2019年9月30日月曜日

刺し身とラグビー

 夏井川渓谷の隠居で土曜日(9月28日)、泊まり込みのミニ同級会が開かれた=写真下。7人が参加した。1人でも2人でも集まったら飲み始めるのが慣例で、夕方4時には5人で最初の乾杯をした。
ラグビーのワールドカップ日本大会が開かれている。飲み会の始まりと一次リーグA組の日本対アイルランドの試合開始が重なった。

隠居には2部屋しかない。テレビもない。ふすまを開け放し、二つある座卓をくっつけて、刺し身の大皿やつまみなどを並べた。東の部屋の出窓にあるラジオをかけながら、缶ビールを開け、刺し身をつつき、近況を報告しあった。

飲み会の人間の“主音声”のほかに、ラジオの“副音声”が入る。台所へ行ったり、家の外へ出たりしたとき、ラジオに近づいて戦況を確認する。試合が始まる前、過去の戦いにとらわれて「40―3で負け」なんて言っていたのが、前半が終わった時点で12―9だ。「日本、がんばってるぞ」「おおーっ」と歓声が上がる。

後半戦に入っても、副音声が流れるなかでおしゃべりが続いた。ときおり、アナウンサーが高揚する。アイルランドに点が入ったか。そんな先入観で聞いているから、試合が終わった時点で「19―12」と知ったときには、「日本、惜敗、大健闘」。だれもがそう誤解した。

ところが――。7人目の人間の車が着いたのに、本人はなかなか顔を出さない。家の中に入って来るやいなや、「日本が勝った」「えっ、負けたんじゃないのか」。カーラジオで試合が終わるまで聞いていたのだ。座卓にスマホを出していた人間に情報を確認させる。やはり「日本が勝った」という。すぐさま仲間で握手をし合い、歴史的な勝利を祝った。

 いわきの片田舎の、谷間の小集落の、ちっぽけな隠居の6畳間でも、歓びが爆発した。日本列島全体に歓喜の輪が広がったことだろう。

刺し身は、私が毎週日曜日に通っている魚屋から買った。カツオを主に、タコ、アジ、ヒラメの盛り合わせを大皿で二つ。こちらはラグビーの試合と関係なく箸が出て、間もなく白身の魚だけになった。

 この10年ほど、夏か秋に開いているミニ同級会では、刺し身をメインディッシュにしている。去年までは、1皿はカツオ、もう1皿はカツオ以外の盛り合わせだったが、カツオの方が早くなくなる。あとから来た人間はタコだけということになりかねない。いつもの魚屋で、2皿とも同じ盛り付けにしてもらった。もう1皿必要だったか。

 翌朝は6時ごろ、目が覚めた。4人はすでに起きていた。新聞が届いているかも――玄関の外にあるイスを見たが、新聞はなかった。私や息子たちが泊まると、庭の車を見て旧知の新聞店主が予備の新聞を置いていってくれる。今回に限って予備がなかったのか。それとも、集落に店主が扱う新聞の購読者がいなくなったのか。

9時半には解散した。私はしばらく土いじりをして、11時ごろ、隠居を離れた。帰宅すると真っ先に新聞を読んだ。全国紙も県紙も1面トップで日本の勝利を伝えている。
夕方になると、カツオの刺し身が食べたくなった。前夜、口にしたカツ刺しは、5、6切れ。魚屋へ大皿を返しに行きながら、マイ皿にカツ刺しを盛りつけてもらった。いつもの日曜日の習慣も作用した。再び新聞=写真上=を読み、テレビでウェールズ対オーストラリア戦を見ながら、刺し身をつつき、田苑を飲んだ。

2019年9月28日土曜日

吉野せいの新評伝

 きのう(9月27日)の夕方、カミサンの幼なじみからカミサンに手紙が届いた。中身は私あてだった。
 カミサンの幼なじみはいわきに住んでいる。東日本大震災後、東京新聞を購読するようになった。先の日曜日(9月22日)の読書欄に、批評家若松英輔さんが作家小沢美智恵さんの本、『評伝 吉野せい メロスの群れ』(シングルカット社)の書評を書いた=写真。

「チラッとご覧になるかしら」と、1ページ分を切り取って送ってくれた。チラッ、どころか、食い入るように読んだ。同書は今年(2019年)7月に刊行された。せいの評伝のなかでは最新作だ。作者についてはしかし、全く知らない。

「百姓バッパ」吉野せいが70歳を過ぎて書いた短編集『洟をたらした神』が昭和49(1974)年、弥生書房から出版され、翌年春には大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。

 もともと、せいは文学少女だった。大正元(1912)年秋、磐城平に赴任した牧師で詩人の山村暮鳥の知遇を得る。暮鳥がブレーキをかけなかったら、若いうちからひとかどの作家として名を成していただろう――という点では、衆目が一致する。その代わり、土の文学の『洟をたらした神』は生まれなかっただろうが。

 暮鳥のいわきの盟友でもある開拓農民で詩人の三野混沌(本名・吉野義也)と結婚後は、仕事と子育てに追われた。混沌の死後、ほぼ半世紀ぶりにペンを執り、『暮鳥と混沌』や『洟をたらした神』などを刊行する。特に後者の本は世間に衝撃を与えた。

 書評によると、作者の小沢さんが注目するのは、半世紀近く「書かなかった期間に吉野の心のなかで起こっていた出来事であり、再びペンを握るまでの道程である。作家が『何を書いたか』ではなく、『何を書かなかったか』にこそ人生の秘密を解く鍵がある、と作者はいう」。せいはいったい何を書かなかったのだろう。

すぐに続けて評者はいう。「この不朽の文学が生まれるには二つの死があり、それを契機とした死者との交わりがある」二つの死とはむろん、1歳にもならずに死んだ次女梨花と、76歳で亡くなった夫のことだろう。

昭和5(1930)年12月30日、梨花が急性肺炎のためにわずか9カ月余のいのちを生きただけでこの世を去る。せいはこのとき、31歳だった。

梨花の死の1カ月後、1月30日に書き起こされ、4月28日まで書き続けられたせいの日記が、「梨花鎮魂」として残る。2月13日の記述が胸に刺さる。「梨花を思ふとき創作を思ふ。梨花を失ふたことに大きな罪悪を感じてゐる自分は、よりよき創作を以て梨花の成長としよう。創作は梨花だ。書くことが即ち梨花を抱いてゐることだ」。それから40年後の夫の死で、さらにその思いが膨らんだ。

