2022年4月30日土曜日

家庭内事故

在宅ワークに疲れたら、庭に出て花を眺める。今はエビネが咲いている=写真。チラッと目をやるだけでも心が洗われる。

もう20年以上も前のことだ。ホームセンターからポットに入ったエビネを買ってきて、花が終わったあとに庭に植えた。

ほっといても毎年増えていくだろうともくろんでのことだが、問屋はそんなに簡単には卸してくれなかった。

記録を見ると、13年前(2009年)には5株になり、そのあとはしばらく足踏み状態だったのが、一昨年あたりから増えてきて、今年(2022年)は11株になっていた。

 というわけで、植物の生命力にはいつも感心するのだが……。人間はどうもそういうわけにはいかないらしい。

ある人が家の中で奇妙な行動をとるようになったと聞いて、前に読んだ本を思い出した。医師で作家の久坂部羊さんが書いた小説『老乱』(朝日新聞出版)。認知症を発症して亡くなる老父と息子夫婦を軸に、医師、孫、看護師たちとのやりとりが描かれる。

 この小説の言わんとしているところは、認知症者を思いやる心、だろうか。ある家では息子の嫁さんがかいがいしく世話をしている。

「自分たちが若いころ、おじいちゃんにはずいぶん親切にしてもらったんです。いろんな面で助けられたし、支えになってもらいました。だから、今はその恩返しなんです」

そんな気持ちでやさしく接してくれるので、認知症者も「今の状態を壊さないようにしたいという本能が働く。お嫁さんを困らせる行動も自ずと減る(略)。認知症ですから、ゼロにはなりませんが、無意識にブレーキがかかる。だから、良好な関係になるのです」

認知症の話はともかく、体がいうことを聞かなくなった。先日は、茶の間から台所へ行くのに、間仕切りの柱に左足の小指を強打して出血した。爪も少しはがれた。

  理由ははっきりしている。老化で弱くなった足腰が、コロナ禍の巣ごもりでさらに弱くなった。家の中にあるモノたちが思いもしない障害物に変わる。

去年(2021年)はそれで「家の中での転倒事故を防ぐこと」を年頭に誓った。階段で足をぶつけ、座布団のへりを踏みはずしてグラッとなったのがきっかけだ。

玄関のたたきから畳までは、段差が約33センチある。これも上がり降りがこたえるようになった。ここにブロックを並べ、マットを敷いて踏み台にしたら、ずいぶん楽になった。

足の衰えを感じるときに、いつもこんな比喩が頭をよぎる。肉体は赤ん坊としてこの世に現れ、絶頂期を過ぎると衰えて老人になる。最後はまた赤ん坊に戻って自然に還(かえ)る。

   やはり、少しは散歩をしないと、ということなのだろう。コロナ禍をいいことに、一日中、座卓に張りついている。疲れたと思ったら、座椅子を倒して横になる。そのまま昼寝をすることもある。「在宅ワーク」といえば聞こえはいいが、実態は「在宅入院」のようなものだ。 

2022年4月29日金曜日

山菜尽くし

                      
    この時期は週初めに「春の土の味」が食卓に並ぶ――そうブログに書いたのが4月21日だった。

フキノトウはてんぷらのほかに、みじんにして味噌汁に。セリはてんぷらとおひたし、ヨモギはカミサンの友達がペースト状にしてホットケーキをつくった。いずれも夏井川渓谷にある隠居の庭で採れたものだ。

 サクラの花が散って木の芽が吹くと、いわきのあちらこちらで山菜が採れるようになる。すると、「お福分け」が相次ぐ。

 まず、タケノコ。日曜日(4月24日)に渓谷の隠居で土いじりをしていたら、地元のKさんがタケノコを持ってきた。姉の山から掘ってきたものだという。月曜日にはカミサンの知り合いからコゴミ(クサソテツ)をいっぱいもらった。どちらも初物だ。

 私は日曜日、隠居のシダレザクラの樹下から、わずか5個だがアミガサタケを採った。カミサンは若いフキを摘んだ。

翌日、糠床の風味用にわが家の庭にあるサンショウの新芽を摘んだ。2、3枚を台所に残した。

 月曜日の晩の食卓は山菜尽くしになった=写真。コゴミはゆでてマヨネーズ和えに、タケノコはわかめとベーコンの煮物に。煮物の上にはサンショウの木の芽が載っていた。

コゴミは癖がない。タケノコはえぐみがなくてやわらかい。木の芽の香りが鼻をくすぐった。

 フキは葉っぱをとってきゃらぶきに、アミガサタケはバター炒めになって出た。きゃらぶきは少々甘かった。アミガサタケは歯ごたえがある。フランスでは高級食材の「モリーユ」。やはり、バターでいためるのが基本らしい。

 キュウリとカブ、郡山ブランド野菜「御前(ごぜん)人参」の糠漬けも出した。こちらは私が担当した。

 糠漬けは再開したばかりだ。古い糠床に新しい糠を加え、キャベツの葉やカブの葉を入れて捨て漬けにした。そうすることで糠床が潤ってくる。さらに、市販の野菜を入れて漬かり具合と味をみる。

その意味では、糠漬けはまだ試作段階だ。ご飯のおかずにはいいかなと思ったが、カミサンは「味がまだあざとい」という。

今の時点で風味や香味が足りないのはしかたがない。まずは糠を足して、漬かった野菜の塩味を確かめる。それを繰り返して糠床全体の塩分を調整する。

 山菜尽くしの翌日、コゴミを届けてくれたカミサンの知人から電話が入った。「タケノコがある」

こうなると、別の知人からも連絡がくるのではないか。カミサンはせっかくのお福分けだから、断らない、ゆでて人に配る――と決めた。

もらう方も、皮つきだと下ごしらえに時間がかかる。ゆであがった「半食品」ならありあわせの食材で煮物をつくればいい。もらいやすいだろう。

 アッシー君になってタケノコをもらいに行く。数は6個。かなりの重さだ。帰宅すると、カミサンはすぐ玄関先で皮をむき、台所でゆでたあと、近所に配って歩いた。

2022年4月28日木曜日

漫画「悪女(わる)」

  「『悪女(わる)』がドラマになった」。カミサンが新聞のテレビ欄を見てつぶやく。「あの漫画の『悪女』?」「そう」

 先日、漫画『家栽の人』を紹介した。その漫画よりだいぶ前に読んだ記憶がある。当時、勤めていたいわき民報に週一でコラムを書いた。『家栽の人』も、「悪女」もそのなかで取り上げた。

 掲載年月日を入れてコラムを本にした。『悪女』は1991年1月9日付。元号でいうと、平成3年。もう31年前、42歳のときだ。題して「田中麻理鈴を知る」。短いので全文を紹介する。

