2022年7月31日日曜日

赤字鉄道

                     
   JR東日本が利用客の少ない地方路線の収支を初めて公表した。2019年度実績で一日当たりの平均乗客数が2000人未満の35路線・66区間を対象にした。全区間で赤字だという。

 マスメディアの報道では、知りたい情報が限られる。ここはJR東日本が発表し、ネットにもアップしているニュースリリースを読むのが一番だ。

 最も知りたいのは夏井川渓谷を走る、わが磐越東線(対象区間はいわき~小野新町)=写真=の収支状況だ。メディアの記事も参照しながら概略を見る。

 いわき~小野新町間は営業距離が40.1キロ。2019年度の収支は7億3700万円の赤字だった。一日当たりの乗客数は、1987年度は1038人とまだ千人台だったが、2019年度は273人と74%も減少している。

 100円の運輸収入を得るのにどれだけ費用がかかるかをみた「営業係数」は、メディアの記事では例示的に出てくるだけだ。磐東線についてはじかにニュースリリースに当たるしかない。

 それによると、いわき~小野新町間では、100円の収入を得るのに2351円の営業支出が必要になっている。年間赤字が7億円を大きく超えるわけだ。

日曜日は渓谷の隠居で土いじりをする。隠居のそばを県道小野四倉線と磐東線が並行して走る。列車は「時計」替わりでもある。

 土曜日に泊まっていたころは、いわき行き最終列車が晩酌の終了タイムになり、翌朝の同一番列車が目覚まし時計になった。

 そうそう、そのころは、カミサンがいわき発の一番列車でやって来た。江田駅まで迎えに行くのが日曜朝一番の仕事だった。

 磐東線は大正3(1914)年、最初に郡山―三春駅間が開業した。以後、郡山といわき側から少しずつ営業区間を伸ばし、いわき側は小川郷駅、郡山側は小野新町駅の間、夏井川渓谷の難工事を経て、大正6年10月10日に全線が開通した。

平成29(2017)年10月8日、臨時の「磐越東線全線開通100周年号」が郡山―いわき間を往復した。ディーゼル機関車2両に旧型客車4両の6両編成で、チョコレート色の客車は“乗り鉄”、沿線は“撮り鉄”でいっぱいだった。それが最近で最もにぎわったイベントだろう。

隠居のある小集落・牛小川でも、住民が自発的に集まり、列車が通過すると、日の丸やミニ鯉のぼりを振って歓迎した。

さて、7億3700万円の赤字をもっと細かく見てみる。磐東線のいわき~小野新町間は一日に上下各6本しかない。時間帯としては午前、午後、宵~夜各2本というところだ。

一日当たりに換算すると赤字は約202万円、一本当たりではざっと16万8000円。これからは、隠居のそばを2両編成の列車が通過するたびに、この数字が思い浮かぶことだろう。

2022年7月30日土曜日

これもアブ

                     
 「昭和の家」なので、夏は窓と戸を開け放しておく。まだ家が立て込んでいなかった40年ほど前は、海風が夏井川に沿ってわが家まで届いた。

 夏井川の堤防から国道6号をはさんで旧道までは、主に畑が続いていた。畑は今、ほんの少ししか見られない。

 涼風は途絶えたが、窓と戸を開け放つ習慣は変わらない。庭からいろんな虫が飛び込んでくるのも、いつもののことだ。

 このごろは、尾っぽの先端に白い毛束をつけた虫がちょくちょく現れる=写真。検索すると、シオヤアブの雄だった。

 アブは清流の生きもの、という先入観がある。こんな平地にもいるのか(シオヤアブの幼虫は土中暮らし)と、最初は驚いた。

 自分のブログで確かめたら、12年前の2010年8月2日付で、夏井川渓谷の隠居でシオヤアブの雌に出合っている。そのときの様子を整理して再掲する。

――8月1日早朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。1週間ぶりにキュウリを収穫し、三春ネギを間引いたあと、うねの草引きをした。たちまち玉の汗が出た。水を飲み、スポーツ飲料を飲んでは室内で休み、また菜園に戻って草引きをする。〈熱中するな、熱中するな〉と呪文を唱えながら。

そんな作業の合間、扇風機を「強」にして室内で涼んでいると、アブが何かをかかえて目前を横切り、障子に止まった。ニホンミツバチらしいものを押さえつけている。図鑑を見ると、吸血アブではない。体液を吸う肉食アブだ。ムシヒキアブと総称される仲間の一種らしい。

ニホンミツバチが飛んでいたところを急襲した。あごで背中をがっちり押さえつけ、すぐ近くの隠居の中に運び込んで羽を休めた。さあ、これからゆっくり食事をしてやるわい、といったところか。

ほぼ1時間半後、アブの有無を確かめたら、廊下をはさんで障子とは反対側のガラス窓にいた。ニホンミツバチをポイと捨ててすぐ外へ飛び去った。

ミツバチは1センチ強。5倍のルーペで細部をみると、背中に針に刺された跡らしいものがあった。腹部を太陽の方に向けると空洞になっていた。

ミツバチは、腹は空洞なのだろうか。そんなことはあるまい。アブが体液を吸い尽くしたために空洞になったのだろう。ものすごいハンターが渓谷にいたものだ――。

このときの写真を見ると、尾の先端には白い毛束がついていない。雌のシオヤアブだとわかる。

すっかり忘れていたが、アブには吸血アブのほかに肉食アブがいる。肉食性といっても、体をムシャムシャ食べつくすというものではない。口吻(こうふん)を差し込んで体液を吸う。それが平地のわが家にも現れた、というわけだ。

幼虫も肉食だという。草むしりをすると、土にまぎれてコガネムシの幼虫が転がり出ることがある。これが好物らしい。で、シオヤアブは益虫扱いされている。

その幼虫も、わが家の庭にいるということか。だとしたら、人間の想像を越えた命の営みがこの小さな庭でも行われている。庭はやっぱり、ワンダーランド。

2022年7月29日金曜日

『親衛隊士の日』

6月29日付の拙ブログであらまし次のようなことを書いた。――読書推進運動協議会が発行する「読書推進運動」6月号に、岩手大准教授の松下隆志さんが「今こそロシアの文学を」と題して書いた。

ロシアには「西欧に対する強い憧れと反発」がある。それは「『西欧派』と「『スラブ派』の対立」となって現れたが、「私たちはドストエフスキーやツルゲーネフらの古典を通してそうした対立を単なる知識を越えた生身の人間の葛藤として感じ取る」ことができる。

「生身の人間の葛藤」とは、ミクロの視点でロシアの人々の心に触れることだろう。ロシアの人間の内面を理解するにはロシアの文学を読むのが一番、ということだ。

その一例として、松下さんは現代作家ウラジーミル・ソローキンの近未来小説『親衛隊士の日』(河出書房新社、2013年=松下さん訳)を挙げる=写真。

2006年に書かれた作品で、「独裁者による恐怖政治、西側世界との断絶、天然資源による脅し、中国への経済的依存など、その予言的な内容にあらためて注目が集まって」いるという――。

図書館にリクエストしたら、後日、連絡がきた。さっそく借りて読み始める。2028年のロシアの物語だ。本文でそれを確かめたわけではない。本の帯と訳者あとがきに、そうある。

