2024年7月27日土曜日

変な鉱物たち

                              
 毎月、移動図書館「いわき号」がやって来る。カミサンが地域図書館をやっている。移動図書館から借りた本を返し、新たに貸し出す本を借りる。

 そのなかに、渡辺克晃『ヘンな石図鑑』(秀和システム、2024年)があった=写真。著者は44歳。著者略歴に、理学博士で地質・鉱物写真家とあった。

こういう本を手にしたときには、いつも草野心平の短詩を思い出す。「雨に濡れて。/独り。/石がいた。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」

震災の直前、いわき市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平と石」が開かれたとき、リーフレットに粟津則雄館長(故人)が記していた。

「眼前の姿への凝視とそれを生み出しそれを支えて来たものへの透視は、詩人草野心平を形作る二つの本質的要素ですが、草野さんと石とのかかわりには、それが純粋かつ端的に立ち現われていると言っていいでしょう」

心平の石好きは有名だが、世にいう水石愛好家ではない。「独り。/石がいた。」。「一つ」ではない「独り」、「あった」ではない「いた」。石も、植物も、動物も、人間と同じ。粟津さんがかつて評した「対象との共生感」に引かれた。

『ヘンな石図鑑』をパラパラやって、興味を持った鉱物から読む。まずはガーネット。茶色い紙やすりの原料であることを初めて知った。

というより、紙やすりの原材料が何か、などとは考えたこともなかった。紙やすりを使ったのは小・中学生のころだったか。それ以来なら、半世紀上も紙やすりとは縁がなかったことになる。

石墨(せきぼく)は黒鉛筆の芯に使われている鉱物だという。新聞製作システムがアナログのときには、鉛筆で原稿を書いた。が、これも紙やすりと同じで、わが筆立てから消えた。

かたまりそのものがキノコに見える鉱物がある。名前は松茸水晶。ただし、マツタケのように単独で出ているわけではない。「シメジ」として売られている栽培キノコに似る。

中でも引かれたのは、ひすい(翡翠)だ。著者はこれだけを平仮名で表記している。理由は? わからない。

中国から「翡翠」の漢字が入ってくる前から、日本ではハンマーや勾玉(まがたま)に利用されていた。

石そのものが新潟県糸魚川市の大角地(おがくち)遺跡から見つかっている。同遺跡でのひすい利用が世界最古だという。だから「翡翠」ではなく、「ひすい」なのか。

ひすいで思い出すのは、台湾・国立故宮博物院の「翠玉白菜」だ。白色と緑色を白菜に見立てて彫り、さらに虫を配した装飾品で、9年前に鑑賞したときには、博物院スタッフが「撮影不可」マークの紙を掲げ、「立ち止まらないで」を連発していた。

18世紀の中国では、ひすいのアクセサリーや置物、食器などが盛んにつくられた。その工芸品のなかでは世界的な逸品だという。

さらに驚いたのは、ひすい輝石が日本の国石だということ。日本の国鳥はキジ、国花は桜と菊。国石があったとは。

2024年7月26日金曜日

入院中は本だけに

                     
 5泊6日の入院中、どうやって時間をつぶすか、あらかじめ考えた。ベッドのわきにはテレビが備え付けられてある。テレビカードを買えば見られる。でも、テレビは見ないと決めた。

 新聞は、カミサンが家から持ってくれば読める。実際、2日目に持ってきたが、そのまま持ち帰ってもらった。

新聞も読まない。それをあらかじめ伝えておけばよかったのだが、準備に追われて忘れてしまった。

 本だけは2冊持ち込んだ。高萩精玄『福島人物の歴史第10巻 白井遠平』(歴史春秋社、1983年)と、『「いわき宇宙塾」講演記録集7 市制施行30周年 なぜ、いわき市は誕生したか』(いわき市、1998年)=写真。

先日、いわき市教育文化事業団の研究紀要第21号に収められた渡辺芳一さんの論考「草野天平『私のふるさと』をめぐって――空中写真をもとにした草野杏平氏への聞き書き」を読んだ。

