2021年4月30日金曜日

再び石森山へ

           
 薬をもらいに行くと、「しばらくチェックしてないので」と血を採られた。その場で血糖値が出た。「200になると糖尿病」とドクターがいう。そこまではいかないが、前(正常値)よりは高い。「油ものは週2回くらいにすること」「散歩は?」「15分くらいなら」

 老化は足から始まる。しばらく散歩を休んでいるので、ちょっと歩いただけでも乳酸がたまって足の筋肉が悲鳴をあげる。学生時代に陸上競技をやっていた。マイル(1600メートル)リレーに出場すると、酸欠で肛門あたりが痛くて立っていられなくなる。その経験から推して、酸欠の初期症状のようなものだろう。

 まず、食べ物。油を使った料理を、たとえば煮物に切り替える。肉と野菜の炒め物は、肉はしゃぶしゃぶ風に、野菜はゆでて――。それはそれでさっぱりして、うまい。

 ドクターは「昔食べていたもの」、つまり、和食に戻れ、という。昭和23(1948)年生まれには、「和食」の記憶は惨憺たるものだ。でも、それをベースにすれば、血糖値は確実に下がる。

焼酎も今年(2021年)になって糖質・プリン体ゼロの「れんと」に替えた。さらに今は経済的な理由から、コンビニで売っているプレミアム焼酎(やはり糖質・プリン体ゼロ)にしている。

 あとは15分の散歩をどこでするか、だ。前のように夏井川の堤防に出ると歩きすぎる。近所をぶらっと、もいいが、ここは森を巡ろう――というわけで、わが家から車で10分ほどの石森山へ行く回数が増えた。

 夏井川渓谷の隠居へ通い始めたのは40代後半。それまでは石森山がフィールドだった。土・日はもちろん、昼休みにも弁当を買って出かけた。年に200日ほど、林内の遊歩道を歩いたこともある。そうして野鳥・野草・キノコの名前を覚えた。

 山頂近くに、道路をはさんで寺と市フラワーセンターがある。住職とは職場が一緒だった。寺へ用があって出かけたついでに、周辺の遊歩道に入った。昔のように延々と巡ることはしない。入り口から30~50メートル進んで戻るだけ。そんな短い距離でも目と耳が喜ぶ。

 初回はエンレイソウの小さな3枚の葉が出迎えてくれた。さらに行くと、ユリワサビとヤマブキ、ヤマエンゴサクらしい花。別の日はチゴユリ、タネツケバナ。そして、広々とした斜面にはアマドコロやマムシグサが。コナラの根元から長い“釣り糸”を伸ばしているのはウラシマソウか=写真。だとしたら、久しぶりの対面だ。

 夏井川渓谷の林床に生える春の野草といえばイワウチワだが、渓谷の森はキノコを採っても線量が高くて食べられない。もう何年も森を巡ることはしていない。

 となれば、自宅に近い石森山の遊歩道を、散歩を兼ねてぶらぶらと――が手っ取り早い。里山の野草は健在だったが、最初は名前を思い出すまでに時間がかかった。

「散歩するのになんで石森山へ行くの」といわれる。「石森山に行ってから遊歩道を散歩する」と答える。行ってすぐ戻るだけの、わずか15分の散歩だが、野草の知識のおさらいにはなる。夏鳥のサンコウチョウやキビタキのさえずりはまだ。ウグイスのほかは、ガビチョウがやかましく鳴いている。

2021年4月29日木曜日

やっぱり、きたか

                           
   新型コロナウイルスによる感染症がいわき市内でも急増している。市はこのため、4月24日から5月16日までを「感染拡大防止一斉行動」期間として、市民に不要不急の外出自粛などを呼びかけた。

市もまた、公民館と美術館、草野心平記念文学館などの臨時休館と、大型連休中に予定されていた市主催行事の中止などを決めた。

いわき地域学會は5月15日、市文化センターで今年度最初の市民講座を予定していた。会員にはすでに案内のはがきを出している。

市の「一斉行動」実施に伴って、考古資料館や勿来関文学歴史館がツイッターなどで、4月29日~5月16日の臨時休館を発表した。図書館からもメールで臨時休館の連絡が入った。となると、ほかの公共施設も……。去年(2020年)のこの時期、やはり公民館などが一斉に休館している。

おととい(4月27日)の夕刊に臨時休館の詳細が載った=写真上1。同じ日、夕刊が届く前に旧知の文化センター館長さんから電話がかかってきた。臨時休館の連絡だった。やっぱり、きたか。

実は市民講座の案内はがきを出すとき、事務局の仲間と先行きどうなるかわからない、という話になった。3密を避けるには、案内はがきを持参した会員、それも先着40人で締め切る「閉じた講座」にするしかない。だから、メディアには告知のためのはがきを出さなかった。状況はしかし、どうなるかわからない、どころではない。会場そのものが閉鎖された。

6月の市民講座については、講師は未定だが同じ会場を確保している。そのころには公共施設の利用が再開さているはずだから、初回の講座をそのまま1カ月延期することにして、関係者に連絡して了解を取った。近く「感染拡大防止一斉行動に伴う開催延期」の案内はがきを出す。

個人的には、図書館の臨時休館が痛い。おととい、急いで総合図書館に行って、休館中の読み物として文学と地球環境・地質学を結び付けたエッセー集2冊を借りた=写真上2。大型連休中は北欧やアメリカなど、世界を旅する気分でこれらの本を読む。カミサンもきのう、駆け込みで本を借りた。

日曜日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、それ以外は巣ごもり(ホームステイ)を続け、合間に石森山へ散歩に行く。

そうそう、勿来文歴の企画展「野口雨情~童謡詩人といわき~」は、開館初日に見に行った。臨時休館から再開まで3週間近くある。休館中に図録を読んでいろいろ勉強してから、また見に行くことにしよう

