2026年4月10日金曜日

桜とメディア

                              
   いわきの「桜開花」を伝えるメディアの報道が変わってきた。一番の理由は早咲きの河津桜が生長し、濃いピンクの花が視聴者を引き付けるようになったことだろう。

気象庁の「桜開花」発表はソメイヨシノが基本だ。日本列島は南北に長いため、沖縄県や奄美大島はヒカンザクラ(緋寒桜)、北海道は札幌や室蘭・函館を除いてエゾヤマザクラが観察木になる。

本州に住む人間には、「桜開花」といえばソメイヨシノのことだった。いわきの場合は、小名浜測候所(現小名浜特別地域気象観測所)の職員が敷地内にあるソメイヨシノの花を観測して開花を発表した。

無人化されてからは、小名浜のまちづくり団体が元測候所の職員の協力を得て、独自に開花宣言をしている。

毎年、同じ木を観察して、開花日・満開日などを記録する。それによって列島の生物季節的な動きがわかる。旧小名浜測候所の場合は、今の標本木での観測は平成7(1995)年に始まった。

近年は、オオシマヤマザクラとヒカンザクラの自然交雑から生まれた早咲きの「河津桜」に注目が集まるようになった。

常磐共同火力発電所の敷地内に平成17(2005)年、創立50周年を記念して50本の河津桜が植えられた。その桜が例年、3月中旬には見ごろを迎える。

メディアがソメイヨシノを待ちきれずに、この河津桜に飛びついた。いわき公園にも約50本の河津桜がある。こちらもSNSなどを通じて市民が早い開花を知ることになった。

「シン・桜」である。メディアが河津桜の開花を取り上げて以来、ソメイヨシノの開花は、ニュース価値としては二番煎じでしかなくなった。

私もマチ場だけで暮らしていたころには、ソメイヨシノの開花が春到来を告げる桜と思い込んでいた。

夏井川渓谷の隠居へ通い続けて30年余り。マチのソメイヨシノと時を同じくして咲くアカヤシオ(岩ツツジ)を見ているうちに、少し遅れて山を彩るヤマザクラにも引かれるようになった。

ソメイヨシノは花が先行する。が、ヤマザクラは葉と花が同時だ=写真(4月6日、いわき市暮らしの伝承郷)。花が咲くと、それを支えるように赤い若葉が開く。

草野心平記念文学館の奥、小玉ダムの周囲の山々を、私はひそかに「いわきの奥吉野」と呼んでいる。「山笑う」とはこれをいうのだと。

ソメイヨシノは交配によってつくられた園芸種である。花は見事でも、てんぐ巣病にかかりやすい。それもあってか寿命は短い。

「寿命60年」説が言われている。それを裏付けるように、ソメイヨシノの並木が伐採されたところがある。倒木事故もある。

「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」というが、桜を見る人間の気持ちも同じではない。

ソメイヨシノは老いて、もう春の主役ではなくなったのかもしれない。このごろはそんな感慨がよぎる。

2026年4月9日木曜日

門柱の裏側

                              
   篤志家箱崎昇吾翁の親戚だという。後輩のいとこで、埼玉県草加市に住んでいる。わが家の近所に実家がある。翁のことを書いた拙ブログを読み、あいさつと情報提供を兼ねてやって来た。

 専称寺(平)の末寺の大円寺(翁の菩提寺)と、江戸時代、専称寺で修行し、のちに江戸へ出て俳僧として鳴らした一具庵一具(1781~1853年)の話になった。

 まずは翁の善行のおさらい。翁は昭和8(1933)年国鉄を退職すると、退職金をはたいて専称寺入り口の愛谷江筋にコンクリートの太鼓橋を架け、大円寺に石門、立鉾鹿島、出羽両神社に石の鳥居を寄進した。

 さらに同8年から専称寺の境内に梅の苗木を植え続け、足かけ27年をかけて同34年、悲願の1千本を達成した。

 太鼓橋の欄干には俳句が彫られてある。「佛德(ぶっとく)へ普(あまね)く渡れ浄土橋」。句のわきには小さく「昇吾」とあって、翁は俳句をたしなんだことがうかがえた。

 後輩のいとこからは、さらにびっくりする情報を得た。大円寺の門柱の裏に短歌が彫られているのだという。

 スマホに保存されている写真を見せられた。確かに短歌らしい文字が写っている。なんと書いてあるかはわからない。「字はよく見えないんですよ」。それでも、影をうまく入れて字が見えるように撮ってある。

