2026年3月21日土曜日

平成元年の未来会議

                                 
 40代から50代にかけて、いわき市が開く審議会や懇談会のメンバーになったことがある。

 なかでも記憶に残っているのは「未来会議」と「総合型図書館整備懇談会」だ。正式な名称は忘れたが、たまに当時の議論とメンバーの顔を思い出す。

議論が楽しかったというのが一つ。もう一つは、自分たちの身の丈に合った提言内容だったことが懐かしい理由だろう。

市民が利用しやすい図書館を――。自分たちで提言した総合図書館を、私自身、オープンと同時に利用している。

図書館へ行って本を借り、調べものをして感じるのは、休館日や開館時間などの提言がよく生かされているということだ。

つまりは、自分の暮らしと密接につながる総合図書館ができたこと、そのための考え方などを「協働」でつくりあげたという実感がある。

ある日、ひょんなことからこの2つの組織を思い出した。いったい何歳のときにかかわったのか。ネットで情報を探ると見えてきた。

「未来会議」は平成元(1989)年から同3年まで続いた。私は満40歳だった。3つの提言を終えて解散するときには満42歳になっていた。

「総合型図書館」の方は平成13(2001)年から翌年にかけて開かれた。つまりざっと10年後、満52歳前後のことである。

 先日、久しぶりに総合型図書館への提言書=写真=を読んでみた。ここでは前に書いたブログの文章を引用する。

 ――「基本理念」のなかに〈「個」のある図書館、「輪」をつくる図書館〉というフレーズがあって、次のような文言が添えられている。
 「思い思いに過ごす『自分の椅子』のある図書館。ここは、人と人、人と情報とが出会う交差点。この新たな図書館が、いわきの文化をはぐくみ、人々の暮らしの質を高め、街のにぎわいをつくる」

総合図書館が平成19(2007)年10月25日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」のオープンと同時に、中核施設として開館した。

奇しくも同じ日に私はフリーになった。すぐさま図書館通いが始まった。以来、仕事に、趣味に「自分の椅子」を利用している。

といって、何時間もいるわけではない。空想の「マイチェア」がいつもそこにある。そう思わせる規模、環境、空間ができた。

「ラトブ」は街のなかの「街」であり、「知の森」であり、仕事に必要な「もう一つの椅子」である。少なくとも私にはそんな存在だ。今日も「知の森」に分け入るつもりでいる――。

未来会議では①国際化②自然とヒトのシナリオ③まちづくりにおける市民と行政――の3つの提言をした。

最初の国際化は事務局から提案されたが、あとの2つはメンバーが提起して自由に議論した。

自然とヒトのシナリオでは、哲学者内山節さんの本をベースに、自然を利用しながら守っていくための認識を深めた。

「まちづくりの本をつくろう」となって、四国の四万十川を訪ねたこともあった。こちらも提言書を読んで思い出した。

2026年3月20日金曜日

「他人の空」

思い立って図書館から『新選飯島耕一詩集』(思潮社、1977年)=写真=を借りて読んだ。

目当ては「夜あけ一時間前の五つの詩他」。しかし、それは入っていなかった。若いころ読んでよくわからなかったが、表現としては「現代風」と感じた記憶がある。

作品がネットに紹介されていた。そのなかに「砂粒たちの夜あけ一時間前の/青い爆発」とある。

今も何のことかはわからない。ただし、意味以上に新しい言葉の関係を築こうとしていることは理解できる。

 「他人の空」と題した詩。このタイトルはなんとなくわかる。自分の住む世界の空とは思えないという違和感。シュールレアリスト詩人には、戦後の日本がそう映ったのだろう。

実は最近、夜明け前1時間の空に「なんだろう、これは」と思うことがあった。すっかり早寝早起きになって、未明の4時半には玄関の戸を開けて新聞を取り込む。ついでに庭へ出て天を仰ぐ。「観天望気」の「観天」である。きょうは曇天か。

星が見えない。でも、ネットでいわきの天気予報をチェックすると、その時間も「晴れ」のマークになっている。星が見えないのは、なぜ?

