2022年10月31日月曜日

ネギが無事に発芽

                      
 10月9日の日曜日に三春ネギの種をまいた。夏井川渓谷の隠居の庭にささやかな菜園がある。その一角に苗床をつくった。

 1週間後の日曜日(10月16日)には、早くも芽が出かかっていた。それからさらに1週間、10月23日の日曜日には緑の筋ができていた=写真上1。

 私は、ネギの芽が地上に出かかった瞬間がたまらなく好きだ。何度もそのときの様子をブログに書いている。ある年はこんな具合だった。

――ネギの発芽はおもしろい。地中3~5ミリほどのところで種が眠っている。まいて1週間もすると、種のすぐ上の土が筋状に割れてくる。

その割れ目から淡い色の点(発芽しつつあるネギ苗)がのぞくようになる。黒い殻を破った緑色の芽(根と茎の部分がある)はいったん上向きに伸び、やがて根の部分が屈曲して下へ、下へと向かっていく。

茎は屈曲した状態で上へ伸び、ヘアピン状のまま地上に現れる。それに似たかたちを探せば、電気抵抗の単位を表す「Ω」(オーム)、あるいは逆「U」の字。

その次の段階になると、土のふとんをかぶった黒い種がまた、茎に引っ張られて地表に出てくる。初期の芽ネギは頭に黒い殻をのせているために、数字の「7」、あるいは記号の「?」のように見える。

さらに次の段階に入ると、黒い殻は脱落し、茎も根も一直線になる。ネギ栽培をしていてなにが楽しいかというと、この発芽からピンと立つまでの一連の変化だ――。

ネギは「自産自消」を基本にしている。そのサイクルはこうだ。晩秋から師走にかけてネギを収穫する。

何本かは採種用に残しておく。越冬したネギは春に薹(とう)立ちをする。やがて先端にネギ坊主ができる。

6月にそれを摘み、ごみや中身のない種を“水選”して乾燥させ、小瓶に入れて冷蔵庫で保管する。秋には苗床をつくり、10月10日前後の日曜日に種をまく。

今年の種はちゃんと生きている、という自信はあったが、普通の種より小粒のものも多かったので、どこまで発芽するか心配だった。その意味では、歩留まりは今年はかなりいい。

実は、今年は思ったよりも多く種が採れた。畳1枚分の苗床に6列の筋をつくってまいても、かなり余った。急きょ、そばに半円状の苗床をつくり、こちらは「筋まき」ではなく、「ばらまき」にした。これもちゃんと発芽した。

半円状の苗床は、定植用というよりは葉ネギ用だ。葉ネギは春~夏のみそ汁や納豆、卵焼きに使える。いわば、間引きネギの感覚で秋の収穫時期までつなぐ。そうすれば、夏場はあまりネギを買わなくてすむ。

種だけではない。今年のネギは根切り虫の被害が少なくてすんだ。梅雨もあっという間に過ぎた。おおむね順調に育っている。

きのう(10月30日)、初めて収穫した=写真上2。もっと早めにうねを高くすれば、さらに白根の部分が長くなったかもしれない。初物なので、まずはジャガイモとねぎの味噌汁にしてもらう。

2022年10月30日日曜日

手書きこそ大事

                      
 仙台在住の作家佐伯一麦さんの随筆集『Nさんの机で』(田畑書店、2022年)を読んでいたら、こんな文章に出合った。

 「ペンだこの名残はいくぶんあるものの、ワープロやパソコンで執筆するようになり、めっきり小さくなってしまった。物書きであるしるしがうしなわれてしまったような思いを抱きながら、せめて原稿の下書きやメモ、日録は手書きで、と鉛筆を握る」

 作家に限らない。ペンだこが盛り上がっていた新聞記者も同じだろう。パソコンのキーボードをたたくようになってから、ペンだこがしぼんでしまった。

 同時に、「外部の脳」(電脳)に頼りすぎて、「内部の脳」がさっぱり機能しなくなってきた。難しい漢字をどんどん忘れていく。

それに歯止めをかけないと――。ペンだこのためではなく、漢字を忘れないために、ブログの下書きや日記は手書きを続ける=写真。前にも同じ趣旨の文章を書いている。それを抜粋・再掲する。

――アナログ人間である。その人間がデジタル社会のなかで何を心に留めているかというと、メモは「手書き」で通すこと、これだけ。

1990年代半ばには、地域新聞社も原稿製作が「手書き」から「パソコン入力」に切り替わった。そのとき、新聞記者は「新聞打者」になった。

書くということは、自分の脳内に文字を浮かび上がらせ、腕から手、指へと伝え、鉛筆あるいはボールペンを使ってそれを紙に記す、きわめて肉体的な行為だ。その行為の繰り返し、経験が体に蓄積されて次に生かされる、と私は思っている。

記事の書き方がアナログからデジタルに変わり、新聞記者が新聞打者になって何が起きたか。

文章を書き直すのに、原稿用紙をクシャクシャにしてくずかごにポイッ、がなくなった。原稿の修正が楽になった。過去のデータもすぐ引き出せる。

半面、生身の脳はなにか大切なものを失ったような気がしてならない。たとえば「薔薇」の字、これが書けなくなった。

キーボードで入力すると、パソコン画面に候補の漢字が現れる。記者は(一般の人もそうだが)「薔薇」の文字を選択するだけでよくなった。

「書く」ことをやめて、外部に映る漢字を「選ぶ」だけになった結果、漢字がどんどん自分の脳からこぼれ落ちていく。

私は、パソコンを「外部の脳」、自分の脳を「内部の脳」と区別して考える。外部の脳に文章の処理を任せるようになってから、内部の脳はすっかり書くことから遠ざかった。

人間の脳は、使わなければ退化する、パソコンやスマホが普通になった今、人間の脳はこれから小さくなっていくのではないか、といった危惧を抱かざるを得ない。それを避けるために、意識して実践しているのがメモ(日録)の手書きだ。

書くことは肉体的な行為だ。書く習慣が薄れると考える力も衰える。アナログ人間だからこそわかるデジタル文化の落とし穴といってもよい――。

「内部の脳」を活性化するためにも手書きを勧めたい。用紙は新聞に折り込まれる「お悔み情報」、そしてパチンコ店のチラシだ。片面が真っ白なので、メモ用紙が途切れることはない。

