2026年7月31日金曜日

津波警報時は通行止め

                               
   7月30日のいわき民報に、カムチャツカ半島沖の地震からちょうど1年を伝える記事が載った=写真。

1年前のこの日朝、カムチャツカの沖合でⅯ8.7の巨大地震が発生し、いわき市の沿岸部にも津波警報が出された。拙ブログによると、わが家では当日、こんな具合だった。

――故義伯父の家の庭でオニユリが咲いた。カミサンは植えた記憶がない。自然に根付いたらしい。

では新舞子海岸のオニユリを見に行くか、なんて思っているところに、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。

NHKは、始まって間もない「あさイチ」を中断して津波特番に切り替えた。15年前の3月11日午後。激しい揺れがおさまるとテレビをつけた。その記憶が生々しくよみがえる。

今度もテレビをつけっぱなしにしていた。やがて鉄道が運休し、国道6号が部分的に通行止めになったことを伝える。

新舞子の海岸道路もそうだったろう。津波はいわきにも来たが、被害はなかったようだ。なによりである――。

30日付のいわき民報は、当時の国道6号の渋滞と、その後、平・草野地区に「津波警報時通行止め」の看板が設置されたことを、写真付きで伝える。

このごろは日曜日の夕方、四倉までカツオの刺し身を買いに行く。行きはロッコク(国道6号)、帰りは旧道(浜街道)を利用する。

実は先日、ロッコクと山麓線(主要地方道いわき浪江線)の交差点に、「ここから先津波警報時通行止」の看板が設置されたのに気づいた。

で、7月26日、交差点を通過する際にカミサンに頼んで写真を撮ってもらった。残念ながらピンボケだった。

「走ってる車から、急に『撮れ』っていわれたって」。確かにその通りだろう。信号待ちで止まったときならともかく、移動中にピントの合った写真を撮れということ自体、無理な注文だ。次回また撮影をと考えていたところに、記事が出た。

交差点の先、クリナップ井上記念体育館前の脇に津波標識がある。「津波避難場所/クリナップ体育館駐車場/避難場所の海抜4.0m」

さらに行くと、四倉の市街地だ。JR四ツ倉駅に向かう交差点と歩道橋の反対側、海側に右折すると、右手に四倉図書館がある。図書館は公民館に併設されている。近くには鉄筋コンクリート造りの中学校と病院。

海岸に近いので、東日本大震災では一帯が津波に襲われた。海岸堤防のすぐそばでは家が流失し、図書館周辺では浸水被害に遭った。

 歩道橋をくぐった先には、「東日本大震災/津波浸水区域/ここから」と書かれた標識が立つ。ロッコクも津波に沈んだということだろう。

 海岸道路の電柱や標識柱にも、すぐそばの海水面からの高さ(海抜4mとか5m)を知らせる表示がある。

いずれも津波への注意喚起を目的にしたものにはちがいない。そういう標識を日常的に見ながら、いわき市民は暮らしている。

2026年7月30日木曜日

令和8年熊本地震

                                  
 7月28日の夕方、熊本地方で大きな地震があった。第一報をテレビで知ったあと、「いいのみんなの食堂」へ出かけた。帰ってテレビをつけると、NHKは地震特番に切り替わっていた。

