2009年7月31日金曜日

アブを運ぶアリ


夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で遅い朝食をとり、開け放った夏座敷で一服していると、アブがやって来た、大きいのはスズメバチにそっくりだから、アカウシアブか。小さいアブは見た目も、大きさもハエに似る。イヨシロオビアブという種類らしい。

この日は現れなかったが、大きさが両者の中間くらいのアブもいる。渓谷はブヨやアブといった、刺されると痛い虫のたまり場だ。清流の証しでもある。

こいつらに刺されたらたまったものではない。すぐ、落書き用にとっておいた6月のカレンダーを折りたたみ、ハエたたきよろしく連続してバシッ、バシッとやったら命中した。

気絶した小さいアブを座卓の上に置いて観察する。全長はざっと12ミリか。灰黒っぽい腹部に横縞(帯)が6本あり、複眼は金緑色。明るい縁側にアブを移して写真を撮った。ときどき足をぴくつかせる。頭も動く。

と、クロヤマアリでもあろうか、アブの3分の1ほどの体長しかないアリが1匹、廊下のへりから現れてアブにくらいついた。人間でいえば、生まれたばかりの赤ちゃんが大人に立ち向かっていくようなものだ。おっ! 次の瞬間、目をみはった。アリがアブを引きずり始めたのだ=写真。持ち上げようとさえする。

ある商品の宣伝文句に、アリは自分の体重の400倍のものを持ち上げ、1,700倍のものを引っ張る、とあった。何百倍、何千倍と喧伝されるくらいに力があるのは確かだろう。1匹でこの力なのだから、アリの集団にかかったら庭の車だって宙に浮いてしまうのではないか。

それはともかく、夏井川渓谷は「虫の王国」である。その王国の土地の一部を借りて(実際そうなのだが)、無量庵が建った。庭だけでなく、室内でも虫たちが生きるための営みを繰り広げるのは、当然のことなのだ。

とはいえ、痛い・かゆいはごめんだから、部屋には昼間から蚊取り線香の煙をくゆらせる。それでも襲って来るアブはバシッとやる。困るのは昼寝をしているときだ。自衛しようがない。注射の痛みで目が覚める。

2009年7月30日木曜日

夏休みはラジオ体操


毎年のことながら、夏休みに入ると小学生は朝のラジオ体操の時間に合わせて起きなければならない。

きのう(7月29日)朝6時過ぎ、いつもの散歩コースをたどっていたら、3、4年生らしい男の子が家から顔を出し、新聞を取り込んだあと、カードを手にして歩き出した。どこの会場へ向かうのだろう。それとなく目で追ったら、県営住宅の方だった。

県営住宅では、建物に囲まれた中央の遊園地がラジオ体操会の会場になる。ほかに、スーパーの駐車場、住宅地の公園と、私が目にするラジオ体操の会場は2つ。

ぐるっと一回りして夏井川の堤防を下りると、ちょうどそばの公園でラジオ体操が終わるところだった。終了するや否や、低学年の子がサッと一列に並ぶ=写真。低学年の子の競争心は半世紀前も、今も変わらない。「ボク、一番」「ワタシ、一番」。父母から出席カードに印をつけてもらうため、毎朝、楽しく瞬発力を競っているわけだ。

たまたま1、2年生くらいの女の子と帰る方角が一緒になった。目が合ったので「7月いっぱい?」と聞くと、こっくりうなずいた。

ラジオ体操というと、夏休みの子ども会の行事だけを連想しがちだが、そうではない。もともと国民保健体操として編み出された。毎日続けることに意義がある。現に、散歩コース沿いでは毎朝、1人で、あるいは夫婦でラジオ体操をしている家がある。お年寄りには結構、人気のある番組なのではないか。

これだけ超長寿のラジオ番組はほかにあるだろうか。赤ちゃんからお年寄りまで、すべての年齢層の番組を手がけるNHKだからこそ可能な取り組みに違いない。

いつのまにか、火曜日にはNHKの歌番組を見るようになった。それと同じで、年を重ねると体を動かすにはラジオ体操が一番、となるのだろう。それこそ、国民保健体操の面目躍如だ。夏休みにラジオ体操をした経験があるからこそ、耳だけの放送に合わせて体を動かせるのだ。

2009年7月29日水曜日

部屋を夏向きに


私が週末を過ごす夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵は、障子にこたつと冬バージョンのまま。日曜日(7月26日)、ようやくこたつを片付けた。障子もはずしてすだれを掛けた。すっかり部屋が夏向きになった。

土曜日に泊まるのは私一人。初夏が過ぎ、梅雨に入っても、でんとこたつが鎮座していた。スイッチを入れないで昼寝をするのにちょうどいい。とはいっても、そろそろ足が蒸れる季節になった。〈8月がくるというのに、冬のままでは格好がつかないな〉と思いつつも、行動が伴わない。

カミサンの「怒」のスイッチが入った。日曜日朝、無量庵に着くと、号令がかかった。こたつを片付ける、障子をはずす、欄間(ガラス戸)を開ける、天袋からすだれを出す――。言われたとおりにして、形だけほうきで部屋を掃き、対岸の森へ避難した。私がいない方が、自分のやりたいように部屋を飾り立てられるだろう。

小一時間もしたら、室内と緑の借景とが直結した開放的な「夏座敷」ができた。すだれが涼感を演出している=写真。実際、風が吹き渡る日は部屋にいると涼しすぎるくらい。タオルケットなしで昼寝をすると、風邪を引きそうだ。夜は当然、朝方の冷気を計算に入れて、ガラス戸を閉めて寝る。いや、日暮れに合わせて閉めないと、虫が大挙してやって来る。

このところ、キュウリやインゲンを摘んでとんぼ返りをする日が多かった。開けるのがめんどうなので、雨戸は閉めたままの状態が続いた。部屋の中央に扇風機を置き、「強」にして首を振らせたら、外気温との相乗効果で室内の湿気がどんどん取れるのが分かった、という。

怠け者が部屋を使うと、ウジこそわかないがクモの巣は張る。そのクモの巣も、飛んで来る虫を退治してくれるからと、そのままにしておいた。それもひとまずすっきりした。

夏と冬と2回、部屋の装いが替わる。その瞬間に、胸の奥の霧が晴れる。部屋の真ん中で、大の字になって昼寝をしたい気分になるのだった。

2009年7月28日火曜日

おう なつだぜ


おう なつだぜ/おれは げんきだぜ/あまり ちかよるな/おれの こころも かまも/どきどきするほど/ひかってるぜ/おう あついぜ/おれは がんばるぜ/もえる ひをあびて/かまを ふりかざす すがた/わくわくするほど/きまってるぜ

「かまきりりゅうじ」の〈おれはかまきり〉というタイトルの詩だ。「のはらみんな」の代理人くどうなおこ(工藤直子)さんが「のはらみんな」のおしゃべりと歌を書きとめたら、何冊も詩集になった。「かまきりりゅうじ」の詩はそのなかのひとつ。

「かまきりりゅうじ」に会いたくて、いわき市立草野心平記念文学館へ行って来た。9月27日まで「くどうなおこの『のはらうた』展」が開かれている。画家ほてはまたかし(保手浜孝)さんが「のはらうた」を版画にした。その作品50点が展示されている。動物・植物・昆虫・空・雲・風……。「のはらみんな」の詩をユーモラスで温かな版画に仕上げた。

「にゅうどうぐもしんた」に〈そらのうんどうかい〉という詩がある。文学館へ向かう山道の上空に、サルとひげを生やしたじいさんの横顔にそっくりの入道雲(私にはそう見える)が待ち受けていた=写真。このサルの雲も、じいさんの雲も「にゅうどうぐもしんた」の兄弟には違いない。

現実にそうした入道雲の出迎えを受けると、〈きょうは「のはらうた」日和だな〉とうれしくなる。「のはらみんな」の詩がより身近なものに感じられる。

長く、まど・みちおさんの詩を読まずにきた。それと同じで、工藤直子さんの詩も最近、やっと読み始めた。自然と人間の交流を、詩を通して表現するとこうなる――そこに新しさを感じた。まだまだ多様な試みが展開されていい分野だと思った。月並みな言い方だが、自然は無限に人間にインスピレーションを与えてくれる。

2009年7月27日月曜日

近くの神社でも夏祭り


土曜日(7月25日)は朝方、小雨がぱらついたものの、夕方から青空が広がり、夏祭りにはもってこいの宵となった。いわき市勿来でいわきおどり勿来大会と鮫川花火大会が、四倉町でねぶたといわきおどりの夕べが開かれた。南と北とで「ドンワッセ!」の掛け声が通りに響き渡ったことだろう。

