2021年6月30日水曜日

シニアポートレート

        
 カミサンのアッシー君を務めた。友達の家へ行くと、「終活ブームへの違和感」をテーマに、いわき市が発行し、若い人たちがつくっている「紙のいごく 10」をもらった。「シニアポートレート2020」に友達夫妻が載っている=写真。プロのカメラマンの平間至さんが撮影した。

 平間さんの名前は作家角田光代さんの文章とともに知った。確か月刊の「文藝春秋」に載った大手不動産会社のコマーシャルだった。タイトルは「ささやかさ」。

「差し出されたお茶とか、/てのひらとか。/毎朝用意されていたお弁当とか、うつくしい切手の貼られた葉書とか。/それから、歩道に咲くちいさな赤い/花とか、あなたの笑顔とか。/私たちは日々、だれかから、/感謝の言葉も見返りも期待されない/何かを受け取って過ごしている。/あまりにもあたりまえすぎて、/そこにあることに、ときに/気づきもしないということの、/贅沢を思う。幸福を思う。」

 私は作家のこの行分け散文、いや詩と、それに添えられた街角の花壇を手入れする、地下足袋を履いた職人の写真に引かれて、平間さんの名前を覚えたのだった。

 カミサンの友達のダンナさんとは、共通の友達である画家(峰丘)の個展のオープニングパーティーでよく一緒になった。シニアポートレートそのままに、いつもパナマ帽をかぶり、背広にネクタイ姿で現れた。

シニアポートレートには、奥さんとのカップル写真と単独写真が載っている。帽子も背広もシャツもネクタイも違う。いかにもダンディーなダンナさんらしい選択だ。だれかの、なにかの「ハレの日」にはそうして祝意をあらわすのだろう。

ダンナさんは自動車鈑金の工場を経営している。私が若いころは、木造の工場の大看板に目が吸い寄せられたものだ。建物は交差点の角地にある。その角の中央でマリリン・モンローがほほえんでいた。衝撃的な看板だった。

その後、奥さんがカミサンの同級生だと知り、さらにいわきの美術家たちとつきあうなかでダンナさんと知り合い、いろいろ込み入った話もするようになった。

ダンナさんから、新聞記者が主役のアメリカ映画(ビデオ)をもらったこともある(どうも年のせいでタイトルが思い出せない)。

 さて――。その夜、カミサンの友達から電話がかかってきた。カミサンが訪ねたときには姿が見えなかった。「どこへ行ったかわからない」と息子さんが言っていたという。実際は2階で野鳥を観察していたそうだ。体の色はくすんだグリーンとオレンジ、スズメよりは大きい――カミサンとのやりとりから、外国産の籠抜け鳥も含めてどんな鳥か推測したが、ちょっと見当がつかない。

 鳥の話にも興味があるが、今はシニアポートレートだ。息子さんの奥さんが夫妻に代わって応募したという。ダンナさんの「ギョロ目」には力がこもっている。アメリカの映画と音楽を愛してきた人らしい雰囲気が出ている。「遺影」にも使える。それを本人に言えば、「イエー!」と応じるにちがいない。

2021年6月29日火曜日

これが菌根か

           
 梅雨になると、夏井川渓谷の隠居の庭にマメダンゴ(ツチグリ幼菌)が発生する。東日本大震災と原発事故後、庭の全面除染が行われた。表土を5センチはいで、新しい山砂が敷かれた。マメダンゴはもう採れない――あきらめていたが、どこかに菌糸が残っていたらしい。その後も発生を続け、「阿武隈の珍味」を楽しんでいる。

前はそろりそろりと歩きながら、靴底に神経を集中した。かすかに「プチッ」といったら、マメダンゴの外皮が靴の重みで破裂した証拠。あるいは異物の感覚があれば、地面を指で掘ってみる。小石のときもあるが、地中1~2センチのところからパチンコ玉大のマメダンゴが現れる。

おととし(2019年)からはフィールドカートに座り、三本熊手で土をガリガリやる「潮干狩り」スタイルに切り替えた。その方が、効率がいい。

今年も梅雨に入ったので、隠居の庭で「潮干狩り」をした。コケが地面を覆い、その間から傘がピンクの小さなキノコも生えている。ベニタケ科のドクベニタケだろうか。

コケの周辺を掘ったら、細い木の根が引っかかって地表に現れた。と同時に、木の根からわきに伸びた細根に引きずられてキノコが倒れた=写真上。髪の毛のような細根とキノコの根元がつながっている。これが菌根というやつか。それがわかるように撮影データを拡大してみた=写真下。

キノコは木を分解するだけではない。「陸上植物の約八割の植物種と共生関係を結んでいる。菌と植物の共生である菌根が地球の緑を支えている」(齋藤雅典編著『菌根の世界――菌と植物のきってもきれない関係』築地書館)。

典型が松の根などと共生するマツタケだろう。ベニタケ科のキノコもまたマツ科・ブナ科・カバノキ科・ヤナギ科などの木の根と共生するという。言い換えれば、ベニタケ科のキノコが生きていくには細根が必要(ウィキペディア)なのだ。

これは北海道大学大学院「森林資源生物学」ホームページからの受け売り。菌根の形成によって菌は植物から光合成産物をもらう。その見返りに、菌は土壌中から吸収した窒素・リン酸・カリウムなどを植物の根に供給する。根の水分吸収力や病原体への抵抗力を高めもする。

 すると、今度はどの木から根が伸びているのか、が気になりはじめた。隠居の庭の木はモミ、コバノトネリコ、ホオノキ、エゴノキ、ヤナギ、カエデなど。

西から東へと地表すれすれのところに細い根を伸ばしているので、それらのどれかの細根なのだろうが、根を傷つけずにやろうとすれば時間がいくらあっても足りない。菌根を意識するようになってから初めて、この目で確かめたことを良しとして「潮干狩り」を終えた。

