2023年10月31日火曜日

今年最後の草刈り

                      
 5月5日、7月24日、そして10月23日。今年(2023年)は3回、夏井川渓谷にある隠居の庭の草を刈った=写真。

 といっても、実際に刈ってくれるのは後輩だ。ハマに近い自宅から軽トラに草刈り機を積んでやって来る。

 庭は二段になっている。上の庭に隠居と小さな菜園がある。下の庭は地主に返したが、ヨシが生い茂るので放ってはおけない。上下の庭で一日がかりの大仕事になる。とにかく広い。

 特に夏場は、刈ったと思ったらすぐ草が伸びる。人間のひざが隠れるのも早い。

 このごろは、隠居の庭はもちろん、わが家から隠居までの間の休耕田や空き家などを見て、「暴力的な緑の繁殖」という言葉を思い浮かべるようになった。

 田村隆一の「村の暗黒」という詩が頭にあるからかもしれない。「麦の秋がおわったと思ったら/人間の世界は夏になった/まっすぐに見えていた道も/ものすごい緑の繁殖で/見えなくなってしまった」

 「ものすごい緑の繁殖」を言い換えると、「暴力」や「過剰な生命力」、つまりは「暴力的な緑の繁殖」になる。

 最近、昭和初期に先端的な詩を書いていた詩人左川ちか(1911~36年)の存在を知った。

 左川ちかは北海道で生まれ育った。短い夏の緑の繁殖を喜ぶかと思えば、そうではなかった。

「外では火災が起こつてゐる 美しく燃えてゐる緑の焔(ほのお)は地球の外側をめぐりながら高く拡がり そしてしまひには細い一本の地平線にちぢめられて消えてしまふ」(「緑の焔」)

「ただ樹木だけがそれらのものから生気を奪つて成長してゐる」「目が覚めると木の葉が非常な勢でふえてゐた。こぼれるばかりに」(「暗い夏」)

「少女の頃の汽車通学。崖と崖の草叢や森林地帯が車内に入つて来る。両側の硝子に燃えうつる明緑の焔で私たちの眼球と手が真青に染まる」(同)

 岩波文庫の『左川ちか詩集』を編集した川崎賢子さんによると、左川ちかが描く緑は押し寄せ、あふれ、おぼれそうになる。その生命力は過剰であり、攻撃的でさえある。

 『左川ちか全集』を編集した島田龍さんも、「一般に緑はポジティブな生命力を連想する。それは生殖・繁殖の象徴と言い換えてもよい。しかし彼女は暴力性を帯びて表象される自然を前に、対象との合一も感情移入も拒否する」と語る。

 農村景観、あるいは山里景観は、人間が自然にはたらきかけることによって初めて維持される。

 家の周りやあぜ道の草を刈る。用水路の泥を上げる。田畑を耕し、稲を、野菜を育てる。「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」(民俗学者宮本常一)のだ。

 とはいえ、それ以上に緑はあおい焔のように燃え上がる。それが、左川ちかが見た緑の世界だった。すでに90年前、私ら現代人と同じように、緑の暴力性を感知していたことに驚かされる。

2023年10月30日月曜日

夢の力

                     
 両親が夢に出てきたのだという。「お姉ちゃんと○○××さんに『ありがとう』というんだよ」。「お姉ちゃん」とはカミサン、「○○××」とは私のことだ。

 わが家の隣に住む義弟がけがをして入院した。面会時間に合わせて見舞いに行くと、カミサンに礼をいい、私にも同じように「ありがとうございます」という。「いうことをきかないときにはしかってほしい」。そんなことも口にした。

 家で転んで背中を強打した。背骨の圧迫骨折がわかったため、コルセットで固定しながらリハビリを続けることになった。

つらい痛みのなかで眠りに落ちたとき、両親が枕元にやって来たのだろう。

わかる。死んだ両親やきょうだい、連絡がとれなくなった友人や知人に、夢でもいいから会いたい、会って話をしたい――。そんな喪失感を若いとき、何度か経験したことがある。

実際、夢の中に親が、友人が現れたときには、たとえ目が覚めて幻だとわかっても、「会った事実」が残り、意外と生きるバネになった。

夢の力である。義弟は夢の中で両親と会い、生前そうだったように甘え、しかられ、励まされた。それでさっそく親の忠告通り、私らに感謝と謝罪を口にした。

義弟は週に3回、デイケア施設に通っていた。退院すれば、また通うようになる。夢を見たあとは少し余裕が出たのだろうか。施設のスタッフや利用者の話もするようになった。

たまたま施設に用があって、カミサンと出かけた。そのとき、「××○○さん(義弟のこと)は若いから」とスタッフがいった。

「若い?」。思わず苦笑しながらつぶやくと、すぐ返された。「若いですよ」。そうだった。利用者の中では、70代前半は確かに若い方なのだろう。

後日、義弟を見舞ったとき、カミサンがデイケア施設の話をした。表情をやわらげながら、うなずくようにして聞いていた。

1年以上前から、わが家の庭に居ついた「さくら猫」がいる。最初は野鳥のえさ(残飯)が目当てだったらしい。

カミサンが鳥とは別に、猫にもえさをやるようになった。私には警戒しながら距離をとる。が、猫かわいがりをする義弟にはすり寄っていく。

ときどき、庭木を利用して縁側の屋根に上る。先日は朝、義弟の家の屋根に上っていた=写真。

カミサンが逆光のなかでパチリとやったのを見て、萩原朔太郎の「猫」の詩を思い出した。

「『おわあ、こんばんは』/『おわあ、こんばんは』/『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』/『おわああ、ここの家の主人は病気です』」

何日か前、見舞に行くと、義弟が猫の様子を尋ねた。屋根の上の猫の写真を思い出して、不思議な気持ちになった。

「この家の主人は、けがで入院中です。リハビリをがんばる気持ちになっています」なんて、胸の中でひっそりと猫に代わってつぶやいてみた。

2023年10月28日土曜日

草野心平と中原中也

           
 詩人の草野心平(1903~88年)と中原中也(1907~37年)の交友期間は3年弱と短かった。

 心平は昭和10(1935)年5月に同人誌「歴程」を創刊する。その半年前の同9年11月、同人による自作詩朗読会が開かれ、中也も出席した。そのとき、心平は31歳、中也は27歳。これが2人の最初の出会いだった。

