2026年11月7日土曜日

「磐城平」のこと

吉野せい賞の表彰式のあと、東京の「谷根千(やねせん)」で知られる作家森まゆみさんが「吉野せい――畑に生きる喜びと悲しみ」と題して記念講演をした。

講演内容を紹介するブログの最後に、森さんの話の中で違和感を持ったものが一つあることを書いた。

せいは若いころ、文学少女だった。そのころ、牧師で詩人の山村暮鳥が平に住んでいた。

地元の文学青年が暮鳥の周りに集まった。小名浜に住んでいたせいも、その一人だった。

暮鳥は病を得て茨城県の大洗で療養生活を送る。そのとき、磐城平地方の若い仲間を思って詩を書く。

「おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか」

初出は大正13年1月に磐城平で発行された同人誌「みみづく」。タイトルは「友らをおもふ」である。

森さんは、この暮鳥の詩に出てくる「磐城平」を、「いわきだいら」と読んだ。「いわきたいら」と読んだのかもしれないが、私には「いわきだいら」と聞こえた。

「磐城平」に「いわきだいら」とルビまで入れた誤読例が前にあった。ドイツ文学者の池内紀(おさむ)さんが日本の川を巡って『川を旅する』(ちくまプリマー新書)を出した。それを取り上げた2008年3月20日付の拙ブログを要約・再掲する。

――『川を旅する』には、いわき市を流れる夏井川=写真(小川町三島のハクチョウ)=が出てくる。

「小川郷近辺」というタイトルで、夏井川と詩人の草野心平が紹介されている。読み始めてすぐ、違和感に襲われた。
 ①心平が育った「上小川辺りは夏井川の支流にあたる」。えっ、本流そのものでしょ。
 ②「小川のほとりの小天地は、広大な磐城平(いわきだいら)の大空にひらいている」。「いわきだいら」ではなく「いわきたいら」ですよ。小川の隣、旧平市のことで、藩政時代には磐城平(いわきたいら)藩がおかれていた。
 ③心平に名誉村民の称号を与えたいわき市の隣村は川内(かわうち)村で、「川内(せんだい)村」ではない。
 ④「草野心平が逝ったのち、寺の和尚さんが詩人の蔵書をゆずり受け、天山文庫をつくった」。ここであ然ぼう然とした。

天山文庫は、心平がピンピンしているときに完成した。そもそもが、村が用意した心平の夏の別荘のようなものである――。

中央の人士が「磐城平」を「いわきだいら」と濁って読む。ラジオで誤読し、本で誤記する。いっこうに正しい読みが定着しない。

心平が夏井川の支流・江田川に「背戸峨廊(セドガロ)」と漢字を当てた。それがいつのまにか「セトガロウ」と誤読されるようになった。

「『セドガロ』だよ」と声を上げ続けたら、風向きが変わってきた。それと同じで、「『イワキタイラ』ですよ」と言い続けるしかないようだ。 

2026年11月6日金曜日

9日ぶりの「日曜日」

                               
   11月の始まり、1日は日曜日だった。午前9時から地元で公民館まつりが開かれた。

公民館を利用しているサークルの会員を主に8人の区長も加わって、前日の午後遅く、テント出しなどの準備作業が行われた。

当日は朝8時に集合し、テントを立てた。芸能サークルのステージは公民館の玄関前である。そこにグリーンのマットを敷き、園庭に観客用のイスを並べた。

つまり、野天で地元の人間が地元の人間の踊りや太鼓の演奏を楽しむ。公民館の祭りならではの距離感ではある。

 私は、小川町の草野心平記念文学館で開かれる吉野せい賞表彰式に出るため、途中で退席した。まつりの後片づけは勘弁してもらった。

 日曜日はいつもであれば、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをする。それがこの日は用事が重なった。

