2026年10月15日木曜日

磐東線サイクルトレイン

                                           
 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。庭の一角にある菜園で土いじりをしていると、そばの県道をサイクリニストが駆け上がっていく。地理院地図によると、このあたりで標高は200メートルほどだ。

平地の小川では、加路川が夏井川に注ぐ片石田で標高が48・5メートルほど。これが急坂を上って渓谷に入ると、江田駅前あたりで134・7メートル、さらに上流の川前駅付近では281・5メートルになる。

 その後も坂道が続き、市境を過ぎて田村郡小野町に入ると、やっと平坦な盆地が現れる。高原である。小野新町駅付近で標高はすでに428メートルほどになっている。

 阿武隈の山の向こうの小野町と、太平洋に接するこちら側の平地、たとえばいわき駅前とは高低差が420メートルほどある。

 ヤマ(阿武隈高地)に近いタニ(渓谷)の半住民としては、平地から駆け上がってくるサイクリニストには、いつも「ご苦労さん」という気持ちになる。

 そして、そのたびに県道と並行して走る磐越東線を利用した自転車のダウンヒル(下り)があれば爽快なのに、と思う。

渓谷では、アカヤシオが開花する春と、紅葉の燃える秋に列車の徐行運転が行われる。

2013年11月19日付のブログで、カエデの紅葉に触れながら次のようなことを書いた。

――新聞で知ったのだが、11月9日には「サイクルトレイン」が実施された。いわき駅から田村市滝根町の神俣駅を目指して自転車で夏井川渓谷を駆け上がり、神俣駅から列車でいわき駅へ戻る、というきついイベントだ。

かねがねその逆、ヒルクライム(登り)ではなく、ダウンヒルなら団塊の世代も参加できる、そんな列車が運行できないものかと思っていただけに、次はぜひダウンヒルの企画を立ててもらいたいものだ。むろん、競技ではなく楽しみとして――。

そして、こう付け加えた。――アマカメラマンにまじって、風を切って県道を駆け下ってきた若いサイクリニストが、カエデの写真を撮っていた。

ダウンヒルだからこそできる「道草」だ。ヒルクライムでは、紅葉を撮影する余裕などないだろう――。

 そのあとも、別のブログに書いた。――JRが一枚かめばいい。磐越東線で自転車ごと小野新町まで行って、そこから夏井川に沿って下って来る。そう思うだけで爽快な気分になる――。

 これが12月5日にやっと実現する。「磐越東線サイクルトレイン」で、いわき民報で知った=写真。

コースは2つ。中・上級の小野新町駅発と、初級の川前駅発で、ゴールはともにいわき駅だ。

中・上級は小野新町駅を出発して夏井諏訪神社(翁・媼杉がある)~川前駅~夏井川キャンプ場(江田)~曙ブレーキ工業を巡る。

初級は川前駅を出て籠場の滝~夏井川キャンプ場~草野心平生家~ハクチョウ飛来地(三島)を回る。

 この日は土曜日。そして翌6日は予定が入っている。一日早く隠居へ行ってダウンヒルの一行を応援しようか、なんて考えている。

2026年10月14日水曜日

『しいたけと3・11』

                                  
    いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の総合図書館は、月ごとにテーマを決めて展示コーナーに本を飾る。10月は4階が「秋の夜長の極上エッセイ」、5階が「10月15日は『きのこの日』」だ。

 先日、山本美穂編『しいたけと3・11』(新泉社、2026年)を借りた=写真。サブタイトルは「福島原発事故が森林の恵みに与えた影響」である。

福島県内では浜通りと中通りを中心に、野生キノコの摂取と出荷が制限されている。

 事故から15年がたって、一部規制が緩和された。野生のマツタケ、ナメコ、ナラタケ、ムキタケ、クリタケに関しては、県の非破壊検査で基準値(キロ当たり100ベクレル)を超えなければ出荷が可能になった。

シイタケが被った影響については、拙ブログでも取り上げている。2020年1月、東京新聞が「広葉樹の里山で人は 福島・阿武隈」を連載した。感想を述べながら、記事の中身を紹介した。それを要約・再掲する