それから間もない師走(推定)、心平の仲介で、中也が高村光太郎に詩集『山羊の歌』の装丁を依頼する。

 同じころ(推定)、居酒屋で中也が太宰治に絡み、太宰と檀一雄、心平と中也に分かれて乱闘騒ぎがおきた。

 中也は同12年10月、結核性脳膜炎のため、30歳の若さで亡くなる。心平は追悼詩「空間」を発表する。

 「中原よ。/地球は冬で寒くて暗い。//ぢや。/さやうなら。」。若いとき、心平の詩集を読んで、こういう追悼詩もあるのかと驚いた。

 山口市の中原中也記念館で先ごろ、特別企画展「草野心平生誕120年 草野心平と中原中也」が開かれた。

 ありがたいことに、知り合いを介して同展の図録=写真=が手に入った。前述の交友から追悼詩発表まで、この図録の年譜を参考にした。

 さて、10代後半のこと。生きている心平より彼岸にいる中也の詩に引かれた。なかでも「骨」は心に沁みた。

 始まりは「ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きてゐた時の苦労にみちた/あのけがらはしい肉を破つて、/しらじらと雨に洗はれ/ヌツクと出た、骨の尖(さき)/……」。

 そして、「故郷(ふるさと)の小川のへりに、/半ばは枯れた草に立つて、/見てゐるのは、――僕?/恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、/骨はしらじらととんがつてゐる。」で終わる。

 小川のヘリに立つ「棒杭(ぼっくい)」?を「骨」に見立てた感性に引かれて、そのへんにある柵などを見ると、「ホラホラ、これが――」と口ずさんだものだ

 石原裕次郎がこの「骨」を歌ったはず。記憶を手がかりに探ると、裕次郎が主演したアクション映画「太陽への脱出」(1963年)の主題歌だった。伊部晴美が作曲した。

 図録から知った中也の心平評。「草野君の感覚を僕は好きだ。そのピントは実に正確だ。つまり彼は詩人として第一に大事な点に於ては決してころがりつこない」

 同じく心平の中也評。「中原中也の場合、活路は唄うことにしかない(略)。そのどれの底にも少年が脈打っているのだ。『少年』が常に彼の日常や思考の奥底で夕焼小焼を唄っているのだ」

中也の詩の本質を「唄」と喝破した心平の慧眼に、あらためて舌を巻く。さらに、もうひとつ。拙ブログに寄せられたコメントで知ったこと。

心平は一時、国立市に住んでいた。そこから見える富士山を詩に書いた。それを同い年の親友、棟方志功が「板画」にした。旧国立駅舎で2人のコラボ作品の展示が行われているそうだ。

詩のタイトルは「天地氤氳(いんうん)」。「氤氳」は雲や煙が盛んなさまをいう。心平は時に難語で人を惑わす。

2023年10月27日金曜日

ヒラタケの油炒め

                     
 夏井川渓谷にある隠居は、原発事故後、庭の放射線量が平均して高かったため、平成25(2013)年初冬、全面的に除染が行われた。

庭の表土が5センチほどはぎとられ、山砂が一面に敷き詰められた。家庭菜園も消えて、いっときは学校の校庭のようになった。

が、やはり緑と菌の繁殖力はすさまじい。次第に草が生えてきただけでなく、春にはシダレザクラの樹下にアミガサタケが現れ、秋にはモミの木の下にアカモミタケが発生するようになった。

浜通りと中通り、そして会津の一部では、いまだに野生キノコの出荷制限が続く。それはそれとして、除染の済んだ隠居の庭に生える食菌は、ありがたくいただくことにしている。

周りの山は手つかずのままだ。夏のチチタケに始まって、秋のナラタケ、アミタケ、クリタケ、晩秋のヒラタケ、真冬のエノキタケ……。

発生時期を見計らい、谷沿いの小道を歩くだけでこれらの食菌が採れた。が、あれ以来、「モリオ・メグル氏」のキノコ散歩は途絶えた。

フェイスブックの画面には、私がグループに加わったこともあって、「山菜きのこを採って(撮って)食べる会」や「きのこ部」の人たちが撮ったキノコの写真がずらりと並ぶ。

夏井川渓谷ではマツタケも採れる。私は採ったことがない。マツタケを大量に採った写真などを眺めていると、驚きと羨望と嫉妬がないまぜになる。

今年(2023年)の夏は酷暑と雨不足だった。秋キノコは全般に期待できなかったのではないだろうか。

道路と隠居の敷地の境にあるモミの木などが電線の障害になるほど大きくなったため、令和3(2021)年師走、電力会社にお願いして剪定してもらった。

そのとき、こちらは家の軒下あたりまで幹を切ってもらおうとしたが、それだと「木が枯れる恐れがある。突然倒れてそばを通る車にぶつかる心配もある」というので、屋根の上あたりまで残しておいた。

それでも葉が消えて木の勢いがなくなったためか、秋になってもアカモミタケは現れなかった。

カジノキ? あるいはヤマグワ? 判断が揺れているのだが、立ち枯れてキノコ(アラゲキクラゲとヒラタケ)が生える庭の木がある。

隠居へ行くたびに幹と枝をチェックする。先日(10月22日)はアミヒラタケが発生していた。

このキノコはサルノコシカケ科(あるいはタコウキン=多孔菌科)だ。やわらかい幼菌のうちは食べられるが、すぐ硬くなるとネットにあった。食べたことはない。

たまたま視線を足元に落とすと、「あれっ、出ている!」。枯れ葉にまぎれてヒラタケが発生していた=写真。剪定枝は庭の縁に積み重ねておく。そこにヒラタケの胞子がもぐりこんだのだろう。

さっそく採って水洗いをし、家へ持ち帰って、朝は味噌汁に、夕方は豚肉や野菜などとともに油炒めにしてもらった。こんなときは、「うまい」だけでなく「楽しい」気分になる。

2023年10月26日木曜日

ガソリンの減りが早い

        
 1年前に車を買い替えた。もちろん、中古車だ。ホンダの「フィット」からトヨタの「アクア」へ。信頼する業者の勧めに従って、燃費優先で車種を選んだ。

 いわゆるハイブリッドカーで、車のキーは前の車と違って、ズボンのポケットに入れておくだけ。

乗り降りするときには運転席のドアノブに触れ、始動と停止にはエンジンボタンを押す。スマートキーといわれるものらしい。

 フィットも燃費優先で選んだ。アクアはそれ以上に燃費がいいというので、こちらの上限予算に見合う車を探してもらった。

 週に1回、わが家と夏井川渓谷の隠居を往復するのが最長のドライブで、日常的にはいわき駅前のラトブ、近くのスーパーを往復する程度だ。

ガソリンスタンドへ行くのは、前はおおよそ「20日にいっぺん」だったが、今はほぼ「1カ月弱にいっぺん」に伸びた。確かに車のガソリン消費からみると、アクアは優れている。

わが家の隣に住む義弟が家で転んでけがをし、いわき市鹿島町の病院に入院した。

で、午後2時からの面会時間(15分)に合わせて、ほぼ毎日、近くの旧バイパス入り口から国道6号にのって、夫婦で出かける。帰りは鹿島~豊間~薄磯~藤間の海寄りの道を利用する。往復の運転時間は40~50分。