 書評には、さらにこんなくだりがある。「吉野の筆名の『せい』は『星(せい)』である。その由来をめぐって作者は、『どこ迄(まで)も美しく正しくしたい』という願いのあらわれではなかったかと記している」。

このへんは新しい解釈というべきか。せいの戸籍上の名前はセイ。大正前半、10代で福島民友新聞文芸欄に短編を発表したころは、「若松精子」「若松小星」といった筆名を使っている。

 書評を読んだあと、いわき市立図書館のホームページで所蔵の有無をチェックする。なんと「貸出中」だった。では――と、阿武隈の稜線に夕日が沈むころ、鹿島ブックセンターへ車を走らせる。あるとすればスペースの広い同店、というのが、思い立ったときのパターンだ。

 入荷はしていなかった。出版元のシングルカット社は初めて聞く名前だ。書店員もそうだったらしい。ネットで検索し、同社へ電話を入れたが、つながらない。在庫があればすぐにでも、と頼んで店を出る。と、帰りの車のなかでケータイが鳴る。カミサンに出てもらう。出版元と連絡が取れた、在庫があったというので、できるだけ早く取り寄せてくれるように頼む

本のタイトルが気になる。「メロスの群れ」。メロスとは、あの太宰治の「走れメロス」のメロスにちがいない。メロスが複数いることになる。混沌を、詩人猪狩満直を、暮鳥を、その他もろもろの人間を指すのか。早く読んで確かめたい。(ついでながら、今晩は夏井川渓谷の隠居に泊まるため、あしたのブログは休みます)

2019年9月27日金曜日

「こちらは出口専用です」

「こちらは出口専用です」=写真。ある日、いわき駅に近いスーパーの駐車場に看板が設置された。それを見た瞬間、なぜか「包囲網」が狭められているように感じた。車を運転する団塊の世代(昭和22~24年生まれ)が、これからそういわれるようになる?
 出口を勝手に入り口と解釈して入っていく――。若いときなら「マイルール」が目立つ女性ドライバーを連想したろうが、高速道などでの逆走事故が増えている今は、年寄りのドライバーが思い浮かぶ。そう呼ばれる年齢になった人間としては、ヒトゴトではない。街場でも危険なマイルールが日常化している証拠だろう。

 年々、頭と体が衰えているのを自覚する。一日の時間でいえば、人生のたそがれ時に入った。

 きのう(9月26日)、会津からやって来た1歳下の後輩(70)と外で一緒に“仕事”をしたあと、わが家へ移って高速バスの時間まで茶飲み話をした。

後輩は「文學界」新人賞を受賞したあと編集者に転じ、雑誌「男の隠れ家」や「一個人」の初代編集長を務めた。ともに団塊の世代だ。自分たちの来し方行く末の話になった。人口が突出して多い。長髪・ミニスカート、平凡パンチ、即席ラーメン、出版物、ファミリーレストラン……。団塊の世代はいつも流行や消費の中心を占めた。

団塊の世代は間もなくこの世から退場する。団塊の世代をターゲットにした最後のビジネスは葬式だろう。しかし、葬式のかたちも家庭葬や樹木葬といった質素なものが増えてきた。団塊の退場とともに、葬儀場も淘汰の時代に入るのではないか。

その前に――。団塊の運転がマイルール化して、「こちらは出口専用です」と呼ばれる状況が多発する? それを恐れるからこそ、運転免許更新に伴う高齢者講習制度が生まれたのではないか。

7月に同講習を受けた。原点を忘れて、①発進する際にサイドミラーしか見ていない=ちゃんと身を乗り出して後ろを見るように②「止まれ」の標識があるところで交差点に入ってから止まった=交差点の手前で止まるように――と指摘された。

東京都内に住む同級生の一人は運転免許を返納した。「こちらは出口専用です」を見て感じた「包囲網」とはこのことだ。地方に住む人間は、しかしまだまだ車が欠かせない。

あした(9月28日)は夏井川渓谷の隠居でミニ同級会が開かれる。首都圏方面の人間は全員電車で来る。しかし、いわき駅からは車でないと「ポツンと一軒家」みたいなところへはたどり着けない。

2019年9月26日木曜日

蛍光灯のすきまから虫が

 茶の間の座卓にパソコンを置いて仕事をしている。座卓といっても、こたつだ。夜は晩酌の場になる。夏はカバーをはずして風通しをよくする。
ある朝、座卓に小さな虫の翅が降ってきた。虫の脚も胴体も、雪のようにサラサラと。見上げれば、丸形蛍光灯のグローランプのすきまがおかしい。なにものかが中に入り込んで虫の死骸を外に放り出している=写真上。それがいつまでも続く。座卓はたちまち虫の死骸でいっぱいになった=写真下。

四半世紀前にも似たようなことが起きた。蛍光灯の上の天井板を支える竹筒に穴が開いて、そこからクモの子の死骸が降ってきた。いろいろ調べてわかったのは――。

 竹筒に穴を開けたのはジガバチモドキらしかった。ジガバチモドキは野外で小型のクモを狩り、巣に運んで幼虫のえさにする。その巣穴を襲撃するハチがいる。ルリジガバチ。このハチが巣穴からクモの死骸をくわえては捨てている。ポトリ、またポトリ。しばらくたつと、茶の間の畳の上が体長2~3ミリのクモの子でいっぱいになった。

蛍光灯をすみかにしたのは、同じハチの仲間だろうか。ランプのすきまから大小さまざまな虫の死骸を放り出しながら、ときに自分の尻も見せる。グローランプをはずし、カラスの羽で中を払うと、ハチらしい虫が1匹あわてて飛び出した。

肉眼では、犠牲になった虫の種類はよくわからない。撮影データをパソコンに取り込み、拡大してやっと姿を確認できた。カ、ハエ、カゲロウ、キジラミ、ウンカ、ヨコバイ、ガムシ、ガガンボ、イナゴの子らしい虫と、その他いろいろ。座卓に落ちた虫の死骸は1~数ミリを中心に200匹以上はいたろうか。

 4年前の夏にも、変なことが起きた。カウチのカバーのへりに、きなこのような粉がこぼれていた。天井の竹筒の巣穴を見たが、穴のヘリにはきなこは付いてない。天井板のすきまから落ちてきたのか。そこに、きなこを落とす何かがいたのか。きなこが降ってきたのは、その日一日だけだった。庭と行き来が自由な「昭和の家」には、ときどき不思議なことが起きる。

