2022年6月30日木曜日

6月に梅雨明けとは

                             
    いやはや大変なことになった、という思いが強い。東北南部の梅雨が6月29日に明けたとみられる、と仙台管区気象台が発表した。6月の梅雨明けは観測史上初めてという。梅雨の期間もわずか14日間だ。

 これまでの最短期間は2011年の18日間だった。というので、拙ブログで書いていないか確かめたら、同年7月12日付(「短い梅雨だった」)で取り上げていた。まずはその要約から。

――7月11日の午前中、東北地方は南部も北部も梅雨が明けた。その発表がある前、朝9時10分ごろには4カ月目の洗礼なのか、直下型地震がきた。たまたま車に乗り込んだとき、車がはねた。震源に近いいわき市三和町で震度4だった。

東北南部が北部と同時に梅雨入りしたのは6月21日。次の日は「夏至」である。平年より9日遅かった。随分遅い梅雨入りだった。で、今度は梅雨明け(注・確定値は7月9日)だ。平年より14日早い。

東北南部の梅雨の期間は、平年値で40日前後。それが、2011年はほぼ半分だ。東北南部に梅雨はなかったのではないか、という思いを禁じ得ない。

やはり「3・11」が影響しているのだろう。「季節のセンサー」がさっぱりはたらかない。草の花が咲いている、木の花が咲いている。それだけ。5月のウツギも、6月のアヤメも、ホタルブクロも、オカトラノオも、目にとめたものの、じっくり向き合う気持ちにはなれなかった。

それが、夏井川渓谷の隠居の庭でネジバナを見たときに変わった。やっとカメラを向ける気になった。そうなると、ネムノキの花にも、クチナシの花にも目がいく。ノウゼンカズラの花も咲きだした――。

やはり11年前も、梅雨の期間の短さに、「梅雨はなかったのではないか」と、今年(2022年)と同じ感慨を抱いている。

今年の6月27日付では気圧配置に触れ、梅雨入りしたとたんに暑くなった、6月20日にはいわきで初めて真夏日を記録した、温暖化で「南高北低」の気圧配置が多くなる、農作物への影響も心配――そんなことを書いた。

とにかく暑い。きのう(6月29日)は、朝のうちに庭のプラムを収穫した=写真。あとは家の戸を全開し、扇風機をかけて茶の間で過ごした。

さすがに昼寝は茶の間ではできなかった。隣の部屋のベッドで横になった。3時前に茶の間に戻ると、室温が35度を超えていた。

温暖化に伴う気象変動はもはや、現代の日本人がこれまで経験したことのないステージへと移ってしまったようだ。

日傘は女性のもの、ではもはやない。東北南部が梅雨に入った日(6月15日)の午後、街へ出かけたら、知り合いの男性が日傘をさして歩いていた。熱中症を防ぐには男の見栄を捨てるべし、ということを示しているようだった。

2022年6月29日水曜日

今こそ文学を

            
 ロシアがウクライナに侵攻して以来、なぜそうなったのか、なにがそうさせたのか、という思いが強くなって、たまに図書館から地政学や歴史の本を借りてくる。

 しかし、それは権力者を頂点とする政治や行政を理解するための本、いわばマクロな視点で語られる。

 私は新聞記者になって最初に「サツ回り」をした。昭和40年代後半で、主に交通事故や事件の取材を担当した。

 現場を見るごとに、警察の話を聞くごとに、ミクロの視点を持たないといけない、そんな思いが強くなった。

同じ1カ月の交通事故でも1件1件様態・原因が違う。自損、追突、側面、あるいは正面衝突。出勤途中、営業中、あるいは単なるドライブ。酒気帯び、居眠り、わき見、病気。

いろんな要因が重なって事故が起きる、という意味では、一般則は当てはまらない。個別・具体で見ていくしかない。

 結婚して、長男が生まれて間もなく、十二指腸潰瘍で入院した。そのころ、「荒地」派の詩人鮎川信夫のエッセーを読みふけっていた。

病気も個性――。診断は同じ十二指腸潰瘍でも、発症までの経緯は1人1人違う。独身か家族持ちかだけでなく、飲酒の有無、対人関係、性格その他、もろもろの要素が絡む。

そんな意味の文章に触れて、交通事故も1件1件違うのだ、ほんとうは当事者の内面にまで踏み込んだ取材をしないと事故の原因はつかめない、という思いが深まった。

で、きょう(6月29日)の本題。読書推進運動協議会から毎月、カミサンに「読書推進運動」が届く。6月号の巻頭は「今こそロシアの文学を」だった=写真。岩手大准教授の松下隆志さんが書いている。

「今こそ」とは、むろんロシアによるウクライナ侵攻が続いている「今」のことだ。ロシアには「西欧に対する強い憧れと反発」がある。それは「『西欧派』と「『スラブ派』の対立」となって現れたが、「私たちはドストエフスキーやツルゲーネフらの古典を通してそうした対立を単なる知識を越えた生身の人間の葛藤として感じ取る」ことができる。

「生身の人間の葛藤」とは、つまり個別・具体、ミクロの視点でロシアの人々の心に触れるということだろう。それこそ「プーチンの政治」より「ロシアの文学」は広く深く大きい、ロシアの人間の内面に触れようと思ったら、ロシアの文学を読もう、という趣旨のようだ。

その一例として、松下さんは現代作家ウラジーミル・ソローキンの近未来小説『親衛隊士の日』(河出書房新社、2013年=松下さん訳)を挙げる。

2006年に書かれた作品で、「独裁者による恐怖政治、西側世界との断絶、天然資源による脅し、中国への経済的依存など、その予言的な内容にあらためて注目が集まって」いるという。

残念ながら、いわき市立図書館には入っていない。リクエストするか、本屋に注文するか。いずれにしても、ロシアの今を、人間を考えるうえでぜひ読みたい本だ。

2022年6月28日火曜日

天然のエアコン

                     
   毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。その行き帰りに、曲がりくねった県道小野四倉線を利用する。渓谷に入ると、1週間前、あるいは半月前とは違うな――いつもの道を通りながら、そんな変化に気づくことがある。

県道は主に落葉樹の間を通る。3月まではまだ、対岸の林床まで見通すことができた。同月下旬から4月上旬にかけてアカヤシオ(岩ツツジ)が咲き出すと、ほかの木の芽も吹き、淡くやわらかい若葉が頭上を覆い始める。

 4月の終わりから5月初めの大型連休を境に、県道は緑一色になる。青葉が空を遮る。むろん、木々が途切れて日だまりができているところもある。

5月の早朝、長袖をまくり、窓を開けたまま渓谷に入ると、日だまりでは熱気を、緑のトンネルでは冷気を感じた。

6月は梅雨の時期。例年だと湿って鬱陶しい天気が続くのだが、今年(2022年)はかつてないほどの暑さになった。

車で渓谷を移動している分には、焼きごてのような直射日光を遮ってくれる。道路だけではない。隠居の庭での作業も、できるだけ緑陰でするようにしている。緑陰はそれこそ、天然のエアコンだ。

