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2019年4月7日日曜日

詩集『六号線』

 いわき市平の木村孝夫さんから、ポケット詩集『六号線――140文字と+&の世界――』(しろねこ社)の恵贈にあずかった=写真。昨年(2018年)8月にも、同じ出版社からポケット詩集『私は考える人でありたい――140文字の言葉たち』を出している。二つで「一対」になる震災詩集だという。
木村さんは東日本大震災以来、140文字のツイッターで「震災詩」を書き続けている。前の詩集にはその中から67篇を、今度の詩集には68編を収めた。

詩集のタイトルとなった「六号線」(国道6号)について、木村さんは冒頭でこう述べている。「六号線とは、東京電力福島第一原子力発電所と福島第二原子力発電所の『十基の原子力発電所』の側を通る南と北の大動脈路です」。この基幹道路は、四輪車は普通に通行できるようになったが、富岡~浪江間は歩行者や二輪車の通行はまだ認められていない。

8年前の東日本大震災時、地震と津波で1Fが事故を起こした。原発立地町と周辺自治体を含めて、一時は16万5000人が避難した。今も4万人以上が避難を余儀なくされている。

きのう(4月6日)の福島民報によると、1Fの立地する双葉・大熊両町のうち、大熊町が今週の水曜日(4月10日)、居住制限、避難指示解除準備両区域の避難指示が解除される。しかし、同町は帰還困難区域が圧倒的に多い。

詩集のタイトルにもなった序詩の「六号線」を紹介する。「避難していたときの/あの混乱が/六号線にはまだ残っている//その車道を/老いて背中を丸くした魚が遡上していく/詩を書く魚だ//二〇一七年三月三十一日で/帰還困難区域を除き/大部分の困難区域は解除された//老いて詩を書く友達の魚は/古里に戻るという/若い魚は戻らないという//思慮深く/何度も何度も推敲したのだろう」

タイトルを入れてちょうど140文字。「詩を書く魚」は著者自身だろう。友達の詩人の子ども、「若い魚」は、親とは別にふるさとへは戻らない。

原発事故は避難者ばかりか、周辺の自治体に住む人間にも分断を強いた。木村さんはそれを<軽み>に包んで表現する。抑制されてユーモアさえ感じさせる言葉が読み手の心にしみる。

沿岸部では津波で多くの人が亡くなった。タイトルを入れて100文字の「星の降る夜」では、こうつづる。「星の降る夜は/悲しみの魂が/大地を這い上がろうとする//震災死という言葉の中には/たくさんの無念さが/包まれて取り残されている/生きていると思いたいから/復興の大地は/その悲しみを受け止める/器になるしかない」

 メディアでは掬いきれない片隅の声の数々。木村さんの詩からはそうした人々の悲しみ・怒りが聴こえてくる。

2019年3月16日土曜日

3月11日の焼菓子

東京五輪が決まる前、2013年9月4日のブログで「東京が安全ならいいのか」というタイトルで次のようなことを書いた。
                        ☆
いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造からなる。いわきを深く知るには、ときどきマチを離れてハマとヤマからマチを見ないといけない――職業柄、そう意識して長年暮らしてきた。中心からは周縁は見えない。見えるのは、周縁が中心に影響を及ぼすとき、たとえば凶作や水害、不漁のときだけだ、とも。

中心と周縁の関係はマスメディアにも内在する。マスメディアの本社がどこにあるかでニュースの価値が決まる。事故を起こした福島第一原発に近いいわき市(地域紙・コミュニティ放送)、福島・郡山市(県紙・ローカル放送)と、東京(全国紙・全国ネット放送)とでは危機感が違う。

全国紙であれ、全国ネットのテレビ局であれ、本質的には東京のローカル紙(局)だ。東日本大震災の初期報道がたちまち福島第一原発事故の報道に切りかわったのは、「東京にも影響が及ぶのではないか」と東京のメディアが恐れたからだと、私には映る。

2020年夏の東京五輪開催をめざす東京招致委員会の竹田恒和理事長(日本オリンピック委員会長)が、福島第一原発から海洋に汚染水が流出している問題で、IOC(国際オリンピック委員会)の委員に対して「東京は全く影響を受けていない」「全く普段通りで安全だ」といった内容の手紙を出したという。ブエノスアイレス共同電で、県紙で読んだ。

私は慢性の不整脈をかかえているので、カッとなるな、興奮するなと常に自分に言い聞かせている。が、これにはカチンときた。メディアだけではない、東京に住む政治・行政・その他組織のトップの本音が透けて見えるではないか。周縁を犠牲にしてなにが東京の安全だろう、なにが五輪招致だろう。
                  ☆
 なぜ6年前の文章を引用したかというと、東京五輪誘致にからむ「贈賄疑惑」が報じられているからだ。雑誌「ジャーナリズム」の3月号を読んだからだ。もっといえば、東京都町田市に住むカミサンの親友から、3月11日の消印で手紙が届き、焼菓子が別送されてきたからだ=写真。

カミサンが親友の手紙の封を切ると、夫婦あてになっていた。カミサンの親友は仙台出身で、18歳のときに仙台の大学でカミサンと出会った。半世紀を超えるつきあいになる。東北への思いは強い。

その親友が、NHKの3・11関連番組に触れて書いている。「こうやってたまにテレビでしか見ることの出来ない私達ですが、やはり、忘れていることを思い出させてくれる映像から目を離すことは出来ません」。ナショナルメディアの役割がここにある。

 手紙を読み、焼菓子を食べているうちに、月刊の「ジャーナリズム」3月号をわきに置きっぱなしにしていたことを思い出す。定期購読をしている。月が替わるころ、朝日新聞と一緒に配達員(ミャンマーの若者)が持ってくる。きのう(3月15日)、じっくり読んだ。

 巻頭特集「震災8年、風化、風評、報道されない日常…… 福島を見つめ、伝える」に10人が書き、1人のインタビュー記事が載る。小名浜在住の小松理虔(りけん)さんが「震災8年、忘却と無関心に抗うためにメディアはプレイヤーとして地域の中に」と題して書いている。中央メディア=東京ローカルと、私と同じような認識を持つ若い人がいることをうれしく思った。

 同時に、「大きな主語で語ることなく、小さな固有の声に耳を傾けること。専門知と現場を橋渡しすること。多様な声を聴きながら合意形成を図ること。一人のプレイヤーとして地域や現場に関わること。(略)震災と原発事故を『福島の出来事』ではなく『私の出来事』として考えていくこと」の大切さも説く。その通りだろう。

 焼菓子は、いわきでは食べたことのない食感だった。口に入れると、ほろりととろける。甘さも控えめだ。ときどき3時にお菓子付きで緑茶が出ていたが、この2、3日は紅茶と焼菓子だ。3・11でざわついていた気持ちが、川崎の焼菓子と、小松さんの「東京ローカル」論で鎮まった。けさの県紙は「竹田会長、退任不可避」と報じている。「東京は安全」のウラになにがあったのか。

