2023年6月30日金曜日

ネギの種を冷蔵庫へ

                      
 この時期の「ネギ仕事」が完了した。6月27日の夕方、陰干ししたネギの種=写真=を、乾燥剤とともに小瓶に入れて冷蔵庫にしまった。秋の種まき時期(目安は10月10日)まで冷温保管をする。

ネギの採種は、ネギ坊主の様子を見て決める。殻が割れて黒い種がのぞき始めたら、採りごろだ。これだけは人間の都合で先延ばしにできない

今年(2023年)は――。なぜかネギ坊主の出来が遅れた。それでも徐々に大きくなり、6月に入ると回収時期を計るようになった。

6月11日の日曜日は雨。傘をさしてネギ坊主を見る。全体が黒ずんではいるが、種の入っている殻は、まだ割れるところまではいっていない。回収は1週間後、そう判断した。

ところが、その1週間後の日曜日、ネギ坊主はかなり殻が割れていた。ざっと見て、種の3分の1はこぼれ落ちたようだった。すでに首を垂れたのもある。急いで回収し、自宅に持ち帰って、茶の間の縁側で陰干しをした。

 それからは乾燥具合を見ながら、ネギ坊主を振ったり、もみしだいたりして、種と殻を分けた。これを何日か続けた。

 なかにはまだ湿っぽい殻もあった。梅雨のこの時期、すっかり乾燥させるにはけっこう時間がかかる。

一つの殻にはどうやら三つのベッドがあって、それぞれ種が二つ、抱き合うように形成されるらしい。種は殻の数の6倍、ということだろうか。

 乾燥がすむと、いよいよ「種選り」だ。実用書には、殻やごみはフーフーやって取り除くとあるが、なかなかうまくいかない。種まで飛ばしてしまう。

で、ある年から、ネギ栽培の師匠から学んだやり方に切り替えた。フーフーやる「風選」ではなく、水を利用した「水選」だ。これだと簡単に種を選り分けられる。

ステンレス製のボウルに同じステンレス製のザルを重ね、殻やごみと一緒にネギの種を入れる。そこへ水をたっぷり張ると土はボウルの底に沈み、種はザルの底に残る。

殻や中身のない種は軽いので浮く。浮いた種は発芽しないから、容赦なく殻やごみと一緒に捨てる。ザルの底に残った種だけを新聞紙の上に広げて陰干しする。

あっという間に殻が割れて種がこぼれたためか、今年は思ったようには種が採れなかった。しかし、まあなんとか次のいのちを確保することはできた。

といっても、種は簡単に途絶える。その危険が常にある。しかもネギの種は寿命が短い。持って2年だ。

栽培し続けないことには種が残らない。「年寄り半日仕事」で、土いじりも2~3時間で切り上げることが増えた。とりあえず、三春ネギだけは、という思いで、栽培を続けている。

小さな曲折はあっても、6月中に今年秋にまく分は確保した――それこけでも良しとしよう。

2023年6月29日木曜日

四倉海岸の昼花火

         
 6月27日付のいわき民報1面記事=写真=を読みながら、そのスケールの壮大さにあらためて感じ入った。現場でイベントを目撃した人は、それこそ天からの贈り物に心を震わせたことだろう。

 「満天の桜、四倉に咲き誇る/いわき縁の蔡さん(世界的芸術家)の昼花火/震災犠牲者への鎮魂や平和を願い」という見出しとともに、満開の“桜並木”のようなピンクの花火の写真が掲載されていた。

 北京オリンピックの開・閉会式でやはり、蔡さんの花火アートが揚がった。それを空からの映像で見て仰天した。

 そう、蔡國強(1957年~)の花火アートはけた外れの爆発力と、宇宙につながるようなスケールの大きさが特徴だ。

 今はニューヨークに住むが、中国を飛び出して来日し、いわきのギャラリーを介していわき市民と結びつきが生まれたのが30年ほど前。

 夕刊の記事で記憶を呼び覚まされたのだが、蔡さんは平成6(1994)年、いわき市立美術館で個展「蔡國強―環太平洋より」を開いている。

 このとき、「海上約5キロで火薬を使って“地球から地球を見る”『地平線プロジェクト』を実施」した。

 カミサンの親戚の女性がこのプロジェクトに関係していたため、カミサンが何か手伝いをしたような記憶がある。

 蔡さんは当時、四倉町の高台に家を借りて作品制作に励んでいた。そこは確か「ヤカトカ」といった。漢字で書くと「八日十日」。

 そこから海上を走る火を見たのだったか。記憶はあいまいだが、あのとき、なぜだか「とまどい」と「もやもや」感が残った。

 実は、今回のプロジェクトは知らずにいた。東京・国立新美術館できょう(6月29日)、「蔡國強 宇宙遊―<原初火球>から始まる」が開幕するいや、「開幕した」と書いてもいいか)。その関連事業として、同26日、四倉海岸で「昼花火」が実施された。

 私はSNSでプロジェクトを知った。併せて、市の防災メールで火災情報が流れてきた。やがて、またメールが届いた。「12時09分ごろ、四倉町西三丁目付近に消防隊が出動しましたが、火災ではありませんでした」

 わが家は四倉町の手前にある。同じころ、消防車がサイレンを鳴らして国道を走って行った。それで「火災発生」を知り、それが「昼花火」のピンクの煙を見た人が驚いて119番通報をしたのだとわかった。

 SNS、特にツイッターには次々に昼花火の動画がアップされた。現場に立ち会わなかった人間も、その動画を通じてスケールの大きさ、そしてみごとな出来栄えに感じ入った。

その作品の、なんという明快さよ。動画と写真の間接体験ながら、「あのとき」の「とまどい」と「もやもや」がきれいさっぱり消えていた。

2023年6月28日水曜日

コガネグモが消えた?

                    
 未明の2~3時台にいったん起きてブログをアップしたあと、また眠る。5時過ぎには再び起きてすぐに糠床をかき混ぜる。

 それが終わって玄関のカギを開け、届いた新聞を手に、台所の軒下に巣をかけたコガネグモをチェックする。

 このごろはしかし、チェックというよりはあいさつに近い。「おはよう」。そんな感覚でコガネグモの様子を確かめる。

ところが、日曜日(6月25日)朝に見ると、クモの姿がない。円網も消えている。天敵にやられたか?

