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2017年12月25日月曜日

偲ぶ会

 10月下旬、スウェーデンの同級生が亡くなったことを拙ブログで書いて、こう締めくくった。
 8年前、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開き、スウェーデンに国際電話をかけたのが、“海外修学旅行”の始まりだった。それぞれが「今生の別れ」のつもりで会いに行った。喪失感とともに、痛みから解放されて安らぐ顔が思い浮かぶ。いつか隠居で「偲ぶ会」を開かねば――。

 隠居ではなく、わが家の近くの義伯父の家でおととい(12月23日)、偲ぶ会を開いた。スウェーデンへ病気見舞いに行った7人のうち5人が集まった。当時の写真などを飾り=写真、献杯した。先日亡くなったほかのクラスの仲間(女性)にも哀悼の意をささげた。

 写真にあるノーベルはチョコの包装金紙だ。ノーベル博物館から買って来た。この年になってもノーベルにあやかりたい、と思ったわけではないが、中身を口に入れたあと捨てずに残した。

 キノコの写真はアンズタケ。コペンハーゲン(デンマーク)の果物屋の店頭で売られていた。ノルウェーのボスでも、コンビニにアンズタケがあった。ストックホルム(スウェーデン)のレストランでは、魚とカンタレッラ(アンズタケ)のグラタンのようなものを食べた。

 実は偲ぶ会の前日、仲間が母校の先生と飲んでいて、キノコの話になった。私に電話をかけてきた。先生が出たが、周りがうるさくて話にならない。偲ぶ会でくわしく仲間から聴くことにした。先生はマツタケを採る。マツタケが採れるところには、トキイロラッパタケがいっぱい発生する。マツタケよりうまいという。そういう話だった。

 トキイロラッパタケはアンズタケの仲間だ。キノコ図鑑には、アンズタケは欧州では食味性ではハイクラスの食用キノコとして人気がある、生タケはもちろん缶詰、乾燥品も一般に市販されているが、日本ではいまひとつ人気がない――とある。私もせいぜい湯通しをして酢の物にする程度だが、今はあまり森に入らない。

 神妙にスタートした偲ぶ会も、ホウレンソウ鍋と刺し身をつつき、アルコールが入るにつれていつもの飲み会に変わった。5人のうち3人は今年(2017年)10月、3回目の台湾旅行を経験している。その報告会も兼ねた。小籠包の話には、味を思い出して舌がふるえた。

 最初はタイ旅行が計画された。が、国王が亡くなったために、台湾の東海岸巡りに変わった。ところが、帰国日にいわきでイベントが組まれ、浮世の義理で私も参加しなければならなくなった。泣く泣く旅行を断念した。
 
 酔えば大胆になる。来年(2018年)秋にはタイへ行くことが決まった。

2017年10月30日月曜日

雨の日曜日

 総選挙の投票日は台風21号、今度は22号だ。2週連続で雨の日曜日になった。
 いわき市では毎年春と秋の2回、まちをきれいにする市民総ぐるみ運動が実施される。金・土・日の3日間で、初日は「清潔な環境づくりの日」(学校・社会福祉施設・事業所・商店・飲食店街周辺の清掃)、2日目は「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」(海岸・河川の清掃、樹木の手入れ、公園・観光地・道路・公共施設の清掃)、最終日は「清掃デー」(家庭周辺の清掃)だ。
 
 今年(2017年)の秋の運動は10月20~22日だった。最終日の「清掃デー」に想定外の総選挙の投票が重なった。が、予定通り実施すると、市から封書で連絡がきた。雨では1週間延期するしかない。延期したら、また雨。いくらなんでも次の日曜日に――とはいかない。あとはそれぞれ自分で「清掃デー」をもうけてやってもらおう、ということで行政区の役員の了承を得た。

 晴れていれば、朝6時半から1時間、区民総出で家の周辺の清掃をする。そのあと、指定の集積所に出されたごみ袋を数える。それでお役御免になる。雨では夏井川渓谷の隠居へ行っても土いじりができない。
 
 このところ、市内では毎週末、いろんなイベントが繰り広げられている。新聞で「市場まつり」を知った。市中央卸売市場の開場40周年を記念して、青果、水産、花き各棟で即売会やショーなどが行われる。雨がくれた骨休めだ。出かけることにした。
 