――原発事故まで福島県の阿武隈山地は、シイタケ栽培用原木生産の日本の一大拠点で、シイタケ生産も盛んだった。

事故から9年、里山で栽培する原木やシイタケは放射能の影響で生産が滞ったままだ。

事故前の年間出荷量は阿武隈の木を中心に約20万本。今は約8分の1に減り、大半は県南西部の南会津町産だ。切り出してそのまま基準値を下回る阿武隈の木はまだ少ない。

歴史の長いシイタケ原木栽培を断ち切るまいと、みずから厳しい自己基準を設けて奮闘している原木供給業者もいる――。

 それから2年近くたって、長編ドキュメンタリー映画「失われた春 シイタケの教え」を見た。そのときのブログも一部、紹介する。

――監督の写真家田嶋雅巳さんは7年の歳月をかけて、放射能汚染と向き合う阿武隈の原木シイタケ栽培農家と、原木を伐採して出荷する林家の日常を追った。この映画の撮影のために阿武隈の山里に近い郡山市に移り住んだという。

阿武隈の里山はクヌギやコナラを中心にした雑木山だ。高度経済成長期の前は、25年前後の周期でこれらの木を伐採し、マキや木炭にした。

切り株にはひこばえが伸びる。山の持ち主はこれを育て、また25年ほどたってマキや木炭にした。木の生命力を生かした循環型の燃料調達システムだった――。

『しいたけと3・11』は、事故後の影響を詳細に伝える。ほかに、金銭換算が容易でない部分で見えない被害が出ていることを指摘する。

たとえば、岩手県。地元産の原木が利用不可能になったが、統計的に明らかにすることができないでいる。原発事故にはこうした見えない被害がかなりある。

この見えない被害は市民のキノコ狩りにも及ぶ。3・11以来、愛菌家はキノコを採って食べる楽しみを奪われた。

損害を数値化できないので、裁判はできないと、知り合いの弁護士に言われた。原発事故で市民は今も「自然享受権」を断たれたままでいる。本を読み終えて、あらためてそのことを思った。

2026年10月13日火曜日

展覧会巡り

                                
   「芸術の秋」という言葉は手あかにまみれている。でも、その言葉がしっくりくる一日だった。

 10月11日の日曜日は、朝、夏井川渓谷の隠居で1時間ほど土いじりをしたあと、マチへ戻った。

 まずは好間の龍雲寺禅ホールで18日まで開かれている峰丘展へ。96回目の個展のテーマは「面・線・点の瞑想――峰丘の抽象的表現」である。

 メキシコから帰国して、平の草野美術ホールで最初の個展を開いたのが1976年。同じ年齢の峰丘とはそこで知り合った。カラベラ(骸骨)と多彩な色遣いに衝撃を受けた。

それから着実に画業を重ねた峰丘は、80歳まであと2年という年齢でガラリと作風を変えた。墨が基本になった=写真。

「画境の変化というか老境というのか、面と線そして点を加えて瞑想したら、紙と墨に巡り合った」(案内状から)

