2024年3月27日水曜日

文学がテーマの小説

                              
 カミサンの友達が持って来た本だという。乙川優三郎『クニオ・バンプルーセン』(新潮社、2023年)=写真。臙脂(えんじ)一色の表紙カバーに、黒人系の男性の横顔写真とタイトルを配している。

 表紙カバーとしては単純だが、その色が妖(あや)しさと不安をかもし出す。わかりにくいタイトルと相まって、「なんだろう」という思いになる。

 そのタイトルだが、読み始めてすぐ人名だと知る。主人公はクニオ。クニオの父親はジョン・バンプルーセン、母親は真知子。

 ジョンは米兵だった。クニオは、ベトナム戦争が終わるころ、両親と横田基地の家族住宅で暮らし、基地内の学校へ通っていた。

 父親は「ニッケル」と呼ばれた複座式戦闘機のパイロットだった。相棒は参戦国のフィリピン人。

ニッケルは5セント硬貨からきている。転じて「つまらないもの」「安い命」を意味するという。

「任務はアメリカ軍を自在にするために北側(てき)の地対空ミサイルの囮(おとり)になることで、ひとつ間違えば撃墜される運命にあった」

 戦争が終わったあと、一家はグァムの基地に移る。それからだいぶたって、父親は悪夢にうなされるようになる。

 クニオは小さいころから読書が好きだった。英語だけでなく、日本語の読み書きもできた。次第に、日本文学の繊細さに引かれていった。

 「いずれ小説家になるか、それが無理なら評論家になりたい」。日本の大学への編入学を決めたことを父親に話したあと、一家は街へ繰り出し、すし屋で食事をする。その夜遅く、父親は拳銃で自殺をする。

 クニオは大学を出ると、小出版社の編集者になった。小説なのに、文学の編集者が主人公という、意想外な視点で物語が進行する。

 ベテラン作家に会って教えられる。無名の新人を発掘し、一緒に作品をつくり上げる。ほかにも、出版業界の裏話や編集者の生態がつづられる。

 日本文学の名作を英訳作品と比較する場面があった。「ジ・イズ・ダンサー」は最初、なんのことかわからなかった。

原題は「伊豆の踊子」。盆踊りがハワイに移入されて「ボン・ダンス」と呼ばれるのと同じだが、「ジ・イズ・ダンサー」では、クニオ同様、ぴんとこなかった。

 さて、編集者としてのキャリアを積み上げながらも、クニオは父親の人生が頭から離れない。

 やがてクニオに末期がんの診断が下る。そのころには、同じ混血のアニー(翻訳家)と一緒に暮らしていた。

 クニオは人生の最後に、アニーと共に、ジョンを主人公にした小説を書くことを決意する。

 執筆に選んだ場所は、千葉の鴨川。敬愛する老作家が住んでいた家で、そこで最後の日々を過ごす。

命の灯(ひ)が消えようとする、その瞬間の描写とともに物語は終わる。最後の最後まで編集者でいるのか、という驚きが残った。

※おことわり=年度末の行事が続くため、ブログをしばらく休みます。

2024年3月26日火曜日

花が教える春

                      
 ハクチョウの北帰行に合わせて、こんなことを書いた。月曜日(3月18日)にいわき駅前へ行くと、街路樹のハクモクレンが開花していた――。ソメイヨシノの花はまだかいな、という思いがあったので、ブログを次のように締めくくった。

「姿を消したハクチョウ、街なかのハクモクレンの花、堤防の菜の花……。春を告げるのは、樹種でいえば、ソメイヨシノではなくてハクモクレン、なんてことになりかねない?」。その続きといってもいい。

ソメイヨシノの開花は春のシンボル――そういう思いが強い。気象庁が生物季節観測にソメイヨシノを選んで以来、「春を告げるサクラ」はヤマザクラではなく、ソメイヨシノに替わった。

それぞれの地域に標本木(ソメイヨシノ)がある。そのサクラの開花が春の到来を告げる目安になった。

いわきの場合は旧小名浜測候所内にあるソメイヨシノが標本木だ。測候所が無人化されてからは、市民団体と元職員が協力して同じソメイヨシノをチェックし、「開花宣言」をしている。

メディアによる気象庁の発表が浸透し、市民もまたソメイヨシノの開花を春の目安として受け入れてきた。

それに慣れた人間には、ほかの樹種、たとえばアセビやマンサク、白梅が咲いても、春の一歩手前の早春の花、という受け止めだ。

確かにマンサクや白梅が咲いても、まだまだ寒い。寒の戻りがあるので、春という実感はない。

やはり、春はソメイヨシノの花とともに、なのだが……。現実にはハクモクレンのように、ソメイヨシノより開花の早い樹種がある。

庭のプラムもそうだ。開花まで秒読み段顔に入った。つぼみを膨らませ、白い花弁の一部をのぞかせている=写真。

身近過ぎてノーマークだったが、プラムは早いと3月中、遅くても4月に入ると満開になる。令和2(2020)年の場合は、春分の日あたりには咲き出した。同じ平地のソメイヨシノよりは早い。

ソメイヨシノとほぼ同時というのもある。夏井川渓谷の隠居へ通い始めてから30年近い。渓谷では春になると、アカヤシオ(岩ツツジ)が真っ先に咲く。

アカヤシオの開花は主に4月の前半だ。その花を見てきてわかったのだが、平市街のソメイヨシノと渓谷のアカヤシオは、開花時期がほぼ同じだ。これだけは今のところ変わらない。

日曜日(3月24日)に隠居の庭から対岸の森を眺めたが、アカヤシオのピンクの花はなかった。小名浜のソメイヨシノ(標本木)もまだだ。

去年(2023年)は3月18日の土曜日にアカヤシオの開花を確認した。小名浜のソメイヨシノは3月22日午後に開花が確認された。

今年は寒の戻りが続いていて、「春のセンサー」がうまく働かないようだ。気象予報士も予測がはずれている。

もうソメイヨシノから自由になってもいいのではないか、自分の「春の木」を持ってもいいのではないか、そんな思いがふくらむ。

2024年3月25日月曜日

牛小川にもシュロがあった

                      
   年度末である。夏井川渓谷にある小集落の区長さんから連絡がきて、3月半ばの土曜日午後、寄り合いに参加した。

 平地の行政区と違って、渓谷の小集落は10世帯に満たない。寄り合いは全戸参加だ。何を決めるにも「多数決」ではなく、話し合いを積み重ねて「全会一致」に持っていく。直接民主主義の見本といってもいい。

