戻し、ネギ苗の浮きを避けるために苗床のネギ踏みをした。踏みつけられるほど麦は、いやネギは強くなる。それを信じるしかない。

2021年12月19日日曜日

「ない・ない・ない」一日

                      
 こんな日もあるのかと思った。インターネットがつながらない、灯油がない、食塩がない、プリンターのインクがない――。「ない・ない・ない」一日になった。

 朝は4時ごろ起きて茶の間のこたつに陣取り、パソコンをネットに接続する。12月17日朝は、これができなかった。

あれこれやっても、「ワイヤレス機能が無効になっている」「ネットワークケーブルが正しく接続されていないか、破損している可能性」の表示が出るだけ。毎朝6時前にはブログを更新している。この時間のアップはあきらめた。

 私は地域の新聞社で仕事をしてきた。毎日、締め切りがある。59歳で辞めると、締め切りから解放された――まずはそう感じたものだ。

が、1カ月が過ぎ、2カ月がたって、3カ月目に入ると、なんとも落ち着かなくなった。暮らしのリズムがつかめない。なにか芯になるものが欲しい。

ちょうどそのころ、若い人が「ブログ(日記形式のホームページ)をやりませんか」と言ってきた。ネットで簡単に個人が発信できるシステムに引かれた。

新聞社ではコラムを書いた。ブログは「ネットコラム」。そう思って、毎朝、ブログを更新している。一日に1回は締め切りを持つ――それで自分の中に暮らしのリズムができた。

これまでにも何回かトラブルがあった。そのつど若い人に助けてもらった。ジタバタしても始まらない。若い人が直してくれるまで別のことをした。

翌日の原稿を打ち込む。古い画像(写真)を削除する。画像がたまりすぎて残りの容量が少なくなってきたので、不要な画像は一つずつ、あるいはファイルごと削除する作業を続けている。

その前に暖房だ。前夜、灯油のポリタンクが空になった。茶の間のヒーターとストーブも、夜のうちに相次いで燃料が尽きた。

さいわい、17日朝は室温が15度。首にマフラーを巻いていれば、なんとかこたつだけでしのぐことができた。ガソリンスタンドが開店する時間を見計らって、朝めし前に灯油を買ってくる。

もうひとつ、やることがあった。2回目の白菜漬けだ。すでに白菜は八つに割って干してある=写真。唐辛子と昆布を用意し、ユズの皮をむいてみじんにする。甕を洗い、白菜に食塩を振るばかり――という段になって、食塩を探したらどこにもない。

店(米屋)にはいつも食塩が置いてある。カミサンに聞くと、「あ、売り切れちゃった。コンビニで買って来て」

このあたりで若い人間がやって来た。パソコンをあれこれやっているうちに、ネットにつながった。「古いから接触不良が原因かも」という。

すぐブログをアップしたあと、白菜に食塩を振ると、もう昼。午後はいつものように昼寝をしたあと、図書館に返す本をチェックし、必要なページをコピーした。

ところが、最初の1枚をコピーしたら、プリンターが、黒色のインクが切れたことを表示して動かない。今度はインクか! すぐ量販店へ車を走らせる。

灯油とインクは、原因がはっきりしている。早めに手当てできたのに、先送りしてきたのだ。暮らしの感度が鈍ってきたか。

2021年12月18日土曜日

歳暮のもちを届ける

        
 前にもちょっと書いたことだが――。カミサンの実家(米屋)では、師走になると歳暮のもちをついてお得意さんや知人に届ける。支店に住む私らが担当する分もある。

 夫婦で顔を出すところが1軒。あとはカミサンのアッシー君だ。年に1回、この日だけ会う人とは話が長くなる。お得意さんとも1年を振り返る話になる。その間、私は雲を見たり、鳥を見たりして時間をつぶす。

 たまたま昼食時間を避けて、午後1時前後に訪ねた家がある。「夫は昼寝中」。もう1軒も「昼寝をしていた」。私らもこの時間、歳暮を届けなければ昼寝をしている。

 理由は簡単。早寝・早起きになったことだろう。私は最近、夜の9時ごろに寝て、未明の4時ごろには起きる。

「年寄り半日仕事」ではないが、昼前に少し動いて昼食をとったら、一眠りして午後に備える

昼寝そのものは前からしていた。でも、こんなに早寝・早起きになるとは、10年前、いや5年前でも想像ができなかった。

 誰でも毎年、一つ年をとる。その年なりに思い悩むこともある。私らより年長の女性は運転免許を返納したという。もともとペーパードライバーだったカミサンは、70歳を過ぎるとすぐ返納した。タクシー料金が1割安くなる恩典がある。たまにこの恩典を利用している。

 孫たちは学校が終わるとまっすぐ帰宅する。その時間、母親の両親が通いで孫の面倒をみてくれる。夕方、もちを届けに行くと、母親がいた。

 下の孫がコロナワクチンで発熱し、急きょ仕事を休んだのだという。私ら夫婦は注射痕の周辺が痛くなった程度で、発熱することはなかった。「やっぱり若いんだね」。老若の違いを実感した。

 さて、わが家のもちは、あまり硬くならないように、こたつのなかで一昼夜保温した。もちは1キロずつポリエチレンの袋に入っている。のしもちだ。

それを取り出して、早めにもちを切る。ポリ袋ごと縦に二つに割り、さらに2センチ幅に切っていく。最後に袋をはがす。

包丁を入れると、もちがしなる。しかし、それなりに硬さが増していたので、わりと楽に切り終えた。それを段ボール箱に並べる=写真。

まだ軟らかい豆もちが1枚あった。包丁を入れたあとから、切り口がくっついてしまう。このへんの方言でいえば、すぐ「ねっぱる」。これは硬くなるのを待つしかない。

もちを切るときには左手のひらを包丁の峰に当てて押し込む、もちが硬いと、力が要る。手のひらが痛くなる。今までは軍手をはめてやった。今回は早めにこたつから取り出したので、素手でよかった。

お年寄りだけの家では、ちょっと間をおくと硬くなって切るのに難儀する。こちらで食べられる大きさに切って届けたこともある。

年々歳々やることは変わらない。とはいえ、それなりにみんなどこかで変わっている。歳末のもち配りからそんなことが見えてくる。

そうそう、昼寝中だった知人とはこんな話にもなったそうだ。「すっかり耳が遠くなった」「そうだよね、年を取るのは初体験だもの」