2026年7月7日火曜日

ブログの数字が急増

                                  
   拙ブログのホームページには、右わきに「人気のある投稿」が5本並ぶ。最近の記事がほとんどだが、今は違う。

 先日は12年前の「学生プロレス」がトップにきた。現在はトップが2024年10月の「翅が三角形の蛾」で、2番目は2021年5月の「阿武隈にもクマが」、3番目は2018年5月の「奄美の田畑家と西郷どん」だ。

5番目は、7月6日早朝には6年前の「アシナガバチの巣が消えた」だったが、3時間後には2014年6月の「畑のキノコ」に替わり、昼前にはこれが4番目に繰り上がった。

ブログは2008年2月下旬に始めた。以来17年余、病気や旅行のとき以外は、毎日アップしている(最近は、日・祝日は休み)。

 私はアナログ人間でデジタル技術にはうとい。ネットにブログをアップするようになったのも、若い仲間が全部セットしてくれたからだ。なにかトラブルが起きるとすぐ連絡して来てもらう。

ブログの内容は、新聞社時代のコラムとそう変わらない。違うのは、主語が「私」になったことだろう。

ブログのホームページにはほかに、①過去7日間と当日その時点での「アクセス数」(棒グラフ)②「過去30日間」の折れ線グラフとデジタル数字――が表示される。

アクセス数は、去年(2025年)あたりまでは1日当たり2ケタ(多くて100前後だった)、デジタル数字は1万~2万あたりを行ったり来たりしていた。

ところがどういうわけか、今年に入ると徐々に数字が増え始め、6月24日にはデジタル数字が初めて10万を越えた=写真。

この数字は何を意味するのだろう。若い仲間に聞くと、①アクセス数=ブログを見た人の数②デジタル数字=読者が見たブログのページ数――ということらしい。

厳密にはより細かな計算方法があるのだろうが、アナログ人間にはよくわからない。要は、私のブログを何人が訪ね、何本の記事を読んだか、というデータのようだ。

ブログは自分のホームページだけでなく、SNSのフェイスブックとX(旧ツィッター)にもシェアしていた(今はフェイスブックだけ)。

発信力のある人間が何人か拙ブログを取り上げてから、アクセス数とデジタル数字が上昇に転じた記憶がある。

ブログ名を知り、あるいはキーワード検索で初めて訪問した読者が、過去にさかのぼってブログを閲覧した(今も閲覧している)、その数がけっこう多いということなのだろう。

7月4日にはデジタル数字が12万を超えた。翌5日にはダントツに高かった折れ線グラフの山が圏外に去った。

それで一時、11万台に下がったが、今また12万台に戻った。アクセス数も最近は、夕方には100を超え、1日が終わるころには150前後のときもある。

「ちりも積もれば山となる」で、ブログの記事数は6月末で6300本を超えた。ここまでくるともう私自身、キーワード検索で読むしかない。記事の新旧にもこだわらなくなった。

2026年7月6日月曜日

マチでヤマユリ咲く

                     
 ヤマユリの花が咲き出した。といっても、夏井川渓谷ではない。いわきの中心市街地である。

7月最初の日曜日(5日)。いつものように夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをした。

マチに用事があったので、10時過ぎには隠居を離れ、平窪で買い物をしたあと、ラトブに車を止めた。

 用事は2つ。1つはサンダルを買うこと。もう一つはカミサンに従って、駅前大通りと本町通りが交差する角のゲストハウス&ラウンジ「FARO」に本を届けること。

 ラトブの前の広い歩道は、国道399号を管理する県が「ほこみち」(歩行者利便増進道路)に指定している。

それでオープンカフェやキッチンカーの乗り入れが可能になり、ワークショップその他のイベントも開かれるようになった。

 NPO法人「R399戸渡(とわだ)やまゆり会」がこれに賛同し、小川町・戸渡産のヤマユリのプランターを2つ展示している。

 計7本あるヤマユリが多くのつぼみを付け、いくつかは大きく白くなって、まもなく開花という状態になっていた。よく見ると、その中の1輪が咲いていた=写真。今年(2026年)の初ヤマユリである。

