2021年2月28日日曜日

少し乱雑なくらいがいい

                     
   1年前にこんなことを書いていた(抜粋)――。玄関の履物がときどき、きれいに外向きになる。カミサンがそうする。革靴やスニーカーは、上がりかまち、といっても茶の間の疊だが、そこに座って履くから外向きの方がいい。

 サンダルはどうか。新聞を取り込む。コンビニに行く。庭に出る。しょっちゅう家を出たり入ったりするので、向きはおろそかにできない。若いときは外向きでも内向きでもかまわなかった。最近は外を向いていると、段差が気になってしかたがない。

外を向いたサンダルに合わせて足を下ろす。もう一方の足がぐらつきそうになる。畳と玄関のたたきまでの段差を測ったら、約33センチ(1尺)あった。古希を過ぎた人間にはなかなか手強い高さだ。

玄関の靴やサンダルがそろって外を向いている分には、見た目はきれいで気持ちがいい。しかし、足を上げ下ろしするのがきつくなった人間には、ちょっと困る。ある日、宣言した。「サンダルは内向きのままでいいから」

外から戻り、サンダルを脱いで上がる。サンダルは内向きのままだ。外へ出るときは、後ろ向きになって玄関の柱につかまって足を下ろす。その方が、流れがスムーズだ。腰を痛めて、こたつから立ち上がるのが難しいようなときには、なおさら柱を支えにしないと、足を下ろせない。

隣の家にカミサンの弟が住む。やはり古希を迎えた。義弟は私より背が低い。朝・昼・晩と、わが家で食事をする。日に3回、玄関から茶の間へ上がるのに難儀している。

今年(2021年)の正月にも玄関にからんでこんなことを書いた(やはり抜粋)――。家の中での転倒事故を防ぐこと、これが「年頭の誓い」だ。老化で弱くなった足腰が、コロナ禍の巣ごもりでさらに弱くなった。するとますます、家の中にあるモノたちが「障害物」になる。

正月三が日、さっそく階段で足をぶつけ、座布団でこけそうになった。「家庭内事故」を減らすために、玄関のたたきにブロックを並べ、マットを敷いて踏み台にした。上がり下りがスムーズになった。デイサービスに通っている義弟は「ヨイショ」といわなくなった。

それから2カ月が過ぎようとしている今――。カミサンが玄関を掃除したあと、スニーカーとサンダルをきちんと外向きにした。これが困る。理由は上に記した通りで、サンダルをはいて新聞を取ろうとすると、踏み台に下りてからひとつよけいな動作をしないといけない。

サンダルが内向きで斜めになっていると簡単に足を入れられる。そのままカギをはずして玄関の戸を開ける。腕を伸ばして新聞を取り、すぐ引っ込む。ところが、きちんとサンダルが外を向いていると、まずそれに体の向きを合わせないといけない。そのあと、斜めに向きを変えて玄関を開ける。ささいなことかもしれない。が、毎日のルーティンになるとストレスがたまる。

わきの棚に並ぶ靴も、靴屋のように爪先がこちらを向いている。靴屋のディスプレイとしては見た目もすっきりしてきれいだ。が、実際手に取って履こうとすると、一度向きを変えないといけない。

学校の下駄箱を思い出せばわかることだ。靴を脱いだら、爪先から奥に入れたはずだ。かかとが前だと取り出しやすいし、スムーズに履くことができる。玄関の棚に置かれた自分のスニーカーの向きを変えて、かかとを前にした=写真。玄関の履物は、年寄りには後ろ向きで少し乱雑なくらいがいい。

2021年2月27日土曜日

「火星の風」

                     
 生まれたときから、日本のカレンダーは月・火・水・木・金・土・日曜日の順で繰り返されている。なんでそうなのかはチコちゃんではないからわからない。

 ネットで検索したら、答えに行き着いた。1週間7日は古代バビロニアで始まった。しかし、各曜日は古代ローマでつくられた。さらに、一日を24等分して1時間ごとに五つの惑星と太陽と月とを繰り返し当てはめ、一日の最初の1時間が一日を支配するという考え方に従って、土・日・月・火・水・木・金の順番ができ、やがて週の初めが日曜日(安息日)になった。

要するに、中東・西欧の占星術や宗教の考え方が反映されて、今のようなカレンダーができあがった、ということだろう。

なぜカレンダーが気になったかというと、2月最初の「チコちゃんに叱られる」で、「火星人はタコ」説を取り上げていたからだ。火星人から太陽系、太陽系からカレンダーに連想が飛んだ。で、「火星人=タコ」の答えは「ウッカリしてウッカリしてドッキリしたから」だそうだ。

19世紀後半、イタリアの天文学者が望遠鏡で火星を観測し、表面の細かい模様を絵にして、イタリア語の「溝」を意味する「canali」と呼んだ。それをフランスの天文学者が翻訳するなかで「canal」(運河)と誤訳した。これが最初のウッカリ。

次のウッカリはアメリカの天文学者。「運河」を信じ、詳細な地図を描いて、名前まで付けた。「運河」をつくるような生命体は、火星の重力(地球の3分の1)からして頭が大きい、足は細いはず。「火星人はグロテスク」と結論づけた。

この「仮説」を前提にして、イギリスの作家、H・G・ウェルズが『宇宙戦争』を出版する。それから40年ほどたって、アメリカで『宇宙戦争』のラジオドラマが制作される。このドラマを、聴取者がいかにも実際に起きたように受け止め、大パニックになった。これがダメ押しのドッキリ、ということだった。

こうしてウッカリ・ウッカリ・ドッキリが重なって、「火星人はタコ」の姿のイメージが定着した。

実は、このブログはこれからが本題――。NASA(米航空宇宙局)の火星探査車「バーシビアランス」が火星着陸に成功した。そのときの映像が公開され、記事になった=写真。「火星に吹く風の音」も録音したという。