2028年のロシアは、階級制が設けられ、人々は貴族や平民に分類されている。16~17世紀に存在した「庁(プリカース)」=官庁や、帝政期の地方自治機関も復活した。要するに、絶対的な権力を持つ専制君主が支配する封建的な世界に逆戻りしたわけだ。

商店には国産の商品が並び、売られている本はロシアや君主をたたえる愛国的なものばかり。ヨーロッパからロシアを隔てる巨大な「大壁」もできた。

歴史上の「オプリーチニク」は、イワン雷帝が絶対的な支配地域に任命した直属の親衛隊士のことだが、ツァーリ(皇帝)がこれを導入した意図は国家や君主に敵対する貴族の根絶にある、のだとか。

小説では、オプリーチニクが行う容赦ない破壊と死、略奪と暴行、あるいはキテレツな彼らの日常などが描かれる。

そのなかに、たとえば「極東パイプラインは結局日本人から嘆願状が届くまで閉鎖される見通し」「中国人がクラスノヤルスクとノヴォシビルスクに移住を拡大」といったニュースが挿入される。

「おい、どうして陛下が第三パイプラインをお閉めになったか聞いたか? ヨーロッパのうんこ垂れどもがまた<シャトー・ラフィット>を宮殿に納入しなかったんだ。年に貨物半分の取り決めなのに、集められなかったんだとよ!」

シャトー・ラフィットとは、有名なボルドーワインのことらしい。天然ガスの見返りの一部が宮殿用のワインとは……。それも専制国家ならではの「取り決め」か。

 大帝が君臨する国家は、敵対者にも国民にも「有無をいわせない」姿勢で一貫している。ロシアがウクライナで行っている破壊の苛烈さとプロパガンダを思わずにはいられない。 

2022年7月28日木曜日

「闇の盾」とは

                              
 夏井川渓谷の隠居の庭にネジバナが咲いている=写真。時期的には終わりに近い。咲き始めたのは1カ月ほど前。写真を撮り忘れ、最後の1本を見て、記録としてパチリとやった。

 ネジバナ。花はねじれて咲くが、ピンクの色が鮮やかだ。そして、これはこじつけ。ねじれながらも、かろうじてまっすぐ立っている、そんな印象の本を読んだ。

寺尾文孝著『闇の盾』(講談社、2021年)。サブタイトルに「政界・警察・芸能界の守り神と呼ばれた男」とある。

著者は高卒後、警視庁の警察官を6年務めたあと、元警視総監で参議院議員の秦野章の私設秘書になる。その後、危機管理会社を設立し、「政治家、企業経営者、宗教団体、著名人などあらゆるところから持ち込まれる相談ごとやトラブルに対処」した。

違法行為や不正には手を染めたことはないという。しかし、危ない橋をわたったことは何度もあるという。それらすべてを墓場に持っていくつもりだったが、考えを変えた。二度にわたってがんの手術を受けたのが大きい。で、走り抜けた自分の60年間を語ることにした、という。

ヤクザの親分が出てくる。イトマン事件に象徴されるようなバブル紳士や検事が登場する。

京都新聞社の経営問題に触れているところがある。バブル紳士の一人、許永中が「京都新聞社とその子会社の近畿放送(KBS京都)をめぐる経営混乱にも介入した」。

その混乱の根っこが断ち切れていなかったのか、先日、京都新聞社の持ち株会社(京都新聞ホールディングス)が、オーナーの大株主に多額の報酬を違法に支払っていたとして、役員報酬の返還などを求めて地裁に提訴した。

もう一つ、これもバブル紳士がらみだ。イ・アイ・イグループを率いて、「環太平洋のリゾート王」と称された高橋治則という人間がいた。彼はバブル崩壊後の不正融資事件で上告中に亡くなった。

彼は電通の幹部だった兄を自慢していたそうだ。「高橋の実兄の治之は電通で出世を重ね、常務、専務を経て東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の理事となり、2020年12月にも菅義偉(すがよしひで)総理と会食するなど、存在感を示している」

その「兄」の会社が、大会スポンサーとなった紳士服大手企業から多額の資金提供を受けたとされる事件が明るみに出た。

東京地検特捜部はきのう(7月27日)、企業の前会長宅を贈賄容疑で捜索した。前日には、電通本社や元理事の会社兼自宅を捜索した。元理事への捜索は受託収賄容疑だった(朝日新聞)。

なんてことだ。『闇の盾』の中の話が、形を変えて今に直結していた。政界の、社会の闇の奥にはいったい何があるのか。

2022年7月27日水曜日

男の日傘

                     
  日曜日(7月24日)は、昼食が遅くなった。夏井川渓谷の隠居からの帰り、小川のコンビニでサンドイッチその他を買い、駐車場で食べた。

 そばの緑地は、1カ月前にはヤグルマギク=写真=が満開だった。「ヤグルマソウ」と呼ばれることもあるが、ユキノシタ科のヤグルマソウと混同されるため、現在ではヤグルマギクに統一されているそうだ。

ヤグルマギクはヨーロッパ原産の帰化植物で、夏に青紫色の鮮やかな花を咲かせる。小川の緑地も青紫色の点描が美しかった。

今は花期を過ぎて刈り払われたため、車にいても眺望がきく。小丘の緑の連なりの中にポツン、ポツンと茶色がかったところがある。少しまとまってあるのは、三島のハクチョウ飛来地東側の森らしい。7月も後半に入って、「ナラ枯れ」が目立つようになってきた。

駐車場には、日陰はない。東向きに止めれば、運転席に直射日光が差し込む。逆向きにすると、今度は助手席が熱くなる。

前にも書いたことだが、夏はおおよそ半そで・半ズボンで過ごす。車もそのまま運転する。右腕と右足が焼きごてを当てられたように熱くなる。

ナラ枯れを確かめながらモグモグやっていると、太ももが熱くて我慢がならなくなった。カミサンから薄手の長袖を借りて、フランス料理のナプキンよろしく太ももにかける。ようやく日光が遮断されて熱の痛みが消えた。

女性は、夏の日の外出には日傘をさす。アームカバーをする人もいる。男性も耐えられない暑さになったら、アームカバーをし、日傘をさせばいい――年を取った今はそんなことを考えるようになった。

暑さがピークになる午後2時ごろ、街に住む知り合いの男性が日傘をさして歩いているのを目撃したことがある。なるほど、人の目など気にせずに合理的な判断をしたのだろう。

別の日、義弟を街の医院へ送って行った。たまたま同じ曜日で、同じ時間帯に同じ場所を通った。日傘をさして歩いているかな――目で追ったが、姿はなかった。

その帰り、夏井川の堤防を利用すると、日傘をさした人間が歩いている。追い越しながら確かめると、若い男性だった。

男の日傘を肯定しながらも、私らには「男は日傘をささない」とか、「外聞が悪い」とかいったミエのようなものが残っているらしい。

しかし、若い人たちの間には暑ければ日傘をさして直射日光を遮る、そういう習慣が生まれつつあるのだろう。

男の日傘に、遠い記憶の底から立ち上がってきたものがある。フランスの作家、ミシェル・ビュトール(1926~2016年)が書いた「エジプト―土地の精霊―」だ。

イスラム世界の知識ゼロの17歳にとっては、エジプトはただただ乾いて暑い国、人々は、日中は横になってやりすごし、夜になって動き出す。そうした方がいいところまで、暑さがきつくなってきた? いや、ただ単に年を取っただけ?

