2020年8月31日月曜日

ミンミンゼミの目覚める時刻

           
 チョウやアシナガバチのほかに、セミもときどき茶の間に現れる。ある夜は、ミンミンゼミがやって来て、電灯のひもに止まった。指に移すと、そのまま静かにしている=写真上1。ミンミンゼミは茶の間で一夜を明かした。

 このごろは、夜10時に寝て朝4時には起きる。30分ほど早まるときもある。年を取ったせいもあるが、この酷暑続きではまともに“仕事”ができるのは、早朝の3~4時間に限られる。エアコンのない家ではそうするしかない。

 夏至のころは、4時に目が覚めると窓の外がうっすら明るかった。今はまだ暗い。7月から8月に暦が替わるころには、起きる前にミンミンゼミが鳴き出すこともあった。が、このごろは人間(私)の方が早起きだ。

 たまたま月遅れ盆の終わりから、わが家の庭で「ミンミンミンミーン」と鳴き出す時刻をメモしてきた。それによると、8月16日・4時49分、18日・同、22日・4時45分、23日・4時44分、26日・4時53分、29日・4時44分、30日・4時54分と、5時前16~6分の間に目覚めて鳴き出している。

けさ(8月31日)はゆうべの雨の延長なのか、白みはじめた空は曇天、風もある。ミンミンゼミは5時になっても鳴かない。(追記:7時34分に鳴き出した)

 8月前半はメモをしなかったので、昔の記録を参考にすると――。2018年8月初旬。未明の4時過ぎには「ミンミンミンミーン」と鳴き出すのだが、4日は寝坊したのか5時2分だった。4時20分のヒヨドリに後れを取った。2019年8月10日には早朝4時35分にミンミンゼミが鳴き出した。夕方にはアブラゼミのジリジリジリジリと二重奏になった。

 ミンミンゼミが鳴き出すのは、日の出の「前」なのか、「後」なのか、それとも「同時」なのか。いわきの日の出の時刻といえば、小名浜だ。今年(2020年)の8月1日の日の出はおよそ4時42分、同30日はおよそ5時6分だ。それから推測すると、日の出の15~20分前には鳴き出す。その時間帯にはもう庭は明るくなっている。

 人間はしかし、セミのようにはいかない。夜は扇風機=写真上2=をかけたまま寝る。年が年だけに、自覚症状がなくても熱中症になってしまうときがある。それを予防するためだが、体を冷やし過ぎると心臓マヒを起こしかねない。そんな心配もある。

 確か、扇風機をかけ始めてすぐだったように思う。カミサンが7時になっても起きてこない。「7時だよ!」。声をかける。ピクリともしない。もう一度、「7時だよ!」と大きな声でいうと、やっと体が動いた。生きていた! 内心ホッとする。扇風機のおかげで寝不足が解消されたのだろう。

 ミンミンゼミの鳴き始めた時刻をメモするように、カミサンの起きた時刻をメモすることはしない。が、朝起きたとき、呼吸しているかどうかを確かめる。そんなことはなんとなくしている。このごろはそうして一日が始まる。

2020年8月30日日曜日

台風19号㊾家屋解体

        
 去年(2019年)10月12日、台風19号がいわき市を襲った。11日午後3時から13日午前6時までの39時間に、夏井川水系の川前では244.0ミリ、平では230.5ミリの雨が降った。平地の平・平窪地区を中心に、9人が死亡し、8000戸超が床上・床下浸水をした。平浄水場も浸水し、断水は約4万5400戸、いわきの世帯数の3分の1に及んだ――。

それから間もなく11カ月。夏井川渓谷と平地の境、小川・高崎の谷底(こくてい)平野先端部では重機が動いている。川岸の水田が土砂で埋まった。その除去作業だろうか。平窪の下流にある平・中塩地内では、民家の解体作業が始まった=写真。

中塩の家には知人の娘さん一家が住んでいた。2階建ての借家の1階部分が浸水した。

夏井川渓谷の隠居へ行くのに、必ず家の前の道路を通る。8月に入ると家の手前、道路沿いの非住家が解体された。次に通ると、住家の解体が始まった。今度通ると、更地になっているかもしれない。

台風から半月後、初めていつもの田んぼ道(平・神谷~中塩~平窪)から国道399号(県道小野四倉線)に抜けて、渓谷の隠居へ出かけた。行く先々で異様な光景を目にした。

中塩では、娘さんが夫たちと片付け作業をしていた。作業の邪魔になっては――と思いながらも、顔を出した。「(見舞いに)来てくれただけでうれしい」。そういってくれた。

 それからしばらくして、娘さんがわが家へやって来た。「豊間の市営団地に一時的に引っ越した」。「市営団地」は津波被災者用に建てられた災害公営住宅だった。

知人とは昔、家が近所だった。わが家は男の子が2人、知人の家は女の子が2人。子どもの幼稚園が同じになったため、朝は私が子どもたちを幼稚園へ送り届け、午後は知人の奥さんが迎えに行ってくれた。

 子どもたちがまだ幼稚園へ通っているうちに、私たちは平・神谷(かべや)へ引っ越した。

 知人が亡くなり、通夜の席で再会して以来、娘さんとのつながりが復活した。娘さんは父親が入院中、父親が店で出していたカレーの指南を受けてレシピをまとめ、通夜の客に振る舞った。今も週末、時間限定でカレーを販売することがあるらしい。

被災地では、改修して以前のように人が住んでいる家もあるが、まだ「仮暮らし」をしている人も多いことだろう。娘さん一家もこれからどうするのか。大家さんとの話し合いでそこに家が再建されるのを待つのか、それともよそに住まいを求めるのか。今度会ったら聞いてみよう。

2020年8月29日土曜日

サンダルのノリまで溶けた?