 それから2日後。火曜日は祝日・文化の日である。紅葉が始まったばかりの渓谷の様子を見に行くか――。

生ごみのバケツを車に積んで、9日ぶりに隠居へ出かけた。昼前には戻って来ることにして、カミサンも同行した。

 毎週、隠居の畑の隅に生ごみを埋める。埋めたら地面に網形の鉄板を敷き、その上に重い石を置く。

 その鉄板をずらすような力のある動物はイノシシしかいない。タヌキやハクビシンでは無理である。

 鉄の網はそのままだったが、前に埋めたところが掘り起こされていた。穴ができて、生ごみのかけらが地面に散らばっていた。ときどきそうなる。

 今回はしかし、それだけではない。ネギのうねとミョウガの群落の間に点々と小さな穴ぼこができていた=写真。

 イノシシであれば地面をラッセルしてミミズを探す。大きく広い溝になる。それに比べたらささやかなものだ。

 畑は上の庭の西側にある。下の庭とはなだらかな斜面(元は畑のあぜ道)でつながっている。

 上と下の庭の草むらを見ているうちに、「けもの道」のようなものが脳内に浮かんできた。

紙にざっと庭の平面図を書き、草むらにできたすき間や十数カ所の穴を落とし込むと、なにやら動物が歩き回った道順のようなものが見えてきた。

動物は下の庭の隅から上の庭に現れると、まっすぐ畑に入ったようだ。それから庭と畑の境に置かれた伐採木(桐)に沿って進み、そこでまず穴を掘ったらしい。

そのあと、さらに畑の中をうろつき、ネギのうねのそばからミョウガの群落の間の地面を何カ所も掘った。

さらに穴ぼこはないかと物置のそばまで行くと、動物の糞(ふん)がまとまってあった。これで「犯人」が推測できた。

イノシシ以外で庭に現れる動物といえば、タヌキかハクビシン、あるいはイタチである。タヌキの「ため糞」に違いない。

タヌキは雑食性で、ドングリやクリはもちろん、果物、ジャガイモ、動物ではミミズやカエル、ネズミも食べる。地中のミミズを狙ったか。

隠居へ行くたびになにか変化があり、発見がある。日曜日の隠居通いは、これがあるのでやめられない。

2026年11月5日木曜日

畑に生きた吉野せい

                                 
   きのう(11月4日)の続き――。吉野せい賞の表彰式のあとは記念講演が行われた。

今年(2026年)は東京の「谷根千(やねせん)」で知られる作家森まゆみさんが「吉野せい――畑に生きる喜びと悲しみ」と題して話した。

森さんは東日本大震災の数年前、いわきJC(青年会議所)が主催するまちづくり講演会の講師としていわき市を訪れた。そのとき、JCメンバーの案内で草野心平と吉野せいの墓参りをしている。

震災直後は、畑を借りていた宮城県丸森町やいわき市内で炊き出しなどの支援活動を行った。

今回も講演前に吉野せいの墓参りをし、墓碑に次女・梨花の名があるのを確かめた。

森さんは、吉野せいの作品集『洟をたらした神』と、自著の『女のきっぷ』(岩波書店、2014年)=写真=に収めた「吉野せい――開拓にくわをふるうこと」をテキストにして話を進めた。

『女のきっぷ』の「きっぷ」は「切符」ではない。「気風」である。「独学でよく考え抜いた。苦しい中で、みんなでよく働いた。ぎりぎりのところで人を助け、人を励ます。そんな女の人に共感します」と、「まえがき」にある。逆境を強く生き抜いた女性たちへの賛歌といってもよい。

朝ドラ「ブラッサム」の主人公は作家宇野千代がモデルである。その宇野千代も『女のきっぷ』で、吉野せいのすぐ前に取り上げている。

それもあってか、宇野千代はリズミカルな都会の文章でスルスル入ってくる。しかし、吉野せいの文章はそれとは対照的で、土から生えてきたようなところがある。覚悟しないと読めない、と語った。

本題はやはり、吉野せいの作品集『洟をたらした神』だろう。そこに描かれた人間たち、つまりは吉野せいも含めた「生きる喜びと悲しみ」に光を当てる。

「飛ばされた紙幣」の、近所の農婦が里芋畑で赤子を産み落としたエピソードにまず触れ、「洟をたらした神」のノボル、1歳の誕生日を迎える前に亡くなった次女の臨終記「梨花」、「ダムのかげ」の尾作新八などを紹介しながら、「『洟をたらした神』に描かれている世界には歯が立たない」とも述べた。

