2024年4月27日土曜日

ノノヒョロその他

                      
 春のお福分けが続く。前に書いたが、今年(2024年)はセリの鮮度がとてもいい。ほのかな苦みと香り、シャキシャキとした歯ざわり。晩酌のつまみとしては最高だ。

 先日はノノヒョロ(ノビル)と、豚肉と大根のしゃぶしゃぶが届いた=写真。ノノヒョロは味噌で生食した。

しゃぶしゃぶの大根は縦に薄切りにしたもので、味もしみている。大根も豚肉もやわらかくてうまかった。

震災前は、春になると川の堤防からノノヒョロを、渓谷の小流れからセリを、そばの湿地からコゴミ(クサソテツ)を摘んだ。

ただし、この「震災前」は「まだ現役だったころ」と同義でもある。現役のころは川の堤防を散歩していた。

夏井川渓谷の隠居へは、仕事を終えた土曜日の夕方に出かけた。こちらは一泊二日の滞在になるので、隠居の周辺を歩き回る時間がたっぷりあった。

小流れの湿地にコゴミの芽が現れるのは大型連休の直前だ。もちろん、生物季節観測と称して毎年ウオッチングしていた結果として、そのころになるとチェックを始める。

もっと標高の高い阿武隈高地の山里では、これが少し遅れる。それを頭に入れて低地から山地へと山菜を採り続けることはできる。

大型連休中に阿武隈の山里を巡ると、コゴミの葉で覆われた土手が目に入る。土地の人はすでに初物を口にしたことだろう。そう想像しながら通り過ぎる。

でも、やはり手っ取り早いのは、わが家の庭や渓谷の隠居の庭にあるものを摘むことだ。

わが家の庭にはサンショウの若木がある。毎年春になると若芽を摘む。これがさわやかな辛みを演出する。地面からはミョウガタケも現れる。

渓谷の隠居の庭から摘んだ若いフキの「きゃらぶき」の上にサンショウの若芽が載る。「さんしょうみそ」にもなる。ミョウガタケは汁の実にする。

「野菜の代用になるので助かる」。お福分けがいっとき、出費を抑えてくれることは確かだろう。それに、「季節を食べる」うれしさが加わる。

毎年この時期になると、野菜は「家菜」、山菜は「野菜」ではないか。しかも、山菜は家計の助けになる――そんなことを思う。

そこへ、こんな本を読んだ。経済アナリストの森永卓郎さんが書いた『ザイム真理教』(三五館シンショ、2023年)の「あとがき」。

「高い生活費をまかなうために、必死で働いて増税地獄のなかに身を置く都市生活を捨て、田舎に逃避し、そこで自給自足に近い生活を送ることだ」

 「自ら育てて収穫した食料も、太陽光パネルで発電した電気も、井戸からくみ上げる水も消費税はかからない。そして、住民同士で『おすそ分け』をし、不用品を売買する。個人間の売買に消費税は課せられない」

 少なくとも「おすそ分け」=「お福分け」の精神は堅持する、というふうに受け止めた。

2024年4月26日金曜日

巨岩のような人だった

                      
 「百姓バッパ」の吉野せいさんはさておき――。著名な文学者とじかに接したのは2回。いわき出身の詩人草野心平さんと、彼と親交のあった文芸評論家粟津則雄さんだ。

 私がいわき民報社に入るとすぐ、編集長が試すように言った。大黒屋デパートで心平さんが個展を開いている、会って話を聞いてこい。

 まだ取材のイロハも知らない人間には、何を聞いたらいいのかさっぱりわからなかった。女性秘書が取り次いでくれたが、心平さんは結局、一言もしゃべってはくれなかった。

 それから二十数年がたって、いわき市立草野心平記念文学館が開館し、粟津さんが初代館長に就いた。

 いわき地域学會の初代代表幹事でいわき湯本温泉の老舗旅館古滝屋の社長だった故里見庫男さんが毎月、同旅館を会場に異業種交流の飲み会を開いた。たまたま粟津さんと席が向かい合い、文学の話をしたことがある。

 「文化と福祉のボランティア団体」であるブッドレア会も、里見さんが中心になって発足した。例会で粟津さんが講師を務めたことがある。アリオスで開かれた朗読コンサートにも出演した=写真。