これも、そうそう、だ。75歳以上にはワクチン接種の案内がきている。数に限りがある。きのう(4月18日)、かかりつけの医院へ薬をもらいに行ったら、そこでも接種が受けられる。まずはコールセンターに連絡して、ということだった。ここなら近所なので、カミサンも歩いて行ける。

2021年4月28日水曜日

買い出しドライブ・下

        
 きのう(4月27日)の続き――田村郡小野町で磐越東線ギャラリーを見学し、渡久製菓で「ぬれ花まめ」などを買い、レストラン志木でハンバーグ定食を食べたあと、次の目的地・石川郡古殿町の道の駅ふるどの「おふくろの駅」を目指して国道349号を南下した。

国道349号は、浜通りの人間には縁がない。水戸市から宮城県柴田町まで、福島県内では阿武隈高地の西側、つまり中通りの山里を南北に貫く。いわき市では北西端の三和町上三坂地内をかすめて国道49号と交差する。

先週の日曜日(4月18日)、上三坂から平田村小平(おだいら)へ行くのに、この道を利用した。今度は小野町から上三坂を通り、小平へ折れずにまっすぐ南へ進む。

小野町といわき市の境あたりから路面が濡れていた。日曜日(4月25日)だったので、夕方、いつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行くと、「雷がすごかったですね」という。「雷?」。国道349号の路面が濡れていたのは、この雷雨が通り過ぎたためだったのか。

小平への交差点から先、古殿へ直進するルートはたぶん初めてだ。平田村から古殿町の境の峠まではなだらかなアップダウンが続く。同じ阿武隈の山里で育ったから、丘と水田だけの風景にも違和感はない。峠を越えると、ずっと下り坂だった。

鮫川に沿って形成された古殿の一筋町を貫くのは主要地方道(県道)いわき石川線、通称・御斉所街道。これと直角にまじわったあとは、しばらく国・県道が重複する。

町はずれに突如、スーパー(右側)と「おふくろの駅」(左側)=写真上1=が現れた。ときどき出かける道の駅よつくら港や同駅ひらたよりは規模が小さい。それでも、けっこう込んでいる。刺し身こんにゃくとシドケ(モミジガサ)、コゴミ(クサソテツ)などを買った。

古殿はいわき市の南部で太平洋に注ぐ鮫川の上流域だ。いわき民報で、いわき地域学會の仲間の協力を得て、週1回1年間、「鮫川流域紀行」を連載したことがある。そのとき一、二度、写真を撮りにカメラマンと古殿町や源流部の鮫川村を訪れた。「山学校」で古殿町の鎌倉岳(標高669メートル)にも登った。私のふるさとの田村市常葉町にも同じ名前の山がある。こちらの鎌倉岳は標高が967メートル。どちらも山頂の岩が天を衝いている。

道の駅で買い物をすませたら、あとは鮫川に沿って御斉所街道を下るだけ。10年前の東日本大震災からちょうど1カ月後、田人地区で直下型の地震がおきた。震度は3・11と同じ6弱。街道沿いの小集落などで山崩れが発生し、車で通行中の1人を含む4人が亡くなった。

いわき地域学會は大震災から1年半後に市内の被災地を巡検した。ハマの前に、ヤマの田人・石住地区で進められている防災工事現場を見た。崩落の規模の大きさに息をのんだ。御斉所街道を通るのはそれ以来だ。

古殿からいわきに入る。田人~遠野間では道路の大改造中だった。同街道はV字谷で、落石の危険個所が点在している。過去10年間だけでも3回、長期にわたって通行止めになったそうだ。

主に右岸に橋を架け、左岸にトンネルを掘って安定輸送ができるようなバイパス工事が進められていた=写真上2。

おととし、大水害を経験した夏井川では下流域で河川敷の土砂除去が行われている。鮫川では震災からの復興工事が続く。家にいて、ネットで情報を集めるだけでは現実との乖離(かいり)がおきる。やはり、ときどきは現場を見て、記憶を更新しないといけない。

2021年4月27日火曜日

買い出しドライブ・上

        
 日曜日(4月25日)――。夏井川渓谷の隠居で1時間ほど土いじりをした。昼食は上流の田村郡小野町でとることに決めていた。その前に、JR磐越東線小野新町駅近くの東方文化堂(磐越東線ギャラリー)へ寄る。そのあと、町なかの渡久製菓へも行く。カミサンが「甘いもの」を買いたい、という。

 10時半には隠居を出た。薄曇りのなか、川前町を過ぎて小野町夏井地区に入ると、1週間前にはまだ花をまとっていた「夏井千本桜」がすっかり葉桜になっていた。標高420メートルほどの高原にも春がやってきた。といっても、まだ山はほほえみ始めたばかりだ。

 東方文化堂へは11時ごろに着いた。中に入るとすぐ、磐越東線ギャラリーがある=写真。オーナーの渡辺伸二さんが対応してくれた。

磐東線の開通を告げる新聞記事や史料、駅名看板、写真などがびっしり飾られている。ひととおり渡辺さんの解説を受けたあと、平成19(2007)年に渡辺さんが出版した『磐越東線ものがたり 全通90年史』の話になる。「この本には世話になった」というと、渡辺さんの口調がさらに滑らかになった。

前に書いたことをざっと紹介する。いわき市小川町出身の詩人草野心平に「故郷の入口」という題の詩がある。昭和17(1942)年10月、心平は中国・南京から一時帰省する。詩の冒頭4行。「たうとう磐城平に着いた。/いままで見なかったガソリンカーが待ってゐる。/四年前まではなかったガソリンカーだ。/小川郷行ガソリンカーだ。」

 磐越東線をガソリンカーが走ったのはいつか。渡辺さんの本に当たって確かめた。「このガソリン動車、磐越東線では昭和11年(1936)4月15日から平・小川郷間を走っていた」、太平洋戦争末期の「昭和20年(1945)6月のダイヤ改正時には姿を消している」。心平のいう同17年の4年前ではなく、6年前には運行が開始されていた。

