2020年10月31日土曜日

冬は川も凍った

                    
   11年前の2009年2月12日に、こんなことをブログに書いていた(文章を一部修正、年数も現時点からのものに直した)。

――いわき総合図書館内の「愚庵文庫」に草野悟郎さんのエッセー集『百合』がある。新書版で、昭和37(1962)年2月に発行された(非売品)。通称「ゴロー先生」。詩人草野心平のいとこで、当時、平二中の校長を務めていた。生徒会誌や新聞などに発表した文章が収録されている。

なかに<早春幻想>と題された、生徒向けの文章がある。書き出しはこうだ。「今朝も夏井川に氷が流れる。この冬三度目のことである。夏井川に氷の流れる朝は、格別寒さがきびしいのだと人々は云う。たしかに寒い。しかし二月もなかばとなれば、さすがに陽の光がちがう。明るさがちがう。はっきりと目には見えないが、春はもう近くに忍び寄っている」

自然は争わない、調和を保って移っていく。ところが、人間はあせっている、いらいらしている。どんな人間にも花は咲く。生徒諸君、木々や草々の誠実と賢明を学ぼう、というのが文章の趣旨だが、ここでは夏井川の氷に絞る。

ざっと60年前の冬、夏井川には上流から氷の流れてくることがあった。東北で一番早く春が来るところとはいえ、冬はいちだんと厳しい寒気に包まれる、そんな日々もあったのだ。

今はどうか。川の流氷を見るなんてことはまず考えられない。この40年の間でも、夏井川の岸辺が白く凍りつくような厳冬は、2回、いや3回くらいではなかったか。「ゴロー先生」と同じく、平二中学区内の夏井川を毎日見て暮らしている者には、半世紀前の流氷は夢まぼろしに等しい――。

話は現代に戻って、10月24日付のいわき民報最終面。関内幸介さんの「長橋だより」(その二十)=写真=の最後のくだりに、目がくぎ付けになった。

夏井川渓谷の真冬の光景である。「林道が霜柱で蓋(おお)われると、山の中は静かになります。冬、滝水は氷柱(つらら)に変わり、夏井川は凍結して厚い氷の上を歩いて渡れました。日陰の雪は春まで溶けませんでした」。やはり、昭和20~30年代の思い出だろう。

関内さんの父親は渓谷にある水力発電所に勤めていた。発電所は日立電力が経営し、敗戦後、東北電力に移管された。関内さんは子どものころ、発電所の社宅に住んでいたらしい。「当時、発電、送電、工務、雑役まで含めると、30人近い人々が生活していました。その空間は当時いわきのどこにもなかった別世界でした」

 子どもたちは周囲の山でキノコを採ったり、山奥の水晶鉱山跡へ行って水晶を掘ったりした。山や尾根、谷、大きな石には名前が付いていた。尾根の松林にはマツタケが輪状に発生した。そして、冬になると滝も川面も凍って、流水の音が途絶えて静かになる……。

 私のなかで、ゴロー先生の語る川の流氷と関内さんがつづる渓谷の川の凍結がつながった。中通り南部の久慈川では、川面に浮いて流れるシャーベット状の氷を「シガ」と呼ぶ。冬の風物詩だという。

それと同じ現象が夏井川でも起きていたのだ。少なくとも昭和30年代まで、極寒期になると渓谷の流れは凍り、春先には「シガ」が下流の街まで流れて来た。ゴロー先生は学校への行き帰り、夏井川に架かる橋からこの「シガ」を目撃したのだ。

 そのころ、私は阿武隈の山里の小学生だった。冬、町の銭湯へ行った帰り、ぬれた手ぬぐいをグルグルまわしていると、すぐパリパリに凍って板のようになった。

それから60年。夏井川渓谷の滝も、川も全面凍結をすることはなくなった。常時、流水の音がしている。昨冬はついに車のタイヤもノーマルのままだった。地球温暖化は地域温暖化として顕在化し、コロナ問題と同時に、温暖化にブレーキをかけるための「新しい生活」が必要になった。

2020年10月30日金曜日

またまたお福分け

                    
 ある晩の食卓――。自然の恵みと、ご近所から届いた季節の食べ物が舌を喜ばせる

わが家の道路向かいの奥に故義叔父の家がある。30年近く前、埼玉県から引っ越してきて、家を建てた。義弟が新築を祝って、家の北側に甘柿の苗木を植えた。今は隔年で実が生(な)る。

先日、剪定(せんてい)ばさみを伸ばして届く範囲で柿の実を収穫した=写真上1。まだいっぱい残っている。が、木登りして落ちたらコトだから、あとはヒヨドリやムクドリたちにプレゼントする。

正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は10月26日に詠まれたそうだ。それで、全国果樹研究連合会カキ部会がその日を「柿の日」に制定した。今年(2020年)はその前日から柿を食べている。まだ甘みは足りない。が、渋みはほとんど消えた。晩酌に合わせて食べると二日酔いにならないというから、この時期は酒のつまみに欠かせない。

東日本大震災と原発事故のあと、近所の公民館で放射能の簡易検査ができるようになった。2年前、非破壊検査が可能だというので、甘柿を調べてもらった。結果は「検出下限値未満(キロ当たり20ベクレル未満)だった。安心してお福分けもできる。

日曜日(10月25日)、全面除染された夏井川渓谷の隠居の庭から、またアカモミタケを採った。前に採ったとき、知り合いの女性にお福分けをした。吸い物にしたらおいしかったという。ではと、豆腐と隠居のナスの未熟果を刻んで吸い物にした=写真上2。キノコ自身からいいダシが出ていた。

