2014年8月31日日曜日

ミソハギ

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)の庭にある、風呂場の前の花壇は除染の対象外だった。震災前に一度、イタリアから里帰りをしたカミサンの同級生に花壇をつくってもらった以外は、ほぼ手をかけずにきた。3月にはスイセンが咲き、5月には自生のアヤメが咲いた。今はミソハギ(あるいはエゾミソハギ)が咲いている。ハチが来ていた=写真。

 ミソハギの苗を植えたり、種をまいたりした覚えはない。カミサンもそうだという。「ただ、種をまとめてまいたことはある」。いわゆる「種団子」で、その土に合った種だけが芽生える。その「種団子」のなかにミソハギの種(あるいはエゾミソハギ)がまざっていたのかもしれない。

 ミソハギは湿地性の植物だ。隠居の下の空き地は、今はヨシが生い茂っている。盛り土をしたとはいえ、隠居の庭も湿った岸辺のようなものなのだろう。

 ハチも気になった。まちなかにあるわが家の庭と違って、周囲は「虫の王国」だ。ときどき、見たこともない虫が現れる。ミソハギにやって来たのはハラアカヤドリハキリバチだった。ネットで検索してわかった。漢字で書けば「腹赤・宿り・葉切り・蜂」。頭や胸は黒く、腹は名前の通り赤い。

「労働寄生」という戦術を取るらしい。オオハキリバチの巣に侵入して卵を産みつけ、子育てを宿主にまかせてしまう。だから「宿り」。腹の外は赤くても、中は黒い? 

 カッコウはオオヨシキリやモズの巣に托卵する。宿主の卵より少し早く孵ったカッコウの雛は、宿主の産んだ卵を巣外に放り出し、えさを独り占めして育つ。それと同じだ。

 自然環境のなかには「共生」「寄生」のほかに、冬虫夏草のような「殺生(さっせい)」もある。長い時間をかけてできあがった自然界での「関係」の不思議を思う。

2014年8月30日土曜日

タイムスリップ写真の会

 タイムスリップ写真の会がゆうべ(8月29日)、平・一町目の坂本紙店2階で開かれた=写真。いわき芸術文化交流館アリオスが主催した。7月30日(アリオスで開催)に続いて2回目だという。知り合いのスタッフから連絡があり、夫婦で出かけた。

 いわき駅前再開発ビル「ラトブ」ができる前の、銀座通り・三田小路商店会のセールの写真などが紹介された。

 私は、大正~昭和時代、平・三町目1番地にあった西洋料理店「乃木バー」関連の写真を持参した。1枚は、『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』(郷土出版社、1996年刊)に掲載された「乃木バー」の外観写真の複写。そして、昭和3年創業のバス会社「芹沢自動車」から「乃木バー」に贈られた横断幕と、店で使われていたナイフやフォーク、鉄鍋などの写真を見てもらった。
 
 横断幕とナイフ・フォークなどは、内郷にある元経営者宅から出てきた。3・11からちょうど1カ月後の4月11日、強烈な余震に襲われ、庭に亀裂が走った。レンガ造りの蔵にもひびが入った。1年後、スペインから里帰り中の知人(元経営者の孫)の連絡を受け、3日ほどダンシャリの手伝いに通った。横断幕は、今は暮らしの伝承郷に保管されている。

 四倉町商店会連合会・四倉町商工会による「四倉の歴史デジタル映像化事業(四倉アーカイブズ)」も紹介された。編集作業に携わった知人が経緯を解説した。

 それによると、昨年7月、同商工会倉庫から段ボール箱に入った8ミリフィルムなどが発見された。昭和30年代の四倉のイベント、街並みなどを記録したもので、それらを地元に住む知人が調査を兼ねてデジタル化した。写真の会では、プロモーション映像が流された。水産業の町の、往時のにぎわいが伝わってきた。
 
 3・11前から、身近な通りや街の景観は変わりつつあった。3・11後は、それに拍車がかかっている。昔を今に、今を未来に残すアーカイブズ事業がますます重要になっている。知人たちの取り組みを知る、いい一夜になった。

2014年8月29日金曜日

デング熱

 右足のくるぶしの上に電気が走った。見ると、アブが靴下に止まっていた。くるぶしの下だ。刺されたところはなんでもないのに、くるぶしの上がビリビリした。反射的にアブをピシャリとやった。

 アブやブユは清流域に生息する。夏井川渓谷の隠居(無量庵)は、その生きものたちのエリアだ。

 月曜日(8月25日)に隠居へ出かけた。一仕事したあと、座敷で休んでいると、アブが現れた。首筋や腕はむき出しだから注意したが、足は靴下をはいているので油断した。しばらくすると、刺されたところが痛痒くなった。キンカンを塗ったら、次第に痛痒さが消えた。

 それから2日後の水曜日、夜。いわきで震災の支援活動を展開している国際NGO・シャプラニールから、というより事務局員の菅原伸忠さんから次のようなメールが入った。デング熱経験者として報道ステーションの取材を受けたという。

「今日、日本国内で70年ぶりになるデング熱の感染者が出たそうで、注意喚起目的でデング熱経験者に取材申し込みがあり、つい先ほどシャプラの事務所で武内アナウンサーのインタビューを受けておりました。しどろもどろでお恥ずかしいですが、よろしければご覧ください。(ほとんどカットされている恐れもありますが)」

 報道ステーションを見ていると、デング熱のニュースに移って、新宿区のシャプラの事務所が映し出された。知っている人がチラリと見えた。菅原さんが話す。字幕にそのポイントが記される。2年前、任地の海外でデング熱に感染したという。
 
「ファンが回る風にあたると痛く感じたり発疹が出た」「Q 経験したことがない痛み? 明らかに違うと分かる痛みだと思います。ものすごい痛みでした」=写真。

 今回の感染者は海外渡航の経験がない。考えられるのは、都立代々木公園で蚊に刺されたことだとか。

 私は、夏井川渓谷ではそれなりに野生生物に対しては身構える。自宅でも、家にいながら山野にいるような感覚で毎日を送っている。大都会でも密林にいるようなサバイバル感覚が必要になってきた?

2014年8月28日木曜日

“超常現象”

 月曜日(8月25日)早朝のことだ。ノートパソコンを開いてパチパチやっていたら、目の前にあるテレビ台のガラス扉がバリッと音を出して割れた。

 ガラス扉は観音開きになっている。向かって右側が割れ、左上から右下へと等高線を描くようにひびが入った=写真。右縁は欠けてギザギザになった。なんだろう、これは。“超常現象”か。

 テレビ台にはビデオ再生機とビデオが収納されている。この20年、テレビ台は変わらないのに、テレビは3台目になった。今は大きい薄型で、重量が中央部に集中している。石の置物もある。それで、テレビ台の上部が沈み、ガラス扉に常時、圧がかかるようになった。ガラス扉の開閉がきつくなっていたのが、なによりの証拠だ。

 しかし、右が割れて左が無事なのはなぜか。上下の支え(金具)のうち、右下が錆びていた。なぜ錆びたかはわかっている。ネコのにおい付けだ。これが影響して金具が劣化し、圧に耐えられなくなってバリッといったのだろう。
 
 テレビは起きたときからずっとNHKをかけていた。朝ドラが終わって、「あさイチ」が始まったら、第2特集が<幽霊&UFO&金縛り“超常現象”のナゾに迫る!>だった。
 
 そのテレビの下で“超常現象”が起きたのだ。ついつい引き込まれて見てしまった。でも、NHKがねぇ。科学的・客観的に推論・分析して、ナゾに迫っていたとしても、この分野はこれまで民放がおもしろおかしく取り上げてきたものではなかったか。民業圧迫?