 粟津さんが4月19日に亡くなった。96歳だった。訃報に接して古滝屋での懇親会と講演、アリオスでのコンサートを思い出した。

平成20(2008)年のブログに講演とコンサートの記録が残っている。粟津さんをしのんで、それを要約・再掲する。

【ブッドレア会講演】粟津さんは「日本人の心とことば」と題して、心とことばの奥深いところ(つまりは詩、と私は解釈したが)で結びついている個人的な体験を主に語った。

最初は小学校へ上がる前に見た「赤黒く恐ろしい夕焼け」の記憶。その夕焼けが、心とことばの奥深いところと結びついた一番早い出合いだったという。

中学生でアルチュール・ランボーを知り、旧制高校時代に枝垂れ桜の怖さ、すごさを知って、「梅好き」から「桜好き」になった。

詩人(たとえばランボー)に助けられた――とも語った。戦争末期の暗い時代、粟津さんはランボーに支えられて「時代にはむかう牙」を磨いた。

そして、宮沢賢治の「永訣の朝」を読んだときの衝撃。草野心平、小林秀雄との出会い。「永訣の朝」は、粟津さんにとっては「事件」だった。草野心平、小林秀雄は「決定的な存在」となった。

【朗読コンサート】コンサートの後半は、粟津さんがピアノ伴奏にのせて草野心平の詩を朗読した。「秋の夜の会話」から「噛む」まで、粟津さんが心引かれてやまない心平の詩10篇を朗読した。

「秋の夜の会話」はやさしい声音と野太い声音を使い分けて、いかにも会話をしている雰囲気を出す。

「カエル語」でつづられた「ごびらっふの独白」はフランス語風、そのうえシャンソン調。そして、「わが抒情詩」の重く暗いため息。役者顔負けの演技力だ。

「知的巨岩」ないし「知的ブルドーザー」とでも形容したくなる人が、きめこまやかに心平の詩を朗読した。

2024年4月25日木曜日

芽吹き前線

                      
 田村郡小野町からいわき市川前町小白井へと延伸した「あぶくま高原道路」プラス県道を「走り初め」したことを前に書いた。

 いわきの平地から川前町の小白井(旧小白井小・中あたり)までは、標高差が600メートルはある。

 いったん夏井川渓谷の隠居に寄り、30分ほど土いじりをしてから、小野町へ向かった。大型連休前の日曜日(4月21日)である。

いわきの平地はすでにヤマザクラの花も、ソメイヨシノの花も散って、丘陵はすっかり初夏の装いだ。

渓谷の隠居の対岸を彩っていたアカヤシオ(岩ツツジ)とヤマザクラの花も消えた。隠居の庭のシダレザクラと若いサクラが少し散り残っている。シダレザクラの樹下に立っていると、隣接する空き地から声がかかった。

「ちょっとお聞きします。岩ツツジがあるのはこのへんですか」「もう終わった、ここの前の山が一番。先週の日曜日までは満開だったんだけど」

例年だと4月中旬がアカヤシオの見ごろで、下旬に入っても花は残っていたのだが、このごろは開花が早まっている印象が強い。

それからほどなく、小野町へ向かう。隠居のそば、JR磐越東線と並走する県道小野四倉線の土手は、セイヨウカラシナらしい菜の花で黄色く染まっていた=写真上1。

川前を過ぎ、市境の峠を越えて小野町夏井地区に入ると、また平地が広がる。阿武隈高地の太平洋側は、いわば2階建ての家と同じだ。1階(いわきの平地)と2階(小野町の平地)を階段(夏井川渓谷)がつないでいる。

磐東線の夏井駅あたりで標高は420メートル前後だろうか。ゆるゆると流れる夏井川の両岸にソメイヨシノが植えられている。「夏井千本桜」だ。

駅近くのソメイヨシノ=写真上2=を含めて満開は過ぎていたが、駐車場はどこも満パイ状態だった。

小野町の周囲の山は木の芽が吹いたばかり。さすがに標高の低いいわきよりは春の訪れが遅い。

小野ICのループ橋を利用して、あぶくま高原道路の延伸部分に入る。すぐ滝根ICを通過し、ほどなくいわき市川前町小白井に着く。こちらも木々の芽吹きは少ない。

このドライブで最も標高が高かったのは、やはり小白井だ。旧小白井小・中前で650メートルほど。芽吹き前線の中核となるコナラなどの雑木山はまだ冬の眠りから覚めてはいなかった。