2019年3月14日木曜日

みんなでいわきツアー④富岡町

震災前、双葉郡富岡町のショッピングプラザ「トムトム」まで出かけて、古書の展示即売会をのぞいたことがある。ついでに食料品などを買って帰った。カミサンが、いわきのスーパーマルトなどには置いていない高級食材を見てびっくりしていた。東電社員の給与水準に合わせた品ぞろえのようだった。
シャプラニール=市民による海外協力の会主催のみんなでいわきツアー2日目(3月10日)は、富岡町視察だった。一行は、桜並木で知られる夜ノ森地区を見たあと、JR常磐線富岡駅前へ移動した。そこで一行と合流した。

駅とその周辺は大津波に襲われた。海と駅の間にあった家並みは消え、海がじかに見えるようになった。ツアーガイドを務めた「富岡さくら会」の田中美奈子さん(富岡から避難し、いわきに在住)が、写真を見せながら説明した。

一行はさらに駅の北方にある海食崖へ移動し、沿岸部を眺めたあと、内陸の商店街、富岡高校などをバスの車中から見た。私ら夫婦は車でバスを追いかけた。

2013年11月2日に、首都圏からやって来た“ダークツーリズム”の一行と山麓線沿いの民家や夜ノ森地区、富岡駅周辺を巡ったことがある。町全体のイメージはつかめないが、ピンポイント的に訪ねたところは思い出す。商店街も震災前に通ったことがある。震災後も一度、通った。ずいぶん景観が変わった印象だ。

「商店街は家が解体されて更地が増えた」と田中さんはいう。確かに更地が増えている。屋根にブルーシートがかけられていたらしい建物もあった=写真上1。シートは紫外線で劣化し、ちぎれてなくなったようだ。点々とある黒いものはシートの重しか。

富岡高校は商店街の西の丘にある。若いころ、職場に同校卒の新入社員が配属された。彼女の親が亡くなった年の月遅れ盆に、彼女の実家へ焼香に行ったことがある。夜ノ森地区の西方にあったように記憶する。
富岡高校は2年前に休校した。道路沿いの柵の内側に「祝 平成22年度全国高等学校総合体育大会出場 学校対抗バドミントン部男子・女子……」など10枚の掲示板が残る=写真上2。

そのなかに「桃田賢斗」の名が二つ。桃田は今や男子バドミントン界では世界トップレベルの選手だ。香川県出身の少年は、中学校・高校と震災前、富岡で過ごした。一時はめをはずして謹慎したこともあったが、見事に復活した。

バドミントン部はトップアスリート系列運動部の一つだった。それは今、ふたば未来学園高校(広野町)の猪苗代校に引き継がれている。

ショッピングプラザ「トムトム」は「さくらモールとみおか」に、道路向かいの東電PR施設は「廃炉資料館」に替わった。楢葉町と広野町にまたがるJヴィレッジも再開した。一行はバスの中で田中さんからそれらの説明を受けたことだろう。

Jヴィレッジの中を通ったあと、常磐道広野インターチェンジへ向かう。視察はそれで終わり、インターチェンジの駐車場であいさつをして一行と別れる。私自身、富岡町の記憶を“アップデート(最新化)”するいい機会になった。

さて、「3・11」が過ぎて、“原発震災”9年目に入った。あの日のことは、ふだんは胸底に沈んでいる。が、3月前半はどうしても、澱(おり)のようなものがわきあがる。それをまた沈めながら、みんなでいわきツアー同行記を終える。

2019年3月13日水曜日

みんなでいわきツアー③富岡駅へ

 みんなでいわきツアーの一行は2日目(3月10日)、双葉郡富岡町を訪れた。朝9時半、JR常磐線富岡駅で待ち合わせた。そこへ一足早く着いた私は偶然、滋賀県立彦根東高校新聞部員と“再会”した。その話を、おととい(3月11日)書いた。
 いわき市の北、双葉郡へは、ふだんは行かない。阿武隈高地の山の向こう、田村市常葉町の実家への行き帰り、夏井川沿いを駆け上がったら、国道288号(郡山市と太平洋側の双葉郡双葉町を結ぶ、阿武隈高地越えの幹線道路)~主要地方道いわき・浪江線(通称・山麓線)を下り、たまに国道6号へ出る。原発事故が起きたときにはいずれも避難路になった。

長らく「富岡以北通行止め」の規制がかかっていた国道6号は、5年前の2014年9月15日、2輪車を除いて通行が再開された。

4年前の3月1日、常磐富岡IC~浪江IC間が開通し、常磐道が全通した。これに伴い、阿武隈高地側から常磐道へのアクセス道路として、山麓線と、山麓線との交差点から以西の国道288号が通れるようになった。その年の暮れ、実家へ帰った帰り、震災後初めて288号~山麓線を利用した。

山麓線は文字通り、広野・楢葉・富岡・大熊町の山麓を縫うように走る。そこはたびたび通っても、市街が点在する平地~沿岸部は、行った日を覚えているくらいに少ない。2013年11月2日、首都圏からやって来た“ダークツーリズム”の一行十数人に同行して、広野・楢葉・富岡各町を巡った。

富岡では、山麓線沿いのほか、夜ノ森地区と沿岸部を見て回った。海の見える富岡駅に通じる商店街で、ずれて斜めに傾いた美容室の看板時計に出合った。時計の針は「2:46」をさしたままだった。その先にある駅は惨憺たるありさまだった。電柱が傾き、折れ曲がり、線路がセイタカアワダチソウに覆われていた。

2012年の歌会始に、元福島高専校長の寺門龍一さんが最年長で入選した。「いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く」。寺門さんの自宅は茨城県、校長官舎は平にある。かつて利用した常磐線の全面復旧を願い、併せて被災地の復興を祈って詠んだ。

そのころ、富岡町は全町避難が続いていた。事故から2年後の3月25日、避難指示区域が解除され、日中の出入りができる避難指示解除準備区域と居住制限区域、立ち入りができない帰還困難区域に三分される。さらに2年前の2017年4月1日、帰還困難区域を除いて富岡町の避難指示が解除された。

私が初めて富岡駅を見てから6年――。駅舎は新しく建てられ、電車も発着するようになった。富岡~浪江間は代行バスが走っている。新常交も、富岡の「町内循環線」と、いわきを結ぶ「急行いわき―富岡線」のバスの運行を始めた。

そんなことを思い出しながら彦根東高新聞部員と話していたところへ、ツアーのバスが到着した。富岡から各地を転々として最終的にいわきに避難し、シャプラニールとも交流するようになった「富岡すみれ会」の田中美奈子さんがツアーガイドを務めた。

富岡駅で3・11当時の説明を聴いたあと、少し北にある海食崖に移動して、そこから南に見える復旧工事中の漁港、富岡駅、東電福島第二原発などを見た=写真上1。

事故を起こした1Fは富岡町の北隣・大熊町と双葉町にまたがってつくられた。2Fは南隣・楢葉町にあって、敷地の一部が富岡町に入っている。「1Fだけでなく2Fも廃炉が決まっています」「建設中のあの橋は、津波が来たときの避難路にもなるということです」。地元の事情に精通している田中さんならではの説明に何度もうなずいた。