2014年8月27日水曜日

「レゴって、知ってる?」

「レゴって、知ってる?」。今、夢中になっているのは、レゴで家をつくること。それを伝えるために、レゴを知っているか、知らなければ説明するけど――そんな感じで小1の孫にいわれたのだった。

 夏休み最後の日曜日、暮らしの伝承郷で4時間ほど2人の孫と過ごした。土曜日に続いてキッズミュージアムが開かれた。孫は竹のカタツムリとカエル=写真=づくりを楽しんだ。流しそうめんの列にも加わった。竹カエルづくりに集中しながら、急に話しかけてきたのだ。

 レゴはプラスチック製の小さなブロック。わが家にもそのブロックのかたまりがあって、家に遊びに来るとバラしたり、組み立てたりして遊んでいる。で、「知ってるよ」とは答えたものの、内心は<あれのことかな>とあいまいだった。とっさには思い出せなかったのだ。

 その夜、晩酌しながら考えた。「レゴって、知ってる?」は、たぶん年寄りはそれを知らないだろうと考えた小1の“思いやり”ではなかったか。だとしたら、これは孫から受けた最初の同情ということになる。

 小1前後のココロは、大人が思っているほど幼稚でも、単純でもない。私自身の記憶でも、そのころからココロは単純ではなくなった。親やきょうだい、友達との関係のなかでいい子になったり、虚勢を張ったり、いばったり、へこんだりした。「政治をするサル」になっていた。

「レゴって、知ってる?」。孫の面倒をみているつもりが、孫に面倒をみてもらっている――そんな時間が増えつつあることを告げるサインでもあったか。

2014年8月26日火曜日

辛み大根、芽を出す

 日曜日(8月24日)にやり残したこと。夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行って、辛み大根の芽生えの有無を確かめることと、堆肥枠に生ごみを埋めること。

 きのう(月曜日)のブログの続きだが、日曜日は暮らしの伝承郷で「キッズミュージアム」を孫と一緒に楽しんだ。楽しんだのはいいが、午後になると疲れて隠居へ出かける元気がなくなった。
 
 で、きのう午後、曇天にも誘われてカミサンを車に乗せて隠居へ出かけた。まっさきに辛味大根の様子を見た。おっ、半分ほど芽=写真=が出ているではないか!

 2年前に知人から会津で栽培されている辛み大根の種をもらった。種のふとんでもある莢(さや)が付いている。一度莢を裂いて種を採り、まいたら、芽を出した。その残りの莢を裂いて種を採り、先週の日曜日(8月17日)に、3~4粒の点まきにした。

 この大根は金山町の「あざき大根」に似る。形状からして野生の度合いが強い。もしかしたら、「あざき」そのものか。皮が硬く、小さいから、漬物も、みそ汁もいまいちだ。おろして辛みを楽しむしかない。

 となれば、栽培の仕方もわりと雑でいいのではないか。手をかけすぎると、かえってよくないのではないか。そう思って、種をまいたあとは水やりもしなかった。もっとも、雨の予報が出ていたからだが。

 この1週間に降った雨は、溪谷に最も近い川前で18日2.5ミリ、21日0.5ミリ、24日5.0ミリだった。畳半畳くらいのスペースに、小さな湯飲み茶わんの底(高台)でざっと30カ所、うねの表面をへこませて点まきをしたら、半分が発芽した。これから芽生えるものもあるはずだから、発芽率はなかなかのものにちがいない。
 
 2年もたっているので、芽が出ずともよしと思っていたが、どっこい発芽してみると欲が出てきた。晩秋から冬に収穫して食べるにしても、何株か残して種を採ろう。三春ネギだけでなく、辛み大根も播種~栽培~収穫~採種のサイクルにのせよう――そんなやる気をかきたてるような芽生えだった。きょうは、朝から雨が降っている。辛み大根には恵みの雨だ。

2014年8月25日月曜日

流しそうめん

 福島県はきょう(8月25日)から2学期。夏休み最後の日曜日のきのう、カミサンが孫を暮らしの伝承郷に誘った。母親が連れて来るというので、施設入り口の駐車場で待ち合わせ、合流した。

「いわきキッズミュージアム」が23、24日、伝承郷と考古資料館の2カ所で開かれた。若い家族連れが多かった。久しぶりに孫と過ごしたが、気持ちは孫のお守りのつもりでも、後を追いかけるのに精いっぱい。昼が過ぎるころには体が動かなくなった。伝承郷で孫たちと別れたあとは、次の予定を中止して帰宅し、昼寝をした。「年寄り半日仕事」を実感した。

 キッズミュージアムでは、体が動かない分、孫を中心に子どもたちの行動を観察した。なかでも印象に残ったのは、滋賀県のNPOの人たちと一緒にやってきた小学生のきょうだいだ。

 このNPOはかき氷や流しそうめんを提供した。きょうだいもスタッフの一員として、かき氷の呼び込みや味付けを手伝った。妹はしっかり者で、去年、兄に対して母親のような口をきいていたのを思い出した。
 
 今年はどうか。妹も来たらしい。妹に対する口のきき方がやはり母親的だった。まっすぐな心が健在だった。カミサンには頼もしく映った。
 
 孫たちの関心は虫。トンボだ、クマンバチだ、チョウチョだ、セミの抜け殻だと、古民家の周囲を動き回った。オオシオカラトンボの雌に目を見張り、棒で恐る恐る水たまりに落ちていたキイロスズメバチをつついた。事前に「ハチには注意」と言い渡しておいたので、ハチには敏感だった。
 
 古民家では、それぞれ異なったプログラムが展開された。孫たちは竹のカタツムリとカエルづくりを楽しんだ。残暑が厳しかったが、古民家のなかにいると汗が引いた。吹きぬける風が涼しかった。
 
 流しそうめんは、昼の開始時間前に長い列ができた=写真。下の孫は保育園で経験済み。上の孫がカミサンと向かい合ってそうめんすくいに挑戦した。食の細い孫が「おなかいっぱい」というまでそうめんを口にした。そういえば、2、3歳のころ、わが家に来て腹をすかせると「チュルチュル」(そうめん)をよく食べた。そうめん好きは続いているらしい。
 
 この夏、孫とちっとも遊んでいない――カミサンがキッズミュージアムにからめて電話をかけたのが、呼び水になった。孫には夏休みのいい思い出になった? いや、それ以上に祖父母が孫との時間を楽しんだ。

2014年8月24日日曜日

家飲み

 夜、茶の間で飲んでいると、アオマツムシ=写真=やセミが庭からやって来る。エアコンがないので、夏場は家の戸と窓を開けっぱなしにしている。飛んで火にいる夏の虫――だ。身を焦がす火は、今はただの電灯だが。

 ハチも現れる。こちらは、焼酎の入った“黒じょか”の注ぎ口をなめたりするから、あまり歓迎したくはない“飲み仲間”だ。

 きのう(8月23日)は、街なかで始まった展覧会のオープニングパーティーに顔を出すつもりでいた。主催者に約束し、スタッフにもそう言っていた。ところが、同じ時間帯に行政区の会議があることを、直前まで忘れていた。あわててスタッフに欠席の連絡をした。

 会議が始まると、一瞬、パーティーのことが頭をよぎった。途中、ケータイがうなった。同級生からだった。用件はわかっている。飲み会の日を決めたのだろう。

 会議が終わって、その場から連絡すると「9月27日でどうだ」という。今のところ予定は入っていない。そのあとの言葉にグラッときた。「今、2人で飲んでいる。来(く)っか」。パーティーを欠席した身だ。そちらのグループの人間とばったり出会うのも嫌なので、遠慮した。帰宅して、いつものように「家飲み」を始めた。
 