日中、特養ホームの夏祭りに参加したカミサンを迎えに行き、顔なじみの人が運営している「元気菜野菜市場」の夕市に顔を出した。同じ時刻、平中神谷の立鉾鹿島神社でも夏越大祓「茅(ち)の輪くぐり」とえんにち広場=写真=が開かれた。2歳の孫が遊びに来たので、出かけた。

夏休みに入って2回目の土曜日、道路沿いの保育所でも趣向を凝らした夏祭りが開かれていた。天気が回復すれば、祭りも盛り上がる。ジジババと孫は茅の輪をくぐり、お賽銭を上げて、柏手を打ち、えんにち広場で金魚すくいを楽しんだ。

小学生の元気な声に圧倒されてか、孫はときどき抱っこをせがむ。腕の中で何度か青空を見上げては目をぱちぱちさせ、今にもくしゃみしそうになるのが面白かった。私も小さいころ、明るい空を見上げてくしゃみをした経験がある。それを思い出した。こうしたことが孫の記憶として蓄積されるのだろう。

日の明るいうちに帰りかけたら、立鉾の森からヒグラシの鳴き声が聞こえた。今年初めてである。わが家の庭でもアブラゼミが初めて鳴いた。暑い夏がめぐってきた。

2009年7月26日日曜日

猫はいつも“土足”


蒸し暑くなってから、わが家は窓も戸も全開状態だ。猫はいよいよ室内外への出入りが自由になった。おかげで朝はときどき、部屋の掃き掃除をしなければならなくなった。

猫はいうまでもなく“土足”で庭から上がって来る。猫の足の裏に付いている砂が少しずつだが畳に残る。人間も気温が上がってきたために、部屋では素足で過ごす。裸にはならないが、半袖シャツ・半ズボンのぎりぎりの姿になる。

で、素足のために畳のざらざらが気になり出した。起きれば、まずホウキで部屋を掃く。カミサンは靴下をはいて過ごすから、そんなことは気にならないらしい。結局、私の仕事が一つ増えた。

座布団は夏になって、茶色から紺色のものに替わった。猫がときどきそこで丸くなっている。茶色のときより砂と毛が目立つ。座布団も朝、縁側でパタパタやる。留守にするときは、猫が寝転がらないように座布団を立てておく。そんなときには、猫は木の置物を休み場のひとつにする=写真

前にも書いたことだが、猫は好きでも嫌いでもない。が、1匹いれば十分というのが私の考え。それが、3匹もいる。家の外にも野良かどうか、カミサンがえさをやる猫たちがいる。これを私は「猫かわいがり」と思っている。それで、ときどき口論になる。

「猫かわいがり」は、人間の自己満足でしかないのではないか。猫そのものの生き方、存在に思いを巡らせれば、「猫かわいがらない」という態度が必要なのではないか。と言っても、カミサンはきかない。逆に、「かわいそうだと思わないの」となると、へきえきして「勝手にしろ」だ。

でも、「猫かわいがり」の人間がいるから猫は甘えるのだ――と思っているので、私は容赦しない。茶の間で昼寝をしていると、縁側からときどきよその猫どもが侵入してくる。子猫までまねして入って来る。すぐそばで「ガオッ」とやったら、子猫はとびあがって逃げ帰った。

それよりもっと効果的なのは、私の顔を見たら猫が逃げるように仕向けることだ。「ガオッ」だけでは、猫はたかをくくって逃げなくなる。手を上げる。足を上げる。「こらっ」。それにも慣れてしまう。足をつかんで説教してやりたいくらいだ。

2009年7月25日土曜日

夏キノコを採りに


うっとうしい梅雨空。でも、気温は高めに推移している。きのう(7月24日)、無量庵(夏井川渓谷)でキュウリを摘んだあとに、森の夏キノコをチェックした。

キュウリはざっと3日おきに摘みに行く。そうしないと肥大して“ヘチマ”になってしまうからだ。今回はしかし、キュウリより夏キノコが頭にちらついて離れなかった。

梅雨キノコのウスヒラタケだけでなく、夏キノコのタマゴタケ、チチタケ、イグチの仲間が発生しているに違いない。夏なら夏、秋なら秋、冬も春もそうだが、その時期に採集したキノコが、その時期になると記憶の深部から浮上してきて、「森へ行かなくては」と体が動くのだ。

雨模様のなかを、傘を持って森に入った。傘は雨のためだけではなく、クモの巣を払う、キノコが大量に採れたときには容器にする、という利用の仕方がある。

遊歩道沿いの伐木、倒木、立ち枯れ木、もちろん地面もさらっと見ながら行く。すぐ、地面からアイタケ、ドクベニタケが頭を出しているのに出合った。ウスヒラタケも1カ所でとろけかけていた。アイタケは固まって発生するということはない。が、遊歩道沿いに点々と頭を出していた。中発生というところか。

狙いのチチタケはなし。タマゴタケは2つあったが、柄が折れ傘が変色していた。まだしっかりしている柄の方を採り、アイタケを何個か採った=写真。その日、わが家で油炒めにして晩酌のおかずにした。

アイタケは、特にうまいというわけではない。が、これといったものが採れない今の時期、いかにもキノコらしい味わいを与えてくれる「リリーフピッチャー」のような存在だ。といって、食べたのは私だけで、カミサンは料理をしたものの、口にはしなかった。やはり、どこかで私の「キノコ眼」を信用していないのだ。

いや、タマゴタケは喜んで食べる。アイタケは、私と違って未知のキノコに等しいから、手が出ないのだろう。知人の本には、てんぷらがおいしい、とあった。アイタケは、これからしばらくは発生する。今度採ったら、てんぷらにするか。

2009年7月24日金曜日

伝承郷の写真展


いわき市暮らしの伝承郷で今年度2回目の企画展「写真で綴るむかしのいわき展①平地区」が開かれている。8月30日まで。

平七夕祭り、盆踊り、じゃんがら念仏踊り、結婚式、葬式、農作業、上棟式のほか、いわき駅周辺、松ケ岡公園、平市街地、平窪地内、その他の平地区、豊間・薄磯・塩屋埼灯台、神社仏閣、学校(保育園・小学校・中学校・高校・高専)に分けて、計300点近い写真を展示している。

大半はアマチュアカメラマンの故松本正平さん(平窪)が撮影した写真だ。昭和20~30年代が中心だが、松本さんは昭和40、50年代にも積極的に街へ出かけるなどして写真を撮り続けた。長い撮影歴と行き届いたネガの管理によって、年代と場所と内容が一目で分かるようになっている。

いわき駅(旧平駅)周辺の写真では、明治44(1911)年ごろ発行の絵はがき(複写)が、駅そのものでは昭和15(1940)年発行の絵はがき(複写)が最も古い。常磐線が開通したのは明治30(1897)年だから、14年後、43年後の絵はがきということになる。

去年は、いわき駅前再開発事業と連動した駅周辺再生拠点整備事業のなかで駅ビルの「ヤンヤン」が解体された=写真(3月中旬撮影)。駅は、駅前は変転に次ぐ変転を繰り返している。近代化・都市化の宿命だろうか。記憶が追いついていけない以上は記録に頼るしかない。そんなことをまず感じた。

松ケ岡公園の安藤信正像は、大正11(1922)年に建てられたものは戦争中に供出された。今あるのは昭和36(1961)年に再建された2代目だ。作者はいずれも彫刻家の故本多朝忠さん。家族でよく本多さんの家を訪ねた者としていささかの感慨がある。戦前の信正像(絵はがきを複写)を初めて見たのだ。なんだかこちらはなよなよとしていて力強さに欠ける。

歴史研究家から聞いていた話では、信正のモデルは平の書店経営者だ。ところが、カミサンが本多さんの話として記憶しているのは、書店経営者とは別人の絵描きらしかった。どちらも面長で端正な顔をしていた。銅像の顔つき、雰囲気からすると、戦前と戦後ではモデルが違う、つまり両方正解ということか。むろん断定するような話ではない。

学校関係では、平高専(現福島高専)の昭和39(1964)年の実習風景に見入った。福島高専のホームページによれば、工作実習を行うのは2、3年生。1期生か2期生が旋盤と格闘している図、ということになる。

昔の写真を見るということは、それが建物であれ風景であれ、昔の自分を見るということだ。昔の自分の喜怒哀楽と再会することだ。それを糧にしなくてはならない――そんなことをたくさんの写真から教えられた。

2009年7月23日木曜日

オオヨシキリ去る


わが家の庭でエンマコオロギが鳴き出した。エンマコオロギは、気温が20~30度になるとよく鳴くそうだ。ここ何日か梅雨空なのに気温の高い日が続いた。それで、演奏家としての本能が目覚めたのだろう。