前に見たとき、向かって左側にある門柱の裏側に、寄進者の名前(翁夫妻)が彫られてあるのがかろうじてわかった。

しかし、反対側の門柱の裏側にある短歌には気づかなかった。字がわかるのは、朝日か夕日が当たって凹面に影ができたときだろう。

専称寺の太鼓橋がそうだった。2月下旬、9時ごろに行くと朝日が斜めに当たり、凹面に影ができていた。それで字がはっきり見えた。

春分の日の前日、墓参りの人が散見される中、大円寺の門柱を見に行った=写真。向かって左側の門柱の裏側には、なるほど何やら文字が彫られている。これが短歌だろう。しかし、字はさっぱりわからない。材質は白御影石(花崗岩)らしい。

太陽がもっと北に移る夏場、朝か夕方、凹面に影ができるかどうか。むろん、それで字が見えるという保証はない。拓本にとるという手もあるが、その技術は持ち合わせていない。

とりあえず門柱の裏側を撮影し、データをパソコンに取り込んで「明るさ・シャドー・ブラックポイント・彩度・色温度」などで修正を加えてみたが、字が浮き出ることはなかった。今のところ、お手上げである。

そこに短歌が彫られていたとしたら、いよいよ翁の内面の一端が見えてくる。市井(しせい)の一生活者がそこまで執念を燃やしたわけがわかるかもしれない。つくづく人間はすごいと思う。

※追記=4月8日の夕方、門柱を見に行った。向かって左側の門柱の裏を見ると、凹面の文字に影ができていた。すべて読み取れるわけではないが、短歌らしい配置になっていることはわかった。短歌の読み解きができたらまた報告したい。

2026年4月8日水曜日

気温20度が目安

                              
   新年度最初の行事として、4月6日、地元の小学校の入学式に臨席した=写真(入学式のしおり)。来賓の顔ぶれは3月下旬の卒業式と変わらない。

 校庭のソメイヨシノがちょうど満開だった。校長先生も式辞の冒頭で、満開の桜の花がピカピカの1年生を迎えたことに触れた。

 前日の日曜日は、目が覚めると少し体が汗ばんでいた。冬物のパジャマはそれで終わりにした。今年(2026年)初めて、小名浜では最高気温が20度を超えて22.1度になった。内陸の山田では23.0度だった。6日も20度には達しなかったが、ストーブなしで過ごした。

 暖気は(寒気も)皮膚の感覚でわかる。室温20度が目安だ。20度だとストーブは要らない。18度あたりがギリギリで、それだとチョッキの着脱くらいでなんとかなる

 この冬は夜、「あったかソックス」をはいて床に就いたので、湯たんぽなしですんだ。そのソックスも数日前からはいていない。はかなくても足の冷えが気にならなくなった。

 4月に暦が替わると、少しずつタケノコの皮をはぐように、服装を冬物から春物に切り替える。上の下着は長袖から半そでに、ズボン下も熱がこもるので脱いだ

 上着もそうだ。厚手のシャツでは熱がこもる。シャツの一番上のボタンをはずし、体温が外気温に触れやすくすると、こもっている熱が抜けた。

 夜は夜で、お湯割りで焼酎をなめるとすぐ上半身が汗でにじんだ。これも間もなく水割りに切り替える。

車で目撃したマチの光景だが、若い人がデニムのジャンパーを脱ぐとTシャツ1枚だった。翌日も半そでの人が何人かいた。

若い人と違って、高齢者は寒暖の波にはすぐ乗れない。それで気温と服装が微妙にずれる。でも、もう4月だ。寒の戻りはあるにしろ、極端な寒さはないだろう。

ひと冬世話になったハンドウォーマーも、座卓のわきに置いたままにしている。しかしまだ片付けるまでにはいかない。

 パソコンを開いてキーボードに触れても、手のひらがひんやりすることはなくなった。車のハンドルは太陽に熱せられて、素手ではやけどするくらいに熱く感じるようになった。ハンドルにタオルを掛ける日も近い。