        
 とにかく暑い。朝から暑い。年金生活者なので、定時に職場へ行って仕事をする――ということはない。が、家業(米屋)・家事手伝いのほか、月に3回の回覧資料配布をはじめとする行政区の仕事がある。米配達はともかく、電話番や糠床の管理は家の中の仕事だから、直射日光にさらされることはない。

 きのう(8月28日)は、朝、行政区に入金のあった古紙回収売却金・市民交通災害共済組合団体取り扱い手数料をいわき信用組合へ行って下ろした。このカネは、回覧資料配布に合わせて区の会計さんに渡す。「ついでにカネを下ろしてきて」というので、銀行へも行った。

 帰りは夏井川の堤防に出て、南から北へ流れて行く綿雲を撮った=写真上。街なかを走っているときには、「青空に浮かんだ白い金魚たち」だった。絵になる――そう思ったが、雲はいつもそのままではいない。堤防から眺めたときには「白い金魚」が何匹も蒸発していた。

 服装は、いつもはTシャツに半ズボン、履物はサンダル。この日は少しすまして半そでシャツにした。東に向かって車を運転していると、日光が右の腕と太ももを直射する=写真下。これが、焼けるように熱い。

2010年9月に初めて台湾を旅行し、マイクロバスで台北の下町を通ったときの光景が思い浮かんだ。家の庇(ひさし)が歩道まで伸びている。戸を全開した家の入り口で、じいさんがランニングシャツに半ズボン、サンダル履きの姿でイスに座っていた。(庇が連続して、通りは「アーケード街」のようになっている。日差しと降雨を避けるための台湾人の知恵だ)

私が小学生のころ、阿武隈の山里では夏、子どもだけでなく大人もランニングシャツだった。日本の夏は熱帯並みに暑い。台湾のじいさんを見ながら、阿武隈の山里の、昔の大人を思い出していた。今は、半ズボンはともかく、ランニングシャツで外出するのははばかられる。で、ずっとTシャツ、時に半そでシャツにしている。

 それでも今年の暑さは尋常ではない。立秋をとっくに過ぎたというのに、真夏日が続いている。サンダルは前日に買ったばかりの新品だ。

 何年も履いていたサンダルがおかしくなった。いわき駅前の総合図書館へ入ったとたん、右足裏がねばねばし始めた。どこかでチューインガムを踏んづけたか。見たら、何もない。足の甲を固定するサンダルのアッパーが、中敷きと底の間からはがれ始めていた。アッパーを接着していた“ノリ”が溶けて足裏に触れ、ねばねばした感じが伝わってきたのだった。

 図書館で本を借りたあと、ラトブ1階外側の靴屋でサンダルを買った。古いサンダルは持ち帰った。もしかして、これも酷暑のせい? 茶の間の庇にできたアシナガバチの巣が酷暑で根元のノリが溶けだし、巣全体がそっくり落下したように、サンダルも玄関で直射日光にさらされ続けたために、やはり接着剤が溶けだして、アッパーがはずれたか。

 家に持ち帰ったあと、中敷きとサンダル底の間にアッパーの接着部分を差し込んだ。涼しくなったらまた接着効果が“復活”するかもしれない。そのときには酷暑が原因だとわかる。庭だけならまだ突っかけとして利用できる。

2020年8月28日金曜日

ネキリムシとホオズキカメムシ

        
 週半ばのきのう(8月27日)は早朝、夏井川渓谷の隠居へ行って、キュウリとナス、トウガラシの「大辛」「激辛」を収穫した。併せて、大辛にごみ袋をかぶせ、茎に群がっているホオズキカメムシを揺すり落として“一網打尽”にした=写真上。

隠居の菜園では三春ネギ・ナス・トウガラシ・キュウリを栽培している。農薬を使わないので、行くたびに虫が群がっている。4日前の日曜日(8月23日)はこんな具合だった。

長梅雨に耐え、砂漠のような酷暑が続いて元気を取り戻したはずのネギだが……。何本か葉がちょん切られていた。ネキリムシ(ヤガの幼虫)のしわざに違いない。周辺の土を指でほじくり返すと、3~4センチの黒っぽいネキリムシが丸まって出てきた。3匹をブチッとやった。

このところ毎週、ネギをチェックしてはネキリムシを退治している。これまでにブチッとやったのは10匹ちょっとだろうか。おかげで春に定植したあと、勝手に“間引き”が進んだ。

せっかく育ったネギの葉なので、枯れた部分を取り除いて食べることにした。ナスやキュウリなどと一緒に写っているのが、ネキリムシ被害にあったネギの葉だ=写真下1。

 ネギのあとは、草引きを兼ねてフィールドカートに座って、トウガラシをじっくり観察した。葉先に赤みがかった粒々が整然と並んでいる=写真下2。ネットで調べたら、ホオズキカメムシの卵だった。成虫も茎にびっしりとりついている。この虫はナス科の害虫で、茎から吸汁する。

 成虫と卵と――。ネットで効果的な防除法をさぐり、手順を頭に描いて、きのう、ごみ袋で一挙に取り除いた。卵は葉ごと除去した。ほかの葉も裏返すと、卵が付着していた。これも取り除いたから、しばらくは吸汁被害を抑えることができるはずだ。

 それにしても、と思う。正六角形がつらなるアシナガバチの巣のハニカム構造はほれぼれするほど美しい。ホオズキカメムシの幾何的な産卵もまた、害虫であることをわきにおけば見事というほかない。

 それ以上に、無傷のナスは紺色がすばらしい。これまで20年以上家庭菜園を続け、ナスも10回くらいは栽培したが、この夏ほど「茄子紺(なすこん)」が輝いて見えたことはない。ゆうべ、さっそく煮びたしになって出てきた。植えつけたときの様子、生(な)り始めたころの姿を思い出して、いとおしみながら食べた。

2020年8月27日木曜日

ある晩の食卓

        
 ある晩の食卓に並んだおかずは、すべて「お福分け」だった=写真。7月1日に「お福分けの習慣」と題して書いた。今回はいわば、その続編――。

 インゲンのてんぷらとナスの煮びたしは知人からいただいた。知人はわが家から車で5分ほどのところに住んでいる。孫が今春、ローカルテレビ局のアナウンサーになった。ハラハラしながら見ているという。なかなかどうして、堂々たるものだ。

 赤いスイカと黄色いスイカ、小瓶に入った鹿児島風ゴーヤーの酢漬け(梅肉入り)は後輩から。スライスしたキュウリは糠漬け。近所のカミサンの知人が「昔きゅうり」風のずんぐりしたものを持ってきた。写真には写っていないが、炊き込みご飯も、てんぷら・煮びたしと一緒に知人から届いた。カミサンは「料理しないですんだ、家計も助かる」と大喜びだった。

 ゴーヤーの酢漬けはすんなり口に入った。鹿児島風とあるのは奥さんの母親がつくったものを現地で食べたからか。今年(2020年)初めてゴーヤーを植えつけ、義母の味の再現を試みたのだという。