 ドクベニタケだったら有毒、見つけても通り過ぎるだけのキノコだが、今回ばかりはドクベニタケ様々だった。

結局、マメダンゴは2個しか採れなかった。ツチグリも菌根菌だという。しかもベニタケ科同様、さまざまな木と共生する。すると、ツチグリもベニタケ科のキノコも菌根を介してつながっている、地中には壮大ないのちのネットワークが存在している、ということがいえないか。「菌根共生」を思考の軸にすえると、自然観が変わる。自然が、世界が違って見えてくる。

2021年6月28日月曜日

いわきの「折々の歌」

                                              いわき地域学會の仲間の中山雅弘さんがいわき民報に毎週金曜日、「いわき諷詠」を連載している。短歌なら1首、俳句なら1句を取り上げ、180字内で解説を加えている。

 先行例としては朝日新聞に毎日、大岡信さん(故人)が連載した「折々のうた」がある。いわき市三和町の作家草野比佐男さん(故人)が日本農業新聞に連載した「くらしの花實」も、形式としては同じだろう。前に拙ブログで「くらしの花實」を紹介した。以下の3段落はそのときの抜粋。

――「折々のうた」は昭和54(1979)年に始まり、平成19(2007)年に終わった。途中、2年なり1年なり休載しながらも、27年間で連載回数は6762回に達した。

「くらしの花實」は草野さんの死をもって終わるまで毎日、9年間続き、2869回で<完>となった。平成17(2005)年9月22日没。2864回目に「お断り」が載った。「選者の草野比佐男さんが亡くなりましたが、今月中は遺稿を掲載します」

「短評」の舞台が日本農業新聞であり、自身農民だったこともあって、草野さんは農業短歌・俳句・詩を多く取り上げた。大須賀乙字や井上靖、俵万智のほかに、寒川猫持、詩人の辻征夫の作品にまで目を通している。その渉猟ぶりにはうなるしかなかった――

「いわき諷詠」で先日、江戸時代後期、磐城平の専称寺で修行し、福島・信夫山の大円寺住職を務めたあと、江戸で俳僧として活躍した一具庵一具(1781~1853年)の「小城下や桔梗(ききょう)ばかりを賣歩行(うりあるく)」が紹介された=写真。数字を見ると139回目だった。

 中山さんは、専門は考古と歴史だ。が、根っこには文学がある。その根っこの部分で「いわき諷詠」が始まり、生業(なりわい)を通して得た具体的な知見も踏まえて解説を試みている。一具の桔梗の句も、着眼点が私とは違う。

「『岩城泉という町場にて』の前書きがある。静かな城下町に桔梗売りの声だけが聞こえている。印象鮮明な佳句だ。泉は本多二万石の小さな城下町。陣屋の東方に南北六百メートルほどの町場があった」

 私には、陣屋の東方にある南北約600メートルの町場が見えてなかった。せいぜい東西にのびる磐城平の城下町を連想するだけだった

 次の週も一具だった。「節にきる松魚(かつお)や蠅のむれる中」。この解説にも納得した。「『岩城小名浜』の前書がある。夏の日、蠅がわんわんと群れる中、鰹節の製造が今まさに盛りである。(略)鰹節製造は江戸時代の磐城七浜を代表する産物で、その多くは江戸に出荷されいわき地方の経済を支えた」。なるほど。

 私も一具には興味がある。地域学會が発足すると間もなく、夏井川下流域をエリアに最初の総合調査が行われた。代表幹事の里見庫男さん(故人)から、一具を調べてまとめるようにいわれた。一具って何、いや誰? そんなレベルだったが、先輩たちの力を借りて、なんとか一具の人と作品に切り込んでいくことができた。

 小城下・泉の桔梗売りに関していえば、歩く人間とか時間帯が気になりだした。切り花ならば、できるだけ太陽にはさらしたくないはずだ。売り歩くのは朝か夕方か。あるいは花ではなく、食料や生薬としての根を売り歩いたかと、次々に想像がふくらむ。それもまた、いわきの「折々の歌」を読む楽しみのひとつではある。

2021年6月27日日曜日

直接予約がよかったか

        
 わが家の隣家にカミサンの弟が住む。デイケアに通っている。私と同じ日にコロナワクチンの接種券が届いた。義弟はパソコンもスマホもやらない。夫婦で話し合って、まずはかかりつけの医院で聞いてみよう、ということになった。そこはコールセンターかネット予約が前提だ。やはり予約してください、ということだった。

私のかかりつけ医院も同じだ。ネット予約を試みたら、たまたま7月下旬に空きがあった。あとはずっと先まで予約で埋まっている。ポチッとやった。

それにならって義弟のネット予約にとりかかる。少し日数がたっていたせいもあるのか、かかりつけ医院も、平地区の集団接種会場も先の先まで予約で埋まっていた。大きな集団接種会場の21世紀の森公園へは、店を閉めてまで出かける気にはならない。

ネット予約はあきらめ、電話で予約が可能な医院を探す。たまたま車ですぐのところに「直接予約を受け付ける医療機関」があった。指定された日時にカミサンが電話をするとすぐつながり、1回目と2回目の接種日が決まった。

カミサンはすでにかかりつけ医院で1回目の接種を終えている。こちらも「直接予約を受け付ける医療機関」だ。薬をもらいに行ったとき、窓口で予約をしたら自動的に2回目も決まった。

となると、ネットで予約した私だけ2回目が決まらない。接種券と一緒に入っていたネット予約の説明書=写真=には、1回目を終えたらすぐ2回目の予約を、とある。接種日以降にネットの画面を開くと2回目の予約ボタンが表示されるという。そこから、21日以上経過した日のなかから2回目を予約することになる。

