2025年7月19日土曜日

曇天でよかった

                                
 福島県に2回目の熱中症警戒アラートが発表された日(7月18日)、東北南部の梅雨が明けた。

 6月14日に梅雨入りが発表されたものの、しとしとジメジメは長くは続かなかった。いや、猛暑続きだったといってもいい。典型的な「カラ梅雨」だ。

 例年、7月には行政区内の事業所を回って、地区市民体育祭の協賛金をお願いする。

まずは趣意書を届けながらあいさつをする。1週間後、今度は芳名簿を持って集金にお邪魔する(2回訪ねるのは、決裁までに1週間ほどかかる事業所があるからだ)。

 あいさつは9日、集金は16日。つまり、水曜日。週半ばの事業所回りは、前からの慣例でもある。

 私と一緒に回るのは行政区の会計さん。ここ数年、同じコンビでやっているので、待ち合わせ場所と時間は例年通りと決め、資料その他をそろえて当日を待つ。

 去年(2024年)までだと、酷暑で日程を変えるようなことは考えもしなかったが……。今年はどうも暑さの質が違う。そんな不安にとらわれた。

 とにかく「カラ梅雨」で危険な暑さが続いている。9日には福島県に今年初めて、熱中症警戒アラートが発表された。

 それを前日の8日に知って、会計さんに「1日順延」を伝えた。大正解だった。9日は危険な暑さ、翌10日は曇天だった(そのことは7月11日のブログに書いた)。

 それから1週間後。天気を気にしながら、水曜日16日を迎えた。雨も覚悟していたが、幸い今度も曇天だった。暑さにやられることもなく、スムーズに集金を終えることができた。

 この10日から16日までの間、曇天のあとに天気は回復して危険な暑さが戻っていた。

13日の日曜日には、ヤマ(夏井川渓谷の隠居)へ行き、ハマ(薄磯・豊間)で昼食をとり、防波堤から海をながめた。海開きを待ちきれずに、人が海水浴を楽しんでいた=写真。

 実質的には、東北南部はもうずいぶん前に梅雨が明けて、酷暑の夏に入っていたようなものだ。

 たまたま事業所回りの日に限って曇天になった。その偶然を喜びながら、梅雨が明けた18日、会計さんと協賛金・芳名簿・領収書の控えなどをまとめたあと、地区体育協会の事務局である公民館にそれらを届けた。

前にも書いたが、ルーティンだからといって、事前の日程を優先させたら、救急車を呼ぶ騒ぎになったかもしれない。

体育祭は8月最後の日曜日に開催される。市長選があるために9月最初の日曜日から前倒しになった。

時期的にこれでいいのか。温暖化、そして少子高齢化。50年近く前に体育祭が始まったときと、時代は、社会環境は激変している。曲がり角にきていることはまちがいない。

2025年7月18日金曜日

オキナグサ

                                 
 草野心平記念文学館では、長期開催の企画展とは別に、施設内の通路壁面を利用した無料の「小さな企画展」を開いている。7月11日に「コウノトリと帰らない白鳥展」が始まったことを、15日のブログに書いた。

小川町三島地内の夏井川に残留しているコハクチョウと、そこに飛来したコウノトリの写真を展示し、併せて心平の詩を配して、両者が響き合うような効果を出している。

そしてこれは、コウノトリの写真展に先行して開かれた「心平の愛した花々 春の花編」のなかの、オキナグサの話だ(現在はコウノトリ展と同時に、「心平の愛した花々   夏の花編」を開催中)。

 長期開催の企画展「吉村昭と磐城平城」が開幕した翌日曜日(7月6日)、新しい催しとして始まった小さな企画展も見た。そこにオキナグサの詩と写真があった=写真。

 それを見た瞬間、宮沢賢治の童話「おきなぐさ」と、かつては山頂にオキナグサの群落がみられたという矢大臣山が頭に浮かんだ。

 35年前にそのことを書いた文章がある。かつて勤めていたいわき民報で月に1回、「イワキランドの霧」(全9回)と題して、いわきから姿を消したオオカミ、カワウソ、シカなどの生物を取り上げた。

