2024年10月22日火曜日

大阪障子

                      
 玄関と茶の間の境に障子戸がある。夏場は玄関と障子戸、さらには茶の間のガラス戸を開け、2台の扇風機をかけて暑さをしのいだ。

 今年(2024年)はしかし、「しのぐ」といったレベルの暑さを超えていた。9月下旬まで酷暑が続いた。

10月に入ると今度は冷たい長雨に変わり、朝晩どころか日中も肌寒く感じられるようになった。暮らしのリズムが一挙に夏から秋へと変わった。

歳時記風にいえば、立秋を過ぎると「暑中」は「残暑」に代わる。残暑は9月に入っても衰えることがなかった。

小名浜で最高気温が30度以上の真夏日を記録したのは、9月だけで10日あった。山田は、これが15日に及ぶ。夏が長かったわけだ。

それでも太陽の動きは止まらない。次第に日暮れが早くなり、夜明けも少しずつ、少しずつ遅れていき、気づいたら起きるのは6時ごろ、寝るのも1時間ずれて9時ごろに変わった。

起きるとすぐ玄関を開け、体で外の空気を感じながら新聞を取り込む。それから糠床をかき回す。

朝食後は薬を飲み、なにもなければ茶の間でパソコンと向き合い、疲れると横になって本を読む。

夏場はTシャツに半ズボンか、「孫」の親から贈られた通気性抜群の甚兵衛で過ごした。

9月後半からはこれが長ズボンに代わり、昼寝も足と腹を覆うタオルケットが必要になった。10月半ばには電気マットをオンにした。

 夏はしょっちゅう、冷蔵庫を開けて冷たい水を飲んだ。これが実にうまかった。今は、冷蔵庫には水はない。直接、水道の蛇口をひねって水を飲む。

9月末には街の食堂でラーメンを食べた。小雨が続いてあったかいものが食べたくなったのだ。夏以降では初ラーメンだった。

茶の間の障子戸は「大阪障子」だという。10月中旬に、カミサンがしまっておいた小障子を持ってきて、はめた=写真。

下から2段目にガラスがはめられている。その上下に小障子が4枚はまる、夏は小障子をはずすので、玄関を開けても障子戸を閉めておけば来客がわかる。風も通り抜ける。人間と同じで、家の中も「衣替え」が必要なのだ。

大阪障子という言葉は、今回初めて聞いた。ネットにアップされている解説によると、大阪格子ともいうそうだ。

二重構造の建具で、夏は小障子をはずす。冬はそれをはめて気密性を高め、外からの寒気を遮断する。

以前は、というのはもちろん在来の木造建築のことだが、店の表と裏、茶の間と台所の境などに多く見られたそうだ。

外からは内部が見えにくく、内部からは外が見えるので、商家などでは重宝したということだ。

 わが家の大阪障子は、最初からそこにあったのだろうか。よく覚えていない。どこからかカミサンが手に入れて、普通の障子戸と取り換えたのではなかったか。

 いずれにしてもきめ細かで、すぐれた建具にはちがいない。風土に合わせた和の職人の創意とウデの巧みさに、あらためて感心した。

2024年10月21日月曜日

日替わりで夏から冬に

                         
   10月20日の日曜日は、朝6時過ぎに起きた。戸を開けたとたん、寒風が吹きつけてきた。

前日の土曜日は汗ばむ陽気だった。いわき市山田町では、最高気温が30.3度の真夏日になった。

 夏から冬へ――。いきなり気温が下がり、体が悲鳴を上げた。長そで1枚ではとてもしのげない。急きょ、ジャンパーを引っ張り出して行政区内を巡った。

この日早朝、住民総出で一斉清掃が行われた。いわき市が毎年春と秋の2回実施している、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動の一環だ。

