2026年8月3日月曜日

ムカデに咬まれる

                                 
 夏井川渓谷の隠居に着くと、すぐ菜園に生ごみを埋める。そのためにハンドカバーと手袋をはめ、長靴をはく。首にはタオルを巻く。

 暑くても体の露出部をできるだけ少なくする。理由はすり傷・切り傷の予防。もう一つは、ブユと蚊から手足を守るためだ。

 手袋とハンドカバーは玄関の上がりかまちに置いてある。長靴は必ずひっくり返して、中にカメムシが入っていないことを確かめる。

 ある日曜日、いつものようにハンドカバーをはめようとしたら、右手のひらに激痛が走った。なんだ、これは!

 すぐハンドカバーを外すと、上がりかまちにムカデが落ちた。これが中に潜んでいて、急に現れた肉のかたまりにびっくりして、身を守るためにチクッとやったのだろう。

 何年か前、同じ隠居の茶の間で昼寝をしていたとき、手の甲に痛みを感じて目を覚ました。やはりムカデだった。

 そのときの比ではない。痛みが引かないどころか増すようだ。痛みの原因はムカデの毒、とネットにあった。

 台所で水を流しながら、咬まれた周りを指で押し続けた。それで毒成分がしみ出て流れ落ちたかどうかはわからない。キンカンを塗って湿布を張ったあと、急いで生ごみを埋めた。

 痛みはしかし、時間がたっても収まらない。ちょっと不安になって、早々に隠居を離れ、マチで虫刺され用のクリームを買って塗ることにした。

 渓谷からだと平窪が近い。いや、小川町にもドラッグストアがある。渓谷を下っているうちに、カミサンが「小川のコンビニでも薬を売っているよ」という。

 この日朝、そこで飲み物を買った。コンビニの薬のコーナーをのぞくと、虫刺され用のクリームがあった。

毛虫やムカデにも効く、とある=写真。すぐ買って、車の中で患部に塗り込んだら、気持ちが落ち着いた。

そういえば……。隠居で出合った、害虫を含む生き物たちが思い浮かぶ。筆頭はキイロスズメバチだ。

カミサンが草むしりをしていて刺され、時間を追うごとに痛みが増したので、磐城共立病院(現いわき市医療センター)の救急外来へ駆け込んだ。「今度刺されたら、ためらわずに救急車を呼ぶように」と言われた。

 咬まれたら危ないマムシも、隠居の庭に何度か現れた。マムシはその後、姿を見なくなったが、スズメバチは今も時折、庭を飛び回っている。

 なによりうっとうしいのはカメムシだ。秋も更けると外の寒さを避けて屋内に入り込み、雨戸の溝、衣服、靴、手袋、押し入れのふとんと、場所もモノも選ばずにもぐりこむ。

 それを知らずに手を入れると、強烈な臭いを噴射される。で、カメムシとスズメバチには注意がいくが、ムカデは想定外だった。

 同じ日、隠居の玄関前にアオダイショウの抜け殻があった。カミサンはそれだけで5メートルも離れて、「始末して!」と叫ぶ。

小さな生き物だが、現れればいつもこちらの神経をとがらせる。人間は自然の中で間借りをしているにすぎない。虫の一撃を受けるたびにそんな思いがわく。

2026年8月1日土曜日

大事な罹災証明書

                                    
 「罹災証明書」の申請受付が始まったというニュースに触れて、思い出した。15年前、わが家も申請したんだっけ――。

令和8年熊本地震の続報から目が離せない。どうしても東日本大震災と原発事故の記憶がよみがえる。その経験から被災地の今とこれからに思いがめぐる。

罹災証明書は被災者の生活再建支援に欠かせない。これがあると支援金をはじめ、家の応急修理、税金・公共料金の減免など、各種の公的支援が受けられる。

罹災証明は、申請を受けると行政が現場を見て発行する。しかし、その判定に納得できないときがある。その場合は再申請ができる。わが家もそうした。その記録が2011年の秋のブログに残っている。参考のために要約・再掲する。