 オキナグサはその3回目で、矢大臣山について聞いた話をベースにしている。それを要約して紹介する。

「うずのしゅげを知ってゐますか。」。賢治の「おきなぐさ」はこの1行から始まる。「うずのしゅげ」はオキナグサのことである。

その作品の概略とオキナグサの生態や形態に触れたあと、矢大臣山から消えたオキナグサについて、次のようにつづっている。

 ――私は野生のオキナグサを見たことがない。かつてそこに生えていたという矢大臣山にのぼった折、明るく開けた頂上の草原に見たのは、ほかの山野草の盗掘跡だった。1980年ごろまでは確かにそこにオキナグサの群落が見られたのだという。

 空に飛び立った銀毛(種)が生き抜く確率は、ほとんどゼロに近いそうだ。死ににゆくようなものだ、とある植物学者はいっている。

そういういのちの哀れさを知ってか知らずか、阿武隈中部の県立自然公園からは、盗掘によってオキナグサが絶滅した――。

 さて、心平の詩では、「上小川村」の「根本」に出てくる。「左うぐひす。/右うぐひす。」のあとに、すぐ「おきなぐさやきんぽうげ咲く。/細い橇道。」と続く。そこは地元の人間しか知らない二ツ箭山への小道だろう。

この詩が書かれたのは戦後すぐ。そんな時代、人間の生活が匂うような裏山にもオキナグサが咲いていたのだ。

今も変わらないのは「左うぐひす。/右うぐひす。」。それを口ずさみながら、心平のオキナグサを幻視する。幻の花になって久しい現代、できることはそれしかない。

2025年7月17日木曜日

「ばくだん」の記憶

                                          
   平窪(平)のやさい館へ行くと、決まってまとめ買いをするお菓子がある=写真。商品名は「ぽりこん」。原材料はアメリカのとうもろこしだ。

 小学生のころ、阿武隈の山里にやって来ては、道端に長ひょろい機械を据えて「ばくだん」をつくる人がいた。

 道路(現国道288号)は時折車が通るだけで、まだ子どもの遊び場だった。「鬼ごっこ」をやり、「馬乗り」をやり、「だるまさん転んだ」をやった。そんな時代だから、「ばくだん」も道路でつくることができたのだろう。

「ばくだん」製造業者は町内の人だったのか、よそから来た行商人だったのか。今はもうはっきりしない。

「ポン」と大きな音を出すと、とうもろこしがはじけて、親指くらいの大きさの白い食べ物ができた。それが「ばくだん」。

白くて粒の小さい「ばくだん」もあった。原料は米。「ばくだん」製造業者が原材料、つまりとうもろこしや米まで持って来た記憶はないから、それぞれの家で材料を用意したのだろう。

テレビが普及し、アメリカの食文化に触れるようになって初めて、「ばくだん」が「ポップコーン」であることを知った。

その懐かしさから「ぽりこん」を食べるようになったわけではない。カミサンが仲間とのお茶菓子用に買ったのを、ためしに晩酌のつまみにしたら、うまかった。

理由は簡単だ。口どけがいい。歯が弱くなった年寄りも、難なく食べられる。とにかく食べやすい。これが第一。それに、ほのかな甘みと塩味があって、飽きがこない。

ただし、これだけだと単調なので、コンビニから焼酎とともに買って来た「ペッパーベーコン」を混ぜてみた。すると、味と歯ごたえに変化が生まれた。

この食べ物は、ブラックペッパーを効かせてカリカリに揚げたベーコンのようなもので、1センチ大にカットされている。

味と歯ごたえの変化が気に入って、今は「ぽりこん」に「ペッパーベーコン」をミックスしたものを酒のつまみにしている。

「ばくだん」を食べていたのは、まだ永久歯が生えそろわないころだった。硬いものは、子どもにはちょっと無理だった。

永久歯が抜けたり、弱くなったりしてきた今は、理由は逆だが、小さい子と食べ物は共通するのかもしれない。

「カリッ、フワ」。「ペッパーベーコン」をかみ砕くときには、口を緩やかに動かすことを意識している。でないと、はずみで歯が欠けそうな気がするのだ。それだけを注意して、もぐもぐやる。