食べた瞬間、甘酸っぱさが広がり、ゴーヤーの苦さがほとんど気にならない。食べ終わったあと、かすかにほろ苦さが漂うが、それも逆にゴーヤーをおいしく食べたという満足感と結びついている。

 後輩は実にいろんなものを栽培している。スイカは「甘くなければ捨てて」といっていたが、それなりの甘さだった。冷えたのを、晩酌の合間に食塩を振って食べた。茶の間は夜になっても30度を超えたまま。汗とともに出た塩分の補給といい口直しになった。

 夏井川渓谷の隠居の庭で栽培しているトウガラシも続々と実を付けている。「大辛」の青トウガラシはへきえきする辛さだが、「青南蛮(あおなんばん)の醤油(しょうゆ)漬け」にしたら、うまい具合に辛み成分が醤油にしみだし、とびあがるほどの辛さではなくなった。

ガバガバ食べるものではない。試食を兼ねて。小皿に少し取って晩酌のつまみにした。いける。といっても、珍味の部類だが。冷ややっこに、たれ(醤油)ごと青南蛮を載せたら、辛みがほどほどに溶けあい、豆腐とからみあって乙な味だった。

道の駅で買った漬物にも大辛のトウガラシが入っていた。こちらはわきによけて、キュウリその他をご飯のおかずにしている。このままだと、トウガラシだけが残る。焼酎のチェイサー用の水にトウガラシを入れたら、次第に水が辛くなった。梅干しを入れれば「梅ジュース」だが、青南蛮は「辛い水」だ。それはそれで発汗を促す作用がある。

さて、「お福分けの習慣」にも書いたことだが――。私たちはカネを出してモノを買う。消費者である以上、それはこれからも変わらない。しかし、「100%消費者」では、世界が凍りついたときにサバイバルができない。コロナ禍がそれを教える。

家庭菜園をやる。「コンシューマー」(消費者)であっても、「プロデューサー」(生産者)になる。自分でつくったものや、山野から採ってきたものを加工する。食べる。お福分けをする。『第三の波』のアルビン・トフラーがいう「プロシューマー」(生産消費者)として生きる。

もっといえば、40代で家庭菜園を始める前、自分の仕事にむなしさを感じていた。人に話を聞くだけ、なにか創造的なことをしているだろうか――と。ミラン・クンデラの小説のタイトル、「存在の耐えられない軽さ」がもやもやとした胸の内をいい表していた。

この「存在の耐えられない軽さ」を救ってくれたのが、週末の土いじりだった。大地に二本の足で立って野菜をつくっている、という「労働」の実感が、逆にコラムを書くエネルギーになった。だから、国が、メディアが「新しい生活様式を」というたびに、いや、古くて新しい生き方がある、プロシューマーになればいいのだと、自分に言い聞かせる。

2020年8月26日水曜日

いわきの「ナラ枯れ急増」

 きのう(8月25日)の夕刊いわき民報は、いわき市内のナラ枯れの実態を1面で報じていた=写真。ナラ枯れの経緯・問題点がよくわかった。

私は、記事を読んで、いわきの山はこれからさらに“茶髪”になる――そう思った。ナラ枯れが水源地帯に及べば水害を増大させる要因になる――そうも思った。

半世紀近くいわきの自然をウオッチングしている。そんな人間の直感のようなものがはたらく。3・11を経験したことも大きい。

あり得ないことがおきるのではなく、あり得ないと思いこんでいた想像力をはるかに超える自然現象、人間にとってはときに大災害がおきる。杞憂(きゆう)ではもうなくなった。去年の台風19号を想起すればわかる。

民有林に限ってだが、去年(2019年)はいわき市内で110本ほどだったナラ枯れが、今年は数百本に急増したという。景観、生態系への影響にとどまらず、「倒木、水源かん養機能の低下などから土砂災害などにつながる危険性が懸念されている」という。

国有林はどうか。磐城森林管理署のホームページには、ナラ枯れの情報は見当たらない。被害がない、ということなのだろうか。福島県内の森林は、国有林42%、民有林58%だそうだ。ナラ枯れが広範囲に及べば、国有林も被害を免れない。それだけ各流域の土砂災害・水害の危険性が増す。市民の生命・財産にかかわる話だ。国有林を含むナラ枯れの全体像を早く知りたい。

拙ブログで8月15、17日の2回、ナラ枯れについて書いた。月遅れ盆の入りに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。そのとき初めて、山が“茶髪”になっているのに驚いた、それからは車で出かけるたびに平地の丘陵、郊外の里山と、どこがどう“茶髪”になっているかをチェックしている。

いろいろ話を聞くと、いくつかの拡散ルートが想定されるらしい。いわきの北隣・広野町でも“茶髪”が広がっており、市内の大久ではそちらから被害が拡大したという見方がある。

福島県いわき農林事務所・いわき市などによると、いわきでは①おととしの平成30(2018)年、田人地区ほかでコナラなど50本のナラ枯れが初めて確認された②去年は勿来・大久・小川などの中山間地のほか、平地の平・内郷・錦といった街中でも被害が相次いだ③今年は8月2日の梅雨明け後、市民から相次いで情報が寄せられた、という。

原因ははっきりしている。体長5ミリほどの小さな昆虫・カシノナガキクイムシ(カシナガ)が伝染病を媒介する。

雌がナラ菌やえさとなる酵母菌などをたくわえる「菌嚢(きんのう)」を持っている。雄に誘われて大径木のコナラなどに穿入(せんにゅう)し、そこで産卵する。菌が培養される。結果、木は通水機能を失い、あっという間に枯死する。カシナガの幼虫は孔道内で成長・越冬し、翌年6~8月、新成虫として一帯に散らばるので、被害もまた拡大する。

コナラやクヌギは、かつては薪(まき)や木炭に利用された。カシナガが好む大径木になる前に伐採・更新された。そして、原発事故。シイタケ原木としての利用も減った。3・11からでさえ10年近くたつ。阿武隈高地ではそれだけ年輪を増し、カシナガが好む太い木が増えている、ということになる。

   今後の見通しは――。「カシナガをそのまま放置すると、5年後に個体数が1万倍に増えるという研究データがある」そうだ。それがそのままナラ類を襲ったら、山はどうなるか。“茶髪”が“卒塔婆(そとうば)”になり、保水力が低下する。土砂が崩壊する。洪水を引き起こす。私にはそんなイメージしか浮かばない。 

