2021年10月31日日曜日

軽石と赤潮

           
 台湾の作家呉明益が書いた小説『複眼人』(小栗山智訳=KADOKAWA、2021年)=写真=を、図書館から借りて読んでいる。

 日本語版の序文に小説を構想するに至ったきっかけが書かれている。「2006年ごろ、太平洋にゆっくりと漂流する巨大なゴミの渦が現れ、科学者にも解決の手立てがないという英文記事をネットで目にした」

 山野で、街で、海辺で「人類に捨てられた物が太平洋に集まりゴミの島となっている情景が、それ以来というもの頭から離れなくなった」。そのうち、太平洋の人知れぬ島で少年が生まれ、彼にアトレ、島にワヨワヨと名付けてから物語が始まった、という。

 「ゴミの島」がワヨワヨと台湾に近づく。メディアが大騒ぎする。「ルソン島で形成された低気圧が北上し始めれば、気流でゴミの渦がばらけて一部は日本、残りはこっちに向かうだろうって、専門家たちは推測している」

資源収奪文明と地球温暖化が太平洋の島々にもたらす近未来、あるいはディストピアの世界、とでもいうべき不思議な物語である。一度読んだだけでは理解できないので、返しに行ったその場で引き続き借りた。

黒潮にのってゴミの島が日本へ向かっている――『複眼人』を読んでそんなイメージが膨らんでいたところへ、軽石と赤潮のニュースが飛び込んできた。

小笠原諸島の海底火山が噴火し、軽石が沖縄本島に漂着した。巡視艇が海水ろ過装置に軽石を詰まらせ、エンジンが停止して航行ができなくなった。あるいは、漁港内の生簀の魚が軽石を飲み込んで死に、水質悪化による酸欠とエラからの軽石で養殖魚が呼吸困難になって死んだ、というニュースには、なにか得体のしれない怖さを感じた。

一方で、9月中旬から北海道の太平洋岸の広い範囲で赤潮が確認され、ウニや秋サケ、ツブ・タコ・ナマコなどに被害が出ている。道庁の試算では、被害額は最大170億円になりそうだという。

海洋研究開発機構によれば、軽石は黒潮にのって、11月中旬には四国~紀伊半島に達する可能性があるそうだ。

日本列島の南から黒潮にのって軽石が北上し、北から親潮にのって赤潮が南下する――そんなことが現実に起きたらどうなるか。やがては福島県沖あたりで両者がまじりあう? それは杞憂だろうか、あり得ない話だろうか。

10年前に、1000年に一度という超巨大地震が発生し、大津波が押し寄せた。原発事故にも直面した。想像を超える気象災害が多発するようになった。海洋を漂流し、沿岸に漂着するプラスチックゴミ問題も待ったなし、というところまできた。

作家の想像力が『複眼人』を生み、それと呼応するように軽石が漂流し、赤潮が発生する。自然災害と文明の災厄が複合化したような、そんな時代にわれわれは生きている。

『複眼人』では最後に、ボブ・ディランの「はげしい雨が降る」の詩が引用される。地球環境の危機を回避する最後のときに立っている――そういう警告の象徴なのだろう。

2021年10月30日土曜日

アクセルとブレーキ

                      
 なにか仕事が終わったあと、たとえば頼まれた原稿を仕上げたり、行政区の用事をすませたりしたとき、解放感も手伝って「きょうはいっぱい飲むか」という気になる。

 ところが、10月に入るとあれこれ予定が入ってきた。翌日もなにかやることがある。飲み過ぎるわけにはいかない。たいていはいつもの分量をちょっと超えたところで終わる。

内側ではアクセルを踏みたいのに、外側からブレーキをかけられる――そんな感じだ。

 年度後半が始まった10月には、区内の事業所を回って区費協力金をお願いする。行政区にとっては大切な仕事だ。

 わが区では、隣組に加入している世帯からの区費を基に年間の予算・事業計画を立てる。協力金もこれに充てられる。

予算の中から、ごみ集積所のネットが古くなれば買い替え、防犯灯の電気料金を補助している。規約の目的に区民の親睦を図り、共同の福祉・教育文化・衛生保全の充実・向上に努める――とある。その一環だ。

 区内で営業している事業所には法人(企業)と個人(自営業)がある。隣組に入っている個人事業所もある。区費と協力金を二重にもらうわけにはいかない。協力金は区外からの事業所についてだけお願いする。

去年(2020年)はコロナの感染が拡大し、ワクチン開発もまだ、という状況だったので、事業所回りを自粛した。2年ぶりの訪問だ。窓口の事務員さんはほとんど変わっていない。あいさつしただけで用向きを理解し、お願いの文書を受け取ってくれる。

1週間後、再訪する。すでに協力金を用意しているので、手間取ることはない。1時間をかけて二十数カ所の事業所を回る。

今年もすんなり仕事が完了した。こういうときは冒頭のような気分になるのだが、手帳を見たら、翌朝に用事が入っていた。ほかの日にもポツリポツリと書き込みが増えるようになった。