およそ3週間後という目安を大幅に超えることはないのか。1回目を終えたところで、自動的に2回目の日時が決まらないのか――かかりつけ医院へ薬をもらいに行ったついでに、窓口で聞いてみた。

「ネットで1回目の予約をとった。2回目もやはりネット予約が必要?」「そうなります」「すると、3週間後とは限らないよね、3か月後ということもありうるよね」「3カ月後は、ないです」と笑われた。3週間がたったら早い時期に決まる、ということなのだろう。

いろんなやり方があるのはいい。が、あれもある、これもある、ではかえって年寄りは混乱する。実際、カミサンもあれこれ迷い、悩んだ末に、直接当たって予約することに“成功”した(一時は、私が「できない」というものだから、若い人にネット予約をお願いしたほどだ)。義弟の場合も結局、かかりつけ医院とは別の医院を選んだ。

ネットでかかりつけ医院の予約状況を確かめたとき、ため息が出た。1回目が決まっても、2回目がいつになるかわからない不安に襲われた。2回目が決まっている人が周りに増えるほど、取り残されたような気持ちになった。

かかりつけ医院の窓口で笑いがおこり、それで初めて少し安心したのだが、それでもすっきりしたわけではない。とにかくめんどうくさい。ネットでも最初から1回目と2回目がセットで予約できるようにしてほしかった。

2021年6月26日土曜日

「洟をたらした神」と「二銭銅貨」

        
 吉野せいの短編「洟をたらした神」は、昭和初期の子どものおもちゃと遊びがテーマだ。

数え六つの男の子ノボルは、家が貧しいので、独楽(こま)や竹トンボなどは自分でつくる。ヨーヨーが欲しいのに、買ってもらえない。で、山から“こじれ松”の枝を取ってきて、ヨーヨーを自作する。その夜、ヨーヨーの出来栄えに親子が歓声を上げる――そんなストーリーだ。

ノボルがヨーヨーの代金2銭を母親にねだる場面がある。母親、つまりせいは「ヨーヨーなんてつまんねえぞう。じっきはやんなくなっちまあよ」といいながら、来年、学校にあがるときにはカバンでもなんでも買ってやる――と、話を別の方向にもっていく。

せいは、それから不意に、昔読んだ黒島伝治の「二銭銅貨」を思い出して作品の概要を記すのだが、実際の「二銭銅貨」=写真=とはだいぶ構成が違っている。

先日、たまたま思い出して、図書館から筑摩書房『日本文學大系 56』を借りた。葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子の3人集で、なかに収録されている「二銭銅貨」を読んでわかった。

「二銭銅貨」は短編も短編、400字詰め原稿用紙で9枚程度の超短編だ。「洟をたらした神」と同じように、子と母親が向き合う。こちらは、欲しいものはヨーヨーではなく、独楽のひもだ。

母親と雑貨店へひもを買いに行く。長いひも(10銭)と短いひも(8銭)があった。母親は値段の安い方を選び、10銭を渡して2銭銅貨を受け取る。

このつり銭の2銭銅貨が、「洟をたらした神」ではひもの値段になっている。ヨーヨーの値段2銭との整合性をはかって、あえてそうしたのか。あるいは、記憶が変形してそうなったのか。「コマ紐の二銭、ヨーヨーの二銭、が妙に胸にひっかかって、唯貧乏と戦うだけの心の寒々しさがうす汚く(略)」思えてきたのだから、記憶が変形したのだろう。

短いひもでは、長いひもで回す独楽には勝てない。子どもは牛が回って粉を引く小屋に入り、回転する柱を利用してひもを長くしようと、ひもの両端を持って牛のあとを回る。ところが、なにかのはずみで手からひもがぬけて転ぶ。そこへ牛が回ってきて踏みつける。母親が見つけたときには、子どもは死んでいた。

2銭ではなく8銭、母子2人ではなく親子4人と、「二銭銅貨」から「洟をたらした神」を読み解いてもしかたない。が、せいの作品の注釈づくりを進めるためには、一度は実証的な側面から見ておく必要がある。

ヨーヨーが世界的に流行するのは昭和8(1933)年。それがいわき地方にも波及したことは、同年3月26日付の常磐毎日新聞でわかる。ヨーヨーの広告が載る。地元・平町の「佐藤挽物製作所」がつくり、特約玩具店を通じて売り出した。「安値 一個五銭 十銭 二十銭」とあった。

ま、注釈は注釈として、純粋に作品を楽しむのが一番。とはいえ、作品を深掘りすればするほど、短編集『洟をたらした神』は、ノンフィクション性が薄れてフィクション性が増していく。

2021年6月25日金曜日

庭に来るウグイス

        
 これは、ウグイスにとっては尋常な行動なのだろうか。今までにも庭に現れて、「ホーホケキョ」とやることはあった。でも、今年(2021年)は火曜日(6月22日)、庭の方で遠慮がちに歌い出したと思ったら、翌日は朝、昼、夕と、高らかに「ホーホケキョ」とやっていた。「ケキョケキョケキョ」の谷渡りも聞いた。まるでこのへん(住宅街)を縄張りにしたような鳴き方だ。

わが家に隣接する東と南、計4軒の家は庭に木が植わってある。4軒まとめるとちょっとしたグリーンスポットになる。ウグイスはもともと山野の鳥。このグリーンスポットは、大陸(山野)から離れた海上の孤島のようなものだ。そこへほかの島(大きな家の庭)を伝ってウグイスが漂着した?