そこへご近所から、お福分けの冬瓜(とうがん)と豚バラ、油揚げなどの煮物が届いた=写真上3。冬瓜は味がしみてとろけるようだった。甘柿、冬瓜、アカモミタケ。大地と知人からのいただき物だけで晩酌のおかずがそろった。

そうそう、何日か前には後輩が落花生の「おおまさり」を持ってきた。すぐ殻ごとゆでた=写真上4。ホクホクしてやわらかかった。

アカモミタケを進呈した女性は隣の行政区に住む。きのう(10月29日)、その女性から、白菜1玉、ハヤトウリ4個、サツマイモ少々をもらった。娘さんが車で届けてくれた。白菜は八つ割りにして干してから漬ける。この秋初めての冬仕事になる。

こうして、お福分けは友情を、コミュニティのきずなを深める。個人の食生活を彩り豊かなものにする。

2020年10月29日木曜日

天山文庫の話になって……

                    
 4年前、海の見える久之浜の民家で、川内村の土志工房、志賀敏広・志津さん夫妻が「額の中の小さな宇宙」展と題する展覧会を開いた。

広い庭から太平洋と津波で一変した久之浜の町、阿武隈の山並みが一望できる。庭には敏広さんが作った木のテーブル。青空の下で海を眺め、コーヒーを飲みながら夫妻と歓談した=写真。敏広さんは今年(2020年)2月下旬に亡くなった。彼との語らいは、たぶん4年前のこの久之浜が最後になった。

 敏広さんと私は同年齢だ。川内に移住した陶芸家夫妻がいるという話を聞いて、現田村市常葉町の実家へ行った帰りに立ち寄った。以来四半世紀余り、ゆるゆると付き合いが続いた。生まれたときから知っている娘さんが一人。大学をやめて村に戻り、両親と同じ陶芸の道に入った。

なぜ、久之浜の展覧会のことを思い出したかというと、初めて川内村を訪ねたいわきの若い仲間から、フェイスブック経由でこんなメッセージが入ったからだ。係の人が天山文庫を丁寧に説明してくれた、質問にもよどみなく、納得のいく答えがかえってきた、感動した――。

 県道小野富岡線沿いの小高い丘のふところに、かやぶき屋根の天山文庫が立つ。そのふもと近くには阿武隈民芸館を模様替えした草野心平資料館がある。村はこの二つを「かわうち草野心平記念館」として一括管理している。娘さんは今、陶芸の修業をしながら記念館の管理人をしている。

てっきり彼女が案内したのだろうと思って、若い仲間に返信した。「係の人は20代の女性ではなかったか、友人の娘さんだよ」。すると、「60~70歳くらいの女性でした」。うーん、おかしい。川内で心平についてよどみなく答え、語れる女性といったら、管理人をしている娘さん以外、思い浮かばない。

昔、発足したばかりのいわき地域学會が、『川内村史』の編纂(へんさん)を引き受けたときのこと。江戸時代末期の「俳諧ネットワーク」(村に佐久間喜鳥という俳人がいた。稀代の収集・記録魔で、俳諧資料がたくさん残っていた)と、「心平と川内」のつながりを担当した。その過程で心平の女性秘書にインタビューをし、川内にもたびたび足を運んだ。

心平が天山文庫を夏の別荘に利用していたころの様子は、なんといっても秘書の女性が一番詳しい。その人が幽霊のように現れて説明したのではないか。体型はこう、年齢はこうと、今度はスマホでやりとりしたが、やはり話がかみ合わない。当の本人(管理人)に尋ねたら、その日は所用があって母親(志津さん)が代わりを務めたそうだ。ここでようやく納得!

 志津さんは村の教育委員を務めたこともある。若い仲間によると、外国人も記念館に来ており、一緒に同文庫を訪ねた。英語で対応していたそうだ。

疑問が解けてからは、若い仲間に陶芸家夫妻のこと、娘さんのこと、久之浜での展覧会のことなどを伝える。川内にこういう人たちがいる、それを頭に入れておけば、いつか、なにかでつながるかもしれない、とも。

4年前の久之浜での展覧会は、敏広さんの故郷である浪江町の人たちとの“共同展”という意味合いが濃かった。

 浪江町は原発事故で全町避難を余儀なくされた。敏広さんが昵懇(じっこん)にしていた先生や知り合いもばらばらに避難した。「この5年間を振り返る旅のような展示会をしたい」。そのために敏広さんはそれぞれの避難先を訪ね回ったという。今も同町は帰還困難区域が大半を占める。

 作品展示協力者のなかに知り合いが2人いた。1人は川内村の元教育長氏(村職員時代、『川内村史』の担当者だった)、もう1人は平の飲み屋で一緒だった故谷平芳樹さん(アドプラン取締役・いわき短大講師だった)。敏広さんは心の復興=つながりにこそ力を入れていたのだと、今、あらためて思う。

2020年10月28日水曜日

ジョロウグモがあちこちに

         
 10月末の今はめっきり減ったが、ちょっと前まで、神谷(平)のわが家の庭では、あちこちにジョロウグモが網を張っていた。

生け垣の切れ目、勝手口に牛乳箱がある。私が外から牛乳を取りに行くと、網がベタッと顔に張り付く。それを払ったら、二度とその高さに網を張らなくなった。もっと高くするか、場所を替えるかするくらいの知恵は、ジョロウグモにもあるらしい。ただし、次の年にはまた同じことが繰り返される。

 夏井川渓谷(小川)の隠居の庭木には、まだ至る所にジョロウグモが網を張っている。渓谷は虫の王国だ。隠居で土いじりをしている、その瞬間に虫が網にかかり、ジョロウグモの餌食(えじき)になる=写真(小さいクモは雄)。網の糸は黄色くて強い。虫たちは一度引っかかると、脱出は不可能だろう。

