2026年6月22日月曜日

モミの木の年輪

                                 
 夏井川渓谷の隠居の前の電柱に防犯灯が取り付けられてある。この明かりを確保するために、地元の住民が隠居の木の枝葉を剪定し、電柱のすぐそばの立ち枯れモミを1本伐採してくれた。

 カミサンの父親に代わって私ら夫婦が隠居の管理人になったのはざっと30年前。そのころはどの木も細く小さかった。

 この間2回、電力会社が電線保護のために剪定をしてくれた。そのあと、また枝葉が茂ってきた。

2本あるモミの木は2回目の剪定後、立ち枯れた。地元の住民が伐採してくれたのはそのうちの1本である。

根切りされたモミの木の断面=写真=を見ながら、川内村での草野心平の逸話を思い出した。5年前の拙ブログを要約・再掲する。

――いわき地域学會が阿武隈の山里、川内村の村史編纂事業を請け負った。そのときの調査の一コマだ。

私は、山里にまで浸透した幕末の俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した。

上川内の禅寺、長福寺の矢内俊晃和尚の招きに応じて、心平が川内村を訪ね、村民との交流が始まった。

心平は名誉村民に推戴され、やがて天山文庫が生まれる。心平と交流のあった和尚はガリ版刷りの個人誌「蕭々無縫」を出して、心平との交遊をつづった。そのエピソードのひとつ。

あるとき、心平はまな板用に栗の木の切れ端を村の棟梁に削ってもらう。和尚と一緒の帰り道、木の年輪を見て「君、こっちは北なんだね。こっちは南側だったんだね」という。

「君、同じ南側でも育ち具合が違うんだね。育たなかった年は気候が悪かったんだね。この時は、この木も随分と苦労したろうね。木ばかりでなく、みんな苦労したんだね。凶作だったりして」――

根切りされたモミの木の話に戻る。年輪は、はっきりわかるのは30本。それにプラス5~6年といったところか。私らが通い始めたころはまだ幼木だったことが、これからもわかる。