 ヤマユリは夏を告げる植物だ。私が生まれ育った田村市常葉町では、ちょうど小・中学校が夏休みに入るころ、山道などで咲き出す。

「花札」に追加する図柄を勝手に選ぶとしたら、私は迷うことなく「入道雲にヤマユリの花」を挙げる。大好きな花のひとつだ。

ま、それはともかく、7月に入ると夏井川渓谷でもヤマユリの花が咲き出す。毎年、隠居までの道行きでヤマユリの花を見た日を記録している。

この四半世紀の「定線観測」では、おおむね7月12日前後に開花を確認している。最も早かったのは去年の7月6日で、その前は2018年の7月8日だった。

春のアカヤシオもそうだが、渓谷の「花ごよみ」は年々早まっている。7月第3週には「ヤマユリ街道」になっていることだろう。

戸渡やまゆり会は、戸渡産のヤマユリが旧戸渡分校の児童と皇室をつないだ縁を後世に伝え、ヤマユリの栽培・普及を通して小川地区の国道399号添いの地域振興を図ることを目的にしている。

拙ブログ(2018年5月4日付)から戸渡分校とヤマユリと皇室の関係を振り返る。

 ――昭和34(1959)年晩秋、分校の子どもたちがヤマユリの球根約2000個を集め、皇居の吹上御苑に献納した。

 同36年6月1日、小名浜の放魚祭に皇太子夫妻(現上皇・上皇后両陛下)が臨席した際、平(現いわき)駅で戸渡分校生と対面し、美智子さまがヤマユリのお礼に『新美南吉全集』(3巻)を贈った。

 さらに同年11月、東宮御所にヤマユリの球根300個を献上すると、お礼に皇太子がメタセコイアの苗木5本を贈った――。

「ヤマユリ分校」として知られるようになったゆえんがこれである。それから67年。今度はいわき駅前と戸渡が国道399号とヤマユリを介してつながった。

2026年7月4日土曜日

ブックポスト

                                  
   いわき市には公立図書館が6館ある。毎年5~6月、順繰りに特別整理期間に入る。いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」に入居している総合図書館は、それで6月15日から29日までの15日間、休館になった。

 毎年のことながら、休館中に読みたい本が出てくると、図書館のホームページで蔵書の有無を確認し、なければ再開後に予約する。

総合の次に近い内郷か四倉にあれば、すぐそちらへ借りに行く。どちらも車で15分前後だ。

 今年(2026年)は臨時休館の前に11冊を借りた。個人が借りられるのは15冊(期間は14日間)。いつもより3倍の数だ。

 ちゃんと読もうとすれば、半月では足りない。後期高齢者になった今は、たとえばエッセーだと見出しを手がかりに拾い読みをする。

最初から最後まで――というのは、馬力のあった若いときの読み方で、今はポイントだけを読むことが多い。

幸い今年は特別整理期間中、内郷にも、四倉にも行かずにすんだ。代わりにというわけではないが、総合図書館が再開した6月30日午前10時前には、ラトブの地下駐車場にすべりこんだ。

総合図書館は4~5階に入居している。4階に行くと、窓口付近が混雑していた。同じように再開を待ちわびていて、10時の開館と同時に返却・貸出、予約をと考えていた市民がいっぱいいたのだろう。

実際、窓口のスタッフが問わず語りにもらしていた。「込んでます」。長い休館のあとの再開である。一刻も早く本を借りたい、という思いはよくわかる。私もそうだ。

実は休館中の6月26日朝、歯医者へ行ったついでにラトブへ寄って、4階の図書館入り口そばの壁面にあるブックポストを利用した=写真。

本はカミサンが借りたもので、休館前に返却すべきだったのが、特別整理期間に入ったため、再開後の返却を予定していたそうだ。

1カ月近く返却がないため、「ブックポストに」と、私あてに図書館からメールが届いた。カミサンも連絡先を私のメルアドにしていた。しかたない、代わって本を返すことにした。

ブックポストを利用するのは初めてだった。郵便ポストと同じように、中が空洞になっているものと思っていたが、そうではない。

本を差し込むとローラーのようなものが回って奥に取り込んでいく。「手を中に入れないでください」という表示があった。確かに、指がはさまれそうになった。要注意である。

総合図書館はまだ特別整理期間中。午前10時前だから、ラトブ自体もエレベーター以外は開いていない。

駐車料金は何か買い物をすればタダになる。10時になってエスカレーターが動き出すと、3階のヤマニ書房へ行って、新聞の書籍広告にあった新書を買った。

それで駐車券にパンチを入れてもらった。新書は「アメリカの戦争」を主題にしている。これは最初から最後まで、じっくり読むつもりだ。

2026年7月3日金曜日

チュウダイサギ?