 最初、コガネグモの子がいるのに気づいたときにこんなことを書いた(5月4日付)。――クモの子は花の近く、鉢物の支柱を利用して地上70センチほどのところに網を張った。

生まれたときからそこにいたわけではない。晩秋、どこか遠いところから空を旅してやって来たのだ。

秋に孵化した子グモたちは集団で過ごしたあと、尻から糸を流し、それが風に乗ると空に舞い上がる。これを「バルニング」というそうだ。たまたま西風に乗ってわが家の庭に着地し、越冬した。

コガネグモは円網の真ん中で、体を下向きにして、じっと獲物の昆虫がやって来るのを待つ。獲物がかかるとすぐ走りより、かみつき、糸でぐるぐる巻きにして動けなくする。それを網の真ん中まで運んでから食べる――。

それから1カ月ほどたったある日の夕方(6月1日付)。――息抜きに庭へ出てクモの子を見ると、空中にぶらさがって、足をダラッと投げ出していた。

クモの子は、クモの巣とは尻から出した糸一本でつながっている。風が吹いているわけではないが、クルクル回ったかと思うと、また元に戻る。そのうち、足を折りたたんで動かなくなった。

翌朝、新聞を取り込むついでにクモの子を見ると、なんといつものように足をX字に広げて逆さになっているではないか。脱皮だったのか――。

それからさらに1週間後(ブログとしては6月17日付)。――クモは急に大きくなった印象を受けた。それだけではない。今までと違うことが二つあった。

一つは、クモの巣の中央にある「X」の隠れ帯。1カ所が消えていたり、小さかったりしていたのが、大きくはっきりした。

もう一つは、今まで背中を見せていたのが、腹を見せるようになったことだ。つまり、クモの巣の向こう側に移ったのだ――。

と、こういう経過をたどって、今度は姿を消した。カミサンさんもすぐチェックした。すると、「いたよ、上の方に」。「ええっ!」

今までの経験からいうと、地上70センチあたりではなく、人間の顔から上あたりにクモがいたように記憶する――6月17日の「コガネクモ観察日記」ではそんなことも書いた。そのとおりになったのだ。

やや大きい獲物をグルグル巻きにして食べた=写真=翌朝の異変だった。新しい巣は同じ台所の軒下でも、私の目よりやや高いところにあった。ここを定位置と定めたのだろう。というわけで、きょう(6月28日)は「コガネグモ観察日記④」でした。

2023年6月27日火曜日

やっとネギを定植

                      
 もう先延ばしはできない。日曜日(6月25日)はカンカン照りになっても、ネギ苗を植える――そう決めて、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。午前中はうまい具合に雲が多かった。

 例年、溝を切って300本ほどを植える。4年前の定植作業は4月下旬に行われた。時期的には最速だったろう。そのときのブログ。

――定植は5月最初の日曜日(5月5日)と決めた。この1週間は寒暖が極端だった。歩けば汗ばむ日が続いたかと思うと、冷たい東風と雨が降って冬に逆戻りしたような日が続いた。

4月28日の日曜日は、朝から青空が広がった。朝食は隠居で,とカミサンがいう。弁当を用意して、早朝7時半に出かけた。

隠居に着くとすぐ土いじりを始めた。ネギを定植するために溝を切り、余った土をスコップでかき出しているうちに、次の日曜日、天気はどうなるかわからない、きょう植えてしまおう。エンジンがかかった。

溝を切る。ネギの苗床をほぐし、太い苗と細い苗を選り分ける。こうなったら何時間かかっても定植を終えるしかない。途中、遅い朝食をとっただけで、ほぼ5時間がかりでネギ苗を定植した。

夫婦2人だけの自家消費用だから、そんなに必要はない。ざっと数えたら300本はあった。ほかに、ばらすのが面倒になって残した苗床の一列と、わが家の軒下で育てた苗も含めると、一日1本で1年分は確保した――。

 今年(2023年)の苗の育ちはいつもと変わらなかった。ところが、日曜日に行事があったり、雨が降ったり、カンカン照りになったりして、なかなか作業に取り掛かれなかった。半分は自分以外の理由、半分は自分の加齢による体力低下だ。

ネギの定植は、苗の選別と溝切りを一気にやるとすれば、ほぼ一日がかりだ。それをカンカン照りの下では、なかなかやれない。つまりは「老衰」。

 40代で週末菜園を始めたとき、観念的に「畑じまい」をイメージしたことがある。年をとって隠居へ通えなくなる。すると、庭を“開墾”して広げた菜園も、元に戻る。

 その象徴がササだ。ササを刈り取り、地下茎を引っこ抜くところから、畑づくりが始まった。「畑はじめ」がそれだから、「畑じまい」のあとはササの復活ということになるのだろう。

 それはともかくとして――。定植用のネギ苗は1週間前、シダレザクラの樹下で選別し、まとめて仮植えしておいた。

 定植といっても、5センチ間隔で1本ずつ手植えをする。それは変わらない。今年は段ボールを尻に敷いてうねに座り、溝に苗を並べた。苗がある限りやると1時間半、数は150本だった=写真。4年前の半分、作業時間も半分で済んだ。

 今年のネギ仕事は、まだ種選りが残っている。ネギ坊主は刈り取り、わが家の縁側で乾燥させている。ここから殻と砂やごみを取り除けばいい。とにかく6月中に種を確保して冷蔵庫にしまう。7月に持ち越さないことだ。

2023年6月26日月曜日

ヒュッレムからキョセムへ

                          
 BS日テレで月~金曜日の午後、「新・オスマン帝国外伝――影の女帝キョセム」が放送されている。

 前に皇帝スレイマン1世の寵姫(ちょうき)、ヒュッレムを主人公にした「オスマン帝国外伝――愛と欲望のハレム」が放送された。いわば、その続編だ。ヒュッレムからキョセムへ、である。

 前作のときもそうだったが、今回も初めのうちは、カミサンがそばで見ていても気にならなかった。これといった事件があるわけではなかったからだ。

それが、最近は目のへりにちらつき、耳に入ってくる。6月第3週は、キョセムが「影の女帝」としての覚悟を決めるような修羅場が展開された。思わずパソコンにふたをして見入るようになった。

 キョセムは、もとはギリシャの島から献上された奴隷の1人に過ぎなかった。皇帝アフメト1世が彼女を寵愛し、やがて子どもが生まれる。

 それからドラマが激しく展開する。番組宣伝に従えば、キョセムは暗殺や裏切り、愛する者との別れを乗り越えて、権謀術数の渦巻く後宮から帝国を動かす影の女帝になっていく――。

 キョセムを寵愛する皇帝が祖母の太皇太后サフィエの策略によって遠征中に暗殺されそうになる。そのもくろみはすんでのところで失敗する。キョセム側も逆襲に転じる。

6月第4週に入っても、一進一退の“攻防”が続く。なんという陰謀と策略。しかも、それぞれが侍女や宦官、宰相を巻き込んでうごめく。この「愛と欲望のハレム」の「活劇」が視聴者を引き付けるのだろう。

 ヒュッレムのときには、オスマン帝国を舞台にした初めてのドラマなので、少し勉強した。それでこんなことを書いた。

――テレビでは、16世紀、オスマン帝国の黄金時代を築いた皇帝スレイマンと、元キリスト教徒の奴隷身分から皇帝の寵姫となり、やがて正式な后(きさき)となったヒュッレムを軸に、骨肉の後継争いと愛憎劇が展開される。

前のシリーズが放送されたとき、カミサンが買って読んでいた小笠原弘幸『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書、2020年)を手元に置いている。話がこんがらかると、ときどき開く。むろんドラマはフィクションだから、史実とは異なる。