私は区の役員のほかに保健委員を兼務している。参加人数とごみの種類を記した実績報告書(はがき)を市に出して初めて、私の総ぐるみ運動が終わる。

実施計画書の提出に始まって、ごみ袋・土のうの受け取り、実施日の回覧・ごみ袋配布と、事前の準備は1カ月に及ぶ。

まずは清掃を実施中の区内を一巡して、おおよその参加人数を把握する。さらに、作業が終わったあと、指定した集積所を回ってごみ袋の中身をチェックする。

ごみは、燃やすごみ・草木類・剪定枝・燃やさないごみ・土砂の五つに分類される。土砂は土のうに入れるので、一般のごみとは別の1カ所を集積所に指定した。

一般のごみについては、あらかじめ4項目の記入スペースを設けた手づくりの「調査表」を用意し、集積所を回りながら中身と袋をチェックした。

調査表をつくってからは事務処理が楽になり、朝8時前にははがきを投函して、いつもの日曜日を楽しめるようになった。

今年(2024年)もやや遅めの朝食後、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。少し土いじりをして庭を一巡すると、11時近くになった。やはり風が冷たい。今季初めて首にマフラーを巻きたくなった。

朝から忙しかったので、昼食はどこかのんびりできるところで――。「海まで行く?」「いいね」となったものの、薄磯のカフェ「サーフィン」は、第3日曜日は休みだったはず。「では、川内だな」

亡くなった陶芸家の友人の家が下川内の木戸川沿いにある。娘さんが2年前、自宅敷地内にある古民家「秋風舎」をカフェに改装した。

海(薄磯)のカフェも、山(川内)のカフェも、隠居からの距離と時間はそう変わらない。

隠居から夏井川の支流沿いに「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)を駆け上がり、川前から下川内へ抜けて、ほどなく秋風舎に着いた。

囲炉裏では炭火がはぜていた=写真。「昨日は窓を開け、今日は初めて火をおこした」のだという。

2年前も同じように総ぐるみ運動を終えて隠居へ行き、昼はお祝いを兼ねてプレオープンしたばかりの秋風舎を訪ね、カレーを食べた。それを思い出した。

炭火をながめながら、せわしかった朝の総ぐるみ運動を振り返る。冬のような寒さが参加人数とごみ袋の数に影響したのでは……。人数も、ごみ袋の数も、この何年間のうちでは最も少なかった。

ふだんから清掃をしているので、ということもできる。が、高齢社会のあらわれだとしたら、という思いもぬぐいきれなかった。

2024年10月19日土曜日

年に一度の記者会見

                      
   水曜日(10月16日)は、朝焼けがきれいだった=写真。雲も多かった。予報通り曇りの一日になった。

夕方は夕方で、燃えるような夕焼けになった。暗くなってから西空の金星と紫金山・アトラス彗星を探したが、雲にさえぎられて見えなかった。

この日、午前中は区内会の仕事をこなし、午後は市庁舎の記者クラブに出向いて吉野せい賞(いわき市の文学賞)の選考結果を発表した。

 記者会見は当初、前日15日の火曜日に行われる予定だった。ところが、急に衆議院が解散し、15日に総選挙が公示された。そのうえ、総理がいわき市で第一声を上げることになった

記者たちは公示初日の立候補届け出と総理の第一声取材に追われることから、15日は会見どころではなくなった。

会見を仕切る広報広聴課と会見を予定している文化交流課などが調整して、一日延期が決まった。

吉野せい(1899~1977年)は同市小名浜出身の作家だ。少女時代から文才を発揮したが、詩人の開拓農民・吉野義也(三野混沌)と結婚してからは、筆をおいて家業と育児に没頭した。

夫が亡くなったあと、70歳を過ぎて再び筆を執り、短編集『洟をたらした神』で田村俊子賞・大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

いわき市はせいの業績を記念して、新人の優れた文学作品を顕彰するため、昭和53(1978)年、吉野せい賞を創設した。表彰式は例年、せいの命日の11月4日前後に行われている。

せい賞関連の行事は、同賞運営委員会が主催する。それとは別に選考委員会があって、募集期間が終わった月遅れ盆以降、各選考委員が全作品に目を通して1次選考作品3編、青少年特別賞候補1編を選ぶ。

このあと9月下旬に選考委員5人が顔をそろえて議論し、各賞を決める。それを10月初旬の運営委員会に報告し、了承されて初めて正式に賞が確定する、という流れだ。

選考委員の一人なので、今年(2024年)も運営委員長らと会見に臨んだ。現役時代は取材する側だったが、今は年に一度だけ会見する側に回る。

 今年は正賞(せい賞)に沢葦樹さんの「カノープスを見ていた少年」、準賞に一橋清高さんの「災禍」が選ばれた。奨励賞は伊藤晴美さんの「空色チェリー」、松井高史さんの「巣立つ者らが見る夢は」の2篇だった。