 同市場は平と小名浜を結ぶ鹿島街道沿いにある。国道6号バイパスを利用して鹿島街道に出ると、車列ができていた=写真。ざっと1.5キロの大渋滞だ。少し進んでは止まり、しばらく止まっては少し進みしながら、市場への標識と、その先の信号が見えるところまで来たが……。台地の市場へと続く進入路まで車が数珠つなぎになっている。
 
 もう40分たった。まだ40分かかりそうだ。さすがにそこまで我慢強くはない。車列からはずれて街道沿いの本屋へ向かい、新刊本を眺めたあと台湾家庭料理の店へ行く。カミサンは2回目、私は初めてだ。小籠包と台湾にんにく湯麺(たんめん)を頼んだ。湯麺のスープは透き通っていて、あっさりしているのにコクがある。最後の一滴まで飲みほした。
 
 台湾が恋しくなったらここへ来よう、にんにく湯麺を食べよう――そんな思いを抱かせるような味だった。

2017年9月8日金曜日

ああ台湾

 還暦を機に始まった同級生による“海外修学旅行”が、今年(2017年)も行われる。10月中旬、三回目の台湾へ――といいたいところだが、断れない用と重なって参加できなくなった。
 帰国する日は10月14日夜。同じ日、いわき市で作家吉野せい原作の「洟をたらした神」上映会&トークショーが開かれる。神山征二郎監督を囲むトークショーに呼ばれている。初夏の段階では、1週間のずれがある、大丈夫と踏んでいたのだが。時期的にイベントが集中し、監督のスケジュールも考慮して、その日に絞り込まれたのだろう。
 
 幹事が日程を一日前倒しして、13日帰国の線で旅行会社と交渉したが、修学旅行シーズン、変更が難しい。みやげ話をどっさり持ち帰るから――ということになった。
 
 今週の月~火(9月4~5日)、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会が開かれた。参加した7人のうち4人、ほかに3人が台湾旅行に参加する。
 
 初回(2010年9月)は台風の直撃を受けて台北近辺を巡って終わった。二度目(2015年2月)は新幹線を利用して高雄=写真=まで足を延ばした。三度目は台北から高雄へ一気に南下したあと、東海岸を北上する。「おまえが提案したのに」。ほんとに申し訳ないことだ。
 
 ゆうべ、一杯やりながら5月下旬に届いた「台湾周遊」表をながめる。3泊4日で、台東~花蓮~基隆と東海岸を列車で移動する。泊まるのは高雄・花蓮・台北。二度目の故宮博物院見学が入っている。表にはないが、基隆近くの九分(実際は人偏に分)も再訪する。
 
 BSを含むテレビで台湾が放送されると、たいていは見る。台湾は行けば行くほど好きになる。東海岸の列車の旅も前にBSで見て、ぜひ「台湾一周」の旅を完結したいと思っていたのだが……。ああ台湾。台湾の味と人情。急に小籠包をいわきで食べたくなった。

2017年4月11日火曜日

台湾みやげ「土鳳梨酥」

 高3・高1の“孫”と両親が遊びに来た。パイナップルケーキの「土鳳梨酥」=写真=をみやげにもらった。
 私も仲間と2回、台湾へ観光に出かけたが、このお菓子は目に入らなかった。というより、食べ物にはそれほど興味がない。みやげ品店で甘納豆のようなハスの実の砂糖漬けを買ったら、ほかには目がいかなくなった。

 台湾は、行くたびに好きになる。初回(2010年9月下旬)は台北を中心に北部の烏来・野柳・九分(実際はニン偏付き)を巡った。2回目(2015年2月初旬)は 高速鉄道(新幹線)を利用して西海岸の南端・高雄へ。初回に台風の影響で高鉄がストップしたため、高雄行きを断念した。そのリベンジも兼ねた台湾再訪だった。日月潭も訪ねた。3回目は東海岸を巡ろう――と、仲間に諮っている。

“孫”たちはなぜ台湾へ? 下の“孫”の話で了解した。アニメ「千と千尋の神隠し」のモデル(舞台)になった、といわれる九分を訪ねたのだった。九分の「阿妹茶酒館」は、外側に赤ちょうちんが飾られている。私たちもそこで飲食した。経営者の父だったか祖父だったか、日本語を話すおじいさん(当時81歳)と歓談した。日本統治時代、子どものころに習った日本の歌も披露した。