 発生から1時間半後、イオンモール熊本で爆発――といった衝撃的なニュースが流れた。

 「東日本大震災」での体験、「阪神・淡路大震災」の映像を思い出して、脳内が震えたのか、真夜中に目が覚めたあとは眠れなくなった。

 未明の3時前には新聞が届く。1面のトップはベタ黒白抜きで「熊本で震度7」とあった=写真。それを見てまた胸が苦しくなった。

「阪神・淡路大震災」、そして「東日本大震災」がそうだったように、時間がたつごとに被害が拡大する。原発は? 「異常なし」の見出しに、ひとまずホッとする。

気象庁が地震名を「令和8年熊本地震」と命名した。熊本では10年前にも同じような場所で大きな地震が起きている。「平成28年熊本地震」である。

何気なく「阪神・淡路大震災」と書き、「令和8年熊本地震」と書いたが、厳密にいうと、前者は「災害名」、後者は「地震名」である。

いわき明星大学(現・医療創生大学)で、「マスコミ論」(のちに「メディア社会論」)の非常勤講師をした最初の年に、東日本大震災が起きた。

大震災の影響で開講が1カ月遅れた。原発事故も起きた。それに合わせて講義の内容を替えた。

そのとき、地震名と災害名があることを知った。私が調べて知ったことを伝える講座でもあった。

このブログも、「令和8年熊本地震」の犠牲者を悼み、被災者に思いを寄せるための情報の一つとして受けとめてもらえるとありがたい。自分自身のおさらいの意味もある。

「阪神・淡路大震災」は政府が閣議決定をした災害名。気象庁が命名した地震名は「兵庫県南部地震」だった。

気象庁は自然現象のひとつとして地震をとらえる。その結果、圧死・負傷・家屋倒壊などの災害が甚大だったことから、政府が災害名を決めた。

それと同じく、「東日本大震災」は津波による溺死が多く発生したための災害名で、地震名は「東北地方太平洋沖地震」である。

気象庁の前身は東京気象台。それが中央気象台になり、戦後の昭和31年、気象庁に昇格する。

大正時代には、まだ中央気象台だった。そのなかで「関東大震災」が発生する。これは災害名で、世間一般の通称が定着したようだ。地震名は「大正関東地震」である。

あのとき(東北地方太平洋沖地震のとき)、宮城県栗原市では震度7、いわきでは6弱だった。

震度階級は7止まりだという。理由は、防災上の対応が8でも、9でも変わらないため、だとか。どれほど揺れが強くてもすべて「震度7」となるのだという。

いわきで震度7の地震が起きたら、「大規模半壊に近い半壊」だったわが家はまちがいなく倒壊する。

そのことを思いながら、熊本地震のニュースを追う。そのつど、「あああ」となる。時間が経過するたびに、ライフラインの寸断が明らかになってきた。

2026年7月29日水曜日

真空チルド

                               
   7月も残すところあと2日。東北南部の梅雨明けは秒読み、というより遅すぎではないか、そんな思いもよぎるが……。

関東甲信は7月20日に梅雨が明けた。いわきは北関東と同じ気象環境である。いわき地方も、山田では前日の19日から5日連続、真夏日を記録した。

日曜日の19日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。すぐ汗でシャツがぐしょぐしょになった。

このあと、マチへ戻って総合図書館へ行き、市立美術館の企画展を見る予定でいたが、「年寄り半日仕事」である。図書館で本を探したら、もう家で横になりたくなった。

 美術館で開催中の「20世紀北欧デザインの巨匠 スティグ・リンドベリ展」は、翌日行くことにして帰宅した。

3連休最終日の「海の記念日」)も朝から暑かった。美術館の駐車場に車を止めて1時間もしないで戻ると、運転席の計器盤は外気温37度を示していた。

 猛暑である。アスファルト舗装の駐車場とはいえ、37度とは! 海へ行こう。海風が冷たいはずだ。

 いわきのハマは俗に「いわき七浜」といって、海水浴場が10カ所前後はあった。東日本大震災、そしてコロナ禍の影響を受けて、現在では北から久之浜・波立(はったち)、四倉、薄磯、勿来の4海水浴場が開いているにすぎない。

美術館から海へ――。目的は「道の駅よつくら港」で売っているソフトクリームだ。

平市街を離れ、海岸道路に出ると、車の外気温は28度に下がった。9度の差である。マチよりは低いが、それでもやはり暑い。

暑いだけでなく、空気が湿って重い。スペイン生活が長い友人の画家の話を思い出す。

向こうは暑くても空気が乾燥している。ところが、日本は暑いうえに湿って重い。なんだか空気をかき分けるようにして歩いている感じだという。加齢のせいか、湿って重い空気に似た感覚を抱くようになった。

人間だけではない。糠床も湿潤と暑さの影響を受ける。表面が短時間で白い膜に覆われる。産膜酵母である。

異臭(シンナー臭)も加わるようになった。それで、朝晩だけでなく、暑い日には昼も糠床をかき回す。さらには食塩を加え、穴の開いた細長いグラス状の容器も入れて水を抜く。