――屋根の瓦が1枚割れ、コンクリートの基礎に亀裂が入っている話を書いたら、匿名さんから「被災申請を出して判定を受けてください」というコメントが入った。

それにしたがって「罹災証明」の申請をしたら、いわき市から人が調査に来た。家は「一部損壊」の判定だった。

その後、知り合いの建築士に話すと、「再申請をしたら」という。不服申し立てである。

それをしたら、東京から応援に来ている公務員氏と判定員の建築士2人の計3人が再調査にやって来た。

水平・垂直を測る道具を使い、家の内外をこまかく見たあと、目の前でマニュアル化されたチェック項目に点数を書きこんだ。「半壊」の判定だった。

判定した建築士さんの話では、基礎のコンクリートが割れて家の北西側が少し沈んだ。

それで2階北側の床が2センチ近く下がったために、壁と梁との間にすきまができた。

道路に面した北側1階の床にボールを置くと、コロコロ転がっていく。推測していたとおりの結果になった。

台所の外壁、戸のすきまなど、専門家に指摘されるまで知らなかった亀裂、ひずみもある。

「半壊」の証明書が出るのはざっと3週間後。応援の公務員氏は支援・減免など利用できる制度の説明をする一方で、「一部損壊」の証明書を持ち帰った。

ここはありがたく制度を利用することにした。夜、知り合いの建築士に電話で点数を告げたら、「大規模半壊に近い半壊ですよ」といわれた。思っていた以上に家は傷んでいた――。

最初は見た目だけの判断だったといってもいい。屋根の瓦は、秋に施工業者が見回りに来て、残しておいた未使用の瓦と取り換えてくれた。

しかし、どうもトイレの雨漏りが止まらない。支援金制度を利用して、すぐ2階のテラスを改修したら、雨漏りが止まった。

縁側のコンクリートのたたきも手つかずのままだ。15年たった今は、その亀裂が少し広がったような気がする=写真。

この15年の間にも何度か大きな地震を経験している。それで亀裂が少しずつ広がったのかもしれない。

メディアの震災報道がなくなれば終わりではない。むしろ、そのあたりから個別・具体の問題がのしかかってくる。しかも、それがずっと尾を引く。

2026年7月31日金曜日

津波警報時は通行止め

                               
   7月30日のいわき民報に、カムチャツカ半島沖の地震からちょうど1年を伝える記事が載った=写真。

1年前のこの日朝、カムチャツカの沖合でⅯ8.7の巨大地震が発生し、いわき市の沿岸部にも津波警報が出された。拙ブログによると、わが家では当日、こんな具合だった。

――故義伯父の家の庭でオニユリが咲いた。カミサンは植えた記憶がない。自然に根付いたらしい。

では新舞子海岸のオニユリを見に行くか、なんて思っているところに、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。

NHKは、始まって間もない「あさイチ」を中断して津波特番に切り替えた。15年前の3月11日午後。激しい揺れがおさまるとテレビをつけた。その記憶が生々しくよみがえる。

今度もテレビをつけっぱなしにしていた。やがて鉄道が運休し、国道6号が部分的に通行止めになったことを伝える。

新舞子の海岸道路もそうだったろう。津波はいわきにも来たが、被害はなかったようだ。なによりである――。

30日付のいわき民報は、当時の国道6号の渋滞と、その後、平・草野地区に「津波警報時通行止め」の看板が設置されたことを、写真付きで伝える。

このごろは日曜日の夕方、四倉までカツオの刺し身を買いに行く。行きはロッコク(国道6号)、帰りは旧道(浜街道)を利用する。

実は先日、ロッコクと山麓線(主要地方道いわき浪江線)の交差点に、「ここから先津波警報時通行止」の看板が設置されたのに気づいた。

で、7月26日、交差点を通過する際にカミサンに頼んで写真を撮ってもらった。残念ながらピンボケだった。

「走ってる車から、急に『撮れ』っていわれたって」。確かにその通りだろう。信号待ちで止まったときならともかく、移動中にピントの合った写真を撮れということ自体、無理な注文だ。次回また撮影をと考えていたところに、記事が出た。