小野町のコンビニで昼の弁当を買った。見晴らしのいいところで食べようとなったのだが、これはという場所がない。

結局、下川内、小川町・戸渡から国道399号の十文字トンネルを抜け、沿道のスペースに車を止めて、そこで食べた。 

右手にヤマザクラの花で染まった山が見える。「なんという山?」と問われても、方角がわからない。

二ツ箭山なら「裏二ツ箭」だが、どうもそちらではなさそうだ。背戸峨廊(セドガロ)の源流だろうか。いずれにしても、そこからの眺めを楽しんでから、小川の平地へ下りた。

2024年4月24日水曜日

ロング・グッドバイ

                              
 月に1回、移動図書館「いわき号」がやって来る。カミサンが運営している「かべや文庫」の本を返し、また新しい本を借りる。

 このごろはシルバー関係の本が増えた。茶飲み話をしに来る同世代の人の興味・関心を反映しているのだろう。

「これ、おもしろいよ」。いつもの流れで、カミサンが矢部太郎著『マンガぼけ日和』(かんき出版、2023年)=写真=を差し出した。原案は長谷川嘉哉、とある。

 長谷川さんは認知症の専門医だ。長谷川さんの著書『ボケ日和』の装画を矢部さんが手がけた。その縁で『ボケ日和』を原案に、矢部さんがマンガを描き下ろしたのだろう。

 矢部さんはお笑い芸人でもある。大河ドラマ「光る君」では、主役の紫式部に仕える従者「乙丸」を演じている。

 父親は絵本作家のやべよしみつ。介護職の母親が働きに出ている間、在宅で仕事をする父親が矢部さんの面倒をみたという。

漫画家としては『大家さんと僕』がベストセラーになり、手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。

 漫画の特性なのか、認知症をテーマにしながらも、どこかゆるやかで、ほのぼのとした仕上がりになっている。

 たとえば、「モノ盗られ妄想」。隠した場所を忘れて、見つけてくれた人=実は一番面倒をみてくれているお嫁さんと結びつけて、「アンタが盗った」と思い込む。

「アンタがいないと困る」の裏返しで、「介護の勲章」だと医師から説明を受けても、お嫁さんは「その…勲章、ぜんっぜん嬉しくない…です…」。そして、最後。「息抜きも忘れないでくださいね」「はい」

なかでも心に残ったエピソードがある。「夏」の章の「ゆっくり…」。カメラが趣味のおじいさんと、チャーミングなおばあさんが暮らしている。

おばあさんは認知症の中核症状がみられる。おじいさんが付き添って専門医のもとへ通っている。

キャッシュカードは使えるかと聞かれて、おばあさんは答える。わたしは問題ないよ、カードの裏に暗証番号を書いておいたから。なんてことを!

認知症の最大の要因は「加齢」で、発症したとしても薬物療法やリハビリで悪化するまでの時間を引き延ばすことができる。医師は「ゆったり構えればいいんです」という。

その帰り道。おばあさんがおじいさんに語りかける(言葉遣いは男女が逆転している)。「ロングなんとか言うとったなあ先生…認知症のことを英語で…」。「ロンググッドバイですね」とおじいさん。

すると突然、おばあさんはおじいさんの手を握る。「ゆっくり…さよならしていこうなあ」

そうか! そういう年齢になったんだ。ロング・グッドバイ(長いお別れ)。これは認知症に限らない。

老夫婦が一緒にいる時間は、一日が終わるたびに短くなる。しかし、時間は過ぎていくのではない。記憶の中に日々の暮らしが蓄積されるのだ。

一日を終えるときに「きょうも一緒でよかった、ありがとう、お休み」と胸の中で語りかける。それもまた、ロング・グッドバイにはちがいない。

2024年4月23日火曜日

シン・あぶくま高原道路

                     
 「シン・ゴジラ」とか「シン・ウルトラマン」とかにあやかれば、「シン・あぶくま高原道路」となる。

 西の東北道・矢吹ICから東の磐越道・小野ICを結ぶ自動車専用道路(あぶくま高原道路)が4月13日、いわき市川前町小白井まで延伸されたというので、日曜日(4月21日)に「走り初め」をした。