2019年9月25日水曜日

終わり初物と種まき準備

キュウリは終わり、三春ネギの種をまく準備が始まった。電車は乗り遅れても次がある。が、野菜は種まきの時期を逃すとうまく育たない。さいわい、その時期が近づくと、体がタイムスケジュールを思い出す。
 まず、キュウリ。地元いわきの種屋さんからポット苗を二つ買って、夏井川渓谷の隠居の庭に植えたのが5月下旬。6月末には最初の3本を収穫した。初物なので、1本は生のまま味噌をつけて食べた。それから生(な)る数が徐々に増え、7月下旬から8月下旬にかけては、二つの株から一度に14本採れたこともある。それを週に2回、採りに通った。1株から80~90本は採れたのではないか。

 キュウリを生産し続けること2カ月半、さすがに株も力が尽きてきた。先の日曜日(9月22日)に見ると、人間の小指大のものが3本、生長を止めたままぶら下がっていた。これを採って、晩酌のときに味噌をつけて食べた。地元の人たちは最後の収穫物を「終わり初物」という。情けないほど小さい終わり初物だが、いっぱい生ってくれたことには感謝した。

 終わるものがあれば、始まるものがある。三春ネギは10月10日前後に種をまく。春にまくいわきの平地のネギと違って、秋まきだ。役目を終えたキュウリの株の隣を苗床に決め、草を引いて石灰をまいた=写真。今度の日曜日前後には肥料をまいて土をほぐす。

 今年(2019年)のネギ苗は今までにないほど順調に育った。4月28日、定植用に溝を切り、ネギの苗床をほぐして太い苗を植えた。ところが、梅雨の日照不足と長雨がたたって、とろける苗が続出した。

夏場は酷暑になり、一時的に持ち直したものの、また秋の長雨だ。8月最後の日曜日(25日)、別の場所に溝を浅く斜めに切って、ネギを伏せ込んだ。

隣の田村市や小野町では、これを「ヤトイ」と呼ぶ。ヤトイをしないと全部とろけてしまう、そんなところまで追いつめられた。地中の湿気をこれで減らすことができる。曲がりネギになる。しかし、今年はもう食べるどころではない。来年の採種用に残すだけで精いっぱいだ。

 種をまく。芽が出る。越冬した苗を初夏に定植する――その一点に集中するしかない。人間ではなく、ネギの都合に合わせて動くしかない。これを間違えなければ、あとはネギと天気のやりとりを見守るだけでいい。趣味の菜園だが、基本はプロもアマもない。

2019年9月24日火曜日

ソサエティ5.0とは?

 これからは、社会に開かれた教育、だという。3連休最初の土曜日(9月21日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の第350回市民講座が開かれた。文科省から福島大学に事務局長として出向している、いわき市出身の内田広之会員が「令和時代の教育を考える~明治から平成までの回顧と展望」と題して話した=写真。
 明治から平成までの教育の流れ、特に明治期の教育史の解説が新鮮だった。令和、つまりこれからの時代に必要な教育とは――も示唆に富んでいた。「社会に開かれた教育課程」の実現、言い換えれば「よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創(つく)るという目標を共有し、社会と連携・協働しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む」ことが大事になってくるという。

その前提となる新しい社会像「ソサエティ5.0」についても説明した。ソサエティ5.0については、聴講した2人の市議以外、誰も知らなかった。むろん私も初耳だ。内田さんの説明を聴き、ネットで調べて、一種の文明論であることを知った。そちらにかじを切る。

文明の流れを俯瞰したときによくいわれることだが、人類は①狩猟社会②農耕社会③産業社会――という段階を踏んで、現在、④の情報社会を生きている。日本が提唱している呼び方にならえば、①ソサエティ1.0②ソサエティ2.0③ソサエティ3.0④ソサエティ4.0、そして次の⑤ソサエティ5.0――である。⑤はつまりポスト情報社会、あるいは情報社会の進化(深化)形か。

ソサエティ5.0は、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題を両立させる人間中心の社会、と定義されるようだ(ウイキペディア)。

情報社会が進化(深化)してビッグデータが蓄積される、人工知能(AI)がさまざまな場面に活用される――。サイバー空間と結びついた暮らしの例としては、遠隔診療、ドローン宅配、無人トラクター、AI家電、自動走行バス、介護ロボなどが想定されている。暮らしだけでなく、教育のあり方も当然変わってくる。

私の脳みそは、未来学者アルビン・トフラーがいう「第三の波」の上で止まったままだ。狩猟時代から農業革命、産業革命を経て、情報革命の時代に入ったことを、1990年代の職場のOA(オフィス・オートメーション)化で実感した。しかし、その先が見えていなかった。トフラー流にいえば、ソサエティ5.0は「第四の波」。それを実感するのは孫たちか、といったレベルにとどまる。

明治維新以後の日本についてはこんな言い方もされてきた。日本は工業化と都市化を実現することによって近代化をなしとげた。そして、ポストモダンの展開として、「脱工業化」(トフラーのいう第三の波)と「脱都市化」が言われるようになった。

脱工業化は「情報化社会」となり、脱都市化としては「森林化社会」が提唱された。しかし、現実には少子高齢化社会が急速に進んでいる。温暖化などの環境問題も深刻になっている。

少子(孫たち)と高齢(私らジイバア)を、ソサエティ5.0の土俵でどう考えたらいいのだろう。いや、少子・高齢を見すえた結果として、ソサエティ5.0が構想されたというべきか。ソサエティ5.0は自然をどうとらえているのか。この点も気になる。

新しい宿題をもらったようなものだ。まずは、ソサエティ5.0を象徴する日本語を、狩猟・農業・工業・情報ときて次の社会を象徴する漢字2文字を探さないと――。

2019年9月23日月曜日

渓谷から四倉の港へ直行

昼めしを食べに渓谷から四倉の港へ直行するか――。そんな発想は3週間前まで全くなかった。二ツ箭山系の中腹、いわき市小川町と四倉町の境にある上岡トンネルが竣工16年目にして開通したことが大きい。この広域農道に林道を組み合わせると、時間が短縮されることもわかった。
きのう(9月22日)朝、カミサンの実家へ行って墓参りをしたあと、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。10時半から始めて2時間余。草引きを終えるころには、珍しく空腹を覚えた。