 みんなうまい酒を飲んでくれ、乾杯!――それから1時間後、1合の“黒じょか”の焼酎が切れた。ポットの水もなくなった。
 
 カミサンはそばのカウチでテレビを見ているうちに睡魔に襲われた。ちょうどいい。“黒じょか”を満たし、ポットにも水を入れようとしたとき、カミサンが目を開けた。ここは水だけ切れたように振る舞わないといけない。カミサンに水を頼むと、横目でにらみながらポットに水を入れてきた。
 
 街で仲間が楽しくやっている。こちらも一緒に飲んでいる気分を味わいたい――呑兵衛の勝手な理屈でだらだら飲み続けた。カミサンは水を持ってきたあと、すぐ寝室に消えた。このごろ、ずいぶん早寝早起きになった。

2014年8月23日土曜日

カラスウリ

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)は去年(2013年)暮れ、庭が全面除染された。芝生と菜園の表土が5センチほどはぎとられ、あとに山砂が敷き詰められた。小学校の分校の校庭か、保育園の園庭のようになった。

 当面、草刈りをする必要がなくなった――と思ったのは冬だけ。春がきて、梅雨に入ると、スギナが繁殖し、つる性植物が下の空き地から這い上がってきた。

 表土が除去されたあとも、地中に球根や地下茎が残っていたのだろう。スギナのほかに、スイセンやササが姿を現した。こぼれ種から芽生えたものもある。なかでも、始末に負えないのはつる性植物だ。クズ、センニンソウ、ヘクソカズラなどがマントのようにほかの草を覆っている。ママコノシリヌグイ、ヤブガラシもある。

 キカラスウリ=写真=には一瞬、ドキッとした。葉の形が侵略的外来植物のアレチウリに似ている。ついにわが隠居にも⁈――と嫌な気持ちになったが、ネットでよく調べたら花が違っていた。カラスウリは木にからまるもの、土を這うのはアレチウリと決めつけていたのも、誤認の原因のひとつだった。

 もうひとつ、変わったものではジュズダマがある。スギナにまざって点々と生えている。カミサンがお手玉用にと植えたのが勝手に増えた。シソもそのままにしておいたら、立派に葉を茂らせた。

手をぬけば庭はたちまち草だらけになる。隠居の庭に立つたびに、家と庭があっても手をかけられない双葉郡の避難民のこころを思う。

2014年8月22日金曜日

昭和9年の平七夕

 盆上がりに2~3日、自分の自由になる時間ができた。日曜日(8月17日)に夏井川渓谷から小野町へ駆け上がり、あぶくま高原道路を利用して、道の駅ひらたまでドライブしたほかは、あらかた家でじっと暑さをしのいでいた。

 月曜日。思い立って、いわき市立図書館のホームページを開き、戦前のいわき地方の新聞で「平七夕」の記事をチェックした。

 去年(2013)3月、図書館のホームページがリニューアルされ、<郷土資料のページ>が新設された。新聞・地図・絵はがき・企画展示・その他――の5つのジャンルがある。とりわけ、大正~昭和時代の地域新聞が電子化されたことで、当時の調べが容易になった。いちいち図書館へ出かけて閲覧の手続きを取らなくて済む。

 昭和初期10年間の新聞のうち、何紙かについて、8月に絞って目を通した。昭和9(1934)年8月18日付(17日夕刊)の磐城時報は、1面で「新名物の七夕祭/磯原、植田から団体見物/今夜最後の人出予想さる/中心は三町目新田町」と報じる=写真。15日付(14日夕刊)の予告記事には「本(町、が脱落?)通り一帯の/松焚は絶対禁止/盆名物の松焚に代って/明日の七夕祭」とある。

 平七夕まつりの起源について、大正年間ではなく、昭和初期としぼりこんだのは、いわき地域学會の小宅幸一さん。同学會の会報「潮流」(2014年4月刊)に発表した論考を基に、7月19日の同学會市民講座で「平七夕まつり考」と題して話した。

 8月5日付小欄でも触れたが、昭和9年・本町通りの舗装化で盆行事の「松焚き」が中止になる。それに代わる集客イベントとして「七夕まつり」が企画された。同10年には平商店街全体で七夕まつりを実施するようになる――小宅さんの論拠になった新聞記事を、図書館の<郷土資料のページ>で、いながらにして、即座に確認できた。

 お盆の一日、カミサンの実家で過ごした。書棚に『いわき市と七十七銀行――平支店開設70周年に当たって』(七十七銀行調査部、平成元年発行)があった。前にも読んだ記憶がある。小宅さんの話を聴き、ブログにも書いたばかりなので、再読した。
 
 平の七夕に関する記述は、本文にはなかった。が、掲載写真のうち2枚が平七夕関連だった。
 
 1枚は「七十七銀行平支店の七夕飾り(昭和5年)」のキャプションが付いており、宝船に乗った七福神と思われる七夕飾り(造形)を撮影したものだ。もう1枚は本町通りの七夕飾りを撮ったもので、キャプションには「昭和12年の平七夕、仙台市から昭和5年に移入した」とある。論拠は示されていないが、七十七銀行は「昭和5年移入」説をとっている。
 
 昭和10(1935)年8月6日付磐城時報には「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」とある。七十七銀行の記念誌と当時の新聞記事から、平七夕まつりは昭和5年以降に起源を求めるのが妥当だということがわかってくる。なにせ昭和9年時点ではまだ平の七夕は「新名物」にすぎなかった。
 
 七十七銀行が平支店を開業するのは大正8(1919)年。その開業年と平七夕まつりの起源がいつの間にかごっちゃになった――そのことをいよいよ確信した。何の疑いも持たずに前年の記事を踏襲して「大正8年」説を流布する新聞も、2~3時間調べれば、いや検索すれば、記事の間違いに気づくのだが。来年、より正確な記事が出ることを待つしかないか。

2014年8月21日木曜日

“惨暑”

 お盆後半は曇天でしのぎやすかった。残暑も一段落かと思ったら、違った。きのう(8月20日)は七夕の前日、8月5日以来の“惨暑”になった。わが家の電波時計が再び室温35度を表示した=写真。

 午前10時から、市庁舎に併設されている議会棟の委員会室で、某課主催の集まりがあった。それに出席するため、9時20分には家を出た。市庁舎までは車で10分余。早めに出かけたのは、できるだけ長く涼しいところにいたい、といった無意識がはたらいたためらしい。

 1時間ちょっとで会議は終わり、昼前には帰宅した。茶の間に熱気がこもっていた。毎月1、10、20日には回覧物を振り分け、担当する班・隣組の分を区の役員さんに届けないといけない。日中はとてもその気になれなかった。

 帰宅する前に、あるところへ寄ったら、目の前の田んぼで熱中症にかかった人がいたという。道路に救急車が来てわかった。野良仕事をしていたのか、散歩中だったのか。とにかく夕方までじっとしているに限る。

 5時すぎに小一時間、回覧物を届けて帰宅すると、汗びっしょりになった。水風呂に入った。もう8月下旬。ひところより夕暮れが早い。晩酌を始めるころには薄暗くなっていた。

 にわか雨がきた。わが家からざっと2キロ離れた平市街の夏井川で、流灯花火大会が始まった。時折、雷が鳴る。花火もあがる。「雷だな」「花火でしょ」「雷だ!」「花火!」。茶の間でどうでもいい口論になった。

 実際には両方だった。そのうち、雷鳴か花火の音かわからなくなった。乾いた音がパンパン鳴るかと思うと、大太鼓を10基も打ち鳴らしたようなゴロゴロが響く。その繰り返し。