 下の“孫”は高校入試・中学卒業と、3月をあわただしく過ごした。その区切りの台湾旅行でもあったか。

 幼・小・中と、“孫”の成長を見てきた。上の“孫”は能弁家タイプ、下の“孫”はひまがあれば画用紙に鉛筆を走らせるのが好きなタイプ。私ら夫婦の顔も、キラキラ目からリアルな素描に変わってきた。

 上の“孫”は「ストリートミュージシャン」でもある。わが家でもギターの弾き語りを披露する。このごろは現代詩にも興味を示すようになった。
 
 きのう(4月10日)、福島県立高校の入学式が行われた(きょう行う高校もある)。下の“孫”は「美術部に入る」と言っていた。
 
 カミサンは高校時代、美術部員だった。私もベンチャーズのコピーバンドの一員として、内郷公会堂(現・内郷コミュニティセンター)で演奏をしたことがある。
 
“孫”たちは「坂の上の雲」を見ている。私らは「坂の下の川」を見ている。親・子・孫の血はつながっていなくとも、人は交わりのなかで「非連続の連続」を生きている――そう勝手に解釈することにした。

2016年8月27日土曜日

台風のアジア名

 ほんとに降ってる――5時すぎに起きると、雨音が耳に入った。ゆうべの“最新情報”では、「朝から昼にかけて断続的に雨」だった。あとは曇り、あす(8月28日)の日曜日も「明け方まで雨」のあと曇り。熱中症にはならないから、ぎりぎりいい“天の配剤”かもしれない。
あす、近くの平六小校庭で神谷地区市民体育祭が開かれる。9月11日の日曜日にいわき市議選投開票が行われる。雨で1週間延期されても投開票とダブらないようにするため、9月第一日曜日と決まっている体育祭を前倒しした。

 ところが、台風が連続して日本列島をうかがい、前線も通過して雨がちな日が続いた。今週はたびたびパソコンやテレビのデータ放送で浜通り(いわき地方)の気象情報をチェックした。ついでに台風情報も。と、台風10号に「ライオンロック」という名前が付いていた。どういうことだ、これは!

 ネットで検索すると、気象庁の「台風の番号の付け方と命名の方法」に出合った。平成12(2000)年から、北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には、日本ほか14か国の同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)を付けることになった、とある。台風のアジア名だ。

 あれがそうか。2010年9月19日、3泊4日の台湾の旅を始めて2日目、「凡那比(ファナピ)」という台風に島が直撃された。テレビで知った=写真。(新幹線で高雄へ行くメーンの日程が中止になり、5年後、その新幹線に乗りたくて台湾を再訪した)

 今度、調べてわかったのだが、台風の名前は順に繰り返し使われる。大きな被害を出した名前はその後、リストから外されて、その台風だけを指すものになる。5年前の「ファナピ」がそうして“永久欠番”になった。

「ライオンロック」は香港(山の名前)、次いで「コンパス」(日本=コンパス座)「ナムセーウン」(ラオス=川の名前)「マーロウ」(マカオ=めのう)「ムーランティ」(マレーシア=木の名前)「ライ」(ミクロネシア=ヤップ島の石の貨幣)と続く。

 5年前は、この「ライ」のところが「ファナピ」だった。「サンゴ礁を形成する小さな島々」の意味、ということだったから、やはりミクロネシアの言葉だろうか。

 きょうは午後から校庭でテント張りをしたり、いすやテーブルを並べたりする。きのうまで土・日の気象予報は「午前曇り、午後雨」だった。それが、午後には快晴の影響もあってか、「午前雨、午後から日曜日は曇り」に変わった。予報通りなら万々歳だ。

2015年3月18日水曜日

『台湾の歓び』

 いわき総合図書館の新刊コーナーに、四方田犬彦著『台湾の歓び』(岩波書店)があった=写真。さっそく借りて読み始めたらおもしろい。300ページ余を一気に走り読みした。
 著者は2013年秋から翌年春まで、2つの大学の客員教授として台湾に滞在した。比較文学者・映画史家らしく、台湾の映画監督や詩人、作家らと対話し、「進香」といわれる道教の巡礼に加わった記録などを収めている。
 
 なかでも、中学校の先生をしながら小説を書いている宋澤莱(1952年~)と、彼が1985年に発表した作品『廢墟台湾』に強い印象を受けた。『廢墟台湾』は「大地震によって3機あった原子力発電所が同時に爆発し、外に洩れた放射能に被爆した20万人の人間が死亡したのは、2000年だった」。そんなことを想定して描かれた近未来SF小説だそうだ。

