2019年10月31日木曜日

台風19号⑲風力発電計画

 少しは日常が戻ったので、私が所属するいわき地域学會の市民講座の話を――。台風19号が大きな爪痕を残した翌週末、土曜日(10月19日)。行事の中止・延期が相次ぐ中で、いわき市文化センター視聴覚教室で第27回阿武隈山地研究発表会を兼ねた第351回市民講座が開かれた=写真下。
山階鳥類研究所鳥類標識調査員、福島県野生動植物保護アドバイザー(鳥類担当)の川俣浩文日本野鳥の会いわき支部長が、ゲスト講師として「いわきの鳥類調査と生息地保全」と題して話した。

毎年1月中旬、同支部ではガンカモ全国一斉調査に参加する。それにしぼって紹介する。

鳥インフルエンザによるえさやり自粛が始まったあとの2009年、それまで1000羽を超えていたハクチョウの数が700羽に減り、以後、現在まで1000羽を超えることはない。そのなかで去年(2018年)、首に発信機、脚にカラーリングと金属リングのついたコハクチョウが飛来した。山階鳥類研究所を介したロシアの情報から、次のようなことがわかった。
このコハクチョウは2017年8月25日、北極圏のチュコトカ自治管区、チャウン湾で標識放鳥された。放鳥地といわきの新川・夏井川合流点までの直線距離はざっと4000キロ=写真上。実際にはサハリン島(樺太島)の白鳥湖に寄り、北海道から本州へ渡って、新川との合流点の夏井川に到着したのだろう。(前年の2016年、サハリンを旅して、白鳥湖を見た。それからの推測)

川俣さんは野鳥の「生息地保全と開発」についても話した。原発震災後、いわきを中心にした阿武隈高地に七つの風力発電事業計画が持ち上がった。そのまま認められると、スカイライン(稜線)には130を超える風車が林立する。希少種クマタカの生息地がある。いわきで唯一、貴重な渡り鳥の繁殖地となっている山地もある。それらへの影響が懸念される。

いわき支部としては、風車建設の適地・不適地を明確にするゾーニングの条例化を求める要望書を市・県・国に提出したという。

巨大風車をスカイラインに建設するためには機材を運ぶための道路をつくらないといけない。水源地帯のあちこちで大規模な開削工事が行われることになる。例えば、夏井川渓谷。左岸の神楽山にも最大23基の建設が計画されている。

いわき市は2015年、県の調査を踏まえて防災マップを改訂し、新たに土砂災害警戒区域、同特別警戒区域を掲載した。前年8月、広島県の大規模土砂災害を踏まえたもので、夏井川渓谷では人家のある4カ所の沢が「土石流危険渓流」「同危険区域」として書き込まれた。背景には、温暖化で大雨が頻発し、土砂災害が増えていることがある。

台風19号の猛威を経験した今、水源地帯のさらなる開発には危機感が募る。風車建設計画地直下の水源地帯には小集落が散在する。もしも計画通りに風車が尾根筋に建設されたら、景観・環境から始まって、生活用水、土砂災害など、さまざまな問題の発生が懸念される。下流の平地には市街地が広がる。水害の懸念も加わる。

浜通りの河川は、水源から河口まで滑り台のように傾斜がきつくて短い。水源の山々が西方に見える。ここに130基超の風車とは、べらぼうすぎないか。

2019年10月30日水曜日

台風19号⑱歌人の妻100歳の死

 きのう(10月29日)の朝日新聞福島版トップ記事=写真=には息をのんだ。「いつでも丁寧な言葉使うよう教えられた/台風で犠牲の100歳悼む/いわきの大内さん 孫が弔辞」。本文に、夫は歌人の故大内与五郎さん、とあった。
 大内寿美子さん、100歳。記事によると、10月13日午前3時ごろ、一緒に住んでいた次女(68)が自宅1階の浸水に気づいた。「雨がやみ、休んでいたところ、夏井川の氾濫によって、自宅の周囲は浸水。不意に使わなくなって久しい『お母さん』と3回叫んだが、水が1階の天井近くまできて行く手を阻んだ」

 いわきの近代文学史をひもとくとき、与五郎さんを抜きにして短歌を語れない。与五郎さんは茨城県出身で、通商産業省(当時)管轄の平石炭事務所に勤務した。昭和44(1969)年にはシベリア抑留体験を詠んだ歌集『極光の下にて』で第13回現代歌人協会賞を受賞している。さらに同49年、いわき歌話会発行の『常磐炭田戦後坑夫らの歌』を編集した。

与五郎さんの娘さんは、私と同じ福島高専に学んだ。2学年ほど下だった。テニス部で活発に動き回っていた。寮の後輩からか陸上競技部の後輩からか、今となっては定かではないが、彼女の同級生たちが大内家を訪ねて父親の歓待を受けた話を聞いた記憶がある。陸上のほかに文学にも引かれていたので、一種の道標として与五郎さんの人となりには興味があった。

 台風19号では、平窪の下流、平・幕ノ内でも97歳のお年寄りが自宅から流され、3日後の16日、1キロほど下流の平・鎌田地内で遺体となって発見された。内桶光江さん。高専の後輩の母親だった。後輩のお兄さんも一緒に流され、4キロ先で救助された。聞くところによると、すでに火葬はすませた。病院に運ばれたお兄さんもやっと退院した。葬式はこれから、ということになる。

 大災害が起きるたびに思うことだが、人の命は何万分の1、何千分の1ではない、1分の1だ。個別・具体の人生が集まって全体の死者数になるのだ。

東日本大震災では、1万5897人が亡くなり、2533人が行方不明になっている(2019年3月7日警察庁発表=朝日新聞)。今も継続しているいわき市災害対策本部の週報(10月23日現在)によると、市内の死者は467人(うち関連死137人)。生き残った知人の話などから、会ったことはないが何十人かの個々の命・暮らしを想像することはできる。

今度の台風19号では、全国で88人が犠牲になった。それだけではやはり統計にすぎない。被害の規模はつかめても実相はわからない。身近な地域で親戚や友人・知人が被災した。亡くなった人もいる。メディアの実名報道によってようやく個別・具体の人生に触れることができた。

「100人の死は悲劇だが、100万人の死は統計だ」(アイヒマン)。この冷血的言辞を打ち砕くためにも、物事を個別・具体で見る姿勢が大事になる。

2019年10月29日火曜日

台風19号⑰浸水見舞い

 日曜日(10月27日)は午後、台風19号の襲来以後、初めていつもの田んぼ道(平・神谷~中塩~平窪)から国道399号(県道小野四倉線)に抜けて、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。行く先々で異様な光景を目にした。
  刈り入れのすんだ神谷耕土の田んぼでは、ひこばえが伸びている。金曜日(25日)に降った大雨で、また田植えをしたようだった=写真上1。