ネットで確認しても「火星の風の音」がどんなものかはよくわからなかった。が、それはそれでかまわない。想像さえしていなかった「火星の風」という言葉が胸に刺さった。比喩としてはかなりインパクトがある。「月の砂漠」はさておき、「水星の庭」「木星の渚」「金星の谷」「土星の雲」などと、詩的なイメージを誘発する。

NASAが特に知りたいのは「火星の風」ではなくて、水ではないだろうか――たまにしか夜空を見上げない私は、記事を読んでそう想像した。

国立科学博物館の「宇宙の質問箱」に書かれている。火星では昔、たくさんの水があり、川として流れていたらしい。その後、火山活動が終わり、重力が小さいために大気が逃げて次第に薄くなった。そのため気温も下がり、水は凍りついて火星の地下に残っている。

ついでに、もうひとつ。チコちゃんのドッキリの根拠になったラジオドラマの「大パニック」だが、メディア史研究の第一人者、佐藤卓己京都大教授の『流言のメディア史』(岩波新書、2019年)によると、実際に起きたのは電話回線のパニック程度で、そのほかの事象はすべてラジオと新聞の合作による“メディア流言”だった。つまり、ドッキリはなかった。

マスメディア研究者の間では超有名な逸話だったので、教授自身もしばらくは「大パニック」を信じていたという。

今回の「火星人はタコ」の話は、初めて「チコちゃん“も”𠮟られる」になるのではないか。ウィキペディアにも「現在では根拠のない都市伝説として否定されている」とある。

2021年2月26日金曜日

現場・現在・現役

                     
 司馬遼太郎さんがこんな意味のことを書いていた。何日か旅をして原稿を書かなかったら、感覚が鈍っていた。あの大作家でさえそうなら、田舎の小さな新聞社のコラム書きはなおさら、ではないか。とにかく書き続けることだ、と自分に言い聞かせたものだ。

 会社を辞めたとき、これで締め切りから解放されると、せいせいした気分になった。ところが、1カ月が過ぎ。2カ月がたち、3カ月目に入ると落ち着かなくなった。書きたい思いがわいてきて、若い仲間の助けを借りてブログを始めた。以来13年間、感覚を鈍らせないためにほぼ毎日書き続けている。

 書くためには現場へ行かないといけない。なにを書いたらいいかは現場が教えてくれる。現場は至る所にある。現に暮らしている地域社会がそうだ。日曜日に出かける夏井川渓谷の隠居と小集落、周囲の自然がそうだ。隠居や街と自宅との往復コースがそうだ。書く材料には事欠かない。

 記者時代は「傍観者」としての意識が強かった。が、今は一人称の「私」を主語にして書いている。「当事者」としての発信を心がけている。それでも、「観察」し、「記録」するやり方は、記者時代と変わらない。観察と記録の蓄積が、やがては地域を、自然を、時代を考える材料になる。

 なによりもまず「記者は考える足」でないといけない。それは現在ときちんと向き合うことでもある。今を直視し、過去を踏まえて未来につながる思考を深めることでもある。

 先日、緊急の文章依頼があった。分量としてはたいしたことはない。が、数項目にわたって書き分ける必要がある。それに基づいて展示物をつくり、配置し、公開する日が決まっている。そのモノに張り付ける文章だから、字数も決まっている。公開の日から逆算すると、締め切りは依頼があってから2日後だ。昔の若い仲間からのSOSなので、四の五の言わずに引き受けた。

 文章ができれば、それが「たたき台」になる。依頼した側も本気になって直しをかけられる。その後、何回かやりとりがあって最終校正をすませたあと、若い仲間に言った。「ブログを書き続けていたから、つまり現役のつもりで文章を書いていたから引き受けることができたんだよ。書いてなかったら、無理だった」

 現場・現在・現役――。この“三現主義”でやってきた。むろん、それがどこまでできているか、あるいはいつまで続くかはわからないが。

 この前、たまたま茶の間から庭を見ていたら、地面に赤い破片のようなものがある。よく見ると、ヒヤシンスだった=写真。さっそく花の写真を撮る。ヒヤシンスの花を眺めているうちに、ギリシア神話のヒュアキントス(ヒアキントス)を連想し、手付かずになっている宿題があることを思い出した。

 吉野せいの『洟をたらした神』に収められている短編「夢」は、ギリシア神話の「冥府の章」を読んで眠ったために見た夢について書いている。冥界への五つの流れ(川)がある、冥界の一番奥深くに底なしの奈落=タルタロスがある……。それらの注釈づくりを棚に上げたままだった。

 ヒヤシンスの花に触発されて、図書館からギリシア神話の本を借りて来た。ここは一気に「夢」の言葉を分解して注釈を加えないと――。これだって、毎日ブログを書いているからこそできる“在宅ワーク”だ。

2021年2月25日木曜日

松本清張とジョルジュ・シムノン

           
 おととい(2月23日)の夜、BS日テレで「松本清張スペシャル・鬼畜」を見た。<火曜サスペンス劇場1000回突破記念作品>と銘打ってある。主演は若いときのビートたけし。ずいぶん前に放送されたものだろう。

 ふだんサスペンスドラマは見ない。しかし、正月にイタリア在住の知人(カミサンの高校の同級生)から、メールで現地の新聞切り抜きが届いた=写真。松本清張(1909~92年)を紹介する記事で、見出しに「シムノンに似た日本のサスペンス作家」とあった(知人の翻訳による)。

シムノンは、ごぞんじ「メグレ警視」のジョルジュ・シムノン(1903~89年)。清張とは同時代のフランスのサスペンス作家だ。

「清張は日本のシムノン」。頭の中で組み立て直し、なぜそうなのかを探ってみた。「巣ごもり」が基本のうえに、コロナ禍で関係する団体の催しなどがあらかた中止になった。自由に使える時間が増えた。それを調べものに充てている。

