2025年1月18日土曜日

『小説都庁』

                     
   作家の童門冬二さんは本名・太田久行。都庁マンだった。美濃部都政時代、ブレーンの一人として知事を支えた。

美濃部さんが昭和54(1979)年4月、3期退任すると同時に退職して作家業に専念した。在職中から本を何冊も出していた。

退職した年に本名で『小説都庁』を出す。ちょうどいわき市役所を担当していたときだったので、すぐ読んだ。

自分で買ったか、誰かから借りたかは記憶があいまいだが、そのころは30歳を過ぎたばかりだから、本屋に注文したのだろう。若かったのでよく飲み屋へ出かけていたが、本もそれなりに買って読んだ。

都庁も市役所も行政組織である点では変わりがない。が、都庁は巨大な組織だ、予算規模からいってもどこかの小さな国と変わらない。

そんな組織の中で個人はどう生きていくのか――といった問題意識から読み進め、役所と役人観を鍛え直したように思う。

 その前だったか後だったか、今となっては定かではない。アフターファイブに酒を酌み交わし、本音をぶつけ合う若い市職員が何人かいた。その若手職員が童門さんを講師に招いて勉強会を開いた。

これもまた記憶があいまいなのだが、夜、童門さんを囲む懇親会に呼ばれて出席した。それが、童門さんといわきをつなぐ端緒だったのではなかったか。

平成9(1997)年、いわき市が生涯学習事業として「いわきヒューマンカレッジ」を始めると、童門さんが「学長」に就任した。以来毎年、学長講演が行われた。

平成28(2016)年に開かれた市制施行50周年記念式典では、童門さんも市外在住者として特別表彰を受けた。

 その童門さんが1年前の1月13日に亡くなった。本人の意向で一周忌がすむまでは公表を控えていたのだという。

1年後の1月13日午後、勿来文学歴史館で企画展「専称寺の文化財~僧侶の学問所~」を見た。帰りにはまん丸い月が出ていた=写真。十四夜の待宵月(まつよいづき)だった。

帰宅したあと、1年前の逝去を告げるニュースに触れて、そこまで自分を律していたのかと、あらためて身の引き締まる思いがした

著作物の多さにも舌を巻いた。ウィキペディアに並ぶ本は、数えると400冊近い。タイトルをながめているうちに、昭和58(1983)年の『小説上杉鷹山』も読んでいたことを思い出した。

著作の最後の本はタイトルが変わっている。『マジメと非マジメの間(はざま)で』(ぱるす出版、2023年)。

「マジメ・非マジメ」は、個人的には「マジメ・不マジメ」よりは大事な視点だと思っている。これはいつか読んでみたい。

2025年1月17日金曜日

乾燥注意報

                      
 ロサンゼルスの山火事が頭から離れない。1月7日に発生し、1週間が過ぎた今でも鎮火に至っていない。

 報道によると、海沿いの高級住宅地で5千棟以上、内陸の住宅地では7千棟以上が焼失した。

 海に面した巨大都市なのに山火事が多いとは……。これまでにもロスの山火事のニュースに触れるたびに、疑問には思ってきたことだ。

 しかし、今回の山火事はケタ違いだ。焼失戸数はむろんのこと、火災現場が何カ所にも及んでいる。

 グーグルマップでロスアンゼルスを見ると、北方に山脈と大きな砂漠がある。防災専門家などの解説によれば、太平洋側に低気圧があると、砂漠から乾燥した風が吹き寄せる。さらに山を越えるとき、フェーン現象が起きる。