さて、最近の変化は気温だけではない。あれ、なんか少し見通しがよくなったぞ――そう感じたのは6月の第3日曜日だった。山側の木がかなり伐採・剪定されている。

渓谷はV字が深い。岩盤が至る所で露出している。風化してもろくなっているところも多い。それを防ぐためにワイヤネットが山側に張られている。崩落土砂と岩石を受け止めるロックシェッドもある。

草木は年々生長する。ワイヤネットからはみ出して幹を伸ばし、枝葉を広げる木々がある。なかには道路に向かって緑のかたまりをたれ下げている木もある。それらの木々がなくなって、空間が広がったように感じられる。

斜面の切り株=写真=をチェックした限りでは、磐越東線の高崎桟道橋付近から地獄坂(十石坂)を上り、ロックシェッドを過ぎたあたりまで、ざっと2キロ区間で垂れ下がる枝葉が姿を消した。少なくとも、この区間の山側の崖の木は刈り上げられて、倒木・落枝の危険性が減った。

ただし、いっとき護岸工事が始まったと思ったら、いつの間に中断して、カラーコーンが置かれたままになっているところがある。なぜそうなのか、住民同様、週一の利用者としても解せない。

それともう一つ、対岸の夏井川第三発電所とつり橋でつながっていたあたりでも護岸が壊れた。ここもカラーコーンで囲っているだけだ。

近くで広域農道が県道と接続している。開通はまだだが、これが利用できるようになると、農道を下りて上流へ向かえばすぐこのカラーコーンにぶつかる。開通前に改修しないはずはないだろうと思っているのだが、どうなることか。

2022年6月27日月曜日

南高北低

        
 今年(2022年)は梅雨がおかしい。というより、梅雨はどこかへ行ってしまったのではないか、そんな感じがする。

 東北南部は6月15日に梅雨に入った。と思ったら、いきなり暑くなり、6月20日はいわき(山田町)で今年初めて真夏日を記録した。

 土曜日(6月25日)はなんと快晴だ。海風が吹いて涼しい小名浜も真夏日になった。平などの内陸部は猛暑日に近かったろう。

 テレビの気象情報はいつも注意して見る。気象予報士が、この暑さに、「個人的には――」という断りを入れて、梅雨明けうんぬんの話をしていた。週間予報がおおよそ晴れのマークでは、素人も同じ感想を抱く。

 気圧配置はもう夏型だ。太平洋高気圧が日本列島を覆っている。停滞前線は、と見れば、東北の北部、いや北海道・樺太(サハリン)の方に北上しているときもある。

 「北海道は梅雨がない」といわれてきたが、この気圧配置を見る限り、「梅雨は北上して北海道にとどまっている」のではないか。

 地球温暖化の影響で気象パターンがおかしくなっているのだろう。何十年か前、ある広報誌を読んで記憶に残った言葉がある。「西高東低」、これが「南高北低」になる――。

 「西高東低」は冬に多い気圧配置だ。それに対して、夏は「南高北低」になる。梅雨が明けて太平洋高気圧が張り出すと、停滞前線は北上し、日本列島は猛暑が続く。

広報誌に載った文章の詳細は忘れたが、夏の気圧配置が夏だけではなくなることを言っていたのではなかったか。

 温暖化が進むと、夏の前後、例えば梅雨、例えば秋も、南高北低になりやすい。それがさらに広がると、冬も……。そうなったら、自然の営みも、人間の暮らしも大きな影響を受ける。冬に雪が降らなくなる。夏にたびたびゲリラ豪雨が襲う。

 農作物はその土地の気候に合ったものが選別・育成されてきた。梅雨には雨が降る。その雨を前提に水稲が日本の基幹作物になった。

 家庭菜園も影響は大きいだろう。若いころは夏井川渓谷の隠居で、「少量・多品種」を目標に、いろんなものを栽培してきた。が、今は三春ネギのほかは、ナス、キュウリ、鷹の爪を各2株植える程度にとどめている。

キュウリは根が浅いので雨が降らないと乾きやすい。そのため、キュウリを栽培すると、週半ばにも水やりを兼ねて様子を見に行く。

今年はどうも意欲がわかない。ということで、栽培は今のところ三春ネギだけにとどめている=写真。もしかしたら、それが正解になるかもしれない?

真夏でもないのに南高北低の気圧配置が続くのはいいことではない。農作物への影響どころか、大都市圏では電力需給の「ひっ迫注意報」が出た。

わが家では、露地のアジサイがしおれかかっているので水をやった、とカミサンがいっていた。

2022年6月26日日曜日

ネギの種選り

        
 きのう(6月25日)は梅雨の晴れ間になった。朝のうちに室温が30度を超えた。おとといも夕方近くに室温が30度を超えた。

おとといの夜、三春ネギの種を水につけ、殻や砂などを除いて陰干しをした=写真。一晩で種は乾いたようだが、念のためにきのう午後まで軒下に出しておいた。ネギの種選り作業をしめくくるにはいい天気だった。

 なぜ三春ネギの種を採るかというと、むろん「自産自消」のためだ。きっかけは酒の飲み過ぎだった。

阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた平成7(1995)年、高齢の義父に代わって夏井川渓谷の隠居の管理人になった。マチの隣組とは別に、渓谷の隣組にも入った。そのころは土・日と滞在した。

一夜、ある家に招かれて酒盛りをした。闇夜のV字谷である。隠居へ戻るまでにイノシシと遭遇しないともかぎらない。勧められるままに一泊した。

朝食にネギとジャガイモの味噌汁が出た。それを口にした瞬間、味蕾が反応した。子どものころ、田村郡(現田村市)の実家で食べていた味噌汁と同じ味だった。スーパーで売っている硬いネギと違って、甘くて軟らかい。聞けば「三春ネギ」だという。

そのころ、隠居の庭を“開墾”しながら家庭菜園のようなことを始めていた。がぜん興味がわいて、翌年春、おばさんからネギ苗を譲ってもらい、三春ネギの栽培を始めた。

三春ネギは秋まきだ。ネギ坊主から種を採ることを覚えたものの、2回ほど常温で保存して発芽に失敗した。種を冷蔵庫で保存するようになってからは、採種~播種(10月10日ごろ)~発芽~定植がスムーズにいくようになった。

 ネギの種は寿命が短い。冷蔵庫で保管しても持って2年だ。ネギ自体も病気や根っきり虫にやられる、といった理由で本数が激減することがある。

3年前の秋、種をまいたら湿って腐敗していたために発芽しなかった。次の年の春、田村市の実家に頼んでネギ苗を調達した。去年(2021年)、やっと種採りを再開した。

栽培も、採種も危うい環境の中で行われている。そのなかで、ひとまず種を確保した。きのう、小瓶に乾燥剤と種を入れて冷蔵庫にしまった。あとは10月10日まで無事に眠っていてくれることを願うのみだ。

