2026年4月2日木曜日

「好間渠」散歩

                                 
   もう半月ほど前のことだ。春分の日にカミサンの実家(平・久保町)へ行って線香をあげた。

家のそばに「好間渠」(好間江筋)がある。昼食をとったあと、江筋沿いの小道を少し散歩した。

 江筋は3面舗装の農業用水路で、幅は3メートル強だろうか。農閑期だが少し水が流れていた。

 カミサンの実家(ちょっと前まで米屋をやっていた)では、この江筋から敷地内に水を引き、水車の回転力を歯車に伝えて米を搗いた。

 取水口はコンクリート壁面でふさがれてわからないが、家の下に通じる排水口は四角く切り取られたまま残っている。これも米屋の「水力精米」を伝える遺物には違いない。

 好間地区関係団体会議が平成10(1988)年に発行した『よしま――ふるさとの歴史探訪』にこんなくだりがある。

 「平七間町から今新田(いまにいだ)へ好間川の上に樋(とい)を架けて水田用水としたので今新田側を『樋場』と今も呼んでいる」

 好間川を軸にして考えると、平・七間町は右岸域で久保町の北隣、対岸(左岸域)が好間の今新田だ。

これは久保町から七間町へと北流する江筋からの分水に違いない。あらかじめグーグルアースで確かめていた水路が頭にあった。

やがて分水のための水門に出合うはず、そう踏んで江筋沿いを歩いていると、案の定だった。カミサンの実家の近所だが、北へと江筋沿いの小道を歩くのは初めてだ。音を立てて流れる分水路にちょっと驚いた=写真。

分水路は江筋からかなり低いところに設けられている。そこへ江筋の水門から水が滝となって落下している。

ネットで確かめると、水門がある場所は久保町ではなく七間町だった。この水路の先端から好間川をまたぎ、今新田に水田用水を分水していたのだろう。

水門のそばに「きけん 好間二小PTA」の立て看があった。小学校は川向うの今新田にある。

その校庭を借りて、かつては平の久保町と隣接する七間町、道匠小路の3地区合同の運動会が開かれた。

結婚して子どもが生まれたあと、リレーのメンバーが足りないというのでお呼びがかかり、久保町チームに加わったことがある。

少子高齢化はそのころから顕在化しつつあったようだ。運動会はその後取りやめになった。

七間町などは平一小学区だが、久保町に隣接する右岸域の西側はほとんどが好間二小学区だ。江筋の水門そばに好間二小PTAの立て看があるのはそのためだった。

わが家の床の間に「好間渠誌」の掛軸(拓本)が飾ってある。記念碑は明治35(1902)年に建立されたらしい。それを読み解くための散歩でもあった。

カミサンの実家の田んぼは、今は学校法人に貸していて、建物が立っている。この分水路のほかに、下好間の田んぼを潤す別の水路もある。2つは好間川の手前で合流する。やはり「現場」を見るといろんなことがわかる。