 根元の東西南北でいうと、東(写真の右側)からは30本ほどだが、反対側の西からは30年プラス5~6年のように見える。

 最後の5年間は強剪定がたたって生長が止まり、年輪の間の間隔が詰まったために東側から見るとプラス5~6年の判断がつかなかったのかもしれない。

 たったそれだけの年数ながら、幹は根元では50センチほどになっていた。根切りをして倒れた瞬間、地響きがした。それだけ木質が重く、稠密にできていたことになる。

 40センチほどの長さに切断して、庭の隅に片付けたが、もしかしたら丸太の椅子になるかもしれない。カミサンはさっそくそんなことを考えているようだった。

2026年6月20日土曜日

亜脱臼から1年

                                           
 毎朝、近くの接骨院で腰をもんでもらう。急に腰痛がきて歩けなくなった。突発性の側弯症だった。

 5月前半の日曜日、夏井川渓谷にある隠居の菜園で1時間ほど草むしりをした。そのときの姿勢と、前々からの腰の張りとが重なって、翌日午後、突然、腰に痛みが走った。

カミサンの肩に手をおきながら車に乗り(運転は大丈夫)、カミサンの通院している接骨院へ行った。

すぐ手当てをしてもらったあと、腰にコルセットをはめると、痛みが消えてひとりで歩けるようになった。

初診ではない。診察券は去年(2025年)6月に出してもらった。ちょうど1年前である。

寝床で本を読んでいるうちに昼寝をし、目が覚めると右肩が異常に盛り上がっていた。腕を上げると痛い。

 カミサンのサポートで接骨院へ出かけた。このときも車の運転は大丈夫だった。肩の亜脱臼だという。

 当時のメモが残っている。「右肩がぽっこり膨らんでいる」。すぐ施術してもらうと元に戻り、湿布薬を出してもらった。

あとは「痛いときだけ来ればいい」。ねんざと違って、正常な位置に骨が戻ったら、それで終わりということなのだろう。

 実際、その後は異常な膨らみも、痛みもない。とはいえ、再発を避けるために寝床と寝方を変えた。

 本を読むための電気スタンドが寝室の右と左の壁際にある。右側の寝床に入り、右肩を下にして本を読むのを何十年も続けてきた。その結果の亜脱臼である。

 接骨院へ行ったその日から、今度は左側の寝床に移り、左肩を下にして本を読みながら眠るようにした。それがこの1年の習慣だ。

 腰の痛みが消え、少し余裕が出たころ、院長に聞いてみた。「肩の亜脱臼からちょうど1年。あのポッコリは何だったんですかね」

 1年前、私は「ぽっこり」はガングリオン(脂肪のかたまり)だと思っていた。そうではなく、「上腕骨頭(こっとう)」がはずれかかった状態だった。はずれると、つまり脱臼すると肩を固定する必要があるという。

 脱臼でも、亜脱臼でもクセになることがあるらしい。それを恐れて寝方を変えたのだが、左肩を下にしていたら、今度は左肩が亜脱臼にならないか心配だ。

自分でもできる手当の仕方がないものか、図書館から本を借りて読んでみた。『とっさの時の応急手当』(徳間書店、1992年)=写真=で、脱臼はあっても、亜脱臼には言及がなかった。

ま、機械に例えれば、亜脱臼は部品がはずれかかっている状態で、ちゃんとはめてやればまた普通に動かすことができる。これが脱臼となると、機械の場合は部品交換というレベルなのだろう。体を長く使うためには、やはりメンテナンスが必要のようだ。

2026年6月19日金曜日

夜明けの動物たち

                                         
 間もなく夏至。夜明けの4時ともなると、もう空は明るい。青空が戻った水曜日(6月17日)の夜明け、起きぬけに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 隠居の屋根にかかる庭木の剪定・伐採を地元の住人(造園業)に頼んだ。2~3日かかるというので、2日目が始まる前に様子を見ることにした。

 既に剪定・伐採された木は庭のヘリに寄せられていた。まるで生け垣のように整然としている。美しい。美しいと感じる仕事を久しぶりに見た。職人としての美意識だろうか。

 それについてはいずれ触れるとして、きょうは隠居までの道行きで出合った「夜明けの動物たち」を紹介したい。

 いつもは日曜日の朝9時前後、神谷~平窪~小川の耕土を過ぎて渓谷に入る。今回は、4時半ごろに家を出た。隠居へは5時過ぎに着いた。

同じルートなのに、車窓に広がる景色が違って見えた。鳥たちは夜明けとともに眠りからさめるのだろう。水を張った青田にシラサギやアオサギがいる。これは日中と変わらない。

 平窪の田んぼのあぜ道に「工事」と「通行止め」の看板が立っている。それぞれの上のはしっこにカラスが止まって、体を激しく上下させながら鳴いていた。

 カラスの体操? 合唱? 朝のあいさつ? なんだ、シンクロしたこの動きは! カミサンと2人、びっくりして大笑いした。

 小川の三島を過ぎ(夏井川に残留コハクチョウの「エリー」がいる)、磐越東線をまたぐ跨線橋にさしかかると、前方の対向車線にカラスが止まっている。

 と見たのは錯覚で、すぐキジの雄だとわかる。雄は車が近づくと右側の土手に消えた。

 そのあとをもう1羽がゆっくり追っていく。キジの雌だ=写真。夜明けの5時前、行き交う車はない。車を止めてパチリとやった。

 キジのつがいはどうやら、左側の河川敷の方から跨線橋に現れ、右側の田んぼの方へえさを探しに向かったらしい。右奥には二ツ箭山が鎮座している。

 平地から渓谷へ――。磐東線の上小川トンネルと磐城高崎踏切が接続する先に渓谷へ入る坂が待っている。「地獄坂」という。

 左にカーブしながら傾斜がきつくなる辺りで、いきなり前方に小動物が現れた。2匹いる。しっぽが長い。車から逃げるように坂を駆け上がりながら、やがて左の杉林に消えた。リスだった。