 7月中旬、隠居の庭でコガネグモを見た。腹部に黒と黄色の横縞(よこじま)があるのでわかった。その後はしかし、ジョロウグモ一色だ。ジョロウグモと同じように大きくなるナガコガネグモも以前は見かけたが、今年(2020年)はわが家の庭にも、隠居の庭にもいない。網の中央につくられる白い隠れ帯、これが目に入ればすぐわかるのだが……。

若いころ、クモに詳しいカメラマンと平の街の里山(石森山)に入って、花やキノコ、鳥や虫たちを観察した。それで、遅まきながらクモは昆虫ではないことを知った。昆虫は頭・胸・腹の三つがあって脚は6本だが、クモは頭と腹の二つで脚が8本だ。目も昆虫は複眼だが、クモは単眼で最大8個ある。とはいえ、大きくは「虫」のなかに入れても間違いではないだろう。しかも、蚊などを食べる「益虫」だ。

以来、部屋の中にクモが現れても、追っ払ったり、ハエたたきでつぶしたりはしない。通り道に張った網が邪魔なときだけ払う。草の葉の上を動き回るネコハエトリなどは、ときにピョンとはねたりしてあいきょうがある。すっかりハエトリグモのファンになった。

 阿修羅像はクモをモデルにした、という話をネットで拾った。真贋(しんがん)はともかく、阿修羅とクモを結びつける想像力にうなった。で、興福寺(奈良)の国宝・阿修羅像をネットで眺めた。なるほど、「三面六臂(ぴ)」だ。顔は3面だから目は6個、手足は手6本プラス足2本で8本。クモの構造的な特徴を備えている。

この阿修羅像を見ると、決まって思い出す顔がある。大相撲の2001年夏場所14日目。貴乃花は武双山と戦って敗れ、右ひざを痛める。翌日の千秋楽。本割で武蔵丸に敗れる。そのあとの、13勝2敗同士の優勝決定戦。武蔵丸を破った貴乃花の、鬼のような形相が忘れられない。あのとき、貴乃花は阿修羅となって闘っていたのだ。

貴乃花はその後、7場所連続休場したあと出場したが、やはりひざがおもわしくなく、すぐ引退した。力士生命をかけて大一番に臨んだという覚悟のあかしが、あの表情だったのだ。テレビ桟敷(さじき)にもそのことが伝わってきた。あっぱれな散り際だった。

 横道にそれた。庭のナガコガネグモはいったいどこへ消えたのか? ネットで検索しても参考になるような情報は得られない。

2020年10月27日火曜日

「長崎の鐘」

                                   
   ブログで「昭和13年の仕入帳」を書くために、図書館から『島崎藤村全集1』(筑摩書房、1981年)と、池井優『藤山一郎とその時代』(新潮社、1997年)=写真、古賀政男の自伝『我が心の歌』(展望社、1965年)を借りて読んだ。

仕入帳の余白に義母が歌謡曲「青い背広で」の詞の一節を書き留めていた。この歌が生まれた背景、時代を知りたかった。

 昭和5(1930)年、コロンビアから高橋掬太郎・詞/古賀政男・曲/藤山一郎・歌で「酒は涙か溜息か」のレコードが発売される。100万枚を超えるミリオンセラーになった。「丘を越えて」も古賀・藤山コンビでレコード化され、大ヒットした。藤山は当時まだ音楽学校生で、覆面歌手として「藤山一郎」を名乗っていた。やがて学校の知るところとなり、停学処分を受ける。

 その後、古賀はテイチクに移籍し、藤山も卒業と同時にビクターの専属歌手になる。3年の契約が切れると、古賀の引きでテイチクに入社し、古賀とのコンビで出した「東京ラプソディー」がまたまた大ヒットする。

その延長で制作されたのが、佐藤惣之助・詞の「青い背広で」だった。「ある日、藤山が新調のグリーンの背広を着て出社すると、詩人の佐藤惣之助が目をつける。『おや、ピンちゃん、いい服着てるな。よし、そのセンスでやってみよう』」(『藤山一郎とその時代』)。「ピンちゃん」は「一郎」からきたあだ名。青い背広は、ほんとうは緑の背広だったことがわかる。

放送中の朝ドラ「エール」では、藤山一郎は「山藤太郎」で出てくる。戦後の昭和24(1949)年、主人公の古山裕一(モデルは古関裕而)と山藤が再会し、コンビで「長崎の鐘」を世に送る。戦時下もそうだった、平和の世にも、希望を持って頑張る人にエールを送ってほしい――。先週(10月19~23日)は、「長崎の鐘」が誕生するまでを描き、いよいよ大団円が近いことを感じさせた。

 一つだけ「あれッ」と思ったことがある。「長崎の鐘」の作詞者・サトウハチローがどこにも出てこなかった。ま、それは脚本上のアヤだからしかたがない。

 ハチローは「長崎の鐘」のほかに、「リンゴの唄」「悲しくてやりきれない」、童謡の「うれしいひなまつり」「ちいさい秋みつけた」などを書いている。随所に小さなもの、弱いものに対するまなざしが感じとれる。とりわけ「悲しくてやりきれない」は、わが青春の思い出の歌でもある。

ハチローは「泣き虫の不良」で、「エゴイズムと無邪気な感情が背中合わせになっている人間だった」(佐藤愛子『血脈』あとがき)。父親の作家佐藤紅録の血を引き、嵐のように実人生を走りぬけた。この矛盾の深さがむしろ、ハチロー作品を魅力のあるものにしている。ハチローの弟・節はたまたま広島へ行って、被爆して死んだ。「長崎の鐘」は弟の鎮魂の意味もあったのだろう。