 それで心平の詩の価値が下がるわけではない。詩は詩。でも、作品とは別に実証研究はちゃんとしておく必要がある。

 ギャラリーの奥、かつては居間だった最初のスペースは「ミニ企画室」、さらにその奥は「ミニ図書室」だ。

ミニ企画室では同じJR水郡線駅舎の鉛筆画展が開かれていた。たまたま日曜日でやって来たのか、作者の画家佐々木麻里さん(石川町)が解説をしてくれた。水郡線を利用したことはない。が、福島県中通りを南北に走って郡山と水戸を結ぶ。2019年秋の台風19号では鉄橋が落下した。全線の運転が再開されたのは今年(2021年)3月27日だった。

図書室に『写真が語るいわき市の100年』(いき出版、2019年)があった。私が責任者になって、知人やいわき地域学會のメンバーとともにつくった。そのことを伝えると、名刺交換を、となって、さらに話がはずんだ。

次は、渡久製菓へ――。渡辺さんは、品物が売り切れてないときがある、という。すぐ電話で確かめてくれた。前は目抜き通りの柏屋にあったが、そこは、今はない。工場兼店舗がある地図をコピーし、道順を教えてくれた。「ぬれ花まめ」のほかに、「こわれ花まめ」がある。カミサンは、味は同じ「こわれ」の方が安いので、それを欲しがっている。しかし、そう簡単には「こわれ」は出ないのだろう。数は少なかった。

 友人・知人に配るため、けっこうな数を買い込んだ。そのあと、郊外のレストラン志木でハンバーグ定食を食べ、次の目的地・古殿町の道の駅へと国道349号を南下した。

2021年4月26日月曜日

私のシロヤシオ

        
 前の日曜日(4月18日)は平田村に用があったので、国道49号から時計回りに阿武隈高地を横断して夏井川渓谷の隠居へ行った。1週間後、今度は逆回りで小野町から古殿町の道の駅へ出かけた。2週連続のマイクロツーリズム(山里巡り)だ。

 きのう(4月25日)朝、山里巡りの前に隠居で土いじりをした。合間に、撮影しておきたいものがあった。シロヤシオ(ゴヨウツツジ=方言名マツハダドウダン)だ。

 1週間前、早々と新緑に包まれた隠居の対岸に白い点々があった。写真に撮って拡大すると、シロヤシオだった。しかし、ブログにアップするほどの鮮明さと迫力はない。1週間後には白い花がはっきりするはず。そう踏んで待った。

 日曜日のたびに渓谷の道路を行ったり来たりしている。そうして見つけたシロヤシオの撮影ポイントがある。道端のカエデなどにさえぎられているので、車からは見えない。歩いていてもそれとは気づかない。枝葉が対岸の谷に垂れ下がっている。その「マイ・シロヤシオ」が満開だった=写真上1。

 このツツジに気づいたのは震災後。一本の木の花の数としては溪谷随一ではないかと思っている。

 渓谷ではまず、アカヤシオがほかの花に先駆けて咲く。それからおもむろに落葉樹が木の芽を吹く。やがて若葉が黄緑・緑・茶色などのパステルカラーに染まる。と、シロヤシオが点々と花を咲かせる。春のアカヤシオの「艶麗」のあとに、初夏のシロヤシオの「気品」がくる。

このシロヤシオはしかし、毎年花をつけるというわけではない。全山白い点描画になる年もあれば、まったく花が目立たない年もある。

例年だと、ゴールデンウイークに入ってから開花する。5月の花と言ってもよい。ところが、年々開花を早めているようだ。今年(2021年)は4月中旬に開花を確認した。私が渓谷に通い始めてからでは最速だ。

 私のシロヤシオは、県道からの眺めが年々悪くなっている。写真を撮るとなると、ガードレールをまたいで急斜面を少し下りないといけない。若いときは谷底までひょいひょい行けたが、加齢とともにそれができなくなった。結局、木の間越しにパシャリとやるしかない。それでも、白いドレスを着たような気品にしばし圧倒された。

 これは、蛇足――。フジだって初夏の花のはずだが、いわきの平地ではすでに満開だ。夏井川渓谷の入り口、小川・高崎の崖に下がっているフジもみごとな“花すだれ”をつくっていた=写真上2。

ジは木をからめ殺す。そのために人は山に入るとフジのつるを切った。その花が多くなったのは、人が山の手入れをしなくなったため――と、かつて聞いたことがある。

別の例では、こんなのもある。「カネは内藤、下がり藤」。江戸時代の前期、磐城平藩を治めた内藤氏の家紋が「下がり藤」だった。幕末、磐城平領を統治したのは「上がり藤」の安藤氏。現実のフジの花は、「下がり藤」ばかりだ。隠居で土いじりをしたあと、小野町へ駆け上がったが、フジの花前線は渓谷の江田駅前止まりだった。

2021年4月25日日曜日

野口雨情展へ

        
 いわき市勿来関文学歴史館で、企画展「野口雨情童謡詩人といわき~」が始まった。7月4日まで。初日のきのう(4月24日)朝、見に行った。旧知の館長氏が説明してくれた。

 ちょっと前、企画展に触れながら、ブログにこんなことを書いた。「雨情といわき」の起点はいわき市錦町の滝川家。錦の滝川家に関して、雨情研究家の故里見庫男さん(常磐)は自著『地域の時代へ』所収「よいよい横町――野口雨情」のなかで、雨情の「祖母の実家」と記し、長久保片雲著『野口雨情の生涯』には「雨情の伯母の嫁ぎ先」とある。どっちなのか、私の頭のなかでは混乱している――。

結論からいうと、滝川家は「雨情の伯母の嫁ぎ先」だった。では、どこから「祖母の実家」説が出てきたのか。もしかしたら、「祖母の実家」が錦と同じ泉藩内にあって、里見さんはそれと混同したのではないか。そんな推測が新たに生まれた。