天平は詩人草野心平の弟で、杏平氏はその長男。天平も心平同様、詩を書いた。2人の実祖父は衆議院議員を経験した実業家の白井遠平。

詩人を知ろうと思えば、ふるさとのいわき市小川町上小川、そして遠平を素通りするわけにはいかない。

渡辺論考の延長線上で、常磐線開通と炭鉱開発に尽力した遠平を読む。さらに、炭鉱と漁業から工業のマチへとかじを切ったいわき地方の近代の流れをざっくりつかむ。

直接言及しているわけではないが、それによって心平・天平のふるさとも変化を余儀なくされたことがわかる。いずれも再読、再々読だ。この2冊で十分だった。

 スマホを持ち込んだので、だれかに連絡しようと思えばできたが、それもよした。入院直前に充電し、時計代わりに使うだけなら、退院時にもバッテリーは残っているはず――。最後は充電のサインがついたが、電源切れになることはなかった。

実質5日間は新聞・テレビ・ネットメディアから離れていたことになる。が、それで何の不自由もなかった。

ただ一つ、カミサンからの口コミで土曜日(7月20日)、東北地方の梅雨が明けたと錯覚したが、それは7月18日の東海、関東甲信、あるいは19日の四国のことだったか。

 さて、月曜日(7月22日)の昼前に退院して以来、以前のメディア環境に身を置いている。

 朝起きると新聞を取り込み、折り込みチラシの枚数をチェックする。テレビをつける。とりわけ、朝ドラ「虎に翼」は見逃さない。

 ところが、18、19、20日(週の総集編)、22日と見ていないので、流れがいま一つつかめなかった。

 「虎に翼」は、カミサンも時間がくるとテレビの前に陣取る。行政がらみのニュースが流れるたびに「男ばっかり」と文句を言うくらいだから、今に通じるドラマとして見ているようだ。

かくいう私も、日本国憲法第14条がやっと頭に入るようになった。これが「虎に翼」の根底を流れている思想だろう。

「新潟編」でも第14条が頭をよぎる。すごいドラマだと、実は内心舌を巻いているところだ。

2024年7月25日木曜日

弾性ストッキング

        
 カテーテルによる心臓の「左心耳閉鎖術」を終え、一晩、ICU(集中治療室)で過ごしたあと、一般病棟へ戻った。

 するとほどなく、看護師さんがふくらはぎと足首の太さを計り、ひざ下に合ったハイソックスを持って来て、はかせてくれた。

 なに、それ? ハイソックスを見ると、足の指のところに半楕円形の穴が開いている。しかも、ひざから下が強く押さえ込まれているような感覚がある。

 なんのためにはくのだろう。ハイソックスが入っていたプラ包装には「一般医療機器」「レッグ サイエンス」「一般的名称 弾性ストッキング」「モニターホールタイプ」などとある。「穴」は「モニターホール」というのか。

 取り扱い方法も書いてあった。①洗濯機での洗濯が可能②塩素系漂白剤の使用、アイロン掛け、ドライクリーニングは避ける③陰干しをする――。

 さらに、同封の説明書によれば、下肢の静脈血やリンパ液の鬱滞(うったい)を軽減・予防するなど、静脈還流の促進を図るのが目的だという。鬱滞とはつまり、血流の滞りだ。

 ここまで頭に入れて、なんとなくわかってきた。私は、手足が冷たい。末端の血流の悪さが原因だ。それで、できれば握手はしたくない――ずっとそう思っている。その血流を改善するための特殊なハイソックスということなのだろう。

 弾性ストッキングをはいたまま退院し=写真、家に戻ってすぐ風呂に入った。着替えたあとは、入院中に知った新しい言葉の意味などをネットで再確認した。

 まずは弾性ストッキングについて。検索すると、足の血栓予防、いわゆるエコノミークラス症候群を防ぐための「医療機器」ともあった。

 エコノミークラス症候群を知ったのはいつだろう。阪神・淡路大震災のときか。いやそのあとの新潟県中越地震(2004年)・同中越沖地震(2007年)あたりからのようだ。

その後、東日本大震災でも、今年(2024年)の元日に発生した能登半島地震でも問題になった。

弾性ストッキングは、立ちっぱなし(理容業など)、座りっぱなし(私もその一人)の人間には有効なハイソックスである。常時はき続ける必要はない。

というわけで、ここしばらくは座卓にノートパソコンを置き、検索をかけたり、ブログの原稿を打ったりしている間は、このソックスをはくことにした。夜にははずす。

医療技術も、機器も開発が進む。左心耳閉鎖術もまた、新しい治療法だという。そのため、今回の治療に関するデータを学会や医学雑誌、公的機関のウェブサイトなどに発表してもいいかという。

