2019年3月31日日曜日

微魔女企画の芝居「おかえり」

名前に「美」の付く3人(恵美子・由美子・里美)による微魔女企画の芝居「おかえり」がきのう(3月30日)夜7時から、いわき駅前・もりたか屋で開かれた=写真。きょうも午後2時と6時の2回、同所で上演される。
3人のうち2人を知っている。1人は大学生と高校生の“孫”の母親。1人は、わが家を取次所にしている宅配鶏卵の利用者で、市民演劇界では知られた人だ。市民演劇のおもしろさは、身近な人間が芝居をするところにある。よく知っている生身の人間が舞台でどう“変身”するか――そのギャップを確かめたい気持ちもあって、夫婦で見に行った。

チラシによると、3人が演じるのは54歳の、高校時代の同級生。1人は娘と2人で暮らしている。1人は都会生活に区切りをつけて帰郷したばかり。残る1人は、家族とともに暮らしてきた義母を見送ろうとしている。50歳を過ぎた3人の女たちは、最後にどこへ帰ろうとするのか――というのが主題のようだった。

「おかえり」は「ただいま」への返事でもある。「家」「家族」「ぬくもり」という言葉が最後に浮かび上がってきた。天井からつり下げられたまな板・へら・かご・麦わら帽子・ほうき・洗濯板などがそれを象徴する。

宮崎県都城市の劇団こふく劇場代表永山智行さんが書き下ろした。同級生の女子のほかに、男子の同級生、娘、ひげのじいさん、10歳のときの隣席の男の子など、3人で8人ほどの人物を兼ね、心の動きや状況を説明するナレーションも担当した。

会場は狭い。三角形に仕切った舞台の両側にびっしりと観客が陣取った=写真。60人余もの視線を浴びながら、長いセリフをいう。そのうえ、場面転換が早い。一人の人物造形だけでも大変なのに、男子の同級生になったり、娘になったり、じいさんになったりと、なかなか複雑だ。

アフターファイブにけいこを重ねた。水面下での、この努力があったからこそ、書き下ろし初演というぜいたくな味わいを得ることができた。日常をこなしながら非日常に切り込む3人のチャレンジ精神に、まずは敬意を表したくなった。

遠いとおい昔(10代後半)、私も“舞台”に立ったことがある。高専の寮祭で演劇コンクールが行われた。わが班はスタンダールの「赤と黒」を台本にした。私がジュリアン・ソレルを演じた。1年先輩の熱心な演技指導を受けて、出演者が本気になってけいこを積んだ。恥ずかしさや照れを通り越して演じるおもしろさに目覚めた。優勝した。(“女優”たちの熱演に触発されて、青春前期の記憶のかけらを思い出した)

 “孫”の母親はときどき、音楽グループの一員として“ダンサー”になる。“女優”になるのは初めてだった(ろう)。“孫”の父親も、この日の夜、同じまちの別のところでライブに出演した。ギターを弾く。2人組のバンドで「平凡ズ」という。

 アフターファイブをそれぞれ自分の好きな表現活動に使う――そういう市民が多いまちは楽しい。文化とは本来、「暮らし方」のことだ。暮らしのなかに演劇があり、音楽がある。市民芸術のすそ野が広いまちに住んでいる心地よさ・おもしろさを、しみじみと感じた夜だった。

2019年3月30日土曜日

画廊での茶飲み話

 平の街へ行ったついでに、あす(3月31日)までギャラリー界隈で開かれている阿部幸洋新作展をのぞいた。私は22日のオープニングパーティーに顔を出したが、カミサンはまだ作品を見ていなかった。
 阿部はいわき出身でスペイン在住の画家だ。昭和40(1965)年代後半、平の草野美術ホールで知り合った。結婚と同時にスペインへ渡り、奥方が10年前に亡くなったあとも、同地で制作を続けている。

 日本国内で個展を開くたびに帰国し、在廊するので、いわきでは旧知の人間が画廊に顔を出す。きのう(3月29日)も知り合いがいた。たまたまオリーブの話になった。

 私が切り出した。先日、夏井川渓谷の隠居へ行った帰り、平地の国道399号沿いにある「オリーブ農園」を見たら、下流側のオリーブの木が切られてなくなっていた=写真。せっかく育ったのに、ボランティアが農作業を手伝ってきたのに……。

 シャプラニール=市民による海外協力の会の「みんなでいわき!」ツアーの一行が3週間前の3月9日、オリーブ農園で農作業を手伝った。農園はほかにもあるから、そこだったかどうかはわからない。が、2015年と翌年のいわきツアーでは、そこで草むしりをした。地元のシャプラ関係者として夫婦で作業に加わった。拙ブログによると、2016年の6月にはこんな様子だった。

――オリーブは植えられて4~5年とかで、キンモクセイに似た小花をいっぱい付けていた。花にカメラを向けていると、小さなミツバチが目に入った。二ホンミツバチだった。

ツアーの一行はオリーブの根元の草むしりに精を出した。草が生えていると虫が寄ってくる。なかでもシンクイムシは苗木の根元近くに穴をあけ、内部に入り込んで苗木を枯らす。それを予防するための草引きだった――。

いわきは耕作放棄地が多い、その休耕地を借りてオリーブ栽培を始めた――と聞いていた。地権者から返還を求められたのだろうか。

私の話を受けて、阿部がスペインのオリーブについて語った。私らが質問をする、阿部が答える、という展開になった。印象に残ったことを二つ紹介する。「オリーブの木は硬い」。まな板やスプーンなどのキッチン用品に向く。「オリーブの実は生だと苦い」。漬けたのを酒のつまみにしたらいい、ということだった。

2019年3月29日金曜日

ひょっこり芸

 マッシュルームカットに黒縁めがね、タンクトップにタイツ姿のお笑い芸人がいる。「ひょっこりはん」ということばもときどき聞く。先日、「ひょっこりはん」は芸名で、このタンクトップの若者のことだと、やっとわかった。
 月曜日(3月25日)の宵の6時台、晩酌をしながらテレビでローカルニュースを見ていたら、ひょっこりはんと、もう一人が福島県庁の知事室を訪ね、県内のファミリーマートで販売される弁当のPRをした。

 翌日の朝日新聞福島版=写真=によると、弁当は「ひょっこりはんの大豆でビビンバはん!」、もうひとつが「畑の肉のそぼろパスタ」だ。福島県はメタボの人間の割合が全国ワースト3だとか。それを改善しようと、県が吉本興業、ファミリーマートに提案し、お笑い芸人のひょっこりはんら2人が監修して、肉を使わない弁当が実現した。