『オスマン帝国英傑列伝』では、ヒュッレムに1章を割いている。「美貌より快活さを魅力とした魔性の女」「スレイマン、イブラヒムとの緊張の三角関係」「西太后やマリー・アントワネットとならぶ悪女に描かれた理由」といった見出しが並ぶ――。

 新書には「キョセム」の章もある=写真。キョセムはのちに6歳の孫が即位しても後見人としてトプカプ宮殿にとどまり、権勢を振るい続ける。ところがやがて、敵対するグループによって。暗殺される。「ハレムで殺害された唯一の母后」だという。ヒュッレム以上に政治にかかわったようだ。

ただし、ドラマとしてはヒュッレムの物語よりエンタメ性が強い。「活劇」が過ぎる。そのへんを割り引いて見るようにはしている。

2023年6月25日日曜日

吉野せいの老いの自覚

                     
 「百姓バッパ」を自称した作家吉野せい(1899~1977年)の短編集『洟をたらした神』(中公文庫、2015年再版)は座右の1冊だ。

 単行本は昭和49(1974)年、彌生書房から出版された。翌年、大宅壮一ノンフィクション賞と田村俊子賞を受賞する。

 田村俊子賞受賞の知らせが入ったとき、いわき市好間町・菊竹山の自宅を訪ねて取材した。そのとき、せいは75歳、私は26歳だった。

 『洟をたらした神』は、単行本が出て以来、いつも身近にあった。近年、作品の「注釈」づくりをライフワークに――と思い定めてからは、文庫本を手元に置いている。これには書き込みが絶えない。

 最後に収録されている「私は百姓女」の前の小品「老いて」=写真=は、何行かに傍線が引かれただけだ。注釈を誘うような語彙がなかったことが大きい。

 最近、その「老いて」を読み返して、「わかる、やっとせいに追いついたか」そんな感慨がわいて、われながら驚いた。

 「老いて」の末尾に「昭和四十八年秋のこと」とある。同年秋に抱いた老いの自覚をつづった、ということだろう。

もともと、せいは文学少女だった。大正元(1912)年秋、磐城平に赴任した牧師で詩人の山村暮鳥の知遇を得た。その後、暮鳥のいわきの盟友である開拓農民で詩人の三野混沌(本名・吉野義也)と結婚し、仕事と子育てに追われた。

混沌の死後、ほぼ半世紀ぶりにペンを執り、草野心平の勧めで『暮鳥と混沌』を書き、『洟をたらした神』を刊行した。

『洟をたらした神』に収められた作品の執筆年は、昭和46年(72歳)=1編、同47年(73歳)=5編、同48年(74歳)=4編、同49年(75歳)=6編だ。世間は老いてなお旺盛な筆力と精神の強靭(きょうじん)さに舌を巻いた。

 さて、私がせいに追いついたと実感したわけは単純だ。「老いて」を書いたせいと同じ年齢になったからだ。

今までは、70代の作者の作品に20代の読者のままで接してきたが、今回は初めて「読者も数え75歳」であることに気づいて、心が揺さぶられたのだった。

「私も老いた。耳をすませば、周囲の力なく崩れてゆく老人たちの足音につづいて、歩調がゆるんでよろめいてゆくのが日に日にわかる」

しかし、「老いて」のテーマは肉体的な衰えよりは、「憎しみだけが偽りない人間の本性だと阿修羅のように横車もろとも、からだを叩きつけて生きて来た昨日までの私」を、夫・混沌の残した詩を読むことで深く恥じるところにある。

「なげくな たかぶるな ふそくがたりするな/じぶんをうらぎるのではないにしても/それをうったえるな」

夫の詩を読んで、せいは生々しい繰り言はかき消そう、「しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか」と思い至る。

そして、「胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい」と締めくくる。堂々とした老いの自覚、いや覚悟だ。

2023年6月24日土曜日

扇風機を買う

                                 
 わが家の茶の間は、真夏になると蒸し風呂状態になる。ある年はこんな状態だった。――在宅ワークは汗まみれ。茶の間が庭に南面し、パソコンに向かって仕事をしていると、庭の照り返しを背中に受ける。

西側は押し入れと床の間。風の通り道はない。北側は壁。東側は台所。それで、窓や戸を全開していても、茶の間の熱の逃げ場がない。前も熱、後ろも熱。扇風機の効用も限定的、部分的だ。
 さっぱり茶の間で昼寝ができなくなった。茶の間の北隣は西に窓のある寝室。午前中はまだ暑さとは無縁だ。午後になると、徐々に日が差し込む。

ベッドで昼寝をした。時折、涼風が入り込む。汗ばみながらも周期的に体をなでる涼風に、梅雨明け以後、初めてシエスタができた――。

わが家はつまり、エアコンとは無縁の「昭和の家」だ。これから、引用したブログのような事態になる。夏場は扇風機が欠かせない。

だんだん暑さがこたえるようになったので、カミサンが扇風機を出してかけたら異音がする。かすかに振動もしている。

 すかさずカミサンが叫ぶ。「〇×さんだ!」。後輩に見てもらおう、という意味だ。そのためだけに連絡するのははばかられる。

 たまたまビワの実とイワシのお福分けを持ってきてくれた。そのときに事情を話すと、扇風機を持ち帰って調べてみるか、となった。

 翌日にはグミの実とともに、扇風機を持って来た。3枚ある羽根のうち、1枚の先端が欠けている。それが問題の原因らしい。

 DIYが得意な後輩でも、扇風機の羽根のスペアはない。ネットで発注するか、廃棄された扇風機から羽根をリサイクルして調達するしかない、という。

羽根の欠けは、異音と振動がおきたときに見てわかっていた。それが回転バランスを崩していたのだと、遅まきながら納得した。

翌日から2日間は真夏のような暑さになった。家の窓と戸を全開しても、茶の間には熱がこもった。この夏の暑さを考えると、すぐにでも扇風機が欲しい。

日曜日(6月18日)に夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、あまりの暑さに早々と切り上げたあと、街の家電量販店へ直行した。

目当てはもちろん扇風機だ。店のスタッフは「DC扇風機」を勧める。直流の電流によって羽根を回転させるもので、音が静かなだけでなく、消費電力も小さくてすむという。

しかも、リモコンで運転を始めたり、風量を調節したりすることができる。就眠時にはあらかじめ30分ごとに風量を下げるようなこともボタン一つでできる。

テレビがそうであるように、扇風機もリモコンで、となれば、いよいよ茶の間ではただ座っているか、横になっているだけでいいことになる。

とはいえ、置く場所が問題だ。テレビの左側に置けば、間にカミサンが座るので風が遮られる。右側に置けば人間の移動の邪魔になる。

どちらにしても「昭和の家」だから、ある程度は不便を前提にして暮らすしかない。「扇風機があるだけでよしとするのだよ」と、これはどこか天の方から降りてきたような声。

2023年6月23日金曜日

小ネギとジャガイモの味噌汁

                     
   日曜日(6月18日)は夏井川渓谷の隠居でネギ苗の選別をした。ほんとうは一気に定植までもっていきたかったのだが、前日に引き続きカンカン照りになった。直射日光の下での作業は避けたい――そう考えて選別だけにとどめた。