2026年4月1日水曜日

庭の春の花

                               
    日曜日(3月29日)の早朝、茶の間のカーテンを開けると、庭のプラムの木が白い花をいっぱい付けていた。

 前日までは花に全く気づかなかった。咲き始めてはいたのだろう。が、地面の花にばかり目がいっていた。

 プラムは一部が腐朽菌に冒され、キノコが生えた。それで何年か前、幹から左右に張り出していた太い枝の半分を切り落とした。

 キノコはサルノコシカケのように大きくはないが、平べったい姿で残っていた。それを取ったら、また生えてきた。

 キノコの胞子はヤマであれ、マチであれ、ハマであれ、空中を飛び交っている。わが家の庭のプラムもどこかが傷ついていて、胞子の侵入を許してしまったのだろう。

 毎年花を付ける。半身だが、さらに枝が延びて傘状に広がってきた。白く清楚な花びらが目をやさしく包む=写真上1。

 やがては花さえ付けなくなって、そこにもキノコがにょっきり現れるようになるのかもしれないが、今のところはまだがんばっている。

 平・本町通りの街路樹が根元から伐採されたのはいつだったろう。たまたまわきの歩道を歩いたり、一方通行の道を車で通ったりしたとき、赤信号で足が止まる。

なにげなく目をやると、足元の切り株に、やはりサルノコシカケに似た白いキノコが生えていた。街なかの伐採木もキノコの胞子にとっては格好の「菌床」である。

 わが家の庭の話に戻る。地面から緑が次々に芽を出し、花茎を伸ばしてつぼみを持ったなと思うと、黄色い花を付けた。ラッパスイセンだった。

 それがあらかた開花したあと、今度はそれより少し大きなスイセンが咲き出した。プラムの花と同じ日に気づいた。なんと八重咲きのスイセンではないか=写真上2。

  庭の園芸品種はカミサンまかせだ。クリスマスローズが咲き、スノードロップも咲いている。そのなかで1輪、ヒアシンスも淡いピンクの花を付けた=写真上3。

あとは、花ではなく、ミョウガタケの出現を待つだけ。スイセンその他の園芸種に包囲されたためか、近年は芽生えが減った。

暖かくもなってきたので、そろそろ庭に出て、歯を磨きながらミョウガタケをチェックしよう。ヤブガラシは芽が出ていたら摘む。これは生け垣に絡みつくのでほっとけない。どちらも春の朝の習慣だ。

2026年3月31日火曜日

怒涛の年度末

毎年のことながら、年度末はあわただしい。それでも3月前半はまだ静かだった。それが第4週に入ると、行事が連続した。

年度末はいつもこんなものだ。で、前日にはいつもより念を入れて翌日の予定と時間をメモし、頭に入れる。

3月23日は地元の小学校の卒業式があった。市議、PTA会長、同窓会長、学校評議員などとともに臨席した=写真(卒業式のしおり)。

この席ではいつも「少子」時代を実感する。卒業生は2クラスの計45人(男子23人、女子22人)だった。

去年(2025年)の入学式でも同じ思いを抱いた。新1年生は男子15人、女子11人の計26人で、クラスは1学級だけの編成になった。

この日と24、26日の3日間は市役所で会議があった。23日は午後だったが、卒業式が終わるとすぐなので、やむを得ず欠席した。「年寄り半日仕事」である。24日には別の会議が入ったが、こちらも前もって欠席の連絡をした。

通常、役所がらみの行事(会議など)は日程が重ならないよう調整がなされるのだろうが、年度末はどうしても時間的な余裕がなくなる。たまたま複数の委員を引き受けていると、どちらに出席するか悩ましい事態になる。

27日はまた市役所へ出かけ、夜は地元の集まりに出席した。そして土曜日28日は、夏井川渓谷の小集落の総会に顔を出した。日曜日(29日)はそれこそ年度末を締めくくる地元の行政区の総会が開かれた。

あわただしい1週間だったが、25日はたまたま予定がなかった。それに合わせて、4月から東京で学生生活を始める上の孫と昼、カミサン手製のカレーを食べた。

カレーはカミサンが用事で出かけるときの作り置き、あるいは来客があるときの定番料理だ。孫だがいちおう客人として扱った。

あれこれしゃべっているうちに、15年前の「あのとき」の話になった。孫は4歳になる1カ月前だった。

巨大地震のあと原発事故が起きた。私ら夫婦と息子一家が車2台を連ねて中通りの南端、西郷村の国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家に避難した。

割り振られた畳敷きの大部屋で、大人はすることもなく壁によりかかり、あるいは横になっているしかなかった。

そんなある日、孫が発した言葉が今も忘れられない。確か夫婦であのときの揺れの大きさとテレビで見た大津波の被害、それに続く原発事故を話していたときだ。

「地球が怒ったんだよ」。びっくりして孫の顔を見た。以来、3・11を思い出すと、決まってこの言葉が脳裏をよぎる。

19歳になろうとする今、あえて聞いてみた。避難したときのことはうっすらと覚えている。自分の発した言葉には記憶がない。当然だろう。むしろ、それを聞いてホッとした。

怒涛の年度末。とはいえ、巣立つ孫と向き合い、震災の話をしたのは初めてだ。

   自然災害を含めて世界がいちだんと危うくなっている。その危うさを自覚しながら生きていってほしい。それこそ地球が怒らないために。ジイバアは切にそう思うのだった。 

2026年3月30日月曜日

アカヤシオ開花

                                        
   3月28日付の全国紙と県紙に、いわきの加路川のイワナから基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたという記事が載った。

