毎年のことながら、年度末はあわただしい。それでも3月前半はまだ静かだった。それが第4週に入ると、行事が連続した。
年度末はいつもこんなものだ。で、前日にはいつもより念を入れて翌日の予定と時間をメモし、頭に入れる。
3月23日は地元の小学校の卒業式があった。市議、PTA会長、同窓会長、学校評議員などとともに臨席した=写真(卒業式のしおり)。
この席ではいつも「少子」時代を実感する。卒業生は2クラスの計45人(男子23人、女子22人)だった。
去年(2025年)の入学式でも同じ思いを抱いた。新1年生は男子15人、女子11人の計26人で、クラスは1学級だけの編成になった。
この日と24、26日の3日間は市役所で会議があった。23日は午後だったが、卒業式が終わるとすぐなので、やむを得ず欠席した。「年寄り半日仕事」である。24日には別の会議が入ったが、こちらも前もって欠席の連絡をした。
通常、役所がらみの行事(会議など)は日程が重ならないよう調整がなされるのだろうが、年度末はどうしても時間的な余裕がなくなる。たまたま複数の委員を引き受けていると、どちらに出席するか悩ましい事態になる。
27日はまた市役所へ出かけ、夜は地元の集まりに出席した。そして土曜日28日は、夏井川渓谷の小集落の総会に顔を出した。日曜日(29日)はそれこそ年度末を締めくくる地元の行政区の総会が開かれた。
あわただしい1週間だったが、25日はたまたま予定がなかった。それに合わせて、4月から東京で学生生活を始める上の孫と昼、カミサン手製のカレーを食べた。
カレーはカミサンが出かけるとき、あるいは来客のときの定番だ。いちおう「来客」として扱った。
あれこれしゃべっているうちに、15年前の「あのとき」の話になった。孫は4歳になる1カ月前だった。
巨大地震のあと原発事故が起きた。私ら夫婦と息子一家が車2台を連ねて中通りの南端、西郷村の国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家に避難した。
割り振られた畳敷きの大部屋で、大人はすることもなく壁によりかかり、あるいは横になっているしかなかった。
そんなある日、孫が発した言葉が今も忘れられない。確か夫婦であのときの揺れの大きさとテレビで見た大津波の被害、それに続く原発事故を話していたときだ。
「地球が怒ったんだよ」。びっくりして孫の顔を見た。以来、3・11を思い出すと、決まってこの言葉が脳裏をよぎる。
19歳になろうとする今、あえて聞いてみた。避難したときのことはうっすらと覚えている。自分の発した言葉には記憶がない。当然だろう。むしろ、それを聞いてホッとした。
怒涛の年度末。とはいえ、巣立つ孫と向き合い、震災の話をしたのは初めてだ。
自然災害を含めて世界がいちだんと危うくなっている。その危うさを自覚しながら生きていってほしい。それこそ地球が怒らないために。ジイバアは切にそう思うのだった。