2026年10月24日土曜日

ミカンの皮

                                          
 先日、知人から九州産のミカンをちょうだいした。小粒ながら甘い。毎日1~2個に抑えて、何日か季節の味を楽しんだ。

 むいた皮は捨てない。一貫張りの小さなお盆に入れて陰干しをした=写真。干した皮は冬の白菜漬けの香りづけにする。

 細かくちぎりながらも、皮と皮が重ならないようにする。重なると湿り気が抜けずにかびることがある。乾けばわきに寄せて、新しい皮を干す。

 わが家では私が漬物担当だ。夏場は糠漬け、冬場は白菜漬け。1年をざっくり分けると、4~11月は糠漬けのカブやキュウリ、しめくくりがハヤトウリ。12~3月は白菜漬けを食卓に出す。

 香りづけにはミカンの皮だけでなく、柿(かき)の皮も利用する。去年(2025年)は色づいて落ちた庭の渋柿を回収して、干し柿をつくった。

 といっても、軒下に吊るすやり方ではない。皮をむいたあと、ざるに並べて2階の南側の窓辺に置いた。「置き干し柿」である。

傷ついたところがざるに接すると、くっついて実が崩れる。そうならないよう、毎朝、様子を見た。

倒れていれば立て、ざるを回転させながら、窓越しの光がまんべんなく当たるようにした。

 師走に入ると、水分が抜けて表面が焦げ茶色になる。ここまでくると出来上がりだ。正月のいい食べ物になる。

むいた皮にはヒヨドリも近寄らない。軒下の台の上に新聞紙を広げて、そこに並べた。こちらは水分が抜けるのも早いので、すぐ白菜漬けに使える。

わが家の道路向かいの奥、故義伯父の家に甘柿がある。これも色づいて落下するようになった。

熟した甘柿は中身がトロトロしている。こちらはタッパーの中で皮と種を取り除き、崩れた実をスプーンでならしてから冷凍する。甘柿シャーベットである。やはり正月の食べ物にする。

先人の知恵を大事にしながら、手を抜けるところは抜く。「置き干し柿」はそれで成功した、と思っている。白菜漬けから派生した思案の結果と言ってもいい。

庭の渋柿は手の届かない高所に少し残っているだけだ。こちらは採るのをあきらめ、きょう、故義伯父の家の甘柿を収穫する。

あとは鷹の爪(唐辛子)である。これは毎年、夏井川渓谷の隠居で栽培した。2株あれば十分だ。

花を咲かせ、実をつけ、赤く熟したのを摘む。それを持ち帰って陰干しをする。つやつやに輝いていた赤が、乾いてしわしわの地味な赤に変わる。

白菜漬けに入れる鷹の爪はそれで確保できる。余れば、刻んで擦りつぶし、「一味」にする。

今はしかし、手抜きをして栽培を休んでいる。「真っ赤なかわいい鷹の爪ちゃん」。栽培していれば軽口も出るが、ここ何年かはスーパーなどから買ってすませている。

そして、白菜漬けに欠かせないのが、香りづけのユズの実。これはいつもお福分けにあずかる。

それを期待するわけにはいかないので、直売所にあれば買う。準備の最後が、このユズである。最初の白菜を漬ければ、まずは師走を迎える安心感に満たされる。

2026年10月23日金曜日

ミョウガの子は終わり

 


 

 朝、雨が降っていなければ、庭に出て歯を磨く。春から夏にかけては、地面に目を凝らしてヤブガラシの芽を摘む。これを繰り返す。秋になった今も続けている。

 ミョウガも春には新芽を出す。こちらは15~20センチになったのを、根元からナイフでカットする。ミョウガタケである。刻んでみそ汁に散らす。

 ミョウガタケは、茎を伸ばして葉を広げるころには硬くなる。そうなると、もう食べられない。ヤブガラシだけをチェックする。

 葉が生い茂った月遅れ盆のころ、ミョウガの根元にミョウガの子が現れてうす黄色い花を咲かせる。

 今年(2026年)はお盆にミョウガの子を摘んだ。出現は平年並みだ。そう思ったが、その後はさっぱりだった。9月は長雨も重なって、庭で歯を磨くことがほとんどなかった。