シムノンは読んだことがない。図書館から彼の『家の中の見知らぬ者たち』『片道切符』『小犬を連れた男』を借りてきた。『片道切符』はアンドレ・ジッドがカミュの『異邦人』より優れていると評価した作品だ。人を殺(あや)める犯罪小説には違いないが、登場人物の心理描写が複雑で読みごたえがある。

一方の清張は、15歳の夏休み、高専から阿武隈の山里へ帰省して読んだ『点と線』が最初だった。東京駅ホームの4分間の空白をついた時刻表のトリックに強烈な印象を受けた。当時から超売れっ子の作家だったが、あとはそんなに読んだ記憶はない。

今年(2021年)になって、イタリアからのメールで清張がよみがえり、シムノンが“降臨”した。そこへ、タイミングよくテレビで「鬼畜」が放送された。

ドラマを見ながら、読んだばかりのシムノンの『片道切符』を思い出していた。どちらもとことん人間の“鬼畜”性を描いている、という点では、2人の作風は似ている。そう、「清張は日本のシムノン」「シムノンはフランスの清張」と納得がいった。

最初、サスペンスもミステリも推理小説も同じだと思っていたが、ウィキペディアではちゃんと区別している。「ミステリや推理小説と混同されがちだが、これらは推理を楽しむ物語」「サスペンスは現実に基づいた人間の起こす」物語。清張もシムノンも「推理作家」でくくろうと思ったが、それではあまりにも雑過ぎる。少々わかりにくいかもしれないが、イタリアの知人の言葉に従って「サスペンス作家」で通した。

繰り返しになるが、人間の心の奥底には“鬼畜”性が眠っている、という恐れは抱いていた方がいいのかもしれない。

ついでながら、清張を取り上げた新聞を欄外の文字から探ってみた。「ラ・レプッブリカ」の<文化>欄だった。中道左派の日刊紙で、イタリアではトップクラスの発行部数を誇る、とか。ほんとうは、それよりも記事の中身を知りたいのだが。

2021年2月24日水曜日

『松の文化誌』

                     
 ローラ・メイソン/田口未和訳『松の文化誌』(原書房、2021年)を読む。著者はイギリスの食物史家・フードライターだ。欧米にもマツタケの仲間が分布するが、香りが強すぎるために人気がない。マツタケの記述はないだろうと思っていたら、その通りだった。

 世界に生息する松と人間のかかわりを論じている。キノコに関しては「松の木の根系は、しばしば菌根とともに発達する。根の表面に付着して白っぽい膜で覆う菌類だ。見かけは悪いが、この菌根は松と共生関係にあり、松から栄養分を摂取すると同時に、松にとっても地中のミネラルが吸収しやすくなるという利点があり、やせた土壌での成長を助けてくれる」。

 マツタケはそうして生えてくる――と、日本人ならなるのだが、そこへは目が行かない。あとになって中国の不老不死の話が出てくる。

「中国では古くから、医師たちは松脂(まつやに)と松の根元に育つ菌類(茯苓=ぶくりょう=「サルノコシカケ科のマツホドの菌核をそのまま乾燥させたもの」)との関係に、複雑な考えを抱いてきた。この菌は、地面に流れ落ちた松脂がそのまま残って千年が経過した状態と考えられ、不老不死の薬とみなされていた」

なるほど、「白髪三千丈」の中国らしい壮大な時間の物語だが、サルノコシカケ科(今は「多孔菌科」というらしい)なら木材腐朽菌ではないか。マツタケは松の根と共生するが、マツホドは一般に伐採後3~5年経過したマツの根に寄生する。

あるいはまた、「松林はさまざまな種のキノコの宝庫として知られる。なかでもタマチョレイタケ(学名polyporus)に属するキノコは、中国では長寿を望む人たちのための優れた薬になるとされている」というくだり。

タマチョレイタケの仲間も多孔菌科。しかし、多くは松ではなく広葉樹に発生する。夏井川渓谷の隠居の庭にある広葉樹の枯れ木には、仲間の一種のアミヒラタケが出る。要するに、『松の文化誌』が取り上げたキノコは中国止まり、食用よりは薬用に重点が置かれている。

本文中に作者不詳の中国の掛け軸が紹介されている。そこに描かれている松の根元のキノコは、中国では不老不死の妙薬とされている霊芝(マンネンタケ)のようだ。

以上は『松の文化誌』のほんの一部。主題は「松脂」といってもよい。「古代の地中海世界では、松に関しては木材よりも松脂やピッチが重要だった」という。

松の生木から採取した松脂を蒸留するとテレビン油やロジンができる。枯れた松材からはピッチやタールが抽出される。船や道具を長持ちさせる防水・防腐剤であり、接着剤でもあったという。ワイン製造にもしばしば使われた。つまりは、生活のさまざまな場面に松脂が利用されていたのだ。

 本文に松の木から松脂を採った「傷口」の写真が載る=写真。太平洋戦争中、夏井川渓谷の小集落でも同じようなやり方で松脂採りが行われた。渓谷ではその傷跡が「ハート形」あるいは「キツネ顔」となって赤松の根元近くに残る。本のキャプションにはⅤ字形の「猫の顔」とあったが、どう見てもネコの顔には見えない。

 12年前に北欧を旅行し、ノルウェーのフィヨルドを楽しんだあと、ヴォスの教会を訪ねた。石造りだが、塔だけは板張りだった。全体が板張りの教会もある。その写真が紹介されていた。材は松、松タールで全体がコーティングされている。塔がなぜ黒すんでいるのか、がよくわかった。

この本のポイントは「松の木から作る製品は、鉱油や石油化学製品が開発される以前の世界では、防腐剤や溶媒として必需品だった」(序章)。そして、「将来には再びその利用価値に注目が集まる日がくるだろう」。これに尽きる。

2021年2月23日火曜日

庭に春がきたと思ったら

        
 土曜日(2月20日)の夕方から体調を崩し、日曜日は午後を除いてあらかた床に就いていた。風邪の原因物質が腸にきたらしい。この間、といっても2日間だが、飲むのを控えた。月曜日のきのう(2月22日)、目覚めると汗をかいていた。それで頭も体もすっきりした。