 平成20(2008)年1月、常磐に野口雨情記念湯本温泉童謡館がオープンした。「最初は金子みすゞを、あとは自由」。初代館長でいわき地域学會代表幹事の里見庫男さんにいわれて、同年後半から月に1回、主に童謡詩人についておしゃべりをした。

みすゞのほかに、西條八十、八十の弟子のサトウハチロー、あるいは工藤直子、竹久夢二、そして雨情、山村暮鳥ゆかりの人々を調べて話した。それで、ハチローにも愛着がある(「エール」に出てくる脚本家「池田二郎」は菊田一夫がモデル。菊田はハチローの弟子だった)。

 ついでにいえば、ハチローは大正15(1926)年9月、第1回「銅鑼の会」に出席している。「銅鑼」は草野心平が始めた同人雑誌だ。心平とハチローは同い年。誕生日も、心平は明治36(1903)年5月12日、ハチローは同23日と近かった。

 さらにもうひとつ、核兵器禁止条約の批准数が発効に必要な50カ国・地域に達した。24日に国連が明らかにした、というニュースが世界を駆け巡った。「泣き虫の不良」も天国で大泣きしているのではないか。

2020年10月26日月曜日

昭和13年の仕入帳・下

            
 きのう(10月25日)の続き――。昭和13(1938)年の仕入帳の後ろのページには、余白を利用して、当時、20歳か21歳だった義母が、だれかの小説の一節と思われる文章を書き留めている。

 その一部(適宜、読点を入れ、新漢字・仮名遣いに改めた)。「かれ等は人間であるが故に幸福を欲し、生命を欲し、人間の死をかなしみ、或るものをにくみ、或るものを愛しようとしているのである。/かれ等はいつわらぬ人間そのものなのだ。かれらの憎悪、かれ等の愛欲すべて人間的なるが故に、そのままで尊いものでなければならぬ」

 文章の一部を入力してネットで検索したが、それらしいものには出合わなかった。人間論風の小説、あるいは人間論そのものかもしれない。現時点では、筆者はまったく不明というほかない。

 歌謡曲の詞=写真上1=と文語調の詩もあった。こちらはネットで検索したら、すぐわかった。

歌謡曲は佐藤惣之助・詞/古賀政男・曲/藤山一郎・歌の「青い背広で」だった。昭和12(1937)年にレコードが発売され、ヒットした。ネットで歌を聴いた。藤山一郎の美声と明るい歌詞、軽快なメロディーがすんなり胸に入ってくる。義母もこの美声とテンポのよさに引かれたのだろう。

 もう一つは、島崎藤村の詩集『夏草』に収められている詩3編の抜粋だった。図書館から『島崎藤村全集1』(筑摩書房)を借りて来て確かめた。「天の河二首」から最初の「其一 七月六日の夕」を、「月光五首」から一部を書き写し、「二つの泉」は全32行を書き留めた。

「二つの泉」の一部(全集に従った)。「幸(さち)はあつさにつかれはて/渇きかなしむ人にあれ/あゝ樹の蔭の草深く/すめる泉を飲みほして/自然のうちに湧きいづる/清き生命(いのち)を汲ましめよ」

 昭和前期、いわき地方には日刊紙が5紙あった。昭和13年当時の空気を感じたくて、図書館のホームページにある「郷土資料のページ」を開いた。同年はちょうど1月31日が陰暦の元日、翌2月1日が初売りの「二日市」だった。2月1日付(実際には1月31日夕刊)の磐城新聞に、二日市のにぎわいを予想する記事が載った(こちらも漢字を現代表記にした)。

「旧二日の売初めは前景気の比較的鎮静だったに反し、趣向を凝らしたビラが一枚の新聞に十枚も折り込まれて今朝から俄然ピッチが上げられ、きょうの旧元旦は好晴無風、二日市の(略)一大商戦を前に脈々たる活気は商店街の隅々まで遍満している」

 カミサンの実家はどうだったか。仕入れ帳を見たら、これがやはりすごいことになっていた=写真上2。平日は1ケタ台の仕入れ商品が2月1日には2ページ強、51商品にも及んでいた。

同じ新聞紙面には「戦時下における第二回国民精神総動員強調週間は来月十一日の紀元節を卜(ぼく)し、同日より実施される」旨の記事も載る。「戦時下」つまり、前年の昭和12年7月に日中戦争が始まった。時節柄、宣伝は控えめに、静かにと“自粛”していた商店にとって、いやお客にとっても、二日市(初売り)は解放感に満ちた一大イベントになったようだ。

ところで、日中戦争に続く太平洋戦争を前にして、13年5月には国家総動員法が施行される。「精神」だけでなく、「物資」も「人間」も戦争に駆り出される全体主義の時代に突入した。地域新聞もその流れのなかで整理・統合される。

 82年前、義母が仕入帳の余白に藤村の詩などを書き写したのは、ただの文学的なあこがれだけではなかったのではないか。なにか重苦しい空気というか息苦しさがあって、そのはけ口として、ノートの余白に個人の思いを代弁させたのではなかったか。分断、対立、不寛容……。今の世界、そして日本の状況をみていると、なおさらその感を深くする。

2020年10月25日日曜日

昭和13年の仕入帳・上

                    
 昭和13(1938)年の米穀兼雑貨商の仕入帳をカミサンに見せられた。ハードカバーの横書きノート60ページで、40ページは1月1日から12月29日まで1年間の仕入れの記帳に使い、余白には、後ろから縦書きで散文と詩が書き込まれている。横書きはほぼ楷書だが、縦書きは流麗な行書体に近い。義母(カミサンの母親)の字だという。