一方、夏井川のヨシ原では、この連休をはさんでオオヨシキリのさえずりがピタリとやんだ。「ギョギョシ、ギョギョシ」とオオヨシキリがやかましく歌い合っていた水辺の空間に沈黙が広がる。先週までの歌の残響が現実の沈黙を受け入れられないので、気持ちが落ち着かない。沈黙に慣れるまで少し時間がかかりそうだ。

きのう(7月22日)早朝、再度、オオヨシキリの有無を確かめるために、ヨシ原に接するサイクリングロード=写真=を散歩した。時折、「ギョッ」とか「ギュッ」とかの地鳴きは耳に入るものの、さえずりはとうとう聞かれなかった。すっかり呆けたウグイスの歌と、ホトトギスのさえずりが聞こえるばかり。オオヨシキリは一斉にヨシ原を去ったのだろう。

今年、オオヨシキリの第一陣が南から到着して、ヨシ原で歌い出したのは4月20日。去年より10日ほど早かった。歌い終わりも去年より10日ほど早い。夏井川のヨシ原の例でいえば、オオヨシキリは正味3カ月で求愛・結婚・子育てを済ませるわけだ。その期間がこの四半世紀でやや早まっている、というのが私の印象だ。

夏至からおよそ1カ月。昼の時間が縮み、夜の時間が延びる時期に入った。そのなかで、エンマコオロギが鳴き出し、オオヨシキリが南へ去った。1匹は耳鳴りのように、複数になると読経のように、ニイニイゼミも歌い始めた。やがてヒグラシ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシと、セミたちの輪唱が続く。

この先、暑さが募るかげで秋が忍び寄ってくるというのは、季節の巡りのなかで当然のこと。雨雲が空を覆ったきのう昼前、いわきで部分日食を目撃した人は幸せだった。

2009年7月22日水曜日

ちゃんと遊ぼ!


東の空に虹=写真=がかかった夕方、2歳の男の子が両親と生まれたばかりの弟と一緒にやって来た。2歳児には、われら夫婦は格好の遊び相手らしい。

室内で三輪車にのり、ブロックを積み、電気スタンドをつけたり消したりする。お鈴をチーンとやる。炊飯器のふたを開ける。自分で電車のDVDをかける。カミサンと台所で水遊びをする。私の手を引っ張って車に乗り込み、ハンドルを握る。運転している気分になるのだろう。

ちょうど晩酌を始める時間。一通り男の子とつきあったあと、チビリチビリやり始めたら、男の子が強い調子で呼んだ。「ジイ、ジイ!」。遊びに手を抜いたのを見抜かれたので、「ハイ、ハイ」と二度返事になる。通訳すればこんな感じか。〈なんで遊ばないの? ちゃんと遊ぼ! 駄目じゃないか!〉。しかたない、晩酌は一時中断してブロック積みに加わる。

2、3歳の幼児は遊びが仕事。遊んで一日が暮れる。睡魔に襲われながらも遊びをやめない。そのなかでいろいろと学習し、知恵も知識も身につけるのだろう。まずは見てまねる=まねぶ、つまり「まなぶ」(学ぶ)、だ。見てないようでちゃんと見ている。これが人生の上り坂にある幼児の知の骨格をなしているようだ。

たとえば、男の子の両親の車。白い色で、形も似ている。人生の日暮れを生きる人間には、どちらがだれの車か見分けがつかない。男の子は区別がつく。ナンバーの違いで、か。そうだとしたら、数字ではなく模様として微細な違いを見ているのだろう。

そんな細部の違いまで大人は把握しきれない。あらかじめいろいろな情報を詰め込んでいるので、かえって見えなくなっている。幼児のようなニュートラルなまなざしはもう持ちえないのか。

いや、幼児もまた年齢を重ねるごとに見えなくなるものが増えていくのだ。と思えば、せめてこの時期、男の子とは一対一の関係で対等に、真剣に遊ぶことだ。遊びが手抜きだと見抜かれないように。

この遊びを通じて学ぶことはいっぱいある。「ぞうさん」のまど・みちお、「アンパンマン」のやなせたかしについて調べる気になったのも、彼のハミング、身ぶり・口ぶりからだ。

大人になって、広く浅く――という世界で生きてきた。それで「見えなくなった」ものもいっぱいある。今度は、狭く深く――を心がけて、あらためて「見る」ことについて考えをめぐらしてみたいと思う。

2009年7月21日火曜日

「茅の輪くぐり」復活


いわき市平中神谷に規模の大きな神社が二つある。1,200年余の歴史を誇る立鉾鹿島神社と、2年前に800年祭を行った出羽神社だ。

出羽神社できのう(7月20日)午後3時から、「夏越大祓」が行われた。いわゆる「茅(ち)の輪くぐり」だ。数日前の朝の散歩時、犬を連れた氏子氏から「茅の輪くぐり」神事があることを教えられた。材料のチガヤは夏井川の下流から調達するのだという。地元に住む人間としてここはひとつ、神事を写真に収めねばと散歩を兼ねて出かけた。

聞けば、しばらく中断していたのを復活した。拝殿の前に直径2メートルほどの「茅の輪」が立てられ、「茅の輪のくぐり方」を図示した看板が添えられていた。

「茅の輪」を左、右、左の順で3回くぐりながら、〈水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はらい)する人は 千年(ちとせ)の命 延(の)ぶというなり〉と唱えてください――そんなことが書いてあった。

神官を先頭に氏子の家族などが「茅の輪」をくぐる。拝殿前はたちまち人でいっぱいになる=写真。私も最後の最後に「茅の輪」をくぐり、お賽銭を投じて家内安全を祈った。神事の前、氏子氏らの案内で社務所に行って受け付けを済ませ、先着30人がもらえるプレゼントも手にした。お札と「撒下品」の〈羽黒生姜〉が入っていた。

「茅の輪くぐり」に合わせて和歌・俳句・川柳を募集したらしく、神事の前に「第一回羽黒露沾会展」の表彰式が行われた。入選作品のうち、優秀句「稚児の舞い習いに通う夏休み」、佳作「給付金持って行くかと夏祭」は知人の作品だった。

露沾は江戸時代前半、磐城平藩を治めた内藤ファミリーの一員で、俳諧で一家をなした。芭蕉のパトロンでもあった。境内に露沾の和歌〈羽黒山 御影も清き みそぎこそ 茅の輪をこゆる 代々の川波〉と俳諧〈清祓 千代をむすばん 駒清水〉を刻した碑がある。これにちなむ羽黒露沾会展ということだろう。毎年開催するという。

さて、もう一方の立鉾鹿島神社は、土曜日(7月25日)に夏まつりが開かれる。チラシで知った。「茅の輪くぐり」神事のほか、「えんにち広場」が行われる。子どもたちには夏休みのいい思い出になることだろう。

2009年7月20日月曜日

アーティチョークの花


去年(2008年)の春、アーティチョークの苗を2株もらったので、無量庵(夏井川渓谷)の畑に植えた。最近、人気のある“新野菜”だ。1株はネキリムシにやられて消えたが、もう1株はなんとか持ちこたえ、2年がかりで大人の背丈を越えるほどに成長した。

アーティチョークはつぼみを食べる。そのつぼみが膨らみ始めたので、花柄ごと切り取った。驚いた。がく片がブリキ板のように硬くとんがっている。触れると痛い。こんながく片をむいて食べるのか。

がく片をどうはがしたものか、アイデアが浮かばない。手を出せば痛い。水を入れたコップに入れておいたら、薄紫色の花が咲き出した=写真。アザミに似た、いかにもキク科らしい線状花だ。別名「チョウセンアザミ」は、大きなアザミのような花、という印象から付いたか。

花はきれいだが、このがく片だ。どう考えても、下ごしらえは血を流さずには済まない。手が出ない。で、ネットで調べたら、アーティチョークは観賞用と食用とではタイプが違うらしいことが分かった。食用のがく片はずんぐりした緑色。こちらはいかにもアザミのトゲトゲを、大きく硬く鋭くしたタイプ。観賞用だったのだ、おそらく。

スペインに住む絵描きの阿部幸洋が昨春、ふるさと(いわき市平)で個展を開いた。中にアーティチョークの作品があった。それを見て、阿部の知人が画廊に苗を持参した。めぐりめぐって私が苗を引き取った。“新野菜”としての幻影に惑わされたためだ。

観賞用のアーティチョークは塩ゆでしても味がいまひとつらしい。手が出なかったのは、その意味でも正解だった。食い意地を鎮めれば、花はきれいな方がいいに決まっている。そういうアーティチョークを栽培するつもりはなかったのだが。