2022年7月26日火曜日

久しぶりのかば焼き

                      
 もう何日も前の話だ。「土用の丑(うし)の日はうなぎのかば焼きにするからね」。その日、7月22日になって、夜、かば焼きが出た=写真。生協(パルシステム)から購入したという。

 師走にカミサンの実家(米屋)で、機械でもちをつく。ドラム缶を利用したまき釜でもち米を蒸(ふ)かす「釜番」をする。昼は米を注文してくれるうなぎ屋さんから「うな重」を取る。かば焼きはそのときに食べるくらいだった。

 自分のブログを読むと、7年前までは土用の丑の日にも食べている。理由があった。わが家は米屋の支店。米を注文してくれる近所の料理屋さん(今は廃業)から、丑の日に「うな重」を取っていた。

 近年はウナギが激減し、2014年には国際自然保護連合のレッドリスト最新版に「絶滅危惧種」として掲載された。乱獲が大きい。

値段的に庶民が食べられるものではなくなったため、「注文してくれなくてもいいよ」。料理屋さんからいわれたのは、東日本大震災が発生した年だったろうか。確かに、この年はかば焼きどころではなかった。

 パルシステムでは、鹿児島県鹿屋市の大隅地区養まん漁協と話し合いを重ね、漁協とともに「うなぎ資源回復協議会」を立ち上げた。

 パックに入ったかば焼きとともに届いたチラシによると、ウナギを大きく育て、食べて得たポイントを協議会の支援カンパに生かす、という取り組みだ。

 大隅に記憶があった。前に薩摩川内市の焼酎「田苑」を飲んでいたころ、景品に練り香水が付いてきた。メーカーは南大隅町にあるボタニカルファクトリーという会社だった。同じ鹿児島県のメーカーということで、コラボしたのだろう。

添付されていたカードによると、町は日本最大の照葉樹林帯にあって、約400種の植物が自生する。廃校になった小学校の一部を製造工場に利用して、地産化粧品などをつくっている。

練り香水は2種類、ハーブのレモングラスか、芳樟(ほうしょう=クスノキの亜変種)のどちらかだという。

レモングラスは南インドやスリランカなどに生息する。芳樟は台湾が原産地だ。つまりは、栽培種を利用してつくった練り香水ということになるのだろう。

使い方としては、適量を指先に取り、首筋や耳の裏、手首などに、なじませるように塗って香りを楽しむのだとか。

芳樟はクスノキと違って、主成分は香料になるリナロールだ。樟脳は虫を遠ざけるが、リナロールは人を近づける。

ウナギであれ、練り香であれ、大隅半島では地元の人間が頑張っている――かば焼きを食べながら大隅のことを思っていたら、桜島が24日夜、噴火した。

桜島は鹿児島湾に浮かぶ島だったが、大正3(1914)年の噴火で大隅半島と陸続きになったそうだ。ウナギも練り香水も桜島の東から南にかけて生産の拠点がある。火山灰の影響が少ないことを祈るばかりだ。

2022年7月25日月曜日

ミンミンゼミがやっと

                     
   今年(2022年)は、梅雨が短いうえに、東北南部では観測史上初めて、6月中に明けた。と思ったら、「戻り梅雨」のような天気になった。

時折、雨に見舞われた7月22日――。午前10時過ぎに、庭の柿の木の方からミンミンゼミの初鳴きが聞こえた。午後5時過ぎには、アブラゼミが初めて鳴いた。

二度目の“梅雨明け”というより、“ほんとうの梅雨”が明けたように晴れ上がった翌23日。ミンミンゼミが正午前と午後2時過ぎごろ、また庭で鳴いた。やっとセミが鳴く時節を迎えた。

庭の柿の木を中心にしたセミの初鳴日や、蝉時雨が激しいときなどにはメモをし、ブログにアップしてきた。その様子がわかる拙ブログ(去年8月31日付)の抜粋。

――チョウやアシナガバチのほかに、セミもときどき茶の間に現れる。ある夜は、ミンミンゼミ=写真=がやって来て、電灯のひもに止まった。ミンミンゼミは茶の間で一夜を明かした。

7月から8月に暦が替わるころには、起きる前にミンミンゼミが鳴き出すこともあった。が、このごろは人間(私)の方が早起きだ。

たまたま月遅れ盆の終わりから、わが家の庭で「ミンミンミンミーン」と鳴き出す時刻をメモしてきた。それによると、8月16日・4時49分、18日・同、22日・4時45分、23日・4時44分、26日・4時53分、29日・4時44分、30日・4時54分と、5時前16~6分の間に目覚めて鳴き出している。

8月前半はメモをしなかったので、昔の記録を参考にすると。2018年8月初旬。未明の4時過ぎには「ミンミンミンミーン」と鳴き出すのだが、4日は寝坊したのか5時2分だった。4時20分のヒヨドリに後れを取った。

2019年8月10日には早朝4時35分にミンミンゼミが鳴き出した。夕方にはアブラゼミのジリジリジリジリと二重奏になった。

ミンミンゼミが鳴き出すのは、日の出の「前」なのか、「後」なのか、それとも「同時」なのか――。

 それはともかく、今年はセミの目覚めが遅かった。「沈黙の夏」が続いた。なんで今年は出現が遅れたのだろう。それはセミに聞くしかないのだが、地面の環境がこの1年半で少し変わった。

一昨年の暮れ、後輩に頼んで庭木の剪定をした。それから2年目の夏は、どういうわけか下生えの草が地面を覆うほどに繁茂した。ミョウガの丈が初めて1メートルを超えるほどになった。

たまたまシソのこぼれ種が生えて軒先まで葉を広げた結果、茶の間への照り返しは減った。そんな環境の変化と関係しているかどうかは、むろんわからない。が、鳴き声が響くようになってホッとしている。

2022年7月24日日曜日

平潟のいかめし

           
 下の息子が、仕事に行った先からもらったといって、箱入りの平潟のいかめし=写真=を持って来た。いわきの南隣、北茨城市の平潟でいかめしがつくられていることを初めて知った。

 翌日の昼、いかめしが出た。袋ごと4~5分湯煎するか、袋から別の容器に移してラップをかけて1分ほどレンジで温める、とあったから、湯煎したのだろう。

 いかめしは北海道・函館――。函館へ行ったことはないが、テレビのグルメ番組の影響でそう思い込んでいた。

函館の製造かどうかは定かではないが、土産にもらうかなにかして、何度か食べたこともある。

 しかし、ウィキペディアにもあるように、イカの中に米を入れて炊き上げるいかめしは、北海道渡島(おしま)地方の郷土料理だから、北の料理という印象は間違ってはいない。

私は昭和39(1964)年、平(現福島)高専に入学した。最初はバレーボール部に入り、あとで陸上競技部に移った。同年、平で初めて東北地区体育大会が開かれた。

翌年は八戸で開かれた。陸上部員として参加した。八戸の飲み水とイカのうまさ、十和田湖への観光、なかでもバスガイドの名前「目時洋子」さんは、半世紀以上たった今も覚えている。

 イカと聞けば、北の八戸を思い、青森県の対岸の北海道渡島半島を思う。その北のいかめしがお隣の平潟で製造されていたとは。

 いわきはどうか。いわき地域学會がいわき市の委託を受けて、平成7(1995)年にまとめた『いわき市伝統郷土食調査報告書』がある。そこにはマイカを使った「烏賊(いか)の肝(ふ)いり」が載るだけだ。