                                     

   日本野鳥の会いわき支部から、支部報「かもめ」が届く。今は県外に住む元事務局長氏のはからいで恵贈にあずかるようになった。

いわきの野鳥の情報源である。特に注意して読むのが、毎年1月、全国一斉に行われるガン・カモ調査だ。いわきに飛来した冬鳥のハクチョウやカモ類の数、前年・前々年との比較がわかる。

報告に併せて、珍しい鳥の飛来などにも触れる。今年(2026年)は沼部(鮫川)と平・塩(新川合流部の夏井川)で、アメリカコハクチョウ(コハクチョウの亜種)、四倉漁港でコクガンの若鳥が確認された。

さらに、特筆すべきこととして、今回ついにコサギが確認できなかった、とあった。コサギはいわきでも水田や川で普通に見られるシラサギと思っていたが、これには驚いた。しかも、近年減少傾向にあったという。

シラサギはダイサギ・チュウサギ・コサギに分類できる。体の大きさの違いが基本になっているのだろう。

この3種類はくちばしの色、あるいは足指の色で識別される。ダイサギ・チュウサギはくちばしが黄色いが、コサギは黒い。逆にコサギの足指は黄色い。くちばしと足指の色を見てダイ・チュウ・コの区別をしてきた。

日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くとき、神谷~中塩~平窪、そして小川の水田地帯を通る。

サギ類がよく水田にいる。くちばしの黄色いシラサギがほとんどだ。くちばしの黒いコサギは、言われてみれば確かに1~2回しか見ていない。

コサギが姿を消したと知って以来、田んぼ道や堤防を通るときには意識してシラサギのくちばしを見るようになった。

ところが、である。最近は体が大きいのにくちばしが黒いシラサギをよく見かける。

コサギが大きくなったのか。最初はとまどったが、ダイサギは繁殖期になると、くちばしが黄色から黒色に変わる、婚姻色というそうだ。その変化を知ってようやく合点がいった。

