2020年6月30日火曜日

孫たちの時代になった?

 わが家へよく来るカミサンの友達がいる。息子同士が小学校で一緒になり、仲良くなった。以来、母親同士も付き合いが途切れることなく続いている。その子の長女、つまり友達の孫が今年(2020年)春、大学を出て、福島県内のテレビ局(TUF)のアナウンサーになった。このごろは昼のローカルニュースを担当している。
 プロ野球が10日ほど前の6月19日、無観客試合で開幕した。友達の家の近くで育った子が今春、やはり大学を出て、千葉ロッテマリーンズに入団した。実力を評価され、早くも1軍入りを果たした。

日曜日(6月28日)の新聞には仰天した。「ロッテ7連勝/新人が決めた/打てる捕手 佐藤サヨナラ打」(朝日)。「佐藤(聖光学院出身)サヨナラ打/プロ初安打で大仕事/『数少ない打席頑張っていきたい』」(福島民報)。たまたま同じ日、海辺の喫茶店で読んだスポーツ新聞はもっと派手だった。「ロッテ止まらん7連勝/ドラ2代打で4番/佐藤プロ初Hがサヨナラ!!」(スポーツ報知)=写真。

若い知り合い(放送記者)がいることもあって、毎夕、TUFの「Nスタふくしま」を見ながら晩酌をする。6月22日に生中継が入った。いわき出身のこの新人アナが、プロ野球のルーキー(新人)の親が営んでいるいわきの焼き鳥屋(父親は昼間、ガソリンスタンドも経営)からリポートした。カウンターの奥には親……いや知った顔もいる。驚いた。入局3カ月目で生中継をまかされるとは!

このとき、ルーキーに出番はなかったが、アナウンサーは、プロ野球選手とは「おさななじみ」であることを明かしている。なるほどそうか、生中継の理由がこれだったか。カミサンがすぐ友達に電話をする。「ドキドキして見てた」といいながらも、うれしそうだった。

新しい週が始まったきのう(6月29日)は、ローカルテレビがこのルーキーの活躍を伝えていた。夕刊のいわき民報も母親の声を載せた。「Nスタふくしま」には、新人アナが登場して彼の活躍を伝えた(知り合いもスタジオからトリチウム水の行方について、記者解説をした)。

メーンキャスターがわざわざ「おさななじみなんですよね」と強調した。番記者ならぬ“番アナ”か。

が、おさななじみであることは、本人の努力とは関係がない。たまたま同じ地域で生まれ、育ち、知り合い、同じ小学校(平六小)と中学校(平二中)へ通ったにすぎない。それぞれがそれぞれの道で精進することで、「おさななじみ」であることが輝きを増すのだよ――と、これは一度も会ったことはないが、祖母や父親を通じて無縁でもないジイバアの声でもある。

「地域の子どもは地域で守り育てる」。青少年育成市民会議の目標の一つになぞらえていえば、新人アナもプロ野球のルーキーも、ほんのちょっと前まで「地域の子ども」だった。その「地域の子ども」が大人になって活躍するということは、次の「地域の子ども」たちにとっても、大人たちにとっても大きな励みになる。一方では、孫たちの時代になったのだ、という感慨もよぎるが……。

2020年6月29日月曜日

朝の渓谷、昼の海岸、夕べの国道

平・薄磯海岸のカフェ「サーフィン」のママさんにあげるものがある。図書館にも本を返さなければ――というので、きのう(6月28日)の日曜日、夏井川渓谷の隠居へは早朝5時半に出かけた。行きに30分、帰りに30分、隠居に滞在30分。朝めし前の7時過ぎには家に戻った。
4時にはすでに小雨が降っていた。だんだん雨脚が強くなった。隠居の庭の菜園では、カミサンに傘をさしてもらい、キュウリのつるをテープの棚にしばり直し、生ごみを埋めた。それが終わると、玄関前の庭で、自分で傘を持ってマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を探した。マメダンゴは今が旬。地面にてのひらを押しつけても反応がない。収穫はゼロだった。

帰路、平地で土砂降りになった。去年(2019年)秋の台風19号では、平窪地区を中心に甚大な被害が出た。下平窪二丁目の交差点は、一面が冠水していた。「平窪」という地名の由来をつい考えてしまう。おそらくその時間が雨のピークだったのではないか(けさ、平地区の気象データを確かめたら、1時間ごとの値が7時で36.5ミリだった。やはりそうだった)。

家で一休みしたあと、薄磯のサーフィンへ出かけた。雨は小やみになっていた。間もなく正午という時間。私はグリルサンド=写真上1=を、カミサンはスパゲティを頼んだ。

コロナ問題が起きると間もなく、ママさんは店を臨時休業にした。5月30日、店の近くに「いわき震災伝承みらい館」がオープンした。翌日曜日、見学に行くと、たまたまママさんが自分の店の前にいた。「6月2日に営業を再開する」という。で、きのう、朝は渓谷、とんぼ帰りで昼は薄磯へ出かけたのだった。

私たちも、基本的にはステイホーム(巣ごもり)を続けていたので、外食は4カ月ぶりだった。店内のテーブルの配置が少し違っていた。窓際にあるテーブルがひとつ減ったような感じだ。ソーシャルディスタンス(社会的距離)を考えてそうしたのだという。

図書館へは薄磯~豊間~鹿島街道の書店経由で行った。書店も、街道沿いのレストランも、駐車場は込んでいた。街道そのものも車列が続いている。緊急事態宣言が解除されてほぼ1か月半、日曜日には日曜日の光景が戻りつつあるのだろう。

夕方には青空が広がった。暑いくらいになった。いつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行く。目の前の国道6号もまた車の往来が激しくなっていた。若だんなと天気の話になる。「あしたからまた崩れるようですよ」。梅雨だから当然か。コロナだって必ず第二波がくる――と、これは国道の車の流れを見ての感想。
ところで、サーフィンは2階建てで、1階は駐車場(2台分)になっている。車をバックで入れると、車の屋根すれすれにツバメが飛んで行った。そのときは気にも留めなかったが、店を出て車に戻ると、奥の壁に巣があった=写真上2。子ツバメが黒い頭の先だけをのぞかせている。

9年前の3月11日、薄磯の集落を大津波が襲った。この集落で生まれ育ったツバメは、その直後、南から帰って来ても巣をかける家がなくて右往左往したことだろう。

その後、薄磯では区画整理が進み、高台に家が建つようになった。たまたま被害を免れた家も含めて、ツバメはどのくらい営巣しているのか。新しく建った家では、サーフィンの駐車場が初めて、しかも唯一、巣づくりに成功した、なんてことはあるまいが、よく帰って来てくれたものだ。ほんとうの復興とは人間だけではない、こうした生きものたちも含めてのことだと、あらためて思う。