 コロナ前と同じ、というわけにはいかない。が、少しずつ日常が戻ってきた。だからこそ、晩酌にもブレーキがかかるようになった。そのうえ、この2年ですっかり早寝早起きの「新しい生活様式」が定着した。年齢的なこともある。アクセルを踏みこむ前に眠くなる。

「巣ごもり」が基本であることに変わりはない。昼間、区の仕事を終えたら、あとは自分の時間だ。図書館へ行って本を借りる。帰りは夏井川の堤防に出て、バードウオッチングをする。

平・塩~中神谷地内のハクチョウは、しかしなかなか定着しない。代わりにカワウが群れて休んでいれば、パチリとやる=写真。

11月には、4日に観光講座がある。中旬にはライフプランニング講座で「いわきゆかりの作家」について話す。年明けには「内郷学」の講座がある。毎日、この準備に追われている。それだけアルコール燃料も消費が抑えられる。体にはいいことなのだろう。

2021年10月29日金曜日

さん・に・よん・く

                         
   信号待ちをしていたら、そばの店の壁に書かれた文字が目に入った=写真。「三二四駆(さん・に・よん・く)、何だろう?」。「ミニ四駆のことか」と合点がゆくまで、少々時間がかかった。

片仮名の「ミニ」が漢数字の「四」に引っ張られて、同じ漢数字の「三二」に見えた。50代、いや60代だったら、一発で「ミニ四駆」を思い浮かべただろうが、70代に入った今は目と目の奥にある機能がゆるくなっている。

こういうときには決まって思い出す詩がある。詩集『村の女は眠れない』で知られる草野比佐男さん(いわき市三和町、1927~2005年)が、昭和61(1986)年の早春、ワープロを駆使して限定5部の詩集『老年詩片』をつくった。1編が4・4・3・3行、計14行のソネット集だ「作品一」に「花眼」という言葉が出てくる。

「老眼を<花眼>というそうな/視力が衰えた老年の眼には/ものみな黄昏の薄明に咲く花のように/おぼろに見えるという意味だろうか」と、草野さんは問いかける。

「あるいは円(まど)かな老境に在る/あけくれの自足がおのずから/見るもののすべてを万朶(ばんだ)の花のように/美しくその眼に映すという意味だろうか」

そのあとの展開がいかにも草野さんらしい。「しかしだれがどう言いつくろおうと/老眼は老眼 なにをするにも/不便であることに変わりはない」「爪一つ切るにも眼鏡の助けを借り/今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」

『老年詩片』を出したとき、草野さんは59歳。その年齢をはるかに超えて、「妻」を「毒」と読み違えることもおきるようになった。活字が小さいと、「プ」か「ブ」か、「3」か「8」か、拡大鏡を使って確認しないとわからない。

「ミニ」を「三二」と読み違えたのは、認識力の減衰と花眼が絡み合った結果というべきなのだろう。

耳だって「花耳」、口だって「花口」になってきた。テレビに出てきた焼き物を見て「萩焼かな」といったら、「歯磨き?」と聞き返された。こちらの発音が悪いために、「ハギヤキ」が「ハミガキ」に聞こえたようだ。

先日も、「昨日」というべきところで「去年」といい、「今日」が「今年」になってしまった。頭では「昨日」のこと、「今日」のことと承知しているのに、口をついて出たのが「日」単位ではなく「年」単位の言葉だった。

いちおう新聞記者を生業にしてきたので、読み書きの習慣は今も続いている。現役のころは仕事でコラムを書き、辞めてからは毎日、ネットでブログを更新している。

「1日に1回、締め切りを持つ」。そう決めてブログを書いている自分と、何もしないでテレビを見ているだけの自分を比較すると、慄然とする。読み書きを自分に課さなかったら、たぶんもっともっと認識力が低下していたのではないか。そばにいる人に「あんた、誰?」なんて口にしなくても、思うようになったりして――とは、単に今思いついた冗談だが。

2021年10月28日木曜日

シソの実と米麹

        
 夏井川渓谷の幹線道路は一つ、県道小野四倉線。渓流の崖を縫って伸びる。隠居から街へ戻るために車を走らせていると、ある集落の道端に車を止めて地面を見ている女性がいた。後ろ姿が渓谷の別の集落に住む友人に似ている。車を止めて近づくと、彼女だった。

 地面にたくさんどんぐりが落ちている。「カヤの実」だという。「イヌガヤもある」。カヤとイヌガヤ、ほかにつながるものがなにかあったような……。

何日かたって思い出した。モミ。モミとカヤの違いは針のようにとがった葉先の形状。二つに裂けているのがモミ、カヤはとがったままだ。

コケの研究で博士号をとった元高校教諭を講師に、仲間が定期的に「山学校」を開いた。森で教えられたモミとカヤの違いが記憶の底から浮かび上がってきた。講師は植物のインタープリター(自然案内人)だった。