とりわけ地球温暖化が進んだ今は、秋から冬にかけて森林が乾燥しやすくなっている。ちょっとした刺激で発火しやくなっている、ということなのだろう。

 いわき地方も冬から春にかけて、空気が乾燥した日が続く。前にも書いたが、私は乾燥注意報がどうにも気になって仕方がない。防災メールでも必ずチェックする=写真。

静電気に悩まされるからだけではない。火事が起きるとオオゴトになる――子どものときに経験したふるさとの大火事の記憶がよみがえるのだ。

拙ブログからそのときの様子を再掲する。今からちょうど70年前の昭和31(1956)年4月17日夜、東西にのびる阿武隈の一筋町があらかた燃えて灰となった。

乾燥注意報が出ているなか、町の西の方で火災が発生した。火の粉は折からの強風にあおられて屋根すれすれに飛んで来る。

そうこうしているうちに紅蓮の炎が立ち昇り(火災旋風だったのだろう)、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。町はたちまち火の海と化した。

 一夜明けると、見慣れた通りは焼け野原になっていた。住家・非住家約500棟が焼失した。

少し心身が不自由だった隣家(親類)のおばさんが、近所の家に入り込んで焼死した。それがたぶん、一番ショックだった。

 7歳では泣かなかった「こころ」が、46歳のとき、阪神・淡路大震災(きょうで発生から満30年だ)の被災者を思って泣いた。東日本大震災では、泣くだけでなく震えた。

「やっと家のローンを払い終わった」。大火事から30年余が過ぎていたように思う。ぽつりともらした亡母のことばが今も耳に残る。大災害からの再生にはそのくらいの時間がかかる。

20歳から5年刻みで同級会が開かれた。還暦同級会で、火の粉が吹きすさぶ中、ともに避難した幼なじみがしみじみと言っていた。

「あのとき、焼け死んでいたかも」。それぞれが荒れ狂う炎に追われ、着の身着のまま、家族バラバラになって避難したのだった――。

ロスの山火事でも同じように避難し、住まいを焼失した人がたくさんいる。その人たちの心中が察せられる。

2025年1月16日木曜日

専称寺展

                                 
   年末年始休が終わったと思ったら、3連休がきた。日曜日(1月12日)は用事があって夏井川渓谷の隠居へは行けなかった。

翌日は成人の日の1月13日。ひまを持て余したのか、カミサンが午後になって「どっかへ行きたい」という。

あれこれ行き先を考えていたら、まだ見ていない企画展を思い出した。いわきの南部、市勿来文学歴史館で「専称寺の文化財~僧侶の学問所~」展が開かれている(2月16日まで)。

わが家からすぐ近くにある常磐バイパス(現国道6号)にのれば、ほぼノンストップで勿来文歴に着く。

専称寺は、わが地域と夏井川をはさんだ対岸の山腹にある浄土宗の寺だ。街への行き帰りに堤防を通ると、本堂の伽藍が目に入る。

同寺は江戸時代、東北地方を中心に末寺が200を越える大寺院だった。同時に、主に東北地方からやって来た若者が修学に励む「大学」(名越派檀林)でもあった。

 この「大学」で学んだ高僧・名僧は数多い。そのなかの一人に江戸時代の俳僧一具庵一具(1781―1853年=出羽出身)がいる。幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした。

その人となりを調べたことがある。歴史や宗教に詳しい故佐藤孝徳さんらの助けを借りた。

その佐藤さんが平成7(1995)年、『浄土宗名越派檀林専称寺史』を出したときには校正を引き受けた。

それで、同寺が「東北文化の交流の場であり、新たな文化の発信地」だったことを知った。いよいよ同寺の歴史に親愛と畏敬の念を抱くようになった。

東日本大震災で同寺は大きな被害に遭った。本堂とふもとの総門は「全壊」、庫裡は「一部損壊」の判定を受けた。今は本堂と総門の災害復旧工事も完了している。

企画展では佐藤さんの本でなじんでいた史料と対面した。「授手印」=写真(チラシ)と「境内図」(江戸中期)について思ったことを少し。

解説によると、同寺の授手印は正しく教え・戒律を相承したことを証明する書状の意味で使われている。先任の住職が朱で手印を押して後任の住職に渡した。展示されたのは専称寺十世・良拾が発給したものだという。

佐藤本の校正段階では、現物は見ていなかった。本物の授手印を見た感想としては「手が小さい」だった。カミサンの手とそう変わらない。ということは、良拾は身長150センチちょっとだったか。