先日は朝、渓谷の隠居の台所にある温水器を交換するのに立ち会った午後もまた、朝から隠居の庭の草刈りをしていた後輩が風呂場からの漏水を発見し、その確認と水道の電源を止めるために渓谷へ出かけた。こちらは1回往復1時間だ。

結局、想定外の出来事が続いて車を運転する時間、つまり距離が伸びた。10月15日に満タンにしたのが、わずか9日間で燃料計が半分になった。

燃料計の針が半分になると満タンにする――。3・11後に身に付いた習慣だ。

最近は慢心して、半分より減った時点で満タンにしている。それでもアクアでは「1カ月弱にいっぺん」ですんだ。

火曜日(10月24日)は午前中、業者に義弟のコルセット製造代金を支払うため、病院へ出かけた。まだ11時前だというのに、青空には積乱雲がわいていた。

不気味なかたちの積乱雲が真正面に見えたとき、助手席のカミサンがパチリとやった=写真。怖いくらいに天に突き出ていた。

「ダイダラボッチ」が雲だとしたら、これか! そう思えるほど、伝説の「入道」がむくむく現れたような雲のかたちだった。まさしく「入道雲」である。

宵にNHKのローカル番組を見ていたら、気象コーナーで同じ入道雲の写真が紹介されていた。撮影時間はおそらく午前11時ごろ。雲を見た位置も、角度もほぼ同じだった。やはり、尋常ではない積乱雲に引かれたのだろう。

前日の「クローズアップ現代」は、ガソリン価格高騰問題を取り上げていた。地方では、車がないと生活が成り立たない。

ガソリン消費が早い現実に頭を痛める一方で、動き回ればこんな空の風景にも立ち会えるのだと、のんきなオヤジは感心するのだった。

2023年10月25日水曜日

左川ちか詩集

                                
 図書館の新着図書コーナーに『左川ちか詩集』(岩波文庫、2023年)があった=写真。

 左川ちか? 聞いたことがあるような、ないような……。日本の近・現代詩史のなかで取り上げられる女性詩人のようだが、寡聞にして知らなかった。

 明治44(1911)年に生まれ、昭和11(1936)年に亡くなっている。わずか25歳という短い生涯だった。

岩波文庫に入るような、完成された作品を書いていたとすれば、早熟な天才肌の詩人だったことになる。さっそく借りて読んだ。

「卵をわると月が出る」(「花」)、「蝶は二枚の花びらである」(「神秘」)。卵の黄身を満月に、チョウの翅(はね)を花びらに例えた表現がおもしろい。いや、現代詩にも通じる新しさがある。

詩史的にいえば、左川ちかは昭和初期、モダニズム詩人の代表格と目された北園克衛(1902~78年)らに評価された。

日本のモダニズム文学は、昭和初期から欧米の文学作品、超現実主義などの文芸思潮の紹介を通して根付いた。

現代詩の分野では、詩誌「詩と詩論」などの運動として始まり、戦後も詩誌「荒地」や次の世代の「凶区」などに影響を及ぼした(ウィキペディア)。左川ちかも「詩と詩論」に拠(よ)った。

左川ちかは北海道の余市町に生まれた。異父兄の川崎昇と伊藤整が親友だったことから、兄を介して伊藤整を知る。やがて彼女は兄を頼って上京し、百田宗治の知遇を得、翻訳、詩作、編集の仕事を通じてモダニズム詩人に広く受け入れられたという。

これは、左川ちかを調べているうちに知った「おまけ」のようなもの。

同じモダニズム詩人に安西冬衛(1898~1965年)がいる。1行詩「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた」で知られる。

ユーラシア大陸(シベリア)とサハリン(樺太)の間にある海峡は、中国では「韃靼海峡」、ロシアやアメリカでは「タタール海峡」、日本では「間宮海峡」と呼ばれる。

この海峡は厳寒期に凍結する。7年前にサハリンを旅したとき、ロシアの自然に詳しい通訳がこんな話をしていた。

 「サハリンでは大陸にいるアムールトラやオオカミが目撃されることがある。ヤマネコも大陸から凍った海峡を渡って来るが、今は姿を見ることはない」

安西冬衛の詩は、海峡からいえば極小(チョウ)、チョウから見れば極大(海峡)の組み合わせが強烈な印象を残す。

その初出形(安西冬衛らが中国・大連で出した同人誌に掲載)は「てふてふが一匹間宮海峡を渡つて行つた」だった。語呂からいっても、「間宮海峡」ではインパクトが弱い。

実は、チョウ=花びらに触れたとき、安西冬衛の「てふてふ――」が思い浮かんだ。左川ちかは安西冬衛の1行詩をすでに自分のなかに取り込んでいたのではないか。

そんな「仮説」がわいて、安西冬衛の本も図書館から借りて読んだ。答えはむろん、得られなかったが、モダニズムの端緒のようなものには触れえたような気がする。

2023年10月24日火曜日

95歳の元学徒動員兵

                     
 いわき地域学會の第378回市民講座が土曜日(10月21日)、いわき市文化センター視聴覚室で開かれた=写真上1。

 会員の野木和夫さんが「暗号<セケ200>を受信した学徒動員兵」と題して、同じ企業(常磐炭礦)の先輩だった小山田昭三郎さん(95歳)の戦争体験記を紹介した。

 小山田さんは旧制磐城中学校4年生、つまり16歳のとき、特別幹部候補生として陸軍航空通信学校に入学し、翌昭和20年3月、朝鮮半島~中国沿岸経由で台湾へ配属された。潜水艦の魚雷攻撃を避けるために、直行ではなく大回りコースがとられたという。

 台湾では、台北松山飛行場の対爆壕の中で、主に本土(大本営)、沖縄、中国(南京)、マニラ、シンガポールなどとの交信を担当した。

 そのなかで同20年6月18日(と小山田さんは記憶している)、沖縄からの最後の電文「セケ200」を受信する。

「セケ200」とは、「敵(アメリカ)の戦車が200メートルに」迫っている、という意味の暗号だそうだ。この電文を最後に、沖縄からの通信は途絶える。

台湾で敗戦を迎えた小山田さんは同21年3月、最後の復員船で鹿児島に帰還する。広島駅から見た原爆の跡、列車内に乗り込んできた無軌道な集団……。故郷の内郷までの汽車の旅もショッキングなものだった。

同3月10日未明、小山田さんは上野からの夜行列車で綴駅(現内郷駅)に到着。懐かしいにおいを体中に浴び、母親の驚く顔を思い浮かべながら、家へ向かって歩き出した――。

小山田さんはその後、常磐炭礦に入社し、常磐ハワイアンセンターが開業すると温泉供給担当になる。

閉山後も残務整理に携わり、昭和62年3月に最後の仕事である常磐炭礦峰根浄水場を市に移管したあと、会社を退職した。

小山田さんは近々、野木さんの協力を得て本を出す。『炭坑(ヤマ)の滴(しずく)――消えた石炭産業 炭坑のラスト・サムライ奮闘記』=写真上2(イラスト部分が本の表紙)=で、台湾での従軍記録を付録として収める。