 老境には老境の美術がある。文章もしかり。私はほぼ毎日、「老境のブログ」を書いている。それもあって、言わんとすることはよくわかる。

 画家は、老境という未知の世界を楽しんでいるのだ。私も同じで、このごろは老いて経験する「初めてのこと」を楽しむようにしている。

 そんな感覚を確かめたあと、次の展覧会場(市文化センター)へ。いわきア-ト集団美術展とみづゑ会展の最終日である。アートの方には知り合いの陶芸家などがいた。

絵画・陶芸・写真など、ジャンルを超えた作品を見たあとは、エリコーナ(平・大町)を訪ねる。25日まで「版画の世界――版と追憶のポリフォニー」が開かれている。

阿部幸洋や石川貞治、斎藤嘉平、下山田晴彦、吉田重信、吉田成寿といった、いわきの作家の作品を中心に展示している。

そして、これは望外の喜び。一通り見て回った最後の最後に驚きが待っていた。

江戸時代の銅版画家・洋画家亜欧堂田善(1748~1822年)の銅版画「大日本金龍山之図」が飾られていたのだ。

エリコーナのオーナー中川素直さんの両親は、今は彼岸に渡った画家若松光一郎、音楽家若松紀志子さんである。

福島高専がまだ平高専のころ、1年生のときに紀志子先生から音楽を、2年生になって光一郎先生から美術を習った。

そのあと、同人雑誌を始めた先輩らとしばしば、平・旧城跡の若松家にお邪魔した。先生に雑誌の表紙までつくってもらった。

いわき民報の記者になってからも、よく遊びに行った。そのとき、光一郎先生から田善の名を教えられ、この銅版画を見せられた。半世紀も前のことである。

江戸時代に遠近法も取り入れた人間が須賀川にいた。それだけで誇らしい気持ちになったのを覚えている。

しかも、田善の高弟に仙台出身の安田田騏(でんき)がいて、墓が常磐の惣善寺にある。先生から教えられて記事にした。

この銅版画だけ「非売品」なのは、聞かなくともわかる。大切な先生の遺品なのだ。

田善の作品に「再会」した瞬間、鮮明によみがえった当時の記憶に分け入り、遊び、楽しんだ。「芸術の秋」のいい締めくくりになった。

2026年10月12日月曜日

続・わらボッチ

 
   夏井川渓谷の隠居へ行く途中、磐越東線の江田駅前を通る。9月27日に出かけたとき、江田の田んぼの稲が刈られ、わらボッチがいっぱいできていた。
そのことを10月1日付のブログに書いた。

今は刈り取りから脱穀、乾燥まで一挙にやってしまう。私の子どものころは、脱穀前に「はせ掛け」をした。わらボッチにする田もあった。

そのわらボッチを見て、「雨の合間を縫って大急ぎで刈り取り、脱穀した(いや、脱穀せずにボッチにして乾燥させる?)――。通りすがりの人間である私も、わらボッチを見てなぜかホッとした」と書いた。

それを読んだ知人が、フェイスブックを介して、昔、中通りへ行ったとき、稲刈りのあと、乾燥させる前に写真のようなわらボッチを見かけた、というコメントを寄せた。

脱穀してわらボッチにしたのか、脱穀前にわらボッチにしたのか、どうも記憶があいまいになっていた。

ここははっきりさせないと――というわけで、翌週の10月4日、隠居へ行く前、刈り田のわらボッチに近寄って、籾(もみ=稲の実)がいっぱい付いているのを確かめた=写真。

つまりは脱穀前に天日乾燥をするためのわらボッチだったわけだ。あいまいだった記憶がはっきりした。

それからまた1週間。11日に通るとボッチは消えて、田んぼに何カ所か、わら束がまとまって寝ていた。脱穀を終えたばかりだったのだろう。

隠居へ行くには、神谷の自宅から平窪で国道399号(その先は県道小野四倉線を兼ねる)に出るまで、田んぼ道を通る。

途中、いわき商業情報高校(旧平商)近くの幕ノ内でも、刈り田にわらボッチができていた。

ただし、こちらのボッチは小さい。江田のボッチに比べたら3分の1もない。こちらは、籾はないようだった。

過去のブログでわらボッチに触れているのは……。探すと、2つあった。いずれも2010年代である。

1つは2011年10月10日付。稲刈りがピークのころ。「場所によっては天日干しのわらボッチが立つ。兵隊さんの隊列のようなわらボッチがあった」。秋が深まりつつあるなか、上平窪の刈り田を通ったときに見たのだった。

2つ目は2018年10月1日付。「小川町に入ると山が霧でかすんでいた。わらボッチが生徒のように並んでいた」。

渓谷の手前、草野心平が生まれた集落を右手に見ながら、田んぼの中にできたバイパスを進むと、前方にボッチが横に並んでいた。

はせ掛けであれ、わらボッチであれ、脱穀後は、稲わらはわら小屋に保管された。コメントを寄せた知人も書いている。子どもたちはわら小屋でかくれんぼをしたり、わら束をかき分けてもぐったりした。

