2022年3月31日木曜日

へちまたわし

                            
 家の庭に水を張った睡蓮鉢(すいれんばち)がある。去年(2021年)の夏、カミサンがヘチマを2個ひたして、上に植木鉢を載せた。

 それから半年余り――。実の外側は腐敗し、水は悪臭を放っていたが、いかにもヘチマらしい繊維状の中身が現れた。よく水洗いしたあとの姿がこれ=写真。

 夏井川渓谷の隠居へ行くと、たまに上流まで足を延ばし、山を越えて直売所巡りをする。小野町・おのいちへ、平田村・道の駅ひらたへ。なかでも、三和町下市萱・ふれあい市場へはよく行く。

ときには、好間町榊小屋まで下って、ギャラリー木もれび、有機無農薬栽培の直売所・生木葉へ寄る。ヘチマは生木葉からちょうだいした。

 わが家では、水にひたす昔ながらのやり方で繊維を取り出したが、今は時間短縮と悪臭対策のために煮て皮をむく、あるいは天日でカラカラにしてから皮をむく、というやり方が多いらしい。

同じウリ科の仲間であるキュウリがそうであるように、 ヘチマの未熟果も食用になる。といっても食べた記憶があるのかないのか、はっきりしない。

食べ方を調べているうちに、台湾の小籠包に出合った。小籠包の具にヘチマの未熟果が入ったものがあるのだとか。

これは知らなかった。平成21(2009)年9月、同級生と還暦を記念して海外修学旅行を始めた。2回目の翌年秋は、台湾高鐵(新幹線)に乗って南の高雄(カオション)へ行き、港から南シナ海に沈む夕日を見よう、ということになった。

 台北(タイペイ)に着いた翌朝、台風が襲来した。新幹線は動かない。予定を変更して、台北市内の温泉につかり、烏来(ウーライ)・野柳(イェーリュウ)・九份(チゥフェン)と観光名所を巡った。

 このとき、台北市内の料理店で小籠包を食べた。口に入れた瞬間、スープのうまみと中身がジワッと口中にとろけてひろがった。そのおいしさにただただ感動した。

 それから半年後に東日本大震災が起きた。台湾から200億円以上の義援金が寄せられた。

台湾高鐵への思いと「謝謝!台湾」の気持ちが募って、平成27(2015)年2月、旧正月前の台湾を仲間と再訪した。高雄で南シナ海を見るという念願がかなった。

 台湾の思い出は、となると、真っ先に小籠包が思い浮かぶ。それがへちま入りだったかどうか、今となっては確かめようがない。が、熱々の、あのスープのうまさだけは今も舌頭によみがえる。

 それに、今度初めてわかったのだが、スープは蒸す前は煮凝り状態で、豚ひき肉などとともに具材としてくわえられ、蒸されることで肉汁に変わる。食に関する創意工夫と、その奥深さにあらためて感じ入ったのだった。

 へちまたわしは今、二つに切られて風呂場にある。たわしというよりはスポンジだ。へちまスポンジは天然素材だから、繊維が切れてもマイクロプラスチックのように自然環境を汚染することはない。

2022年3月30日水曜日

植物の根の力

夏井川渓谷の隠居の庭は「堆肥」の宝庫でもある。3・11の前は庭の落ち葉を集め、草を刈って木製の堆肥枠に投入し、分解して堆肥になるのを待った。

それだけではない。街中では公園のそばに住む人々が落ち葉をごみ袋に詰めて、燃やすごみとして出す。

知り合いの店の近くにも、毎年、落ち葉の袋が積み上げられた。「燃やすのはもったいない、堆肥にするから」と一部をもらい受け、夏井川渓谷の隠居へ運んだものだ。

隠居の庭が凍る冬場は、生ごみを堆肥枠に投入する。堆肥は発酵・分解して熱を帯びている。スコップで穴をあけるのも簡単だ。

 3・11後は、庭が全面除染された。ネコの額のような菜園の土にも、汗と堆肥の蓄積がある。それがいったんチャラになった。

しかし、再び庭に種が飛んでくると、あっという間に雑草の海ができる。三春ネギの種をまき、疊3枚分くらいのうねが復活すると、イネ科のメヒシバが周りを囲むように繁茂した。

 夏場、熱中症になるのを避けて草刈りを休んだら、メヒシバが伸びて1メートルくらいになった。それをフィールドカートに座り、ねじり鎌を使って根っこから引っこ抜く。

堆肥枠があったころは、この刈り草を積んでブルーシートをかけ、四隅に石を置いた。今も同じところに刈り草を積み上げている。

震災で庭の石垣が一部崩れ、雨による土砂流出を抑えるために、崩落個所にこのブルーシートをかけた。これは今もそのままになっている。

代わって、野積みの刈り草にはブルーネットをかぶせ、風で吹き飛ばされないよう、四隅に石を置いた。

 あるとき、庭の刈り草がいっぱい出た。それをたまたまブルーネットの上に積み上げ、そのままにしておいた。

1年、いや2年近くたったある日、堆肥化して黒々とした刈り草をどけてブルーネットをはがそうとしたら、びくともしない。土中にのびた根がネットと堆肥にからみついている。

