2026年6月1日月曜日

景観を楽しんで

                
  夏井川渓谷は、春はアカヤシオ(岩ツツジ)の花、秋は紅葉の名所として知られる。自然景観の美しいところである。

県道小野四倉線とJR磐越東線が渓流に沿って伸びる。春は乗客が対岸の森に展開するピンクの点描画を車窓から堪能できるようにと、列車が減速運転をする。

ビューポイントは渓谷の中間にある牛小川。10軒ほどの小集落で、家は県道と線路を境に山側に集中し、谷側にはわが隠居を含めて飛び飛びに3軒があるだけだ。

東北電力の水力発電所が対岸にある。かつては県道沿いに社宅があった。今は更地になっており、震災前は行楽で訪れたマイカーであふれかえった。

牛小川の集落でも高齢化が進む。集落から子どもの声が消えて久しい。「ここは限界集落だよ」。そんな自嘲の声も聞かれる。

が、住民は元気だ。牛小川の「財産」である自然景観を守るために、ビューポイントの環境づくりに力を入れている。

震災前、集落の東端にある県道沿いの空き家を所有者が解体し、更地にした。谷側の杉林も伐採した。

更地は「錦展望台」と名づけられ、行楽客に開放された。所有者が亡くなったあとは、地元に住む親戚が展望台を管理している。

この錦展望台の上流側に電力の土地が隣接している。そこを錦展望台から下りていけるビューポイントとして開放してほしい――

かつて発電所で働く住民もいて、地元とのつながりは深い。地元の要望に会社がこたえた。

一帯は「夏井川渓谷県立自然公園」に入っている。県の指導に沿って木々を伐採するまでに半年ほどかかったという。

展望スペースの拡大をはたらきかけた知人らは、電力の土地につながる私有地の草刈りをし、展望台から歩いて行けるスペースを確保した。

そして今度は、県道と線路の間にある私有地の雑木の伐採である=写真。

造園業を営む住民がレッカー車を出した。別の1人が木の根元を切り、もう1人が木の切断に加わって、あっという間に作業が終了した。

横に長い私有地にはすでにきれいな花を咲かせる木が何本か植えられている。ソメイヨシノではない。

自然景観だけでなく人間の住むエリアでも美しい花の景観を楽しんでほしいということだろう。それに、倒木や枝折れの予防にもなる。

 わが隠居の庭にもシダレザクラが2本ある。アカヤシオに少し遅れて花が満開になる。

アカヤシオの花には間に合わなかったが、シダレザクラに出合えたといって喜んで帰る行楽客もいる。

広い空間で自然の景観を楽しんでほしい。人の住む庭や空き地の木も見てほしい。郷土愛の発露には違いない。

わが隠居のシダレザクラも、「きれいだね」そう言ってくれる人がいるかぎり、懸命に花を咲かせる。そうに違いない――なんて、大木になったシダレザクラを家族のように思ってしまう。

2026年5月30日土曜日

米袋を保存

                                       
 どんな意図か、名分かはわからない。しかし、それがなんであれ、結果として世界中に混乱を巻き起こしている。これはまちがいない。

 アメリカとイスラエルのイラン空爆に端を発したホルムズ海峡封鎖で、ガソリンや灯油が急騰した。それだけではない、生活のあらゆる場面に浸透しているプラスチック製品なども値上がりが続く。

 5月後半のわが家での話。「納豆が値上がりするんだって」。わが家では生協の納豆を食べている。一般に売られている納豆は6月から、パッケージの値上がりなどが小売値に転嫁される。

 カミサンの実家は元米屋。配達はやめたが精米は続けている。わが家もカミサンの実家から米を調達する。

 「米の袋を捨てずに取っておいて」。先日、米を取りに行ったら、義弟に言われた。米の袋はナフサ由来の透明なポリ袋だ=写真。ここにも品薄と値上げの影響が出ている。

 神谷地区では毎年6月最初の日曜日、地区対抗の球技大会が開かれる。選手には行政区から弁当が出る。

いつもの業者に発注しながら値段を聞く。「去年は1個700円プラス消費税だったけど……」「今年は消費税込みで864円になります」

弁当は容器がプラスチック製である。ほかの容器プラスチック同様、値段が据え置きのはずはない。それは覚悟していたが、1個100円の値上げとは。

おおよそ1カ月前(4月21日)のブログに、家庭内には「容器包装プラスチック」があふれている、ガソリン・灯油だけでなく、これら原油由来の製品も高騰・不足を招いている、少なくともその不安が広がっている、と書いた。一部を抜粋・再掲する。