2022年10月29日土曜日

川内の古民家カフェへ・下

                     
 日曜日(10月23日)の昼は川内村をグルグル巡った。友人の娘さんが下川内の自宅敷地内で始めた古民家カフェ「秋風舎」で食事をとったあと、上川内へ移動し、「あれ・これ市場」で味噌漬けその他を買った。

 そのあと、天山文庫のある「かわうち草野心平記念館」に寄った。ふだんそこで管理人をしている娘さんに代わって、友人が臨時に受付をしていた。

彼女に会うのは、同じく友人でもある夫君が亡くなって9カ月後、いわきのアリオスで彼のメモリアルコンサートが開かれたとき以来だ。

彼は心平の弟の天平に引かれ、令和2(2020)年2月21日~3月8日、いわき市小川町の心平生家で「書画でめぐる草野天平の詩」展を開いた。

その準備をしていた2月初旬に体調を崩し、同26日、71歳で亡くなった。危篤の夫に代わって、妻である友人が作品を搬入した。

彼はことのほか邦楽を好んだ。自宅敷地内にある古民家でよく邦楽コンサートを開いた。メモリアルコンサートでは、なじみの琵琶、尺八奏者などが出演した。

そんなことを思い出しながら記念館を訪ねると、息を切らしながら坂道を上ってきた私ら夫婦が目に留まったのだろう。外に出て来て迎えてくれた。

近況を伝えあったあと、観客が訪れたのを機に、また下川内を目指す。十文字トンネルをくぐっていわきへ帰るためだ。

今回の川内行は、古民家カフェを訪ねること、そして、国道399号十文字トンネルを通ることが目的だった。

地図の上では、川内村といわき市は国道399号が最短コースだ。が、実際にはいわき側と川内側に山が連なる。

特に、いわき側の峠・十文字は標高が730メートルほどある。ふもとの内倉湿原の東側(標高400メートルほど)から狭い急カーブが連続し、峠を下るにも急こう配と急カーブが続く。

すり鉢の底にあるのが中戸渡(とわだ)地区、旧戸渡分校があるあたりで標高は490メートルほどだ。最大高低差300メートル余の峠越えがきつくて、ここ20年以上はまったくこの道を利用していない。

いや、記録(ブログ)を見たら、平成30(2018)年5月の連休時、田村市の実家へ行く途中、分校前の道端にあるシラカバを見に出かけている。正確には4年ぶりだった。

平成23(2011)年度にこの難所を解消するためのバイパス工事が始まる。399号の向かい側、内倉湿原の西側に二つの橋を架け、延長2875メートルのトンネルを掘って内倉と戸渡を直結する、というもので、11年の歳月をかけて、つい先日(9月27日)、開通した。

トンネルは、ひとことでいえば長い。いや、ひとことではすまない。とにかく長い。これほど長いトンネルをくぐるのは初めてだ。

三角形の底辺と同じで、峠のふもとの戸渡と内倉をほぼ一直線でつなぐわけだから、川内~いわき間は時間も距離もだいぶ短縮された。今では通勤圏内になったといってもいい。

友人の娘さんも毎週、このバイパスを利用して平まで買い出しに来る。いわき方面から川内へ入るライダーも増えたという。これも「トンネル効果」だろう。

2022年10月28日金曜日

川内の古民家カフェへ・中

                    
 陶芸家の友人の家は川内村下川内の木戸川沿いにある。夏井川渓谷の隠居から“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線)を経由し、下川内へ抜ける道を利用すると、およそ40分で着く。

 夫婦で陶芸を生業にしていた。「土志工房」という。夫君は2年半前に他界した。自宅の隣には、いわきから移築した古民家がある。こちらは「秋風舎」と名付けられた。ここでときどき、邦楽のコンサートが開かれた。

 夫君とは、同年齢ということもあって話が合った。それだけではない。彼は本業のほかに、木工にも情熱を注いだ。絵も描いた。

もう四半世紀前になる。彼のつくるテーブルといすのセットが気に入って、渓谷の隠居の庭に一式を据えた。

丸太の脚に角材を渡し、その上に板材3枚を並べたのがテーブル。いすは丸太を半分に割った長いすで、4カ所に穴をあけて脚をはめた。

十数年たってテーブルの脚が傷んだため、震災の翌年(2012年)、彼に頼んで脚だけ新調した。

木工の冴えに瞠目したのは平成27(2015)年5月、上川内にある志賀林業のログハウスで「ちゃわん屋の木工展」を開いたときだ。

案内状にこんなことが書かれていた。川内村は木材に恵まれた土地だが、まきストーブやまき窯に使うだけではもったいない。テーブルやイスができないものかと、折に触れて試作してきた。材料はほとんど同林業から譲り受けた。

 木工展には完成度の高い作品が並んだ。室内用のテーブルからベンチ、イス、郵便受け、大きな箸箱と箸まである。その多彩さに舌を巻いた。

 同じ陶芸の道に進んだ娘さんが、古民家をカフェに改装した。先日、プレオープンをしたので、開店時間に合わせて隠居から出かけた。

 娘さんは「かわうち草野心平記念館」の管理人もしている。同館は詩人草野心平が夏・秋を過ごした「天山文庫」と、その下にある阿武隈民芸館をまとめて管理する組織だ。

 この日は非番だったが、別の管理人が急用で休んだため、臨時に館へ行き、あとで友人が娘さんの代わりを務めた。

 開店前に行くと、先行する一団がいた。NHKの取材クルーだった。「小さな旅」の収録だという。

 古民家カフェ秋風舎のプレオープンに合わせて取材に入って3日目だった。旅の案内人(アナウンサー)がいないところを見ると、「東北小さな旅」かもしれない。

 やがて娘さんが車で戻ってきたので、店の入り口から声をかける。「おうい」。カウンターから「おわっ」と大きな返事が返ってきた。庭に出てきたところをパチリとやる=写真。

 秋風舎はコンサートのときに入って以来だ。土間と囲炉裏のある居間には、父親がつくったテーブルといすが配されている。

 居間に上がって、彼のつくったいすに座り、彼のつくったテーブルで盛り合わせのカレーを食べていると、静かに胸を満たすものがあった。

ここでは彼も生きている。カフェは父親の協力があってこそ生まれた。そのへんに彼がにこにこしながら立っているかもしれない――そんな気がしてならなかった。

2022年10月27日木曜日

川内の古民家カフェへ・上

  
                      