 境内図には学僧たちの寮舎と思われる建物が、ふもとの総門のすぐ後ろと、中段の梅林になっているあたりに密集している。

 佐藤本には、かつて200人を越える学僧が学ぶ東北最大の寺院だった面影は十分残っている、とある。境内図からはそのにぎわいが立ちあがってくるようだった。

2025年1月15日水曜日

キノコ同好会の30年

        
  年末にいわきキノコ同好会の定期総会が開かれた。開催案内のはがきに「今後の会の運営について話し合いを行います」とあった。

同好会が発足してざっと30年。会員の高齢化と、それに伴う退会が続く。私も会員歴だけは古い。

若い人は入ってこない。世代交代が見込めない以上は、結論はひとつ。会員の親睦とキノコの知識の普及・啓発という目的は、十分果たされたのではないか。そんな思いで総会に臨んだ。

キノコの食毒を知りたい、というのが入会の動機だった。食欲のためだが、観察会と勉強会を重ねるうちに、キノコの世界の奥深さに触れた。

キノコは、色が多彩で形も多様。そのうえ、人知れず発生しては姿を消すものが多い。食毒を超えてキノコを学ぶ楽しみが増えた。

同時に、森で出合ったキノコから、同好会の仲間の話から、気候変動に思いをめぐらすこともたびたびあった。

南方系の毒キノコであるオオシロカラカサタケや、熱帯産の超珍菌アカイカタケがいわきで発見されたことがある。

いわきの沖合は黒潮と親潮がぶつかる「潮目の海」だ。山野でも同じように南と北の動植物が混交する。

とはいえ、海のイセエビやトラフグと同様、陸のアカイカタケなどの出現を驚きだけで終わってはいけない。

温暖化が進めば、北方系の動植物は北へ後退し、南方系の動植物は北上を続ける。気候変動が地域でも「可視化」されつつある。そのことをしっかり頭に入れておかないと――。キノコ同好会で学んだ最大の教えがこれだろう。

この30年の間の出来事では、東日本大震災に伴う原発事故が大きかった。相双地区を中心に、一時16万人強が避難を余儀なくされた。森のキノコも汚染された。いわきでは今も野生キノコの摂取・出荷制限が続く。

毎週、夏井川渓谷の隠居へ通っては森を巡った。林内では野草やキノコを観察し、秋にはヒラタケ=写真=などを収穫した。3・11以後は、それができなくなった。

キノコ同好会の会報には、事故の翌年から公的機関などで測定されたキノコの放射線量が載る。「キノコに降りかかった原発災害」には、しかし終わりが見えない。

総会ではやはり会の今後が議論された。結論からいうと、令和7(2025)年度は従来通り活動し、12月の定期総会を最後に解散する。会報第30号は総会時に発行し、最終号とすることが決まった。

今年は日本菌学会東北支部の観察会・総会がいわき市の石森山周辺で開かれる。受け入れ団体が地元にないのも寂しい、ということも、1年間の会存続につながった。

 個人的には、観察会を通じてキノコを学び、キノコを含む菌類への興味を深めることができた。同好会はその原動力だったと、あらためて思う。

2025年1月14日火曜日

枯木はワンダーランド

                               
   これはまさに日本の環境文学(ネイチャーライティング)だろう。深澤遊『枯木ワンダーランド――枯死木がつなぐ虫・菌・動物と森林生態系』(築地書館、2023年)=写真=を読んでそう思った。

サブタイトルにもあるように、枯死木をめぐる森林の生態を一般向けに分かりやすく書いた本だ。

著者は信州大学生のとき、講義で菌根菌を知り、それまで通っていた植物社会学の研究室からキノコの研究室に鞍替えをする。その後、京都大学大学院農学部研究科を修了する。

本を出したときは東北大学の大学院助教だったが、現在は森林生態学が専門の准教授として、木材腐朽菌と枯木を中心にした研究を続けているようだ。

拙ブログでちょっと前にスザンヌ・シマード『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』と、ロビン・ウォール・キマラー『コケの自然誌』を取り上げた。