それで思い出した。私らもわら小屋からわら束を持ち出し、尻の下に敷いてソリのように土手を滑り下りた。

小屋の持ち主に見つかると、当然、しかられる。子どもたちはそんなワル遊びが好きだった。


2026年10月10日土曜日

幽玄な明かりの仏画展

                               
   「松本守雄仏画展――千年の祈り・その色彩」が、いわき市暮らしの伝承郷で開かれている(10月12日まで)=写真。

私と同じ阿武隈の山里で生まれ育ち、いわきで仕事をしてきた中学校の同級生である。

同級生が写仏画に興味を持った経緯などは9月28日付のブログに書いた。それを一部、整理して再掲する。

――彼は近所に住む。有限会社を営む大工さんである。職業柄、寺を巡り、仏像を見る機会が多かった。

若いころ、自分の生き方に悩んで仏教に傾倒した。やがて、何世紀も生き伸びる仏像に魅かれて写仏に取り組むようになった。

結婚すると趣味の写仏画を封印して仕事に励んだ。時は過ぎ、いつの間にか後期高齢者になった。

2年ほど前、脊椎を傷めて会社を休眠させた。一線から退くと時間が余った。若いときの趣味だった仏画への情熱がよみがえり、写仏を再開した――。

モノを作るウデの確かさは、二度ほど仕事を頼んだのでわかっている。その手の、指の精緻な技が仏画にも発揮されていた。

写仏した絵絹に彩色する。筆遣いの鮮やかさとこまやかさに舌を巻いた。それを見るだけで、なにか心が洗われるような思いになった。

会場の展示構成と照明には思わずうなった。会場の通常の明かりではなく、フロアに並べた箱型の照明器具から壁面に光を当て、軸装された仏画を浮かび上がらせるようにした。この間接照明が幽玄な雰囲気を醸し出している。

実は、個展会場の作品と照明器具などを詳細に描き込んだ配置図(というより建築設計図といった方がいいか)を事前に見せられていた。

 展覧会場を下見して配置を考え、間接照明を当てる場所を決めて箱型の照明器具を手づくりした。大工職としてのセンスとこだわりである。

 仕事と仏画を介して知り合った「仲間」も協力した。照明には「遠野和紙」を使った明かり(ぼんぼり型やあんどん型)なども配置された。

 地域おこし協力隊員として遠野和紙の紙すき技術を継承し、「キガミヤ」を起業した高嶋翔太さんは書家でもある。種田山頭火の作品を短冊に書いて展示し、花を添えた。

「うつりきてお彼岸の花さかり」。これはヒガンバナのことだろう。「こんなにさみしい風ふく」「山の仏には山の花」「晴れきった空はふるさと」……。

山頭火らしい自由律の俳句作品が並ぶ。どこか故郷の阿武隈の情景が思い浮かぶような句ではあった。

 会場入り口で彼が愛蔵する3人の地元画家の作品が迎える。若松光一郎さん、いやここでは先生と呼ぼう。学校(高専)のときの美術の先生だった。

 私が知っている先生の作品は抽象画だが、同級生が所蔵しているのは具象画だ。花瓶に入った白いユリの花が描かれている。抽象画以前の作品に違いない。制作年は古いはずなのに、なぜか新鮮に思えた。

 これまでいろんな個展を見てきた。光と影の演出にこだわった展覧会も見た。が、これほど幽玄さを感じさせる空間はなかった。なかなかのものである。

2026年10月9日金曜日

流行歌の花物語

                                          
    もう1カ月も前のことだ。晩酌をしながらテレビを見ていると、カミサンがBSテレ東の「日本歌手協会歌謡祭プレミアム」に切り替えた。普通は1時間番組だが、プレミアムは2時間だ。

このごろは夜、カミサンに従ってBSテレ東の懐メロ番組を見る。いつものようにぼんやり聞いていたら、次から次に花の名前が出てきた。

「花はおそかった」のクロッカスに、「アカシアの雨がやむとき」、そして「エリカの花散るとき」……。子どものころから聞いてきた歌のパレードに、目と耳が反応した。

番組の案内人は歌手兼作家の合田道人さん。64歳。ネットで探ると、今年(2026年)7月に『流行歌に唄われた花物語』(笠間書院)を出した=写真。

図書館にこの新刊があって、「貸出中」だった。後日、またホームページをチェックする。と、「貸出可」に替わっていた。すぐ借りて読んだ。

曲と歌手の紹介に合わせて、共著者の専門家(土橋豊さん)が花の解説をしている。それでわかったのだが、本と響きあうような番組構成だった。

本から何曲か(の花)を紹介する。まずは「夜来香(イェライシャン)」。この流行歌は昭和19(1944)年、当時の中華民国で発売された。

歌ったのは満洲映画協会の看板スター李香蘭、というより日本人の山口淑子(よしこ)だ。戦後、李香蘭は本名で日本の銀幕に登場し、中国ではやった「夜来香」を日本で発売して大ヒットした。

花の夜来香はキョウチクトウ科のつる植物イェライシャンと考えられているそうだ。学名からして、花の芳香が遠くまで届く――に由来しているとか。この花はむろん、見たことがない。