市民講座では、「私と戦争」と題する従軍記録を野木さんが先行して抜粋・紹介した。その一つ。

ハワイ・ホノルル発の短波放送を勤務の合間に受信していた。内地の空襲では前日、都市名を挙げ、「目標は軍需工場ですが、爆弾には目がないので、近くの方は危険ですから疎開してください」と予告していたという。京都や炭鉱などの「爆弾の除外」も放送で知った。

「敵前で『セケ200』を打ち続けていた戦友の『ト・ト・ト・ツー・ト・』終わりのない電文は私の脳裏から消えることはないでしょう」。95歳の今も、戦争は現在進行形のままだ。

2023年10月23日月曜日

迷惑メール

                       
   今は「ETC利用紹介サービス」が連続して届く=写真。「お客様のユーザーIDは、解約予定日までにログインいただけないと登録が解約となります」。その解約予定日が次々に(自動的に?)替わる。

ETCは高速道路の料金所ゲートを止まらずに通過できるシステムで、車にETCカードを差し込む装置が付いていれば利用できる。

高速道路は年に1、2回、いわき市内か近距離しか利用しない。ETCは当然、使わない。一度も利用したことがないので、カードの購入方法もわからない。それなのに、なぜ?

毎朝、ノートパソコンを開けてメールをチェックする。いつからかは定かではないが、迷惑メールが何通か届くようになった。

「ETC利用紹介サービス」だけではない。先日は「利用紹介ETCサービス」というのもきた。中身は同じだ。手を変え、品を変え、次々に……。

前は「アマゾン」を騙(かた)るものが多かった。アマゾンといえばネット通販の会社だと承知はしているが、利用したことはない。

「三井住友カード」の場合は、「弊社カードをご利用いただきありがとうございます。次回お支払金額のお知らせです」。カードは持っていないのに、だ。

要は、個人情報をかすめとるための迷惑メール、偽メール、詐欺メールなのだろう。

カードで思い出すのは、還暦の年に仲間と海外修学旅行を始め、北欧を訪れたときのことだ。

ほとんどの店がキャッシュレス対応だった。カードを持っていない私は買い物ができない。仲間の買い物に便乗しておみやげを買った(もちろん、あとで清算した)。

日本も今は、キャッシュレス化がかなり進んでいる。詐欺師たちはそうした「カード社会」の盲点を突いてくるのだろう。

変なメールが届いたら、とにかくすぐネットで確かめる。ほとんどが迷惑メールなので、「受信拒否リスト」に加えて削除する。

発信者はふだんどこで、なにをしているのだろう。名前を使われた企業などが明かす手口の一端はこうらしい。

アドレス収集者がいて、いろんな手段を使って情報を集める。その業者が迷惑メール送信者にリストを渡す。それを基に迷惑メールが届く。「業」としてランダムにメールアドレスを作成し、一斉に自動送信をする業者もいるという。

おっと、危ない。そんな感じになるときがある。迷惑メールを削除中、間に入っていた正常なメールまで削除しそうになって、ヒヤッとする。これが一番心配だ。

とにかくめげずに、受信拒否リストに加え続けるしかない。そうやっていると、いつのまにか消えていく迷惑メールがある。新たな迷惑メールが現れるとしても(実際、その繰り返しなのだが)、音を上げるわけにはいかない。

2023年10月21日土曜日

オリーブオイルの使い方

                     
   火曜日(10月17日)のNHK「あさイチ」は、オリーブオイルの変わった使い方を特集していた。

和食料理人の野崎洋光さん(福島県古殿町出身)が、鯖(さば)の味噌煮やちりめんじゃこの炊き込みご飯などを紹介した。

鯖の味噌煮は、煮汁に味噌をとき、焼いて煮た鯖を戻し入れ、併せてしょうがやオリーブオイルを加えてさっと煮る、というもの。ネットには新感覚の味噌煮とあった。

ちりめんじゃこの炊き込みご飯は、炊飯器に洗った米とオリーブオイル、しょうが、酒、水などを入れ、炊き上がったら、ちりめんじゃこに香りづけのオリーブオイルなどを加えて蒸らす。あとは全体を混ぜれば出来上がり。オリーブオイルを2回使うところがみそらしい。

「驚きの活用術」を見ながら、思いついたことがある。ごま油がないので、オリーブオイルを使おう。道の駅で買ったパック入りのキムチが、辛いだけでなく、時間がたって酸っぱくなってきた。オリーブオイルをたらせば、辛みと酸味が抑えられるはず――。

 ほどよく発酵して、ほんのり甘みのある白菜キムチが好きなので、スーパーではそれを選んで買う。しかし、何日かたつと、やはりうまみや甘みよりも酸味が強くなる。

このキムチが酸っぱくなったとき、ごま油を使って酸味を抑えたことがある。その応用編である。

晩酌のときに、酸っぱく辛いキムチにオリーブオイルをかけてよく混ぜた。同時に、キュウリの糠漬けを添えた=写真。

糠床はとりあえず、11月いっぱいは朝起きるとすぐかき回す。それまでキュウリも漬け続ける。

今年(2023年)は8月後半から9月いっぱい、買ったり、もらったりしたキュウリに虫が巣くっていた。そのことを拙ブログで何度か書いた。

それが、10月に入ると止まった。きれいなキュウリになったことを伝えたくて、オリーブオイルをからめたキムチと一緒にパチリとやった。(が、そのあと漬けたのにやはり虫が入っていた)

 さて、わが家で使っている食用油はこのところオリーブオイル一辺倒だ。中東はパレスチナの北部(1949年からイスラエル領)の生産者団体「ガリラヤのシンディアナ」がつくっており、合同会社「パレスチナ・オリーブ」(皆川万葉代表)がフェアトレードで輸入している。

カミサンが店の一角でフェアトレード商品を扱っている。オリーブ石鹸とザアタル(ハーブミックス=香辛料)も、同じようにパレスチナ・オリーブから取り寄せる。

ザアタルは、現地ではオリーブオイルと一緒にパンにつけて食べるそうだ。で、わが家でもパンのときには、必ずオリーブオイルとセットになって出てくる。

ハマスとイスラエルの戦いは、これからどうなるのか。パレスチナ・オリーブのホームページに、生産者は無事(ガリラヤ地方、ヨルダン川西岸地区)とあった。

しかし……。ヨルダン川西岸地区もまた道路や検問所の封鎖で街や村から出られない状況だという。

2023年10月20日金曜日

ネギの種をまく

                              
 季節がひとつ巡ったことを実感するのは気象だけではない。

 夏井川渓谷にある隠居の庭で昔野菜の「三春ネギ」を栽培している。三春ネギは秋に種をまく。

渓谷の住民から種と苗をもらい、2~3年失敗を繰り返して覚えたのは、10月10日を目安に播種(はしゅ)するまで、種は冷蔵庫で眠らせておくことだった。

10月10日に種をまく――は、住民の教えでもある。それを守りながら、10月10日に近い日曜日に種をまいてきた。

ネギの種は、冷蔵庫に入れておけば2年は持つ。というか、冷蔵しても2年しか持たない。そんな“はかなさ”は、やはり常温保存に失敗して学んだことだ。

今年(2023年)は3連休のまんなか、10月8日に土をならして苗床をつくり、たっぷり散水してから種をまいた=写真。

種まきも失敗を重ねながら体で覚えていった。わりと深め(といっても、5ミリほどだが)に筋をつくり、種をまいて土をかぶせ、強めに押す。そうすると、雨に土がはじかれ、種がむき出しになることもない。