 ひょっこりはんは知事室に入るとき、扉から顔を出して少し静止する「ひょっこり芸」を披露した。すると、知事が即座に「(お決まりのギャグで)ちゃんと出てくれましたね」と応じた(朝日)。知事も若いだけあって、ひょっこりはんの持ちネタを知っていた。そのやりとりを見ていて、ようやく名前とひょっこり芸が一致した。

 私は自然をテーマにしたテレビ番組が好きで、よく見る。NHKだけでも「自然のアルバム」に始まって、エンディングテーマの「BELIEVE(ビリーブ)」で知られる「生きもの地球紀行」を見続けた。今は「ダーウィンが来た!」を、「DASH村」と半々の感じで見ている。

ひょっこり芸?のもとになったようなシーンを、いろいろ思い出した。子猫、テン、リス、ナキウサギ……。ひょっこり芸をするのは小さい動物が多い。そのしぐさがかわいくて、無意識のうちに、ひょっこり芸に引かれていたのかもしれない。

 きのう(3月28日)も、同じ6時台のニュースで吉本のお笑い芸人「三瓶」(本宮市出身)が知事室を訪ね、知事と歓談しているところが報じられた。親交のあるサッカー日本代表長友佑都選手(トルコ・ガラタサライ)の料理人見習としてトルコへ渡るという。吉本興業はお笑い以外にも、いろいろ事業を展開しているのか。

2019年3月28日木曜日

庭のプラムも開花

 春を告げる花は、私には夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)だが、一般的には桜のソメイヨシノだろう。
 ソメイヨシノの花前線が北上中だ。東京ではきのう(3月27日)、満開が宣言された。フェイスブックの情報によれば、いわき市平・松ケ岡公園のソメイヨシノも開花した。この週末には早くも花見客が、といいたいところだが、天気がよくない。

 夏井川渓谷のアカヤシオと平地のソメイヨシノはほぼ同時に開花する。渓谷の隠居へ通っているうちに覚えた経験則だ。3月24日には、アカヤシオが咲いているのを確認した。すると、街のソメイヨシノも――と思っていたら、きのう、松ケ岡公園での開花が確認されたという。どちらも3月中に開花するのは珍しい。

暖冬とはいえ、早いうちに極寒がきてソメイヨシノに「休眠打破」がおこり、開花が早まったわけだ。

 その経験則を基に、ほかの木々の開花を確かめる癖がついた。わが家の庭のプラムは、月曜日(3月25日)の朝、白いつぼみをいっぱいつけ、一部で開花していた=写真。きのう(同27日)は満開になっていた。

 長男の小学校卒業のときだったか、「記念樹をどうぞ」という便りがあって苗木を購入した。それから三十数年がたつ。植えて何年後かに実が生(な)りだし、今もなっている。しかし、地上1メートルほどのところで幹が二またになり、片方の幹が菌に侵された。サルノコシカケの仲間らしい硬いキノコがあちこちに発生している。(プラムが菌に侵されて腐っていく過程を記録することにした)

 プラムの花が咲いたからには、マサキも新芽を広げはじめるはず――これも経験則だ。家の生け垣のマサキをチェックしたら、葉を展開する前に灰色がかっている新芽があった。そばの新芽にはすでにふ化したミノウスバの幼虫が団子になっていた。この幼虫はたちまちマサキの若葉を食害して木を丸裸にする。

 この40年を振り返れば、初めは4月末から5月初めのゴールデンウイークが発生のピークだった。ところが、今は4月前半にはもう孵化する。今年(2019年)は初めて3月下旬に発生した。温暖化が原因なのかずいぶん早くなっている。

 春がくる――それはもちろんうれしいが、一方では、春に伴う厄介ごとにも注意しないといけない、ということでもある。ソメイヨシノや庭のプラムの開花はそのサインのようなものだ。

2019年3月27日水曜日

「きれいにしてみま専科」

日曜日(3月24日)朝9時半ごろの夏井川渓谷――。県道小野四倉線の両側を、ごみを拾いながら歩いている人たちがいた=写真。背中に「クリンピー応援隊」と印刷されたグリーンのベストを着ている。はるか前方に止まっていた軽トラには「川前発 夏井川をきれいにしてみま専科」の手書き看板が。
川前は夏井川渓谷の最上流部に位置する。そこの住民たちが中心になって「川前発――」を結成し、夏井川沿いの清掃活動を展開している。

この市民団体の活動を初めて目撃したのは東日本大震災前の2009年3月だった。そのときの拙ブログを整理・再掲する。
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春先に夏井川渓谷の「缶トリー」作戦を展開する団体がある。「川前発 夏井川をきれいにしてみま専科」。2009年で4回目の活動が3月8日昼前、実施された。

 しばらくぶりに夏井川渓谷の隠居に泊まり、翌日曜日の8日朝、2番列車でやって来るカミサンを江田駅まで迎えに行った。列車は9時過ぎに着く。渓谷の「春」を探すために、8時過ぎには隠居を出て3カ所で道草を食った。

 山側、線路ののり面でカンゾウが芽生えていた。地温が上がったのだろう。谷側、岸辺にあるヤブツバキが満開だった。道路沿い、定点観測をしているマンサクはまだ目覚めるところまではいっていなかった。雪と雨と曇天とで先週とそう気温は変わらなかったのだろう。隠居の対岸、花を1輪つけたマンサクもあとで見たら1輪のままだった。

 江田駅からの帰り、そろいのジャンパーに身を包んだ人たちが「籠場の滝」の手前の谷で空き缶類を拾っていた。転落の危険と隣り合わせの「夏井川をきれいにしよう!!パート4」作戦である。すれ違った軽トラの運転手は旧知の市職員氏。彼も含めた川前の住民有志による「きれいにしてみま専科」の活動だと、了解した。8時半にスタートしたようだ。

 週末を牛小川で過ごすようになって十数年がたつ。「きれいにしてみま専科」の活動が始まった4、5年前から、夏井川渓谷の道路は目立って空き缶類が少なくなった。ポイ捨ては後を絶たない。が、日常的に車で行き来しながらそれを拾う「きれいにしてみま専科」の人がいる――そんな話も聞いた。
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 その後はタイミングがあわなかったせいか、渓谷の隠居へ通っていても活動を目撃することはなかった。今も春と秋の2回、実施しているらしい。夏井川の中流域で地道な活動を行っている団体があることを、下流域の人間として忘れずにいたい。

2019年3月26日火曜日

孫もカツ刺し好き

 日曜日の宵はカツオの刺し身=写真=で一杯、と決めている。秋から正月にかけてはカツオが入荷しないので、サンマやイカ、タコ、メジマグロなどで代用する。2月も後半になると、安定してカツオが入ってくる。魚屋へマイ皿を持って行く。若ダンナが黙って皿を受け取る。このところ、毎週カツ刺しを口にしている。
 おととい(3月24日)もカツ刺しをつつきながら「笑点」を見た。次はBSプレミアムで「いだてん」を――とチャンネルを替えたところへ、息子一家がやって来た。