 日曜日(10月23日)に川内村を巡った。友人の娘さんが下川内の自宅敷地内にある古民家をカフェに改装した。10月21日にプレオープンしたので、お祝いと食事を兼ねて顔を出した。

 いわき市ではこの日、秋のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動(最終日の「清掃デー」)が行われた。わが区では早朝、住民が出て家の周りをきれいにした。

 それが終わって、夏井川渓谷の隠居へ直行し、土いじりをしたあと、“スーパー林道”を利用して下川内へ向かった。

 スーパー林道は、正式には「広域基幹林道上高部線」という。標高200メートルほどの夏井川渓谷=牛小川(小川町)と、標高700~600メートルの山間部=荻(川前町)を結ぶ。

幅員5メートル、延長14キロの1級林道で、途中の外門(ともん)までは夏井川の支流・中川に沿い、その後は峠を縫ってほぼ真北に延びる。

友人の家は木戸川べりにある。渓谷の隠居からはいつも、国道399号と県道上川内川前線の中間を縫う、このスーパー林道を経由して木戸川を目指す。

山麓線(県道いわき浪江線)経由で富岡町から川内村へ入るルートもあるが、そちらは時間的にも、心理的にも遠い。同399号の十文字トンネルが開通するまでは、これが最短だった。

荻~下川内間は市道・村道だろう。ストリートビューで確認すると、いわき分には標識はない。川内側には「宇津川沼潟荻線」といった村道名の標識が見られる。地元の住人しか知らない近道でもある。

友人は陶芸家だ。夫もそうだったが、彼は令和2年(2020年)2月下旬に亡くなった。私とは同年齢だった。

川内に移住した陶芸家夫妻がいると聞いて、田村市常葉町の実家へ行った帰りに立ち寄って以来、四半世紀余り、ゆるゆると付き合いが続いた。

生まれたときから知っている娘さんが一人。大学をやめて村に戻り、親と同じ陶芸の道に入った。そして今、父親の残した古民家「秋風舎」をカフェに改装した。

朝のうちに仕事をすませ、あとは古民家カフェなどを訪ねるマイクロツーリズムを楽しむだけ――そんな気楽な道行きだった。

 記録(ブログ)によると、5年前にもスーパー林道を通っている。「敬老の日」に実家で母親の十三回忌が行われた。その帰り、都路~上川内~荻経由でこの道を利用した。

そのときは珍しく対向車両があった。人もいた。山の手入れが行われていた。「ふくしま森林再生(県営林)事業」で、県のホームページによると、間伐などの森林整備と、放射性物質の動態に応じた表土流出防止柵などの対策を一体的に行う、というものだった。

 すでに事業は完了していた。道端の草がきれいに刈り払われ、表土流出防止の柵(間伐材を利用)が設けられていた。

 それから5年後。中川沿いだけでなく、峠に入ってもササ枯れが見られた。斜面全体の下生えが枯れているところがあった=写真。

そこは確か、5年前に間伐されてきれいになった林地だ。ササの地下茎はそっくりそのまま残っていたのだろう。車を止めてただただ見やるしかなかった。

2022年10月26日水曜日

ヒラタケとミョウガの子

        
 何度も書いているので、いまさらの感もあるが、そこに出ているかもしれない、という予測が当たるとうれしくなる。キノコのことだ。

 夏井川渓谷の隠居の庭に「キノコの生(な)る木」がある。葉のかたちから、クワの仲間のカジノキらしい。

 木全体が木材腐朽菌に冒されているわけではない。まだ生きている枝もある。その証拠に、春には木の芽が吹き、初夏には花が咲く。しかし、実が生った記憶はない。カジノキは雌雄異株というから、雄木なのだろう。

 最初はアラゲキクラゲ、やがてヒラタケが発生し、ここ数年は食不適のアミヒラタケが生えるようになった。

 アラゲキクラゲは時を選ばない。梅雨に生えることがあれば、秋に現れることもある。ヒラタケは晩秋か初冬に見られる。対岸の森を巡っていたときには、初冬によく採った。

 震災後は、森へは入らず、隠居の庭だけをチェックする。10月16日の日曜日には、「キノコの生る木」にアミヒラタケが発生していた。

いよいよ、かな。1週間後の同23日に木を見ると、ハマグリ大のヒラタケが重なって出ていた=写真上1。図星だった。

さらに1週間おけばホタテ貝くらいの大きさになるはずだが、そこまで待つと鮮度が落ちてしまうかもしれない。

二股になっている幹から太い枝に足をかけて少し登ると、手が触れた。短い柄の根元からそっと摘む。冷たい。ぎゅっと肉が詰まっている感じでみずみずしい。数としては食べごろのヒラタケが10個ほど採れた。

一方でカミサンは、ミョウガのやぶの根元をかき分けて、ミョウガの子を採った=写真上2。これはこれで今季最後の収穫になる。

さっそく、夜、ヒラタケとミョウガの子の吸い物が出た。少しとろみをつけてもらう。ヒラタケは癖がない。新鮮な分、弾力がある。今季初めての食材をじっくりかみしめる。

翌日は長ネギとヒラタケの豚肉巻き、さらに翌々日はヒラタケの味噌汁が出た。ヒラタケは淡白な分、何にでも合う。重宝な食菌だ。

隠居の庭のモミの木の根元には今ごろ、アカモミタケが出る。ところが、今年(2022年)は姿を見ていない。

先日、後輩からアカモミタケとアケビが届いた=写真上3。どちらも今年の初物だった。アカモミタケはいい出汁が出る。

コウタケやマツタケははなからあきらめている。昔はアミタケその他の雑キノコをよく採ったものだが、今は、自分のシロは隠居の庭だけだ。

今年は春に少しアミガサタケが出た。が、梅雨のマメダンゴ(ツチグリ幼菌)はゼロだった。ヒラタケが採れただけよし、とするしかないか。

2022年10月25日火曜日

市民総ぐるみ運動

         
 日曜日(10月23日)は、いわき市の秋の「清掃デー」だった。住民が道路や側溝を含む自宅周辺をきれいにしした=写真。

いわきでは春(6月)と秋(10月)の2回、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動を実施している。

金・土・日の3日間で、初日は「清潔な環境づくりをする日」(学校・社会福祉施設・事業所周辺などの清掃)、2日目は「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」、最終日は「清掃デー」だ。

 とはいえ、コロナ禍のなかで中止が続き、去年(2021年)は春に再開することが決まったものの、市の回覧を配った直後にまた波がきて、急きょ、中止になった。今年も春は中止された。

