2022年12月30日金曜日

異色の本

                                
 この何年か、いわきの福祉行政の分野で目を見張るような情報発信が続いた。それで、若い人たちによる「入棺」体験を知った。これには衝撃を受けた。プロのカメラマンによるシニアポートレート撮影には、知人夫妻が参加した。

 死をタブー視しない、人生の最期を幸せなものに――。突き詰めれば、ここにたどりつくように思われた。

 そのための情報を、フリーペーパー「igoku」とウェブマガジンを立ち上げて発信し、イベントを開催した。

新しい福祉行政でもある「地域包括ケア」を市民に周知し、理解してもらうのが目的のようだった。

 この啓発事業は、発案者である市職員が、市民でもある同世代かそれより若いデザイナーやライター、リサーチャーなどを巻き込んで、一緒に「現場」を見て回ることで、発信に深みと広がりを生み、新しい風を吹かせることに成功した。

 行政の事業には違いないが、行政にありがちな予定調和を超えている。いや、それ以前の、いわば言葉として整理されていない現場の混沌に身を投じながら、それに感応しつつ文字化(レポート)するというスタイルが新鮮だった。

 秋口に、その活動のあらましを振り返る、いごく編集部著『igoku本』の恵贈にあずかった=写真。添え書きに「医療介護、地域包括ケアにとどまらず、ローカル、デザイン、クリエイティブ、チームの組み方や動かし方、余白や非効率の重要性など、様々な分野についてメンバーが考察しています」とあった。

 添え書きを自分なりに解釈すると、こんなふうにいえるのではないか。地域の中に入っていって、地域の人たちと一緒になってコトを進めるうちに、新しい発見があり、新しいつながりができる。このつながりがそれぞれのなかでさらに増殖して、スタッフ自身の血肉となる。

 たとえば、川平(内郷)の「キャップ踊り」、北二区(好間)の「カカシ祭り」といった、スタッフの想像を超える発想に触れるなかで、いごく編集部の方向性も見えてきたとデザイナー氏は書く。さらには、「デザイナーとは根源的に『福祉職』なのかも」と言い切る。

 それらを象徴する言葉として、スタッフは「まじめにふまじめ」をあげる。私は従来の発想にとらわれずにコトにあたるという意味では、「まじめ」「ふまじめ」を超えた「非まじめ」を使いたい。そこから新しい風が吹くと思っている。

 それはともかく、『igoku本』は今年(2022年)読んだ本のなかでは異色も異色、しかし、何か新しいことをやってみようと思う人間には、大いに役立つ本かもしれない。

 師走のある日、冒頭に紹介した知人の葬式があった。会場にはプロが撮影したポートレートが飾られていた。それに触発されてまた『igoku本』を手に取った。

※お知らせ=大みそかと正月3が日はブログを休みます。

2022年12月29日木曜日

川瀬巴水「勿来の夕」

         
 茨城県を中心にした川瀬巴水作品の解説本(川瀬巴水とその時代を知る会編『川瀬巴水探索――無名なる風景の痕跡をさがす』)を読んで以来、巴水は福島県の浜通りにも足を運んでいるはず――という「確信」が生まれた。 

 いわき駅前の総合図書館から巴水の本を3冊借りて読んだ。清水久男『川瀬巴水作品集』(東洋美術、2013年)に、昭和29(1954)年に刷られた「勿来の夕」が載っている=写真。

 巴水が茨城県・平潟を訪れてスケッチしたのは昭和19年。スケッチに基づいて版画を制作したのは終戦直後だった。「勿来の夕」はそれからおよそ10年後に制作されている。

スケッチに訪れた時期は不明だが、勿来と平潟は県境を挟んで隣り合っている。平潟を訪れたついでに勿来まで足を運んだとしてもおかしくない。その場合の目的地はむろん、勿来の関だろう。

「旅する版画家」らしく、平潟とは別に、後年、勿来の風景を目当てに訪れた、ということもあり得る。その場合は、「勿来の夕」だけでなく、関跡その他のスケッチも残しているのではないか――と、これは願望半分の空想。

 「勿来の夕」は、農作業帰りの女性2人を前景に、5本の松の木越しに白波を、その奥に夕日を浴びてピンク色に染まる海と雲を描いている。画面の中央、海と空を区切るように延びる黄色と黄緑色は海食崖だろうか。

 農作業帰りとわかるのは、夕方だから、だけではない。2人は共にもんぺ姿で草履をはき、竹製の籠を背負っている。年長の女性は姉さんかぶりをしている。母娘ないしは祖母と孫のようにも見える。

 ポイントは画面の中央に伸びた黄色と黄緑色の線ではないだろうか。海食崖だとしたら、北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館から見た勿来の海と同じ構図と言ってもいい。

 同美術館からは手前に平潟の岬が見えた。つまり、平潟の岬の上にこうした農道があったとしたら、海と海食崖と空の連なりがぴったりする。

 あくまでも裏付けのない勝手な場所探索だが……。そうであれば、道の北側(絵の上部)のふもとは勿来漁港、南側のふもとは平潟漁港で、「勿来の夕」という題も納得がいく。

 ただ直観的には勿来の関公園がある山のふもと、関田あたりの旧道の風景という思いも捨てきれない。

 さらにいえば、戦後、それこそ「新風景」として草野心平が雑誌「旅」に紹介して有名になった「背戸峨廊(セドガロ)」や夏井川渓谷の籠場の滝の作品はないものかと、願望は膨らむのだが、そこまでは無理のようだ。

 「勿来の夕」の版画を扱ったことがある若い古書店主は、いわき関係ではほかのものは見ていないという。

2022年12月28日水曜日

師走のフキノトウ

                      
 1年を締めくくる12月もあとわずか。元日に食べる雑煮用の餅は切った。それ以外は……まだだが、これも一種の正月の準備だ。師走後半に夏井川渓谷の隠居へ行くと、決まってフキノトウを探す。

下の庭に“フキ畑”がある。隠居と上下二段の庭をつくる前は畑だった。その土手にフキが自生していたのだろう。

 今はフラットな庭になり、畑だったところは放っておくとヨシが生える。これを、今は年に2~3回、後輩が刈り払ってくれる。

 おかげでフキ畑は、密生し、侵略を続けるヨシに飲み込まれることなく、今も地下に根っこを張っている。

 ヨシがきれいに刈り張られているので、師走のフキノトウ探しは前より楽になった。12月25日の日曜日も、上の庭の畑で生ごみを埋め、三春ネギを数本掘り取ったあと、いつものように敷地の境界に積み重ねてある剪定枝にキノコが出ているかどうかをチェックし、ついでに小さなフキの葉が生えている下の庭を見て回った。