 玄関を開けるなり、「おっ、にんにくの匂いだ」と息子が反応する。カツ刺しは、わさびも加えてにんにくじょうゆで食べる。にんにくだけだと、翌朝、口の中がきつい。わさびを加えるのは、それを緩和する意味もある。どのくらい効果があるかはわからないが。

 2人の孫は4月から小学校の6年生(12歳)と4年生(10歳)だ。ちょうど日曜日、同じような時刻にやって来ると、必ずカツ刺しをつつく。

 上の子が4年生になったばかりのとき、父親と一緒にやって来た。父親にうながされた。「(小学校の近くにある)魚屋の刺し身だぞ」。孫はさっそく、わさび入りのにんにくじょうゆで食べた。にんにくを嫌がって吐き出すかと思ったら、一呼吸おいて「うまい」という。おやおや、同好の士が一人増えたようだ。

 同じ年の晩秋、やはり父親に連れられてやって来た。カミサンが刺し身を勧めると、孫はメジマグロを一切れ、わさびじょうゆにつけて口にした。「うまい!」。また一切れ口にして、「うまい!」。わさびに顔をしかめるわけでもない。

 おとといは下の孫も、競うようにカツ刺しを食べた。にんにくじょうゆには少し顔をしかめたが、やはり「うまい」と一丁前の口をきく。

 チコちゃんみたいに、10歳で刺し身の味がわかるなんて、さすがいわきの子だね――といいたいところだが、飲兵衛の血も流れているにちがいない。孫と一緒にカツ刺しで酒が飲めるまであと8~10年。いや、そんなことより、いわきの刺し身食文化が孫にも伝わったことを実感してうれしくなった。

2019年3月25日月曜日

渓谷林の春の花

 春の彼岸が過ぎて最初の日曜日、3月24日――。夏井川渓谷の隠居へ行って、白菜の菜の花=写真下=を五つほど摘んだ。この1週間で一気につぼみが形成された。夜、カミサンがおひたしにした。甘みは薄いが、やわらかい。やわらかさが菜の花の持ち味だ。
 晴れて「春の光」があふれていた。が、「冬の風」が吹き荒れて気温は上がらない。隠居の室温は朝9時半で1度。外にいると、鼻水が垂れそうになった。ダウンジャケットを着て、マフラーを巻いて土いじりをした。

それでも2月以降、寒暖の波は上昇線を描いている。地温も上がってきた。春が着実に近づいている。それを真っ先に教えてくれるのがアカヤシオ(岩ツツジ)の花だ。

アカヤシオは渓谷でも小川町の小集落、牛小川(わが隠居があるところ)から下流の椚平にかけての対岸に群生する。4月に入ると渓谷の右岸が全山、ピンクの花で点描される。暖冬のときは開花が早い。この四半世紀の間で3月中にアカヤシオが咲きだしたのは一、二度。最も早かったのは3月20日過ぎで、彼岸の中日に花を見たことがある。
今年(2019年)も暖冬だった。春彼岸を過ぎたから咲き始めてもおかしくない。そう思って、隠居の対岸を見たが、花はなかった。

ところがどうだ、隠居を離れて街へ下る途中、椚平の対岸を見たら、中腹に白っぽい点々がある=写真左。ヤマザクラ?のはずはない。車を止めて写真を撮り、拡大すると少しピンクがかっている。アカヤシオだ。私が牛小川へ通いはじめてからは最も早い開花のうちに入るだろう。

牛小川では、アカヤシオの花盛りの日曜日、集落の守り神・春日様のお祭りが行われる。先の寄り合いで4月14日開催と決まった。このまま開花が進むと、アカヤシオは4月初旬には満開、中旬には散り始めるかもしれない。ということは、その前の日曜日(4月7日)が見ごろか。

きのう(3月24日)は、渓谷の幹線道路(県道小野四倉線)を行きながら、木の花をチェックした。キブシが咲いていた。籠場の滝の上流ではマンサクが咲きほこり、隠居の下の岸辺ではヤシャブシが黄色い花穂を垂れ始めていた。今年は、渓谷林の春は早いようだ。

2019年3月24日日曜日

個展とスペインワイン

 いわき出身でスペイン在住の画家、阿部幸洋の新作展がおととい(3月22日)、平のギャラリー界隈で始まった。3月31日まで。
私と阿部は、昭和40(1965)年代後半から10年間、いわきの現代美術界をリードした草野美術ホールの“同窓生”でもある。新米画家と新米記者が事務室に出入りし、夜になると街へ飲みに繰り出す――。その縁で、阿部は喫茶店から画廊に転じた界隈で継続的に個展を開いている。個展には必ず帰国して在廊する。

拙ブログによれば、阿部の作品は次のような変遷をたどってきた。どちらも界隈での個展の記録だ。

2012年10月=ラ・マンチャ地方の風景(建物・平原)を描いている。作品のタイトルは時候に関するものが多い。午後の陽・春風・暮れどき・春めく日・春・春の午後・夕暮れ近く・秋の日・西風・西の空……。「朝」の1点をのぞいて夕暮れを描いた。

2015年1月=今回はピンク色を意識して使っている。曇ってはいるが、ピンクがかった明るい空――朝焼け・夕焼けかと聞けば、主に午後の空に引かれて描いているという。作品を「実景」と見る必要はない。画家がとらえた建物・平原・丘・空、夜の街灯……。それら一切が画家の内部で点滅した結果としての心象風景だ。

 2019年3月(今回)=主に、夕暮れから夜の風景が表現されている。個展案内のはがきに使われた作品は、タイトルが「月の陽」。上部に月の周辺の明かり、その下に家。家の壁には夕焼けのような色彩が施されている。重力から自由になって浮遊する夜の家――そんな言葉が浮かんだ。

2015年の個展のオープニングパーティーには、こんなことがあった(これも拙ブログによる)。

いつもの顔ぶれのなかに1人、80歳を超えたと思われるおばあさんがいた。品のいい顔をしている。紫色の毛糸の帽子をかぶり、ラクダ色のコートに同系色の厚手のマフラーをし、手袋をして傘を持っている。

 阿部の新しいコレクターだろうと思ったが、ぽつんと1人、隅のいすに座っているのが不思議だった。だれかが声をかけるわけでも、だれかに話しかけるわけでもない。祝辞と乾杯の発声が終わって参加者がテーブルの上の料理に群がると、おばあさんも加わった。