 中塩の道沿いに、知人の娘さんの家がある。台風で床上浸水をした。夫婦ともう1人で片付けをしていた。片付けの邪魔になってはまずい――気にしながら顔を出した。1階はほぼ水没状態だった。「(見舞いに)来てくれただけでうれしい」。そういってくれる。
 上平窪に入ると、まだ稲刈りを終えていなかった田んぼに、どこからかボートが流れ着いていた=写真上2。

 週末の大雨で夏井川が氾濫した小川町関場地内は、国道399号沿いに限っていえば、水害ごみなどは確認できなかった。平地から段丘の高崎に入ると、JR磐越東線が崖の上を走る。その下の沢から滝のように勢いよく水が落下し、道路にあふれていた=写真右。これでは磐東線もなかなか再開できないだろう。

その先、渓谷の道路は障害物が除去されたために、わりとスムーズに通行できた。山側は崖と沢が連続し、道端の木々で視界が遮られていた沢の砂防ダムなどが土石流のためにむき出しになっている=写真下。

 大雨は、ヤマよりもハマを直撃した。前にも書いたが、25日の降水量はハマの小名浜で193ミリ、ヤマの川前(夏井川渓谷の上流部)では3分の1の62ミリだった。小名浜で176ミリ、川前で229ミリと、いわき全域が豪雨に見舞われた台風19号のときよりは、ヤマは穏やかな降り方だった。
 帰りは夏井川の右岸域に渡り、平・赤井の友人宅を見舞った。台風で浸水すると、すぐ仲間が片付けに駆けつけた。水に浸かった家具は廃棄し、室内をきれいにしてくれた。おおむね浸水前と同じような環境を取り戻していた。絆の力だ。
 中平窪の夏井川に渡ってきたハクチョウが田んぼから川へ戻る時刻だった。「そろそろ見られるかも」。そのとおりになった。閼伽井嶽をバックに、西方の田んぼからハクチョウが3羽、4羽と連れ立って飛んで来る=写真上3。友人の家の上空を通過しては夏井川の方へ去る。浸水見舞いに行ったのに、ハクチョウの写真を撮るのに夢中になってしまった。

2019年10月28日月曜日

台風19号⑯桐ダンス救出

きのう(10月27日)は午前中、平・平窪で浸水したカミサンの友達の家から、桐ダンスその他を救出した。
先週後半の25日、また大雨が降った。友達の家の周辺は幸い再浸水を免れた。台風19号から半月、家の前の細道は、水害ごみの回収が進んで土のう袋だけになっていた=写真。しかし、友達の家ではまだドロのかき出し・洗浄が残っている。再び住めるようになるまでには時間がかかる。

カミサンの実家(米屋)の義弟が、運搬のためにバンを出してくれた。義弟は工業大学の建築学科を出た。家を継ぐまでは建築会社に勤めて現場に立っていた。搬出の合間に床下のドロの具合などを見た。「思ったよりドロは少ない」「カビ対策として、毎日、1時間くらいは窓を開けて通気をよくするように」「在来工法の家だから、詳しくは大工さんに見てもらったら」。なるほど。カミサンの友達も了解した。

桐ダンスは三段重ねだった。一段目は水に浸かった。無垢(むく)だから乾かせば削って使えるが、水害ごみとして廃棄してしまったという。無事だった二段と三段をバンに積み、ついでに手元に残しておきたいものも運んだ。

そのあと、カミサンの友達の希望で、水に浸かった一枚板のケヤキの座卓を救出した。100歳を越えた友達の母親にとっては、桐のタンスや座卓は思い出の詰まった家具でもある。それが避難先のマンションにあれば、少しは安心し、慰めにもなるだろう。

一枚板は厚さが5センチほどで、大きさも疊1枚分くらいはある。重い。3人がかりになった。

残る大仕事はドロのかき出しと洗浄だ。床板をはずさないとドロはかき出せない。それを含めた再建策を検討するため、夜、友達の了解を得て知り合いの大工さんに連絡した。すでに平窪の別の家の改修を頼まれている。平窪へ行ったついでに家の中を見てくれることになった。ますは罹災証明だ。カミサンの友達はきのう、その申請をした。

2019年10月27日日曜日

台風19号⑮学習発表会

孫が通っている草野小の学習発表会がきのう(10月26日)、同小体育館で開かれた。「(上の孫の)最後の発表会だから」。カミサンがいうので、出かけた。
  下の孫(4年生)はみんなと一緒に楽器を演奏し、ダンスを踊り、歌をうたった。上の孫(6年生)は照明係だった。自分たちの劇「走れメロス」でも照明を担当した。

開催までには曲折があった。台風19号が2週間前にいわきを襲い、平地の夏井川水系を中心に、9人が死亡し、8000戸超が床上・床下浸水をした。平浄水場も浸水し、断水は 約4万5400戸、いわきの世帯数の3分の1に及んだ。

同浄水場の水を利用している小中学校は「断水休校」になった。草野小もそうだった。学校が再開したのは土・日・祝日を含めて10日後の21日月曜日。19日の土曜日に予定していた学習発表会は1週間延期された。

体育館の壁に今年(2019年)のスローガンが掲げられていた=写真。「心をひとつに最高の演技を ~とどけ 大志の松まで~」。大志の松は同小の正門と校庭の間に立つ推定樹齢400年の松の木だ(いや、だった)。

台風15号が9月9日、いわきを襲ったとき、強風で同小のシンボル(大志の松)が倒れた。翌10日には校庭でお別れ会が開かれた。スローガンには“昇天”した松の木の魂にもみんなの熱演が届くように――という思いが込められている。

そして、今度は前日の大雨だ。26日の朝になると青空が広がった。父親に確かめて、10時すぎには体育館に着いた。

上の孫は照明器具のそばにいた。周りの子より大きい。高学年になると背が伸びた。入学したころは、ランドセルを背負うというより、ランドセルに抱えられているようだったのに……。子どもたちの成長を実感するととともに、それぞれの学年の熱演に、断水生活でたまった疲労とストレスが解消された。

わが地元の平六小の学習発表会もきのう、開催予定だったが、大雨で避難した家族がいたりしことから、きょうに順延された。

わが家の近くにある故義伯父の家が大雨で雨漏りした。ベッドのカバーが濡れているのでわかった。どこからどう漏れたのか――。米屋の本店を継いでいる義弟(元建築設計士)が設計したので、義弟に見てもらうことにした。