 さて、採種だけでなく苗の定植も済んだ。余った苗は「葉ネギ」として持ち帰り、ネギとジャガイモの味噌汁にして食べた、のだが……。

 ジャガイモが硬かった。はずれだった。煮崩れしない程度に軟らかくなると、三春ネギのほのかな香りと甘みが絡まって、舌が「うまい」と反応する。そうはならなかった。ジャガイモも選ばないといけないようだ。

2022年6月25日土曜日

二拠点生活

                                
 世界的ベストセラー小説『帰れない山』のイタリア人作家による二拠点生活体験録――という宣伝文に引かれて、本屋へ出かけた。

 2月末のことだ。新刊だから総合図書館にはまだ入っていないだろう(今は入っている)。これは買って手元に置いといてもいい、そんな直感がはたらく。

 パオロ・コニェッテイ/関口英子訳『フォンターネ 山小屋の生活』(新潮社、2022年)=写真。久しぶりに身銭を切って本を手に入れた。

 イタリアの大都会ミラノで生まれ育った作家コニェッテイは、30歳で仕事にも恋愛にも人間関係にも行き詰まる。

春、孤独を求めて森で暮らしたソローたちに触発されるようにしてたどり着いたのが、標高1900メートルのアルプス山麓にある小集落フォンターネだった。

コニェッテイはそこで山の自然に癒され、土地の人間と交流するなかで心身の回復を図る。いわば、『帰れない山』の舞台裏がわかる体験録として、あらためて光が当てられ、邦訳が出た。

コニェッテイは20歳になるまで、毎年夏、山で過ごす「野性の少年」だった。自信を失った彼は、そのころの自分に再会しようと、渓谷の山小屋で自然と向き合う日々を送る。

やがて村に住む家主のレミージョ、次いで牛の高地放牧のためにやって来た牛飼いのガブリエーレと友達になる。

春から夏、夏から秋へと移り変わる自然。近くまでやって来る牛の番犬、そして野生の生き物たち。コニェッテイは自然の営みと人間の暮らしに触れて、次第に書く力が湧いてくる。

3人とも、申し合わせたわけではないが、本格的な雪になる前の10月末には山を下りることを決めていた。

レミージョとガブリエーレは、面識はあっても友達づきあいはなかった。やがて10月のある日、3人はコニェッテイの山小屋で別れのワインと料理を楽しむ、というところで体験録は終わる。

著者略歴によると、コニェッテイは、今は1年の半分をアルプス山麓で、残り半分をミラノで過ごしながら執筆活動に専念している。

 二拠点生活で思い出すのは、哲学者の内山節さんだ。長らく東京と群馬県上野村との往復生活を続けている。

 その内山さんと同じ自然観を吐露する場面がある。自然と人間の関係には西も東もない、それを再確認できる。

 「僕の周囲にある、樹木や草原や渓流からなる、一見したところひどく手つかずで野性的に見える景色も、実のところ人間の手によって何世紀もかけて造りあげられたもの」だ。

 そして、こんな見解に至る。「アルプスの山々には荒野(ワイルダネス)は存在せず、長い人間の営みの歴史があるのだ。それがいま、放棄の時代に直面している。(略)終(つい)に山が人の手から解放されたからといって、失うものはなにもなかった」

 使い込まれて安定した山里の景観が、過疎、あるいは高齢化によって人の手が加わらなくなり、やがて寂しく荒れた自然に戻る――日本の山里と同じことがアルプスでも起きているようだ。

2022年6月24日金曜日

『女たちのシベリア抑留』

            
   家の2階は度重なる大きな地震で、ファイルに入った資料や本が崩れたままだった。直近の“崩れ”は3月16日深夜に起きた。いわきで震度5弱だった。

このごろ、カミサンが2階も含めて家の片付けを続けている。「こんなのがあったよ」。これはと思った本が出てくると、私に見せる。

自分で読んだ本が多い。岸恵子の『ベラルーシの林檎』(朝日新聞社、1993年)をパラパラやっていたら、指が止まった。女優兼作家がテレビ局の取材でリトアニアを訪れたときの文章だ。

「長かった抑圧の半世紀、朽ち果てるにまかせていた日常生活の基盤修復に今、国をあげて力の限りを尽くしている。けれどその道すがら、リトアニアの人たちは1991年1月13日の『血の日曜日』の惨事を忘れてはいない」

「血の日曜日」とはソ連末期、独立運動が高まるリトアニアにソ連軍が侵攻し、リトアニアの民間人が死傷した事件を言う。

チェコスロバキアでは1968年、変革運動が起きる。いわゆる「プラハの春」だ。8月、ソ連軍を主体にしたワルシャワ条約機構軍が国境を越えて侵攻し、チェコ全土を占領した。そして今年(2022年)、ロシアによるウクライナ侵攻が起きる。

ロシア通によれば、連邦を構成していたそれぞれの国が独立しても、ロシア人には旧連邦は自分たちの土地という意識が強い。その典型がプーチン大統領なのだとか――。

たまたま移動図書館から借りた小柳ちひろ著『女たちのシベリア抑留』(文藝春秋、2020年第4刷)=写真=を読んでいる。

それによると、先の世界大戦では、終戦直後にソ連軍が満州や樺太に侵攻し、兵士を中心に約60万人をシベリアに抑留した。そのなかに数百人の女性がいた。

日赤と陸軍の看護婦や看護助手などが主で、収容所の病院で捕虜たちの看護に当たったという。

前に立花隆著『シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界』(文藝春秋、2004年)を読んでわかったことがある。

豊富な地下資源が眠るシベリアに不足しているのは労働力。資源を開発するためには囚人を働かせよ――

「帝政ロシアも、ソ連も、ロシア国民にひどいことをしてきた」(立花)。ドストエフスキーもそれで一時、シベリアへ送られた。ソルジェ二ツィンも収容所暮らしを余儀なくされた。

先の大戦が終わるころ、ヤルタ会談が行われる。その流れのなかでソ連は北海道占領を画策するが、アメリカに反対される。ならば、というわけで「スターリンは、急に、満州で得た捕虜をシベリアに送って、強制労働に服させることを思い」ついた(立花)。

詩人の石原吉郎が、収容所で友人が亡くなる前、取調官に対して発した最後の言葉を記録している。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

このごろは、ウクライナの戦況報道に接するたびに、日本人が経験したシベリア抑留の歴史が思い浮かぶ。

2022年6月23日木曜日

スパイだった建築家

                     
   サントリー文化財団などが編集して年に2回発行される雑誌がある。「アクティオン」。最新号では「経済学の常識、世間の常識」という特集を組んだ。

 ここでは特集ではなく、「時評」の一つ、建築史家・建築家藤森照信さんのコラム「建築とスパイ」=写真=を取り上げたい。一読して、とにかく驚いた。

 戦前、世界的に知られた建築家にアメリカのフランク・ロイド・ライトがいる。ライトが帝国ホテルを建設するとき、スタッフとして弟子のアントニン・レーモンドが来日した。

 レーモンドはやがて独立し、東京に事務所を構える。前川國男や吉川順三らが彼のもとで学んだ。

日本を取り巻く国際情勢が悪化するなか、レーモンドはアメリカに戻り、太平洋戦争が終わると再来日して設計の仕事を続けた。

 藤森さんには、レーモンドに長年抱いてきた「小さな謎」があった。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ――GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮文庫、2011年)を読むことでその謎が解ける。彼はアメリカの諜報部員だった。そのことを紹介するコラムだった。