 そのうち、おばあさんの姿が消えた。おばあさんを知る知人が遅れてやって来た。顔を合わせたあとにいなくなった、と知人がいう。料理の出るイベントに現れては料理を食べて帰るのだそうだ。知人の地元では知られた存在らしい。

 いつ、どこで、どんなイベントがあるか、常にチェックしていないと料理にはありつけない。なんという情熱だろう。

 昔、「葬式ばあさん」というのがいたそうだ。弔問客になりすましてお斎(とき)の料理を食べに来る。貧しい時代だったから、見て見ぬふりをして追いたてるようなことはしなかった。

 現代の「パーティーばあさん」は貧しいのか、寂しいのか。会費制のオープニングパーティーではないから、基本的には「だれでもウエルカム」。そこをついてきた。人間っておもしろい。

おとといのオープニングパーティーは、若い人を除いて知った人ばかりだった。少し遅れて行くと、阿部がすぐ「スペインのワイン」といって紙コップについでくれた。昔、阿部が自分の住むスペインの村からワインを携えてきたことがある。癖がなくてさっぱりした味だった。その味を思い出した。

とりあえずワインのボトル=写真下=と、パーティーの様子をカメラに収める=写真上。あとでパソコンに取り込み、拡大すると、ボトルのラベルに「イゲルエラ」「セクロ」(実際はスペイン語)とあった。検索したら、イゲルエラはラ・マンチャ州のワインらしかった。セクロはスペイン北部のワイン、とあった。
  スペインの夜を描いた作品を眺めながら、スペインの地ワインを飲む――セッティングされた空間とはいえ、一瞬、彼の住むラ・マンチャ州トメジョーソの村(行ったことはないが)にいるような錯覚におちいった。イゲルエラが口に合って、飲み過ぎたのだろう。

2019年3月23日土曜日

小学校の卒業式へ

 きのう(3月22日)は小学校の卒業式に来賓の一人として出席した。体育館を会場に、ステージ側に卒業生、花道をはさんだ壁際に5年生、卒業生の保護者が並び、そのあとに来賓と教職員席がやはり壁際に、対になるかたちで続いた。これまでよりすっきりした会場レイアウトになった。
 今度の卒業生にはなんとなく覚えがあった。入学式で印象に残っていた子がいる。2年生のときの「町たんけん」でわが家(米屋)へやって来た子もいる。

私は平成25(2013)年4月に区長兼務の行政嘱託員になった。初仕事が小学校入学式への出席だった。逆算したら、そのときの入学生だった。向こうも1年生、こちらも区長1年生。6年たって子どもたちは巣立ちの春を迎えた。

卒業生が2年生のときの「町たんけん」の様子を、同26(2014)年6月11日付の拙ブログで書いている。
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 小学2年生が「町たんけん」でわが家(米屋)へやって来た。毎年6月10日ごろになると、生活科の授業の一環として地域の商店や施設を訪ねる校外学習が行われる。カミサンが相手をする。今年はきのう(6月10日)、実施された。(「町」の漢字は1年生で習い、「探」は6年生、「検」は5年生で習う。で、2年生の場合は「町たんけん」となる)
 
 1チーム3~4人で、2チームがやって来た。最初のチームは、私が回覧物を区の役員さん宅へ届けに行ったときに来店した。子どもたちが歩道を歩いていた。そのグル―プだった。小一時間後に戻ると、間もなく2チーム目がやって来た。カミサンが「奥(茶の間)にオジサンがいるよ」といったらしい。茶の間にも探検にやって来た。ちゃんとあいさつし、自己紹介までした。
 
 家の前が通学路になっている。下校時、わが家のネコが店頭で丸くなっていることがある。子どもが来たときにも、店にいた。驚いたのだろう、1匹はさっと姿を消し、1匹はミャーミャーうるさく反応した。
 
 なんであんなに鳴いてるんですか、どこに行ったんですか、名前は、色はなんですか……。2年生といっても1年生を終えたばかりだから、興味・関心は移りやすい。米屋や米の話だけでなく、ネコについての質問が相次いだ。
 
 店の外の台にザ・ピープルの古着(有料)と、近所の人たちが持ち込んだ食器(無料)が置いてある。いわゆる「3R」=リサイクル(再循環)・リデュース(減量)・リユース(再使用)の一環だ。そこでもしばらく「質疑応答」が続いた。(略)

 さてさて、子どもたちとカミサンが食器のことで約束をした。下校後、子どもがやって来た。取り置きのコップを、皿を持ち帰った。生まれて初めて体験するリユースにちがいない。

それともうひとつ。カミサンが年齢を明かしてからは、子どもたちの口調が変わった。去年までの子どもたちの「礼状」を読むと、「こめやのおばさん」になっているが、今年はどうだろう。先生の教育的指導が入るのか入らないのか、興味深い。
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その子どもたちが最上級生になって巣立った。卒業生は2クラスの42人。私ら団塊の世代は、阿武隈の山里であっても3クラス120人以上はいた。隔世の感がある。

 卒業式は「わかれの言葉」で佳境を迎えた。卒業生と5年生がエールの交換をする。校歌=写真(来賓に配られた資料の表紙)=を一緒に歌う。5年生が送別に「ビリーブ」を歌うと、卒業生が「さよならは言わない」を歌って、あとを後輩に託した。

 式典が終わり、卒業生が花を一輪、保護者に手渡しながら退場するシーンは感動的だった。照れくさいのか、パッとあらぬ方を向く男の子、目と目を合わせながら保護者がひとこという。口の動きから「おめでとう」と言っているのがわかる。はかまをはいた女の子は目から涙があふれていた。ついこちらもジーンときた。

2019年3月22日金曜日

隣組の班長事務費

 年度末になると、市から区内会に「隣組長・班長事務費」が振り込まれる。1世帯当たり年間400円。今年度(2018年)、わが区には310世帯が加入している。総額は12万4000円だ。
 隣組の数は30。前期と後期で班長が代わる隣組もあるので、事務費の支給対象者は40人ほどになる。少ない人で1200円、多い人では6800円。これを茶封筒に入れて渡すわけだが、区内会の責任者になったばかりのときにはそこまでの作業に思いが至らず、振り込まれた金額を単純に大きい札で引き出した。

 今回の金額でいうと、12万円を1万円札で、残り4000円を千円札で。金融機関から引き出す分には簡単でいいが、いざ班長さんごとに計算して封入しようという段になって、たちまち作業がストップした。

千円札がない。百円硬貨がない。1万円札を千円札に換えるにしても、家の中で換金可能なのは2万円くらいだ。あとはどうする? 1万円札を持って近くのコンビニへ買い物に行く。集金に来た人に1万円札を出す。それでも千円札が不足している。カミサンの力も借りて、何日かあちこちを駈けずり回って、ようやく全員に支給額を振り分けることができた。