レジュメとしては、①生イカを水でよく洗い、中の肝を取り出して、身と足などを食べやすく切る②切ったイカを少しゆでる③鍋を温め、肝を入れてよく溶かし、そこに味噌と砂糖を入れてよくかき回して炒める④そこにせん切りにした大根を入れてまぜあわせる⑤大根が食べられる程度に煮えたら、イカを入れてよくまぜあわせる――というものだ。

それに関連した「ひとくちメモ」が日本のイカ事情を教えてくれる。抜粋する。「日本人はイカ好きだが、いつごろから食べ始めたかは不明である。魚や貝のように貝塚や住居跡にその存在を示すものが残らないからである」

続いて現代の話に移り、「イカの産地といえば北海道や青森県である。なかでも八戸はイカの港である」と記す。10代でそれは体験済みだ。

いわき市内はといえば、「イカはマイカが中心である。刺し身・塩辛・ふいり・スルメと料理が多いのもマイカである」としながらも、いかめしの記述はない。

平潟では、ヒオキ食品というところが、地元に水揚げされた魚を使って、いかめしをはじめ、煮穴子・しめさば・さんま南蛮漬け・いわし生姜(しょうが)煮などをつくっている。

いわきのハマにも同じような加工食品はある。が、「ウニの貝焼き」は超高級品だし……。いかめしのような、ちょっとした土産品といったらなんだろう。サンマのみりん干しとポーポー焼きくらいしか思い浮かばない。

2022年7月23日土曜日

冬ネギ苗が直売所に

          
 日曜日(7月17日)に夏井川渓谷の隠居へ行った帰り、平窪のJAやさい館で買い物をした。入り口で「冬ネギ苗」を売っていた。

 やっぱり――。というのは、それより2週間前の土曜日(7月2日)早朝、隠居からの帰り、街で信号待ちをしたら、たまたま前の軽トラにネギが積んであって、段ボールに「冬ネギ苗1袋50本/¥500円」=写真=の紙が留めてあったからだ。

 土曜日の早朝、隠居へ出かけたのにはワケがある。朝6時前、隠居の隣人(50メートル以上離れている)から、家と道路の境に設けた柵が壊れている、車が突っ込んだようだ、という連絡が入った。すぐ様子を見に行って、とんぼ返りをした。

 隠居では、昔野菜の「三春ネギ」を栽培している。地元でつくられているネギの苗を譲り受けたのが始まりで、ネギ坊主から種を採っていのちをつないでいる。

ネギの“研究”のようなこともしている。それで偶然、軽トラのネギと文字を見て興味がわき、記録を兼ねてパチリとやったのだった。

三春ネギは名前からして、上流の田村郡から苗と種が入ってきたようだ。一方、いわきの平地では三春ネギとは違う品種が栽培されている。いろいろ話を聞いているうちに、種まきや植えつけ時期が違うこともわかった。

平地では、4月初旬種まき、7月前後植えつけ、冬に収穫が一般的なサイクルのようだ。「4月10日」種まきを守っている在来ネギの栽培農家もある。

三春ネギは、「10月10日」種まき、5月植えつけ、秋~冬に収穫――というサイクルで、田村地方では月遅れ盆のころ、曲がりネギにするために、溝を斜めに切って植え直す作業(やとい)をする。

 夏井川の下流域、なかでも平・神谷地区はネギの生産地として知られる。上流から運ばれてきた土砂が広い範囲に堆積している。砂漠生まれのネギには、川の下流の砂地は格好のゆりかごだ。

毎日堤防を散歩していたころは、植えつけや収穫、出荷準備の様子をよく目にしたものだ。

植えつけの時期になると、ネギ畑に人がいて、溝切り機を動かしている。足を止めて観察する。ん、前進ではない、後進だ。後進しながら溝を切り、土を両側にはねている。これが標準?なんて考えたものだ。

散歩をやめた今は、街へ行くと夏井川の堤防を利用して帰る。川と河川敷の自然の移り行きを見るのが目的だ。

が、堤防の内側=人間の住宅と接してある畑にはネギが多い。そのネギ畑の1年の移り行きも目に焼きつけて、自分のネギ栽培の参考にする。平地と山間地のネギの違いを理解する意味でも、平地のネギの観察は欠かせない。

平・塩地内のネギ畑は、今年(2022年)は6月末に植え付けがすんだ。そのあとに軽トラの販売用ネギ苗、やさい館のネギ苗を見た。

やさい館で売っているということは、家庭菜園用だろう。50本程度なら庭でも栽培できる。1本10円が、冬、店頭に並ぶころには50~100円になる。その分を「自産自消」するとなれば、家計にもやさしい。

2022年7月22日金曜日

芋虫がツノを出した

   台所の軒下にパセリのポット苗を定植したのは去年(2021年)の11月下旬。カミサンのアッシー君をしてハウス園芸直売所へ花を買いに行ったら、ハウスの外にパセリのポット苗があった。

薬味用に二つ買った。自宅の軒下のほか、夏井川渓谷の隠居の玄関前に植えた。あまり手をかけなくても増えるというので、私のような人間には向いている。軒下のパセリは、肥料を一度、あとはときどき水をやっただけだ。隠居のパセリは全く手をかけない。

カミサンがときどき、パセリを摘んで料理に使う。この夏は花茎を40センチほどのばし、先端に小さな花をいっぱいつけた。葉と花が目当てなのか、先日の朝、カミサンがパセリを摘んだら、幼虫がいたという。

パセリを食べる幼虫はチョウの仲間に違いない。カメラを手にパセリを見ると、いた。それも、2匹。キアゲハの幼虫だ。

撮影のジャマになる花茎をよけてカメラを近づけると、幼虫の頭部からニュルッとオレンジ色のツノが現れた=写真。なんだ、これは?

庭は、人間の暮らしのそばにある小さな自然、ワンダーランドだ。今までにも鳥や虫、花の写真を撮ってきた(鳥は茶の間から)。ところが、芋虫の頭部からツノが出るのを見たのは初めてだ。驚いた。

すぐネットで調べ、さらに図書館からチョウの専門書を借りてきて読んだ。アゲハチョウ科の幼虫には、「臭角(しゅうかく)」という、通常は内部にしまわれている防衛器官がある。

なにか身の危険が迫ったと感じたとき、このツノを内部から出して悪臭を発し、「敵」を遠ざけるのだという。つまりは、自分のそばまで接近してきた私の指に対して防御本能がはたらいたわけだ。

パセリは花のかたまりをいっぱいつけていた。それが2匹の芋虫がとりついてほとんど姿を消した。たぶん種子ができる前に食べつくされたから、あとは枯れるだけかもしれない。

それよりなにより、キアゲハの幼虫だ、ここまできたら天敵に捕食されることなく、ちゃんと蛹になって、羽化してくれないと困る。

これまでにも、台所の雨戸の溝で蛹になったチョウがいる。朝見ると、円を描くように震えているときがある。蛹はヒオドシチョウ。そばに3~4ミリの黒い虫が接近し、ブンブンやっていた。虫を振り払うためのプルプルらしかった。