庭の緑も日増しに濃くなり、花を付けてきた。この暖気に誘われて、朝、歯を磨きながら地面に目を凝らす。

6日には初めてヤブガラシの芽を摘んだ。ミョウガタケが地面を突き破る気配はしかしまだない。

 4月に入ってホッとしているのは、灯油の使用がぐっと減ったことだろう。このまま石油ストーブをつけずにすむといいのだが、そうはいかない。7日の夕方には寒が戻って、ストーブなしではいられなかった。

今度の原油高騰、それに関連するガソリン・灯油その他の急騰は原因がはっきりしている。理不尽を、横暴を忘れはしない。

春の到来はそうしたなかで、灯油の消費を抑える。これだけは一筋の光のような思いになる。

2026年4月7日火曜日

青切符

                                
 新年度がスタートした4月1日午後。平のマチへ行くと、本町通りにパトカーが止まっていた。

 事故?ではない。 パトカーの乗務員が歩道に寄って自転車の男性に何やら話をしていた。そうだ、この日から自転車にも「青切符」が導入されたのだ。

 翌日の新聞が新制度スタートの記事を載せていた=写真。自転車による信号無視、一時不停止、スマホや携帯電話の使用(ながら運転)、傘差し運転、通行区分違反などで青切符が交付されるという。

 車のドライバーは、自転車が前を走っていたり、前からやって来たりすると、にわかに緊張する。

 わが生活圏ではアジア系の外国人が自転車で行き来することが多い。あるとき、こんなことがあった。ブログに書いたヒヤリハットを要約・再掲する。

――国道に架かる橋のたもとを左折して道を下り、別のところから堤防へ出ようとしたとき、橋上の歩道をそのまま走ってきた自転車が、安全も確かめずに車の直前を横切った。

左折しかかっていたので、ブレーキをかけなければ自転車ごと女性をはねていたことだろう。

まっすぐ横切るかもしれない。恐れた通りに、何のためらいもなく目の前を直進した。

これが初めてではない。やはり国道から同じ交差路を左折し、夏井川の堤防を利用して、住宅が密集する路地からわが家のある旧道(幹線道路)へ出ようとしたとき。

左側は民家の生け垣になっていて見通しが悪い。車は標識に従って、少し開けて一時停止をした。

するとすぐ、生け垣の角から外国人の乗った自転車がブレーキをかけずに突っ込んできた。

こちらは止まったままだ。自転車の外国人もびっくりしたのだろう。衝突を避けるためにブレーキをかけながら転倒した。

けがはなかったようだ。「スミマセン」。立ち上がって脇を通り過ぎながら、日本語で謝った――。

外国人に限らない。日本の若者や老人も道交法にはうといのか、「マイルール」で自転車を運転しがちだ。

 それで思い出すのは、デンマークの自転車専用レーンだ。コペンハーゲン市で朝、歩道と車道の間にある専用レーンを自転車が列をなして走っているのに驚いた記憶がある。

日本の道路事情では自転車専用レーンの設置は厳しいかもしれないが、検討すべき課題ではあるだろう。

 しかし、なんといっても危ないのは車である。4月3日の早朝、カミサンを通りの奥の接骨院へ送り届け、道路へ戻ろうとしたら、右から車がやって来る。少し距離があるので対向車線に出てしまおうかと思ったが、バックして通り過ぎるのを待った。

 これがよかった。車の陰になって見えなかったが、別の車が対向車線にはみ出して追い越しをかけていた。飛び出していたら衝突していたかもしれない。

どこに事故の誘因がひそんでいるかわからない。久しぶりのヒヤリハットだった。それを思い浮かべて、ときどき反省している。

2026年4月6日月曜日

ピンクの点描画

                                                       

    目当ては小川諏訪神社のシダレザクラと、夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)。雨が上がった日曜日(4月5日)早朝、渓谷の隠居へ花見を兼ねて出かけた。