 この時評を読んで、一時期、レーモンドについて調べていたことを思い出した。あのレーモンドが? しばし、信じられない思いにとらわれた。

 いわきの、その建物はフランク・ロイド・ライトの弟子が設計した、という情報に接したのは何年前だったか。平字六軒門の元・聖ミカエル幼稚園だ。

40年ちょっと前、子どもが通っていた。運営母体は日本聖公会。礼拝堂が園舎を兼ねた。

 大正時代、磐城平で牧師として布教活動をした土田八九十(はくじゅう=詩人山村暮鳥)がいる。その流れをくむ教会兼幼稚園だ。

 昭和54(1979)年に創刊された平聖ミカエル会衆の機関紙「ミカエルの園」によると、常磐線開通後、水戸からキリスト教の伝道が行われ、明治36(1903)年に平に講義所が開設される。

 講義所はその後、「聖オーガスチン教会」「平聖ミカエル海岸教会」などと名を変える。戦後の昭和24(1949)年、小名浜での伝道が開始され、小名浜の教会(聖テモテ)に加わることになって、平の敷地が売却された。

やがて、「平にも教会を」という声が強まり、同36(1961)年、現在地に礼拝堂兼幼稚園の建物がつくられた。

 この建物を設計したのがライトの弟子、ということで、検索してたどりついたのがレーモンドだった。確証はない。が、国内に残るレーモンドの建築物をネットで探ると、共通性がある。たぶん間違いない、私はそう思っている。

レーモンドは帰米すると、軍の要請で油脂焼夷弾の爆撃実験のため、砂漠に実物そっくりの日本の下町の家並みをつくった。藤森さんの「小さな謎」とはこれに関係するものだったろう。

さらに、レーモンドのもう一つの顔がアメリカの公開史料から明らかになる。親しい日本人を巻き込んで軍と反軍国勢力の摩擦の拡大を図ろうとした(太平洋戦争前の再来日は実現しなかったが)――。人間の裏面に触れて、いっとき気持ちが落ち込んだ。

2022年6月22日水曜日

いわきも真夏日に

        
 山里へ行くと、クリの花=写真=が目に付くようになった。このごろはその形状から「白いドレッドヘア」という言葉が思い浮かぶ。これも梅雨の花といってよい。

東北南部が6月15日に梅雨入りをしたとたん、気温が「夏型」に変わった。おととい(6月20日)も朝から気温が上昇した。薄曇りのような青空――それが玄関を開けて庭へ出たときの第一印象だ。

朝、行政の回覧資料を配る。そのあと、銀行へ行く。家電量販店に寄る。車を使いながらも、ちょっと体を動かしただけで汗がにじんだ。

さすがに座卓(元こたつ)を冬仕様のままにしておくわけにはいかない。まずはカミサンの指示で座卓カバーを取り外し、座いすの周りの資料や本を隣の部屋に移す。

カーペットの下には電気マットがある。これまではマットも取り外していたが、それだとかなりの手間がかかる。それは省略して、カーペットに掃除機をかけてから座卓を戻し、藍染の布1枚だけをカバーにして夏バージョンに変えた。

年2回、冬から夏、夏から冬へと茶の間の衣替えをすることでやっと、夏は足元が涼しく、冬は暖かくなる。

そうして夏仕様の座卓で調べものをしていると、テレビのわきにある電子時計の数字が目に留まった。11時20分で気温が30.3度、午後も2時を過ぎると31.6度に上がっていた。なんと、わが家では今年(2022年)初めての真夏日ではないか。

夕刊のいわき民報も同日、山田町で最高気温が30.7度と、いわき市内で今年初めて真夏日になったことを報じていた。

梅雨入り後の気温上昇に合わせて、ほんとうの衣替えもした。長袖シャツから半袖シャツへ、冬ズボンから夏ズボンへ。おとといは、その半袖さえ脱ぎたくなった。

そんなときにいつも思い浮かぶ写真がある。昭和30(1955)年前後の田舎の一家だんらんを写したものだ。子どもはランニングシャツに半ズボン、大人も上半身はランニングシャツだ。

還暦後、同級生と台湾を旅行したとき、通りの家々にいるオジサンがことごとくランニングシャツと半ズボン姿だったのに懐かしさを覚えたものだ。

この日は扇風機も出した。こうなると、晩酌はただの水では生ぬるい。ポットに氷を入れ、冷えた水で焼酎のチェイサーをしたが、なにかが足りない。

地元資本のスーパーが宮城県角田市の梅干しを売っていたときには、赤い梅酢が容器に残った。それを冷えた水に垂らして涼味を楽しんだが、このごろは昔ながらの梅干しがなかなか手に入らない。

晩酌には冷ややっこが出てきた。家の中が夏模様に切り替わった一日の締めにふさわしい一品だった。

夏至のきのうは、北からの風が通り抜けて行ったため、おとといよりはしのぎよかったが、それでも昼には室温がほぼ28度になった。

これから昼が短くなっていくとはいえ、「暑い梅雨」のあとに真夏がやってくる。台湾のような暑さを想像して、年寄りはとにかく熱中しないことだ、と自分に言い聞かせる。

2022年6月21日火曜日

マタタビとネコ

        
 マタタビはつる性の木だ。梅雨のころ、白い花が咲くと同時に葉が白くなる。その白い葉が夏井川渓谷でも目に付くようになった=写真。

白い葉はやがて緑色に戻る。つまり、この時期だけ「ここに花があるよ」と虫たちに知らせているのだろうという。

 この葉にまつわるニュースが最近、ネットにアップされた。岩手大などの研究で、ネコが葉をかむことで蚊よけ効果と幸福感が高まることがわかった、という。

 去年(2021年)も似たような記事が新聞に載った。なぜ、今になって再び? 去年1月31日付の拙ブログを読み返して、その後の研究成果がどんなものか推測できた。まずは拙ブログを要約する。

――「猫にまたたび」ということわざがある。非常に好きなもの、あるいはそれを与えたら効果が著しいことのたとえに使われる。マタタビの枝葉をネコに与えると、顔をすりつけたり、体をこすりつけたりする。

そのワケを岩手大や名古屋大などの研究チームが解明した。「蚊よけ」のため、というのが「結論」だ。

新聞によると、マタタビに含まれている成分の一つ、ネペタラクトールに猫が反応した。この成分は蚊を寄せ付けない効果を持つ。

研究チームは「マタタビ反応は寄生虫や病気を運ぶ蚊から身を守る重要な行動」と結論付けた。

しかし、「ネコがマタタビで酔ったようになる陶酔状態の関連性はわかっていない」という。

ネコ科の動物は繁みに潜んで獲物が来るのを待つ。繁みには蚊が多い。蚊よけ効果のあるマタタビの枝葉を顔にこすりつけるワケはわかった。しかし、媚薬に酔ったようになるワケを、ほんとうは知りたいのだ――。