2020年6月28日日曜日

金子みすゞ展 もう一つの見どころ

 今年(2020年)は童謡詩人金子みすゞ(1903~30年)の没後90年。その企画展が7月11日から9月20日まで、いわき市立草野心平記念文学館で開かれる=写真(チラシの表=左=と裏)。
 平成20(2008)年1月5日、いわき湯本温泉街に野口雨情記念湯本温泉童謡館がオープンした。温泉旅館古滝屋社長の故里見庫男さん=いわき地域学會初代代表幹事=が湯本時代の雨情について調べ、資料を収集した。それを寄贈して、市民組織で運営が始まった。

初代館長の里見さんに頼まれて目録づくりを手伝い、毎月1回、同館で文学教室(童謡詩人の紹介)を開いた。「最初は金子みすゞ。あとは自由」。初めだけ注文がついた。図書館でみすゞを調べてゆくうちに、水戸で生まれ、平で育った島田忠夫がみすゞと双璧をなす童謡詩人であることを知った。それだけではない。忠夫は歌人であり、名だたる天田愚庵研究家でもあった。

 いわきでみすゞ展が開かれる以上は、忠夫にも光が当たるはず――。みすゞ展を告知するチラシの裏に、「彼女と並び『巨星』と称されたいわきゆかりの童謡詩人・島田忠夫(1904~1945)をあわせて紹介します」とあった。ぬかりはないようだ。

7年前、拙ブログで「童謡詩人島田忠夫」について書いた。みすゞ展観賞の参考になるかもしれないので、再掲する。
                 ☆
水戸で生まれ、平で育った童謡詩人島田忠夫(1904~45年)は、昭和初期、しばしば平の地域新聞に作品や文章を寄せている。昭和3年7月27日から8月8日まで10回にわたって「常磐毎日新聞」に掲載された「九州游記」もその一つ。

「九州へぶらり旅したのは二月末であった」という一行から、紀行文は始まる。初めて足を踏み入れる「九州には、私の作品を読む二三の未見の友人が居る丈け」、その一人「K君」に会い、地元の名士に歓待を受けたことなどが、時系列的につづられる。平凡な紀行文だが、忠夫の軌跡をたどるうえでは貴重な資料になりうる。

この旅の帰り、忠夫は下関に文通相手の金子みすゞを訪ねるが、病臥(びょうが)していて会えなかった。紀行文では、それには触れていない。「K君」とはおそらく天才少女詩人といわれた海達公子(かいたつきみこ=1916~33年)の父親。紀行文からはやはり、それらしいことはうかがえない。

一つ年上のみすゞと忠夫は雑誌「童話」の童謡欄常連だった。選者の西條八十は「島田忠夫君と並んで、彼女はまさしく当時の若い童謡詩人の中の二個の巨星であった」と、のちに振り返っている。みすゞは、忠夫が訪ねて会えなかった2年後に自死する。

いわき総合図書館のHPに<郷土資料のページ>がある。大正~昭和時代の地域新聞が電子化され、いつでも、どこからでも閲覧できるようになった。まずは忠夫の作品や論考、随筆などをじかに吟味できるのが、私にはありがたい。

今やみすゞは輝きをまし、忠夫は忘れられた存在となった。とはいえ、みすゞとの関係からだけでもいい、忠夫にもっと光を当てられないか。みすゞ研究者、広く童謡研究者に、いわき総合図書館の「電子新聞」を閲覧してもらいたい、という思いがつのる。
                ☆
原発事故のときもそうだったが、今度の新型コロナウイルス問題でも、“教訓”にしているみすゞの詩句がある。「見えぬけれどもあるんだよ、/見えぬものでもあるんだよ。」(「星とたんぽぽ」)。みすゞ展の前評判は高い。わが家(店)にもポスターが張ってある。何人かがみすゞ展の話をしていた。こんなことは今までなかったように思う。

2020年6月27日土曜日

活字でつながりが復活

 5月中旬から古巣のいわき民報が、「夕刊発・磐城蘭土紀行」と題して拙ブログを連載している。久しぶりに地域紙ならではの、生の反応を楽しんでいる。
知人からはがきが届く。電話がかかってくる。古巣に届いた読者の手紙のコピーを、後輩が持って来る。さらには、旧知の女性が「ダンシャリをした本があるので」と連絡をよこす(前に、古着・古本・食器などを必要な個人・団体に渡すリサイクルの中継基地のようなことを、カミサンがやっている――と書いた。きのう=6月26日、本を引き取ってきた=写真)。そんな双方向のつながりが復活した。

「ニュースペーパー」としてはジャーナリズムが基本だが、「コミュニティペーパー」としてはともに暮らし、泣き笑い、みんなでよりよい地域社会をめざそう、というローカリズムが原点になる。それを12年ぶりに実感している。

2007年秋に古巣を離れて、やっと「締め切り」から解放された、と思ったのも束の間、年が明けると気持ちが落ち着かなくなった。ちょうどそのころ、いわき地域学會の若い仲間から「ブログをやりましょう」と声がかかった。

アナログ人間なので、デジタル技術にはうとい。全部セットしてもらい、2008年2月下旬、新聞コラムの延長でネットコラム=ブログ「磐城蘭土紀行」を始めた。一日に1回、自分に「締め切り」を課した結果、暮らしにリズムが生まれ、飲酒にもブレーキがかかった。以来、旅行で家にいないときなどを除いて、毎日中身を更新している。

 5年がたち、10年が過ぎて、電子媒体(ネット)の功罪も見えてきた。そうした情報環境のなかで、いつかやれれば、と思うようになったのが、ネットと新聞のコラボレーション(協働)だった。ネットとは無縁の高齢者がいる。その人たちにも読んでもらいたい。古巣もまた、コロナ禍による行事・集まりの中止・延期で取材対象が急減し、紙面づくりに苦慮している。一気に両者の思惑が一致した。

ダンシャリの電話をかけてきた女性は、私がライフワークにしている「吉野せい『洟をたらした神』の世界」にも登場する詩人猪狩満直の娘さんだった。嫁いでせいの実家の近くに住んでいる。「せいの実家は?」と聞くと、家へ案内してくれた。それだけではない。嫁ぎ先とせいの実家が姻戚(いんせき)関係にあるという。

 確かに、ブログをやることでネットを介した出会いは増えた。世代を超え、地域を超えてネットワークは広がった。とはいえ、生身のつきあいと重なる部分は少ない。満直を介したリアルなつきあいが、さらにせいの実家の確認へとつながった。これはネットと活字のコラボ効果だと、はっきり言える。

2020年6月26日金曜日

リアルな会議の場へ

 いわき市教育文化事業団の定時評議員会がきのう(6月25日)、いわき市役所東分庁舎5階大会議室で開かれた。コロナ禍による緊急事態宣言が解除されて以来、街へ出かけて公的な会議に出席するのは初めてだ。評議員7人がマスクをして、広い会議室に距離をとって座り、同事業団や草野心平記念文学館など各教育・文化施設の令和元(2019)年度の事業報告を受けた。
「3密」を避けるために、さまざまなレベルの行事・会合が中止か延期になった。企業はテレワーク、大学・高専はオンライン授業、各種団体の総会は書面による表決と、新しいやり方でコロナ禍に対応したところもある。個人的にはふだんから「在宅ワーク」の身、ステイホーム(巣ごもり)が長引いてもあまり気にならなかったが、社会経済活動は停滞した。