 田中さんが説明の場所に選んだ崖の上は、震災前、結婚式場があったところだという。田中さんもそこに勤めていたことがある。崖の上にありながら、大津波の被害を受けた。更地になった今は、サーファーが駐車場に使っていた。
以下は、おまけ――。富岡駅で一休みしている彦根東高の生徒を見ると、田中さんはガイド用に携帯している写真をめくりながら説明を始めた。

生徒の一人にハッパをかける。「カメラ、カメラ、この瞬間を撮らなきゃ」。一人が走ってカメラを取りに行く。取材はあとでもできるが、シャッターチャンスは再現できない。そのあと、高校生は自分たちがつくった新聞をツアーの一行に配ってPRした。そのシーンを部員が撮影するところを、撮った=写真上2。

2019年3月12日火曜日

みんなでいわきツアー②懇親会

 シャプラニール=市民による海外協力の会の「みんなでいわきツアー」は少々ユニークだ。集合・解散場所がいわき駅前だから、いわきまでは各自バスか電車でどうぞ、となる。
 主に首都圏、そして遠くは大阪府、北は宮城県から計15人が参加した。初日(3月9日)は、平・下平窪の中華料理店で昼食をとり、若いシェフの話を聴いたあと、川向かいのオリーブ農場で作業を手伝った。夜は常磐湯本町の温泉旅館古滝屋に泊まった。

 シャプラニールは東日本大震災直後から5年間、いわきで支援活動を展開した。緊急支援のあとは生活と心の支援を兼ねて、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。現地スタッフとして雇用された3人と、協力者1人、それに私ら夫婦が古滝屋での懇親会=写真上1=に参加した。

同ツアーは震災から1年後に始まった。今回で8回目だ。自己紹介の時間になると、「もういわきに何回来たかわからない」というリピーターが相次いだ。参加者同士はもちろん、私ら地元の人間とも“旧交”を温める場になった。

初参加の人も、東北の被災地に寄せる思いは強い。「いわきに来たいとずっと思っていたが、両親の介護があってできなかった。1年前に介護が終わって、やっと参加することができた」。シャプラニール草創期のメンバーの一人だ。この女性とは震災の年の6月、東京で開かれたシャプラニールの総会で会っている。

 双葉町からいわきに避難し、「ぶらっと」で働いた元スタッフは、「この時期になると、いやでも当時のことを思い出す。『(みなさん、被災地のことを)忘れていないんだ』とうれしくなった」。彼女は、今は2児の母親だ。

古滝屋の若だんなも、あとで顔を出した。彼もまた、いわきでのシャプラニールの活動に共鳴して、シャプラニールの仲間に加わった。私としては先代社長と2代続きのつきあいになる。

「取り残さない」。これが、シャプラニールの活動の原点だ。その精神が「ぶらっと」になり、今に続くツアーに受け継がれている。ツアー参加者と元スタッフらの双方が、親戚に会うような感覚で“再会”していることでもそれがわかる。大きなイベントでは築けない個々のつながり、これを確かめる懇親会でもあった。

古滝屋のスタッフだという若い女性も若だんなにうながされてあいさつした。間もなくネパールへ旅立つ。大学で栄養学を専攻した。それをネパールで生かしたいという。シャプラニールはバングラデシュのほかに、ネパールでも支援活動を展開している。前からシャプラニールの活動を承知していたとかで、今度のツアーを介してまた新しい人とつながりができた。
                     ☆
 さて、きのう(3月11日)は午後、インドカレー料理店に米を配達し、その足で車のガソリンを満タンにした。

料理店は新舞子海岸にあった。8年前のあの日、店が津波に襲われて大破し、内陸に場所を移して営業を再開した。原発事故では車のガソリンがなくて、一時避難を逡巡した。それに懲りて、燃料計の針が半分を指すと満タンにする。これだけは今、“習性”から“本性”になった。
 茶の間のテレビの上に平成23(2011年)3月のカレンダーが張ってある=写真上2。

朝、カミサンが「(あの日は)金曜日だったんだ」とつぶやく。よく見ると、11日にはマジックで黒丸がついている。ほかに、「区役員会」(12日)、いわき地域学會の「市民講座・役員会」(19日)、小学校卒業式(23日)といった書き込みがある。これらはすべて中止か延期になった。このカレンダーはわが家の“震災遺物”でもある。

2019年3月11日月曜日

みんなでいわきツアー①高校新聞ジャーナリズム

 きょう(3月11日)は未明から雨。早朝に起きるとすぐ、海の方を向いて合掌した。午後2時46分――。昼寝をしたり本を読んだりしていると、祈りを忘れてしまう。朝一番ですませれば、静かに、穏やかに、いつものように一日を過ごすことができる。
 東日本大震災を経験した人間は(全員そうとはいわないが)、3月になると胸がざわつく。「3月11日なんかこない方がいいのにね」という人さえいる。しかし、まちがいなくやってくる。その日がきた以上は早く過ぎてほしい、とも思う。

 そのなかでも、これだけは報告しておきたい、というものがある。個人的に関係するシャプラニール=市民による海外協力の会の「みんなでいわき」ツアーが土(3月9日)・日(同10日)に行われた。

初日は夜、迎える側の一人として懇親会に参加した。2日目は朝9時半、1Fに近い双葉郡富岡町のJR富岡駅前で合流し、町内を見て回った。ツアー参加者と同じように、原発避難を余儀なくされた自治体のその後を学んだ。

 一行が来る前、神様が贈り物をくれた。待ち合わせ時間より30分ほど早く着くと、新駅舎の外に何人か高校生がいた。腕章を付けている。「新聞」の字が目に入った。もしや? 声をかけると、滋賀県から来たという。そのあとの説明を遮って、「彦根東高校!」。「そうです」、生徒たちが目を丸くした。おおー、なんだ、この出会いは――。こちらも胸が躍った。

 あとで、先生2人と話す。現役部員の先輩たちが3年前の2016年3月、シャプラニールがいわきで開設・運営していた交流スペース「ぶらっと」を閉鎖する日、取材に訪れた。先生も同行していた。その先生だった。あらためて名刺を渡すと、年上の先生が、「(私の)ブログを読みました」という。またまたびっくりした。許可を得て撮影したのがこの写真(生徒はほかに4人、計9人で取材に来た)。

 前日は南相馬市で取材をした。常磐線で浪江駅まで南下し、代行バスで朝8時10分、富岡駅に着いた。10時05分発の電車に乗って、Jヴィレッジと、間もなく開業するJヴレッジ駅を取材するのだという。

前回(3年前)、取材にやってきたときの様子を、拙ブログから抜粋・整理して紹介する。
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3月12日は日中、昼前から交流スペース「ぶらっと」で過ごした。夕方5時前、スタッフが天井からつり下げていた「交流スペース ぶらっと」のプラスチック板をはずした。この日、いわきへ取材に来た滋賀県の彦根東高校新聞部員も加わって、最後に記念撮影をした。