 空から雨雲が消えるのに合わせて庭に出ると、ミョウガの花が目に付くようになった。まだ蚊が飛び交っている。半そで・素足でミョウガのやぶに踏み込むのはためらわれた。

 花のありかを確かめておき、長そでシャツに靴下をはいた朝、ミョウガの子をねじるようにして摘んだ。

 ミョウガの子もミョウガタケ同様、刻んでみそ汁に散らす。毎日がそれではあきるので、糠漬けと甘梅酢漬けにする。糠漬けは私、甘梅酢漬けはカミサンが担当する。

 そのまま1個を漬けても芯は硬い。縦に2つに切る。大きいのはさらに刻んで、薄い布巾に包んで糠床に入れる。

刻んだのをじかに入れると、朝晩かき回しているうちに、どこにあるのか、わからなくなる。それでガーゼのような布巾で包むようにした。

甘梅酢漬けはまかせきりなので、調味料のあんばいはわからない。こちらはもっぱら「食べる人」である。晩酌のつまみには、糠漬けよりは甘梅酢漬けがよさそうだ。

ある日の晩酌には、ミョウガの入った料理が3つそろった=写真。1つは朝のみそ汁の残り、そして少量の糠漬けと甘梅酢漬け。

おかずの主役にはならないが、脇役としてはみそ汁の具(ナメコとミョウガなど)も、糠漬けも、甘梅酢漬けも、しっかり季節の味を伝えてくれる。

ミョウガは、わが家の隣の故義弟の家の庭、夏井川渓谷の隠居の庭にも群生している。

義弟の家の庭からは、歯を磨きながらでもミョウガの子を摘める。が、いろんな草が生えている隠居の庭は、そう簡単ではない。まずは手前の草むしり。これが済まないことにはチェックができない。

10月半ばの日曜日に隠居へ出かけたとき、私がミョウガの周囲の草むしりをし、カミサンが群生に分け入って黄ばんだミョウガをカットした。ミョウガの子はしかし、期待したほど採れなかった。今年は、ここは不作である。

翌日は朝、家の庭のミョウガの群生に分け入って、花をチェックした。しおれて倒れかかった茎もある。

この10月前半、ここだけでもけっこうな数のミョウガの子を採った。これもしかし、もう終わりである。

2026年10月22日木曜日

情報公開の目的

                       
    記者として市役所と市議会を担当していたころ、だれにいわれたわけでもないが、ときどき「負のトライアングル」という言葉が頭をよぎった。

 記者会見は週に1回。それを待っていたのでは仕事にならない。毎日、庁内を回り、課長や課長補佐、係長と世間話をしたり、こちらの疑問をぶつけたりしながら、ニュースの材料を拾った。

 そうしたなかで広い見識を持つ職員と知り合い、本音で語り合える関係を持つことができた。アフターファイブには田町で一杯、ということもあった。もちろん、自腹である。

 そんな日々の見聞と本音から浮かび上がってきたのが「負のトライアングル」だった。公務員~政治家~市民の三角関係のことである。

 極私的な見解にすぎない。それを踏まえていうと――。公務員(市職員)は政治家(市議)に弱い=議会で質問される。政治家は市民(有権者)に弱い=選挙で落ちる。市民は公務員に弱い=要望がなかなか実現しない。

 その後、市に情報公開条例ができた。ホームページ=写真=を開いて条例を読むと、第1条に目的が記されている。

行政情報の開示請求は市民の権利であることを、まず述べる。さらに、市政運営の公開性の向上を図り、市民に対する説明責任を全うすることで、市民の適正な理解と批判の下に、公正で民主的な市政推進に資する、と続く。

 条例の狙いは、市民の知る権利にこたえるものだが、しかしそれにとどまらない。「もう一つの目的」があることを、あとで知った。

政治家の働きかけを行政文書として記録に残しておけば、それもまた情報公開の対象になり得る。

公正で民主的な市政の推進には、透明性が欠かせない。つまり、ちゃんと市民に説明できるかどうか、だ。

もう一つの目的を聞いたときに、すぐ「負のトライアングル」を思い出した。予算に対する政治家の「口利き」や「ごり押し」などを封じ込める意味がある、ということと受け取った。