それから1年4カ月ほどたった時点での岩手大などの発表は、時事通信の場合だと、「マタタビの葉、かむと効果増強 ネコに幸福感・蚊よけ 有効成分の比率変化 岩手大など」という見出しになる。1年前との違いは、無傷の葉と傷ついた葉の成分の違いを突き止めたことだろうか。

あるテレビ局によると、マタタビの葉にはネペタラクトール(蚊よけ効果のある成分)とマタタビラクトン(ネコが酔ったような反応を示す成分)が含まれている。葉が傷つくと、これらの放出量が10倍以上になる。さらに、二つの成分比率が変わり、マタタビラクトンの割合が増える。つまり、蚊よけ効果が高まり、幸福感が増す、ということだった。

確か主な研究者は若い大学院生だったように記憶する。彼女の研究がこつこつと成果を上げている様子が、今度のニュースからわかった。1年ほど前は衝撃を受け、今回は持続する探究心(好奇心)の大切さを思った。

2022年6月20日月曜日

滝のようなにわか雨

 梅雨に入ったとたん、蒸しむしするような天気が続いている。青空がのぞいたと思ったら、暗雲が広がる。

 きのう(6月19日)の日曜日がそうだった。朝から太陽が顔を出した。気温も上がった。ところが、午後になると夏井川渓谷は激しいにわか雨に見舞われた。

 朝は8時半ごろ、家を出た。いわき駅前経由で小川方面へ向かうと、早くも平一小の丘の向こうに積乱雲がわいている。午後にはにわか雨がくるかも――そう予感させる雲の動きだ。

 夏井川渓谷の隠居へは9時過ぎに着いた。郡山発いわき行きの二番列車がほどなく通過した。太陽が照り付けている。風もすでに熱気を含んでいる。

 この日の土いじりは、目的が一つ。ネギ坊主を摘んだ古いネギが60本ほどある。それぞれに新しいネギが分げつ(枝分かれ)して、同じ外皮の中におさまっている。

外皮をはがして、古いネギ(ネギ坊主の花茎)を根元から折り取り、新しいネギを植え直せば、また秋から冬には食べられる。

 すでに酷暑気味だ。古いネギを掘り起こしたあとは、そばのシダレザクラの日陰に移動して、古いネギと新しいネギを選(よ)り分けた。

 何度もブログでいっていることだが、夏場を中心に、土いじりに熱中すると「熱中症」になりかねない。それを避けるために、意識して途中で休んだり、別のことをしたりする。

 水をガブガブ飲む。ついでに、菜園と反対側の駐車スペースを巡って、マメダンゴ(ツチグリ幼菌)のありかを探る。

といっても、そっと歩いて靴底に破裂音、あるいは固い感触があるかどうかを確かめるだけだ。あれば、土を少し掘ってマメダンゴの有無を確かめる。ただの小石のときもある。

ま、それはそれとして、土いじりは時間ほどで終わった。早い昼食をとり、昼寝をしたら、NHKののど自慢が終わりに近かった。空を仰ぐと、いつの間にか灰色の雲が頭上に迫っていた。

ここは早く退散するに限る。1時45分ごろ、片付けをすませ、雨戸を閉めて隠居を出ると、ポツリ、ポツリと天から下りてきた。

それからわずか数分、隣の集落に入ると雨脚が強まり=写真、さらに隣の江田地区を通過するころには土砂降り、いや滝の中を走っているような感じになった。

江田駅前の夏井川渓谷キャンプ場は車とテントでにぎわっていた。いきなりの土砂降りに、カラスたちも含めて大慌てだったのではないか。

ところが、このにわか雨は渓谷だけだったようだ。平地の片石田に出ると、道路が乾いている。平市街も、道端がまだらに湿っているようだったが、車線そのものは乾いていた。

気象台のホームページできのうの雨量を確かめたら、渓谷の上流・川前はゼロ、平は1時台に1.5ミリだった。

 同じ夏井川流域とはいえ、海・街・山(渓谷)では天気が違うことがある。同じ渓谷でも川前側は雨なし、小川側は土砂降りと分かれたのも珍しい。車で移動していたからこそわかった局所的な激しい降りだった。 

2022年6月19日日曜日

「豚饅」を食べる

                      
 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。隠居への行き帰り、平・平窪地区を通る。ふだんは幹線道路(国道399号)から一つ山側に入った田んぼ道を利用する。街に用事があるときには国道399号を直行する。

 昭和48(1973)年に結婚して数年間、下平窪の市営住宅(庭付き木造平屋)に住んだ。令和元年東日本台風では、平窪全体が水害に見舞われた。私が住んでいたところも水につかった。

 水害から2年4カ月後の今年(2022年)2月中旬、私らが住んでいた近くの国道交差点の角に、「豚饅(ぶたまん)よしの」がオープンした。

 隠居からの帰りは、時間が夕方近くになる。豚饅を買うために店へ行くと、「完売」の札がかかっている。時間を早めても、買えない日が続いた。

 平寄りの夏井川沿いに中華料理店がある。そこが「豚饅よしの」の本拠地。豚饅専門店を出した若いシェフ吉野康平さんの父親が開業した。シェフも店のスタッフだ。

 震災後に「いわき昔野菜フェスティバル」を介して知り合った。以来、ときどきラーメンを食べに行く。

 令和元年東日本台風では店が浸水した。その後の苦闘を、ネットとメディアを通じて知った。「豚饅よしの」開業に向けてクラウドファンディングを行った。そのときの本人の文章がネットに残る。豚饅にかける思いがつづられている。

 話は1年ちょっと前にさかのぼる。国際NGOのシャプラニール=市民による海外協力の会の「みんなでいわき!2021」オンラインツアーが開かれた。

シャプラニールは東日本大震災・原発事故の直後からいわき入りし、緊急支援から生活支援に軸足を移して交流スペース「ぶらっと」を運営した。現地支援の一環として、毎年、「みんなでいわき!」ツアーも実施してきた。

10年の節目に当たる2021年はコロナ禍のため、オンラインでいわき~東京~全国各地を結び、被災地の今の様子やシャプラとつながりのできた人々の思いを聴いた。

限定30人で募った参加者には、事前に豚饅やオリーブパスタなどの「いわき特産品セット」が贈られている。

津波から命からがら逃げた旧知の大工氏、台風で大きな被害を受けたオリーブプロジェクトの農業木田源泰さん(平・平窪)らが参加した。

自店から参加した吉野さんは「コロナはにくんでも、豚まんはにくまん」のキャッチコピーが朝日の「天声人語」に取り上げられ、すっかり有名になった豚饅製造のエピソードなどを語った。

 晩春のある日曜日、たまたま午後から街に用事があって、昼前に隠居を出て平窪を通ったら、豚饅専門店の前に何人か並んでいる。これは買えるぞ――。カミサンが車を降り、列に並んだ。やっと手に入れた。その後は午後になっても店が開いているようになった。