 やがて音が静まり、雨がやむと、エンマコオロギが1匹、茶の間に現れた。それを機に、庭でコオロギが鳴きだした。この夏初めて聞く虫の鳴き声だ。夜9時半、室温はまだ30度を超えているが、雨上がりの庭には涼気が漂っていた。秋が始まった。

2014年8月20日水曜日

辛み大根の種

 茶の間にある資料を片づけていたら、辛み大根の莢(さや)が入った封筒が出てきた。莢はこぶ状で、爪をたてると“発泡スチロール”状の殻が裂け、中から直径1ミリ余の“赤玉”が現れた。数えたらおよそ100粒ある=写真。

 2012年夏、知人から会津産の辛み大根の莢が届いた。三春ネギ以外の野菜は栽培をやめようかと、逡巡しているときだった。知人は津波被害に遭い、内陸部の借り上げ住宅で暮らしながら、家庭菜園に精を出していた。「なにメソメソしてんのよ」。はっぱをかけられ、元気をもらって、震災後初めて三春ネギ以外の種をまいた。その残りの莢だ。
 
 2年前は通常の大根より1カ月余り種をまくのが遅れた。冬に収穫したが、未熟なものが多かった。それでもさすがに辛み大根である。おろすと、驚くほど辛かった。

 知人のもとに届いたのが2010年。知人がその種から栽培~収穫・播種を行ったか、莢のまま保存していたかは、今となってはあいまいだが、外見上は種の命はまだ十分保たれているように思われた。
 
 せっかく目の前に現れた辛み大根の種だ。日曜日(8月17日)に夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけ、全面除染で一度姿を消した菜園の一角に種をまいた。芽生えなくてもかまわない、芽生えれば最高――大根の種の生命力、高い発芽率にかけてみることにした。

2014年8月19日火曜日

ガラス戸のチョウ

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行くたびに、なにか“発見”がある。おととい(8月17日)は、縁側のガラス戸にチョウが止まって“吸水”していた=写真。なぜ、ガラスで? 急いで写真を撮った。

 野外では、花に止まっているチョウをよく見かける。翅を閉じていれば裏側の半分が、開いていれば表側(背面)の全部が目に入る。図鑑もその視点でつくられている。
 
 ガラス戸をはさんで、たまたま外にチョウが、中に人がいた。透明なガラスのおかげで、“吸水”中のチョウの様子を脚の方から見ることができた。花とチョウの関係でいえば、花の視点だ。花はこうしてチョウをながめているのか。

 しかも、このチョウは吸収管(口吻=こうふん)を伸ばす相手が、花ではなくガラスだった。ガラスの表面にはちりが付着している。なにか勘違いをしたのだろうか。それとも、栄養になるようなものが付いていたのだろうか。
 
 わが家へ帰って写真をパソコンに取り込み、拡大したら、翅の模様は茶、黒、そこに白い点々。吸収管は黄色で、脚は4本しかない。3対のはずだが、1対はどこに? 退化して目立たなくなったのか。

 ネットで調べると、チョウはタテハチョウ科のイチモンジらしい。成虫は主に渓流などの樹林周辺に生息するという。またひとつ、森の神さまから溪谷の“先住民”を教えられた。

2014年8月18日月曜日

盆明けの“小旅行”

 月遅れ盆が終わって、自分の時間がもどってきた。きのう(8月17日)の日曜日早朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。朝めしをはさんで土いじりをした。午後はドライブを兼ねて石川郡平田村の「道の駅ひらた」へ足を延ばした。この夏唯一の、昼めしが目的の“小旅行”だ。

 昨秋、会津・芦ノ牧温泉でミニ同級会が開かれた。いわき組は奥羽山脈越えの国道118号~同49号経由で帰ってきた。途中、49号沿いにある「道の駅ひらた」でそばを食べた。

 復興支援コーナーに宮城県産の「乾のり焼」があった。それを買い、夜、味噌汁にはなしたら、のりの香が立った。

 その半月後、再び「道の駅ひらた」を訪れた。道の駅近くの49号に跨道橋がある。磐越道小野IC(インターチェンジ)から福島空港IC~東北道矢吹ICをつなぐ「あぶくま高原道路」だ。田村郡小野町から次の下り口の平田までおよそ5分。しかも無料だというので、初めて利用した。

 1年に2、3度、無性に山里を巡りたくなる。きのうがそうだった。夏井川渓谷~小野町~石川郡平田村~いわき市平と、昨秋とまったく同じコースをたどった。

 あぶくま高原道路は片側1車線=写真=で、昨秋は平田ICで下りるまで対向車は10台弱、後続車両はなかった。今年は違った。先行車両も、後続車両も、対向車両もある。一部を除いて無料だということが広く知られるようになったのだろう。

 昨秋の山里めぐりでは、この道の駅でミニ同級会の幹事のひとりと遭遇した。<きょうはどうかな>と思いながら店に入ると、いた。彼ではなく、8つの行政区で構成される地区体育協会の事務局長ファミリーだった。しかも、朝、用事があって私の家に電話をかけたのだという。当然、出ない。
 
 事務局長ファミリーも、私ら夫婦と同じように盆上がりの“小旅行”を敢行したのにちがいない。で、たまたまドライブ先でバッタリ会って、用事まで済ませた。お互い、地域の仕事から逃げられない。

 それはともかく、今回もそばを食べ、「乾のり焼」を買った。カミサンもまた前回同様、いろいろこまかいものを買いこんだ。

2014年8月17日日曜日

盆が終わった

 きのう(8月16日)の続き。「精霊送り」が無事に済んだ。午前6時から9時まで受け付けたあと、ごみ収集車が9時すぎにやって来た。区の役員が手渡しで「お盆様」を車に積み込んだ。半袖では肌寒いくらいの曇天下、わが区の月遅れ盆が終わった。

 杉の葉調達、路上駐車自粛の立札づくり、青竹切り、祭壇づくり、「お盆様」の受付と片づけ、精進あげ……。12日から15日まで、新盆回りをはさみながら少しずつ仕事を分けて準備を進め、本番の16日早朝を迎えた。雨も予報がはずれ、降り出したのは片づけが終わった1時間後だった。

 区の役員になってからは、お盆中にどこかへ泊まりに行くことも、だれかと飲み歩くこともなくなった。“宿題”(精霊送り)が済むまではみんなおあずけ――そんな意識に変わってきた。

 それも、ごみ収集車の到着を待つばかりという段になると、やはり肩の荷が下りた気分になる。雑談に花が咲いた。

 精霊送りの祭壇を設けた集会所の敷地には、草にまじってタカサゴユリの白い花が咲いている=写真。その花の話になった。「突然、自分の家の庭で咲きだした。ユリの花だから、最初はきれいだなと思ったけど」「繁殖力が強い」「常磐道や国道6号バイパスの切り通しにはびっしり咲いている」……。
 
 精進あげは、車で出かける人のことも考えて、飲み物とつまみを配って終わりにした。その席での話を聴いて――。

「おはようございます」「ご苦労さまです」。この言葉が何にもまして区の役員の励みになる。飲み物の差し入れもありがたかった。「お盆様」は、最後は焼却されるにしても、みんなでていねいに送る心が大事なのだと、あらためて思った。

2014年8月16日土曜日

精霊送りの準備

 きょう(8月16日)は精霊送りの日。いわき市の場合は、決められた場所・時間に「お盆様」(盆の供物)を納める。すると、間をおかずにごみ収集車がやって来る。環境保全対策の一環だ。