吉野せいを知ったのは、2020年に94歳で亡くなった画家安野光雅さんを介してだったという。森さんは安野さんと交友があった。

彌生書房から箱入りの『吉野せい作品集」が出たとき、安野さんが装丁を担当した。安野さんからその本を贈られて読んだ。

安野さんもまた『洟をたらした神』の舞台である菊竹山(好間)を訪ねて水彩画を描いている。吉野せいから始まる人のつながりの妙というほかない。

ただひとつ、森さんの話の中で違和感を覚えたものがある。吉野、いや旧姓若松せいは文学少女だった。そのころ牧師で詩人の山村暮鳥が平にいた。

その暮鳥の「おうい、雲よ」で始まる作品に出てくる地名の「磐城平」を「いわきだいら」と読んだ(私にはそう聞こえた)のである。これについては稿をあらためて書こうと思う。

2026年11月4日水曜日

49回目の吉野せい賞

                                 
   第49回吉野せい賞表彰式が11月1日、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた。4人の選考委員を代表して入賞作品の選評と総評を述べた。

式が始まるのは午後1時だが、事前にリハーサルが行われる。このとき初めて生身の受賞者を知ることになる=写真。

今年は火星ネズミさんの「牡蠣(かき)とオパール」が吉野せい賞を受賞した。正賞が出るのは2年ぶりである。

奨励賞は、なかむらまさゆきさんの「白波を読む」、渡邉碧羽(あおば)さん=磐城高校3年=の「百昌(ひゃくしょう)の調べ」、赤ぺこさんの「比留田家のこと」の3編。

青少年特別賞は「かるたっ娘(こ)」の櫛田理央さん=東日大附属昌平中学校2年=が受賞した。

事務局は市文化振興課である。毎年のことながら、8月の月遅れ七夕のころ、同課から応募作品のコピーが届く。

今年は前年、前々年より10編余り多い43編だった。毎日3~4編のペースでお盆を除く12日間、文字を追い続けた。

60代以上のシルバー世代の応募が半数余を占めた。年齢を超えた旺盛な創作力・エネルギーは、吉野せい賞の特徴の一つでもある。

応募数が増えると質的な波も大きくなるが、今回は読みごたえのある作品が多かった。数こそ少ないものの、10代、20代、40代、50代の作品にも佳品がそろった。

全作品を読み終えるころにはクタクタになるのが通例なのに、今年は疲労を全く感じなかった。むしろ爽快な気分だった

選考委員会では「2年分、つまり正賞2編、準賞2編、奨励賞6編を選んでもいいくらい」という声が出たことを総評で紹介した。

年長の選考委員の務めとして、年に1回はいわき記者クラブで会見に臨む。今年(2026年)は10月13日に行われた。

そして、今度の表彰式である。それが済むと、今年の選考委員としての役目は終わる。

せいの四男誠之さん=昭和10(1935)年10月25日生まれ=は毎年、遺族を代表して表彰式に臨席していたが、式を間近にした10月6日に亡くなった。満90歳だった。誠之さんがいないことに、やはり一抹の寂しさを感じた。

それと、これは偶然なのだが、受賞者の一人、赤ぺこさん(「赤べこ」ではないことを本人に確認した)から式の前にあいさつを受けた。会うのは初めてではなかったようだ。

そのときはどこで会ったのか、思い出せなかったが、あとで応募用紙に記されている本名を見て、「いわき昔野菜保存会」の仲間らしいことがわかった。黒ぶち眼鏡に惑わされたのかもしれない。

昔野菜関係では、かつて調査員をやっていた人も以前、奨励賞を受賞している。なにか土と野菜が創作意欲をかきたてるようなところがあるのだろうか。

そのときも表彰式で生身の受賞者と会い、「あれっ」となった。地方の文学賞の妙ではある。

2026年11月3日火曜日

彼の死を実感

                     
 いわき地域学會の事務局になっているので、会あてに郵便物が届く。その一つに福島県歴史資料館の「福島県史料情報」がある=写真。

 大きさはA3判1枚を2つに折った4ページで、記事は、フロントが1本のほかは各2本、計7本だ。

 歴史資料館が所蔵する公文書・古文書、新収蔵資料などをコンパクトに紹介・解説している。私のような門外漢には願ってもない情報源である。

 たとえば、第69号(令和6年6月発行)の「『古社寺建築物調』に見える白水阿弥陀堂」は、明治32年に作成された白水阿弥陀堂の平面図を紹介している。

国宝の白水阿弥陀堂は明治35年、特別保護建造物に指定されたが、翌年1月、暴風のために倒壊する。

 お堂はその後、大規模な修復・復元工事が施された。平面図はその前の建物を正確に記録したもので、建築史研究上、大変貴重な史料という。

第75号(令和8年6月発行)には「『磐前縣一覧表』の種類について」が載る。 いずれも筆者は県歴史資料館の渡辺智裕さん。いわき出身で、いわき地域学會の会員でもあった。