発芽を確認するのは、早くて次の日曜日。発芽率がわかるのはさらに次の日曜日。毎年だいたい、そんな流れだ。

その意味では、私が、秋がきたことを実感するのは、この三春ネギの発芽を確認し、ひと安心したときだ。

今年、種をまいた翌日は雨だった。雨に打たれて土が流れ、種がむき出しになっていないか、いや雨に土がはじかれることはないはず――そう思っても、やはり早く確かめたい。

1週間後の日曜日(10月15日)も、朝から雨だった。隠居へ行っても土いじりはできない。次の日曜日まで待つか。いや、やはり発芽の有無を知りたい。

連日、単発で1~2時間の用事が続く。水曜日(10月18日)は午後、何の予定もなかった。昼寝からさめると思い立って隠居へ出かけた。

生ごみを畑に埋める、ネギの発芽状況を確かめる――目的は二つ。いや、ほかにもう一つ。

小川町の三島地内で夏井川と国道399号(県道小野四倉線)が並行する。そこは夏井川に飛来するハクチョウの「第二の越冬地」。

前日に「第三の越冬地」(平・塩~中神谷)で今季初飛来を確認した。必ず飛来しているはず――そう踏んで出かけたのだった。やはりいた。その数、二十数羽。

隠居に着くと、渓谷の森はかなり色づいていた。といっても、ヤマザクラなどの広葉樹が中心だ。

秋の深まりとともに、ローカルテレビでも福島県内の紅葉情報が流れるようになった。この紅葉はしかしカエデ限定だから、夏井川渓谷はまだ「青葉」のマークになっている。

紅葉時期になると、田村郡小野町のNさんが江田駅前に直売所を開く。8日の昼前、江田駅前を通ると、パイプで柱を組み立てていた。

1年ぶりなので、まずはあいさつをする。店を開くのは「11月に入ってから」という。これも秋の到来を告げる人の動きではある。

2023年10月19日木曜日

給湯器の寿命

           
 風呂の給湯器=写真=がおかしい、と気づいたのはいつだったか。浴槽のそばの壁に、湯はりや追いだきのリモコン装置がある。「自動」にしても、浴槽の湯口からお湯が出てこない。

 ではと「自動」を取りやめ、蛇口を全開にしてお湯をためることにした。これはこれでうまくいった。

が、そのうち蛇口と連動しているシャワーの湯量が一定しなくなった。急に細くなって熱くなるかと思えば、いつものようにお湯が噴き出す。

 蛇口のお湯も、次第にシャワーと同じ“症状”になった。これはガスの燃焼が尋常ではない証拠だ。

 カミサンがガスボンベを交換に来る業者に連絡すると、日をおかずに担当者がやって来た。風呂場をチェックし、外の給湯器を見て、ひとこと。「24年もよく持ちましたね」。製造年が1999年だった。

 担当者の話によると、ガス給湯器の寿命は通常10年。早い場合は7~8年だとか。24年も持つのは例外的なことらしい。

 それを確かめるために、あとでネットをサーフィンする。安全上、支障なく給湯器が使える期間(メーカーの設計標準使用期間)は10年、持って15年。ガス給湯器の主な症状のひとつに、お湯の温度が設定温度よりもぬるくなったり、上がったりして一定しない、シャワーも同じ――とあった。

これでは、やけどの心配もあるので、給湯器を新しくすることにした。値段は? 聞いてびっくり。しかし、寿命がきたからには交換するしかない。

話はそれで終わらなかった。夏井川渓谷の隠居にある台所の給湯器も、真冬に凍結・破損した。

お湯を出すと、給湯器から水が漏れる。それで夏場は給湯器の元栓を締め、やかんにお湯をためたり、食器をお湯で洗ったりはしないできた。

そろそろ水が冷たく感じられる時期になった。冬はやはりお湯を使いたい――。こちらも交換することにした。

二つ合わせると、けっこうな金額になる。この年齢になると、もう自分たちの世代だけの話ではなくなる。

子どもたちが引き続き利用するかどうか、なんてことはともかく、家として機能するためにもやはり給湯器は欠かせない。

平地のわが家の給湯器(風呂)は東日本大震災を経験してもなんとか持ってくれた。渓谷の隠居の給湯器(台所)はこれまで2回か3回、凍結・破損している。

地球温暖化、いや沸騰化がいわれているとはいえ、真冬はやはり瞬間的に冷え込むときがある。油断をして水抜きを怠ると、たちまちやられる。これだけは人間が注意しないと、神経を研ぎ澄ませていないと予防ができない。

2023年10月18日水曜日

ほぼ予想通りの飛来

         
 火曜日(10月17日)は晴れて、北西の風が吹いていた。この日午前、市役所で用をすませたあと、夏井川の堤防を経由して帰宅した。

もしかして――。案の定だった。ハクチョウが10羽、右岸(山崎)で羽を休めていた=写真。初飛来は、時期的には平年とそう変わらない。

今年(2023年)、猪苗代湖にハクチョウが飛来したというニュースに接したのは10月9日。

前日の8日に渡って来たことを新聞で知り、それでは1週間後、いわきに姿を見せるはず――そう踏んで、いつものように街へ出かけるたびに堤防を帰り、川にハクチョウがいるかどうかをチェックした。

新川合流点(右岸・山崎と北白土、左岸・塩)が、夏井川第三の越冬地だが、そのすぐ上流右岸(北白土)で土砂掘削と護岸整備工事が行われている。

令和元(2019)年10月に台風19号が襲来し、夏井川水系では甚大な被害が出た。その「河川災害復旧助成」事業で、同6(2024)年3月末まで工事が行われる。

ハクチョウたちは重機が動き回っているのを敬遠したのだろうか。いや、そうではない。前々から初飛来場所は下流の中神谷字川中島あたりだった。

今年もサケやな場の上流、川中島と向かい合う山崎側の岸辺に飛来した。体全体が白い大人のハクチョウは4羽、残り6羽は灰色がかった幼鳥だ。「令和元年東日本台風」以後の初飛来のブログ記事を抜粋する。