 チェルノブイリ原発事故が起きるのは、この小説が発表された翌1986年4月。長らく絶版だったのが、2011年3月の日本の原発事故を機に、「恐るべくも予言的な作品」として2013年に再刊され、大きな話題を呼んだという。日本語に翻訳されていないか、図書館にないか――チェックしたが、なかった。まだまだ日本では知られていないらしい。
 
 作家のイマジネーションが生み出したディストピア(反ユートピア)の世界。現実には、1Fは偶然にもそうなる前にブレーキがかかった。それこそ、ディストピアの世界にまで原子炉が暴走する可能性があった。
 
 ネットで『廢墟台湾』の情報を探っていたら、東日本大震災から4年がたつのを機に、3月14日、台北や高雄などで第4の原発建設中止を求める大規模デモが行われた、というニュースに出合った。3・11は、台湾人にとってもヒトゴトではなかった。
 
 ついでながら、著者は台湾滞在中に遭遇した学生による立法院占拠事件にも一章をもうけている。著者は知人教授とともに立法院内部に入り、指導者と対話し、退去の場にも立ち会ったという。学生たちは「東大安田講堂」のときと違って、いっさい破壊をせず、整然と、秩序立って行動した。
 
 台湾人の心のうちを知りたい、それには小説を読むのが一番。そう思っている。日本人の作品と台湾人の翻訳作品を、きのう(3月17日)、図書館から借りてきた。

2015年2月27日金曜日

頭の中のネギ地図

 いわき市が発行する「いわきブランド農産品通信」(タブロイド4ページ)は、季節ごとに新聞に折り込まれる。61号は2014年12月~2015年2月の「冬号」でもある。間もなく「春号」が配られることだろう。
 いわきの農産物についての情報を広く手に入れることができる。「冬号」では、四倉の長ネギ生産農家が紹介されていた。新聞に折り込まれたときには見落としたが、先日、カミサンがどこからか手に入れてきたのを読んだ。

 いわきの昔野菜に当たるかどうかはわからない。が、ネギの記事には①海に近い砂地で栽培している②葉の部分は青々としている③甘くてやわらかく、子どもでも食べやすい④冬季だけ「道の駅よつくら港」で直売している――とあった。次の日、道の駅へ車を走らせて長ネギを買った。

 まずは、わが家の定番のジャガイモとネギのみそ汁にする。夏井川渓谷で栽培している三春ネギと比べると、やわらかさは同じだが、甘みはさっぱりしている。日曜日(2月22日)には、魚屋さんからもらってきた養殖タイとネギのあら汁にした=写真。ゆうべ(2月26日)はマーボー豆腐に加えた。

 台湾を旅行したとき――。ニラや葉ネギのほかに、白根の長ネギを食べた。事前に調べておけば、いろいろ質問してガイド氏を悩ませることができたのだが。あとで検索したら、ブランドネギの「三星ネギ」らしかった。葱餅(ツォピン=ねぎもち)、鶏肉とネギの鉄板焼き、牛肉と白ネギの炒め物、スープ、……。いろんなネギ料理があるものだ。

 京都では青ネギ(葉ネギ)の九条ネギを食べた。会津の大内宿では、観光客が曲がりネギを一本箸にしてそばを食べていた。ベトナムやカンボジアでもネギを食べたが、葉ネギだった。

 旅行するごとに、年を経るごとに、頭の中にいわきと日本、アジアのネギ地図が書き込まれる。日本では白根をつくるのに土寄せをするが、台湾では幅の広い高畝にして、稲わらで畝を覆って白根をつくる。そんなことが、少しずつだがわかってくる。

 今はいわきで最後のお勤めをしている郡山市出身の同級生と、台湾旅行中にネギの話になった。子どのころ食べた曲がりネギの味が忘れられないという。阿久津曲がりネギだろう。いわきでは食べられないというから、冬になるとヨークベニマルで売っていることを教えてやった。

 そうだ、千葉県では台風が襲来したとき、海水を大量に含んだ潮風の影響で農作物がだめになった。そのとき、ネギだけが塩害を免れた。しかも、いつもより味がよかったという。