 この「一覧表」は5年前、いわき中央公民館の市民講座(講師は近代史の本田善人さん)で知った。

文献紹介の先行例があった。「いわき地方史研究」第6号(昭和44年)で菊池康雄さんが「一覧表」を取り上げ、中に出てくる「新聞紙局」と「新聞展観社」について研究会の会員に詳細を尋ねた。

 それから24年後。平成5(1993)年に『いわき市史3 近代』が刊行される。そのなかで本田さんが答えている。

さらに、いわき地域学會会報「潮流」第37報(平成21年)には、「いわき・図書館のはじまり考――明治6年磐前新聞展観社の設置について」と題する論考を寄せた。

市民講座の話と合わせると、新聞紙局は磐前県庁内にあって、磐前新聞を印刷・発行した。

新聞展観所(縦覧所)は、磐前県のエリアである浜通りと田村郡・石川郡・白川郡(今の東白川郡)内の7カ所にあった。

これは「一覧表」の新聞関係に焦点を当てたものだが、渡辺さんは本田さんの研究に導かれながら、原本調査をした。その結果、「一覧表」には初版と改訂版の2種類があることがわかった、としている。

渡辺さんとは地域学會の総会で顔を合わせる程度で深い付き合いはなかった。が、「福島県歴史情報」を通じて、その学恩に浴してきた。

いずれも過去形で書くしかない。渡辺さんは、私から見たら若手だが、調査研究の現場ではすでにリーダークラスだったのだろう。その渡辺さんが亡くなってだいぶたつ。

フェイスブックで渡辺さんの死を悼む知り合いのコメントに触れて、「まさか」と思ったのはいつだったか。

11月2日、「福島県史料情報」の最新号(第76号=10月発行)が届いた。どのページにも渡辺さんの名前はなかった。

私はこの冊子に載った渡辺さんの文章に刺激されて、何度かブログを書いてきた。あまりにも早い。早い死が残念でならない。

2026年11月2日月曜日

通学路の危険個所点検

                                
 ある日、地元の小学校から電話がかかってきた。通学路の危険個所を点検するので、立ち会ってほしい――。

 当日、現場を見てわかったのだが、そこは隣の行政区内の生活道路=通学路だった。私はその一つ東側、こちらの行政区との境にある生活道路のことと思い込んでいた。

ただ、わが行政区内の小学生も必ずその生活道路を通る。どこの何が問題で、どう対処するのか――。実際に見聞できたのはよかった。

10月最終週の火曜日午後1時半。校庭に教頭先生、中学校の校長先生、両校のPTA会長と私(隣の行政区長は所用で欠席)、市からは関係部署、それに警察の担当者など、合わせて十数人が集まった。

この時点で初めて、市の事業として「合同点検」が行われていることを知り、あとで市のホームページを開いて内容をおさらいした。

市教委の「市通学路安全対策基本方針」に基づき、安全確保に必要な対策を取るため、関係機関・団体が情報を共有、連携して取り組む、とあった。

そのための合同点検で、3カ所(最後の1カ所は近接する横断歩道2カ所)を見て回った。

最初に見たのは学校からまっすぐ南に伸びる生活道路の旧道交差点=写真=で、わが行政区の小学生も必ずここを通る。登校時間帯には出勤する車も多く、毎朝、交通指導員が立つ。

2カ所目はその先、国道までの間で、夕方には防犯灯が必要というところもあった。これは隣の行政区経由で市に設置・補助を申請することになる。

そのあと、同じ道を戻り、学校前を通る市道の横断歩道をチェックした。かつては「平窪・草野間連絡道路」として、整備促進期成同盟会が組織され、市に拡幅などを陳情してきた田んぼ道である。