この大失敗に懲りて、最近は紙幣と硬貨の数量を指定して下ろす。今回は千円札86枚、五百円硬貨46枚、百円硬貨150枚にした=写真。結果はあらかたうまくいったのだが、最後は百円硬貨が中心になってしまった。読みが少し甘かった。千円札はあと5枚、百円硬貨はその分少なくてもよかった。それでも封入作業は1時間もかからずに終了した。

“班長手当”は区の総会当日、会場でじかに渡す。総会は慣例で3月最後の日曜日と決まっている。今年度は3月31日で、年度最終日と重なった。主に班長さんが出席する。その日に手当を支給するのは、人を集めるための歴代区長さんの知恵だろう。

2019年3月21日木曜日

図書館レファレンスサービス

 いわき市立図書館のホームページが3月にリニューアルされた。いわき民報が3月16日付でそれを報じている=写真。「ふむふむ」と読み始め、最後に「おおっ」となった。
 記事では、前半でホームページの新機能を紹介し、後半で総合図書館がレファレンス協同データベース事業への貢献で7年連続、国立国会図書館から礼状を贈られたことを伝えている。レファレンスサービスの一例として、「『蒸しかまど』(昔の炊飯器のようなもの)は、いわきで発明されたと聞いた。本当なのか知りたい」を取り上げていた。

「蒸しかまど」は高度経済成長期の前、阿武隈の山里では一般的な炊飯道具だった。私が子どものころ、火の番をさせられた。その思い出や、昔の平町が製造の中心地だったことなどを、拙ブログで書いた。知る人ぞ知る(ということは知らない人が圧倒的なのだが)、ローカルな道具だから、もしかして――。

さっそく図書館のホームページを開く。左側に「いわきの豆知識~レファレンス事例集~」がある。そこをクリックすると、<レファレンス協同データベース>があらわれる。最初のページの最下段に「蒸しかまど」が載っていた。

事例作成日は去年(2018年)の7月27日。質問を受けて調べ、次のように回答している(実際はもっと厳密な書き方だが)。

昭和7(1932)年1月13日付「常磐毎日新聞」に「小鍛式極東ムシカマド製造」の広告が載る。同10(1935)年6月29日付の同新聞に「平町特産のムシ竈製造」の記事が載る。広告から特許情報プラットフォームにあたると、昭和5(1930)年に製造主である経営者が特許・実用新案を出願し、認められたことがわかった。

結論は、「『蒸しかまど』は『いわき』で発明されたとは言えませんが、『いわき』で製品として特許をとり、製造販売されていました」。「発明」の有無については「未解決」で、「江戸時代や明治時代に使われていたことがわかる文献等は見つかりませんでした。どなたか、文献をご存知でしたら、教えてください」と呼びかけている。

常磐毎日新聞の広告と記事は、私が蒸しかまどに関してブログで取り上げた“古新聞”でもある。よくそこまでたどり着いたものだと思いつつ、「回答プロセス」を読むと、こうあった。――蒸しかまどについてさまざまな文献を調べたが、見つからなかった。グーグルで「むしかまど いわき」で検索し、ブログ「磐城蘭土紀行」から新聞の記事を知った。

「蒸しかまどはいわきで発明されたのかどうか」という質問も、了解できた。図書館が事例を作製する8日前、ブログで「蒸しかまど」に関してこんなことを書いた。蒸しかまどは、平町で“発明”されたかどうかはともかく、昭和初期から高度経済成長期まで、燃料の安さと家事の簡素化で暮らしに貢献した」。質問者はこれに反応したらしい。

 ネット情報は玉石混交とよくいわれる。私は現役のころは、地域新聞でコラムを書いていた。辞めてからは「ネットコラム」と称して、この10年以上、ほぼ毎日ブログを書いている。だから、たまにこうして“文献”的な扱いを受けるとうれしくなる。

 いわき地域学會の仲間が、「考古学ジャーナル」2018年10月号に「地域史のなかの近代考古学――いわき市の事例から」というタイトルで、「暮らしの諸相」のなかで蒸しかまどを取り上げていた。末尾の参考文献のひとつに拙ブログの「『平町特産』の蒸しかまど」が載っている。これも、ブログを文献として扱ってくれた事例で、ありがたく思っている。

 ブログでは紹介ずみだが、その後知った蒸しかまど情報を追加しておく。昭和13(1938)年1月27日付磐城新聞の広告で、当時、いわきを代表する問屋、釜屋商店が写真付きで「石山式 石綿ムシカマド」の広告を載せている。

きょう(3月21日)は春分の日。午前中、カミサンの実家へ行き、昔、蒸しかまどでご飯を炊いた両親の墓に参って、蒸しかまどがレファレンス事例に加えられたことを報告しよう。

2019年3月20日水曜日

リサイクル業者ではないけど

「15日の午後、用がある? なければ、小名浜へ一緒に行って。要らなくなった物をもらってくるから」。先週の金曜日、車のトランクをカラにして、アッシー君を務めた。
若い知人一家が祖父の住んでいた家に入ることになった。断捨離で祖父の衣類やシーツ、食器類などがいっぱい出た。フィットのトランクと後部座席に積めるだけ積んだ。炊飯器と掃除機も。

 シャプラニール=市民による海外協力の会が「ステナイ生活」を展開している。いわきの「ザ・ピープル」が古着のリサイクルを手がけている。カミサンはどちらにも関係している。拙ブログで確認しただけで、震災前は3回、震災後は6回、リサイクル活動に駆り出された。先週で10回目だ。

 断捨離で引き取った物は、2009年2月の場合、古着や食器、ベンチ、自転車、コーヒーミル、かつお節削り器、梅漬け用の甕、いす、自転車タイヤの空気入れ、風呂のかき回し棒、火ばしのほか、かけや、ミニショベル、ハンドスプレー、三本熊手、剪定ばさみといった園芸用具、将棋盤のように厚い鉢物の木の盆、レンガ、アロエの鉢などに及んだ

車で何往復もした。これが今までで最大のリサイクル協力だった。食器類は新しくリサイクルカフェを開く人がいたので、そちらへ回した。

震災後の2011年4月。カミサンの幼なじみの家が解体されることになり、断捨離を終えたあと、残った着物についてカミサンが形見になるもの、リサイクルに回すもの、捨てるものと分けて、リサイクル用の着物を引き取った。私は本箱を二つもらった。冷蔵庫や洗濯機は、津波の被害に遭い、避難所で暮らしている知人がいたので、連絡すると要るという。後日、それらを運び出した。

2011年7月には、双葉郡広野町まで遠征した。カミサンの知人の家は大規模半壊の判定を受けたうえに、原発事故の影響で家族全員が避難した。たちまち空き巣に入られた。捨てるしかないという古着を10袋ほど持ち帰り、ザ・ピープルのリサイクルに回した。