 いわき市内の文化・教育施設も、新型コロナの影響を受けて4月18日から臨時休館を余儀なくされた。緊急事態宣言解除を受けて、5月21日には再開されたが、感染防止を前提にした運営にならざるを得ない。そうしたなかで同事業団の評議員会が例年どおり、いつもの時期に開かれた(手帳を見ると、去年も6月25日に開かれている)。

公的な集まりでリアルに人と会い、リアルに話すのはざっと4カ月ぶりだ。4日前の月曜日にも地元の公民館で会合があった。それはしかし、打ち合わせに近いものだった。きのうは表決を伴うだけに、ブレザーを着て、革靴を履いて出かけた。そういう会議にしょっちゅう出ているわけではないが、久しぶりだったので、終わって少し疲労を覚えた。

 これはおまけ、というか蛇足だが――。5階の大会議室の南窓から、平中央公園の北東角にそびえるメタセコイアなどがほぼ水平に見える。そのなかに1本、赤っぽい色のかたまりをいっぱいつけた高木があった=写真。葉は羽状複葉。つまり、マメ科の木だ。

 同公園は南側でいわき芸術文化交流館「アリオス」とつながっている。それ以外、東・北・西側は高木で道路と公園を隔てている。ある年の秋、北側の林床で毒キノコのテングタケに遭遇した。以来、同公園は街なかでも気になる場所になった。

 5階の窓から写真を撮り、家に帰って、赤っぽい花のようなかたまりをつけたマメ科の木をネットで検索した。が、それらしい高木には出合えなかった。どなたかお分かりの方、教えていただけるとありがたい。

 この木は東分庁舎と同公園を結ぶ横断歩道のすぐそば、公園の境にもなっている縁石が、アリオスへと誘導する金属板に替わるあたりにある。幹が少しねじれている。まさか外国の木なんてことはないだろうが……。

 ※追記 ブログをフェイスブックに上げて間もなく、生物一般に通じている友人からコメントが入った。ニワウルシらしいという。すぐネットで検索すると、ニワウルシの雌花が着果して赤く色づいた状態に似ている。ニワウルシだとしたら、マメ科ではなく、ニガキ科。さらに検索を続けているうちに、ニワウルシにほぼ間違いない、という確信が生まれた。

2020年6月25日木曜日

キュウリの赤ちゃん

 小学生の夏休みの宿題といえば、アサガオの観察日記が思い浮かぶ。たぶんそれと変わらない。毎朝、台所の軒下のキュウリを観察する。たまに写真を撮ったり、気づいたことを書きとめたりする。これは、そのなかでも特に驚いたキュウリの赤ちゃんの話。
全体はまだ2~3センチ。雌花のつぼみと、その基に形成されつつある実を、単なる観察記録の一コマとしてパチリとやった。撮影データをパソコンに取り込んで画像を拡大すると、思いもしない形状があらわれた。表面に、うっすら緑がかった球体(イボ)がいっぱいある。しかも、球体の中央から同じ色の繊毛が1本のびている=写真。なんだ、これは! 食べごろのキュウリの表皮と姿かたちがだいぶ違っているではないか。

未熟果も未熟果、キュウリの赤ちゃんだ。その水玉っぽいものが何なのか、ネットで検索した。行政や公益社団法人、「中学の理科」などの情報から、次のようなことがわかった。

キュウリは、子房が果実になり、子房のなかの胚珠(はいしゅ)が種子になる。雌花の付け根に長い子房と刺毛がある。アップした写真でいうと、右の親づると左のつぼみの間にあるキュウリの赤ちゃんが子房、イボイボが刺毛ということになる。

イボ状の突起は、やわらかい未熟果が動物たちに食べられるのを防ぐためにある。熟すると今度は、動物たちが食べやすいように棘(とげ)を落とす。果実の中の種子を遠くへ運んでもらうため、だそうだ。なかなかよくできた“生存戦略”だ。

人間が食べるのは、しかし完熟前の濃緑色のキュウリ。中ではまだ種子は形成されていない。とげもまだ少しチクチクする。その食べ方は――。まずは、みそをつけて生で。次に、漬ける、炒める、みそ汁の具にする……。私は主に、糠(ぬか)漬けと古漬けにする。

軒下の初物は酒のつまみとして“みそきゅう”にした。2本目は糠床に入れた。夏井川渓谷の隠居で栽培しているキュウリもなり始めると、一度には食べきれないほど採れる。7月になれば、さらにお福分けのキュウリが加わる。そのために、糠床とは別の甕(かめ)を用意して古漬けにする。

6月初めの夏のような暑さとは打って変わって、梅雨入り後はじめじめした天気が続く。毎日のキュウリの観察のポイントは、根元の土の乾き具合と葉つゆの有無だ。これもネットで調べてわかった。

おととい(6月23日)の夕方、根元が乾き気味だったので水をやったら、翌朝は全体に葉つゆができていた。水は控えればよかった。きのうは水やりをがまんした。今朝は、葉つゆが一部にしかない。いい感じだった。

なんでもそうだが、微に入り細を穿(うが)つように眺め、調べ、考えると、少しは知恵がつく。それで、きのうよりはもっとキュウリの気持ちに近づける、ということになるのかもしれない。

2020年6月24日水曜日

川砂採取

私の知る近隣の行政区では、定期的に川の堤防と河川敷の草刈りをする。日曜日(6月21日)、平・塩区内の夏井川の堤防を通ると、あおくさい草の匂いが車中に飛び込んできた。草刈りをしたばかりだということがわかった。
去年(2019年)秋の台風19号は至る所にツメ跡を残した。そうした状況のなかでの草刈りだから、段取りには苦労したのではないか。

問題はしかし、草より土砂。わが生活圏、平市街の東端を流れる夏井川の下流、鎌田~中神谷には上流から運ばれてきた土砂が、場所によっては1メートルも積もった。河川敷のサイクリングロードはそのため、一時、利用ができなくなった。

さらに下流、下神谷の北部浄化センター付近では、およそ50メートルにわたって流木が残り、サイクリングロードをふさいだ。土砂まじりだったのか、今はその「災害ごみ」に草が生えている。

河口に近い平地では、川はS字状に蛇行する。それを利用して、旧神谷村の夏井川では2カ所で定期的に川砂採取が行われている。1カ所は新川との合流点、塩地内のS字カーブ。左岸に砂州が広がる。もう1カ所はそこからざっと800メートル下流の中神谷字調練場。やはり、左岸に砂州が広がる。

パワーショベルが川に入り、砂山を築いて、ダンプカーが土砂を運搬する。塩が終わると、下流の調練場に移る=写真。今回は、塩での川砂採取がいつもより長期にわたったという。それだけ台風19号の置き土産が多かった、ということだろう。

河川には3作用がある。岩石が水に「侵食」されて岩くずになり、土砂とともに「運搬」され、流れがゆるやかになったところで砂などが「堆積」することを指す。しかし、たった1回の大水で1メートルもの土砂が堆積する、などということはこれまでなかった。