わが家の南隣に義弟が住む。最初は義弟の家の庭の方からか細い声が聞こえてきた。そのうち、わが家の庭=写真=に現れて高らかに歌い出した。2日目はこの2軒の庭を何度か周回しながら歌っていた。

 歌い方に癖がある。正確には、「ホーホケキョ」ではなく「ホーホケベキョ」だ。夏井川渓谷の隠居でも、行くたびにウグイスの声を聞く。耳に飛び込んでくるのは「ホーホケキョ」、たまに「ホーホケベキョ」。同じ個体が鳴き方を変えるのか、別々の個体が違う鳴き方を習得したのか。そのへんのことはむろんわからない。

 若いときに川村多実二『鳥の歌の科学』(中央公論社、1974年)を読んで、鳥にも方言があることを知った。「ホーホケベキョ」はその典型だろう。

 と、ここまで書いてきて思い出した。近所のどこかにハシブトガラスが巣をかけたらしい。毎朝、わが家の庭にある電柱や、隣の駐車場に設けられたケータイのアンテナに止まって、「カッカッカッカッ」とやる。すぐ近くにごみ集積所がある。それが狙いのひとつかもしれない。

 朝だけでなく、日中もやって来る。すっかり鳴き声を覚えた。鳴き声から何をしようとしているのかわかれば、こちらも対応のしようがあるのだが、そこまでは知識も経験もない。

カラス研究の第一人者、杉田昭栄・宇都宮大学名誉教授が3年前に『カラス学のすすめ』(緑書房)を出した。図書館から借りて読んだ。

「今でもカラスは黄色が嫌いだと思っている方もいるようですが、(略)カラスに嫌な色はありません。あくまでも紫外線遮断効果がないと効果はないことを、この場でお伝えしておきます」。ごみネットを買うときには黄色を選んでいたが、今は青色でも黄色でもかまわない、あるものを買うようにしている。

 その杉田さんが最近、同じ出版社から『もっとディープに!カラス学』を出した。図書館にある。「貸出中」だ。街場ではごみをめぐる人間とカラスの闘いが続く。負けるわけにはいかない。そのためにも、早く新しい知識に触れたいのだが……。

 そうそう、ウグイスが遠慮がちに歌い出した日の夕方、庭の柿の木の方から「ジージージージー」というかすかな声が届いた。ニイニイゼミの初鳴きだった。

ニイニイゼミの鳴き声にはいつも迷う。というのは、一年中、右耳にニイニイゼミを飼っているからだ。外から聞こえるニイニイゼミなのか、耳鳴りなのか、判断がつかないときがある。ニイニイゼミの声はそのくらいか細く静かだ。

ウグイス、カラス、ニイニイゼミ……。わが家の小さな庭でもいのちの歌が響く時節になった。

2021年6月24日木曜日

忘れていた詩人の日記

                                
 図書館の新着図書コーナーに、なつかしい、というよりは忘れていた詩人の本があった。『蒲原有明日記 1945―1952』(公孫樹舎)=写真。有明は日本の文学史上、薄田泣菫とともに高く評価された明治詩壇のスターだ。

私は、大正初期、磐城平で独自の文学を開花させた山村暮鳥から詩を読みはじめたので、有明も泣菫も歴史上の人物として知るだけだ。が、終戦時から8年間の日記は現代史の資料としても読める。明治の詩人が戦後も生きていたという驚きもあって、すぐ借りた。

有明は昭和27(1952)年2月3日、急性肺炎で亡くなる。その8日前の1月26日、日記にこう記す。<午后午睡より起きて後座蒲団に轉び腰を強く打ちたり」直に臥床」>

私は今年(2021年)の年頭、家の中での転倒事故を防ぐこと――という誓いを立てた。老化で弱くなった足腰が、コロナ禍の巣ごもりでさらに弱くなった。正月三が日、さっそく階段で足をぶつけ、座布団でこけそうになった。一方の足で支えられるうちはいいが、その足までぐらついたら、柱に頭をぶつける、手を痛める、といったことになりかねない。

それを思い出した。有明は座布団につまずいて転んだ。腰を強打して寝込み、床から起き出したと思ったら、予期せぬ死が待っていた。詩人というよりは一人の老人の戦後日記、その晩年の記録ととらえると、より身近なものになる。

有明は関東大震災後、自宅のある鎌倉から静岡へ移り住み、昭和20(1945)年6月19日深夜~20日未明の空襲で家が全焼する。9月中旬には、管理人を介して川端康成に貸していた鎌倉の自宅に帰った。川端と面識はなかったが、同じ「文芸道のよしみ」でひとつ屋根の下に住む同意が得られた。両家の同居は川端が引っ越すまで1年ほど続いた。

日記は静岡空襲のあった年のその日、6月20日に書き始められる。それ以前の日記、あるいは蔵書などは家とともに灰になったのだろう。最初の1行は<△未明敵機約百五十機来襲、静岡市ハ殆ト焦土ト化セリ、予ガ家モ全焼>である。終戦の玉音放送には<タダタダ声ヲ呑ミ落涙スルノミナリ>。

時代の大きな節目ばかりか、庶民の暮らしや季節の移り行きも細かく書き留める。8月25日には<△廿二日午前〇時ヲ期シテ気象管制解除、天気予報復活」>、同28日<赤蜻蛉出ヅ」>。9月15日に静岡から鎌倉へ帰住したあとの17日には<隣組長ヨリ予等自宅復帰ニヨリ隣組当番変更ノ旨通告シ来ル」>。

購入した食品その他の値段を克明に記しているのには驚いた。たとえば、昭和20年師走の24日。<△大型バケツ七円(戦災者ニ配給)/△サメ百八十五匁十六円七十銭、アンコウ十円、漬菜一束三円六十五銭」/△参考[マグロ百匁四十五円]>。クリスマスイブの記述はもちろんない。

 編集・解題を担当した高梨章さんは「あとがき」で「有明の日記で目につくのは、綿密な物価の記載である。(略)男の日記でこれはめずらしいのではないか」と記す。

 有明と同じく脚光を浴び、有明と同じく大正に入ると文壇を離れた泣菫が、戦後すぐの10月9日に68歳で亡くなる。10月18日の日記にそれを記している。<△(略)大変動ノ最中ニテ、新聞モ僅に数行ノ訃報ヲ掲ゲシノミナルハ、寂シキ心地ス」>。自分が死んだときもまた、という思いがよぎったのではないか。