 ――正月三が日は、例によってぐうたらしてしまった。暮れの戦いが済んだあとだけに、気持ちの上では三日間、わが家に“ドック入り”したようなものである。おかげで去年の毒は相当薄まったように思う。

 テレビを見て、本を読んで、昼に起きて、酒は少しに抑えてと、何も考えずに気ままに過ごした。古い殻を破り新しい殻をまとうには、頭をからっぽにする時間が必要らしい。

 たまたま目の前にあった深見じゅんの漫画『悪女』が面白くて、十巻まで一気読みした。三流大学を四流の成績で卒業した落ちこぼれ新人女子社員が、一目ボレの男を探すために「社内一巡出世ゲーム」を繰り広げる。

 出世のために恋をあきらめるのではなく、恋のために出世しようと頑張る主人公、田中麻理鈴。国際経済がどうの、トレンドがどうの、と知をひけらかすエリート社員とは無縁の雑草パワーが、大企業の先行き不透明感に新たな光を呼び込む、という筋立てである。

 実際、大企業であれ中小企業であれ、これまでの路線の延長では生き残り戦略が組めない時代に入った。いや、むしろそれを否定するくらいの発想の大転換が求められている、といってもよい。正月休みの拾い物は、この「悪女」。麻理鈴の発想を少しは見習わねば――。

「麻理鈴」は「まりりん」と読む。父親がマリリン・モンローのファンだったので、娘が生まれたときに「麻理鈴」の漢字を当てた、そういう設定になっている。

今年(2022年)の4月20日付いわき民報。テレビ欄に番組の記事が載っていた=写真。ネットで情報を集めたら、テレビドラマ化は今度で2回目らしい。前は読売テレビから日テレ系列で放送された。

そのときの麻理鈴役は石田ひかり。今回は日テレが制作している。この4月にスタートした。麻理鈴役は今田美桜、石田ひかりは2回目に課長役で特別出演をした。

問題は放送時間だ。水曜日の夜10時、福島中央テレビ。最近は私も、カミサンも9時には眠りに就いている。

「起きられるかな」。そう言いながら、いったん眠りについたカミサンがドラマを見たらしい。「どうだった?」。朝、感想を聞くとかんばしい答えは返ってこなかった。

   それはそうだろう。石田ひかりくらいの年齢ならともかく、その母親くらいになっている。孫のような麻理鈴と一緒に「男社会」で仕事をしているような気分になられたら、かえって恐ろしい。それなりに老いを自覚しているようで安心した。 

2022年4月27日水曜日

黒海の南と北

                             
   米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)=写真=を読んでいたら、バルカン半島がらみでオスマン帝国の話が出てきた。

 「オスマン・トルコは、征服地域の住民に対して、人頭税さえ納めれば、本来の宗教や文化、習俗に従うことを認めていた。十字軍の蛮行に見られる、キリスト教やユダヤ教の異教徒に対する容赦ない弾圧や殺戮と較べると、はるかに大らかなのである」

 半島の東方に黒海がある。世界地図の中心を極東におく日本人には、黒海はなかなか視野には入ってこない。

それが、BS日テレで「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~4」(4月12日に第93話で終了)を見ているうちに変わった。ときどき黒海とトルコを中心にした地図が頭に浮かぶ。ドラマが伝えるオスマンの統治の仕方と米原万里の文章が重なる。

ドラマでは、16世紀、オスマン帝国の黄金時代を築いた皇帝スレイマンと、元キリスト教徒の奴隷身分から皇帝の寵愛(ちょうあい)を受け、やがて正式な后(きさき)となったヒュッレムを軸に、骨肉の後継争いと愛憎劇が展開された。

 ヒュッレムは黒海の北、ウクライナ西部の町で生まれた。クリミア・ハン国の襲撃に遭い、奴隷として黒海の南、オスマン帝国の首都イスタンブールに連れてこられた。

「魔性の女」、あるいは「西太后やマリー・アントワネットとならぶ悪女」と評されるが、ウクライナでは人気が高い。

 ロシアがウクライナに攻め込んだとき、真っ先に思い浮かんだのが、このヒュッレムだった。彼女の生まれた国が戦場になった――。

 ネットでロシアとトルコの「露土戦争」や専門家の論考を読むと、ロシアがウクライナにこだわるワケが類推できる。以下はその引用(要約)。

18世紀、ロシア帝国はオスマン帝国との戦争に勝ち、黒海北岸に不凍港を開く。さらに戦いを繰り返し、オデーサ(オデッサ)港を開港し、徐々に黒海の南へと領域を拡大する。

 一連の戦争の結果、肥沃な北部ステップ地帯はロシア最大の穀倉地帯になり、オデーサは穀物を輸出するロシアの南の玄関口になった。

 オデーサ港やロシア中央部から鉄道が延び、ドンバス地方の炭田や、クリヴォイログの鉄鉱石を基にして、製鉄をはじめとする工業化がウクライナ北東部で急速に進んだ――。

こうした歴史があるとしても、侵略の免罪符にはならない。それともう一つ。これはトルコの南方、地中海東岸のイスラエルがらみの話。

ロシアがウクライナに侵攻して以来、ウクライナだけでなくロシアからも逃れてくるユダヤ系の人々が後を絶たないという。ロシアでは侵攻と同時に、国内での締め付けがきつくなっている、という表れだろうか。

きのう(4月26日)のNHK「クローズアップ現代」では、一般のロシア人でも「プーチンの戦争」を恐れて国外移住が増えていることを伝えていた。

黒海の北で続いている戦争が早く終わるよう、黒海の南にあるトルコが仲介の労をとる――トルコのドラマになじんだ人間にはそんな期待が膨らむ。

2022年4月26日火曜日

四倉から夏井川渓谷へ

        
  日曜日(4月24日)は朝、ワンダーファーム(四倉)の「福の島クラフトフェア」をのぞいたあと、広域農道を利用して夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 前夜、カミサンが夕刊(いわき民報)を読んで、「あしたはここに行く」と“宣言”した。「ここ」はワンダーファーム。そこで何があるのか。土・日曜日、いわきで初めての大型クラフトイベントが開かれる、という記事が載っていた。

 クラフトとは、普通には民工芸品のことだが、近ごろは若い作り手がこだわって少量生産をしたもの、あるいは手間暇をかけて作ったもの、といった意味合いが濃くなっているようだ。

会場で渡されたチラシによれば、出店業種は陶磁器、木工・漆・竹、金属、皮革、紙、ガラス、布・染め、その他の8ジャンルで、県内外から計55店が芝生エリアにテントを連ねた=写真上1。

まず、その数の多さに圧倒された。確かに、個々の作家がつくった商品が展示・販売される一大イベントにはちがいない。

「その他」のジャンルも、中身は羊毛フェルト、編み組み、あけび細工、ひょうたん雑貨、マクラメ(織物の一種)、いっかん張り、立体ミニチュアオブジェなど多種多様だ。

浅草の仲見世よろしく、向かい合ったテントの間を歩く。私はただのアッシー君、通り過ぎてはどこのテントにもぐりこんだかわからないカミサンを待つ、といったことが何度かあった。