2020年8月25日火曜日

人が集い、憩える街角

 いわき市の中心市街地・平には、人が集い、憩える街角がない――。若いときからそう思ってきた。

44年前(1976年)、平で発行されていたタウン誌「ぺぇべぇ」に、「いわきには“街角”がない」というタイトルで文章を書いた。今読むと、20代後半の若書きで、勝手にとがっていた。要は、パリのカフェ「フーケ」のような店が平の街角にほしい――というのが趣旨だった。

「フーケ」を持ち出したのは、たまたまエーリヒ・マリア・レマルク(1898~1970年)の小説『凱旋門』(山西英一訳、新潮文庫)を読んだからだろう。山西訳では、「フーケ」は「フーケ―」になっている。44年前の拙文でもそのように引用している。

 舞台はパリ。ナチス・ドイツにフランスが宣戦を布告する。小説の主人公のラヴィック(祖国を逃れてフランスに不法入国したドイツ人医師の偽名)と、ロシアからの亡命者モロソフが最後に交わす会話。「戦争がすんだら、フーケ―でまた会うよ。」「どっち側だ? シャン・ゼリゼーの方か、それともジョルジュ五世通の方か?」「ジョルジュ五世通の方だ。」

 フーケは、シャンゼリゼ通りとジョルジュ五世通りが交差するところにある。通りに開かれた店で、外にもテーブルとイスが置かれている。「客は外の風景をながめながら、お茶を飲んだり、おしゃべりを楽しんだり、時には歩行者と視線を交わして『ニコッ』としたり……」。フランスへ行ったことはないが、そんなカフェが平にもあったらいいな、と思った。

当時の平・本町通り――。「西から歩いてみると、とっかかりの街角は廃屋と駄菓子屋。その次が秋田銀行と帽子店、西村横丁をはさんで呉服屋、薬局、銀座通りとの交差点に楽器店、駐車場、常陽銀行、洋服店。メインの平大通りには死亡宣告を受けたような三幸デパート、洋服店、駐車場、七十七銀行。そしてまた、駐車場、駐車場……」

 今はどうなっているか。西端には空き地もあるが、ティーワンビルと公園ができた。西村横丁は拡張されてレンガ通りになり、常陽銀行の向かい側には三町目館ができた。

そして、いわき駅前の平大通り。三幸デパートは解体されて駐車場に変わり、向かい側の駐車場は富士(現みずほ)銀行になった。洋服店は、今年(2020年)春、ゲストハウス&ラウンジの店に変身した=写真上1。

店を利用した“孫”の母親は、ソフトクリームがうまい、という。日曜日(8月23日)、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした帰り、初めて店に入った。午後1時に近かったので、冷製パスタで腹を満たしたあと、目当てのソフトクリームを食べた。パスタに載っていたキュウリ、これは焼いて軟らかくしたものらしい。冷たいパスタに温かいキュウリがよく合っていた。

店は北側(本町通り)と東側(平大通り)がガラス張りになっている。東の窓際のテーブルに陣取った。歩道に設置されている「じゃんがらからくり時計」がよく見える。記憶では偶数時間に人形が飛び出してジャンガラの太鼓と鉦(かね)を鳴らす。ところが、今は奇数時間でも人形が現れるらしい。1時になるとメロディーが流れ、人形が「チャンカ、チャンカ」と演奏を始めた=写真上2(1体は故障したのか出てこない)。

  店は料金前払いでセルフサービスだった。料理ができるまでは、通りを行く人を眺めたり、カミサンの話に生返事をしたりして待った。そう、銀行や駐車場ではなく、人の憩える街角を夢想すること半世紀近く――やっと平の街角にもフーケのような店ができたのだ。 

2020年8月24日月曜日

死を見つめる日々だったか

                    

 庭のフヨウが咲き出した=写真。朝起きて、台所の軒下にあるキュウリの様子をチェックし、玄関の左右にあるフヨウの花を眺める。それから新聞を手にして家に入る。

おととい(8月22日)は、フヨウの花が一気に20~30個も咲いていた。一日花だから、前日に咲いた花はしぼんでいる。落下しているのもある。これからしばらく、咲いてはしぼみ、咲いてはしぼみが続く。

 新聞を読む前に、折込チラシの枚数を数え、「お悔やみ情報」をチェックする。そこにK君の名があった。「〇×がんになった」。何カ月か前、そう打ち明けられた。だから、驚きというよりは、ついに、という思いが先にきた。

 同じころ、いわき民報社に入社した。編集と営業、畑は違っても、ライバル心のようなものがあった。年齢も同じだった。ユーモアがありながらも辛辣(しんらつ)――それが彼の語りの特徴だった。

彼は早々と組織に見切りをつけ、個人運送業を始めた。東日本大震災のときには、仕事で沿岸部を巡っていた。かろうじて大津波にのみこまれずにすんだ。本人からその話を聞いたのは、彼が隣の区の区長に就いたあとだ。

彼も私も、もとは笠間藩領の地域の住人だ。大きな行政区だったので、おおよそ四半世紀前に三つの区に分かれた。私のいる区は、いわば“分家”。“本家”は2年ごとに区長になる人が決まっている。こちらは後継区長が決まるまではバトンタッチができない。で、彼が“本家”の区長になると、2年間、ちょくちょく顔を合わせた。

 私のブログもフェイスブック経由で読んでいた。がんであることを打ち明けられてからは、彼の「いいね」は「生きてるよ」のサインになった。

 彼が亡くなったのは、「お悔やみ情報」によれば8月19日の深夜だ。最後の「いいね」は、その25日前の7月25日(「『黒い半纏』の話に」)だった。

彼は毎日、「いいね」を押すタイプではない。いや、毎日読んでいたわけでもないだろう。7月は20日(「隠居の庭木の剪定終わる」)、21日(「新・洪水ハザードマップ」)、22日(「タオルが必要なとき」)、23日(「キュウリの古漬けづくりを始める」)と連続して「いいね」を押している。死を見つめる日々、たまに私のブログを読んで彼は何を思ったか――。