刺し身が肴(さかな)の日曜日以外は、この「ミックス菓子」を焼酎のつまみとして常備している。

「ばくだん」といった方が団塊の世代には通じるのだろうが……。物騒な呼び名なので。今はささやくようにしか使えない。

2025年7月16日水曜日

「地域」の前に「流域」がある

                               
   いわき地域学會が発足したのは1984(昭和59)年秋。私も誘われて入会した。

その3年後、会員を執筆メンバーに、当時私が勤めていたいわき民報でいわき市内を流れる夏井川、鮫川、藤原川の「流域紀行」を連載した。

続いて、水源の「あぶくま紀行」、河口=沿岸部の「浜紀行」も手がけた。これらはいずれも単行本になった。

いわきは広い。広いいわきをてのひらにのせて語れるような方法はないものか――。ゴルフ場とごみ処分場の建設計画が持ち上がり、水環境問題が起きたとき、いわきを「行政区域」ではなく「流域」で見ることを提案した。

いわきは、大きくは夏井川(北部)・藤原川(中部)・鮫川(南部)の三つの流域からなる(便宜上、大久川や仁井田川ほかの河川は3流域の一部として扱った)。そこに人口が密集した平・小名浜・勿来の3極がある。

それぞれの流域にはハマ・マチ・ヤマがある。3極3層の地域構造。それを、わかりやすく、総合的にエッセーとして紹介しよう、いわきを深く考えるテキストをつくろう、という狙いで「いわき5部作」ができた。

その後、東日本大震災に伴う1Fの原発事故でも、風だけでなく水(川)の視点が必要になった。平成の時代が終わり、令和に入ると、今度は水害問題が起きた。

2019(令和元)年10月、台風19号がいわき市を直撃し、支流の好間川・新川を含む夏井川水系に大きな被害が出た。

2023(令和5)年9月には線状降水帯が大雨をもたらし、主に新川流域の内郷地区で床上・床下浸水が相次いだ。

令和元年東日本台風の甚大な被害などを踏まえ、国交省は「流域治水」の考えを打ち出した。

堤防整備、ダム建設・再生などの対策をより一層加速するとともに、集水域から氾濫域にわたる流域のあらゆる関係者で水災害対策を推進する、というものだ。

行政区の役員に就くと、充(あ)て職で夏井川水系河川改良促進期成同盟会のメンバーになった。

平成から令和へ、河川行政への要望活動がいちだんと強まった。それだけではない。先ごろ開かれた定時総会で組織の拡充が決まった。

具体的には、内郷地区(新川・宮川流域)の行政区などがメンバーに加わり、予算に反映されたのである。

総会ではそのための議案などが提案された=写真。歴史のある期成同盟会としては珍しいことだろう。

 行政区の年会費も併せて見直し、世帯数が100未満は1500円、100以上は3000円と、それぞれ500、1000円減額された。これも珍しいことにはちがいない。

 予算書を見ると、土地改良区を除く行政区は、これまで平・小川・好間などの51区だったのが、新たに32区を加えて83区に拡大した。

地球温暖化に伴い自然災害の規模が甚大化しつつある。それを物語る組織拡充ではある。

2025年7月15日火曜日

写真のコウノトリに会う

                             
   いわき市小川町三島地内の夏井川にコハクチョウが1羽残留している。そこへ6月下旬、コウノトリが現れた。草野心平記念文学館のスタッフが偶然、この大型鳥を撮影した。

7月11日から文学館の「オタクロード」(休業中のレストランへの通路)で、小さな企画展「コウノトリと帰らない白鳥展」が開かれている(8月31日まで)=写真。

 コウノトリ飛来の話は、先日のブログでも紹介した。残留コハクチョウにえさをやっている「白鳥おばさん」から届いた手紙で飛来を知り、その直後に文学館がコウノトリの写真をSNSにアップした。