2021年6月23日水曜日

「初物」のお福分け

        
 毎朝、台所の軒下にあるキュウリ苗をチェックする。5月下旬に定植してからほぼ1カ月。根元から7節まで芽かきをした。そのあとに伸びたつるの節に花が咲き、実が肥大しはじめた。

 月曜日(6月21日)に見ると、1本が大人の小指くらいの長さになっていた。ここまで育つと、キュウリは一気に大きくなる。火曜日は万年筆大になっていた。水曜日、つまりけさ、「初物」として収穫し、床の間に飾った。

 私より早くキュウリ苗を定植したところでは、もう初物を食べたことだろう。というのも、6月中旬には野菜のお福分けが始まったからだ。

 最初は後輩から。アーティチョーク、ズッキーニ、タマネギが届いた。すると次は近所から大根が、同じく近所の別の家からナスとキュウリが届いた。

 近所にはお年寄りが多い。戸建て住宅なので、家によっては庭の一部を菜園にしている。わが家の軒下のキュウリ苗は、太陽の光がさすものの、十分ではない。露地栽培なら限られたスペースであっても、光をたっぷり浴びてのびのびと育つ。実がなるのも早い。

 果樹も、梅雨期に実りを迎えるものがある。プラム、これはわが家の庭にもある。幹が途中から二股になっていたが、1本は菌類(キノコ)に侵されたので、後輩に頼んで切ってもらった。残った半分に実がなっている。実自身の重みで枝が折れる。カミサンが実を摘んで片付けた。それが今年(2021年)の初物。

 日曜日の朝、知り合いの家へ行ったら、夫婦で庭のビワの実を採っていた。カミサン同士がおしゃべりをしている間、収穫の手伝いをした。帰りに、ビワの入ったレジ袋を渡された=写真。これももちろん初物だ。

 次の日、カミサンが街へ行くと、リュックサックを背負った知り合いにばったり会った。リュックサックの中身は、ダンナさんが栽培しているトウモロコシだった。その場で何本かをちょうだいしたという。このほかにも、川向こうの知人からキュウリとインゲンが届いた。

 そういう時期になったのだと、気持ちを切り替える。キュウリは、家庭菜園では人気の野菜の一つ。実がなり出すと、あちこちからお福分けが届く。

キュウリは大根と違って、水分が飛ぶと中身が白っぽくなる。漬けてもまずい。だから、糠床とは別に、ホーローのキッチンポットに塩を振り、重しをのせて古漬けにする。今までの例だと、これから2カ月、8月下旬まではお福分けが続く。その準備をしないと――

野菜がそろうと調理法を工夫しないといけない。今は、とにかく糠漬けを量産する。それ以外の食べ方はカミサンに頼む。同じインゲンがおひたしになり、てんぷらになる。タマネギの甘酢漬けは毎晩欠かさない。というわけで、最近は夜、品数が二つ、三つ増えた。

トウモロコシは「ゆでるより蒸した方がいい」といわれたとかで、それを食べた。やわらかくて甘い。

前にも書いたことだが。地域全体が貧しかったときには、お福分けが当たり前だった。お福分けは助け合う暮らし、支え合う暮らしの入り口でもある。コロナ禍の今、これこそが古くて新しい生活様式ではないだろうか、などと、わが家のキュウリの初物を手にして、また思った。

2021年6月22日火曜日

1カ月遅れの市民講座

        
 いわき地域学會の第361回市民講座が土曜日(6月19日)午後、いわき市文化センター中会議室で開かれた=写真。

 コロナ禍による公共施設臨時休館の影響で開催が1カ月延期されたうえ、予定していた会場(1階の大講義室)が急きょ、平地区の「新型コロナワクチン接種予約サポートセンター」になったため、2階の中会議室に変更された。

「3密」を避けるために、スペースに応じて利用人数が制限されている。中会議室は1と2があって、仕切りが取り払われている。両方を借りれば、人数的には大講義室と変わらない。

1の場合、テーブルは3列5脚。そこにイスが1脚、次は2脚という組み合わせで、定員は20人ほどだ。これに2を加えれば40人ほどになる。

 4月末に講座開催の案内はがきを、そして5月に入ってすぐ1カ月延期を知らせるはがきを出した。案内はがきには大講義室が会場のため「定員40人」(先着順)「入場整理のため、このはがきをご持参ください」という文言を入れた。また、地元3紙には毎回、予告と取材を依頼していたが、今回は自粛した。結果的には、受講者は20人ほどだった。

 新年度最初の講座は夏井芳徳副代表幹事が担当する。今回の演題は「元文3年の一揆」だった。

 ざっと280年前の元文3(1738)年9月、酷税に苦しむ磐城平藩内の農民が決起する。

 歴史的には「元文百姓一揆」といわれるもので、「一揆の直接的原因は、領内の百姓町人にたびたび御用金を申し付けて厳しく取り立て、高率の年貢をかけ、さらに多くの役金を申し付けて苦しめた、強度な収奪」にあった(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)。

夏井副代表幹事は、明治の碩学、大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)の『磐城史料』をテキストに、一揆の経過を解説した。来年(2022年)は内藤氏の磐城平入封から400年の節目の年に当たる。それを踏まえた講座だった。

死を覚悟して百姓を指揮し、城の役人と対峙した人物のひとりに、中神谷村の(佐藤)武左衛門がいる。「死生ノ際ニ臨ミテハ、百姓モ、役人モ一人ハ一人ナリ。我等進退ノ決スハ一ニ願書ノ許否、如何ニアリ。生死ノ決スルモ、亦、此ニアルナリ」。いやあ、すごいことをいう――と思って聞いていたら、武左衛門は「さむらい崩れ、旧岩城家の家臣」だったとか。

