2023年12月29日金曜日

おちゃめな85歳

                      
 平日の夕方5~6時台は全国・ローカルのニュース番組を見る。7時台は、カミサンの見たい番組があればそちらを優先する。

 12月25日の月曜日は夜8時になってから、カミサンがEテレにチャンネルを合わせた。この時間にテレビを見るのは珍しい。

 ハートネットTV「私のリカバリー 85歳のトキメキはやまず 田村セツコ」。田村セツコって? カミサンが高校生のころ、少女雑誌でなじんだ挿し絵画家(イラストレーター)だそうだ。

 服装はまるでおしゃれな少女のまま。表情もとてもおばあさんには見えない。こんな人がいたのか! 少女雑誌を読まずにきた人間は、それこそ少女がそのまま老女になったような不思議さにびっくり、いや、ぶったまげた。

 まずはEテレの番組宣伝に当たる。「老いは人生初体験の大冒険。ワクワク楽しまなくちゃ」とあった。さらに、母と妹のダブル介護を経験したが、持ち前の好奇心で「楽しい介護」を探求、幸せな時間だったと振り返る――。なんとポジティブな生き方だろう。

 翌日、いわき駅前の総合図書館から『おしゃれなおばあさんになる本』(興陽館、2017年)、『おちゃめな生活 あなたの魔法力を磨く法』(河出書房新社、2016年)、『白髪の国のアリス 田村セツコ式 紙と鉛筆♡健康法』(集英社、2022年)の3冊を借りてきた=写真。

 まずは、これまでの歩みを。1938(昭和13)年に東京で生まれ、1960年代に雑誌「少女ブック」やマンガ誌「りぼん」「なかよし」の表紙などを担当し、1980年以降は名作童話に挿し絵を描いた。現在は絵日記教室の講師のほか、年に数回の個展、講演会などを開いているという。

 自分の着るものについては、「私って、服装の好みがぜんぜん変わらないの」。小学校のころから、白いブラウスと黒のベスト、チェックのスカート、黒か紺色のカーディガンが好きだった、という。

おばあさんになって、白髪が増えても同じ服装をしている、と振り返る。「女学生みたいって思われるかもしれないけど、そういうおばあさんがいてもいいんじゃない?」

 テレビで見たときの第一印象はまさに10代、それも小学生の女の子が着るような……だったのは、まちがいではなかった。

 驚いたのは、実は外見よりも内面の方だ。老いを初体験と考え、ダブル介護を苦痛ではなく楽しみにする好奇心。

 介護のコツは相手を褒(ほ)めて褒めて褒めまくることだという。「さすが」と「おかげさまで」は点滴より効果がある。

「わたしもいつのまにか、おばあさんの仲間入りをしました。ま、とにかく、おばあさんになるのは、生まれて初めてなので、内心、ひそかに、わくわくドキドキしているところです」

ということで、年の終わりに、いい言葉と出合うことができた。(ブログは12月30日から1月3日まで休みます)

2023年12月28日木曜日

協働こそが平和への道

                     
 昼食がパンのときはパレスチナのオリーブオイルとハーブミックス(香辛料)のザアタルを使う。向こうでは両方をパンにかけて食べるそうだ。

 カミサンが店(米屋)の一角でフェアトレード商品を扱っている。オリーブオイルとザアタルは、オリーブ石けんとともに、合同会社「パレスチナ・オリーブ」(皆川万葉代表)から取り寄せる。

オリーブオイルは、パレスチナの北部(1949年からイスラエル領)の生産者団体「ガリラヤのシンディアナ」がつくっている。そこから同社が輸入している。

およそ1年前、拙ブログでこんなことを書いた。――2021年秋、皆川さんからカミサンに電話が入った。世界的なコンテナ不足で、注文した品物の入荷が遅れる、と。

それが新年に入ってやっと届いた。「パレスチナ・オリーブ通信」が添えられていた。商品の説明や現地の様子などのほかに、海上輸送の混乱と、4月入荷分からの値上げについて補足説明をしている。

「コロナ禍の影響で、コンテナ不足、アジアの港の混雑、海上運賃の高騰が起きていると言われている一方で、日本の経済力の低下や円安も影響しているようです。つまり、コンテナの『取り負け』や、コンテナ船が日本の港へ寄らないということが起きているそうです」

海上輸送の混乱は、現象的にはコロナ問題が主因だろう。しかし、根っこには日本の経済力の低下という問題が横たわっている。深く考えさせられる指摘だ――。

2023年10月7日。パレスチナのガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエル領内に越境攻撃を仕掛け、イスラエル市民1400人以上を殺害し、多くの兵士や市民を人質にして連れ去った。

イスラエルはその報復としてガザ地区に無差別攻撃を続け、年末を迎えたこの時点で死者は2万人を超えたとされる。

最新の「パレスチナ・オリーブ通信」第74号によると、各生産団体とは連絡が取れている。危険がないわけではないが無事だという。

「ガリラヤのシンディアナ」は1996年、イスラエル領内のアラブ・パレスチナ人農家の支援と、アラブ・パレスチナ女性の仕事づくり・エンパワーメント(人々に夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っている素晴らしい、生きる力を湧きださせること=ウィキペディア)を目的につくられた。アラブ・パレスチナ女性とユダヤ女性が共同で運営している。

 11月半ばにオリーブの収穫イベントが行われた。前から「ともに過ごし、一緒に作業することでつながる。協働を示し、シンディアナのビジョンを知ってもらう機会になる」という認識でイベントを開いてきた。この時期だからこそ重要だという認識の下で開催されたのだろう、と皆川さん。

 協働こそが平和への唯一の道――。市民の惨状を伝えるニュースに触れるたびにこのことをかみしめる。

2023年12月27日水曜日

家の解体

 ここに何があったんだっけ? 街への行き帰り、決まった道を通る。更地になったところがある。どんな家が建っていたのか、思い出せない。夫婦でそんな話をするケースが増えてきた。