ほかにも4匹が雨戸の溝で蛹になっていたが、ヒオドシチョウが羽化した形跡はなかった。

そうそう今は消えたが、ユズの幼樹の葉を食べ尽くした幼虫がいた。ナミアゲハだったろうが、どこで蛹になったか、までは追跡できなかった。

  虫といえば心配なのは、前にも書いたセミたちだ。わが家の庭では6月末にニイニイゼミがささやきはじめ、7月にはアブラゼミとミンミンゼミが歌い出す。これが今年は全く聞かれない。 (追記:きょう午前10時過ぎ、庭からミンミンゼミの初鳴きが聞こえた)

2022年7月21日木曜日

短距離選手の太もも

  陸上競技の世界選手権大会が米オレゴン州のユージーンで開かれている。学生時代、陸上部に所属していたので、テレビ中継は見ないまでも結果は気になる。

 男子100メートルには日本からサニブラウン・ハキーム選手ほか1人が出場した。サニブラウンは決勝まで残ったが、8人中7位に終わった。

 メディアは「世界大会では1932年のロサンゼルス五輪の吉岡隆徳以来90年ぶりのファイナリストになった」と報じた。

 ファイナリスト8人のゴールの写真が新聞に載っていた。米国の3人がゴール手前の数字を踏み、残る4人がほんの一歩(1~2メートルだろう)遅れてゴールするところだった。

 1位のフレッド・カーリー選手は9秒86,サニブラウンは10秒06。わかりやすく100メートルを10秒で走り抜けたとすると、1秒は10メートル、0.1秒は1メートル。つまり、トップと7位の差はゴールの瞬間、2メートルだった。たった2メートルだが、超一流がそろった国際大会では、この差は大きい。

日本陸上界としては歴史的な決勝進出に違いない。吉岡隆徳も歴史上の人物になった。ロス五輪では東洋人として初めて、100メートル決勝で6位入賞を果たした。別名、「暁の超特急」。

1964年の東京五輪では、教え子の飯島秀雄が男子100メートルに出場し、依田郁子が女子80メートルハードルで5位に入賞した。

高専1年生のとき、学校のテレビで東京五輪を見た。それで吉岡、飯島、依田の名前を知った。そのあと陸上部に入り、主に1600メートルリレーと走り幅跳びの練習をした。

短距離選手と長距離選手とでは、足の筋肉の付き方が違う。短距離選手は太ももが丸太のように大きく太くなる。サニブラウンがそうだし、東京五輪のときの飯島がそうだった。私も、10代の終わりには太ももが丸太のようになった。魚にたとえると、短距離選手は赤身のマグロ。

中3の孫が陸上部に入り、市大会を経て県大会に出場した。種目は400メートルリレーで、予選で敗退したものの、いい経験になったことだろう。

隔世遺伝というわけではないが、自分と同じように走る競技を選んだことで、何に喜び、何に苦しんでいるかが、なんとなく想像できる。

下の孫は短距離も長距離もこなす。上の孫はぜんそくの持病があったため、小学生時代はどちらかというと、弟に引け目を感じていた。それが急速に力をつけた。

先日、父親に連れられて孫がやって来た。上の孫の太ももは、私の2倍はある。現役とロートルの違いをまざまざと見せつけられた思いがした。

   間もなく、陸上の通信大会が福島市で開かれる。それが最後の大会になる。そういえば、入道雲=写真=がわく夏休み、高専の東北大会、そして全国大会へ行ったっけ――。はるか昔の話だが、それだっていつか人生の財産になっていたように思う。 

2022年7月20日水曜日

ササ枯れ

                       
    隠居のある夏井川渓谷の小集落、牛小川のKさんから7月10日の日曜日午後、電話がかかってきた。

 私は日曜日、隠居へ出かけ、庭の菜園で土いじりをする。地元の隣組にも入っている。隣組はわが隠居を含めて9軒。隣組がそのまま区内会を兼ねる。

 日曜日だけの半住民でも、何時ごろ来て何時ごろ帰ったかは、近所の住民はおおむね知っているようだ。

 で、帰宅時間をみはからって電話をよこしたのだろう。思いもよらないことを伝えていた。「保養センターから籠場の滝あたりまで、ササが枯れている。気づかなかったか」

 「保養センター」とは江田の先、椚平にあった「背戸峨廊(せどがろ)保養センター」のことだ。籠場の滝は渓谷随一の絶景ポイント。一帯は春、対岸がアカヤシオ(岩ツツジ)の花で彩られる。秋の紅葉期にも行楽客でごった返す。

 そのエリアの県道小野四倉線沿い、林床に生えているササが枯れて、「気持ちが悪いくらいだ」という。

Kさんは、拙ブログを転載したいわき民報の「夕刊発磐城蘭土紀行」を読んでいる。「ササ枯れが起きるのは120年に一度だっていうよ」。地元の住民も驚く自然現象だ、ニュースになる、つまりブログのネタになる、と判断したのだろう。

後日また、Kさんから電話があった。渓谷の北側、山を越えた「戸渡(とわだ)でもササ枯れが起きている」という。

次の日曜日(7月17日)は、ヤマユリの開花とササ枯れを確認するのが隠居行きの目的になった。ヤマユリについてはきのう(7月19日)書いた。

ササ枯れは、保養センターのわき、夏井川の堤に通じている林内の道がひどかった。丈の高さ2メートルほどのササが枯れて黄土色になっている=写真。県道沿いのササも黄色くなっていた。

『福島県植物誌』(1987年)によると、浜通りではミヤコザサやスズダケが普通にある。しかし、生態も形態もわからない。ネットで「ササ枯れ」を調べ、図書館から『タケ・ササ図鑑』を借りてにわか勉強をした。

ササは地下茎でつながっている。一斉枯死の前に花が咲く。枯れて初めて、何十年あるいは100年ぶりの開花に気づく、というケースが多いようだ。

ミヤコザサは丈が1メートル以下、スズダケは2メートル前後ある。枯れたのはスズダケらしい。

ネットには、森林生態学の先生が何年か前、古文書などから120年ぶりにスズダケの一斉開花・枯死を確認したという話が載っている。Kさんの話と一致する。

ならば120年前、つまり明治35(1902)年の夏井川渓谷はどんな状況だったのだろう。県道は開通していたが、磐越東線はまだだ。同じ上小川村で草野心平が産声を上げるのは、その1年後。古文書になにか記述はないものか……。

2022年7月19日火曜日

ヤマユリも刈られた

        
 夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線沿いに、ヤマユリが点々と生えている。自分のメモ(ブログ)を見ると、最も早く咲いたのは7月8日(2018年)で、直近の猛暑続きが開花を早めたようだ。

この四半世紀の“定線観測”では、おおむね7月12日前後に開花を確認している。同じ阿武隈高地でも標高の高い田村市の山里では、ヤマユリの開花がちょっと遅れる。夏休みの始まりとほぼ一緒だ。

青空と入道雲に雑木林の道端に咲くヤマユリの花と香りを重ねると、梅雨が明けて真夏がきた、というイメージが広がる。

子どもにとっては、ヤマユリは「夏休みを告げるうれしい花」だ。いや、大人にとっても最初の開花には、その芳香には心が躍る。

今年(2022年)は平年どおりだったろうか。7月10日の日曜日はまだ緑の蕾だったが、なかに白く大きくなって、今にも開花しそうなのがあった。間違いなく翌11日には咲いている――。

 当然、次の日曜日は、渓谷は「ヤマユリ街道」になっているだろう。それを楽しみに、7月17日の日曜日早朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。思った通り、ヤマユリは満開だった。が……。