 わが行政区ではそのための「祭壇」が毎年、県営住宅集会所前に設けられる。祭壇をつくるのは区の役員だ。

 前日、夕方。集会所前の草を刈り、四隅に竹を立て、縄を張り巡らせて、杉の葉とホオズキを交互にはさむ。その中に細長い座卓を三つ並べてブルーシートをかぶせ、供物の置き場とする。当日は焼香台をととのえ、ロウソクに火をともし、線香を用意して住民が来るのを待つ。
 
 今年は初めて、私が竹と杉の葉を用意した=写真。今まで引き受けてくれた人とは別ルートで調達しないといけない。思いあぐねていると、カミサンから近所の義伯父の家に手ごろな青竹があることを教えられた。杉の葉も、夏井川渓谷の隠居の周りにあふれている。これで毎年、2つを安定して手に入れることができる。
 
 農村であればこうして、祭壇に必要な材料を身近なところから調達できた。ホオズキも庭に植えてあるのを利用したことだろう。しかし、マチ場ではどこからかもらってくるか買うか、するしかない。そのルートが不確実だと毎年、思い悩むことになる。
 
 竹と杉の葉を準備する過程で、精霊送りに関する情報をネットで探したり、よその区の精霊送りの様子を聞いたりした。
 
 縄は四方に張っても、ホオズキと杉の葉を飾るのは正面だけ――江戸時代の文献が伝える。祭壇を設けない区もある。すると、わが区の場合、四方すべてにホオズキと杉の葉を飾るのはていねいすぎる、といえなくもない。
 
 といったことを、祭壇設営中に区の役員さんに言いながらも、今年はこれまで通り四方にホオズキと杉の葉を飾った。もう少し研究して、みんなが納得できる説明をしないと、ただ「手抜きをしたのか」ということになりかねない。
 
 さて、きのうは、斎場づくりが始まる午後6時から雨の予報だったが、さいわいはずれた。
 
 例年、受付開始時間の早朝6時にはもう供物が納められている。8時過ぎにはごみ収集車がやって来る。けさは午前4時前には目が覚めた。二度寝をすると、次に目を覚ますのはおそらく6時すぎ。寝ないで待つことにした。
 
 今は5時。きょうの天気予報は「北の風、雨時々曇り」で、降水確率は朝6時までが60%、6時から正午までが50%だ。庭に出ると、車がぬれている。降っているわけではない。が、今にも降り出しそうだ。せめて収集車に「お盆様」を積みこむまで雨模様のままであってほしいのだが。

2014年8月15日金曜日

続・じゃんがらの日々

 月遅れ盆2日目のきのう(8月14日)は朝、カミサンの実家(米屋)へ線香をあげに行った。そのまま夕方までいた。

 茶の間に腰を落ち着けるとすぐ、「じゃんがら」の鉦(かね)の音が店の前から響いてきた。念仏踊りをする青年会一行の姿も見えた=写真。もしかして? 外へ出ると、かつての仕事仲間で、今も現役の後輩が加わっていた。去年も近所の新盆家庭で「じゃんがら念仏踊り」を披露した。その地区で最も身近なところにある青年会なのだろう。

 去年、踊りが終わったあと彼と話した。8月13~15日の3日間で60軒を回るということだった。熱中症対策は?「ビールです。さっきまで太鼓をたたいてました。もうへろへろ」。今年は「踊りに加わって10年になります。(青年会の)会長もやりました。これから太鼓をたたきます」。“助っ人”どころか、すっかり根づいて地域の人間になっていた。
 
 青年会も年々、“高齢化”がすすんでいるようだ。後輩はまだ“青年”といえる外見を保っているが、中には孫がいてもおかしくないような“青年”もいる。「今度、若い人が入ってきたんですよ」。ほんとうの青年の加入に目を輝かせていた。

 一行を先導するのは黒紋付のちょうちん持ち。リーダー格だろうか。去年も同じ役だった。少学校の教頭先生だという。ふだんはそれぞれの仕事に就いている地域の“青年”が、月遅れ盆になると「じゃんがら」を介して一つになる。いわきでは、「じゃんがら」は人と人とをつなぐ大事な郷土芸能だ。

2014年8月14日木曜日

じゃんがらの日々

 きのう(8月13日)は月遅れの盆の入り。午前10時をすぎると、近所から「じゃんがら念仏踊り」の鉦(かね)の音が聞こえてきた。チャンカ、チャンカ、チャンカ、チャンカ、……。音がなんとなく速くて軽い。

 ワケはすぐわかった。「じゃんがら」は青年会単位で継承しているいわき地方独特の伝統芸能だ。毎年、月遅れ盆に新盆家庭を回って踊り、歌いながら故人の霊を慰める。近所に現れたのは女性のチームだった=写真。サポーター?のおばさんがチラシをくれた。チームの名前は「桜つつじ」。今年で結成10年目になるという。

 15日まで「じゃんがらの日々」が始まった。昔、いわきにもデパートがあったころ、女性従業員によるじゃんがらチームが結成され、市民の耳目を集めた。ただし、イベントに出演しても新盆家庭を巡ったかどうか。今年、青年会と同じように「女性じゃんがら」が地域に現れたことに驚いた。

 今年はもうひとつ、驚いたことがある。新盆家庭は盆に合わせて家の前に真新しい灯篭を立てる。日曜日(8月10日)に車で平の市街を通ったら、ある家の灯篭に「予約以外のじゃんがら念仏踊りお断りします」の紙が張ってあった。

 新盆家庭では故人を供養するために、お盆を前に青年会にじゃんがら念仏踊りを予約する。当然、なにがしかのお礼をする。

 ところが、予約以外の青年会がやって来ることがある。新盆家庭にとっては想定外の出費になる。で、はっきりと「予約以外お断り」の意思が表示された、というわけだ。
 
 盆の入りの夕方、沿岸部から内陸部まで4軒の新盆家庭を回った。うち1軒で予約をしていない青年会のじゃんがらに遭遇した。当主がすぐ出て踊りを断った。
 
 じゃんがらはいわき市民の魂と結びついた踊り念仏――にしても、青年会と新盆家庭との関係はより契約的なものに変わってきたらしい。

2014年8月13日水曜日

4コマ漫画

 中1の疑似孫が即興で描いた4コマ漫画だ=写真。左側は私、右側はカミサンだという=写真。ちゃんと起承転結をふまえている。

 きのう(8月12日)の夜、母親と疑似孫2人が家に遊びに来た。あとからたまたま、いわきで震災支援活動を続けている2つのNPOのスタッフが、時間をおいてやって来た。男性は私1人、計6人の「女子会」になった。

 上の疑似孫、中3女子は家に来るなり、「いわき生徒会長サミット」の一員として訪れた広島・長崎でのことを話し始めた。止まらない。マシンガントークだ。それだけ深く心にしみる体験だったのだろう。

 下の中1の疑似孫が夏休みの宿題なのか、読書感想文を書いていて行き詰まっているという。本は?『星空ロック』といって、少年が旅をする話だとか。

 その本のことは知らないが、旅についてなら一般論を話すことはできる。60歳を過ぎて、同級生と始めた“海外修学旅行”が念頭にあった。空間的な旅のほかに時間的な旅がある、人生は旅なんだよ、人間は死ぬまで旅をしてるんだよ――などとほろ酔い気分で話したら、たちまち4コマ漫画に仕上げた。

 子どもであっても、1人の人間として接するようにしてきた。わが子であれ、よその子であれ、疑似孫であれ、幼児語をつかったことはない。ただし、普通の言葉をつかうといっても、「調査する」なら「調べる」に言い換えるように、漢語的表現ではなく和語的表現を意識してきた。新聞の世界に身を置いてきたので、「わかりやすく、わかりやすく」という習性が本性になった。