高度経済成長とともに核家族化が始まっておよそ60年。先祖伝来の田畑と家がある農山村、あるいは古くからの路線商店街にかぎらない。土地を買ってマイホームを建て、そこで一家を構えたニュータウンでも、少子・高齢化、そして過疎化が著しい。

子どもは大きくなって独立し、よそにマイホームを建てるか、マンションを求めるかして戻って来ない。

三世代家族が普通だった時代はとうに去り、古くなった家は親が守るが、その親もやがては彼岸へ渡る。

東北地方の太平洋側は、これに東日本大震災が加わる。さらに、いわき市内では令和元年東日本台風による家屋損壊が住宅の解体・更地化に拍車をかけた。

12年前、いわき市の沿岸部でも多くの人命と家屋が失われた。津波被害の及ばなかった内陸部でも、かなりの建物が損壊した。わが生活圏の風景も変わった。

それを被災2年後の拙ブログで確かめると――。古くからの通りにある家の周りにパイプで足場が組まれ、防塵シートが張られたと思ったら、たちまち解体されて更地になった。何軒か先の家も、日をおかずに解体された。

被災者の生活再建を支援する制度の一つに「損壊家屋等解体撤去事業」がある。「半壊」以上の判定を受けた家屋などについて、いわき市が所有者の申請に基づき解体・撤去を行う。

近所の家も再建するのにその制度を利用したのだろう。「災害復旧工事 基礎解体撤去工事中」の看板が立った。

次は3・11の1カ月後、2日連続していわき市南部を震源とする強烈な「余震」に見舞われた直後のケース。

わが家と道路をはさんで斜め向かいにある家の土蔵が解体された。311で傾き、4114・12でさらにダメージを受けた。

あとで丸太3本を支えにしたが、それは解体作業中に崩壊するのを防ぐための措置だったようだ.。

真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。

ブロック塀で仕切られた駐車場が土蔵の東側に隣接してある。311以後、車の持ち主は塀から5メートルも離れて車を止めるようになった。

土蔵が崩壊すればブロック塀ごと車が押しつぶされる。容易に想定される事態だ。その危険性はひとまず解消された。

土蔵はやがて木造の物置に変わった。それに合わせて車道側の生け垣がブロック塀に変わった、先日、その物置から解体が始まった=写真。母家も含めて更地になるのだという。

毎日見てきた風景だから、残像がまだなまなましいが、やがてはどんな家で、どんな人が住んでいたか、も含めて、記憶から抜け落ちてしまうにちがいない。

 ましてや、行きずりの新しい更地などは「前に何があったんだっけ」となる。グーグルのストリートビューさえ、つかの間の記録にすぎなくなった。 

2023年12月26日火曜日

調練場に砂山が

        
 夏井川の堤防を利用して家へ戻る途中、字名が調練場という広い河原のわきを通る。河口からはざっと4キロのヨシ原だ。

 令和元年東日本台風では、堤防は無事だったが、河川敷に土砂が堆積し、至る所にゴミが漂着した。

 被害の大きかった平・平窪などで復旧工事が始まり、やがて調練場でも土砂除去と立木伐採が行われた。令和2(2020)年12月その他の拙ブログから、そのときの様子を振り返る。

 ――小川~平の夏井川で進められている河川敷の土砂除去工事が、いよいよ下流の中神谷(左岸)でも行われるようだ。

クリスマスイブの日中、重機が河川敷に入って除草をしていた。そばのサイクリングロードには「除草中」の看板が立った。翌日には岸辺のヤナギの伐採も始まった。

12月26日はさらに重機が何台も投入されて、除草と伐採が行われた。浅瀬では定期的に重機とダンプカーが入って川砂を採取している。それも並行して進められている。

字名からいうと、調練場~天神河原の河川敷だ。川がS字状に蛇行するところで、サッカーコートが複数とれるほど、土砂が広く厚く堆積している。現状は河原(砂地)とヨシ原、草原といったところだろうか。

藩政時代、磐城平藩を治めていた内藤侯が延岡へ移ったあと、中神谷村は笠間藩に組み入れられた。

この分領の庶務をとるため、延享4(1747)年、浜街道沿いの苅萱に神谷陣屋が置かれた。

陣屋の裏手に藩士の兵式訓練を行うための河川敷が広がっていた。それが調練場だ。

ところが、夏井川に近いため、ときどき水害に見舞われた。そこで文政6年(1823)、600メートルほど離れた小川江筋沿いの山際に移転し、明治維新を迎える。跡地は今、平六小として利用されている。

調練場には大水のたびに土砂が堆積する。令和元(2019年)の台風19号では、堤防寄りのサイクリングロードが、部分的にだが1メートル前後、土砂で埋まった。岸辺にはヤナギ、広大なヨシ原と草原にはニセアカシアやイタチハギなどが生えている。大水のたびに上流から種が流れてきて活着したのだろう。

クリスマスイブから5カ月。調練場では土砂除去工事が続き、岸辺のヤナギや竹林も次々に伐採された――。

以上はいわば、調練場の最初の土砂除去だった。その後、対岸の護岸工事が始まり、調練場側でも岸辺に砂山ができた。

そして、今度は堤防側の土砂除去が再び始まり、この師走も続いている。サイクリングロードのそばにはいくつも砂山ができた=写真。同ロードと同じレベルまで土砂を除去することになるのだろう。

にしても、と、ここでも思う。浸食・運搬・堆積の「河川の3作用」がいかにすさまじいものか。

令和元年以後、今も続いている河川の防災工事は、いわば恒久的というよりは、応急的なものではないだろうか。

いずれまた川は狭まり、ヤナギが生え、中洲ができる。それが自然の輪廻にちがいない。

2023年12月25日月曜日

初氷

                      
   真冬並みの寒波がやって来て、家の前にある大皿の水が凍ったという。土曜日(12月23日)の朝、店の戸を開けたカミサンが気づいた。

大皿に白いサザンカの花が活(い)けてある。その花が散って水に浮き、透明な氷に閉じ込められていた=写真。前日にも薄氷が張ったというが、ここまで凍ったのは今冬初めてだ。