会場入り口付近にはフードブースもあった。こちらは私の好みだ。郡山ブランド野菜の「御前(ごぜん)人参」と、キッチンカーの「焼き小籠包」を買った。

さあ、あとは渓谷の隠居へ――。四倉からはどう行くか。ワンダーファームの西の丘の陰を県道八茎四倉線が通っている。

そこからアップダウンを繰り返しながら、仁井田川を渡り、四倉と小川をつなぐ上岡トンネルを越えて、二ツ箭山腹を縫う広域農道が伸びる。それを利用することにした。

現在は国道399号で広域農道を下りるが、その先、終点の小川・高崎までの工事が終われば、夏井川沿いの県道小野四倉線に直結する。県道に出れば隠居まではすぐだ。

三角形でいうと、平地の四倉~平~小川の2辺を通るのではなく、最短の1辺を直進する速さで渓谷に着いた。

上岡トンネルを過ぎると、二ツ箭山腹がヤマザクラの淡いピンクと芽吹いた木々の緑に彩られていた。今が1年で一番、同山が輝いて見える時期――そう言ってもいいくらいに美しかった。

二ツ箭山の写真は撮りそこねた。そこで隠居からの帰り、JR磐越東線江田踏切から右手に見える“鞍掛山”の新緑を撮った=写真上2。

前に、江田の住人に山の名前を聞いたことがあるが、なんというのかはわからなかった。稜線が馬の背に掛ける鞍に似るので、仮にそう呼んでいる。

国土地理院の電子地図によれば、標高は左の頂上が542メートル、右の頂上が460メートルほどだ。低い方のふもとを、国道399号に抜ける母成(ぼなり)林道が通っている。今回初めて、地図で位置を確かめた。

2022年4月25日月曜日

つなぎの漬物

                      
  この冬は11月中旬から2月下旬までに3回、白菜を漬けた。それがなくなったら終わりと決めて、4月下旬に糠漬けを再開するまで、スーパーや直売所の漬物で間に合わせた。

 今回はこうしよう、ああしようと考えすぎて、二度、白菜漬けに失敗した。おさらいの意味で3回の状況を記す。

1回目は容器の表面に産膜酵母が張るのを遅らせようと塩分を多めにした。しんなんりしたのを口にするとしょっぱかった。容器から取り出しては水につけて塩出しをした。

2回目は塩分を元の量に戻した。極寒期と重なったこともあって、産膜酵母は張らなかった。まずまずの出来だった。

3回目は1回目と逆に、どのくらい減塩できるか試した。適量の塩分だと、漬けて2日もすれば、浸透圧で白菜からしみ出た水が上がってくるのだが……

3日がたち、4日がたっても水は上がらない。容器の底の方が少し湿りを帯びているだけ。つまりは塩分が少なすぎた。

思案していたときに、知人から白菜漬けのレシピが届いた。なかに、「差し水は3%塩水500ccをタルのフチから注ぐ」というのがあった。これを応用した。

3%に見合う食塩を加えて溶かし、白菜がひたひたになるまで足した。一種の「どぶ漬け」だ。

これはこれで食べられる。サラダ感覚の新しい白菜漬けになった。食べ方の幅が広がった――とはいっても、何度もためそうという気にはならないが。

白菜漬けのような家庭の伝統食はすでに作り方が確立している。よけいな試みはしない。「下手の考え休むに似たり」で、あれこれ頭で考えないで体が覚えていることに従うのが一番。そんな反省もあって、4回目はなし、にした。

となると、つなぎの漬物が必要だ。スーパーや直売所から白菜キムチやみそ漬けを買ってきた。

が、これらは小パックなので、予備を買い忘れると食卓から漬物が消える。追いつめられたような気分になったとき、キュウリの古漬けが冷蔵庫にあるのを思い出した。

さっそく取り出して、5センチほどに切って塩抜きをする=写真。パリパリして、歯ごたえがいい。これで、漬物がある安心感が戻った。

この古漬けが残っているうちに、糠漬けを再開しなくては――。4月下旬、糠床の冬眠を覚ました。お玉で食塩の布団をはぎ、その下にある古い糠味噌を一部取り除いて、新しい糠を投入した。

古い糠味噌には食塩が浸みているので、新しい糠をこね混ぜると少しはしょっぱさがやわらぐ。そこに、冷蔵庫に置き忘れて水分が飛んだキャベツ、大根を「捨て漬け」にする。

今は朝、起きるとすぐ糠床をかきまわす。残ったスープやタレがあれば、糠床をほぐすのに加える。同時に、唐辛子やサンショウの木の芽も入れる。これを繰り返すうちに、今年(2022年)の糠漬けの味が決まってくる。

2022年4月24日日曜日

心平の「最後の詩」

                      
   詩人草野心平と縁戚関係にある関内幸介さん=元いわき市立草野心平記念文学館副館長=がいわき民報に「長橋だより」を連載している。

4月中旬の同欄で、『草野心平日記』全7巻(思潮社)に収録されなかった日記の一部と、自身が所蔵する心平直筆の「最後の詩」を公開した。同じ日、それをニュースとして紹介する記事が同紙に載った=写真。

記事によれば、関内さんは文学館の副館長として親族や秘書、心平に長年連れ添い、最期をみとった故山田久代さんの娘らと親交があった。心平の没後、山田家から「最後の詩」をはじめ、晩年の心平所蔵資料の一部を譲り受けた。

未公開日記は昭和61(1986)年分で、秘書の成年後見人弁護士を通じて存在を確認・閲覧し、新聞では関内さん自身が記された同年8月18日分を紹介している。

弁護士との話し合いの結果、最後の日記は同文学館に移管された。まだ解読・公開はされていない。

最後の詩は衝撃的だった。「病に倒れて言葉が不自由となった心平」の生の感情が記される。行末には心平独自の「。」が付く。

最後の日記の一部が紙上で公開された意義も大きい。私自身、『草野心平日記』を読んで、日記の欠落部分に注目していたから、よけいそう感じるのかもしれない。それには個人的な理由がからむ。

『草野心平日記』は、心平生誕101年(平成16=2004年5月12日)を記念して刊行が計画された。実際には予定より1年遅れの平成17年4月25日に第1巻が刊行される。草野心平日記刊行会が編集した。