 いよいよ1人の人間として、大人と同じようにギロンできるようになってきたか――あらためて2人の成長を実感した一夜だった。

2014年8月12日火曜日

盆帰省

 アサガオの葉は、日中はコタッとしている=写真。人間も同じで、年寄りは暑い盛りには家で静かにしているのが一番。それもあって、その若者に会う時間を午後3時にした。

 若者は動き回っていた。月遅れ盆を実家で過ごすために京都から帰省すると、すぐ内郷の白水阿弥陀堂の池へカワセミの写真を撮りに行った。空振りだった。次は、新舞子海岸へ。夜は晴れていれば、水石山へ駆け上がり、ペルセウス座流星群の写真を撮るのだという。

 彼は日本野鳥の会いわき支部のジュニア会員だった(と記憶する)。同支部は毎年、平市街に近い里山・石森山で野鳥観察会を開いている。ふもとの新興住宅地に住む彼は、小学生のころから妹の手を引いて、歩いて探鳥会に参加していた。写真も撮るようになった。支部会報でそのことを知り、勤めていた新聞のコラムで取り上げたら、高校生の彼から連絡がきた。

 やがて、映像関係の勉強をしに京都へ行った。その最初の夏の終わりの夕方、夏井川の堤防でバッタリ会った。こちらは日課の散歩の途中、彼は夏休み帰省中で、自転車で新舞子海岸から帰宅途中だった。以来、会うのは6年ぶりだ。
 
 実はちょっと前、いわきの美術家吉田重信さんとのつながりで、フェイスブック上で彼と“再会”したばかりだった。一時東京で暮らしたが、今はまた京都に住む。美術家はときどき京都で個展を開く。その縁で、京都でいわきの人間がつながった、というわけだ。
 
 美術家が中心になって、8月23日から芸術祭「玄玄天」がいわき駅前の中心市街地で開かれる。若者も作品を出品する。いわきの海をテーマにした写真になるという。
 
 若者の名は吉田和誠(あきとも)。彼は商業カメラマンになっていた。京都造形芸術大学で教えてもいる。授業が主たる生活になっている。震災から3年5カ月のきのう(8月11日)、自分の道を着実に歩んでいる若者の話を聴いて、なんだか暑さにしおれてはいられない気になった。

2014年8月11日月曜日

スーパームーン

 きのう(8月10日)はスーパームーンだったとか(あるいはきょうか)。満月の晩、素っ裸になって海で泳いだ――なんて昔話を、豊間で生まれ育った人間が東京でしたらしい。そのスーパームーンに合わせて、土曜日(8月9日)、いわきリピーター・3人が豊間の海へやって来た。

 台風11号の影響で曇雨天になり、月は見られなかった。が、海から上がる月を見るためだけの観光もありだな、と思った。たとえ実際の月は雲に隠れていても、地元の人たちと交流することで胸中に満月が輝いていたはずだ。

 東京組の1人がアボリジニの楽器「イダキ」(ディジュリドゥ)を携えてきた。2012年2月、翌13年11月に続いて、今回も演奏を披露した。2011年12月には、皆既月食の下、東京の住宅街で彼の演奏を聞いている。

 イダキは、シロアリが食い散らして中空になったユーカリの木の管楽器だという。唇の振動を管内に反響させ、独特の低音を発生させる。循環呼吸で絶え間なく演奏を続けるのがコツだそうだが、素人には難しい。それでも昔、学校で吹奏楽部に所属していたという人間が音出しに挑戦した=写真。初めてなのによく音の出る人もいた。
 
 満月が海から上がる。ほろ酔いの人間どもが浜に現れる。イダキの鎮魂の音が潮騒に共鳴する――そんな場面を想像するだけでも楽しい。影絵になる。
 
 そうそう、いわきの浜だけではなかった。いわきに程近い阿武隈の山中でも、12日まで「満月祭」が行われている。毎週、わが家に卵を宅配する人間が主宰している。台風一過のきのうは、まぼろしの月に吠える人間がたくさんいたのではないだろうか。

2014年8月10日日曜日

豊間の夜は更けて

 若いときからつきあいのある豊間の大工氏から、電話がかかってきた。東京から人が来る、いつものように作業所で飲み会を開くので、来られるなら来て――という。きのう(8月9日)のことだ。

 大工氏の家は残ったが住めない。隣接する作業所も津波に襲われた。彼は日中、その作業所で仕事をし、夜は内陸部の借り上げ住宅に帰る。いわきで支援活動をしているシャプラニールとつながり、私ら夫婦と3人で東京へ行って話をしたり、東京からツアーで来た人たちを迎え入れたりした。
 
 被災から満1年の2012年3月11日夜、豊間海岸でキャンドルナイトが行われた。闇夜に明るく「と」「よ」「ま」の文字が浮かび上がった。その燭台をつくったのが大工氏だ。彼の仲間も、急きょ「とよま龍灯会」を結成し、イベントの裏方として奮闘した。その日、陣中見舞いを兼ねて作業所を訪ねると、手伝いを頼まれた。そのままイベントの終了まで豊間にいた。

 シャプラニールの縁、大工氏の縁で、東京と豊間に新しい友達ができた。東京の友達はすっかり「いわきリピーター」になった。豊間を毎年訪れている。きのうやって来たのは、そのうちの3人だ。龍灯会のメンバーとも「旧知の間柄」で、3人は近所の家にホームステイをした。

 作業所にはさまざまな角材が積み上げられ、板材が立てかけられている。毎度のことで、長い作業台が飲み会の食卓に変わる。倉庫兼仕事場といった雰囲気が、客人をリラックスさせる。豊間の壮年組にとっても格好のたまり場になる。
 
 命からがら逃げた大工氏本人の津波体験談は前に聞いた。作業所はどうだったのか。1.5メートルほど浸水したという。飲み会の食卓として利用している作業台は完全に水没した。作業所の内外がガレキなどでめちゃくちゃになった。

 その話に刺激されて、最初のキャンドルナイトの晩、作業を手伝いながら聞いた「龍灯会」の面々の問わず語りを思い出した。「去年の今ごろは……」。前にも書いたことだ――大津波が押し寄せ、一帯はガレキの山と化した。ずぶぬれになり、血だらけになって歩いている人がいた。ガレキの中で息絶えている人がそこかしこにいた。
 
 そして、それから1年後のキャンドルナイトの会場で――。「こんなに明るいんだから、おばちゃん、(海から)出てきな」。そう海に語りかける人を、カミサンが目撃した。
 
 私ら夫婦はゆうべ、10時には辞去したが、作業所はその後もしばらく明かりがともっていたことだろう。豊間の夜は更けて、語らいはいよいよ佳境に入って……。帰路、塩屋埼灯台の光だけが時折、闇を切り裂いていた。

2014年8月9日土曜日

もう残暑

 連日の酷暑にげんなりしているのは人間だけではない。犬猫もかなりこたえているようだ。わが家の猫は、いつもなら茶の間でまどろんでいるのだが、最近は家の北向きの部屋、あるいは外の日陰に移動して、宵になるまで姿を見せない。

 先日、茶の間に戻ってきた猫にカミサンが自分の首を冷やしていた“氷のう”を当てると、嫌がらずにじっとしていた=写真。

 きのう(8月8日)は夕方、小雨が何度かぱらついた。夜に入ってしばらく降り続いた。それでもネット情報によると、平七夕まつり、いわきおどりともちゃんとフィナーレを迎えることができたようだ。

 なによりよかったのは、きのうの日中、暑さが少し控えめだったことだ。わが家の室温は30度を超えたものの、猛暑日になるほどではなかった。けさは曇天のせいか、25度ちょっとと涼しいくらいだ。