 必ず師走のうちにフキノトウが出るとは限らない。出ていても、大小がある。小さすぎて見落とす年もある。

 その意味では、今年(2022年)はまだ親指ほどの大きさだが、あちこちから頭を出しかかっている。まずは2個を摘んだ=写真上1。

 元日の朝、カミサンが雑煮をつくる。師走のうちにフキノトウが採れると、これをみじんにして雑煮に散らす。

 そのつもりで摘んだのだが、すぐ翌朝の味噌汁に入ってきた。「年内にもう1回、隠居へ行くから」という。そうだった、正月飾りがまだだった。

おおみそかの一夜飾りはよくないというから、きょうにでも隠居へ行って正月飾りを玄関に掛け、床の間に鏡餅を供える。そのときにまたフキノトウを摘む。

一夜飾りがよくないワケは、「歳神(としがみ)様」は大みそかの早朝にはその家に来ているからだそうだ。

前年の歳神様と元日の午前零時に引き継ぎをする。玄関の正月飾りが、そのための目印になる。大みそか当日の飾りだと、せっかちな歳神様が来たときにはまだ目印がない。家を素通りしてしまう。だから、遅くともみそかまでには飾っておくのだ――と、これはだれの話だったか。

25日はフキノトウを摘んだあと、小川から好間に抜け、バイパスを利用して鹿島街道沿いの家具店へ出かけた。

赤井から好間中核工業団地へ向かうと、田んぼに人だかりができていた。正月飾りを焚いて送る鳥小屋をつくっているところだった=写真上2。

鳥小屋はいわき地方の正月行事の一つだ。世の中もすっかり正月に向かって動き出している。

正月には新しい白菜漬けを食べたい――そんな思いで日曜日に三和産の白菜を漬けこんだ。一昼夜たって水が上がってきたので、重しを1個減らした。少なくとも漬物に関しては正月の準備ができた。

2022年12月27日火曜日

ナラ枯れ木伐採

                     
 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。前は何の考えもなく、県道小野四倉線を行き来した。が、このごろはナラ枯れが気になって仕方がない。

 令和2(2020)年の月遅れ盆の入りに、渓谷の入り口に当たる高崎(小川町)で初めて対岸が茶髪になっているのに気づいた。

万緑の盛りのころに葉が枯れて赤茶ける――。これには驚いた。以来、車で出かけるたびに平地の丘陵、郊外の里山をチェックするようになった。

 同年8月25日付のいわき民報によると、いわきでは平成30(2018)年、田人地区ほかでコナラなど50本のナラ枯れが初めて確認された。

 その後、勿来・大久・小川などの中山間地のほか、平地の平・内郷・錦といった街中でも被害が相次ぎ、令和2年にはナラ枯れが数百本に急増した。

夏井川渓谷の入り口付近で見たものは、そのなかの数本だったわけだが、もっと奥、あるいは上流まで広げると、被害木は何十本にもなっていたに違いない。

県道沿いの大木も被害に遭っている。私が路上への落枝・倒木を気にしているナラ枯れの木は4本。気づいてからだけでも2年余りがたつ。

この4本を観察してわかったことがある。夏には茶髪のためにはっきりしていたナラ枯れは、紅葉時期になるとほかの広葉樹と区別がつかなくなる。

カエデも落葉した今、新しいナラ枯れ木には葉の一部がいっぱい残っている。周囲の木が落葉しても被害木の葉は落ちない。

普通の落葉樹は、秋、葉柄の根元と枝の境目に離層ができて、葉柄ごときれいに枝から葉が落ちる。ナラ枯れ木には落葉に必要な葉柄基部の離層が形成されない。

その後、枯れて乾いた葉が強風に引きちぎられてかたちが失われていく。葉の一部だけが葉柄部分に残っていることで、被害木であることがわかる。

ロックシェッドのすぐ近く、山側にあるナラ枯れ木は落枝が始まった。その先、工事中断中のためにカラーコーンが置かれているあたり、ワイヤネットが張られた山側からせりだしている大木が今年(2022年)、茶髪になった=写真上1。

渓谷でも最も道が狭い竹ノ渡戸地内だ。空中に電線と電話線が架かる。しかも、樹幹はほぼ道路の真上にきている。

近い将来、間違いなく落枝・倒木が起きる。下を通る車だけでなく、渓谷に点在する小集落のライフラインが断たれる心配がある。

枯れ枝が折れる程度なら個人でも対応が可能だが、幹が折れて道をふさぐようになると、これはもう手に負えない。

隠居のある牛小川の住民もやはり同じ思いでいた。ある日、家を訪ねると、竹ノ渡戸のナラ枯れ木の話になった。「陳情しようと思っている」という。

それから1カ月余りたった日曜日(12月25日)、竹ノ渡戸を通ると、ナラ枯れ木が伐採されていた=写真上2。ひとまず頭上の不安は解消された。

隠居からの帰り、やはりロックシェッドの近くにある別のナラ枯れ木を見ると、幹にキノコがびっしり生えていた。こちらも腐朽がかなり進んでいるようだ。

2022年12月26日月曜日

Xマスプレゼント

                                              フィリピン出身のエド君が、チョコレートの詰め合わせを持ってきた=写真。Xマスプレゼントだと言う。

 カミサンがエド君と知り合ったのは、大型連休が始まって間もない日の宵だった。にわか雨になって、わが家(米屋)に彼が飛び込んできた。「傘、ありませんか」。だれかが置いていった「コンビニ傘」がある。そのなかの1本をカミサンが進呈した。

カミサンがいろいろ聞いたらしい。名前はエド、32歳。歩いて十数分のところにあるラーメン屋で働いている。店の近くにアパートがある。歩いてスーパーのマルトへ買い物に来た帰りだった。

それから1週間後、エド君が袋入りのドライマンゴーを持ってきた。さらに8月下旬、大阪で働いている彼女を連れてやって来た。

エド君は4月からいわきで、彼女は5月から大阪で働いている。マニラ首都圏の南にエド君の家が、北に彼女の家がある。「勿来と仙台くらい離れている」という。

彼女は大阪で介護の仕事をしている。第一印象は日本人、そう思うほど顔立ちが日本人によく似ている。大阪土産の「大阪さくさくワッフル」をもらった。

そして、今度はXマスプレゼントだ。ちょっと前までは、孫が欲しいものを、孫と一緒に買いに行ったものだった。それが、プレゼントを受ける側になった。

ここからは、そのチョコレートを食べながらの感想――。今年(2022年)のいわき地球市民フェスティバル(外国にルーツを持つ市民の日本語スピーチコンテスト)が勤労感謝の日の11月23日、いわきPITで開かれた。審査員の一人としてフェスティバルに参加した。