 今度も率直な意見交換が行われた。それがあるからこそ、あとに禍根を残さない。議論を尽くすやり方は、生活の知恵だろう。

 ちょうど1年前、同じように寄り合いがあった。会場は、Kさんが納屋を改装した「談話室」だ。そのとき、杉の木を切ったら「花見山」にしようというアイデアが披露された。

談話室」へ行くには、小さな棚田のそばを通る。その左手奥、山からの稜線が尽きるあたりに杉が植わってある。寄り合いからほどなく、そこで伐採作業が始まり、4月の初旬には杉の木が消えた。

稜線の陰には夏井川の支流・中川をはさんで田畑と家がある。杉林はいわば、夏井川を望む家々と、中川を望む家々を分ける「衝立」のような役割を果たしていた。

これがいったん更地になった。そこを、今度はヤマザクラなどを植えて花見山にしよう、というわけだ。

1年前は全く気づかなかったが、伐採された跡地にシュロが1本、逆光の中でポツンと立っていた=写真。

あるとき、温暖化によるシュロの北上に気づいて、わが生活圏ではどうなっているか、調べたことがある。

わが家から渓谷の隠居までの道すがら、車を走らせながら、助手席のカミサンに頼んで、どこにシュロがあるかを頭に入れた。そのときのブログを要約・再掲する。

――1月28日の日曜日、わが家から夏井川渓谷の牛小川までの道沿いを調べた。渓谷の入り口、小川町上小川字高崎までは、沿道の家の庭に、家の近くの空き地やヤブにと、けっこうな頻度でシュロが見られた。

いちいち地図に場所と本数を記録するようなことはしない。要は、夏井川流域でも川筋に近い平地から渓谷までの「シュロマップ」を、ざっくり頭に入れておく。

牛小川は小川町の西のはずれだ。その先は川前町になる。わが隠居までのウォッチングでは、JR磐越東線江田駅の下、紅葉時期になるとテント村ができる空き地の林にシュロが生えていた。

これはたぶん生え方からして自生にちがいない。ここまででざっと70カ所、本数では80本前後だろうか。

江田の手前で、ガードレール越しにシュロの葉が見えたから、自生のシュロは夏井川渓谷にまで分布しているとみてよさそうだ――。

牛小川のシュロは、植物に詳しいもう一人のKさんによれば、鳥が種を運んで来た。それが、あそこにも、ここにも。

シュロは幹の繊維が燃えやすいので、家の近くには植えない、と「談話室」のKさんが応じた。

ネットにも「燃えやすい着火物」とあった。温暖化ばかりか、防火の面からも要注意の植物だ、と知る。

2024年3月23日土曜日

テレビを見たあとに

                            
 先日の「世界ふれあい街歩き」(BS1)はマレーシアだった。首都のクアラルンプールなどが紹介された。

番組を見ながら、30年以上前に同国からやって来た大学生のホームステイを引き受けたことを思い出した。名前はウィー、22歳。中国系で、土木工学を専攻していた。

 そのころ勤めていたいわき民報で、1面コラム(執筆者は複数)とは別に、週1回、「みみずのつぶやき」と題したコラムを持っていた。

 そこに2回、マレーシアの大学生のことを書いた。単行本にした『みみずのつぶやき』にあたると、平成3(1991)年7月3日付で「アジアの本を読む」=写真=が、同年11月20日付で「ウィーのいわき観」が載っていた。

 中曽根首相がアセアン諸国を歴訪し、西暦2000年までに同諸国の青年1万人を日本に招待することを約束した。

昭和59(1984)年に事業が始まり、平成3年にはウィー君らが1カ月間、日本へ招待された。地方滞在はいわきが一番長かった。

ホームステイは3泊4日で、「英語と中国語、日本語の単語をペンと口で、身ぶり手ぶりを加えてパッチワークすると、ほぼ言わんとするところは了解できた」。

「ウィーは陽気で、才気に富んだ子だ。中国語で即興の詩をいくつも作った。聞けば、シンガポールの新聞にも投稿している文章家である」

さらに帰国後、ウィー君からマレーシアの華字紙「星州日報」の切り抜きが届いた。彼の「日本訪問記」5回目にいわきでの民泊体験がつづられている。

中国語に堪能な市職員氏に翻訳をしてもらい、それを踏まえて2回目のコラムを書いた。

 「わが家に滞在中、春のクリーン作戦が行われた。『前もって大掛かりな宣伝活動や議員を呼んで儀式を行う』のではなく、『村民』は『ほとんど自発的に早起きし、大掃除運動をする』――その点に、彼は日本人の社会への帰属意識と責任感を見て取った」

 川前の「大自然保護森林」へ案内したときの印象。「『世界の最先進工業国のひとつに数えられる日本に、桃源郷のごとき大自然の天地、汚染を受けない空気、人を引きつける山々、そして忘れ難い草木があった』」

 この記述にはハッとさせられた、と自分で記している。「日本人は自分の国の森を守り、代わりにマレーシアの森を切り払うのか――日本を恨みに思う人々の存在が、ふと垣間見えたからである」

 それから33年がたった。ウィー君はどこで、何をしているのだろう。「世界ふれあい街歩き」を見たあと、国名に彼のフルネームを加えて検索したら、わが目を疑った。2022年当時の運輸大臣の名前が出てきた。