 あぶくま高原道路は、直接にはいわきと関係がなかった。ところが、原発事故が起きたあと、浜通りの復興と再生を支える幹線道路の一つとして、小野ICから東側への延伸が決まった。

 いわきのマチに住む人間には無縁の道路かもしれない。が、阿武隈高地の山里で生まれ育った人間には、この道路の新設は気になる。

 道路の延伸は、報道では知っていた。しかし、どこをどう通るのかはよくわからなかった。

 去年(2023年)の夏、新盆で田村市常葉町の実家へ帰る途中、小野町内ではなく、夏井地区から滝根町へ直行する夏井川沿いの道路を利用した。

このとき、空中に架かる橋を見た。これが「シン・あぶくま高原道路」か。初めて具体的に道路のイメージがわいた。

マイクロツーリズムと称して、年に2回くらいは夏井川渓谷の隠居から小野町へ駆け上がる。

そのあと、小野ICから平田ICまで無料のあぶくま高原道路を利用し、道の駅ひらたで買い物をする。あとは国道49号を下っていわきへ戻る。

そのドライブの延長で、今度は小野ICから東へ、つまりいわきへ足を運んでみることにした。小野ICのループ橋にも興味があった。

小野IC付近は道路網がややこしいので、事前にシミュレーションをして、どことどこで左折するかを頭にたたき込んだ。が、やはり現場では少しとまどった。

ループ橋は進入するとこんな感じ=写真上1(撮影はカミサン)。さらに延伸部分に入るとほどなくトンネルが待つ。その先に滝根ICが設けられている=写真上2。

自動車道としては滝根ICまで2.6キロ、その先6.6キロは一般道(県道)として整備された。

矢大臣山の西北麓を走り、矢大臣山トンネルを抜けると、ほどなく閉校になった小白井小・中学校の前に出る。

ここまでくると、あとは頭に地図が入っている。川前の荻から下川内へ抜け、国道399号を利用していわきのマチへ戻った。

ほとんど山あいを通るので、景色を楽しむということはない。距離的にも短いので、あっという間に小白井へ着いた、という印象だ。木々は少し芽吹いたばかりだった。

この道路は県道小野富岡線と接続する。その意味では、浜通りの富岡から阿武隈の山々を越えて中通りに向かう幹線道路には違いない。

復興再生という意味もあるのだろうが、事故を起こした1Fは、安定しているとは決していえない。万が一のための「避難道路」でもあることを実感した。

ただし、平田ICへ向かう小野IC合流部は引き続き通行止めになっている。こっちの方は確かに困ったものだ。

2024年4月22日月曜日

誤認による食中毒

            
 春は山菜、秋はキノコ。自然の食材がいろいろ手に入るという意味ではその通りなのだが、この時期には誤認による食中毒も多くなる。

 先日の県紙に、いわき市内の夫婦が有毒のバイケイソウをウルイ(オオバギボウシ)と誤認して食中毒になった、という記事が載った。

 さいわい命に別状はなかったようだが、春になると、このバイケイソウを誤食する事故が後を絶たない。

 バイケイソウは、一般には高山植物に分類される。いわきに高山、あるいは亜高山はあるのか――となれば、「ないよなー」となる。

 しかし、『福島県植物誌』によると、三和町や田人町の山地にはこのバイケイソウが自生している。

 植物が専門の高校教師を先生に、仲間で「山学校」をしていたころ、田村市の大滝根山やいわき市の四時川渓谷などでバイケイソウの若葉を見たことがある。入遠野川支流の大風川渓谷(古殿町)でも出合った。

新聞記事に載った食中毒の経緯は――。夫が日曜日(4月14日)、いわき市内の山から「ウルイ」を採取し、その日の晩、チャーハンの具材に加えて食べた。1時間もすると嘔吐、吐き気、下痢、めまいなどの症状があらわれ、救急搬送された。