ところが、昭和29(1954)年、同46(1971)年と、同60(1985)年12月11日~61年8月22日のほぼ9カ月間は、日記が欠落している。

昭和46年の4月15~20日には、平の大黒屋デパートで「草野心平展」(磐城高校同窓会主催)が開かれた。

私は4月1日、いわき民報社に入社し、先輩記者たちの鉛筆削りとお茶入れを朝の仕事にしていた。

心平展が始まると、当時の編集長が「ダメでもともと」と思ったのか、担当の記者とは別に、「草野心平に会って話を聴いてこい」と言った。

取材のいろははもちろん、心平については教科書の詩ぐらいしか知識がない。個展会場に出向いて、秘書の女性を介して心平に質問しても、全く相手にしてもらえなかった。

人生最初の取材が“自爆”したこともあって、心平日記が刊行されたときには、故郷での個展をどう記しているのか、真っ先に読みたかったのだが、よりによってそこが欠落している。日記全7巻を買った意味がないではないかと、落胆したのを覚えている。

最後の日記は文学館にあるものの、昭和29年と46年はあるのかないのか、あるとしたら誰が持っているのか、今も心に引っかかっている。

「私が所蔵する『最後の詩』と、『最後の日記から』を撮影した写真をいわき民報に載せることで、さまざまな動きが少しでも前に進めば」。これが、関内さんが紙上公開に踏み切った理由だ。まずは最晩年の心平研究のために、最後の日記の公開が待たれる。

2022年4月23日土曜日

戦争とソーシャルメディア

 わが家の庭のスノーフレークが真っ盛りになった=写真。この花はヨーロッパ中南部が原産地という。スズランのような白い花のへりに緑色の斑点がある。それがポイントらしい。

 中南欧の東、ウクライナでも民家の庭で咲いているかもしれない。今年(2022年)はときどき、そんなことを思いながら花を眺めている。

 ロシアが2月24日にウクライナへ侵攻して以来、日本のメディアも連日、戦況を大きく伝えている。

ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアでも、主にマスメディアのニュースが「シェア」されたり、「拡散」されたりして届く。

それで「戦争とソーシャルメディア」について考える時間が増えた。川内村の白樺は自生?植栽? ブログに書くとコメントが入り、植栽されたものとわかった。いわき市の「うまかたようかん」の話を書いたら、やはり市内各地から情報が寄せられた。ソーシャルメディアの反応の速さも影響したようだ。

現代の戦争もまた、政府・軍・マスメディアだけでなく、市民がソーシャルメディアで受発信することで、「すぐそこで起きている出来事」になった。

 まだネットもパソコンも普及する前の話――。いわき市三和町で農林業を営みながら作家活動を続けた故草野比佐男さん(1927~2005年)が、ワープロを使って5部限定の句集と詩集を編んだ。

「ワープロで遊びながらの感想ですが、ワープロの出現は、表現の世界の革命といえるんじゃないかという気がします」「世の中が妙な具合になった時に、武器にもなるはずです」。詩・句集とともに、そんな内容の手紙をもらった。

それから35年たった今、ネットを利用したソーシャルメディアは権力への抵抗の「武器」だけでなく、市民が市民を攻撃する「凶器」にもなっている、ということを数々の事例が教える。草野さんもそこまでは想像が及ばなかったろう。

 平時でさえそうなのだから、有事にはもっと激しい「情報戦」が繰り広げられる。ニューヨーク在住のジャーナリスト津山恵子さんが4月中旬、朝日新聞「メディア私評」で象徴的な事例を紹介していた。

ロシア軍がウクライナ南部の都市、マリウポリを攻撃した。マリウポリに最後に残った国際メディア、AP通信のビデオジャーナリストら2人が空爆後の産科医院の写真を配信すると、ロシア当局は偽物だと主張し、妊婦は俳優だとツイートした。

このプロパガンダに対して、AP通信は2人に指示し、妊婦を探させる。俳優扱いされた妊婦は無事出産したが、ほかの妊婦は胎児とともに亡くなっていた。「妊婦死亡」のニュースを、世界中のメディアが伝えた。

「取材陣の命をかけた結果が、ソーシャルメディアで多くシェアされていることも、従来にまして戦争の理解を深めている」

   「シェア」と「拡散」を通じて、戦争の真実が世界に伝わる。草野さんのいう「表現の革命」「世の中が妙な具合になった時の武器」とは、つまり市民による有事の受発信のことなのだとわかる。 

2022年4月22日金曜日

「ツナガル畑」

                      
  ある集まりで配られた資料の中にあった。「下高久FARM」通信初号。A3二つ折り、つまりはA4サイズ4ページのリーフレットで、しゃれた表紙には「みんなが楽しめる自然な場所を。」「ツナガル畑、はじめました。」とある。

 中を開くと、「4人のおじさん」が休耕地を借り受け、「集いの里 下高久ファーム」として整備したこと、自分に合った農園を選べることなどが書かれている=写真。

場所は下高久字馬場。掲載の地図を見ると、県道下高久谷川瀬線の近く、菅波園芸の裏手に農園がある。

 事業主体、つまり市民農園の開設者は「明るい農村カンパニー」(小野田康行代表)だ。4人の設立メンバーのうち、2人を知っている。

 借り受けた休耕地は600坪、ざっと2千平方メートルはある。それを10坪、20坪、30坪、40坪と4段階に分けて利用できるようにした。

年間の利用料金は10坪・5千円、20坪・8千円(団体1万円)、30坪・1万円(同1万5千円)、40坪・1万5千円(同2万円)だ。

定年後の趣味に野菜づくりを始めたい、友人同士で楽しく野菜をつくりたい――そういう人のための農園だという。

趣味の土いじりとはいっても、いろんな道具が必要になる。なかでも年配者は畑の耕起がこたえる。

そういった面にも配慮して、耕運機や草刈り機は無料で借りられる。プロの農家の指導も受けられる。休眠時にはトラクターで全面耕作・施肥を実施するなど、サポート体制も充実している。

それだけではない。利用者同士、利用者と一般市民の「つながり」も重視する。親子一緒の収穫体験、自分たちが作った野菜をプロのシェフが調理する賞味会、いわき昔野菜の種の交換会などを計画している。各種イベントにも参加し、育てた野菜を販売する。

リーフレットを読み進めるうちに、これは農家の後継者不足や地産地消といった課題と向き合った新しいかたちの市民農園ではないか、と思った。

 行政や農協が市民農園の開設者になることはある。農家(所有者)が開設することもある。しかし、市民が休耕地を借り受けて、市民に利用の場を提供する、というのは、いわきでは初めてではないか。

 ブログで紹介していいか――。知人に聞くと、うなずく。家に帰って原稿を書き始めたら、夕刊(いわき民報)が届いた。1面トップでこの市民農園のことを報じていた。

 リーフレットだけでは伝わらない、設立メンバーの生の声が載っていて、なるほどと感心した。

 小野田代表はイタリア料理店「テラッツァ」のオーナーで、市内の農家と直接取引を始め、さらに下高久に農地を借りて野菜作りにも挑戦した。一方、知人たちも近くの畑でいわき昔野菜の保存に取り組んでいた。