 連日ボーッとして気づかなかったが、おととい、カレンダーの上では「立秋」を迎えた。新聞の「暑中見舞い」広告が「残暑見舞い」広告になっていた。「立秋」を告げる記事はあったかどうか。あっても見落としたのかもしれない。今年は新聞広告で季節の移り行きを知った。

 もう残暑。頭を切り替えないといけない。「そうざんしょ」なんてことは、みんなが使っているのでいわない。精霊送りの準備、市民体育祭の準備、その他やることがいっぱいある。

2014年8月8日金曜日

平七夕まつりへ

 平七夕まつりは、きょう(8月8日)が最終日。きのう、いわき駅前「ラトブ」にある総合図書館に本を返したあと、夕涼みを兼ねてまつり会場を巡った。飾りはだいぶ地味になったが、見物客は多い。若者を中心にそぞろ歩きを楽しんでいた。

 東西に延びる本町通りの西端に被災者のための交流スペース「ぶらっと」がある。そこをのぞいたあと、そばの平一町目公園へ寄ったら、ご当地アイドル「アイくるガールズ」のステージが行われていた=写真。「アンモナイト音頭」というのを披露した。名前の由来がわかった。愛くるしい、だ! 帰ってNHKEテレ「Rの法則」を見ると、偶然、「アイくるガールズ」が出演していた。

 どうしても、3・11の前と後を考えてしまう。一昨年、「ぶらっと」を開設・運営しているNPO法人「シャプラニール」が、いわき駅前大通りに七夕飾りを立てた。昨年は最終日に同時開催の「いわきおどり」に参加した。「ぶらっと」の利用者、ボランティア、スタッフ、東京からのツアー組など40人余が大通りを踊り流した。

 東日本大震災が起きた年も、平七夕まつりは中止することなく行われた。その年、8月6日に元同僚の退職歓送会が開かれた。飲み会の前に七夕飾りの下を歩いた。見物客は震災前とそう変わらない。が、2010年まではきらびやかさを競った七夕飾りがだいぶ減っていた――そんな印象をもった。

 次の年につくった「ぶらっと」の七夕飾りは、上から4つの「ぼんぼり」と「輪」、そしてその下にたくさんの「吹き流し」を垂らしたものだった
 
 ぼんぼりは何枚かの色紙を細かく折りたたみ、真ん中でくくって1枚1枚つまみ上げた花をびっしりまとっている。小さな花がぼんぼりを覆う大きな花になった。「ぶらっと」のスタッフ、ボランティアが何日もかけて花をつくった。各商店の準備の大変さがこれからもわかる。
 
 今年目を引いたのは三町目の空中に架けられたフタバスズキリュウ=首長竜の骨格だ。かつて平七夕まつりといえば、飾りのほかに「造形」(立体)が人気だった。その復活を期待させるような力作だ。
 
 地元商店だけでなく、周辺企業、市民、双葉郡からの避難者も参加するまつりになった。いや、3・11前からそういう傾向にあって、3・11が拍車をかけた、ということだろうか。40年余の“平七夕まつりウオッチャー”としては、造形の出品がうれしかった。

2014年8月7日木曜日

夕涼みに海へ

 連日の酷暑にげんなりしてばかりもいられないと、きのう(8月6日)夕方、四倉海水浴場へ涼みに出かけた。

 夏井川河口へと車で向かったあと、海岸線に沿って黒松の防潮林の中を北上した。海風が車内に入り込んできた。沿岸から5キロくらいの内陸なのに、家が建て込んだために熱気がこもるようになったわが家とは段違いだ。

 海水浴場の駐車場は、夕方ということもあって、すいていた。はだしになって砂浜を歩く。波に足を濡らす。3・11後、砂浜に立ったのは豊間、新舞子に次いで3度目、海水に足をつけたのは初めてだ。

 東日本大震災で地盤が沈下した。いわきの砂浜もそれで狭まった。四倉はそれでも、いわきのなかでは一番砂浜が広く大きい。

 少年たちがつくった“アジト”のような監視塔がある。その近くで若者が車座になってぺちゃくちゃやっていた。浅瀬で遊んでいた若い女性とカミサンがいつのまにかおしゃべりをしている=写真。会津から来たのだという。
 
 そうか、磐越道~常磐道四倉ICを利用すれば、四倉海水浴場まではすぐだ。昔は常磐線の四ツ倉駅がその役目を果たしていた。県内の中通り、会津地方からみると、四倉海水浴場は交通に便利なところにある。
 
 久しぶりの潮風、砂浜、海水、水鳥、夕日、……。海辺で涼みながら、何日かぶりに生き返ったように感じた。わが家へ帰ると、やはり熱気がこもっていて、息苦しさが戻ったが。

2014年8月6日水曜日

わが家は「猛暑日」

 よりによって、きのう(8月5日)は午前10時から1時間、もう1人の区の役員と一緒に近所の事業所回りをした。9月に地区の市民体育祭が開かれる。種目の最後に景品が当たる抽選会が行われる。そのための協賛金を集めるのが目的だ。

 1週間前にも2人で趣意書を渡しながらお願いして回った。暑かった。きのうはそのときよりさらに暑かった。清涼飲料水をバッグに入れ、首筋を冷やすグッズをぬれタオルに包んで首に巻き、炎天下の道路を歩いた。照り返しがまぶしかった。私ら2人のほかに道を歩いている人はほとんどいなかった。

 ドクターストップで朝の散歩を休んでから1年半以上がたつ。めまいや立ちくらみ、手足のしびれといった熱中症の症状はなかったが、ハァーハァーいいながら帰宅した。すぐぬるま湯に入り、水分を補給したあと、茶の間の北隣にある寝室で一休みをした。

 時折、吹き込む涼しい風に当たっているうちに眠り込んだ。遅い昼食(水飯)をとり、庭の照り返しで熱のこもる茶の間の電波時計を見ると、午後2時36分、室温35.1度と表示されていた=写真。扇風機をかけているのに「猛暑日」になった。とても茶の間にいられる状況ではない。西日が射すまで寝室で本を読んで過ごした。

 冷蔵庫から何度も氷を取りだした。コップに細かく分割された会津の梅漬けを入れ、水を注いで氷を加える。きのうは何度そうして水分を補給したことだろう。

 このまま暑さが続くようでは、家では仕事ができない。総合図書館へ避暑に行くしかないか。(けさ6時25分のわが家の室温は28.9度。また酷暑の一日になりそうだ)

2014年8月5日火曜日

平七夕まつりの起源

 明8月6日から8日まで、平七夕まつりが開かれる。平七夕まつりは仙台七夕まつりの流れをくむ。新聞報道によれば、今年はいわき市内事業所の協賛を得て、仙台の業者に七夕飾り22本を特注した。震災と原発事故で七夕飾りが減ったことから、本場の飾りを導入してまつりを盛り上げる。

 平七夕まつりの起源には諸説がある。それを、当時の新聞記事などにあたり、大正年間ではなく、昭和初期としぼりこんだのが、いわき地域学會の小宅幸一さん。同学會の会報「潮流」(2014年4月刊)に発表した論考を基に、7月19日の同学會市民講座で「平七夕まつり考」と題して話した=写真。

 江戸時代には伊達模様の派手な七夕飾りがみられた仙台だが、明治6(19873)年の新暦採用で七夕まつりが衰退し、第一次世界大戦後の不況下でますます寂しくなった。それを吹き払おうと、仙台の商人有志が七夕まつりを復活させたのが昭和2(1927)年。

 その意味では大正時代、仙台の七夕まつりは「風前の灯」だった。そうした状況下で、仙台に本店のある七十七銀行が大正8(1919)年、平支店を開業する。その開業と平七夕まつりの起源が歴史を積み重ねるなかでごっちゃになったのだろう。
 