交差点の先、クリナップ井上記念体育館前の脇に津波標識がある。「津波避難場所/クリナップ体育館駐車場/避難場所の海抜4.0m」

さらに行くと、四倉の市街地だ。JR四ツ倉駅に向かう交差点と歩道橋の反対側、海側に右折すると、右手に四倉図書館がある。図書館は公民館に併設されている。近くには鉄筋コンクリート造りの中学校と病院。

海岸に近いので、東日本大震災では一帯が津波に襲われた。海岸堤防のすぐそばでは家が流失し、図書館周辺では浸水被害に遭った。

 歩道橋をくぐった先には、「東日本大震災/津波浸水区域/ここから」と書かれた標識が立つ。ロッコクも津波に沈んだということだろう。

 海岸道路の電柱や標識柱にも、すぐそばの海水面からの高さ(海抜4mとか5m)を知らせる表示がある。

いずれも津波への注意喚起を目的にしたものにはちがいない。そういう標識を日常的に見ながら、いわき市民は暮らしている。

2026年7月30日木曜日

令和8年熊本地震

                                  
 7月28日の夕方、熊本地方で大きな地震があった。第一報をテレビで知ったあと、「いいのみんなの食堂」へ出かけた。帰ってテレビをつけると、NHKは地震特番に切り替わっていた。

