夏井川渓谷の隠居は集落を貫く県道の谷側にある。夏場は川筋を涼風が吹き渡る。
5月中旬の日曜日は朝からいい天気になった。ちょっと土いじりをしただけで汗がにじんだ。このまま外にいたら熱中症になりかねない。キリのいいところで隠居に引き揚げた。
茶の間のガラス戸を全開し、玄関も開けたままにしておく=写真。玄関の上がり口の近くで休んでいると、時折、谷風が吹き抜ける。汗ばんだ体にはこれが心地よい。天然のエアコンだ。
5月の昼前の風は川下から吹いてきてさわやかだった。でも、と反射的に冬の寒風が思い浮かぶ。
冬は北風がV字谷に集中し、わが隠居を直撃する。それを思い知らされる出来事があった。
庭の西側に生い茂っていたササを掘り起こし、開墾して、小さな菜園を作ったのはざっと30年前。近所の家から「三春ネギ」の苗をもらって栽培を始めた。
同時に、「実のなる木」にも興味がわいた。高田梅、プラム、そして温州ミカンの苗木を植えた。
その木は今どうなっているか。ミカンは苗木のうちに枯れ、プラムはやがて菌にやられて伐採した。雪国会津の高田梅だけがかろうじて命脈を保っている。
ミカンに色気を出したのは、県道と線路をはさんだ山側の家でユズを栽培したら実がなった、という話を聞いたからだ。
ユズは福島市の信夫山が北限と聞いて、それなら夏井川渓谷でも、と挑戦したのだという。
ならば、こちらはミカンだ。実がなれば、地球温暖化が進んだ「あかし」になる。渓谷のミカンの木は地域温暖化のセンサーになるだろう。
冬は白菜を漬ける。風味用にユズを調達して皮をみじんにして加える。ミカンの皮も干して入れる。隠居でミカンがなれば、中身は食べて、皮はユズの代わりに使える。
そんなもくろみもあって、いわき市の「産業祭」で2~3個、実のなっている温州ミカンの苗木を買い、隠居の風呂場の前に植えたのだが……。
常緑の葉が真冬に「風邪」を引いたのか、だんだん色が悪くなり、結局は枯れてしまった。
それから20年以上たった今年(2026年)の3月。集落の寄り合いで、昵懇(じっこん)にしている住民から、家の裏山にミカンの苗木を植えた、と教えられた。
地球温暖化は地域温暖化。それを逆手にとって、渓谷でも栽培してみる気になったそうだ。
わが失敗談を語ると、別の住民が理由を教えてくれた。彼の家も県道から谷側にある。
冬の寒風がもろに庭を吹き抜ける。それにミカンの苗木が耐えられなかったのだという。
新しくミカンの栽培に挑む住民の家は山側にある。西と北側には杉林が控える。これが冬の北風を抑えてくれる。それもあって、挑戦する気になったのだそうだ。
谷側と山側では家の周りの環境が異なる。谷側は風の通り道だが、山側は防風を兼ねた林がある。
そうか、谷間の家もまた北風の直撃を避けられるところから建ち始めたにちがいない、なんて集落の成り立ちまで勝手に想像した。