作業の途中、近所の家に用があって出かけた。その間はカミサンが一人でネットをはがし続けた。

用事をすませて作業に戻ると、ほどなくネットがはがれた。びっしり植物の根がネットに張りついている=写真。なんという生命力だ。

原因ははっきりしている。シートであれば光を遮るから植物は芽を出さない。ネットだったために雨も光も降り注ぎ、刈り草の種が活気づいた。

たまたまネットがあったから使っただけだが、そこに刈り草がのっかったらどうなるか、シートとは別の想像力が必要なのに、「ま、いいか」ですませてしまった。

それに、夫婦といえども土いじりや刈り草への考え方が微妙に違う。私は野菜派、カミサンは花派。刈り草も、私は散らばっていても平気だが、カミサンは片づけないと気がすまない。

 そもそもカミサンがネットを取り除こうとしたのは、そこを花壇にしたかったからだ。私はそのまま堆肥づくりのスポットにしておきたいのだが……。 

2022年3月29日火曜日

隠された大震災

                               
 先日亡くなった西村京太郎さんは、十津川警部シリーズで知られる推理作家だ。テレビドラマでは承知していても、作品は読んだことがない。

 いわき駅前の総合図書館へ行くと、「追悼コーナー」ができていて、新書サイズの西村さんの作品がボックスの上に展示されていた。

 なかに『一九四四年の大震災――東海道本線、生死の境』があった=写真。1944(昭和19)年の大震災といえば、戦時下の日本で起きた「東南海地震」のことだ。

 東日本大震災の年から何年か、学生を相手に、「メディアと社会」の話をしたことがある。そのとき、「大本営発表」にからめてこの大震災を取り上げた。

タイトルから「隠された大震災」を思い出して、初めて西村さんの本を借りて読んだ。図星だった。

親子2代、在野で東海地方の地震と津波を研究し、巨大地震のあとには誘発地震が起きることから、次への備えを呼びかけていたところ、初めは警察、次いで特高や憲兵隊にしょっぴかれる。

親子が懸念していたとおり、東南海地震の1カ月余りあとに「三河地震」が発生する。それでも、父親は憲兵隊によって秋田の鉱山へ、息子は懲罰召集で沖縄の戦線へ追いやられる。物語はさらに現代、孫の代へと続き、戸津川警部が登場する――。

推理小説だから、物語は複雑に絡みあう。が、主題は政府と軍部による言論統制・報道管制がいかに市民の生命と財産を奪ったか、だろう。

「広報ぼうさい」によれば、これら二つの地震は日本の敗戦が色濃くなった戦時下で起こり、軍需工場が集中する東海地方に大きな打撃を与えた。当時は報道管制下にあり、「隠された地震」ともいわれた。地震と津波による死者数は、東南海が1223人、三河が2306人だった。

外交ジャーナリスト清原冽(きよし)が『暗黒日記』に12月の東南海地震について書いている。

「12月11日(月) (略)東洋経済の評議員会に出る。諸氏の談話によって、過般の中部日本の地震が、戦力に極めて重大な影響あるを明らかにした。日本の飛行機生産の少くとも四割は名古屋付近にあり、その外に造船、重工業はその方向に多い。しかも、それ等は海浜の埋立地に多いから、被害も多かろうという」

続けて、報道管制下にあるメディアについて記す。「(略)震災のことは新聞はほとんど書かない。ラジオは全く放送しなかった」

たまたま12月8日は開戦記念日で、朝日新聞はその特集のために4ページを製作した。地震の記事は小さく3面に掲載された。

当時の新聞は物資不足のために、通常、ペラ1枚、2ぺージ。震災報道は裏の2面、しかもベタ記事に抑えられた。死者の数などは当然、書けない。大災害でも被害の程度は「微小」と、事実とかけ離れた報道を強いられた。

それから77年。ロシアでは今、メディアは「戦争」という言葉を使えない。「大本営発表」は国や時代に関係なく繰り返される。

2022年3月28日月曜日

ウグイスの初音

        
  3月最後の日曜日は、晴れて強風が吹き荒れた。夏井川渓谷の隠居へ出かけ、畑に生ごみを埋めると、家に引っ込んで風を避けた。

風はしかし、もう冬の冷たさではない。室温は石油ストーブ一つで17度まで上がった。ラジオが伝える各地の気温も高い。

体が温まるとまた外へ出て地面に目を凝らし、家の周りを歩いて春を探した。下の庭は枯れ草の海に緑の島ができていた。

地温もだいぶ上がってきた。畑の土がほぐれてきたのでわかる。3月22日の雪(みぞれ)のあと、土曜日にお湿りがあったためか、畑にスコップを差し込むと、すんなり入っていく。