 もちろん、同姓同名の別人ということはありうる。が、当時の考えや発言からして、マレーシアのリーダーの一人になっていてもおかしくはない。

 名前を漢字にして検索を続けたら、表情や体形など、記憶と重なる画像がヒットした。もしかして、あのときの青年では……。そんな思いが強くなってきた。

2024年3月22日金曜日

一番重い配布資料

                      
 年度末になると、新年度の「ごみ収集カレンダー」や「保健のしおり」などが全部の世帯に配布される。住民には生活に直結する大切な行政資料だ。

 「保健のしおり」は1冊65ページもある。隣組単位で配るので、かなりの厚みと重さになる。これだけはA4サイズの封筒1枚には入らない。

 回覧資料は行政嘱託員(わが区では区長が兼務)~区の役員~隣組の班長というルートで配られる。

 このルートでは、主に行政嘱託員に届く大型封筒を再利用する。それだけでは足りないので、区の役員さんから提供される使用済み封筒も使う。

封筒は、あらかたは戻ってくる。とはいえ、繰り返し使っているうちに破損する。前は補充が効いたが、だんだん数が減ってきた。

さて、どうしたものか――思い悩んでいるところに、ある隣組の班長さんから声がかかった。

印刷所で働いていて、在庫処分が必要になった大型封筒がある。「いくらでも欲しい」というと、けっこうな数の未使用封筒が届いた。

中に、開くと側面が3センチほどに広がる閉じひも付きの封筒があった。「マチ付き封筒」というらしい。マチとは側面部、遊び・奥行きなどのこと、とネットにあった。

いつか使うときがあるかもしれない、と思いながら、いつもの資料封入には使わずに取っておいた。

そして、「重み」のある行政資料を配らないといけない3月になって――。行政区だけでなく、市役所の方もなにかと気ぜわしくなっていたらしい。

3月8日付(ほんとうは10日付だが、日曜日のため早まる)の回覧資料が届いたときには、周知文書に「世帯配布」なのに「回覧」と誤記したものがあった。

回覧? こんなにあるのに! そこは飲み込んで全戸に配布した。すると案の定、追いかけるように「訂正」の封書が届いた=写真。

「保健のしおり」は、年度を通じて一番重い配布資料だ。3月半ばに届くたびに、紙質を替えてもっと薄いものにできないものか、と思う。

一番大きい隣組は16世帯だ。手元に残しておいたマチ付き封筒を出すと、「保健のしおり」がぎりぎり入る。

ほかにも世帯配布資料、回覧だけの資料がある。それを入れてもこの封筒ひとつでOKだ。

マチ付き封筒のおかげで、封入作業はいつもと変わらずに行うことができた。あとは今回だけ、4階建ての県営住宅に住む班長さん宅への上がり下りが加わる。

というのは、ふだんは1階の郵便受けに差し込めばすむのだが、「保健のしおり」があるときには、そのすき間に入らない。それぞれの戸口に届けることになる。

たまたま今期は1階に住む班長さんが4人、2階が2人で、3階は1人、最上階の4階は2人だけだった。

4階のうち一つは世帯数が少なくて、1階の郵便受けのすき間に入った。結局、4階は1人ですんだが、やはりこたえた。

いやはや、と思いながらも、今回はマチ付き封筒のおかげでわりとすんなりいった、心臓に負担をかけずにすんだ、そんな思いになった。

2024年3月21日木曜日

小さな楽しみ

                      
 前に「可処分時間」について書いた。加齢とともに、体のあちこちが傷み、ひとりではどうしようもない事態に陥るときがある。それを周りの人間がカバーする。その分、その人の自分の時間は減る。

 一例が、ひざを痛めたカミサンの、接骨院への通院だ。近くにある。腰だけのときには歩いて行き来した。

 しかし、ひざでは歩くこと自体が負担になる。アッシー君を務める。送り届けると、すぐ家に戻る。治療が終わると連絡がきて迎えに行く。

気が付けば、私も、隣に住む義弟も体力が落ちた。何度も書いていることだが、足腰が弱っていることを自覚するようになった。

 家族が家族の世話をするのは当たり前――。確かにその通りだが、可処分時間からいえば、それぞれがその時間を減らして、相手を支えることを意味する。

 それは悪いことではない。けれども、やはりというべきか、それなりにストレスもたまる。それを感じることが増えてきた。

 では、それをどう解消するか。私の場合(カミサンもたぶん同じだろう)は、日曜日に夏井川渓谷の隠居で過ごすことだ。これが一番効く。

 月~土曜日の「日常」を忘れて、日曜日は「非日常」に身を置く。土いじりをする。庭をブラブラする。

 しかし、日常的にはやはり晩酌、そして季節のおかずだろう。ひとくちかふたくちで十分だ。それでしこった気持ちが、ストレスがほぐれる。

 先日は、まだつぼみの菜の花がからし和(あ)えになって出てきた=写真。もらい物なので、量はそうない。しかし、季節の食べ物である。口にしたとたん、舌と心が喜んだ。

 レストラングルメではない。「どこの何がうまい、行ってみよう」となるときもあるが、あらかたは家庭料理で満足している。

 原発事故が起きる前は、山野を巡って山菜を、キノコを採って食べた。サバイバルグルメを自称していた。

 季節ごとに小さな楽しみがあった。それが毎年、食卓に変化と彩りを添えた。ところが、原発事故で森を巡る楽しみが消えた。

 栽培ナメコを買ってきて、野生キノコを食べたつもりになる、といったことを書いているが、それも加齢とともに変化してきたようだ。

 今までできたことができなくなるのと同時並行的に、栽培ナメコではやはり満たされない気持ちもふくらんできた。

 最近知った言葉に「レスパイト(一時休止)」がある。介護の分野で使われる。家族がデイサービスを利用していても、別の家族には介護疲れが蓄積する。家族の骨休め、気分転換のために準備されたシステムだ。

 本人自身が休息のために一時入院をする、そのために訪問介護を利用する、といったことも用意されている。

 そこまでいかなくとも、リフレッシュ(気分転換)する必要性をいちだんと感じるようになった。

加齢による衰えは確かに進んでいる。そのスピードを遅らせるためにも、小さな楽しみを多く持つのが大事なようだ。

2024年3月19日火曜日

ハクチョウは北へ

                      
   いわき駅前の大通りと交差する新川緑地の先端に、2本のシダレヤナギがある。先日通ると芽吹いていて、早緑色の点描画を見るようだった。信号待ちのひととき、いい目の保養になった。

 寒暖の波は相変わらず大きい。石油ストーブをつけずに過ごせる日があるかと思えば、冬型の気圧配置に戻って猛烈な西風が吹き荒れる日もある。とはいえ、季節は着実に冬から春へと変わりつつある。

 土曜日(3月16日)、隠居のある夏井川渓谷の小集落で寄り合いがあった。いつもの国道399号~県道小野四倉線を駆け上がった。

 平地の奥、加路川が本流の夏井川に合流するあたり、道路沿いにハクモクレンがある。それが半分開花しかけていた。

 その2日後、月曜日(3月18日)にいわき駅前へ行くと、街路樹のハクモクレンが開花していた。

では、市街地のソメイヨシノも……。平の街のソメイヨシノが咲き出せば、夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)も咲き出す。春はすぐそこまできていることを、記憶=記録が教える。

 小川・三島地内の夏井川はハクチョウの越冬地だ。ここでは今年(2024年)1月28日、「白鳥おばさん」と再会し、翼を傷めて一時残留したコハクチョウの「エレン」とも再会した。

 エレンはやがて傷が癒え、仲間と一緒に北へ帰り、再び三島の夏井川へ戻ってきた。そのエレンも北へ帰ったのだろう。土曜日の昼前、隠居へ行く途中に見ると、残っているハクチョウはわずか3羽だった。

 人間と違って、野外で生きるハクチョウは日光や気温などに反応する「体内センサー」によって、北へ帰る時期を判断するらしい。今年は旅立ちが早いといってもいいだろう。

 2月25日の日曜日朝、そして3月10日の朝も、三島の夏井川のそばを通ると、ハクチョウの一部が水面から飛び立ち、空高く舞い上がった=写真。

 近くの田んぼへ向かうのだろうと、そのときは思ったが、北へ向かう一群だったかもしれない。

 3月になれば、北へ帰る個体が増える。それは当然だ。が、いわきでは3月の終わりごろまでとどまる個体もいる。

 わが生活圏(平・塩~中神谷地内)の夏井川では「3月11日」が目安になる、と前に書いた。

東日本大震災が起きたあの日、津波が夏井川を逆流してきて、驚いたハクチョウたちが一斉に飛び立った。あの年は、3月11日を境に塩~中神谷からハクチョウの姿が消えた。今年(2024年)はその前後、すでに姿がなかった。

 夏井川の堤防に生えている草も、いわゆる「菜の花」を咲かせ始めた。これも少し早いような気がする。

 姿を消したハクチョウ、街なかのハクモクレンの花、堤防の菜の花……。春を告げるのは、樹種でいえば、ソメイヨシノではなくてハクモクレン、なんてことになりかねない?