 昼食の用意はしていない。平の街へ戻ってラーメンを食べるか、途中、コンビニでサンドイッチを買うか――迷っていたら、二ツ箭山の広域農道が頭に浮かんだ。小川の町へ下り、国道399号を駆け上がって広域農道へ出れば、たちまち四倉・玉山に抜けられる。そこから「道の駅よつくら港」まではちょんの間だ。カミサンも道の駅での昼食に同意した。

 午後1時ごろに隠居を離れた。隠居のある牛小川から二つ隣の集落・江田に入ると、田んぼにわらボッチができていた=写真上1。午前中は人が出て稲刈りに精を出していたから、昼には作業が終わったのだろう。

 JR磐越東線の江田駅前にさしかかったころ、国道399号に通じる母成(ぼなり)林道があることを思い出す。同林道は江田と山かげの横川を結ぶ古道でもある。

 横川は二ツ箭山の西麓に位置する、標高250メートル前後の小集落だ。同山の中腹をかすめる広域農道は、標高が140メートルから200メートルほど。広域林道へは小川の平地から上るより、横川から下る方が近いのではないか。急きょ、母成林道(江田)~国道399号(横川)~広域林道~県道八茎四倉線(玉山)~同小野四倉線(四倉港付近が終点)ルートを試走することにした。
 母成林道は、ふだんは利用しない。渓谷で崖崩れが起きたとき(3・11がそうだった)、う回路に使われる。道の両側はあらかた杉の人工林だ=写真上2。道路には杉の葉や枝が落ちている。ノーマルタイヤではちょっときつい。それよりなにより、対向車があったら、どちらかが延々とバックしないといけない。

それでも、この林道を選んだのは正解だった。三角形でいえば、渓谷(牛小川)と平、平と四倉を結ぶ2辺の合計時間はざっと45分。ところが、牛小川と四倉を底辺で結んだ直行ルートは35分。10分ほど早く道の駅よつくら港に着いた。

渓谷の入り口、高崎地内に広域農道の終点部が完成すれば、そこが最短路になるだろう。が、現時点では母成林道を行き帰りの道に加えた方が早い。変化もあっておもしろい。広域農道が通れるようになったおかげで、横川~江田の林道へと発想を広げることができた。平地系だけでなく、山地系の道路地図が頭のなかでネットワーク化されれば、野鳥や野草、キノコ、いや風景そのものを写真に撮る楽しみが増える。

道の駅よつくら港は午後2時前だというのに、食事客でごった返していた。1000円の釜めしを頼むと、ご飯茶椀で3膳分入っていた。ふだんは1膳しか食べない。3時間後に晩酌を始めると胃がもたれて、カツオの刺し身が少し残った。今朝はその残りを海鮮丼にして食べる。

2019年9月22日日曜日

聖地「下片寄バス停」

 劇場アニメの「薄暮(はくぼ)」はいわき、なかでもわが家の北に延びる丘の陰の田園地帯(平・片寄地区)が舞台のひとつだ。架空の「下片寄バス停」が主人公の高校生の出会いの場所になった。「薄暮」ファンにとっては、一度は訪ねてみたい“聖地”だろう。
 その「下片寄バス停」がきのう(9月21日)、アニメと同じ場所に設置された=写真・上。ネットに写真がアップされていたので、午前10時すぎに行ってみた。もともと路線バスは走っていないところだ。とはいえ、周囲をロープで囲っていなかったら、事情を知らない人はホンモノのバス停と勘違いするかもしれない。ダミーとは思えないほど精巧だ。

アニメが公開された直後、いわき駅前のポレポレいわきで「薄暮」を見た。女の子が片寄の私立高校へ通っている。音楽部に所属している。バイオリンを弾く。女の子は、「下片寄バス停」で見る薄暮の景色に引かれている。原発事故で帰還困難区域からいわきへ避難してきた別の高校男子がいる、絵に描いて残したい風景を探して、下片寄へやって来た。2人の淡い恋物語を象徴するのが「下片寄バス停」だ。
アニメのチラシをアップする=写真・中。「下片寄バス停」の背後には実った稲穂の田んぼが広がる。ちょうど今の時期だ。稲の刈り取り前に合わせて設置されたのだろう。

実景にもとづくアニメとはいえ、アニメはアニメ、現実は現実。しかし、虚実皮膜のすきまを楽しむのも人間。架空のバス停ができたと聞けば、つい好奇心がわく。さっそくバイクの男性が「下片寄バス停」前にいた。邪魔するのもなんだから、少し周囲をドライブする。早くも稲刈りが行われていた=写真・下。
「下片寄バス停」が設置されたところは、水田地帯を東西に走る道路の南側。そばに小さな水路が伸びる。大小2本のソメイヨシノと「下片寄バス停」をはさんで、南の小集落へと通じる小さな橋が架かる。夕方になると、西方の石森山(224メートル)の上空が赤く染まる。どこにでもある、穏やかで美しい農村景観が広がっている。

前に、アニメに触発されて宮城や山形ナンバーの車が、「下片寄バス停」を求めてやって来た、という話を地元の区長さんから聞いた。聖地巡礼にふさわしく、時折、ファンが来訪しては、静かに、つつましく、写真を撮って周囲の景色を楽しむ――そんな情景が続くといい

2019年9月21日土曜日

「赤い羽根」はステッカーに

 半分はきのう(9月20日)の続き。「赤い羽根」と、今の時期に咲く赤い花のことを――。
 10月に入ると、「赤い羽根」と「歳末たすけあい」の共同募金が始まる。隣組でも協力を、ということで、きのう、回覧網を通じて協力を呼びかける資料を配った。いつもだと、針の付いた羽根が届くのだが、「今年度は赤い羽根に使用する原材料(羽根)の確保が困難な状況」だとかで、ステッカー(シール)になった=写真上1。

 わが行政区は、隣組がおよそ30、世帯数が315。月に3回、回覧資料を一人で振り分けていると、なぜか孤独な気持ちになる。それで、カミサンに手伝ってもらう。カミサンが各戸配布の資料を数え、私がそれを隣組ごとに用意した紙袋に入れる。紙袋はわが家に届く大型封筒を再利用する。