 緑の島の一つはオオイヌノフグリ。島と島がつながって大陸になり、その上に空色の花のレースが重なる。かたわらでは、前の日曜日まで気づかなかったツクシが茎をのばしている=写真上1。

 庭の木に目をやれば、玄関わきのアセビは白い鈴を鳴らしたように花盛りだ。風呂場の前のカリンも芽吹き始めた。

渓谷に入る手前、加路川が夏井川に合流するあたりでは、ハクモクレンが咲いていた=写真上2。

 鳥の声はない。あまりの風の強さに、人間同様じっとしているのか。渓谷でもそろそろウグイスがさえずり始めるのでは、と期待して来たのだが、結局、この日は風の音しか聞こえなかった。

朝も帰りも、小川町三島の夏井川ではハクチョウが50羽ほど羽を休めていた。北帰行が続いて、そこまで数を減らした。 

ちょうど1年前の3月27日、土曜日早朝。「朝めし前の生ごみ埋め」に、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

三島のハクチョウは姿を消した、と思ったら、1羽だけ残っていた。右の翼が少しおかしい。1週間後もいれば、けがをして飛べなくなったコハクチョウであることがはっきりする。

4月4日の日曜日朝、隠居へ行く途中に見ると、やはりいた。間違いない、けがをして残留したのだった。

このハクチョウに「エレン」と名付けてえさをやっている女性がいる。その後の経緯については、拙ブログで何度か取り上げた。

暑い夏に耐え、秋になって仲間が飛来すると、どこにエレンがいるのか、わからなくなった。しかし、世話をしている女性にはわかる。エレンは飛べるようになったともいう。

一番いいのは、エレンも含めて1羽もいなくなることだ。それがわかるのは今度の日曜日あたりか。

ところが、なかに1羽、羽のそばだっている個体がいた。たまたま風にあおられてそうなったのか、それとも……。エレンの例があるので、気がもめる。

隠居から街へ戻ったあとは、夏井川の堤防を利用して帰宅した。ハクチョウは1羽もいなかった。

新川の合流部からやや下流、平・塩地内の河川敷が一部、やぶのままになっている。そこからこの春初めて、ウグイスの下手なさえずりが聞こえてきた。まずは春を告げる声にホッとする。

2022年3月27日日曜日

ふきみそ

        
 1月は、どこに出ているのやら――そう思わせるほど、姿が見えなかった。2月中旬になると、一気に頭を出した。カミサンが毎週、夏井川渓谷の隠居の庭でフキノトウを摘んだ。まずはてんぷらに=写真。ふきみそもつくった。

さらに後日、Eテレの「やまと尼寺 精進日記」を見て、関西風のふきみそをつくってみたという。

ネットでそちらのレシピを確かめる。ポイントだけいうと、まず、お湯で1分間ゆでる。それを水にさらす。そのあと、手早く刻んですり鉢に入れ、白みそと砂糖を加えて擂粉木でする、というものだった。

白みそはもちろんあれば使う。しかし、いわきは東北、赤みそ文化だ。そのへんは省略して赤みそを使った。

食卓に2種類のふきみそが並んだ。一つはいつものやり方でみじんにして、砂糖と赤みそを加えて油でいためたもの。香りと苦みが強い。もう一つは関西風の緑がかったもの。こちらは淡白な味というか、薄味のふきみそだ。

油いためのふきみそになじんでいる人間には、関西風のふきみそは、なんとなく物足りない。

わが家で食事をとる義弟も、やはり濃い味のふきみそ派だ。関西風ではなく、東北風。これが味蕾に刷り込まれている。

カミサンが知人にお福分けをした。その反応も同じだった。関西風味を好んだのは1人、ほかは昔ながらの油いため派だったという。

フキノトウは毎年、同じところに出る。それと向き合う人間は1歳ずつ年を取る。幼年・少年・青年と、人生の歩みとともにフキノトウへの思いが変化する。こんな山菜はまずないのではないか。

母方の祖母が住んでいた山の一軒家の近く、田んぼの土手でフキノトウを摘んだのが最初の記憶だ。小学校に上がる前、6歳のころだった。小4のころには、半ば強制的に母に連れられてフキ採りを経験した。