快晴とはいえ、いや快晴だからこそ放射冷却がおきたのか、茶の間も冷えびえとしていた。石油ストーブだけではしのげない。ヒーターもかけた。

この日午後、いわきキノコ同好会(冨田武子会長)の総会がいわき市文化センターで開かれた。北風に備えてジャンパーをはおり、マフラーを首に巻いて出かけた。

車のエンジンをかけると、自動音声で女性が教えてくれる。「きょうは12月23日です。天皇誕生日です」。ん、天皇誕生日? カレンダーは土曜日で青数字のままだったが……。

そうか! 1年前に車を買い替えた。フィットからハイブリッドのアクアへ。走行距離は8万キロ超の中古車だが、ナビやドライブレコーダー、バックカメラなどが付いている。

キーはスマートキー。それをズボンのポケットに入れたまま、ドアのノブに触れて開閉し、スタートボタンに触れてエンジンをかけたり切ったりする。

スタートボタンを押すと同時に、「きょうは……」の音声が流れる。令和ではなく、平成の車だったのだ。

それはともかく、師走に入ってからはやはり気持ちが落ち着かない。二十四節気の一つ、「冬至」は新聞で知った。すっかり忘れていた。その日は小中学校の2学期終業式でもあった。その翌日の「天皇誕生日」なので、さらに頭がこんがらかった。

さて、キノコ同好会の方だが――。対面での総会は4年ぶりだ。コロナ禍が影響して、ほかの団体同様、書面審議の総会が続いた。

拙ブログに当たると、令和元(2019)年12月に対面による総会が開かれている。その後の記録はない。

令和元年10月には台風19号が襲来し、いわきの夏井川流域を中心に甚大な被害が出た。

それから2カ月後の総会だったので、このときは勉強会止まりだった。懇親会は中止になった。

今回も懇親会はなしだったが、勉強会の講師を、というので、「文化菌類学」の話をした。

菌類研究は自然科学の範疇に入る。菌類の代表ともいうべきキノコは、しかし、「食」や「毒」、あるいは「色」や「形」の多様性から、文学・美術その他さまざまなジャンルと絡めて論じられることが多い。それを勝手に「文化菌類学」と呼んでいる。要はキノコの雑学。

ウクライナの村では秋になると、国境の先にあるロシアの松林に入ってキノコ狩りをする。そんな新聞記事をまくらに、スラブのキノコ文学に触れながら、最後にまたウクライナへ戻った。

暮らしのレベルでは国境はない、「共有」が優先される。戦争や人災(原発事故)がそれをダメにする。キノコから世界を見ると何が障害になっているのかがわかる――ついそんなところまで話が転がった。

2023年12月23日土曜日

「転ばないでね」

                                 
 コロナ禍の前は、少人数の忘年会が1回か2回はあった。シルバーだけなら、最初からなじみのスナックで、となる。

 いわき市の一番の飲み屋街は、いわき駅前の田町(西側)と白銀町(東側)だ。田町に会社があったので、飲み会となればすぐ目の前のネオン街に繰り出した。

 会社を辞めて15年もたつと、なじみのスナックがなくなり、飲み屋街そのものが「見知らぬ街」同然になった。

 先日、それこそ数年ぶりで少人数の飲み会があった。夕方、バスで出かけるとき、カミサンから声がかかった。「転ばないでね」

 田町で酔って、千鳥足になって転んで骨折でもしたら、そのまま寝たきりの晩年になりかねない。飲んでなくても、転べばオオゴトになる。そんな人生の日暮れに入ったことは確かだ。

 ここ2~3カ月のことだが、カミサンの友人・知人が何人も、自宅で、外で転んでひざや肩を骨折し、入院して手術した。電話をかけるたびにそうした報告を聞くので、つい一声かけたくなったのだろう。

 身近な人間の例がある。足がもつれて転び、背中を打った。歩くことはできるが、背中が痛くて食事もままならない。町医者に診てもらったが打ち身という診断だった。

 ところが、痛みが引かないどころか、ひどくなる一方だ。とうとう救急車を呼んで病院に運ばれたら、背骨が2カ所、圧迫骨折をしていた。

 上半身にコルセットをはめ、リハビリを続けた結果、杖(つえ)をつきながらだが自分の足で歩けるようになった。

 転べばどこかを打つ。ひざ、肩、ひじ、手、背中……。骨折がわかると、手術が必要になるケースもある。肝心なのはそのあとのリハビリだ。

 拙ブログで何度か取り上げたが、筋肉の質量が低下しているシルバーは、なにかのけがや病気をきっかけに、歩けなくなってしまうことがある。

ある本によれば――。加齢や病気で筋肉量が低下する→足の筋肉量低下により歩行速度が落ち、疲れやすくなるため全体の活動量が減少する→全体の活動量が減少すると、エネルギー消費量が減り、動かないとお腹が空かないので食欲もなくなる→慢性的に栄養不足の状態になると、筋肉量がさらに低下し、全体の活動量が減る。「フレイルの悪循環」というそうだ。

先日、カミサンが病院から福島県発行の「フレイル予防ハンドブック」=写真=を持ち帰った。

フレイルとは、加齢とともに心と体の働きが弱くなってきた状態のこと、だそうだ。その先にあるのは要介護状態で、それを避ける(フレイルを予防する)ポイントは「人とつながる」「体を動かす」「いろいろ食べる」だという。

 「軽い運動や体操を週に1回もしていない」などのチェックシートが五つある。一つでもあてはまれば「元気なうちから予防を」、三つ以上あてはまると「すでにフレイル状態」だとか。