きょうは一日遅れの日曜日――。そう自分に言い聞かせたとたん、週明け最初の「燃やすごみの日」なのに、ごみネット出すのを忘れた。カミサンが代わって出した。そのことを言われて初めて気がついた。

 普通に朝ご飯を食べ、普通に“在宅ワーク”を始める。先日、明治28(1895)年に、江名・豊間・薄磯・沼之内まで虎列刺(コレラ)が蔓延したため、沼ノ内に隣接する平・下高久で大字の有志が発起人になり、鎮火祭式と大般若経転読会(え)を執り行って大字内の安全を祈った、という史料を紹介した。

その流れで『いわき市史 第6巻 文化』編の「医療」を読み返していたら、幕末から明治にかけて活動した医師の一人に、同じ高久の「青島貞」がいた。

それに気づいて間もなく、下高久に住む同じ名字の後輩がやって来た。聞けば「本家の先祖」だという。そこからいろいろ“取材”を進める。漢方医だった。本家は後輩の家の隣にあった。ルーツは武田信玄~徳川家康とつながり、笠間藩にも関係するらしい。

後輩の家には「薬箱」だけが残っている。それはそれで貴重な遺品だ。家系図があるようだから精読して教えてほしい、ついでに薬箱の写真を撮らせてほしい、と頼む。ちょうど後輩の畑からもらってきた白菜が漬かったので、二切れを進呈した。

彼が帰ったあと、あらためて『いわき市史』を読んだ。青島貞がもう2カ所に出てくる。明治の初期、磐前県病院が平にできる。この病院で、コレラ鎮めに関係した下高久の松井玄卓(謹)らとともに、青島貞が医員として勉学した、とある。さらに、「医術をもって官庁および官公立病院に奉職したものは、無試験開業を許された」とあって、そのなかの一人として青島貞が紹介されている。

きょうはここまでだが、いい宿題ができた――。私の調べものはいつも、なにかの途中に即興で始まる。宿題がエンドレスなので、なにもやることがない、ということがない。

夕方は「一日遅れの日曜日」という理屈で、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行った。若だんなが目を丸くして、「きのう(日曜日)だったら、カツオはなかったんです。吉田さんがきたら、どうしようかと思っていました」という。いやあ、一日遅れでよかった、今回は。

家に帰ると、庭のジンチョウゲが開花しているのが目に留まった=写真。スイセンも何輪か咲いた。確かにきのうは山田町で最高気温が22.5度に達し、早いうちからヒーターと石油ストーブを止めた。この陽気に誘われて、一気に庭にも春がきたのだ。

ジンチョウゲの花に近づくといい香りがした。色と香りが戻ってきた。2週間ぶりのカツオの刺し身が、3日ぶりの焼酎がうまかった。

きょう、2月23日は天皇誕生日。実は去年(2020年)からそうなっていることを忘れていた。祝日が増えたわけではない。その分、得をしたような気分で、家で静かにしていようと思う。きのうの春から一転、気温が急降下し、日中は10度前後で推移するらしいから。あす(2月24日)はさらに気温が下がるという。風邪がぶり返さないようにしないと。

2021年2月22日月曜日

ブリとイワシの刺し身

        
 東北地方の大地はまだ安定していない。東日本大震災から10年もたつのに、余震が続いている。ここ10日ほどは、暮らしに変化はないものの、2月13日深夜に発生した震度6強(いわきでは5強)の大地震に気持ちが引っ張られて落ち着かなかった。その10日ほどの間におきたことを四つ、五つ――

 地震の翌日、日曜日(2月14日)、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。顔を合わせるなり、「カツオはダメ。開いたら白かった。ブリとイワシとタコがあります」という。「では、ブリとイワシで」

 ほぼ1年ぶりにブリとイワシの刺し身=写真上1=を口にした。自宅と故義伯父の家、夏井川渓谷の隠居の被害を確かめ、片付けをすませたあとの晩酌だけに、カツオとは違った刺し身の味が舌を喜ばせる。ブリは安定したうまさ。イワシは脂がのっていて甘い。カツオがブリとイワシに化けたようなものだが、こうした“誤算”もまた楽しい。

 この日、渓谷の隠居にいると、平上神谷の後輩から連絡が入った。「野生ザルが中神谷に現れた」という。

 いわき市防災メールでは、2月3、4日・平中平窪新町、同6日・平下平窪字曲田、同7日・好間町川中子(かわなご)字古川、同8日・平字九品寺町、同9日・平鎌田字寿金沢、同10日・同字石名坂(その後、平二中付近で人がかまれた)、同11日朝・平幕ノ内字高田、同午後・石森一丁目、同12日・石森二丁目で目撃されている。

 2日後の2月14日、石森山の南端をかすめて中神谷に現れたあとは情報が途絶え、同19日になって若い仲間が「北神谷、水品にサル出現」とフエィスブックに情報を寄せた。と、その二日後のきのう(2月21日)になって、再び防災メールが注意を呼びかけた。北神谷・水品の東隣、四倉町上仁井田字家ノ前で野生ザルが目撃されたという。

今回はたまたま石森山のすそ野あたりをうろちょろしていたので、興味を持ってルートを追い、中神谷に現れるのではないかと推測していた。それをブログに書いたものだから、「上神谷を通り越して中神谷に行った」と連絡がきた。やがては人間の生活圏外へ去って行くにしても、ときどき現れる“はぐれザル”には哀れなものを感じてならない。

 新しい白菜漬けも食べ始めた。茎はしんなりして甘い。まあまあ漬かっている。葉先は? しょっぱかった。霜に焼けて枯れた部分はカットしたものの、それでも死んだ葉が残っていたのだろう。死んだ葉は浸透圧ができない? 一切れを取り出して水分をしぼると、灰色っぽい汁が垂れた。枯れた葉先がとろけてそうなったにちがいない。