きょうは義弟に車を出してもらい、台風19号で被災した平・平窪のカミサンの友達の家から家財道具を引き出す。その作業を終えたあと、雨漏り個所を点検してもらうつもりでいる。六小の発表会はしかたがない、パスすることにした。

2019年10月26日土曜日

台風19号⑭再びはんらん

 およそ2週間前の台風19号のときより、家の前の歩道の冠水が深かった。きのう(10月25日)の大雨のすごさがそれでわかった。
 午後3時ごろまでは、川もそんなに増水していなかった。夜になって、あっという間に水かさが増した。内郷の新川支流・宮川から始まり、いわき市北部の大久川、次いで夏井川もまた小川町ではんらんした。

次から次にいわきの上空で水桶がひっくり返される。あっという間にあちこちで川が増水する。それほどきのうの雨は短時間に集中して降った。「風呂に水をためようか』とカミサン。「いいよ」。そういって、ゆうべは床に就いた。(平浄水場ではそれなりの対策をとっているはず――単なる希望的観測にすぎないが、けさ、蛇口をひねると勢いよく水が流れ出た)

日中は、雨が降ってもまだ動き回ることができた。朝はカミサンと介護を必要とする義弟を病院へ送り届けたあと、店番をしながら仕事をした。昼過ぎ、いったん2人を迎えに行き、さらに午後遅く、義弟の薬をもらいに病院近くの薬局へ出かけた。新川はまだ細い流れだった。そのころからだんだん雨脚が強まり=写真上1、暗くなるにつれて土砂降りになった。

夕方、副区長さんから電話が入る。「家の向かいのお年寄りから避難所を聞かれた」という。私も防災メールとフェイスブックで情報を取るだけだから、定かではない。が、最寄りの避難所は最初、夏井川を渡り、平市街を過ぎた高台の平一中だった。地理的にも心理的にも遠い。

やがて川のこちら側、同二中にも開設された。地元の公民館や小学校が避難所になるものと住民は思っているが、そうではなかった。平地にあって浸水の心配がないわけではない、というのが、理由だろう。わが家では、いざとなったら2階への「垂直避難」を、と決めた。

 この2週間、非日常の日常が続く。そこへまた大雨の不安がかぶさった。それでも、やらないといけないことがある。糠床をかきまわす。これを怠るわけにはいかない。
 きのうはまた、大根をブツッ、ブツッと切り、せんぎりにしてキャベツを加え、浅漬け容器に入れた。おとといは、友人が持ってきてくれたウラベニホテイシメジを裂いて「しめじご飯」にした=写真上2。浸水したら「最後の晩餐」だが、現実には原発震災後、初めて味わうほろ苦さだ。大雨に閉じ込められても、気持ちまでふさいではいられない。朝の食卓には一品、浅漬けが増える。

低気圧が通り過ぎたけさ、家の周りを見ると変化はない。気象庁のホームページでデータをチェックする。きのうの降水量は、小名浜で193ミリ、鮫川水系の山田町で158ミリ、夏井川水系の上流、川前では意外と少なくて62ミリ、さらに上流の田村郡・小野新町では45.5ミリだった。大雨は平地、なかでも沿岸部を直撃した。

2019年10月25日金曜日

台風19号⑬いきものたちの避難所

 いわき市平赤井で床上浸水被害に遭った若い友人一家が、おととい(10月23日)、風呂を借りに来た。
ボイラーが水没・故障し、断水が解消されても風呂に入れない。あちこち入浴サービスのあるところを巡ったが、人が多くて入るまでに時間がかかる。わが家でも水が復活したことから、電話がかかってきた。「風呂、いいですか」。いいも悪いもない。どうぞ、どうぞ、だ。

 浸水の状況は電話で聞いていた。しかし、会って話すとまた違った感慨がわく。高3の“孫”は美大への入学が内定した。その報告も兼ねていた。大学ではイラストレーションを学ぶようだ。

小さいときから絵を描くのが好きだった。右に掲げたのは5年前(2014年)の8月、中1で読書感想文に悩んでいたときの作品。課題の本は『星空ロック』といって、少年が旅をする話だ。「空間的な旅のほかに時間的な旅がある、人生は旅なんだよ、人間は死ぬまで旅をしてるんだよ」。ほろ酔い気分で“孫”にそんな話をしたら、たちまち4コマ漫画に仕上げた。ちゃんと起承転結を踏まえている。内心、舌を巻いた。

 赤井では、たまたま工事で家の周りに単管パイプの足場が組まれていた。父親が台風一過の朝、リビングのある2階から外階段に出ると、衝撃的な光景が広がっていた。それだけではない。足場や階段にいろんないきものが避難していた。ヘビ、カエル、イナゴ、その他もろもろ。イナゴはヘビの背中に乗っていた。

 カエルの天敵はヘビだが、カエルを狙うどころではない。カエルもイナゴをパクッとやるどころではない。それぞれが大水から逃れて生き延びるのに必死だ。

彼らの本質は生きて次に命をつなぐこと――そのための食物連鎖だが、大水は一発でそれさえ断ち切る。生への危機感、一念がおのずと同じ場所へ向かわせた。そうして足場や外階段はいきものたちの「ノアの箱舟」、いや「ノアの筏(いかだ)」になった。

父親はこの光景を写真に撮った。あとで見せてくれるという。“孫”には、文章と組み合わせて絵物語を展開する“イラストライター”の道を歩んでほしいと思っている。浸水を奇貨として、この「命の物語」を描くことを勧めた。

 実は、わが家では逆のことが起きていた。朝晩、カミサンにえさをもらいに来る野良猫の「ゴン」=写真上=が、台風が去るのと同時に姿を消した。この1年、老化が進んだものの、大雨から逃れるくらいの力は残っていたはずだ。家の周りでは歩道が冠水しただけ、どこでどう台風をやり過ごしたのか。相性が悪い猫だったが、姿が見えないとやはり心配になる。

 8年半前の原発震災のときには奇跡が起きた。猫が3匹いた。1匹は老衰で後ろ足を引きずっていた。排便もちゃんとできなくなっていた。えさも、水も用意して人間は避難した。ところが、9日後に帰宅すると、老い猫は死んでミイラになっているどころか、4本の足でちゃんと歩けるようになっていた。