歴史的にみても、神谷地区では大水に悩まされてきた。この地区は、江戸時代後期は笠間藩の分領だった。延享4(1747)年、まず、街道(現在の旧道)から南に少し引っこんだわが行政区内の苅萱に陣屋がおかれる。ところが、裏手の夏井川がはんらんして、ときどき水害に見舞われた。

そこで文政6年(1823)、600メートルほど離れた小川江筋沿いの山際に移転した(明治維新後は小学校=現平六小になる)。調練場という地名は、旧陣屋時代、陣屋詰めの侍の兵式調練場に利用した名残だという。

陣屋がわが行政区内にあったことを、つい最近まで知らなかった。神谷地区はネギの産地として知られる。それもまた大水によって上流から土砂がもたらされた結果だ。調練場、ネギ、旧陣屋……。水害常襲地帯に住んでいるという自覚を持ち、大雨時の早めの避難に結びつけるにはどうしたらいか。まずはこの史実をどうやって行政区内の共通認識にするか。それを考えてみよう。

2020年6月23日火曜日

ガードパイプがひん曲がる

わが行政区には30ほどの隣組がある。区の役員として私が担当する隣組の班長さんが、用があって来たついでに教えてくれた。「国道の歩道のガードパイプが折れ曲がっていた。事故が遭ったんですね」
すぐピンときた。班長さんの住宅の近くを国道399号(旧国道6号)が通る。歩道沿いの家が解体されて更地になった。すると、歩道と更地までの間に1.5メートル前後の段差ができた。歩道を行き来する人間が誤って転落したら大けがをする。ガードパイプを設置してもらわねば――。

2年前(2018年)の春、国道6号常磐バイパスのうち、平市街の出入り口から終点・平下神谷までの4車線化工事が完成した。それに伴い、常磐バイパスはすべて国道6号に、今まで国道6号だった平の一部は福島県管轄の国道399号に変わった。

同399号はいわき市から阿武隈高地を縦断して山形県南陽市に至る起伏の多いルートだ。起点も平・十五町目交差点からわが生活圏の常磐バイパス交差点に移った。

行政区では、新年度がスタートするとほどなく、区内の「個所検分」をする。自分たちが住む地域を区の役員が見て回り、危険個所や道路の要補修個所の有無などをチェックして、行政に要望する。

「ロッコク」が「サンキュウキュウ」に変わったその年の5月、いわき市のほかに、県いわき建設事務所に要望書を出した。しばらくすると歩道のへりにガードパイプが設置された。

 班長さんにいわれたあと、現場を見に行った=写真。ガードパイプは歩行者の転落防止用だったが、パイプの折れ曲がり具合からすると、車が突っ込んだらしい。事故の詳細はわからない。だから想像するしかないのだが、ガードパイプがなかったら、下の更地に転落して大事故になっていたのではないか。

 個所検分はコミュニティの安全確保が目的。区内を見て回るといっても、ふだんからチェックし、情報を共有していないと、形だけの検分に終わる。新しくできた更地と国道の段差が気になったために、県にガードパイプの設置を要望したのが、今になって生きた。

 神谷の国道399号は片側2車線で、セスナが着陸できるくらいに直線的で広い。車は飛ばそうと思えばいくらでも飛ばせる。それで、ハンドル操作を誤って車道から逸脱してしまったか。

 事故は人間の想定を超えて起きる。歩行者の転落防止が目的だったガードパイプは、ドライバーのいのちをも守ったことになる。あらためて個所検分の大切さを思った。

 ※追記 拙ブログを読んだ知人の話だと、3週間ほど前の日曜日夕方、普通乗用車がガードパイプに突っ込んだようだ。まだパトカーが来ていない状況でそばを通りかかったという。運転手は車を放置して逃げ、間もなく警察に捕まったとか。新聞記事を読み流してしまったようだ。

2020年6月22日月曜日

土いじりの効用

 夏井川渓谷の隠居へ行くと、真っ先に対岸のヤドリギを見る=写真。モミの大木にぶら下がるようにしてあるのを見つけたのは、5月末。
隠居の下流、籠場の滝の右岸にもヤドリギが生えている。まだ落葉樹が冬眠していた3月上旬、渓谷で初めてヤドリギを“発見”したことを、前に書いた。隠居の対岸にもある――と知ってからは、隠居に着けばあいさつ代わりに対岸のヤドリギを眺める。

 それから庭の菜園で土いじりをする。きのう(6月21日)は2週間ぶりにキュウリ、トウガラシ、ナスと向き合った。というのは、1週間前、空き巣に入られたことがわかり、警察を呼んで鑑識に立ち会い、土いじりをするどころではなかったからだ。

つるを伸ばし始めたキュウリをテープの棚にしばって誘引し、早くも咲き出した花の下の脇芽を摘む。ナスも、トウガラシも、1週間前にはわからなかったが、実が生(な)りはじめていた。それらを摘んでから草引きをした。

黙々と片手三角ホーを握って草を引いていると、頭のなかをいろんなコト・モノがかけめぐる。空き巣に入ったのはどんな人間か、車か歩きか、流しか、それとも……。1週間前には感じなかった怒りが募る。しかし、土いじりが進むにつれて、今、キュウリに必要なこと、ナスとトウガラシにしてやれることをやったという安心感が、腹立たしさをも包み込む。土いじりの効用だ。

きのうは夏至、そして父の日。大学生の“孫”の親からプレゼントが届いた。酒のつまみ(サンマやイワシのうま煮・みそ煮など)だった。夜にはさっそく、サンマのうま煮ととともに、摘んだキュウリのちびちゃんをサラダドレッシングで、ナスは刻んで塩もみしたものを食べた。

日曜日はカツオの刺し身――だが、前の晩に仲間とカツ刺しを肴(さかな)に飲んだため、2日続きはさすがに“自粛”した。度が過ぎると、足の親指がしくしく泣きだす。

2020年6月21日日曜日

発信者の倫理

インターネットの時代がきて、マスメディアが独占していた情報の発信が個人でもできるようになった。結果、真偽の定かでない情報があふれ、誹謗(ひぼう)中傷に苦しめられる人が出てきた。ときにはそれでいのちが失われるような事態にもなっている。
 東日本大震災が起きた2011年から17年までの足かけ7年、「マスコミ論」(のち「メディア社会論」)を選択したいわき明星大(現医療創生大)の学生に、これだけは覚えておいてほしい、と強調したのが「発信者の倫理」だった。

 日本新聞協会は「新聞倫理綱領」を定めている。2000年に制定された新綱領ではなく、旧綱領(1946年制定)の「第2 報道、評論の限界」の4番目(ニ)にこうある=写真。「人に関する批評は、その人の面前において直接語りうる限度にとどむべきである」

 ワープロが出始めたころ、市民の表現手段の可能性に思いをめぐらせた。いわき市の山里、三和町で農林業を営みながら作家活動を続けていた草野比佐男さん(1927~2005年)から、手づくりの句集と詩集が届いた。それがきっかけだった。