 そういえば、3年前の2017年8月末、やはり庭のフヨウが豪勢に咲き出したころ、シャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフから、いわき市出身のNHK解説委員早川信夫さんが亡くなったという知らせを受けた。シャプラに思いを寄せていた記者だった。享年63。脳出血による突然の死だったという。

彼は震災後、ふるさといわきに足を運び、原発避難者などを継続して取材していた。わが家へ話を聞きに来たこともある。

フヨウの花が咲くたびに、死者の顔が、思い出がよみがえるようになるのだろうか。

2020年8月23日日曜日

アシナガバチの巣が消えた

                     

茶の間の縁側の上、波形のポリカーボネートの庇(ひさし)に、アシナガバチが巣をかけた。下から様子をうかがうたびに、正六角形のハニカム構造の巣房(すぼう)が大きくなっている。でも、わが家の軒下では、最大径10センチを超えるようなことはない。

巣と茶の間はガラス戸1枚で遮られているだけ。この暑さだから、早朝から夜更けまで戸は開け放たれている。ときどき茶の間にアシナガが現れる。黙っていれば、いつかは巣に戻る。

私はいちおう“共存”派だ。カミサンも渋々それに従ってはいる。が、目の前に現れると、「キャー」「イヤー」となる。叫べばかえってハチを刺激する。そのつど、静かにしているようにいうのだが、怖いものは怖いから、体が反応してしまうようだ。

おととい(8月21日)は、朝、いつものように歯磨きをしながら“観察”すると――。巣が! 巣が、影も形もない! スズメバチに襲撃されたとしても、巣は残る。だれかがめちゃめちゃにしたとしても、巣の痕跡はある。それが、巣の付け根からきれいさっぱり消えてなくなっている。

 なぜ巣が消えたのか――あれこれ推理してみる。私もカミサンも、巣には全くノータッチだ。第三者が勝手に除去した? あり得ない。スズメバチの襲撃もあり得ない。

巣は消えても、アシナガバチは茶の間に現れる。扇風機に飛び込んで、はじきとばされて息絶えた個体もある。最初は、巣を探してパニックになっているのではないか――そう思ったが、茶の間に現れる回数は以前とそう変わらない。いつもと同じなのが、おかしい。

 アメリカのデスバレーで8月16日の気温が54.4度に達したという。ここでは1913年、56.7度の世界最高気温を記録した。クレヨンを置くと、ほどなくドロドロに溶けて流れ出す。テレビが「死の谷」の炎熱地獄ぶりを報じていた。

それを見たとき、ピンときた。庇のポリカーボネートが直射日光でガンガン熱せられ、40度はおろか50度、いや目玉焼きができるくらいになった。ポリカーボネート自体は耐熱性があっても、アシナガバチの巣を支えていた根元の“ノリ”が、連日の酷暑で溶けてゆるみ、そっくりそのまま落下したのではないか。

 つまり、こういうことだ。アシナガバチは樹皮の繊維と自分の唾液(だえき)で巣をつくる。その巣は横から見ると、ワイングラスに似る。巣房がボウル、柄(脚)がステム、付け根がプレート。ワイングラスと違って、アシナガバチのステムはとても短い。プレートも小さい。巣そのものは軽くて強い和紙のようだが、付け根の“ノリ”が異常な暑さにゆるんで、ツルツルのポリカーボネートからはがれ落ちた――。

 庇の巣の下には雨戸の屋根がある。その前にはスチール製の戸棚。戸棚の上には飼っていた猫の寝床(元は人間の乳児を入れておいたわら製の“えじこ”)が載っている。

 縁側に置いてあるイスにのって、雨戸の屋根を見る。なにもない。次に“えじこ”を見る。と、ハチの巣がそっくりそのまま横たわっていた=写真。巣を守っていたハチたちもそのままいる。推理したとおりだった。

付け根がはがれて雨戸の屋根に落ち、さらにはずみで“えじこ”に落ちた。デスバレーのクレヨンと同じことが、わが家でも起きたらしい。

2020年8月22日土曜日

「大辛」をどうしたものか

                     

 夏井川渓谷の隠居の庭では、三春ネギとキュウリのほかに、ナス苗2本、トウガラシの「大辛」1本、「激辛」1本を栽培している。こちらも8月に入って実が生(な)るようになった。

 おととい(8月20日)は朝5時半過ぎに出かけ、7時には家に戻った。真っ赤な「激辛」2個、緑色の「大辛」8個、紺色のナス3個を収穫した。緑・赤・紺の色の組み合わせがおもしろくて、思わずパチリとやった=写真上。

「激辛」は乾燥させて、冬、白菜漬けの風味・殺菌用に使う。ほかにもいろいろ料理に使える。ナスはすぐ、油で炒めたのが朝食に出た。しょうが醤油(じょうゆ)で食べた。朝採りだけにやわらかい。家庭菜園の野菜の魅力はこの新鮮さだろう。

 キュウリはいつものように、小さいのをキッチンポット(古漬け用)に、大きいのを糠床(浅漬け用)に分けて入れた。大根と違って、キュウリは採ったらすぐ漬ける――これが鉄則。古くなれば水分が飛んで、中が白くなる。そうなると、食べてもまずい。パリパリした食感を味わうには即、漬けることだ。

 問題は「大辛」。前に生りたてを焼いてかじったら、飛びあがるような辛さだった。一口でかむのをやめた。これも乾燥させてから、と思ったが、「激辛」のようには硬くならない。水分が飛んで小さくはなるのだが、しおれたままだ。どうやら乾燥には向かない品種らしい。このままだとかびが生える心配さえある。

では、どうする――。ネットで調理法を調べたら、「青南蛮(あおなんばん)の醤油漬け」というのがあった。私でも簡単にできそうだ。

「大辛」を刻んでタッパーに入れ、そこにひたひたになるまで醤油を加える。昆布も入れればうまみが増すというので、そうした=写真下。

タッパーにふたをして冷蔵庫に入れ、1日1回かきまわしながら、3日も置くと出来上がり、だそうだ。ピリ辛はピリ辛だが、飛びあがるような“超激辛”ではなくなるという。刺し身の醤油にしたり、冷ややっこにかけたりするといいらしいから、少しは味のバリエーション(変化)を楽しめそうだ。

ただ、「大辛」を刻むときに注意しなければならないことが一つある。素手で扱ったら手をよく洗う。でないと、指先に辛み成分が付いて、不用意に目をこすったり、トイレに立ったりすると、大変なことになる。今度もトイレへ行く前には指先の辛み成分を水でよく洗い流した。