今は辞任した某大臣の「圧力」を報じる新聞を連日読んで、情報公開の話を思い出した。

某大臣は2月の衆院選で落選し、比例で復活した。選挙区内の2市町の首長が対立候補を応援した。

それを根に持ったのか、5月の党支部の会合で、2市町の2026年の道路予算を大幅にカットした、と発言した。

政治家が選挙の恨みからこんな仕返しをするとは、と問題になった。同時に、実際はどうだったのか。口利きがあった結果、予算をカットしたのか。矛先が国交省に向けられた。

すると、「問い合わせ」はあったが、「働きかけ」はなかった。記録は残っていない、という回答だった。

地方自治体の現場をウォッチングしてきた人間からみても、政治家の言動にはより敏感なはずの中央官庁が「面談記録を作らなかった」というのは解せない。

そんなことはもうないと思っていた「負のトライアングル」がまだ生きていた? まさか、とは思うのだが……。

2026年10月21日水曜日

M9・9では地球が壊れる?

                                
 平日は正午になると、カミサンがBS日テレの中国時代劇「瓔珞(えいらく)」を見る。地デジのニュースはその前、民放で見ている。NHKのニュースはそれで、「見なくてもいいか」となる。

 宮廷の愛憎劇らしい。私はあんまり興味がないので、本を読みながら、ときどき響く甲高い声になにかあったなと感じるくらいだ。

 10月16日も同じように本を読んでいたら、0時40分ごろに突然、テレビから緊急地震速報のチャイムが鳴った。

 すぐ画面を見ると、日本列島のうち、北海道から中部地方あたりまでの東日本が赤く染まっている。これはただ事ではない!

 強烈な揺れが来る! 身構えていたが、ウンともスンともいわない。テーブルに置いていたドコモのスマホも静かなままだ。おかしい。

 フェイスブックで情報を探ると、「最大震度7」「M(マグニチュード)9・9」「(エネルギーは)東日本大震災の22倍の大きさ、津波は100m、地球規模の破壊が起こる」。信頼できる知人がいち早く情報を伝えていた。

 3・11はマグニチュードが9・0だった。1960年のチリ地震が過去一番の巨大地震で、マグニチュードは9・5。それをしのぐ超巨大地震ではないか。たしかに地球規模の破壊が起きても不思議ではない。

 ところが、速報から8分後。M9・9は誤報だとわかる。実際には0時38分、カムチャツカ半島で地震が起きた。マグニチュードは6・9で、函館では震度1だった。

 事態は一変し、誤報を引き起こした気象庁の緊急地震速報システムがおかしいんじゃないの、となった。翌日の新聞が原因を伝える=写真。

NTTドコモの「沈黙」も、気象庁からのデータを異常と誤判定したシステム不具合が原因だったという。これはこれでまた問題になった。

ほかの電話会社のケータイは鳴った。しかも、取り消しの通知も緊急地震速報と同じ音で鳴ったという。

「せめて取り消しは違う音で」と思うのは、当然だろう。あんないやな音はできれば聞きたくないからだ。

自治体も一瞬、緊張したのではないか。3・11を超える大惨事を覚悟した職員もいたにちがいない。

なにしろM9・0の記憶がまだ生々しく残っている。私は、大津波は経験しなかったが、沿岸部の惨状は見ている。

M9・9ともなれば、それこそ地球の破滅を思わせるような大変動ではないか。人類の終わりが始まるのではないか。そんな思いにもなるというものだ。

温暖化が進行するにつれて、地球の不安定要因が増えている。地球は大地も空も大動乱時代に突入した。そんな不安を突きつけるような大誤報だった。

2026年10月20日火曜日

渓谷の鉄道事故慰霊祭

                                
   夏井川渓谷の小集落・牛小川に隠居がある。週末に牛小川へ通うようになったのは、平成7(1995)年5月末。31年前のことである。

1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、3月20日に地下鉄サリン事件が起きた。そんな騒然とした時代で、地元の駐在所から身元確認の電話がかかってきたりした。