 東日本大震災に伴う原発事故のあとは、放射性物質を含んだ土砂の受け入れ先が確保できないことから、側溝の泥上げが中止になった。

 それが何年か続き、土砂がたまって、大雨時には歩道が冠水しやすくなった、害虫の温床にもなる、といった心配が募り、市が国に要望した結果、平成30(2018)年度に国の予算で市内全域の側溝堆積物が除去された。翌年度の春には側溝の泥上げも再開された。

 その後は震災前のように、燃やすごみ・燃やさないごみ・側溝土砂などに分けて、決まった場所に集めたものを市が回収するやり方で清掃デーを実施している。ただし、土のう袋の集積場所は1カ所に絞った。

 総ぐるみ運動を展開するには、まず実施日や集積場所などを記した計画書を市に提出しないといけない。

その時点で専用のごみ袋と土のう袋を受け取り、事前に集積所マップをコピーした独自の回覧も添えて、隣組ごとに袋を配って共通認識をはかる。そうしたうえで、当日早朝6時半から1時間ほど、住民が総出で清掃作業を繰り広げる。

そして当日、保健委員(わが区では人がいないので区長が兼務)として作業中と作業後の2回、区内を巡回する。1回目は参加人数を把握するため、2回目はごみ袋と土のう袋を数えるため。

区独自の回覧チラシは、おおむね前年、あるいは前例踏襲で作成する。高齢世帯が増え、さらには回覧そのものがよく読まれないのか、決まった通りにコトが運ばないケースが増えつつある。

土のう袋にも同じことが言える。年に2回続いていれば、だれかが集積場所を覚えている。これが何回か途切れたために、震災前と同様、土のう袋を燃やすごみと同じ場所に置いてしまう班が出てくるかもしれない。

 それで今回は車で区内を巡った。案の定、ごみ袋と一緒に土のう袋が1袋置かれているところがあった。これを車に積んで所定の場所に運ぶ。

 もう1カ所、土のう袋が集中している班があった。これは手に負えないので、実績報告書のなかでそこにも土のう袋があることを伝えた。

 参加人数はひところの半分近くに減った。やはり高齢社会を反映しているのだろう。それに合わせて、次回の回覧チラシは、文字を減らし、「見出し」で分かってもらえるようにしなければ――そんな反省が頭をよぎった。

2022年10月24日月曜日

夕暮れの運転

   錦町に住むカミサンのいとこが亡くなり、先日、勿来で葬儀が行われた。カミサンと義妹とともに、通夜に出かけた。

 震災後の平成27(2015)年8月、知り合いのフランス人写真家デルフィーヌが「じゃんがら念仏踊り」を見たいというので、故義父の生家へ案内したことがある。いとこの生家でもある。いとこが丁寧に応対してくれたのを、きのうのことのように思い出す。

前年の暮れに当主(いとこの兄)が亡くなった。月遅れ盆の入り(8月13日)に、「じゃんがら」の一行が来るというので、夕方、新盆回りを兼ねて、デルフィーヌと日本語のできるイギリス人女性、それにカミサンと私の4人で訪ねた。

「じゃんがら」を踊る青年会がやって来るまで、座敷で稲荷ずしを食べたり、麦茶を飲んだりしながらおしゃべりをした。

 その家を外国人が訪ねるのはたぶん初めてだ。「国際結婚推進論者」だったといういとこの祖父(つまりはカミサンの祖父)の話になった。祖父は「2人がこの家に来たことを喜んでるよ」と、いとこが2人に伝えた。

 デルフィーヌとは震災の翌年(2012年)5月、シャプラニールが平に開設した交流スペース「ぶらっと」で出会った。

彼女は津波や原発事故の被災・避難者を取材し、平成26(2014)年春、ベルリンで芥川賞作家多和田葉子さん(ドイツ在住)と「詩と写真展」を開いた。

 その後もいわき入りし、浜通りの写真取材を続けた。平成27年も7月に続いて8月初旬にいわき入りした。

 ということで、ここからはいとこの通夜の話だ。好間に住む義妹をピックアップしたあと、近くのいわき中央ICから常磐道を利用して、15分ほどで勿来ICに着いた。葬祭場はそのすぐ近くにある。

 4時をちょっと過ぎたばかりだった。空はまだ昼の光なので、高速道でも運転に支障はなかった。

 とはいえ、追い越し車線をビュンビュン車が過ぎていく。若いころは主にこの車線を走ったが、今回はほぼ走行車線を利用した。

 「トシ(年齢)を考えろ。ゆっくり走る車があってもイライラするな」。そんな戒めの声が胸の中で反響していた。

 高速道を利用するのは何年ぶりだろう。70代に入ってからは初めてかもしれない。帰りは暗くなる。一般の公道を利用することにした。

 葬祭場から南下すると、海の近くで国道6号(旧バイパス)に出る。勿来から泉、小名浜と北上するにつれて空が薄暗くなる。

 対向車両もライトをつけている=写真(助手席でカミサンが撮影)。好間へ延びる国道49号バイパスを折れ、義妹の家に着くころには夜のとばりが降りていた。

 夕方5時になると晩酌を始める。薄暮の運転はめったにしない。交通事故の心配がないのはいいのだが、家にこもっている分、夜の運転は疲れる。通夜からの帰りもそうだった。 

2022年10月23日日曜日

白い羽根のような雲

                               
 金曜日(10月21日)の午後3時10分過ぎ。「見てみて、羽根のような雲がある」。カミサンが家に飛び込んできた。

庭に出ると東の空にそれらしい雲がある。隣家の屋根に遮られているので、全部は見えない。2階の物干し場に出て空を仰いだ。

 ほんとうに白い羽根のような雲が空に浮かんでいた=写真上。上空では風が強いのか、白雲が弓なりになって細く伸び、羽軸から伸びる羽弁のように雲が細く裂けている。

 少し離れたところには人の手のような雲もある=写真下。今にも人間に憑(と)りつこうとしている邪鬼の指――。そんなイメージがわいたのは、一時、川内村に住んでいた画家斎藤隆の墨絵(といっても、雲だから白色だが)を思い出したからだ。