 仕入帳はカミサンの実家から出てきた。実家は今も米穀兼雑貨商を営んでいる。

 義母は大正7(1918)年に生まれ、磐城高女(現磐城桜が丘高校)を出て家業を継ぎ、昭和17(1942)年に結婚した(義父が婿に入った)。ということは、20歳か21歳の独身のときのノートだ。

もともとは東京・下町の生まれで、関東大震災が起きる前、子どものいなかった平の本家の養女になった。家業に就くと仕入れの記帳をまかされたのだろう。それで、用済みのノートの余白に、自分の好きな散文と詩人の作品を書き写したらしい。カミサンが遺品としてノートを手元に置いていた。

 まずは82年前の仕入帳に記された商品から――。1月初旬の購入品には「ビーズ半打」「小ローソク10ケ」「封筒2把」「片栗粉10本」「白砂糖2〆」「ハガキ600」などがある=写真。品名・数量のほかに、単価・買入価格・仕入先が書かれている。

 日本郵趣協会によると、同13年当時のはがきは2銭だった。はがき600枚は小売値では計12円になる。郵便局からの仕入れ値は、それよりほんの少し安い。その差が店の手数料になるのだろう。この年、はがきを仕入れたのはこれ1回きりだ。1月のあたまに小売り1年分を準備した、ということか。

 写真にはないが、「鯨半打」とあるのは鯨肉の大和煮缶詰半ダースのことだろう。「チョコリング」は今もあるのと同じなら、チョコレートを塗ったドーナツ。「ミルケット」も語感からしてミルクとビスケットを混合したお菓子を連想させる。「味ソパン」は味噌パン。今も味噌を練り込んで焼いたり、蒸したりするパンがあるそうだから、それか。

食料品だけではない。小間物からかさばる物まで種々雑多な物を売っていた。「樫マキ」「楢ザク」「雑ザク」などは薪(まき)のことだろう。「マニラ」はわからない。マニラと聞いて思い浮かぶのはマニラ麻だ。カミサンによると、マニラ麻のロープを売っていた。それのことか。「パイレブロークン」はまったく検索に引っかかってこなかった。(追記:「パイレ」は「パイン」の誤読だった。パインブロークン、パイナップルの缶詰だろう)

「インピレス1打」は、断続的に半日も検索を続けて、やっとイメージがつかめた。インピレスは殺虫剤のメーカー名あるいは商品名で、市販用の物は瓶に入っていたらしい。だから1ダース、そんな単位で小売店が仕入れた。卸元は平・本町通りの老舗が主だった。

昭和13年といえば、前年夏に日中戦争が起き、太平洋戦争へと向かって国家総動員法が施行された年だ。政府はこの年、同15年に予定されていた東京オリンピックの開催権を返上している。ナチスドイツではホロコーストへとつながる最初のユダヤ人迫害事件(水晶の夜)が起きた。

商店の跡継ぎ娘はそのころ、どんな思いで時代と社会に向き合っていたのだろう。あしたはノートに残る詩人の作品などを手がかりに、そのへんのところを考えてみる。

2020年10月24日土曜日

ネギの発芽を確認

                      
    きのう(10月23日)の続き――。10日ほど前の月曜日(10月12日)、夏井川渓谷の隠居の菜園につくった苗床に三春ネギの種をまいた。18日の日曜日にも苗床を急造した。隣の小集落に住む友達からネギの種をもらった。来年まで保管しておくわけにはいかない。「10月10日」よりは8日遅れだが、これもまいた。

18日時点では、苗床には何の変化もなかった。去年(2019年)は種をまいたものの、湿って饐(す)えていたため、発芽しなかった。その記憶がよみがえる。今年は大丈夫か――。

種はまいて1週間も過ぎると発芽する。日曜日の翌19日には少なくとも、土が割れたり、盛りあがったりし始めたのではないか。そう考えると、落ち着かなくなった。おととい(10月22日)の午後遅く、思い立って隠居へ確かめに行った。

平日に隠居へ行くのは、夏場のキュウリもぎ以来だ。平日には平日の風景が広がる。日曜日との違いを象徴するのはダンプカーや工事現場の重機だろう。

小川地区では、山中で加路川をまたぐ橋と道路、それに隣接する高崎地内で跨(こ)線(道)橋と道路の建設工事が行われている。どちらも広域農道としてつながる四倉~小川のルートの一部だ。

片石田から高崎に入るあたり、夏井川と合流する加路川の橋の手前で、土砂を積んだダンプカーがJR磐越東線のゲートをくぐって現れた。県道を渓谷へと向かうと、ほどなく高崎の工事現場が目に入る。そこへ入っていった。先行するダンプが橋脚周辺で土砂を下ろしていた。

なるほど、加路川右岸の道路工事で出た土砂を高崎の跨線(道)橋の周りの地盤づくりに利用しているのだ。そうして、橋は次第に橋らしくなっていく。道路もだんだん道路らしくなっていく。

高崎の工事現場は田んぼだったときから知っている。その変化が脳裏に刻まれている。広域農道が県道とつながったらすぐ利用したい――そう思っているくらいに見慣れた工事現場だ。

もっと下流、これは帰りに見たことだが、去年(2019年)の台風19号で被災した小川地区では、河川敷内の土砂除去工事が行われていた=写真上1(小川・三島橋直下の右岸)。さらに下流、下平窪から幕ノ内に通じる夏井川左岸でも、同じように重機が動いていた。

三春ネギの種の話に戻る。苗床には小さな双葉がびっしり生え始めていた。ハコベだろうか。さらに目を凝らすと、緑色のヘアピン状の芽が点々と生えつつあった=写真上2。2年ぶりに見るネギの芽だ。ここにも、あそこにも緑色の芽が出ている。発芽率は思ったよりよさそうだ。