 わが家はザ・ピープルのリサイクルショップのひとつになっている。古着を必要とする人が買いにくる。不要になったからと持ってくる人がいる。本類は知り合いの若い古本屋に連絡すると、安い値段で引き取りに来る。食器類も含めてたまったおカネをシャプラニールに送る。

 今回は一往復だけで済んだ。後部座席とトランクから出すと、四畳半の部屋がいっぱいになった=写真。

これが、翌日午前にはあらかた片付けられた。衣類はほとんど、知人が経営する小規模多機能型在宅介護施設に引き取られた。利用するお年寄りの尻ふき用になる。食器類は100円、200円といった値段で店頭に置くと、いつか数が減っている。ごはんはさっそく、小名浜の炊飯器で炊いたという。前の炊飯器が小さいうえ、一部がおかゆっぽくなってしまう。いいときに代替品が手に入った。

  きのう(3月19日)は、近所に住む原発避難中のおばあさんが茶飲み話に来た。帰りになにか買っていったようだった。

2019年3月19日火曜日

「乙女」のうしろに「熊」がいた

 いわき市平市街の西方に、南から湯ノ岳~天狗山~三大明神山~二ツ石山が屏風のように連なる。広葉樹が葉を落としている今、杉の人工林が青黒く浮き出ている。
 湯ノ岳の斜面に「座った乙女の横顔」を連想させる杉林がある。その写真と文章を去年(2018年)5月23日と、今年2月14日のブログにアップし、フェイスブックにも載せたら、内郷の知人からコメントが入った。

内郷では「熊林」と呼んでいる。つまり、乙女ではなく熊。小学校の時には、この熊林を抜ける遠足があって、子どもたちがよく遭難した――という。「どう見ても熊でしょ。乙女には見えません」。でも、私には、どう見ても熊には見えない。

2回目も同じように、「内郷では、ここをクマ林と呼んでいます。私の祖父の代からそう呼んでいます」。「まあ、見方は人それぞれ、ということで」と返事をしたものの、釈然としなかった。

 先週の土曜日(3月16日)朝、小川町へ行く用事があって、平商業高校前を通って平・中塩の田んぼ道に出た。西方の山の屏風があらかた見渡せる。一番左側に乙女がいる。ほかには……。ん、乙女のうしろ(北側)に熊らしい輪郭を持つ杉林があった=写真。アイヌの熊の木彫りに似たかたちで、よく見ると「しっぽ」まで付いている。

 もしそれが知人のいう「熊林」だとしたら(間違いないと思うのだが)、湯ノ岳には乙女も熊もいたのだ。それが分かっていれば、議論がすれ違うこともなかったし、釈然としない思いになることもなかった。乙女と熊――なにか物語がつくれそうな組み合わせではある。

 ※追記(3月25日)=「座った乙女の横顔」の杉林について、内郷の知人とは別に、内郷出身の方から「これは『熊林』です」というコメントをいただいた。知人からも再度、同様のコメントをもらった。今は私のように「座っている横向きの乙女」と見る向きもあるが、すっかり痩せてはいるものの、昔は「横向きに座った熊」だった、ということだった。訂正を兼ねて追記する。右の方にいる熊は、内郷では「子熊」と呼ばれていたようだ。

2019年3月18日月曜日

渓谷の区の総会

 夏井川渓谷の小集落、牛小川は9世帯で隣組=行政区を構成している。きのう(3月17日)午後、Kさんが物置を改造した“談話室”で総会が開かれた。週末だけの半住民の私も参加した。
 県道とJR磐越東線をはさんで家がかたまっている。谷側の隠居から山側の“談話室”までは歩いて5分ほどだ。途中、谷側の空き地にフキノトウが群生していた=写真。人の土地だから写真を撮るだけにとどめたが、隠居の庭なら摘んでふきみそかてんぷらにする。線路敷にはセイヨウカラシナらしい菜の花が。ウグイスも「ほけきょ、ほけべきょ」と小声でさえずりの練習をしている。その年の初さえずりを、平地ではなく渓谷で聴くのは初めてだ。

 総会は短時間で終わり、すぐ懇親会に移った。私は隠居に泊まらず街へ戻るので、ウーロン茶をすすりながらよもやま話を聴いた。やがてというか、いつものようにというべきか、話はサバイバルグルメ”に移った。

いずれも東日本大震災の前、人によっては子どものころの記憶が披露された。「アナグマはうまい」「ハクビシンは肉がやわらかすぎてまずい、焼いたらいいかも」。イノシシは、震災後は原発事故のせいで食べることができない。しかし、各地に罠猟を続ける人がいる。「〇×さん(牛小川の人ではない)は、年間100頭も捕った」。びっくりして、思わず言葉が出た。「手にした報償金の額がすごいんじゃないの」

いわき市のホームページで今年度(2018年度)のイノシシ捕獲報償金制度を確かめたことがある。報償金は①「鳥獣捕獲等許可」の場合、1頭当たり1万2000円(別途、市鳥獣対策協議会から成獣・最大8000円、幼獣・最大1000円を交付)②「狩猟」による捕獲の場合は成獣2万円、幼獣1万3000円――を支給する、とあった。

対象頭数は2200頭で、農作物や農地への被害を防ぐために、罠猟免許取得者に箱罠の無料貸し出しも行っている。先日(3月15日)、対象頭数まで7頭を残して今年度の受付が終了した。予算がなくなった、ということでもある。

暮れの12月25日、磐城共立病院の敷地内に新病棟のいわき市医療センターが開院した。屋上にヘリポートがある。開院初日にさっそく使用された。

福島民報によると、小川町上平地内の山林で70代男性がイノシシにかまれ、両足に重傷を負った。男性は持っていた棒のようなものでイノシシを駆除した。夕刊のいわき民報には、消防の要請によって、福島県立医大からドクターヘリが飛来し、男性を浜通り南部の受け入れ病院である市医療センターへ運んだ、とあった。

 私はそのとき、こんな想像をしてみた。人里に近い山中には、イノシシ捕獲用の箱罠がある。男性はそれを確かめに行った。行くと箱罠にかかっていて、「棒のようなもの」で仕留めようとしてけがをしたのではないか、と。

 牛小川は、現場からはかなり離れている。が、住民は同じ小川地区のネットワークのなかで詳細を知った。「棒のようなもの」が何なのか、なんとなくわかった。地方自治体のホームページにも例示されている。箱を使わない罠猟の捕獲法のようだった。