友人も自然観察会などで森の案内人を務める。つまりはインタープリターだ。料理にも詳しい。

この日、カミサンが隠居にある菜園からシソの実を摘んだ。「いっぱいあるので、どう?」。彼女もとっくに自宅の菜園で同じことをしている。「シソの実は米麹(こめこうじ)と一緒に漬けるといい」という。

家庭菜園を始めたばかりのころ、多品種・少量栽培を心がけた。シソも、青ジソだけでなく、梅干し用に赤ジソの苗を買って植えた。すると、それから毎年、どちらもこぼれ種が発芽し、秋には花を咲かせて実をつける。

それをこのへんの方言で「ふっつぇ」という。もったいないので、毎年、「ふっつぇシソ」の葉を摘み、実が生(な)れば回収して塩漬けにする。とはいっても、夫婦で食べる量は限られる。前年の塩漬けシソが残っていたときもある。

シソの実と米麹――とは、いい話を聞いた。新しい味を楽しめる。スーパーへ買い物に行ったら、たまたま食品売り場に袋入りの米麹があった。カミサンがさっそく手に入れた。

間もなくその漬物が出た=写真。ご飯にのせる。シソの香りと米のうまみ・甘みが絡み合って、なかなかいい感じに仕上がっていた。一種のふりかけだ。湯豆腐なんかにもチョンとのせるといいかもしれない。

つくり方はいたって簡単。シソの実に米麹を加えて混ぜ、醤油を浸しただけだという。それを冷蔵庫で保管している。

ネットにアップされている「シソの実麹」はずいぶん念入りだ。シソの実を瓶に入れ、醤油をヒタヒタになるまで加える、麹をほぐして瓶に入れる、それから鷹の爪・昆布を入れ、カビ防止に焼酎を加える――。

そこまでしなくても、醤油と米麹だけで味に奥行きが出る。去年(2020年)まではただの塩漬けだったが、米麹に切り替えたことで俄然、新しい食べ物になった。これは、スーパーなどでは買えない。それぞれに混ぜるものを工夫すればその家独特の味になる。

2021年10月27日水曜日

ときどき交通事故が

        
 先日の夕方、家の前の市道で警官が交通整理をしていた。近くにバスが止まっている=写真。片側交互通行をする車の列が続いた。

翌日の新聞に小さい記事が載った。いわき駅行きの路線バスに駐車場から市道へ出ようとした80代男性の乗用車が衝突した、事故の原因は調査中、とあった。

 新聞記者になりたてのころ、交通事故の現場へ何度も足を運んだ。その経験と、近年、わが家の周辺でシルバーの事故が増えていることから、おおよその察しはついた。

事故処理中の警官がバス前部、右の角をじっくり見ていた。おそらくそこに乗用車が接触したのだろう。

わが家の隣にコインランドリーがある。斜め向かいには郵便局がある。車の出入りが多い。ランドリーから出ようとした車が反対側の歩道に突っ込んだり、郵便局から出ようとした車がこちら側の歩道を暴走したり、ということがこれまでにもあった。ドライバーはいずれもシルバー世代だった。

歩道を暴走した事故の様子がブログに残っていた。東日本大震災が発生した年の秋の出来事だった。自分への戒めとして抜粋・再掲する。

――午後1時ちょっと前、家で休んでいると2軒ほど先の方から聞き慣れない音が飛び込んできた。

2階の窓を開けて道路を見たら、120メートルほど先に人だかりができていた。「救急車を呼べ」という声が聞こえる。

高齢者マークをつけた青い車が電柱にぶつかって止まっていた。運転していたお年寄りが白い顔をして、車の中でじっとしている。

車は、前部がベッコリへこんでいた。左前輪にはタイヤがない。タイヤははずれて道路の反対側に転がっていた。右前輪はパンクしている。両サイド前部にこすれたあとがある。目撃した人の話と、縁石・歩道の痕跡を総合すると、こういうことだったらしい。

わが家の斜め前の郵便局あたりで車は対向車線にはみ出し、歩道の縁石(ちょうど斜めに切られてある)に乗り上げたあと、異音を発して縁石をこすり、歩道にすっぽりはまってしまった。

車は歩道を暴走し、左側の街路灯をこすり、タイヤのはずれた左前輪が縁石に乗り上げると同時に右側面で民家の石塀をこすり、駐車場角の電柱に激突して止まった。歩道は通学路でもある。登下校時間でなくてよかった――

それから何年かたって、朝ドラが終わったころ、突然、「ププー、ガシャーン」という異音が飛び込んできた。正面衝突事故だった。はずみで車は尻を振られ、縁石をまたいで180度近く向きを変えて止まった。1台は隣家のブロック塀にも接触して塀の角が壊れ、鉄製の門扉がずれた。