ネギ苗は定植できるほどに生長している。しかし根が浅いので、雨が降ったり風が吹いたりすると倒れやすくなる。現にあらかた倒伏していた。

とりあえず選別するために、苗床にスコップを入れて土をほぐし、苗のかたまりを一輪車に載せてシダレザクラの樹下に移動した。

渓谷の小集落では、田村地方から伝わった秋まきの「三春ネギ」を栽培している。その種と苗をもらって、隠居の畑で栽培を始めてから20年以上がたつ。

初めは失敗の連続だった。ネギ坊主から採った種を袋に入れて、隠居の下駄箱の上に置いた。「常温保管」のつもりだったが、秋にまいたらさっぱり発芽しない。

再び集落の住民に苗と種をもらって栽培を続けるうちに、ネギの種は「冷温保管」が必要なことを知った。冷蔵庫に入れておくと、やっと発芽した。

以来、ネギ坊主からの採種(6月)~冷蔵庫での保管~播種(10月)~苗の定植(5~6月)というサイクルでネギの栽培を続けている。

ネギ苗はかじかみながら越冬したあと、ぐんぐん生長する。鉛筆、ときには大人の小指大になったら植えごろだ。

それが今年(2023年)は春の陽気も手伝って順調に育った。一方で定植用の溝をつくるのが遅れた。

6月に入って溝をつくったものの、肝心の日曜日に行事があったり、雨が降ったりして作業がはかどらない、晴れれば熱中症が心配なほど暑くなる、というわけで、先の日曜日はネギ苗の選別だけにとどめた。

いつものことながら、定植に回せるものは3分の1くらいしかない。残りは土に返すか、「小ネギ」として利用する。そのための再選別もした。

 「小ネギ」は土が付いたままだ。そのまま持ち帰ったら、料理までの下ごしらえに時間がかかる。そのため、食べる分を見計らって土を洗い流し、枯れた外皮をはがして、きれいにする。これだと、カミサンも料理しやすい。人にもあげやすい。

 まずは小ネギとジャガイモの味噌汁になって出てきた=写真。未熟なネギなので、三春ネギの甘みはまだない。しかし、香りは三春ネギそのものだ。

ジャガイモの甘みと、口いっぱいに広がるネギの香り――これは、晩秋のネギジャガの味噌汁とそう変わらない。このためだけに三春ネギをつくっているようなものだ。

小ネギはしばらく、味噌汁や冷ややっこ、卵焼きなどに利用する。味は薄いが、香りは強い。この香りを楽しむ。あとは種選りと定植だ。これはもう先送りができない。

2023年6月22日木曜日

プラムを収穫

                     

    庭のプラムの実が色づき始めた。自分のブログを読み返すと、夏至が過ぎたあたりで収穫作業をしていることが多い。

 今年(2023年)は色づきが1週間ほど早いようだ。早い春の到来に合わせて、植物の芽生えと芽吹きが早まった。庭の草木も同じように先を急いでいる。

 手が届くところにある実は、青みが残っていても、ついもいでしまう。不思議と酸味は強くない。黄色くなりかけただけでなく、一部赤みを帯びたものは、ほどよく硬くて甘みが増しつつある。人によっては、このあたりがプラムの食べごろと感じるかもしれない。

 熟して全体が赤くなった実は、これはちょっと敬遠したい。果肉がとろけて液状化しているというか、ガブリとやると液がはじけてこぼれる。甘みが消えた薄味のジュース、といってもオーバーではない。

 狙いは、やはり黄赤色に変わりつつある硬い実だ。つまり、今が摘みごろ=食べごろ。茶の間でパソコンを開いていると、カミサンから声がかかった。「はしごがあるよ」。プラムの幹と枝にはしごをかけて実を収穫するように、という合図だ。

 6月17、18日と違って、20日は晴れてもそんなに気温は高くない。北からの風が吹き抜けていく。よし、落果する前に収穫するか――。

 はしごはわが家の隣、義弟の家の物置の軒下に置いてある。それをまず義弟の家の庭からプラムの枝と幹にかける。

 プラムはわが家の庭の南隅にある。育った木はわが家だけなく、ブロック塀をはさんで義弟の家の庭にも枝葉を広げている。塀の南側だけでカゴにいっぱい採れた。

 半そでのままでは、あとで腕がかゆくなることがある。それを防ぐために手袋とハンドカバーをしてはしごに足をかけ、さらに上の実を採るためにまた一段昇る。そうして手の届く範囲であらかた実を収穫した。

 収穫したあとがむしろ大変だ。そのへんのことを前に書いている。――植えて何年後かに実が生(な)りだした。初めのころは実の生るのが面白くて、せっせと収穫した。

が、子供たちが家を出ると口にするのは夫婦だけ。枝という枝にびっしり実を付けるから食べきれるものではない。で、ついつい家へ遊びに来た人に迷惑も顧みず分けてやる、という仕儀になる――。

実が赤くなったのを放置しておくと、やがて落果する。庭の方から饐(す)えたにおいが漂ってくる。

今年はそうなる前に収穫した。カゴのほかに、大きなポリ袋がいっぱいになった=写真。いつものように、急いでお福分けをしなくては。

 はしごに昇ったのは久しぶりだ。高さとしては家の2階には届かない。が、庭の木の高さで周囲を眺める余裕はもうなくなっていた。はしごにしがみついて実を採るのに精いっぱいだった。若いころは、やはり怖いもの知らずだったか。

2023年6月21日水曜日

久しぶりのグミ

                     
 後輩がグミを持ってきてくれた=写真上1。お菓子のグミではない。久しぶりに見る夏の木の実だ。よく食べたのは小学生のころ、時代的には昭和30年代前半だ。

 近所の家にグミの木が、別の家にはスモモ(プラム)の木があった。どちらも梅雨のころ、実が赤くなる。

グミもスモモも家にはなかった。遊びの途中でひょいと手が伸びる。怒られなかったのは持ち主が寛容だったからか、それともたまたまだったか、今となってはよくわからない。

 60年以上も前の記憶ながら、子どもの背丈からしてもそう高くない木の枝に赤いグミがびっしりなっていた。棒を使わなければとれない柿の実などと違って、グミは手を伸ばせば摘み取ることができた。

赤く熟した実は甘い。しかし、渋みもある。この渋みが影響していたのか、グミを食べすぎると(あるいは、まだ熟していないグミを食べると?)、「糞詰まり」になるといわれた。

 ネットでそのへんの事情を探ると、すぐ答えが現れた。「種ごと食べると糞詰まりになる」だった。果肉だけを食べたから、糞詰まりになることはなかったが、過食を控える戒めにはなった。