2009年7月19日日曜日

「滝つぼ」の歌


南東北は、まだ梅雨は明けない。が、この数日、一日のうちにもカッと晴れて積乱雲が発達するときがある=写真。気温がぐんぐん上がって梅雨が明けたかと思えば、夕方にはまた灰色の雲が空を覆う。その切れ間、切れ間に太陽の“間接光線”が広がる。独立した灰色の雲の峰にも光と影ができる。

夏と梅雨が空でけんかしているような夕方、住んでいる地域の有志による月に一度の飲み会が近くの居酒屋で開かれた。

「会社人間」から地域の「社会人間」になるのを待っていたように、誘われて5月から飲み会に参加している。初回、調子にのって2人で二次会に行った。次の日は、宴のあとの頭痛の朝。で、翌日に予定のある6月は欠席した。一次会だけなら翌日に予定があっても差し支えないか――7月の飲み会には出席した。

月によって顔ぶれは変わる。多くて7~8人。開催日と場所は決まっている。欠席の場合だけ幹事に連絡する、というしきたりらしい。初めての人が2人いた。年齢をいえば、5月は私が最年少。今回は四倉の石材会社の社長さんが一つ下で最年少だった。この人はなかなかユニークだ。こちらは先刻、バスの広告で“顔なじみ”。

要は、近所に住む独り暮らしの元校長先生を引っ張り出して、楽しくやりましょうという会。先生は欠席した。それもあってか、今回はカラオケ会になった。社長はかなりのどに投資をしているようだった。

という流れのなかで、カラオケでうたう歌ではないが「滝つぼの歌」を紹介する。同じ居酒屋のさる空間に生理現象が生じて閉じこもったら、こんな張り紙があった。「滝つぼの 外にもらすな 玉の露 霧もまとめて 滝つぼへ」。最後の「滝つぼへ」は少々字足らず、「白い滝つぼへ」とでもしたいところだが、なかなかやるなと思った。

店主の一人言、という断り書きが憎い。で、こんな追伸もあった。「一歩前へ!! 立たずに直れ」。ゆらゆら揺れるほどではない。粛々と滝つぼに意識を集中させた。

2009年7月18日土曜日

ジャガイモ収穫


4月に種イモ1キロを買って、無量庵(夏井川渓谷)の畑に植えつけた。3カ月が過ぎたころ、掘り起こして収穫した=写真。家にある4キロのはかりに載せたら針が軽く振りきれた。5、6キロはあったか。

ジャガイモの栽培を休んで10年近くなる。ジャガイモから三春ネギ中心の畝づくりに変えたら、スペースがなくなったのだ。今年は春先にすき間ができた。ナスの栽培を休めばジャガイモを栽培できる。種屋をのぞいたら「男爵」があったので購入した。

今思えば、一個まるごと植えつけたのがよくなかった。半分に切って種イモの数を増やせば、スペースも倍になるが収穫量も倍になったはずだ。種イモ1キロに対して収穫量が5倍強というのは、いかにも少ない。

それはおいといて、新ジャガの味を試す。三春ネギと一緒の味噌汁が一番。ほくほくして、ネギのうまみとよく混じりあっていた。小イモも相当ある。こちらは揚げて味噌をからめた「いもでんがく」が向いている。子どものころ、よく食べた。

新ジャガと三春ネギの味噌汁のほかに、糠漬けのキュウリ、素揚げのインゲン、シシトウと、夏野菜の収穫期に入って“自産自消”のおかずが増えた。三日に一度は無量庵へ出かけてインゲンやキュウリを収穫する。で、納豆を除く朝食のおかずがオール自産の野菜、という日もある。

話変わって――。無量庵の庭でマメダンゴ(食菌の一種、ツチグリの幼菌)が採れた。味噌汁にして、コリコリした食感を楽しんだ、と前に書いたら、はがきが来た。タイ料理などで使うフクロタケのことではないか、と。

フクロタケ? いわきキノコ同好会ではマメダンゴの話は出てもフクロタケの話は出たことがない。ということは、採ったことも、食べたこともないのだ。

キノコ図鑑に当たったら、あった。フクロタケは傘を開く普通のキノコだ。袋状の幼菌を食べるのか、白っぽい被膜に包まれた幼菌が描き添えられていた。ツチグリとは似ても似つかない。が、食感は似ているのだろう。

俄然、フクロタケの幼菌を試食したくなった。が、わがフィールドでは見たことがない。食材屋さんへ行って買って来るしかないのか。それともお恵みあれ、と祈ったら通じるのか。                                                
新ジャガの味噌汁を試食しているうちにマメダンゴを思いだし、その連想でフクロタケに思いが至った、という次第。

2009年7月17日金曜日

小名浜も真夏日


きのう(7月16日)はおととい以上に早朝から気温が上昇した。6時半過ぎ。散歩へ出かけると、もう太陽がギラギラ照りつけていた。

雲海は東の太平洋上に去りつつあり、西からは青空が広がっていた。その中間、卷雲だか卷積雲だか卷層雲だか分からないが、白くて薄い雲が気流の影響でちぎれ、逆巻き、波打ち、筋状に尾を引いていた=写真。真上には片割れ月。

卷雲が現れると天気は下り坂、とよく言われる。が、日中はうだるような暑さが続いた。家では軽装でいたい。靴下も履かない。扇風機をかけながら本を読んだり、文章を打ち込んだりしているだけでも、汗がにじむ。猫どもはトイレのそば、風呂のカバーの上と、涼しい場所を見つけては長々と体を伸ばしていた。

午後、北茨城市へ出かけた。国道6号の常磐バイパス進入口にデジタル表示計がある。気温が31度を示していた。福島気象台の無人観測所がある小名浜はどうか。今年最高の31.1度だった。小名浜は夏日でも、内陸の平は真夏日、というのはいわき市民の常識だが、きのうはどこでも暑かったのだ。

「いわき七浜」はおととい、海開きをしたばかり。勿来海水浴場のそばを通ったら、渚にいるのは数カップルのみ。小中学校が夏休みに入るあした(7月18日)、あさってが実質的な海開きということになるのか。

夕方は、再び街へ出た。いわき駅前再開発ビル「ラトブ」で集まりがあった。空調が効いてしのぎやすかった。総合図書館が閉館する9時近くまで粘って、わが家へ帰った。蚊取り線香を焚き、扇風機を「強」にしても、部屋にこもっている熱はなかなか引かない。

10時過ぎには小雨がぱらつき出した。雷も鳴った。言うならば、遅れて来た夕立だ。今朝は梅雨空に戻っている。週間天気予報では、曇天ながらほぼ真夏日が続く。不快指数は上がりっぱなし。梅雨明けはまだ先のことになりそうだ。

2009年7月16日木曜日

ドクターの蔵書


懇意にしていたドクターが亡くなって何年になるだろう。奥さんから連絡があって、本を引き取りに行った。気に入ったものは手元に置いて結構、残りは売ってNPOの資金にしてほしい――。今度で2回目、いや3回目か。

ドクターの読書量というか、蔵書数は半端ではない。専門の医学書はさておき、哲学・政治・歴史・文学・経済・民俗その他、知的関心は万般に及ぶ。前回同様、段ボール箱で10箱あまりを2回に分けて車で運んだ。それをわが家でチェックする。

今回はまるで自分を見ているような錯覚に陥った。30代前半から読んでいる哲学者の内山節さんの本がごっそり出てきた。『労働の哲学』『労働過程論ノート』『山里の釣りから』『戦後思想の旅から』『時間についての十二章』『存在からの哲学』『森に通う道』『森の旅』『自然と人間の哲学』『哲学の冒険』など、内山さんの著作・関連本が20冊前後入っていた=写真

ドクターが内山さんのことを知ったのは、たぶん私を介してだと思う。内山さんの考えがピタッとはまったので、「こういう哲学者がいますよ」と本を読んだ感想を述べたら、早速反応した。真夜中に「内山哲学」について電話で語り合うこともあった。ざっと20年前のことだったろう。

段ボール箱の本をながめて、内山本はブックオフに持って行くわけにはいかない。そう思った。民法の碩学Yさんの言葉を思い出したのだ。「必要な本は自宅にも、研究室にも置く」。わが家には、内山さんの本はほぼそろっている。夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵にはない。そちらに置こう。無量庵でも読むために。

ドクターは徹底して学ぶ人だった。そのうえで考え、一市民として行動することを基本においていた。

私は内山本のうち、特に『自然と人間の哲学』から学ぶことが多かった。いや、今も学んでいる。無量庵を軸にした暮らしの指針として、これほど深い教科書はほかにない――そう思っている。

2009年7月15日水曜日

麦の秋と人間の夏


いわき市小川町の平野部、国道399号沿いに1カ所、麦畑がある。夏井川渓谷への行き帰りにチラリと眺めて通り過ぎる。もう刈り取り時期に入ったと思われるのだが、まだなのか。見るたびに倒伏数が増えている。