その根拠が、屋号で呼ばれる泉の旧家(吉田家)の知人からフェイスブックに寄せられたコメントだ。幕末、吉田家から野口家へ嫁いだ女性がいる。それがどうやら雨情の「祖母」らしい。(その後の知人の調査で「祖母」ではなく「曾祖母」と判明)

泉にはさらに雨情とつながる旧家(上遠野家)がある。やはり知人の家で、雨情の長男雅夫に嫁いだ女性がいる。企画展では初孫誕生を祝って書いた雨情直筆の書「こもりうた」や、同じ内容の童謡原稿「野のうた(子守唄)」などが紹介されている。

 以下は、「雨情といわき」展のチラシを見て、先のブログに書いたことだ。雨情は離婚後の大正6(1917)年、石城郡錦村の従兄・滝川淑人の紹介で湯本村(現いわき市常磐湯本町)の入山採炭事務所に勤める。その後、幼い子ども2人と湯本で暮らし、水戸での再婚生活を経て上京したあと、童謡詩人として大成する。

 滝川家については、いわき地域学會の先輩に聞いてわかった。淑人は旧泉藩医・滝川済(わたる)の三男。済は戊辰戦争時、江戸を脱出した輪王寺宮が平潟に上陸し、泉、平を経て中通りへ向かう際、「拝診役」として随行した。廃藩後は大倉村(現いわき市錦町)で開業した。

野口家と滝川家の関係については、図録=写真=では年譜にあるだけ。勿来文歴で補足的に調べてくれたようだ。おかげで上記のようなことがわかって、頭のなかがかなりすっきりした。

 雨情は最初、滝川家から湯本に通勤した。ならば――。帰りは雨情の汽車通勤(植田駅~湯本駅)と職場(入山採炭事務所=たぶん第四坑)、住み暮らした湯本の芸者置屋などを頭において、旧国道6号を北上した。旧国道は常磐線に沿うように南北にのびる。ざっと100年前、雨情もまたこの丘陵の緑を眺めながら湯本へ通い、やがては温泉街の一角に住みついたのだと思うと、なにか親近感がわいてきた。

と同時に、こんなことも思った。久しぶりにいわきの南部・鮫川流域に足を運んだ。私が住み暮らす北部の夏井川流域と違って、中間の藤原川流域(小名浜・泉)を過ぎると、いつも「みちのく」ではない「関東」の空の明るさを感じる。なぜそうなのかは、自分でもわからない。平は山並みが屏風のように迫っている。泉、植田に入るとそれがぐっと遠ざかる。

 いずれまた(今度はカミサン同伴で)、同展を見に行くつもりだ。行くたびに「雨情といわき」の関係が明確になるはずだから。

2021年4月24日土曜日

根室が舞台の少年小説

                          
 いわきとの縁が深い作家、故真尾悦子さん(1919~2013年)から、生前、よく自著の恵贈にあずかった。『オレンジいろのふね』(金の星社、1986年第2刷)=写真=も、そうしてちょうだいした。

小2の「たかし」が主人公の、北海道・根室を舞台にした少年小説だ。父親は漁船の乗組員。太平洋のど真ん中へ漁に出て何十日も帰らない。その船が魚を積んで日曜日未明に帰港する。市場は休みだ。小説では、父親との再会、朝の豪勢な食卓、翌日の荷揚げと市場への運搬までが克明に描かれる。

「あとがき」に真尾さんが書いている。「3、4年前から、私は、たびたび北海道の漁村をたずねていました」。自著の『海恋い――海難漁民と女たち』(筑摩書房、1984年)の取材時期と重なる。

「2月の夜でした。シバレる(とても寒い)野外で、子どもたちが、先生といっしょにスケートをしていました。たのしそうでした。みんなの眼が、いきいきと輝いているのに、びっくりしました」「どの子も、おうちの手つだいをします。岸壁でリヤカーもひきます。やっぱり、きらきらと眼を輝かせているのです」。『海恋い』取材の過程で元気な子どもたちに引かれ、作品を着想したのだろう。

 枕元に何冊か積み重ねておいたなかに『オレンジいろのふね』があった。睡眠薬代わりに、とっかえひっかえ読む。読み始めるとすぐ睡魔が降りる。それこそ半年、いやそれ以上、枕元に置いたままだった。

何冊か取り替えたときに、真尾さんの作品だったことを思い出して、日中、一気に読み終えた。

度重なる北海道行については『海恋い』の「あとがき」に詳しい。漁村の女性の日常を知りたくて、いわきの浜で取材を重ねているうちに、「同じ船で夫を亡くした人、ふたりと知り合い」になる。

「北海道花咲沖で遭難した大型漁船が、船ごと、乗組員26人行方不明のまま、6年経っていた。しかし、未亡人たちはいまでも夫の死を信じてはいない」。その後、真尾さんは「見えない糸に引っぱられて花咲港へ通い」続け、『海恋い』を仕上げる。

 知り合った未亡人2人のうちの1人が、のちに職場を共にする後輩の母親だった。彼女も母親とともに真尾さんと交流があった。

 海難事故は昭和47(1972)年3月31日早朝、北海道の花咲沖で起きた。いわき民報は同日付で第一報を打ち、翌4月1日付で詳報を伝え、以後、同14日の合同慰霊祭まで関連報道を続けた。遭難したのは小名浜漁協所属の遠洋底引漁船で、乗組員26人の多くは山形県人、いわき在住者は4人だった。後輩の父親は当時38歳の機関長。後輩はまだ10歳にも満たない小学生だったか。

 その後輩から先日、電話がかかってきた。「根室新聞が3月31日で休刊になりました。友達が働いていました」

 根室新聞は創刊が昭和22(1947)年1月。いわき民報よりおよそ1年後発だが、同じ地域紙として70有余年の歴史を持つ。北海道新聞などによると、「記者人材の確保が困難になった」ことと、「地域の人口減、コロナ禍による広告収入減」が休刊の引き金になった。