 ハクチョウたちも北帰行の準備に入ったのではないか。10年前の3月11日、平・塩~中神谷のハクチョウたちは夏井川を逆流してきた津波に驚いて飛び立ち、そのまま北へ帰った。今度の地震ではどうだったか。むろん関連性はわからないが、このところ急に数が減った。夕方、夏井川の堤防を通ると、20羽くらいしか残っていない。半分がちょうどいいタイミングで離水し=写真上2、四倉方面へ飛んで行くところだった

 きのう(2月21日)の日曜日は、刺し身を買いに行くのをあきらめた。風邪で腸炎になったらしく、トイレが近い。食べるのは控えた方がよさそうだ。一時はコロナを心配したが、熱は平熱、咳はない、味もわかる。頭痛も倦怠感もない。風邪薬を飲んで、土曜日夜から日曜日昼まで寝ていたら、汗をかいた。発汗したら、頭も体もしゃっきりしたので、このブログを書いた。けさは平常。一日遅れで刺し身を買いに行く。

2021年2月21日日曜日

内山節に宮沢賢治、の本

                     
 ネットとリアルの両方で古書店を営む若い仲間が、毎日新聞のコピーを持ってきた=写真。「特集ワイド」とある。タイトルは「還暦記者鈴木琢磨の『ああコロナブルー』」。同ワイドにはいろんなメニューがある。そのひとつが「ああコロナブルー」で、ベテラン記者による記事スタイルの連載コラムのようだ。

後日、いわき総合図書館で毎日新聞の綴りを見たが、いわきに届く統合版には「特集ワイド」はなかった。夕刊だけの読み物らしい。

 コロナ禍で在宅勤務になった。神田神保町の古書店巡りができなくなった。散歩がてら、地元の西武池袋線大泉学園駅そばにある古書店「ポラン書房」に通いだした。ここもコロナ禍で2月7日に店を閉じ、ネット通販だけになった、というところから本題に入る。

 若い仲間は記事に登場する古書店主に薫陶を受けた。「ポラン書房」店主は山形県出身の73歳。私と同じ団塊の世代だ。宮城県で育ち、茨城県の大学で学び、いわき市で商売をしている若い仲間は、水戸市でこの店主と出会い、彼の家に泊まりながら、古書業界の裏方の仕事を学んだ。商売の上では師匠のような存在だという。

 古書店主は若いとき、作家小田実らの市民運動(ベ平連)に共感した。大学を中退して、学習塾を開いたが、大手の進学塾に押されて古書業界に転じた。

そのころまでの「古本屋のおやじ」は独特の存在だった。身近なところでは「平読書クラブ」のおやじさんがいる。私自身、10代後半から通い始め、おやじさんが亡くなるまで、付き合いは半世紀に及んだ。

「ポラン書房」には、アニメ映画監督の故高畑勲さんが通った。宮沢賢治関係の本をドサッと買い込んだ。記者は高畑さんの奥さんに、そのへんの話を聴きに行く。さらに記者は、古書店主がコロナ休業中に読んだ、哲学者内山節さんの『自然と人間の哲学』(岩波書店)を読むように勧められる。

 私が記者になって何年かたったころ、公害問題に替わって環境問題が取りざたされるようになった。「人間が自然に立ち入るのを制限すべきだ」と主張する研究者がいた。

 阿武隈の山里で育った人間には、この論調が理解できなかった。自然は自然、人間は人間。人間は自然に立ち入るな――では、林業は成り立たない。木炭を焼いて食ってきた山の民はどうすればいいのか。広く農業は、漁業は? その疑問に明確な答えを出してくれたのが、2歳年下の内山さんの『山里の釣りから』であり、『自然と人間の哲学』だった。

自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の3つの交通から論じている。阿武隈の山里で生まれ育ち、雑木林を遊び場にしてきた人間には、そして結婚後、キノコや山菜を採るようになった人間には、内山さんの自然哲学が大いに納得できた。かつての日本人は自然を利用しながら、自然を守ってきたのだ。

若い仲間はひょんなことからわが家に出入りするようになり、酒が入ると宮沢賢治や内山節の話を聞かされるようになる。東京でも師匠が同じような話をする。団塊の世代に共通するなにかを感じ取って、新聞コピーを持ってきたのだろう。私も、若い仲間と東京の古書店主の関係が具体的にわかってよかった。

2021年2月20日土曜日

震度5強から1週間

                     
 2月13日深夜の大地震(最大震度6強、いわきでは5強)から、きょう(2月20日)で1週間。被災直後は、いわきは棚からモノが落下し、店によっては大きな被害が出たものの、おおかたは軽微ですんだ――そんな程度に思っていたのだが……いわき駅を中心とした市街地は、想像以上にダメージが大きかったようだ。

 いわき市立美術館は、敷地内のガス管が破損したため、きのう(2月19日)、休館した=写真上1。問題個所を特定し、安全を確認したということで、きょうは再開された。同美術館のツイートで知った。実質的には、きょうがいわき市美展(絵画・彫塑の部)の開幕初日ということになる。

 いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」の4・5階に入居しているいわき総合図書館も、ほかの図書館と同様、地震の翌日(日曜日=2月14日)、点検のために臨時休館をした。翌月曜日には再開したが、自動出納書庫内にある図書が取り出せなくなったため、貸し出しは開架図書だけになった。これは木曜日(2月18日)、図書館のホームページで知った。

 私は、ほぼ3日にいっぺんは図書館のホームページを開いて、読みたい本を検索する。あればすぐ借りに行く。その半分は自動出納書庫にある。そこにある図書を借りるには、検索機で呼び出し、カードを窓口に持って行く。すると、5分(冊数が多いときは10分)ほどで本が借りられる。地震でこれができなくなった。

 いわきの中心市街地からは離れるが、内郷・白水町の「みろく沢炭鉱資料館」も、裏山から大きな岩が落下し、資料館裏の鶏舎が一部損壊した。このため、調査をして今後の対応を決めるまで休館することを、ツイッターで知った。