まずは平地の小川諏訪神社である。8時半に着いたが、すでに花見客でにぎわっていた。

もう桜の名所として定着したようで、老若男女が滝のように垂れた花にスマホを向けていた。

何のキャラクターかはわからないがコスプレイヤーもいて、花の下で写真を撮っていた=写真上1。

渓谷の隠居まではそこから15分ほどだろうか。県道小野四倉線へ出ると、急に車の往来が減る。

小川の平地では集落に沿ってソメイヨシノが咲き、家の裏山ではヤマザクラが点々と薄いピンクの花を付けている。山はすっかり「ほほ笑む」状態になった。

渓谷でも、県道沿いにあるソメイヨシノが咲き、ヤマザクラが花と茶色い葉を広げていた。ほかの木々も芽吹いてきた。うっすらと淡くパステルカラーに染まりつつある。

錦展望台の対岸を中心に、渓谷ではアカヤシオがほぼ満開だった=写真上2。同じピンクでも薄いのと濃いのがあり、開花の早い遅いが色の違いになって表れているようだ。

隠居の庭でネギ苗床の草むしりをしていると、そばの道路から声がかかった。見知らぬおばさんで、アカヤシオの点描画に感心していた。

確かに今年(2026年)は例年になく花の量が多い。色も濃いピンク色がよく目立つ。おばさんではないが、私らも今年の花の見事さに心が弾んだ。

近年は特に東日本大震災以降、小川諏訪神社に花見客が集中するためか、渓谷まで足をのばしてアカヤシオを楽しむ人は少なくなった。

震災前は県道に路駐の車が続いて行き来するのに難儀したが、今はそんなことはない。

隠居の庭には対のシダレザクラがある。赤いつぼみをビッシリ付けている。花を開いたつぼみもある。花が5~6輪開けば開花だそうだから、わが隠居のシダレザクラもこの日「開花」を確認した。

隠居の庭には上の孫が小学校に入学したときに植えたサクラもある。このサクラは亡くなった義弟からの贈り物で、義弟がホームセンターから買ってきた苗木を、私が代わって植えた。これはすでに三分咲きくらいになっていた。

錦展望台には次々と花見客がやって来て、対岸のピンクの点描画にスマホを向けていた。ピンクの山をバックに記念撮影をする家族連れもいた。いつもの年よりは人が多い。たった1週間で渓谷の森は冬から春に衣替えをした。

2026年4月4日土曜日

2日連続の「でれすけ」

新しい朝ドラ「風、薫る」が始まった。小泉八雲と妻セツをモデルにした「ばけばけ」が終わって、朝ドラロスになりかけていたところへ「でれすけ」が耳に飛び込んできた。

 舞台は明治時代の栃木県那須地域。明治の世になって帰農した元家老の娘が、2人いるヒロインの1人。もう1人のヒロインは東京に住む。やがて2人は出会い、看護の道へ進むというストーリーのようだ。

 「でれすけ」は、私が子どものころ、耳にタコができるほど祖母に言われ、親にも言われた。年上の子どもたちも、なにかというと同年代、あるいは年下の子どもたちをけなすときに「でれすけ」を使った。

といって、だれでも「でれすけ」になるときがあるから、言われたからといって気にする人間はいない。

福島県と栃木県はもちろん、隣接の茨城県、千葉県でもなじみの言葉だとか。その意味では舞台の一つである北関東を、ひとことでわからせる象徴的な言葉でもある。

この「でれすけ」のおかげでロスな気分が吹き飛び、頭がすぐ「風、薫る」に切り替わった。

 「でれすけ」は3月30日の第1話に登場した。翌31日の第2話にも出てきた。まさかスタートから3日連続の「でれすけ」はないだろう。あったら演出の意図がはっきりする。「でれすけ」に神経を集中して第3話を見たが、さすがに3日連続はなかった。

 まずは言葉のおさらい。いわき市教委発行の「いわきの方言(調査報告書)」(いわき市文化財基礎調査)から意味を探る=写真。

「でれすけ」は①まぬけ②罵倒する語――とある。これにネットのAI回答を付け足すと、意味は「だらしない人」「馬鹿者」などとなる。

斜陽の炭鉱から未来の観光へ。いわき市の常磐炭礦が地下の採掘現場から湧出する温泉を利用して、「常磐ハワイアンセンター」を設立する。同時に炭鉱従業員の子女がフラダンスを習って、入場客に披露する。