まだしっかり立っていたころ、麦畑に気づいた=写真。「麦の秋」である。すると、決まって思い出す詩がある。田村隆一が新聞かなにかに発表したのを、若いころに読んで「うまい! 当代一流の詩人はこういうふうに現実を詩に昇華するのか」とうなったものだ。

「村の暗黒」がタイトル。〈麦の秋がおわったと思ったら/人間の世界は夏になった/まっすぐに見えていた道も/ものすごい緑の繁殖で/見えなくなってしまった〉。これが第一連。いつも歩いている道が夏草に覆われて見えなくなった、というのは、誰もが経験することだろう。

第二連はこう続く。〈見えないものを見るのが/詩人の仕事なら/人間の夏は/群小詩人にとって地獄の季節だ/麦わら帽子をかぶって/痩せた男が村のあぜ道を走って行く/美しい詩のなかには/毒蛇がしかけてあるというから/きっとあの男も蛇にかまれないように/村の小宇宙を飛んでいるのだ〉

最近、本人がこの詩を解説する文章を読んでにやりとした。講談社文芸文庫の『詩人のノート』に出てくる。この詩は神奈川県のとある村に住んでいたころの体験をうたっている。

蛇が苦手の詩人は、道に蛇が長々と寝そべっていると、クルッと回れ右をして家に帰ってしまう。「急用があって、どうしてもあきらめられない場合は、お天気がいいというのに、ゴム長をはいて、宙を飛ぶようにして走るのだ」。第二連の情景である。

確かに草が繁殖して地面が見えなくなると、蛇の存在がちらついて一歩足を踏み出すのを躊躇する。長靴を履きたくなる。そんな人間的な一面を重ねて読むと、いちだんと味わいが増す。

「麦の秋」が終わったら「人間の夏」になる。いや、もう関東甲信地方は梅雨が明けたという。月曜日(7月13日)には、南東北も「人間の夏」になったといってもいいくらいの暑さになり、翌朝まで強風が吹き荒れた。それで夏風邪を引いた。体が気象の変化についていけなくなったか。

2009年7月14日火曜日

「びわ酒」熟成中


カナダをご訪問中の両陛下の様子がテレビのニュースで紹介された。美智子さまが子どもたちの前で〈ゆりかごの唄〉をうたわれた。「ゆりかごの 上に/びわのみが ゆれるよ……」。北原白秋作詞・草川信作曲の童謡で、初出誌は大正10(1921)年の「小学女生」8月号という。

3週間前に「びわ酒」を作った=写真。その連想でニュースを見ながら、白秋は6月のある日、ビワの実にヒントを得て〈ゆりかごの唄〉をつくったに違いない、と思った。 

その「びわ酒」だが、氷砂糖の量を間違えたらしい。ネットで調べたら、ビワの実1キロに対してホワイトリカー1.8リットル、氷砂糖は100グラムないし200グラム、500グラムとまちまちだ。ビワと同量の氷砂糖というのもあったような気がする。で、一袋(1キロ)をまるまる空けた。相当甘い「びわ酒」になることだろう。

広口瓶に、輪切りにしたレモンとビワを交互に重ね、ホワイトリカーを注いで蓋をし、黒い布をかぶせて階段下のスペースに置く。レモンは酸味を加えるため。布は光合成を遮るためだったか。

そもそも、このビワは種をポイとやったら芽を出し、実をつけるようになった生け垣の一部だ。自前の高田梅で梅酒をつくる予定だったのが、半分は青梅ジャムになり、半分は腐らせ、ホワイトリカーと氷砂糖が余った。ちょうどビワの実が摘みごろとなり、「びわ酒」もいいよと聞いて、それに切り替えた。

ビワはたくましい。ついでに言えば、ビワの木は丈夫で杖にもいい。池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、老密偵の一人、高萩の捨五郎に鬼平が手製のビワの杖を贈っている。いずれ剪定しなくてはならないときがくる。その折には老後のために杖でもつくろうか、などと思ったりする。

甘い「びわ酒」は、何か別の飲み物とシャカシャカやるカクテルがいいかもしれない。甘いなら甘いなりの飲み方を考えよう。

2009年7月13日月曜日

ネギさくり


夏井川の堤防の外、つまり川ではない方の、人間の住宅が密集する一角にネギ畑がある。朝晩、散歩していると、移植・定植・収穫といった1年のサイクルがみえる。いわき市平の神谷地区はネギの産地だ。

今は定植の時期。ネギ畑に人がいて、溝切り機を動かしている。足を止めて観察する。ん、前進ではない、後進だ。後進しながら溝を切り、土を両側にはねている=写真。これが標準? いくらなんでも後進する機械はないだろう、この人独自の使い方か。そんな「はてな」に襲われる。

いわきの平地のネギは「春まき・秋冬採り」だ。平成16(2004)年度の福島県内の統計によると、いわき市のネギの生産量は3,370トンで、2位の郡山市の1,230トンを3倍近く引き離している。ネギは水はけのよい土地を好む。夏井川や鮫川の下流域でネギが栽培されているのはそのため。

いわきの平地に住むわがネギの師匠も、先週末には家族総出で「ネギさくり」を行い、苗を定植すると言っていた。「さくり」とは畑のうねをつくること、つまり溝を切ってネギを定植することだ。

一方の山里。たとえば、夏井川渓谷の牛小川では「秋まき・秋冬採り」の「三春ネギ」を栽培している。私は8月に定植し、郡山市や田村市の例に倣って曲がりネギにする。

ネギ坊主から種を採り、根元から刈り取ったのが数本ある。葉が再生して大きく伸びた。が、どうも細い。先週、掘り起こして古い皮をはがし、植え替えた。分けつしているもの、腐りかけているものがあった。梅雨に入って土中に水分がたまり、ネギを苦しめるようになったのだろう。ネギは梅雨の管理が難しい。

初夏に植えた三春ネギの苗にはまだそんなに土を寄せていない。今のところ、ネキリムシの被害のほかは、多湿の影響はないようだ。

間引き苗を食べる。甘みが増してきた。曲がりネギにすると、よけい甘みが増す。1カ月後の月遅れ盆のあと、溝を切り直して斜めに定植する。暑いさなかの作業だ。

2009年7月12日日曜日

松本成一写真展


いわき市小名浜在住の松本成一さんが同市平のエリコーナで写真展を開いている=写真。7月20日まで。                                        
松本さんは笑顔の少女の写真を撮るアマチュアカメラマン、として知られる。真正面から笑顔の少女を撮る、というより笑顔の少女しか撮らない。笑顔の少女の写真で松本さんの右に出る者はいないだろう――私はひそかにそう思っている。

使われ方によっては「盗撮だ」「ポルノだ」と非難される、カメラには不幸な時代。そうした風潮を反映してか、カメラを首からぶら下げて散歩へ出かけると、小学生の女の子は「怪しいおじさん」視して警戒する。めげずに毎日、カメラをぶら下げて散歩する。花を、鳥を、虫を撮るために。

松本さんと知り合っておよそ20年になる。「笑顔の少女」はなによりもかわいい、美しい。松本さんは「怪しいおじさん」の壁をどう突破したのだろう。笑顔の少女の写真は、少女の家族との信頼関係のうえに成り立っている。ハードルは高かったに違いない。と、思ったら、知人・両親のつながりで簡単に少女と向き合い、今に撮る・撮られる関係が続いている。

オープン初日(11日)に会場をのぞいた。長年にわたって撮り続けている同じ少女の笑顔を通して、少女が大人に成長していく姿を生きいきと描いている。「描いている」というほかないテーマ性、根気と集中力だ。一人の少女の場合は、12歳から32歳までをほぼ1年刻みで写し出している。

これだけ長く少女に信頼されているカメラマンはいるだろうか。これだけ長くすてきな笑顔を撮れるカメラマンはいるだろうか。いや、いない。まさに松本さんの誠意が心からの笑顔を引きだした稀有な例――そう思ったら、胸に熱いものがこみあげてきた。

「このたび、15年、18年、21年と連続して成長していく姿を撮っている3人の少女に焦点を当て、順に約50枚展示しています。それぞれの青春途中の一瞬一瞬の一枚一枚に『生きる喜び』を感じて頂ければ嬉しい限りです」

案内のはがきに記された松本さんのあいさつ文を読んでいたら、これほどの感動を受けただろうか。年をとれば人は“花眼”になる。小さい字がにじんで読めなくなる。「笑顔の少女」以外の予備知識なしに出かけて、ばったり「笑顔の少女」と出会ったのが、むしろ幸いした。