一般の部で大賞を受賞したのはベトナム出身の技能実習生で、いわきを生活と労働の場として選んだこと、駅のホームで財布を置き忘れたら、高校生が駅員に届けてくれたことなどを話した。

「選択肢があれば、ベストを選ぶこと。なければ、ベストを尽くすこと。人はどこで生まれるかは選べないが、どのように生きるかは選べる」という冒頭の言葉が印象に残った。

ロシアのウクライナ侵攻以来、世界の政治・経済が激変し、日本では円安と物価高が進んだ。

私らがそうであるように、いやそれ以上かもしれないが、日本は「安い国」になってしまった。

日本人自体、海外に職を得る、あるいは出稼ぎに行く。となれば、技術実習生も日本で働く経済的な意味合いが薄れているのではないか。母国へ帰るか、違う国へ行くか、そんな悩みを抱えている人間が増えているのではないかと、あらぬ想像をしてしまう。

それはともかく、先日もXマスプレゼントと似たような経験をした。カミサンの誕生日の晩、上の孫から電話がかかってきた。私はすっかり忘れていたが、カミサンの喜ぶ声から察しがついた。

「孫に一本とられた!」。ケーキを、言葉をプレゼントしてもらっても不思議ではない年齢になったことを実感した。

2022年12月25日日曜日

18リットルの灯油缶

        
 ポリエチレン製の灯油缶は、車のトランクに5個入る。冬場は、といっても11月から4月までの半年だが、暖房のために3~5缶積んでスタンドへ買いに行く=写真。

 缶の大きさは2つ。18リットル用と、同じ縦長でそれよりはちょっと大きい20リットル用だ。どれにも18リットルを入れてもらう。

 何十年も使っていると、劣化してキャップにひびが入る。灯油が漏れないよう、ポリエチレンのシートをかぶせてカバーしたが、それにも限度がある。

 近くのホームセンターへ新しい灯油缶を買いに行った。なんと、缶の形状がガラリと変わっていた。頭の中では家にある灯油缶を探すのだが、それより小さいものしかない。

 実は先日、いわき地域学會の市民講座が開かれたとき、講師の大谷明さんがホームセンターの灯油缶売り場の話をした。それも頭にあった。

一昔前と違って、20~18リットル用から10リットル用に切り替わっていた、という。その通りだった。

 10リットル缶が並ぶ中から、今までと同じサイズの18リットル缶を選んだ。20リットル缶もあるが、これは正方形に近い。手で持つには幅がありすぎる。専用の台車に載せて運ぶのだろう。

 サイズが変更された理由は、だいたい想像がつく。核家族、少子・高齢化が進んで、私たちがそうであるように、高齢夫婦あるいは独り暮らし世帯が増えた。18~20リットル缶は、もはや年寄りが持ち運べる大きさ・重量ではなくなった。

 私が18リットル缶を選んだのは、それらに灯油を入れても、まだ両手に持って運べるという自負、いやもう過信といってもいいか、があるからだ。

 実際は、ときどき腰に痛みが走る。一種の筋肉痛だと思うが、それでもまだ車から玄関くらいまでなら、灯油缶は持ち運びができる。

 しかし、これから先が問題だ。「団塊の世代」(昭和22~24年生まれ)も、最初の組が今年(2022年)、後期高齢者の仲間入りをした。私は二番手だ。やはり、加齢とともに体力が落ちてきた。

10リットルの灯油缶が主流になったのは、そうした時代背景、社会環境の変化からだと実感できる。

 その意味では、団塊の世代がこの世から退場するまでは、生活万般でこうした変化が見られるのではないだろうか。

 週刊少年雑誌、テレビ、受験競争、学園紛争、企業戦士、大量消費……。いろんなキーワードとともに生きてきた。

 団塊の世代が退場したあと、葬儀場はどうなるのだろう。すでに家族葬などの小規模化が進行し、コロナ禍が加わった。小規模・簡素化は避けられないのではないか。

ストーブとヒーターで部屋を暖めながら、とりあえず自分のそのときをわきに置いて、あれこれ考えてみるのだった。

2022年12月24日土曜日

一陽来復

                       
 師走に入ると、すぐの“異変”だった。夏川渓谷の隠居で土いじりをしていると、青く小さな花が咲いていた=写真。オオイヌノフグリではないか。

 いつもだと、年が明けた春先、ポツン、ポツンと青い小花を咲かせるのだが、この冬は師走のうちに狂い咲きをした。11月にきつい寒波がきた。それが緩んで春機が発動したのだろうか。

 これは「春のめざめ」とかいうものではない。一般の人間の春機はいつ発動するのか、という自問でもある。

 12月22日は冬至だった。このごろ、私は元日より冬至に新しい年の始まりを感じるようになった。

 人間の新年は元日、自然の新年は冬至――。冬至には「一陽来復」の意味がある。冬至の日は、一番昼が短くて、一番夜が長い。しかし、この日を境に夏至の日まで、光が一日一日、長く明るく輝くようになる。

 夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めてから四半世紀。土いじりを続けているうちに、旧暦を中心にした季節の移り行き、別の言葉でいえば「二十四節気」を思考の軸に据えるようになった。

 それを実感するのは、「立春」になって畑の凍土がゆるんだときだ。三春ネギの場合は、渓谷の住人から「播種は10月10日」と新暦で教えられたが、定植・採種・収穫はネギと「対話」しながら、という流れになる。

 併せて、数年前にはいわきの新しい観光の視点として、太陽の光と結びついた「レイライン」を学んだ。

 その一例として、冬至に昇った朝日が社寺を射抜くように照らす、という話を聞いて興味を持った。

それを4年前の冬至の朝(正確には曇天だったので、翌日朝)、いわきの中心市街地・平の西方高台にある子鍬倉神社の境内で確かめた。そのときの拙ブログの抜粋。

――境内に八坂神社がある。冬至の朝、拝殿と参道、鳥居を結ぶ線の先から朝日が昇る配置になっている。

神社から参道・鳥居のラインを確かめると、真ん中奥に大木が立っている。樹皮は杉に似る。常緑だが、下部は枝打ちされたためかすっきりとして、上部の枝葉だけが扇状に広がっている。

撮影データから時間を追う。6時22分、東の空は下部がほんのり赤みを増しているだけ。同54分、オレンジ色がさらに増し、大木のやや左、奥の木々の間で一部、白銀のように明度を増すところが現れた。

やがて、そこが黄金色に染まったかと思うと、赤々と輝き、光線が放射状に伸び始める。まさしく鳥居の真ん中から朝日が昇ってきた。「一陽来復」の生まれたての朝だ――。

 土いじりのほかにレイラインを体験した結果として、冬至の日を迎えると、「寒さ」はこれから厳しくなるが、「光」は日に日に明るくなる、つまりは一陽来復=新年がきた、という思いになる。