 ザクッとさいころ状にカットした豚肉を口にすると、肉汁のうまみが広がる。これがたまらない。酒のつまみにもなる=写真。梅雨寒にはなおいいかもしれない。

2022年6月18日土曜日

ネギ坊主を収穫

        
 毎年、ネギ坊主を収穫する=写真。ネギ坊主は小さな花の集合体で、全体が球状になっている。だから「ネギ坊主」(「ネギぼんこ」という人もいる)。小花が咲いて実がなり、熟すると殻が裂けて黒い種が見えるようになる。それが採種のサインだ。

おおよそ6月中旬が種採りの目安になる。今年(2022年)は6月12日の日曜日が小雨で、土いじりができない、ネギ坊主もぬれている、というわけで、隠居へ行くのを休んだ。

翌月曜日は青空が戻った。火曜日は曇天、水曜日も湿りを帯びた曇天で、午前中、東北地方の梅雨入りが発表された。それが背中を押した。

 種は日曜日を待たない。たぶん、ばらばらになり始めたネギ坊主がある。みっしり詰まったままのネギ坊主も、青みが残ったままのネギ坊主もある。

ネギ坊主の大きさはさまざまだが、熟したものは殻の色が黒ずんでいる。殻の中は三つに分かれていて、それぞれに種が二つ眠っている。殻が開くと、これがこぼれ落ちる。黒い種が殻からのぞいているうちに収穫しないと――。週半ばに隠居へ出かけてすべてを収穫した。

 15日は霧雨もかかって湿っていた。翌16日は朝日がのぞいていたので、庭に台を出し、ネギ坊主の入ったざるを載せて天日に干した。

ときどき、日陰になっている部分を表にしたり、下のネギ坊主を上に持ってきたりして、まんべんなく光が当たるようにしたら、夕方にはあらかた湿気が飛んだ。あとは軒下で下から上へ動かしたり、裏を表にしたりしてじっくり乾燥させればよい。

乾いたら自然に殻からこぼれ落ちる種もある。が、大半は殻に残っている。軒下で手を加えるのは一日に10分ほど。そのときに振ったり、触ったりして種を落とす。

種を採り始めたころは、ごみと種のより分けに苦労した。口でフーフーやるのだが、種まで飛び散ってしまう。小さなごみや砂は何をしても残る。

あるとき、ネギ栽培の「師匠」から簡単な方法を教わった。ボウルに金ザルを重ね、ごみと一緒に種を入れて水を注ぐと、比重の重い砂はボウルの底に沈み、比重の軽いごみや中身のない種は表面に浮く。

それを流して金ザルの水を切れば種だけになる。濡れた種は新聞紙に広げて一晩置くと、すっかり乾いている。

幸いなことに――。梅雨入りをしたとたん、どんよりした天気ながら気温が上がったり、薄日が差したりしている。週間天気予報も月曜日(6月20日)あたりまでは良さそうだ。

その日を目標に、一日10分ほど手を加え続ければ、あらかた殻から種を採りだせるはずだ。あとは“水選”でごみを取り除き、乾燥させたのを小瓶に入れて冷蔵庫に眠らせる。

春に種をまくいわきの平地のネギと違って、田村地方から入ってきた「三春ネギ」は秋まきだ。今年ははたしてどのくらいの種が確保できるか、楽しみでもある。

2022年6月17日金曜日

暮鳥と茨城を特集

        
 毎月、水戸市の常陽藝文センターから「常陽藝文」が届く。唯一の定期購読誌だ。藝文友の会(年会費4700円)に入ると、郵送されてくる。会費は常陽銀行の預金口座から自動引き落としで払う。

「常陽」の「常」は古代の「常陸(ひたち)国」からきている。「常磐」も同じで、常陸と地続きの磐城を併称した呼び名だ。

常陸(茨城県)と磐城(いわき市)は結びつきが深い。いわきの近世俳諧や近代詩を調べると、常陸のそれと深く広くつながっていることがわかる。その象徴が磐城平・山崎の専称寺で修行した江戸後期の俳僧一具庵一具、それに詩人の山村暮鳥と野口雨情だ。

預金口座が常陽の平支店にあるので、定期購読をする前は支店へ行くたびにロビーにある「常陽藝文」を手に取った。

震災後の2012年1月号は、巻頭特集の<藝文風土記>が「詩人・大関五郎の足跡をたどる 水戸市、大洗町、鉾田市ほか」だった。

大関五郎は山村暮鳥の有力な支援者の一人。野口雨情ともつながりがある。少しでも人となりを知りたい人間には、のどから手が出る資料だ。

窓口で懇願すること二度、先輩行員と相談して奥へ行くと、「ありました」と1冊を持ってきてくれた。それから定期購読を始めた。

 最新の2022年6月号では「詩人・山村暮鳥 その作品世界と茨城」を丸ごと特集していた=写真。いわきに縁のある詩人山村暮鳥は大正13(1924)年12月8日、茨城の大洗で、40歳で亡くなる。茨城を舞台にした作品を紹介している。

 暮鳥終焉の地となった大洗町に絞って書く。昭和2(1927)年5月、海岸の松林の中に小川芋銭筆による「ある時」という詩碑が立った。「雲もまた自分のやうだ/(略)/おう老子よ/こんなときだ/にこにことして/ひょっこりとでてきませんか」

「おうい雲よ……ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか」などに続く雲の詩群のひとつで、吉野せいの「夢」(『洟をたらした神』所収)に、せいが詩碑を訪ねたシーンが描かれる。(今回初めて、「常陽藝文」を介してその様子がはっきりと見えてきた)

暮鳥の盟友だった夫の三野混沌(吉野義也)が亡くなったあと、息子が運転する小型トラックで埼玉県まで苗木や鉢物を買いに行った帰り、初めて磯浜を回って大洗の海を見る。さらに黒松の生えた丘陵に暮鳥の碑を訪ねる。

詩碑に手を触れながら海をぼんやりと眺めつくしたあと、せいはこう文章を終える。「それは真実の出来事であったのに、何だか遠いもう何もかもすべてが私の見る夢の中に浮かぶ一つの鮮やかな点描であったように思えてならない」

 「それ」は何を指すのか。詩碑を訪ねたことか。そうではあるまい。「辛酸にみちた生涯のうちで一番生命の火を燃やした」平時代の暮鳥、「当時にぎやかにとり巻いた青年男女」(せいも暮鳥とつながっていた)、そして暮鳥と混沌との3600日に及ぶ交流――。せいは結婚前後の自分の姿を、暮鳥を、文学仲間を、混沌を夢と同質の距離感で回想していたのだ。

2022年6月16日木曜日

梅雨入り

        
 家の周りのアジサイが色づき始めた=写真。きのう(6月15日)、朝起きて見上げれば湿りを帯びた曇天だ。そろそろ、かな。その通りになった。同日午前、東北地方が梅雨入りをした。

 東北北部は平年並み、南部は平年より3日遅い。去年(2021年)よりは南部・北部とも4日早いという。

曇雨天続きのなかで、月曜日(6月13日)だけが朝から晴れた。これがなければもっと早く梅雨入りをしていたのではないか。なにしろ、6月6日に九州~東海を飛び越えて、隣の関東甲信が梅雨入りをしたのだから。