 きのう(2月19日)午後、カミサンが歯医者へ行くのでアッシー君を務めた。図書館を待ち合わせ場所にした。検索機には自動出納書庫の検索はできないという張り紙があった。外部から見学できる自動出納書庫は真っ暗だった=写真上2。

 いつもだと、図書館に入ってすぐ本を返す。それから駐車券にパンチを入れる。それで2時間は無料になる。ルーチンとして体が覚えているはずだが、きのうは返す本がなかった。ただの待ち合わせ場所にした。そのまま入館し、雑誌を読んでいるうちに読みたい本を思い出して、2冊を借りた。

ルーチンが途切れたせいかもしれない。ラトブの駐車場を出るとき、精算機にカードを入れたら、上がるはずのバーが上がらない。しかも、300円の料金が表示されている。なぜだ。図書館で駐車券にパンチを入れるのを忘れていたのだと気づく。オープン時から13年間利用しているが、こんなことは初めてだ。

 たまたま後続車はなかった。が、小銭は午前中、コピーのために使い果たしていた。あわててカミサンから100円玉を3枚借りて“脱出”した。どうやら私も5強の地震で頭にひびが入ったらしい。

 そんな頭でも、10年前に事故を起こした東電福島第一原子力発電所の1号機、3号機の原子炉格納容器内の水位が低下傾向にあるというニュースにはギョッとした。あれ以来、注水して「冷温停止状態」にあるデブリだが、今度の地震で10年前の破損が拡大し、漏水量が増えているのではないか――そんな不安と疑念を抱かせる発表だ。どんな状況なのか、もっと詳しく知りたい。

2021年2月19日金曜日

明治28年のコレラ鎮め

        
   明治28(1895)年6月、小名浜に入港した汽船にコレラが発生し、磐城衛生会はコレラ予防心得を1万枚印刷して配布した(『いわき市史 第6巻 文化』編)。衛生会は、大多数が医師、それに地方有識者が加わった組織で、行政に提言したり、小学校や芝居小屋を利用して衛生講話をしたりしたという。予防心得を配ったのもその一環だろう。

これがコレラ流行の始まりだったのかどうか。「江名・豊間・薄磯・沼之内まで虎列刺(コレラ)病が蔓延した」ため、沼ノ内に隣接する平・下高久地区で大字の有志が発起人になり、「鎮火祭式と大般若経を執り行い、大字内の安全を祈った」。同地区に住む知人からちょうだいした史料の解読コピー=写真=に、そんな意味のことが書いてある。「旧7月5日」(新暦では8月24日=土曜日・大安)と史料にあるが、その日に祈祷が行われたのだろうか。

 コロナ禍に苦しむ現代人と同様、ざっと125年前の郷土の人々もコレラの感染におびえ、予防策を講じる一方で「疫病退散」を祈願した。

予防策を指導したのは、知人の先祖で医師の松井玄卓(謹)らだ。玄卓は磐城平藩安藤家の医師だった。知人が解読した玄卓の肖像画の「履歴」から明治以後の部分を抜粋する

――私(玄卓)は明治4(1871)年、命令によって下高久村に帰農し、平町病院設立の際、西洋医術を修業した。同10(1877)年、西南戦争の際に応召して宇和島を守った。同15(1882)年9月、江名村でコレラが流行したときには、治療と衛生委員兼務を命じられた。本年(明治39年)65歳、今なお下高久で医術を開業している――

玄卓、そして明治のコレラ流行に関する記述を、『いわき市史 第6巻 文化』編の「医療」から紹介する。

松井家11代玄卓についてはこうある。「元治元年、江戸の漢法医渡辺吉郎(米沢藩医)に学び、江戸から帰り慶応3年6月藩医を命ぜられた。明治元年6月輪王寺宮(北白川宮能久親王)が会津へ下向の時は、警衛医として出張した。五人扶持、独礼次席番医で、明治2年11月15日家督を相続した」。本文に掲載の系図によると、大正3(1914)年7月18日に亡くなっている。

明治6(1873)年4月、平・一町目に「磐前県病院」ができたときには、玄卓もここで医員として勉学した(玄卓の「履歴」に「平町病院」とあるのがこれか)。

 コレラは、いわき地方では①明治12(1879)年9月、四倉で流行し、死者多数が出た②同15年、江名村にコレラが流行し玄卓が、山田村では小宮山精順が検疫に活動した③同19年には小浜で流行した――。

そのあと、冒頭に記した明治28年のコレラの流行が始まる。日清戦争に従軍した兵士や軍役夫がコレラに感染して帰還し、最初は広島で、やがて主に船と港を介して全国に広がった。

「大般若経」は「大般若経転読会(え)」の略だろう。コロナ禍の現代も災害絶滅・疫病退散・無病息災などを願って、大般若経転読会が行われている。

「安全」は予防や治療といった科学(医学)が担保するが、「安心」はそれだけではカバーできない。原発事故のときがそうだった。医学も医療技術も今ほどでなかった時代、必死に神仏に祈った先祖たちの心根を愛(いと)おしくさえ思う。

2021年2月18日木曜日

この冬最後の白菜漬け

        
 立春から2週間余り。2月も中旬になれば植物にも春がきざす。畑では黄色い菜の花が咲き出した。白菜も薹(とう)立ちの準備を始めることだろう。

 巨大余震に襲われるとは思いもしない土曜日(2月13日)――。朝食前に白菜3玉を割って干し、夕方には漬けた。

2玉は前日の夕方、学校の後輩の家を訪ねたとき、後輩が畑からじかに収穫してくれた。畑のそばにユズの木がある。実も3個もらった。ほかに大根を一本。これはカミサンが引っこ抜いた。