このところ、ずっと北海道東端の歯舞(はぼまい)や花咲、根室市のことが頭をかけめぐっていた。根室新聞は事実上の廃刊らしい。

活字メディアは厳しい環境にある。頑張っている全国の地域紙に、ささやかながらエールを送る。

2021年4月23日金曜日

ふくしまSHOW・小野町編

                           
 テレビユー福島の「ふくしまSHOW」は欠かさず見る。水曜日夜7時からの福島ローカルで、県内の各自治体を訪ねて「注目ランキング」10を紹介している。おととい(4月21日)は田村郡の小野町だった。

「小野小町(おののこまち)」「小泉さんと丘さん」「仙台屋食堂」「リカちゃんキャッスル」「夏井千本桜」は、見たり、聞いたり、行ったりしているので一発でわかった。

 小野町には小野小町伝説がある。夏井千本桜は、先の日曜日(4月18日)、マイクロツーリズム(山里巡り)の帰りに橋の上から眺めた。

「小泉さん」は醸造・発酵学者の小泉武夫さん、「丘さん」は作詞家の故丘灯至夫さん。ともに同町出身だ。

丘さんは、「高校三年生」や「東京のバスガール」のほかに、古関裕而作曲の「高原列車は行く」などを作詞した。町内の生家(西田屋本店)の前に「丘灯至夫生誕の地」の碑が立ち、小野町ふるさと文化の館には「丘灯至夫記念館」が開設されている。

「キャンプ場」は2カ所が紹介されたが、全く知らなかった。「磐越東線ギャラリー」は新聞で知り、「アイスバーガー」はほかのテレビ局でも取り上げていたので、なんとなく頭には入っていた。

 同ギャラリー(東方文化堂)のオーナーは渡辺伸二さん。鉄道マニアで、同町にUターンし、自宅兼店舗にギャラリーを開設した。渡辺さんは平成19(2007)年、『磐越東線ものがたり 全通90年史』を出版している。この本には世話になった。

草野心平の詩に「故郷の入口」がある。昭和17(1942)年10月、心平は中国・南京から一時帰省する。詩の冒頭4行。「たうとう磐城平に着いた。/いままで見なかったガソリンカーが待ってゐる。/四年前まではなかったガソリンカーだ。/小川郷行ガソリンカーだ。」

 磐越東線をガソリンカーが走ったのはいつか。作品とは別に、史実を確かめたくて渡辺さんの本に当たった。

「このガソリン動車、磐越東線では昭和11年(1936)4月15日から平・小川郷間を走っていた」。太平洋戦争末期の「昭和20年(1945)6月のダイヤ改正時には姿を消している」。心平のいう同17年の4年前ではなく、6年前には運行が開始されていた。

確認が必要なのは次のような事情による。既成の心平年譜は「基本的に心平の自筆と口述に基づき、若干の資料に当って作成されたものである。間違い、勘違いの類は壮大多数、実証的研究には役立たない部分が多い」草野心平研究2003・11 5」)。ならば、詩にも間違い・勘違いが入っている。注釈が必要になる。

「こだわりのレストラン」のひとつはイタリア料理店の「チルコロ・イル・ピッコロ・カンポ」。ピッコロ・カンポは小さな野原、つまり小野の意。何年か前、昼に入店して、おすすめのマルゲリータ(ピザ)を、カミさんはパスタを食べた。

「渡久製菓」にはカミサン好みの商品がある。平田村から小野町を巡った日曜日、道の駅ひらたで同製菓の「ぬれ花まめ」を買った=写真。人気商品らしい。前にも小野町でこの商品を買ったことがある。

 夏井川渓谷の隠居から上流の小野町、山の陰の三和町は、車で30分圏内だ。ときどき、どちらにもある直売所を訪ねたり、昼ご飯を食べに行ったりする。

今度は東方文化堂だ。JR磐越東線小野新町駅近く、踏切を渡る前に道が直角に曲がる。その急カーブにある。日曜日、カミサンが助手席から看板を見て記憶していた。

2021年4月22日木曜日

身欠きニシンの話

                      
 いつもの魚屋さんにカツオの刺し身を買いに行ったら、身欠きニシンがあった。軟らかいという。

 そこから、食の好みは地域によって異なる、という話になった。「須賀川の人が買いに来て、『身欠きニシンは硬くなくちゃ』といっていた」。若だんながトンデモナイといった口調でいう。裏を返せば、いわきでは軟らかい身欠きニシンが好まれる、ということらしい。身欠きニシンは硬いもの――それが当たり前の食文化のなかで育った私には驚きだった。

 いわきの食文化の特徴をおさらいする。身欠きニシンに対する認識の違いはそこからきているように思われるので。

いわきの歴史・民俗に精通していた故佐藤孝徳さん(江名)によると、いわきの食文化の一大特徴は、ハマの料理が多彩で豪華なことだ。農山村は、といえば、よごし類・てんぷらなど全国共通のものが多い。

そのハマの料理はしかし、沿岸部に限られる。わずか数キロ内陸に入ると、もうハマとは無縁の食文化になる。

いわきの食文化といっても一つではない。身欠きニシンについても、ハマ・マチ・ヤマの視点で考えるとわかりやすい。

 山間部は中通りと食習慣がそう変わらないだろう。つまり、硬い身欠きニシン派。としたら、軟らかい身欠きニシン派は平野部(市街地)と沿岸部、ということになる。

しかし、元は船主の奥方だった女性は「身欠きニシンは食べたことがない」という。「いつも生の魚があったから、保存食(身欠きニシン)を食べる必要がなかった」。マチに住む人間には、身欠きニシンを食べない理由が衝撃的だった。

 4月に入って間もなく、後輩からフキが届いた。晩酌のおかずに身欠きニシンとフキの煮物が出た=写真。庭のサンショウの若葉が添えられていた。フキは軟らかい。ニシンは普通に硬かった。懐かしい味と食感だ。