軽い運動と体操は欠かせない。そして、老夫婦の間には「転ばないでね」がこだまする。

2023年12月22日金曜日

『炭坑(ヤマ)の滴』

                                
 常磐炭田史研究会(野木和夫会長)から、小山田昭三郎著『炭坑(ヤマ)の滴――附・私と戦争(従軍記録)』の恵贈にあずかった=写真。

野木さんはいわき地域学會の仲間でもある。今年(2023年)の10月、地域学會の第378回市民講座の講師を務めた。

演題は「暗号<セケ200>を受信した学徒動員兵」で、同じ企業(常磐炭礦)の先輩だった小山田さん(95歳)の戦争体験記を紹介した。

そのときの拙ブログをかいつまんで再録すると――。小山田さんは旧制磐城中学校4年生(16歳)のとき、特別幹部候補生として陸軍航空通信学校に入学し、翌昭和20(1945)年3月、台湾へ配属された。

台湾では、主に本土(大本営)、沖縄、中国(南京)、マニラ、シンガポールなどとの交信を担当した。そのなかで同20年6月18日、沖縄からの最後の電文「セケ200」を受信する。

「セケ200」とは、「敵(アメリカ)の戦車が200メートルに」迫っている、という意味の暗号だった。この電文を最後に、沖縄からの通信は途絶える。

小山田さんは同21年3月、最後の復員船で鹿児島に上陸し、汽車で故郷の内郷へ帰還した。

『炭坑の滴』は、その後の小山田さんの人生を映し出す。小山田さんは常磐炭礦に入社し、常磐ハワイアンセンターが開業すると温泉供給担当になる。

閉山後も残務整理に携わり、昭和62(1987)年3月に最後の仕事である常磐炭礦峰根浄水場を市に移管したあと、会社を退職する。

本のサブタイトルに「消えた石炭産業 炭坑のラスト・サムライ奮闘記」とあるのはそのためだ。

地中深くにある坑道の下盤がふくれあがる現象を「盤ぶくれ」という。言葉としては知っていても、小山田さんの記述とそれに基づくイラストでやっと実態が理解できた。

坑道は側面と天井が枠で防護されている。しかし、下盤にはそれがない。大地、つまり地上からの圧力で下盤がふくれあがる。一晩で坑道が狭くなることもあったという。

常磐炭田のうち、常磐・内郷地区は温泉地帯でもあった。石炭1トンを掘るのに温泉40トンをくみ上げる必要があった。

「排水なくして出炭なし」。昭和29(1954)年には社内に坑内水対策研究会が発足し、やがて「強制抜水」技術が確立される。青函トンネル建設工事には、常磐炭礦のこうした排水技術が役立てられたという。

最後に一つ。閉山後、系列会社が旧立坑を利用して産業廃棄物を処理していた。ある年の暮れ、小山田さんが現場事務所を訪ねたあと、立坑で爆発事故が起き、2人が死亡する。

この事故には記憶があった。新聞記者になって2年目、大事故に気づくのが遅れて先輩が取材をした。

たまたま仲良くなったNHKの新米記者も、テレビの中継にただただ「現場は混乱しています」を繰り返すだけだった。

サツ回りの経験が浅い記者にとってはとてつもない大事故だった。その初動のしくじりを思い出した

2023年12月21日木曜日

いわきの捕鯨史を知る

        
 いわき地域学會の第380回市民講座が12月16日午後、いわき市文化センターで開かれた。いわき市文化財保護審議会委員の田仲桂さんが「磐城平藩の捕鯨について――『磐城七浜捕鯨絵巻』に関する一考察」と題して話した=写真。

今年(2023年)5月、平沼ノ内の海岸にマッコウクジラの子どもが死んで打ち揚げられた。それをまくらに日本の捕鯨研究史を紹介しながら、「磐城七浜捕鯨絵巻」の研究課題などを論じた。

 まずは同絵巻について。市教委によると、絵巻は磐城平藩領内の捕鯨の様子を描いた作品で、「浜の巻」と「海の巻」の2巻がある。

江戸時代前期、磐城平藩を治めていた内藤家の子孫が所有していたが、平成4(1992)年、いわき市に寄贈し、翌年、市の文化財に指定された。

 前に何度か公開されたことがある。クジラを追い、クジラと格闘する漁民だけでなく、南北に貫く街道には町や村、山や川が描かれている。

 田仲さんは絵巻を分析することから話を始めた。「磐城七浜捕鯨絵巻」や「浜の巻」「海の巻」といった名称はすべて後付けで、江戸時代、この絵巻(絵図)がどう呼ばれていたかは明らかになっていない。

 もとは絵巻ではなかった。虫食いのあとから、折りたたまれて保管されていた。さらに、塗り残しと思われる個所が多いので、絵は未完成と考えられる、ともいう。

 絵画作品の性質として、描かれているものがそのまま史実を表しているとは限らない。歴史資料として活用する場合は制作の目的や背景、描写内容の精査が必要――といった「史料批判」には大いに納得がいった。

 そうした課題を踏まえたうえで、磐城平藩を中心にしたいわき地方の捕鯨史を紹介した。

 海で生きて泳いでいるクジラを銛(もり)で突いて捕らえることを「鯨突(くじらつき)」と呼び、負傷したり死んだりして海をさまよい、あるいは岸に漂着したクジラを「寄鯨(よりくじら)」という。5月のマッコウクジラは「寄鯨」だろう。

 クジラに関する磐城平藩の古い史料は、寛永16(1639)年の寄鯨に関するものだった。

 同藩で鯨突が始まったのは慶安3(1650)年、房州磯村の権兵衛がその技術を伝えたという。

 同年12月19日、江名浜で長さ7尋(ひろ=約10.5メートル)のクジラが捕獲される。これが磐城平藩領内初の鯨突だった。

 これ以前は寄鯨のみだったが、以降は鯨突が増えていく。寛文9(1669)年と延宝6(1678)年が突出して多い。

時期は冬、12~1月に集中している。場所としては四倉、中之作、小名浜、江名、久之浜の順、とまあ、市民には興味深い話が続く。

 絵巻に戻れば、制作依頼者は内藤義概(俳号・風虎)、制作場所は江戸、絵師は狩野派といった仮説が立てられるそうだ。

 講義が終わってからの質疑応答がまたおもしろかった。ハマに住む人にとっては、今に通じる話であることがよくわかった。

2023年12月20日水曜日

田んぼ道にタカが

        
 この出合いは僥倖(ぎょうこう)というほかない。夏井川渓谷の隠居へ行くのに、平・平窪の田んぼ道を通っていると、車の前方すぐ上にハト大のタカが現れた。

すぐカミサンが助手席からカメラを向けた。何コマか撮ったうちの1枚がこれ=写真。翼の下面は白っぽくて尾が長い。頭は丸い。かぎ状に鋭く曲がったくちばし、目からほおに伸びた黒班。チョウゲンボウにちがいない。