子どものころ、フキノトウは苦くて食べられたものではなかった。ところが、就職して間もないころ、酒のつまみにフキノトウの蒸し焼きが出た。初めて丸ごと食べた。

フキノトウの苦みが、大人になったときに郷愁と結びついて、好ましい食べ物に替わっていた。

フキはてんぷらやふきみそだけではない。茎も煮たり、油いためにしたりして食べる。このごろは出来合いを買って間に合わせる。しかし、ここにも古い味と新しい味がある。

 街中の食品店に量り売りの「フキの油いため」があった。すぐ買って、酒のつまみにした。フキの風味はどこかへ消えて、砂糖の甘さだけが口に残った。そんな油いためも出回るようになった。

さて、次は木の芽だ。ふきみそが切れるころ、サンショウの若芽が吹く。これもいい食材になる。あえもの・吸い口・彩り、あるいはさんしょうみそに……。

庭の若いサンショウを見ると、あれれれ、新芽が出ていない。バシッ、バシッと切られたような跡がある。今年(2022年)は夏井川渓谷の隠居の庭で木の芽を調達するしかないか。

2022年3月26日土曜日

歌集『再び還らず』

                                
   3・11あと、歌人や俳人の震災詠を読んできた。初期の震災詠にのみ通じることかもしれないが、なぜか短歌に引かれた。

俳句は17音、世界を詠みきるには短すぎる。短歌は17音プラス14音の分、内面にまで降り立つことができる。両方の震災詠を読み比べてそんな感想を抱いた。

震災後、日経の文化部編集委員(宮川匡司さん)が詩人の吉本隆明さんらにインタビューをした。その単行本、『震災後のことば――8・15からのまなざし』(日本経済新聞出版社)が平成24(2012)年4月に出た。

詩人で弁護士の中村稔さんにも話を聴いた。「歌の力」について、記者はたずねる。震災を詠んだ作品の印象として、「詩よりも短歌の方が、見るべき作品があるように思うのですが」。

中村さんは答える。「歌の方が、一般庶民の心情に近いレベルで、日常的な心境を表現できるんですね。日記代わり毎日毎日、歌を書きつけてゆく、というところがある。(略)僕のように天変地異に対して、人間はどうあるべきか、なんて考えると、なかなか詩は書けない」

で、結論。「歌を書く人は、日記みたいにして日常的な視点から作品を書くから、中にはいいものができる、ということがあり得るともいえる」。中村さんの見立てが腑に落ちた。

短歌や俳句や詩のことを思い出したのにはワケがある。先日、カミサンが大熊町出身の女性から、佐藤祐禎歌集『再び還らず』の恵贈にあずかった=写真。

佐藤さんは、事故を起こした原発のある大熊町で農業を営むかたわら、短歌を詠み、原発の危険性を訴えてきた。

平成16(2004)年には短歌新聞社から歌集『青白き光』を、震災後の同23年にはいりの舎から同歌集の文庫版を出した。

歌集『再び還らず』には、佐藤さんが原発避難を余儀なくされた同年3月から翌24年8月までの作品が「月ごと」に収められている。

佐藤さんは3・11の翌月、「原発の崩壊に逐(お)はれ六度ほど宿り替へつつここいわき市に」来た。そのいわき市で平成24年9月に倒れ、翌25年3月12日に亡くなった。歌集発行日が令和4(2022)年3月12日になっているのはそのためだ。

 時系列で作品を読むと、一人の人間の日々の暮らしや思いが手に取るようにわかる。なかでも、いわきから北にある大熊への郷愁には胸が締め付けられた。

  エアコンなどをかけしことなきわが家を捨てて逃れて狭きアパート

  北を指す雲よ大熊に到りなば待つ人多しと声こぼしゆけ

  佐藤さんが倒れる前の月(平成24年8月)の歌にはこんなのもある。断念、つまりは「再び還らず」の思いがにじむ。

  あたらしき家に移らむ日も近し完全に古里失はむ日も

  ああわれら難民とよばるる身なりよとある時はつとわが気付きたり

  短歌という形式でマスメディアが伝えきれない原発避難者の内面を知る。日常的にあふれ出る無念、望郷、喪失感……。

  ちなみに、女性の父親と佐藤さんは友達、佐藤さんの奥さんは先生で、女性が小学1、2年のときの担任だったという。

2022年3月25日金曜日

ホップ畑

                      
 栽培しているホップを初めて見たのは小学校の高学年のときだ。野菜畑と違って、何列も緑のカーテンが立っていた。

中学校のグラウンドが丘の上にある。北側は急斜面で、日曜日や夏休みなどには子どもたちの遊び場になった。谷底には田畑が広がっている。その一角にホップ畑があった――。

ざっと60年前の、阿武隈高地の記憶だ。ほかにも柱がたくさん立っている畑の記憶がある。が、明瞭に覚えているのは谷底のホップ畑だけだ。緑のカーテンに強い印象を受けたのだろう。