もう一人、小川村柴原の(吉田)長次兵衛について。カミサンの伯父が同じ柴原の吉田家へ婿に入った。生前、わが家へ何度か遊びに来た。歴史好きで、長次兵衛のことをよく話していた。吉田家は1軒だけではないだろうから、長次兵衛が先祖かどうかはわからない。が、偉大な郷土の先達、という思いがあったのだろう。長次兵衛を慕い、敬う気持ちはなかなかのものだった。

いつか柴原の親類の家を訪ねたら、そのへんのことを聞いてみたい。ネットで知ったのだが、近くの遍照寺に長次兵衛を供養する門がある。建て主は義伯父らしい。それもこの目で確かめたい。

さて、一揆の結果はどうなったか。武左衛門と長次兵衛は「死罪獄門七日さらし」だった。処刑された12人の中では最も重い。なんというか、義憤のようなものが時空を超えてわいてくる。

2021年6月21日月曜日

父の日のプレゼント

                     
 日曜日に夏井川渓谷の隠居で土いじりをした帰りは――。なにもなければ、平地の平窪から朝と同じ田んぼ道を戻る。マチに用事があるときは、そのまま国道399号を利用して住宅街となった平窪の集落を通り抜ける。

 平窪の住宅街にJAの「新鮮やさい館」がある。前は日曜日が定休日だった。それが、「開いてる!」。助手席の声に驚いたのはつい最近だ。

 JAのような大きな組織は、簡単には直売所の定休日を変えないだろう。そんな先入観がこちらにはある。が、現実に平窪の直売所は日曜日も営業するようになった。これもコロナ禍がもたらした変化か、などと勘繰るのは、元ブンヤの悪い癖だ。

日曜日もやっているなら買い物を、となって、きのう(6月20日)、隠居からの帰りに立ち寄った。なんだか前より品数が増えている。

キュウリと梅干しその他を買ったら、「父の日」のプレゼントをもらった=写真。レジの女性から直接景品を手渡されて初めて、この日が父の日であることを思い出した。

これまでの父の日プレゼントはアルコールか食べ物だった。食べ物の店だから、やはり口に入れるものだろう、クッキーかな――そう勝手に思い込む。

さあ、晩酌を始めるか。日曜日なので、いつもの魚屋さんから買ってきたカツオの刺し身が食卓にある。わきに新鮮やさい館の景品もある。

景品を見たカミサンが驚いたように言う。「あんた、それを食べるつもり?」「ん?」「食べものじゃないよ」「ん?」

そこで初めて景品のカバーに書かれている文字を読んだ。薬用入浴剤だった。「ええっ!」。「ゆずの香り」「炭酸力のバブ」「さら湯よりもっといたわるお湯質に」。そんな文字が印刷されている。「食べたら口から泡が出てきたりして」。きつい皮肉にも黙っているしかない。

トンチンカンはそれで終わらなかった。帰宅すると、すぐ茶の間のガラス戸を開けた。土曜日(6月19日)は雨。平年より7日、昨年(2020年)より8日遅く東北南部が梅雨入りをした。翌日曜日は、午前中こそ曇りがちだったものの、午後になると青空が戻った。気温も上がった。夕方、蚊がブンブン飛び回り始めた。

座いすとわきの本の後ろに蚊取り線香を置いた。いつもはそこにくずかごが置いてある。日曜日だけ違うところに移す。それを忘れていた。ティッシュペーパーを1枚丸めてくずかごに捨てたつもりでいたら、なにかが焦げたようなにおいがする。カミサンが「なに、このにおい?」といって確かめると、蚊取り線香の上でティッシュペーパーが焦げていた。

危ない、危ない。一人でいたらオオゴトになる。「二人で一人」だからこそ、トンチンカンもなんとか収まる。

そこへ宅配便が届いた。疑似孫の親からの父の日プレゼント、ほんものの酒のつまみだった。日曜日の日中は隠居へ行っていていない。晩の6時以降の時間指定だった。ありがたい、ありがたい。

2021年6月20日日曜日

ネギの種採り

                      
 夏井川渓谷の隠居の庭で三春ネギを栽培している。ネギ坊主がくすんだ色になり、黒い種をのぞかせるようになった。日曜日(6月13日)、これを全部収穫した=写真上1。

いつもだと、ネギ坊主をカットしたあと、一気に古いネギを引っこ抜いて溝をつくり、ネギ苗を定植するのだが……。

今年(2021年)はなぜかネギ坊主のできるのが遅れた。しかも、花茎はうねにまばらに立っている。

一方で、ネギ苗は春がくるとぐんぐん大きくなった。空いているうねに順次、溝をつくって定植しないと間に合わない。花茎を避けて少しずつ植えつけていったら、種が採れるころにはうねの3分の2で定植がすんだ。

老人には「少しずつ」が一番。ネギ坊主を採ったあとは一気呵(か)成でも疲れない。古いネギを引っこ抜く。溝をつくる。それが終われば、フィールドカートに座って一連の作業を続ける。畳3枚くらいのスペースだからできる「独り仕事」だ。

まずは古いネギの皮をむき、「分けつ」してできた次の世代(苗)を根ごと残す。

花茎は、後輩がつくってくれたドラム缶釜で焼却する。新しいネギ苗でも「さび病」らしい葉はすべて除去して燃やす。

それと並行して、ネギの苗床を掘り起こし、定植苗を選別する。今年は万年筆並みの太い苗が多い。鉛筆大の苗は「葉ネギ」として食べることにした。

それから残った溝に苗を定植する。これでネギのうねはすべて新しい苗に入れ替わった。分けつネギも植えた。

当初は400本の定植をもくろんでいたが、現実には270本ほどにとどまった。

 作業はしかし、それで終わらない。今度も葉ネギがどっさり出た。水で洗いながらごみや泥をとる。1本1本葉の色をチェックする。さび病が出た葉は取り除いて、やはり焼却する。すぐ食べられるように、そして知人に「お福分け」ができるようにするには、手間はかかるがこの下処理が欠かせない。