 ユズは、収穫後の実がいくつか木に残っていた。白菜も後輩の畑を借りて栽培している人が取り残したものだ。いつでも後輩が取っていいことになっている。

畑の白菜はやがて、花茎が形成されて菜の花を咲かせる。白菜の花芽のおひたしは美味だが、花茎が形成された白菜を漬けたことはない。その意味では、ユズも含めてこの冬最後の白菜漬けになる。

白菜漬けには昆布、ユズ、トウガラシを添える=写真。うまみ、風味、殺菌。実用と見た目(トウガラシの赤)を兼ねたわが家の定番セットだ。

 ユズは晩秋~初冬が旬。早春の今は実の水分がとんで、表面にしみができている。フニャフニャなので、皮をむくのが難しい。それでも白菜の風味付けには欠かせない。皮をみじんにすると、ユズ特有の芳香が立ち昇った。

 例年だといわきの山間地、たとえば三和の直売所へ白菜を買いに行くのだが、この冬は平地の後輩の畑からじかに調達することができた。平地でも白菜は甘い。甘ければうまい、というわけで、6回漬けたうち、今回を含めて3回は後輩の畑の白菜を利用した。

 やはり、2月。気温は上昇しつつある。いつもだと、台所で白菜を切り割るのだが、今回は縁側で切って、そのまま干した。午後には茶の間のヒーターと石油ストーブを止めた。ちょっと動くと背中に熱がこもる感じなので、チョッキも脱いだ。夕方、3玉を漬けた。そして真夜中、寝入りばなの激震――。

 この冬は一度、塩分がなじむ前に重しを軽くしたため(だと思うが)、しょっぱい白菜漬けになった。そのあとはいつものやりかたに戻し、なんとか白菜の甘みを楽しめるようになった。

 厳冬をくぐりぬけた白菜は、外側が霜に焼けて枯れたり、虫に食われたりしている。それらの葉をむくと小さくなる。大玉なら八つ割りにするところを、思い切って四つ割りにした。カミサンが知り合いからもらった白菜は少し大きかったので八つ割りにしたが、六つ割りでもよかった。やはり、最盛期の白菜のようなわけにはいかない。

 甕(かめ)に漬けてから、きょう(2月18日)で6日目。塩もなじんできたことだろう。前の古漬けが一皿残っているが、けさは一片を取り出して試食してみる。正月、後輩にしょっぱい菜を届けてしまったので、今度は「成功作」を進呈できればいいのだが……

2021年2月17日水曜日

吉田重信個展「分水霊2021」

                             
 会場に入ると、赤く塗られた白地の大きな布が目に飛び込んでくる。布は天井から垂れ下がり、床を覆いながら、白い先端部分で砂と一体化している=写真上。

 きのう(2月16日)、いわき市平字大町のアート・スペース・エリコーナで、美術家吉田重信さん(平)の個展「分水霊2021」が始まった。2月28日まで。

 10年前に東北地方太平洋沖地震が発生し、沿岸部を大津波が襲った。それに伴って、いわき市久之浜町から30キロ北にある東京電力福島第一原子力発電所で事故が起きた。

 まずは吉田さんがフェイスブックに記した個展への思いを紹介する。今年(2021年)は3・11から10年の節目の年。「被災地で生きる人々が受けた悲劇の体験や、震災の記憶を忘れないために、布に血を表す漆(うるし)で怒りや悲しみを描き続けている『分水霊』を中心に、いくつかのシリーズ」で個展を構成した。

会場には「分水霊」の大作4点のほか、写真作品2点、漆の小品4点など計16点が展示された。

彼の師匠である故松田松雄に紹介されてから、もう何十年になるだろう。吉田さんは独自の仕事を積み重ね、国内はもとより国外でも評価される作家になった。特に3・11後は、彼の表現を見のがさないようにしてきた。

震災直後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわき支援に入り、いわき駅前のラトブ(のちにイトーヨーカドー平店など)で、被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営した。彼が中心になって震災前から手がけていた「光の鳥」プロジェクトが、開設したばかりの「ぶらっと」でも展開された。

青い鳥と赤い鳥からなる「光の鳥」の絵はがきを幼稚園や学校に持参し、子どもたちに自由に色やメッセージをかきこんでもらう。それらを回収し、「ぶらっと」に展示したあと、郵便切手を張って投函する。やがて知人や友人にメッセージをくわえた「光の鳥」が舞い込むというものだった。

シャプラニールはバングラデシュやネパールで支援活動を展開している海外NGOだ。ネパールからもおよそ50枚の「光の鳥」が届いた。「ぶらっと」が最終展示になった。震災から9カ月目の師走の22日に投函された。つまりは、「光の鳥」はクリスマスカードでもあった。

個展の話に戻る。冒頭の作品に絞って書く。漆の赤は怒りや悲しみを表す血の色だという。この震災では災害関連死を含めて2万人近い人が亡くなった。自然への畏(おそ)れ、死者への鎮魂と祈り。さらには人間を追い立て、自然を汚染した原発事故、言い換えれば文明への懐疑と怒り。それらが混然一体となって、炎のような血をたぎらせているのだ。

「分水霊」とは、「分水嶺」がそうであるように、生と死の「分かれ目」、そこで揺れ動いている人々の運命、という意味でもあろうか。

 折から、最大震度6強の大きな地震がおきた。10年という歳月が遠いとおいものではなく、まだ「現在進行形」であることを痛感させられるなかで、個展が始まった。

 赤く垂れこめた血の先端が波のように、木の根のように細かく分かれ、血しぶきとなって砂に溶け込むあたりに、小さなちいさな「百万塔」が安置されている。

前にどこかで見たときには、そして今度の案内はがきでは、そこに立つのは「空也上人」像だったような気がする。空也であれ、百万塔であれ、思いは一つ。起きた現実への怒り・悲しみ、そして希望へとつながる祈り。それを象徴するものとして、空也も百万塔もそこに置かれているのだと了解する。