63年前、ふるさとの田村郡常葉町(現田村市常葉町)が大火事になったときにも、やはり奇跡が起きた。わが家の飼い猫の「ミケ」と離ればなれになった。ほかのペット同様、焼け死んだのだろう――そう思っていたら、1週間後、私たちが身を寄せていた親類の家(石屋)の作業場に姿を現した。

今度もまた奇跡が起こるのかどうか。小さないきものたちの本能に感動した人間としては、ゴンにもそれを期待したいのだが……。

2019年10月24日木曜日

台風19号⑫給水車

 きのう(10月23日)は朝から水が普通に出た。朝食になってみそ汁をすすると、味がない。「あらっ、みそを入れてなかった?」。急いで汁を鍋に戻し、みそをとかす。ん? 今度はみそのかたまりが。また、汁を戻す。やっと当たり前のナメコ汁が出てきた。「水が出て安心したから、緊張感がゆるんだのよ」。水の復活とともに、トンチンカンも復活した。日常が戻った証拠だ。
 トンチンカンはカミサンだけではない。新天皇の「即位礼正殿(せいでん)の儀」が行われたおととい、カネを下ろしに銀行へ行くと閉まっている。そのあと図書館へ行ったら、やたら家族連れが多い。どうしたんだろう。メディアやSNSで22日が臨時祝日になることを承知してはいたが、その日になるとすっかり忘れていた。律義にも銀行は休み、図書館は休んだ人たちの受け皿になった。

 地域でも想定外のことがおこった。10月後半には行政区内の事業所を回って区費協力金のお願いをする。その1週間後、再び事業所を回って集金する。断水もあって、今年(2019年)は当初の予定より1週間、事業所回りを遅らせた。さあ、これから回るか――。きのう朝、副区長兼会計さんとの待ち合わせ場所へ向かおうとしたとき、近くのわき道から自衛隊の車が現れた=写真。ダンプカー並みの大きさだ。

 カミサンが隊員から聞いたところによると、沖縄から派遣された航空自衛隊の給水車だった。丘の先の丘にケアハウスがある。そこからの要請で向かっていたのだが、神谷の住宅地を横切ったために常磐線の踏切を渡れなくなった。戻って別の道へ出るために、わが家の近くに現れた、というわけだ。旧神谷村のエリアは21日からちょろちょろ水が復活したとはいえ、高台の施設ではまだ水が不足しているのだろう。

 わが家(米屋)には、東日本大震災のあと、いわきで支援活動を展開したシャプラニール=市民による海外協力の会から、2リットルのペットボトル9本入り14ケースが届いた。給水所へ行けない人、車があっても足が悪くて運べない人など、主にお年寄りにペットボトルを配った。区の役員も声かけなどをしてくれた。

21日になって水道復活の情報が入り、水が出始めたころから、個人への配布はすんだと判断して、水がなくて仕事ができないでいる近所のクリーニング屋さんに声をかけた。何ケースか引き取りに来た。それで、ほぼ目的は達成された。

あとは平・平窪で被災したカミサンの友達をどう支えるか。100歳のお母さんがショートステイに行っても、「(家へ)帰りたい、帰りたい」というようになった。本人も、浸水した自宅に見切りをつけて中古住宅を求めたい、などと、心が揺れている。とにかく家の中をきれいにして、床下の泥をかき出すことが先決――と、カミサンがしかるように、なだめるように説得する。だんだんこちらの方に支援の力点が移ってきた。

2019年10月23日水曜日

台風19号⑪水が出た

 きのう(10月22日)昼前、9日ぶりに水道が復活した。家の外の立水栓から屋内の風呂、台所と順繰りに蛇口をひねる。勢いは弱い=写真下1。でも、とにかく水運びからは解放される。けさはまだ白濁しているが、どの蛇口からも勢いよく水が流れ出した。
8年半前の東日本大震災のときにも実感したことだ。「当たり前の日常」は、実は「当たり前」ではない。開高健の「野原を断崖のように歩く」をもじれば、断崖を野原のように歩いている――断崖が日常の本質なのだ。いつ転げ落ちるかわからない。

10月12~13日にかけて福島県を通過した台風19号の影響で、夏井川が数カ所ではんらん・決壊し、平・平窪にある平浄水場が浸水した。それから間もなく、いわき市北部の上水道が止まった。

朝は、洗面器に少し水を入れて顔を洗う。ご飯を食べたあと、コップ半分の水で歯を磨き、口をすすいで歯ブラシを洗う。ご飯とおかずは、ラップを敷いた皿で食べる(“皿ラップ”から連想するラップがあるが、いわきなので使っているのはクレラップだ)。食事が終われば、ラップをはがして燃えるごみ袋に入れる。皿はそのまま次の食事に使う。これが断水後の、わが家の非日常的日常だった。

高度経済成長期前なら、農山村はどこでも井戸水か沢水を生活用水に利用していた。水をくみに行くのは子どもの仕事だった。

わがふるさと・常葉町(現田村市常葉町)でも、隣村・都路(同市都路町)の祖母の家でも、事情は変わらない。祖母の家は鎌倉岳(967メートル)の東南麓にあった。水は樋で引いた沢水を利用した。泊まりに行くと、桶で水運びをさせられた。

食事はめいめい自分の箱膳を出し、終えると茶わんにお湯を注ぎ、たくあんのあるときはたくあんで茶わんの内側をこする。それで、ひとまず茶わんがきれいになる。残ったお湯とたくあんは胃袋へ――これが当時の“食器洗い”だった。

テレビ番組にならえば「ポツンと一軒家」、さらに離れてまた一軒家があるような山中である。祖母が一人で住んでいた。電気がないので、夜の明かりはランプだ。部屋の壁に映る自分の影がべらぼうに大きくなる。小学低学年のころは、これが怖かった。

かやぶき屋根の一軒家は、今は杉林に替わった=写真下2(グーグルアース)。過疎化・高齢化が進み、原発事故が追い打ちをかけた。杉林も田んぼもこのまま荒れて寂しい自然に帰るだけなのだろう。 
  9日間に及ぶ断水生活では、台所に食器を運ぶたびに、この「ポツンと一軒家」の暮らしを思い出した。そのときの体験と知恵が記憶の底に残っていたこともあって、あまりじたばたせずにすんだ。

2019年10月22日火曜日

台風19号⑩水道復旧にメド

日に何度かいわき市のホームページを開き、平浄水場の情報をチェックする。ゆうべ(10月21日)は四倉の若い知人から連絡が入った。いわれた時間にホームページをのぞくと、“吉報”が待っていた。
「22日(火)には、送水管の排水作業を実施しながら平配水池への貯水を開始する予定です。平配水池が満水になり次第、平浄水場付近から順次(平地区→四倉地区→久之浜・大久地区)通水作業を実施していきます。/なお、久之浜・大久地区への到達には早くても4日程度かかる見込みであります」。ようやく水道の復旧にメドがついた。