ちなみに、九州南部・北部が11日、四国が13日、中国、近畿、東海、北陸が14日だった。西から順にという“経験則”は崩れてきたのだろうか。

 日曜日(6月12日)は小雨で、夏井川渓谷の隠居へ出かけても土いじりができない。行くのをやめて、午後、街で用を足した。

 しかし、次の日曜日まで行かないとなると、菜園のネギ坊主が気になる。それともう一つ、小川町の「白鳥おばさん」から新しい情報が届いた。

 小川町三島の夏井川から下小川に流された残留コハクチョウの「エレン」のほかに、下小川にはもう1羽、左の翼をけがして残留したコハクチョウがいるという。

 前にエレンの居場所が分かった話を書いた。愛鳥家でもある若い知人(カメラマン)が現地に赴き、2羽を撮影した。

 実はこの春、三島のエレンに寄り添うように、1羽の幼鳥が飛来した。白鳥おばさんは「コレン」と名付けて2羽にえさをやり続けた。

 そのコレンが1カ月後には姿を消した。けがをしているわけだはなかったので、体力がついて北へ向かったのだろうと、私は思っている。

 下小川に2羽、という話を聞いてコレンを連想したが、若い知人の写真を見ると、左翼がだらりと下がっている。白鳥おばさんも「コレンとは違う」という。全く存在が知られていなかった残留コハクチョウではないか。

 下小川の長福寺の近くの水田にいたという情報を手がかりに、隠居へ行く途中、寄り道をしたが、確認はできなかった。

 隠居に着くと、すぐネギ坊主を収穫し、生ごみを埋めたあとは、「キノコの生(な)る木」をチェックし、マメダンゴ(ツチグリ幼菌)が眠っているはずの庭でそっと足踏みをした。マメダンゴが地中に形成されていれば、「プチッ」という破裂音が聞こえる。

じっくり探すなら、潮干狩りよろしくフィールドカートに座り、三本熊手で土をガリガリやるのだが、その時間はない。早々と切り上げて帰宅した。

ネギ坊主にしろ、マメダンゴにしろ、梅雨どきと密接に結び付いた自然の恵みだ。頭ではなく、体が反応して、日曜日ではないが、隠居へ行かねばという思いがふくらんだ。

きょう(6月16日)は暑くなるとか。寒暖の変化には体がついていけない。今もって長袖シャツ、そして座卓(こたつ)のカバーを取らずにいる。

2022年6月15日水曜日

特集「菌類の世界」

 いわき駅前の総合図書館が6月13日から24日まで休館に入った。毎年恒例の特別整理期間で、蔵書点検や館内整理が行われる。

 12日間の休館を頭において、日曜日(6月12日)に本を3冊借りた。1冊は月刊の雑誌「ユリイカ」だ。

図書館の雑誌は、次号が出るまでは館内閲覧のみで、貸し出しはしない。雑誌コーナーを見ると、ユリイカのボックスには最新号が掲示されていた。

5月号は? ボックスの中にあった。借りられる。といっても14日間だから、特別整理期間が過ぎたら、すぐ返さないといけない。

借りて貸出期限票を見ると、返却予定日が7月8日になっている。14日プラス特別整理期間の12日ではないか。ほぼ1カ月近く手元における。

同誌は文学や思想などを扱う芸術総合誌だが、2022年5月号ではなぜか「菌類の世界――きのこ・カビ・酵母」を特集している=写真。

菌類研究は自然科学の範疇に入る。菌類の代表ともいうべきキノコは、しかし、「食」や「毒」、あるいは「色」や「形」の多様性から、文学・美術その他さまざまなジャンルと絡めて論じられることが多い。それを、私は勝手に「文化菌類学」と呼んでいる。

「ユリイカ」の菌類特集も、おそらくは文化菌類学的な発想から生まれたにちがいない。陸上植物の約8割の植物種と菌類は共生関係を結んでいる。菌と植物の共生である菌根が地球の緑を支えている――。菌類学の最新の知見も影響していることだろう。

発行元の青土社のホームページに、特集を組んだ意図が記されていた。かみくだいていうと、こんな感じだろうか。

キノコが文化的、文学的であることはすでに知られている。そのキノコを含む菌類は広大無辺にこの世界を取り巻いている。繁茂し続ける菌類の織り成す網目に分け入り、南方熊楠やジョン・ケージ、ビアトリス・ポターらの営為をたどり直してみる――。

まずはパラッと目を通す。小見出しに小説1・きのこ目を啓(ひら)く・きのこと仲間たち・マンガ・菌類としての大地・終わりなき生命・食の菌類学・きのこはうたう・きのこのエクリチュール・詩……、とある。

冒頭のキノコ小説は「きの旅」。高原英理というキノコ作家を初めて知った。キノコ研究家でもある作曲家ジョン・ケージと親交のあった武満徹を取り上げた、高山花子の「雨の樹とキノコの庭」という文章もある。

文化菌類学的なエピソードが満載の特集だが、なかでも石川伸一「菌類と『食べる』ということ」には、キノコを食べる話だけでなく、死後、キノコに食べられる話も出てくる。

故人の葬り方には火葬、土葬、水葬、鳥葬のほかに樹木葬、宇宙葬などがある。アメリカではキノコの胞子を植えつけた「きのこスーツ」を着て埋葬された俳優がいる。オランダではキノコの菌糸体を原料にした「生きた棺」が開発された。

環境問題が深刻化する中、「きのこ葬」もやがて普通に行われるようになる?というところで、きょうは終わりにしよう。またなにか“発見”があれば報告したい。 

2022年6月14日火曜日

曇雨天続き

        
 ドクダミは梅雨の花だ。緑の庭を白く点々と染める。去年(2021年)は八重咲き=写真=が現れてびっくりした。今年はどうか。今のところ普通の花ばかりだ。

 きのう(6月13日)は朝から晴れたが、その前は曇雨天続きだった。きょうも明け方はどんよりしていた。

6月6日に九州~東海を飛び越えて関東甲信が梅雨入りをした。隣接する東北南部もすぐ?と思ったが、やはりこの晴天が梅雨入りの判断にブレーキをかけたようだ。

 曇雨天の中、晩酌をやりながら日本陸上選手権の生中継を見た。晩酌時にテレビをつけるのはただの習慣だ。たまたまその時間帯にNHKが4日連続、陸上競技を放送した。

土曜日(6月11日)は3000メートル障害を見た。あいにく雨だった。その中を走る選手の姿に、中学校と高専時代の記憶がよみがえった。

中学校ではバレーボール部に所属していた。たまたまグラウンドに置かれたハードルを飛び越えたら、陸上部の顧問の目に留まった。にわか部員になって田村郡の大会に出場した。結果は予選敗退。当然ながら、上には上がいることを実感した。