 茶の間に戻って、画像をパソコンに取り込む。と、ほどなく、庭の方からかすかな地鳴りが近づいてきた。時計を見ると、3時19分だ。

 来たな! 身構えた瞬間、ガタガタと家が揺れる。ん? 思ったより揺れは短い。すぐ通り過ぎていった。震度3か。体がそう“判定”する。

 いわき市北部(平)では平成23(2011)年のあの日以来、震度6弱を筆頭に、5強、5弱、それよりは弱い地震をたびたび経験してきた。

 揺れからくる体感震度と気象庁の震度が、この10年余の体験を通じてほぼ一致するようになった。せいぜい3か2かで判断が迷う程度だ。

 今度の震源はいわき市の北方、双葉郡沖だ。最大震度は楢葉町の5弱で、いわきはやはり3。3レベルだと、「揺れたね」で終わる。

 たまたまここ何日か、アイヌ語が語源の「縄文地名」を考察した本を読んでいる。なかに鹿児島県沖の「鬼界カルデラ」の話が出てくる。

およそ7300年前に大噴火を起こし、海上を火砕流と大津波が走った。九州南部の縄文文化がそれで消滅した。さらに、火山灰は東北地方にまで降り積もり、やがて弥生文化が生まれる契機になった――。世界的なレベルでも最大級の自然災害だったという。

東日本大震災はおよそ1100年前の貞観(じょうがん)地震以来の超巨大地震といわれた。『いわき市史』にもそれにまつわる史実が載る。

少なくともあの震災で、千年周期で起こる超巨大地震への認識が深まった。しかし万年周期では、鬼界カルデラの大噴火がある。

「災害列島」に住んでいる人間としては、千年だけでなく、万年単位へと思考の幅を広げないといけない、ということだろう。

しかも、いわきの北には壊れた原発がある。5弱は楢葉町だが、震源はその北東、1Fの真東だった。

浜通り北部は去年(2021年)2月13日、今年3月16日と震度6強に見舞われた。あのときより揺れは大きかった。ちょっと大きな地震のたびに1Fのことが気になる。

2022年10月22日土曜日

ハクチョウは来たようだが

                      
 10月中旬からは、小川町・三島地内と平・塩~中神谷地内の夏井川をじっくり見るようにしている。どちらもハクチョウの越冬地だ。

 三島地内では三島橋直下右岸で、塩~中神谷地内でも右岸で堆積土砂の撤去と強じん化工事が進められている=写真上(塩の対岸・北白土)。それで岸辺のヤナギの大木などが姿を消した。

 ハクチョウたちにとっては、たった半年で飛来地周辺の風景が激変したことになる。特に、ハクチョウが密集する塩の新川合流点から上流では工事に拍車がかかり、重機やダンプカーがひっきりなしに動き回っている。

 平赤井に住む知り合いが10月17日、自宅前に広がる田んぼの上空を飛ぶハクチョウの写真をフェイスブックにアップした。

 今年(2022年)はいきなり来たか――そんな思いになった。というのは、いわきへ来るまでには段階があるからだ。

福島市の阿武隈川か、会津の猪苗代湖に飛来する。それがニュースになる。例年だと、いわきに第一陣が現れるのは、ニュースから1週間ほどたってからだ。

そのニュースを聞かないうちに現れたのだ。とはいえ、こちらがニュースを見逃したのかもしれない。念のために検索すると、10月9日、第一陣が猪苗代湖に来ていた。それから8日後だ。

まずは一番古い越冬地、平・平窪の夏井川に着水する。赤井地区は平窪の右岸にある。いわき=平窪への飛来は、毎年、知り合いのフェイスブックで知る。

平窪に来たら、すぐ下流の塩に現れてもいいのだが、いや飛来したかもしれないのだが、右岸の至る所で重機が動いている。ハクチョウの身になれば羽を休めるどころではない。

きのう(10月21日)朝、カミサンをかかりつけの医院へ送った帰り、夏井川の堤防に出た。平窪に来たなら塩にいてもいいはずなのに、岸辺にはハクチョウの姿はなかった。

代わりに、2羽のハクチョウが神谷の上空を西北へ向かって飛んでいるのが見えた。平窪から塩を経由せずに、ストレートに四倉方面の刈田へ向かったのだろう。

去年、翼をけがして残留したコハクチョウの「エレン」は、今は行方が知れない。えづけをしてきた小川町のSさんによると、5月27日の大水でざっと2.5キロ下流のナシ選果場付近まで流された。

一度、下小川の夏井川までエレンに会いに行ったが、その後は消息が絶えた。野犬かなにかに襲われたのではないか、とSさんはいう。

それともう1羽。左の翼をけがして残留したコハクチョウが、たまたま下小川にいた。Sさんはこちらのハクチョウにも2日に1回、玄米をえさとしてやっている、ということだった。

浅瀬でえさをやりながら、「白鳥の湖」をくちずさんでやると、目を細めるようにして聞いている。たびたび対面していれば、ちょっとしたしぐさや表情の変化がわかるようになるのだろう。

そのハクチョウはまだ見たことがない。が、あした(10月23日)は夏井川渓谷の隠居へ行く。途中、三島でハクチョウの有無を確かめる。


(追記:きょう22日午後3時前、街からの帰り、夏井川の堤防を通ると、中神谷の「川中島」に2羽のハクチョウが羽を休めていた。去年も同じところで同じ日に2羽が初飛来した。同じ個体だろうか)

2022年10月21日金曜日

震災詠の話

                     
 若い仲間がフラッとやってきた。宮城県名取市の市史編纂(さん)にかかわるようになったという。

 名取市ですぐ思い出すのは、東日本大震災が起きた直後、NHKが生中継した「平野を襲う大津波」の映像だ。

 平成23(2021)年度の新聞協会賞を受賞した際、ヘリから空撮したカメラマンが当時を振り返って、雑誌『新聞研究』の同年10月号に次のような文章を寄せた。(大筋は拙ブログから)

「その日、私はヘリ取材の当番として、福島放送局から仙台空港に出張し、ヘリポートに待機していた」

仙台市上空から仙台港へ出たあと、リアス式海岸をめざしたヘリは雪雲に行く手を阻まれて南下する。と、名取川の流れを遮るように一筋の白波が河口からさかのぼっていくのが見えた。

「田園をのみ込みながら、巨大な生き物のようにザーと平野を走る大津波。先端がどす黒くなった大津波は住宅や車、農業用ハウスなどに襲いかかり、あっという間に巻き込んでいく」

このあと、テレビカメラマンらしい自制がはたらく。「生中継になっていることを思い出し、アップになりすぎてはいけないと、映像をワイドにすると、土煙が上がり、黒く染まった海岸線そのものが平野を飲みこんでいた」――。