それを続けていると、異臭が収まった。と思ったのも束の間。糠漬けをパックに入れて冷蔵庫で保管していたら、またかすかに異臭がする。冷蔵庫でも異臭のもとの菌は抑えられないのか。

糠味噌を洗い落としても同じだった。じゃあ、どうすればいいんだ――悶々としていたら、カミサンがパックを冷蔵室の「真空チルド」=写真=に入れた。

ここに保管していた糠漬けを食べたら、異臭がしない。偶然かもしれないが、真空チルドで菌の活動が抑えられたようだ。

それからは、糠漬けはチルドで保管し、そのつど出すようにしている。それで今のところ問題はない。これはこれで「黴雨(ばいう)」と高温がもたらした発見、ということもできる。

2026年7月28日火曜日

ウバユリとバショウ

                                              
   日記は手書きと決めている。ノートではなくカード方式で、新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」(チラシ=A4判コピー)の裏面を利用する。

先ごろ、県紙の販売店がこのチラシを廃止した。用紙が入らなくなった。が、これまでの分が残っている。ここしばらくは大丈夫だろう。

ふだんの日記のほかに、生物季節的な事象はあとで別の用紙にまとめておく。

特別な用紙ではない。若いときに特注し、未使用のままだった俳諧用の調査カードだ。死蔵するよりはまし、ということで始めた。「マイ歳時記」のようなものができれば御の字だ。

 夏のシンボルはヤマユリ。私はそう思っている。7月12日の日曜日、隠居のある夏井川渓谷の手前、段丘の高崎地内で今年(2026年)初めて、野生のヤマユリの花を見た。その1週間後、渓谷は「ヤマユリ街道」になった。

 ヤマユリはもちろん、チェックシートにも事細かく書き留めておく。併せて鳴き声を聞いたウグイスやガビチョウ(中国産のかごぬけ鳥)もシートに記録する。

 渓谷を縫う県道小野四倉線は、茂った青葉で緑のトンネルになっている。その薄暗い県道のガードパイプに寄り添うように、ウバユリが咲いていた=写真上1。

東日本大震災の前は、隠居へ行くと必ず対岸に渡り、遊歩道を巡った。するとこの時期、緑陰の中で緑がかった白い花が横向きに咲いている。

冬は冬で、立ち枯れた茎の先端に蒴果が丸く膨らんでいる。これもまた凛々しい雰囲気をかもしていた。

ウバユリのことをすっかり忘れていた。県道の花を見て記憶がよみがえった。そのくらい森を巡っていないということだろう。

いやいや、花自体が地味で、あまり興味を引かないのも一因ではないか。日記には書き留めている。が、ブログには一言も出てこない。

 逆に、夏も冬も毎回、気になってしようがない植物がある。平地の集落を流れる川岸で、バナナのような大きな葉を伸ばしている。

高崎に入る直前、「裏二ツ箭」から流れて来た加路川が夏井川に合流する。そばの県道には橋が架かり、その上流側にバショウらしい草本がある。

晩秋には枯れ、冬の間、ボロボロの枯れ草色になっていたのが、春を迎えて枯れ葉の間から新しい緑の葉をのぞかせ始めた。

と思ったら、どんどん緑が増え、今は長い羽のような葉をいっぱい伸ばしている=写真上2。

バショウは、和ジュロと違って野鳥由来とは考えにくい。だれかが植えたのだろうか。このバショウだけでも自然と人間、鳥と植物の交通について考えさせられる。渓谷までの沿道で見かける不思議の一つではある。これもチェックシートには事細かく記録する。