 最近では5年前だったか。車で林間の狭い坂道を駆け上がって友達の家に行くと、駐車場のそばにグミがなっていた。つい真っ赤に熟した実をもぎって食べた。

やはり、グミはグミだった。今風に言えば、「シブアマ」(渋くて甘い)。でも、その渋さが少年時代の記憶と直結していた。

 後輩からはさらに前日、ビワの実=写真上2=とイワシのお福分けにあずかった。ビワにはかなり大きいものもあった。

 まずは生食する。こちらはグミと違って渋みはない。あっさりした甘みを楽しんだ。あとでジュースになったものも出てきた。

 そうこうしているうちに、カミサンの知り合いがスイカの小玉を持って来た。土・日曜日と猛暑になった。のどを冷やすのにぴったりの食べ物だった。

 大玉のスイカを食べたときには皮をむいて糠床に入れる。白い皮の糠漬けだ。これがまた、酒のつまみになる。

 カミサンが、小玉の皮を糠漬けにしたら、というが、外の皮をむいたら食べられる部分は何ミリもない。さすがにこれは断った。

 ビワ、グミ、スイカに刺激されて、庭のプラムの木を見ると、あおい実が少しずつ黄色みを帯び、なかにはルビー色に熟したものもあった。

 赤い実は甘いかと思ったら、意外と水っぽい。それより黄赤色になりかかった実が食べごろといっていい。適度に硬くて甘酸っぱい。いかにもプラムらしい味わいだ。そろそろはしごを出して収穫してもよさそうだ。

 さて、グミはどういうわけか、プラムなどと違って店頭には並ばない。理由を深く考えたことはない。が、やはりというか、「シブアマ」のシブ=渋みが理由ではないだろうか。グミを食べて、あらためてそこに思いが及んだ。

2023年6月20日火曜日

ネギ坊主を回収

        
 暑すぎるのも困ったものだ。土いじりがはかどらない。ちょっとスコップを持ったり、草をむしったりしただけで汗がにじむ。

 日曜日(6月18日)は前日に引き続き、朝から快晴だった。前の週の日曜日は、夏井川渓谷の隠居へ行ったものの、雨でやることがない。小袋に入れた生ごみを、さらにごみ袋に詰めて物置に置いただけで帰宅した。

 いつまでも生ごみを「保管」しておくわけにはいかない。隠居へ着くとすぐ、木陰を選んで穴を掘り、新しい生ごみと一緒に埋めた。

すでに空気は熱を帯びている。木陰でも、体を動かせばシャツが濡れる。脱水症状の怖さが頭をよぎる。

 風呂場と居間の間に坪庭がある。少し欠けた大皿を置いて洗い場にしている。風呂場からホースを伸ばして水を出す。庭に小流れができる。そのホースからほとばしる水をたびたび飲んだ。のどがかわかなくとも意識して飲んだ。

 週末、一泊二日で隠居へ通い始めたころは40代後半だった。まだ体力には自信があった。やはり日曜日、暑い日に土いじりをしていたら、少し気分が悪くなった。家の中に入って休んでも、気持ち悪さは治まらない。翌日まで症状が尾を引いた。軽い熱中症だったのだろう。

 以来、土いじりは無理をしない、熱中症にならないために熱中しない――そう自分に言い聞かせている。

 70代の真ん中になりつつある今は、「年寄り半日仕事」と言い聞かせて、1日2~3時間を限度に土いじりを切り上げる。

 それでも、人間の都合で先延ばしにできないものがある。「ネギ仕事」に絞っていえば、種の収穫だ。

ネギの採種は、ネギ坊主の様子を見て決める。殻が割れて黒い種がのぞき始めたら、採りごろだ。前週の日曜日は雨だったが、ネギ坊主はまだ殻が割れてはいなかった。

ところが、1週間たってみると一斉に殻が開き、黒い種がのぞいていた。すでに首を垂れ、種がこぼれ落ちたネギ坊主もあった。急いでネギ坊主を摘んだ=写真。

ネギ苗もあらかた倒伏していた。苗床のネギは根が浅い。葉はどんどん伸びる。しかも、軟らかい。雨と風が続いて倒れたのだろう。

そのままにしておくと、葉がとろけかねない。とっくに定植してもいい大きさになっている。とりあえず太い苗をまとめて仮植えしておけば、曇りの日にでも隠居へ行って定植できる。そう判断して苗を掘り起こし、シダレザクラの樹下に移動して、ネギ苗の選別をした。

いずれにしても、この年齢になると無理はできない。この日の作業は仮植えにとどめ、未熟なネギ苗も、土に返すのと持ち帰って「小ネギ」として利用するのとに分けた。

小ネギはしばらく、味噌汁や冷ややっこ、卵焼きなどに利用する。味は薄いが、香りは強い。この香りを楽しむ。

2023年6月19日月曜日

もうコスモスの花が

                     
 わが家の小さな庭でも、「あれっ」と思うことがときどきおこる。5月から6月にかけて「季節外れ」のコスモスの花が1輪、そしてあとからまた1輪咲いた=写真上。今も咲き続けている。

 同じようなことが各地でおこっているらしい。いわき民報が6月7日付で“早咲きコスモス”を取り上げていた=写真下。

 記事で紹介されていたのは平下平窪の民家の庭だ。5月の終わりごろ、家の人がなにげなく庭を見たら咲いていた。それはわが家でも同じ。たまたま庭に出ると、花が咲いているのに気がついた。

 平の園芸ソムリエ・土づくりアドバイザーによると、こぼれ種から発芽したコスモスでは、ひんぱんにみられる現象らしい。

 コスモスは一般に、6月ごろ種をまき、7月に入ると苗が店頭に並ぶ――と記事にある。つまり、秋の開花に合わせるには今ごろから人間が手をかける、ということらしい。

 いわき語に「ふっつぇ」がある。「自然に生まれた」ことを意味する。こぼれ種から生えてきたのはすべて「ふっつえ」だ。シソがそう。ミツバも、辛み大根もこぼれ種で増える。コスモスもそうだったか。

 自分のブログを確かめると、7年前の9月にも「ふっつぇコスモス」について書いていた。「ふっつぇ」のほかに「やご」がある。それについても紹介している。

――「ふっつぇ」とは「どこからともなく種が飛んできて、知らぬ間に自然に生えること」(いわき市教委編『いわきの方言調査報告書』2003年)だという。

 夏井川渓谷の小集落に隠居がある。そこで小さな菜園を始めたら、ミツバが勝手に生えてきた。一度種をまいたシソは、それから毎年、勝手に生えてくる。土中に残ったジャガイモの小玉も、春になると芽を出す。それを「ふっつぇ」という、と住民に教えられた。

