いわき市勿来文学歴史館で、企画展「清光堂書店物語~教科書から繪はがきまで~」が開かれている(6月30日まで)=写真(リーフレット)。
「こどもの日」に夫婦で出かけた。企画展示スペースは狭いのだが、その狭さが気にならないほど中身が濃かった。初めて目にする資料が多かったためだろう。
清光堂書店は明治から昭和初期まで、浜通り有数の書籍文房具商だった。平・二町目の本町通りに本店、才槌小路に分店、今の銀座通りに支店があった。地元の景勝地を扱った「繪はがき」を発売し、郷土出版にも力を入れた。
いわきゆかりの大須賀筠軒の漢詩集や山村暮鳥の詩誌「風景」なども出している。筠軒の漢詩集は息子の大須賀乙字(俳人・俳論家)がまとめた。
暮鳥は大正元(1912)年秋、日本聖公会の牧師として常陸太田講義所から平講義所に着任する。
やがて才槌小路に家を借りて教会兼住まいにした。その斜め向かいの角に清光堂の分店があった。ここで暮鳥は生涯の友となる吉野義也(三野混沌)に出会う。
磐城平時代の暮鳥と仲間を追っているうちに、およそ100年前のいわきのことが気になりだした。
同時に、いわきの今の文芸の根っこには暮鳥がいる、今のいわきを知るには100年前のいわきを知る必要がある、ということも意識するようになった。
文芸史的にはずっと脇役だった「清光堂書店」に光が当てられた。それぞれ断片としてしか見てこなかった筠軒の漢詩集や「平町市街全図」(地図)、古い繪はがきなどがつながり、書店を経営した人物像(関内米三郎・彦太郎父子)にもピントが合い始めた。
一例が、才槌小路の分店をまかされていた乾康治である。乾は彦太郎の妻の弟であることを初めて知った。
暮鳥の関連資料を読んでいたとき、暮鳥後援者の1人に乾の名前があった。しかし、具体的な関係はわからなかった。
乙字の最初の妻・宮内千代の出身地、旧那珂湊町の縁戚宅に筠軒・乙字関係資料が残っている。いわき地域学會の仲間とそれを見に行ったことがある。
「乙字のトランク」に貴重な資料がいっぱい入っていた。その中にも乾の名前があったように記憶する。
千代は彦太郎の妻とは親戚で、乙字と結婚した際には米三郎が仲人を務めたという。それだけではない。彦太郎の母親は、暮鳥がよく通った平・三町目の「十一屋」の娘だった。
なんと、なんと、である。清光堂を介して二重、三重にも人間がつながっていくではないか。
企画展を監修したのは、いわき歴史文化研究会員の磯上知代子さん。年下の元同僚だ。
企画展を見て駐車場に戻ると、彼女が車でやって来た。企画展が充実している話をしたら、調査をすればするほど課題がみえてくるという。それはこちらも同じ。
話を聞いているうちに、私のなかで1つだったあるところの家系図が、実は2つの家のもの、それを混同していたことを知った。調べが足りないことがよくわかった。