もうずいぶん前の話だ。秋の終わり、とうがらしを刻んですり鉢に入れ、「一味」をつくっているときに、トイレに立って痛い目に遭った。ネットでは、素手ではなく手袋をして「大辛」を扱っていた。ま、それもいいが、この暑さだから、素手でも“経験知”に従っていれば問題はない。

2020年8月21日金曜日

早朝こそシャッターチャンス

        

 これも「早起きは三文の徳」に入るのだろう。きのう(8月20日)朝5時半すぎ、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。途中、平下平窪の田んぼ道を通ると、スズメの集団に遭遇した=写真上1。

今回はたまたま助手席にカミサンがいた。カミサンが3コマほどパチリとやった。1羽、2羽ではありきたりだが、100羽前後の集団となれば絶好の被写体だ。向こうから「撮ってください」といっているようなものだから、多少もたもたしてもシャッターチャンスを逃すことはない。スズメもこうして集団になると、人間が驚いて車を止めてしまうくらいの“圧力”がある。

去年(2019年)は同じころ、アオサギの幼鳥が2羽、田んぼ道に立っていた。体の大きさは成鳥そのものだが、全体に灰色っぽい。車のスピードを落として間合いを詰めても、きょとんとしている。カメラの撮影モードを「スピード」に合わせて、1羽が飛び立ったところを連写した。

 初秋の早朝5~6時台といえば、タヌキなどの夜行性の里の生きものは自分の巣へ帰っている。昼行性の鳥や森のリスは目覚めたばかりだが、人間の圧力を受けるほどではない。田んぼ道でも山道でも、意外とおもしろい写真が撮れる。

 月遅れ盆の入りの13日には、渓谷の県道でリスを目撃した。きのうも渓谷の入り口でリスを見た。去年(2019年)は同じ時期の早朝、地獄坂(十石坂とも)でリスが車にはねられて死んでいた。その前にも渓谷で死骸(しがい)を見ている。

13日のリスは、路上に転がっている青い実(柿?)を取ろうとしているところだった。そこへ私の車が接近した。すると、取ろうか取るまいかと逡巡(しゅんじゅん)が始まった。結局は、えさをあきらめて道端から谷側に姿を消したが、この優柔不断さがリスの命取りになりかねない。路上の死骸からは、目覚めたばかりの早朝、とっさの判断が遅れ、車を避けきれなかった――そんなイメージが浮かぶ

震災のあった2011年の6月早朝――。やはり隠居からの帰り、たまたま石森山の林道を利用した。キジの雄が悠然と歩いていた。車を止めてフロントガラス越しに写真を撮ったら、偶然、キジの後方にリスが写っていた。道端に現れたと思ったら、サッと林道を横切った。狙って撮れる生きものではない。そんなウデもない。僥倖(ぎょうこう)だった。

生きたリスの写真はそれ以来撮っていないが、今年(2020年)3月下旬の夕方には、ロックシェッドを過ぎて夏井川第一発電所への入り口にさしかかったとき、カモシカと遭遇した。これは何コマか撮った。 

 里のスズメも、森のリスやカモシカも、いわきの自然・風土を構成する一員には違いない。そこに住む人間とも直接・間接的にかかわり、影響しあっている。それを確かめるためのカメラでもある。

 そういえば、月遅れ盆の最終日16日には、上平窪の田んぼにかかしが立っていた=写真上2。稲穂が垂れ始めた。スズメが群れて田んぼに現れるはずである。

2020年8月20日木曜日

どくだみ茶

           

 このところ毎日、水だけでなく「どくだみ茶」=写真上1=を飲んでいる。色は麦茶と同じだが、後味が少しきつい。クセがなければいいのにと、飲むたびに思う。

 家の庭にドクダミが生えている。最初からあったはずはないから、20~30代に里山歩きをしていたころ、茎ごと摘んで来たときに根が残っていて、移植したら根づいたのだろう。年々、地下茎で数を増やし、今では庭の一角を占領するまでになった。

 若いころ、ドクダミを刈り取り、柿の若葉を摘んでは、乾燥させてお茶にした。いずれもアウトドアのまねごと程度だったが、手順は覚えている。

 阿武隈の山里で育った。ドクダミは大人に教えられた最初の薬草だった。子どもが熱を出す、いや子どもに限らない、なにか体調を崩すと乾燥したドクダミの葉と茎を煎じて飲ませろ――母親たちがそう口にし、実践していた覚えがある。

私は、たぶん飲んだことはない。飲んでいたら、あの、とがったような後味がイヤな記憶として残っているはずだから。

 ドクダミは薬草と知ったときからでも60年、自分で煎じて試し飲みをしたときからでも35年以上がたつ。今年(2020年)、突然、カミサンが庭のドクダミを刈り取り、陰干しをした。

 モノの本(いや、今は「ネット情報」というべきか)によれば、乾燥させたドクダミは、漢方の「十薬(じゅうやく)」だ。煎じて飲むと利尿作用のほかに、解熱・解毒効果(いわゆるデトックス?)があるという。

 酷暑だから始めたわけではない。6月11日の梅雨入り後、半月あたりから陰干しが始まった=写真上2。今も陰干し中のものがある。長梅雨が明けたとたん、酷暑が続いている。初めは利尿、今は解熱を期待しての「どくだみ茶」なのだろうか。煎じたあとはペットボトルに小分けして、冷蔵庫で冷やす。それを飲まされる。

 熱中症と水分補給の関係だけではない。アルコールと水分補給の問題もある。尿酸値を下げるために、今飲んでいる焼酎の量を減らすよう、ドクターからいわれた。しかし、この暑さだ。焼酎を減らすのではなく、飲む水を増やせばいいのではないか――勝手な解釈をして実行中なのだが、ドクターは許すはずもないか。

 焼酎は盃で生(き)のまま口に含む、そこへすぐ水を流し込む。口ではなくのどで水割りにする。その水の量が今は酷暑も手伝って倍になった。昼間はさらに「どくだみ茶」を飲む。尿酸も、利尿効果のなかで数値が下がっているはず。というのは、足の指あたりが前ほどにはうずかないような「感じ」なのでわかる。あしたあたり、薬をもらいに行くのだが、このことはしかし、黙っていよう。