2026年7月27日月曜日

トマト記念日

                                
 首都圏で働いていた「孫」がUターンし、双葉郡内に再就職した。実家ではなく、わが家から車で5分ほどのアパートに住む。山梨県出身のパートナーも一緒だ。

 7月25日に婚姻届を出すというので、父親とともに証人になった。「孫」の両親が婚姻届を出したときにも証人になっている。

 父親から証人になってもらえ、といわれたそうだ。両親とは家族同然の付き合いをしてきた。そのなかで「孫」が生まれ、「孫」の妹が生まれた。

 婚姻届を出す日に、パートナーと一緒にやって来た。2人のなれそめは両親から聞いている。書類に署名・押印したあとは、しばらく雑談をした。

 2人とも本好きである。その点では、私ら夫婦―両親―本人たちと、世代が2回り違っていても、話題には事欠かない。

 私たちは「孫」たちのいう若い作家の名前に「ほー」となり、「孫」たちは老いた作家の名前に「へー」という表情をした。

 推理小説を好むパートナーが江戸川乱歩の名前を口にしたときには、シャーロック・ホームズは読んだ、エルキュール・ポワロはテレビドラマで見た、あの女警部ヴェラのドラマも……と盛り上がった。

 カミサンは自宅で地域図書館(かべや文庫)を運営している。移動図書館が月に1回巡って来て、貸し出す図書を取り替える。

 その中から俵万智の『牧水の恋』を引っ張り出してきて、『孫』に読むことを勧めた。前日の朝、藤間(平)の直売所から買って来たミニトマトその他を持たせることにして、テーブルに添えた。そばには婚姻届がある=写真。

 その組み合わせに脳内のセンサーが反応した。「きょうはトマト記念日だな」。いうまでもない、俵万智の有名な短歌に触発されてのことだ。

 「『この味がいいね』と君が言ったから六月七日はサラダ記念日」。それをもじって、2人が帰ったあと、胸の中でつぶやいてみる。「入籍の日に『食べな』とあげたから七月二十五日はトマト記念日」

 この日に入籍することを決めたのは、2人の間にトマトとは違う何か記念になる出来事があったかららしい。

ひそかな記念日には違いない。が、私にはそのおまけとして「トマト記念日」もいいのではないか、「孫」の婚姻届を記憶するにはぴったりだと思った。

後期高齢者になったとはいえ、ときに50代と意気投合をし、20代とこうして「今」を話し合うこともできる。

 「孫」の両親の婚姻届、『孫』自身の婚姻届と、親子2代にわたって証人になることができたのは――生きていたからこそ、である。

   そして、これはめったに経験できない「栄誉」でもある。そのことを「孫」に教えられた。

2026年7月25日土曜日

いわきの民俗芸能展

                                                  
   民俗写真家芳賀日出男さん(1921~2022年)のネガフィルム46本がいわき市暮らしの伝承郷に寄贈された。いわき民報で知った。

いわきゆかりの写真家である。いわきの民俗・芸能に関する写真もいっぱい撮っている。会ったことはないが、ときどき耳にはしていた。その意味では懐かしい名前だ。

いわきの歴史と民俗に詳しい故佐藤孝徳さんの家は江名の網元だった。確か佐藤家の正月飾りを取材して写真に収めている。その話を孝徳さんから聞いたのは、私が40代のころだ。

 いわき民報の記事によると、芳賀さんの父親は今のいわき市常磐藤原町の出身である。本人は中国・大連で生まれた。

民俗写真家として国内外で活躍し、1970年の大阪万博では世界の祭りのプロデューサーを務めた。

 ネットで情報を探ると、遺族(長男の日向さん)は奄美大島博物館や福島県立博物館にも、今回と同様、亡父の撮影したネガフィルムを寄贈している。

 折から暮らしの伝承郷では企画展「いわきの民俗芸能」が開かれている=写真(解説資料)。寄贈された写真の一部が展示されているという。

 カミサンが事業懇談会の委員をしているので、伝承郷へはアッシー君としてちょくちょく出かける。

 懇談会が終わると、展覧会場で担当学芸員が企画展の内容を解説する。委員に混じってそれを聞くのが習いになった。

 いわきの民俗芸能といえば、じゃんがら念仏踊りである。笠踊りやヤッチキ踊りもある。

それらのほかに、獅子舞、御宝殿の稚児田楽・風流、大和舞(山外舞)、奴振り・長持などを紹介している。

じゃんがら念仏踊りのコーナーには「じゃんがら人形」が展示されていた。1961年、現在の上皇・上皇后両陛下が小名浜で行われた放魚祭に臨席した際、郷土工芸品の「じゃんがら人形」(13人組)が桐のケースに収められて献上された。