くちばしが黒いからコサギ、ではなかった。コサギでなくても、繁殖期になれば色が変わる。それだけではない。ダイサギかチュウサギかは単独でいる限り判断が難しい。

しかも、「チュウダイサギ」という呼び方がある。最近知った。そのうえ、「亜種ダイサギ」「亜種チュウダイサギ」という分け方も。

シラサギは1年中いるような印象だが、実際はどうなのか。ダイサギは南の鳥で、夏鳥として飛来し、本州以南で繁殖する。一部越冬もするのが亜種のチュウダイサギだという。

冬鳥のシラサギもいる。ダイダイサギあるいはオオダイサギと呼ばれるもので、大陸から冬鳥として渡って来る。これは亜種のダイサギだそうだ。

シラサギに関する知識は昔の野鳥図鑑のままだった。最新の情報に更新しないといけないのだろうが、どうもついていけない。

ちなみに、掲載のシラサギ=写真(カミサンが撮影)=は婚姻色のダイサギらしい。口角は目の後ろまで切り込んでいる。それでいちおうダイサギと判断した。

2026年7月2日木曜日

電話の主は90歳

                                
   先日、施設に入っているカミサンの親せき(女性)から電話がかかってきた。カミサンが出た。ン10年ぶりの声の「再会」だった。

施設で毎日、いわき民報に載る私のコラムを読んでいるという。懐かしくなって、スタッフに頼んで、いわき民報社に電話をした。

すると「辞めた」といわれた。毎日コラムが載るからまだ勤めていると思ったのだろう。親せきであることを伝えて、わが家の電話番号を教えてもらったという。

私は令和2(2020)年5月中旬から、古巣のいわき民報でコラム「夕刊発・磐城蘭土紀行」を連載している。

夕刊から朝刊に切り替わった今は「朝刊発――」に改題した=写真(新聞の切り抜きを月ごとにまとめている)。

そもそもは新型コロナウイルス感染症が世界的に流行し、日本でも緊急事態宣言が出されたのがきっかけだった。

いわきでも感染防止一斉行動がとられ、公共施設の休館や行事の中止・延期が繰り返された。すると、古巣の後輩からSOSが入った。紙面を埋める記事が欲しいという。

そのころ(今もだが)、私はネットに毎日、ブログをアップしていた。新しくコラムを書くようなことはできないが、ブログの転載ならOKと伝えた。

ネットにブログをアップしているのも、始まりは「モノを書かないでいるとなにか落ち着かない」という動機からだった。

話は平成20(2008)年2月にさかのぼる。若い仲間から、ネットを利用したブログ(日記)があることを教えられた。

私の解釈では「新聞コラム」のネット版である。字数も500字前後にとどめ、気持ちの安定のために、とにかく毎日1本は書く、と決めた。

前年秋にいわき民報社を辞めて3カ月がたっていた。「締め切り」から解放されたと思っていたら、逆にだんだん落ち着かなくなった。以来18年余、外泊したとき以外は毎朝、ブログをアップしている。

ただし、新聞に転載するようになってからは、意識の逆転が起きた。ブログではなく、まずは新聞コラムの原稿を書く。それをブログとしてネットにも発表する。字数もいつの間にか当初の倍、1000~1200字になっていた。

後日、夫婦で施設を訪ね、面会室でアクリル板越しに親せきと対面した。親せきは90歳だ。車いすに乗っていたが、耳も目も口もしっかりしている。

主にカミサンと近況を報告し合い、時折、私と新聞コラムの話になった。「毎日楽しく読んでいる」という。ありがたいことだ。

いわき民報はニュースペーパーであると同時に、コミュニティペーパー(地域紙)でもある。

暮らしに根付いたブログ=コラムは、男性より女性に読まれる割合が高いのかもしれない。

はがきや手紙、電話をくれた人たち(ほとんどが女性)のほかに、これからは新たに親せきの顔を思い浮かべながら、ブログ=コラムを書くことにしよう。90歳に届け、と念じながら。

2026年7月1日水曜日

糠床がやっと健康に

                      
   5月の連休明けに糠床を新しくした。その1カ月後。食塩の量と、かき回しが足りなかったのか、漬けたものに少し異臭(シンナー臭)が感じられた。糠床をかき回したときにも異臭が立ち昇る。