 社協から届いた共同募金の荷物をばらし、各戸配布の資料と赤い羽根を隣組ごとにそろえる。羽根は何十本かセットになってシートに張られている。それを、カミサンが隣組の世帯分だけ数えて切り離す。そのとき、まちがって指をチクッとやらないともかぎらない。ステッカーはその心配がないだけ楽だ。今回だけなのか、これからそうなのか。ステッカーの方が、作業は早くすむ。

あとで気づいたのだが、きのうは秋の彼岸の入りだった。9月も、もう下旬。3連休最後の23日は秋分の日だ。そのころ、赤いヒガンバナの花が田園を、川の土手を、寺の境内を彩る。

天候が不順なときには、ヒガンバナは8月下旬に咲き出す。今年(2019年)はしかし、夏井川の堤防は緑のままだ。ツルボ(スルボ)は咲いているのに、赤い花の点々がない。
きのう、街からの帰りに堤防を通った。ゆっくりゆっくり進むと、草刈りが行われた土手にヒガンバナの花茎が伸びて、つぼみから赤い色がのぞいていた=写真上2。ほかの場所では1輪、あるいは2輪、やっと咲き出したばかりのようだった。

前日も同じように注意しながら堤防を通った。が、赤い花には気づかなかった。ちょうど彼岸の入りに咲き出したことになる。

サケ漁も間もなく始まる。鮭増殖組合が夏井川を横断するヤナの設営を始めた。右岸に設けられた生け簀でサケが水しぶきを上げる日も近い。キンモクセイの花も咲き出す。ハクチョウも、早ければ10月中旬には北国から渡って来る。夏井川の堤防がヒガンバナの花で赤く染まると、秋の色は一気に濃くなる。

2019年9月20日金曜日

「廃炉を知る」広報紙

 行政嘱託員をしているので、月に3回、市などから回覧資料が届く。1、10、20日に区役員を通じて隣組に配る。9月3回目のきょう(20日)は、これから地元の公民館まつりのチラシや赤い羽根共同募金の協力お願い、県の「廃炉を知る」広報紙=写真=など5種類の資料を区の役員さん宅に届ける。
 資料が来たから届ける――それだけなら簡単だが、市社協からの赤い羽根の場合だと、募金を入れる紙袋に隣組を表す数字を書き込む、隣組単位の領収書に区と区長のハンを押す、といった追加の作業が要る。募金の期限や届け先(区の役員)を記したチラシもつくる。資料も回覧だけなら隣組に1枚だが、全戸配布となると、それぞれ隣組の世帯分を数えないといけない。

きのう、朝食後にそれをやり、もう来ないだろうと一息ついていたところへ市から宅配便が届いた。回覧が2種類、各戸配布が1種類。急いで各戸配布の「廃炉を知る」広報紙を数えて、回覧資料とともに、隣組に届ける大きな紙袋に入れた。廃炉広報紙は初めて見た。

2度目の作業を終えると、昼になっていた。午後1時からは東電の旧経営陣3人に対する判決がある。NHKは1時のニュース枠を拡大するはず――昼食をとって、テレビの前に陣取ると、すぐ「3人無罪」の報が入った。訴訟支援団の落胆・無念・失望・怒りがテレビからあふれ出てくるようだった。4万人余に及ぶ原発避難者はむろん納得がいかないだろう。

その元凶は今、どうなっているのか。30分のニュースが終わってから、廃炉広報紙を読む。同広報紙は、県の原子力対策課が発行している。バックナンバーをチェックすると、年4回の季刊紙だ。二つ折りの広報紙に差しはさまれていたチラシには、①平成29(2017)年度から、主に原子力災害に伴う避難者を対象に発行・配布している②今回、より広く廃炉の現状を知ってもらうため、いわき市民にも配布することにした――とあった。

汚染水を処理する仕組み、処理水の貯蔵量、県が監視している項目などが紹介されている。アルプス(多核種除去設備)の処理水をタンクに保管する前に、汚染水はセシウム吸着装置をくぐり、淡水化装置を通る。処理水の貯蔵量は2019年6月末現在で101万トン、東京ドームの容積の約8割に達するという。

近所に住む避難者、廃炉作業に向かう早朝の車列、毎日テレビで報じられる各地の放射線量、野生キノコの摂取制限……。3人無罪のニュースに接した頭で廃炉広報紙を読んだせいか、こんな災禍を引き起こしたのはどこのだれなんだ、という思いが募る。

2019年9月19日木曜日

アレチウリに覆われた木

この時期、全国至るところで見られる現象かもしれない。夏井川の堤防を行くと、ところどころ、アレチウリが土手を覆い、木を覆っている=写真(右岸の平・山崎地内)。容赦のなさに息をのむ。
 アレチウリは北米原産の1年生のつる性植物。日本では昭和27(1952)年、静岡で発見されたのが最初という。平成18(2006)年、特定外来生物に指定された。特に河川敷で分布を広げている。

夏井川のアレチウリに気づいたのは平成20(2008)年秋だった。アレチウリはおびただしい数の種をつける。こぼれた種を鳥が食べて、よそでフンをする。大水が上流から下流へと種を流す。それで一気に分布域が広がる。

 日本にもクズやヤブガラシといったつる性植物はある。アレチウリはそれさえも覆ってしまう。覆われた植物は日光を遮断され、やがて枯れる。アレチウリが侵略的な植物、といわれるゆえんだ。

 この10年余、秋になって遠出したときにアレチウリの有無をチェックしている。夏井川流域では渓谷、川前、小野町……。至るところに繁茂している。上流も下流もない。草刈りが行われる土手はさすがに目立たない。放置された土手では、在来の植物があっという間に“グリーンシート”で覆われる。

 アレチウリ駆除対策はどうなっているのか。いわき市は市民を対象にした「生き物調査」のなかで、アレチウリの分布を調べてはいる。夏井川などを管理する福島県いわき建設事務所はどうか。ボランティアを動員してアレチウリの除去作戦を展開した、といった話は聞かない。

 アレチウリ駆除は、ほかの植物を保護する意味からも抜き取りが効果的という。しかし、定期的に草刈りが行われているところでは、一緒に刈ればいい。草刈りは、農・山村の景観を守るための基本作業だ。侵略的な植物を防ぐ効果もある。これを続けていれば、ひとまず拡大は抑えられる。

個人としては、せめて自分の家の周りだけは生やさない、生えたら引っこ抜く、と決めている。でないと、家まで覆いつくされる。日よけになっていい、なんて悠長にかまえていられるほどつつましい植物ではないのだ。