「やご」は、同じく『いわきの方言調査報告書』によれば、「植物の切り株から出る新芽・新しい枝」のことだ。

たとえば、春の白菜の菜の花。花芽が次々に現れる。それを食べたいばかりに、わざわざ白菜の種まきを遅らせる人がいる。この方言も、やはり溪谷の住民から教えられた。

 ついでながら、「やご」と聞くと、トンボのヤゴ(幼虫)を連想してしまう。関連はあるのかないのか。気になってしかたがない――。

 コスモスを検索すると、開花時期は6~11月と長い。ある所では、早いうちに種をまいたのか、花畑でコスモスが咲き始めていた。「ふっつぇ」だけではない。人為も含めた開花時期だった。

 早咲きコスモスの記事には、受粉環境によっては翌年、八重咲きになったり、色が変化したりする、ともあった。これはおもしろい。

 庭のドクダミは白い十字の「花」だが、このごろは八重咲きも見られる。今年(2023年)は5個あった。次は八重のコスモスを見たい。

2023年6月18日日曜日

ラクダの本

                                
 ラクダについては全く知らない。映画「アラビアのロレンス」でピーター・オトゥール(1932~2013年)が、ラクダを乗りこなすシーンを覚えているだけだ。

 それから、童謡「月の沙漠」の出だし。「月の沙漠を はるばると/旅のらくだが ゆきました」。メルヘン調のイメージが頭に浮かぶ。

 いわき総合図書館の新着図書コーナーに今村薫編『ラクダ、苛烈な自然で人と生きる――進化、生態、共生』(風響社、2023年)があった=写真。

 これはおもしろそうだ、未知の世界に触れられる――。それだけの理由ですぐ借りた。読みだすと、それこそ驚きの連続だった。

 「はじめに」に、こんなことが書いてある。「気候変動による地球の砂漠化が進むと、乾燥に強いラクダが最後の救世主になるかもしれない」

 ラクダの先祖の話も意外だった。約4500万年前、北アメリカ大陸で小さなウサギくらいの動物として誕生したという。

 その後、地球の寒冷化に伴い、この動物は二つの系統に分かれる。一つは、寒冷化に耐えるために大型化し、約800万年前にベーリング陸橋を渡ってユーラシア大陸へ進出した。もう一つは、寒さを避けて南下し、パナマ地峡を越えて南アメリカ大陸に移動した。

 前者は家畜種のフタコブラクダとヒトコブラクダに分かれ、後者はビクーニャと家畜種のアルパカ、グアナコと家畜種のラマになった。

 人類はアフリカ大陸で生まれ、北へ、東へと移動した。ラクダは、それとは逆の道筋をたどったわけだ。

 ラクダは「砂漠の船」と言われるそうだ。なかでも東西文明の長距離交易は、ラクダなしでは不可能だった。「シルクロード」に象徴される人とモノの交易を支えたのがラクダというわけだ。

 「シルクロードの始まりは、紀元前114年に漢王朝が中央アジアに進出したことに始まり、その後15世紀ごろまで続いたとされるが、この間ずっとこの交易路は、車輪を使った乗り物には適さない道だった。シルクロードはラクダが通ってできた道のネットワークである」

 そして、近・現代のラクダ利用は①肉②乳③被毛④糞⑤運搬⑥騎乗⑦軍用⑧娯楽――などだという。

 食肉としての利用は新旧大陸で共通している。アフリカ諸国で飼育ラクダ(特にヒトコブ)が増えているのはこのため。

糞は暖をとり、料理をするための熱源になる。「サハラ砂漠の隊商は、草一本生えない砂漠で燃料を確保するために、ラクダの糞を収集しながら移動した」そうだ。

近年のラクダは運搬・牽引の役目を終え、ラクダレースやラクダ相撲といった娯楽にも用いられる。ラクダ相撲は、基本的には首をテコにして相手を倒したラクダが勝ちになる。トルコで盛んだという。

とまあ、こんな感じでラクダの世界を駆け足でのぞいたが、やはり気候変動による地球の砂漠化と切り離しては考えられない。そこがラクダ考の始まりであり、終わりではないかと感じ入った。

2023年6月17日土曜日

おやっ、向こうへ移ったか

                      
 家の庭に出ると、台所の軒下にいるコガネグモをチェックする。毎日対面しているので、チェックというよりは「あいさつ」に近い気分になる。朝ならむろん、「おはよう」と胸の中で呼びかける。

 6月初旬に、手も足も投げ出してダラッとしていたときにはびっくりした。襲撃されて毒が回ったかと一瞬思ったが、脱皮した直後だった。それから1週間ちょっとたつと、急に大きくなった印象を受けた=写真。

それだけではない。今までと違うことが二つあった。一つは、クモの巣の中央にある「X」の隠れ帯。1カ所が消えていたり、小さかったりしていたのが、大きくはっきりした。

 もう一つは、今まで背中を見せていたのが、腹を見せるようになったことだ。つまり、クモの巣の向こう側に移ったのだ。

 脱皮を機に、子どもから大人に変わりつつあるということだろうか。小さいうちはクモの巣の外側(単に台所を基準にして庭の側)にいても、あまり目立たなかった。巣にかかる虫も小さかった。

 ところが、クモの巣そのものが複雑になってきた。最近は、「X」字が中心まで白く太く大きくなって、向こう側のクモの姿が見えなくなった。

 虫からすると、安心してそばの花に近づける。と思った瞬間、網に引っかかってクモに捕まる。

 「X」の効用がネットに出ていた。コガネグモの巣の網自体は紫外線をほとんど反射しない。ところが、白い帯の「X」は紫外線を反射する。

 昆虫は人間と違って紫外線を見ることができる。コガネグモの巣の「X」は、昆虫の目には「花」のように映るのだとか。クモが反対側に回って、白い帯を強調するのも偽花作戦の一環ということか。

 ところが、クモ自体も紫外線を反射することができるから、白い帯の真ん中にいて背中を見せてもいいはずだが、反対側に回った。これはどういうことだろう。鳥に捕食されるのを避けるためか?

 ただ、なんとなく気になることがある。その巣の中心が地上70センチほどでしかない。今までの経験からいうと、人間の顔から上あたりにクモがいたように記憶する。ま、とにかく毎日対面していれば、変化がわかるはずだ。

 その延長でふと思ったのだが、隠れ帯は「X」ではなく、「Y」でもいいのではないか。そんなことを「コガネちゃん」に尋ねても答えてはくれまいが。

クモの巣の網は放射状にのびる。単純に「Y」より「X」がつくりやすい、それだけかもしれない。それに、8本の足を2本ずつそろえて「X」に合わせると、外から見えなくなる。いずれにしても、台所のコガネグモはいちだんとたくましくなった、それだけはいえる。