 小宅さんが注目したのは、昭和2年の仙台の七夕復活劇だ。翌3年、仙台商工会議所などが七夕飾りつけコンクールを実施する。その流れを受けて、同5(1930)年、七十七銀行平支店が店頭に七夕の飾り付けを実施する。翌年には仙台出身の難波医院長夫人が自宅前に仙台風の七夕飾りを実施して評判になった。
 
 これに合わせて地元の動きが活発になる。昭和7(1932)年・平三町目の商店有志が中心となって七夕飾りを実施。同9年・本町通り舗装により盆行事の「松焚き」が中止になる。同10年・平商店街全体で七夕まつりを実施。同11年・平商工会、平町などがまつりを支援――となって、「松焚き」に代わる集客イベント「七夕まつり」ができあがった。

「~といわれる」「~とされている」ことを鵜のみにすることなく調べてみる。と、違った姿が見えてくる。「平七夕まつり」の歴史も、小宅さんの調査でより正確なものになった。

2014年8月4日月曜日

箱崎りえ陶芸展

 箱崎りえ陶芸展が8月9日まで、いわき市平のギャラリー界隈で開かれている=写真。第13回いわき地域学會美術賞受賞記念展で、2日の受賞レセプションに合わせて見に行った。

 いわき市民美術展などで単品は目にしていたものの、まとまった数の作品と向き合うのは初めてだった。花器・食器・鉢など、陶芸には違いないが、絵付けが独特だ。水彩画もある。かたちと色が溶け合って、踊っている、歌っている。見ていて楽しくなってくる。

 画家でいわき地域学會副代表幹事・芸術部会長の峰丘さんが、昨年度の地域学會総会で選考理由を述べた。「この数年(特に震災後)は年に4、5回の個展をこなしている。制作への情熱とその集中力には驚かされる」「膨大な数の作品に粗さがなく、旺盛な造型への追求は面白い」「自由奔放な線と色彩の遊びに今後の期待を感じさせる」。この「自由奔放な線と色彩」が箱崎さんの特徴だろう。

 実は、彼女は私の近所に住む。お母さんが私と一緒に行政区の役員をしていた。そのお母さんが亡くなったあと、役員を引き継いでくれた。担当する班(隣組)に月3回、回覧物を届けたり、区費その他を会計さんに届けたりするのが仕事だ。

そういう雑事をこなしながら、「自由奔放な線と色彩」を展開している。ままならない現実を踏まえたうえでの軽やかさ、明るさ……。いわき地域学會の人間としてだけでなく、同じ地域に住む仲間の一人として、彼女のアートがより身近なものになった。

2014年8月3日日曜日

海岸のオニユリ

 野生のユリといえばヤマユリ、そして帰化植物のタカサゴユリ。この二つしか思い浮かばなかった。オニユリ=写真=も身近なところにあった。

 タカサゴユリはとにかく目立つ。旧知の植物研究者によると、「タカサゴユリは8月の下旬頃から9月にかけて開花する。翼を持つ種が風にのって多数飛散し増え続け、飛んできた種子が根をおろして球根を形成し何年もその場所で咲き続ける。広範囲に一斉に開花し見事な景観を呈する」。
 
 間もなく常磐自動車道や国道6号常磐バイパス、その他の切り通しがこの花で覆われる。民家の庭にも咲く。

ただし、タカサゴユリといっても、テッポウユリとの交雑種なのかもしれない。いずれも園芸種として移入され、あるいは交配されて野生化した。
 
 きのう(8月2日)、新舞子の防風林を貫く海岸道路を車で通って驚いた。オニユリが松林の内外で延々と、点々と群生している。平地から低山まで普通に見られる、とウィキペディアにあるが、群生状態を見たのは初めてだ。大津波をかぶっても、ユリ根は生きていたのだろう。
 
 単純な話、ずっといわきで暮らしながら、海岸の黒松林にオニユリが群生しているのを知らなかった。この年になっても、まだまだ知らない「いわき」がある。

2014年8月2日土曜日

焼酎をなめるハチ

 きのうはセミの話、きょうはハチの話――と書きだして、「あれっ」と思った。確かにセミの話を書いた。それはしかし、月に1回、古巣の新聞(いわき民報)に載せている「あぶくま、星の降る庭」の原稿で、このブログの文章ではない。セミの話は8月4日に掲載される。

 セミの話――。わが家の庭で鳴くセミはニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ。ところが、阿武隈の山里にはさらに南方系で森林性のエゾゼミが生息している。ある夜、開けっぱなしにしているわが家の茶の間にアブラゼミが飛び込んできた。ハチもたまに迷い込んでくる、といったことを織りまぜながら、夏休みのエゾゼミ採集の思い出をつづった。
 
 以下はハチの話。アブラゼミと同様、ときどき茶の間にハチが飛び込んでくる。茶の間は南の庭と接している。夏には戸という戸、窓という窓を開け放つ。夜も寝るまでそうしている。

夜は明かりに引かれるのだろう。茶の間で晩酌を始めたら、ハチが「黒じょか」の注ぎ口に止まって、内側をなめ始めた=写真。
 
 昼の雑木林に行くと、クヌギの幹からしみ出した樹液に昆虫が群がっている。オオムラサキやオオスズメバチがいる。あるとき、樹液をなめてみた。わりと冷たくて甘酸っぱかった。夜、子どもを連れて出かけたこともある。カブトムシが目当てだった。虫たちにとっては、夜昼にぎわう「樹液バー」だ。
 
 樹液の成分と似ている食品はなにか。ネットで検索したら、焼酎・酢・食パン・ヨーグルト・バター・チーズ・イチゴなどがそうだという。ハチはにおいに誘われて「黒じょこ」の注ぎ口に止まり、樹液とまちがって焼酎の痕跡をなめたのだろうか。

2014年8月1日金曜日

「災害といわき」

「広報いわき」に2014年度の新企画として<災害といわき>が載る。いわき地域学會の会員が執筆している。<其の五・関東大震災といわき>(8月号=写真)は、小宅幸一会員が担当した。関東大震災がいわき地方に及ぼした影響、いわき地方からの支援の様子を平易な文章でつづる。

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分32秒、関東地方を大地震が襲う。小宅氏によると、いわき地方は小名浜測候所で震度5の強震だった。ネットで「福島で5」ということはわかっていたが、「小名浜で5」までは絞り込めていなかった。

 そのとき12歳の四倉の少年の記憶。「昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」(吉野熊吉著『海トンボ自伝』)。少年はのちに、東京・深川の船宿「吉野屋」の主人になる。

 最近の例でいえば、去年(2013年))9月20日未明に発生した、いわき市南部を震源とする直下型地震が「5強」だった。階段の本が崩れ、2階の本棚が倒れた。ついでながら、去年の朝ドラ「ごちそうさん」では、大阪での関東大震災の揺れが描かれ、きのう(7月31日)の「花子とアン」では、「そのとき」と「その後」の様子が描かれた。

 小宅氏によると、関東大震災の影響でいわき地方では1人が死亡し、3~4人が負傷した。いわきから常磐線で首都圏へ運ばれていた石炭・鮮魚・木材・農産品などの輸送も滞った。

 その一方で、いわき地方の自治体などが支援活動を展開した。四倉町では631人の寄留者(本籍地以外に住む人)が帰郷し、その都度救援の手が差し伸べられた。錦村では消防組員3人が20日間にわたって救護活動に派遣された。山田村では青年団が白米を購入し、被災地に送った。
 
 いわきに限ったことではないが、その土地その土地の災害史に触れる機会はめったにない。寡聞にして知らないだけでなく、研究成果も少ない。過去の災害を未来に向かって学ぶ大切さをかみしめている。