夏井川の河川敷を散歩していたころ、ときどきチョウゲンボウに出合った。東日本大震災の前、平成20(2008)年3月のブログに最初の記録がある。それを要約して紹介する。

――散歩にはカメラと双眼鏡を欠かさない。夏井川の堤防や河川敷にも季節の花が咲き、野鳥がやって来る。カメラは主に花やハクチョウを撮るため、双眼鏡は野鳥を観察するためだ。
 ここ何日か国道6号バイパスの終点、夏井川橋でハヤブサの仲間のチョウゲンボウを観察している。

いつもの散歩コースをたどって橋に近づく。と、橋脚に取り付けられた作業台の柵に、黒く小さなかたまりがくっついている。

この橋では3年続けてチョウゲンボウを観察した。平成20年は1羽だったが、その前の2年間はつがいで羽を休めていることが多かった。4羽になったときもある。

橋の下にはヨシ原が広がっている。チョウゲンボウの大好きなノネズミなどが生息しているのだろう。

「キキキキキキ」。あるとき、けたたましい鳴き声が響き渡った。見ると、チョウゲンボウがどこからか飛んで来て、橋げたに止まるところだった。

休んでいるときのチョウゲンボウは実に物静かだ。太陽が殊のほか好きなのか、夕方は夕日に向かってじっとしている。朝は朝で、朝日に向かってじっとしていることが多い。

ただし警戒心は強い。堤防から眺める程度ならチョウゲンボウも平気だが、河川敷に降りて橋脚に近づくとすぐ逃げられる。間合いを測るのが難しい鳥だ――。

 それから1年2カ月後。――車で堤防を通っていたら、すぐ近くでチョウゲンボウがホバリングをしていた。

堤防よりはすこし高い程度の空中から河川敷を凝視している。車を止めて窓から後ろ姿をバシャバシャやった。後方に車が来て止まったことをたぶん察知したはずだが、狩りはやめない。珍しく何コマも撮った――。

震災後、ドクターストップがかかって散歩をやめた。チョウゲンボウが今も夏井川橋をねぐらにしているかどうかはわからない。

が、車で堤防を通っていると、たまにそれらしい鳥に出合う。つい先日、街からの帰りに堤防へ出ると、前方上空に尾の長いタカが飛んでいた。そんなに大きくない。すぐチョウゲンボウだとわかった。

平窪のチョウゲンボウはそれこそ車の目と鼻の先に現れ、強風のなかでバランスをとりながらそばの電線に止まった。

またとないシャッターチャンス。とはいえ、ほどなく後続車がやって来てクラクションを鳴らした。チョウゲンボウ観察はそれで打ち切った。

2023年12月19日火曜日

「天気雪」

                     
 やはり冬である。気温の変化が激しい。土曜日(12月16日)は小田原で夏日(最高気温26.0度)を記録し、いわき市の山田町でも18.7度まで上がった。と思ったら、日曜日には寒波がやってきた。月曜日も寒かった。

 まずは風。日曜日は寝床に入っているころから強い風が吹き荒れた。「西高東低」の冬型の気圧配置になったのは、容易に想像がついた。

 西高東低になると、福島県では会津地方が雪、中通りと浜通りは冷たい風に見舞われる。

 会津と中通りの間には奥羽山脈、中通りと浜通りの間には阿武隈高地が横たわる。日本海側の新潟・会津に大雪をもたらした雪雲が奥羽の山を越え、阿武隈の山を越えるうちに雪を使い果たしてカラッ風になる。

 拙ブログに何度も書いていることだが、いわきはハマ・マチ・ヤマの三層構造だ。冬は晴れる日が多い。といっても、それは主にマチとハマのこと。ヤマは雪雲の勢力が強いと中通り同様、銀世界に変わることがある。

夏井川流域でいえば、支流・好間川を含めたいわきの最上流部、三和町や川前町が雪に覆われる。

17日の日曜日はいつもより遅く、夏井川渓谷の隠居に着いた。晴れてカラッ風が吹き荒れていた。畑に生ごみを埋めて隠居に戻ると、すぐ正午になった。

こたつに入って、白骨と化した対岸の林を眺めながら弁当をつつく。と、日が差しているのに、白っぽいものがふっかけてきた=写真上1。

濡れ縁や庭の板テーブルに触れたかと思うと、雪はすぐ消える。天気雨ならぬ「天気雪」だ。

天気雪は1時間ほどでやみ、また太陽が顔を出した。強風でちぎれた雪雲がたまたま渓谷の上空に現れ、雪をふっかけながら通過した、といったところか。

しかし、1時間ほどたつとまた雪がふっかけてきた。今度は天気雪ではない。ぐずぐずしていると、道路が白くなるかもしれない。

あわてて部屋を片付け、雨戸を閉めて、渓谷からマチへ下りた。不思議なもので、同じ渓谷でもちょっと下流側は晴れたままだ。

下界(マチ)から振り返ると、阿武隈の稜線は水石山も、二ツ箭山も晴れてくっきりと浮かんでいた。

昼前、平・中塩の田んぼ道から西方の山並み(湯ノ岳の右側)に、つくりかけの風車が2基見えた=写真上2。初めて気づいた。これから稜線のあちこちに風車が立つのか――。

天気雪の話に戻る。マチはもちろん積もるようなことはなかったが、ヤマはその後、積雪があったようだ。つまり、初雪。ただし、マチからみえる山並みは素顔のままで、白く化粧はしていなかった。