2024年3月18日月曜日

この冬最後の白菜漬け

                    
 直売所から白菜2玉を買って来たのはいいが、まれにみる大きさだ。2玉を漬けたら甕(かめ)からあふれる。

 漬けるのは1玉にとどめ、あとの1玉は半分を近所の知り合いに分け、残りをけんちん(豚汁)などにして食べた。

 いつもは中玉2個を漬ける。1玉を8つに割るから、葉に塩を振って4~5切れずつ、甕に交互に積み重ねて重しを載せ、階段下に置く。

 小玉もあったので、この冬はすでに3回漬け、大玉が4回目になった。大玉1個といっても小玉2個分はあるだろう。

 2月後半に漬けた大玉は3月半ばにはなくなる。で、もう1回、2玉を買って漬けないといけないか……。

ちょうど思いめぐらしているところへ、日曜日(3月3日)、夏井川渓谷の隠居へ出かけたときに、後輩からSNSを介してメッセージが届いた。

自宅の玄関前に、いただきものだが白菜を置いた、という。隠居でスマホをチェックしたら入っていた。ありがたい。5回目の白菜漬けが決まった。

 この冬最初に白菜を漬けたのは11月下旬。師走に入ると同時に食べ始めた。三和産の白菜で正解だった。根元が甘かった。

毎年、最初の白菜漬けは三和産で、と決めている。そのワケは、三和町がいわき市のなかでも山地に位置しているからだ。

白菜は寒くなると、凍るまいとして糖分を蓄える。これが甘さのもとになる。真冬になれば、山地(三和など)でも平地(平など)でも甘くなるので、場所は選ばない。

 三和の白菜は、雪が降る前に「ふれあい市場」から買ってくる。そのあとは平地の直売所を利用する。

 2回目はカミサンの親類と知人からのお福分け、3回目と4回目は平の直売所から買ってきた。

 穏やかな天気の朝、八つ割りにしたのを天日に干し、夕方取り込んで甕に漬け込む。ユズがあるときは皮をむいてみじんにし、さらに干しておいたミカンの皮や唐辛子、昆布を刻んで、段を重ねるごとに加える。

 白菜の重さがいくらだから食塩はいくらだ、などと量りで正確に割り出すようなことはしない。1枚1枚の葉にさらっと食塩を振りかける。

 最近はそれでいい塩梅(あんばい)に白菜が漬かる。この塩梅を手が、指先が覚えているので、漬け込み作業も簡単に終わる。

 この冬は、失敗らしい失敗はなかった。減塩気味ながら、白菜はいずれもほのかに甘かった。

 後輩から届いた白菜=写真=も漬け込んだらすぐ水が上がってきた。やや大きめのタッパーに4回目の残りを移して冷蔵庫に保管し、こちらを食べながら5回目が漬かるのを待った。

たぶん5回目もいい塩梅になっているはずだ、といいたいところだが……。1回目を試食したら、少ししょっぱかった。2回目は、まあまあだった。やはり、白菜にも大小がある。塩梅が難しい。

2024年3月16日土曜日

強い揺れに飛び起きる

                              
 ブログをアップして、再びふとんにもぐり込んだばかりだった。3月15日午前零時14分。地鳴りが迫ってくると思ったら、ガタガタ揺れ出した。

強い。飛び起きてベッドのそばの本棚を押さえた。カミサンも立ち上がった。と、次の瞬間には、揺れは去っていた。

テレビをつけて震源や震度を確かめる。こたつの上のスマホには「緊急地震速報」の文字と絵が表示されていた。

「ピャラン、ピャラン」と鳴り出したのだろうが、隣の寝室にいては聞こえない。鳴っても揺れと同時だったはずだ。

震源は福島県沖、深さは50キロ、最大震度は5弱、津波の心配はないというので、階段を見てから、ふとんに戻った。

階段の片側には本が積み重ねてある。5弱以上だと、これが崩れる。本は無事だった。

東日本大震災以来、いわきでは震度6弱を筆頭に、5強、5弱、それよりは弱い地震をたびたび経験してきた。

揺れからくる体感震度と気象庁の震度が、この13年の体験を通じてほぼ一致するようになった。階段に積み上げた本の落下具合が一番の目安になる。

いわき市が5強ないし5弱のとき、わが家では本棚や収納ダンスの上にある置物や写真額、平積みの本などが落下する。階段の本も崩れる。

今回、階段の本は無事だったから、最大震度の5弱ではない。朝になって、気象庁のデータを確かめると、震度5弱は楢葉町、いわきは4だった。

震度5弱は令和4(2022)年10月21日以来だという。そのときはどうだったか、ブログを見ると、記録が残っていた。

――(午後3時過ぎ、羽毛のような雲の写真を撮って)茶の間に戻り、画像をパソコンに取り込む。

と、ほどなく、庭の方からかすかな地鳴りが近づいてきた。時計を見ると、3時19分だ。来たな! 身構えた瞬間、ガタガタと家が揺れる。ん? 思ったより揺れは短い。すぐ通り過ぎていった。震度3か。体がそう判定する。

震源はいわき市の北方、双葉郡沖だ。最大震度は楢葉町の5弱で、いわきはやはり3。3レベルだと、「揺れたね」で終わる――。

 今回の揺れ方は1年半前の地震と似ている。サッと通過していったのも同じだ。震源も近い。

 その半年前の令和4年3月16日深夜の大地震は、震源が福島県沖、マグニチュードが7.4だった。相馬市、南相馬市で最大震度6強と、同じ浜通りでも北の方の被害が大きかった。