 一昨年(2020年)2月から話し合いを重ね、実行に移し、情報紙を発行するまでに至った。

なんというか、リーフレットで組み立てた「骨」に、新聞記事で「肉付け」ができて、少しは人のつながりが見えてきた――そんな思いでこの原稿を仕上げた。

2022年4月21日木曜日

デトックス効果

       
  このところずっと、週初めになると「春の土の味」が出る。フキノトウから始まって、セリ、ヨモギと続く。夏井川渓谷の隠居の庭に生えてきたものばかりだ。

 日曜日に隠居へ出かける。私は菜園で土いじりをする。カミサンは摘み草をする。フキノトウとセリはカミサンが、ヨモギはカミサンとカミサンの友達が摘んだ。

 フキノトウはみじんにして味噌汁に散らす、てんぷらにする、が定番だ。アルミホイルにくるんで蒸す、という手もある。味噌汁以外は晩酌のおかずだ。

 セリはてんぷら=写真上1、そしておひたし。ヨモギもてんぷらになって出てきた。ヨモギのてんぷらは、しかし、食べるのに時間がかかる。味に特徴があるわけでもない。

カミサンの友達は、ヨモギのホットケーキをつくった=写真上2。ヨモギを刻んでペーストにしたのを生地に加えた。味は基本的にホットケーキそのものだが、見た目が新鮮だった。

 フキノトウやセリ、ミツバは苦くて香りが強い。よくいわれるのが「デトックス効果」だ。デトックスとは体内の老廃物、あるいは毒素を排出することで、苦みにはこの効果が、香りにはストレスを解消する働きがあるという。

 もう30年以上前のことになる。漫画『家栽の人』を買って読みふけったことがある。主人公は桑田さん。裁判官だから、タイトルは「家裁の人」でもおかしくないのだが、あえて「裁」が栽培の「栽」になっている。

 「裁くことより育てることが大切だと、その判事は考える。だから『家栽の人』なのだろう。(略)暇があると裁判所の庭へ出て土いじりをしている」

 40代で書いた拙文が残っている。この裁判官は無類の花好き、そして無類の園芸家でもある。

 「説教するわけではない。差別や偏見からも遠い。ただ、草木を語りながら人間を語り、離婚や財産争い、少年事件の原因となった心の問題に、ヒントを投げかける。(略)花を眺めている瞬間は、だれもがやさしくなれる――殺伐とした世の中の鎮静剤、桑田さんは人間の心に種をまく人だった」

 それからの連想で、畑で栽培されるキュウリやニンジンは、「野菜」よりは「家菜(やさい)」、山野に生えるセリやミツバこそ「野菜」と呼ぶべきではないか、などと、どうでもいいことを考えたものだった。

 先日は、ハマに近い農村部に住む親友が栽培物のハマボウフウを持ってきてくれた。これも酢味噌和えにした=写真上3。ハマの「春の土の味」にもデトックス効果がある。

 3~4月はこうして、体内から毒素を排出する食べ物が続く。ちょっと食べすぎではないか、逆に新しい毒素が体内にたまらないか、などと気をもんだりするくらいに。

 食べ物ではなく、心のデトックス効果という点では、日曜日に渓谷で過ごすのが一番。なんといっても気分転換になる。 

2022年4月20日水曜日

白樺は植栽だった

ブログに、川内村の「獏原人村」から届いた白樺の樹液=写真=のことを書いた。口にした瞬間は水と変わらないが、あとからほのかな甘みが広がった。阿武隈高地には、白樺は自生しないと聞いている。獏原人村の白樺は、自生か植栽かはわからない――。

すると、樹液を採取した本人からコメントが寄せられた。「白樺の木は3本ある、誰かが植えたようだ」

獏原人村は、標高が360メートル弱。そこに程近いいわき市小川町上小川字中戸渡(とわだ)は、旧戸渡分校があるあたりで標高500メートル弱だ。分校の南側、道路沿いに白樺が何本か立っている。それについても、自生か植栽かはわからない、と書いた。

獏原人村の白樺が植栽とわかった以上は、中戸渡の白樺もそうだろう。自生であれば、阿武隈高地の低山帯から白樺の林が見られるはずだが、それがない。インターネットを介したやりとりで、阿武隈の白樺は植栽という「確信」を持てるようになった。

ブログはツイッターとフェイスブックでも読める。若い仲間が全部セットしてくれた。これらは「ソーシャルメディア」に分類される。

ソーシャルメディアとは、インターネットを介した双方向のメディアのことだそうだ。パソコンに次いでスマホが普及し、いつでも、どこでも、市民がソーシャルメディアを利用できるようになった。

ネット経由で川内の白樺は植栽と知ったあと、ブログに「いわき名物 うまかたようかん」の話を書いた。

ネットで「うまかたようかん」を検索すると、いわき市内のお菓子屋さんがすぐ出てくる。佐藤製菓店(好間)、ふくみや(内郷)、菓匠庵(好間)、林屋製菓工場(勿来)……。ところが、よそのマチは? ない。つまりは「いわき名物」。

すると、フェイスブックを介していわき市内の後輩、知人から、大意次のようなコメントが寄せられた。

――昔懐かしい味。偶然にも、「ふくみや」のうまかたようかんを食べたばかり。子どものころは近所の店でも入手できた。

――父親が酒と甘いものが大好きだった。うまかたようかんも食べていた。「梅月堂」(久之浜)のうまかたようかんもうまかった。

――50年以上前に、植田の「沢田屋菓子店」がうまかたようかんとすあまを届けてくれた。

「ネットコミュニティ」、つまりはソーシャルメディアによるつながりの確かさというべきか、ほぼ瞬時に、うまかたようかんがいわき市内で広く売られていたことがわかった。

カミサンの知り合いに双葉郡大熊町で生まれ育った女性がいる。うまかたようかんのことを話すと、知らないという。私は現田村市で生まれ育った。やはり、うまかたようかんのことは知らなかった。

   ソーシャルメディアで集まった情報を可視化すると、「いわきのうまかたようかんマップ」ができる。これもまたネット時代の新しい調べ方にはちがいない。 

2022年4月19日火曜日

春のブユ

        
 まだ4月中旬だから、と油断したのがいけなかった。夏井川渓谷の隠居で土いじりをしているうちに、ブユにかまれたらしい。

満開のシダレザクラに誘われて、樹下で一服した。その前から向こうずねがかすかに痛痒かった。

むしろに座ってズボンの裾をめくると、靴下のすぐ上が赤く腫(は)れている。手ふき用の除菌ウェットシートで患部をきれいにした。3カ所にかみ跡があった。

初夏から秋にかけては、ブユだけでなくアブも出る。土いじりには帽子、長靴、腕カバーと軍手が欠かせない。首には汗をふくための手ぬぐい。春は、これが首筋の防寒を兼ねる。