 で、それをヒントに、栽培中に5~6回海水を散布するようになったら、ブランドネギ「九十九里海っ子ねぎ」が生まれた。四倉のネギも海に近いのだから、一部、試験的に海水を散布してみてはどうだろう。「四倉浜っ子ねぎ」なんてものができるかもしれない。
               *
 けさの新聞に、「福食だより」というレシピ集(タブロイド24ページ)が折りこまれていた。いわき市の農・海産物プラス広野町の塩の「地産」「旬味」が紹介されている。「ine いわき農商工連携の会」が発行した。
 
 ざっと目をとおした限りでは、福島県の「ふくしまからはじめよう。若い力による風評対策提案事業」に採択されたことで始めた事業らしい。生産者と生産物と若手料理人の“三者会談”による、新しい食べ方が提案されている。手元に置いてじっくり読んでみるとしよう。

2015年2月22日日曜日

空から雲を撮る

 車を運転しているとき以外は、窓に張りつくようにして風景を眺める。電車。モノレール。飛行機。タクシー。さすがに地下鉄の場合は車内の様子をウオッチングするだけだ。
 今度の台湾旅行では、常磐線のほか、羽田―台北間の空からの眺め、台北―高雄の新幹線、台中―日月潭のバスからの風景を目に焼きつけた。

 行きの旅客機。風が強かったものの、晴れて眼下にくっきり風景が広がっていた。富士山は真っ白だった。雲が現れても、はるか下を行く。名古屋、大阪、四国、九州、……。どこでも川筋に集落があった。流域単位に生活圏、文化圏が形成されていることがよくわかった。

 カメラをバッグに入れたままだったので、行きは見るだけ。帰りはカメラを手元に置いた。台湾は寒気団が居すわり、雨模様の日が続いた。離陸して雲海を抜けてから、眼下に広がる雲の写真を何枚か撮った。

 雲の底は水平だということを、以前、モーターパラグライダーで動画を撮影している人のミニミニ講演で聞いたことがある。雲の上は、わりと凸凹している=写真。3カ月前に大腸の内視鏡検査をした。1年前と変わらなかった。ドクターの言葉。「相変わらずポリープが多いですね」。内視鏡がとらえた大腸の内壁の凸凹を連想した。

 その凸凹が、やがて夕日を浴びて陰影を帯びるようになった。雲海の上に広がる青空もだんだん暗みを増した。空が「北斎ブルー」になると、主翼に赤い光が差した。それからほどなく闇が訪れた。

 やがて羽田が近づく。眼下に海岸線と道路に沿って明かりがともっていた。「ミミズの目」ではわからない風景だ。内心は怖くて仕方がない「ツルの目」だ。着陸すると、ホッとした。旅行直前に起きた台北での飛行機事故が、頭のどこかにずっとひっかかっていた。

2015年2月18日水曜日

台湾再訪⑦故宮博物院

 きょう(2月18日)は陰暦で12月31日の大みそか、あしたは元日だ。先日旅行した台湾では、1年のうちで最も大事な祝日を控えて、人々が浮き立っていることだろう。
 2月6日、台北・松山国際空港から市街に入り、簡単な昼食をすませたあと、国立故宮博物院=写真=を見学した。4年半前にも訪ねた。今回の混みようは、前回の比ではなかった。時折、大きな声が飛び交う。子どもが不規則な動きをする。ロビーも展示室も中国人観光客に“占領”されていた。

 前回はほとんど目につかなかったスタッフがあちこちに立っていた。「撮影不可」マークの紙を掲げ、日本にも来た「翆玉白菜」の前では「立ち止まらないで」を連発していた。

 染色して豚の角煮に似せた「肉形石(にくがたいし)」も見た。台湾旅行の前、いわき駅前の中華料理店で角煮ラーメンを食べた。数の多さに苦戦したことを思い出す。

「これでは、旧正月は大変だね」。見学者の多さに驚いてガイド氏に尋ねると、「いや、旧正月はかえって人が少ないよ」という。そうか、日本の盆と正月の“民族大移動”と同じことが起こるのか。台湾もまた、中国や韓国、ベトナムと同じ「旧正月文化圏」。道路は大渋滞が続いているのではないだろうか。