足をはさまれたイノシシにかまれないよう、長い棒のさきについた輪っかで「鼻くくり」をする。次いで、もう一方の足をしばって動けないようにする。最後は、やはり長い棒状の電気とどめ刺しを使う。「棒のようなもの」とはこれらのことで、その手順が狂ったのかもしれない。命にかかわる大けがだったという。

 さて、総会の集まりでは集落の守り神「春日様」の祭りの日を決める。渓谷がアカヤシオ(岩ツツジ)の花で彩られる日曜日、というのが慣例だ。今年(2019年)は4月14日に行われる。私も参拝・直会(なおらい)に参加する。

2019年3月17日日曜日

本の選び方

 もう10日余り前のことだが、晩酌しながらEテレの若者番組「沼にハマってきいてみた」を見ていたら、「学校の図書館で本のタイトルでしりとりをする」遊びをやっていた。番組側が呼びかけたら、ある学校の学生からアイデアが出されたそうだ。
『かがみの孤城』『海辺のカフカ』『学校崩壊』『意地』『シーイング―錯視 脳と心のメカニズム』『傀儡子(くぐつし)の糸』……。しりとりで選んだ本が並ぶ=写真。村上春樹の『海辺のカフカ』以外は、作者もジャンルもわからない。が、自分の好みの世界から飛び出して、今まで興味も関心もなかった分野に足を踏み入れる――という意味では、ときに有効な手段かもしれない。

“しりとり本”ではないが、ここ数カ月、キノコが登場する本を図書館のホームページで調べ、借りては読み、借りては読み、を繰り返している。自然科学系のキノコ本はわきに置いて、人文系の文学・美術・民俗・古典などに目を通している。

3月に入ってからは、嵐山光三郎『頬っぺた落とし、う、うまい!』、田久保英夫『生魄(せいはく)』、ニコライ・スラトコフ『北の森の十二か月』(上・下)、西村寿行『霖雨の時計台』、南木佳士『神かくし』、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』、高樹のぶ子『彩月 季節の短編』、小川洋子『薬指の標本』その他を手に取った。

今まで知らなかった作家、知っていても読んだことのなかった作家がほとんどだ。20歳前は行きあたりばったりの乱読だったが、50年たった今は、乱読は乱読でもキノコがキーワードになっている。それでもまだ一部しか読んでいない、という思いが強い。

“しりとり本”が音(おん)で連なるアナログ的読書だとすると、“キノコ本”はデジタル的読書だろうか。たとえば、句集。作句順によるもの(アナログ的)と、季語によるもの(デジタル的)とがある。“キノコ本”は後者に近い。

きのう(3月16日)、用があっていわき市立草野心平記念文学館へ出かけた。壁面にいろんなポスターが張ってある。世田谷文学館で開かれている「ヒグチユウコ展CIRCUS(サーカス)」のポスターに、キノコらしいものが描かれていた。

家に帰って検索したら、今や人気沸騰中のイラストレーターらしい。主に猫やキノコを描く。人間の足を持ったベニテングタケ、同じく柄がだんだんタコの足に変わるベニテングタケ、頭がアミガサタケのカエルなど、妖しげな生きものたちが画面に躍る。現実と空想がまじりあった画風が人を引きつけているようだ。

森に入るとキノコ目になる。キノコがあればすぐ目に留まる。今は森の中ではなく、街や屋内でもそれらしいものがあると確かめてみたくなる。ヒグチユウコという人を、遅まきながらそうして“発見”した。水玉の画家草間彌生もまた、キノコ派ではなかったか。

2019年3月16日土曜日

3月11日の焼菓子

東京五輪が決まる前、2013年9月4日のブログで「東京が安全ならいいのか」というタイトルで次のようなことを書いた。
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いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造からなる。いわきを深く知るには、ときどきマチを離れてハマとヤマからマチを見ないといけない――職業柄、そう意識して長年暮らしてきた。中心からは周縁は見えない。見えるのは、周縁が中心に影響を及ぼすとき、たとえば凶作や水害、不漁のときだけだ、とも。

中心と周縁の関係はマスメディアにも内在する。マスメディアの本社がどこにあるかでニュースの価値が決まる。事故を起こした福島第一原発に近いいわき市(地域紙・コミュニティ放送)、福島・郡山市(県紙・ローカル放送)と、東京(全国紙・全国ネット放送)とでは危機感が違う。

全国紙であれ、全国ネットのテレビ局であれ、本質的には東京のローカル紙(局)だ。東日本大震災の初期報道がたちまち福島第一原発事故の報道に切りかわったのは、「東京にも影響が及ぶのではないか」と東京のメディアが恐れたからだと、私には映る。

2020年夏の東京五輪開催をめざす東京招致委員会の竹田恒和理事長(日本オリンピック委員会長)が、福島第一原発から海洋に汚染水が流出している問題で、IOC(国際オリンピック委員会)の委員に対して「東京は全く影響を受けていない」「全く普段通りで安全だ」といった内容の手紙を出したという。ブエノスアイレス共同電で、県紙で読んだ。

私は慢性の不整脈をかかえているので、カッとなるな、興奮するなと常に自分に言い聞かせている。が、これにはカチンときた。メディアだけではない、東京に住む政治・行政・その他組織のトップの本音が透けて見えるではないか。周縁を犠牲にしてなにが東京の安全だろう、なにが五輪招致だろう。
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 なぜ6年前の文章を引用したかというと、東京五輪誘致にからむ「贈賄疑惑」が報じられているからだ。雑誌「ジャーナリズム」の3月号を読んだからだ。もっといえば、東京都町田市に住むカミサンの親友から、3月11日の消印で手紙が届き、焼菓子が別送されてきたからだ=写真。

カミサンが親友の手紙の封を切ると、夫婦あてになっていた。カミサンの親友は仙台出身で、18歳のときに仙台の大学でカミサンと出会った。半世紀を超えるつきあいになる。東北への思いは強い

その親友が、NHKの3・11関連番組に触れて書いている。「こうやってたまにテレビでしか見ることの出来ない私達ですが、やはり、忘れていることを思い出させてくれる映像から目を離すことは出来ません」。ナショナルメディアの役割がここにある。

 手紙を読み、焼菓子を食べているうちに、月刊の「ジャーナリズム」3月号をわきに置きっぱなしにしていたことを思い出す。定期購読をしている。月が替わるころ、朝日新聞と一緒に配達員(ミャンマーの若者)が持ってくる。きのう(3月15日)、じっくり読んだ。

 巻頭特集「震災8年、風化、風評、報道されない日常…… 福島を見つめ、伝える」に10人が書き、1人のインタビュー記事が載る。小名浜在住の小松理虔(りけん)さんが「震災8年、忘却と無関心に抗うためにメディアはプレイヤーとして地域の中に」と題して書いている。中央メディア=東京ローカルと、私と同じような認識を持つ若い人がいることをうれしく思った。