いわき市のホームページには、①令和2(2020)年4月=知人からウルイといわれて譲り受けたのを油炒めにして食中毒に②同4年3月=自分で誤認して採取し、酢味噌和えにして食中毒に――と、2例のバイケイソウ中毒事故が紹介されている。

バイケイソウをウルイと思って誤食するのは、もしかしたら春の典型的な例なのかもしれない。

山菜がらみの食中毒だけではない。秋にはキノコの食中毒事故が起きる。いわきキノコ同好会は年に1回、会報を発行している。全国のキノコ中毒例が掲載される。

3月末に発行された第29号=写真=にも載る。令和5(2023)年度中に国内では二十数件のキノコ中毒事故が発生した。

そのなかで最も多かったのが10~11月のツキヨタケの中毒事故だった。親戚がムキタケと思って採取したものをもらった、道の駅でムキタケとして売っていた、ヒラタケ、あるいはシイタケと思って採取した――いずれも誤認(誤食)が原因だ。

ツキヨタケは夏井川渓谷にも発生する。生長したものはホットケーキより大きい。見た目は確かに、ムキタケやヒラタケに似る。

迷ったら1個、木からはがし、傘を縦に割いて柄の付け根を見る。黒っぽいシミがあれば毒、つまりツキヨタケであることがわかる。

「ツキヨタケを採って家に持ち帰り、夜、部屋の明かりを消したら光った」。いわきキノコ同好会の仲間には、食・毒を超えてキノコの生態や形態に魅了されている人が多い。まずは毒キノコを覚える。それが中毒を減らす近道、ということになる。

2024年4月20日土曜日

大きな変化

                               
 すっかり春めいてきた。カミサンが庭からニリンソウの花を1本取って、食卓に飾った=写真。

 だいぶ前、親類の土地に自生していたニリンソウを分けてもらい、庭に移植した。前はひとかたまりになって咲いていたが、土が合わなかったのか、年々数を減らし、もう消えたと思っていた。

 しかも、4月の後半だ。ニリンソウやカタクリは早春植物といわれていて、ほかに先駆けて開花する。スプリング・エフェメラル(春の妖精)にしてはずいぶん寝坊助ではないか。

 朝食のときに見ると、花が閉じていた。日中はもちろん開いている。温度の変化に応じて花を開閉するのを初めて知った。

 「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」。花は時期がくれば咲くが、人間の世界はいつも同じではない。

 拡大解釈をすると、人の世は移り変わるのを常とする、という意味では、これはもしかしたら大きな変化だったかもしれない。

   3月最後の日曜日に行政区の総会が開かれた。やることは毎年同じなので、予算と事業計画も前年度と大枠では変わらない。

 とはいえ、今回は全く前例にない提案をした。区費の3年間減額である。審議に先立って、私がその理由を説明した。総会資料にも盛り込んだ。

 話は1年前にさかのぼる。コロナ禍が収まらないため、対面による総会ではなく書面審議による総会が続いた。

 去年の書面審議の過程で「繰越金が多すぎるのではないか」との指摘があり、5年度中に善後策を検討することを約束した。

 数字を出すことは控えるが、けっこうな額になっていた。理由は何か。役員会で過去10年の収支決算書を精査した。

やはりというべきか、コロナ禍による行事の中止が相次いだことが主因だった。球技大会や体育祭をはじめ、各種の行事が中止、あるいは規模縮小され、事業費や負担金、助成金、交際費(祭礼等の祝い金)の支出が減った。

通常の水準(令和元年度までの平均収支)を目安に、何パターンか区費減額による収入減、各種行事再開による支出増を試算した結果、「区費の6分の1減額3年間」で繰越金がコロナ禍前に落ち着くことがわかった。

コロナ禍で活動が停滞したため、団体によっては負担金の徴収を見合わせるといったケースもあった。

それと同じで、遅まきながら活動が抑えられた分、個々の負担も軽減しよう、ということになった。

これはたぶん、世代的な視点が影響しているように思う。長老組はどうしても前例踏襲主義になってしまう。

 ところが、若い世代は違う。おかしいのではないかという問題意識とセンス、これが地域で暮らす視点と結びついたとき、ではどうしたらいいかという答えと変化を生むエネルギーになった。