けさ、ゆうべ8時現在の市水道局の発表を確認すると、具体的な通水開始予定日がわかった。きょうからあすにかけては平窪地区など、あすから25日にかけてはその東、平・中神谷地区など。その後、四倉、久之浜へと通水区域が拡大する。(浸水被害に遭った中華料理店のフェイスブックによると、平下平窪ではすでに水が出ている)

 さて、わが家(米屋)は東日本大震災のあと、いわきで支援活動を展開したシャプラニール=市民による海外協力の会などと連携し、まちの交流サロン「まざり~な」のプロジェクトに加わった。

シャプラのいわき連絡会の代表でもあるカミサンが店番を兼ねながら、地域図書館「かべや文庫」を開いている。文庫は、昔は子どものたまり場、今は主婦のしゃべり場だ。震災後は、近所のアパートや借家に住む津波被災者、原発避難者もおしゃべりに加わった。シャプラが5年間の活動を終えたあとも、「まざり~な」の機能は続いている。

シャプラは、震災時に引き続き今回もいわきへ緊急支援に入った。スタッフが東京から2トントラックに飲料水を積んでやって来た。かべや文庫にも「地域の人に使ってもらえれば」と、2リットルのペットボトル9本入り14ケースを届けてくれた=写真。

中神谷地区は、浸水被害は免れたが断水が続いている。少子高齢社会の例にもれず、独り暮らしのお年寄り、老夫婦だけの家庭が少なくない。車の免許がない人もいる。

最寄りの給水所(地元の小学校)までは遠い。戸建て住宅に囲まれるようにして、3、4階建ての県営住宅がある。上層階に住むお年寄りは上がり降りだけでもきつい。これに水の運搬が加わる。大きなポリタンクより、コンパクトな2リットルのボトル2本、3本の方が現実的だ。

日曜日(10月20日)朝、いわきのまちをきれいにする秋の市民総ぐるみ運動が行われた。区内を一巡りするなかで出会った区の役員さんに声をかけると、さっそく県営の住人がペットボトルを取りに来た。役員さんも代行して取りに来た。ペットボトルが残っているうちに断水が解消される――それはそれでいいことだ。やれやれ、である。

2019年10月21日月曜日

台風19号⑨後片付け手伝い

 ホテルに避難し、やがてホテルも断水したため、1週間の宿泊予定を切り上げて知り合いのマンションに移ったという。前にも取り上げたカミサンの友達と100歳のお母さんのことだ。
 平・平窪に家がある。路上からは1.5メートル以上、床上では1メートル近く浸水した。お母さんは足が悪い。台風が来る前に避難したからよかったものの、そのまま平屋の家に残っていたら……。考えただけでもぞっとする。

 浸水した地域では、水につかった家電や家具、衣類その他の運び出し、泥かきが続く。カミサンの友達の家にも、知り合いの業者だけでなく、友人・知人が搬出の手伝いに来た。別の日には高校生ボランティアが入った。

 東日本大震災のときもそうだったが、非常時になるとカミサンのエンジンがかかる。私もアッシー君をやらないわけにはいかなくなる。

 きのうの日曜日は、いわきのまちをきれいにする秋の市民総ぐるみ運動の最終日「清掃デー」(市内の全家庭周辺が対象)だった。台風19号の余波かどうか、自己判断で早朝の作業を中止する人が多く、指定の集積所に出たごみ袋の数は例年の半分以下だった。

 燃やすごみ・燃やさないごみ・道路側溝の堆積土砂と、3種類に分けないといけない。交付されたはがきにそれぞれの袋の数字を書きこんで市に報告する。それが終わってから、仮住まいのマンションまで友達を迎えに行き、平窪の自宅で片付け作業を手伝った。

 必要なものは少しずつ持ち出している。まだなのが本の“救出”だ。友達のお父さんは高校の先生だった。書棚にハードカバーの重厚な本がずらりと並んでいる。

一番下の列は水につかった。その上段、『群書類従』は台湾へも持って行った。日本の領土だった同地で、若いころ、教師をしていたのだろうか。お母さんにとっては夫を偲ぶ遺品でもある。それを何冊かずつ束ね、車のトランクに積んで=写真=マンションへ運んだ。わが家へもダンシャリで出た衣類、食器などを運んだ。

 合間に、内郷の回転ずしの店で昼食をとった。ラップなしで皿のすしを食べ、かに汁をすすった。日曜日だから、夜はカツオの刺し身で一杯。マイ皿は洗うのがもったいないので、持っていかない――そんなことを考えながら、量は控えめに、しかし昼にしてはぜいたくな食事になった。

夕方には手伝いを終えた。魚屋さんへ直行するとシャッターが下りている。1週間前、水をたたえた桶が二段重ねにしてあった。その水が切れれば、商売も休まざるをえない。こちらはなんとか水を確保しているだろうと、淡い期待を抱いていたが、現実は厳しかった。

浸水を免れた地域では、「断水休業」中の店が少なくない。コンビニはあいているが、「断水のためトイレは利用できません」の張り紙が。薬をもらいに行った診療所もそうだった。食事、トイレ、風呂……。断水地域でもストレスがたまりつつある。

2019年10月20日日曜日

台風19号⑧川中島が消えた

 自称「夏井川ウオッチャー」だ。40年近く川の流れを見ている。川の水位が下がった木曜日(10月17日)早朝、コンビニで資料のコピーをしたあと、思い立って約5キロ先の海まで車で行ってみた。
いつもそうするように堤防を利用した。河川敷にあるソメイヨシノは枯れ枝や枯れ草、ビニール片などがからまって、上流側半分が“わらぼっち”になっている。いわき市北部浄化センターの排水口付近は、大水が引くと流木その他のごみで河川敷のサイクリングロードがふさがれる。今回は延々と50メートル近く、残留ごみの山ができていた=写真上。川をウオッチングしてきたなかでは、最長・最大の量だ。

夏井川の河口はたびたび、海砂が溜まって閉塞する。四倉を流れて来る支流・仁井田川と本流・夏井川は河口近くでつながっている。仁井田川の流れが大水でじかに太平洋へ抜けて以来、本流の河口閉塞、仁井田川とつながる横川への逆流が常態化した。今度はさすがに本流も太平洋へと河口が開けていた。しかし、時間がたてばまた海からの堆砂で閉塞する。