「ワープロで遊びながらの感想ですが、ワープロの出現は、表現の世界の革命といえるんじゃないかという気がします」「世の中が妙な具合になった時に、武器にもなるはずです」

 草野さんの手紙から30年以上たった今、市民はインターネットで世界とつながり、いながらにして情報を収集・発信できるようになった。市民は確かに権力への抵抗の「武器」を手に入れた。が、その「武器」はまた市民を攻撃する「凶器」にもなり得る。草野さんもそこまでは想像が及ばなかったのではないか。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=ツイッターなどの会員制交流サイト)で検察庁法改正案への猛抗議が起きた。この抗議が奏功して法案は棚上げにされた。一方では、SNSで誹謗中傷にさらされた女子プロレスラーが死を選ぶという痛ましい出来事もあった。

ネットリテラシー(ネットを適切に使いこなす能力)という言葉がある。ネットの情報の質を見極めること。同時に、安易に同調・便乗したり、うっぷん晴らしにネットを使ったりしないこと、などをさす。

匿名だから特定されないだろう、責任を問われないだろう――そんな軽い気持ちでアクセルを踏み込むと、たちまち誹謗中傷の沼にはまる。そうならないように、発信者の倫理(限界)=対面批評を戒めにすること。市民から新聞購読料をもらい、市民に代わって情報を収集し、吟味し、「新聞倫理綱領」の枠内で発信してきた者としては、今もそう自分に言い聞かせ、人もまたそうあってほしいと願っている。

2020年6月20日土曜日

木村孝夫詩集『福島の涙』

 東日本大震災とそれに伴う原発事故以来、詩人の木村孝夫さん(いわき市平)は津波被災者と原発避難者の側に立った詩を書き続けている。
震災詩集はすでに、『ふくしまという名の舟にのって』(2013年)、『桜蛍』(2015年)、『夢の壺』(2016年)、ポケット詩集『私は考える人でありたい――140文字の言葉たち』(2018年)、同『六号線――140文字と+&の世界――』(2019年)の5冊。

さらに今年(2020年)6月1日、モノクローム・プロジェクト(兵庫県)のブックレット詩集⑳として、『福島の涙』を出した=写真。今回も恵贈にあずかった。

『ふくしまという名の舟にのって』と『桜蛍』は兄弟詩集、ポケット詩集は二つで一対になる震災詩集だという。

『桜蛍』のあとがきにこうある。「できるだけ避難者の内面的なものを描くという目的を持って書いています。どこまで避難者に寄り添い、その思いに触れ、描き切れたのかは分かりませんが、書きながら、何回も被災場所に行ったり来たりしながら、また奉仕活動を通して多くの避難者の声を聴きました」。木村さんの姿勢はこの9年、全く変わらない。

メディアでは掬(すく)いきれない被災者・避難者個々の声、木村さんはそうした人々の悲しみ・怒りに寄り添う。今度の詩集のあとがきにも「ここに掲載している作品全てが、福島の涙である。/大津波で行方不明者になっている方もまだいる。原発事故で避難している方々もたくさんいる」と記す。

『福島の涙』に収められている「月命日」の一部。<海を枕にしても/寒いだけだろう/眠れないでいるのではないか//心配することばかりだが/諦めようと背を向けることは/存在に対する背信だ//家は新築した/目印は立ててある/帰ってくるのを待つだけだ//ここでゆっくりと眠れれば/そう思って/仏壇も買い替えた>

「眠る」はたぶん、原発事故関連死をあつかっている。その冒頭部分。<眠れないと言っていた彼は/この頃はよく眠れるという//仰向けになったまま眠るのは/疲れると、ときどき愚痴る//我儘な性格は/土に帰ることもなく残っている/好きでない花のときは/墓石を揺らしていやいやをする>

帰還困難区域の一部や居住制限区域に人が住めるようになったことに対する「疑心」では、<仮の古里は/子どもたちが住む場所になり/孫の代になると/そこが古里になって/本当の古里が消えていく>と書く。

一人ひとりの真情は、心底にあるものは9年たっても変わらない。木村さんはそれを詩で代弁する。根底にあるのは、原発は自然とは共存できないという現実。それをストレートに告発するというよりは、アイロニーとユーモアをからめて表現する。そこから静かな共感が生まれる。

2020年6月19日金曜日

花がクモとハチを呼ぶ

 庭の木の下や南側の軒下のキュウリの葉に、ナガコガネらしい子グモが網を張り始めた。ということは、やがて庭や家のあちこちに蜘蛛(くも)の巣ができる。
東側の生け垣のすきまの奥、勝手口のそばに牛乳箱がある。朝、牛乳瓶を取り出すとき、このすきまで顔にベタッと網が張りつく。これはさすがにイヤなので、蜘蛛の巣があれば払う。せめて身長を超えるところに張ってくれよ――それが許容の限界だ。

 この蜘蛛の巣を嫌って、庭には花を植えない家がある。前にそんな情報が知り合いのフェイスブックに載っていた。初めはなぜ?と思ったが、食物連鎖を考えれば一理ある。花が咲けば、蜜を吸いに虫が来る。虫がいれば、それをえさにするクモが現れる。そのクモや虫を狩るハチもやって来る。

 4月のプラムとチューリップ・イカリソウ・エビネに始まって、5月のイボタノキ・ユキノシタ・カタバミ、6月のフランスギク・ドクダミと、春から初夏、庭には花が絶えない。

 イボタノキの花にはアオスジアゲハが来た。同じころ、ハナアブも早朝からこの花にとりついていた=写真上1。1匹や2匹ではわからないが、何十匹ともなれば、イボタノキに近づくだけで「ブーン」と低くかすかな羽音が降りてくる。

初夏は虫たちもいのちを紡ぐのに忙しい。未明の4時すぎにはもう活動を始めていることを知った。これも、コロナ禍で増えた「内省の時間」の成果?だ。

玄関わきの台所の壁に常緑のツタが茂っていたときがある。ちゃちな木造家屋なので、ほっとくとツタで台所の屋根が壊れかねない。そのうえ、玄関の上の屋根直下にある空気抜き(塩ビ管)を出入り口にして、茶の間の天井裏にキイロスズメバチが巣をつくった。遊びに来た孫たちが怖がるので、あるとき、ツタを切ったらスズメバチも姿を消した。
 スズメバチはいなくなったが、アシナガバチは?と見れば、新たに巣をつくっていた。茶の間の軒下からポリカーボネート波板の庇(ひさし)がせり出している。そこにまた巣ができていた=写真上2。1匹が巣にとりついていた。写真を撮ったのは5月29日。それから3週間がたとうとする今は、5~6匹に増えた。

吸蜜するための花と、肉団子(幼虫のえさ)にするチョウやガの幼虫には事欠かない。クモもそうだが、ハチも花があれば近くに“定住”する。

茶の間は南の庭に接している。夏には戸という戸、窓という窓を開け放つ。夜も寝るまでそうしている。すると、セミが飛び込んでくる。アシナガバチも焼酎を樹液と勘違いしてか、「黒じょか」の注ぎ口に止まって内側をなめ始める。ここまでなら見て見ぬふりをしているのが一番。静かにしていれば、アシナガバチはやがて巣に帰る。庭に花があるからこその“物語”だ。