 発生から1時間半後、イオンモール熊本で爆発――といった衝撃的なニュースが流れた。

 「東日本大震災」での体験、「阪神・淡路大震災」の映像を思い出して、脳内が震えたのか、真夜中に目が覚めたあとは眠れなくなった。

 未明の3時前には新聞が届く。1面のトップはベタ黒白抜きで「熊本で震度7」とあった=写真。それを見てまた胸が苦しくなった。

「阪神・淡路大震災」、そして「東日本大震災」がそうだったように、時間がたつごとに被害が拡大する。原発は? 「異常なし」の見出しに、ひとまずホッとする。

気象庁が地震名を「令和8年熊本地震」と命名した。熊本では10年前にも同じような場所で大きな地震が起きている。「平成28年熊本地震」である。

何気なく「阪神・淡路大震災」と書き、「令和8年熊本地震」と書いたが、厳密にいうと、前者は「災害名」、後者は「地震名」である。

いわき明星大学(現・医療創生大学)で、「マスコミ論」(のちに「メディア社会論」)の非常勤講師をした最初の年に、東日本大震災が起きた。

大震災の影響で開講が1カ月遅れた。原発事故も起きた。それに合わせて講義の内容を替えた。

そのとき、地震名と災害名があることを知った。私が調べて知ったことを伝える講座でもあった。

このブログも、「令和8年熊本地震」の犠牲者を悼み、被災者に思いを寄せるための情報の一つとして受けとめてもらえるとありがたい。自分自身のおさらいの意味もある。

「阪神・淡路大震災」は政府が閣議決定をした災害名。気象庁が命名した地震名は「兵庫県南部地震」だった。

気象庁は自然現象のひとつとして地震をとらえる。その結果、圧死・負傷・家屋倒壊などの災害が甚大だったことから、政府が災害名を決めた。

それと同じく、「東日本大震災」は津波による溺死が多く発生したための災害名で、地震名は「東北地方太平洋沖地震」である。

気象庁の前身は東京気象台。それが中央気象台になり、戦後の昭和31年、気象庁に昇格する。

大正時代には、まだ中央気象台だった。そのなかで「関東大震災」が発生する。これは災害名で、世間一般の通称が定着したようだ。地震名は「大正関東地震」である。

あのとき(東北地方太平洋沖地震のとき)、宮城県栗原市では震度7、いわきでは6弱だった。

震度階級は7止まりだという。理由は、防災上の対応が8でも、9でも変わらないため、だとか。どれほど揺れが強くてもすべて「震度7」となるのだという。

いわきで震度7の地震が起きたら、「大規模半壊に近い半壊」だったわが家はまちがいなく倒壊する。

そのことを思いながら、熊本地震のニュースを追う。そのつど、「あああ」となる。時間が経過するたびに、ライフラインの寸断が明らかになってきた。

2026年7月29日水曜日

真空チルド

                               
   7月も残すところあと2日。東北南部の梅雨明けは秒読み、というより遅すぎではないか、そんな思いもよぎるが……。

関東甲信は7月20日に梅雨が明けた。いわきは北関東と同じ気象環境である。いわき地方も、山田では前日の19日から5日連続、真夏日を記録した。

日曜日の19日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。すぐ汗でシャツがぐしょぐしょになった。

このあと、マチへ戻って総合図書館へ行き、市立美術館の企画展を見る予定でいたが、「年寄り半日仕事」である。図書館で本を探したら、もう家で横になりたくなった。

 美術館で開催中の「20世紀北欧デザインの巨匠 スティグ・リンドベリ展」は、翌日行くことにして帰宅した。

3連休最終日の「海の記念日」)も朝から暑かった。美術館の駐車場に車を止めて1時間もしないで戻ると、運転席の計器盤は外気温37度を示していた。

 猛暑である。アスファルト舗装の駐車場とはいえ、37度とは! 海へ行こう。海風が冷たいはずだ。

 いわきのハマは俗に「いわき七浜」といって、海水浴場が10カ所前後はあった。東日本大震災、そしてコロナ禍の影響を受けて、現在では北から久之浜・波立(はったち)、四倉、薄磯、勿来の4海水浴場が開いているにすぎない。

美術館から海へ――。目的は「道の駅よつくら港」で売っているソフトクリームだ。

平市街を離れ、海岸道路に出ると、車の外気温は28度に下がった。9度の差である。マチよりは低いが、それでもやはり暑い。

暑いだけでなく、空気が湿って重い。スペイン生活が長い友人の画家の話を思い出す。

向こうは暑くても空気が乾燥している。ところが、日本は暑いうえに湿って重い。なんだか空気をかき分けるようにして歩いている感じだという。加齢のせいか、湿って重い空気に似た感覚を抱くようになった。

人間だけではない。糠床も湿潤と暑さの影響を受ける。表面が短時間で白い膜に覆われる。産膜酵母である。

異臭(シンナー臭)も加わるようになった。それで、朝晩だけでなく、暑い日には昼も糠床をかき回す。さらには食塩を加え、穴の開いた細長いグラス状の容器も入れて水を抜く。

それを続けていると、異臭が収まった。と思ったのも束の間。糠漬けをパックに入れて冷蔵庫で保管していたら、またかすかに異臭がする。冷蔵庫でも異臭のもとの菌は抑えられないのか。

糠味噌を洗い落としても同じだった。じゃあ、どうすればいいんだ――悶々としていたら、カミサンがパックを冷蔵室の「真空チルド」=写真=に入れた。

ここに保管していた糠漬けを食べたら、異臭がしない。偶然かもしれないが、真空チルドで菌の活動が抑えられたようだ。

それからは、糠漬けはチルドで保管し、そのつど出すようにしている。それで今のところ問題はない。これはこれで「黴雨(ばいう)」と高温がもたらした発見、ということもできる。

2026年7月28日火曜日

ウバユリとバショウ

                                              
   日記は手書きと決めている。ノートではなくカード方式で、新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」(チラシ=A4判コピー)の裏面を利用する。

先ごろ、県紙の販売店がこのチラシを廃止した。用紙が入らなくなった。が、これまでの分が残っている。ここしばらくは大丈夫だろう。

ふだんの日記のほかに、生物季節的な事象はあとで別の用紙にまとめておく。

特別な用紙ではない。若いときに特注し、未使用のままだった俳諧用の調査カードだ。死蔵するよりはまし、ということで始めた。「マイ歳時記」のようなものができれば御の字だ。

 夏のシンボルはヤマユリ。私はそう思っている。7月12日の日曜日、隠居のある夏井川渓谷の手前、段丘の高崎地内で今年(2026年)初めて、野生のヤマユリの花を見た。その1週間後、渓谷は「ヤマユリ街道」になった。