――「容プラ」(容器包装プラスチック)は週に1回、収集車が来て回収する。市の細かい定めを読むだけでも、家庭にはいかに容プラがあふれているかがわかる。

各種トレイ、コンビニ弁当の容器、ゼリーやプリンのカップ、薬のシート、外装フィルム、レジ袋、ペットボトルのラベル、菓子袋、シャンプーやチューブ、食用油・調味料などの容器のほか、発泡スチロール梱包材、ネット、緩衝材も該当する。

いやでも思い出すのは昭和48(1973)年の「オイルショック」である。オイルショックを機に、いわきがどうなったか。市民の生活、企業の活動に大きな影響が出た。今回もまた混乱が続くのではないか。

 刺し身でいえば、行きつけの店があったときにはマイ皿を持って行った。容プラのトレイがそれで1つは減る。閉店した今はマイ皿を持って行く魚屋が決まらない――。

この1カ月の間にマイ皿を持って行く魚屋が決まった。台所のクレラップも捨てずに再利用している。

寒さが戻った5月22~23日には石油ストーブをつけた。それまでは少し寒くても我慢していた。もう6月。梅雨になっても我慢できるはず。しばらくは倹約第一でいくしかない。

2026年5月29日金曜日

チェックシート

                                           
 「チェックシート」といっても、決まった書式があって、紙に印刷されている、といったものではない。私の頭の中にあるだけだ。

 たとえば、マチへ行った帰りに夏井川の堤防を通って、川と河川敷をチェックする。なにか変わったことがあれば、家に帰って「日記」に書き留めておく。

 現役のころは取材用の「メモ帳」をいつも携帯していた。会社をやめたあとは、メモ帳ではなく、自分の日常をA4判の「カード」にメモしている。つまりは日記。それを参考にしてキーワードを選び、毎日ブログ用の原稿を書く。

 カードといっても、新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」の裏面にすぎない。たいていは片面コピーなので、裏面をメモ用紙として利用できる。

 チェックする項目は季節によって異なる。時系列でいうと、冬は新川合流部に飛来するハクチョウの概数、春は岸辺のヤナギの芽吹きやツバメの飛来日、夏はオオヨシキリの初飛来、田んぼに水を取られてできた「川中島」の様子、秋はサケのヤナ場の設置など。

 ほかに、住宅地と堤防の間にある畑、たとえば真冬に収穫するネギの定植時期や土寄せの様子などをチェックする。

 日曜日に夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。夏井川の源流部・田村地方から渓谷へ伝播した「三春ネギ」を栽培している。その作業の参考にする。

 隠居までの行き帰り、隠居に着いたあともチェックを欠かさない。平地の三島には残留コハクチョウの「エリー」がいる。二ツ箭山のスカイラインも必ず眺める。

谷間に響くガビチョウやウグイスのさえずりはもちろん、春のアカヤシオ、初夏のコバノトネリコの花、秋の紅葉、冬の落葉なども書き留める。

絶えず流動し変化してやまない自然を、自分の目と耳で感じとる。その経験と記録が積み重なって、頭にしかないチェックシートができあがる。

 といっても、ふだんは忘れている。堤防に出たとき、渓谷への道行きなどに、季節に応じて記憶がよみがえる。

「ハクチョウは来たかな」「ネギの収穫は始まったかな」「おや、今年最初のツバメだぞ」などと、頭の中で絶えず生物季節情報と現実が交差する。

今のところ現実の「カード」(日記)は雑記にすぎない。が、これを整理し、動植物、気象その他、テーマや季節ごとに再構成すると、何か見えてくるものがあるかもしれない。

それにぴったりの用紙があった。専称寺(平)で修行した江戸時代の俳僧一具庵一具を調べるために、若いころ、調査カードを特注した=写真。死蔵したままになっている。これを活用しよう。