2019年9月18日水曜日

ふとんを干す

 去年(2018年)の手帳を見ると、9月16~17日、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開いている。“学生飲み”をして足を取られ、座卓の角に胸をぶつけてろっ骨を1本折った。全治50日。骨がつながるまでアルコールを自粛し、病院で処方された胸バンドの世話になった。
 今年も9月最終の土~日曜日、隠居でミニ同級会を開く。去年より2人多い8人が参加する。ろっ骨骨折1周年、去年の二の舞は避けないと……。

 ふとんは押入に入ったままだ。月遅れ盆に息子が大学時代の仲間と泊まった。ミニ同級会を加えると、ふとんを使うのは多くて年に3~4回。「ネズミがふとんのカバーをかじっていた」と息子がいう。押入の天井か床にノネズミの出入りできるすきまがあるらしい。

 渓谷は空中湿度が高い。ふだんは戸を閉めているので、長梅雨には廊下などにカビが生える。押入のふとんも湿ってかび臭くなる。で、10日前の日曜日(9月8日)に殺菌を兼ねてふとんを干した=写真。カバーは持ち帰り、洗濯した。

 ミニ同級会(隠居の名にちなんで「無量庵のつどい」)は、10年前(2009年)のゴールデンウイークに始まった。前年秋、夏井川渓谷の旅館で同級会を開いた際、「今度は海の魚を食べたい」という人間がいた。初ガツオがいわきの港に揚がる時期に食べる会を開いた。

酔っていい気分になったところで、スウェーデンにいる同級生に国際電話をし、秋に彼の病気見舞いと還暦を記念して北欧を旅行した。同級生はそれから8年後の一昨年(2017年)に亡くなった。

 以後、原発震災をはさんで、同級生による「海外修学旅行」が続く。もっとも、私は一昨年から不参加が続いている。

 先日、わが家の資料を整理していたら、9年前(2010年)の「紅葉を愛でる会」のレシピが出てきた。ホウレンソウ鍋がメーンだった。それに、原発震災前だったのでコウタケご飯を炊き、三春ネギとジャガイモの味噌汁をつくった。白菜漬けも出した。生死の境をさまよった同級生の「入院診療計画書」も出てきた。

 還暦から古希へ――。江戸期の俳人(尾張藩士)横井也有(1702~83年)の狂歌「手はふるう足はよろつく歯は抜ける耳は聞こえず目はうとくなる」のどれかを自覚するようになった。白内障の手術をした同級生がいる。今回はその報告がある。

2019年9月17日火曜日

今ごろネムの花が

 日曜日(9月15日)の昼前、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。渓谷の入り口、JR磐越東線磐城街道高崎踏切を過ぎるとすぐ、カミサンが声を発した。「ネムの花が咲いてる!」。帰りに車を止めて花を撮影した=写真下。
平の市街地と夏井川溪谷を結ぶ県道小野四倉線(途中、国道399号と重複)沿いに何本かネムノキがある。毎年、暦が7月に替わるころ、花が咲き始める。

狂い咲きだろうか。ネットで9月のネムの花をチェックする。夏に咲いていったん中断し、9月になって開花を再開するネムノキもある、とあった。渓谷入り口の、このネムもそうか。それがネムの習性だとしたら、ほかにもネムが咲いていていいはずだが、花はそこだけだ。

ネムは梅雨の花だ。今年(2019年)は、梅雨が長引いた。日照時間も短かった。夏は、逆に猛烈な暑さになった。月遅れ盆が過ぎると、梅雨のような天気が戻ってきた。「秋の梅雨」にネムが勘違いして花を咲かせたかと思ったが……。ネットにあった二度咲きのネムは、すでにさやを垂らしていた。渓谷のネムには、さやはない。やはり、ただの遅咲き?
 野生の生物は難しい。梅雨に幼菌(マメダンゴ)を食べるキノコのツチグリもそうだ。もう9月中旬だというのに、隠居の庭にマメダンゴが現れた=写真上。梅雨のような天気に勘違いした?

いやいや、よく考えれば、梅雨に地中で形成された幼菌が地表に現れ、これから胞子を放出する準備に入ったところらしい。これについては2年前の観察記録があるので、わかった。それを抄録する。
                 ☆
【6月】25日=地面から茶色い頭の一部(マッチ棒の軸先大~人間の小指大)がのぞいていた。右手人さし指でグイッとやると、転がり出た。周囲の地中にも同じ球体の感触がある。そちらもまさぐると、マメダンゴが現れた。二つに割ると、全部白い。炊き込みご飯にして食べた。
               
【7月】2日=スポット的にマメダンゴが頭を出す。その数ざっと50個。次の週は、変化なし。16日=白っぽい表面の色が茶黒くなる。23日=裂開を始めた個体がひとつ。

【8月】13日=全体を地上に現した個体がある。パチンコ玉大だ。24日=試しに大きいものを踏むと、「プシュッ」とかすかな音がして裂けた。

【9月】3日=表面にひびの入った個体がいくつか現れる。ひびは十字状、あるいはベンツのエンブレム似とさまざまだ。コロンと地上に現れた個体を二つに割ると、中がチョコレート色だった。胞子の放出まで時間の問題だ。10日=裂開が近そうな個体が増える。24日=キノコ図鑑に出てくる、ヒトデにホオズキの実をくっつけたような残骸=星型のツチグリになっていた。ツチグリの最終形だ。
                 ☆
日曜日のツチグリは、大きいのでは径2センチ。最終形に近い形だった。これから外皮が割れてヒトデ、いやホオズキの葉のようになり、内側の球形のてっぺんから、雨粒を受けてへこんだ反動を利用して胞子を放出する。ネムノキの花も、ツチグリも観察が足りないだけだった。

2019年9月16日月曜日

日本晴れの秋祭り

 朝6時、花火が頭上で炸裂する。近所の出羽神社で例大祭が挙行される合図だ。空には雲がひとつもない。日本晴れの下、午前9時からの例大祭式典に参加した。
神社は丘の上にある。おととしまでは、ふもとに車を止め、正面の急な石段を上ったが、年々きつくなる一方だ。車で頂上の社務所脇まで行ける女坂がある。それを教えられて、去年からは車で迂回しながら上まで行くようにした。