種は去年のものがほとんど、今年のものは2列だけ。ネギの種は持って2年だが、乾燥剤とともに小瓶に入れて冷蔵庫で眠らせておいたのがよかった。さらさらした黒い種だった。とにかく芽が出たことに安堵(あんど)する。

2020年10月23日金曜日

隠居の物置を片付ける

                     
   日曜日(10月18日)の夏井川渓谷――。JR磐越東線江田駅前を通りかかると、県道沿いの空き地に四角いパイプの骨組みができていた=写真上。上にブルーシートを張れば屋根になる。田村郡小野町のNさんが紅葉の時期に設ける直売所だ。

私が夏井川渓谷の隠居へ通い始めてから二十数年になる。Nさんもまた同じように、江田駅前で曲がりネギや長芋、ゴボウを直売してきた。パイプの骨組みは、1週間前の月曜日(10月12日)にはなかったから、前日の土曜日にでも組み立てたのだろう。

ネギはたぶん、私が隠居で栽培している三春ネギと同じ品種だ。甘くてやわらかい。ところが、3年前からこのネギが並ばなくなった。Nさんは会社勤め、ネギ栽培の主力はNさんの両親だった。父親が入院したり、母親が腰を痛めたりして、直売所へ出すほどの量が栽培できなくなったらしい。

それが今も影響しているのだろうか。夏井川流域が台風被害に遭った去年(2019年)は、とうとうNさんの顔を見ないで終わった。今年は、10月下旬ではなく、中旬にパイプが組み立てられた。「やる気十分」と感じたのだが、Nさんにはたまたま組み立てが10月中旬になっただけなのだろう。

そんなことを思い浮かべながら隠居に着くと、すぐ物置の片付けが始まった。後輩の家の物置が、中に置いてあった古い肥料が原因で自然発火をした。ボヤで済んだが、隠居の物置の中を見ている後輩から「要注意」の連絡がきた。農具や肥料などが乱雑に置かれたままだ。カミサンから「片付ける!」と宣言されていたこともあって、「あとで」「あとで」と先延ばしすることができなくなった。

カミサンが物置の中からどんどんモノを外に出す=写真下。いやあ、出てくるわ、出てくるわ。たたんだ段ボール箱、古い肥料と空き袋、発泡スチロール箱に木片、古新聞……。

 古い肥料は菜園にばらまいた。段ボールなどの紙類はドラム缶に入れて燃やした。発泡スチロール類はごみ袋に入れた(これは持ち帰って、「燃やすごみの日」に出した)。

 物置の片付けが終わってから、ようやく土いじりを始める。隣の小集落に住む友達からネギの種をもらった。自分の種はすでにまき終えた。苗床を増やしてこの種をまいた。渓谷の半住人になって以来、まずは土いじり、景色はそれから――が習慣化した。行楽客ではない。日曜日だけだが、土地の暮らしと結びついた時間を過ごす。それが、地元の人たちとの交流にもつながっている。

 テレビがカエデの紅葉情報を流すようになった。夏井川渓谷のカエデはまだ「青葉」のままだ。

同渓谷の“定点観測”をしていて、紅葉には二つあることがわかった。「前期の紅葉」と「後期の紅葉」、あるいは「非カエデ」と「カエデ」だ。全体の紅葉を楽しむなら10月の非カエデ(広葉樹一般)、顕微鏡でのぞくようにピンポイントで紅葉を楽しむなら11月のカエデだろう。緑から黄緑、黄色、淡い朱色へと、自然が織りなす色彩が日を追って鮮やかになってきた。

2020年10月22日木曜日

隠居の庭のキノコたち

                              
 キノコにとってはいい具合のお湿りと冷え込みになったのだろう。日曜日(10月18日)に夏井川渓谷の隠居へ行ったら、庭の立ち枯れの木にヒラタケが3個出ていた=写真上1。やや下、左側のきのこがヒラタケ。その下の黒ずんだものと、上方の白っぽいものはアミヒラタケ。

名前は似ているが、ヒラタケはヒラタケ科、アミヒラタケはサルノコシカケ科(あるいはタコウキン=多孔菌科)だ。傘の裏の形も違う。ヒラタケは普通のひだ状、アミヒラタケはスポンジ状。ヒラタケは優秀な食菌、アミヒラタケもやわらかい幼菌のうちは食べられるというが、すぐ硬くなるので食べたことはない。

 ヒラタケは顔を出したばかりだろう。木のまたに足をかければ手が届く。根元からもぎ取ろうとしたら、柄がしっかりしている。採るまでに少々時間がかかった。径8センチほどの元気なヒラタケで、ひだは真っ白い。柄は弾力がある。なにより形と色が美しい。

 ついでに、地べたから生え出るキノコは――と見れば、台所のそばのモミの木の下にアカモミタケが点々と生えていた=写真上2。モミの木はまだ若い。去年(2019年)も今ごろ、アカモミタケが発生した。ようやく菌根菌としての共生関係が成り立つようになったのだろうか。これも収穫した。

 私は、隠居の庭に出たキノコで食べられるものは採る。なぜかというと、東日本大震災に伴う原発事故後、隠居の庭の表土がはぎとられ、あとにきれいな山砂が投入されたからだ。

 平成25(2013)年2月、隠居の庭の事前モニタリングが行われた。年間1ミリシーベルト以下であるためには、計算式に従って毎時0.23マイクロシーベルト以下でないといけない。結果は平均0.24だった。その年の師走、庭の全面除染が行われた。庭が新しい土で砂浜のようになった。

 それから2年余りたった同28(2016)年2月、再モニタリング調査が行われた。いわきの平常値0.05よりは高いが、事故直後に比べたらかなり減衰した。

 森の中のキノコは、放射性物質が林内で循環するため、なかなか数値が下がらない。写真を撮っても、キノコを採ることはなくなった。その代わり、除染された隠居の庭に出てくる食菌はありがたくいただく。