 名取市史では当然、東日本大震災も需要なテーマになるだろう。若い仲間とけんちん汁(豚汁)=写真=をつつき、焼酎をなめながら、震災を詠んだ市民の俳句と短歌の違いについて議論した。

 市民は災禍をどう受け止めたのか。朝日歌壇に被災者自身の作品が登場するのは4月に入ってからだった。

それからさらに1カ月後の5月16日、いわき市在住読者の俳句「被災地に花人のなき愁いかな」(斎藤ミヨ子)と、短歌「ペットボトルの残り少なき水をもて位牌(いはい)洗ひぬ瓦礫(がれき)の中に」(吉野紀子)が載った。

 吉野さんはカミサンの高校の同級生だ。カミサンが吉野さんから聴いた話が胸底に残っている。

吉野さんは俳句を詠む。が、震災直後はなぜか「ペットボトルの……」の短歌が生まれた。それを「朝日歌壇」に投稿すると、複数の選者が選んだ。年間の優秀作品に贈られる「歌壇賞」にも選ばれた。

 自分自身の体験ではなく、大津波で壊滅的な被害を受けた豊間方面へ出かけたときの実景を詠んだそうだ。

3・11の巨大地震は東北地方の沿岸部に甚大な被害をもたらした。その惨状は五七五では詠みきれない、プラス七七が必要だったのだろうと私は感じた。

 吉野さんの作品を例に、若い仲間と俳句と短歌の違いを話した翌日、今度は別の知り合いから吉野さんの連絡先を教えてほしい、という電話が入った。

自分で編んだいわきゆかりの歌とコメント(つまりは「折々の歌」のようなもの)を本にしたい、ついては吉野さんから了解を取りたいという。作品はもちろん、「ペットボトルの……」だ。

吉野さんは、今は東京に住む。カミサンが電話をかけると了解した。あとは知り合いが連絡することで手続きがすむ。

2022年10月20日木曜日

牧野富太郎と浜通り

                     
   来年(2023年)の春にスタートする朝ドラ「らんまん」は、「日本の植物学の父」牧野富太郎(1862~1957年)がモデルだという。

富太郎は明治23(1890)年8月、植物採集のために親友の池野成一朗博士と福島県浜通り地方を訪れている。常磐線が開通する前だ。

今の北茨城市から勿来の関を越え、北上を続けて宮城県に入り、さらに岩手県一関市にまで足を運んだ

先の土曜日(10月15日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の第370回市民講座兼第30回阿武隈山地研究発表会が開かれた=写真。講師は同学會顧問の湯澤陽一さん。「牧野富太郎と福島県での足跡」と題して話した。

湯澤さんは元高校教師で、長年にわたるコケの研究で博士号を取得した。私よりはちょっと年配だが、現役のころは歴史研究家の故佐藤孝徳さんとともに、ときどき平の田町で酒をくみかわした。

市民が参加する日曜日の「山学校」では講師役を引き受けた。おかげで、たびたび阿武隈の山野を巡り、実地に植物を観察することができた。

次回の朝ドラのモデルが牧野富太郎だということで、悠々自適の身ながら講師を買って出てくれた。

湯澤さんが講師を務めるのは何年ぶりだろう。私が代表幹事になってからだと、平成24(2012)年秋に、やはり「牧野富太郎博士の阿武隈山地研究」というテーマで話をしている。

顔を合わせるのは、たぶんそれ以来だ。およそ10年ぶりとはいっても、会えば飲んで話したときのことが昨日のことのようによみがえる。

今の体調の話になった。「腹の脂肪は減らないのに、足の筋肉はすぐ減る」。ユーモアは健在だ。

前半は富太郎の生涯、業績、東大教授との確執、盟友池野成一朗などを紹介し、後半で浜通りでの足跡をたどった。

明治23年8月13日。池野と北茨城市からいわき市に入り、常磐湯本温泉の山形屋に泊まる。採集した標本ラベルの産地に勿来や添野、湯本がある。

翌14日は双葉郡広野町に着いた。標本ラベルから、この日は折木温泉に泊まったのではないか、と湯澤さん。

15日は双葉郡浪江町の「百合屋」に泊まった。が、浪江には百合屋という旅館はない。「百足屋」の誤記ではないか、という。

16日の宿は不明だが、17日は「湯元」に泊まった。いわき市の湯本温泉まで戻ることは考えられない。湯澤さんが相馬市史編纂室に問い合わせたところ、同市の「蒲庭温泉」ではないかということだった。

交通機関の発達していないところは馬車を利用した、という。つまりは、自分のアシが頼りのフィールドワーカーだ。その情熱にはほとほと恐れ入る。やはり「大奇人」には違いない。

2022年10月19日水曜日

「当て逃げ」が解決

        
 地域新聞社(いわき民報社)に入って少したってから、「警察回り」になった。いわき市は広い。いわき中央、東、南の3警察署がある。本社管内の中央署を担当した。

 同署は昭和45(1970)年4月、平・内郷・常磐3署が統合して発足した。新庁舎は内郷の新川べりにできた。

 まずは朝、次長に会って事件・事故の有無を確かめる。夕方も同じように訪ねる。交通関係は1階、刑事関係は2階。2階は敷居が高かった。せいぜい刑事官室を訪ねてあいさつするくらいで終わった。

 「交通戦争」という言葉が飛び交うほど交通事故が多発し、死傷者が増えていた。たまたま警察署にいて、交通事故の一報が入ると、顔見知りになった警官から声がかかることがあった。それでときどき現場まで出向いた。

 追突事故を起こした大型トラックの運転手が、積み荷に押しつぶされた座席とハンドルにはさまれて息絶えているのを見たことがある。今も脳裏にその姿がよみがえる。

 警察回りのあと、市役所担当になった。中央署へは運転免許の更新で行くくらいになった。

 交通事故を取材していたころは、過失の度合に応じて第一当事者、第二当事者と呼んでいたが、今もそれは変わらないだろうと思う。

 「当て逃げ」はしかし、加害者・被害者と呼ぶしかない。というのは、夏に「当て逃げ」事故に遭い、被害のすごさに呆然としたからだ。

加害者が判明し、被害者からも供述書をとるというので、先日、中央署へ出かけた。署内の奥へ入るのは半世紀ぶりだが、狭い部屋で警官と対面するのは初めてだ。ちょっと重苦しい気分になった。