シマードは菌根菌ネットワークを研究するカナダの森林生態学者、キマラ―はネイティブアメリカンの植物学者で、2人とも『枯木ワンダーランド』に登場する。

それもあって、枯木をテーマにしたこの本を、シマードらと根っこを同じくする環境文学として読んだ。

とりわけリグニンと木材腐朽菌、そして温暖化の影響で大規模な山火事の頻度が増しているという話には、ページをめくる指が止まった。

地球の歴史の中で石炭紀があった。植物の体はリグニンなどによって堅固につくられているが、それを分解する微生物はまだ現れていなかった。

そのため、大森林を構成していた巨木が倒れ、湿地に埋まり、土中深く積み重なって、石炭ができた。

やがてリグニンを分解する担子菌(白色腐朽菌と呼ばれるグループ)が登場すると、石炭も消えた。

 しかしこの仮説は、現在では疑わしいと考えられている、と著者はいう。理由は、石炭紀にはすでにリグニン分解菌がいたらしいこと、リグニン由来の石炭は70%程度であること、石炭紀以降も有機物の大量蓄積が何度もあったこと、などによる。

専門家の間でも見解が分かれている。そのことを頭に入れておく。簡単に「これでなければあれ」ときめつけない、ということだろう。

山火事の話は、ちょうどロサンゼルスで住宅街を焼く大規模な森林火災が発生し、甚大な被害が出ていることもあって、読み飛ばせなかった。

「湿潤な日本では大規模な山火事の脅威を感じることはあまり多くないが、カナダやアメリカでの山火事のニュースで、街に迫った山火事の影響で昼間にもかかわらず街が暗く空が赤い光景を見ると、山火事を防ごうという心理は当然のように思う」

 その自衛策として、カナダやアメリカ、北欧の自然公園では、林床にたまった落葉や落枝を取り除くために、定期的に火入れをしているという。

今度の山火事報道で知ったのだが、森林火災は二酸化炭素放出=気温上昇を招くため、気候変動の悪循環をもたらす。もはや「対岸の山火事」ではない。

2025年1月11日土曜日

慶長奥州地震津波

                     
   いわき地域学會の若い仲間から、「ネクスト情報はましん」の社報「TOMBO(トンボ)」(不定期刊)の恵贈にあずかった。

121号(2023年10月)、122号(2024年1月)、123号(同年6月)、124号(同年10月)で、どの号にも若い仲間が記事を書いている。

なかでも「生誕120年記念 草野心平と背戸峨廊」(121号)と「セバスティアン・ビスカイノと江戸初期のいわき~最初にいわきを訪れた西洋人~」(122号)には興味を引かれた=写真

若い仲間は社報編集メンバーの一人で、115号(2021年10月)の「いわきの新聞事始め」では、明治初期にいわきで初めて発行された「磐前(いわさき)新聞」を取り上げた。同新聞については拙ブログでも紹介していたので、私も取材を受けた。

 背戸峨廊も拙ブログで何度か取り上げている。ポイントは呼び名で、「セドガロ」と地元の人たちが呼びならわしていた江田川(夏井川支流)に、心平が「背戸峨廊」と漢字を当てた。