2022年12月23日金曜日

キョウヨウとキョウイク

                     
 用があって外出したついでに、ときどき海岸までドライブする。塩屋埼の灯台は格好のビューポイントだ=写真。

日曜日は夏井川渓谷の隠居へ行く。いわきのハマ・マチ・ヤマのうち、ヤマとマチの様子は暮らしのなかで自然に確かめられる。

 パソコンをいじっていると、たまにアップデート(更新)という言葉に出合う。マチとヤマの今に触れている意味では、日々、あるいは週単位でヤマとマチの様子をアップデートしていることになる。

 しかし、ハマはそうはいかない。3・11以来、変貌が著しい。行くたびに風景が変わっているところもある。

 11年たって、さすがに落ち着いてはきたが、ハマの情報もアップデートしないと、現実と記憶の間にずれが生じる。そうならないよう、意識して海岸道路を走るようにしている。

 別の言葉でいえば、「キョウヨウ」と「キョウイク」。これを自分に言い聞かせている。「教養」と「教育」ではない。「きょう、用(がある)」「きょう、行く(ところがある)」という意味だ。

何年か前、地区の区長の集まりがあったとき、だれかがこの話をした。なるほど。会社を辞めて“縛り”がなくなったときを思い出した。

一日24時間がすべて自分の自由時間だと喜んだのはいいが、朝起きて寝るまでの間、何をして過ごしたらいいのか、苦労した。「キョウヨウ」と「キョウイク」がない。現役を退いた人間の「自由」とはこんなものかと思った(幸いすぐに仕事が入ったが)。

 キョウヨウとキョウイクは、その意味では社会とどうつながるか、孤立ではなく、他者との関係をどう維持するか、ということでもあろう。

 以来、15年。波はあるにしても、意識してキョウヨウとキョウイクのある暮らしを続けてきた。が、コロナ禍がそんな日常に立ちはだかった。

 年金生活者なので、基本は「巣ごもり」だ。コロナがさらに巣ごもりを強く求め、キョウヨウとキョウイクを遮断した。副反応がすぐ現れた。去年(2021年)9月の拙ブログから一部を紹介する。

――コロナ禍で図書館は休み、公民館や所属する団体、地域の行事も相次いで中止となれば、いよいよ外出する機会が減る。すると、巣ごもりに慣れ過ぎて、社会とつながっている意識が薄れる。

年間6~7回は開いている区の役員会も回数を減らした。区対抗の球技大会や体育祭も続けて中止になった。

大会前には区の役員と子供を守る会の役員が一緒になって話し合い、役割を分担して当日を迎える。毎年開催しているからこそ、体で一連の流れ(連絡・調整)を覚えていたのだが、それもおぼつかなくなる――。

なかでも、車はキョウヨウとキョウイクに欠かせない。コロナ禍前はたびたび夜の会議があった。車で出かけた。夜の運転もルーティン(日課)の一つだった。

今は、コロナ禍と加齢が加わって、夜の運転には神経を使う。そのうえ、最近、車を買い替えた。キョウヨウとキョウイクを自分で用意しないと、新しい車に慣れるのに時間がかかる。ハマまで足を延ばすのは、そうしてハンドルのさばきや土地勘を維持するため、といってもいい。

2022年12月22日木曜日

クジラの刺し身

        
 「さて、きょうはどんな刺し身があるのかな」。日曜日の夕方、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。

 カツオの入荷が終わった今は、店主が勧めるマグロその他の盛り合わせを楽しむようにしている。

 12月18日は「クジラがあります」という。これには目が点になった。わが生涯の“鯨食歴”が脳内をかけめぐる。

 中学生まで阿武隈の山里で育った。半世紀以上前の昭和20~30年代には、家でときどき鯨肉の缶詰を食べた。

学校給食はどうだったか。街場で育ったカミサンは学校で鯨の竜田揚げを食べた記憶があるという。私はしかし、学校給食と鯨が結びつかない。普通に弁当を持って行った。給食といっても、出てきたのはみそ汁だけだったように記憶する。

家で食べた鯨肉の缶詰は、確か「大和煮」。醤油と砂糖などで濃く味付けされた煮物で、戦後の食糧難の時代から高度経済成長期に入るまで、豚肉や鶏肉の代用食だったとネットにある。

 ときどき、夕食にカレーライスが出た。豚肉が少し入っていた。それが子どもたちにとっては特別のごちそうだった。

 結婚してからは全く鯨に縁がなかった。歴史の一コマとして、江戸時代前期、磐城平藩を治めた内藤家から、近年、いわき市に寄贈された「磐城七浜捕鯨絵巻」(市有形文化財)を見たことがあるくらいだ。

小野一雄・佐藤孝徳著『小名浜浄光院誌』(2021年)の口絵に同絵巻の解説が載る。それによると、同絵巻は久之浜から小名浜までの海岸線で行われる捕鯨の様子を、時系列で描いた長さ10メートルに及ぶ長大なものだ。

解説では小名浜西町から三崎までの集落や川・橋・高札場・人の労働や往来などを詳細に伝える。渚では鯨の解体が行われている。

絵巻が内藤家から市に寄贈されたのは共著者の一人、故佐藤孝徳さんの働きかけが大きかった。

この絵巻が市の所有となり、公開されたおかげで、江戸時代には鯨を追い、鯨と格闘する漁民がいたことを知ることができた。

今年(2022年)はその内藤家が入封して400年の節目の年ということで、いわき市勿来文学歴史館では夏から秋にかけて、企画展「徹底解説!磐城七浜捕鯨絵巻」が開かれた。

 さて、刺し身だ。今回はマグロと鯨のほかに、タチウオが少し加わった=写真。タチウオはサービスだったかもしれない。

 タチウオは西の魚だという。海水温が上昇しているため、今では三陸沖でも獲れるという。「だから、サンマが下りて(南下して)来ないわけだ」「そういうことです」

 その食感は――。タチウオは白身。やわらかい。鯨は? 小袋に入っているタレを分けてもらった。たぶん塩とごま油におろした生姜が入っている。

赤黒い身、というより、ほ乳類だから肉か。見た目も、かみごたえも、昔食べた馬刺しに似ていた。

鯨の刺し身は、今のいわきでは食文化というレベルでは特異な食材だ。それでも、わが味蕾は大和煮を覚えていたようだが、カミサンと義弟はとうとう箸を出さなかった。

2022年12月21日水曜日

川瀬巴水の額絵

                     
 図書館から『川瀬巴水探索――無名なる風景の痕跡をさがす』(文学通信、2022年)を借りて読んでいると、カミサンが同じ版画家の作品を印刷した額絵を引っ張り出してきた=写真。