2009年7月11日土曜日

イノハナの味噌漬け


7月の声を聞くと決まって咲く花がある。クチナシ、ネムノキ=写真、ノウゼンカズラ。ネムノキは花だろうか。花とは思えない独特の形と繊細さを持つ。

道々、自生するネムノキの花を見ながら阿武隈高地の実家に帰った。その晩、兄夫婦が隣に住む独り暮らしのT子さんを食事に招いた。近くの町に住む弟夫婦も呼ばれた。私を入れて5人が食卓を囲んだ。

義姉の手料理が並ぶ。地元の食材を使ったサラダ、浅漬けなどが中心だ。イノハナ(コウタケ)入りの味噌漬けを初めて食べた。けんちん汁(トン汁)には油でいためて冷凍しておいた去年産のチチタケも。これは前に食べている。私にとっては珍味、かつ美味だ。

伝統を受け継ぎながらも、創意と工夫を凝らして今風の食べ物にアレンジする。保存食にも知恵をひねる。阿武隈高地に限らず、それぞれの地方の家庭料理はこうして少しずつ進化してきた。これからもそうだろう。

毎日では大変だが、「料理はいっぱい作らないとおいしくない」という。で、そんなときには夫婦2人では余ってしまうから、隣のT子さんのほか、近所のお年寄りの家2軒にもおかずを届ける。行政から頼まれたのかと思ったら、そうではない。近所だから――ただそれだけのこと。

昔ながらの一筋町である。昭和31(1956)年の大火事で道路が拡幅され、一部移動はあったものの、どの家も代々、同じ場所で暮らしてきた。が、核家族化が進んで、子どもたちは近くの町に家を建てた、同居していても帰りが遅い、そんなことで“孤食“を強いられるお年寄りが増えた。そういう人たちを思いやっての“おかず分け”である。

NHKの朝の連続テレビ小説は家族で食事をする、隣家とおかずを分け合うのが“決まり”らしい。都市化が進めば進むほど、現実はその逆の方向に向かう。一種のユートピアだ。

わが家のあるいわき市ではどうか。隣組の付き合い自体が薄い。むしろ“地縁”より“知縁”で、疑似孫一家が来るときだけカレーライスになる。大人4人に子ども2人。そのくらいの分量を作らないとおいしくないという。義姉の話もそうだが、家庭料理の適量は大人5人分か。

2009年7月10日金曜日

山道のコジュケイ


わが家から夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へは、平市街北部の田園地帯を抜けて国道399号~県道小野・四倉線を進むのが最短コースだ。帰りはときどき、気分を変えて山越えの道を利用する。

田村市の実家への行き帰りも必ず違う道を利用する。同じ阿武隈高地でも、道が変われば風景が変わる。里のたたずまいが違う。同じ山が違って見える。ときにはオオタカが空を舞い、山菜やキノコが道端に生えている。見る楽しみ、採る楽しみがある。

先日早朝、逆のパターンで無量庵へ出かけた。石森山を上って下り、常磐道の高架橋の下を突っ切って、二ツ箭山に連なる四倉上岡~小川町柴原の林道を上って下った。のり面は1~2メートルの山砂層だ。ツチグリが出ているかもしれない。その期待があった。

期待は見事にはずれた。が、柴原の里に近づくとコジュケイが2羽、道に出てえさを探していた。すかさず車を止め、運転席の窓を開けてカメラのシャッターを押す。それでも逃げない。逃げないのは、「車は人ではない」と認識しているからだ。人であればたちまち姿を隠す。キジも、ほかの野鳥もそうだが、車は野鳥撮影のためのいいブラインドになる。

ゆっくり道端の草むらへ移動したのに合わせて車を前進させ、真横からシャッターを押した=写真。初めてピントの合ったコジュケイの写真が撮れた。

夏井川渓谷にもコジュケイはいる。「ちょっと来い! ちょっと来い!」。無量庵で菜園の草むしりをしたり、部屋でごろ寝をしたりしていると、けたたましい鳴き声が聞こえる。近くの小道を歩いているときに、急に足元から飛び立つこともある。びっくりして心臓が止まりそうになる。無量庵の“隣人”だが、人見知りは激しい。

今回はその逆。コジュケイが人間に気づくより前にこちらが気づいて写真を撮ることができた。背中の羽の模様はなかなかシックだ。そんなことが初めて自分の写真で分かった。

2009年7月9日木曜日

カニの道


夏井川下流、いわき市平の市街地から河口へと、河川敷にサイクリンゴロードが整備されている。先日早朝、知人から譲り受けた“ママチャリ”でサイクリングロードを往復した。曇天ながらレースのカーテンのような雲を透かして、太陽が白金色に輝いていた。

かたや堤防、かたやヨシ原。ヨシは、背丈が2メートルを超えた。盛んにオオヨシキリがさえずっている。「六十枚橋」の下をくぐると、目の前を子ガニが早足で横切った。ロードの真ん中で空を見上げているカニもいた=写真。それが「カニの道」の始まり。

ヨシ原に続く草むらにアカテガ二がいる。ハサミも顔も赤い。最初のカニは脚に硬そうな毛が生えていたからベンケイガニだろう。

いったん堤防に上がり、河口にかかる「磐城舞子橋」を渡って右岸のサイクリングロードに移った。往復というより、川をはさんで一周したといった方が正しい。右岸のロードは左岸以上の「カニの道」だった。ペダルをこぐごとに、カニが草むらに逃げ込む。自転車に引かれて死んでいるカニも何匹かいた。

その日、仕事で知人に会った。早朝、自慢のサイクリング車で夏井川の河口まで行って来たという。メタボ対策だ。平市街地の高台に禅寺がある。「明け六つの鐘」を鳴らす。それを堤防の道で聞いた。私はそのころ、右岸のサイクリングロードでペダルをこいでいたはず。

ママチャリとサイクリング車とでは性能がまるで違う。彼は私より倍の距離をこなしても、かかった時間は私とそう変わらなかった。

それよりなにより、仕事のパートナー同士が同じ日、同じ道をほぼ同じ時間帯に自転車で河口まで行ったのは、行く気になったことも含めてそうあることではない。何かテレパシーがはたらいたか。

ついでながら――。「六十枚橋」は海側から数えて二番目の橋だ。その手前までは海風の影響で空気がひんやりしている。アカテガ二やベンケイガニが出没するのも、その橋をはさんだ辺りまで。三番目の橋の「夏井川橋」から上流ではまだカニを見たことがない(自宅近くの側溝上でモクズガニを見たことはある)。

山国育ちのせいもあって、カニの多さに目を見張った。サイクリング車の彼も目を丸くした。――この年になっても“発見“があるから、いわきは面白い。そんなことを、群れるカニから実感したのだった。

2009年7月8日水曜日

マメダンゴが次々に


おととい(7月6日)は、朝5時前に起きて夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ車を走らせた。前日、庭でマメダンゴ(ツチグリの幼菌)を3個採った。

もっとあるはずだ――。頭がマメダンゴに占領されている。とにかく調べてみないことには気が済まない。あればうれしい、なければそれまで。

マメダンゴが埋まっている庭はあらかたコケに覆われている。表面からは分からない。不用意に足を踏み込むと、「プチッ」と音を出してマメダンゴの外皮が裂ける。さて、どうしたものか。

コケと砂利の境から、手型を押すようにして凹凸を確かめてゆく。何もなければコケは圧(お)されて沈む。マメダンゴか小石の場合は硬い感覚が手のひらに伝わる。そうやってコケの庭を探ると、次々にマメダンゴが出てきた。1時間ほどで100個は採ったろうか。

珍味が大量に、しかもいながらにして庭で採れる――。無量庵へ通い始めたころに森で遭遇した白マイタケ、立ち枯れの大木にびっしり生えていたヌメリスギタケモドキ、それ以来の大収穫だ。常々思っていることだが、キノコの神様は何年かに一度はキノコ好きにごほうびをくれる。今回がきっとそうだ。

次は下ごしらえである。まず、水につけて砂を落とす。直径1~2センチの扁球体だ。たわしで表面をごしごしやり、石突きを包丁でそぎ落としたあと、二つに割る。袋の内部が“白あん”ならOKだが、胞子ができて“黒あん”になっているもの、“白黒あん”になっているものは食用には適さない。たぶん苦いのだ。選り分けたら、白と黒とが半々になった=写真

選り分けているうちに、大きいものは内部が“黒あん”化していることを学習した。二つに割るとすべてそうだった。途中から、石突きをそぐ前に割って作業時間を短縮する。

“白あん”は炊き込みご飯にした。厚さ1ミリに満たない革のような外皮のコリコリと、餅のような内部のグニュッがうっすら醤油味のご飯とからまって、口の中ではじけた。阿武隈高地に生まれ育ってよかった――一つひとつの細胞にまで食感が浸透していくような錯覚に襲われた。