河口近くにハクチョウが3羽休んでいた。10日前の拙ブログでこう書いた。「月曜日(10月7日)には猪苗代湖にハクチョウの第一陣が飛来した。去年(2018年)より2日早い。すると浜通りの南端、いわき市の夏井川にやって来るのは来週後半、17日前後か」。図星だ(と、そのときは喜んだ)。ハクチョウ飛来の有無を知りたくて、堤防に立ったのだから。

しかし、これはあとでぬか喜びとわかる。撮影データをパソコンに取り込み、拡大すると、国内のどこかで生まれ、夏井川河口に現れたコブハクチョウだった。扱いとしては「漂鳥」か。

ハクチョウを見た勢いで上流の越冬地、新川と夏井川の合流点(平・塩地内)へ向かう。台風19号の大水の影響で、密生していた岸辺のヤナギが流され、河川敷全体がスカスカになっていた。中神谷から塩地内に入るあたりの浅瀬でハクチョウが2羽、草をつついていた=写真右。こちらはデータを拡大してコハクチョウとわかった。予想した日に初飛来を確認した。

普通のカメラでは大型の水鳥もケシ粒にしか写らない。午後、街へ行くついでに望遠カメラを携行したが、ハクチョウの姿はなかった。生き物は、いや自然は一期一会。定着するまでにはまだしばらく時間がかかる。手帳に「10月17日、ハクチョウ初認」と書いて、のちのちの記録とする。

ついでに、塩の上流、平・鎌田の川中島についても記しておく。前日、街からの帰りに見たら、軍艦のように肥大していた川中島が、水面ぎりぎりまで大水で崩され、姿を消していた。ビフォー(2015年7月14日撮影)・アフター(2019年10月17日撮影)の写真を下に載せる。今度の大水の威力がこれからもわかる。
鎌田からさらに1キロほど上流の平・幕ノ内では97歳の女性が流され、行方不明になった。警察や消防が連日捜索した結果、16日午後3時前、鎌田の左岸河川敷で遺体となって発見された。テレビも新聞も匿名で報じた。

あとでネットを探ったら、読売の記事に実名が載っていた。ん? 学校の後輩と同じ珍しい苗字だ。まさか。長男も一緒に流されたが、助かったという。後輩は次男だ。匿名報道のときには感じなかった切なさ・やりきれなさ・悲しさが急にわきあがってきた。

新聞やテレビが伝える死は、基本的に個別・具体でなければならない。でないと、「災害の検証」もできないし、「将来への教訓」にもならない。死から学ぶべきこと・ものがある。匿名では単に「死者〇人」と数字が膨らんで終わりだ。実名だからこそ感情が揺さぶられ、その瞬間を想像して、なぜ、どうしてという思いがめぐる。しかし、後輩に確かめる気にはなれない。

2019年10月19日土曜日

台風19号⑦シャプラが来た

東日本大震災後、いわきで5年間、津波被災者や原発避難者の支援活動を展開したシャプラニール=市民による海外協力の会(東京)の先遣隊がおととい(10月17日)、いわきに入った。飲料水を配りながら、被災地の状況調査を行っている。
カミサンがいわき連絡会の代表をしている。きのうは朝から、カミサンとスタッフ2人が浸水被害の深刻な地域のひとつ、平・下平窪を見て回った。午後はスタッフだけで行政機関などを訪ねた。きょうは震災時にも運営に協力した市社協の災害ボランティアセンターを訪問する。

3年半前、シャプラがいわきでの活動を終えるときに書いた拙ブログを一部引用する。

――シャプラはもともと、バングラデシュやネパールなどで活動しているNGOだ。そのNGOが東日本大震災・原発事故後、いわきへ支援に入り、3年間の活動継続を決めた。①被災者の生活再建のメドがつき、正常な生活を送れる道筋が見える状態になること②行政やNPOなど地元の力によって細かなニーズに対応できる体制・ネットワークができること――を目標にしたという。

 時間の経過とともに被災者のニーズも変わる。発災直後は①災害ボランティアセンターの運営支援・コーディネート②一時提供住宅への入居が決まった被災者への調理器具セットの提供③物資無料配付――などを続けた。その後は、主に借り上げ住宅(アパートなど)の入居者を対象に、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営し、活動期間も2年延長した。

「ぶらっと」は、①生活情報・支援情報・イベント情報の提供の場②友達とのおしゃべりの場③デッサン・編み物・刺繍などの教室の開催の場④困っている人の相談の場――などに活用された。情報紙も発行した。いくつかの教室はサークル化されて、利用者みずからが自発的に運営するところまできた――。

今回、わが家は断水中なので、水の出る南部の会員の好意でそちらに宿泊し、5年間のつながりを生かしながらどんな支援ができるかを探る。

今度の台風19号では、夏井川水系の小川、平窪、赤井、内郷、好間などで8000戸超の住宅が床上・床下浸水をした。

このエリアに親類や友人、知人が住んでいる。家が無事だった人もいるが、カミサンの友人(平窪)、私らの若い友人(赤井)、知人たちが被災した。ほかの市民も同様で、ボランティアというよりはファミリーと同じような感覚で水害ごみの片づけなどを手伝っている。近所の知人も「姉が住んでいる」といって、後片付けに出かけた。カミサンの友達の家は、内部が惨憺たる状態だった=写真上1。
きのうの午後、カミサンが再び平窪の友達の家へ行くというので、車を出した。裏道を利用した。田んぼの中に平浄水場がある=写真上2。一日でも早く復旧を、と願わないではいられなかった。
友達の家では車に大事なものを積めるだけ積んで、わが家で仮保管すことにした。一帯は狭い道路だけでなく、近くの公園にも水害ごみがあふれ返っていた=写真上3。水害ごみはこれからさらに増える。この処理には長い時間がかかる。

家は平屋。家の前の道路よりは盛り土されて高い。そこに数え101歳の母親と2人で暮らしていた。路上から家の壁に残る浸水跡を見ると、ほぼ目線と同じだ。床上1メートル前後の浸水ということだったが、路面からは1.5メートルはあるだろう。台風が襲来する前、ホテルへ避難したのは賢明だった。今は知り合いのマンションに移った。

知り合いの業者や、友達の仲間が片付け作業をしていた。なかに、フェイスブック友の青年がいた。会うのは初めてだ。彼は震災直後、同じ支援者としてシャプラとつながった。昼前訪れたスタッフとも偶然、再会したという。ひとことふたこと突っ込んだ話をして別れた。