昔は6月に田植えをした。そのときのごちそうが身欠きニシンとフキの煮物。今は5月の大型連休をはさんで田んぼに水が張られ、機械で田植えが行われる。4月のフキとニシンの煮物は、田植えとは無関係に、異常に早い今年(2021年)の「初夏」がもたらしたものだろう。

魚屋さんから軟らかい身欠きニシンを手に入れたのは、この煮物を食べた10日後だった。知人からもらったタケノコを加えて、ニシンとタケノコの煮物にした。もちろんこれにも庭のサンショウの若葉を添えた。ニシンは確かに軟らかい。歯ごたえが少し物足りなく感じたのは、硬い身欠きニシン派だからか。

食文化は風土と結びついている。つまり、風土はフード。語呂合わせだが、意外と本質を突いているのではないかと、ひそかに思っている。「全国共通」などというものは、ほんとうはありえない。

福島県という限られた地域でさえ、西から会津・中通り・浜通りに分けられる。身欠きニシンひとつとっても硬軟、食べる・食べない、がある。身欠きニシンが硬いのは、そこまでしないと持たない、ということもあるらしい。「風土はフード」をまた教えられた。

2021年4月21日水曜日

庭と近所の道路の花たち

        
 朝、歯を磨きながら庭の草木をながめる。春ならではの息吹が、小さなスペースながらそこかしこに感じられる。イカリソウが、スミレが花を付けた。例年より半月以上早くエビネも開花した=写真上。

 ヤブガラシが生け垣の根元を中心に、赤い芽をのばし始めた。これは厄介だ。夏になると生け垣にからみつく。しかも年々、“領土”を広げている。からみつかれる庭木はたまったものじゃない。

このところ毎日、ヤブガラシの芽を摘む。芽を摘みながら、大江健三郎の小説のタイトル「芽むしり仔撃ち」を思い浮かべる。10代後半に読んで、タイトルだけはしっかり記憶に残った。2年前にも、やはり同じ感想をブログに書いていた。

 そのあと、近所のコンビニで買い物をした。「歩いて行ってね」。春になったので、ドクターから「15分くらいなら」と散歩の許可が出た。コンビニまでは5分もかからない。冬の間はそこへも車で行って、コピーをしたり、酒のつまみを買ったりした。

 久しぶりに歩いたら、歩道わきの月ぎめ駐車場入り口にびっしり青紫色の花が咲いていた。朝晩、散歩していたころ(13年前の5月だが)、初めて夏井川の堤防でこの花を見た=写真下。

針金のような茎が20センチほどスッと伸びて、青紫色の花をいっぱい付けている。マツバウンラン。北アメリカが原産の帰化植物だった。

『検索入門野草図鑑』(長田武正・著/長田喜美子・写真)によると、同書が発行された昭和59(1984)年時点では、近畿以西から九州にかけて広がりつつあったが、今は東日本でも生息範囲を広げているのではないか。近所にこれだけびっしり生えているのだから、すでに北の方まで侵略していても不思議ではない。

 マツバウンランと一緒にナガミヒナゲシが咲いていた。このオレンジ色の花が今、あちこちの道端で見られる。これもまた爆発的な繁殖力をもつ侵略的な植物だ。

 ナガミヒナゲシが家の庭に現れたら、ためらわずに引っこ抜いてごみ袋に放り込み、「燃やすごみ」として出す。タカサゴテッポウユリ(新テッポウユリ)もすぐ引っこ抜く。在来植物をおびやかす存在だから、せめてわが家の庭くらいは、今ある植物によけいなストレスを与えたくない、という思いがある

 さて、ヤブガラシと同様、庭の地面から生え出てくるものがある。ヤブガラシのようにあちこちから、というわけではない。毎年決まっているところから茎をのばす。ミョウガタケだ。丈が10~15センチになったら、根元からカットする。さっそく、先日、刻んで汁の実にした。ほのかな香りが口内に広がった。これもまた春の土の味だ。

 過去のブログを読むと、発生は早くて4月下旬、今年(2021年)は1週間ほど目覚めが早かった。

 きのう(4月20日)はいわきの内陸、山田で最高気温が25.5度と、夏日を記録した。厚手のシャツが少々うっとうしく感じられた。この1年、風邪を引かないように、発熱しないようにと、それだけを念じてきた。暑くなったからといって、簡単に半そでシャツを、というわけにはいかない。老体には寒暖の差がこたえる。だんだん植物の気持ちがわかるようになってきた?

2021年4月20日火曜日

夏井の千本桜と川前のカツラ

        
 きのう(4月19日)の続き――。日曜日の朝、いわきの平地から阿武隈高地の上三坂(いわき市三和町)~小平(おだいら=平田村)~小野新町(小野町)と巡って、ちょうど昼、夏井川渓谷(いわき市小川町)の隠居に着いた。

 主に国道49号、同349号、県道石川鴇子(とうのこ)線、あぶくま高原道路、県道小野四倉線を利用した。走行距離は自宅までの分を含めて110キロ余り。山里の風景に慰められながらの運転だからよかったが、これが国道6号の往復だったらくたくたになっていたにちがいない。

 好間あたりまでは木々が芽吹き、ぽやぽやした産毛をまとって山がほほ笑んでいた。

 上市萱(三和町)から旧道に入り、「一杯清水」を横目に旧長沢峠を越えると、そこは標高500メートル超の山里、上三坂。ソメイヨシノとヤマザクラが咲いていた。山々はしかし、好間と違ってまだ冬の装いだった。

旧道を巡るのが目的なのか、歩こう会らしい一行とすれ違った。夜の強雨が収まってさわやかな青空が広がる朝、絶好のウオーキング日和になった。こちらもまたドライブ日和には違いない。