早めに着いて境内をぶらついていると、隣区の新区長が石段を上って来た。息を切らしている。車で来られる坂があることを教える。「来年はそうしよう」

式典直前、新区長が空を見上げて言った。「飛行船かな、音がしない」。見ると、ジェット旅客機だ。ボデーは白く、尾翼が赤い。飛行機雲が発生しないのは、上空の空気が乾いているからだろう。夏の日差しのような秋の空だ。天気は申し分ない。すでに子供みこしは地区内を練り歩いている。

大人のみこしは拝殿に安置され、式典の最後に神様を移し入れる儀式をすませたあと、ふもとの集落を練り歩く。担ぎ手が足りないらしく、途中で東日本国際大学の学生が加わる、ということだった。

これも少子高齢化の「少子」が影響している。1971~74年に団塊ジュニアが生まれたあとは、出生率は下がり続けたままだ。つまり、48~45歳から下は年齢が下がるにつれて数が減っている。みこしを担ぐのは20、30代の若手だが、重いみこしを担いで練り歩けるだけの人数が確保しづらくなってきた。で、学生に応援を頼もう――となったのだろう。

これまで10月10日前後に行われていたのが、去年(2018年)、今年と9月の敬老の日の前日、日曜日に前倒しされた。ほかの行事との兼ね合いもあるらしい。

昔から続く伝統行事とはいえ、毎年同じかたちを維持するのは難しい。時代に合わせて変えられるものは変える、変えてはならないものは変えない――式典後の直会(なおらい)でも、俳聖・芭蕉の「不易流行」にたとえたあいさつがあった。

 出羽神社のみこしは堤防安全を願って夏井川にも渡御する。ある年の例大祭で、みこしをかついでいた若者たちが夏井川に入り、みそぎをするのを見たことがある。午後遅く、たまたま堤防の上を車で通りかかったら、集落からみこしが現れ、河川敷へと下りて行ったのだった。川と人間の、カミを介した原初的なふれあいが、今も強い印象となって残っている。

 きのうは直会後、帰宅し、車ですぐ夏井川渓谷の隠居へ向かった。再び出羽神社の参道前を通ると、ふもとの小集落を祭りの一行が練り歩いていた=写真。みこしは軽トラに乗っていた。

2019年9月15日日曜日

空調不具合で企画展が中止に

 金曜日(9月13日)の夕方、茨城県天心記念五浦(いずら)美術館から封書が届いた。「空調設備の不具合で、9月6日以降の企画展を中止することにした」とあった。同美術館のポスターをわが家(米屋)の店頭に張り出していた。こちらから連絡したわけではないが、いつのまにかポスターが届かなくなった。しかし、連絡先としてはまだ生きていたらしい。
 台風15号の影響? ネットで検索したら、茨城新聞の記事に出合った。不具合は7月上旬に発生した。冷温水発生器4台のうち2台が相次いで故障し、企画展示室の湿度制御ができず、作品展示が困難になっている、という。台風ではなく、メンテナンスの問題だった。

 空調設備がおかしくなったあと、企画展「入江明日香――心より心に伝ふる花なれば」が開かれた(7月20日~9月1日)。

入江明日香(1980年~)は「若手アーティストの中でもトップランナーのひとりとして、人気急上昇中」だという。開幕初日と翌日、作家本人によるギャラリートークが行われるというので、2日目に出かけた。作品と作家本人の話に触れて、ジャンルを超えた絵のおもしろさを知った。

なかでも「江戸淡墨大桜」=写真(絵はがき)=には引かれた。国指定天然記念物「根尾谷淡墨桜」をモデルにした横長の超大作(六曲一双屏風)で、「桜といえばお花見ということで、樹の下には、七福神をはじめ様々な人々の楽し気な宴会の様子を描いた」。宝船に乗っている七福神は、しかし4人。残る3人は絵の中のどこかに描かれている。2人はわかったが……。

 空調設備の不具合は台風のせいかも――と短絡的に思ったのは、千葉の停電被害の情報も影響していた。天心美術館からの封書が届く直前、フェイスブックで、停電復旧が遅れている理由のひとつとして倒木の多さがあげられていた。それも、「溝腐れ病」にかかっている杉が多いのだという。

 千葉県では、地元の銘木「山武杉」の挿し木苗で造林してきた。この杉は溝腐れ病に非常に弱い。樹齢が伸びるごとに断面が円形からハート形に食い込み、材としてはまったく価値のない森林が増えた。そうなると、間伐も伐採も行われずに放棄される。さらに、投機目的で売買され、所有者もわからないような状態になった。

台風が「そうした非常に脆い森林を襲い、各地でおびただしい数の倒木を生じ、架線修復を長引かせ、停電を長期化させてい」る。「僕らは明日も、チェーンソーを持って、とにかく倒木処理にあけくれ」る、とあった。根本的には森林・環境行政の怠慢が今日の事態を招いた、ということらしいが、ニュースでは報じられない視点ではある。

2019年9月14日土曜日

夜の珍客

きのう(9月13日)は旧8月15日、中秋の名月だった。日中は曇天。夕方から急速に雲が薄れて、6時半前には隣家と隣家の間からまん丸い月(満月はきょう)が昇ってきた。
半そで・半ズボンで庭にいると、少しひんやりした。日の出が遅くなり、日の入りが早くなっている。あと1週間ちょっとで秋分の日だ。日によっては1枚重ねるか、長ズボンにするか、迷うことがある。いつのまにか秋めいてきた。

とはいえ、ほんのちょっと前までは暑くて夜も戸を開けていた。玄関の上がり框(かまち)か縁側に蚊取り線香を置く。晩酌を終えて、パソコンをいじる。と、庭から虫が現れる。昔なら「飛んで火に入る夏の虫」たちだ。

いながらにして昆虫観察ができる。毎晩現れるのはゴキブリやコガネムシたち。夜の蝶、いや蛾もやって来る。

火曜日(9月10日)の夜には、パソコンの画面の上に小豆より大きいくらいの小昆虫が来て止まった=写真上。肉眼では形も色もよくわからない。パソコンに撮影データを取り込み、拡大すると、奇妙な顔と体をしている。目は下部にある。耳が立っている。背中にはセミのような翅。目の付け根から野球帽のつばのように出ているのはなに?