 全国紙の販売店が購読者サービスとして配ったものだという。同じ印刷物でも本よりはるかに大きいB4サイズだから、作品の隅々まで細かくチェックできる。

 川瀬巴水(1883~1957年)は浮世絵版画を復興し、「新版画」を確立した近代の版画家だという。大正・昭和期に日本各地を旅し、写生した風景作品を基に版画を制作した。「アップル」の共同創業者の一人、故スティーブ・ジョブズが子どものころ、巴水版画に出合い、影響を受けたことでも知られる。

『川瀬巴水探索』は、お隣の茨城県人で組織する「川瀬巴水とその時代を知る会」が編集した。

「旅する版画家」が茨城を訪れ、平潟や五浦のほかに水木(日立市)、水戸・大野、磯浜(大洗町)、潮来などで写生した。その作品が描かれた場所を、茨城を中心に探索し、当時を知る人に話を聞いたり、現在の様子を報告したりしている。

「平潟東町」は昭和20(1945)年に摺(す)られた。巴水が訪れてスケッチしたのは前年の11月11日。平成23(2011)年3月11日の東日本大震災の津波で、当時をしのばせるものは何一つなくなった。が、ツテを頼って当時を知る人に会い、話を聞くことができた。

 それを踏まえて版画の構造的な分析に入る。見た目は1軒の家のようだが、実際には4軒の家が描かれている。その家にまつわる生業(「鮟鱇鍋発祥の家」=食堂など)がわかってくる。

 さらに、スケッチにはなく、版画に加えられたものに、筒袖の着物姿の女性がいる。当時の別のスケッチには、たらいで水洗いをするもんぺ姿の女性が描かれていた。

もんぺ姿を筒袖の着物姿に変えたのは、「終戦によって戻った日常の安堵感を表したのだろうか。または、このような平安な日常であってほしいという巴水の想いなのだろうか」と担当筆者は推測する。

 新聞販売店の額絵シリーズは、全国紙らしく地域的なかたよりはない。芝(東京)の増上寺は巴水が生まれた新橋から近い。

「芝増上寺」(大正14=1925年)は、関東大震災後の東京を描いた「東京二十景」の一つで、最初に制作された。

雪が降っている。増上寺の赤い「三解脱門」の前の道を、和傘をさした着物姿の女性が歩いている。意外と派手な感じのする版画だ。

新版画は欧米で人気が高いらしい。ジョブズはしかし、別の意味で巴水版画のとりこになった。

彼が好んだのは「芝増上寺」のような、いかにも日本的情緒をかもしだすものではなく、地味で寂しい風景だったという。ジョブズのコレクションと額絵で重なるのは「西伊豆木負」「上州法師温泉」だけだった。

ジョブズの考える美の原点は「究極のシンプルさ」だったという。その美意識の萌芽期に出合った巴水版画が、生涯、ジョブズのなかに生きていた――そんなことに思いがめぐった。

2022年12月20日火曜日

ふっかけ雪

                      
 日曜日(12月18日)の朝は快晴だった。夏井川渓谷の隠居へ行く途中、三島(小川町)の夏井川にハクチョウが150羽ほど休んでいた。

車と並走するように、飛び立ったばかりの数羽をカミサンが撮影した=写真上1。雲一つない空をバックに、白い鳥がゆっくり羽ばたいていく。それはそれで絵になる光景だった。

 土曜日は午後、雨がぱらついた。その時間、市文化センターで集まりがあった。天気予報に従って、傘を持って出かけた。

 私自身は傘を使わずに済んだが、ときどき窓から外を眺めると、傘をさしている人がいた。夕方にはやみ、夜中になってまた降ったのだろう。朝は路面がところどころ濡れていた。

 山は雪か――。少し心配しながら田んぼ道を行くと、阿武隈の山並みは全然、雪をかぶっていない。雨に濡れただけだった。

 月に1回、わが家の隣に移動図書館がやって来る。いわきには北と南の二つのエリアを巡回する移動図書館がある。「いわき号」と「しおかぜ」で、いわき号は北のエリアをカバーする。小白井(川前町)は雪が積もっていた、という。

「東北の湘南」などと自称するが、それは平地の話で、中山間地でも標高の高いところは「雪国・東北の南端」といった方が早い。いわきでは冬、湘南と雪国が同居する。それがいよいよ始まったのだ。

標高200メートルほどの牛小川(夏井川渓谷)は「雪国」ではない。いわきの海岸~平地はシイ・カシなどの照葉樹が分布する暖温帯、阿武隈の山地はブナなどの夏緑樹が中心の冷温帯、夏井川渓谷は両方が交差する中間温帯だ。

ヤブツバキは照葉樹林を代表する樹種のひとつで、冬に花が咲く。夏井川流域では渓谷の谷間あたりが分布の限界らしい。

渓谷の入り口にあたる高崎(小川町)で花が咲いていた。師走のうちに花を見るのは珍しい。ではと、渓谷に入ってチェックしたが、こちらはまだのようだった。

隠居へは10時ごろに着いた。いつものように畑に生ごみを埋め、三春ネギを数本抜いた。30分ほどで土いじりを終え、こたつに入っていると、カミサンが叫んだ。「雪だ、雪がふっかけてきた」

さっきまで青空だったのが、乳白色の雪雲に変わり、あられのような雪が風に舞っている=写真上2。

ううー、なんだ、これは。積もるとまずい。早く帰らないと――。想定外の天気の急変に眉をしかめたが、意外や意外、あっという間に雪雲は去って青空が戻った。これが冬の天気なのだろう。

 いつもより早めに街へ下る。道に雪の痕跡はない。車が感知する外気温は6度(渓谷)から10度(街)に上がった。

夜のニュースで鹿児島県内の各地が雪に見舞われたことを知って、いわきの平地のしのぎやすさをあらためて実感した。

2022年12月19日月曜日

演題の変更

        
 いわき地域学會の第372回市民講座が土曜日(12月17日)、いわき市文化センターで開かれた。地理学の大谷明幹事が「高久の地誌と、そこに住む人々の暮らしの変化」と題して話した。