ところが、渓谷の春は始まったばかり、まだブユやアブは現れない――。甘くみて、スニーカーから長靴に履き替えるのを怠った。

畑の隅に生ごみを埋める。ネギ苗床の草むしりをする。庭に生えているノビル(方言名・ノノヒョロ)を掘り取る。

フィールドカートに座りながら作業を続けたので、ズボンの裾と靴下の間にぽっかりすきまができた。

先の「夏日」続きで、ズボンをコール天から薄手のものに替えた。靴下も短めだった。座るとすねが見える。ブユには好都合だったわけだ。

アブもブユも清流の生きもの。渓谷の水環境をはかる指標になる。活動時期は、アブが6~9月、ブユは早くも3月には発生するという。ブユの生態を忘れていた。

街で暮らしている分には、この厄介者とは縁がない。が、山里では特に朝晩、ブユが活動する。

蚊は、雌が血を吸う。ブユも同じだという。すぐ痛みを伴う蚊と違って、ブユはいつ皮膚をかんで血を吸ったかがわからない。ひどいときには、痛痒さが何日も続く。

ブユの痛痒さと赤い腫れを見ながら、今年(2022年)は蚊の出現が早くなるのではないか、そんな直感がはたらく。

わが家で初めて蚊に刺された日を記録している。平均は5月20日。去年は6日早い5月14日にチクリとやられた。

これから茶の間のガラス戸を開けておく日が多くなる。4月10~13日の「夏日」がそうだった。

午後になると庭からヤブカが、夜にはイエカが現れる。今のところ、耳元は静かだ。羽音が聞こえるようなことはない。

が、季節は4月末からの大型連休をはさんで初夏に入る。茶の間だけでなく、玄関の戸も、台所の窓も開け放たれる。

去年の例と、今度の「夏日」続きからして、蚊は間違いなく早く現れる――そう踏んで蚊取り線香の準備をしておかないと。

ま、それはそれとして、せっかく掘り取ったノビルがある。調理はいたって簡単。土を洗い落とし、鱗茎のひげ根をカットして、緑色の葉の部分も、生のまま味噌につけて食べる=写真。日曜日の夜は、カツオの刺し身がメーンだ。副菜として、この春の土の味を楽しんだ。

2022年4月18日月曜日

春を告げるアミガサタケ

           
 4月第3週は、前半が「夏日」になったと思ったら、後半に寒の戻りがきた。それでもきのうの日曜日(4月17日)は朝から青空が広がって、春らしい一日になった。

 夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線は、たった1週間で冬枯れの水墨画から淡い緑色のパステル画に変わっていた。

 先の日曜日には針葉樹の緑とアカヤシオ(岩ツツジ)のピンク色だけだった隠居の対岸も、ヤマザクラの花と木の芽が加わって春と初夏が混じり合ったようなにぎやかさだ。

 隠居の庭のシダレザクラも「夏日」に刺激されたらしい。つぼみから一気に開花し、満開になっていた=写真上1。

先のブログ(4月13日付)でも触れたが、隠居に着くとすぐシダレザクラの樹下に入って地面に目を凝らす。「花よりアミガサタケ」だ。

去年(2021年)は同じころ、樹下から20個ほどを採った。今年はしかし、発生が遅い。10日に続いて17日も「なしか」と思ったら、直径約1センチ、ヒノキの球果と勘違いするくらいの幼菌が頭を出していた。

 これは写真を撮るだけにして、なおも地面を見続ける。ない。あきらめかけたとき、去年、噴水のような枝先の一番外側から少し離れた菜園のそばに出ていたのを思い出す。念のためにそちらを見ると、あった。1個、そして少し離れて2個=写真上2。

 アミガサタケ探しはそれでいったん中止し、ネギの苗床の周りで草むしりをしていると、そばの県道から声がかかった。アカヤシオの花見客だった。

 みごとなシダレザクラだとほめる。しかも、2本。「ハンモックをかけるためにそうしたんですが、ちょっと離れていますね」

 なおもシダレザクラの美しさをほめ続ける。「観覧料をとってもいいくらいだ」。うれしくなって、ついさっきまでしていたことを教えたくなる。

と、もう一人の自分がささやく。アミガサタケのことはブログに書いても、直接、その場で人に話すものではない。口から出かかった言葉を抑えるのに苦労した。

そのあとまた土いじりをしながら、日曜日の夜は、カツオの刺し身がメーンになる、アミガサタケは次の日に。で、とりあえずゆでこぼす――そんなことを考えていたら、午後1時前に、ダイヤにはない列車が通過した。

ディーゼル機関車がSL時代の茶色い客車3両をけん引している。ネットで調べると、団体臨時列車「旧型客車 陽春磐越東西線号」で、いわき発郡山経由喜多方行きだった。

隠居の隣は広場になっている。今週は先週より車が多い。「花見客がどんどん来る」。列車が通過するまではそう思って喜んでいた。

広場の近くからトンネルが見える。ゆるいカーブになっている。いい角度で臨時列車が撮れる。

列車が過ぎると、それを追いかけるように広場から車が消えた。「花より臨時列車」の撮り鉄だった。

2022年4月17日日曜日

「もてねぎ」が届く

                     
    ネギには春まきと秋まきがある。夏井川渓谷の隠居で栽培している「三春ネギ」は、いわきの平地のネギと違って秋に種をまく。

三春ネギは自分の子孫を残すために、春先、花茎を伸ばす。やがて、その先端にネギ坊主ができる。ネギ坊主は小さな花の集合体だ。花が咲けば実が生(な)り、種が形成される。

6月、ネギ坊主から黒い種がのぞくようになったら、これを摘み取り、乾燥させて殻やごみを取り除き、種だけを小瓶に入れて冷蔵庫で保管する。

 播種(10月)~定植(翌年5月)~追肥・土寄せ(夏・秋)~収穫(冬)がネギづくりのサイクルで、並行して次の栽培のために種を採る。

田村市では曲がりネギにするために、8月、「やとい」という伏せ込み作業をする。私もそれにならって溝を斜めに切り、ネギを植え直していたが、最近は炎天下の作業を敬遠して、そのまままっすぐな三春ネギにしている。

とまあ、これは種で増やすネギの話だ。種ではなく、株が「分げつ」して増えるネギもある。いわきの昔野菜(伝統野菜)でいうと、「もてねぎ」。

 このもてねぎが後輩から届いた。「酢味噌和えがいい」。カミサンに頼むと、何日か晩酌のおかずになって出てきた=写真。

いわき昔野菜発掘事業の成果として、いわき市から昔野菜図譜3冊、レシピ集3冊の計6冊が発行された。『図譜 其の弐』と『レシピ集 2』にもてねぎが登場する。

『図譜 其の弐』は、三和町のもてねぎを取り上げた。栽培者の姉が茨城県から導入したものを譲り受けて自家消費用につくっている。分げつする性質が強く、ネギ坊主はできない。