2021年2月16日火曜日

地震の次は暴風雨

        
 土曜日(2月13日)深夜の地震で、家によっては屋根にブルーシートが必要になった。そこへ月曜日(2月15日)、暴風雨が直撃した。

 早朝は曇り。やがてしとしと降り出したあと、次第に雨脚が強まり、午後遅くには大雨になった。夕方4時前、家の前の道路を見ると、歩道が“小川”になっていた=写真上。

 歩道の冠水だけでなく、雨だれが水たまりに落下してはじける瞬間も撮っておくか――。変な意欲がわいて、縁側から雨だれを連写した=写真下。

 あとどのくらい降っているのか。福島地方気象台のホームページを開いて、「雨雲の動き(高解像度降水ナウキャスト)」と「レーダー・ナウキャスト(降水・雷・竜巻)」をのぞく。ちょうどいわきの真上にオレンジ色の点々があった。雲の上で鬼たちが一生懸命、バケツで水をばらまいているところだった。

それでも、あとちょっとしたら雨雲が北へ移ってとぎれ、パタッと雨がやむはず。同じいわきでも南部と北部では距離がある。雨の上がる時間が異なる。平中神谷では、午後4時15分前後に雨がやんだ。それで初めて、「やれやれ」という気持ちになった。

あと1時間降り続いたら、歩道の“小川”はどうなったか。わが家ではまだ床下浸水は経験がない。車道はもちろん冠水しただろう。それだけでは収まらなかったはずだ。わが家(米屋)にもチョロチョロ、水の舌が入り込んできたかもしれない。そんな事態を想像させるような夕方の土砂降りだった。

とにもかくにもネットで情報を集める。福島地方気象台やいわき市災害対策本部、メディアのほかに、ツイッターやフェイスブックをチェックする。ピンポイントながら、いわき市内の様子がそれでわかった。それらの情報を参考にして、たびたび家の外の様子をうかがった。

地震被害がどんなものかは日曜日にチェックした。しかし、屋根までは目がいかなかった。ツイッターでいわきの「雨漏り」情報に触れ、あわてて2階の天井を見た。雨が漏れている気配はなかった。屋根は5強の揺れになんとか持ちこたえたようだ。

高気圧があって低気圧がある。川でいえば上流があって下流があるようなものだ。山から平地へ水が流れるように、気圧の高いところから低いところへ空気が流れ込む。冬の気圧配置である「西高東低」なら、日本海側では雪になり、太平洋側では風になる。きょう(2月16日)がそうだ。

春先はしかし、しばしば南岸低気圧が東進・北上して悪天候をもたらす。きのう月曜日の暴風雨もおおむねそういうコースをたどった。

雨がやみ、西から光が差し始めたと思ったら、強風が吹き荒れた。これも間もなくやんだが、今朝はまた風が戸をたたいてる。

きのうはなんとも気持ちの落ち着かない一日、いや地震からのあれこれを考えると、おとといも含めて不安な二日間になった。気象災害は、昔より深刻になっていることは間違いない。

2021年2月15日月曜日

真夜中の震度5強

                              

「10年がたとうとしているのに、またか」。東北地方太平洋沖地震を体験した人間は、だれもがそう思ったに違いない。

 おととい(2月13日)の夜11時7分ごろ、福島県沖でマグニチュード7.3の大地震が発生した。「3・11」の余震だという。

 3・11からちょうど1カ月後、いわき市南部で直下型の地震がおきた。震度は6弱だった。本震のときのいわきの震度と同じだ。今回は最大震度が6強、いわきは5強。いわきでは6弱に次ぐ最大規模の揺れだった。

 きのう(2月14日)のブログと一部重複するが、わが家では、階段に平積みにしておいた本が下までなだれを打って崩れた=写真上1。2階でもやはり平積みにしていた本や資料が崩れて散乱した。

 ひとわたり家の中を見て回ったら、落下物はほかにはあまりなかった。3・11を経験したことで、片付けにどの程度の時間と労力がかかるかは、だいたい見当がつく。寝不足が一番こたえる。動くのは夜が明けてから。万一の断水に備えて風呂に水をため、プロパンガスが使えることを確認して、寝床に戻った。

 近所の故義伯父の家は、カミサンがすぐ様子を見に行った。整理ダンスの上に置いていた花瓶が落下したが、割れずに立っている=写真上2。カミサンが“奇跡”を喜んでいた。残りは夏井川渓谷にある隠居だ。朝食後、県道小野四倉線が通行止めになっていないことを確かめて出かけた。

3・11のときは渓谷のあちこちで落石があった。このため県道が通行止めになった。隠居へは迂回路=国道399号~母成(ぼなり)林道~江田=を利用した。県道と並走する磐越東線もしばらく運行が止まった。

 ところが、母成林道は一昨年の台風19号で土砂崩れが起き、いまだに通行止めのままだ。動脈の県道が通れなくなると、隠居へは国道49号~同349号と大きく迂回しないとたどり着けない。

 それが心配だったが、さいわい落石などはなかった。隠居に着くと、目を疑った。上の庭に置いていた焼却用のドラム缶が下の庭のはじっこまで転がっている=写真上3。家の中は? 意外と被害は少なかった。柱時計のふたが開き、台所の食器棚のなかでコップが割れ、茶わんがガラス戸に引っかかっていた。食卓ではワイングラスが1個、倒れて割れていた。

福島県沖が震源とはいえ、今回は北部の相馬市などで被害が大きかったようだ。常磐道の相馬ICの北3キロ地点でのり面が崩落、上下4車線が土砂で埋まった。相馬市は震度6強だった。6強と5強の揺れの違いをまざまざと見せつけられた。同じいわきの平でも、中心市街の揺れがきつかったようだ。

「1000年に一度の巨大地震」はまだ収束していない。10年たっても、さらにこれからも余震が続く。10年という歳月を「「きのう・きょう」の感覚でとらえないといけない。つまり、「あのとき」のことを回顧するレベルではない、ということだ。自然は寛容だが、一方では「これでもか、これでもか」とたたみかけてくる。それを思い知った。