 当初は大谷さんら2人が「文化財を活かした地域づくりのために~『高久の歩き方』の制作をとおして~」という演題で話す予定だった。

 たまたまよんどころない事情から、このテーマは1カ月ずらすことになり、大谷さんが受け持った講話の部分をより深く、広く組み立て直して話してもらった。

 演題は変更されたが、結果的には「文化財を――」の「前編」とでもいうべきものになった。年があらたまった1月下旬に「後編」の講座が開かれる。

 いわき市は広域のため、都市部と縁辺部とではライフスタイルや行動様式が異なる。車への依存度も高い。

そうした地域の変容を探り、いわきの都市機能や地域的特性を考えようと、大谷さんは、先年、高久の一部である鶴ケ井地区で訪問調査を実施した。

 その結果に基づいて、自動車、認知症、買い物、服、病院、友人、天気、スマホ、パソコン、軍事費、お金、読書、保険、居酒屋、暖房、仕事、家事といったキーワードを抽出した=写真。

 鶴ケ井は義父の生まれ育った土地。カミサンの祖父母の地でもある。海に近い滑津川右岸域を、南から北へとU字型に丘の尾根が延びる。その間を埋める田んぼのどん詰まりに義父の生まれた家がある。「イリの本家」と言われている。漢字では「恵里の本家」。「恵里」が何を意味するのかはわからない。

 この40年の間に何度か訪れた。本家の近くに親戚が2軒ある。名前に「長」とか「重」とか「忠」とかが付く人が多い。いつも誰が誰だかわからなくなる。

本家の裏山は神谷作(かみやさく)というところ。国の重文に指定されている埴輪男子胡坐(こざ)像などが出土した「神谷作古墳群」がある。義父の長兄は考古マニアだった。それで自分の墓を円墳にした。本家の墓の一角にある。

そんなかかわりがある土地柄なので、興味を持って大谷さんの話を聞いた。今春発行された『まほろばの里 高久の歩き方』に掲載された大谷さんのコラムと重なるので、そちらから引用する。

 「車は持っているが運転できなくなるのが心配」「買い物は主に平地区、ニュータウンか鹿島街道沿線」「野菜作りが趣味で、直売所に卸している」「情報機器は持っているが使いこなしてはいない」……。

 「各種情報は新聞で入手する」というくだりに強く引かれた。それだけではない、新聞入れに新聞がたまっていると、安否を確かめる。

こうした隣近所とのつながり、仲間とのネットワークがあるからこそ、独り暮らしになっても寂しくはない――そんな思いでいることがわかった。

2022年12月18日日曜日

新年の手帳

                                 
 生涯学習を目的にしたシルバー世代のサークルがある。私もシルバーだが、もしかしたら私よりは「お姉さん」が多いかもしれない。

 1年に1回、おしゃべりを頼まれるようになった。今年(2022年)は、いわきに本社のある(あった)地域新聞の歴史をテーマにした。

 いわき地域学會の市民講座だと、A3のコピー用紙で10枚前後の資料をつくる。去年、その要領で資料をつくったら、終わって要望が出た。「話に集中したいので、資料はなくてもいい」

 いろいろ悩んだ末、自分の資料はいつもの通り用意しながら、受講する人にはそれを要約したA3資料1枚だけを配った。

 明治初期、いわきで最初に発行された冊子タイプの「磐前新聞」は、コピーを手に持って説明した。休憩時間に「ぜひ見たい」というので、回覧した。

 磐前新聞は磐前県庁の広報紙だが、商業新聞が書くような記事も載っている。「髪の毛の真っ白な赤ん坊が生まれた」「三本足のひよこが生まれた」「抜刀して押し入った強盗に斬刑」……。こうしたトピックスに興味を持ったのだろう。

 おしゃべりが終わると、代表から「来年もいいですか」と言われる。「ええ、まあ」。去年もそうだった。

 去年はそれから少したって「12月16日にお願いします」、さらに追いかけるように「テーマは何ですか」と聞かれたので、「いわきの新聞の歴史」と即答したのだった。

 年末には翌年のスケジュールを決めてしまうのだという。今年も私がおしゃべりしたあと、役員が集まってスケジュールを詰めたらしい。夕方までに電話が2回かかってきて、「来年は12月1日」、「テーマは」というので「草野心平の話」にした。

 まだ来年の手帳を買っていなかった。新しい月替わりのカレンダーも壁にはかけていない。急いで街へ出かけて買って来た。

 さっそく、1年後のおしゃべりの日時とテーマを書き込む。メモしておけば、11カ月間は忘れていても問題はない。

 去年もそうして手帳に書き込み、今年の11月になって師走の予定を確かめ、準備を始めたのだった。

 師走も、もう後半。来年の予定がポツリ、ポツリと入ってくる。手帳には、最初にその年と翌年のカレンダーが印刷されている。翌年のカレンダーに書き込みを入れておくのだが、それも限界がある。新しい手帳にメモしてやっと落ち着く、ということを繰り返している。

 手帳を買いに行くといつも思うのだが、書店には実に多種多様な手帳が並ぶ。目当ては、表紙の角2カ所が金属で補強されている手帳だ。毎年、同じタイプのものを使っているので、今回もそれにした=写真。

 その日の晩、テレビが「手帳を持つ派」と「持たない派」の特集をやっていた。持たない派はスマホのカレンダーを利用しているという。

スマホは使っていても、電話とメールだけの人間には、アナログな手帳は欠かせない。これはたぶん死ぬまで変わらない。そして、1年後の予定を書き込みながら、とりあえずそこまでは生きていないと――なんて考えるのだった。

2022年12月17日土曜日

ガラス絵

                     
 カミサンが実家にあった絵を、夏井川渓谷の隠居に飾った=写真。平の開業医だった、故後藤全久さんの小品だ。

 赤茶、黄、黄緑色などの落ち葉を横に11枚並べた「ガラス絵」だが、形と色と配置になんともいえないリズム=音楽を感じる。

 同じ色合いの落ち葉に柿がある。わが家の庭の柿の木は、今は葉も実も落としたが、その葉は紅葉の具合が1枚1枚違う。葉はやや厚め。1枚の葉に朱色や黄色、茶色がまじり、黒い斑点ができる。

 柿らしい葉は、11枚の中にはない。葉の形と色から樹種を特定できる知識がないのが、なんとももどかしい。

 後藤さんの絵がカミサンの実家にあるのは、たぶん故義父が所属していた任意団体「満月会」と関係がある。

 満月の夜かどうかはわからないが、仲間が集まって飲酒と談論を楽しむ、という趣旨の会だ。後藤さんら開業医や自営業、会社役員などが名を連ね、義父は末端で連絡役などを務めていたらしい。

 後藤さんがガラス絵を手がけていると知ったのはいつだろう。駆け出し記者のころ、警察のほかに草野美術ホールで開かれる展覧会を取材した。プロ・アマ問わずたくさんの画家と知り合った。そんななかで絵を描くドクターのことが耳に入ったのではないか。