階段の本は無事だったが……。カミサンが朝、店に行くと、店頭に飾っておいたリーフレットや空き缶が落下していた=写真。

 店の飾りとして並べて置いたもので、軽すぎてずれ動いたようだ。2階は? 滑りやすい表紙のストックブックが1冊、畳に落ちていた。

2024年3月15日金曜日

僧侶は元鑑識官

                               
 毎年、東日本大震災が起きた3月11日に、犠牲者を追悼する式典や復興祈念の行事が行われる。

 今年(2024年)はその一つとして、いわき市泉町の「密厳堂」で、津波で亡くなった人々の慰霊法要が行われた。3月13日付のいわき民報=写真=で知った。

 密厳堂は元県警鑑識官の松井弘観(本名・利弘)さんが、平成30(2018)年、自宅に開いた高野山真言宗易行(いぎょう)派のお堂だ。

 松井さんの先祖に幕末の動乱期、泉藩の郡奉行だった松井秀簡(1826~68年)がいる。

奥羽越列藩同盟と新政府軍の戦い、いわゆる「戊辰戦争」が起きると、藩論は二分され、秀簡は非戦論を唱えて自刃する。

 明治の世に変わり、新政府は「神仏分離令」を出す。その結果、泉藩内ではおよそ60あった寺院が「廃仏毀釈」によって姿を消した。

 それから150年。若い美術家たちが泉をフィールドに新芸術祭2017市街劇「百五〇年の孤独」を開いた。密厳堂が第二の会場になった。

 そのときの様子がブログに残っている。――入り口は竹林を思わせるデザイン。間にしめ縄を飾った竹の鳥居、出入り口付きの土壁がつくられた。これらも作品だ。奥の密嚴堂は軒が竹の笹で飾られている。竹林もそうだが、建物もいい雰囲気だ。

密嚴堂の内部は、居間が二つ。東側の部屋には「地獄」が描かれ、西の部屋には床の間に大日如来の掛け軸、つまり「密嚴」(浄土)が表現されている――。

 さて、その松井さんだが、震災では鑑識官として壮絶な体験をした。13日の新聞記事からそれをたどる。

長期休暇を取って四国の八十八カ所巡礼を続けていた最終日、故郷が災禍に見舞われた。なんとかいわきへ戻り、災害現場に入ると、毎日、津波の犠牲者の検死に当たった。

「津波犠牲者の多くは手がかりになる免許証や、携帯などもなく、身元特定は困難だった」。変わり果てた姿で見つかる犠牲者を「苦しかったろう、無念だったろう」と悼みつつ、警察官としての職務を全うした、という。

先祖の松井秀簡の生きざま、泉藩内の廃仏毀釈、そして津波犠牲者の検死……。仏教への思いは募り、定年退職後に高野山で修行し、戊辰戦争150年の節目の年に密厳堂を開いた。

 記事の中に、松井秀簡について触れた拙コラム(令和4年10月4日付「夕刊発・磐城蘭土紀行)が紹介されている。付け足しだろうが、それがあることで記事が急に身近なものになった。

 このコラムは、いわき地域学會の市民講座で会員の中山雅弘さんが「松井秀簡~非戦を貫いた泉藩士~」と題して話したのを紹介したものだった。

 会場で初めて、中山さんに紹介されて松井さんにあいさつをした。松井さんの生き方には、あらためて頭の下がる思いがする。

2024年3月14日木曜日

カフェーと林芙美子

           
   いわきの大正時代と昭和初期の文学を振り返るたびに、当時の新風俗としての「カフェー」が気になる。

大正時代、磐城平にやって来た山村暮鳥が詩の種をまき、それが芽生えて花が咲いた。暮鳥の盟友である好間・菊竹山の三野混沌が、北海道へ移住した猪狩満直にあててはがきを書いている(昭和2年1月9日推定)。

「詩人がうようよと出てきて、平はまるでフランスのどっかの町ででもあるかのやう」な状況になった。

地元紙には、「平二丁目のカフェータヒラ」で詩の会が開かれた(大正14年)、「平カフェー本店」で詩集の出版記念会が開かれた(昭和4年)、という記事も載る。

当時の文学青年、あるいは一般市民は「カフェー」をどう受け止めていたのか、何か新しい資料が出るとすぐ読む癖がついた。

いわき総合図書館の新着図書コーナーに篠原昌人『女給の社会史』(芙蓉書房出版、2023年)があった=写真。「女給」と「カフェー」は切っても切れない関係にある。すぐ借りて読んだ。

私が客として飲み屋へ行くようになったのは、むろん就職してからだ。それでも「ママ」ひとりのスナックがほとんどで、「ホステス」がたくさんいるキャバレーやクラブとは縁がなかった。

『女給の社会史』によると、「女給」が「ホステス」と呼ばれるようになるのは、昭和30年代後半。東京オリンピックが節目になったようだ。その前後に高級クラブや大きなキャバレーが開業する。

で、まだ「女給」時代の大正・昭和の話だ。『放浪記』で知られる作家の林芙美子(1903~51年)は上京したあと、食べていくためにカフェーに勤める。

作家仲間の平林たい子や佐多稲子も、同じように女給をやりながら、文学修業を続けた。

芙美子は詩を書いていた。「大正十三年の春、芙美子は本郷にある南天堂という書店兼レストランを度々訪ねた。そこはアナキスト詩人の溜り場であった」

南天堂については、寺島珠雄『南天堂――松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社、1999年)が詳しい。ここに芙美子に関する記述が少なからずある。それも合わせ鏡のようにして読んだ。

南天堂は2階がレストランだった。そこに出入りしていた詩人は岡本潤・壷井繁治・萩原恭次郎・宮崎資夫・辻潤・小野十三郎・野村吉哉・五十里(いそり)幸太郎らで、大杉栄が殺されたことに怒りと興奮を抱く人間もいたという。

芙美子は最初、俳優で詩人の田辺君男に連れられて南天堂を訪れる。その後は田辺と別れ、ひとりで南天堂に現れ、詩人の間を遊弋(ゆうよく)した。

一方は東京、一方は磐城平。レストラン、あるいはカフェー、バー。女給がいた時代の空気を想像する。

平林たい子や佐多稲子の作品はまだ読んでいない。100年前の夜の世界を知るためにものぞいてみようか。そんな思いがわいてきた。

ついでながら、アナキスト詩人草野心平は、南天堂にはほとんど縁がなかったようである。

2024年3月13日水曜日

ペットボトル

                      
 3月11日は、日付が替わったばかりのころ、一度目が覚めて合掌をした。さらに午後2時46分、テレビの映像に合わせて黙祷をした。

 もう13年がたつ。といっても、年寄りの日常はそう変わらない。13年前にやっていることを、今もやっている。

 その同じことがしかし、おぼつかなくなったり、こたえたりするようになってきた。私もカミサンもまだ60代だった。それが後期高齢者の仲間入りをした。

 「まだ60代」と書いても違和感がないほど、体力的に「老衰」を自覚する場面はまずなかった。

 それから13年。家の中にあるちょっとした段差につまずく。玄関から居間へ上がるのに「ヨイショッ」となる。

わが家の隣に住む義弟も古希を迎えたころ、玄関から茶の間へ上がるのが難儀そうだった。玄関のたたきに高さ15センチくらいの踏み台を置くと、義弟ばかりか、私も上がり下りが楽になった。