俳句の「歳時記」と同じで、メモはこれまで通りだが、「自然」の情報をそこから抽出すれば現実のチェックシートになり、「マイ歳時記」として再構成できる。

とにかく試してみる価値はありそうだ。なにか不備があればそのときまた考えればいい。

せっかくつくったのに何十年も使わずにいた用紙の救済にもなる。モノは使い切る、これが一番だから。

2026年5月28日木曜日

風の通る家

                                                 
   夏井川渓谷の隠居は集落を貫く県道の谷側にある。夏場は川筋を涼風が吹き渡る。

5月中旬の日曜日は朝からいい天気になった。ちょっと土いじりをしただけで汗がにじんだ。このまま外にいたら熱中症になりかねない。キリのいいところで隠居に引き揚げた。

茶の間のガラス戸を全開し、玄関も開けたままにしておく=写真。玄関の上がり口の近くで休んでいると、時折、谷風が吹き抜ける。汗ばんだ体にはこれが心地よい。天然のエアコンだ。

5月の昼前の風は川下から吹いてきてさわやかだった。でも、と反射的に冬の寒風が思い浮かぶ。

冬は北風がV字谷に集中し、わが隠居を直撃する。それを思い知らされる出来事があった。

庭の西側に生い茂っていたササを掘り起こし、開墾して、小さな菜園を作ったのはざっと30年前。近所の家から「三春ネギ」の苗をもらって栽培を始めた。

同時に、「実のなる木」にも興味がわいた。高田梅、プラム、そして温州ミカンの苗木を植えた。

その木は今どうなっているか。ミカンは苗木のうちに枯れ、プラムはやがて菌にやられて伐採した。雪国会津の高田梅だけがかろうじて命脈を保っている。

ミカンに色気を出したのは、県道と線路をはさんだ山側の家でユズを栽培したら実がなった、という話を聞いたからだ。

ユズは福島市の信夫山が北限と聞いて、それなら夏井川渓谷でも、と挑戦したのだという。

ならば、こちらはミカンだ。実がなれば、地球温暖化が進んだ「あかし」になる。渓谷のミカンの木は地域温暖化のセンサーになるだろう。

冬は白菜を漬ける。風味用にユズを調達して皮をみじんにして加える。ミカンの皮も干して入れる。隠居でミカンがなれば、中身は食べて、皮はユズの代わりに使える。

そんなもくろみもあって、いわき市の「産業祭」で2~3個、実のなっている温州ミカンの苗木を買い、隠居の風呂場の前に植えたのだが……。

常緑の葉が真冬に「風邪」を引いたのか、だんだん色が悪くなり、結局は枯れてしまった。

 それから20年以上たった今年(2026年)の3月。集落の寄り合いで、昵懇(じっこん)にしている住民から、家の裏山にミカンの苗木を植えた、と教えられた。

地球温暖化は地域温暖化。それを逆手にとって、渓谷でも栽培してみる気になったそうだ。

 わが失敗談を語ると、別の住民が理由を教えてくれた。彼の家も県道から谷側にある。

冬の寒風がもろに庭を吹き抜ける。それにミカンの苗木が耐えられなかったのだという。

 新しくミカンの栽培に挑む住民の家は山側にある。西と北側には杉林が控える。これが冬の北風を抑えてくれる。それもあって、挑戦する気になったのだそうだ。

谷側と山側では家の周りの環境が異なる。谷側は風の通り道だが、山側は防風を兼ねた林がある。

そうか、谷間の家もまた北風の直撃を避けられるところから建ち始めたにちがいない、なんて集落の成り立ちまで勝手に想像した。

2026年5月27日水曜日

「あたしって、何、」

                                            
   カミサンが「おもしろいよ」と勧めるので、なんの予備知識もなく読んだ。有賀未来(ありが・みく)の小説『あなたが走ったことないような坂道』(新潮社、2026年)=写真。