【2019年】10月17日、平・塩と中神谷の境目に最初の2羽がやって来た。台風19号による水害が、主に上流の幕ノ内~中塩~下・中平窪で発生した直後だ。

【2020年】10月16日の朝は、この秋一番の冷え込みになった。石油ヒーターを引っ張り出した。午後、知人がやって来た。「うちではこたつを出した」という。そういう時節になった。

昼前、カミサンが高校の同級生の墓参りに行くというので、夏井川の堤防を経由して待ち合わせ場所の寺の駐車場へ送って行った。

堤防を利用したのはハクチョウ飛来の時期を迎えたからだ。加えてこの冷え込みだ、第一陣が夏井川にやって来てもおかしくない――。読みが当たった。

第一陣はやはりコハクチョウ2羽。塩の下流、中神谷の小さな川中島に飛来した。そこは字名も「川中島」。神谷が笠間藩の分領だった時代には、処刑場があった場所だ。

【2021年】10月8日、三島(小川町)にハクチョウが現れたと、「白鳥おばさん」から電話が入った。夏井川の下流域では重機とダンプカーが河川敷の土砂除去を続けている。

三島地区でも重機とダンプカーが動き回っている。そうしたなかでも、残留ハクチョウの「エレン」が仲間と再会する日がやってきた。

【2022年】10月9日、第一陣が猪苗代湖に現れた。それから8日後の17日。まずは一番古い越冬地、平・平窪の夏井川に着水した。赤井に住む知り合いが写真をフェイスブックにアップしていた。

 ――というわけで、今年も秋が深まってきた。庭のホトトギスが開花し、隣家のキンモクセイが満開になった。エレンは、今はどこにいるのだろう。

2023年10月17日火曜日

タウン誌・街の灯こおりやま

                     
 郡山市で発行されている月刊タウン誌「街の灯(ひ)こおりやま」の7~10月号が届いた=写真。

田村郡小野町で「東方文化堂」を営む渡辺伸二さんが、7月号から「磐越東線 各駅停車散歩」を連載している。彼から恵贈にあずかった。

いわきから夏井川沿いに車で行くと、JR磐越東線小野新町駅近く、踏切を渡る前に道が直角に曲がる。その急カーブのところに東方文化堂がある。

渡辺さんは磐東線を利用していわき市の平工業高校に通った。鉄道マニアでもある。近年、県外からUターンし、自宅兼店舗に「磐越東線ギャラリー」を併設した。

ギャラリーの奥、かつては居間だった最初のスペースは「ミニ企画室」、さらにその奥は「ミニ図書室」になっている。

令和3(2021)年4月下旬、「マイクロツーリズム」と称して、夏井川渓谷にある隠居から昼食と買い出しを兼ねて、上流の小野町を訪れた。そのとき初めて、渡辺さんの店を訪ねた。

ギャラリーには磐東線の開通を告げる新聞記事や史料、駅名看板、写真などがびっしり飾られている。それを見るのが目的だった。

渡辺さんは平成19(2007)年に『磐越東線ものがたり 全通90年史』を出版した。草野心平の詩「故郷の入口」を解読するのに、この本の世話になった。

昭和17(1942)年10月、心平は中国・南京から一時帰省する。詩の冒頭4行。「たうとう磐城平に着いた。/いままで見なかったガソリンカーが待ってゐる。/四年前まではなかったガソリンカーだ。/小川郷行ガソリンカーだ。」

磐越東線をガソリンカーが走ったのはいつか。作品とは別に、史実を確かめるために渡辺さんの本に当たった。

「このガソリン動車、磐越東線では昭和11年(1936)4月15日から平・小川郷間を走っていた」。太平洋戦争末期の「昭和20年(1945)6月のダイヤ改正時には姿を消している」。心平のいう同17年の4年前ではなく、6年前には運行が開始されていた。

ミニ図書室に『写真が語るいわき市の100年』(いき出版、2019年)があった。私が責任者になって、知人やいわき地域学會のメンバーとともにつくった。そのことを伝えると、名刺交換を、となって、さらに話がはずんだ。

 先日、連載5回目の「赤井駅」について、メールで問い合わせがあった。答えるどころか、こちらが知らなかったことが書いてある。その旨を伝えたあとで、タウン誌が送られてきた。

小野新町駅から始まって、小川郷駅、舞木駅、川前駅と紹介し、次回(11月号)が赤井駅になる。

いわき関係で残るのは江田駅、いわき駅だが、私も高専時代、田村郡の実家へ帰省するのに磐東線を利用し、それ以前は郡山市までSLに乗っていた身なので、やはりどの駅も懐かしい。

磐越西線を取り上げた本は山ほどあっても、磐東線に焦点を当てた本は皆無に等しい。「乗り鉄」や「撮り鉄」でなくても、身近な磐東線の「駅散歩」はむしろありがたい、そんな思いがわいた。

2023年10月16日月曜日

地域の自助力

 川内村の知人の話では、金曜日(10月13日)の朝は気温が3度だった。寒くて目が覚めたという。先月までは「猛暑日」でげんなりしていたのが、ウソのように冷え込んだ。

 北から、高い山から「紅葉前線」が下りてくる。毎週日曜日に出かける夏井川渓谷の森も、ほんのり色づいてきた。

 渓谷では紅葉が二度ある。最初はヤマザクラなどの広葉樹。葉が黄色から橙色になり、やがて森全体が暖色系で燃え上がる。

 それらがあらかた散ったあと、今度は谷間のカエデが真っ赤に染まる。二度目の紅葉が散ると、谷間の木々は冬眠に入り、街ではジングルベルのメロディーが流れるようになる。

 ここ何年かはしかし、8月に入ると「もう紅葉?」と誤解しそうな現象が起きる。いわゆる「ナラ枯れ」で、葉が茶色く枯れた木が至る所に見られる。

 すでにキノコの生えた木がある。そうなると、あとは風雨にさらされて枝が落ちる、幹が折れる、といった自壊が始まる。

 渓谷の県道沿いにも立ち枯れた木が散在している。車で道路を行き来するとき、葉が落ち、あるいは茶変した大木を仰ぎ見ながら通過する。

 7月中旬の日曜日、渓谷に入ると、竹ノ渡戸の隣、香後地内で谷側のガードレールが一部、大きくヘし折れるように曲がっていた。

最初、交通事故かと思ったが、車がぶつかったにしてはへこみが激しい。山側のフェンスを越えて大きな落石があったとしたら、痕跡があるはずだが……。

後日、山側の斜面を見ると、道路近くの大木が根元から折れてなくなっていた=写真。幹の直径は1メートル前後あった。

その大木が道路を遮るように倒れ、ガードレールをへこませた。直撃を受けた車はさいわいなかったようだ。

ここまで大木になると、道路管理者に始末してもらうしかない。倒木の切断も除去も、行きずりのドライバーはもちろん、地元の人間の手には負えない。それなりに重機の力が要る。