2020年6月18日木曜日

やっぱり“ゴミュニティ”

 地域社会には人が平穏に暮らすためのルールやマナーがある。たとえば、生活ごみ。燃やすごみ・燃やさないごみ・容器包装プラスチックなど、ごみの種類によって回収日が決まっている。そのため、年度が替わる前に行政が「ごみカレンダー」(地区によって異なる)を全戸に配布する。
 違反ごみは、収集車の作業員がラベルを張って残していく。燃やすごみも出し方が悪いとカラスに狙われて、生ごみが路上に散乱する。大多数の人はルールもマナーも守っているのだが、たまにルーズな人がいて波風が立つ。主なルール・マナー違反は、前夜に出す、生ごみを外から見える状態で出す、燃やすごみも燃やさないごみも混ぜて出す、などだ。

 家の前にごみ集積所がある。ごみカレンダーに従って月曜日の早朝、家で保管しているごみネットを出す。ネットはカラス対策だが、万全ではない。1羽がネットを持ち上げる、そのすきに別の1羽がごみ袋を引っ張りだす、といったことを連携してやる。ごみ収集が終わる週末には、ネットを引っ込める。ネットがない方が美観的にもいいし、人も違反ごみを出しにくいはず――そう考えてのことだ。

ほかでもそうだろうが、家の前にごみ集積所があると、違反ごみやカラスには鈍感ではいられない。違反ごみがあれば、無駄とは知りながらも注意喚起の張り紙をする=写真。カラスが食い散らかした生ごみを片付ける。だれもやらないから、やる。その繰り返し。ごみ問題はエンドレスだ。

年度が替わって、よそから人が移り住んだときなどに違反が目立つ。そのつどカリカリしたものだが、度重なると胃や心臓に悪い。あるときから、「コミュニティは“ゴミュニティ”、ごみ問題が落ち着いていれば地域社会は平穏だ。しかし、必ずマナー違反はある、腹を立てるな」と自分に言い聞かせるようになった。

戒めとしているのは、ゲーテが死ぬ直前に書いた4行詩「市民の義務」だ。銘々自分の戸の前を掃け/そうすれば町のどの区も清潔だ。/銘々自分の課題を果たせ/そうすれば市会は無事だ。」

このごろはもうひとつ、「媚(こ)びない、キレない、意地を張らない」が加わった。「ミスター・ラグビー」と呼ばれた故平尾誠二さんの『生きつづける言葉――情と知で動かす』(PHP、2018年)のなかにあった。

組織論だが、コミュニティとの向き合い方にも通じる。キレないのは「キレてもまったく意味がないからだ。一瞬の鬱憤(うっぷん)ばらしにはなるけれど、事態は悪化してしまう」。これを“ゴミュニティ”に重ねて、地域には違反ごみを出す人間が必ずいる。キレるな、理不尽に負けるな――と自分に言い聞かせるようにしている。

ごみ集積所は至るところにある。そのすべてでおそらく、カラスの食い散らかしと違反ごみを経験している。誰かがその始末をしなくてはならない。行政区の役員さんのなかには、「集積所をきれいにすることくらい、なんともないから」といってくれる人がいる。こういう人たちによって地域社会の平穏は支えられている。

にしても、急に違反ごみが続くようになった。だれが出すのだろう。透明人間になって、ごみ集積所のそばに立ってみるか――などと、妄想をふくらませることもある。

2020年6月17日水曜日

久しぶりに孫と話す

 長男一家が車で5分ほどのところに住んでいる。コロナ禍で3~5月と孫の足が遠のいた。上の孫はこの間に小学校を卒業し、中学校に入学した。卒業式の日も入学式の日も、晴れの姿を見ることはなかった。
 緊急事態宣言が解除され、いわき市内の小中学校は5月21日から段階的に、6月1日からは通常授業に戻った。

 先日、下の孫が誕生日を迎えた。ちょうど日曜日だ。前の晩、カミサンが電話をした。当日朝、欲しいものを確かめて、一緒に買いに行った。車中で、家に送り届けて、久しぶりに孫たちと話した。

 下の孫は小学5年生。1週間前(6月10日)に学習田で田植えを体験した。教室での授業とは異なり、自然が相手の田植えは、先送りができない。「気持ちよかった」という。

60年ほど前だが、素足で田んぼに入り、ヒルに吸いつかれたことがある。「ヒルは?」「いなかった。カエルやタガメはいた」。水田の環境が変わったのかもしれない。

兄弟を見ていると面白い。下の孫は足が速い。「文」と「武」、つまり「文武」からいうと「武」。上の孫は「文」。ずっとそう思ってきた。

「文」の孫とは少し大人の話ができた。孫の母親が小学校のアルバムと、入学式・卒業式の写真を出してくれた。その説明を孫がした。卒業文集や、『文集いわき』の作文も読んだ。

拙ブログで書いたことがあるが、上の孫は小さいころから病気がちだった。ぜんそくの持病がある。水泳を習い、今はサッカーの練習をしているとはいえ、体育会系ではなさそうだと思っていたら、6年生になって突然、学校の運動会でリレーのメンバーに選ばれた。いわき陸上競技場で開かれた小学校陸上競技大会(平ブロック)では、80メートルハードルと4×100メートルリレーに出場した。ハードルは2位だった。

作文はそのことに触れたものだった。弟に比べたら、スポーツは苦手だと思っていた。しかし、練習を続けた。リレーの選手に選ばれた。市の大会では入賞した。努力すれば結果が得られる――そんな内容だった。孫は孫なりに自分を振り返り、自分と弟を比較している。「感動した」というと、にっこりした。

おととい(6月15日)、田植えの記事が新聞(いわき民報)に載った=写真。泥の感触、水の生暖かさ、小動物……。下の孫がいっていたことを思い出しながら、記事を読んだ。苗はもち米の「マンゲツモチ」。秋には稲刈りをし、収穫祭を行うそうだ。孫との直接の会話もそうだが、青空の下での田植えは全身体験だ。こうした楽しみはやはり、オンラインでは得られない。

2020年6月16日火曜日

雨の「忠魂碑」清掃

 きのう(6月15日)は小名浜で32.6度の真夏日になった。ハマは海風があって、日中は内陸の平などより2~3度低い。そのハマが内陸の山田(最高気温32.1度)より高かったのだから、驚いた。
とはいえ、東北南部が梅雨入りしてまだ1週間もたっていない。土曜日(6月13日)は朝から雨だった。平・神谷(かべや)地区の区長8人が、平六小の裏山にある旧神谷村の「忠魂碑」と「殉国碑」、それに同小前の立鉾鹿島神社の境域にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」の周りを清掃することになっていた。集合時間に神谷公民館へ行くと、「雨でも決行」と決まった。