データベース登録というやつで、左心耳閉鎖術に関するデータの収集・解析を進めることで、治療の有効性や安全性が詳細に検証され、より適切な治療が可能になる。これからこの治療法を必要とする人のためにもふたつ返事でOKした。

2024年7月24日水曜日

日常に戻る

          
  6日間の病院生活を経て、月曜日(7月22日)、いつものシャバ(日常)の暮らしに戻った。

そのときの様子の一部を、火曜日のブログに書いた。ブログそのものも7日ぶりに再開した。

ビフォー・アフターでいえば、前は晩酌をやりながらブログの下書きをつくった。今は手術直後なので、しばらくは「自主禁酒」を続ける。

で、日中に下書きをつくり、原稿に仕上げる。それを翌日の未明ないし早朝にアップする。アフターでは、禁酒と日中の下書きづくりが一番大きい変化かもしれない。

やはり、シャバの暮らしは忙しい。帰宅2日目の朝5時45分。起きるとすぐ、区内会の役員さんと担当する隣組の班長さん宅に、3日遅れの回覧資料を配った。

夏場は新聞配達よろしく、この時間帯に回覧資料を配ることがある。もちろん、手渡しするようなことはしない。そっと置いてくる。

酷暑対策でそうするようになったのだが、それでも熱帯夜に続く朝である。駐車中の車は、すでに朝日を反射して熱を帯びている=写真。

回覧配りからの帰路、コンビニに寄ってボールペンを買った。これがないと、メモ(身辺雑記)を書けず、原稿の下書きもつくれない。

家に戻ってからは、玄関と茶の間の戸を開け、台所の糠床をかき回した。入院中はカミサンが代行した。水っぽかったので小糠を足し、食塩を加えたという。

手触りからいうと、糠の量はいいかもしれない。しかし、まだ水分が過剰のようだ。いずれ水抜きをするとして、食塩を追加した。

朝にキュウリを入れたら、夕方には取り出す。これが一般的で、カミサンもそのつもりでキュウリを取り出したそうだ。半漬かりなのはそのためだったか。

私は、味がしみるまで24時間をかけていた。それだけ今年の糠床は塩分が不足していたということだろう。

高血圧症でもあるので、塩分は控えめに――とはいわれている。糠床まで高血圧扱いをしていたか、などと、手抜きを棚に上げて、自分にだけ通じるダジャレを脳内で言ってみる。

それから朝風呂に入る。資料配りのときは半そでとズボンだったが、風呂から出ると、父の日にもらった薄手の「甚平」に着替えた。

入院前は、夜は普通のパジャマだった。退院後は夜だけでなく、日中も、この甚平で過ごすことにした。

扇風機の風が甚平を通して素肌に触れる。しかも、今年(2024年)は2台にした。日中、汗がタラタラ流れるようなことはなくなった。

入院中は口にしなかったものがある。「塩分制限食」ということで、味噌汁が食膳にはなかった。むろん、漬物も。

味噌汁なしは想定外だった。退院して一番うれしかったのは、この味噌汁が復活したことだ。義弟が糖尿病なので、減塩味噌汁には慣れていたが、「全くなし」では食べる楽しみも半減する。