道路幅は広い。私も夏井川渓谷の隠居へ行ったり、マチのホームセンターへ出かけたりするとき、よくこの市道を利用する。

幹線道路の国道399号(旧6号)との関係でいえば、平・鉄北地区~平窪方面へ行くには便利な裏道・抜け道・近道である。

ここの危険個所は、丘陵が南にせり出し、大きくS字になっているところの横断歩道だ。

隠居やマチからの帰り、道路が丘陵の先端をカーブして直線になるところで、急に横断歩道が現れる。ここではそれでいつも減速する。

道路環境をよく知る地元の住民はともかく、初めてのドライバーには、この路面標示は全く予測がつかないのではないか。

見通しが悪いのは歩行者も同じ、横断中に、急に車が現れるという事態になりかねない。

もうひとつの横断歩道は上神谷側からいうと急カーブが始まる手前、田んぼのあぜ道が交差するところにある。

警察としてはどちらも「撤去(移動)したい」が本音だが、住民が慣れ親しんでいることもあって、そう簡単にはいかない。

横断歩道があることを告げる路面標示(ダイヤマーク)をはっきりさせるということになるらしい。

横断歩道ひとつとっても、立場によって評価が異なる。またまた「現場」に教えられた。

2026年10月31日土曜日

堤防が通学路

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 午後遅く、高校生の孫から電話がかかってきた。学校へは自転車で通っている。駅前の駐輪場に止めておいた自転車がパンクしたという。

 「ペッペのそばのファミマにいる、迎えに来て」。両親は働いている。どちらもいない。代わってこちらにSOSが入った。

 たまたま「キョウヨウ(今日、用)」も「キョウイク(今日、行く)」もすんで、午後はフリーだった。

 「ペッペ」と「ファミマ」が頭の中で行ったり来たりする。というより、ファミマって、どこにあるの?

 それで、「ペッペの前、線路のそばの道路にいてくれ」といったのだが、ちゃんと伝わらなかったようだ。着いて待っても孫は現れない。

 こちらから電話を入れると、「ファミマの前にいる」という。そこがどこなのか、頭に浮かばない。再度「こっちまで来てくれ」と念を押す。少したって、孫がやって来た。

方向から類推して、ファミマはあそこか。いわき駅近くのアルファ―ワンの斜め前のコンビニらしいと、ようやく合点がいった。

駅前から自宅まで歩けば1時間以上はかかる。帰るとサッカーの練習がある。「練習場まで送っていくか」というと、母親が送ってくれるという。

夏井川のハクチョウウォッチングを兼ねて、堤防に出た。すると、「毎日、ここを通ってる」という。おお、通学路だったか。

朝晩、国道6号~同399号を利用するより、断然いい。安全だ。それに、と思う。堤防を行き来すれば、ハクチョウその他の水鳥が目に入る。

つい、説明を始める。「ほら、そこ(の波消しブロックの上)にカワウとアオサギがいる」「中州にいるのはカモ」

「調練場、サケのやな場の下流な、そこにハクチョウが飛来したんだ。見たか」「まだ見てない」

やな場はもうできてもいいはずだが、まだ影も形もない。まさか温暖化の影響でサケが帰って来なくなったわけではあるまい。気になるところではある。

堤防が通学路と聞いて、なんとなくうれしくなったのは、孫が川を、空を、その日々の変化を体全体で感じ得るからだ。

今季、神谷の夏井川でハクチョウを見たのは、三島(小川)で初飛来を確認した翌日、10月19日だった。

後日、新川合流部でも羽を休めていたが、以後は姿を見ない。合流部の下流では堆積した土砂の除去工事が行われている。これではハクチョウも落ち着いて羽を休めることはできないだろう。

10月30日の朝、藤間の直売所へ行った帰り、河口から右岸の堤防に出た。もしかして河口付近に飛来していないか。

図星だった。ここでも土砂除去工事が行われている。河口近くで川幅が広いためか、工事も気にせずに8羽、ちょっと離れて4羽が羽を休めていた。8羽のうち、画像を拡大して4羽をアップする=写真。

堤防を行き来する楽しみがこれである。孫もリバーウォッチングを楽しみながら行き来しているといいのだが。