 文学館では7月5日から8月31日まで、夏の企画展「吉村昭と磐城平藩」が開かれている。

 最初の日曜日(6日)にこれを見たあと、写真のコウノトリに会いに来ることにした。それで13日の日曜日、また文学館を訪ねた。

 コウノトリを撮影したのは館長氏だという。たまたまその館長氏から話を聞くことができた。

 前職はいわき駅前のラトブに入居している総合図書館の館長だった。定年で退職後、地元にある文学館の館長職に就いた。

 休日に三島の夏井川の近くを通ったら、前方に大きな鳥が現れ、岸辺に着陸する態勢に入った。

 館長氏はここでピンときたのだろう。急いで家に戻り、望遠レンズを持ち出して、大型鳥を撮影した。残留コハクチョウのそばにいるところも写真に収めた。

その撮影データを基に、小さな企画展を開いたというわけだ。あいさつ文にこうある(要約)。

コウノトリが飛来したのは6月28日。草野心平の詩に「幻の鳥の一列」があり、阿武隈の山並みに飛んでいくコウノトリが出てくる。幻といっても今ほどではなかったのだろう。

現在は、兵庫県などが中心となって保護・増殖が進められ、2025(令和7)年には、野外のコウノトリの個体数は500羽に達すると見込まれている。小川に飛来した個体も足環をしているので、どこかで放鳥された1羽だろう。

そして、三島に飛来したときの様子――。コウノトリは上空から残留コハクチョウを見つけたのか、ハクチョウめがけて着陸態勢に入り、近くに降り立った。

コウノトリは羽繕いをしたあと、少しずつコハクチョウに近づくのだが、コハクチョウは後ろに引いて2羽の距離は縮まらない。

さて(これは私の感想)――。三島にはこのごろ、アオサギも岸辺にいる。コウノトリはアオサギより一回り大きい。が、コハクチョウとはたぶん大きさはそう変わらない。足が長い分、大きく見えるのだろう。

写真に併せて、心平の詩「幻の鳥の一列」のほか、「コウノトリ自身」「新年の白鳥」が紹介されている。

「白鳥おばさん」は残留ハクチョウに「エリー」という名前を付けた。館長氏は、それには少し驚いたようだった。

2025年7月14日月曜日

酷暑にこそ糠漬け

                            
    福島県にも7月9日、「熱中症警戒アラート」が発表された。で、外回りの予定を急きょ、翌10日に順延した話を7月11日に書いた。

予報通り、9日は猛烈な暑さになった。茶の間で静かにしていたとはいえ、病院の入院患者よろしく、ずっと横になっているわけにはいかない。

もちろん座いすを倒して本を読むことはある、パソコンにブログの原稿を入力するのも、早朝から昼にかけての仕事の一つだ。

それとは別に、台所の糠床を再生させる――そう決めて、前日に引き続き食塩をパラッとやって、糠床をかき回した。

このところずっと食塩も、糠(ぬか)も補給せずにきた。すると、この暑さも手伝って、乳酸菌の動きが活発になったらしい。

キュウリはたちまち緑色が失せて、古漬けのような茶色に変わる。食べては塩気が足りない。「味のない古漬け」では食べ物にならない。

たまたま月曜日(7月7日)の夕方、晩酌をしているところに若い仲間がやって来た。古漬けのようなキュウリを見るなり、「食塩を足して乳酸菌の活動を抑えなくちゃ――」。

やっぱり、そうか。茶の間の室温は朝から30度を超える。ときに、34度にもなる。台所も似たようなものだ。窓と戸を開け放っても、室温はあまり下がらない。

糠床は、夏場は北側の階段の下に移すのだが、そちらはほかのものでふさがっている。今あるところで乳酸菌の活動を抑えるしかない。

というわけで、糠床に食塩を加えたあと、隣の直売所からキュウリを調達した。試し漬けである。

まずは午前10過ぎに3本を糠床に入れる。夕方5時前に取り出すと、見た目はほどよい感じで、塩味もまあまあだった=写真。やはり食塩が不足していたのだ。漬けていた時間はざっと6時間。