翌日の新聞によると、1人が胸などを強く打って意識不明の重体、1人が首に軽いけがをした。こちらは若い人だった。

震災後、わが生活圏では双葉郡から原発避難をした人々、原発の事故収束~廃炉作業に従事する人々で交通量が増えた。

わが家から車を出すのに左を見、右を見、また左を見ても車が来る、といったことが当たり前になった。交通事情の悪化がシルバーの心理にも影響しているのではないか、先日の事故からそんなことを思った。

2021年10月26日火曜日

ナラ枯れと猛毒キノコ

                     
 触っただけで皮膚がただれ、誤食すれば時に死に至る猛毒キノコがある。回復しても小脳萎縮や言語・運動障害などが残ったりする。

カエンタケという。赤い炎のような形と色が、いかにも毒々しい。まだ出合ったことはない。

 この厄介者が、どういうわけか「ナラ枯れ」が起きた木の周辺に発生する頻度が高いのだという。

 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で取り上げられたと思ったら、新聞にも注意を呼びかける記事が載った。最近、急にその存在がクローズアップされている。

 ナラ枯れとカエンタケ発生の関係はよくわかっていない。しかし、地上でナラ枯れが起きると、根元や地中の根の方からカエンタケが現れる――そんな現象がみられる、という指摘には驚いた。

 シイタケやナメコのような木材腐朽菌かと思ったら、どうもそうではないらしい。すでにナラ枯れの木に生息しているほかの菌がいて、その菌糸から栄養を得ている可能性が高いのだそうだ。「菌寄生菌」という言葉を初めて知った。

 ナラ枯れ被害が発生している県や自治体では、広報資料をつくって警鐘を鳴らしている。ネットでそのチラシを読むことができる。

たとえば、四方を山林に囲まれた盆地のまち、神奈川県秦野(はだの)市の広報チラシにはこうある。

同市では近年、コナラなどの樹木が枯れる「ナラ枯れ」被害が発生している。カエンタケはナラ枯れ被害発生時、または数年後に多発する。誤って触った場合はすぐにせっけんで洗い、流水でよくすすいだあと病院へ行くように。

同時に、ナラ枯れの木の近くを通る場合は、倒木・落枝の危険性があるため、十分に注意をしてほしい。

 要するに、ナラ枯れには事後に二つの危険がある、ということだ。一つは倒木・落枝、もう一つは猛毒キノコの発生。

いわきでも近年、ナラ枯れ被害が目立つようになった。毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行く。小川町高崎地内から渓谷に入ってすぐの上流、主に右岸・塩田地内の山林に茶髪が多く見られる。渓谷を縫う県道沿いにも何本かナラ枯れの大木がある。

大雨、あるいは大風の日、枯れた枝が折れて道路(県道小野四倉線)に落下する。先日も隠居から街へ戻る途中、ロックシェッドを抜けるとすぐの山側に落枝が寄せられていた=写真。ナラ枯れの大木がそばにある。そこから落下したようだ。

渓谷の県道を行き来する人は、倒木・落枝の恐れがある立ち枯れの木を頭に入れているはずだ。秦野市のチラシではないが、車が直撃を受けないよう、現場ではいったん木を見てから通り過ぎる。そんな立ち枯れ木が何本もある。

そして、今度は猛毒キノコだ。知人らが執筆・編集した『いわきキノコガイド』(旧いわき市観光協会、2001年)には、8月下旬、四時川渓谷(田人)で撮影されたカエンタケが載る。同じ田人の戸草川渓谷でも発生が確認されている。

欧米では、キノコの形から「死者の指」といわれているそうだ。いよいよ夏井川渓谷でも発生が普通になる?

2021年10月25日月曜日

川にも白波が立つ

                     
    まだ夏のような陽気だった10月前半、10日の朝。小川町三島の夏井川で、この秋初めてコハクチョウ1羽を見た。若鳥だった。けがをして残留した「エレン」にとっては、半年ぶりの仲間との再会だ。

日曜日だったので、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。午後は草野心平記念文学館へ行き、その帰りに三島へ出た。若鳥は姿を消していた。

いわき市の夏井川では、平地の平窪(平)が最も古い越冬地だ。平窪が過密状態になったためか、やがて上流の三島にも飛来するようになった。さらに、下流の塩~中神谷(平)に第三の越冬地ができた。こちらは大水で流された平窪の残留コハクチョウが呼び水になった。

神谷に飛来したばかりのコハクチョウは落ち着かない。あちこち行ったり来たりする。30年以上ウオッチングしてわかった「経験則」だ。ベースになるのはなんといっても平窪だろう。

街へ行った帰りには、必ず夏井川の堤防を利用する。三島でこの秋最初の飛来を確認してからは、狙いはむろんハクチョウ。

新川が合流する塩地内では、重機が出て川砂をかき集め、ダンプカーが積んで行く。それが今や当たり前の風景になった。最初に飛来したコハクチョウは「おや?」と思うかもしれない。が、やがて数が増えると重機も気にしなくなる。