2020年8月19日水曜日

“孫”からの絵はがき

  月遅れ盆が終わっても酷暑は続く。立秋が過ぎれば、「暑中見舞い」は「残暑見舞い」になる。が、長梅雨が明けて、「暑中」がないまま立秋を迎えた。「残暑」に暑さのピークがきた。それも尋常ではない酷暑だ。

 土曜日(8月15日)はとうとう、午前中、エアコンのある近所の故伯父の家に駆け込んだ。11日に茶の間の室温が36度を超えた。汗はとめどなく出るのに、頭はさっぱりはたらかない。お盆までに仕上げる約束の原稿がある。家にいては間に合わない。エアコンに頼って仕事をした。

周りからも、フェイスブックの友からも「エアコンを付けたら」と、熱中症を心配する声が届く。体のためにも、頭のためにもその方がいいのはわかっている。年齢を考えると当然だ。東京では熱帯夜のなかで、熱中症で亡くなる高齢者がいる。それを心配してのことだろう。

そんなところへ、おととい(8月17日)、横浜の美大に入学した“孫”から暑中見舞いの絵はがきが届いた=写真。

居間の障子戸を開け、それにもたれかかりながら、黒っぽい浴衣を着た乙女が雲の切れ間の満月に照らされて、なにやら物思いにふけっている――そんな構図の絵だ。隣地との境にはブロック塀。どこかの家の記憶を踏まえたものだとしたら、その一部はわが家の茶の間(障子戸はガラス戸だが)からの“幻影”かもしれない。

私は、茶の間ではいつも庭を背に座っている。今は大学生になった2人の“孫”が来ると、座卓の反対側から庭を、物置とブロック塀を、月を見るかたちで向かい合うようになる。

下の“孫”の大学入学が決まったあと、コロナ問題が起きた。いわきを離れてアパート住まいになったものの、授業はオンライン。リアルに学友と出会うこともない。そのうち、夏休みに入った。家に帰って来るのかと思ったら、コロナでアパートにとどまっている。母親自身、月遅れ盆に中通りの実家へ帰ろうとしたが、親から「来るな」といわれたそうだ。

絵はがきには「暑中お見舞い申し上げます。熱中症やコナロに気をつけてね」とあった。頭ではコロナとわかっていても、回転が速すぎるためにコナロと書いてしまったのだろう。コナロから「コロナ、コンニャロ」と元気がわき、お返しに今の状況を「マンガするんだ(いや、ガマンするんだ)」といってやりたくなった。

「マンガする」は、つまりは漫画を描く意。というのも、“孫”にはイラストと文章を組み合わせた“イラストライター”になったらどうだ、といい続けているからだ。

  ま、それはさておき、祖父母は祖父母で、親は親で、孫は孫でコロナ問題と向き合うしかない。だれもがきつい時代を生きている。 

2020年8月18日火曜日

シャルロッテ、あるいはメスキータ

 シャルロッテ・ザロモン(1917~43年)も、サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868~1944年)も画家だ。2人ともアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなった。

 いわき総合図書館へ行ったら、新刊コーナーにダヴィド・フエンキノス/岩坂悦子訳『シャルロッテ』(白水社)があった=写真上。本の扉に「この小説はシャルロッテ・ザロモンの人生から着想を得ています。/彼女はドイツの画家で、妊娠中に二十六歳の若さで殺されました」とあった。早速借りて読む。

 真ん中あたりまで読み進んだとき、いわき市立美術館で「リサ・ラーソン展」を見た。カミサンは次回「メスキータ展」(9月12日~10月25日)のチラシを持ち帰った=写真下。

メスキータはオランダで活躍した画家だという。美術学校時代の教え子に、「だまし絵」で知られるマウリッツ・エッシャー(1898~1972年)がいる。エッシャーはメスキータに才能を見いだされた。

メスキータは家族とともにナチスに逮捕され、ほどなくアウシュヴィッツで殺される。エッシャーら彼の友人・知人たちはアトリエに残された膨大な作品の一部をひそかに運び出し、守り抜いた。戦後はメスキータの顕彰に努めた――とチラシにある。

 まずは、小説『シャルロッテ』――。1文1行で改行する、詩のような分かち書きが新鮮だ。

「一九三三年一月、憎悪が権力の座につく。」。だれのことかはいわなくともわかる。「ユダヤ人が施す治療については医療費が支払われなくなる。/教諭資格を剥奪される。/(略)暴力は広がり、本が焼かれる。」。日々の暮らしのなかで差別と排除がエスカレートしていく。

「学校では、祖父母の出生証明書の提出が義務づけられる。/それによって、自分にユダヤ人の祖先がいるのを少女たちが知る。/するとたちまち、その子たちはのけ者にされる側になる。」

そして、ユダヤ人の大虐殺政策。彼女は南仏に逃れたものの、捕まってアウシュヴィッツへ送られる。

彼女の絵は大きな旅行かばんに入れられ、主治医でもある南仏の医師に託された。「これは私の全人生よ」という言葉とともに。

やがて戦争が終わる。旅行かばんは、かろうじて生き残った彼女の父と義母のもとに返される。両親は新しい生活の地、オランダ・アムステルダムのユダヤ歴史博物館に彼女の絵を寄贈した。1961年、ようやく「天才画家」の絵が公開され、展覧会は大成功を収める。

 一方のメスキータは――。回顧展のチラシに彼の作品が何点か載る。息子だか弟だかを描いた木版画「ヤープ・イェスルン・デ・メスキータの肖像」は、鼻と口がそのままネコ科、あるいはイヌ科の獣の顔になっている。作品をさかさまにして見ると、蝶ネクタイが黒い髪の毛の人間の目になり、ずらした眼鏡と目もカエルの顔のように見える。エッシャーのだまし絵は師匠のメスキータ譲りだったことを知る。

ハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」の象徴として描きだした大量虐殺の中心人物、アイヒマンは「100人の死は悲劇だが、100万人の死は統計だ」と言い放った。

  この冷血的言辞に染まらないよう、大事故であれ大災害であれ、大量虐殺であれ、個別・具体の人生・いのちと向き合うようにしている。今年(2020年)はシャルロッテとメスキータの人生に触れ、考えるなかで、日本の終戦記念日を迎えた。 

2020年8月17日月曜日

これもマイクロツーリズム

        

 きのう(8月16日)は早朝、月遅れ盆の精霊送りをすませ、一休みしてから夏井川渓谷の隠居へ出かけた。いつものようにキュウリを収穫する。同時に、広葉樹の“ナラ枯れ”(現時点では、私がそう推定しているだけ)がどこまで広がっているのかを確かめる。車で移動しながらチェックするので、カミサンに撮影とメモを頼んだ。

“ナラ枯れ”に気づいたのは月遅れの盆の入り(8月13日)。早朝5時台、隠居へキュウリを摘みに行った。対向車両も後続車両もない。視野を広くとって運転した。万緑のはずの右岸の森がところどころ赤くなっている。松枯れだと主に段状の三角形に近いが、楕円形の“茶髪”だ。広葉樹のナラ枯れ?