それが後年、映画「フラガール」になったが、そのなかでも「でれすけ」が使われていた。「ああ、いわきだな」「福島だな」。南東北の人間もまた「おらほ(わがマチ)の映画」という思いを抱いたものだった。

ついでながら、元家老の娘の生家の撮影は南会津町の奥会津博物館にある「染屋」というかやぶき屋根の建物で行われた。ここは渋沢栄一を主人公にした大河ドラマ「青天を衝け」でも撮影に使われたとか。

「でれすけ」は今後もドラマで使われる予感がする。栃木偏、東京編、そしてどこかのマチが舞台になっても、「なまりなつかしいふるさと」を瞬時に思い出させる効果がある。

これはおまけ。第5話には会津出身の大山捨松が登場した。夫と馬車で田舎道を進んでいたとき、転んで手のひらをすりむいた那須のヒロインの手当てをしてやる。そのとき出た言葉が「さすけねえ(大丈夫)」だった。

   捨松はアメリカ留学から帰国後、大山巌と結婚し、日本の看護婦教育などに尽力した。なるほどである。 

2026年4月3日金曜日

積小為大

                             
   いわき市は今年(2026年)、市制施行60周年を迎える。それに合わせて、地域活動に携わっている市民と若手職員によるプロジェクトチームを組織し、市制100年を目標にしたまちづくりビジョンを策定する。

「いわき31万人のまちづくりビジョン策定プロジェクト」という。サイトにはこんな「前文」が載る=写真。

その後半部分。「だれか偉い人が決めるんじゃない。それぞれの『わたし』の声から、1枚の布を編むように、ビジョンの旗を編んでいきたい」

35年ほど前、同じように市が事務局になって、若手市民が集まり、自由にまちづくりのビジョンを議論した。その集まりを「いわき未来会議」という。

提言策定にかかわった市側の担当者(元係長)、会議の座長(経済人)、メンバーの1人だった私(記者)の3人が若手職員の勉強会に招かれ、当時の会議の様子などを話した。

市が主催する審議会や懇談会などは事務局主導が普通だが、いわき未来会議は、最初こそ事務局から「国際化」のテーマを与えられたものの、2回目「自然とヒトのシナリオ」、3回目「まちづくりにおける市民と行政」はメンバーが選んで提言した。

東日本大震災のあと、市民による対話の場「いわき未来会議」が発足した。フェイスブックでそれを知ったとき、不思議な感慨を覚えた。

35年前の「いわき未来会議」を知っていて、それを会の名称にしたとは思えない。前の未来会議と提言はまったく視野には入っていなかったろう。

提言は、私の中では今も生きている。なかでも2回目は、哲学者内山節の『自然と人間の哲学』をベースに議論した。

平成7(1995)年、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起きたあと、夏井川渓谷にある隠居の管理人として、週末をそこで過ごすようになった。渓谷の人と自然を通して内山哲学を再認識した。

勉強会では、新旧2つの未来会議の例を挙げて、まちづくりの提言が「次」に接続されていない話をした。

同時に、行政の施策は職員の考えや思いがベースになる。施策と自己表現を結びつけて考えるといい――役所取材から感じたことを、エールとして若手職員に伝えた。

最後に司会者から紙を渡された。「声を編む」ということで、好きな言葉、大事に思っている言葉を紙に書いてくれという。

私は「協働」、座長氏は「たのしんで」、元係長氏は「積小為大(せきしょういだい)」と記した。

そうか元係長氏は「積小為大」を胸に秘めて行政の仕事をしてきたのだな、と遅まきながら納得した。公務員としての自己表現に通じる言葉だろう。

新しい施策への夢・思いがある。それを形にするまでには曲折が待っている。曲折をクリアして施策が生まれる。まさに「積小為大」ではないか。

35年前、思いと時間を共有したという意味では、「戦友」との再会の場になった。3人とも白髪に変わったが、時の隔たりは全く感じなかった。