加路川は夏井川の支流で、その合流部・片石田(小川)の県道小野四倉線沿いにあるハクモクレンの開花と、そばの橋の直下にあるバショウの巨大な枯れ葉の話をブログに書いたばかりだ。

 水源は小川町の北方、猫鳴山と吃兎屋(きっとや)山あたりで、本流の夏井川までは10キロあるかないかだろう。

 山をはさんだ西側を江田川(背戸峨廊=セドガロ)が同じように南流して夏井川に注ぐ。

 加路川流域の住民にとっては、集落の裏山の陰を流れる江田川は「セドガロ」(背戸の加路川)だ。そのセドガロに小川出身の詩人草野心平が「背戸峨廊」と漢字を当てた。

 その後、いつの間にか「セドガロ」が「セトガロウ」、漢字を当てただけの心平が「背戸峨廊」の命名者と誤認されるようになった。間違いをブログで言い続けていたら、最近は原点に戻りつつある。

私が論拠にしたのは、心平のいとこの草野悟郎さんの文章だった。悟郎さんは初代の小川中校長で、長らく平二中校長を務めた。

現役時代、新聞に書いた文章に関して、人づてにコメントをもらったことがある。尊敬の念もあってつい「さん」付けになる。

悟郎さんは昭和62(1997)年、随筆集『父の新庄節』(非売)を出す。そこに前述したセドガロの話が載る。

「この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

 釣り人とはむろん渓流釣りの人間である。その意味では、夏井川渓谷もそうだが、支流は渓流釣りのフィールドだろう。

 新聞記事に戻る。イワナは3月まで禁漁期間で、解禁を前に地元漁協の組合員が試験的に捕らえ、県農業総合センターで検査したら140ベクレルが検出された。

 このため、県は夏井川水系のうち、籠場の滝~愛谷堰頭首工の間(支流を含む)でのイワナの捕獲を控えるよう、自治体や団体に要請した。ただし、小玉川はダムから上流部はこの要請から外された。

 記事を読んだ日、隠居のある集落で集まりがあった。連絡がきて私も参加した。籠場の滝は隠居の手前にある。

 イワナを釣らないように行政がいう夏井川の籠場の滝の下流をパチリとやった=写真上1。

 川の表情と同時に確かめたいものがあった。マチのソメイヨシノが開花した。ならば渓谷のアカヤシオも咲いているはず。

 籠場の滝の対岸を見ると咲いていた=写真上2。やはり平地のソメイヨシノ、渓谷のアカヤシオ、これは開花がシンクロする。

 隠居の対岸でも午後の日が当たる尾根筋のアカヤシオはかなり開花していた。江田と牛小川の中間、椚平の対岸はピンクの点描画がはっきり分かった。渓谷にも春が到着した。

2026年3月28日土曜日

「生老病」まではきた

                               
   「生老病死(しょうろうびょうし)」は仏教でいうところの「四苦」。「愛別離苦」を合わせると「八苦」。四苦八苦の中身がこれである。

 後期高齢者になった今は、「生老病」まではきた、あとは「死」が待つだけ、という思いがある。

 でも、「苦」ではない。「生老病」だって、振り返れば「苦」とは思わない。「死」は体験したことがないからわからない。体験してもだれかに伝えるわけにもいかない。でも、「死」とはどういうものか、できれば体験して伝えたい、という思いはある。

 「病」で思い出す言葉がある。学校を飛び出して4年後、Jターンして新聞記者になり、結婚して、平屋の古い市営住宅に入ったら、目の前に恩師の家(教員住宅)があった。その恩師の造語である。