じゃんがら人形は戦前、図案家の鈴木百世(ももよ)が考案した。戦後の1952年、百世の妻恭代さんが人形の制作を再開した。

旧平市が、皇太子と美智子さまの来市の折、「じゃんがら人形」の献上を決め、恭代さんに特注した。伝承郷に寄贈されたのはそのスペアだろう。

いわき総合図書館では去年(2025年)秋から、常設展「デザイナー鈴木百世 知る人ぞ知るいわき人」が開かれている。

当初は今年5月24日までだったが、好評のために8月30日まで延期された。常設展としては異例のことである。

じゃんがら念仏踊りのコーナーは、この人形ケースと解説文があるためにいちだんと中身が濃いものになった。

そして、これは余談。別の学芸員と芳賀日出男さんの話になった。冒頭で紹介した佐藤家の取材例を伝えた。

具体的な話はそれしか知らない。が、市内各地に似たような話が埋もれているはずである。

裏付け調査をするとしたら、長く困難な道が待っている。それだけにやりがいのある大仕事にはちがいない。

2026年7月24日金曜日

これからはふるさとで

                                 
 家の向かいに故義伯父の家がある。そこに画家阿部幸洋の小品だけでなく、個展の案内はがきをまとめた額がある=写真。それはそれで「作品」になっている。カミサンが額装した。

 その画家が自転車でわが家へやって来た。自宅(実家)はいわき市平の夏井川河口右岸域にある。歩けば40分というところだろうか。

 結婚と同時にスペインへ渡って半世紀近く。定期的に帰国してはいわき、東京、その他の都市で個展を開いてきた。

 今回もそうだと思っていたら、違った。スペインを引き揚げてきたという。これからはふるさとで絵描きとしての人生の仕上げをするわけだ。

 スペインはラ・マンチャ地方のトメジョソに住んでいた。妻のすみえちゃんは2009年9月末、向こうで急逝した。

生前、臓器提供の意思を明確にしていたため、心臓と肝臓がそれぞれスペインの市民に提供された。その意味では、彼女の魂はずっとスペインの大地で生きている。

すみえちゃんは妻であると同時に、阿部のマネジャー・通訳・運転手でもあった。毎年、個展を開くために帰国すると、夫婦でわが家へやって来た。

キャンバスが相手の夫に代わって現地の人たちと交流した。それで、すみえちゃんを母のように慕ってきた子どももいる。ラサロという。

すみえちゃんの死後、阿部が青年のラサロを伴ってわが家へやって来た。ラサロの弟も後年、パートナーとともにわが家を訪れた。今年(2026年)も来る。先日、連絡が入った。

私は50年以上も前、阿部と草野美術ホールで出会った。23歳だった。いわき民報社に入って2年目の駆け出し記者で、阿部は20歳ながら同ホールの広い壁面を使って個展を開いた。すぐ意気投合した。

 スペイン生活46年。今度は自分の絵かき人生の原点でもある実家で、ふるさとの風景の中でキャンバスに向かうことになる。

スペイン生活の集大成ともいうべき「帰国展」を考えているという。問題は、いわきのギャラリーではスペースが限られることだ。

トメジョソにアントニオ・ロペス・トーレス美術館がある。同美術館で2014年秋、阿部の個展が開かれた。

いわき市立美術館の佐々木吉晴館長(当時)がプライベートで個展を見に行った。彼によると、アントニオ・ロペス・ガルシア(1936~)というスペインの現代美術を代表する画家・彫刻家がいる。トーレスはその叔父さんだ。

スペイン現代美術の世界で阿部が画家として評価されたからこその、現地での個展だった。

それに匹敵するくらいの規模を考えているのではないだろうか。規模的には文化センターがいいのだが、借りるにはいろいろ制約がある。となれば、複数の会場で同時開催をする。そんなことを考えているという。

いずれにしても人生の区切りとなる回顧展には違いない。若いときから彼の作品を見続けてきた身としては、ふるさとに戻ってからの作風の変化もまた楽しみではある。