5月5日、7月24日、そして10月23日。今年(2023年)は3回、夏井川渓谷にある隠居の庭の草を刈った=写真。
といっても、実際に刈ってくれるのは後輩だ。ハマに近い自宅から軽トラに草刈り機を積んでやって来る。
庭は二段になっている。上の庭に隠居と小さな菜園がある。下の庭は地主に返したが、ヨシが生い茂るので放ってはおけない。上下の庭で一日がかりの大仕事になる。とにかく広い。
特に夏場は、刈ったと思ったらすぐ草が伸びる。人間のひざが隠れるのも早い。
このごろは、隠居の庭はもちろん、わが家から隠居までの間の休耕田や空き家などを見て、「暴力的な緑の繁殖」という言葉を思い浮かべるようになった。
田村隆一の「村の暗黒」という詩が頭にあるからかもしれない。「麦の秋がおわったと思ったら/人間の世界は夏になった/まっすぐに見えていた道も/ものすごい緑の繁殖で/見えなくなってしまった」
「ものすごい緑の繁殖」を言い換えると、「暴力」や「過剰な生命力」、つまりは「暴力的な緑の繁殖」になる。
最近、昭和初期に先端的な詩を書いていた詩人左川ちか(1911~36年)の存在を知った。
左川ちかは北海道で生まれ育った。短い夏の緑の繁殖を喜ぶかと思えば、そうではなかった。
「外では火災が起こつてゐる 美しく燃えてゐる緑の焔(ほのお)は地球の外側をめぐりながら高く拡がり
そしてしまひには細い一本の地平線にちぢめられて消えてしまふ」(「緑の焔」)
「ただ樹木だけがそれらのものから生気を奪つて成長してゐる」「目が覚めると木の葉が非常な勢でふえてゐた。こぼれるばかりに」(「暗い夏」)
「少女の頃の汽車通学。崖と崖の草叢や森林地帯が車内に入つて来る。両側の硝子に燃えうつる明緑の焔で私たちの眼球と手が真青に染まる」(同)
岩波文庫の『左川ちか詩集』を編集した川崎賢子さんによると、左川ちかが描く緑は押し寄せ、あふれ、おぼれそうになる。その生命力は過剰であり、攻撃的でさえある。
『左川ちか全集』を編集した島田龍さんも、「一般に緑はポジティブな生命力を連想する。それは生殖・繁殖の象徴と言い換えてもよい。しかし彼女は暴力性を帯びて表象される自然を前に、対象との合一も感情移入も拒否する」と語る。
農村景観、あるいは山里景観は、人間が自然にはたらきかけることによって初めて維持される。
家の周りやあぜ道の草を刈る。用水路の泥を上げる。田畑を耕し、稲を、野菜を育てる。「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」(民俗学者宮本常一)のだ。
とはいえ、それ以上に緑はあおい焔のように燃え上がる。それが、左川ちかが見た緑の世界だった。すでに90年前、私ら現代人と同じように、緑の暴力性を感知していたことに驚かされる。