2023年6月16日金曜日

暮らしはルーティン

                     
 義弟が隣に住む。食事はわが家でする。週に3回はデイサービスを利用している。義弟を含めると高齢の3人暮らしだ。

それぞれかかりつけ医がいて、薬を処方される。義弟が持病の影響か、少し体調を崩した。予約日ではないが、連絡すると診てくれることになった。

通院には私が車を出し、カミサンが付き添う。店は、私が戻るまで閉めておく。迎えに行くときには、また閉める。カミサンの通院のときも同じだ。

義弟は何日か検査入院をすることになった。義弟は7年前にも入院している。退院後はデイサービスの合間に通院を続けてきた。

病気を抱えながらも、それなりに家での暮らしを維持しているので、デイサービスのない日は、義弟に店番を頼むことがある。

それで、夫婦で買い物へ行くことも、街へ出かけることもできた。家族の一員としての役割分担が可能だった。一時入院となれば、この暮らしのルーティンが崩れる。

当たり前のようにデイサービスの車が迎えに来る。施設から米の注文を受ける。米を用意しておけば、その車に積んで持ち帰ってもらえる。

たまたま米の注文と義弟の入院が重なった。デイサービスの車は来ないので、早朝7時過ぎ、店を開ける前に施設へ米を届けた。

朝方に車を走らせるのは久しぶりだ。夏井川渓谷の隠居でキュウリを栽培したときには、日曜日だけでなく、週半ばの早朝にも摘みに行った。それ以来だ。雨上がりの朝はこんな具合だ。

――いつもの田んぼ道を行く。平窪から小川へ入るところで、水石山があらわれる。ふもとから天空へと霧がわいて雲になる。

雨上がりだから見られる現象だろう。「生まれたての朝」。現役であれば新聞の絵解きの見出しに使いたくなるようなことばが脳裏に浮かぶ。

7時前に隠居を離れて街へ戻ると、小学生が集団登校をしていた。「生まれたての朝」だからこそ見られる光景だ。やがて通勤の車が続々と幹線道路に集中する――。

今回は小雨だった。集団登校が始まる時間帯に出発し、それが終わって通勤ラッシュに変わるころ、家に戻った。田んぼ道も車が数珠つなぎになっていた=写真。

この早朝配達は、義弟の入院がもたらした変化の、ほんの一例だ。カミサンもまた、かかりつけ医院へ薬をもらいに行くのを、次の日に持ち越した。私も翌日、会議があるのをすっかり忘れていた。

核家族は「生存の危機」と隣り合わせだ――そんな意味のことを、はるか昔に識者が新聞に書いていた。

生存の危機は、若いころは観念にすぎなかった。年をとった今はもう現実にほかならない。今回はそこまでいかないが、少し波が立って生活がゆれた。

それぞれに役割がある。高齢のきょうだいだからこそ、「家庭内互助」が大切になる。早く暮らしのルーティンが戻るように――そんな思いがふくらんだ。

2023年6月15日木曜日

本からたどる草野心平

                     
 いわき総合図書館が6月12日から蔵書の特別整理期間に入った。同23日まで休館が続く。毎年恒例のこととはいえ、こんなときに限って読みたい本が出てくる。

 12日、借りる本をメモして行ってくるかという段になって、6月の整理期間を思い出す。図書館のホームページで確かめると、やはりそうだった。ちょうどその日から10日余りは、前に借りてきた本で我慢するしかない。

 草野心平の生誕120年を記念して、同図書館で企画展「本からたどる草野心平」が開かれている。ネクスト情報はましんも、広報誌で「草野心平と上小川」を特集した。

両方の資料=写真=から、あらためて心平の生い立ちやその後の足跡の一端をなぞることができる。

 「本からたどる草野心平」は、図書館所蔵の心平著作物を紹介している。単行本としては「貸出禁」もある。それが『草野心平全集』に入っていれば、全集の方を借りればいい。そのへんをホームページでチェックした。

 『運命の人』は中国人の汪精衛(兆銘)を主人公にした小説だ。1955年発行の原本は「貸出禁」だが、全集の第7巻には収録されている。

 ネットによると、汪精衛は孫文の側近で中国国民党員だった。国民政府内で蒋介石と対立し、日中戦争のさなか、重慶政府を離脱、1940年3月に親日政権の南京国民政府を樹立して首班となった。

日本を飛び出して、広東・嶺南大学(現・中山大学)に留学した青年時代はともかく、心平は1940年7月、南京にできた中華民国政府(汪精衛政権)の宣伝部顧問として中国に渡る。

以後、敗戦で帰国するまでの6年近い中国時代を、私はよく知らない。そこに踏み込んでみようと、総合図書館が特別整理期間に入る前、全集の第7巻を借りてきた。それを読み続けている。

 南京政府の下で宣伝部長を務めた、汪精衛の側近に林柏生がいる。林柏生は、心平とは嶺南大学の同窓生だった。いわば、親友である。南京政府ができるとほどなく、林柏生から心平に声がかかった。

 汪精衛は終戦の前年11月、日本の病院で亡くなり、林柏生は国民政府によって1946年、処刑される――。

心平は『運命の人』で汪精衛を主人公に、1939~40年の日中和平工作をめぐる歴史をつづった。

 それで汪精衛を理解したわけではないが、ささいな「発見」があった。小説に、上海の有力日字新聞・T新報の若い記者として「北見十蔵」が登場する。

心平は若いころ、「北山癌蔵」というペンネームを使っていた。北山癌蔵と似た名前から、北見十蔵は心平の分身かもしれない、などと思った。

 北見十蔵はこんなことを語っている。「僕は汪精衛には、正直のところうたれた。あの和平への熱情はほんものです」。これがやがて『運命の人』につながった、という解釈はどうだろう。時間はあるので、その視点でもう一度読み直してみるか。

2023年6月14日水曜日

忠魂碑慰霊祭

                      
 土曜日(6月10日)は早朝、神谷公民館で草刈り作業をした。コロナ禍の前は、利用サークルの人々も参加して、けっこうにぎやかだった。今回は館長と地区区長協議会(8人)のメンバーだけ。つまり、10人もいない。

それが終わると、区長たちは近くの平六小裏山=写真=にある「忠魂碑」と「殉国碑」、そしてふもとの立鉾鹿島神社の境内にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」の草刈りをし、併せて慰霊祭を行った。

 公民館はともかく、区長協議会が忠魂碑の草刈りと慰霊祭を行うようになったいきさつは、これはもう高齢社会と無縁ではない。

 遺族会が解散することになり、ほかに受け皿がないことから、コミュニティを束ねる区長協議会が肩代わりすることになった。

昭和26(1951)年に発行された神谷市郎著『神谷郷土史』によると、忠魂碑は大正9(1920)年10月、小学校の裏山公園に建立された。138柱の殉国の霊が眠り、毎年4月に慰霊祭を催す、とある。

一方で、同書にはこんな記述もある。「本村では、日清・日露・東亜戦争を合せると、149柱の犠牲者を出している。(但し本籍地含んでの数字)」

少なくとも、大正9年建立の忠魂碑には、アジア・太平洋戦争の犠牲者は含まれない。忠魂碑のそばに立つ殉国碑を含めての138柱ということになるのだろう。

小学校の裏山公園は東西にのびる丘の一角にある。周りは常緑・落葉樹が生い茂り、あまり日光が差し込まない。おかげで雑草は碑の前に少しあるだけだ。

短時間で草刈りが終わると、近くから調達した細い竹を忠魂・殉国碑の周りに立て、しめ縄を張り、紙垂(しで)をつるす。お神酒(ワンカップ)を上げて、二礼二拝一礼をする。これが慰霊祭の中身だ。ふだんは忘れている神谷地区の戦没者に思いをはせるひとときでもある。