隠居は故義父が建てた。平の街なかにあったのを譲り受け、解体・移築した。その管理人として、土曜日の夕方、職場から直行した。

カミサンは翌朝、磐越東線の一番列車でいわき駅から江田駅までやって来た。毎日曜日、車で江田駅へ迎えに行くのが習いになった。

隠居の前を、磐東線と県道小野四倉線が走る。たまに通過する列車の音で時間がわかる。

朝の二番列車が通れば、「9時過ぎか」。午後の一番列車なら、「1時半過ぎか」。夜は、最終列車が通り過ぎると「9時だな」。

地元の住民と知り合い、祭礼や総ぐるみ運動に参加した。目の前の自然だけでなく、道路、鉄道、水力発電所など、牛小川の歴史も少しずつだがわかるようになった。

それで知った悲劇である。昭和10(1935)年10月27日午後6時ごろ、折からの豪雨で山の岩石・土砂が崩れ落ち、線路が消えたところへ郡山発平(現いわき)行きの列車が突っ込んだ。

機関車や客車など4両が脱線し、県道と下の河原に転落、12人が死亡し、50人が負傷した。

10年前、事故を伝える当時の地域紙を読み、現場を訪ねた経緯をブログに書いた。それを下敷きにして振り返る。

牛小川の集落から川前へおよそ1キロ進んだがけっぷちが現場で、県道沿いに遭難碑と六地蔵が立つ。

碑の直下に夏井川、山側の石垣ののり面の上には磐東線。少し東に寄ったところで線路はロックシェッドに覆われている。

遭難碑は後世に事故を伝え、犠牲者を慰霊するために建てられた。六地蔵は遺族の1人が建てた。

事故の様子を伝える新聞は、いわき市立図書館のホームページにある「地域資料のページ」で読むことができる。

昭和初期、いわき地方には日刊紙(夕刊)が5紙あった。欠落紙を除く4紙が事故を詳報している。犠牲者のなかにはカミサンの親類がいた。

それから91年。小川郷(さと)の会が主催して、10月18日、慰霊祭が行われた=写真。

遺族、JR、小川町の関係者らが参加した。私も地元・牛小川の半住民ということで声がかかった。

カミサンの親類が犠牲になっていること、そして事故が起きた集落に隠居があって、そこに毎週日曜日、通っていること。

これも念頭に慰霊碑と六地蔵を見ると、通りすがりのドライバーではいられなくなった。郷土史の「年表の1行」でもすまされなくなった。

現地の住民の語り伝え、これからも起こりうる突然の災害・事故の教訓として、あらためて鉄道の、地域の安全を祈ったのだった。

2026年10月19日月曜日

ハクチョウが飛来

                                 
   猪苗代湖にハクチョウの第一陣が飛来したのは10月4日。すると、7~10日過ぎたら、いわき市に最初のグループが飛来するはず――。

なぜ7~10日後か――は、これはもう個人的なデータに基づく「経験則」というほかない。

福島県内の主なハクチョウ飛来地は、会津では猪苗代湖、中通りでは福島市の阿武隈川だ。

ここに、秋になって初めてハクチョウが飛来すると県紙が記事にし、ローカルテレビ局がニュースにする。その初飛来日をメモしておく。

さらに、浜通りのいわき市に初めてハクチョウが渡って来た日(正確には、初めて目撃された日)も記録する。

両方のデータを突き合わせると、猪苗代湖・阿武隈川の飛来といわき市への飛来には7~10日の時間差があることがわかる。

で、今年(2026年)は10月4日に、第一陣が猪苗代湖に現れた。これに7~10日を加算して、いわきには10月11~14日に飛来する、という予測を立て、マチへ行けば必ず帰りは夏井川の堤防を通るようにした。

いわき市のハクチョウ飛来地は、北部の夏井川では上流から三島(小川)、平窪(平)、塩~中神谷(平)の3カ所だ。南部の鮫川では昔から沼部が飛来地として知られている。

 今年10月13日、「孫」の父親が赤井(平)の田んぼに現れた第一陣を動画にしてフェイスブックにアップした。

赤井は平窪の飛来地のすぐそばである。猪苗代湖に現れてから9日後、まさに経験則通りの飛来だった。

実は、去年も10月17日に「孫」の父親の情報でいわきへの初飛来を知った。これを機に、平・塩~中神谷の夏井川をながめ、日曜日には小川・三島の同川でハクチョウの有無を確かめ続けた。