空き巣や被災地を食い物にする人間の話も伝わっている。被災地のために――といって寄付金を募りながら、使途は不明、収支報告もあいまい、という団体もあるようだ。その点、シャプラは創立から半世紀近く、市民からの善意の収支を明らかにすることで信頼を得てきた。なによりもいわきの人間(私の朋友)が創立メンバーのひとりだ。それで、私らも長く付き合っている。

2019年10月18日金曜日

台風19号⑥もらい水

 いわきは三つの流域の連合体――。日本で最初の超広域都市いわきを可視化するには、川を軸にすることだ、と私は思っている。いわきの北と南、山地と平地とでは、天気が異なるときがある。今度の台風19号でも明暗が分かれた。
南部の鮫川流域と中部の藤原川流域は、土砂崩れや道路冠水による通行止めのほかは、これといった台風被害の報告は聞かれない。高柴ダムが緊急放流されたために、私は当初、鮫川下流域の浸水被害を心配した。ところが、そちらはそうでもなくて、北部の夏井川流域、それも平地の中心市街地・平の周辺のベッドタウンに被害が集中した。

 昭和41(1966)年に14市町村が合併して「いわき市」が誕生した。以来、行政は「規模の経済」を求めて財政効率化を推し進めてきた。いわきを北部と南部に分けて大型施設を建設し、効率の悪い小規模施設は整理する、という道筋をたどった。

上水道は北部・平浄水場、南部・山玉浄水場が基幹施設として建設された。それで市内上水道のネットワークが完成し、南部・北部どちらかで支障が出ても、ただちに融通がきくようになっている、と思っていたのだが……。現実にはもろかった。肝心の浄水場が浸水被害に遭った。

 浄水場浸水が広範な断水を招いたために、さまざまな被害類型が生まれた。浸水した家、断水した家、その両方に見舞われた家(いや、地域といった方がいいかもしれない)。わが家は断水だけにとどまった。それでも日常のリズムが狂った。食事は、皿ラップのごはん、プラ容器のおかず。味噌汁だけが断水前と同じくおわんで=写真上。

毎日、カミサンの実家(平・久保町)へ行ってもらい水をする=写真下。ゆうべ(10月17日)は、浸水も断水も免れたカミサンの妹の家(好間町下好間)でもらい風呂をした。体だけでなく、頭も洗い、ひげもそった。あんまり長く風呂にいたために、「どうしたんだろう」と心配された。浸水被害に遭ったうえに断水までしている家の人たちのことを思うと、ほんとうに申しわけない。久しぶりに人心地がついた。
 カミサンは洗濯物とネギも持って行った。ネギは台所を借りて細かく刻んだ。それを持ち帰ってみそ汁の具などにする。

市水道局の発表によると、いわき駅周辺は好間・上野原浄水場からの水で、駅南方の福島高専周辺は山玉浄水場・法田ポンプ場からの水で断水が解消された。平浄水場は、来週以降には復旧の見込みだという。見通しが立たない状態から少し前に進んだ。早ければあと数日で水が復活する。

といっても、それは浄水場に近いところで、最も遠い久之浜地区は復旧まで4日程度ずれこむ。なにはともあれ光が少し見えてきた。

2019年10月17日木曜日

台風19号⑤中止・延期・休校

台風19号の襲来と浸水・断水の影響で催しが中止になったり、延期になったりするケースが増えている。きのう(10月16日)の夕刊にも、敬老会やフリーマーケット中止などの見出しが並んだ=写真。
私が関係するものでは、第42回吉野せい賞の記者会見(15日)、まちづくり観光ビューローの会議(17日)、神谷公民館まつり(20日)が中止になった。せい賞は記者クラブへの資料の投げ込みに切り替えられたようだ。出演する若い知人からチケットを買った、コバケン(小林研一郎)指揮のいわき交響楽団第35回記念定期演奏会(13日)も中止になった。

平浄水場から配水を受けている23の小中学校は断水休校、通学路と地区の被災状況から5小中学校も休校した。小学生の孫2人は断水休校の組で、結局、12日から20日まで9日間、家にいることになる。

いわき地区秋季陸上競技選手権大会は12~13日に開かれる予定だったが、台風のために13日の1日だけに変更になり、さらにこれも延期になった。上の孫(小6)が80メートルハードルと400メートルリレーに出場する。楽しみが先送りされた。

さて、行事の中止・延期が相次ぐ中、いわき地域学會は土曜日(19日)午後2時から予定通り、いわき市文化センター視聴覚教室で第27回阿武隈山地研究発表会を兼ねた第351回市民講座を開く。山階鳥類研究所鳥類標識調査員、福島県野生動植物保護アドバイザー(鳥類担当)の川俣浩文日本野鳥の会いわき支部長がゲスト講師として「いわきの鳥類調査と生息地保全」と題して話す。

ガンカモ調査、ウミウ調査、コシアカツバメ調査、コアジサシ調査について、鳥類標識調査の話題を織り交ぜながら紹介する。市内に計画されている風力発電事業についても、野鳥の生息地保全の観点から取り上げる。

阿武隈高地では今、べらぼうな数の風車の建設が計画されている。スーパータイフーンの頻発がいわれるなか、災害の観点から風力発電の是非を考える必要がありはしないか。台風が猛威を振るった直後だからこそ、いわきの自然環境を基礎から学ぶチャンスでもある。地域学會の会員でなくても受講できる(資料代200円)。

2019年10月16日水曜日

台風19号④渓谷への道

 今思うといささか無謀だったかな、と反省している。夏井川渓谷の隠居へ近づくごとに不安が募る。道路が土石で覆われている。山からしみ出した水が路面を洗っている。何カ所か、片側しか通れない。このまま行って、進むも退くもならなくなったらどうしよう――。
 台風19号が東海上へ去って一日たったおととい(10月14日)早朝、渓谷の隠居の様子が気になって出かけた。浸水被害に遭った平窪地区を避け、反時計回りに北神谷(平)から柳生街道(県道小野四倉線)へ抜けて、下小川(小川)でいつも利用する国道399号(県道と重複)に出た。台風襲来前と変わらない――と思ったのは、そのとき、そこだけ、だった。
 国道と並行する夏井川のハクチョウ飛来地を過ぎると、両側の田んぼに車が突っ込んでいる=写真・上1(帰路に撮影)。渓谷と平地の境、高崎(小川)では、眼下に広がる川岸の水田が土砂で埋まっていた=写真・上2。

渓谷ではところどころ、山から土砂が流れ出して路面が茶色くなっている。ロックシェッドから500メートルほど行ったところで、最初の関門が待っていた。山側の沢で土砂崩れ、いや小規模な土石流が発生したのではないか。

隠居のある牛小川の手前、椚平の山中に居を構える友人が、前日13日、街の旧宅から帰るのにUターンして国道399号~母成(ぼなり)林道を経由せざるを得なかったのは、ここだろう。一日たって車1台がやっと通れるようになったのは、そばにあったバックホーのおかげにちがいない。

江田の集落に入ると、路面が細かい土石で覆われていた。山側に人の行き来できる四角いトンネルがある。そこから土石が流れ出してきた。一帯が小石まじりの砂利道と化した。(トンネルの上には、近くの江田駅からスイッチバックで渓谷を駆け上がるための折り返し線があった?)