2023年12月18日月曜日

もちを配る

                     
 師走に入ると、カミサンの実家(米屋)では歳暮用のもちをつく。もちをつくといっても、臼(うす)と杵(きね)は使わない。電気もちつき器がある。

もち米は、ドラム缶を利用したまき釜に蒸籠(せいろ)を三段重ねにして蒸す。4年前(2019年)までは燃料のまきをくべ、釜の水を継ぎ足すのが役目だった。つまりは「釜じい」、火と水の番だ。

その後、当主(義弟)が友人に手伝ってもらうようになってからは、逆に人手が足りて「釜じい」をしなくてもよくなった。

今は連絡がきて、つきたてのもちを取りに行き、親戚やお得意さん、世話になっている人たちに届けるだけになった。

今年(2023年)も10日の日曜日夕方、受け取りに行き、その足で3軒の家を回った。

私はたいていアッシー君だから、車の中でカミサンの帰りを待つ。なかなか戻って来ない。1年ぶりという人もいるので、話が積もるほどあるのだろう。その間のイライラを解消するために、空を、雲を、建物を、木を眺める。

住宅地の狭い道路に降り立ったのは冬鳥のツグミだった。ハクチョウやカモ類は夏井川で見ているが、庭にやって来るジョウビタキやツグミはまだだった。ツグミ初見! それだけで気持ちが晴れる。

もちは白もち、豆もち、のりもち。白もちは元日の朝、雑煮になって出る。

もちは冷えると固くなる。それを遅らせるために、茶の間の電気マットに並べ、上には毛布を掛ける。それからカチンカチンになる前に包丁を入れる。

今年はまずカミサンが切り始め、手のひらが痛くなったといって、こちらに包丁をよこした。

右手で包丁を握り、手袋をした左の手のひらで包丁の峰を押さえ付けて、ぐっと沈める。これを何度も続けると、手のひらが痛くなる。

いつもよりは早めだったので、わりと楽にもちが切れた=写真。それと前後して、座卓にこたつカバーを掛けた。

電気マットの上に壊れたこたつを置いて座卓代わりにしている。寒くなるとマットをオンにして、足に毛布をかける。

「早くこたつカバーをしよう」。何度も催促されるのだが、「そのうち」「そのうち」と先送りにしてきた。

やがて実力行使が始まり、座卓のわきにある資料類が近くのテーブルに移された。こうなると、もう「そのうち」は効かない。先日、座卓にカバーが掛けられ、こたつらしくなった。

いつもの年末の光景だが、今年はさらに来年の年末の予定が飛び込んできた。

師走の初日、シルバーサークルの例会でおしゃべりをした。するとすぐ、令和6年度の事業計画をつくらないといけない、ついてはまた12月に講師を、と頼まれた。

 新しい手帳に最初の予定を書き込むと、また連絡が入った。「演題は?」。1年後にしゃべる内容を、今、決めろという。とりあえず頭に浮かんだことを言葉にして伝え、仮の演題を手帳に書き加える。

そうか、これがシルバーの生きる流儀なのかと納得したのは、それから少したってからだった。

2023年12月16日土曜日

新大久保の「マザリナ」

            
 日本の国際NGO、シャプラニール=市民による海外協力の会に関係している。創立メンバーの一人がいわき出身の人間で、学校の寮の仲間だった。

 私はマンスリーサポーター、カミサンは正会員。先日、正会員に年末のプレゼントが届いた。

シャプラが販売するクラフトリンクの商品とともに、バングラデシュで家事使用人として働く少女の絵手紙が入っていた=写真。

ベンガル語で「国花の名はシャプラ」と書いてあるとか。シャプラは「睡蓮」。そこまで文字を覚えたということなのだろう。ちなみに、シャプラニールは「睡蓮の家」を意味するそうだ。

ほかに、今年(2023年)は多文化共生コミュニティスペース「マザリナ」の運営を始めた、ともあった。

それで思い出した。先に届いた季刊の会報誌「南の風」に「マザリナ」の記事が載っていた。

「マザリナ」とはなつかしい響きを持つ名前だ。記事には、いわきで展開したまちの交流サロン「まざり~な」からもヒントを得た、とあった。

 シャプラニールは、バングラデシュやネパールなどで支援活動を展開している国際NGOだ。東日本大震災と原発事故が起きると、初めて国内支援に入った。

いわき市に交流スペース「ぶらっと」を開設し、5年間にわたって津波被災者や原発避難者の支援を続けた。同時に、地元のザ・ピープルなどと一緒になって「まざり~な」活動を展開した。

応急仮設住宅に入居している避難者と違って、借り上げ住宅(アパートや戸建て住宅)に住む人は、近くに知り合いがおらず、情報も入りにくい。

そういった人たちが近所の店に立ち寄ったついでに、おしゃべりや情報交換、あるいはちょっとした相談ができれば――という場づくりが目的だった。

 「いわきの町にずーっと住んでる人も、新しく住み始めた人もみんながなかよく交流できる場所として、まちの交流サロン『まざり~な』が始まりました。あなたの町のお店などに貼ってある丸いステッカーが目印! 買い物ついでに立ち寄っておしゃべりでもしていきませんか?」

米屋を営んでいるわが家やみそ・醤油醸造販売店などが店頭にステッカーを張り、上記のような内容のチラシを置いた。

「南の風」の記事によれば、アジアからの留学生、あるいは技能実習生が増えるにつれて、「生活情報へのアクセスが困難」「日本人とのかかわりが限られている」といった問題が見えてきた。

 さらに、コロナ禍を経験して「生活困窮に陥る外国人向けの生活支援」も課題になった。

いわきでもそうだが、自分たちの生活圏内に、普通に外国人がいるようになってきた。

そこで、新宿の新大久保に「在住外国人向けの生活情報を提供し、地域のさまざまな人々のつながりを促進する場」として、多文化共生コミュニティスペース「マザリナ」ができた。月2回開設するという。