病院食の楽しみを語ること自体、不謹慎なのかもしれないが、朝はやはり味噌汁が欲しい。家に戻って、味噌汁を飲んで、そのありがたみを実感した。

2024年7月23日火曜日

5日ぶりのわが家

                      
 心臓にも耳がある。心臓に由来する血栓の90%は、この心臓の左の耳で形成されるという。

前にも書いたことだが、震災翌年の暮れ、原因のよくわからない貧血症状が出た。2階に上がるだけで息が切れ、めまいがした。

年明け後に胃カメラをのみ、大腸も調べた。抗凝固薬(血液をサラサラにする薬)の影響で消化器官から出血したのが原因かもしれない、ということだった。

それから12年。薬を飲んでいるのでめまいや動悸はない。落ち着いている。が、データからは貧血気味、つまり出血がみられるという。

定期検査の延長で、2年ぶりに地域の基幹病院で胃カメラをのみ、大腸の内視鏡検査を受けた。

循環器科にもかかった。もともと不整脈と薬からきている症状なので、循環器科の見立てが本筋ではある。

担当医は若い先生に変わっていた。データを見ながら、12年前は「入院」して「輸血」しなければならないほどの「大出血」だったらしい(出血場所は不明)。

そのときは地元の雑誌の編集を引き受けていたので、先生に無理を言って通院に切り替えてもらった。

その「大出血」の再発を防ぐには、抗凝固薬を避けることだ。しかも近年、その代替療法が確立された。左心耳閉鎖術という。

冒頭に書いたように、心臓由来の血栓はおおかた左心耳で形成される。この新しい手術法では、出血だけでなく、その血栓(による脳梗塞)も予防できる。

手術の内容は、足の付け根の静脈からカテーテルを入れ、心房中隔を突き通して左心耳に、閉鎖に必要な「器具」を留置するというものだ。

その手術が7月17日入院~同22日退院の、5泊6日の予定で18日に行われた。無事、手術が終わり、月曜日の昼前、5日ぶりにわが家へ戻った。

戻ったらすぐやることをメモしておいた。スマホを充電する。ノートパソコンに届いた迷惑メールを削除する。

土曜日(7月20日)は、いわきの海水浴場で海開きが行われた。この日の早朝、病室の窓から朝日をながめ、梅雨が明けたことを確信したが、東北南部は、発表には至らなかった。

それから連日、酷暑が続く。退院してタクシーに乗り込むとき、早くも外気の暑さにへきえきした。

わが家に着くと、さらに暑い。しかし、ここ=写真=で日常を再開しないことには前へ進めない。庭からはミンミンゼミの鳴き声が響く。

このなかですぐ「仕事」にとりかかる。こちらの入院・手術で手つかずになっていた、20日配布予定の回覧資料がある。それを振り分け、袋に詰めて、3日遅れだが23日早朝、役員さんと担当の隣組に届けた。

すでに朝日がギラギラしていた。「散歩はいいですよ」「重いものは持たないで」。ドクターの言葉を目安に歩く。息も切れず、痛みもなかった。

今回の手術は予防的なもので、症状が悪化したから手術したわけではない。入院6日間の感慨にふけっているヒマもない。

とはいえ、この暑さはやはりこたえる。6時前の「仕事」だったので、汗ばむ程度ですんだ。

2024年7月16日火曜日

7月の実り

                      
 ありがたい、というほかない。家庭菜園からのお福分けが続く。長めのキュウリが何本も届いたときには、急いで二つに切った=写真。そうしないと糠床にも、保存袋にも入らない。

 夏野菜の代表はやっぱりキュウリ。5月に植えた苗がつるを伸ばし、6月には次々に花を咲かせる。それが実をつけ、7月には収穫のピークを迎える。

 夏井川渓谷の隠居にある菜園でも、何年か前まではキュウリを栽培した。苗は1本か2本だが、食べる人間が3人ではそれで十分だ。

6月後半から7月に入ると次々に実るので、日曜日だけでは収穫が間に合わない。週半ばの早朝にも摘みに行かないと、肥大してヘチマみたいになってしまう。

糠漬けやサラダにしても余る。キュウリはそのままにしておくと、水分が飛んで中身が白くなる。

白くなったら食べ物にはならない。というわけで、自分で栽培していたときには、糠漬けのほかに、冬の保存用に塩蔵した。

菜園でつくっているのは、今は三春ネギだけ。あとは勝手にこぼれ種から生えてくる辛み大根が育つのを手助けするだけだ。

カラ梅雨でも砂漠生まれのネギはほっといていいが、キュウリはそうはいかない。普通の梅雨でも、隠居へ行くたびに水やりをした。カラ梅雨の今年(2024年)はずいぶん苦労したのではないだろうか。