 午後3時ごろ、人の出入りがあわただしくなる。高校生記者がスタッフ、居合わせた利用者にインタビューをする。彼らは一泊二日の日程でいわきへやって来た。私も取材を受けた。

 復興の度合いを数字で表すとどのくらいか――数字では答えられないので、私が感じるいわきの現状を話した。被災者の内面を想像する力を持ってほしい、現場を見てほしい、現場を見ることでなにか得られるものがあるはず――そんなことも話した。

 そのときもらった「彦根東高校新聞」を読む。タブロイド判8~26ページで、年10回発行しているという。レイアウトは一般紙とスポーツ紙の中間といったところ、だろうか。デジタル技術にたけた高校生らしい自在さがある。被災地取材を継続している。質問や速記の仕方が高校生のレベルを超えている。

 それから2カ月近くたって、「東日本大震災から5年――震災復興支援特集号」(4月28日付)が届いた。「福島をつなぐ2016」がシリーズのテーマらしい。タブロイド判12ページのうち、10ページを特集に当てていた。

ニュートラルな気持ちでインタビューをし、こちらが言わんとすることをきちんと伝えている。シナリオを頭に置いて誘導的な質問をするプロなど、足元にも及ばない誠実さだ。なにより、東北の被災地を継続して取材している。問題意識の高さ・粘り強さに敬服した。「記者は考える足」を実践している。

(同校新聞部は全国でもトップクラスのレベルを誇る。2017年の「みやぎ総文」=全国高校総合文化祭でも、新聞の部で10年連続最優秀賞を受賞した)
                 ☆
 今回も2019年3月1日付の最新号をもらった。6ページのうち、4ページを「福島をつなぐ2019」に当てた。部員は変わっても、新聞部としての取り組みは変わらない。今度も特集を組むのだろう。福祉や公益のために取材・報道することがジャーナリズムの本質だとしたら、彦根東高校新聞部は立派にジャーナリズム精神を発揮している。「彦根東高校新聞」を“購読”したくなった。

2019年3月9日土曜日

菌糸が吸収し、胞子が拡散する

 朝食後の8時台は一服を兼ねて、茶の間でテレビを見て過ごす。といっても、パソコンをいじりながらだから、見たいものがあって見ているわけではない。ただの生活習慣だ。
 おととい(3月7日)は、BSプレミアムからBS1に切り替え、ワールドニュースを見ているうちに9時になった。おどろおどろしい文字が目に飛び込んできた。「被曝の森2018 見えてきた“汚染循環”」。あとで確かめたら、再々放送のようだった。

ノートパソコンのふたを閉じて、「ながら」をやめて見た。そこは私が生まれ育ち、遊んだ阿武隈高地の西の森からは分水嶺をはさんだ東の森だ。植物、菌類(キノコ)、動物……。その森のいきものたちが、1Fの爆発事故によってどんな影響を受けたのか――。科学的調査とその知見を伝える番組だった。

キノコの話にしぼる。キノコは放射性セシウムを吸収するだけではなかった、拡散もしていた。森の放射線量が春と秋に高くなるのは、キノコの胞子が飛散するからだという=写真。

土壌から生えるキノコのイメージはこんな感じだろうか。キノコの本体は地中に張り巡らされた菌糸。そこから地上にあらわれるのが、私たちがキノコと言っている子実体(しじったい)。子実体は子孫をつくるための一時的な胞子形成・発射装置にすぎない。

で、地表に近い菌糸は放射性セシウムをカリウムと思って吸収する。吸収されたセシウムは胞子にも取り込まれ、やがて子実体から胞子とともに放出・拡散される。このキノコによる吸収と拡散は“汚染循環”の象徴そのものではないか。

番組を見ながら、金子みすゞの「星とたんぽぽ」を思い出していた。「見えぬけれどもあるんだよ、/見えぬものでもあるんだよ。」。見えないものを見えるようにする8年間だった。しかし、見ようとしない人間には見えない8年間でもあった。

ネットで拾った文献、たとえばチェルノブイリ原発事故後に発表された論考「キノコと放射性セシウム」(村松康行・吉田聡)や、1F事故に伴う「大気粒子から植物への放射性セシウム移行可能性の実証実験」(北和之ほか)などと照らし合わせると、核実験の時代から心ならずも動物や植物を含んで“汚染循環”に関係してしまったキノコの苦しみ、怒りがみえてくる。だれがキノコをそうさせた?

2019年3月8日金曜日

「白い爆発」と「黒い爆発」

 フェイスブックに若い知人が<「原発爆発」映像が呼び覚ます「3・11」の実相>というタイトルの記事を紹介していた。プリントアウトしてじっくり読んだ=写真。筆者は日本テレビの経済部長・政治部長・解説主幹などを歴任した倉沢治雄さん。「テレビメディアと原発事故」を考えるうえで大いに参考になるテキストだ。
系列の福島中央テレビ(FCT)が東電の福島第一原発(1F)の建屋爆発事故をテレビ局で唯一、映像にとらえた。なぜFCTは爆発の映像を撮ることができたのか。ローカルレベル、つまり福島県内では視聴者がリアルタイムで爆発映像を見ることができたが、キー局の日本テレビはそれを放送するまでに1時間以上もかかった。その理由は?

当時、「実相」を知りたくて情報を探った人間としては、テレビ局の「中の人」が「中の人」の話を聞いてまとめたこの記事で、ようやく腑に落ちるものがあった。

FCTは平成23(2011)年3月12、14日の原発建屋爆発映像スクープで、2012年度日本記者クラブ賞特別賞を受賞した。当時の活字メディアや今回の文章によれば、次のような経緯があって「世紀のスクープ」が生まれた。

平成12(2000)年、1Fから南西約17キロの楢葉町の山中にある中継塔にアナログカメラを設置する。同21(2009)年にはさらに、高画質のデジタルカメラを1Fから2.3キロ、2Fから1.7キロの沿岸部に取り付ける。ところが、「当面バックアップ用に」と残しておいた山中のカメラをのぞいて、よその放送局も含めてカメラがすべて大地震による停電の影響で使えなくなった。

山中のカメラは、内陸の送電網から電源が引かれていた。事故を起こすとすれば2Fではなく古い1Fの方という判断から、メンテナンス後も必ず1Fに向くようにしていた。そもそもカメラは「前年(1999年)に起きたJCOの臨界事故」を教訓に、「原発立地県のテレビ局として、常にウォッチする必要がある」という考えから設置された。それらもろもろが積み重なって水素爆発の瞬間を撮影することができた。

しかし、キー局が最初の水素爆発を放送したのは1時間余りたった午後4時49分だった。「中の人」の文章で理由がわかった。報道局幹部が「そのまま放送するとパニックが起きるとためらった」。解説のためにテレビ局に来た専門家も、「爆破弁の開放では」と事態を矮小化して考えた。