いわきの「まざり~な」が新大久保で「マザリナ」に発展したと思うと、静かにエールを送りたい気分になる。

2023年12月15日金曜日

続・冬の庭

                      
   きのう(12月14日)の続き――。夏井川渓谷の隠居の庭にカエデの木がある。その根元から生えた細い枝先に、ウスタビガの黄緑色の繭(まゆ)があった=写真上1。

いつものように写真を撮り、枝ごと回収して「空き巣」コレクションに加えることにした。

初めてわかったのだが、繭は極細の糸で枝・葉柄とつながっている。その精緻さから、枝は釣り竿(ざお)に、繭は提灯(ちょうちん)に見えてきた。

まずは外観から。繭は長径3.9センチ、短径が2.5センチ。上端は閉じて水平、中央部が膨らんだ紡錘(すい)形で、下端には穴が開いている。穴は中に入った雨の吐き出し口なのだとか。

ウスタビガといっても、私は生態や形態を知らない。初冬に風変わりな緑色の空繭と出合い、ネットで調べてウスタビガの幼虫が“施工者”とわかっただけだ。

今回もネットでウスタビガのあれこれを知った。それによると、卵のまま越冬し、4月ごろに孵化する。6月中旬には繭をつくって蛹(さなぎ)になり、10~11月ごろに繭の上端から出て成虫として活動する。

幼虫の食草はクヌギやコナラ、サクラ、カエデ類などだという。なるほど、カエデの葉を食べて大きくなり、やがて幹を伝って根元まで下り、地面すれすれに生え出た枝先に繭をつるしたのだとすると、納得がいく。

その際、どんな手順で繭をつくったのだろうか。枝先には1枚の葉があった。その葉は枝から離れ、ちりちりに枯れながらも繭をつるす糸とくっついている。

カエデを含む落葉樹は、秋、葉柄の根元と枝の境目に離層ができて、葉柄ごと枝から葉が離れる。

葉柄が枝から離れたあとも、葉は落下することなく繭の付属物のように残ったままになっているのは、幼虫が繭を支える糸と葉柄を“のり付け”したからだ。

それも頭に入れて、枝と繭とのつながりがわかるように糸を緩めて画像を拡大した=写真上2。

ウスタビガの幼虫は口から糸を吐き、枝に2カ所、そして枝からのびた葉柄に糸を“のり付け”し、糸を「命綱」にして繭を編んでいったのではないだろうか。

枝の先端から伸びたカエデの青葉は、夏、繭を保護する役目をはたしていたのかもしれない。

さて、繭のつくり方だが、上部からつくったのか、それとも下部からなのか、よくわからないので、チャットGPTの検索エンジン「ビング」に聞いてみた。

困ったことに、「下部からか」と問えば「上から下へ」、「上部からか」と聞くと「下部からつくっていく」と答える。

日曜日に隠居へ行くと、ラジオ(NHKの第一放送)をかける。昼前は「子ども科学電話相談」をやっている。そこに電話をかけたくなるような応答ではあった。

2023年12月14日木曜日

冬の庭

                      
 冬はちっぽけな家庭菜園でも農閑期に入る。ネギしか栽培していないので、「農閑期」などという言葉を使うまでもないのだが、とにかく冬はやることがなくなる。

 夏井川渓谷の小集落に隠居がある。10月下旬に後輩が庭の草を刈ってくれた。あれほど猛烈な勢いで再生・繁茂を続けていた緑も、秋以降はおとなしくなった。

 夏は土いじりの合間に、気分転換を兼ねて庭を巡った。庭は広い。二段になっている。古い言葉でいえば「分教場の校庭」くらいはある。

師走に入った今は庭巡りの合間に、苗床のネギや辛み大根の様子をチェックする。その庭に、しばらくなかったタヌキ(たぶん)のため糞(ふん)ができていた。

これが、ため糞か――。最初に気づいたのは令和3(2021)年2月。下の庭のヘリに沿って立ち枯れの灌木がある。真冬、エノキタケの有無を確かめに行ったら、庭の隅が糞だらけだった。

ときどき、生ごみを埋めた跡がほじくり返される。震災前の師走には、真っ昼間、対岸から水力発電所のつり橋を渡って来るタヌキを目撃した。

それで、畑の穴ぼこと下の庭のため糞がタヌキで結びついたのだが、この1年余りは、糞はどこにも見当たらなかった。

この師走は、それが上と下の庭の2カ所にできていた。複数のタヌキが出入りしているのか。あるいはハクビシンもため糞をするというから、どっちかはそれなのか。

12月10日の日曜日には、さらにカミサンが下の庭の「異変」に気づいた。一見、枯れヨシのような、白く長い茎があちこちに散らばっている。

下の庭もきれいに刈り払われたから、丈の高い草はない。カミサンが下の庭へ下りて確かめると、クズのつるだった。

つるを引っ張ると、節々が地中に根を張っている。それをカミサンが鎌で切りながらはがした。

 毎年のことながら、夏場、草が生い茂ったところに、クズが覆いかぶさるようにつるを伸ばし、葉を広げる。

草刈りを怠ると、クズは下の庭から石垣を伝ってはい上がり、上の庭を匍匐(ほふく)して、テーブルを、濡れ縁を覆う――そんなイメージがわくほどの勢いで迫ってくる。放置していたら雨戸をはい上がり、屋根を越えて家全体を覆いかねない。

そのつるを利用して籠(かご)をつくる人間がいた。葉が散った11月になると、隠居へやって来て、庭のつるを刈り集める。その彼女が彼岸へ渡った今は、つるの刈り取りは遠い思い出になった。

 タヌキのため糞、クズのつる――。地べたを眺めてわかった異変だが、隠居のそばの「キノコが生(な)る木」をチェックしていたら、これまた冬らしい光景に出合った。

 頭上からか細い声が降ってくる。見るとエナガだった=写真。エナガは、尾が長い。シジュウカラやコガラなどと混群をつくることもあるが、今回はエナガだけが数羽やって来た。