本の帯には「18歳」「新潮新人賞受賞作」とある。へぇー、若いんだ。本は、新書よりは一回り大きいものの、冊子風で薄い。短編である。

読み進めるうちに、アイデンティティ(自我同一性)がテーマになっていることを知る。

主人公の黄星瑤(ウォン・シンユ)は香港で生まれ、中国籍を持つが、香港から日本に移住した養父母(香港、中国人)のもとで、日本語で育てられた。女子高校生である。

同性の親友に「なお」(日本人)がいる。彼女との間にはなにやら恋愛感情のようなものが見え隠れする。

それは一種の伏線で、本筋としては香港・中国・日本、言い換えれば人種・民族と国家に翻弄される主人公の葛藤が描かれる。

香港はこれからどうなるかわからない。両親は日本に帰化することを考えてシンユに告げる。シンユはそれに反発する。

「あたしは、あたしは、このパスポートがなくなったら、誰があたしの、本当の故郷のことを、この名前だって失ったら、あたしは、空っぽだよ、あたしはただの、日本人になって、香港人で、中国人だったこと、全部、なかったことに、なるのかもしれないから、だから、どうして、どうしてそんな風に簡単に言うの」

シンユは家を飛び出してなおの家に駆け込み、なおに本音を語る。「あたしって、何、」「あたしは、何人なの、ガイジンなの、日本人なの、あたしは、あたしはどこに住めばいいの」

ああ、おんなじだ。記者時代の話である。大学の先生だったかが留学生について書いていた。

日系ブラジル人、あるいは日系アメリカ人だったかもしれない。ブラジルで、アメリカで生まれ育った日系2世は、アイデンティティをどこに求めるのか、自分はどこに帰属するのか、といった問題を抱えていることを知って読み飛ばせなくなった。