それで思い出したのが、令和元(2019)年の台風19号だった。夏井川水系を中心に甚大な被害が出た。

台風一過の翌日、隠居の様子を見に行った。建物は無事だった。風による倒木もなかった。

帰りに地元の住民と偶然、一緒になった。隠居から車を出すとすぐ後ろから軽トラックが来て、クラクションを鳴らす。車を止めると、旧知の住民だった。お姉さんが中平窪に住んでいて、浸水被害に遭った。キノコと栗のおこわをつくって持って行くところだという。ワンパックをお福分けにあずかる。

S字カーブに、切断された倒木があった。彼が区長と共に切ったのだという。それで一般の車が通れるようになった。

甚大な被害が出たばかりだから、道路管理者に連絡しても後回しにされるのはわかっている。山里で暮らす人々の自助と互助の精神が発揮された。

この10月、強風が吹き荒れた日に平地の郊外で同じようなことが起きた。区長に連絡がきた。「こんなときには役所に言ってもやってくれない」。結局、自分たちで倒木を始末したという。公助もまた地域の自助力に支えられている。


2023年10月14日土曜日

昭和61年の水害

                           
 カミサンがダンシャリを続けている。ときどき、中身が変わる。今は紙類(手紙・はがき、新聞切り抜きなど)の整理をしている。

 「こんなものが出てきたよ」。茶色く変色した昭和61(1986)年8月5日付のいわき民報を持ってきた。

 タブロイド判で、1面に「本日16ページ」のカットが載る。4枚の紙のうち、一番外側の1枚(1・2・15・16面)だけが折りたたんであった。

 1面は「台風くずれ いわきを襲う/田人で448ミリの大雨/2300世帯が床上、床下浸水」。

 2面は「濁流夏井川駆け歩き/狂気、海鳥が舞い迷う/『アッ 古橋が流された』」=写真。記事は私が書いた。

 15面は「各地で大雨被害続々(5日午前)/常磐線、磐東線不通/バスダイヤもズタズタ」。

――8月4日の台風10号接近に伴い、いわき地方は大雨に見舞われた。近くの夏井川はどんな様子か。5日早朝6時前、思い立って自宅(平・中神谷)から平市街の東端・鎌田まで、傘をさして、カメラが濡れないようにしながら堤防を歩いた。

 当時、私は内勤(整理部)の38歳。古巣の新聞の災害情報は市の対策本部の発表待ちだった。それにあきたらず、自分で見て、聞いて記事を書く――。自己責任で現場取材を試みた(今なら、そんな危険な取材はどこのメディアも上司が許さないだろう)。

「河川敷の畑は濁流の底に沈み、ネギなどの作物が根こそぎ浮いて流失しかかっている」

「間もなく、一教室分はあろうかと思われる、黒い丸太組みが流れて来た。鎌田橋か何か、木橋の橋脚のようだ」

「ウミネコが一羽、方向を見失ったようにめちゃくちゃに上空を舞っている。ふだん姿を見せない海鳥がこんな市街地にいること自体、尋常でない証拠だ」

ここまでは左岸堤防からの眺め。そのあと、下水道の水管橋を渡り、右岸の堤防を進んで国道6号に出た。「平大橋に立って、アッと息をのんだ。木橋の鎌田橋が、半分なくなっている」

 続いて平二中のある鎌田山に上がって西方を眺めた。夏井川は「まるで湖だ。県営鯨岡団地のアパートが、港に浮かんだ船のように見える」。

 いわき市の風水害記録によれば、この「8・5水害」では、いわき市合併後初めて、災害救助法が適用された。

その3年後、平成元(1989)年8月6~7日の水害では、小川町の夏井川の堤防が決壊した。

現場取材をしていた若い仲間が危うく巻き込まれそうになった。このときも同法が適用されている。

 そして、令和元(2019)年10月12~13日の台風19号は、8・5水害をはるかに上回る被害を出した。死者は関連死を含めて10人に及んだ。

その大水害から4年がたった。この間、堤防の復旧、河川敷の立木伐採、土砂撤去などが実施され、今も「国土強じん化」工事が進められている。

そのなかでまた、今年(2023年)9月8日、内郷地区を中心に、線状降水帯による水害が発生した。自然災害は年々、激甚化している。

2023年10月13日金曜日

中山義秀展

                           
 作家中山義秀は明治33(1900)年、福島県・中通りの岩瀬郡大屋村(現白河市大信)に生まれた。昭和13(1938)年、「厚物咲」で芥川賞を受賞し、戦後は時代小説の分野で活躍した。

 中山義秀展がいわき市立草野心平記念文学館で開かれている(12月24日まで)。チラシや新聞記事=写真=に刺激されて、日曜日(10月8日)に出かけた。

 担当学芸員の説明を聞きながら、展示資料を見た。裏地に、水辺に浮かぶ小舟を描いた羽織があった。芥川賞の正賞である懐中時計も展示されていた。賞金は副賞だという。この二つが印象に残った。

 義秀は、私のなかでは歴史上の作家だ。「師友」と仰いだ横光利一(1898~1947年)の作品は、10代のころに読んだことがある。同じ「新感覚派」で横光の盟友・川端康成の作品も読んだが、義秀に関してはいわき関係のエピソード止まりだった。

 子どものころ、両親・兄と平で暮らしたことがある。そのときの苦い思い出が自伝的小説「台上の月」に描かれている。それを収めた『中山義秀全集』第7巻を図書館から借りて読んだ。

 「炭坑で名高い平市は、私達一家四人が故郷の村をさり、はじめて町へ移ってきたゆかりの土地だ。私はこの地の小学一年に転入して、半年ほどいた」(旧漢字・仮名は現代表記に変えた)

村育ちの兄弟は学友からいじめられる。2人はお城山に上り、眼下の汽車を眺めては望郷の念に駆られる。そして、谷間の「古沼」で、手ぬぐいで雑魚をすくったり、ヒシの実を採ったりして遊ぶ。

 古沼は丹後沢。兄弟はここで朽ち舟に乗ってヒシの実を採っているうちに竹棹がへし折れ、藻に乗り上げたまま身動きがとれなくなる。日がとっぷりと暮れたころ、2人を探し回っていた父親が義秀の泣き声などを聞いて救出する――。

 去年(2022年)、ひょんなことから義秀が生まれ育った白河市大信地区をグーグルマップでチェックしたことがある。

 義秀が生まれ育った大屋村は、昭和30(1955)年、東隣の信夫村と合併して「大信村」になった。両村は阿武隈川の支流・隈戸川の上流・下流の関係にある。

 同川は水源が西部の奥羽山脈で、そこから人間の手の指のように支脈が東方へ伸びる。合間を川が流れる。

未知の土地の生業や暮らし、交通などは川を軸にして見るとわかりやすい。義秀の父親は水車業を営んでいたが、水利権の問題で土地の人々ともめ、村を去るしかなかった。そうして移った先が平の町だった。