 ヤマユリはもちろん、チェックシートにも事細かく書き留めておく。併せて鳴き声を聞いたウグイスやガビチョウ(中国産のかごぬけ鳥)もシートに記録する。

 渓谷を縫う県道小野四倉線は、茂った青葉で緑のトンネルになっている。その薄暗い県道のガードパイプに寄り添うように、ウバユリが咲いていた=写真上1。

東日本大震災の前は、隠居へ行くと必ず対岸に渡り、遊歩道を巡った。するとこの時期、緑陰の中で緑がかった白い花が横向きに咲いている。

冬は冬で、立ち枯れた茎の先端に蒴果が丸く膨らんでいる。これもまた凛々しい雰囲気をかもしていた。

ウバユリのことをすっかり忘れていた。県道の花を見て記憶がよみがえった。そのくらい森を巡っていないということだろう。

いやいや、花自体が地味で、あまり興味を引かないのも一因ではないか。日記には書き留めている。が、ブログには一言も出てこない。

 逆に、夏も冬も毎回、気になってしようがない植物がある。平地の集落を流れる川岸で、バナナのような大きな葉を伸ばしている。

高崎に入る直前、「裏二ツ箭」から流れて来た加路川が夏井川に合流する。そばの県道には橋が架かり、その上流側にバショウらしい草本がある。

晩秋には枯れ、冬の間、ボロボロの枯れ草色になっていたのが、春を迎えて枯れ葉の間から新しい緑の葉をのぞかせ始めた。

と思ったら、どんどん緑が増え、今は長い羽のような葉をいっぱい伸ばしている=写真上2。

バショウは、和ジュロと違って野鳥由来とは考えにくい。だれかが植えたのだろうか。このバショウだけでも自然と人間、鳥と植物の交通について考えさせられる。渓谷までの沿道で見かける不思議の一つではある。これもチェックシートには事細かく記録する。

2026年7月27日月曜日

トマト記念日

                                
 首都圏で働いていた「孫」がUターンし、双葉郡内に再就職した。実家ではなく、わが家から車で5分ほどのアパートに住む。山梨県出身のパートナーも一緒だ。

 7月25日に婚姻届を出すというので、父親とともに証人になった。「孫」の両親が婚姻届を出したときにも証人になっている。

 父親から証人になってもらえ、といわれたそうだ。両親とは家族同然の付き合いをしてきた。そのなかで「孫」が生まれ、「孫」の妹が生まれた。

 婚姻届を出す日に、パートナーと一緒にやって来た。2人のなれそめは両親から聞いている。書類に署名・押印したあとは、しばらく雑談をした。

 2人とも本好きである。その点では、私ら夫婦―両親―本人たちと、世代が2回り違っていても、話題には事欠かない。

 私たちは「孫」たちのいう若い作家の名前に「ほー」となり、「孫」たちは老いた作家の名前に「へー」という表情をした。

 推理小説を好むパートナーが江戸川乱歩の名前を口にしたときには、シャーロック・ホームズは読んだ、エルキュール・ポワロはテレビドラマで見た、あの女警部ヴェラのドラマも……と盛り上がった。

 カミサンは自宅で地域図書館(かべや文庫)を運営している。移動図書館が月に1回巡って来て、貸し出す図書を取り替える。

 その中から俵万智の『牧水の恋』を引っ張り出してきて、『孫』に読むことを勧めた。前日の朝、藤間(平)の直売所から買って来たミニトマトその他を持たせることにして、テーブルに添えた。そばには婚姻届がある=写真。

 その組み合わせに脳内のセンサーが反応した。「きょうはトマト記念日だな」。いうまでもない、俵万智の有名な短歌に触発されてのことだ。

 「『この味がいいね』と君が言ったから六月七日はサラダ記念日」。それをもじって、2人が帰ったあと、胸の中でつぶやいてみる。「入籍の日に『食べな』とあげたから七月二十五日はトマト記念日」

 この日に入籍することを決めたのは、2人の間にトマトとは違う何か記念になる出来事があったかららしい。

ひそかな記念日には違いない。が、私にはそのおまけとして「トマト記念日」もいいのではないか、「孫」の婚姻届を記憶するにはぴったりだと思った。

後期高齢者になったとはいえ、ときに50代と意気投合をし、20代とこうして「今」を話し合うこともできる。

 「孫」の両親の婚姻届、『孫』自身の婚姻届と、親子2代にわたって証人になることができたのは――生きていたからこそ、である。

   そして、これはめったに経験できない「栄誉」でもある。そのことを「孫」に教えられた。