10月中旬に入ると、急に冬のような寒さになった。まだ扇風機が残る茶の間で石油ストーブをたいた。

寒暖の急変はこたえる。動植物もそうだろう。ダウンジャケットを着たハクチョウはしかし、やっと過ごしやすくなったと感じているのではないか。

10月20日の午後、街へ行くのに夏井川の堤防を利用した。逆光のなかで川が波立っていた=写真上1。それで強風が吹いていることがわかる。そろそろ現れるか、と思ったが、ハクチョウの姿はなかった。

その後もマチへ出れば、帰りは夏井川の堤防を利用する。三島で初飛来を確認してから2週間近くたった22日夕、中神谷の夏井川に2羽が羽を休めていた=写真上2。1羽は若鳥だった。気温も下がって、いよいよ定着する段階に入ったようだ。

きのう(10月24日)は日曜日。夏井川渓谷の隠居へ出かけた。対岸の森を見ていると、毎年10月25日と決めて採ったキノコの記憶がよみがえる。クリタケだ。寒暖に関係なく、決まった時期に決まった倒木から発生した。

倒木が分解してぐずぐずになってからは、クリタケの姿を見ていない。もっとも、10年前に放射性物質が降り注いだので、出合っても写真を撮るだけだが。

そんな晩秋の楽しみが失われた今は、飛来したハクチョウがささやかな慰めになる。きのうは朝、三島で3羽(うち1羽は残留コハクの「エレン」)を確認し、昼前には平窪の背後地・赤井の「冬水田んぼ」で100羽以上の大群がえさをついばんでいるのを見た。圧巻だった。やはり、平窪は越冬の本拠地だ。

2021年10月24日日曜日

ごみネット配布終了

                     
 木曜日(10月21日)の朝。しばらく姿を消していたカラスがごみ袋を破って生ごみを食い散らかしていた。

燃やすごみの日。ネットから袋がはみ出したり、袋の生ごみが見えたりすると、たちまちカラスが舞い降りる。

カラスは簡単に人間のマナー違反を見破る。人間の不注意がカラスを呼び寄せる――となれば、生ごみをめぐるカラスと人間の闘いはエンドレスだ。

 新型コロナ問題がピークを迎えたころ、ごみ集積所での散乱ごみからの感染拡大を防ぐ、という名目で、市が「ごみ散乱防止用ネット」を配布することになった。これはその顛末記――。

 8月下旬、各隣組に市の回覧資料を配ると、すぐ問い合わせがあった。個人で申請するのか、区で申請するのか。混乱を避けるため、区が一括申請をすることにし、新たに回覧資料をつくって周知した。

 同時に、市から提供された集積所マップを手に、区内のすべてのごみ集積所を見て回り、ボックスを除くネットの集積所と枚数を確認した。隣区との境にある集積所については、近くの家を訪ねてどちらの区に属するかを確かめた。

さらに区の役員会を開き、ふだん資料を届けている隣組とネット利用のごみ集積所を重ねて、役員さんが扱う枚数を確認した。

 市の受付開始日は10月11日だった。その日の午後遅く、車2台で出かけた。予定量以上にネットの申請があったとかで、空戻りになった。このことは前に書いた。

 それから2日後、市から電話が入って、車1台でもらいに行った。前は「2台の方が」といわれたが、電話の主は「座席を倒せば大丈夫」という。その通りで、5箱(25枚)がなんとか収まった。

 車から自宅に運び込んでみると、けっこうなスペースになった=写真。前に、一緒に空戻りした役員さんに電話をすると、すぐ来てくれた。別の役員さんの分も併せて7枚を引き取ってもらった。

残りの役員さんには、通常の回覧配布日に届け、日中は留守にしている隣組長さんの多い中層住宅に関しては、後日、役員宅まで取りに来てもらうよう通知を出した。それが10月19日。

ごみ集積所に関してはどの隣組も苦労しているのか、通知を出したら2日間でネットがなくなった。

この件だけで8~10月と、何日も動き回った。「うちの集積所が抜けている」。そんな事態は避けたかったからだ。

一方で、こんなケースも。市にネットをもらいに行ったとき、1カ所、すでに取りに来たところがあるといわれた。区としてはとりあえず申請通りの枚数をもらい、ダブりがわかれば返却することにした。やはりダブっていた。なんでも完璧(かんぺき)にはいかないものだ。

コロナ禍で地区全体、そして区の活動も中止が相次いだ。そうしたなかでごみネット配布が終わると、カラスのごみ食い散らかしが起きた。コミュニティは「ゴミュニティ」をまたまた実感した。

2021年10月23日土曜日

むかご採り

       
 寒くなったので、朝、庭に出て歯を磨くのをやめた。歯磨きは修行でもなんでもない。単なる生活習慣だ。寒くても外で、というのは、かえって体に悪い。

 今は歯を磨きながらテレビを見る、ガラス戸越しに庭を眺める。歯磨きは、この「ながら」ができるのがいい。

 春から初夏にかけては、歯を磨きながら庭の地面に目をこらし、ヤブガラシの芽を摘んだ。同じころ、ヤマノイモも芽を出す。こちらは秋に「むかご」(肥大したわき芽)をつけるので、そのままにした。