震災当時、いわきから30キロ先にある1Fに関しては、テレビで情報をとるしかなかった。初回は「白い爆発」だった。ところが、2回目は「黒い爆発」だ。FCTの14日の映像を見て、思わず「終わった」、胸の底からつぶやきがもれた。小学校2年のときに町が大火事になって、避難した。人生のたそがれ期に「また避難か」と愕然とした。

いわき市が震災時の情報入手などに関する市民アンケートを取った。その結果が震災翌年の「広報いわき」11月号に載った。「なにから情報を入手したか」。テレビが90%前後と圧倒的に多かった。避難の有無では、まず津波避難があり、次いで原発避難が起きた。避難した日は「3月15日」がピークだった。「黒い爆発」の映像が背中を押したのだろう。

テレビメディアの使命はこうしたときの速報性にある。キー局はしかし、それをためらった。「放射能の被害から人々の命と健康を守るという視点で考えると、この1時間13分の遅延は極めて重要だ」。系列局とキー局とのやりとり、アナウンサーや記者、報道幹部の葛藤……。なにはともあれ、あのときのFCTの仕事にはあらためて敬意を表したい。

2019年3月2日土曜日

「みんなでいわき!2018」ツアー

間もなく3・11がくる。この8年というもの、3月の声を聞くと、東日本大震災を思い出して少し胸がざわつく。メディアが東日本大震災を振り返る報道をはじめたことも大きい。
同時に、シャプラニール=市民による海外協力の会のいわきでの活動も、感謝とともに思い出す。

大地震・大津波、そして原発事故――。放射性物質への不安と恐怖から、福島県浜通りへの物流・救援がストップする中、国際NGOのシャプラニールが初めて国内支援に入り、いわきで5年間、被災者や原発避難者のための交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。

被災地を見て、感じてもらうツアーも実施した。交流スペース閉鎖後もツアーは続いている。今年(2019年)は来週末の3月9~10日に行われる。

シャプラニールの創立メンバーの一人が平高専(現福島高専)の寮のルームメートだった関係で、創立当初からシャプラニールとかかわっている。その後、私はマンスリーサポーターになり、カミサンはシャプラニールのいき連絡会を立ち上げた。その縁かどうかわからないが、シャプラニールがいわき支援に入ったときには心強かった。

先日、ツアーのしおりが送られてきた=写真。「みんなでいわき!2018」とあるのは、2018年度ツアーという意味だろう。

 前回は2017年11月に行われた。初日の夜、宿泊先の温泉旅館古滝屋で開かれた懇親会に夫婦で出席した。ツアーで知り合った人が大半だった。今回もいわきリピーターが多い。宿はやはり古滝屋。夜の懇親会には夫婦で参加する。「ぶらっと」の元スタッフなども顔を出すらしい。

 しおりによると、ツアーはいわき駅前集合・解散で、「オリーブと常磐もので感じるいわき」がテーマだ。初日、中華料理店で昼食をとり、若いシェフの話を聞いたあと、オリーブ農園で農作業を手伝い、次の日は双葉郡富岡町を視察し、いわきら・ら・ミュウで「常磐もの」(魚)の買い物をする。

 貸切バスで移動する。スタッフをまじえて15人ほどの小さなツアーだ。地道に、ささやかに、しかし継続して被災地の今を、復興の過程を見てもらう。この愚直さが心地よくてシャプラニールとつながっている。

2019年1月30日水曜日

突然、客がやって来た

 月曜日(1月28日)は夕方、街の帰りにいつもの夏井川の堤防ではなく、対岸・山崎の県道を通った。ちょうどハクチョウたちが東方の田んぼから戻って来るところだった=写真。助手席のカミサンに頼んで写真を撮ってもらった。
車を運転していると、どうしてもシャッターチャンスを逃してしまう。帰るとすぐ、ハクチョウの写真を確認して晩酌を始めた。銚子が底をつこうという夜7時半ごろ、いわき地域学會の若い仲間から電話が入った。「これから飲みに行ってもいいですか、A君ともう一人の3人で」

 去る者は追わず、来る者は拒まず――で、もちろんOKした。慌てたのはカミサンだ。酒はあるが、つまみがない。電話をかけてきたのはW君。A君はインターネット古書店主。わが家に着いてから、A君がコンビニへ行って自分の好きなつまみとアルコールその他を買って来た。

残る一人は……。ネット古書店とは別に、A君は昨年夏、平・本町通りにリアル古書店を開業した。その店に、その日、たまたま現れた若い女性だった。日米の血が混じっている。「お・も・て・な・し」の滝川クリステルさんに似ている。日本語は流暢だ。

名刺に上智大学客員研究員とあった。アメリカのコロンビア大学で文化人類学を専攻し、博士課程にある学者の卵だ。原発事故に遭った双葉郡、そのなかでも主に大熊町の人々について調査・研究をしているという。いわき市南部にアパートを借りて住んでいる。

そうか、そうか。東京あたりからたまにやって来るのではなく、“現地”に住んでフィールドワークを続けるというのは、共感できる。それに、「非日常」(ニュース)を追うのは熱心だが、「日常」には弱いジャーナリズムと違って、避難者の暮らしや心の変化を継続的に調べている姿勢には、好感が持てる。

それはそれとして、たまたま入った古書店からW君の車で拉致(らち)されるようにわが家へ連れてこられたのだから、めんくらったのではないか。でも、「たまたま」から人はつながっていくのだ。詩人の鮎川信夫が晩年の日記に記していたように、「人生(ライフ)においては。あらゆる出来事が偶発的(インシデンタル)な贈与(ギフト)にすぎない」のだから。

今でこそ古書店主だが、A君は関東地方の大学に通っていたとき、運転免許を取るのにいわきで集中合宿をした。たまたま自動車教習所の周辺をぶらついたとき、わが家(米屋)に俵その他の藁製品や民具が飾られているのを見て、訪ねて来た。カミサンが応対した。以来、いわきの住人になり、三番目の息子のようなつきあいが続く。

そのA君の古書店にたまたま彼女がやって来た。20年ほど前のA君がそうだったように、今度も「たまたま」が「必然」になれば、それはそれでおもしろい。知りあいになった原発避難者を紹介したり、ゲストハウスに泊めたりするくらいのことはできる、ということを、いつもの倍は焼酎を飲んだ頭で考え、話した。

2018年12月19日水曜日

DASH島のエリマキツチグリ

 日曜日(12月16日)、夜。「笑点」「西郷どん」(BSプレミアム)に続いて、「ザ!鉄腕!DASH‼」を見ると、冒頭から<DASH島>の野生キノコを取り上げていた。島の森でアラゲキクラゲとウスヒラタケを採り、塩味のスープにして片栗粉でとろみをつけた。TOKIOの城島・国分クンが恐るおそる、その「中華風キノコ汁」を口にする――。
うまい!となるのは、わかっている。アラゲキクラゲもウスヒラタケも食菌だから。私も原発震災前はこのキノコをよく採った。

 ほかに、スエヒロタケとエリマキツチグリ=写真上=が登場した。図鑑を頼りに食毒をチェックする。食材としては、スエヒロタケは不適、どころか人間の肺に寄生して悪いことをする。エリマキツチグリも不明だから、食材にはしなかった。