 夜明け前1時間の空を細かく表現するとこうなる。人間のいる庭はまだ夜で暗い。空は全体としては暗いが、天のドームだけは灰色に近い。

 晴れているのに星の見えない時間帯がある。考えれば当たり前だが、ネットで検索すると「天文薄明」という言葉がヒットした。

 日の出前・日の出後1時間ほどの空の薄暗さを指す。太陽はまだ地平線の下にあるか、地平線に沈んだばかりだ。大気中の微粒子がその角度からの日光を散乱し、空が薄暗く(薄明るく)見える現象をいうそうだ。

 春夏秋冬、日と月が変わり、季節が変わっても、未明の4時半前後に新聞を取り込む習慣は変わらない。

 夏至のころは玄関の先が明るくなり、冬至のころはまだ暗い。春分の日と秋分の日のころはその中間だ。

今年(2026年)は3月20日が春分の日だ。前日に見ると、夜明け前の玄関はガラス戸がほんのり灰色がかっていた。

 ついでながら、「天文薄明」にたどり着いたあとも検索を続けて、ふだん使っている言葉の違いに触れた。

 「かはたれ」と「たそかれ」。どちらも意味は同じだろう。「かはたれ」は「彼は誰」、「たそかれ」は「誰そ彼」。

「たそかれ」は夕方の薄明を指し、「かはたれ」は朝方の薄明を指すのだとか。私は「黄昏」も「かわたれ」も同じ夕暮れの言葉として使ってきた。

ま、それはどうでもいいことだが、「観天望気」は暮らしの基本で、週末だけの土いじりでも大事になる。

腕時計に縛られた生き方から解放されて18年。今は身体的な実感がより大切だという思いがある。

   19日の薄明は、地平線に近いところ、民家の黒い屋根の上もほんのり白んでいた。それがはっきりわかった。夜が明けると霧状の雨。しかし、これもすぐやんだ。今年(2026年)は、雨はまだまだ足りない。 

2026年3月19日木曜日

「草野心平と川内村」展

                                
 「おもしろい」というか、「懐かしい」というか。そして、「何か新しいものは?」という興味が交錯して、すぐ見に行った。

 いわき市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平と川内村」=写真(チラシ)=が3月14日に始まった。

 翌15日の日曜日、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、文学館へ出かけた。たまたま居合わせた学芸員が解説してくれた。

作品展示協力者のなかに旧知の人がいた。村の元教育長氏(村職員時代、『川内村史』の担当者だった)で、天山文庫設立60周年を記念した企画展である。

「川内村史」は発足して間もないいわき地域学會が編纂事業を引き受けた。昼間は自分の仕事があるアフターファイブの研究者の集団だ。休日になると、たびたび村へ出かけ、役場の担当者の案内で調査を繰り返した。

私もその一人として、江戸時代の俳人佐久間喜鳥を軸にした俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを調べた。

通史では「幕末の川内の文芸」(近世第5章)と、「川内と草野心平」(現代第3章)を担当した。

 それもあって、拙ブログに心平と川内村のつながりを書いている。主な部分を要約・引用する。

――心平と川内村を結びつけたのは、一つにはモリアオガエル、二つにはモリアオガエルのことを昭和24年2月1日付の読売新聞福島県版に書いた心平のエッセーに反応して、村の禅寺(長福寺)の坊さんが心平に誘いの手紙を書いたからだ。

昭和28年、心平は初めて川内村を訪れる。以来、川内詣でを繰り返し、モリアオガエルの繁殖地「平伏沼(へぶすぬま)」で歌を詠んだり、村内の小学校の校歌をつくったりする。

で、村議会は心平を名誉村民に推戴することを決めた。褒章は年100俵の木炭。心平は木炭のお返しに蔵書3000冊の寄贈を決め、うち2000冊を、木炭を運搬して来たトラックに載せて村へ届けた。

困ったのは坊さんだ。一時、寄贈本を寺で預かっていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。

村役場にかけあった結果、仮称「心平文庫」の設立が議会で決まった。今の「天山文庫」はそうしてできたのである――。

 企画展はこの通史を反映していた。展示物は軸装・額装された心平の書と絵、詩碑拓本、はがき類(長福寺所蔵)を中心に、村教委所蔵の書(校歌)と写真などで、村史調査の折、実見したものが多かった。

