2026年10月8日木曜日

ツバメの塒はどこ?

                                
 ある日の夕方、2つの団体の郵便物が届いた。日本野鳥の会いわき支部の会報「かもめ」10月1日号と、いわき昔野菜保存会の会報「ROOT」第11号だ=写真。

 「ROOT」は昔野菜保存会の会員に年1回郵送される。「かもめ」は、会員ではないが毎回、いわき支部から恵贈にあずかる。今回はたまたま同時に配達された。

 「かもめ」のトップ記事は、ツバメの塒(ねぐら)入り観察会の報告だった。中面の会員による記事と合わせて読むと、今年(2026年)はツバメも、ツバメの塒を確かめる役のメンバーもだいぶ苦労したようだ。

 ツバメは夏井川河口~仁井田川河口域のヨシ原を塒にしている。観察会の前には、支部の会員が何度か下見をし、塒の場所を確かめておく。ところが、今年は塒が定まらなかった。

 記事によれば――。去年(2025年)までの塒が、観察会の前に移動してしまったらしく、数年前に利用していた場所を探して塒を確認した。

 それからは観察会の前々夜まで下見を続けた。ところが当日は、一時100羽近く集まったものの、間もなく飛び去り、塒入りは観察できなかった。

 この20年間、塒入りをはずしたことはなかった。これほど塒入りが安定しなかった年はなかったという。

 その1週間後、アンモナイトセンター主催の親子自然探訪教室が開かれた。野鳥の会が協力した。

この日は2万羽を超えるツバメが塒入りをした。参加者からは驚きと喜びの声が上がった。

 なぜツバメの塒が定まらなかったのか、「かもめ」の会員投稿から理由の一端がうかがえる。

異常気象による大雨や洪水の被害を防ぐために、全国的に河川改修工事が進められている。

 いわきでも夏井川や支流の新川で土砂の撤去工事やヨシ原の刈り取りなどが行われている。

 ここ数年、ツバメの塒が仁井田川河口や夏井川河口右岸・左岸と移り変わりが激しいのは、この河川工事も少なからず関係しているのではないか、という。

 2023年、24年と続けて塒として使われていたヨシ原は広範囲に刈り取られてしまった。河口寄りの親水公園では土砂を重機で掘削し、ダンプで搬出が行われている。

 ここのツバメの塒は、福島県内では最大だという。できるだけヨシ原が形成される工事を県に要望したが、防災の観点から工事はなお続くようだ。

 ツバメの塒に限らない。河口から5キロほど上流の、わが生活圏の夏井川も事情は同じだ。それでウグイスのさえずりは岸辺からは聞こえなくなった。

 この夏は、立木が残っている左岸の岸辺でオオヨシキリがさえずっていたが、なんとも弱々しかった。

水防の観点から岸辺林は除去するということなのか、草野心平が詩に取り上げた小川の川岸の竹林もあらかた姿を消した。風情という点では、川は都市の下水路に性格が似てきた。