 平地の平・鎌田では、切り通しのヤマユリが白い花を咲かせていた。「これは幸先がいいな」。小川・高崎の崖に生えているヤマユリも花を咲かせていた。「いよいよ楽しみだな」

 地獄坂(十石坂)を越えて渓谷に入ると、ロックシェッドの先、崖の中腹に、垂れるようにして白い花が咲いている。

 ということは、その先、江田から椚平を過ぎて牛小川に至るまで、道端には白い花が咲いて、「ヤマユリ街道」になっているはず――さらに期待が高まる。

 タイミングよく沿道の草刈りも行われた。7月10日の日曜日には、草が乱雑に生えていたから、この週末にでも作業が行われたのだろう。

 渓谷の県道では毎年この時期、草刈りが行われる。ヤマユリは切られることなく残される。作業員のゆかしい心を想像してこちらもふんわりした気持ちになる。

しかし、今年は違っていた。ヤマユリもただの雑草に見えたらしい。ヤマユリ街道には白い花の姿がなかった。

いや、あるにはあるのだが、刈られた草にまぎれていたり、倒れたりしながら咲いている。隠居からの帰り、何回も車を止めながら、刈られたヤマユリを回収した。その1本がこれ=写真。ヤマユリを残すゆかしい心はどこへ行ってしまったんだろう。

回収したヤマユリは、供養の意味も込めて家の中に飾り、今年初めての芳香を楽しんだ。

 7月中旬にはヤマユリが咲く――それが刈られて消えたとなれば、夏井川渓谷の夏の魅力も失われたと同じではないか。

2022年7月18日月曜日

オリーブ油煮

        
 糠漬け、たたき、サラダ、塩漬け、油いため、みそ汁……。キュウリを買ったり、もらったりすると、とにかく早く調理する。キュウリは水分がいのち。大根と違って、水分が飛んだらキュウリは食べ物でなくなる、ということを、たびたび書いている。

 先日、お福分けのインゲンを使った「トルコ料理」が出てきた。「インゲンのオリーブ油煮」だという=写真。

 キュウリに限らない。インゲン、ネギ、ナス、ジャガイモ……。いろんなものがお福分けとして届く。カミサンもさすがに「和の料理」だけでは限界を感じていたのだろう。

 移動図書館から、荻野恭子著『世界三大料理の魅惑のレシピ 改訂版家庭で作れるトルコ料理』(河出書房新社、2020年)を借りた。そこにインゲンのオリーブ油煮があった。

トルコ料理がフランス料理と中国料理とともに、世界三大料理の一つだとは知らなかった。

 それはともかく、インゲンのオリーブ油煮とは――。「野菜をオリーブ油で蒸し煮にする、トルコならではの調理法。野菜だけではコクが出ないため、砂糖を少量加えて煮るのが特徴です。オスマントルコ時代から受け継がれている料理だとされますが、野菜のすばらしい煮方です」

 材料は、インゲン、トマト、玉ネギ、砂糖、塩、粉とうがらし、水、オリーブ油。作り方は①インゲンの筋を取り、トマトとタマネギを粗みじんにする②鍋にオリーブ油を熱し、玉ネギとトマトをいためる③インゲンその他を加え、蓋をして約20分蒸し煮する、というものだ。

 カミサンはこれに、ニンニクと醤油を加えて、「和風」にアレンジした。ピリ辛で、コクがある。辛味も包み込むオリーブ油がポイントらしい。

 キュウリのトルコ料理はと、本をパラパラやると、「羊飼いのサラダ」があった。トマトとキュウリ、ピーマン、玉ネギを「さいの目」に切り、ドレッシング(レモン汁、塩、こしょう、オリーブ油)を加えてよく和(あ)える、というものだが、やはりこれもオリーブ油が決め手らしい。

カミサンが店(米屋)の一角でフェアトレード商品を扱っている。その一つがパレスチナのオリーブ油、オリーブ石鹸、ザアタル(ハーブミックス=香辛料)だ。合同会社「パレスチナ・オリーブ」(皆川万葉代表)から取り寄せる。

代表の皆川さんは仙台に住む。その皆川さんが土曜日(7月16日)、来訪した。これは、その皆川さんがロシアのウクライナ侵攻前にしていた話。

「コロナ禍の影響で、コンテナ不足、アジアの港の混雑、海上運賃の高騰が起きていると言われている一方で、日本の経済力の低下や円安も影響しているようです。つまり、コンテナの『取り負け』や、コンテナ船が日本の港へ寄らないということが起きているそうです」。今はさらに円安と物価高が進んで、いちだんと厳しい状況になっているという。

2022年7月17日日曜日

海水浴場の今・昔

いわき市の海水浴場がきのう(7月16日)、3年ぶりにオープンした。海開きをしたのは、南から勿来、薄磯、四倉、久之浜・波立の4海水浴場だ。

合磯(かっつぉ)は防潮堤の設置と震災による地盤沈下などで砂浜の面積が大幅に減少し、平成30(2018)年に廃止された。

小浜、永崎、豊間、新舞子ビーチも、地元の実行委員会の体制が整えられないことから、今年(2022年)、廃止された。

俗に「いわき七浜」という。浜が「七つ」あるというより、「たくさん」あるという意味で「七」が使われる。いわきにはピーク時、いわきサンマリーナを含めて10の海水浴場があった。それが、東日本大震災、その後の新型コロナウイルス感染問題の影響を受けて、4カ所にまで縮小した。

折から、いわき総合図書館で今年度前期の常設展「いわき七浜の海水浴場」が開かれている=写真(パンフレット)。

海へ行く機会が減った今、いわきの海水浴場で経験した少年時代の記憶が、寄せては引く波のように現れる。

これは前にも書いたことだ。私が小学生になるかならないころ、つまりざっと65年前、昭和30(1955)年前後の小名浜はまだ松林があって、砂浜が湾曲しながら広がっていた。

 叔父が日本水素(現日本化成)に勤めていた。市街地の西郊、藤原川に近い弁別に社宅があった。小学校入学前から低学年生のころまで、阿武隈の山里から祖母に連れられてよく泊まりに行った。

従妹に連れられて、社宅の前の海で生まれて初めて海水浴をした。寄せては返す波にめまいを感じて砂浜にしゃがみこんだ。従妹たちは「キャッ、キャッ」といいながら、波と戯れていた。

そのあとの海の記憶は永崎海水浴場だ。高専の何年生だったか、夏休みに実習があった。弁別の叔父の社宅から、小名浜に住む同級生と2人で江名のT製作所に通い、漁船の焼玉エンジンか何かを製図した。

常設展のパンフレットによれば、昭和35(1960)年ごろ、小名浜海水浴場が廃止されたのに伴い、旧磐城市観光協会が永崎海水浴場を積極的にPRした。

実習の帰りに永崎へ寄ったのは、それから数年後だったか。弁別と違って、砂浜が見えないくらい人でごった返していた。

いわき市の「いわきの今むがし」によると、福島県内の中通りから臨時列車「くろしお号」が乗り換えなしで臨海鉄道の永崎駅まで海水浴客を運んだ。

最盛期の昭和38(1963)年夏には、泉―江名で一日に22本のダイヤが組まれたという。ごった返していたわけだ。

 いわきの海水浴場は、東日本大震災の年に一時閉鎖された。勿来は翌年、四倉は翌々年、薄磯は6年後、そして令和元(2019)年、9年ぶりに久之浜・波立海水浴場が再開された。それからまた、コロナ問題が起きる。