 ホップはヨーロッパ原産のつる性植物だ。ビールの苦みの原料になる。北緯35度以北が適地で、日当たりがよくて冷涼なところが栽培に向いている。

国内では、岩手県遠野市が生産地として有名だという。大手ビール会社用に契約栽培が行われている。昔は福島県内でも各地で生産された。岩手県同様、契約栽培が行われていたのだろう。

阿武隈高地はまさにホップ栽培の適地だったわけだが、いつのまにか福島県内では生産が途絶えた。それが、東日本大震災と原発事故のあと、風向きが変わった。

田村市都路町に「グリーンパーク都路」という公営のオートキャンプ場がある。震災後、休眠状態だった施設を一部改修して、地ビールを醸造できるようにした。「ホップジャパン」という新しい企業が手がけている。

同社を取り上げた報道を要約すると、田村市内に契約農家を増やしてホップを生産し、輸入原料に頼らない地ビールを製造・販売する、それによって「経済が循環するまち」をめざす、ということらしい。

同じ阿武隈高地のいわき市川前町でも、新しい動きが出てきた。地域おこし協力隊員が中心になって、地ビールづくりが進められている。

先ごろ、「夏井川流域振興事業 みんなでつくる特産品モデル事業 川前産地ビール醸造モデル事業」による特産品開発が行われ、試作品の「いわき乾杯! KAWAMALE(カワマエール)」=写真=が完成した。

原料のホップと大麦は川前地区の休耕地を利用して栽培した。昔は阿武隈のほかの地区同様、川前でもホップの契約栽培が行われていたという。

やがては協力隊員がみずから川前で起業し、地ビールを本格的に生産する構想を練っている。

ホップ生産、そして地ビール醸造。これは、半分新しくて半分懐かしい試みだ。失われた風景が復活する、まれなケースといってもいい。

阿武隈の山里で生まれ育った私は、阿武隈の風土に適したモノで、新しい産業が生まれる様子を想像して、弾んだ気持ちになる。

記憶の底に沈んでいたホップ畑の映像が、時代の課題と結びついて輝きだすようにさえ感じられる。ホップ畑――なんとも感慨深い響きだ。

2022年3月24日木曜日

堤防の菜の花

きのう(3月23日)の朝8時過ぎに、ドサッ、ドドンが始まった。なんだろう、この音は、このかすかな揺れは――。

福島県沖を震源とする最大震度6強(いわきは5強と5弱)の地震が3月16日深夜に発生したばかりだ。かすかな揺れでも、つい地震と結びつけて考えてしまう。

が、このドサッは“震源”と“音源”が近すぎる。台所のなにかが落ちたのか。カミサンが確かめると、なにも変わったところはない。

前日は、早朝の雨が湿った雪になったり、みぞれになったりして、夕方まで降り続いた。庭に降った雪はあらかた融けたが、屋根にはかなり積もっている。向かいの家の屋根が真っ白なのでわかる。積雪は7センチくらいだろうか。

地震ではない。人間がなにかをして発している音でもない。そうか! 外に出て2階を見ると、屋根の雪が少しせりだしている。

朝日に照らされた雪が融けて滑り出し、それが、ちょうど瓦1枚分くらいの大きさに割れて、落下を繰り返していた=写真上1。その音だったのだ。

いわきの平地では、雪は南岸低気圧が東進する春先に降ることが多い。といっても、しょっちゅうではない。だから、山間部と違って街の人間は屋根からの落雪を想像しにくい。それでドサッ、ドドンの原因に気づくまで時間がかかった。

それからというものは、太陽に暖められ、屋根を少しずつ滑ってせり出した雪の板が、自分の重みに耐えかねて落下する音が続いた。

東から、南から、西から、ドスン、ドスン。茶の間の空気が揺れる、揺れる。2階の物干し場だけでなく、家の周りが落雪で白く爆発したようになっていた。

暑さ寒さも彼岸まで、とはいうが、この春は彼岸直後に街も山も白い綿をかぶった。それでも、「光の春」と「寒さの冬」が綱引きするなかで、大地は春へと装いを変えつつある。

わが生活圏の夏井川(平・鎌田~中神谷)にはこの冬、ハクチョウが大量に飛来した。それが先の日曜日(3月20日)には50羽ほどに減り、きのうの夕方、街の帰りに見ると、ゼロになっていた。