 事故の顛末はこうだ。7月初めに夏井川渓谷の隠居と道路を仕切る柵(囲い塀)が壊された=写真。近所の住人から電話があって、様子を確認したあと、警察に通報した。

 されからざっと3週間後、加害者から電話がかかってきた。「警察が来てびっくりした。山側からイノシシが飛び出してきたので、左にハンドルを切ったら柵にぶつかった。すぐ家を訪ねたが、空き家だったのでそのままにしてしまった。すみませんでした」

警察と保険会社からも連絡がきた。「工事見積書が欲しい」。前に柵の工事をした大工氏に見積もってもらい、保険会社に見積書を送った。するとほどなく、大工氏に連絡がゆき、両者の間で工事の話がまとまった。

修復には丸太やバンセンが必要になる。このところ諸物価が高騰している。発注が遅れるとさらに資材が値上がりする。資材を早めに確保する必要があったようだ。

警察からは「いずれ供述書をとるようになる、そのとき見積書を持ってきてほしい」ということだった。

それも終わって、あとは工事を待つだけ、というところまできた。その工事がきょう(10月19日)始まった。

2022年10月18日火曜日

大根の葉がボロボロに

                      
 夏井川渓谷の隠居の庭は、前は畑だった。故義父が業者に頼んで土盛りをし、石垣を築いて上下二段の庭にした。その後、街にあった家を譲り受け、解体・移転して風呂場を増設した。

 私が週末、隠居を利用するようになってから、上の庭の一角を菜園にした。少量多品種を念頭に、いろんな野菜をつくった。

今は昔野菜の「三春ネギ」だけを栽培している。キュウリと唐辛子も、ポット苗を買ってつくっているが、今年(2022年)は休んだ。

雨が多い年は、ネギの生育が芳しくない。根腐れをおこすものもある。それで、以前は月遅れ盆のころ、掘り起こして溝を斜めに切って植え直す「やとい」(伏せ込み)という作業をした。

曲がりネギにする。理由は二つ。一つは地中の湿気の影響を少なくするため。もう一つはネギにストレスを与えて甘みを増すため。

田村郡小野町や三春町、田村市では、長ネギのほかに曲がりネギをつくる。が、渓谷の小集落では、三春ネギでも普通の長ネギとして栽培している。

日曜日(10月16日)は、朝は曇りだったが、次第に青空が広がった。ネギに追肥をして土を寄せ、フィールドカートに座って根元をととのえると、あのキノコの卵はどうしたろう――そんなことが頭に浮かんだ。

1週間前の日曜日、後輩が庭の草を刈ってくれた。そのとき、下の庭に野球ボール大の白い球状の幼菌が2個あった。

1個は白い外皮がむけて半透明ゼリー状の中身が露出していた。それを二つに割ると、暗緑色に包まれた白い柱のようなものが中に収まっている。スッポンタケらしい。暗緑色は傘になり、白い柱は柄になるのだろう。

このときは断面の写真を撮るのを忘れた。で、今度はカメラを首にかけ、ネギうねからねじり鎌を持ったまま移動し、外皮をかぶった幼菌を割ってみた。

すると、前の幼菌よりは内部の白い柱がずんぐりしている=写真上1。スッポンタケの仲間にはちがいないが、キヌガサタケであってもおかしくない。1週間前よりさらに不思議な感覚が強まった。

上の庭に戻って、辛み大根を見ると、葉がボロボロになっている。アオムシ(モンシロチョウ)=写真上2=が至る所にいた。葉裏には別の幼虫、ハスモンヨトウらしいものがとりついている。

放置すれば、葉がなくなってしまう。ここはフィールドカートに座ってじっくり虫退治をしないといけない。結果的にアオムシを30匹ほど、ハスモンヨトウを7匹ほどブチッとやった。

土いじりは際限がない。ネギの追肥と土寄せをしているうちに、スッポンタケのことが思い浮かび、さらに辛み大根を見ると葉がボロボロになっている。その場、その場で「仕事」が見つかる。それをしないと手遅れになるものがある。

2022年10月17日月曜日

夕焼けと「もってのほか」

                       

 晩酌から就眠までの時間が早くなった。6時近くなって始めた晩酌が、今は5時になると自分で飲む準備を始める。10時過ぎの就眠が9時、ときにはその前になる。当然、目が覚めるのも早い。

 このごろは朝4時前後に起きてブログをアップしたあと、また床に就く。再起床するのは6時過ぎ。

秋分の日から3週間余りたつ。4時といってもまだ夜の続きだ。そのまま起きて何かするには暗すぎる。

 二度寝してうっすら明るくなったころに起きる。意外や意外、それで午前中はわりとすっきりしている。睡眠の質はともかく、量はたぶんカバーできているのかもしれない。

子どものときと、老いを迎えた今と、同じ早寝早起きでも夜明けと日暮れの違いがある。その日暮れと晩酌だが――。

10代後半でいわきから東京へ飛び出し、新聞販売店に住み込んだ。夕刊を配りながら、何度も圧倒されるような夕焼けを目撃した。

 やがてJターンして新聞記者になった。結婚して子どもができると、日曜日にはよく子どもたちを連れて近くの田んぼ道を散歩した。西空が焼けるように赤くなるときがある。「トーチャン、空が大火事だ」。こんな日の夕焼けも記憶に残った。

 年金生活者になった今は、もう夕焼けの時間には晩酌を始めている。夕空の美しさを見ることが少なくなった。

 で、ときどきカミサンが叫ぶ。「見てみて、すごい夕焼け」。土曜日(10月15日)も「雲が銀色になっている」と、茶の間に声をかけてきた。

 銀色? 道路に出ると、すでに西の空が燃え出している。上空はまだ青い。その下でひつじ雲が白く展開し、さらにその下にある雲が灰色になっている=写真上1。

これが、カミサンのいう銀色か。灰色に見えるのはたぶん、夕日を浴びた雲の裏側、つまり影の色ではないだろうか。

 夕焼け・朝焼けを見ると、自然がつくりだす荘厳さにいつも心が打たれる。人間が求める美の根源がここにある、そんな気持ちが膨らむ。

 アートは自然を模写することから始まる――若いときからこんな思いにとらわれているのは、夕焼けに圧倒されてきたためらしい。

 同時に、若いときには夕焼けがすごければすごいほど、わが身はあしたどうなるのか、という不安に支配されたものだった。

土曜日は、いいタイミングでカミサンに電話がかかってきた。食用菊の「もってのほか」があるという。

 「もってのほか」は大好物だ。少し離れたところに住むカミサンの知り合いの家までアッシー君を務める。夕日が沈むころには「もってのほか」の酢の物=写真上2=をさかなに晩酌を始めた。