 阿武隈高地で標高が500メートルになると、もう準平原だ。阿武隈高地の地形を研究した故里見庫男さんに「残丘」というエッセーがある。いわき地域学會図書16『あぶくま紀行』に収められている。

 それによると、阿武隈高地は中生代白亜紀後期(8千万年前)に、山地全体が風化作用や河川の浸食などによってほとんど平坦化した。その後、汎世界的な地殻変動によって間欠的に隆起した。

 その結果、高地の東側(いわき市などの浜通り)は、河川の浸食が復活した。至る所にV字谷ができた。西側(田村市などの中通り)は、平坦化した穏やかな風景が広がる。所々に見える山は残丘。独立峰で、お椀(わん)を伏せたような形の山もある。代表格が平田村の蓬田岳(標高952メートル)だ。

平田村とはなだらかなアップダウンでつながる上三坂は、阿武隈の穏やかな風景の一角をなす。行政区分ではいわき市、つまり浜通りだが、地形的には中通りと変わらない。

平田村も上三坂と同じような標高に集落が形成されている。山々はほほ笑むところまではいっていない。平田ICからあぶくま高原道路を利用して小野町へ移動したが、こちらは標高がやや低くて440メートルほどだ。同町もまた山は半分眠っていた。

 渓谷への途中、夏井の千本桜を見た。満開だった=写真上1。コロナ禍のために「夏井千本桜まつり」は中止になったが、駐車場には何台かマイカーが止まっていた。河川敷の遊歩道を歩く人もいた。

 いわき市の川前町に下ると、山々はすっかりパステルカラーに染まっている。JR磐越東線の川前駅あたりで標高は280メートルほど。近くの夏井川の岸辺にカツラの大木がある。風が淡い緑色の葉を揺らしていた=写真上2。

渓谷の隠居に着く。隠居のあるあたりで標高は200メートルほど。V字谷の山の頂きは600メートル前後だから、垂直で400メートルの差はある。奥山もほほ笑んでいる。

谷の近くでは、なんと初夏の花のシロヤシオが咲き出した。渓谷へ通い始めて四半世紀。4月中旬にシロヤシオの花が咲くのを初めて見た。これには驚いた。やはり異常気象とか温暖化を思わないではいられなかった。

2021年4月19日月曜日

上三坂から小平へ

 平田村の北方(きたかた)というところに、「昔の主屋 白菊乃丘」という“店”がある。書画骨董その他、いろんな古いものを扱っている。カミサンがなにかで知って、「行きたい」という。いうことを聞かないわけにはいかない。きのう(4月18日)、朝のうちに家を出た。

 事前に場所を確かめ、グーグルアースで道順を頭にたたき込んだ。といっても、ルートは一つではない。

最初は夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをし、午後に山を越えて三和町上三坂から平田村へ抜けるコース、山を越えずに小野町までさかのぼり、あぶくま高原道路から平田村へ入って、村内の道路網を利用するコースを考えた。

前夜までは、そのどちらかのコースで行くつもりだったが、朝起きたら直接、上三坂経由で行った方がいいように思った。カミサンも同意した。

グーグルアースであれこれ道を探っているうちに、遠いとおい記憶がよみがえった。北方の先に小平(おだいら)郵便局や小平小学校がある。つまりは、ちょっとした集落になっている。子どものころ、そこへバスで行ったことがある。平田村と知ったのはずっとあとだが、「おだいら」という地名が、そのとき記憶に残った。

三和町上三坂はいわき市の北西端。そこにいとこが住む。母親は私の父の妹、父親は常磐交通の運転手で、まだいわき市になる前の平市から三和村へ転勤して、バス停そばの車庫兼社宅に住んだ。一家は上三坂に根を張り、義叔父も叔母もそこに骨をうずめた。

子どものころ、祖母と何回か泊まりに行ったことがある。確か小学6年生の夏休みのとき(月遅れ盆)だった。じゃんがら念仏踊りを初めて見て衝撃を受けた。

当時、常交の路線バスは上三坂を起点にすると、小野新町、平、小平行きなどがあった。これはしかし、子どもだった私が乗って記憶しているだけで、ほかにも毛細血管のように、あちこちにバス路線網が張り巡らされていたのではなかったか。

「昔の主屋」へ行って戻るだけではつまらない。小平にも行きたい。となれば、上三坂から直接出かけ、そのあと小平経由であぶくま高原道路を利用して小野町へ抜け、そこから夏井川渓谷の隠居へ下る、というルートがいい。一種のセンチメンタルジャーニーだ。

 三和町の直売所・ふれあい市場で買い物をしたあとは、旧道を利用して上三坂へ抜け、バスの車庫兼社宅があったところ(今はバス駐車場)=写真上1=を記憶の起点にして、国道349号経由で「昔の主屋」を訪ねた。

「昔の主屋」は、江戸時代の造り酒屋だった古い建物と広い敷地を利用した“古物のテーマパーク”だった=写真上2。スタッフによれば、“開園”するのは土・日・月らしい。ありとあらゆる古物が展示されている。中身をうんぬんする前に、その物量に圧倒された。

 周囲は、いかにも阿武隈の山里らしいたたずまいをしている。浜通りと違って丘陵に囲まれながら水田が広がる、なだらかな高原といった風情だ。サクラは咲いていたが、木の芽はまだ冬の眠りから覚めずにいた。

 私は、子どものころの記憶と対話しながら、しかしほとんど初めて同然の小平への道を進みながら、60年以上前、このルートで小平~上三坂を往復したのだと確信していた。ストリートビューでほかの道もたどったが、この道が一番行き来しやすかったからだ。三坂と小平、その手前の北方とは日常的なつながりがあってもおかしくない、そんなことも思った。 