結婚後、義父や義父の友人から満月会の様子をよく聞かされた。絵を描くドクター、後藤さんのことも話題に出ることがあった。

とはいえ、名前を記憶に刻んだものの、ガラス絵とはどんなものか、どんな作品なのか、までは全く興味がわかなかった。

隠居に飾った小品は、義父とは別のルートでカミサンの実家が所有するようになったものらしい。

後藤さんは平成2(1990)年秋、釈迦の十大弟子の慟哭を描いたガラス絵の画集『花と仏と人間と』を刊行している。図書館から画集を借りてきて、初めて作品と向き合った。

画集に寄せられた序文などによると、ガラス絵も油絵の一種だが、画布ではなく透明なガラスに絵を描く。

「技法は、一般の作画とは全く反対の工程になり、左右は勿論のこと、彩色も始めに着けた色が表面に出る。したがって、普通最後になるべきサインや、よく言われる画竜点睛のひとみから描き始める」(画集の序文=小松三郎)

鑑賞者は、描かれたガラスの反対側から絵を眺めることになる。といわれても、よくわからない。

が、ガラス絵の長所は、油彩のデコボコ感に伴う光の乱反射がないので、潤いのある発色が保たれることなのだとか。

確かに、落ち葉の絵をよく見ると、色が鮮やかで、全体的に幽玄な感じがする。音楽性だけでなく、奥深い絵画性も感じられる。

絵を飾って2カ月ほどがたつ。ガラス絵の技法を知って、やっとその魅力がわかりつつある、と言えるくらいにはなってきたようだ。

2022年12月16日金曜日

住宅地のキノコ

                      

  わが家の近くに故義伯父の家がある。わが家から洗濯機が消えたので、カミサンがちょくちょく出かけては洗濯機を回す。

 12月14日にも洗濯物を持って出かけた。ついでに、庭の手入れをしたらしい。帰って来るなり、「ケヤキの切り株にキノコが出ていた」という。

スーパーのレジで精算するとき、食品などを極薄のポリ袋に入れてくれる。その袋にキノコが20個近く入っていた。

傘は白っぽい。柄は? 黒みがかっている。冬に発生するキノコといえば……。エノキタケがある。それに似る。

いちおう図鑑に当たる。ひだは白色から淡いクリーム色、黒っぽい柄は上部で色が淡くなる。晩秋から春、カキやエノキ、コナラ、ヤナギなど種々の広葉樹の枯れ木や切り株に発生する。ナメコ同様、日本人好みのキノコ――とあった。

エノキタケは、平の里山で採り、渓谷の隠居の敷地のはずれに積み上げた剪定枝から採った。今年(2022年)も剪定枝から発生したが、すでに老化していた。

いつもそうだが、採ったキノコは落ち葉などを取り除くために水に浸す。それからごみを取り、水を切る=写真。傘にぬめりがあり、茶色みが増した。いよいよエノキタケだと確信する。

昔は旧平市の近郊農村だったとはいえ、旧道沿いに戸建て住宅や集合住宅が密集するベッドタウンだ。キノコが生えるような庭はまずない。

そう思っていたが、キノコの不思議を知るほどに「胞子は世界を飛び交っている」という思いが強くなってきた。

冬だろうが、夏だろうが、キノコの胞子は空を旅している。たまたま着地したところが「適所」だったら、そのまま活着して、次の世代へと命がリレーされる。

キノコは木を腐らせ、倒木や枯れ木を分解して土に返すというイメージだけでは収まらない。植物と共生する菌根菌がある。

ある本にこうある。菌根菌は「陸上植物の約八割の植物種と共生関係を結んでいる。菌と植物の共生である菌根が地球の緑を支えていると言えるだろう」

春に地面から現れるアミガサタケがある。夏井川渓谷の隠居の庭では、シダレザクラと共生しているようだ。

そのアミガサタケが一度だけ、平地のわが家の庭に出現したことがある。庭にはカキその他がある。どの木と共生関係を結んだのかはわからない。しかも、発生は一度きりだった。

それ以上に驚いたのが、庭のプラムの木の幹にいつの間にか、サルノコシカケの仲間(タコウキン=多孔菌科)の硬いキノコが発生したことだ。

幹は1メートルほどのところで二股になっている。片方がやられた。こちらはあとで後輩に切ってもらった。

胞子が入り込んで形成された菌糸のネットワークは、もう一方の幹にも侵入しているかもしれない。やはり、共生もあれば分解もあるのだ。

せっかくの食材だが、なぜか食べる気が起きない。小さすぎる。というわけで、今回は観察し、写真を撮るだけにとどめた。

2022年12月15日木曜日

鳥の巣

                     
  木々が葉を落とすと、鳥が幹と枝を利用してつくった古巣が現れる。夏井川渓谷の隠居でも、ときどき、鳥が庭木に巣をかける。それも、人の背丈ほどのところに。

 隠居の玄関わき、南側の雨樋のそばに実生の若いカエデがある。そこにあった古巣をカミサンが回収した=写真。

 前はその反対側、北向きの台所のそばのカエデにヒヨドリが巣をかけた。たまたま台所の裏へ行ったら、ヒヨドリがあわてて飛び立ったのでわかった。

 それだけではない。上の庭と下の庭を区切る石垣の一角にクワの木があった。もう10年以上前になるが、カミサンがこの木の枝を剪定中に古巣を見つけた。これもたぶん、すんでいたのはヒヨドリ。

去年(2021年)の今ごろも、ネギ苗床のそばに鳥の巣が落ちていた。こちらはとても小さい。直径は8センチ。細かい枝のほかに、ブルーシートのほつれを巣材として利用している。大きさからするとメジロだろうか。持ち帰って、カミサンの古巣コレクションに加えた。

隠居へ行って土いじりをしたあとは、家の周りの地面を見て回る。キノコは、冬も、春も発生する。梅雨時には地中に眠っているマメダンゴ(ツチグリ幼菌)を、潮干狩りよろしく熊手をガリガリやって探す。秋はむろん、キノコが地面と樹木に現れる。

 その意味では、1年中、キノコのことを思い浮かべながら家の周りをうろつく。それで営巣中のヒヨドリも、びっくりして飛び出したのだろう。

 ヒヨドリぐらいの古巣ならかわいいが、カラスとなると直径は40センチぐらいになる。とてもコレクションには加えられない。

わが家の近くに故義伯父の家がある。クスノキの若木がちんまりと枝葉を広げている。2014、15年と、カラスが2年続けて巣をかけた。子育て時期が過ぎたところで、近所の造園業者に頼んで“散髪”した。