 忠魂・殉国碑は東西にのびる丘の一角にある。周りは常緑・落葉樹が生い茂り、あまり日光が差し込まない。雑草は碑の前に少しあるだけ。雨は緑の葉に抑えられながらも降ってくる。私ともう1人を除いたほかの区長さんは農家だから、草刈り機を持参し、合羽と長靴といういでたちだ。私はたちまち帽子がぬれ、ベストがぬれ、ズボンのすそとスニーカーがぬれた。

あっという間に草刈りが終わった。忠魂・殉国碑の周りに、近くから調達した細い竹を立て、しめ縄を張り、紙垂(しで)をつるした=写真上。お神酒を上げて、二礼二拝一礼をした。それで丘の上の作業と慰霊祭は終わり。

コロナ問題がおきて“3密”を避けるために、さまざまなレベルの行事・会合が中止か延期になった。そうしたなかでも忠魂・殉国碑と戊辰役各藩戦病歿者追福碑の清掃は、中止するわけにはいかない。緊急事態宣言が解除されたこと、野外の活動であること、密になる必要がないことなどもあって、雨だが予定通り実施した。新年度に入って最初のリアルな集まりになった。(追福碑はきれいになっていたので慰霊祭のみ実施)

コロナ問題では学校も大きな影響を受けた。長い休業期間を取り戻すように、土曜日も授業が行われていた。その様子をチラリと見ながら険しい参道をのぼった。

 忠魂碑には日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争までの地元の戦没者138柱の霊をまつる。遺族会が解散したあとは、区長協議会が清掃・慰霊祭を引き受けている。

戊辰の戦病歿者追福碑=写真右=には「各藩」が入る。笠間藩の分領だった神谷には陣屋が置かれていた。本藩が新政府軍に加わったため、陣屋も隣の磐城平藩をはじめ奥羽越列藩同盟を相手に、孤立無援の戦いを強いられた。結果、周りは“負け組”、神谷は“勝ち組”に入った。勝ち負けなく弔おうとなったのは、分領出身者がその後、代議士などになったことも関係しているのではないかと、今は考えている。

 ついでながら、作業開始というときにだれかが声を上げた。「風邪は引けないな、病院が受け付けてくれないから」。作業が終わって解散すると、すぐ帰宅して風呂に入った。

作家の故池波正太郎さんが『男の作法』のなかでこんなことを語っている。「冬なんかに、ちょっときょうは寒い、風邪を引きそうだなあと思ったときは、入浴をしても背中は洗わないほうがいいよ。(略)背中の脂っ気がなくなってカサカサになっちゃうと、そこから風邪が侵入してくるわけ」

雨で背中が冷えた。それを実感したので、まずは背中を温めることにした。翌朝は鼻が少しぐずついたが、それはたまにあること。月曜日になると平常に戻り、風邪の心配はなくなった。

2020年6月15日月曜日

茶の間になぜ鎌が?

夏井川渓谷の隠居に着くとすぐ、雨戸とガラス戸を開けて部屋の空気を入れ替える。南側の雨戸を開けて、次は西側を、と茶の間に踏み込んだら……、畳の上に鎌がある=写真下1。
1週間前、カミサンが忘れたか。「なんでここに鎌があるの?」「知らないわよ、使ってないもの」。にわかに空気が険しくなる。鎌を玄関の下駄箱の上に持って行くと、今度は背後からこわばった声がした。「ガラスが散らばってる!」

西側の雨戸は閉まったままだ。その内側にある4枚のガラス戸は、カギがかかっているはずだが……。右から2番目の戸の、下から2枚目のガラスが割れ、そばのカギがはずれていた=写真下2。
 畳の上の鎌と、割れたガラスと、閉まったままの雨戸と――。三つがなかなか結びつかなかった。が、間もなく腑(ふ)に落ちた。空き巣だ。

まだ義父母が健在のころ、いきなり隠居の電気料金がはねあがったことがある。「どうしたんだろう」といぶかっていたら、夜な夜なホームレスが入り込み、寝泊まりしていたのだった。35年以上も前の話だ。侵入しようと思えば、どこからでも侵入できる。

南側の雨戸は、最後の1枚が木製の板を敷居の穴に差し込む「上げ猿(ざる)」になっている。西側のそれは小さな金属製だ。東日本大震災のときに建物が揺れてひん曲がり、防犯の用をなさなくなった。これをそのままにしておいたのがいけなかった。

雨戸は簡単に開いた。素通しのガラス戸にはカギがかかっている。物置から鎌を持ち出し、柄でガラスを割ってカギをはずし、茶だんすや鏡台その他の引き出しを荒らしたあと、同じ所から庭に出て、ガラス戸と雨戸を閉めた――そう推理してみた。

いちおう“現場”をそのままにして警察に連絡する。2台で4人がやって来た。状況を話し、鑑識に立ち会った。

細かい話は省略する。が、「鑑識の目」には感服した。南の雨戸の前には幅が1.5メートルほどの濡れ縁がある。私らは家の中から出入りするから、靴のままでは歩かない。その表面を凝視する。中の廊下を、台所の床を凝視する。素人には気づかない床のかすかな模様や変化から、犯人かもしれない足跡を採取した。

壁に飾ってある柄澤齊の木版画や阿部幸洋の油絵は手つかずだった。もとより金塊を、紙幣の束を茶だんすに隠しているはずもない。なくなったものが何なのか、あるいは何もなくなっていないのか、はっきりしないのが口惜しいところではある。

にしても、なぜ鎌がそこに? ガラスを割るだけなら石がある。家の中に人がいたら、居直って襲うつもりだったのではないか。いないのを確認して、鎌をそこに放置したのだ、きっと――というと、そばで指紋採取をしていた鑑識の人がうなずいた。それを見て、一瞬、空気が凍りついた。

2020年6月14日日曜日

川前にクマ!

 夕刊(いわき民報)で、いわき市の山間部・川前町でクマが目撃されたことを知った=写真。見出しを見た瞬間、「またあそこでは」と思った。記事本文を読むと、前に足跡が見つかった場所の隣接地区だった。
 クマがいた場所は「川前町下桶売字荻地内の吉間田集会所付近の休耕田」。時刻は「6月11日午後6時50分ごろ」だという。夏至までもうすぐ。この日の小名浜の日没時間は同6時56分だ。山間部の荻地内も、夕日は山の陰に隠れたかもしれないが、まだあたりは明るかったことだろう。イノシシをクマと見間違えるはずもない。翌日には「直径6~7センチの足跡」が確認された。

 私の「またあそこでは」は、8年前の2012年7月31日のことを指す。当時の拙ブログによれば、田村郡に接する「川前町上桶売字大平地内」でツキノワグマの足跡が確認された。夏井川渓谷のわが隠居からは、車で20分ほど山中に分け入ったあたりだ。隠居に回覧チラシ「クマにご注意」が差し込まれていて、それでクマの出没場所が近いことを実感した。

 上桶売にはいわき市で二番目、ほかの町村にまたがらない山としては一番高い鬼ケ城山(887メートル)がある。南麓にキャンプのできる「いわきの里鬼ヶ城」が広がる。山の北側を、上桶売から下桶売、さらには川内村へと、小白井川(木戸川支流)が流れる。

