もう半月ほど前のことだ。春分の日にカミサンの実家(平・久保町)へ行って線香をあげた。
家のそばに「好間渠」(好間江筋)がある。昼食をとったあと、江筋沿いの小道を少し散歩した。
江筋は3面舗装の農業用水路で、幅は3メートル強だろうか。農閑期だが少し水が流れていた。
カミサンの実家(ちょっと前まで米屋をやっていた)では、この江筋から敷地内に水を引き、水車の回転力を歯車に伝えて米を搗いた。
取水口はコンクリート壁面でふさがれてわからないが、家の下に通じる排水口は四角く切り取られたまま残っている。これも米屋の「水力精米」を伝える遺物には違いない。
好間地区関係団体会議が平成10(1988)年に発行した『よしま――ふるさとの歴史探訪』にこんなくだりがある。
「平七間町から今新田(いまにいだ)へ好間川の上に樋(とい)を架けて水田用水としたので今新田側を『樋場』と今も呼んでいる」
好間川を軸にして考えると、平・七間町は右岸域で久保町の北隣、対岸(左岸域)が好間の今新田だ。
これは久保町から七間町へと北流する江筋からの分水に違いない。あらかじめグーグルアースで確かめていた水路が頭にあった。
やがて分水のための水門に出合うはず、そう踏んで江筋沿いを歩いていると、案の定だった。カミサンの実家の近所だが、北へと江筋沿いの小道を歩くのは初めてだ。音を立てて流れる分水路にちょっと驚いた=写真。
分水路は江筋からかなり低いところに設けられている。そこへ江筋の水門から水が滝となって落下している。
ネットで確かめると、水門がある場所は久保町ではなく七間町だった。この水路の先端から好間川をまたぎ、今新田に水田用水を分水していたのだろう。
水門のそばに「きけん 好間二小PTA」の立て看があった。小学校は川向うの今新田にある。
その校庭を借りて、かつては平の久保町と隣接する七間町、道匠小路の3地区合同の運動会が開かれた。
結婚して子どもが生まれたあと、リレーのメンバーが足りないというのでお呼びがかかり、久保町チームに加わったことがある。
少子高齢化はそのころから顕在化しつつあったようだ。運動会はその後取りやめになった。
七間町などは平一小学区だが、久保町に隣接する右岸域の西側はほとんどが好間二小学区だ。江筋の水門そばに好間二小PTAの立て看があるのはそのためだった。
わが家の床の間に「好間渠誌」の掛軸(拓本)が飾ってある。記念碑は明治35(1902)年に建立されたらしい。それを読み解くための散歩でもあった。
カミサンの実家の田んぼは、今は学校法人に貸していて、建物が立っている。この分水路のほかに、下好間の田んぼを潤す別の水路もある。2つは好間川の手前で合流する。やはり「現場」を見るといろんなことがわかる。