 世界が焼き尽くされないように、日暮れが世界の終わりにならないように……。夕焼けからの連想ではないが、今、この瞬間、そんなことを祈るように思っている人間がたくさんいそうな気がした。

2022年10月16日日曜日

赤い羽根募金

  
   10月になって最初の朝、テレビをつけるとアナウンサーの胸の襟に赤い羽根が差してある。ニュースに登場する首相や官房長官も赤い羽根を付けていた。

「ええっ! 回覧資料が届いてないぞ」。最悪のケースが頭をよぎる。わが行政区だけそうなのか。

あるいは、届いたのにカミサンがどこかへ片づけてしまったか。いや、そんなことはあるはずがない。

念のために居間や店、帳場などを見て回る。それらしい宅配物は、しかしどこにもなかった。いよいよ不安が募る。

こうなったら、役所に確認しなくては――。といっても、1日は土曜日だ。じりじりしながら月曜日まで待って、朝一番で役所に電話した。

「10日付になります」。ひとまず安心すると同時に、釈然としない思いがわいた。共同募金会の都合で遅れているのかよ――。

赤い羽根と歳末たすけあいの共同募金は、街角で行われるわけではない。あれは、いうならば事業PRのイベントだ。

 実際には、隣組を通じて協力を仰ぐ。これまでだと、9月後半には回覧網を通じて協力のお願いをし、10月後半には善意を集約するという流れでやってきた。

そのための回覧チラシや芳名簿、領収書、そして赤い羽根が共同募金会から行政区長(あるいは行政嘱託員)のもとに届く。

届いたあとがまたひと手間も、ふた手間もかかる。区長は所定の封筒と芳名簿に区名のゴム印を押し、班(隣組)の番号を書き込む。領収書にも同じように区名と区長名のゴム印を押し、班の番号を書き加える。 

それから隣組の世帯数ごとに赤い羽根をそろえ、同募金会の資料とは別に、区独自の回覧資料をつくって添付する。そうしないと、班長さんによっては締め切りが遅れる場合があるからだ。

 回覧資料は毎月1、10、20日に配る。10月1日に赤い羽根を胸に付けるためには、協力文書一式を遅くとも9月20日に配らないといけない。

 ところが、去年(2021年)は配布が10月1日になり、今年はさらに同10日にずれ込んだ。

 封入作業はカミサンに協力してもらう。赤い羽根の振り分けがけっこう疲れるらしい。「誰も付けてないのに、いつまで羽根を配るんだろうね」

 カミサンの頭の中には、羽根ではなく、シールの赤い羽根のイメージが刻印されている。令和元(2019)年がそうだった。「赤い羽根に使用する原材料(羽根)の確保が困難な状況」になったため、ステッカー(シール)に切り替わった。

シールだと針で指をチクッとやることもない。作業も早くすむ。政治家とテレビのアナウンサー以外はめったに見なくなった赤い羽根だ。そろそろシールにしてもいいのでは――なんて考えるのは私だけだろうか。

2022年10月15日土曜日

山椒の赤い果皮

        
 だいぶ前のことだが、友人から電話がかかってきた。裏山に山椒(さんしょう)の木があって、赤い実をいっぱい付けている、どうしたものかという。摘んで乾燥させ、果皮だけをすりつぶすと、いい「粉山椒」になる。そのとおりにしたらしい。

 30~40代のころ、山菜・キノコ採りに熱中した。採ったらあとはカミサンに――というわけにはいかない。

 野菜はともかく、食べたこともない山菜やキノコはどう調理したものか、初めての人間には見当もつかない。

春のコゴミ(クサソテツ)は簡単だ。ごみを取り除いてゆでるだけ。あとはマヨネーズで和(あ)えればいい。

しかし、夏のタマゴタケは、そうはいかない。真っ赤な傘と黄色い柄から毒キノコを連想する人が多い。で、これも最初は私が下ごしらえをして、調理をした。すまし汁をつくる。アルミホイルで蒸し焼きにする。

 タマゴタケのうまさを知ってからは、採って来てカミサンに渡せば、すぐ調理してくれるようになった。

 山椒は春の木の芽・若葉、未熟な夏の青い実、熟した秋の赤い果皮を利用できる。それだけではない、幹は擂り粉木になる。

 里山から山椒の木の芽を採ったり、夏井川渓谷の隠居に自生する若木から青い未熟果や赤く熟した実を摘んだりすることが何年か続いた。

若葉は和えもの・吸い口・彩り、あるいは山椒味噌にする。青い実は佃煮・塩漬け(青山椒・実山椒)、赤い果皮はすりつぶして粉山椒にする。いずれも独特の香りと、舌を刺激する辛みを楽しむ。

隠居の庭の若木が枯れたこともあって、震災後は山椒の採取・調理を忘れていたが、友人の電話が頭に残響していた。

たまたま先の日曜日(10月9日)、カミサンが自分の実家で片付けものをした。午後、渓谷の隠居から実家へ迎えに行くと、庭で草むしりをしていた。

庭といっても林のような広さだ。わきに蔵があって、庭との間に車が出入りできるスペースが伸びる。その境で山椒の若木が赤い実をいっぱい付けている――カミサンからいわれて、がぜん、粉山椒をつくってみようという気になった。

赤い果皮は、量的にはそうあるわけではない。これをとりあえず干す=写真。枝と中の黒い種は取り除く。乾いたら果皮をすり鉢に入れて、擂り粉木ですりつぶす。

同じようにして30代のころ、自分で栽培した唐辛子をベースに「マイ七味」をつくったことがある。

粉山椒は自家製。陳皮(ミカンの皮)はむいた皮を干して粉に。荏胡麻(えごま)は直売所から。青海苔や麻の実は、これはスーパーなどから買うしかない。

七味といっても、必ず7種類が必要だというわけではない。わが家の食卓で香りと辛みを楽しむだけだから、五味でも六味でもいい。

こう物価が上がっては、自分で使えるカネは目減りする。それを補う意味でも、自分でつくる、自分で調達する、そんな生活術が大事になってくるのではないか。どうも、高度経済成長期前の日本の里の暮らしが思い出されてならない。