土手には黄色い花が咲き始めた=写真上2。セイヨウカラシナだろうか。ハクチョウの白から菜の花の黄へ。夏井川の河川敷も春の色に変わりつつある。

「たのしみは 空暖かに うち晴れし 春秋の日に 出(い)でありく時」(橘曙覧)。春の便りが間もなく届く。この雪だってそのあかしのようなものだ。

   とはいえ、河川敷は立木が伐採され、堆積土砂が除去された。3月に入るとウグイスがさえずりはじめるのだが、今年(2022年)はまだ聞かない。 

2022年3月23日水曜日

いつもの春の雪

                      
    前の日の天気予報を聞いていやな感じがした。きのう(3月22日)午前4時半に起きたら雨だった。このまま雨ならいいのだが……。

朝6時半にカミサンが外へ出ると、雨が雪に変わっていた。たちまち車の屋根とフロントガラスが雪で白く覆われた。

灯油がなくなったので、7時にはガソリンスタンドへ買いに行った。雪といっても、みぞれに近い。道路は黒くぬれているだけだ。

よりによってこの日は午後、市役所で会議がある。気象会社の予報を見ると、午後にはみぞれから湿った雪に変わるようだ。道路はぬれても雪は積もらないはず、そう判断して車で出かけた。

会議が始まる。時折、窓の外に目をやる。激しく雪が降っている。が、雪は水分を含んで重そうだ。生垣は白い。しかし、アスファルトの駐車場は黒々としている。

宵の6時には曇りになるという予報だった。5時に会議が終わると、予報より早く雪がやんでいた。駐車場も道路もぬれて黒いままだ。

道路が白くなるようだったら市役所に車を一泊させるしかない。翌日も会議がある。そのときはタクシーで、と開き直って会議に臨んだら、いい具合に雪雲が東へ去った。スリップする心配がなくなった。安心して車で帰宅した。

いわきの平地では、雪は主に南岸低気圧の影響で春に降る。珍しいので、格好の被写体になる。午後の会議は会議として、朝は庭の柿の木の枝に積もった雪を撮った=写真。カエデの幼木にも積もったが、こちらは透明なザラメ状だ。

 雪の白と枝の黒。頭の中では、アンセル・アダムス(1902~84年)風にモノクロに置き換えていた。アダムスは、ヨセミテ渓谷のモノクロ写真で有名なアメリカの風景写真家だ。

彼の雪の木の写真を見てからというもの、夏井川渓谷で、平地のわが家の庭で、雪が降ると、構図をまねして写真を撮るようになった。

 もう6年前になる。春先に「シャプラニール=市民による海外協力の会」の創立メンバーの一人から連絡が入った。古くからの友人である写真家中島秀雄さんの写真展が、平字紺屋町のギャラリー「コールピット」で開かれる、ぜひ足を運んでみて――。

中島さん本人からも写真展の案内状が届いた。中島さんは、アダムスが考案した「ゾーンシステム」という写真哲学を継承し、写真プリントを芸術の領域まで広げたと、知人は絶賛していた。

ゾーンシステム? よくはわからないが、フィルムへの適正露出と現像処理を決める写真技法のひとつだという。

中島さんの作品は、福島県内にある水力発電所を大判カメラで撮影したものだった。モノクロの写真で、ゾーンシステムを生かしているせいか、晴れているのに光と影がほどよく抑えられていた。

さて、春の雪は融けかけてザラメ状になったのが怖い。歩道にそれが残っている。けさは放射冷却現象で冷え込み、ザラメが凍った。庭の水たまりにもうっすらと氷が張っている。ツルンとならないように注意しなければ。

2022年3月22日火曜日

ホワイト・ライ

        
 庭のヒヤシンスがピンク色の花を咲かせた=写真。春の陽光が庭に降り注いだと思ったら、翌日には冷たい北西風が吹き荒れる。そんな日には花を見てほぐれた心がかじかむ。

 小学2年生になって間もない夜、町が強風にあおられて炎に包まれた。翌朝、裏山の畑から焼け野原になった通りへ下りると、新聞記者に声をかけられた。「坊やのおうちはどこ?」

父親が焼け跡で何かやっている。そこが自分の家があったところだろうとは思いながらも、「知らない」と答えた。ウソをついたという自覚があとあとまで残った。

そのことをちょっと前に書いた(3月8日付ブログ「こども科学電話相談」)。その2日後、テレビのチャンネルをBSプレミアムに切り替えたら、「ヒューマニエンス」をやっていた。テーマは「“嘘” ウソでわかる人間のホント」。ウソを学ぶチャンスだ。背筋を伸ばしてテレビと向き合った。

番組宣伝文を抜粋する。ウソ、それは人間社会を円滑にする潤滑油。社会のいたるところでウソは必要とされている。その代表が人を思いやる「ホワイト・ライ」。人間は正直さと優しさを天秤にかけたとき、優しいウソを選ぶ――。