2009年7月7日火曜日

ツチグリが庭に


牛小川(夏井川渓谷)の無量庵の庭は広い。庭を目いっぱい使えば、車は10台以上止められる。マイカーはふだん、荷物の出し入れが楽なように玄関のそばに止める。日曜日(7月5日)は朝、阿武隈高地(田村市)の実家を出て、1時間ほどで無量庵に着いた。気温が上昇する気配だったので、車を庭木の下に止めた。緑が屋根になっている。

1週間前に人を頼んで草を刈った。それで庭木の下も車を止めやすくなった。そこは地面があらかたコケに覆われている。歩くとフカフカする。昼前、帰宅しようと車に近づいたら、ツチグリの残骸が目に入った。外皮が星形に裂け、中央の袋から胞子を放出したため、袋がひしゃげている=写真

草を刈ったので地面がじかに見える。たまたまそこに車を止めた。で、遅ればせながらツチグリの発生が分かった。毎年、ツチグリが発生していたかもしれないが、気づかなかった。梅雨キノコは森にある。マメダンゴ(ツチグリの幼菌)は斜面の砂地にある。そう思い込んでいるから、そこにあっても目に入らなかったのだろう。

マメダンゴが埋まっているかもしれない。車を動かして目を凝らす。一歩前に出ると、靴の下でかすかに「プチッ」という音がした。マメダンゴを踏んだために外皮が音を出して裂けたのではないか。

かがみこんで凝視する。コケの間から何か灰色っぽいものがのぞいている。触れるとツルンとして丸い。指を入れたら簡単に採れた。マメダンゴに違いない。食べたことはあっても、採ったことはない。時間がないので、3個ほど採って平の街へ下りた。

マメダンゴは、阿武隈高地では梅雨期が旬の珍味だ。コリコリした外皮の食感と、“白あん”のように軟らかい中身。キヌサヤエンドウとマメダンゴの味噌汁は定番と言ってもいい。

いわき市川前町でかつて、マメダンゴ入りのゆうパックを売り出したことがある。確か、新ジャガとキヌサヤエンドウ・マメダンゴがセットになっていた。一回、取り寄せて食べた。二回目の売り出しはあったか、なかったか。なかったと記憶する。マメダンゴが採れなくて中止になったのかもしれない。

「栃木県民のチチタケ狂い」に拮抗し得るのは、「阿武隈高地民族のマメダンゴ狂い」だろうか。秋のマツタケ・コウタケはさておき、阿武隈高地にはマメダンゴに夢中になる住民が多い。去年は実家で冷凍マメダンゴを使った炊き込みごはんを食べた。

さて、マメダンゴは3個ばかりだから味噌汁にした。が、どうもおさまらない。夜が明けたらマメダンゴ採りに行かなくては――と決めた。つづきは、あした。

2009年7月6日月曜日

葉タバコの花


阿武隈高地の換金作物の一つに葉タバコがある。今ではすっかり厄介者扱いされ、愛煙家も減少傾向をたどっているために、生産農家はひところよりだいぶ減った。それでも水田のかたわら、一段上に葉タバコ畑が展開する光景は昔と変わらない。

田村市常葉町の実家へ帰る道すがら、葉タバコが花期を迎えたのを知る。山あいの道を行くと、葉タバコ畑が目の前に現れる。どこの畑でも背高のっぽの葉タバコの先端につぼみが付いている。1~2輪、花が咲いたものもある。

葉タバコはナス科の植物。ラッパ状の、小さくかれんな花を四方八方に付ける。そう簡単にお目にかかれるものではない。

次の日(7月5日)、田村市船引町経由でいわき市へ戻った。船引にも葉タバコ畑が広がっていた。青空を背景にピンクの花が鮮やかだった=写真

小学5年か6年のとき、夏休みに「タバコはさみ」のアルバイトをしたことがある。畑のそばの乾燥小屋に入って、農家の主が摘んで来た葉タバコを縄に等間隔にはさんでゆく。指はたちまち葉タバコの樹脂で黒くなる。縄一連がいくらにもならない超低賃金だったが、小遣い銭欲しさに我慢して続けたものだ。

冬は冬で、「タバコのし」のアルバイトがあった。それは中学1年生のときだったように思う。夏場に自然乾燥をさせ、しわしわになった棒状の葉タバコを一枚一枚のして、つまり広げて積み重ねてゆく。出荷前、葉タバコ農家はこの作業で大忙しとなる。近所の子どもの手も借りて毎晩、「タバコのし」が繰り広げられた。

葉タバコは茎の部位によって呼び名が異なる。根元から上に向かって下葉・中葉・合葉・本葉・上葉・天葉という。下葉は子どものころ、「土葉」(どは)と言っていたと思うが、記憶違いだろうか。「本葉」(ほんぱ)・「天葉」(てんぱ)という呼び名は今でもはっきりと覚えている。

葉タバコの花は、子どものころには見たことがない。夏休み前に花が摘み取られていたからだ。

葉タバコの花期は7月中旬。2~3輪咲いた時点で花を摘み取り、芯止めをする。そうしないと養分が葉に行き渡らなくなる。7月といっても夏休み前。葉タバコ農家の子どもではないから、葉タバコ畑には縁がなかった。花にはもっと縁がなかった。

いずれ、阿武隈高地から葉タバコ畑が消える日が来るだろう。たばこに関する大きな潮流は「消滅」へと向かっている。葉タバコの花を見ながら、あと何年この花と対面できるだろうと、少し感傷的になった。

2009年7月5日日曜日

白鳥の砂浜


朝晩、散歩する夏井川(平・中神谷)から残留コハクチョウの姿が消えてだいぶたつ。翼をけがして飛べないのが3羽。去年はこれに体力のない幼鳥1羽が加わって4羽になり、今年はその幼鳥が回復して北へ帰ったために、いつもの3羽に戻った。      
       
ところが、その3羽がことごとく泳いでどこかへ去った。「左助」の居所は分かっている。 最古参の「左助」は中神谷から3~4キロ下流の河口にいる。                                
河口はすっかり砂で埋まった。その砂浜の川岸が休み場だ=写真。夏井川流域では一番涼しい海風が吹く場所。熱帯並みの日本の夏を乗り切るためにシベリア生まれの本能が河口を選んだのだろう。

夏井川河口はコアジサシの繁殖地にもなっている。夏場はそれで河口付近への立ち入りが禁じられている。人っ子一人いない砂浜。そこに脚の悪い「左助」が一羽ぽつんとうずくまっている。新舞子海岸のカレー料理店に用があって出かけるとき、道を迂回して、磐城舞子橋の上から姿を確かめては、「頑張れ」という気持ちになる。

残る「左吉」と「左七」は中神谷の上流、新川が合流するあたりの夏井川(平・塩)にいた。そのあと、ぷっつり姿を消した。新川をさかのぼることもあったから、そちらへ入り込んだのか。あとで二度ほど新川の堤防沿いを車で流したが、ヨシに遮られて2羽を確認することはできなかった。

ならば、毎朝白鳥にえづけをしているMさんに聞くしかない。先週末の早朝5時半過ぎ、自転車で夏井川の河口へ向かった。6時のサイレンが鳴り響くころには河口に着いたが、Mさんの姿はなかった。空振りである。Mさんはとにかく朝が早い。この時期、えづけの時間が6時以降になることはあり得ない。5時過ぎにはえさをやって帰ったのではないか。

いくらなんでも5時前に起き出してMさんから情報を取ろうとは思わない。いつかひょっこり2羽が夏井川のいつもの場所に姿を現すのではないか――時折、砂浜にいる「左助」の様子を見に行ったついでに、残る2羽についてもそんなことを思い巡らせる。

2009年7月4日土曜日

庭がスッキリ


梅雨も半ばに入ると、野道は繁茂した草で狭くなる。この時期、川の堤防や田んぼのあぜ道で草刈り機を動かしている人をよく見かける。県道や国道も草刈りが欠かせない。湿潤な日本の夏は草刈りの夏でもある。

夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵は、庭だけは広い。二段になっている。週末のみの“半住民”だから、庭の手入れは行き届かない。梅雨には決まって足元が見えなくなるほど草に覆われる。そろそろ知り合いに頼んで草を刈らなくては――。

一日かけて草を刈ってもらったら、見違えるほど庭がスッキリした=写真。堤防上の道でも経験することだが、草が両側から迫るとうっとうしい。車も運転しにくい。それと同じで、草の茂った庭は歩きづらい。蛇がひそんでいないかと不安にもなる。その草がきれいに刈り払われたときの爽快感がたまらない。