 ネギ坊主は家に持ち帰り、軒下で乾燥させる。ときにはネギ坊主を振ったり、さわったりして、種がこぼれる手助けをする。日ごとに、ざるの底に黒い種がたまっていく。もうちょっとだ。近々、ごみと未熟な種を取りのぞいたら、乾燥剤と一緒に小瓶に入れて、秋まで冷蔵庫に保管する。

 この時期、種を採るものがもうひとつある。辛み大根だ。辛み大根は耕したうねに種をまくと、鉛筆のように細い根を伸ばす。それで今は不耕起栽培に切り替えた。土が硬いとストレスがかかるのか、辛み大根はずんぐりむっくりになる。それがいい。冬、おろして食べる。

種はさやのなかで眠っている=写真上2。さやをそのままうねに放置していたら、8月後半に芽を出した。不耕起のうえ、さやを放置しておいてもいいのだ。

とはいえ、3株だけでもさやは鈴なりだ。あらかたは収穫して保存する。その一部を不耕起のスペースにばらまくことにする。月遅れ盆のころ、芽が出ればもうけものだ。

辛み大根に比べたら、ネギは繊細だ。砂漠生まれだけに、高温多湿の日本の夏を、涼しく過ごさせないといけない。絶えずルーツに立ち返らないと泣きをみる。

2021年6月19日土曜日

明治の「新聞縦覧所」

        
 コロナ禍で1カ月延期されていた中央公民館の新年度前期市民講座がスタートした。近代史の本田善人さんが「明治前期、地域における建言や新聞投書――地域民衆の言論活動とその成長」と題して5回にわたって話す=写真上。いわき地域の新聞史にも重なるテーマだ。

初回は「近代社会のスタート、地域言論活動の事始め」だった。なかで「いわき地方史研究」第6号(昭和44=1969年)に載った「磐前県(いわさきけん)一覧表」=写真下=を紹介した。「会社」欄(下段中央のやや右側)に「新聞紙局 1 庁中」「同展観社 7 市在」とある。

同6号で一覧表を報告した菊池康雄さんは、新聞紙局について「平に新聞社が1社あったことがわかるが、新聞社の名称や、どのような新聞が刊行されていたのか」、また新聞展観社についても「これは新聞を読ませて料金を取ったものか、ご存知の方があったら御垂教を」と書いた。

 それから24年後。平成5(1993)年に『いわき市史 3 近代』が刊行される。本田さんが執筆した第1章「明治新政府といわき」の第1節「明治維新期の政治と民衆」のなかに、菊池さんへの答えが載っていた。

同書によると、磐前県は明治6(1873)年、布告類の迅速な配布・周知を徹底するために活版印刷機を導入し、5月から活版印刷の県布告を発行した。さらに、同年10月には「磐前新聞」第1号を県庁内の新聞紙局で印刷・発行した。

 それからさらに28年がたった今年(2021年)。「磐前新聞」の現物を初めて見た。いわきの地域新聞の淵源ともいうべき重要な史料だ。タイミングよくいわきの近代史の講座が始まり、1回目で早くも同新聞を発行した「磐前県」について具体的な知見を得ることができた。

出久根達郎『昔をたずねて今を知る――読売新聞で読む明治』(中央公論新社、2003年)「新聞縦覧所」が出てくる。昔、本を読んでメモを取ったことを思い出した。

明治5(1872)年11月ごろから、格安料金で各種の新聞が読める「新聞縦覧所」が東京に出現したそうだ。

「例を浅草奥山に開業した『新聞茶屋』にとると、店にテーブルと椅子を置き、見料は1紙2厘か2厘半、茶代が5厘であった。日本橋の大観堂は時間制で、1時間1銭、また6年7月に開業許可を得た、神田栄町の博聞堂は、見料が茶代とも1日2銭、1カ月37銭5厘。新聞の種類が15紙で、その名称が挙げられている」

磐前県のエリアは浜通り全域および田村郡・石川郡・白川郡(今の東白川郡)で、平に県庁が置かれた。このエリアに7カ所の新聞縦覧所があったことになる。本田さんは「政府が3紙を提供し、全国の先進例を新聞で学ぶように奨励した」という。

本田さんが講座で示した史料から「いわき地方史研究」に当たり、『いわき市史』を読み直し、関連書物のメモを引っ張り出したら、新聞縦覧所のイメージが少しわいてきた。

菊池さんではないが、料金を取ったのかどうか、茶屋風だったのかどうか、なども含めて、地方の新聞縦覧所の実態を知りたくなった。

2021年6月18日金曜日

それぞれの“菌活”

                     
 近所の床屋さんへ行ったら、月曜だけでなく火曜も定休日だった。火曜日朝、ポカッと時間が空いたが、在宅ワークに戻る気にはなれない。石森山(平)へ行って、遊歩道を散歩するか

春の花はとっくに終わったが、梅雨を前にキノコを見かけるようになった。キノコを撮る。東日本大震災と原発事故後、習慣になった菌活だ。いちおう家に戻ってカミサンに断ってから出かけた。

 いつもの遊歩道に入ると、中年カップルがいた。私は首からカメラをぶら下げている。向こうの男性も小さなカメラを手にしている。あいさつしてすれ違った。

 こちらの目的は1週間ほど前に撮ったアラゲキクラゲがどうなっているか、新しいキノコが生えていないか、の2点。

 道端の折損木にウスヒラタケに似たキノコが生えていた=写真。傘の裏はひだでもなく管孔でもない。白くてツルンとしている。たぶん管孔だろうが、老眼には細密すぎてわからない。あとで『日本のきのこ』(山と渓谷社)に当たったものの、名前はわからなかった。