次の日、近所の知り合いから家庭菜園のキュウリが届いた。夕方、さっそく3本を糠床に入れる。翌朝5時には取り出した。およそ12時間漬けていたことになる。

ん? 表面の緑色は残っているにしても薄い。味は、まあまあだ。ということは、漬け過ぎか。

6時間と12時間。そして、この猛暑。塩分だけに絞っていえば、今は6時間で十分のようだ。

つまり、朝入れたら昼には取り出す。それが今の時期、糠漬けのキュウリとしては一番の食べ方らしい。

カミサンは、糠が古くなっていることも関係しているはずだという。その糠をどこから調達するか。

カミサンの実家では米屋をやめたものの、まだ玄米は残っている。自家消費用として精米しているので、糠は出る。それをしばらくは使えるという。

いずれにせよ、小さな営業と小さな暮らしが結びついてこその食文化だ。日曜日の魚屋さんの刺し身も同じで、暮らしの豊かさはそうした小さなネットワークの中で成り立っている。いや、「成り立っていた」と今はいうしかない。

2025年7月12日土曜日

トンチンカンの日々

                                
   50代のころはいずれそうなるだろうが――というヨユウで読んでいた。江戸時代中期に生きた尾張藩士で俳人の横井也有(1702~83年)の狂歌である。

  「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」「手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる」

毎朝庭に出る。あるとき、白い点が目に入った。クチナシだ=写真。白いのはクチナシの花だけでいい。狂歌を読んだあとにはそんな心境になる。

後期高齢者になった今はゲンジツとしてこの狂歌が刺さる。頭髪から始まって、目、耳、歯、そして足と、老化が止まらない。

 若いときから右耳の聞こえがよくなかった。それが昂(こう)じたのか、このごろは人と話をしていて、右耳に手のひらを当てたくなるような衝動に駆られる。

 亡くなった義弟がそうだった。隣家に聞こえるほど音量を上げてテレビを見ていた。私はまだそこまではいっていない。通常の音量だが、少し上げたくなる気持ちはある。

 テレビだけではない。聞こえの悪さのほかに、「誤認」によるトンチンカンも増えてきた。

 拙ブログに残っている記録をみると、南米の「イグアスの滝」が「イグアナの滝」になり、「スーラー野菜湯麺(タンメン)」が次の日には「ソーラー野菜湯麺」に変わっていた。

 いずれもカミサンからけげんな顔をされ、すぐ言い間違いを指摘されて、「アハハ」と笑ってお茶を濁した。

「ダイソー」を「ダイユー8」と聞き間違えたこともある。車を走らせるとすぐ、カミサンから「方向が違う」といわれた。

カミサンの「口」が頭と違ったことをしゃべり、私の「耳」が勝手に言葉を解釈したのかどうか、そのへんはよくわからない。

先日もトンチンカン問答が起きた。私が会議で外出中、高校1年の孫が父親とやって来て、カミサンに告げたそうだ。

「あした、桜丘(おうきゅう)祭だって」。「桜丘祭」とは高校の文化祭の名称だ。男女共学になる前は女子校で、カミサンも、カミサンの母親も、孫の母親もそこで学んだ。

カミサンにとっては懐かしい母校の文化祭である。「行くからね」と、アッシー君の私に伝えたのだった。

ところが、私にはそれが「アシ、オッタ」と聞こえた。孫はサッカーをやっている。練習か試合中にけがをしたのか!

私が眉を吊り上げ、目をむいて大声を出したために、カミサンがびっくりして復唱した。「あ、し、た、オウ、キュウ、サイ」。

それを聞いて安心し、大笑いになった。トンチンカンは笑い飛ばすしかないのだ。

トンチンカンがもたらす笑いは老夫婦にとって天の恵み――。まど・みちおさんが103歳で出した詩集『百歳日記』(NHK出版生活人新書、2010年)のなかで、そんな意味の詩を書いていた。

先日は「オロナイン」を「オロナミン」と言い間違えて笑われた。カミサンもラッキーセブンにひっかけて、「平成7年7月7日」と言う。「令和、ね」。お互い様なので、やんわりと訂正してやった。