 翌7日は台湾中部の日月潭を見た。北岸にある文武廟のそばのレストランで昼食をとった。ここでも中国人観光客が“占領”していた。

「あれっ」と思ったのは、台北「エバーリッチ免税店」に中国人の姿がみられなかったことだ。前回は大声に圧倒されたが、今回は日本語がかすかに聞こえるだけだった。故宮博物院だけは特別、などということはない。たまたまいなかっただけなのだろう。

 けさの新聞に「台湾に中国マネーの波」の見出しがついた大型記事が載っていた。「台湾で人民元を嫌がる人はいない」のだそうだ。

2015年2月15日日曜日

台湾再訪⑥ホオジロハクセキレイ

 台湾高速鉄道の台中駅――。階上の「月台」(ホーム)で列車を待っていると、人間の間をせわしなくセキレイが動き回っていた=写真。顔全体が白い。ハクセキレイだと、白い顔に横に黒い過眼線がある。それがない。ホオジロハクセキレイだった。
 もう30年以上前のことだが、北日本に多いハクセキレイが南下し、南からはホオジロハクセキレイが北上しつつある。セグロセキレイは、サンドイッチ状態で分布域が狭まっている――そんな調査結果を読んだ記憶がある。台中のホオジロハクセキレイから、突然、セキレイ界の“すみわけ異変”を思いだした。

 今度の台湾観光では、山地(日月潭)を訪ねるので国鳥のヤマムスメ(カラスの仲間)に出合えるかもしれない、と淡い期待を抱いた。黒い頭に青い背中、長い尾、赤いくちばしと脚。写真を見ただけでとりこになった。ガイド氏に話すと、目を丸くした。「ヤマムスメは国宝だよ。玉山のような高い山に行かないとムリ」。「国宝」はともかく、軽く一蹴された。

 帰ってから知ったのだが、ヤマムスメにほぼまちがいなく出合える山(陽明山国家公園)が台北市の郊外にある。しかし、それはバードウオッチングを目的にした観光であって、そのへんを歩いていて出くわすような鳥ではない、ということはわかった。
 
 すると、市内観光ではやはり目の前に現れたセキレイやスズメ、車窓から見たツバメや溜め池のサギ類くらいしかバードウオッチングの対象にはならない。
 
 高雄のスズメの一部は街路樹をねぐらにしているようだった。高鉄の左営駅の構内にも、左営駅に近い蓮池潭の龍虎塔にも、スズメは自由に出入りしていた。スズメはむろん留鳥だ。
 
 ホオジロハクセキレイは、台湾では留鳥ないし冬鳥らしい。ツバメも留鳥と日本から渡ってくる冬鳥がいる。もっと南に渡る旅鳥のツバメもいる。ちょっと見には、南方から北上中のツバメか、越冬して北上を開始するツバメかはわからない。さすがに亜熱帯~熱帯の島だけのことはある。
 
「ついでにバードウオッチング」は、台中でホオジロハクセキレイに出合えたので、それだけでもよしとしよう。

2015年2月14日土曜日

台湾再訪⑤医学衛生の父

 現いわき市渡辺町出身の医学者高木友枝(1858~1943年)は、台湾では「医学衛生の父」と呼ばれる。
 いわき地域学會が編集し、いわき市が発行した『いわきの人物誌(下)』(1993年)で、戦前~戦中、若くして渡辺村の村政を担った高木善枝(1903~68年)が紹介されている。友枝は善枝の祖父直枝の弟だ。生家の孫の世代の跡取りも立派な人物だが、その大叔父も国を超えて評価される人物だった。

 田口文章北里大名誉教授のエッセー「暮らしと微生物」によると、友枝はペスト菌を発見した北里柴三郎の一番弟子で、師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生的な仕事に尽力した。

 総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

 もともとは細菌学者である。ある研究レポートによると、畑違いの電力会社に関係したのは「人間関係の調整能力」を買われて、だった。田口名誉教授は、それとは別の見方を示す。マラリア研究の権威でもあった友枝は、「衛生状態の改善には経済的な発展が必要」と考え、みずから社長になって台湾電力を創設した。
 
 要するに、公衆衛生の官僚・学者としても、人間としても高い評価を得ていた、ということだろう。
 
 台湾電力会社が最初に手がけたのは、台湾中部の湖・日月潭を利用した水力発電だった。(以下は漢文のブログ=日本語に自動翻訳されたもの=などを読んで見えてきたことなので、まちがっていたらごめんなさい)
 