そもそものきっかけは、日曜日のNHKラジオ「こども科学電話相談」だった。小2の女の子が「人間はなんでうそをつくんですか」と質問した。答えは「便利だから」と「心は二つある」だった。

「便利だから」では「ウソも方便」を連想した。「心は二つある」は、「ウソをついてはいけない」という倫理と、相手を思ってウソをつくことによる葛藤が思い浮かんだ。

「ヒューマニエンス」で初めて、「ホワイト・ライ」という言葉を知った。心理学の分野では基本の基なのだろうが、素人はそこへたどり着くまでに時間がかかる。

「相手のことを思ってつく悪意のないウソ」のことだという。ホワイト・ライは7~8歳で始まる。ラジオで質問した女の子の年齢がそうだし、焼け野原の町で記者に答えた私もそうだった。

同じウソでも二つある。ホワイト・ライのほかに、悪意があり、自分のためにつくウソを「ブラック・ライ」というそうだ。今、戦争をしている国にあふれているのはこちらのウソだろう。

記者にホワイト・ライで接した子どもが、大人になって記者になった。子どもを取材することももちろんあった。絶えず、自分の経験が思い浮かんだ。

心で考えていることと口から出てくる言葉には距離がある。質問に沿った言葉が返ってくる、子どもってそういうもんだと、自分の経験から自分に言い聞かせたものだ。

去年(2021年)の3月は3・11から満10年。メディアはいろいろ特集番組を放送した。なかにBS1スペシャル「新3・11万葉集」で、いわき市内の私立高校に通う生徒の作品が紹介された。

「震災のこと 取材で話すとき感じる 自分ではない自分」。この生徒もまた、ウソはついていないが、ホワイト・ライに近い感情を抱いていたのだろう。

2022年3月21日月曜日

それぞれの震災

                      
 3・11を思い出させるような3月16日深夜の大地震だった。それからきょう(3月21日)で5日目。人に会うと、「どうだった?」。カミサンたちの情報交換が続く。

 広域都市いわきは震度5強と5弱に分かれた。市の本庁舎がある平梅本と山間部の三和町は5強、小名浜と錦町、平市街の裏山、平四ツ波は5弱。私が住んでいるところは梅本より四ツ波に近い。

 いわきの場合、3・11は震度6弱、今度の地震と「双子」のようにいわれる去年(2021年)2月13日深夜は5強で、やはり3・11は被害が飛び抜けて大きかった。わが家は「大規模半壊」に近い「半壊」判定だった。

相馬市は3・11が6弱、去年と今年が6強と、震度が3・11を上回った。被害の程度が察せられる。

 さて、これは先日も触れたことだが、わが家では階段に積んである本の落下具合で「体感震度」を測る。棚から落ちた小物の量も3・11を基準にして比較する。それで、平梅本より平四ツ波の震度に近いという判断をした。

 16日深夜は、日付が変わったばかりのうちに1階・居間部分を片付けた。2階は「寝て起きたあとに」と決めたのはいいが、「同規模の地震があと1週間は起きる可能性がある」と気象庁がいうので、まだそのままにしている。

 ある家に用があってカミサンが出かけた。アッシー君を務めた。用が済んで車に戻ると、「2階はまだあのまま、一人暮らしなので、片付けてないんだって」。3月16日のことかと思ったら、3・11の話だった。

わが家も2階は物置みたいになっている。落下物はしばらくそのままにしておくか、次第にそんな気持ちがふくらむ。

 ある家では、その落下物が3・11よりひどかったという。当たり前のことだが、家によって、場所によって被害の程度や感覚は違う。

 まだ確かめてないところがあった。夏井川渓谷の隠居だ。これも3・11が基準になる。あのとき、瓦屋根は無事だった。が、下の庭と隔てる石垣の一部が崩れた。ブルーシートをかけたきりで、今もそのままにしている。

 室内はどうだったか。置時計が安定の悪いボックスごと落下し、台所のこまごましたものが散乱していたほかは、蛍光灯の傘がずれたり、雨戸の内かぎがゆがんではずれなくなったりした。

その後も大きな地震があったが、状況は変わらない。で、きのうの日曜日(3月20日)、様子を見に行った。室内はほとんど変化がなかった。食器棚の茶碗とコップがガラス戸に倒れかかっていたので、それを直した。

ただ一つ、3・11のときがそうだったように、茶の間の蛍光灯の傘がはずれていた=写真。電気をつけたら、間もなく内側の蛍光灯が消えた。

寿命か。カミサンが型式番号をチェックしたあとに見たら、給電ソケットがはずれている。ソケットを差し込むと再び点灯した。その程度の被害で済んだ。渓谷の集落は岩盤の上にある。それが揺れを抑える役割を果たしているのだろうか。