5~6月に株分けをして定植し、早ければ10月ごろから食べられるが、畑に植えたままにしておけば一年中食べられる。

4年前、いわき昔野菜フェスティバル(いわき昔野菜保存会主催)が開かれた際、もてねぎなどが参加者に配られた。昼食の昔野菜弁当にはトン汁がサービスで付いてきた。中に小川町下小川のもてねぎが入っていた。やわらかかった。

『レシピ集 2』には、家庭料理として「もてねぎの酢味噌和え」が紹介されている。それが潜在意識となって残っていたのだろう。

酢味噌和えだけでなく、味噌汁にも加えた。好みの食感だが、甘みは三春ネギや「いわき一本太ねぎ」まではいかない。

もてねぎはいわきの方言由来だろう、という。いわき市教育委員会が発行した『いわきの方言調査報告書』(2003年)に「もでる(もてる)=作物が茂る。分けつ(注・分げつ)する」とある。

種で増える三春ネギも分げつする。ネギ坊主をちょん切られたネギはそれで終わり、ではない。掘り起こして外皮をむくと、新しい株ができている。花茎は硬いので食べられない。土に返す。分げつ苗は溝に植えなおすと、普通に育って食べられる。

 種であれ、株分けであれ、三春ネギのいのちを絶やさないこと――これが原発事故後の極私的な教訓だ。

2022年4月16日土曜日

体がついていけない

        
 少しずつ春めいてきて、庭のサンショウも木の芽を吹くようになった=写真。「枯れてしまったのかしら」。カミサンが心配していたムラサキシキブも、ようやく芽吹き始めた。せっかちなプラムはもう花を散らし、葉を広げている。

そこへ気温が急激に上昇し、下降した。庭の植物たちも、花や新芽にやって来る虫たちもこれにはこたえたのではないか。

いわき市山田町の最高気温で寒暖の差をみる。4月13日は26.7度、翌14日は13.9度。その差およそ13度。こんなに極端な気温の上がり下がりはあまり経験がない。

日曜日から水曜日までは夏の暑さになった。ところが、木曜日は季節が逆戻りした。季語でいえば「花冷え」だが、体が気温の激変についていけない。

4月第3週前半――。茶の間にいるだけで汗ばんだ。玄関と茶の間の戸を開け放したが、それでも室温は上昇した。

水曜日には今年(2022年)初めて、座卓のカバーをめくって中に暖気がこもらないようにした。

ところが同じ日の夕方、家を通り抜ける風の向きが変わると、次第に寒気が忍び込んできた。トイレの窓が少し開いている。用を足しに行ったら、冷たい風にほおをなでられた。

若い人は、寒暖には敏感だ。テレビは半そで姿の若者を映して、季節外れの暑さを伝える。

年寄りは、そのへんは臆病で保守的だ。春は、暑い日が続いても必ず寒の戻りがある。それを何度も経験して知っている。暑くなったからといって一気に夏服には着替えない。毛糸のチョッキを脱ぎ、冬のズボンを薄手のものに替える。そんなところから始める。

 しかし、木曜日には週前半に脱いだチョッキが恋しくなった。午後からは雨も降り出した。いつものところへチョッキを取りに行くと、ない。カミサンがタンスにしまいこんでいた。寒の戻りを考えないところは、感覚が若いのだろう。

 しかし、細部に考えが及ばないのは私も同じ。水曜日に近所の床屋へ出かけた。てっぺんが薄いので、後ろだけ長く伸びている。それをカットしてもらった。

翌木曜日には、家にいても首筋がスース―する。冬は座卓のそばにマフラーを置いている。マフラーを巻いて在宅ワークをしようとしたら、それも「夏日」のうちにカミサンが片づけた。すぐ出してもらった。

金曜日(4月15日)は銀行へ出かけ、その足で車にガソリンを入れ、灯油を買った。「夏日」には、もう灯油を買うこともないか――そう思ったのだが、甘かった。

外では「花散らし」の雨と寒気。ヒーターこそ止めたものの、ストーブをつけて戸を閉め切っていないと、茶の間が温まらない。座卓の下の電気マットもつけたままだ。

晩酌用のお湯も水曜日まではぬるめ、木曜日と金曜日は熱めにした。土曜日のきょうも熱めになりそうだ。

2022年4月15日金曜日

『高久の歩き方』

            
 平・下高久区が事業主体になって『まほろばの里 高久の歩き方』を刊行した=写真。今、注目されている「大字誌」だ。執筆者にいわき地域学會の仲間が何人かいる。たぶんその関係で恵贈にあずかった。

 下高久はカミサンの父親のふるさと。私の親友と知人、後輩も住んでいる。いわき市内では、カミサンの実家(平・久保町)、隠居のある夏井川渓谷(小川町・牛小川)の次くらいに通っているところだ。

 同地区には古墳時代の重要な遺跡がある。有名なのが神谷作(かみやさく)101号墳で、「埴輪男子胡座像(附)埴輪女子像」(国指定重要文化財)が出土した。「八幡(やあど)横穴群出土品」(県指定重要文化財)のなかでは、忍冬(にんどう)唐草文を透かし彫りにした金銅製幡(ばん)金具などが知られる。

いわきの古代文化が息づく地、「まほろばの里」の歴史や文化を、地元の人間が企画・調査・執筆したところに本書の特色があるという。個人的に興味を抱いていたものがある。3点ほどピックアップする。

区民から提供された古い写真を集めた「第1章 高久写真館」では、「酒造・醸造」に目が留まった。「三ツ星」「小錦」「稲政宗」「東海」「清盛」「谷盛」といった地酒の貧乏徳利が並ぶ。

「第5章 高久の歴史」でも、明治44(1911)年の『石城郡案内』を引用して、高久村で醸造業が盛んだったことを伝えている。

何年か前、義父の生家の跡取り(カミサンのいとこ)が亡くなった。葬式に出ると、先祖が酒造業だったという親戚がいた。

「水がよかったのか」。酒造りが盛んだった理由を別の親戚に聞くと、「米が余ったからだ」。考えてみればごく当然の答えが返ってきた。

その米をつくるには水が要る。口絵の「水田用水概略図」には、主に①愛谷江筋②滑津川③溜池――を用水源とする水田が色分けされている。

それと関係するのが、「第3章 道ばたの文化財」のなかで紹介されている「袴田堰円形配水施設」だ。

滑津川から揚水し、暗渠(あんきょ)でつながった円形の配水施設で分水する。県道下高久谷川瀬線沿いの「馬場鶴ケ井バス停」そばにある。後輩はこの配水施設から引いた水で米をつくっている。珍しい施設なので、一見の価値はある。