11月下旬、たまたま拙ブログにこの番組の制作会社から連絡が入った。メールで二度やりとりをした。

用件はこうだった。放送で使うエリマキツチグリ(幼菌)の断面写真をネットで探していたところ、私のブログ(2017年9月14日「マメダンゴ観察記」)に載っている写真を発見した。写真の元データを提供してもらえないか。使用できる場合は、写真の加工は可能か、クレジットはどう表記すればいいか、料金は……。

「福島DASH村」は阿武隈高地のわがふるさとの近くにある。残念ながら原発事故の影響を受けて、そこでの番組づくりは中断している。番組が始まったころ、私も夏井川渓谷の隠居で野菜づくりを始めたばかりだった。向こうとこちらと手探りで土いじりをする、という親近感があった。大好きな番組だ。

で、おおむねこう返信する。①私の写真はツチグリであって、エリマキツチグリではない②それでも使うとすれば、エリマキツチグリとは別種のツチグリであることを表記する③データの加工はかまわない④使用料は要らない、番組を続けていることへの一福島県民としてのお礼の意味で――。

それからしばらく音沙汰がなかった。放送直前の金曜日(12月13日)、メールが入る。ツチグリはエリマキツチグリとは別物なので使用を見送る、とあった。最初から別物だと言っておいたのだから、まあ妥当な結論だ。

で、あとは実際の番組を見る。制作会社のスタッフの執念だろう、エリマキツチグリの幼菌断面写真が使われていた=写真下。「提供:糟谷大河」とあった。ネットで検索したら、植物寄生菌学を専攻した千葉科学大講師の若い菌類学者だった。おー、こういう人がいるのか。若い人の名前をしっかり頭に刻んだ。
 同時に、「ザ!鉄腕!DASH‼」の番組づくりの一端を垣間見ることができて、より親近感が増した。

2018年11月23日金曜日

甘柿の線量を測る

 いわき市平の神谷(かべや)公民館には、3人の職員とは別に放射能簡易検査をするスタッフが常駐している。事務室とは別の部屋にいる。
非破壊式検査なので、500グラム以上あれば刻まなくてもいい、およそ10分で結果が出る――と聞いたので、きのう(11月22日)、近所の故義伯父の家にある甘柿をとって持ち込んだ。結果は「出ませんでした」、つまり「検出下限値未満(キロ当たり20ベクレル未満)だった=写真上。

 心配して測りに行ったわけではない。“放射線量測定室”が近くにあるなら気軽に利用すればいい、スタッフの顔も見てみたい――好奇心から駆けつけた。

 この公民館で線量を測定できるのは、前から知っていた。私が測りたいのは野生キノコだが、これを量的に確保するのは難しい。現に日曜日(11月18日)、夏井川渓谷にある隠居の庭から採取したハイイロシメジ=写真下=は200グラムしかなかった。
 このキノコは食べられるが中毒もする(嘔吐・下痢)という、ややこしいキノコだ。で、500グラムもないのだから、線量を測ってまでは――と食欲が失せた。厚労省も「よいだしが出て、味もよいことから食する事があるが、食用にすべきではない」と言っている。

代わりに、甘柿で線量測定“初体験”をしたのだが、「不検出」には拍子が抜けた。おかげで、胸を張って「お福分け」ができる。

 義伯父は埼玉に住んでいた。およそ30年前、姪っ子であるカミサンが面倒をみるからというので、やって来た。家を建てるとき、カミサンの弟が「次郎柿」の苗木を植えた。それが育った。新築祝いの記念樹にはちがいない。

今年(2018年)、この次郎柿が生(な)りになった。もう少したつと、さらに甘みが増すはずだ。

2018年11月21日水曜日

<二点居住>という生活のかたち

 先週末(11月17日)、早稲田大学文学学術院教授で同大地域社会と危機管理研究所長の浦野正樹さんら4人が来訪した。浦野教授らは「原発震災」後、いわきを中心に現地調査を続けている。原発避難民を受け入れている一コミュニティの、8年目の「今」を話した。
 浦野教授とお会いするのは確か、2012年(三回)、2014年(一回)以来、五度目だ。震災の年の暮れ、東京で開かれた催しで教え子のひとりと知り合い、以後、彼女がいわき明星大の客員研究員を務めたこともあって、情報収集を兼ねてわが家へ寄るようになった。その過程で“災害社会学”なる言葉も知った。彼女は、今は東洋大学社会学科助教の職にある。

 12月8日(土)午後2時から、早稲田大学戸山キャンパスで「あれから8年 わたしたちはフクシマを忘れない~<二点居住>という生活のかたち」と題するシンポジウムが開かれる=写真(チラシ)。早稲田大総合人文科学研究センター<現代社会の危機と共生社会創出に向けた研究>部門、および一般社団法人シニア社会学会「災害と地域社会」研究会が共催する。

彼女は3人いる司会進行役のひとりとなり、浦野教授はコメンテーターのひとりとして参加する。それもあって、彼女が水先案内人になって「定点観測」に来たのだろう。

 <二点居住>という言葉に興味を持った。「地域」ではなく「点」。過疎・高齢化対策と連動した「移住・定住・二地域居住」との混同を避けるための「二点居住」でもあるか。

シンポジウムのチラシから引用する。「福島県の原発事故被災地では、帰還政策によって避難指示が解除され、ふるさとに帰ることが可能になった地域が増えてきました」

その過程で「ふるさとに帰還して生活を再建した人もいますが、これまでの長い避難生活を経て、ふるさとに戻るのではなく、避難先など新しい地域を生活拠点とする人もいます。多くの避難者は、『避難先』や『避難元』など二点以上の地域と関わりながら、引き裂かれつつも、広域に分散した生活拠点をつなぎ合わせて生活を組み立てているのが実態です」。

「避難先」の東京都といわき市に生活拠点を持ちながら、避難指示解除後の「避難元」=ふるさと(浪江町、富岡町)にも通っている3人が話題提供者として参加する。「複数の地域と関わる生活の実態と苦難を学び、地域との関わり方、そして社会のあり方について考える」のが狙いだ。

いわきから参加する話題提供者のTさんとは、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで開設・運営した交流スペース「ぶらっと」を介して知り合った。司会を担当する助教(当時、院生)とも、シャプラがらみの出会いだった。参加費は無料。希望者はメール(jaas@circus.ocn.ne.jp)か、電話・ファクス(03-5778-4728)でシニア社会学会事務局へ申し込むとよい。お近くの方はどうぞ。

2018年11月9日金曜日

石に刻む怖さ

 車でいわき市南部へ出かけた帰り、あるところで信号が赤になった。そばの石材置場にたまたま目をやると、「水徳六訓」と題する碑があった=写真。水鳥・川・海・雨だれ……。「水」写真コレクターなので、思わずパチリとやって、データをパソコンに取り込んだ。
「あらゆる生物に生命力を与えるものは水なり」「常に自己の進路を求めて止(や)まざるは水なり」などと、水の特性にからむ文章が彫られていた。