   3・11以来、海の背後地は激変した。海へ行くたびに記憶との摩擦がおきる。そんなとまどいを抱えている人間も少なくないだろう。 

2022年7月16日土曜日

イタリアからのメール

                      
   カミサンの高校の同級生がイタリアのベローナに住んでいる。同国で拙ブログを読んでいる唯一の日本人だ。

先日、同国の若手作家パオロ・コニェッテイ(1978年~)に刺激されて、彼が私淑している同じイタリアの作家マリーオ・リゴーニ・ステルン(1921~2008年)の作品を読んだ話を書いた。それへの感想と、先日の氷河崩落事故のその後を伝えるメールが彼女から届いた。

その前に、おさらい。コニェッテイは、1年の半分をイタリア西部のアルプス山麓で、残り半分を生まれ故郷のミラノで過ごしながら執筆活動に専念している。

リゴーニ・ステルンはイタリア東部のアルプス山麓、アジアーゴで畑を耕し、蜂を飼い、森の恵みを取り入れながら、戦争や狩猟、野生動物などをテーマに作品を書いた。

私は「ネイチャーライティング」という、ある意味では新しいジャンルの文学に興味がある。研究者によると、ネイチャーライティングとは「自然環境と人間の対話、交流、共生を目指すことを主要なモチーフとする小説、詩、ノンフィクション、エッセイなど」のことだ。

米国で、1970年前後に確立したジャンルとかで、「地球規模で進行する自然破壊という現実を前に、ネイチャーライティングは全世界的な注目を集める」ようになったそうだ。

源流はヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン 森の生活』で、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』も、石牟礼道子の『苦海浄土』もネイチャーライティングとして読むことができる、と私は思っている。

コニェッテイを読み、次いでリゴーニ・ステルンを読むことで、アメリカとはまた違ったイタリアのネイチャーライティングを知った。

それは、なんといっても物語の舞台が標高1000メートル(リゴーニ・ステルン)、あるいは1900メートル(コニェッテイ)のアルプス山麓ということだ。

知人のメールによると、イタリアも猛暑続きらしい。「今年は雪も降らず、雨も降らずで、野菜の栽培をいつもの半分に減らしました。水不足は深刻な問題になるでしょう」

そして、マルモラーダ山(標高3343メートル)の氷河崩落事故が起きる。この事故では最初、死者が7人だったが、7月9日現在で11人になった。行方不明の人間もいる。

崩落に巻きこまれた人たちは全員、完璧な登山経験者だったそうだ。彼女の友人の息子もよくこの地域の山に登っており、今回の事故で親友を失ったという。

アルプスを知るために、図書館から本を借りて来た=写真。それで知ったのだが、アルプスは西のフランス・スイスから東のオーストリアまで長く横に伸びている。

イタリアだけでも、イタリアアルプス西部、同中央部、同東部と分けられる。メールには「2100年までにアルプス氷河は消滅すると言われています」とあった。今回の事故は少しずつ溶けていくどころか、一気に崩れたために、国民に大きなショックを与えたという。

2022年7月15日金曜日

ケストナーの『終戦日記』

 ウクライナでの戦争が頭から離れない。それもあって、図書館から借りて読んだ。ドイツの児童文学作家エーリヒ・ケストナー/酒寄進一訳『終戦日記一九四五』(岩波文庫、2022年)=写真。

 第二次世界大戦末期の1945年2月から、ドイツの無条件降伏(同年5月)、連合軍による占領へと続く8月までの、主に疎開生活がつづられる。

 ケストナー(1899~1974年)は1933年、ナチが政権を掌握すると作家活動を禁止され、著書は焚書にされた。多くの友人・知人が亡命するなかで、あえてドイツにとどまった――という解説を読んで、日本のジャーナリスト・外交評論家清沢洌(きよし=1890~1945年)を思い出した。

 清沢は太平洋戦争開戦から1年後、「戦争日記」を書き始める。日記は同20年5月、清沢の死とともに終わり、戦後の同29年、東洋経済新報社から『暗黒日記』として刊行された。

ケストナーと共通するところがある。清沢は自由主義の立場で評論活動を展開したため、太平洋戦争が始まる前の昭和16(1941)年2月、総合雑誌への執筆を禁止された。

 文章を発表する場所も機会も奪われた作家、評論家にとっては、日記だけが自己表現の場だった。

『終戦日記』の前半には新聞の切り抜きやラジオ放送の記録が目立つという。『暗黒日記』も同じで、新聞の切り抜きなどが多く含まれている。

『終戦日記』では、終戦から15年後、日記の公刊が決まって書かれた「まえがき」に作家の考えがよく出ていた。

 終戦の年の「半年間の混乱の中で、わたしはベルリンからチロルを経由してバイエルン州に居を移した。国は破壊されたアリ塚同然で、わたしは右往左往する数百万のアリの一匹だった。わたしは日記をつけるアリとなった。見聞きしたことをその都度メモした」

そのメモは「すべてわたしが自分で体験したことだ。考えるアリの視点から観察したものだ」というくだりに、強く同感した。新聞記者も似たところがある。現役のころ、自分に言い聞かせていたのは「新聞記者は考える足であれ」だった

戦争に翻弄されながらも、「考えるアリ」の目で軍部の動きや庶民の姿が記録される。「大年代記では個人など探しようがない」。が、日記からは裸眼でも個人が見えてくる。親衛隊を含めた人間の節操のなさや弱さも書き留めている。

「良心はまわれ右が可能だ。進んで悪人になりたい者などいるだろうか。いつだってそうだ。なにをめざしていても、支配される側は支配する側のモラルと魂の平和条約を結ぶ。たとえそのモラルがどんなに不道徳なものであっても」

 ロシアがウクライナを侵攻してすでに5カ月近くたつ。戦争の悲惨さ・愚劣さは今も変わらない。『終戦日記』や『暗黒日記』にウクライナの被災者・避難民の姿が重なる。 

2022年7月14日木曜日

キュウリのお福分け

        
 このところ、キュウリのお福分けが続く。インゲンやナス、ジャガイモも届く。キュウリが大好きな人間としてはありがたい。

 キュウリは、しおれるのが早い。時間がたてばたつほど、水分が飛んで張りとツヤが失われる。すると、内部もみずみずしさが消えて綿のように白くなる。

ここまで放置していたら、浅漬けにしてもおいしくない。ましてや、サラダにもならない。要は、食べ物ではなくなるということだ。

 まずは糠漬けにする。今の時期なら朝、糠床に入れると晩には食べられる。朝に食べようと思ったら、前の晩に入れる。

水分がたっぷりのもぎ立ては、漬かってもあおあおとしている。シャキッとしていてやわらかい。夏の暑さにぴったりの一品だ。

このごろは一度に4~5本漬ける。それを冷蔵庫に置いて1本ずつ取り出して食べる。朝は朝で食べきるならいいが、食が細くなった年寄りにはどうしても余ってしまう。なかなか減らない、となれば、何日かはただただ糠床をかき回すだけになる。