春、シダレザクラの樹下に出るアミガサタケ。梅雨期、庭の地中に形成されるマメダンゴ(ツチグリ幼菌)。そして、秋のヒラタケ、アカモミタケ。

まずはきのこ汁だ。ヒラタケとアカモミタケに到来物のウラベニホテイシメジをちぎるまでは私の仕事。あとは、カミサンがみそ仕立てにした。豚肉やニンジン、ジャガイモ、油揚げ代わりのエビ入りさつま揚げも入った“けんちん”だ。1杯目はまあ普通のけんちん、2杯目はキノコのうまみが汁によく出ていた。残りは翌朝口にした。晩にも食べて鍋を空にした。煮るたびにうまみとうまみがからまっていい味になっていた。

 ここ2~3日、シメジのたきこみごはん、ホイル蒸し、アカモミタケの炒め物と、きのこ尽くしに近かったが、やはり何種類も入ったきのこ汁が一番だった。

2020年10月21日水曜日

昭和46年の心平と志功

        
 昭和46(1971)年4月に、いわき民報社に入社した。履歴書を持って編集長の面接を受けた。青森県生まれの社長からいわれたのは、肩まで伸びた髪を切ること、それが採用の条件だった。

その半月後の同15日から20日まで、平の大黒屋デパートで草野心平展(磐城高校同窓会主催)が開かれた。

出社すると先輩記者の机を回って鉛筆を削り、お茶を出すのが仕事だった。多少文学をかじっていたことから、編集長が試しに使いに出してみる気になったのだろう。

「草野心平に会って話を聞いて来い」。びっくりした。展覧会を取材した記者は別にいて、すでに記事になっている。まだ見習いでさえない新人に期待するものはなにもない。が、ひょっとするとひょうたんから駒が――と考えての、気まぐれな指示だったのではないか。

会場へ出向き、女性の秘書さんに来意を告げて詩人と対面した。が、詩人はこちらの顔を見ようともしない。私も、何を質問していいかわからない。なにかを質問したが、それでも黙っている。だんだんいたたまれなくなって、15分ほどで切り上げた。「なにも聞けませんでした」。社に戻って編集長に報告すると、「そうか」といっただけで、それきりになった。やはり、ひょうたんから駒は出なかった。

質問の仕方もメモの仕方もわからないうちに心平に会って、見事にインタビューに失敗した――この苦い思いが記者の仕事の原点になった。

いわき市立草野心平記念文学館で12月20日まで、企画展「草野心平と棟方志功~わだばゴッホになる」が開かれている。「いわきゆかり」のコーナーも設けられた。

心平と志功の友情はよく知られている。2人は49年前の昭和46年、いわきの地で旧交を温めた。

冒頭にも書いたが、その年の春、心平は故郷で初めての個展を開いた。秋の9月22~26日には、いわき民報創刊25周年を記念して「文化勲章受章棟方志功板画展」(志功は「版画」ではなく「板画」を使った)が、やはり大黒屋デパートで開かれた。初日正午からのレセプションには、心平が逗留(とうりゅう)中の川内村・天山文庫から駆けつけ、夕方には心平の案内で志功が同文庫を訪れている。

このときは記者として走り始めていたが、自社の主催行事には全く無縁だった。一社員としてチラリと会場をのぞいたような記憶がある、それだけだ。

むしろ、そのころ民放で始まった渥美清主演のテレビドラマ「おかしな夫婦」(モデルは棟方志功夫妻)を通して志功に親しんだ。

志功といわきの関係は、合併前の旧平市時代にさかのぼる。同41(1966)年4月、平市民会館が落成する。志功原作の大ホールの緞帳(どんちょう)「大平和の頌(しょう)」が評判を呼んだ。いわき民報社が志功の板画展を開いたのも、この縁だけでなく、社長が志功と同じ青森出身だったことも大きかったろう。

平市民会館はやがてアリオスに替わり、緞帳は常磐市民会館に移された。アリオスのカスケード(交流ロビー)には、「緞帳原画Ⅳ」を基にした美術陶板が設置されている。

日曜日(10月18日)に文学館で心平と志功の企画展を観覧し、図録など=写真=を眺めているうちに、昭和46年の心平と志功、いわき民報といわきのできごとが一気によみがえってきた。

私が入社した当時、いわき民報社は仮社屋で業務を続けていたが、大型連休中に5階建ての新社屋に移った。5階には結婚式場「ことぶき会館」ができた。まだお茶くみをしていた新入社員は、同会館で花嫁衣裳研修会が開かれたとき、社長命令で花婿のモデルになった。当時のいわき民報に掲載された写真を見ると、花嫁は6人いた。

吉野せいが「三野混沌夫人」の肩書で、ときどき随筆「菊竹山記」を寄稿していた。この「菊竹山記」で初めて吉野せいを知った。独特の比喩に舌を巻いた記憶がある。磐城高校野球部が夏の甲子園で準優勝したのもこの年だった。

2020年10月20日火曜日

市民講座再開・下

                    
   若いころは、日曜日になると子どもを連れ出して山野を巡った。野鳥から始まって野草へと観察対象を広げ、そのうち山菜・キノコ採りもするようになった。今は体調と原発事故による放射性物質を考えて、森を巡ることはほとんどなくなった。

代わりに、平地の自分の家の庭と夏井川渓谷の隠居の庭をフィールドにして、ネイチャーライティングのまねごとをしている。それでも、今まで見たことのない南方系の虫が現れる。地球温暖化で東北最南端のいわきまで北上し、さらに北へと分布を広げている虫もいる。