 恩師は退職後、瑞宝小綬章を受章した。同級生に電話をかけて都合のつく人間だけが集まり、いわきで祝う会を開いた。

恩師は謝辞のなかで、自分の近況を造語で紹介した。1つは「無病息災」にひっかけた「三病准息災」、もう1つは「晴耕雨読」にちなんだ「晴耕工雨読」だ。いずれも四字熟語ならぬ五字熟語である。

三病は脳こうそく・肺がん・心臓病。食事療法を主に闘病を続けてきた結果、毎晩ではないが好きな清酒を楽しめるまでに回復した。息災とは言い切れないものの、それに近い状態ということだった。

もうひとつの方は、家庭菜園だけでなく、日曜大工も好きだからだという。そして「読」は、戦争体験者なので主として昭和史関係の本を読んでいるということだった。

 祝う会から17年。そのころの恩師を超える年齢になったこともあって、最近はよく「三病准息災」を思い出す。

 それに、と思う。「死」が親しくなりつつある。すぐ上の先輩、同学年の仲間、すぐ下の後輩と、同年代の訃報が続く。

 1月には、大手出版社の編集者だったカミサンの同級生が急逝した。先日、遺族からのはがきでそれを知った。

 秋には土地のサツマイモが届き、こちらからは米かサンマを送る。11月に電話をしたり、かかってきたりしたのが最後になった。

 「死」が待つだけとはいえ、草野心平も言っている。「死んだら死んだで生きていくのだ」。生きているうちは老いを楽しむのだ。

その先人に、まど・みちおがいる。『まど・みちお 人生処方詩集』(2012年)=写真=に、ちょっと違った「死」が書かれている。1連5行で3連の詩である。毎日、「今日」が生まれて死ぬ。「一日」の生と死を見送り続けている。

それを受けていう。「ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に/あわてふためかないようにとあの/やさしい天がそのれんしゅうをつづけて/くださっているのだと気づかぬバカは/まあこのよにはいないだろうということか」

 現実を直視しながらも、簡単には沈まない。日常を書き続ける、その先にある「死」も――。重いものを軽く。その感覚で「生老病死」と向き合う。

2026年3月27日金曜日

特別の回覧袋

                                
 年度末の3月は、役所から「健康のしおり」が届く。隣組の回覧網を通じて各戸に配る。これが1年を通して最大の難物だ。

 わが行政区は隣組が約30ある。世帯数は最大15、ならせば10世帯前後で、ふだんの行政資料、たとえば「広報いわき」などは世帯配布だが、回覧袋として普通の大型封筒を再利用できる。「健康のしおり」は、それでは間に合わない。なにしろ1冊65ページもある。

「健康のしおり」が届くと、まずは回覧袋の準備から始める。前に印刷所勤務の班長さんから、折りたたみ式の大型封筒を寄贈してもらった。廃棄処分をするというので引き取った。これを使う。

「マチ付き封筒」というものらしい。開くと側面が3センチ以上に広がる。「マチ」とは側面部、遊び・奥行きなどのことのようで、折り畳み式だから15世帯分の「健康のしおり」もなんとか入る。

2024年から使っているので、残存数は少なくなってきたが、返却分も含めてまだ余裕はある。

普通の大型封筒しかなかったときには2袋が必要な隣組もあった。これをテープで縛り、中層住宅の場合は、1階の郵便受けではなく、班長さんの部屋の前まで届けた。

戸建て住宅だけならそう問題はない。が、中層住宅が全体の半分を占める。しかも中層住宅に3人はいた区の役員が、高齢と体調不良を理由に欠員になってからは、周りの戸建て住宅の役員がこれを代行している。

去年8月1日付の文書は、世帯配布が市からの3種類と地元の1種類の計4種類で、紙袋の厚さは最大3センチ超に膨らんだ。

これでは中層住宅の1階に設けられている郵便受けのすき間(投入口)には入らない。

班長さんの自室の前まで持っていかないと――となるのだが、2階はともかく、3、4階は、心臓のクスリを飲んでいる人間にはこたえる。で、中層住宅の3、4階はカミサンが配達を代行してくれた。