 どうもそうらしい。それ以外には考えにくい。で、2回目のきのうは左岸の森も見ながら車を進めた。すでに平地の小川町の里山に“茶髪”があった。渓谷に入ると、ロックシェッド付近で、道端の木が何本か“茶髪”になっていた。遠く、近く、さらに遠く――。1回目にチェックした場所とは違うところに赤っぽいかたまりが点在している。

“ナラ枯れ”の見本のような森があった。JR磐越東線江田駅前の夏井川右岸。広葉樹林に茶色のメッシュが入っていた=写真。

 隠居に着いてキュウリを収穫し、昼食をとると、山の陰、好間川流域の三和・好間地区の様子が気になった。カミサンは直売所の「三和ふれあい市場」で買い物をしたいという。川前~三和・差塩(さいそ)~同・下市萱~好間~平のルートで“茶髪”の有無をチェックした。

 久しぶりの山里巡りだ。ふれあい市場ではナスや漬物・梅干しを買った。コロナ禍が生んだ言葉でいうと、マイクロツーリズム。

 川前から差塩へは、宇根尻から夏井川を渡って駆け上がった。谷間の宇根尻が遠望できた。ほぼ万緑だった。差塩もそうだった。下市萱に下ると、国道49号沿いは杉林が続く。“ナラ枯れ”を引き起こすのはコナラやミズナラに穿入(せんにゅう)する昆虫のカシノナガキクイムシ(カシナガ)だ。杉には寄りつかないらしく、三和はあおぐろい緑をたたえたままだった。

 好間の大利あたりから、広葉樹が中心の里山に変わった。ほんの少し“茶髪”が入っている。平市街を抜けて夏井川の堤防に出ると、右岸・南白土から山崎の丘陵、そして左岸・中神谷の丘陵に“茶髪”が見られた。

 カシナガは南方系の昆虫だという。ナラ枯れは最初、日本海側で問題になった。今は太平洋側でも被害が拡大している。

いわきへは南からやって来たのか。だとしたら、平地から川沿いに山地へと生息域を広げつつあるのではないか。若い知り合いの話では、いわきの北、楢葉町・木戸川の木戸ダム周辺でも同じ現象が見られる。メディアの“調査報道”で詳細を知りたい。

2020年8月16日日曜日

酷暑の月遅れ盆

                     

 今年(2020年)の月遅れ盆は週末と重なった。精霊送りのきょう(8月16日)は日曜日。酷暑続きだったが、起きると曇天だ。早朝6時から8時まで、区の役員が交代で「お盆様」(供物)を受け付ける。

長い梅雨が終わったとたん、朝日に照らされるだけで消耗する「危険な暑さ」が続いた。直射日光が雲に遮られている。それだけでもホッとする。(追記:当番で6時前に行くと、太陽のまわりだけ雲が切れていた。直射日光を浴びて、たちまち汗がにじむ。雲がかかっても薄日か、すぐ太陽が顔を出す。日傘をさしてお盆様を持ってきたおばさんから声がかかった。「熱中症に気をつけて」)

 毎年、精霊送りのために県営住宅集会所の庭に祭壇を設ける。庭は道路に面している。路面よりは40センチほど高い。

集会所前に車が止まっていると、お盆様の受け取り、焼香に支障をきたす。14日には「駐車ご遠慮を」のチラシを立て看に張って路上に置く。精霊送りはそこから始まる。3日がかりだ。

 祭壇には細い竹、杉の葉、ホオズキ、縄が要る。竹と杉の葉は、私が調達する。祭壇づくりをするのは15日夕。区の役員は月遅れ盆を利用してどこかへ泊まりに行くようなことはできなくなった。

 今年は終戦記念日でもあるきのう15日、磐城―国士舘の甲子園高校野球交流試合が行われた。3-4で負けたが、東京のナンバー1チームを相手に善戦した。それを見てから、故伯父の家の庭にある竹を切り、あらかじめ用意しておいた杉の葉とともに、集会所へ運んだ。

まずは草刈りだ。道沿いの石垣に営巣していたアシナガバチに刺されたことがある。ハチがいるかもしれないので注意して――役員さんに一声かけて作業をはじめた。

去年は祭壇づくりの前、サンダル、半ズボンのまま、かがんで竹を切っていたら、足まで切ってしまった、その傷が残っている。今年はそれに懲りて、スニーカーに長ズボンを履き、ハンドカバー・手袋をした。残暑が厳しくてもしかたがない。

赤く熟したホオズキは、会計さんがスーパーから買ってくる。栽培農家が減って値段が高くなった。それで造花も売られている。今年は江戸時代の絵を参考に、ほんもので正面だけを飾った=写真。

 そうして迎えた日曜日の朝、ごみ収集車が来てお盆様の積み込みが終わると、集会所で精進あげをする。といっても、これは形だけで、缶ビール1個とつまみを持ち帰ってもらう。それが終わって初めて、やっと自分の「お盆休み」がきたような感覚になる。

祭壇そのものも、昔は石段を三つのぼらないと焼香ができなかった。お年寄りにはそれがきつかった。で、5年前から、道路からじかに焼香できるように、祭壇の向きを90度変えた。路駐があると困るのはこのため。収集車も横付けできない。きのう午後には無事にスペースを確保できた。

 コロナ問題があっても、精霊送りは、場所が戸外で「3密」を回避できる。行政にも最初から「中止」の考えはなかったようだ。

精霊送りが終わったら、とりあえず夏井川渓谷の隠居へ行く。きのう(8月15日)書いた「ナラ枯れ」がどこまで広がっているのか、ちゃんとみておきたい気持ちがある。