毎日糠床をかき回してはキュウリを入れて漬ける、これがほんとうの活用法だが、核家族ではどうしても食べる量が限られる。

お福分けが重なると、糠漬けだけでは食べきれなくなる。カミサンはキュウリのたたきをつくる。すりこぎでキュウリをたたき、適当な大きさにちぎる。これに、おろしたショウガと刻んだニンニク、醤油、ごま油、酢を加えて一晩冷やしたものを食べる。ニンニクが効いていて、糠漬けとはまた違った味を楽しめる。

 晩酌のつまみには、生のキュウリもいい。適当な長さに刻んでスティック状にし、味噌をつけて食べる。

 先日は、スティック状にしたものを、味噌を加えて炒めてもらった。私の注文で、アスパラガスに似た柔らかさがおもしろかった。キュウリの青臭さがほんのり残っていた。これはスティックをさらに薄くすれば消えるかもしれない。

 別の日は、乱切りにしたのを、塩をまぶしてプラスティック容器に入れ、一夜漬けにした。こちらは塩だけなのでみずみずしさを味わえるが、「かけらが大きすぎる」とカミサンからは不評だった。

 ある晩、というよりは最近のいつもの食卓だが――。おかずにはキュウリとワカメの酢の物、キュウリの味噌油いため、糠漬け、ナスの煮びたし=写真=と、ほぼキュウリ尽くしだった。

 きのう(7月13日)もキュウリの料理が何皿も出た。「まるでカッパだね」「あはは、カッパか」「あんたはとっくにカッパ、頭が」。だから、キュウリが好きなのかと納得した。

まだ試していないのはキュウリもみと、キュウリのみそ汁。あとは……キュウリとナスの浅漬けか。古漬けは、今年(2022年)はつくらない。去年のがまだある。

2022年7月13日水曜日

個人事業を引き継いだのは

        
 夏井川渓谷の隠居では、プロパンガスでご飯を炊く。湯わかし器も、風呂の給湯器もガスが燃料だ。渓谷の上流、川前町の個人商店と契約している。ボンベが2本あって、1本が空になると交換する。

 6月のある日曜日、ガスコンロ=写真=で湯をわかそうとしたら、ガスが出ない。連絡したら、店主が奥さんを伴ってボンベの交換に来た(ほんとうの原因は台所のガス栓=ヒューズコックが自動的にガスを遮断したためらしい)。

 そのとき、店主は「もう80歳になる。個人でガスを扱っているところはない。後継者がいるならともかく、息子はよその土地で暮らしている。企業なら後継者がどうのこうのという心配はない。郡山市に本社のあるガス会社に事業を引き継いでもらうことにした。ついては近々、メーターの交換をする」というので了承した。

 メーター交換の日、企業の担当者が来るまで店主とあれこれ話した。高校生のとき、父親が雑貨店とは別に、ガス事業を始めた。以来、2代にわたって62年間営業を続けてきた。

 店主はさらに、周りの山を見渡して「ここらはマツタケが採れる」というので、「いや、もうダメじゃないのかな。松枯れがひどくて」と言いながら、マツタケが採れなくなったのはプロパンガスのせい――というチコちゃんの話を思い出した。

正確には「マツタケが高いのは、プロパンガスが普及したから」だ。令和元(2019年)11月に放送された「チコちゃんに叱られる!」の内容をかいつまんで説明した。

そのときのブログの抜粋――。高度経済成長時代に入る前、家庭の燃料は主に木炭・薪(まき)だった。松山では焚(た)きつけにするため、絶えず「落ち葉かき」が行われた。エネルギー革命で燃料が石炭から石油に代わると、プロパンガスが普及し、落ち葉かきの必要がなくなった。

その結果、落ち葉や枯れ枝が堆積して松山が富栄養化し、ほかのキノコやカビが生えて、松の根と共生する菌根菌のマツタケがすみかを奪われ、数が減って値段が高騰した。

私の生まれ育った阿武隈の山里でも、私が小学生のころまでは近所の人たちが近くの里山から焚きつけ用に杉の葉や枝をかき集めてきた。焚き木拾いを手伝ったこともある。それがプロパンガスに替わるのは高度経済成長期(ざっと60年前)だ。

 高度経済成長期を境にして、家の暮らしが一変した。カマドから蒸しがま、ガス・電気釜に替わり、たらいと洗濯板が電気洗濯機に替わった。

 はからずも山里のプロパンガス事業を介して、チコちゃんのいう「マツタケが高いのは、そして少なくなったのは、プロパンガスが普及したため」を店主ともども納得したのだった。

 それよりなにより、高齢社会の問題がこうして暮らしの現場に立ち現れるようになったことを痛感しないではいられなかった。

2022年7月12日火曜日

「かもめ」が届く

日本野鳥の会いわき支部の元事務局長峠順治さんから、支部報「かもめ」第155号(7月1日発行)=写真=の恵贈にあずかった。全8ページのうち、3ページを事務局長・支部長を務めた故小野金次郎さんの追悼に充てている。

支部の前身、「平野鳥の会」発足から50年の記念誌が作成された際、峠さんが図書館で調べたいわき民報の記事掲載年月日一覧コピー(昭和40年~平成4年)も添えられていた。

峠さんのメモに「いわき支部が独立する以前は広報誌を発行していませんで、各種行事の市民への広報活動に小野さんは苦労されたと思います。その点、いわき民報様には大変お世話になったと思います」とあった。

小野さんは平野鳥の会発足時の事務局長だった。つまり、いわき支部50年の歴史は、そのまま小野さんの支部歴と重なる。

今回初めて、小野さんが野鳥の会とかかわるきっかけを知って、偶然か必然かは紙一重、そんな思いがわいた。

 平野鳥の会の初代会長は藤井民二さん。藤井さんは当時、平三小PTA会長だった。時の校長は高杉清寿さん。小野さんが同小に転勤すると、高杉校長から「平野鳥の会」の事務局業務も命じられたという(峠さん)。

 PTA会長と校長と、どちらがリードしたかはわからない。が、2人が会長と副会長では、小野さんも協力せざるを得なかったのだろう。

平野鳥の会が発足するのは昭和41(1966)年。同年秋、14市町村合併で「いわき市」が誕生すると、「いわき野鳥の会」に改称される。

その後は、「県野鳥の会いわき支部」から「日本野鳥の会県支部いわき方部会」となり、平成5(1993)年、県支部から独立して現在の日本野鳥の会いわき支部に変わった。支部報「かもめ」が発行されるのはこのとき。

私がいわき民報社に入社したのは平野鳥の会発足から5年後の昭和46(1971)年で、藤井会長(支部長)がよく職場に顔を出した。小野さんともやがて顔見知りになった。

 私は取材だけでなく、個人的な興味もあって、昭和60(1985)年ごろから石森山や閼伽井嶽の探鳥会、あるいはツバメのねぐら観察会に参加したりした。コラムにも野鳥がらみの話を書くようになった。

川俣浩文前支部長や峠さんからはたびたび詳しい話を聴いた。現役を退いてからも、たまに支部報「かもめ」が届き、新たな知見を得ることができた。

近年では、コブハクチョウが南部の鮫川河口で繁殖・定着していることが確認された。それを「かもめ」で知った。

川俣さんからは、支部創立50周年を記念して発行した『いわき鳥類目録2015』の恵贈にあずかった。これは今も、いわきの野鳥について考えるテキストになっている。

  野鳥は翼をもった隣人――。それと同じで、日本野鳥の会いわき支部ともいい隣人関係でありたい、と常々思っている。