 日本が建設した水力発電所は、今は「大観発電所」と呼ばれる。日月潭を天然ダム湖とし、上流の山陰を流れる濁水渓からトンネルで日月潭に導水した。湖の水深はそれで最深6メートルから27メートルになった。この湖は人工的に深く、大きくなったのだ。
 
 発電用の水は、湖からさらに低地の濁水渓の支流・水里渓に設けられた発電所へと、導水トンネルを伝って流下する。その発電所から送電線と鉄塔が台湾の西側に張り巡らされている。
 
 日月潭へと濁水渓沿いをさかのぼっていったとき、送電鉄塔に出くわした=写真。ときどきいわきの山里に出かけ、東電の1F・2Fからの送電鉄塔を眺める身には、台湾電力の送電鉄塔は小さくとも大きな物語を秘めている、と思われた。

台湾の初期の電気事業は種々の困難をのりこえ、長い時間と莫大な費用をかけて完成した。友枝がその創設にかかわったからこそ、この鉄塔も送電線もある――そんな思いでパチリとやった。

2015年2月13日金曜日

台湾再訪④高速鉄道

 高速鉄道(新幹線)を利用して台北から高雄へ――。2010年9月の台湾旅行では、台風の影響で高鉄がストップしたため、高雄行きを断念した。そのリベンジも兼ねた台湾再訪だ。2月7日午前10時前に台中駅で高鉄を下りて日月潭へ。午後は台中駅から左営駅(高雄)へと再び高鉄で南下した。

 台中駅で初めて高鉄の先頭車両を見た=写真。白い顔にオレンジ色のくちばし、といったところだろうか。「乗り鉄」でも「撮り鉄」でもない人間には、アヒル型かカモノハシ型かはよくわからなかった。

 朝、台北のホテルを出るとき、日航の客室乗務員とエレベーターが一緒になった。「(羽田まで)一緒(の飛行機)ですか」と聞くから、「これから高雄へ」「新幹線で?」「それに乗るために来たの」。なんだか小学6年生レベルの受け答えになっていた。

 高鉄は台湾の西側平野部を走る。作家の埴谷雄高は台北の南西、新竹で生まれた。詩人の工藤直子は高雄の手前、北回帰線に近い朴子で生まれた。作家や詩人が小さいころ過ごした土地の風景を目に焼きつけようと、高鉄の車窓に張りついていたのも小学生的ではある。
 
 水田では代かきが始まっていた。南下するにつれて田植えの済んだ水田が多くなった。水稲は2期作だという。そういえば、台中から日月潭への道すがら、川沿いにツバメが乱舞していた。日月潭の周回道路には、花桃かと見まごうほど赤みの強い桜が咲いていた。旧正月は、台湾では自然も含めて文字通りの「春節」になる。

 台湾高鉄は全長345キロ。東北新幹線でいうと、上野―仙台間348.2キロとほぼ同じだ。

 手元に使用済み切符がある。行きは台北08:54分―台中09:43分で所要時間49分、台中15:22分―左営(高雄)16:06分で44分。翌8日の帰りは左営10:54分―台北12:30分で1時間36分。このとき、毎時292キロの表示を確かめたが、知らない間に300キロまで出ていたのだろうか――。

 北回帰線をいつ、どこで越えたのか、わからなかったのが少し心残りだった。

2015年2月11日水曜日

台湾再訪③921大地震

 台湾観光2日目の2月7日は台北市から台中市へ新幹線で移動し、南東の山中にある湖、日月潭(標高748メートルだとか)へ観光バスで直行した。
 台湾中部は1999年9月21日午前1時47分、直下型の大地震に襲われた。ネットで検索すると、「921大地震」とも「台湾中部大地震」とも出てくる。日月潭の西のふもとにある川(濁水渓)沿いの町・集集付近が震源地だった。2400人余が亡くなり、建物約8万棟が倒壊したという。周辺の山々は崩れてはげ山になった。「山津波」が同時多発したようなものだろう。

 ガイド氏に大地震の話を聞いたので、バスの窓から川沿いの風景に目を凝らした。大地震から15年がたった今は、その傷跡を探すのは難しい。日月潭の観光名所、玄奘寺と文武廟=写真=も被災したが、ここでも修復がなされていた。