それまでできたことが、できなくなる。あるいは一時的に、だれかに手助けしてもらわないといけなくなる。

カツオの刺し身が残るようになったのもそうだろう。若いころはマイ皿(径20センチほどの中皿)にいっぱいあっても平気だったが、このごろはわれら夫婦と義弟の3人で食べても、3分の1以上は残る。

「フレイルの悪循環」を意識するようになった。フレイルとは「か弱さ」とか「こわれやすさ」を意味する言葉だという。平成26(2014)年に日本老年医学会が提唱した概念、とネットにあった。

加齢や病気で筋肉量が低下する。足の筋肉量低下により歩行速度が落ちたり、疲れやすくなったりするため、全体の活動量が減少する。

全体の活動量が減少すると、エネルギー消費量が減り、動かないとお腹が空かないので食欲もなくなる。

慢性的に栄養不足の状態になると、筋肉量がさらに低下し、全体の活動量が減る。この悪循環を断ち切らないと、要介護状態になる可能性が高くなるという。

 ペットボトルのキャップ=写真=もフレイルの目安になるらしい。まだ開けられる。とはいえ、きつくて開栓に手間取るものが出てきた。

この開栓と老衰の関係をネットで検索すると、伊藤園と鹿児島大学医学部による共同研究の結果が載っていた。

 キャップの開け方には4つある。「側腹つまみ」「筒握り」「3指つまみ」、そして「逆筒握り」だ。

 逆筒握りは、ボトルを片手で持ち、片手(利き手)でこぶしを下にするようにして、キャップを回すやり方だ。

 研究結果では、前記3つはフレイルについて有意な関係は見られなかった。が、逆筒握りは筋力低下と関係があることがわかった。

大半の人間は逆筒握りでキャップを開ける。握力が低下すると開栓が困難になる。13年前はペットボトルの水の差し入れがありがたかった。今はその開栓ができるかどうかが問題だ。 

2024年3月12日火曜日

渓谷の雪

                      
 きのう(3月11日)の続き――。夏井川渓谷に住む友人が金曜日(3月8日)の朝、フェイスブックに雪の写真をアップしていた。わが隠居の手前の小集落に家がある。

 無事に冬をやり過ごしたと思ったら、春の雪だ。日曜日には隠居へ行くが、道路はどうだろう。雪が残っているようだと、出かけるのは控えた方がよさそうだ。

 とはいえ、平地の市街地では雨だった。ヤマとマチの違いだが、渓谷はヤマといっても階段の踊り場、つまりマチとヤマの中間のようなところだ。標高は200メートルほど。その先のヤマになると、積雪は格段に多くなる。

 毎週金曜日、川内村の「獏原人村」から卵が届く。8日の朝、スマホに連絡が入った。「今日は大雪で出られないので(卵の配達を)を休みます」「電波が悪くて通話できないのでメールで失礼します」

 渓谷より標高の高い山里は、川内からの情報でもわかるように、かなり雪が積もったのではないか。

 平地の雨は、午後にはやんだ。翌9日は午前中、小川町のいわき市立草野心平記念文学館で集まりがあった。

 朝、阿武隈の山並みを見ると、それほど白くはない。文学館までの山道もほとんど日陰はない。

 行けるところまで行こう。道路に雪が残っていたら、そこで連絡をして引き返す。そう決めて出かけたが、雪は道路にも、周りの林床にもなかった。

 そして、日曜日。隠居へ出かけるとして、渓谷を縫う県道小野四倉線には、要注意ポイントが3~4カ所ある。

平地から段丘に移り、さらに渓谷へと進むあたり、南側に杉林があって日がささない「地獄坂」が待つ。ここが最初のポイントだ。さいわい雪はなかった。

次のポイントは江田の手前のS字カーブ。隠居へ通い始めて29年、あまり日がささない場所でもあり、何度か圧雪状態を経験している。

当時は4輪駆動、タイヤは全天候型だった。道端には滑り止めの砂箱がある。というわけで、そのころはゆっくりだが、なんとか通り抜けることができた。

3月に入るとすぐ、全天候型タイヤを理由に、隠居の奥、川前の「いこいの里鬼ケ城」へ出かけたことがある。

山里だから一面、銀世界だ。帰りにゆるい下り坂のカーブで車が滑り、側溝にタイヤがはまってしまった。

JAFを呼ぼうと近所の農家へ行くと、主人がトラクターを出してタイヤを引っ張り上げてくれた。

3月のヤマの雪は怖い。それを体験しているので、ヤマに雪が降ったあとはいつも引き返す覚悟で渓谷へ向かう。

地獄坂は無事だったから、その先も……。S字カーブにも雪はなかった。あとは籠場の滝の前後のカーブだが、ここも道路は乾いていた。

降らなかったわけではない。すぐ消えたのだ。その証拠に、籠場の滝から隠居までの対岸、北向きの森は、林床に雪が残っていた=写真。

隠居の畑には、もう白いものはなかった。融けきる寸前の雪の残骸がほんの少しあったが、色はすでに透明だった。

2024年3月11日月曜日

列車が竹と衝突

        
 列車が衝突したのは、イノシシではなく、倒れかかっていた竹だった。3月8日付のいわき民報にJR磐越東線の事故が載っていた=写真。

 磐東線の列車の遅れといえば、気象以外ではイノシシがぶつかった、という事故が多い。場所としては夏井川渓谷あたりだ。

ところが、8日は違っていた。朝の8時55分ごろ、小川郷―江田駅間で、いわき発郡山行きの下り列車が、線路側に倒れかかっていた竹に衝突した。

列車は一時停止したあとに運転を再開し、倒竹は午前10時38分までに伐採されたという。

県紙の記事も参考にすると、この日、福島県内では南岸低気圧の影響で雪が降り、在来線でも運休や遅れが相次いだ。常磐線では各地で雪による倒竹が発生した。

夏井川渓谷でも積雪が見られた時間帯だ。時間からして郡山行きの2番列車だろう。ただし、下りの2番列車は小川郷発8時41分、江田発8時51分だから、少し遅れていたようだ。

小川郷―江田駅間のどこかということになるが、まず思い浮かぶのが草野心平の詩「故郷の入口」に出てくる夏井川沿いの竹林だ。

こちらは赤井―小川郷駅間だから、今度の倒竹とは関係がない。が、心平にとって「長い竹藪」は平駅(現いわき駅)から磐東線を利用して故郷の小川へ帰ったときの「原風景」でもある。