身近な例でいえば、「さくらさくら」がある。現代のサクラ=ソメイヨシノは森山直太朗、ケツメイシが歌い、小柳ルミ子、岩崎宏美、松田聖子も歌っている。朝ドラの「ブラッサム」にも、冒頭、満開のソメイヨシノが登場する。

テレビで紹介された歌の花は、ほかにサザンカ(「さざんかの宿」)、コブシ(「北国の春」)、ワスレナグサ(「忘れな草」)、ソテツ(「長崎の女」)など、枚挙にいとまがない。

西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」は、1960年の安保闘争(小学6年生だった)のときにはやった。それからの連想。

息子たちが小学生になると、よく夏井川べりでバードウォッチングをした。岸辺にこのアカシア(実はニセアカシア)が生えていた。

 渓谷の隠居へ通うようになってからは、ハクチョウ飛来地の左岸、国道399号沿いに何本か立つニセアカシアの花をながめるのが楽しみだった。

 その大木が10月4日に通ると、すべて伐採されていた。見晴らしはよくなったが、岸辺林としての風情はなくなった。上流の竹林もあらかた姿を消した。

同日、猪苗代湖にハクチョウの第一陣が到着した。例年、1週間余りあとには小川(三島)の夏井川にも飛来する。ハクチョウたちは周りの風景が変わっているのにびっくりするのではないだろうか。

2026年10月8日木曜日

ツバメの塒はどこ?

                                
 ある日の夕方、2つの団体の郵便物が届いた。日本野鳥の会いわき支部の会報「かもめ」10月1日号と、いわき昔野菜保存会の会報「ROOT」第11号だ=写真。

 「ROOT」は昔野菜保存会の会員に年1回郵送される。「かもめ」は、会員ではないが毎回、いわき支部から恵贈にあずかる。今回はたまたま同時に配達された。

 「かもめ」のトップ記事は、ツバメの塒(ねぐら)入り観察会の報告だった。中面の会員による記事と合わせて読むと、今年(2026年)はツバメも、ツバメの塒を確かめる役のメンバーもだいぶ苦労したようだ。

 ツバメは夏井川河口~仁井田川河口域のヨシ原を塒にしている。観察会の前には、支部の会員が何度か下見をし、塒の場所を確かめておく。ところが、今年は塒が定まらなかった。

 記事によれば――。去年(2025年)までの塒が、観察会の前に移動してしまったらしく、数年前に利用していた場所を探して塒を確認した。

 それからは観察会の前々夜まで下見を続けた。ところが当日は、一時100羽近く集まったものの、間もなく飛び去り、塒入りは観察できなかった。

 この20年間、塒入りをはずしたことはなかった。これほど塒入りが安定しなかった年はなかったという。

 その1週間後、アンモナイトセンター主催の親子自然探訪教室が開かれた。野鳥の会が協力した。

この日は2万羽を超えるツバメが塒入りをした。参加者からは驚きと喜びの声が上がった。

 なぜツバメの塒が定まらなかったのか、「かもめ」の会員投稿から理由の一端がうかがえる。

異常気象による大雨や洪水の被害を防ぐために、全国的に河川改修工事が進められている。

 いわきでも夏井川や支流の新川で土砂の撤去工事やヨシ原の刈り取りなどが行われている。

 ここ数年、ツバメの塒が仁井田川河口や夏井川河口右岸・左岸と移り変わりが激しいのは、この河川工事も少なからず関係しているのではないか、という。

 2023年、24年と続けて塒として使われていたヨシ原は広範囲に刈り取られてしまった。河口寄りの親水公園では土砂を重機で掘削し、ダンプで搬出が行われている。

 ここのツバメの塒は、福島県内では最大だという。できるだけヨシ原が形成される工事を県に要望したが、防災の観点から工事はなお続くようだ。

 ツバメの塒に限らない。河口から5キロほど上流の、わが生活圏の夏井川も事情は同じだ。それでウグイスのさえずりは岸辺からは聞こえなくなった。

 この夏は、立木が残っている左岸の岸辺でオオヨシキリがさえずっていたが、なんとも弱々しかった。

水防の観点から岸辺林は除去するということなのか、草野心平が詩に取り上げた小川の川岸の竹林もあらかた姿を消した。風情という点では、川は都市の下水路に性格が似てきた。

もう1冊、昔野菜の会報は2025年の昔野菜フェスティバルの記事などが載っている。中身の紹介は、今回は省略する。