 カラスの古巣を壊さないように切ってもらった。堅牢にできている。幹と枝のまたに木の枝を組み合わせて円形の“産座”をつくった。

下段はやや太く丈夫な枝、中段はそれより細い枝で、くちばしで枝をしならせながら編みこんだようだ。その枝と同じくらいの太さのハンガーが6~7個、組み込まれていた。

隠居の鳥の巣に話を戻す。巣材には人間の暮らしの痕跡がみられる。ブルーシートはその典型だ。

劣化するとぼろぼろになる。細長くほつれたシート片が地面に落ちている。見つけ次第、回収する。

ここまでほつれてしまうと、風に飛ばされやすくなる。最後は川から海へと流される。そうならないように、あらかたは片付けたが……。今年の古巣には、それらしいものはない。それだけでもホッとする。

2022年12月14日水曜日

カーナビゲーション

        
 新しい車(といっても走行距離約8万キロの中古車だが)にしてからちょうど半月。車の出し入れや半径20キロ(夏井川渓谷の隠居までの距離)の移動、給油を経験して、少しずつなじんできた。

 先日、初めて取扱説明書を読んだ。ハイブリッド車ということもあって、車そのもののメカニズムをまだ理解しきれないでいる。

 ハンドルにも、運転席と助手席の間にも、カーナビゲーションの下にも、ボタンがいっぱい付いている。

 カーラジオのボリュームやエアコンの調整はなんとかできるようになったが……。「CDはかけられないの?」。確かにそうだ。CDの挿入口が見当たらない。

 たまたま「車のホームドクター」でもある業者がカレンダーを持って来たので、その話をすると、すぐ教えてくれた。カーナビが持ち上がって水平になり、その奥にCDの挿入口が現れた。

 ドライブレコーダーやカーナビは、最初から付いているわけではない。前の持ち主が後から取り付けたのだろう。

 今はまだCDを聴く余裕はない。FM放送を流しっぱなしにしている。カミサンが助手席にいると、たまに「違う放送にして」となる。そんなときにはAM放送に切り替える。テレビも映る。これには驚いた。ドライバーは見ているヒマがないだろうに。

 この半月、カミサンはカーナビをしげしげと眺めている。今、どこを走っているのか、地図上に表示されるので、「ここは〇〇っていうんだ」とか、「この先に〇〇がある」とかつぶやく。

 国道399号と県道小野四倉線を利用して渓谷の隠居へ行く。途中に「前原」や「空木(くうぎ)」といったバス停がある。それでそのへんが前原、空木という地名であることはわかっている。カーナビを見るまでもない。

渓谷に入ると、しかし、私もおぼつかなくなる。「竹ノ渡戸」や「香後」という地名は頭に入っている。が、どこから竹ノ渡戸で、どこが香後なのかはあいまいだ。カーナビを見て、やっとリアルに区別がつくようになった。

どこに何があるか、知っているはずの街なかでも、めったに行かない葬祭場となると、迷うときがある。

特に、今の時期は日没が早い。先日、通夜に出かけて場所を間違えた。手前の葬祭場に入ると、「違うよ、ここじゃないよ」とカミサンが叫ぶ。確かに別の故人の名前が掲げられていた。もう一つ先にある葬祭場だった。

カーナビ=写真=で確認しながら、目的の葬祭場に着く。夕暮れの街では、こういう利用の仕方もあるのだと、妙に納得した。

そう、年寄りだからこそ、ドライブレコーダーも、カーナビも利用した方がいい。ドライブレコーダーの取扱説明書は別冊になっている。いずれこれもちゃんと読んで仕組みを理解しないと。

2022年12月13日火曜日

師走の日曜日

                      
 師走はやはり、人間も天気も忙しい。12月11日の日曜日朝、いつものように夏井川渓谷の隠居へ出かける。

 空には鉛色の雲が広がっていた。時折、霧雨でフロントガラスがぼやける。小川町に入ったとたん、本降りに変わったと思ったら、すぐやむ。また降ってくる。鍋底に穴が開いたり、ふさがったりしたような降り方だ。

 前の週の火曜日(12月6日)、雨上がりの街の後方に連なる標高700~800メートル級の山が冠雪していた。それを思い出す。

 渓谷の隠居は標高が200メートルほど。経験則からいうと、6日前も雪ではなく雨だったはず。そう踏んで、県道を駆けあがった。

 平野部から一段上がった高崎に入ると、雨はピタリとやんだ。渓谷までの「地獄坂」では、カエデがまだ紅葉をまとっていた。

案の定、雪はどこにもない。隠居の対岸の木々は、モミとマツの緑を除いてすっかり葉を落としていた=写真上1。

 カミサンは自宅の生け垣の剪定と片付けをするという。ではと、久しぶりに1人で渓谷へ向かったのだった。

 師走に入ると、「雪」と「凍土」が頭をかすめるようになる。雪が降って道路に残るようだと、隠居へは行けない。

スタッドレスタイヤに替えればいいのだろうが、どうしてもいわきの平地の暮らしに引きずられる。

平地では、まず雪は降らない。降っても春先のことで、すぐ消える。怖いのは日陰のアイスバーンだが、そんなときには車に乗らない。遠出も、むろんしない。旧冬はそうしてノーマルタイヤで過ごした。

隠居では洗面所と温水器の凍結・破損を何度か経験している。対策は簡単だ。水道管の元栓を閉めて水を抜く。

小春日だからと油断して元栓を閉めずに帰ったら、翌日あたり急に冷え込んで破損した、というケースがほとんどだった。

地温も畑を掘って生ごみを埋めるときに確認する。真冬には5センチ以上、地面が凍る。凍土ができると、スコップがはね返される。つるはしで凍土を割ったこともある。

11日はスコップがすんなり入っていった。まだ凍土になる気配はない。辛み大根と三春ネギを数本掘り取り=写真上2、敷地の隅に積んである剪定枝をチェックし、キノコの有無を確かめて隠居をあとにした。

滞在わずか30分。帰宅して昼食を取り、一休みしたところへカミサンの実家(米屋)から電話が入った。お歳暮用のもちができたという。

そうだった。師走に入ると、お得意さんや親せき、世話になった人に歳暮のもちを配る。もちは電気もちつき器でつくる。もち米は、ドラム缶を利用した“まき釜”に蒸籠(せいろ)を三段重ねにして蒸す。

何年か前までは、釜の水を沸騰させ、その蒸気でもち米をふかす「釜じい」(火の番)が私の役目だった。

今はその役目から開放され、何人かにもちを配るだけになった。さっそくもちをもらいに行き、その足で2軒の家を回った。さらにそのあと、魚屋へ刺し身を買いに行き、知人の通夜へ出かけた。

もう師走も半ば。あれこれ宿題が残っている。それを思い出しながら、翌月曜日ももちを配った。