 これは一大事だ。すぐ食塩を加え、朝だけでなく夕方も糠床をかき回すようにしたら、次第に異臭が薄れ、6月中旬にはようやく糠床らしい香りが戻ってきた。

 キュウリは漬かりが早い。それだけに異臭が染みるのも、消えるのも早い。糠床の状態をストレートに映し出す。

 この時期、キュウリは藤間(平)の直売所から買って来る。去年(2025年)までは普通にスーパーから購入したが、直売所にはもぎたてが並ぶ。

 1袋5本前後。これを数袋買う。といって、私はアッシー君、そして買い物バッグ担当だ。

わが家で食べきれない量を買うのは、カミサンがお茶を飲みに来た友達にお福分けをするためだ。

朝、買ってきたキュウリをすぐ2~3本、糠床に入れる。それとは別に、晩酌時に味噌で生のキュウリを食べる。

新鮮なキュウリは先端をカットすればわかる。断面がみずみずしい。そのうえ、色が緑っぽい。水分がたっぷり含まれている証拠だ。

糠漬けにする材料は私が選ぶ。直売所にカブがあったときにはカブを、今はキュウリとニンジンを棚から取る。

異臭の付いたキュウリと大根を食べきったあと、冷蔵庫で保管するために利用していたパックを洗ってまた使っている。

 そうすれば、パックに残った糠味噌の異臭が新しい糠漬けに移る心配はない。健康になった糠床からキュウリを取り出して食卓に出す=写真。それだけで楽しい。

 あとは好みの味をつくるだけだ。カミサンは少し時間がたって塩味が強くなった古漬けタイプを好む。私はその逆で、あっさりした糠漬けが好きだ。

ドクターからは塩分を取り過ぎないように言われている。が、どうもこの時期はキュウリの糠漬けがやめられない。ご飯のおかずだけでなく、晩酌のつまみにもする。

夏井川渓谷の隠居の菜園で栽培している昔野菜の「三春ネギ」は、お福分けをするほどの量はない。

代わりに、キュウリの糠漬けならお福分けができる。漬ければ漬けるだけ数が増える。

先日、若い友達が来て、わが家の糠漬けの話になった。何年前だったか、キュウリの糠漬けをあげたら「うまかった」という。

そのおだてに乗って、人にあげてもいい糠漬けをつくろう――それが健康な糠床を取り戻す原動力になった。

糠床自身が味をつくってくれる。私は朝晩、糠床をかき回すだけだ。毎日のルーティンのひとつでしかない。難しいことではない。

今度飲み会があるときは、胸を張ってキュウリの糠漬けを出せる。朝晩、糠床に向き合うのは、そんなもくろみもあるからだ。

2026年6月30日火曜日

「文学地理」の視点

 いわき市の草野心平記念文学館と勿来文学歴史館は、考古資料館などとともに、市教育文化事業団が指定管理者になっている。

 令和7(2025)年度は事業団が担当した磐城平城発掘調査の成果を発表する意味もあってか、文学館では「吉村昭と磐城平城」、文歴では「磐城平藩と勿来関」と題する企画展が開かれた。

考古資料館では文字通り磐城平城の発掘成果を披露する企画展が連続2回開かれた。

文学館と文歴の場合は文学×考古(歴史)の学際展示である。私は最初、「文学館でなぜ発掘の展示を?」といぶかったが、磐城平城の落城などが描かれた吉村昭の小説『彰義隊』と融合させた展示内容と知って納得した。

ならば、である。詩人山村暮鳥を軸に、いわき地方に新たな近代詩の潮流が生まれた大正期こそ、学際展示にふさわしい。

いわきの「暮鳥圏」には三野混沌(吉野義也)、猪狩満直、草野心平、そして散文の吉野(旧姓若松)せいがいた。暮鳥圏を考えるとき、いつも「文学地理」という言葉が思い浮かぶ。

心平自身、昭和45(1970)年8月号の詩誌「歴程」三野混沌追悼号に、混沌らとの関係について述べている。「猪狩の川中子と三野混沌の好間と自分の上小川と、ひょろ長い三角形になる」

「川中子」は「かわなご」と読む。平市街の北を流れる好間川が夏井川に合流するあたり、地区としては好間の東端で、満直はそこで生まれた。

「好間」はせいの『洟をたらした神』で知られる、混沌とせい夫妻の開墾地・菊竹山を指す。

そして「上小川」は、平、好間からは夏井川の上流に位置する現小川町の旧村名だ。

このひょろ長い詩の三角形の底辺は平市街と接続している。日本聖公会平講義所に大正元(1912)年秋、牧師として暮鳥が着任する。そこから心平のいう詩の三角形が生まれた。

いわきの近代文学は暮鳥から始まる。いわきの暮鳥を知るには、いわきの風土を、歴史を、地理を知らないといけない。というわけで、「場所の文学」として作品をチェックしたことがある。

『洟をたらした神』は「菊竹山の文学」、満直の『秋の通信』は「内郷村小島の文学」。心平の詩「故郷の入口」はそれこそ「暮鳥圏の文学」そのものだ。文学地理的な視点が作品の理解を深めてくれる。

 心平記念文学館では師走に企画展「小川町の歴史と文化~心平のふるさと~」が開かれる=写真(リーフレットから)。

心平の詩に出てくる「長い竹藪」は令和元年の台風のあと、復旧・復興工事であらかた消えた。「上小川村」に出てくる「ブリキ屋のとなりは下駄屋。下駄屋のとなりは……」の町並みも実証したらおもしろい。

心平の弟、天平の絶筆にある「新川という沼」や「夏井川に繋がる小川」も知りたい。天平の長男の杏平氏は沼(大小二つあった)で泳ぎを覚えた。小さい沼は釣り専門だったという。

  単なる小川町の「歴史と文化」ではなく、それをベースにした心平・天平の文学地理であってほしい。