その会社の社訓だろうか? 社長の人生訓だろうか? 硬いものを扱っている商売だが、企業としては、あるいは個人としては水のように融通無碍な生き方をしたい――そんな思いが込められている? ネットで調べたら、原作者として大物右翼(故人)の名前が出てきた。

文章のなかに1カ所、直したい文字(助詞)があった。といっても石だ、消しゴムで消して書き直せるようなものではない。

 石に文章を刻む怖さを、先日、知った。頼まれて撰文原案を直し、「あとはそちらでどうぞ」と言って渡した。それが甘かった。文法的な間違いはない。誤字があるわけでもない。あとで付け加えられた部分だけ、文章のリズムが違っていた。

私は舌頭で音読しながら文章のリズムをととのえる。それが崩れた。たとえれば、同じペースで歩いていたのが、そこだけ急につかえて足踏みさせられたような感じ。碑文を読んだ人は、そこまでは気づかないかもしれない。が、文章づくりにかかわった人間としては、詰めの甘さに落ち込んだ。

 記者をやっていたので、誤字・誤植があると穴の中に入りたくなる。テレビ・ラジオと違って、紙媒体は紙がある限り、誤字・誤植も残る。石に刻まれたものは紙より恐ろしい。100年、200年と人の目にさらされ続ける。文章のリズムもそうだろう。

石に刻む文章を扱っている、という自覚が足りなかった。撰文を引き受けた以上は最後の最後まで責任を負うべきだった。同じリズムで通すべきだった。そうすれば、より完成度が上がり、後味もよかったのに。写真に撮った碑文を読むたびに脂汗がにじむ。

2018年10月27日土曜日

米づくりの現場

 中学校の同級生のなかには、地元に残って家業を継いだ人間もいる。先日行われた同級会は、彼らが幹事を引き受けて準備を進めた。
 その一人、片方の手足が少し不自由になった同級生は、若いころは地域農業の担い手だったに違いない。古希を迎えた今も、自分のところだけでなく、ほかの家の田んぼも頼まれて米をつくっている。コンバインを動かす分には、手足の震えも支障がないようだ。

 磐梯熱海温泉(郡山市)に一泊して、旅館のバスでまち(田村市常葉町)へ戻ると、その同級生が「家まで送ってくれないか」と言う。家に電話したが、奥さんは留守。ちょうどいわきへ帰る道筋だ。彼の住む集落を訪ねたことはなかった。好奇心も手伝って承知した。

 彼の家は県道から続く田んぼの沢道を1.5キロほど入った丘のふもとにあった。そこだけ何軒か家が連なっている。丘を越えると、隣町(田村市大越町)だ。三角形でいえば、二辺を通って行くところを、底辺を直行するようなものだ。いわきへ戻るには、寄り道どころか近道だった。

 家の前で彼を下ろすと、「倉庫を見てくれ」という。見た目はどこにもある農家の大きな物置。ところが、内部は“工場”になっていた=写真上。収穫した米を乾燥させ、ごみや不純物を除去し、玄米を量って袋に入れるといった一連の作業を機械がやる。コンバインはいくら、乾燥機はいくら、選別機はいくら……。合計すると、導入した機械の費用は1500万円にはなるようだ。

 フルカラーカメラによる選別機の説明を受けた。玄米にまぎれこんでいる高温障害の白未熟米(しらた)・茶色いカメムシ被害米・透明ガラスや樹脂・草の実などを瞬時に除去できるのだという。

農家はどこでもこれをやっているのかどうか。そこまで投資をするとなると大変なので、彼がよその家の選別も請け負っているのかどうか――。そのへんの話は聞き忘れたが、夏の青田、秋の黄金色の田んぼを見て「日本の原風景」などと癒されて終わっていた人間にも、収穫後のこの対応には厳粛な気持ちになった。米の食味と安全はこうして守られているのだ。

「福島県/放射性物質検査済/ふくしまの恵み安全対策協議会」のラベルを張った米袋があった=写真下。福島県内の米は原発震災以来、「全量全袋検査」を実施中だ。国の基準を超える米はない。99.9%は「ND」(検出できないレベル)で、安全は保証されている。なのに、彼の努力、つまり福島県の農家の努力は正当に報われているか、東京の消費者は一度、彼のような農家を見に来たらいい――そんな思いにもなった。
 車で送ってくれた礼なのか、彼は米袋に玄米を入れ、重量を量った。デジタル表示が「10.06」になったところで袋を閉じ、ひもで縛って、車のトランクに入れてくれた。カミサンが米屋をやっていることは黙っていた。それより、わが実家は床屋だから米は買って食べる。ふるさとの水で育った米を手に入れたのは、大人になってからは初めてではないか。そちらの方の興味がまさった。

「これから稲刈りだ」という。車で送る途中、稲穂が垂れている沢の田んぼを見て、「ここも、あそこも」と、コンバインを入れる場所を教えてくれた。それから5日たって迎えた週末、やっと一息ついているところだろうか。

2018年10月11日木曜日

最後の田んぼが消えた

 つい先日、そこを通ったら、境界が3段のブロックで囲われ、土盛り中だった=写真。住宅に囲まれて休耕化した田んぼがある。それを除けば、散歩圏内で唯一の水田だった。
田畑が宅地に替わる状況は東日本大震災前からあった。震災がそれを加速した。拙ブログから抜粋して変化を追ってみる。

震災から11カ月がたった2012年2月――。双葉郡から避難して来た人が増えた。わが家(米屋)にそういう人が来る。散歩コース沿いにある戸建ての空き住宅やアパートがふさがった。

旧国道沿いの駐車場で工事が始まったと思ったら、たちまちアパートが建った。各部屋のガラス窓にはすべて「予約済」のステッカーが張られてある。道路向かいの家並みの裏、農業排水用の小川をはさんだ北側に水田がある。一部が埋め立てられ、アパート2棟の建築が行われている。こちらも「満室御礼」の看板が立っていた。

被災家屋の解体と建て替え、そしてアパートの新築と、いわきでは宅建業界が大忙し。住宅に関して言えば、解体と建設が同時進行的に行われている。

それからさらに半年後の2012年9月――。新旧国道の間に家が立ち並ぶ。家並みにはさまれて畑が残る。その一部、といっても小学校の校庭の半分くらいはある、そこが2階建てのアパート4棟と駐車場、入居者の家庭菜園になるという。津波被災者、あるいは原発避難者のためのアパートではなく、単に若いファミリー向けが3棟、独身者向けが1棟ということだった。

いわき市は市街化区域内に多くの未利用地を抱えている。わが家の裏手の畑がそれに当たる。家並みに囲まれた周辺の田畑も一部、宅地化された。震災後、そうしたケースが散見されるようになった。都市計画上は歓迎すべきことなのだろうが、地域との“共生”という点では悩ましさが増す。

さらに震災から5年後の2016年2月――。時間の経過とともに、小川(農業排水用)の北側の田んぼが宅地に変わり、アパートや戸建て住宅ができた。2月のある日、義伯父の家の裏からクレーン車の長い腕が伸びていた。家を建てているところだった。田んぼがまた消えた。