 ヤブガラシも、ヤマノイモもつる性植物だ。どちらも庭木や生け垣にからみついて伸びる。

 発芽時期を過ぎて芽を出したヤブガラシがつるを伸ばし、気が付いたら生け垣のてっぺんで花を咲かせていた。しかたない、根絶やしにはできない。見つけたら除去する、そうして来春の発芽を少なくするしかない。

 一方のヤマノイモは順調につるを伸ばし、9月末にはむかごがいっぱい生(な)った。大きいものは2センチ、小さいものは5ミリほどだ。

 小さいものはもっと肥大してから――と思っても、たいていは忘れてしまう。とりあえず小さな籠をむかごの直下に置いて、つるをゆらす。籠だけでなく地面にまでパラパラ落ちる。小さな籠では受け止めきれない。やはりこうもり傘が必要だ。

もうずいぶん前になる。渓流沿いに立ち枯れの大木があって、ヌメリスギタケモドキが大発生していた。車までこうもり傘を取りに戻り、傘を開いて逆さにし、柄の長い小鎌でこそげ落とすと、地面にこぼれることなくキノコを回収できた。むかごも、受け皿が大きいと地面に落とすことはない。

昔、川前の直売所で買ったむかごを炊き込みご飯にしたことがある。「むかご飯(めし)」だ。淡泊な味、サトイモのような食感を楽しんだ。

むかご入りのみそ汁は少し注意が必要だ。かめば問題はないが、丸いままのむかごがのどに詰まって、一瞬、呼吸ができなくなった。年寄りにはむずかしい食べ物だ、と思いながらも、やはり季節の味には引かれる。

 ついでに、笑い話を一つイノシシは本体のヤマノイモが好物らしい。ヤマノイモを掘ったら土を埋め戻すのがマナーだが、イノシシはそこまでの知恵がない。土手をほじくったままだ。「たちの悪い人間が増えたと思ったら、犯人はイノシシだった」。山の人がそう教えてくれた。

 わざわざ出かけなくても、庭で季節の食材が手に入る。何回も食べるものではない。せいぜい1、2回。それで十分だ。

 季節の食材は日々の食事に彩りを添える。山菜、キノコ、木の実。野生キノコはまだまだ摂取・出荷が禁じられている。そんな制限が延々と続けば、キノコの採取・調理といった食文化もやせ細る。サバイバルグルメが遠くなる。

 ま、それはさておき、お椀一杯分だけむかごがある。生け垣にはまだむかごが残っている。それも近いうちに回収する。長く保存はできない。やはり、むかご飯が一番か。

2021年10月22日金曜日

ドラマとはいえ

                      
 朝ドラ「おかえりモネ」は10月29日で終わる。その最終週一歩手前、10月第4週は、モネの同級生の父親が津波で行方不明になった妻の死亡届に判を押すシーンに、ジーンときた。

 震災から10年。東北の太平洋岸を襲った大津波で、岩手・宮城・福島の3県を中心に、1万8500人近い死者・行方不明者が出た。災害関連死を含めると約2万2000人が犠牲になった。警察は今も月命日になると、沿岸部を捜索する。行方不明は生死不明、肉親にとっても、警察にとっても「現在進行形」のままだ。

 妻を波にさらわれた夫の、この10年の葛藤がにじみ出ていた。「元に戻るのがいいことだとは思えない。どんなに思っても、どんなに力を尽くしても、元に戻らないものがある」。妻は帰っては来ない。それでも次に進まないといけない。その区切りが死亡届だった。

 いわきで「震災詩」を書き続けている詩人がいる。木村孝夫さん。木村さんとは震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会が開設・運営した交流スペース「ぶらっと」で出会った。

 詩人としては前から知っていたが、生身の人間として接するのは初めてだった。クリスチャンであることはなんとなく承知していた。その木村さんから、本人を取材した日本キリスト教団出版局発行の新聞「こころの友」が届いた=写真。木村さんの考え、震災詩を書き続けている原点のようなものがわかった。

 40代後半でクリスチャンになった。同い年の奥さんがクリスチャンだった。奥さんはその後発症し、10年の闘病を経て亡くなった。2人の子どもも木村さんと同時期に洗礼を受け、今は牧師をしている。

木村さんは子どものころから平の薄磯海岸に親しんできた。震災後も足しげく通った。原発避難者を含む被災者に思いを寄せ、その内面を掬(すく)いとるような詩を書き続けている。モネの同級生の父親の葛藤に、木村さんの震災詩が重なった。