 心平の没後1年を記念して、川内村では平成元年、天山文庫の下の阿武隈民芸館(現在は天山文庫を含めて「草野心平記念館」)で、「草野心平とかわうち」展が開かれた。

 その図録をながめてから出かけた。書と絵が重なるのは仕方がない。それがかえって懐かしさを呼んだ。

 たまたま同文学館ボランティアの会事業として、常設の「居酒屋」の前で心平随筆の朗読会が行われた。それも聴いた。

お土産の「するめそーめん」は晩酌のつまみにした。珍味である。心平流にいえば「口福」。これを2日続けて楽しんだ。

2026年3月18日水曜日

灯油も急騰

                               
 アメリカとイスラエルのイラン空爆がホルムズ海峡封鎖を招き、原油が急騰した。するとたちまち、ガソリンと灯油が高騰した。

 15年前の「原発震災」ではガソリン不足に見舞われた。それもあって、車の燃料計の表示が半分になると給油する。車のガソリンはまだ半分以上残っている。問題は灯油だ。

灯油は冬場の暖房に欠かせない。茶の間にヒーターとストーブ、台所にストーブ、店のわきの文庫にストーブがある。そのため、玄関には常時ポリ缶を置いている=写真。

 毎回18リットル入りのポリ缶4つを車のトランクに積んで買いに行く。今はセルフでタッチパネルを操作し、1万円札を入れて、ピストルのようなノズルを握る。

 前回は3月2日に入れた。領収書を見ると、4缶72リットルで8424円だった。リッター当たり117円だ。

その半月後(3月16日)。ネットで18リットル当たりの値段を確かめ、1万円札では足りないとわかったので、プラス千円札を投入した。

給油をすませて領収書を見ると、費用は10656円だった。リッター当たりでは148円である。いきなり31円の値上がりだ。合計では前回より2132円も多くかかった。

灯油のしずくを垂らさないよう、ポリ缶にノズルを差し込み、給油を終えたあと、レシートを見てはらわたの煮えくり返る思いになった。

いくらなんでも、である。ここまでの急騰は暴力的ではないか。この原因は何なんだ。関係のない庶民を巻き込んで、何をしたいんだ。

これから世の中、どうなるのか。前にも書いたが、朝ドラの歌に出てくる「日に日に世界が悪くなる」である。この歌が現実の状況とシンクロする。

いやでも思い出すのは昭和48(1973)年の「オイルショック」だ。これも前に書いた。オイルショックを機に、いわきがどうなったか。市民の生活、企業の活動に大きな影響が出た。今回もまた混乱が続くのではないか。

「三寒四温」を繰り返しながら春に向かう時期、日によってはヒーターを止める、ストーブを止める、といった時間が増えてきた。いや、これからは意識してその時間を増やさないといけない。

灯油を買ってきた16日がそうだった。昼過ぎから4時間ほどはストーブを止めた。節約、節約。これを呪文のように唱える。車で出かけるのも抑え気味にしないと。

しかし、我慢にも限度がある。17日は朝、節約ムードでいたものの、石油ストーブだけではやはり寒い。背に腹は代えられない。朝ドラの主題歌が流れるころにはヒーターにも点火した。

ロシアのウクライナ侵攻以来、世界は身勝手な理屈に振り回されているのではないか。どの国の、だれが、なにがこんな危機と困難を生んだのか。その本質を知りたくて、最近はフランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドの本を読んでいる。

2026年3月17日火曜日

ホケベキョ

                                 
 3月も半ば。15日の日曜日は予定が2つあったので、少し早く夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 9時前には着いた。菜園に生ごみを埋め、ネギの苗床の草をむしっていると、どこからかかすかに「ホケキョ」、ややおいて「ホケベキョ」の声。ウグイスの初音(はつね)だ。