リスを久しぶりに見た――。そんな感慨にひたりながら江田駅を過ぎて椚平に入ると、またリスが車の前を横切った。

危ない! 私は、スピードは出さない。エンジンをふかして渓谷を駆け抜ける車だと、このリスは避けきれなかったろう。

リスに限らない。タヌキもまたこんな時間帯に、不運にもスピードの出ている車と遭遇して輪禍に合う確率が高いのではないか。夜間だけでなく、夜明けもまた要注意。5時前のドライブでそれを実感した。

路上の「死物」にはできるだけ出合いたくない。同時に、大きな生きた動物にも。さいわいクマらしい生き物は見なかった。

2026年6月18日木曜日

地元の葬祭場

                               
   「多死」という言葉を初めて知った。「日本は多死時代を迎えている」という。新聞に載っていた。

ネットで検索したら、ピークは団塊ジュニア(1971~74年生まれ)が高齢期を迎える2040年ごろで、火葬待ちの長期化、墓の維持の困難といった問題が指摘されている。

多死の始まりはジュニアの親たちだろう。私ら団塊の世代(1947~49年生まれ)のことである。

間もなく80代。他人ではなく、自分のための葬祭場利用を考えないといけない年代になった。一種の「終活」にはちがいない。

葬祭場は身近にあった方がいい。近所の人のためにも、家族のためにも、住み暮らしていた地域で葬儀が営めればそれに越したことはない。

 去年(2025年)の師走、近くにJAの葬祭場ができた。地権者や隣接する行政区の区長らとともに、落成式に招かれた=写真(落成式の資料表紙)。

 近年は核家族化と少子高齢化を背景に、大がかりな葬儀が少なくなったような印象を受ける。一般葬より家族葬を選ぶ家も増えた。

 近所の葬祭場も、一般葬と家族葬の2つに対応できるよう、同じ敷地内に大小2つのホールがある。

やはり「多死社会」に対応してのことだろう。式典のあと、両施設を見学した。そのときの日記から――。

旧神谷村単位でいうと、神谷には葬祭場はなかった。地続きの隣の地区(下神谷)の葬祭場や、夏井川の支流・新川の先にある葬祭場を利用することが多かった。

その意味では、やっと地元の葬祭場ができた。「予約するわけにはいかないが、いずれ世話になるところ」。落成式の出席者の間にはそんな空気が漂っていた。

旧ロッコク(現国道399号)沿いにある。歩いても行けるが、車でならほんの少し大回りをして、旧ロッコクの交差点に出てから左折する方が安心だ。

わが家からすぐ旧ロッコクに出ると、四倉方面から来る対向車両とすれ違う。合間をみて右折するので、ちょっと怖い。

もうひとつ、交差点からそばの夏井川の堤防に出るルートがある。堤防を100メートルほど行って下りればすぐ葬祭場の広い駐車場に着く。

帰りはこのルートを利用すると安心して旧ロッコクを横断できる。マチからの帰路、夏井川の堤防を利用する。その最後の区間でもある。

先日、近所のおじいさんの通夜がそこで行われた。わが家の向かいに故義伯父の家がある。カミサンが庭木の剪定をしていると、ときどき手伝ってくれた。

満95歳。告別式は近親者だけで営むということなので、通夜の席が最後の別れの場になった。半分は一般葬、半分は家族葬ということだろうか。

 故人の孫たちも、すっかり大人になった。カミサンは一気にン十年前の「米屋のおばちゃん」に戻って、孫たちと思い出話に花を咲かせた。これも故人の人徳ゆえだろう。

2026年6月17日水曜日

初キンカン

                              
    家にいて蚊に刺された最初の日を記録している。それをならすと、「初刺され日」は5月20日ごろになる。

 ところが、ここ数年は蚊の出現が早まっている。5月の連休が明けると、そろそろ防虫の準備をしなくては、となる。

 蚊取り線香の有無を確認し、なければ買っておく。刺されたときにすぐ対応できるよう、キンカンも用意しておく。

 今年(2026年)は5月18日に初めてチクッとやられた。すぐキンカンを患部に塗った。「初キンカン」である=写真上1。