 アラゲキクラゲは立ち枯れと倒木に発生した。立ち枯れの方は1週間前とほとんど変わっていなかった。倒木の方は、私が一部採取したこともあるが、あまり目立たなくなっていた。それで、その日の菌活は終わりだ。

 遊歩道を戻ると、先にすれ違ったカップルも同じように戻ってきた。こうなると、森に入った目的が気になる。「粘菌」だった。粘菌はアメーバ様の生きものだが、キノコと同様、胞子を飛ばして繁殖する。大きくみれば彼もまた“菌活”だった。

 粘菌だけではない、植物や鳥や虫にも興味があるという。その点は、私も同じ。「サンコウチョウが鳴いてました」と彼。「今、『ホイホイホイ』って鳴いてますよ」と私。

 そのあとに驚きが待っていた。「もしかして吉田さんですか」「そうです」。私のブログを読んだという。ただし、自然のことではなく、中神谷の夏井川そばにある「調練場」という地名の話になった。なぜそういう地名があるのか気になっていたそうだ。そのブログを抜粋する。

――笠間藩神谷陣屋は今の平六小のところにあった。しかし、最初は字苅萱地内(わが家の裏手)に設けられた。

 志賀伝吉著『神谷村誌』に、字名の付いた中神谷村の略図が載る。一番南に夏井川が蛇行している。川の中に「川中島(御仕置場)」とある。首切り場だ。さらに、その下流左岸には「調練場」。左カーブの広い河川敷になっている。調練場の内陸側に、「大年(おおどし)」「天神」をはさんで「苅萱(大門口)」がある。

江戸時代後期、浜街道に沿って陣屋があり、陣屋の裏手の先に藩士の兵式訓練を行うための河川敷が広がっていた。で、調練場という字名がついた。

 苅萱に陣屋がおかれたのは延享4(1747)年。ところが、夏井川に近いため、ときどき水害に見舞われた。そこで文政6年(1823)、小川江筋沿いの山際に移転し、明治維新を迎える――。

こうなると、ますます相手を知りたくなる。平・十五町目で工房兼ショップを開きながら、レッドリスト調査などに従事しているナチュラリストだった。共通の知人Mさん(磐城平藩の医師の子孫)の話になった。調練場のことは、Mさんから教えられたのだろうか。

撮影した粘菌を見せてもらった。「きれいですね!」。思わず感嘆の声を上げる。同じ遊歩道を行ったり来たりしているのに、見ている世界が違っていた。

2021年6月17日木曜日

シラカバとカシワの木

            
 6年ぶりに川前町の「いこいの里鬼ケ城」を訪ねたことを、先日書いた。狙いは夏鳥のカッコウ。夜明けの大コーラスが終わったあとで、カッコウも沈黙していた。が、夜明けに鬼ケ城にいればカッコウの鳴き声が聞こえる――それがわかったことは収穫だった。

 そしてもう一つ、鬼ケ城へ行ったからこその“発見”。自生か植栽かはわからない。が、レストハウス周辺にシラカバ=写真上1=が何本かあった。カシワの大木もあった。これまで何度か鬼ケ城を訪れているが、シラカバの記憶は全くなかった。

 このごろはたまに、キノコの胞子から世界を見たらどうなるか――そんなことを考える。

自然と自然の交通、自然と人間の交通、人間と人間の交通。この三つの交通(関係)で世界は成り立っている(内山節『自然と人間の哲学』岩波書店)。ならば、みんなが主役ではないか。なかでも会ってみたい主役のひとつがベニテングタケだ。

この毒キノコはシラカバと共生する。阿武隈高地には、シラカバは自生しない、だからベニテングタケも見られない、というのが定説だ。が、植栽されたシラカバの根に胞子が活着することはあり得るだろう。現に、阿武隈高地でベニテングタケと出合った知人がいる。

だから、三和町の芝山(819メートル)にあるシラカバ林や、小川町の旧戸渡分校近くの道路沿いにあるシラカバが頭から離れない。秋になったら木の周りを確かめに行くか――近年はそんな思いがめぐるのだが、なかなか実行できないでいる。

 5年前(2016年)の8月、同級生4人でサハリン(樺太)を訪れた。オホーツク海側の道路を北上したら、道の両側がシラカバ林だった。ベニテングタケの菌輪(フェアリーリング)を想像して興奮した。

 北海道は、釧路国阿寒郡舌辛村二十五度線(現釧路市阿寒町紀ノ丘地内)の「猪狩満直開墾地跡」。草野心平記念文学館で動画を見たのだが、そこにシラカバが1本、左手にはカシワの木が何本かあった。この動画からもベニテングタケの幻想が立ち昇った。

 さて、カシワの方だが、この木はいわきの平地でも民家の庭に植わってある。鬼ケ城のカシワは自生だろうか。施設をつくるときに残されたのが大木化したようなものもある。キャンプ場のわきにも若いカシワが生えていた。独特の葉=写真上2=をまとっているのですぐわかる。

 カシワは、宮沢賢治の童話「かしわばやしの夜」では主役を演じている。北海道の帯広へ行ったときには、それこそ防風林のようなカシワ林を見た。

 いわきは東北の最南端だが、鬼ヶ城山(887メートル)の中腹にあるいこいの里鬼ゲ城は標高が630メートル前後と、ちょっぴり北国の雰囲気を味わえる。サハリンや北海道はともかく、岩手の小岩井農場あたりが恋しくなったら鬼ケ城へ来るか――シラカバとカシワの木から次々に旅の思い出がわいてくるのだった。