2021年4月18日日曜日

シャクナゲ増殖計画進む

                     
 夏井川渓谷の小集落・牛小川で「春日様」(春日神社)のお祭りが行われた日――。直会(なおらい)の会場となっているKさんの家へ行くと、裏山へ案内された。

 裏山は杉林だが、ここでKさんは「シャクナゲ増殖10年計画」を展開している。去年(2020年)夏、そのプランを事細かに聞いた。

 そのときの拙ブログ(7月29日付「シャクナゲ増殖10年計画」)を、参考に要約する。

――Kさんの案内でKさんの家の裏山を見た。杉林だが、間伐して林内が明るくなっていた。そこにシャクナゲの苗木を植え始めた。「シャクナゲ増殖10年計画」だという。薄暗い杉の林内をシャクナゲの花で明るくする。そんな決意をあっさり口にする。

昔、隠居の隣にある古い家を所有者のTさんが解体し、谷側の杉林を伐採して展望台をつくった。すると次は、山側、県道小野四倉線とJR磐越東線の間に植えられた杉の苗木を、所有者のKさんが伐採した。マイカー族も、列車の乗客も杉林に邪魔されることなく景観を楽しめるようになった。(Tさんは2020年師走に亡くなった)

自然景観と環境に対する土地所有者の考え・行動がなにか新しいステージに入ったように思ったものだ。その延長で、今度はシャクナゲ増殖作戦が始まった。

渓谷で暮らすということは、日々、自然にはたらきかけ、自然の恵みを受ける、ということだ。その一方で、自然からしっぺ返しをくらうこともある。自然をどうなだめ,畏(おそ)れ、敬いながら、折り合いをつけるか、ということでもある。その折り合いのつけ方が、今回はシャクナゲ増殖計画となってあらわれた。

 ――それから9カ月。「シャクナゲの花が咲いた」。Kさんのあとについて裏山へ行くと、2カ所で花が咲いていた。大きい苗木の花をじっくり眺める=写真。林床も前より明るい。杉林と混交するように孟宗竹が生えていた。それを伐採した。林床がてっぺんまで見通せる。増殖計画は着実に進んでいるようだ。

 去年は、杉林の中に手製のイノシシ威(おど)しがあった。今年は気がつかなかった。

 直会の席で「イノシシは?」と聞けば、「このごろは出ないなぁ」という。裏山がシャクナゲ増殖計画のおかげで見通しがよくなった。「隠れるところ(繁み)がなくなって、イノシシは来なくなったんだべ」。なるほど。

去年の拙ブログによれば、イノシシ威しは次のようなものだった。畑に使う逆U字型支柱2本を交差して立て、真ん中から殺虫剤の空き缶などを取り付けた一斗缶やヤカンをつるしていた。それらはロープで家とつながっている。イノシシが「出たな!」となったら、家からロープを引いてガランガラン音を鳴らす、というわけだ。

威しを使わなくても、イノシシは今のところ鳴りをひそめている。シャクナゲ増殖計画が思わぬ波及効果をもたらした。自然とのいい折り合い方ではないか。

2021年4月17日土曜日

朝めし前に隠居へ

                       
 雨上がりの木曜日(4月15日)早朝、夏井川渓谷の隠居へ車を走らせた。日曜日(4月11日)、庭のシダレザクラの樹下から食菌のアミガサタケを採った。4日後、また生えてきたかもしれない。食欲を抑えきれなくなって、朝めし前に確かめに行った。ヤナギの下の泥鰌(どじょう)、だった。アミガサタケの代わりに、シダレの花びらが地面を覆っていた。

 北神谷(平)から山田古湊(四倉)を経由し、山腹の広域農道(四倉)と国道399号(小川)を利用して渓谷に入った。

 3月25日に広域農道で交通死亡事故がおきた。小川へ向かっていた大型バイクと四倉へ向かっていた軽乗用車が衝突し、バイクの男性が亡くなった。なぜ対向車両が少ない山道で大事故が起きたのか。ときどきこの道を利用する人間としては原因を知りたい、同じような事故が再び起きないためにも――という思いが強い。

 事故のあった日から2日後、朝めし前に隠居へ出かけて土いじりをした。帰りに広域農道を利用した。そのときは現場を確認しただけに終わった。さらにそれから1週間後、やはり隠居からの帰り、広域農道を利用して草野の魚屋さんへ直行した。

 現場は仁井田川の渓谷に近い右岸、小川側から下る坂道がやや緩やかになったところだ。

東の四倉方面から見た方が説明しやすい。東から西へ伸びる道路はいったん谷底に向かって下り、八茎橋を渡って今度はややきつい上り坂になる。その坂はほぼ一直線だが、途中、少し平坦な部分がある。坂~平坦~坂~平坦の繰り返しで、カーブしながら小川との境の上岡トンネルへ続く。

 その道を西の小川側から進んで現場に着き、車を止めて周りを見たとき――。前方の道路が視界から消えているのに気づいた。視界の先にあるのは空と対岸の山=写真上1。運転中は意識しなかったが、車を止めて初めて見通しの悪い場所で事故が起きたのを知った。

 閑話休題。去年(2020年)の5月中旬から古巣のいわき民報に、「夕刊発・磐城蘭土紀行」と題して拙ブログを掲載している。今年4月にはFMいわきでも、週に1回、「FM発・磐城蘭土紀行」というかたちでおしゃべりを始めた。

金曜日朝9時半からの「まちの横顔」というコーナーで、きのう(4月16日)はこの事故を取り上げた。現場に行ってわかったのだが、ほんの一瞬、空しか見えない(正確には空と山しか見えない)場所がある、ドライバーには瞬間的に死角ができる、センターラインは白い破線だが、その場所ははみ出し禁止の黄色い実線にした方がいい、といったことを話した。

その延長で、朝めし前、アミガサタケの確認に向かった際、四倉側から広域農道に入って坂道の見通しがどうなっているかを確かめた。坂の上の平坦部(事故現場)へ向かっていくと、空と丘陵の一部しか見えない=写真上2。事故後、3回この道を通って、真っすぐな坂道でも道路形状によって死角ができることを、やっと頭にたたき込んだ。