 同時に、「大きな主語で語ることなく、小さな固有の声に耳を傾けること。専門知と現場を橋渡しすること。多様な声を聴きながら合意形成を図ること。一人のプレイヤーとして地域や現場に関わること。(略)震災と原発事故を『福島の出来事』ではなく『私の出来事』として考えていくこと」の大切さも説く。その通りだろう。

 焼菓子は、いわきでは食べたことのない食感だった。口に入れると、ほろりととろける。甘さも控えめだ。ときどき3時にお菓子付きで緑茶が出ていたが、この2、3日は紅茶と焼菓子だ。3・11でざわついていた気持ちが、川崎の焼菓子と、小松さんの「東京ローカル」論で鎮まった。けさの県紙は「竹田会長、退任不可避」と報じている。「東京は安全」のウラになにがあったのか。

2019年3月15日金曜日

春がそこかしこに

 おととい(3月13日)は昼、にわか雨が降った。春雷が鳴った。雨がやんで晴れたあとの午後3時ごろ、平の街へ行くのに夏井川の堤防を利用した。対岸の丘陵はやや逆光のなかで影ができているところもあった。そのなかで、山腹の専称寺の梅林が際立って白く輝いていた。梅の花が満開になっていることがわかった。
 そのふもとの夏井川はハクチョウの越冬地だ。岸辺の若いヤナギが芽吹いて、川に沿って薄い緑の帯をつくっていた。

 ハクチョウは、3月に入ると一気に数を減らし、5日昼は11羽、7日は5羽になった。9日に見たときには1羽もいなかった。いったん姿を消したあとも、戻るか、よそからやって来るかして、何羽かは羽を休めていることがある。その確認のために、13日、堤防を通った。今年(2019年)は、9日までに北帰行が完了した(それを手帳に書き留める)。

 そこから上流の、平地と山地の中間にある夏井川渓谷はどうか。いつもは日曜日に渓谷の隠居へ行くのだが、今週は「みんなでいわきツアー」に同行して双葉郡富岡町へ出かけた。で、12日、隠居の菜園の様子を見に行った。

キヌサヤエンドウは防寒に失敗して地上部が枯れている。種苗店で、新しいポット苗を二つ買いながら店主に聞くと、「わきから芽が出てくるから」とうれしいことをいう。苗を定植したあと、葉が枯れたキヌサヤの周囲を見たが、まだその気配はなかった。白菜の花芽はどうか。こちらも花茎が立ち上がるまでにはなっていない。三春ネギの苗もかじかんだままだ。

道路沿いの白梅の花は満開だった。「梅前線」はすでに渓谷を通過し、上流の山地へと駆け上がったようだ。庭のツクシは出始めていた=写真。これからわんさと頭を出すことだろう。あと1カ月、4月も半ばになれば、渓谷はアカヤシオのピンクの花に彩られる。そのころ、庭のシダレザクラの下には春のキノコのアミガサタケが顔を出すかもしれない。

三春ネギの苗は、平地のわが家の軒下でも育てている。育苗トレーで寒さにかじかんでいた苗は、3月に入ると急にシャキッとして、万年筆のカートリッジくらいに太くなった、色もあおさを増した。これが鉛筆くらいの太さになれば、定植できる。そこかしこに春が充満しつつある。

2019年3月14日木曜日

みんなでいわきツアー④富岡町

震災前、双葉郡富岡町のショッピングプラザ「トムトム」まで出かけて、古書の展示即売会をのぞいたことがある。ついでに食料品などを買って帰った。カミサンが、いわきのスーパーマルトなどには置いていない高級食材を見てびっくりしていた。東電社員の給与水準に合わせた品ぞろえのようだった。
シャプラニール=市民による海外協力の会主催のみんなでいわきツアー2日目(3月10日)は、富岡町視察だった。一行は、桜並木で知られる夜ノ森地区を見たあと、JR常磐線富岡駅前へ移動した。そこで一行と合流した。

駅とその周辺は大津波に襲われた。海と駅の間にあった家並みは消え、海がじかに見えるようになった。ツアーガイドを務めた「富岡さくら会」の田中美奈子さん(富岡から避難し、いわきに在住)が、写真を見せながら説明した。

一行はさらに駅の北方にある海食崖へ移動し、沿岸部を眺めたあと、内陸の商店街、富岡高校などをバスの車中から見た。私ら夫婦は車でバスを追いかけた。

2013年11月2日に、首都圏からやって来た“ダークツーリズム”の一行と山麓線沿いの民家や夜ノ森地区、富岡駅周辺を巡ったことがある。町全体のイメージはつかめないが、ピンポイント的に訪ねたところは思い出す。商店街も震災前に通ったことがある。震災後も一度、通った。ずいぶん景観が変わった印象だ。

「商店街は家が解体されて更地が増えた」と田中さんはいう。確かに更地が増えている。屋根にブルーシートがかけられていたらしい建物もあった=写真上1。シートは紫外線で劣化し、ちぎれてなくなったようだ。点々とある黒いものはシートの重しか。

富岡高校は商店街の西の丘にある。若いころ、職場に同校卒の新入社員が配属された。彼女の親が亡くなった年の月遅れ盆に、彼女の実家へ焼香に行ったことがある。夜ノ森地区の西方にあったように記憶する。
富岡高校は2年前に休校した。道路沿いの柵の内側に「祝 平成22年度全国高等学校総合体育大会出場 学校対抗バドミントン部男子・女子……」など10枚の掲示板が残る=写真上2。

そのなかに「桃田賢斗」の名が二つ。桃田は今や男子バドミントン界では世界トップレベルの選手だ。香川県出身の少年は、中学校・高校と震災前、富岡で過ごした。一時はめをはずして謹慎したこともあったが、見事に復活した。

バドミントン部はトップアスリート系列運動部の一つだった。それは今、ふたば未来学園高校(広野町)の猪苗代校に引き継がれている。

ショッピングプラザ「トムトム」は「さくらモールとみおか」に、道路向かいの東電PR施設は「廃炉資料館」に替わった。楢葉町と広野町にまたがるJヴィレッジも再開した。一行はバスの中で田中さんからそれらの説明を受けたことだろう。

Jヴィレッジの中を通ったあと、常磐道広野インターチェンジへ向かう。視察はそれで終わり、インターチェンジの駐車場であいさつをして一行と別れる。私自身、富岡町の記憶を“アップデート(最新化)”するいい機会になった。

さて、「3・11」が過ぎて、“原発震災”9年目に入った。あの日のことは、ふだんは胸底に沈んでいる。が、3月前半はどうしても、澱(おり)のようなものがわきあがる。それをまた沈めながら、みんなでいわきツアー同行記を終える。