 正賞は3年ぶり、正賞と準賞の同時選出も3年ぶりだった。応募総数は31篇と漸減傾向にあるが、作品としては読みごたえのあるものが多かった。量はともかく、質は高い――それが今年の印象だった。

 なかでも、正賞のタイトルにもなったカノープスは、いわきでは真冬、水平線のすぐ上に現れてすぐ沈む南の星だという。

 いわきがカノープスの見える北限とかで、天文学的現実にいわきと千葉の人間をからめた物語が高く評価された。

 紫金山・アトラス彗星だけではない。カノープスもまた観察してみたい星の一つに加わった。

2024年10月18日金曜日

夜更けの訃報

                 
   夜更けの10時前、電話が鳴って目が覚めた。息子からだった。友人の名前を告げて、「今、亡くなった」という。

友人とは家族ぐるみのつきあいだった。子どもは子どもでつながり、友人の娘の親友と息子が一緒になった。それで連絡が入ったようだ。

庭先でのタケノコパーティー、ホタル狩り。その他もろもろの市民活動……。訃報に接して、友人との半世紀近い思い出が脳内をめぐった。

翌日、夫婦で弔問に行った。友人はこの世のしがらみから解き放たれたように、今までで一番といってもいい温顔だった。

晩になると、東の空に満月が現れた=写真。スーパームーンだという。思わず、黄泉路を行く友人の足元を照らしてほしい、そう祈らずにはいられなかった。

地域紙の記者になって初めてできた、取材先の知り合いの一人だった。その後、アフターファイブでの付き合いを重ね、次第にツーカーの間柄になった。

人づてに「入院している」と聞いたのは10月の初めだった。それから病状が急変したのだろう。10月16日夜9時前、息を引き取った。あと10日もたてば、喜寿の77歳だった。

「いわきフォーラム’90」というまちづくり支援団体に絞って書く。平成2(1990)年から定期的にミニミニリレー講演会を開いてきた。友人はその中心メンバーだった。

誰もが講師で聴講生――がモットーだった。声がかかって、私もこの組織に加わった。

いわきに住む東大名誉教授が憲法講話をしたり、農家のお年寄りがシベリア抑留体験の話をしたりした。

阪神・淡路大震災が起きたときには、私も講師を買って出た。「災害のあとに」と題して話した。7歳のときの大火事体験とその後の暮らしの変化を知ってほしかったのだった。

 講師は多士済々。震災前には佐藤栄佐久元福島県知事が「『地方自治』を語る――『知事抹殺』からみえてくるもの」と題して話した。

 震災後には、元いわき市歯科医師会長の中里廸彦さんが、「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話した。

 震災直後の3月18日から7月末まで、歯科医師会有志13人が安置所に通い、身元の判明していない遺体の歯の状況を細かく記録し、警察の鑑識に提供した。

 一般のニュースでは知りえない深い話に触れる、またとない機会だった。友人の人脈の広さ、講師やテーマを絞る確かさにはただただ敬服した。

 実は、私が現役のころ、コラムでミニミニリレー講演会に触れ、1000回を目指すくらいの覚悟でやってほしいと、過剰な期待をかけたことがある。

令和元(2019)年の夏、節目の500回を目前にして、古巣のいわき民報がミニミニリレー講演会を記事にした。

そのなかで友人が語っていた。1000回を目標にしているのは「いわき民報に言われた」からだと。

こちらのエールを受け止め、コロナ禍で中断を余儀なくされても、持続する意志は衰えなかった。実に得難い人だった。

2024年10月17日木曜日

三春ネギの種をまく

            
  10月10日は、かつては国民の祝日「体育の日」だった。今は「ハッピーマンデー」制度によって、10月第2月曜日「スポーツの日」がそれに代わった。

祝日だから、あるいは「だった」からというわけではない。10月10日は、私にとっては特別な日だ。

隠居のある夏井川渓谷の集落では、昔からこの日を「三春ネギ」の種をまく基準日にしている。

私もそれにならって、10月10日前後の日曜日に、畳半分ていどの苗床をつくって三春ネギの種をまいてきた。

三春ネギは、その名前の通り田村地方から小野町を経由して、夏井川渓谷の集落へ伝わったにちがいない。

郡山市の「阿久津曲がりネギ」もやはり秋まきだ。三春ネギは阿久津曲がりネギと同種、あるいは同系統のネギだと私は思っている。春に種をまくいわきの平地のネギとは系統が違う。