アメリカで生まれ育った日系2世は太平洋戦争のとき、この問題に直面した。自分は日本人なのか、それとも日本と戦うアメリカ人なのか。

1世は捕虜収容所に入れられ、2世はアメリカ兵として参戦し、親の祖国の兵士と戦った。

在日韓国人や中国人だけではない。残留孤児となった日本人も、日本で生まれ育った外国人の子どもも、やはりこの問題に直面する。

昔も今も変わらずにあるアイデンティティをテーマに、当時18歳の高校生が物語を創作した。

ネットで作者の情報を集めたが、写真を見る限り、作者は男性のようである。名前はどうか。ペンネームかもしれない。そう推測するのだが、むろん断定はできない。

引用文章からもわかるように、一文が長い。今どきの高校生の話し言葉を軸に、「読点」を多用する文章がむしろ評価されたようだ。確かに新しい才能ではある。

2026年5月26日火曜日

家庭内ケア

                                               
   月曜日は早朝、家の前にあるごみ集積所にカラス除けのネットとごみ袋を出す。この仕事から私の1週間が始まる。

 5月中旬の月曜日はそうやって週が明け、朝食後に歯科医院へ出かけた。軽い痛みが出たので電話を入れると、月曜日朝に予約が取れた。

去年(2025年)3月の時点で虫歯の治療が終わり、「あとは様子を見ましょう、3カ月後にまた来てください」と言われていた。

痛みがなかったこともあって、ほったらかしにしていたのがいけなかったのだろう。1年以上たって、食事中にときどき痛みを感じるようになった。

案の定、虫歯になっていた。治療再開である。終わって銀行へ寄り、夏井川の堤防経由で帰宅した。

 歯科医院に行った以外はいつもの月曜日である。午後も座卓(こたつ)でノートパソコンを開き、ブログの文章の打ち込みをした。

水が飲みたくなったので、「よし、一休み」。立ち上がると急に腰痛がおきた。そばの柱に手をかけてなんとか立ち上がったが、激痛で前に進めない。

カミサンに助けを求め、肩に手をかけてやっと一歩を踏み出した。といっても、すべるようにしか歩けない。

腰痛はカミサンが先輩だ。3日にいっぺんは近所の接骨院へ通っている。翌日早朝、その接骨院へ出かけた。

車の乗り降りはきついが運転はできる。今回は私も患者だ。カミサンが院長に説明すると、すぐ対応してくれた。

突発性の側弯症ということだった。前の日になにかしなかったかと聞くので、夏井川渓谷の隠居でかがんだまま1時間、草むしりをした、と答えた。

前から症状はあった。軽かったのでそのままにしておいた。それらが少しずつ蓄積されて、突然、激痛を発した。

駐車場からはカミサンの肩に手をかけて入室し、手当てをしてもらい、腰痛コルセットを巻くと、普通に歩けるようになった。

朝ドラ「風、薫る」で看護婦見習の一ノ瀬りんが、入院患者の奥様の背中に手をやるシーンがあった。こちらは現実の手当てを経験したばかりだ。

患部に手を当てるというのは、つまりは心に手を当てることなのだと勝手に解釈した。

発症直後、このまま歩けなくなるのでは、これはもしかしたら介護の始まりか、そんな不安がよぎった。

今は歯痛・腰痛だけだが、そのうちひざが痛い、足がふらつく……といったように、体のあちこちが悲鳴を上げるようになるのかもしれない。

家の2階を増築したとき、階段に手すりを付けた。店と茶の間の境の柱には縦手すりがある=写真。

故義弟がデイケアから戻って来たとき、茶の間にスムーズに上がれるようにと、取り付けてもらったのだった。それが今、役に立っている。

折から,「あさイチ」で腰痛を特集した。簡単な予防体操を知った。すぐ取り入れることにした。

ま、これから夫婦で互いに介助したり、されたりするケースが増えるのだろう。家庭内ケアである。実際にはもう始まっているのかもしれないが。

2026年5月25日月曜日

ウルトラマン60年

                             
   5月17日の「笑点」には驚いた。大喜利にウルトラマンが登場した。座布団運びは、なんとカネゴンではないか。

 なぜウルトラマンとカネゴンが? 笑点は放送開始から今年(2026年)で60年を迎えた。

ウルトラマンも誕生60年だという。同じ60年でコラボが実現したのをネットで知り、めでたい気分になった。

60年前といえば昭和41(1966)年。平高専の3年生だった。いわき地方の高校生はまだ坊主頭の時代で、高専生は3年になると長髪が認められた。それで、同年代の高校生よりも一足早く大人になった気分だった。

 この年の10月1日、常磐地方14市町村が合併して「いわき市」が誕生する。それに合わせて校名が「平高専」から「福島高専」に替わった。

ウルトラマンだけではない。ビートルズが来日・公演したのもこの年だ。坊主頭の後輩は東京までビートルズを聞きに行き、寮に帰って仲間に熱く感動を語った。

ウルトラマンは須賀川市出身の特撮監督円谷英二が中心になってつくり上げたヒーローである。

学校の敷地内にある寮からマチの下宿に移ったり、また寮に戻ったりしていたころ、テレビにウルトラマンが現れ、子どもたちをとりこにした。

当時、テレビを見る時間はなかったが、ウルトラマンの人気が子どもたちの間で沸騰していることは知っていた。

 同じ勧善懲悪モノでも時代劇と違って、宇宙とつながった未来ドラマであるところが、子どもたちには新鮮だったのだろう。

 東京へ飛び出したあと、Jターンしていわき民報の記者になり、お城山のアパートに住んだ。

 庭をはさんで大家さんの家があった。大家さんの孫(女の子で4~5歳だった)がよく庭でウルトラマンの歌を歌っていた。

「帰ってきたぞ、帰ってきたぞ、ウルトラマン」。ウルトラマンの新しいシリーズが始まって間もないころではなかったか。

日曜日の夕方には、アパートのふもとを走る常磐線の電車を見るために、よく散歩をした。ときどき女の子も付いてきた。

一緒に「帰ってきたぞ、帰ってきたぞ、ウルトラマン」と口ずさみながら、夕焼けの街をながめたこともある。

 そのころ、高校の先生や後輩らと同人誌を出した。それに「わがウルトラマン」という詩を載せた=写真。

「この夕陽 目の高さで地平を焼くまで/純粋微笑のおまえをみちづれに/しばし 未風化の記憶を鞭打ちながら/ワイワイいって歩くとしよう」。出だしは実景そのものだ。

 実は先日、カミサンが縁側にあるスチールボックスの中身を取り出し、ダンシャリを始めた。

 そこに私が10代後半から20代前半にかけて関係した同人誌や手書きの原稿などが眠っていた。それは捨てられない――となって、今、手元にある。

ついでながら、「〇×60年」をネットで検索した。「おはなはん」もそうだった。主役は、やがていわきゆかりの俳優と結婚する樫村文枝さん。この朝ドラはなぜかよく覚えている。