戊辰戦争の記念碑は二つある。一つは、平六小の校庭にある「奉公碑」だ。『神谷郷土史』によると、大正6(1917)年に建立された。戊辰戦争で幕府軍と戦って斃れた人々の霊をまつる。つまり、自藩の慰霊碑だろう。

もう一つの追福碑は、昭和7(1932)年に建立された。やはり戊辰戦争の犠牲者をまつるが、こちらには「各藩」が入っている。

神谷村は笠間藩の分領だった。のちに今の平六小に陣屋が置かれた。本藩が新政府軍に加わったため、戊辰戦争では隣の磐城平藩をはじめ奥羽越列藩同盟を相手に、孤立無援の戦いを強いられた。

結果、周りは“負け組”、神谷は“勝ち組”に入った。「各藩」が入っているのは、勝ち負けなく弔おうという、一種の政治的判断からではなかったろうか。

 この清掃・慰霊祭ではやはり、自分が今住んでいる土地の歴史を、戦争を通して振り替えざるを得ない。

と同時に、裏山公園へは何段もの石段を登っていく。年々、たどりつくまでに時間がかかるようになった。区長自身が高齢化の先端を歩んでいる。その矛盾を考える日でもある。

2023年6月13日火曜日

アリの引っ越し

                      
 新聞で夏井川に合流する新川でカミツキガメが捕獲されたという記事を読み、あれこれ考えた日の午後、庭で一休みしていると、何か変なものが目に入った。

 わが家と隣家の間には車1台分の小道がある。その小道をアリの行列が斜めに横断していた。始まりはどうやら庭の電柱の根元あたりだ。

行列は隣家のコンクリート塀の根元に沿ってのび=写真、隣家の玄関前の駐車場あたりで見えなく(わからなく)なった。

 隣家は、ふだんは空き家になっている。住人が亡くなってしばらくたつと、車も処分されて、空きスペースになった。屋根が付いているので、直接、雨が地面にしみることはない。

そんな環境を見つけたわけではないだろうが、電柱の根元からはざっと10メートルは離れている。

 アリは、普通のアリよりかなり小さい。アミメアリという種類だろうか。アミメアリは巣を持たないそうだ。そして、ときどき移動する。

 電柱の根元には甕(陶器)のかけらが積み重ねてある。かけらをはがすと、アリたちがわんさといた。そこをすみかにしていたのだろう。引っ越しの理由はわからない。

 どうも6月になると、アリの引っ越しが見られるようだ。自分のブログを確かめると、震災の翌年(2012年)、やはり今ごろ、アリの行列を目撃している。そのときの文章を要約・再掲する。

――わが家の庭に「アリの行列」ができているのに気づいた。前日夕方には雨で車のタイヤがつくったくぼみに水たまりができた。さすがにそこには、アリはいなかった。

なぜアリたちはそんなことをするのか。理由をあれこれ考えたが当然、わからない。専門家ではない人間には、「わからない」ことがとても大事になる。いや、専門家も「わからない」から研究を進めるのだろう。

アリはどこから来て、どこへ行くのか。「行くアリ」と「来るアリ」とがぶつかり、すれ違いながらうごめいていた、一方向ではない、双方向だ。

台風の影響で雨がポツリ、ポツリときたころ、行列の先がどこにあるのかを探った。南(庭)―東(生け垣)―北(店の前の犬走り)―西(犬走り)。よくわからないが、わが家の周りを一周しているだけではないのか。つまり、「堂々巡り」をしているように思われた――。

写真を見ると、これもアミメアリらしい。すると、このときも庭のどこかから、新しいすみかを見つけ、そこへ移動する途中だったのではないだろうか。

 いずれにしろ、人間が甕のかけらをそこに置いたら、アリたちがすみかに利用した。人間のふるまいが生きものの営みに影響し、それがまた人間に影響を及ぼす。カミツキガメの場合は、その悪しき例だが。

2023年6月12日月曜日

梅雨に入ったか

                     
 日曜日(6月11日)の朝は弱い雨になった。前週の日曜日は地区の球技大会が開かれた。夏井川渓谷の隠居へ行くことはできなかった。7日サイクルの隠居行きを1回休むと、半月ぶりになる。「雨だから行くのをよすか」では、3週間ぶりだ。

ここはとにかく、雨でもなんでも隠居へ行って様子を見なくては――と、生ごみを積んで車を走らせた。

 隠居へは午前9時15分ごろに着いた。江田を過ぎたあたりで郡山からの2番列車とすれ違ったのでわかった。

渓谷へ向かうにつれて雨の量が増していた。これでは、土いじりはできない。生ごみも埋められない。ごみ袋に生ごみの入った小袋を詰めて、来週まで物置に保管することにした。前にもそうしたことがある。

ちょうどネギ苗の定植時期だ。いつもだと5月下旬~6月上旬に溝をつくって定植する。時期的には6月4日が最適だったが、球技大会があってできなかった。

秋の種まきは「10月10日ごろ」と、わりとはっきりした目安があるが、定植は苗が鉛筆くらいの太さになってから、という程度で、夏前に植えればいい、そんな感覚だ。

ただ、ネギの採種はそうはいかない。ネギ坊主が黒ずんできたので、隠居へ行くたびに表面を見る。殻が割れて黒い種がのぞくようになれば、すぐ回収する。切り取ったネギ坊主をさらに乾燥させてから、種を採る。

雨に濡れたネギ坊主は、まだ殻が割れてはいなかった。雨が上がり、太陽が出て乾燥すれば、間違いなく採りごろになるだろう。

キノコのなる木もチェックした。なにも発生していなかった。となると、もうやることはない。30分ほど滞在して街へ戻ると、北陸と東北地方が梅雨に入ったというニュースに接した。東北南部は平年より1日早い。ま、いつもの梅雨入りだろう。

このところ週末になると天気が崩れる。6月4日の日曜日はそれこそ例外的に「スポーツ日和」になった。11日はまた雨。前々から週末は梅雨のような天気が続いたので、「やっと梅雨に入ったか」という思いでもある。

そういえば、去年(2022年)は、東北南部の梅雨の期間は14日しかなかった。6月15日に梅雨に入り、同29日には明けた。6月の梅雨明けは観測史上初めてだった。

通りに面したわが家の角にアジサイが植わってある。車をバックしながら出すとき、右側から来る車がよく見えない。去年はそれで花が終わったあと、カミサンが剪定した。

するとそれが効いたのか、今年はいくつも花を付けた=写真。かえって通りの車が見えにくいほどだ。車の出入りにも差しさわりがある。

切り花にして茶の間にでも飾ってもらうしかないか――これもまた、わが家の梅雨の風景には違いない。