もう1冊、昔野菜の会報は2025年の昔野菜フェスティバルの記事などが載っている。中身の紹介は、今回は省略する。

2026年10月7日水曜日

「きのこの日」

                                               
   いわき駅前の「ラトブ」へ行くと、「ラトブ散歩」と称して4~5階の総合図書館内を巡る。帰りはエスカレーターと階段を使って地下駐車場へ下りる。

 図書館内を結ぶ階段の上と下のそばには展示コーナーがある。9月最後の日、4階へ下りるために5階の同コーナーの前を通ったら、キノコの本が並んでいた。

「10月15日は『きのこの日』」とあった。おっ、これはいいぞ! 秋の長雨で森のキノコは豊作らしい。ここでキノコ狩りをするか。

展示された20冊のうち、図鑑と『魔女の森』『トリュフの歴史』『森のきのこを食卓へ』などは既に読んだ。

まだ読んでない本は?とながめて、山本美穂編『しいたけと3・11』(新泉社、2026年)を借りる。

10月15日が「きのこの日」であることは、去年(2025年)秋に民放のニュース番組で知った。日本特用林産振興会が1995年に制定した。

これといった根拠があるわけではない。10月には野生のキノコが多く採れる。鍋物の季節を控えてキノコの需要が高まる時期でもある。

月の半ばなら人々の暮らしもそうあわただしくはないだろう、ということから、キノコの消費拡大や正しい知識の普及を目的に、10月15日を「きのこの日」に制定した。

わが家では毎日が「きのこの日」である。味噌汁には必ず栽培ナメコを入れてもらう。近ごろはそれだけでなく、栽培マイタケ、ときにはシイタケが加わる。

ナメコは、スーパーから傘の開きかけた大きめのものを調達する。豆粒のような小さいものでは食べた気がしない。

ナメコはぬめりが強い。味噌汁そのものにもナメコのぬめりが溶け出す。喉ごしがいいのはそのためだろう。

ぬめりの正体は粘液多糖体。食物繊維のひとつで、胃や鼻の粘膜を丈夫にするらしい。ナメコ自身の乾燥も防ぎ、防寒コートの役目も果たすという。

それに、東日本大震災と原発事故以来、いわきでは野生キノコを食べたり、出荷したりできなくなった(一部制限が緩和されたが中身は省略)。

栽培ナメコを口にしながら、ウラベニホテイシメジやタマゴタケ、ナラタケ、その他の食菌を食べたつもりになる。

図書館からキノコの本を借りて読むのも同じ。野生のキノコと出合った気になって楽しむ。

『しいたけと3・11』には阿武隈高地が登場する。これからじっくり読むとして、今は毒キノコだ。2日後、やはり展示コーナーにあった『日本の毒きのこ』を借りる=写真。

先日、いわき市が公園などに毒キノコのオオシロカラカサタケが多発しているため、メディアを通じて注意を促した。

『日本の毒きのこ』ではこのキノコにも触れている。誤食すると悪寒、頭痛、嘔吐、下痢、ときには血便になるなど、激しい胃腸系の中毒を起こす、とあった。

 熱帯~亜熱帯産の帰化キノコで、日本列島の発生を継続して記録すれば、地球温暖化の傾向がわかるかもしれない、という。オオシロカラカサタケはただいま本州を北上中、とみるべきなのだろう。

2026年10月6日火曜日

『ゲド戦記』翻訳者と『洟をたらした神』

                                    
   翻訳者・児童文学評論家清水真砂子さんの半生を振り返るインタビュー記事が朝日新聞に載った(10月2日、14回で終了)。

「語る――人生の贈りもの」で、必ず吉野せいに触れるはず。そう踏んでいたら、8回目(9月24日付)に登場した=写真。

5年前の元日付のブログで、吉野せいの『洟をたらした神』に清水さんが触発された話を書いている。それを要約・再掲する。

――『洟をたらした神』の中公文庫版は、清水さんが解説を担当した。冒頭に「三巻で終わるかと思っていた『ゲド戦記』の第四巻が十八年の間隔をおいてアメリカで出版され、翻訳の準備にとりかかったとき、さて、主人公テナーの台詞をどうするかと考え、あの作家、この作家の文体を考えて最後に行き着いたのが吉野せいだった」

 遅い結婚をし、共に暮らし始めた相手から彌生書房の『洟をたらした神』を渡された。「一気に読み、その文章の力強さ、深さ、繊細さに驚き、以来この本は私の最も大切な一冊になった」という。

 テナーは元巫女(みこ)、せいは「百姓バッパ」。別人格なのは当然だが、清水さんは「いつも吉野せいの目を、その息を背中に感じながら」翻訳を進めた。

それとは別に、元東北福祉大准教授大島真理さんの『図書館魔女は不眠症』という本の中に、吉野せいの話が出てくることを知った。

 大島さんは『ゲド戦記』の原作者ル=グウィンに触れ、さらに清水さんから聞いた翻訳のエピソードを書いている。そこに『洟をたらした神』の解説と同じ話が紹介されている。

「テナーの言葉を日本語として訳すとき、誰の言葉にしようかと考えた過程がとても興味深かった。巫女としての語り口、石牟礼道子、森崎和江、茨木のり子、と変遷し、最後にその精神性として『洟をたらした神』の吉野せいへとたどり着いたという」