 中神谷に移り住んだのはもう37年前。そのころ、道路のすぐ向かいにも田んぼが残っていた。初夏は夜になると、カエルの大合唱が聞こえた。やがて田んぼは埋め立てられ、道路向かいは駐車場に、その奥は宅地になった。そこに義伯父が家を建てて首都圏から移住した。

 田んぼは何枚残っているのだろう。家から半径100メートルの範囲内を、散歩を兼ねて見て回った。37年前には田んぼが十数枚、いやもっとあったか。畑も小学校の校庭分くらいは残っていた。今は、畑はアパートができて半分に減り、田んぼは3枚あるだけだ。田畑に囲まれて家々が立っていたのが、家々に囲まれて田んぼや畑がある。ずいぶん様変わりした。

さて、震災から8年目の今年(2018年)、耳に入ってくる話といえば――。新築アパートなのに、もう空き部屋がある。建設業界の震災バブルは終わった。全般的に受注が減っている。建設業界は、震災前は青息吐息だった。復興需要で「いきぼえ」(いわき語で「勢い」)が上がった。それにもブレーキがかかってきた、ということだろう。

2018年10月4日木曜日

人形浄瑠璃+シリア難民俳優2人劇・下

人形浄瑠璃の「勘緑 秋のツアー2018 この地球に生まれてこれから先どない生きんねん!」は、勿来の知人が中心になって実行委員会を組織し、いわき公演が実現した。連絡がきて実行委員になり、7月下旬に顔合わせが行われた。
 いわきの未来会議、双葉郡未来会議、勿来ひと・まち未来会議、シャプラニールいわき連絡会が協力し、個人が参加するかたちで役割を分担した。

それから公演までわずか2カ月余――。フェイスブックを介して連絡を取り合った。チラシの原案ができればたちまち修正が入る。チケットの販売状況もリアルタイムで表示される。こういう人たちと仕事をすれば、上司は左うちわでいられる、と思った。

公演のPRもフェイスブックとクチコミだけで行われた。かつて飯を食ってきたオールドメディアに予告が載ったかどうか、私は確認していないが、定員の50人には達した。若い人たちが新聞を必要としない現実に触れて、だれかに「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と吠えたい気分になった。(TUFが密着取材をしたので、来られなかった人はぜひ宵の番組をチェックして)

会場のアートスペースもりたか屋(平・三町目)は、初めての人には“倉庫”としか見えないだろう。板や柱がむき出しになっている。「アングラ劇場」風の殺風景を、逆に勘緑さんが気に入った。

シリアから戦火を逃れてパリに着いた難民の避難生活を描いた「二人の難民」(マラス兄弟)は、地下室を舞台にした会話劇だ。「黒いユーモア」(マラス兄弟)にふさわしいバックの黒い暗幕。会場がいかにもそれらしい空気をかもし出していた。

沖縄戦をモチーフにした「ボーン・オン・ジス・プラネット(この地球に生まれて)」(木偶舎とマラス兄弟)は、音楽が古謝美佐子さんの歌。艦砲射撃や空襲、火炎放射などを連想させる擬音が、シリア内戦の空爆をも想起させる。

舞台の暗幕の裏にはシリア空爆で亡くなったり、傷ついたりした子どもたちの写真が張ってあった。ふたつの演目の合間に観客が写真を見た。私は2人の孫(小5と小3)の顔が思い浮かんで胸が痛くなった。自然災害、原発事故、戦争――さっきまでの生が死に変わり、だれもが難民になり得る時代を生きている。7年半前の原発震災がそうだった。

生で見る初めての人形浄瑠璃だが、三人遣いは頭に手と足が連動する。微妙で繊細な動きに目が吸い寄せられた。とりわけ、沖縄劇の最後に登場した弁慶のような人形には引かれた=写真。あとで聞けば、民俗学の折口信夫がいう「マレビト」だった。マレビトは「他界から来訪する神あるいは霊的存在」と定義される。戦争の犠牲者を追悼し、平和と幸せを祈る象徴として海のかなたからやって来たのだろう。

実行委員会に入って内側から見たこともあって、劇を二倍楽しむことができた。若い人と知り合うこともできた。あの日以来、「平穏な日々」が奇跡的なものであることをかみしめているが、そのありがたさを再認識するイベントでもあった。

2018年10月3日水曜日

人形浄瑠璃+シリア難民俳優2人劇・上

 人形浄瑠璃の「勘緑 秋のツアー2018 この地球に生まれてこれから先どない生きんねん!」いわき公演がきのう(10月2日)午後7時から、平・三町目のアートスペースもりたか屋で開かれた。人形遣いの勘緑さんとフランスに住む双子のシリア難民俳優マラス兄弟(35)が共演した=写真。およそ50人が観劇し、平和への思いを新たにした。
演目は二つ。シリアから戦火を逃れてパリに着いた2人の難民の避難生活を描いた「二人の難民」(マラス兄弟)と、沖縄戦をモチーフにした「ボーン・オン・ジス・プラネット(この地球に生まれて)」(木偶舎とマラス兄弟)で、兄弟が慣れないフランス語で日本人の前で2人劇を展開するという実験的な舞台も、事前に日本語による台本朗読があったために集中して見ることができたようだ。

勘緑さんはフランスで兄弟と出会った。主宰する木偶舎が今年(2018年)2月、ヨーロッパツアーを行い、ランスの劇場で、3人で人形を動かす文楽のワークショップを実施した際、シリアで生まれ、演劇と脚本を学んだ俳優で双子の兄弟が参加した。

兄弟は日本で原発震災がおきた2011年、内戦化したシリアから脱出し、ベイルート(レバノン)、カイロ(エジプト)、パリ(フランス)を経て、今はパリの東北部・ランスに住む。

ワークショップの最終日、「この地球に生まれて」を上演すると、兄弟は涙を浮かべて勘緑さんに伝えた。「音楽をシリアのものにすれば、この演目は今のダマスカスだ。我々は同じく、子供が死んでいくのを何度も見た」。勘緑さんも、生まれた場所を追われ、家族バラバラになりながらも、平和に向けた表現活動を続けている兄弟に感動し、「いつか一緒に舞台に立ちたい」と思うようになった。

勘緑さんは2009年、勿来の関公園内にある吹風殿で人形浄瑠璃の公演を行った縁で、勿来ひと・まち未来会議とつながりができた。東日本大震災後にはボランティアとして勿来を訪れ、人形を遣ったり、泥かきをしたりした。そのつながりで人形浄瑠璃とマラス兄弟のいわき公演が決まった。

いわきには原発事故で避難を余儀なくされた双葉郡の人々が住む。沿岸部で津波被害に遭い、内陸部に移り住んだ人も少なくない。シリア難民もまた「家を追われ、あるいは失い、ふるさとを追われて、よその地で生きるしかなくなった」人々だ。双葉郡からの避難者や避難者に思いを寄せるいわき市民などがコラボ劇に見入った。