 田村地方では、阿久津と同様、曲がりネギにする。そのネギを食べて育った。25年余り前、集落の住民から苗をもらい、育て、種を採ったものの、3年ほど種の保存に失敗した。

種は冷蔵庫で保存する、と知ってから、やっと自前で採種・播種ができるようになった。

 ふるさとの習慣に従って夏に掘り起こし、「やとい」(斜め植え)をして曲がりネギにした。渓谷ではしかし、そんなことをしない。定植したままでまっすぐの一本ネギにする。

曲げるかまっすぐにするか、まっすぐなら手抜きができる。年も取ったし――というわけで、7年前からは植えたままにしている。

事前の準備がある。9月後半になると苗床を決めて耕し、石灰をまく。次の日曜日には肥料をすき込む。

そして、10月10日に近い日曜日。苗床にたっぷり水をやって土をならし、板を使って深さ3~5ミリの溝をつくり、黒い種を筋まきにする。

まいたら溝の両側から土をかぶせて、種が雨で露出しないようにする。すると、次の日曜日には、種のすぐ上の土が筋状に割れてくる。その割れ目から発芽しつつある緑色のネギ苗がのぞくようになる。

夏にネギ坊主を摘み取り、ごみとカラの種を取り除いて小瓶に入れ、種まきまで冷蔵庫で保管した。

10月13日の日曜日、筋まきをしたが、半分近くは余った。ネギの種の寿命は短い。が、2年は持つ。来年用に小瓶ごと、また冷蔵庫にしまった。

実はこの日朝、小野町のNさんが江田駅前の道端で直売所の小屋づくりを始めるところだった。

1年ぶりの再会だ。「長芋は、今年はよくない」「曲がりネギは?」「大丈夫」。ネギは砂漠生まれだから乾燥には強い。今夏は酷暑続きだった。それが明暗を分けたようだ。

 種まきが終わると、なにか大きな仕事をしたような心境になった。久しぶりの解放感も手伝って、マイクロツーリズムをしたくなった。

カミサンの希望で川前から山越えをして三和に下り、ふれあい市場で漬物と梅干しを買った。昼食はしかし、どこも込んでいた。結局、好間まで下りて、そこですませた。

2024年10月16日水曜日

断酒3カ月

                     
   10代後半で慢性的な不整脈の診断を受けた。成人になると、喫煙、毎晩のアルコール、退職後は東日本大震災・原発事故、老化なども加わって、服用する薬が少しずつ増えた。

震災の翌年からはかかりつけ医院のつながりで、定期的に基幹病院で検査を受けている。

今年(2024年)5月には消化器を診てもらった。変化はない、だった。循環器は6月に検査を受けた。悪くならないための予防的な手術を提案され、7月中旬にカテーテルによる「左心耳閉鎖術」を受けた。

心臓由来の血栓からくる脳梗塞と抗凝固薬の長期服用による出血のリスクを減らすのが目的で、手術から6日後には退院した。

血圧手帳を渡された=写真。「循環器病予防は家庭血圧測定から」と表紙にある。毎日、血圧を測るようになった。

アルコールは「節酒を」というので、自主的に断った。たばこは禁煙してから20年以上がたつ。

9月末の診察では、ドクターが手帳を見て、心臓の負担を和らげる薬を「半分の量にしましょう」と言った。利尿と降圧の薬も、すでに半分になっている。

そばの薬局に処方箋を渡すと、受付の女性が明るい声で応じた。「薬の量が減ったんですね」

それに刺激されて、血圧手帳の解説をじっくり読んでみた。朝(起床して1時間以内=排尿後、薬を飲む前、朝食前)と夜(就寝前)、それぞれ2回測るとあった。

手帳の書き込み欄に1回目と2回目があるのはそのためだが、1回だけですませることが多かった。測る時間も朝食後だったり、昼前だったりとまちまちだった。

測るときは、背もたれ付きのいすに足を組まずに腰をかけて、1~2分安静にしてリラックスする。これも適当だった。

さらにネットで調べると、血圧は起床時からゆっくりと上昇し、活動量の多い昼間に高くなる、夕方になって活動量が減ると低下し、睡眠中はさらに低くなる、とあった。「早朝高血圧」は要注意だという。