いわきに関してはもう一つ、後年、四倉で海水浴をし、中耳炎になった記憶がつづられる。

それよりなにより、隈戸川が流れる故郷の風物は、義秀にとっては忘れがたい思い出だった。

「私は山うるわしく水清い僻村に、生れそだったことを悔いてはいない。/貧しい家に人となって、自然の恩寵にあふれた青空のもとに私の幼い魂をはぐくんだことは私の倖せであった」(「花園の思索)。これこそが68歳で生涯を閉じた義秀の文学の原点といえるだろう。

2023年10月12日木曜日

この夏の蚊の行動

        
 某新聞の10月9日付1面肩は、この夏の蚊の行動に関するニュースだった。「酷暑避けた蚊 10月に活発化/35度以上だと休憩 秋に復活?」。この見出しには思わず笑ってしまった。

 「昭和の家」で蚊取り線香とともに夏を過ごす人間には、この夏の蚊の“異変”は先刻承知だったからだ。

 9月末に夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開いた。渓谷は虫の王国。ブユやアブはともかく、蚊は場所と時間を選ばない。

 飲み会が始まる前にガラス戸を開け=写真、蚊取り線香をたいて廊下に置いた。仲間のひとりは防虫スプレーを持参した。夜はいちおう戸を閉めて寝た。おかげで蚊に刺された人間はいなかったようだ。

 ミニ同級会はあらかた9月に開いてきた。秋の彼岸を境に、夏から秋へと季節が移る。しかし、蚊はまだまだ飛び回っている。痒い目に遭った経験が防虫スプレー持参につながった。

 記事のポイントは「真夏に活動するはずの蚊」が、「真夏の気温が高すぎて活動できず、秋になって活発になっている可能性がある」という点だろう。

 市民の声として、「子どもの頃は10月に蚊なんて信じられなかった」。吊るすタイプの虫よけをドラッグストアに買いに来た60代男性の声を紹介している。メーカーも「9月後半に蚊の商品が伸びるのはまれ」と驚いていたとか。

 植物の開花日や鳥・虫の初鳴日、初見日を記録している。私的な生物季節観測で、春は梅の開花に始まり、桜の開花、ウグイスの初鳴、ツバメの初見ときて、5月にはオオヨシキリの初鳴、ホトトギスの初鳴と続く。そして――。

チクリとやる蚊も、わが家では季節のバロメーターになる。毎年、初めて蚊に刺された日と、最後に刺された日を記録している。

わが家ではちょっと前まで、平均すると5月20日前後が最初、10月20日前後が最後だった。

記録によると、2012年は5月15日、2013年は26日、2014年は25日に初めて刺された。2015年は5月14日。その日の午後には、室温が27.9度に上昇した。

今年(2023年)は4月下旬に出現し、5月4日に初めてチクリとやられた。記録的な早さだ。

記事は「真夏」に限定しているが、蚊は気温次第で春にも、秋にも出現する。その気温も高すぎると、人間同様、行動にブレーキがかかる。

2020年8月11日は午後、室温が36度を超えた。扇風機を『強』にしても、熱風が届くだけ。ここまで高温になると、さすがに蚊もどこかで暑さを避けている。蚊に刺されないのはいいのだが、頭もはたらかない――と記録にあった。今年も猛暑日には同じだった。

 ついでにいえば、「最後に刺された日」は11月にずれ込みつつある。2016年が10月27日、2018年が11月6日、去年が11月19日だった。

 今年は確かに真夏には静かになったが、初夏と秋の2回、小さなピークがきたにすぎない。わが家では今年、35度前後の時間帯を除いて蚊取り線香の煙が絶えなかった。

2023年10月11日水曜日

恒例の美術カレンダー

                     
 いわき市平にギャラリー界隈があったころ、11月に開かれる画家峰丘の個展は、年末が近いことを告げる“風物詩”でもあった。

 オープニングパーティーには、かなりの人が集まる。いわば、ちょっと早い大忘年会だ。1年ぶりに再会する知人が多かった。

 その後、個展の会場は好間町にある龍雲寺の「禅ホール」に替わる。今年(2023年)も10月8日に同ホールで個展が始まった。18日まで。

 初日は日曜日。夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、途中、1カ所、寄り道をしてから会場を訪れた。

恒例のオープニングパーティーはなくなったものの、毎年発行する自作品の美術カレンダーは今回も出来上がっていた=写真。

「手帳を買わねば……」。いつもよりは早めながら、来年の美術カレンダーを手にして、やはり年末が近いことを実感した。

今回のテーマも、これまでと変わらない。「峰丘と花 そして深海魚」。峰は若いとき、メキシコで絵の修業をした。メキシコ流の極彩色を基調に、生と死、あるいは深海魚のアンコウを通じて原発事故への怒りを描く。随所に飾られた生け花と絵とが静かに響き合っていた。

峰とは同年齢だ。彼の説明を聞いて、後期高齢者なりの死生観が作品に反映されるようになったことを知る。

暗色のハスと三日月を描いた小品に引かれた。花が散って、実を宿した花托だけのハスの向こうに、小さく三日月が浮かんでいる。

日が沈んで夜のとばりが降りてきたころの静謐感をたたえた、今までになかったような作品だ。

 懐かしい作品にも“再会”した。たなびく雲の中からドラゴンが現れる絵が、別室の壁にかかっている。龍と雲、まさに寺の名前を象徴する作品だ。

 たまたま、ケイト・スティーヴンソン/大槻敦子訳『中世ヨーロッパ「勇者」の日常生活――日々の冒険(クエスト)からドラゴンとの「戦い」まで』(原書房、2023年)を読んだばかりだった。

ヨーロッパ文化圏では、ドラゴンは「悪」の象徴とされている。その姿も、爬虫類のようなうろこに覆われ、角を生やし、コウモリのような飛膜の翼を広げて炎の息を吐く、巨大なトカゲのような怪物として描かれる。

それに比べたらアジアの竜はめでたい動物だという。蛇に似た体に4本の足、2本の角とひげを持ち、海中にすんで空に昇り、雲をおこして雨を降らせる。峰のドラゴンも、アジア流でどこかユーモラスでカラフルだ。

 それと、もう一つ。龍雲寺へ来たからには、訪ねたい墓があった。案内の立て札がある。

 墓地の裏手の高台は、三野混沌(本名・吉野義也=詩人)とせい(作家)夫妻が開墾に励んだ菊竹山だ。

吉野家の墓が同寺にある。何年ぶりかで墓前に立った。『洟をたらした神』の注釈づくりはあまり進んでいない。黙礼しながら、「よし」と気合を入れる。