清水さんが最後に吉野せいを選んだのは、文庫の解説にもある「ずっぷりと土着のようでいて異邦人。人を愛し、慈しみ、静かに、時に激しく生きて闘った人のことば」が『洟をたらした神』にはあったからだろう。

 こうなったら、『ゲド戦記』の4巻を読まなくては、テナーの話し方、そこから透けて見える精神・人生・暮らしに触れなくては――。

なぜ吉野せいだったのか。それは『ゲド戦記 帰還』の冒頭部分を読めばわかる。「中谷で農園をやっていたヒウチイシが死んだあとも、残された女房は農園を離れなかった」

「なんでもこのよそ人(びと)の女房、生まれた土地では一目も二目も置かれていたとか」。大魔法使いのオジオンもこの農園には必ず立ち寄った。

農園には牧草地のほかに畑と梨畑があった。そんな情景を思い描くと、女房はやはり吉野せいがふさわしい。

すると、ヒウチイシは夫の吉野義也(詩人三野混沌)、大魔法使いは親友の草野心平か――などと連想がわいた。連想というよりは妄想だが、しかし心平は図星かも、そんな思いになった。

2026年10月5日月曜日

秋の空といわし雲

                                 
 曇雨天が続いたせいか、10月2日の青空には身も心も、いや家も庭も、道路のアスファルトも、朝日を浴びてポカポカぬくもっているようだった。

 青空を西から東へといわし雲が伸びていく=写真上1。久しぶりに見る「天空の名画」だ。

 季節の移り行きは長雨にまぎれてあまり感じなかった。が、さすがに秋分の日の前後からは、朝晩、体が冷気に包まれるようになった。

 今は、はっきり「寒い」と感じるときもある。まずは服装だ。長そでシャツの上にベストをはおる。パジャマは、夏用では手足がひんやりするようになった。そろそろ薄いふとんを掛けないと。

 朝晩の冷気には日の出・日の入りも関係している。夕方の6時になると、外はもう暗い。夜が明けるのもむろん遅くなった。

 いわし雲を見た晩、地元の公民館で11月の行事の打ち合わせがあった。個人的には晩酌の真っただ中だが、現役のママさんたちに合わせると、会議の開始時間は早くて6時半になる。晩酌はその後にした。

やはり薄暗い。暗さに目が慣れない。こんな時間帯に車を運転するのはほとんどなくなった。

つい先日、運転免許の更新に必要な高齢者講習を受けた。認知症かどうか、動体視力・夜間視力・水平視野はどんなレベルか――。

動体も夜間も「劣っている」という判定だが、これは経験的にもわかっていることだ。それで、夜間の運転はできるだけ避けるようにしている。

運転はもちろんだが、晩酌を始めるともう外には出ない。ただし、9月25日は夜、庭に出て「中秋の名月」を拝んだ。

晩には薄いカーテンのような東の曇り空におぼろ月があった。夜になるとこの雲が去り、晴れて明るい月が顔を出した。

テレビのそばにはハギの花。まだカバーのない裸のこたつの上には栗。そして、後輩から届いたポポー(ポーポー、ポポ)の実=写真上2。いずれもお福分けだ。それを「お月見」の供え物代わりにして、食べて名月を祝った。

ポポーは、果実は黄色いアケビのようなものだ。縦に2つに割ってスプーンで果肉をすくい、ねっとりした濃密な甘さを楽しんだ。

ポポーは北アメリカ原産、耐寒性が強い。すでに明治時代には栽培が始まり、1940年代まではポピュラーな果樹だったとか。カミサンの家にもあった。秋の味である。

 面白いことに、人間の心理は巡ってきた季節の一つ先を行く。10月になると、どこへ行っても耳に入るのは、「あど3カ月で正月だね、やだごど」。主婦の本音である。寒さとともに年末・新年へと人間の世界はあわただしさを増していく。

2026年10月3日土曜日

10月1日の回覧

                                
   10月1日はいわき市が誕生した日。市は同日、平・一町目のワシントンホテル椿山荘で市制施行60周年記念式典を開いた。

こちらは、合併60年に思いをはせる余裕などはない。この日の朝、何度も空を見上げては小雨がやむのを待って回覧配りをした。

月3回( 1、10、20日)の行政資料配布が月2回(1、15日)に変わったのは去年(2025年)の4月。

行政嘱託員の負担を軽減するのが理由だろうが、配る回覧資料はそれに合わせて減るどころか増えた。それまで新聞折り込みだった「アリオスペーパー」が「世帯配布」に加わった。