猫の額ほどの菜園がある。草に埋もれてどれが野菜か草か分からないほどだったのが、きれいに刈り払われて庭と菜園の区別がつくようになった。虫のすみかが減った分、野菜の葉や実の食害も減るだろう。草刈りが済むとしばらくは精神衛生にいい状態が続く。

あとは夏井川渓谷の上流、川前町に住む畜産農家に連絡すれば、刈り草を残さず持って行ってくれる。農薬などはかかっていないので牛のえさには最適なのだという。

爽快感に浸っていると、人間の頭の草刈りもしなくては――そんな気持ちになった。年に二度、阿武隈高地の実家(理髪店)に帰って兄貴に散髪をしてもらうのが、ここ四半世紀の習いになった。きょう(7月4日)の午後にでも出かけてみようと思う。

2009年7月3日金曜日

塩さんのキュウリ


いわき市平北白土の篤農家塩脩一さんは、キュウリやトマト、ネギを栽培している。それが本業。市民の目を楽しませるハナショウブは、いわば水稲の減反政策の産物だ。見ごろは終わった。

6月中旬にハナショウブのことを書いたら、塩家とつながる匿名さんからコメントをいただいた。ハナショウブとネギにまつわるエピソードが面白かった。

きょう(7月3日)は、その連想で塩さんのキュウリの話をしたい。ハナショウブを見に行った日、直売もするというので、キュウリとトマトを買った。トマトは甘い。キュウリも糠漬けにしたら、すぐ漬かった。

塩さんがこだわるキュウリ観がある。ブルームであること。そのために毎年、百何十本という苗をメーカーに特注する。

ブルームとは実から自然に出てくる、白い粉のようなロウのことをいうらしい。これを消費者は農薬と誤解して敬遠する。で、今やキュウリのほとんどがブルームレスになった。塩さんはその風潮にめげず、ブルームキュウリを作り続ける。そちらの方がおいしいからだ。

ネギも同じ。今は見た目がテカテカして太く、白く、まっすぐなネギを消費者が求める。味は? 甘みが少なく、硬め。塩さんはそうしたネギを市場が求めるようになって、ネギの出荷をやめた。自家採種で昔からのネギを栽培している。

トマトとネギに共通しているのは何か。甘く、軟らかく、香りがあること。塩さんはおそらくこの三つを野菜栽培の基本にしている。皮の薄いブルームキュウリにこだわるのも、そのためだろう。「外見より中身」は、見た目で決める消費者には通用しない。しかし、それが本質なのだ――と、私はつい声高になる。

ハナショウブを見に行った6月中旬からこれまで、二度ほど塩さんのキュウリやトマトをまとめ買いした=写真。半分は子どもや知り合いに配るためだ。が、なによりかによりキュウリの軟らかさに引かれる。ブルームキュウリはそこが特徴なのだろう。

私が夏井川渓谷の無量庵で栽培しているキュウリは、皮が鎧のように厚い。パリパリとした食感を楽しむ古漬け用だ。糠漬けには塩さんのキュウリが向いている。

キュウリにもいろいろ種類がある。ネギもそう。その特徴に合わせてつくる、いや食べ分ける。塩さんを通して学んだことの一つだ。

2009年7月2日木曜日

「個」のある図書館


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」に入居しているいわき総合図書館が、6月15日から26日までの特別図書整理期間(休館)を終えて、13日ぶりに再開した。再開初日の土曜日(6月27日)と翌日曜日は用事があって行けなかった。29日は月末の月曜日、つまり月一回の休館日だ。

おととい(6月30日)、開館の午前10時に間に合うよう家を出た。返す本が10冊前後ある。借りる本もそのくらいある。小一時間かけて個人が借りられる15冊ギリギリの数を借りた。その間、寄せる波のごとく人が増えるのが分かった。「ラトブ」の地下駐車場から出るとすでに駐車場は満車状態、「ラトブ」に入る車が数珠つなぎになっていた。

「ラトブ」ができる4、5年前、私も参加して「いわき市総合型図書館整備に関する提言」を、当時の市長に提出した。きのう(7月1日)、整備検討懇談会の提言書を読み直した。「基本理念」のなかに〈「個」のある図書館、「輪」をつくる図書館〉というフレーズがあって、次のような文言が添えられていた。

「思い思いに過ごす『自分の椅子』のある図書館。ここは、人と人、人と情報とが出会う交差点。この新たな図書館が、いわきの文化をはぐくみ、人々の暮らしの質を高め、街のにぎわいをつくる」

総合図書館が平成19年10月25日、「ラトブ」のオープンと同時に、その中核施設として開館した。奇しくも同じ日に私はフリーになった。すぐさま図書館通いが始まった。以来、仕事に、趣味に「自分の椅子」を利用している。といって、何時間もいるわけではない。空想の「マイチェア」がいつもそこにある――そう思わせる規模、環境、空間ができた。

その延長線上で「ラトブウオッチャー」を自称する。今年に入って「ハハン」と思ったことが3つある。

一般の駐車場は1階の半分と地下1、2階にある。地下駐車場に関して言えば、今年、自分がどこに車を止めたか分かるように、動物(B1)と果物(B2)=写真=のイラストが柱に張られた。自分の車をどこに止めたか分からなくなることがよくある。利用者の迷いを減らすビジュアル作戦だ。

4月中旬にはCO2削減を理由に、B2が夜間、消灯されるようになった。それと合わせるように駐車場の照明が間引きされた。暗くなった。このご時世、少しでも知恵をはたらかせて節約をしなければならない、というのは当然のことだ。

3つ目は銀座通り側の喫煙所。オープン当初は地下駐車場への出入り口のそばにあった。非喫煙者はそのために息をつめて煙の中を行き来するしかなかった。それが時計塔の設置に合わせて移動した。たばこの煙から解放されたことを、一ウオッチャーとして喜びたい。

「ラトブ」は街のなかの「街」であり、「知の森」であり、仕事に必要な「もう一つの椅子」である――少なくとも私にはそんな存在だ。今日も「知の森」に分け入るつもりでいる。

2009年7月1日水曜日

「三病准息災」と「晴耕工雨読」


恩師がこの春、瑞宝小綬章を受章した。かつての級友が電話で連絡を取り合い、都合のつく人間だけが集まって、土曜日(6月27日)、いわきで祝う会を開いた。実行委員会のようなものをつくり、往復はがきで出欠を確認する、となると時間ばかりかかる。ここは一気呵成に事を運ぶことにした。

首都圏に住む一人が仲間への連絡役となり、欠席者には祝電を打つように頼んだ。地元の私は2次会を含む会場と宿泊先の確保、司会、その他を引き受けた。他クラスの人間や後輩なども「一本釣り」にした。

恩師は福島高専の名誉教授で、来年、傘寿(80歳)を迎える。機械工学科3期生の担任となり、学生を世に送り出してから既に40年が過ぎた。私は中退し、機械工学とは無縁の世界でメシを食った。が、おつきあいは逆に、社会人になってから深まった。

結婚して最初に住んだ老朽市営住宅の斜め前に恩師の官舎があった。一人の職業人として接してくれた。とはいえ、恩師であることに変わりはない。どこかで絶えず緊張しながら暮らした。

それはさておき、ご夫妻を囲む祝う会での謝辞=写真=で初めて恩師の近況を知った。「ならぬものはならぬ」精神をたたきこまれた“会津っぽ”なのは先刻承知だが、およそ10年前に体に変調をきたし、以来、病気と共生しているのだという。

四字熟語の「無病息災」に引っかけて、五字熟語で自分の体を表した。「三病准息災」。三病は脳こうそく・肺がん・心臓病。食事療法を主に闘病を続けてきた結果、毎晩ではないが好きな清酒を楽しめるまでに回復した。息災とは言い切れないものの、それに近い状態ということだろう。

もうひとつの五字熟語として「晴耕工雨読」を挙げた。家庭菜園だけでなく、日曜大工も好き。「晴耕雨読」に「工」を加えた。そして「読」は、戦争体験者なので主として昭和史関係の本を読んでいるという。

自然科学であれ、社会、人文科学であれ、なにか新しいモノ・コトを分析し、構想するには正確なデータが必要になる。この五字熟語に、自分の体調を、生活を客観的に把握しようという研究者の緻密さを感じた。四字熟語でお茶を濁さない、という“会津っぽ”の頑固さも。

お返しの記念品に添えられた礼状にこうあった。「旧師の栄誉への賀意、この馨しくも優しい心根、大変ありがたく感謝にたえません。まさに教師冥利に尽きる念(おも)いです」。 傘寿を囲むアラ還の胸の中を温かい風が吹き抜けた。