いわき市の災害対策本部は10年余たった今も「週報」を出している。最新の週報(10月13日現在)によれば、いわき市内の人的被害は、死者が468人、不明者がゼロ。ただし死者の内訳は直接死293人、関連死138人、死亡認定の行方不明者37人となっている。

死者もまた肉親や友人たちの心の中に生きている。行方不明者であればなおさら強く胸に生きている。「おかえりモネ」の同級生の父親のように、行方不明の肉親に区切りをつけられない人間がたぶん今もあちこちにいる。

 気仙沼を舞台にした震災10年のドラマは、被災者の心の軌跡に焦点を当てたものだった。前半は気象問題に引き込まれたが、後半はそれぞれの10年が浮き彫りになっていった。モネの父親が漁師になると決心したのも、そのひとつだろう。残るはモネと菅波先生の関係だけ。ハッピーエンドで大団円か。

2021年10月21日木曜日

大須賀乙字展

        
 「俳論家・俳人大須賀乙字展」がいわき市四倉町のひまわり信用金庫四倉支店で開かれている=写真。同支店近くに住む自営業緑川健さんが収集した短冊や掛け軸などが展示されている。11月30日まで。

 先日、知人と見に行った。あとで緑川さんの店に寄り、展示作品の解説を受けた。乙字とは?という人が多いという。前に拙ブログで乙字について書いているので、まずそれを抜粋して再掲する。

いわきゆかりの近代文学で欠かせないのが大須賀筠軒(いんけん=1841~1912年)・乙字(1881~1920年)親子。幕末から大正元年まで生きた筠軒は、日本有数の漢詩人にして画家・学者、息子の乙字は明治~大正の俳人・俳論家だ。

震災前の2010年5月、いわき地域学會に連絡がきて、仲間3人と茨城県ひたちなか市へ調査に出かけた。乙字の最初の妻(宮内千代)の出身地(旧那珂湊町)で、縁者の家に筠軒・乙字関係の資料が残っていた。

大きくはないトランクと、それより小さいトランクに、手紙やはがき、絵の下書きなどが詰まっていた。「賢治のトランク」ならぬ「乙字のトランク」だった。

それから9年後の2019年春~夏、勿来関文学歴史館でこの資料を紹介する「乙字のトランク展」が開かれた。

乙字は若いころ、五七五調にとらわれない「新傾向俳句」の河東碧梧桐に師事した。また、私たちが普通に使っている「季語」を初めて用いた人間でもある。38歳という若さで亡くなった。死因は肺炎だが、それを誘発したのはスペイン風邪だった。

「乙字のトランク展」は、その意味ではスペイン風邪100年、乙字没後100年を見すえた記念展でもあった。

さて、四倉の乙字展では彼の短冊・掛け軸、そして額装品をじかに見て感じるものがあった。江戸時代の俳人と違って、乙字はそんなに字を崩さない。なんとなく全体がわかる。わきに緑川さんの「釈文」が添えられている。これが難字の読みを助ける。

掛け軸は「山気(さんき)夢を醒(さま)せば蟆(ひき)の座を這へる」(大正3=1914年)「湖光銀泥を消すは峰雲かかるなり」(同6=1917年)。どちらも定型を超えた新傾向俳句の印象が強い。

現在は久之浜の波立寺蔵となっている額装品は、富士山の絵(作者不詳)に乙字が「霧脚(きりあし)のすばやき裾野芒哉(すすきかな)」の句を添えたものだ。父親の筠軒も宿泊するほど交流のあった名家が所有していたという。同寺には筠軒の漢詩碑が立つ。その意味では、落ち着くところに落ち着いた。

崩しの少ない乙字の書から近代俳人の一面がうかがえたが、富士山の絵からもなにか新しいものを感じとることができた。水墨画には違いないのだが、写実的な雰囲気がある。この額装品も一見の価値がある。

2021年10月20日水曜日

寒さがこたえる

                      
 時候のあいさつ。「夏から急に冬ですもんね」。日曜日(10月17日)にいつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行くと、店主がこぼした。確かに、寒暖の差が大きすぎる。

 11日の月曜日は、いわき市山田町で29.6度と真夏日に近かった。翌12日からは気温が急降下し、木・金曜日を除いて最高気温が20度を下回った。

 月曜日は半袖、翌日からは長袖、さらに今は茶の間で石油ストーブをたき、毛糸のチョッキを1枚重ね着している。

 朝起きると、糠床をかき回す。12日は表面に白く産膜酵母が繁殖していた。この酵母は耐塩・好気性だ。空気に触れている時間が長いと、そして気温が高いと、活発に増殖する。糠床の塩分がもともと低いところに、暑い日が続いた。酵母にとっては好条件が重なった。

 直接的な害はないので、そのまま混ぜ込んだが、味はだんだん古漬けのようなものになっていくという。ま、それも糠床を冬眠させるまでの間だ。

 夏のような日から冬のような日に替わると、産膜酵母は姿を消した。糠床そのものもひんやりしてきた。

わが家では、私が漬物をつくる。夏場は糠漬け、冬場は白菜漬けにする。11月の声を聞くと糠床を眠らせ、白菜漬けの準備をする。5月の大型連休が終わると糠漬けを再開する。