行政資料には隣組(わが行政区はおよそ30班)の全世帯に配る「世帯配布」と、隣組に1枚だけ配る「回覧」がある。

毎月の「広報いわき」は世帯配布である。これに、偶数月にはやはり世帯配布の福島県の広報「ゆめだより」が加わる。

「アリオスペーパー」は年4回(4、7、10、1月)の発行で、偶数月の4月と10月は世帯配布が3種類となり、それを入れる紙袋をどう確保するか、そのつど悩む。

去年の経験でいうと、最も頭を痛めたのは10月1日付だ。年度の折り返しのため、回覧資料のほかに毎年10月1日現在での世帯数調査が加わる。

隣組によっては年度の上半期・下半期で班長さんが代わる。戸建て住宅はともかく、3~4階建ての県営住宅では交代する隣組が多い。

 老体には、階段の上り下りはきつい。階上の戸口まではとても届けられない。で、1階の郵便受けに資料を差し込む。

そのためにも、新班長の郵便受けの番号=部屋の番号は、9月末までには把握しておきたい。

これは、市の調査が届く前、9月15日の回覧日に締め切りを明示して、自前の調査表を配って対処する。

それで、10月1日付の回覧資料は新班長さんに届けるようにしているのだが、締め切りを過ぎても回答のない場合がある。

そんなモヤモヤしたなかで、今回も行政資料が次々と届いた。世帯配布は3種類のほかに「廃炉を知る」が加わった。つまり、4種類。それに、回覧資料が2種類プラス地元の1種類。

今回はしかし、それで終わらなかった。10月18日の日曜日には秋の市民総ぐるみ運動(清掃デー)が行われる。

前回の春の総ぐるみ運動までは、市から全世帯分より多いごみ袋をもらってきたが、今回は中東情勢の影響から200枚しか手に入らなかった。

全世帯の3分の2である。思案した結果、10世帯未満の隣組は全世帯に、10世帯以上の隣組は世帯数から「おおむね3枚減」で対応した。

結局、回覧資料は大きな紙袋に、総ぐるみ運動関係の資料は別袋にと、袋が2つ必要になった=写真。

幸い今回も県営住宅の郵便受けはすべて開いて、2袋の回覧資料をなんとか差し込むことができた。

終わってみれば、案じた分だけ開放感が倍になり、やっと合併60周年を振り返る余裕もできた。

2026年10月2日金曜日

駐車券が消える

                                
   マチの駐車場はカメラ式のところが増えつつある。それにはまだ慣れない。これに対して、いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」は昔ながらのカード式だ。

発券機のボタンを押して駐車券を取り=写真、出るときには精算機に入れて精算する。

 1階の一部と地下1・2階が駐車場になっている。ここが便利なのは、商業フロアで500円以上の買い物と飲食をした場合、あるいは総合図書館や市民サービスセンター、いわき産業創造館、いわき商工会議所を利用した場合、各施設に備えられている機械で駐車券にパンチを入れると2時間無料になることだ。

ラトブは2007年10月25日にオープンした。今年(2026年)で開業19年になる。

たまたま開業日が、会社をやめてフリーになった初日だった。起業した若い仲間に誘われて、ラトブ6階のインキュベートルームの同居人になった。

前職のからみで回ってきた仕事がある。毎日、階下の総合図書館に通い、資料を探し、若い仲間にも手伝ってもらって記念誌を2冊つくった。

その間、日中は2時間おきに地下の駐車場からマイカーを出し入れした。図書館に詰めて資料を探したり、読んだりしていたからこそできたことである。なにより財布を開ける必要がなかったので助かった。

その意味では、50代の終わりから70代後半の今まで、ずっとラトブの駐車場で発券機からカードを取り、図書館でパンチを入れ、精算機にカードを入れて外に出ることを繰り返してきた。