 例年、渓谷で初音を聞くのは4月に入ってからだ。「まだ3月半ばではないか」。続く「ホケベキョ」には「おお、『方言』が代々受け継がれてるな」。

 ウグイスの初音は、3月の終わりごろに下流のわが生活圏で聞き、そのあと渓谷で聞くというのが「定番」だった。

 平地の夏井川では、河川敷の立木伐採と土砂除去が行われた結果、ウグイスが止まってさえずる木(ソングポスト)がなくなった。

 それで最近は「定番」が通用しなくなった。にしても、3月半ばに、しかも渓谷でウグイスの初音を聞くとは。とにかく早い。

自然の移り行きと人間の暮らしが交錯し、共振しながら、歳時はめぐる。カミサンはこの日も、隠居の下の庭でフキノトウを摘んだ。私は上の庭で辛み大根を引っこ抜いた。

そのあと、下の庭へ行って地面に目を凝らした。何カ所かにフキノトウが残っている。

ホッとした瞬間、枯れ草色の丸いかたまりが目に入った。メジロか何かの鳥の古巣だ。これを回収する。この日の収穫は、古巣を合わせて3つ=写真上1。

 それともう一つ。マチから小川町に入ったあと、三島の夏井川にハクチョウが何羽残っているかをチェックした。

 3月初めは100羽くらいいた。次の日曜日(8日)にはざっと40羽。そして15日は、10羽前後だった=写真上2。

草野心平記念文学館へ行き、いわき駅前の総合図書館に本を返したあと、堤防を利用して帰宅した。

塩(平)の越冬地には、ハクチョウの姿はなかった。何羽か残っていたカモも見当たらなかった。

近くのネギ畑を見ると、残ったままだった13列が8~9列に減っていた。ようやく終わりの掘り起こしが始まったのだろう。

 翼を傷めて三島にとどまったコハクチョウの「エリー」は、この春もとどまるのか。それとも、傷が癒えて仲間と一緒に北へ帰るのか。まだ10羽ほどいるので、エリーの有無はわからなかった。

 帰ってくれよ。いないでくれよ。今の時期になると、そんな思いが膨らむ。春になればハクチョウはいわきから姿を消す。これが一番なのだから。

2026年3月16日月曜日

再び「硫黄島の日章旗」

                              
   いわき市暮らしの伝承郷の常設展示室で、硫黄島で戦没したいわき関係者の日章旗=写真=と、皇室に献上されたのと同じ「じゃんがら人形」を見た。

「じゃんがら人形」については土曜日(3月14日)、経緯を含めてブログに書いた。

日章旗についても9年前、初めて見てブログ(2017年3月18日付)に書いている。そのときの文章を抜粋・引用する。

――太平洋戦争末期の昭和20(1945)年2月19日、米軍が硫黄島に上陸を開始する。それからおよそ1カ月後の3月17日、大本営は同島守備隊の玉砕を発表する。

伝承郷のロビーに展示された日章旗の解説文によれば、戦いが終わったあとに米兵が日章旗を持ち帰り、平成18(2006)3月、硫黄島で行われた日米合同の戦没将兵追悼式でアメリカから返還された。

旗には「縣社飯野八幡神社」「縣社子鍬倉神社」「閼伽井嶽」といった文字が墨書されている。

戦前、平・祢宜町(七丁目)にあった田辺製作所(軍需関連の鉄工所)の従業員らの名前が記されている。

戦地へ赴く人間に職場の同僚または友人が名前や短歌を寄せ書きし、贈ったものと推測されている。

引き取り手のない遺品は靖国神社に奉納される。で、平遺族会が「所持者ゆかりの地のいわきに」とはたらきかけて、アメリカ大使館から日章旗の引き渡しを受けた。

父親が硫黄島で戦死した年長の友人らが尽力したのだろう、遺族会がいわき市教委に寄贈し、伝承郷で保管されている。

3月の硫黄島の戦いを思い起こし、死者を追悼する意味合いを込めた展示でもある。

わが両親のきょうだい(オジ・オバ)は合わせて7人。うち1人は母親の実家の鴨居に飾られた軍帽・軍服姿の遺影で知っているだけだ。母の兄である。

鴨居のオジは硫黄島で戦死した。母は「兄が夢枕に立って言った」ので病死、と信じ込んでいた。

同島の戦いでは、日米双方に2万人を超える戦死傷者が出た。福島県人も854人が亡くなっている。硫黄島の戦没者は、大多数が玉砕を報じられた3月17日が命日である――。