体からアルコールが抜けて3カ月。ビフォー・アフターでいうと、まず便通が安定してきた。詳しくは避けるが、ずいぶん落ち着いた。

 フリーになったあと、いったんは「締め切り」のない生活を楽しんだ。が、3カ月もたつと、気持ちが落ち着かなくなった。

「一日に1回は締め切りを持つ」ことにして、毎日、ブログを書いている(今は、日・祝日は休む)。下書きは晩酌をしながらつくった。

断酒してみて初めて、晩酌の時間が一日で一番リラックスして、楽しかったことを知った。

 一日の基本は、断酒してもそう変わらない。が、晩酌がなくなっただけで生活のリズムはいちだんと単純になった。

アルコールのない余生はどうなのだろう。首をひねりながら、とにかく浴びるように飲んできた、一生分どころかあの世の分まで飲んでしまった、という思いにはなる。

であればアルコールはもういいか、と自分に言い聞かせながらも、なお気持ちは揺れ動く。日曜日の晩の、カツ刺しのときくらいは……なんて。

2024年10月15日火曜日

ハクチョウが飛来

               
 夏井川渓谷の隠居へ行く途中、平地の小川町・三島で、500メートルほど国道399号と同川が接する。

 三島はハクチョウの越冬地でもある。県紙によると10月12日、猪苗代湖にハクチョウ49羽が今季初めて飛来した。

過去の例だと、浜通り南部のいわき市へやって来るのは、猪苗代湖で初飛来が確認されてから1週間~10日後だ。

すると、今年(2024年)は10月19~22日あたりに、三島か平窪、ないし下流の塩(新川合流部)にハクチョウが姿を見せる。

 13日の日曜日朝、渓谷へ行くのにいつもの国道399号を利用した。三島の直前でカミサンにハクチョウ飛来が近いことを説明する。

「今朝の新聞に、ハクチョウが猪苗代湖に飛来したって記事が載ってた。今度の日曜日(10月20日)には三島にいるかも」

 その数秒後、三島橋の上流右岸にハクチョウが8羽、羽を休めているのが目に入った=写真。

猪苗代湖にやって来たばかりでもう三島とは! これまでの時間差を覆す早い飛来に驚いた。

 今年は夏が長かった。こう暑くてはハクチョウも南下する気にはならないだろう。そう思っていたが、繁殖地のロシアからはいつものように旅立ったらしい。

樋口広芳『鳥たちの旅――渡り鳥の衛星追跡』(NHKブックス、2005年)や、長谷川博『白鳥の旅――シベリアから日本へ』(東京新聞出版局、1988年)、さらにはネットにアップされた専門家の論考によると、長い旅のルートは次のようだ

 まずは春の北帰行。1990年4月10日、北海道のクッチャロ湖で送信機を付けられたコハクチョウはサハリンへ渡り、ロシアの北極海に注ぐ巨大河川「コリマ川」を北上して河口に到達した。やや北東部に移ったところで通信が途絶えた。

そこは「大小何千もの湖沼からなるツンドラ地帯の一大湿地」、つまりコハクチョウの繁殖地だ。クッチャロ湖から繁殖地までの距離は3083キロ、3週間あまりの旅だった。

このコハクチョウは1986年から毎年、長野県の諏訪湖に飛来し、送信機を付けられた1990年秋には幼鳥1羽を連れて現れた。色足環で確認された。

コハクチョウは北極海沿岸から北緯60度の間のツンドラ地帯で営巣・育雛する。オオハクチョウはそれより南の森林ツンドラからタイガ(針葉樹林)帯が繁殖地だという。繁殖地と越冬地との距離の長短には体の大きさ(重さ)が関係しているらしい。

 南下には北帰行と逆のルートをたどる。その年に生まれたばかりの幼鳥を伴い、9月に旅立った家族は、ツンドラ~サハリン~北海道~本州へと渡って来る。

翼を傷めて三島に残留したコハクチョウの「エレン」はやがて傷が癒え、去年、仲間と一緒に北へ帰り、秋に再び三島の夏井川へ戻って来た。

コハクチョウのくちばしは根元が一部黄色くて、あとは黒い。エレンは黒いくちばしの付け根に黄色い紋様がある。それで識別できる。この秋もエレンに会えるといのだが……。