先日は、わずか2~3日のうちに、お福分けが相次いだ。家庭菜園とは限らない。おみやげやお福分けのお福分けもあった。

福島市へ行って来たという、若い元同僚からはモモをもらった。カミサンの知人からは電話がかかってきて、急いでアッシー君を務めた。新鮮なメヒカリが手に入った。

近所からはもらい物の昔野菜「小白井きゅうり」と普通のキュウリが届いた。するとほどなく、久之浜に住む元同僚がプチトマトをどっさり持って来た。

糠床は漬けるものがなくても毎日かき回す。何本も漬けると、保存袋かパックに入れて冷蔵庫で保存する。それがなくなるまでは漬けずにかき回すだけになる。

一番いいのは毎日漬ける・食べる――を繰り返すことだが、キュウリは生(な)るときには生る。やはり何本も漬けることになる。

そうやって何も入っていない糠床をかき回していたとき、おや?硬いものがある。半分に切って取り忘れたキュウリだった。

古漬けになったキュウリはしょっぱい。薄切りにして水にさらし、塩出しをしてから、おろししょうがを載せ、醤油をかけて食べることにした。

土曜日(7月13日)の夕食は、糠漬けと古漬けのほかに、味噌を添えた生のキュウリが並び、さらにモモとトマトが添えられた。メーンはメヒカリの唐揚げ。これは熱いうちに急いで食べた。

そうそう、味噌も昔野菜保存会の仲間からちょうだいしたものだった。焼酎と大根の甘酢漬け以外は、すべてお福分けだった。それもとびきり新鮮な――。

というわけで、お福分けの余韻に浸りながら、1週間ほど家を留守にします。その間ブログは休みます。

2024年7月13日土曜日

詩集『遠い春』

                              
 いわき市在住の詩人斎藤貢さんから詩集『遠い春』(思潮社、2024年)の恵贈にあずかった=写真。

 斎藤さんは高校の先生をしながら詩を書いてきた。知り合ってから30年以上はたつだろうか。

 東日本大震災と原発事故が起きたとき、斎藤さんは原発に近い小高商業高校の校長だった。

以来、斎藤さんは地震・津波・放射能の災厄と向き合い、なかでも原発事故の不条理を見据えて詩を書き続けている。

『汝は、塵なれば』(2013年)、『夕焼売り』(2018年)の延長線上に、今回の『遠い春』がある。

3・11から2年後、全国文学館協議会の共同展「3・11文学館からのメッセージ 天災地変と文学」が開かれた。いわき市立草野心平記念文学館のテーマは「3・11といわきの詩人、歌人」だった。

斎藤さんの詩集『汝は、塵なれば』と、高木佳子さんの歌集『青雨記』(2012年7月、いりの舎刊)から作品が選ばれた。そのときのブログを抜粋する。

 ――斎藤さんの作品「南相馬市、小高の地にて」は、小高商校長として体験した3・11の“ドキュメント詩”だが、後半部に彼の思想がこめられる。 

「見えない放射線。/ヨウ素、セシウム、プルトニウム。/それはまるでそれとも知らずに開封してしまったパンドラの箱のようで/蓋を閉じることができずにいる。」

「わたしたちは、ふるさとを追われた。/楽園を追われた。/洪水の引いた後の未来には、果てしない流浪の荒野が広がっていて/神よ、これは人類の原罪。 /これを科学文明の罪と呼ぶのなら/この大洪水時代に、ノアはどこにいるのですか。/地球は巨大な箱船(アルク)になれるのですか。」 

「いくつもの厄災が降り落ちてくる星空をながめながら/カナンの地まで。//荒野をさまようわたしたちの旅は/いったい、いつまで続くのだろうか。」――。

 今度の詩集の表題でもある、最初の詩『遠い春』を読んだとき、原発に対する斎藤さんの根源的な問いは変わっていないことを知った。

 「みちのくの/小さな声が、見えない春に問いかけている。/火をつけたのは、だれか。/恐ろしい災いを置いていったのはだれか、と。」

 あるいは、「あの日から、/ひとはうなだれて、肩を落として歩いている。/苦しいなぁと、こころのなかでつぶやいている。」という詩句には、こちらの姿まで重なる

 それぞれの作品の最後に「反辞(かえし)」が付く。「遠い春」の場合は強制・自主を含めた避難と分断。「それぞれが孤独な戦いを強いられました。それはまだ終わりません」

 文明が生み落としたこの手負いの怪物は、いつ再び暴走を始めるかわからない。いわきの人間も、いつカナンの地を求めて流浪の旅に出るかわからない、そんな懸念が今もときどき胸をよぎる。春はやはり遠い。