 やっと常設展示されたか、という思いがまずわいた。次は日章旗の持ち主を特定して返還すること。そのための常設展示だろう。

 若い仲間が、いわき市立図書館が収蔵し、デジタル化した地域新聞などをキーワードで検索できる特化型エンジン「いわき文献案内」をつくった。

学芸員がそれを利用すると、日章旗に記された人物の1人がヒットしたという。私もやってみたら計3人の住所がわかった。いずれも平の町内だった。

田辺製作所に関しては「平市七丁目 田辺機械製作所」、そして「平駅前」(白銀)と「平市五色町」がヒットした。

同一だとすれば、工場は移転を重ねたことになる。これはこれで調べてみる価値がありそうだ。なにはともあれ、明3月17日は硫黄島の玉砕発表の日。

2026年3月14日土曜日

「じゃんがら人形」余話

                                 
   図案家鈴木百世(1901~42年)が創案した「じゃんがら人形」を、ブログで何度か取り上げた。これは、その余話――。

先日、いわき市暮らしの伝承郷で皇室に献上されたのと同じ「じゃんがら人形」を見た=写真。カミサンのアッシー君をしたら、常設展示室に案内され、学芸員の説明を受けた。

上皇・上皇后陛下が皇太子・妃時代の昭和36(1961)年、小名浜(当時磐城市)で開かれた放魚祭に臨席した。

そのとき、旧平市から皇室に郷土民芸品の「じゃんがら人形」(13人組み)が桐のケースに収められて献上された。

「じゃんがら人形」は粘土を素焼きにして着色したもので、戦後の昭和27(1952)年、百世の妻恭代が1年をかけて再生した。

平(現いわき)駅前の「いづみや」が郷土の民芸品として売り出した。この人形制作は恭代が老齢を理由にやめるまで続いた。

2年前、遺族が百世の遺品を市立図書館と暮らしの伝承郷に寄贈した。いわき民報でこれを知り、「『図案家鈴木百世の仕事と思想』を紹介する企画展を、ぜひ早く」とブログに書いた。

総合図書館で去年(2025年)秋から、令和7年度のいわき資料常設展「デザイナー鈴木百世(ももよ) 知る人とぞ知るいわき人」が開かれている(5月24日まで)。

関係資料として、「じゃんがら人形」(13人組み)のモノクロ写真が展示された。それを見て驚いた。

1年半前に亡くなった義弟の遺品に「じゃんがら人形」(5人組み)があった。それとデザインが同じだった。

その後、昭和36(1961)年5月29日付のいわき民報で、皇室に献上されるまでの経緯を知った。

「じゃんがら人形」は昭和50年代の終わりごろまで制作されたというから、義弟が手に入れたのはそのころだろう。

そして、ここからは伝承郷での話。写真のコピーと新聞の写真で見ていた、献上品と同じ人形に心が揺さぶられた。何セットかつくられたのだろう。遺族からの寄贈品を模様替えの一環として展示したのだという。

若い学芸員から丁寧な説明を受けたのには、別の理由もあった。朝起きると私のブログを読むという。それで、「じゃんがら人形」の周辺情報には触れていたようだ。

そして、もう一つ。義弟の遺品よりはなんとなく小ぶりのように感じられた。いったん帰宅して、義弟の遺品を持ってまた訪ねた。

学芸員と一緒にチェックすると、5人組みは大人の親指大なのに対して、13人組みは小指大と一回り小さい。

やはり違っていた。献上品ということで、人数、大きさ、すべてに工夫を重ねたのだろう。これもまた眼福ではある。

この「じゃんがら人形」のいわれなどを盛り込んだ説明文があると、百世と「じゃんがら人形」、そして妻恭代の物語がより深く理解できる。老爺(や)心ながらそう思った。