椚平から隠居のある牛小川へ――。籠場の滝までおよそ500メートルというところで肝を冷やす。磐越東線直下のS字カーブで土砂崩れが起き、木々がなぎ倒され、土石が山となっていた。通れるのか? 応急的に車1台がやっと通れるように倒木が切られていた。フィットで土砂の山を乗り越えるのに難儀する。

籠場の滝のわきを進むとすぐ、岸辺に駐車場が見える。ここがえぐられてなくなっていた。2007年秋、完成直後に襲来した台風による大雨で一度えぐられている。翌年夏には、籠マットが何段にも組まれて復旧した。それが10年余りたった今年(2019年)、また損壊した。

ふだんから落石が絶えないV字谷だ。標高が高くなるにつれて路面状況が悪くなる。オフロードに近づいていく。
隠居の手前に錦展望台がある。その山側、道路をくぐって夏井川に排水する集落の水路が倒木と土石で埋まり、行き場を失った水が道路にあふれていた。子どもの頭大から大人のこぶし大までの石が路面を覆っていた=写真・上3。「牛小川は“石小川”」。少し前に亡くなった元区長さんの言葉がよみがえる。

隠居は無事だった。風による倒木もなかった。水は井戸水だから、今度の断水とは無関係だ。持ってきたビンややかんなどに水を汲み、温水をためて朝風呂に入った。実は水くみと入浴も隠居行の目的だった。

帰りは集落のKさんと偶然、一緒になった。隠居から車を出すとすぐ後ろから軽トラが来て、クラクションを鳴らし続ける。車を止めると、Kさんだった。お姉さんが中平窪に住んでいて、浸水被害に遭った。キノコと栗のおこわをつくって持って行くところだという。ワンパックをお福分けにあずかる。

S字カーブの倒木は、実はKさんが牛小川の区長さんと一緒に切ったのだという。それで通れるようになった。週末だけの半住民だが、牛小川の隣組にも入っている。顔見知りを超えた関係ができて、地元の事情がよくわかるようになった。山里で暮らす人々の自助と互助の精神、ワザにはいつも感心させられる。
まずはKさんに道を譲り、あとからついて行く=写真・上4。渓谷から平地の小川へ下り、Kさんにならってまっすぐ平窪を通りぬけた。道端には浸水跡がはっきり残っている。同地内の国道399号は、前日夕方には通行止めが解除になっていた。

県道は高崎から渓谷側が通行止めになっている。が、半住民としては「オウンリスク(自己責任)」で通るしかない。3・11のときもそうだった。

山間部は至るところで道路が寸断されている。いわきから阿武隈の山を越えて中通りへ抜ける基幹道路は、国道289号、県道いわき石川線、国道49号と県道小野四倉線だが、すべてが通行止めになっている(14日午後1時現在)。

夏井川渓谷も牛小川から先はオウンリスクでも行けない。おとといの朝から48時間がたつ。状況は、少しはよくなっただろうか。

2019年10月15日火曜日

台風19号③「水害ごみ」

 きのう(10月14日)、カミサンが近所の茶飲み友達のおばあさんを訪ねると、怒りをぶちまけられた。
 台風19号が襲来する前、「『避難しろ』『避難しろ』と何度もメールがきたけど、どこへ避難したらいいかわからないじゃない? まして、土砂降りの真夜中になってからは(デイケアへ行っている)夫を車に乗せるだけでも大変なのに」。避難所開設と増設の広報はあったが、見落としたのだろう。ホコ先は市役所だけでなく、区長にも向けられた。批判は甘んじて受けるしかない。

 避難情報と同様、断水情報もちゃんと届いてはいなかった。どこへ行ったら水が手に入るのか、わかっていないから水の蓄えも十分ではない。

最寄りの給水所は平六小だが、場所を教えたからそれでよし、とはいかない。おばあさんが持てる水の量は限られる。おばあさんの家のポリタンクを車に積んで、カミサンと小学校へ出かけた。ざっと70人が並んでいた。1人1分として、1時間はかかる。

そばの若い父親がどこかとケータイでやりとりし、「裏ワザを使う」(親戚の家に行って水をもらう)といって列を離れた。ん!そうだ。私らも裏ワザを使おう。きのうに続いて、カミサンの実家(平・久保町)へ行って水をもらった。

実家は、いわき駅裏から続くお城山の西麓にある。そばを好間江筋(農業用水路)が流れている。地理院地図で確かめると、標高10メートルよりはちょっと高い。その江筋を境にして明暗が分かれた。

お城山の一角、磐城高校のある高月や八幡小路からJR磐越東線の桝形踏切まで、長い「イナッシャマ(稲荷様)の坂」が続く。その鍋底に近い江筋の下手、久保町の一部から下好間字浦田、渋井、鬼越一帯が冠水した。ここだけで人家や事業所の数はどのくらいになるか。

きのうに引き続き、被災住民が水につかった家電製品や疊、衣類、家具の運び出し、泥のかき出しなどをしていた=写真上。道の両側にはそれら「水害ごみ」が点々と積み上げられていた=写真下。ひとつ丘を越えた北の赤井と平窪でも、多くの家屋が浸水した。水害ごみも膨大なものになるだろう。
  断水は約4万5400戸、いわきの世帯数の3分の1だ。浸水家屋は? きょうの未明に更新されたいわき民報ホームページの記事によると、床上・床下浸水8000戸超。断水も浸水もたまげるような数字だ。記事には災害ボランティアセンターがきょう発足する予定、ともあった。

まだまだ家の片付けができていない家がある。水の確保が難しい高齢者世帯がある。被災最初期の今は、被災者が被災者を助けるレベルだが、これからはもっとボランティアの助けが必要になる。