県道小野富岡線が小白井川に沿って東西にのびる。下桶売地内に「上吉間田橋」や「吉間田大橋」がある。今度はそのあたりで目撃されたのだろうか。

 8年前の回覧チラシには①出合わないようにするための心構え②出合ったときの対処法――が書かれていた。なかで注意を引いたのが、「クマは夜間や朝夕など活発に行動するため、特に注意が必要。朝早くの農作業等は、必ず音のするものを身につける」だった。

もともと阿武隈高地には、クマは生息していない、といわれてきた。が、近年は目撃情報が絶えない。今度の記事にも「平成25年6月22日にも同町下桶売字志田名(しだみょう)地内で目撃情報や足跡が確認されて」いる、とある。志田名は荻の南に位置する。水系からいうと、夏井川支流の鹿又川流域だ(荻地区そのものが小さな分水嶺になっている)。

平成25年といえば、東日本大震災の2年後、上桶売でクマの足跡が確認された翌年ではないか。拙ブログでは、これについてはまったく触れていない。ネットでも確かめられなかった。このときはうっかり見落とし、聞き逃してしまったか。

2020年6月13日土曜日

アーティチョークが届く

アーティチョークの苗をもらい、夏井川渓谷の隠居の菜園に植えたことがある。大きく育って、紫色のアザミのような花を咲かせた。つぼみができたら、それを採って食べようという魂胆だったが、タイミングがずれた。もっとも、こちらは食用ではなく観賞用のアーティチョークだったのかもしれない。
それから12年――。アーティチョークを食べるチャンスが突然めぐってきた。きのう(6月12日)午後、高専の後輩からアーティチョークのお福分けにあずかった=写真上1。食べたい、しかしどう調理するのか? 急いでネットで調べ、ゆでてから硬い皮をはがすことにした。

後輩にも調理法を教えてくれるように頼む。すぐ外国の動画が届いた。こちらは生のまま皮をむき、あとで食用部分を加熱するやり方だった。なるほど、どちらでもいいいのだ。

「とげには気をつけて」。つぼみの皮は、1枚1枚の先端が針のようにとがっている。不用意にさわると痛い。とげをはさみで切る。つぼみ全体の先端部分はまとめて包丁で切り落とす。とげがなくなったところで、大きな鍋に水を張り、アーティチョークを入るだけ入れて、40分ほど加熱する。金串で刺し通せるようになればOKだ。

 それからが大変だった。原形はソフトボール大だが、皮をむいていくと、どんどん小さくなる。どこまでむけばいいのだろう。タマネギと同じで、最後はなくなってしまう? 途中で心配になり、ネット情報を再確認する。画像と似たような大きさのところで皮をむくのをやめ、花になる部分をえぐったら、なんと直径5センチほどのおちょこの底くらいしか残らなかった。

 アーティチョークの食用部分は、この「花托」といわれるところらしい。コーヒーや紅茶でいえば、「受け皿」の真ん中部分。下処理に要した時間からすれば、見返りは圧倒的に少ない。たまたま5個をゆでたから、それなりの量を確保できたが、1個だけだとあまりにも貴重すぎる。
 花托を刻んでオリーブオイルをかけ、塩と酢(レモンがなかったのでその代用)を振って、晩酌のつまみにした=写真上2。イモに似た、くせのないホクホク感――。もともとは野生のアザミらしいが、品種改良が続けられてこの食感にたどりついた。いやあ、その執念には頭が下がる。

 そもそも12年前にアーティチョークを植えたのは、スペインに住む絵描きの阿部幸洋がいわき市で個展を開き、中にアーティチョークの作品があったからだ。阿部の知人が画廊に苗を持参した。めぐりめぐって私がそれを引き取った。“新野菜”としての幻影に惑わされたためだが、今回初めて調理し、食べて、阿部の住むトメジョーソの食文化の一端に触れることができた。

 そういえば、後輩も海外生活が長い。フェイスブックを介して送られてきたアーティチョークの動画が向こうのものだったのはそのため。今は実家へ“単身帰農”中だ。いろんなものを栽培している。前に落花生の「おおまさり」、ユズ、昔野菜の小豆「むすめきたか」をもらった。

アーティチョークにはしかし、最初びっくりして言葉もなかった。なんでもそうだが、単純な作業は一度やればコツがつかめる。まだ残っているので、今度はざっくりと下処理をして、食べるまでの時間を短縮してみよう。

2020年6月12日金曜日

初物のキュウリを食べる

台所の軒下に植えたキュウリ苗が思ったより早く育っている。親づるの高さが1メートルほどになり、花を咲かせ始めた。
花が咲けば実が生(な)る。毎日、実の生長を観察していたら、5センチほどの水平の実がある時から下がりはじめ、さらに肥大が進むと垂直になった。垂れ下がるとたちまち大きくなる。おととい(6月10日)は15センチほどだったのが、きのう早朝には20センチ弱になっていた=写真上。キュウリは夜に大きくなる。

きのうは東日本大震災の月命日。それに合わせて少し早いかなと思ったが、このキュウリを摘み、鎮魂と初物の報謝を兼ねて床の間に飾った=写真下。
  きのうも晴れて夏のような暑さになった。午後には雨になるという予報だった。それもあるのだろう、昼のニュースで、九州北部から東北南部まで一気に梅雨入りしたことを知る。拙ブログで確かめると、東北南部の梅雨入りは去年(6月7日)より4日遅く、平年(6月12日)よりは1日早い。

夜、晩酌のつまみに初物のキュウリを刻んで、味噌(みそ)をつけて食べた。断面が電灯の光を浴びてキラキラしている。水分が表面にしみているのだ。キュウリは全体の90%余が水分だという。新鮮なキュウリとはそういうものなのだろう。ところが、時間がたつとこのキラキラが消える。水分が蒸散するのも早い。

キュウリは7月になると、あちこちから届く。糠床は、これは浅漬け用。それとは別に、古漬け用の甕(かめ)も用意して、食べきれないキュウリを十字に敷きつめて塩漬けにする。そうすれば秋以降、場合によっては春先まで食べることができる。

6月に入って暑い日が続いた。キュウリの浅漬けだけでなく、古漬けも食べたくなった。古漬け用の甕を出すには早い。糠床に4日も5日も漬けたままにしておく。あめ色になったキュウリを食べるときに取り出し、刻んで水につけ、塩分を減らして食卓に出す。これはこれでご飯にあう。

夏井川渓谷の隠居の菜園にもキュウリの苗が3株ある。育ちは悪いが、新しい葉が出始めた。少しは期待が持てるようになった。7月も後半に入ると、一度に10本、いや15本くらいは採れるかもしれない。そんなことを想像するだけで楽しくなる。

夕方に降りだした雨は、夜に入るとけっこう強まった。雨が上がったけさ、軒下のキュウリを見ると、葉のへりだけでなく中央の表面にも水玉ができていた。梅雨入りしたとたんに地中と空からたっぷり水分を受け取って、アップアップしているのかもしれない。きょうは、水はやらない。