平駅から赤井駅へ、さらに小川郷駅へと列車が進む。赤井と小川の境には切り通しがある。

そのあと右手の視界が開け、道路と夏井川が線路に並走する。川岸には竹林が続く。「いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」

令和元年東日本台風では、平の平窪地区を中心に、夏井川流域で大きな被害が出た。その後、復旧・強じん化事業が進められ、現在も伐木、土砂除去などが行われている。心平の詩に出てくる「長い竹藪」も、それでかなり伐採された。

さて、倒竹はどこで発生したのか。グーグルアースの衛星画像とストリートビューを組みわせて、それらしいところを探る。

国道399号が県道小野四倉線をまたぐあたりに竹林がある。ほかにも何カ所かで樹木に混じって竹が生えている。

平地から渓谷へと入っていく小川郷―江田駅間は、その意味では緑が両側、あるいは片側から線路に迫ってくる。

前に北海道出身の詩人左川ちか(1911~36年)について書いた。汽車通学をしていたころを回想する作品がある。それも思い出した。

「少女の頃の汽車通学。崖と崖の草叢や森林地帯が車内に入つて来る。両側の硝子に燃えうつる明緑の焔で私たちの眼球と手が真青に染まる」(「暗い夏」)

3月10日の日曜日、夏井川渓谷の隠居へ向かいながら、磐東線沿いの竹林をチェックした。竹の最前列が伐採されたところがあった。

ま、場所はどこであれ、春の南岸低気圧が通過するときには、磐東線はイノシシだけでなく、雪による倒竹にも注意しないといけないことがわかった。

2024年3月9日土曜日

オノマトペ

                     
 図書館で面白そうだからと、借りてきた本ではない。カミサンが移動図書館から借りた本の中にあった。

 今井むつみ・秋田喜美著『言語の本質――ことばはどう生まれ、進化したか』(中公新書、2023年)=写真。

 難しそうだが、とりあえず読んでみることにした。「言語の本質を問うことは、人間とは何かを考えることでもある」。それはそうだ。

で、その鍵は? 一つは「オノマトペ」、もう一つは「アブダクション(仮説形成)推論」だという。

ほぼ毎日、ブログを書いている身としては、文章のモトとなる言語の本質を知っておきたい、という気持ちがある。それをわかりやすく説いているのだろうと期待したのだが、これがなかなか難しい。

コンピューターが出現し、AI(人工知能)が登場してからは、新たな視点が生まれた。そのひとつが「記号接地問題」であり、「アブダクション推論」というものらしい。

古い人間には、「演繹推論」や「帰納推論」は何となく想像できるが、「アブダクション推論」というのはまずイメージが浮かばない。この際、記号接地とかアブダクションとかはわきに置いて、オノマトペに絞って書く。

オノマトペは、欧米では擬音語に限定して考える人が多いが、日本の研究者は擬音語だけでなく、擬態語、擬情語も含む包括的な用語として用いるという。

それで真っ先に思い浮かんだのが、詩人の草野心平だ。令和3(2021)年春には、いわき市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平のオノマトペ 生きてゆく擬音」が開かれた。

なかでも有名なのが「カエル語」を写した詩だ。「誕生祭」から任意に二つほどを。「りーりー りりる りりる りふっふっふ」「ぎゃわろッぎゃわろッぎゃわろろろりッ」

私たちも日常的にオノマトペを使っている。「ドキドキした」「ハラハラした」。幼児語も含めると、「ワンワン」「ニャーニャー」「ザラザラ」「ヌルヌル」など。

朝ドラがらみでいえば、「東京ブギウギ」の歌詞がそうだろう。心が「ズキズキ」「ウキウキ」「ワクワク」。

身近すぎて気にも留めなかったが、「オノマトペは特殊なことばのように見えて、実は言語の普遍的、本質的な特徴を持つ、いわば言語のミニワールド」(はじめに)なのだとか。

さらには、「オノマトペは子どもを言語の世界に引きつける。それによって子どもはことばに興味を持ち、もっと聞きたい、話したい、ことばを使いたいと思う。(略)オノマトペに親しむことで子どもは言語のさまざまな性質を学ぶことができる」(第4章まとめ)。

身体から発しながら身体を離れた抽象的な記号の体系へと進化・成長する「つなぎ」の役目も果たすのではないかという。とりあえず、オノマトペをより深く知るきっかけくらいにはしないと。

2024年3月8日金曜日

ウクライナの俳句

                                
   日曜日(3月3日)の全国紙で、ウクライナに俳句を詠む若い女性がいることを知った。ウラジスラバ・シモノバさん、24歳。

日本の俳人黛まどかさんらの協力で、14歳から詠んできたロシア語の作品が、日本語の俳句として「翻訳」され、本になった。

 『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』(集英社インターナショナル、2023年)=写真=で、記事を読んだあと、いわき中央図書館にあるのを確かめて借りた。

翻訳された俳句は、いかにも「らしい作品」になっている。記事が紹介していたのは、ロシア侵攻前の作品2句と、侵攻後の1句だ。

最初の2句は「届かざる窓いっぱいの桜かな」「犬小屋のボウルも春の雨溜めて」。戦争になってからの句は「引き裂かれしカーテン夏の蝶よぎる」。

小説や詩とちがって、俳句は文語が基本、しかも五・七・五の17音節で構成される。テレビの「プレバト」でもわかるように、言葉を刈りこむことで世界が深く、広く、より明瞭になる。

「翻訳句集」に載る本人の文章によると、原作品は本人の「第一言語」であるロシア語で書かれている。

ロシア語で「俳句を詠むときは、1行目は5音節、2行目は7音節、というように、必ず五・七・五の音節を重視」する。とはいえ、それを日本流の「俳句」に翻訳するのは容易なワザではない。

その過程を知りたかったのが、「翻訳句集」を借りて読んだ大きな理由だ。それをまず、紹介する。

日本の中日新聞で彼女の存在を知った黛さんは、新聞社を介して彼女と連絡を取り、交流を重ねて句集刊行を思い立つ。

そして、「独りよがりの解釈に陥らないよう十数名の女性俳人と翻訳チームを結成した。さらに、句の背景を知るウクライナ人、ロシア語を母語とするロシア人にも参加してもらった」。

そのうえで、メールやオンラインで何度も打ち合わせをし、7カ月をかけて選句と翻訳、推敲を重ねた。

その結果、ウクライナ戦争を境に、それ以前の作品29句、以後の作品21句の計50句が本に収められた。

句集が成るまでには水面下での地道なやりとり、多くの人たちの協力、膨大な作業と時間を要したことがわかる。

彼女が俳句に出合ったのは、心臓病で入院した14歳のとき。病院にだれかが置いていった詩の本があった。この中で紹介されていた日本の俳句に目が留まり、それに感動したのがきっかけで俳句を始めたという。

