のっけから驚いた。不思議な五七五である。「佛德(ぶっとく)へ普(あまね)く渡れ浄土橋」=写真上1。石の欄干に彫られている。句のわきには小さく「昇吾」とあった。
平山崎の専称寺は「梅の寺」として知られる。そのために尽力したのは夏井川の対岸、平中神谷の箱崎昇吾翁だ。
国鉄を退職した昭和8(1933)年から足かけ27年をかけて、専称寺の境内に梅の苗木を植え続けた。その数、一千本という。
寺のふもとにある総門の前、愛谷江筋にコンクリートと石の橋が架かる。それも箱崎翁が寄進した。
箱崎翁は同時に、地元の立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を、専称寺の末寺で菩提寺の大円寺に石の門柱を寄進している。いずれも昭和8年12月のことである。
古い新聞でそれを知り、わが家の近くにある寺と神社へ足を運んで、寄進者である箱崎翁と奥さんの名前を確かめた。
まだ見ていないのが専称寺のふもとの橋だった。同寺の梅林は何度も訪れている。そのつど橋を渡ったが、箱崎翁の事績は知るよしもなかった。
橋の長さは3・5メートル前後だろうか。やや丸みを帯びたアーチ形で、左右に擬宝珠の付いた石の欄干が各3本。そこに手すりが2本と、それを支える柱が各2本ある。
まず、橋――そう自分に言い聞かせて、渡る前に目をやる。と、向かって左側の欄干に、冒頭の五七五が彫られていた。右側の欄干には「奥州總本山専称寺」の文字。
なんということだ。すでに橋のたもとで箱崎翁が待っていたではないか。全く気づかなかった。
橋の向こう側、総門からも欄干を見る。左側に寄進者である箱崎翁の名前があった。
五七五は無季俳句である。専称寺は浄土宗名越派の総本山。俗界から浄土の世界へ――。「浄土橋」という言葉にはそんな翁の祈りが込められている。
同寺は、江戸時代には「大学」だった。奥州各地から学僧が修行にやって来た。
江戸時代後期から幕末にかけて、江戸で俳僧として鳴らした一具庵一具は、若いころ、出羽国から専称寺に留学し、名越派の教えを学んだ。
この俳僧を調べたことがある。しばらくぶりで急な石段を登り、南側のスロープを利用して本堂の前に立った。
東日本大震災では総門も本堂も大きな被害を受けた。どちらも修復されたが、かやぶきの庫裏はそのときのままだった。
寮舎跡には、梅の古木と若木がある=写真上2。何カ所かこずえに白い花が咲いていた。見ごろが3月中旬なのは地形と日照時間が影響しているのだろう。
古木を見ると、箱崎翁の事績が思い浮かぶ。ふもとの橋と同じく、もうただの梅の木ではなかった。「物語」がしっかり根付いていた。