この例があるので、今回(3月13日付)も頼むしかないかと覚悟を決めた。ところが、である。カミサンが「健康のしおり」をパラパラやると、「紙が薄くなったみたい」という。

確かにそうだ。ページ数は変わらない。が、なんとなく薄くなった感じがする。地元の資料として5種類(世帯配布1、回覧4)が加わったが、どの班(隣組)の資料もマチ付き封筒に入った=写真。

中層住宅に住む班長さんの郵便受けには、幸いカギがかかっていない。ふたを開けて少々無理をして突っ込むと入った。

これまで2回、郵便受けのすき間に入らない厚さのときがあった。2回ともふたを開けて入れた。その経験から、今回もカミサンを動員せずにすんだ。年度末はいつもこれがすんで「ヤレヤレ」となる。

2026年3月26日木曜日

新釈・養生訓

                                                
 大活字本の『養老訓』(養老孟司著)を読んでいて、貝原益軒(1630~1714年)の『養生訓』に興味を持った話を前に書いた。

 益軒は江戸時代前期の本草学者・儒学者で、70歳で福岡藩の役を退いてから著述に専念し、『養生訓』などを著した。

当時は平均寿命が40歳未満だったとかで、その倍以上、84歳まで生きた健康長寿の見本のような人である。

まずは蓮村誠著『新釈養生訓――日本人が伝えてきた予防健康法』=写真=を図書館から借りて読んだ。

ざっと目を通しながら、子どものころ、よく祖母から言われた言葉を思い出す。「メシを食ってすぐ寝ると牛になっつぉ」。阿武隈の山里の昭和30年代、私が小学生になったころの記憶である。

祖母が『養生訓』を読んでいたとは思えない。が、地域全体に『養生訓』をベースにした戒めのようなものが浸透していたのではないか。

『養生訓』は江戸時代のベストセラーだったから、その教えが全国に浸透し、世代を超えて受け継がれ、だれもが知る俗訓になった。『養生訓』の現代語訳と解釈を読み進めるほどに、そんな思いが強まる。

「予防健康法」と副題にある。予防健康とは病気にならないように努めることだろう。庶民は庶民なりに実践し、「牛になる」ことがないように戒めてきた、少なくとも守ろうとしてきた。

「外邪」と「内欲」が出てくる。「外邪」は「風・寒・暑・湿」、つまりは体を取り巻く環境のことで、後期高齢者はこの外部要因には敏感にならざるを得ない。

今はまだ「寒」がこたえる。「風」にも注意が要る。厚手のジャンパーにマフラー、パッチ、長そで。シャツのボタンは一番上まできちっと。

「光の春」になればシャツの一番上のボタンをはずす、ストーブを消す。日によって、あるいは朝・昼・晩と調整する。「寒さの冬」はこの逆で、「乾」にも注意が必要だ。足のかかとには保湿用の軟膏を塗る。

「内欲」は「飲食・色欲など」のことで、たとえばアルコールについていうと、若いときは浴びるように飲んだが、中年には少し控えめになり、60代以降はドクターの忠告もあって、グッと抑えてはいる。

というわけで、『養生訓』を読む前からそれを実践せざるを得ない年齢になってはいた。だから、やはり「ごもっとも」となることが多い。

「からだは毎日少しずつ動かしなさい。長時間、楽な姿勢で座っていてはいけません」

 日中はこたつに足を入れて「在宅ワーク」と称してパソコンと向き合っている。体を動かすのはトイレと食事のときぐらい。これでは養生にならない。

 「食後は、数百歩歩くようにします」。食後はともかく、軽い散歩(1日1500歩程度)なら今のままでいい、ということになる。

 軽い運動と散歩。これが今、一番心がけないといけないことのようだ。と同時に、益軒はなぜ『養生訓』を書いたのか、成功体験がそうさせたのか、という思いも深まる。ま、古典には違いないが。