蚊取り線香は去年の残りがあった。香りが強い。ふだんは無香の「菊花せんこう」を使っている。それを調達できなかったので別の品を買ったのだった。

煙と一緒に香料が漂ってくると、頭がクラクラする。一種の「香害」である。それが嫌で「菊花せんこう」にしていたのだが……。

蚊取り線香も、チクッとやられた日に初めて使用した=写真上2。香りが茶の間に充満しないよう、玄関の戸を開けたまま、上がり口に置いて蚊を遠ざけた。

6月に入るとぐずついた天気もあって、キンカンも蚊取り線香も使わずにきた。12日に気温が上がると、午後遅くになって蚊が現れた。16日もそうだった。

庭を含めたわが家の蚊の生態を過去のメモから整理したことがある。蚊が現れて人間を指し始めるのは前述のとおり、5月20日前後だ。

ほかには①蚊が姿を消すのはほぼ10月下旬②午後から夕方にかけてはヤブカ、夜はアカイエカに変わる③最近は蚊取り線香をたいてもブンブンやっている――。

蚊が姿を消すのは、このごろは11月に入ってから。つまり、現れるのが早まり、消えるのが遅くなっている。蚊に悩まされる期間が長くなった。

庭にある不要な鉢を逆さにしたり、古タイヤの内側の水を捨てたりして、庭から水たまりをなくさないといけない。草木が密生し、葉が茂りすぎているのも、蚊のすみかになるようだ。

夏場、家の中では24時間、蚊取り線香を絶やせない。そして、困ったことがひとつ増えた。眼鏡である。遠近両用なので、寝床に入るとき以外はかけっぱなしだ。

眼鏡をはずして本を読んでいた一昔前の癖で、額やこめかみ辺りに止まったものをパシッとやる。と、眼鏡のつるをたたいている。

眼鏡にはできれば触りたくない。ゆるんだり、壊れたりする原因になる。我慢すると蚊に刺されっぱなし、ということになる。わざわざはずしてパチッとやっていたのでは遅い。

というわけで、キンカンはパソコンのそばに、蚊取り線香は玄関の上がり口に置いたままだ。そうやってもう1カ月になる。

2026年6月16日火曜日

防犯灯を遮る緑

                                 
    夏井川渓谷の隠居には、県道小野四倉線に沿って敷地の境界に木が植えられてある。

故義父が半世紀前、元は畑だった土地を借りて山側の半分を盛り土し、平のマチにあった家を譲り受けて解体・再建した。

道路との境には、塀の代わりにケヤキその他の若木を植えた。クワの木は畑の名残だろう。これらの木々が50年を過ぎて太く高くなった。

拙ブログで確かめると、原発震災から間もなく1年というときに、電線が引っかかるので電力会社が剪定をしてくれた。

道路に沿って電柱が立ち、伸びてきた架空線が隠居のところでいきなり木の茂みに隠れる。

私ら夫婦が通い始めて最初の剪定が行われてから9年後の令和3(2021)年。今度はこちらから電力会社に連絡して、師走に剪定をしてもらった。

 作業は2日がかりで行われた。初日朝の作業開始時間に合わせて出かけ、あいさつをした。そこで現場のリーダーと再確認したのが、切る高さだった。

こちらの希望は「家の軒下あたり」まで。それだと「木が枯れて突然倒れ、そばを通る車にぶつかる心配がある。屋根の上あたりまで残しておいた方がいい」という。

実生で育ったと思われるモミの木が2本ある。「モミは枯れるかもしれない。そのときは根切りをする」ということだった。

 2回目の剪定から5年。ケヤキやカエデ、クワの木はまた電線を隠すまでに枝葉を広げている。

モミの木は案の定、立ち枯れた。それこそいつ倒れるかわからない。電力会社に電話して事情を説明すると、担当社員が確かめに来た。ついでにほかの木の剪定もお願いした。

 それとは別に、旧知の地元の区長から連絡がきた。隠居のそばの電柱に防犯灯がある。隠居の木の枝葉に隠れているので、夜、明かりが道路に届かない。

 「明かりが届くように区で剪定作業をするが、いいか」という。これも「どうぞ、どうぞ」である。

 6月中旬の日曜日、隠居に着く時間に合わせて作業が始まった。やって来たのは3人。3人は先日、隠居の向かいにある私有地で雑木を伐採した。同じ3人で剪定・伐採作業が行われた。