当初は毎日、以後は週1~2回のペースで19年も通っているから、もう2千回近くラトブを出入りしていることになる。

 この慣れが招いた失敗だったかもしれない。いつものようにカードを取り出し、左手の指にはさんだまま、地下2階のいつものスペースに車を止める。と、その瞬間、指からポロリとカードが落ちた。

すぐカードを手で探ったが、緑色の足マットにはそれらしい感触がない。車から降りてマットをひっくり返したものの、車本体のマットは黒いうえに、地下駐車場だから薄暗くてよくわからない。いすを後ろに引いて車の床を手探りしても、やはりわからない。

ここは警備員室から懐中電灯を借りてくるしかないか。それをカミサンに頼んで、私はなおカードを探し続けた。

やがてカミサンが戻って来る。懐中電灯で照らすと……。車本体の黒いマットの上に、カードがひっくり返って黒い磁気面をさらしていた。黒に黒である。老眼にはまったくわからなかった。

一時はどうなることかと慌てたが、懐中電灯ですぐカードが見つかった。カミサンと一緒に警備員室に赴き、ガードマン氏にお礼を述べる。

駐車券が一時的に行方不明になって慌てる人は少なくないらしい。カミサンの茶飲み友達も車内でそれをやり、同乗していた息子さんに見つけてもらったとか。

いい教訓というか、いつもの駐車場に入るにもそれなりに集中力と緊張感が必要なことがよくわかった。

2026年10月1日木曜日

稲刈りがやっと

                               
   秋の長雨と台風で稲刈りが遅れている。台風25号が関東の沖合を通過したと思ったら、26号がほぼ同じコースでやって来た。

幸い途中で勢力が弱まり、予想されたコースが南へそれるらしく、いわき地方は影響を避けられそうだ。

9月27日の日曜日は、2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。その2日前(25日)は晴れ、26日は雨、そして27日は薄曇りときどき薄日の天気だった。

雨がないだけましというか、しのぎよかった。1時間余り菜園の土いじりと草むしりをした。

磐越東線の江田駅を過ぎると、川寄りの田んぼでは稲刈りが終わり、「わらボッチ」がいっぱいできていた=写真。

長雨が続くと田んぼはぬかるんで機械を入れられない。農家では空模様と田んぼの土の湿り具合をみながら、稲を刈るタイミングを計っていたのだろう。

雨の合間を縫って大急ぎで刈り取り、脱穀した(いや、脱穀せずにボッチにして乾燥させる?)――。通りすがりの人間である私も、わらボッチを見てなぜかホッとした。

ほかの田んぼはどうか。マチへの帰り道に田んぼを見ると、まだ黄金色の稲穂が広がっていた。

その中で、コンバインが入っている田んぼが1枚、稲刈りが済んだ田んぼがほんの少しあった。

田んぼによっては一部刈り取りが済んだものの、刈り跡にはコンバインがはまったのか、泥田にへこみができて水がたまっていた。

私が子どものころは、根元から稲を刈って束ね、それを天日に干す「はせ掛け」が行われた。

親せきが田んぼの稲刈りをするというので、祖母とともに手伝いに行ったことがある。

刈り田に設けられたはせに架けるための稲束運びをした。秋も深まるころ、早い夕闇がきて寒かったことを覚えている。

晩秋はわらボッチのある田んぼで遊び回った。その記憶を重ねると、はせ掛け、あるいはボッチにしてから脱穀が行われた――そんな流れが見えてくる。

太った巨人のようなわらボッチではなく、脱穀後の稲わらを三角形にして刈り田に立てるやり方もある。何年か前、三和の差塩(さいそ)で見た。

佐賀平野(九州)では、同じようにして7~10日ほど乾燥させたあと、「むしろ」の原料として出荷するそうだ。

乾燥した脱穀後の稲わらは縄になり、草鞋になり、堆肥や畑の保温材になった。私も、カミサンの親せきから稲わらをもらい受け、秋に種をまいて芽を出したサヤエンドウなどの防寒に利用したことがある。

今は刈り取りから脱穀、乾燥まで一挙にやってしまうので、はせ掛けはめったに見かけなくなった。稲わらはこまかく裁断されて刈り田に散らされることが増えた。

わらボッチは、その意味ではもう珍しい光景になった、といっていいのかもしれない。