記事では私の見解に触れながら、近年は呼び名が「せとがろう」ではなく、「セドガロ」が一般化しつつあるようです」と締めくくっている。

 勉強になったのはビスカイノの記事だ。関ケ原の戦いのあと、岩城氏は所領を没収され、代わって譜代の鳥居氏がいわき地方を治める。

 鳥居氏は新たに磐城平城を築いて城下町を再編する。できて間もない城下町を、スペイン出身の探検家セバスティアン・ビスカイノが通過し、記録を残している。

 その史実については、1行の「年表」程度には承知していたが、詳細はわからなかった。図書館にもビスカイノに関する本はない。

「トンボ」の記事によると、ビスカイノは徳川幕府の許可を得て日本沿岸の測量をする。日本近海にあるといわれていた「金銀島」の調査をするのが目的だった。

慶長16(1611)年12月2日、測量のために仙台藩・越喜来(おきらい)村(現大船渡市)の沖に停泊中、「慶長三陸地震」の大津波に遭遇した。

そのときの浜の惨状が「ビスカイノ金銀島探検報告」(村上直次郎訳)に載っている。さらに同じ月、ビスカイノは陸路、仙台から江戸へ向かう。

その途中で磐城平藩の城下町を訪れる。記録には、城下は「甚だ大なるもの」などと記されているという。

これに刺激を受けて、ネットで検索すると、東北大学の蛯名裕一さんの論考が目に留まった。

ビスカイノ報告における津波被害の描写は信用できる、東日本大震災は「1000年に一度」から「400年に一度」の短いスパンの大規模災害という認識を持つべき――とあった。

さらに、名称は「慶長三陸地震」から「慶長奥州地震津波」に改めるべきと付け加えている。

東日本大震災と比較し得る直近の巨大地震がこれ、400年前の慶長奥州地震津波――という指摘がグサッときた

2025年1月10日金曜日

冬のネギ

                      
 師走に入るとすぐ、平・神谷の夏井川沿いに住む知人からネギをちょうだいした。見事な太ネギだ。用があって訪ねたら、すぐ脇の畑から掘り取ってきた。

 さっそくネギジャガの味噌汁にして味わう。太ネギは硬い――というイメージがあったが、思った以上に軟らかかった。

夏井川渓谷にある隠居の庭で「三春ネギ」を栽培している。田村地方から入ってきた昔野菜で、ある家に泊まった朝、ネギジャガの味噌汁をすすって驚いた。

私は田村郡の山里で生まれ育った。ネギジャガの味噌汁が好きだった。そのネギと同じ味がした。甘くて軟らかい。

以来、その家から苗をもらい、種ももらって、三春ネギの栽培を始め、自分でも種を採るようになった。

収穫期は晩秋から冬だが、今季は育った苗が少ないこともあって、食べたのはほんの少しだった。今は種取り用のネギしか残っていない。

ネギづくりの参考にしているのは、平地の夏井川沿いにあるネギ畑だ。わが家からマチへ行った帰りによく堤防を利用する。

今ならハクチョウやカモ、春は民家の庭先の白梅、夏なら南から渡って来るオオヨシキリ、ツバメたち……。堤防から動植物を観察しては季節の移りゆきを体感する。

と同時に、ネギ畑の「農事暦」も頭に入れる。夏の定植から始まって、追肥・土寄せ、冬の収穫と、三春ネギ栽培の参考にする。

 いつもチェックする畑がある。今季は師走に入っても、収穫が始まる気配はなかった。中旬になってもそのままだった。

 暮れの12月29日に通ると収穫が始まり=写真、年が明けた1月5日には3分の2が消え、9日には3列しか残っていなかった。

朝晩散歩をしていたころは、冬になるとビニールハウスの方から「ヒューッ」と機械で皮をむく音がして、ツンとネギの匂い(硫化アリル)がしたものだった。

ハウスの中央にすきまがあって、青く大きなネットが外に出ていた。空気を利用してむいた皮をそこへ飛ばす――車で通るだけになった人間には懐かしい光景と匂いだ。

平・神谷地区はネギの生産地として知られる。上流から運ばれてきた土砂が広い範囲に堆積している。砂漠生まれのネギには、川の下流の砂地は格好のゆりかごでもある。

 が……。農作業をしているのは、だいたいお年寄りだ。耕作をやめて雑草が生い茂っているところもある。平地でも、山間地でも事情は変わらない。

 私自身、三春ネギは「自産自消」のつもりでいたが、今季はそんなことはいっていられない。

 スーパーに「曲がりネギ」があれば、かごに入れる。道の駅へ行けば、どんなネギがあるか確かめる。

先日は「赤ネギ」があった。数年前、それを買って食べたら、とろみがあった。今回は別のネギがあったので見送ったが、ネギのウオッチングも冬場の楽しみの一つではある。