一例がアオスジアゲハ。南方起源のチョウだが、すでにいわきを通り越して浜通り北部の相馬あたりでも見られるようになったと思ったら、今は太平洋側では岩手県南部以南に分布し、日本海側では秋田県境に近い青森県沿岸地域でも確認されている(日本自然保護協会「自然しらべ2011 チョウの分布 今・昔」報告書)。

こうした昆虫の北上をどうとらえるべきなのか――。土曜日(10月17日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の第28回阿武隈山地研究発表会兼第356回市民講座が開かれた。昆虫が専門の鳥海陽太郎幹事が「南方系昆虫の急速な北上が地球温暖化を警告~気候変動にともない激変したいわきの昆虫~」と題して話した。

結論からいうと、これらの虫たちは「地球温暖化指標種」で、「夏の猛暑や台風がもたらす災害の警報的存在」でもある。たとえば、アゲハチョウ科のなかでも最大級の南方系のチョウ、ナガサキアゲハは「いわき地域での観察例はまれだった。去年(2019年)秋、実際にいわきへの飛来を確認して間もなく、台風が次々にいわきに襲来した」。

因果関係があるといっているのではない、南方系の虫たちの飛来と深刻な気象災害が温暖化のなかで同時に起きた――いわきの昆虫観察者の目には、だから、南方系の虫たちは自然災害を警告する存在、と映るのだろう。「珍しく希少な南方系のチョウの写真が撮れた」というレベルの話ではもうなくなった。

 レジュメには鳥海幹事が撮影した南方系の虫たちのカラー写真が載っている=写真。アオスジアゲハはもとより、「いわき地域に定着した成虫越冬性の南方系種ウラギンシジミ」や、いわき地域で拡散中の「特定外来生物アカボシゴマダラ」は、わが家の庭にも現れた。「街路樹などで爆発的増殖中の外来種アオマツムシ」は同じく初秋、わが家の庭木の上でやかましく鳴いている。

今年(2020年)8月7日夜、見たこともないチョウがわが家の茶の間に入って来た。天井の梁(はり)に止まったところを撮影し、形と紋様をスケッチしたあと、ネットで検索した。クロコノマチョウ(黒木間蝶)だった。

鳥海幹事はこのチョウについても、いつの間にかいわきでも見られるようになった、秋型が越冬するかどうかを確認したい、と語った。

小さないのちだからこそ、昆虫たちは地球温暖化の影響をもろに受ける。温暖化に伴う北上は猛スピードで進行している。わが家の庭先でさえそれが普通に見られるようになった。今回の講座は、そうした自分の断片的な生物情報、疑問、危険度を増す気象災害との関連を整理、再編集するいい機会になった。

2020年10月19日月曜日

市民講座再開・上

 いわき地域学會のなかに自然部会がある。毎年秋、阿武隈山地(地理院表記では阿武隈高地)をフィールドにした研究発表会を開く。地域学會の月1回の市民講座も兼ねる。

 おととい(10月17日)、いわき市文化センター中会議室で第28回阿武隈山地研究発表会兼第356回市民講座が開かれた=写真。久しぶりの講座開催になった。

同講座は毎年度、4月総会後の5月に始まって翌年2月に終わる。年度最後の講座が終わって、そろそろ総会の準備を――という矢先、新型コロナウイルスが猛威を振るい、100年前のスペインインフルエンザ(スペイン風邪)と比較されるようなパンデミック(世界的大流行)になった。

日本では4月中旬、東京都などの大都市圏だけでなく、すべての地域に緊急事態宣言が出された。いわき市でも「感染防止一斉行動」が実施された。具体的には①小・中学校の一斉休校②幼稚園・保育所・放課後児童クラブの一斉休園③公共施設の原則休館――などで、市民講座の会場である文化センターの利用もできなくなった。

それから1カ月余り、同宣言の解除を受けて、5月21日に市立図書館や美術館が再開され、市内の小中学校も同日から段階的に、6月1日からは通常授業に戻った。

文化センターで3月に予定していた地域学會の行事は中止し、4月下旬の定期総会も1カ月ほど延期した。それでもコロナ禍が収まらない。総会をさらに延期したうえで、6月あたまに議案などを盛り込んだ資料を郵送し、書面審議を経て6月末、ようやく新年度のスタートを切った。

同センターは利用再開に合わせて、「感染リスクを考慮して、利用者の年齢層や人数、使用用途を確認したうえで、施設の規模を勘案」し、「事業の実施」の使用許可を判断する方針を立てた。市民講座の定例会場にしている視聴覚教室は、「3密」を避けるために長テーブルに1人、10人ちょっとしか座れない。今までの実績(平均30人前後)からして、そこでの開催は難しくなった。

定員114人の大講義室は28人、同124人の大会議室は31人。実年世代が圧倒的なので、できれば大講義室か大会議室がいいのだが、会場確保に苦労するのは他団体も同じ。結局、10月に中会議室(利用は20人弱)を借りることができたため、これを活動再開の目安にした。

こうした非常事態は9年半前にも経験している。2011年2月に同センター大会議室で地域学會の総会を開いた。その1カ月後、東北地方太平洋沖地震が発生し、隣郡で原発事故が起きた。文化センターが市の災害対策本部になったこともあって、市民講座の開始を秋まで延期した。

今回も仲間と再会するのは8カ月ぶりだった。講座終了後、今年度(2020年度)最初の役員会を開いて情報を交換した。

 と、ここまで書いてきたら、肝心の市民講座の中身を紹介する余力がなくなった。鳥海陽太郎幹事による「南方系昆虫の急速な北上が地球温暖化を警告~気候変動にともない激変したいわきの昆虫~」については、またあした(10月20日)――。