冒頭の全国紙には、ロシア語で作った句をウクライナ語に翻訳する作業を進めている、とあった。「私の同胞の殺害を命じるときに使われる言語で、俳句は作れない」。重い覚悟だ。

今は生まれ育ったハルキウから避難先で暮らすウラジスラバさんの戦争以後の作品から2句。「地下壕に開く日本の句集かな」「警報の空を旋回つばくらめ」

ツバメは東日本大震災と原発事故のあった年にも日本へ飛来した。人のいなくなったエリアは、ツバメにどう映っただろう。

2024年3月7日木曜日

樹液をなめるヒヨドリ

        
 「くちばしの黄色い鳥がいる!」。夏井川渓谷にある隠居の庭で、カミサンが声を上げた。

 玄関の前には車を止めるスペースがある。その周りにカエデやヤナギなどの成木が生えている。そのうちの1本に「黄色いくちばしの鳥」が止まっていた。

 よく見ると、ヒヨドリ=写真(資料:撮影は2011年2月)=だった。ヒヨドリは、くちばしは黒っぽい。

「黄色いくちばし」と誤認したのは、ヒヨドリがとりついていた幹の傷のようだ。100円玉くらいの大きさで、樹皮がはがれている。その内側の皮とヒヨドリがつながって「黄色いくちばし」に見えたのだろう。

 しかし、なぜ幹に傷が? その木はたぶんカエデ。小さな傷から樹液がしみ出ているために、下の樹皮が黒くぬれていた。

 キツツキでもあるまいし、ヒヨドリがそこにずっといるということは……。樹液をなめていたにちがいない。

 帰宅したあと、「ヒヨドリ 樹液」で検索すると、似たような傷口と、ヒヨドリが樹液をなめている写真に出合った。

 そうか、そうだったのか。ヒヨドリがキツツキみたいに、幹にとりついていた理由がわかった。

これは北国の例。まだ花の少ない早春は、アカゲラが傷つけ、しみ出てきた樹液のおこぼれをいただく鳥がいる。ヒヨドリだけではない、シジュウカラやエナガもそうだという。

なるほど、鳥たちは鳥たちでつながっているのだ。隠居の庭のカエデの幹に傷をつけたのは、どんなキツツキだろう。コゲラは姿を見たことがあるが、アカゲラはまだない。いずれにしてもキツツキには違いない。

子どもがまだ小さかったころ、夜の石森山(平)へ「樹液酒場」を見に行ったことがある。昼間はオオムラサキ・スズメバチ、夜はカブトムシ・クワガタがクヌギの樹液をなめていた。

その樹液を昼間、なめてみたことがある。わりと冷たくて甘酸っぱかった。これが虫たちの滋養源かと、妙に納得したものだった。

最近は、春、川内村の「獏原人村」から「シラカバ水」が届く。シラカバの樹液を口にした瞬間は、水と変わらない。が、あとからほのかな甘みが広がった。春先限定の、貴重な森の恵みだ。

焼酎の「シラカバ水割り」も試してみた。まず焼酎を口に含む。次に、チェイサーとしてシラカバ水を流し込む。なんというか、シラカバ水の甘い後味が際立つように感じられた。春の新しい楽しみ方には違いない。

 カエデの樹液は、人間の世界では「メープルシロップ」として珍重される。それを最初に発見したのは、人間ではない、アカゲラ、そしてそれに続くほかの鳥たちだった?

 むろん、ヒヨドリのふるまいから妄想を膨らませただけだが、その妄想自体が楽しいのはなぜだろう。

 それともう一つ。最低気温が氷点を下回ると樹液の流出は止まるそうだ。樹液で幹がぬれていたということは、春が兆してきた証拠だろう。

2024年3月6日水曜日

水道工事

                      
 わが家の道路向かいの家が解体されて更地になった。結婚して子どもができたあと、カミサンの実家(米屋)の支店をまかされるかたちで、戸建ての市営住宅から今の家に移った。以来、50年近く見てきた家が消えた。

 平屋の母家と隠居、板張りの土蔵、歩道と接する生け垣。昔ながらの、ごく当たり前の屋敷だったのだが……。

 この古い家を、というより土蔵を介して「向かいの家」を意識するようになったのは、東日本大震災のあとだ。

 あのとき、東北地方は激震に見舞われた。不幸中の幸いというか、沿岸部から5キロも内陸に入っているので、津波は免れた。

 わが家は「大規模半壊」に近い「半壊」だった。で、プレハブの離れは解体したが、母家は一部を修繕しただけでそのまま使っている。

 道路向かいの土蔵は解体されて、簡易な2階建ての物置ができた。生け垣はブロック塀に替わった。その前後の流れをブログに書いていた。それを抜粋する。

【2011年4月28日】道路向かいにある家の土蔵が解体された。311で傾き、4・11と412でさらにダメージを受けた。

真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。

幹線道路沿いには、ほかに土蔵は見当たらない。歩道側の生け垣とよく合い、独特の雰囲気を醸し出していた。土蔵の前を下校中の小学生が通る。絵になる光景だった。

ブロック塀で仕切られた駐車場が土蔵に隣接してある。311以後、車の持ち主は塀から5メートルも離れて車を止めるようになった。土蔵が崩壊すればブロック塀ごと車が押しつぶされる。容易に想定される事態だ。その危険性はひとまず解消された。

あの日。外に飛び出すと、近所の石塀が崩れ、あちこちで屋根瓦が落ち、向かいの土蔵が傾いていた。消防の車が来て、「人的被害は?」「ない」で、次のところへ移動した。

【2023年12月27日】先日、物置から解体が始まった。母家も含めて更地になるのだという。毎日見てきた風景だから、残像がまだなまなましいが、やがてはどんな家で、どんな人が住んでいたか、も含めて、記憶から抜け落ちてしまうにちがいない。

ましてや、行きずりの新しい更地などは「前に何があったんだっけ」となる。グーグルのストリートビューさえ、つかの間の記録にすぎなくなった。 

――さて、更地になったあとは宅地として分譲されるのだという。先日、そのための水道工事が行われた=写真。

いったい何軒が建つのか。2軒分はらくにある。まさか4軒はないだろうと思うが、最近の建売住宅を見ると、その可能性もゼロではない。

ま、それは新しい所有者の考え次第だが、新住民はどの区内会に入るのか。旧所有者は隣の区内会に入っていた。それを踏襲するのかどうか、その時点で新しい動きが出てくるかもしれない、などと別の区内会の人間は考えてしまう。