今年(2021年)は暖冬だった。立春を迎えたばかりのころ、白菜漬けにも産膜酵母が張るようになった。これでは糠床を早く冬眠から覚まさないと。ほぼ1カ月早い4月10日ごろ、糠漬けを再開した。夏の糠漬けも、冬の白菜漬けも年々、温暖化の影響を受けるようになった。

一方で、夏から冬のような寒さに替わって活動をやめたものがいる。蚊だ。30年余に及ぶ“定点観測”の結果として、わが家では毎年、5月20日前後に蚊が現れて人間を刺し始める。姿を消すのは10月20日過ぎ。ところが、3年前の2018年は、11月2日にチクリとやられた。11月に入って初めて蚊に刺された。

蚊にも活動に適した気温がある。猛暑だとげんなりして活動が鈍る。蚊取り線香の売り上げも減る。この秋は夏のような日が続いたこともあって、毎日、蚊取り線香をたいた。

真夏のような月曜日が過ぎると、ブンブンいう蚊の羽音が消えた。ストーブなし、室温20~25度あたりが活動には適しているようだ。それが静かになった。とはいえ、また暖気が戻れば、羽音が聞かれることだろう。

気温は変動が激しいが、「海水温はそうすぐには下がりません」。冒頭の魚屋さんの話だ。温暖化で浜通りの沿岸域でもイセエビやトラフグが獲れるようになった。半面、サンマやサケ、タラの不漁が続く。ハマの冷凍倉庫はどうなっているだろう。

 わが生活圏の夏井川にやっとサケのやな場ができた=写真。いつもより半月は遅い。河川敷の土砂除去工事が行われている。やな場付近では左岸の工事が終了した。それで遅れたのか、あるいはサケの南下が遅れ気味で、それに合わせて設営時期をずらしたのか。そこはわからない。が、「潮目の海」といういわきの売りは、これからどうなる?

2021年10月19日火曜日

龍と雲

                      
 お寺で個展を開くという案内が届いた。「峰丘と花展」(10月10~20日)。会場はいわき市好間町北好間字上野の曹洞宗龍雲寺だ。

 このところ、寺を会場にしたイベントがニュースになる。寺はもともと地域のよりどころであり、学びの場(寺子屋)だった。今風にいえば、カルチャーセンター。同寺でも、定例的にヨガ教室や写経、座禅会などが開かれている。

 東日本大震災の前、2010年秋にも同寺を訪れた。平近辺の三つの寺で「いわきアート集団美術展」が開かれた。その会場の一つだった。

それから11年。日曜日(10月17日)に寺を訪ねた。個展の会場は本堂の奥の「禅ホール」。新しい建物で、「峰丘と花展」が「こけらおとし」になった

寺がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で発信している情報によれば、同ホールはイベントや会合の場として広く開放される。

途中、客殿らしいところでシルバーのカップルがコーヒーを飲んでいた。16・17日限定で「寺カフェ『ドラゴン』」がオープンした。

ドラゴンはむろん、寺の名前からきている。「龍」ではなく、「ドラゴン」としたところが、若い世代には親しみやすいのだろう。

日本のアニメや漫画が世界の若者から支持されている。2年前、わが家の近くにある故義伯父の家にホームステイをしたスペインの若い歴史学者も、子どものころ、「ドラゴンボール」や「キャプテン翼」「北斗の拳」などに親しんだ。「『ドラゴンボール』が一番好きだ」といっていた。

ドラゴンとくれば、私もすぐ「ドラゴンボール」を連想する。峰もドラゴンの絵を描く(峰とは40年以上のつきあいなので、尊敬の念を込めて「さん」も「君」も省略する)。

「峰丘と花展」では、峰が花の絵50点を、小原流いわき支部の人たちが生け花30点を展示した。

峰は若いころ、メキシコで絵の修業をした。峰の花の絵といえば、朱色に燃え上がる向こうの花が思い浮かぶ。今回、初めて花の写真を見た。木に咲く花だった。ネットで検索すると、カエンボクという花に似る。

それとは別に、たなびく雲の中からドラゴンが現れた絵が壁にはまっている=写真。このドラゴンはカラフルで、どこかユーモラスだ。龍と雲、まさに寺の名前を象徴する作品だ。われわれが向こうへ去って、新しい人間が現れても、ドラゴンはずっとそこにある。峰の説明を聞きながら、そういう思いになった。

同寺には吉野せいの墓もある。3年前(2018年)の秋の彼岸に寺を巡り、吉野家の墓にも線香を手向けた。

墓地の先にある高台は、夫とせいが開墾生活に苦闘した菊竹山。北西に500メートルほど離れたところに吉野家がある。今回は雨なので、参道から手を合わせるだけにした。