今秋、塩の対岸では河川の土砂除去工事が進められている。なにかとざわついていることもあって、水辺にはほとんど鳥がいない。

ハクチョウもそうなのかどうか。いわきに現れた13日以降も、毎日のように堤防からウォッチングしたが、姿はなかった。

18日の日曜日。カミサンの実家へ寄った足で、右岸経由で夏井川渓谷の隠居へ行き、昼過ぎにいつもの県道を下って平地の三島まで来ると、右岸の浅瀬にハクチョウが10羽、羽を休めていた=写真。この秋初めての対面である。

 三島には翼をけがして残留した「エリー」がいたが、「白鳥おばさん」によると、8月29日の夕方までは羽をバタバタやって元気だったのが、翌30日には姿を消した。

エリーの前に、やはり翼を傷めて残留したコハクチョウの「エレン」がいた。エレンは傷が癒えると、仲間と一緒に北へ帰り、秋に再び三島の夏井川へ戻って来た。2023年のことである。

エリーもそうして白鳥おばさんの前に現れるといいのだが(これはもう、期待というよりは願望に近い)。

 そんなことを思い出しながら平に戻り、鎌田(平)から夏井川の堤防に出ると、塩のはるか下流、調練場(中神谷)の中州に4羽が休んでいた。ここも今季初飛来である。

2026年10月17日土曜日

食器洗いはサッと

                                              
   わが家に毎月、「読書推進運動」の冊子が届く。最新号では、「敬老の日読書のすすめ」にちなんで、新潮社の編集者が、作家阿刀田高さんに執筆を依頼して『90歳、男のひとり暮らし』を本にした経緯を書いている。

 年寄りには「キョウヨウ」と「キョウイク」が必要だということを、前にブログで紹介した。「教養」と「教育」ではない。「きょう、用(がある)」「きょう、行く(ところがある)」。

年を取っても社会とつながっている。孤立ではなく、他者との関係を維持している。ボケないためにもそういう日常が大切だ、という意味である。

 阿刀田さんの本にも「キョウヨウ」が出てくるというので、図書館から借りて読んだ=写真。

 キョウヨウは第2話「教養がありますか」に出てきた。「老人にはキョウヨウが大切なんだ」。その意味を友人が教える。「今日、用があるかどうか」

キョウヨウは自分でつくる。夕食の買い物をする。図書館へ行って本を探す。本を見て歩くのも好きだという。さすがは国立図書館の元職員だけのことはある。

 第1話は「九十歳 手料理いたします」。洗濯は洗濯機がある。掃除はおおむねヘルパーに頼む。問題は食べることだという。「下手くそでも自前のほうが好ましい」

 そうやって料理をして、食べたあとに洗いものをする。てんぷらのような油の多いものは避ける。「老齢の身によくないし、後始末もしんどい」から。

 この後始末、つまり食器洗いは、油の多いものを食べないので、お湯でサッと洗ってすます。

 これに、私のなまけ心が反応した。食べるものは、漬物以外はカミサンにまかせっきりだ。

朝は台所の食卓で、昼と夜は茶の間で食べる。茶の間での食事のあとは、私が片付けをして食器を洗う。

ただし、油の付いた食器はカミサンにまかせ、ご飯茶わんなどを水でサッと洗って終わりにする。

この点は阿刀田さんと同じだ。水を流しながら思い浮かべる情景がある。山麓にポツンと一軒あった「バッパの家」での食事と後片付けである。

家の東側には沢から木の樋で水を引いた池があった。そこで鍋釜や食器を洗った。樋からは水を汲んだ。

食事はめいめいが囲炉裏の周りに箱膳を出し、終わるとごはん茶わんにお湯を注ぎ、たくわんがあるときにはたくわんで茶わんの内側をこすってきれいにする。お湯とたくわんは胃袋へ。

食器はそのあと、水を張ったボールに入れて洗った。今の言葉でいえば、フローではなくストック。これが当時の茶わん洗いだった。

なにしろ、水道はない。流しっぱなしにはできない。水を大事に使わないと、自分が苦労する。

子供のころの体験がしみついているのか、食べ物は残さない。残れば食べ方を工夫する。生ごみとして廃棄する量を減らす。そうすれば食器洗いも楽になる――と思っている。

胃袋はエネルギーの生産工場であり、残り物の分解・処理工場である。年寄りは毎日、食器洗いをしながらそんなことを考える。