 台湾は小さな島なのに、南北にのびる山脈は玉山(日本統治時代は新高山=3952メートル)をはじめ、3000メートル以上の山だけでも166座ある。そのワケは、大陸側のユーラシアプレートと海側のフィリピン海プレートがせめぎ合って隆起してできた陸地だから、らしい。こんにゃくを両側から押すと真ん中が盛り上がる。それと同じ、と考えるとわかりやすい。

 921大地震の際には、日本からいち早く救援隊が駆けつけた。義援金も群を抜いていたそうだ。その恩義に報いようと、東日本大震災では巨額の義援金が寄せられた。天変地異はいつ、どこで発生するかわからない。が、ともかくも玄奘寺と文武廟で、台湾への感謝と平安を祈らずにはいられなかった。きょう(2月11日)は東日本大震災から3年11カ月の節目の日、月命日だ。

2015年2月10日火曜日

台湾再訪②農暦

 台湾は、今が「尾牙(ウェイヤー)」=忘年会のシーズン。尾牙のあとに1年のうちで最大の行事である「春節」(正月)がやってくる。今年は2月19日が陰暦の元日。前日18日の大みそかから6連休に入る。車道中央の緩衝帯には、夜になるとイルミネーションの“壁画”ができた=写真。春節へのカウントダウンが始まっていた、というところだろうか。

 ガイドの陳さんの解説や、4年半前の台湾旅行の際にも顔を見せた級友の知人(システムエンジニア)の話から、年中行事や通過儀礼の日台の違いを感じた。

 日本のわがふるさと(現田村市常葉町)でも昭和30年代前半(もしかしたら町が大火事になる同31年まで)は、陰暦で正月を祝ったように思う。陰暦の正月2日に初売りの「二日市」が開かれた。各商店が暗いうちから店を開け、通りは在郷(ムラ)からやって来た人でごった返した。日本もちょっと前までは同じ「陰暦文化圏」だったのだ。

 級友とシステムエンジニア氏は日・英語のほかに漢字で筆談した。システムエンジニア氏は陰暦を「農暦」と記した。家庭菜園をやっていると、種をまく時期が気になる。で、太陽暦よりも自然の動きに基づいた農事暦に目がいく。陰暦だと農作業の計画が立てやすい。「農暦」という文字が即座に理解できた。

「農暦」のついでに「還暦」の話を――。旅行仲間の1人が60歳の誕生日を迎え、台湾2日目の夕食の席でケーキと赤いちゃんちゃんこ・帽子をプレゼントされた。幹事苦心のサプライズのはずが、直前に情報がもれたため、早々と「ハッピ・バースデー・ツー・ユー」が行われた。

 ホテルに引き上げたあと、訪ねて来たシステムエンジニア氏も、今年60歳になる。「還暦祝いはするのか」と聞けば、「そんな習慣はない」。代わって、男は50・60・70歳、女は51・61・71歳のときに大々的な誕生日パーティーを開くのだとか。
 
 そういえば、ホテルのロビーに着いたとき、風船をいっぱい持った若い女性たちが横切っていった。風船には英語で「ハッピーバースデー」とあった。だれかの誕生日パーティーに向かうところだったのだろう。

2015年2月9日月曜日

台湾再訪①寒波

 台湾は亜熱帯の島というイメージがあるので、コートは置いていくつもりでいた。羽田空港そばのホテルに前泊した2月5日、ブレザーだけで家から出かけようとすると、カミサンが「コートも、マスクも」とうるさい。向こうに着いたら荷物になるだけ――そう思っていたが、いやいや着て行ってよかった。寒気団が居すわり、いわきと変わらない寒さだった。
 7日朝、ホテルの部屋でテレビ(中視新聞台)を見ていたら、2月4日に起きた復興航空旅客機墜落事故のニュースをやっていた=写真。「復興空難Day4」と画面上部にあった。字幕から墜落現場である川の「水温が骨を刺す」ように冷たくて捜索が難航している様子がうかがえた。死者はその時点で35人にふくらんでいた。

 台湾は北回帰線を境に、北が亜熱帯地域、南が熱帯地域に属する。冬はしかし、寒波に覆われることがあるという。6~8日の台湾観光中はほぼ曇天、北の台北はもちろん、南の高雄でもジャンパーやコート、マフラー姿の人が目立った。

 羽田前泊の日、仲間の家を経由して出かけた。そこでも「パスポートは持った? 財布は?」と仲間がチェックを受けていた。口うるさく言う人間がいなかったら、亜熱帯の島で風邪を引いていたかもしれない。