今度も造園業を営む1人がレッカー車を出し、別の1人が木の枝葉を切り、もう1人が木の切断に加わって、あっという間に作業が終了した=写真(上がアフター、下がビフォー)。

自然景観だけでなく人間の住むエリアでも美しい花の景観を楽しんでほしい、同時に、地域の安全のために防犯灯をちゃんとともしたい――。

そんな郷土愛の延長で電柱のすぐそばのモミの木も1本、伐採してくれた。これでお互いの心配がひとつ消えた。

2026年6月15日月曜日

6月の白雲

    土曜日(6月13日)は「梅雨の晴れ間」のような好天になった。未明の3時半前には、福島地方気象台から雷注意報が発表された。

午前10時過ぎには早くも西の湯ノ岳~三大明神山の上に白雲が現れた。雷注意報が出るわけだ。

しかし、雷鳴は響くが、雨を伴うかどうかはわからない。いつものことながら「雷鳴だけで終わってほしい」。勝手な願望が広がる。

朝、神谷公民館、次いで近くの忠魂碑と戊辰戦争の追福碑の清掃作業が行われた。公民館清掃は、毎年この時期に行われる。神谷地区の8人の区長が老体を鞭打って草刈りをし、ごみ袋に詰める(今回は袋詰めが主)。

それが終わると忠魂碑と追福碑を清掃する。忠魂碑は平六小の裏山公園にある。そばには「殉国碑」も建つ。

神谷市郎著『神谷郷土史』によると、忠魂碑は大正9(1920)年10月に建立された。忠魂碑には、アジア・太平洋戦争の犠牲者は含まれない。『神谷郷土史』にある戦争犠牲者138柱は殉国碑を含めての数だろう。

いかにも神谷らしいのはふもとの立鉾鹿島神社の境内にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」だ。

神谷村は笠間藩の分領だった。江戸後期、今の平六小に陣屋があった。本藩が新政府軍に加わったため、戊辰戦争では隣の磐城平藩をはじめ奥羽越列藩同盟を相手に、孤立無援の戦いを強いられた。

戊辰戦争の記念碑は2つ。1つは、平六小の校庭にある「奉公碑」だ。『神谷郷土史』によると、大正6(1917)年に建立された。戊辰戦争で幕府軍と戦って斃れた人々の霊をまつる。つまりは自藩の慰霊碑だろう。

もう1つが追福碑で、昭和7(1932)年に建立された。やはり戊辰戦争の犠牲者をまつるが、こちらには「各藩」が入っている。

戊辰戦争の結果、周りは「負け組」になったが、神谷は「勝ち組」に入った。「各藩」が入っているのは、勝ち負けなく弔おうという、一種の政治的判断だったのだろう。

 さて、毎年清掃奉仕をしていると、自分の年齢を考えてしまう。小学校の裏山公園へは何段もの石段を登っていく。年々、たどりつくまでに時間がかかるようになった。

よその区は2年で交代が慣例のようだが、わが区は新しい区でもあるので、なかなか次の人が見つからない。私自身が高齢化の先陣を切っている。その矛盾を考える日でもある。

もう1つ、午後には雷雨が来た。午後1時から夕方5時過ぎまで、いわき地域学會の事務局(故義伯父の家)で仲間と2人、会費納入のための振込用紙をつくり、総会資料などとともに封入作業をした。

3時ごろには雷鳴がとどろき、すぐ北側を雷雨が通過した。すると、暗雲はこちら側にも押し寄せ、南の空が灰色になったと思う間もなく、雷雨がやって来た。

    雷雨はやがて去り、また夏のような青空が戻った。午前・午後と久しぶりにフル回転した。終わって、さあ飲むぞ――と意気込んだのはいいが、すでに体力が尽きていて、すぐ眠くなった 。やはりトシである。