 思わぬバードウオッチングに眼福を感じていたら、カエデの木の根元にウスタビガの繭があった。それについてはあしたにでも。

2023年12月13日水曜日

ストーブ要らずの日

                            
 12月10日の日曜日は街でいろいろ用を足してから、夏井川渓谷の隠居で過ごした。

 回覧資料を配ったあと、開店時間に合わせてホームセンターへ寄り、街の書店などをのぞいてから、スーパーで昼の弁当その他を買って渓谷へ向かった。いつもとは逆のパターンだ。

 空は晴れ渡り、風もない。白い雲がほんの少し山際にあるだけだった。毎日曜日、隠居の庭にある畑に生ごみを埋める。この時期になると、表土の凍結が始まる。

 ところが、10日はスコップがすんなり入っていく。凍り始めどころか、湿っていてやわらかい。1週間前には土が少ししまってきた感じだったのだが……。

 ネギのうねもスコップがすんなり入っていくので、簡単に「根深(ねぶか)」を引き抜くことができた。冬の作業はこの二つだけ。30分もあれば土いじりは完了する。

 隠居に着いたのは11時半ごろ。ちょっと体を動かしただけで正午になった。寒さは全く感じない。庭に突き出た濡れ縁で、つまり外で弁当を広げた。

 すると、隣の錦展望台でも同じようなことが起きた。老夫婦が備え付けのテーブルといすに陣取り、葉を落として白骨となった対岸の林を眺めながら、弁当を食べ始めた。

 師走の中旬だが、上着を1枚脱ぎたくなるような陽気だ。私らだけでなく、行楽に訪れた夫婦も、車中ではなく外で食べよう、となったのだろう。

 あとでいわき市内の最高気温を確かめる。平地の山田町では午後1時近くに22.0度、同じく小名浜では19.7度、隣の広野町では22.2度まで気温が上がった。

 暖かいはずだ。まぶしい昼の光のなかで、隠居の庭のシダレザクラ(エドヒガン)が「白糸の滝」のように輝いていた=写真。

 国の天然記念物に指定されている三春の滝桜は阿武隈高地では最大の古株(エドヒガン系のベニシダレザクラ)だ。

 花盛りの春が人気だが、滝桜の本領はむしろ葉を落とした冬の枝ぶりではないだろうか。それこそ「滝桜」のゆえんではないか――。

 白糸の滝の連想でそんなことを思ったが、それもこれも白い枝が光を反射して、まぶしいくらいに自己を主張していたからだ。

 ただし、撮った写真を拡大したり、縮小したりしているうちに、「山姥(やまうば)」の白髪のように見えてきたのも事実だが。

 それはそれとして、この師走の暖かさは「地球沸騰化」の文脈で考えると、少しもうれしくない。

 逆に、こんなに暖かくていいのだろうかと、不安になる。昼食のあとはガラス戸を開けたまま、こたつに足を突っ込んで昼寝をした。

 寒暖の波は大きい。油断はできない。が、この日はわが家に帰っても石油ストーブをつけずに過ごした。

2023年12月12日火曜日

まだカツ刺しが……

        
 晩酌のつまみは、「これでないとダメ」というのはない。晩ごはん用に並んだおかずで十分。

 とはいえ、コンビニへ焼酎を買いに行ったついでに、ピーナツその他の「乾きもの」もかごに入れる。量的には一晩でなくなるほど少ない。

 ある日、後期高齢者になったからと、ショートケーキの代わりにチョコレートがプラスアルファで出てきた=写真上1。

 こういうハプニングがあると、焼酎の量も増す、といったところだが、やはりトシは争えない。いつもの平型銚子をカラにするのが精いっぱいだ。

 日曜日の夜のおかずは決まっている。刺し身。春先から晩秋まではカツオ。さすがに入荷が途切れる冬場はほかの魚、たとえばヒラメ、マダイ、タコなどの盛り合わせにする。

10月下旬あたりから、今年(2023年)もそろそろカツオは終わりかな――そう思いながらマイ皿を出しても、若ダンナは黙って受け取る。つまり、カツオの刺し身があるというサインだ。

 師走に入ると聞いてみた。「まだカツオがあるの?」「マグロがないんです。赤い色の刺し身が欲しくて、カツオを手に入れるようにしています」という。

 先日(12月10日)は、皿を受け取りながら「メジでいいですか?」と聞く。カツオは入ったのだが、品質がよくなくて売り物にならなかったそうだ。この冬初めて、メジマグロの刺し身が食卓に上った=写真上2。

 何年か前までなら、カツオが切れるとサンマ、という流れだったのだが……。拙ブログに残る若ダンナの話から、サンマと海の変化を追ってみる。

 震災前後までは夏場のカツ刺しオンリーで、冬になるとたまにタコかイカの刺し身を買いに行く程度だったのが、冬には冬の刺し身があると気づいて、平成25(2013)年には1年を通して刺し身を食べるようになった。

 まずはサンマだ。翌26(2014)年には9月中旬の3連休にサンマとヒラメ、マグロの盛り合わせにしてもらった。これがこの年最初のサンマ刺しだった。

 平成29(2017)年は10月末、カツオがなかったので、サンマの刺し身にタコを少々つけてもらった。この年、サンマの刺し身を食べるまでには少々時間がかかった。海水温が高いので、北海道のはるか沖にとどまっている、ということだった。

翌30年の11月中旬。カツオはあったが、さばいたら「はずれだった」ので、この年最初のサンマとタコの刺し身にしてもらった。

令和元(2019)年は、師走の声を聞いて初めてサンマの刺し身を食べた。「サンマはさっぱりです。海水温が高いので南下して来ない」のだという。

以後4年間、サンマの刺し身は口にしていない。地球温暖化と国際的な乱獲が庶民の食卓を直撃している、というわけだ。

 赤身がないために、師走に入ってもカツオの需要が強い。陸地はもちろん、海でも水温上昇の異変が顕著になってきた。