ツノゼミ? そのへんからネットで検索を始めた。が、よくわからない。座業の合間に図書館から児童書を借り、検索を続けること4日目、外観がよく似たヨコバイ科のミミズク(耳蝉)という虫にたどり着いた。鳥のミミズクのほかに、虫のミミズクがいることを初めて知った。今のところは虫のミミズクということで調べを進めている。

翌水曜日には、翅を広げると4センチくらいの小さな蛾がやって来た=写真下。中央部が白くて周りが黒い。白い部分は絹のような光沢がある。上品な美しさだ。これも2日ほど検索を続けて、ツゲノメイガらしいということがわかった。
たった1軒の家と庭だが、知らないことが多すぎる。しかし、知らないことを知る、見たこともない形・色彩に触れる――これもまた自然の奥深さを実感するいい機会、そしてセンス・オブ・ワンダーにはちがいない。

2019年9月13日金曜日

円環するドラマだったか

円環するドラマだったか――。朝ドラの「なつぞら」がクライマックスを迎えつつある今、やっと気づいたことがある。
  冒頭、テーマソングに合わせてアニメの映像が流れる。赤いワンピースを着たおさげの女の子、あれは主人公のなつではなくて(もちろん、なつもモデルの一人にはちがいないが)、これからなつたちが手がけるテレビアニメ「大草原の少女ソラ」の主人公だった。アニメの舞台は大正~昭和の十勝、そこで開墾生活を続ける一家の物語になるという。最初から最後の姿が明示されていたわけだ。

なつたちが「大草原の少女ソラ」のロケハンをする。なつが過ごした柴田牧場などで取材を重ねる=写真上1。その過程で、冒頭にアニメが添えられたワケが遅まきながらわかった。

ドラマが始まったばかりの4月前半、アニメに描かれているキノコと、みんなが協力して新しい開拓農家を支えるシーンに触発されて、ブログを2本書いた。次のような内容だった。

アニメはこんな感じ――。シラカバ林の中に女の子が座っている。鳥が現れる。女の子が立ち上がって鳥をつかまえようとする。そこへエゾシカとヒグマの子が現れ、キタキツネとエゾリスも加わる。ひとりと4ひきがシラカバの林を出ると、北海道の大地が広がっている。林の中を川が流れている。丸太橋を渡る。斜面に移動して大地を眺めながら、タンポポの綿毛を飛ばす。綿毛が白い鳥に変わる。

4月の第1週――。放送開始から4日間は漫然とアニメを見ていた。シラカバ林? もしかしてベニテングタケが生えているかも……。注意して見たら、あった。木の根元に2本。(こういう仕掛けを“発見”すると、うれしくなる)

もう一つは第2週――。東京で戦災に遭い、開拓農民として北海道へ移住した一家が、なつの家の近くにいる(なつ自身も戦災孤児だ)。割り当てられた土地はやせていて、作物がよく育たない。親は離農を考えている。なつの同級生の男の子が泣き崩れる。「オレの力じゃどうすることもできない」

周囲の開拓農民が協力してその土地を開墾する。と、一気に9年が過ぎて、なつと男の子は青春まっただ中の若者に成長し、荒れ地も緑豊かな畑になっていた。大正末期から昭和初期にかけて、いわきから十勝地方に隣接する道東へ移住した詩人猪狩満直がいる。その一家の苦闘を思い出した。

ドラマの戦災移住と同じように、満直が移住したころには関東大震災による被災者移住があった――とまあ、こんなことをドラマが始まってすぐ書いたのだが、「大草原の少女ソラ」の物語はぴったりこの時代と重なる。

前掲の文のあとに、満直と当時の移民制度についても書いた。それも再掲する(すでに長文なのに、なお長々と続く。お許しを)。

満直は大正14(1925)年春、養父との確執から脱するため、「補助移民」となって、阿寒郡舌辛村二五線(阿寒町丹頂台)の高位泥炭地に入植した(北海道文学館編『北海道文学大事典』)。しかし、開墾生活は過酷を極め、草刈正雄扮するドラマの泰樹と同じように、妻を亡くす。再婚してなお挑むのだが、結果的に開拓に失敗して帰郷する。

満直を北海道へ引き寄せた補助移民とは? 元札幌大学長・桑原真人氏の「北海道の許可移民制度について」が理解を深めてくれる。

――北海道の近代化は内地からの移民に依存せざるを得なかった。屯田兵がその典型だが、開拓使時代から道庁時代に入ると、自主的な北海道移民が増加し、移民保護政策が財政的に負担となり、屯田兵を除いてそのほとんどは廃止されてしまう。

しかし、関東大震災後は、罹災者を北海道へ移住させる政策的配慮もあって、再び北海道移民への保護政策が復活する。それが、内務省によって推進された『補助移民』制度だ。この政策はある程度の成功を収めたので、昭和2年から開始される『北海道第2期拓殖計画』(第2拓計)の中にも継承され、『許可移民』制度として実施されることになった。――

こういう制度的背景(資金的な援助も含めて)を押さえながら、吉野せいの短編集『洟をたらした神』に収められた「かなしいやつ」(満直のこと)を重ねて、朝ドラの開墾風景に感情移入をしてしまった。

「かなしいやつ」に、満直がせいの夫・吉野義也(三野混沌)あてに書いた手紙が紹介されている。「俺もデンマルクの農業でも研究して理想的な農業経営をやりたいと思っている」

「デンマルクの農業」とはデンマーク式の有畜農業のことだ。同時代、デンマークから選抜されて北海道へ入植した一家は、北欧風の白い木造家屋を建て、畜舎をつくり、農耕馬2頭、乳牛6頭、豚20頭、鶏50羽を飼い、プラオ、カルチベータ、ハロー、ヘーレーキ、播種機、種子選別機などの機械を使って15町歩の有畜農業を経営した(北海道・マサチューセッツ協会ニューズレター日本語版=平成20年7月26日発行)。
(アニメドラマのロケハンで、なつたちは「三畦(さんけい)カルチベータ」という、大正時代に十勝で開発された農具も見ている=写真上2)

内村鑑三の『デンマルクの国の話』にこうある。「デンマルクの富は主としてその土地にあるのであります。その牧場とその家畜と、その樅と白樺との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります」

朝ドラでも牛乳をつかったアイスクリームやバターが登場する。北海道の移民史やデンマーク式の農業その他、あれやこれやを思い浮かべながら見る楽しさが、この朝ドラにはある。

――と書いてきて、なつたちが手がける「大草原の少女ソラ」では、バターをつくる道具(バターチャーンというらしい)、あれがソラの宝物になるのではないかと思い至った。そこに、満直が夢みた世界が重なる。「開拓者精神」への賛歌が響き渡る。