4月10日付の福島民報に、田村市の元開業医が遺産5億円余を5団体に寄付したという記事が載った。
元開業医は大久保悟子さん。令和4(2022)年12月、73歳で亡くなった。生きていれば77歳。私と同年齢だ。
田村市は平成17(2005)年3月1日、田村郡7町村のうち、三春町と小野町を除く5町村が合併して誕生した。医院はこの田村市の船引町にあった。
私は船引の隣、常葉町で生まれた。子どものころ、船引に田村郡選出の県議がいた。大久保俊夫さんといった。悟子さんの父親である。
選挙があると、大人たちの間で大久保県議の名前が取りざたされた。それで早くから県議の名前を知ってはいた。
福島県議の歴代名簿によると、大久保俊夫さんは戦後の昭和22年4月から県議を務め、返り咲いてから11年後の昭和57年7月25日に亡くなっている。
交通事故死だったという。このとき、悟子さんは34歳。すでに医師の道に就いていたはずである。
なぜ彼女のことを知っているかというと、15歳の春、平高専(現福島高専)を受験して合格した中に彼女の名前があったからだ。
1次試験は平市の本校と郡山市の2会場で、2次試験の面接は本校で行われた。面接が終わり、磐東線のSLで帰路に就いた。
船引駅のホームに降り立つと、前を女子中学生が歩いて行く。後日、合格発表を見て、彼女の名前が大久保悟子ということを知った。
今回あらためて当時のいわき民報を読んでみた=写真。石城郡内の合格者には中学校名まで付いている。
私ら郡外の人間は名前だけだったが、合格者の中には入学を辞退した人間が何人かいた。
悟子さんもその一人で、進学校を受験するための「腕試し」の意味もあったのだろう。
ここからは県紙と全国紙の記事を参考にする。彼女は岩手医大を出たあと、郡山市の病院で勤務医になり、のちに独立して船引に医院を開業した。
母親は歯科医。一人っ子で生涯独身だったという。4年前、がんが見つかると、その年の夏には医院を閉じ、法律事務所と相談しながら遺言状をつくり終えて間もなく、自宅で息を引き取った。
15歳の春のとき、ちらりと見た横顔が、60年以上たった今も忘れられない。平高専を受けて合格した、ただそれだけのつながりなのに、折々に思い出す。
実家へ帰って船引まで足を伸ばしたとき。郡山の帰りに船引を通ったとき。船引で医院を開業したという風の便りが届いたとき。なんとなく「今、何をして、何を考えているのか」が気にかかる存在ではあった。
寄付団体のなかに日本ユニセフ協会、国境なき医師団があった。はからずも彼女の思想が垣間見えるような遺贈先だ。
親はすでになく、子もいない。それで「墓じまい」もしたという。阿武隈の山里で医療一筋に生きた生涯。その軌跡さえきれいに上書きして旅立ったという印象が強い。
「団塊の世代」の見事な生き方、いやこの世の去り方として、ここに記録しておくことにした。