「平藩御典医松井家医学関係資料」(市指定文化財)も、地域医療史をひもとくうえで欠かせない。松井家に残る資料の一部を見せてもらったことがある。

『いわき市史 第6巻 文化』編の「医療」には、幕末から明治にかけて活動した医師の一人として、高久の「青島貞」が出てくる。後輩の本家の先祖で、漢方医だった。

明治の初期、磐前県病院が平にできると、松井玄卓(謹)らとともに青島貞が医員として勉学した、とある。

高久を歩く前から寄り道を始めてしまったようだ。『高久の歩き方』には読みたい聞き書きも、事象もある。山すその道を、あぜ道を行くように、ゆっくりじっくり高久の本のなかを巡ってみようと思う。

2022年4月14日木曜日

うまかたようかん

                      
 新聞の折込チラシを見ていたカミサンが突然つぶやく。「50年じゃないよ、私が子どものときもあったんだから、80年じゃないの」

 なんのことかと聞けば、「うまかたようかん」のことだった。地元スーパーが開催する「福島県産品・茨城県産品フェア」のチラシに載っていた。

話は4カ月前にさかのぼる。昔話の語り部をしている“姉さん”が、好間町下好間の佐藤製菓店で製造・販売している「いわき名物うまかたようかん」をお土産に持ってきた=写真。

姉さんと知り合ってから50年余になる。私が就職したばかりのころ、ときどき風呂をもらったり、夕食をごちそうになったりする家があった。年齢が近い独身の“きょうだい”が何人かいた。そのなかの一人が姉さんだった。

「うまかたようかん」は聞いたことがなかった。ようかんはようかんなのだが、味がさっぱりしている。とらやの「ようかん」が高級品なら、こちらは大衆品だろう。

 私は、毎日、折り込みチラシの枚数を数える。新聞は販売店を経由して宅配される。チラシは販売店の大きな収入源だ。チラシの枚数から経営状況を類推する。

 主婦は枚数より中身に関心がある。スーパーのチラシでは何が安いか、どこが安いか――そうやってカミサンがチェックしていたチラシに、うまかたようかんが載っていた。

 そのチラシを見ると、「北海道産小豆と手亡豆を使用し、甘みを抑えた食べやすいようかんです。いわきで50年愛されている商品です」と書かれていた。

「手亡」は「てぼう」と読む。白いインゲン豆のことらしい。うまかたようかんの写真にはやはり「いわき名物」の冠が付いている。

製造業者は「林屋」とある。ネットで検索すると、すぐわかった。勿来町関田西二丁目の林屋製菓工場だった。

うまかたようかんの歴史が50年、あるいは80年というのは、その土地に根づいた和菓子屋と消費者の関係を表しているのだろう。

カミサンは平のお城山の西麓で生まれ育った。好間とは地続きだ。佐藤製菓店のうまかたようかんかどうかはともかく、小さいころからうまかたようかんが手に入る環境にあったようだ。

ついでに「うまかたようかん」で検索を続ける。いわき市内のお菓子屋さんはすぐ出てくるのだが……。よそのマチにはないのかもしれない。つまりは「いわき名物」。

「豆大福」で有名な内郷綴町の「ふくみや」でもうまかたようかんをつくっている。佐藤製菓店にほど近い、好間町の菓匠庵は毎週日曜日、ヨークベニマル上荒川店と内郷店でうまかたようかんを販売している、とあった。

好間、内郷、勿来はかつて炭鉱で栄えた。その盛衰とうまかたようかんは関係がないのかどうか。ふと、そんなことを思った。

2022年4月13日水曜日

ネギの花茎がやっと

                      
 4月前半だというのに、夏のような暑さになった。人間だけでなく、草木や虫たちも調子を狂わせているのではないか。

夏井川渓谷の隠居の庭にシダレザクラが2本ある。日曜日(4月10日)はまだ赤いつぼみだった。これも月、火曜日と強い光を浴びて花を咲かせ始めたことだろう。

4月後半になると、この樹下にアミガサタケが出る。日曜日朝、隠居に着くとすぐシダレザクラの樹下を確かめた。

昼前、渓谷の集落で「春日様」のお祭りが行われた。参拝と直会(なおらい)が終わったあと、再び樹下をチェックした。まだ早かったようだ。

 昔、直会でアミガサタケの話をしたことがある。反応がおもしろかった。「気持ち悪くて蹴とばして歩いてた。タマゴタケだってそう」。キノコの代表はマツタケ、シメジ。マツタケのシロを持っている住民らしいコメントだった。

 アミガサタケはなかったが、三春ネギに一つだけ花茎ができていた=写真。だいたい3月下旬には花茎が現れて先端にふくらみができる。今年はしかし、どういうわけかできるのが遅い。

 こちらは平地のわが家の生垣の話。常緑樹のマサキの若葉を食害するミノウスバ(ガの一種)の幼虫は、新芽が展開し始める春に孵化する。

今年(2022年)は4月8日に生垣のチェックを始めた。土曜日朝、幼虫が食害を始めたのを確認し、新芽ごと除去した。月曜日には孵ったばかりの幼虫が群れているところを取り除いた。日・月の「夏日」が孵化を早めたのだろう。

 幼虫が成長して生垣全体に散らばると、あっという間に新芽が食い尽くされる。そうならないために、しばらくチェックを続ける。

ところで、この2、3日の、いわきの最高気温は何度だったか。12年前にこんなことをブログに書いた。

――いわき市はハマ・マチ・ヤマの三層構造だ。福島地方気象台が発表するいわきの気温は、マチとヤマの人間には「ずいぶん体感気温と違っている」となる。

測候所があったハマ(小名浜)の気温がいわきの気温になっているからだ。ハマは、日中は海風が吹いて涼しい。

いわきをよく知らない人は、いわきのマチに来て、「思ったより暑い」と驚く。気象台が予報するいわきの気温はハマの気温、マチの気温ではない、と教えてやるしかない。テレビがいわきの気温を伝えるたびに、「いわき(小名浜)」と表示してくれと思う――。

今はテレビも「いわき(小名浜)」と伝え、表記する。それはいいのだが、中心市街地の平の気温は、気象台のホームページからは拾えない。平の住民として参考にするのは同じ内陸部の山田町だ。

たとえば、4月10、11、12日の最高気温。小名浜では20.1度、19.1度、19.6度だった。これでは夏日のような内陸部の暑さが伝わらない。

そこで山田町の気温で体感気温を確かめる。山田では10日が25.5度、11日が24.0度、12日が25.1度だった。「春らんまん」を越えてほぼ「夏日」だったことがわかる。

ハマ・マチ・ヤマからすると、山田はマチに入る。ヤマ(夏井川渓谷)は山田より暑かったことだろう。