高専ではバレーボール部、次いで陸上競技部に入った。走り幅跳びをやり、マイル(1600メートル)リレーのメンバーに加わった。

高専には独自の体育大会がある。こちらでは東北大会=予選が全国大会に直結していた。なにしろ各県に1校しかなかったから(今は7校)。

さて、前に中3の孫と会ったとき、陸上競技大会に出場する話をしていた。中2まではサッカークラブに通っていた。3年生になったら陸上をやろうかな――そんなことを言っていた。

出場するのは2種目。100メートルはオープン参加。もう1種目は400メートルリレーだという。

孫は水泳、そしてサッカーを続けていたが、ぜんそくの持病があり、運動会でも成績はいまひとつだった。が、小学校の後半になると体が大きくなり、力がついたこともあって、急に駆け足が速くなった。運動会ではリレーのメンバーに選ばれるまでになった。

6年生のとき、市の小学校陸上競技大会に出場した。元陸上競技部員の血が騒いで、会場のいわき陸上競技場へ駆けつけた。

80メートル障害では、いつのまにこんなに速くなったのかと驚くくらい、九つのハードルを軽々と飛び越えた。総合2位だった。男子400メートルリレーには第2走者として出場した。結果はどうだったか、こちらは記憶があいまいだ。

それから3年後、中3になってすぐの大会だ。先日、大会のことを思い出してネットで検索したら、結果が載っていた。オープン参加の100メートルはともかく、400メートルリレーでは2位だった。

 あとで父親が来て、「県大会に出場する」と言っていた。地区予選で敗退した人間には、「県大会出場」のハードルの高さがよくわかる。100メートルの記録も、高専時代の私より速いように思った。

2022年6月13日月曜日

俳僧一具の屏風・下

                                  
  まずはおさらい。江戸時代後期、磐城平藩・山崎村の専称寺で修行し、のちに江戸で俳諧宗匠となった出羽国生まれの人物に一具庵一具(1781~1853年)がいる。

単なる「俳人」ではない。いわき地域学會の先輩からは「俳僧」が正しいというアドバイスを受けた。その視点からあれこれ調べを進めてきた。

初代のいわき地域学會代表幹事・故里見庫男さんからは、「研究の材料に」と、古書市場で入手した掛軸や短冊をちょうだいした。

生地の山形県村山市で発刊された村川幹太郎編『俳人一具全集』(同全集刊行会、昭和41年)もいただいた。

掛軸には一具自身の筆で「梅咲(き)て海鼠腸(このわた)壺の名残哉」という俳句が書かれてある(表記は全集にならった)。

くずし字が読めず(今も読めない)、何と書いてあるのか、見当がつかなかった。元高校校長の教育長氏に写真を見せると、「梅咲(き)て――」と読むことがわかった。あとは全集と照合して句を確定する。私の場合はそんなやり方が多い。

そこから句意を考える。春を告げる梅が咲いた、壺に入っていた「このわた」も減ってこれが最後か、名残惜しいなぁ――そんな感じだろうか。

「このわた」はナマコの腸を材料にした塩辛で、江戸時代から「天下の珍味」として知られる。あるとき、すし屋でこれを初めて口にした。こりこりした舌触りが好ましかった。磯の香りもした。なるほど「天下の珍味」だわい、と思った。

いわき市内の某家を訪ね、一曲六隻(いっきょくろくせき)の一具屏風を拝観し、一つ一つを写真に収めた。

久しぶりに『一具全集』を手に取った。一具が生涯に詠んだ5360余句が収録されている。もとより個人の家などに収蔵されている短冊、軸物などの中には未収録の作品もある。

 一具屏風も6句のうち3句は全集未収録作品だ。まずは、いわき地域学會の仲間による翻刻を紹介する。

右から順に、①若水や庵の屋根へも一柄杓②蒔(まひ)た日のおもいひ出せぬやけしの華=写真上1③梅桜よい夢見たりころも替(がえ)=写真上2④藪陰に汁のにへ立(たつ)田打(たうち)哉(かな)=写真下⑤一ひらの雲のかげらふ花野哉⑥浅はかな物にしあれど雪囲ひ――と続く。

くずし字をすらすら読めるわけではないという。読めない字はくずし字アプリを利用し、全集収録句はそれを参考にした。すると、②③④は全集未収録句だった。

とりあえず、現代人も読めるように文字化されたので、あとは読み解き、評価するのが課題だが、それには時間がかかる。まずは句意を考える過程を楽しむとしよう。

2022年6月12日日曜日

目的地のそばが火事

        
 小名浜で集まりがあるというので、夕方、カミサンを送っていった。目的地へ近づくと、茶色っぽい煙がわいて横に流れていく。車列の先では赤色灯が点滅している。火事だな――異常な煙の動きにそう思った。

 たちまち車が渋滞する。左前方の交差点からポンプ車がサイレンを鳴らしながら現れた。119番通報があって間もない時間のようだった。

 家を出たのが午後5時20分ごろ。幹線道路が混雑する時間帯と重なった。前はバイパスだった国道6号を利用すれば最短距離で行けるが、渋滞に巻き込まれる恐れがある。

 ここは車の少ない海岸道路を行こう――。といっても、混雑回避だけが海岸道路を選んだ理由ではない。

いわきの沿岸域も津波で大きな被害を受けた。その復旧・復興の過程で被災地は様変わりした。なかでも薄磯、豊間は、どこか知らない土地に来たような印象を受ける。

ときどき海岸道路を通っては今の風景を目に焼きつける。別のことばでいえば、記憶のアップデート(最新化)だ。東日本大震災後、身に付いた習慣でもある。

 地震と津波のあと、内陸部の夏井川水系が台風被害に見舞われた。その対策として河川敷では堆積土砂の撤去と立木伐採が進められている。沿岸部も、河川敷も変貌しつつある。

今度も六十枚橋から下流、夏井川の堤防を利用して河口まで下り、永崎まで海を感じながら進み、小名浜に入ってからは一本中に入って目的地まで直進した。

 いわき市小名浜支所の前を過ぎたところで、煙と赤色灯が目に入った。しかも、煙は目的地の方から出ている。まさか、目的地が火事? それはないだろうが、そう思わせるほど同じところから煙が出ている。

 ポンプ車が現れた交差点を左折し、時計回りに進んで目的地の近くまで行くと、駐車場をはさんだ隣の家から煙が上がっていた。道路にはポンプ車とパトカーが10台近く並んでいて、駐車場には車を入れられない。

 茶色い煙は間もなく白煙に変わった。が、きな臭いにおいがあたりに漂っていた。農村地帯では春先に野焼きが行われる。それ以来の人工的なきな臭さだ。歩道には火事に気付いた人々があふれていた。

 およそ2時間後、カミサンが仲間に送られて帰ってきた。予定通り集まりは開かれたという。きな臭い空気を吸いながらの会議になったようだ。

 翌日(6月11日)の新聞に小さく記事が載った。出火時間は午後5時40分ごろ、民家敷地内のプレハブ小屋から火を出した、原因は調査中――記事はそれで終わっていた。しかし、この目で見た火事だったこともあって、「なぜ、そこから火が」の思いが今も消えない。