2022年3月20日日曜日

酔っ払ったサル

                                
 熱帯雨林がある。地面にはアルコールの蒸気を立ち昇らせる果実がいっぱい落ちている。ゴリラやチンパンジー、ボノボ、ヒトといった森の住人が地面を歩いて、このごちそうを集めることを覚える――。

 ニコラス・マネー/田沢恭子訳『酵母 文明を発酵させる菌の話』(草思社、2022年)=写真=を図書館から借りて読んだ。

 人類がアルコールと最初に出合ったシーンを、同書は冒頭のような鮮やかなイメージで語る。

 著者はイギリスで生まれ、菌類学を専攻した。アメリカオハイオ州のマイアミ大学生物学教授で、カビからキノコまで幅広く菌類の形態や生活などを研究している。

「酵母(糖依存菌)は、文明が誕生した当初から目に見えないパートナーとして文明に寄り添ってきた」

確かに、酵母はあることはわかっていても、目に見えない分、理解しにくい。その酵母に科学、文化、歴史の視点から平易な言葉で光を当てる。

人類の祖先が森林を離れ、定住して農耕を始める大きな原動力となったのは、酵母がつくるビールやワインだったという。むろん、パンにも酵母は必要だ。

それだけではない、近年は腸内環境を整えるマクロビオティックやバイオ燃料の製造にも酵母が利用されている。

私はそのなかから、主に「酔っぱらったサル」である人類とアルコールの関係に絞って読んだ。

 ヤシ酒の話が出てくる。たとえば、マレーシアのプルタムヤシの木。巨大な花茎にたまった花蜜が酵母によって発酵し、アルコールの蒸気が雨林を覆う。夜間、香りに誘われた小型哺乳類がヤシの木に登り、甘い酒を飲む。

 このエピソードと冒頭の情景を重ねると、アルコールと動物、なかでも人間とのかかわりが見えてくる。

 ヤシ酒が人類最初の発酵飲料だとしたら、ヤシ酒飲みは最初のアルコール依存症患者だともいう。

 エイモス・チュツオーラ/土屋哲訳『やし酒飲み』(岩波文庫)は、アフリカの「やし酒飲み」、つまりアルコール依存症患者を主人公にした奇想天外な物語だ。この小説もヤシ酒を解説するなかで登場する。

 若いときに一度、晶文社版の『やし酒飲み』を手に取ったが、展開する事件の奇抜さについていけなくて、途中で読むのをやめた。今回、再読すると、こちらにも奇抜さを飲みこむくらいの耐性はついていた。

 さて、「酔っ払ったサル」である人類は、酒をつくることを覚えた。酒をつくって飲むのはホモ・サピエンスの決定的特徴だそうだ。

 その結果、どうなったか。「私たちがヤシ酒に手を出すまで、エデンの園には悩みなどがなかった。しかし私たちは森林から農地へと進み出ていき、それに伴ってアルコールが慰めと苦しみを等しくもたらすことを知った」

適度なアルコールは疲れた心と体をほぐしてくれる。しかし、過度なアルコールは「享楽の夜」のあとに「頭痛の朝」を用意している。アルコールなしではいられない依存症も生んだ。

 このところ、アルコールを断っている。アルコールの苦しみのなかには、飲みたい酒を我慢することも入っている。飲まない人は「なんだ、バカバカしい」と思うだろうが。

2022年3月19日土曜日

柱時計が復活

                                   
 3・11以来、震度はまず体感で測る。むろん、あとで気象庁のデータを確かめる。階段に積み上げた本の落下具合も目安にする。

 3月16日深夜の大地震は、震源が福島県沖、マグニチュードが7.4だった。宮城県登米市、蔵王町、福島県相馬市、南相馬市、国見町で最大震度6強だった。

いわき市は5強ないし5弱。わが家では本棚や収納ダンスの上にあった置物や写真額、平積みの本などが落下した。階段の本も崩れたが、すぐ片付けることができた。それから想像すると、わが家は5強というより5弱だったか。

ちょうど1年前に今回と全く同じ震源と規模の地震が起きている。そのときの拙ブログの抜粋。

――令和3(2021)年2月13日夜11時7分ごろ、福島県沖でマグニチュード7.3の地震が起きた。

最大震度は6強で、浜通り北部の相馬市などで大きな被害が出た。常磐道相馬インターチェンジの北3キロ地点でのり面が崩落、上下4車線が土砂で埋まったという。

いわきは5強だった。わが家では、階段に平積みにしておいた本が下までなだれを打って崩れた。2階でもやはり平積みにしていた本や資料が崩れて散乱した。

3・11を経験したことで、片付けにどの程度の時間と労力がかかるかは、だいたい見当がつく。寝不足が一番こたえる。動くのは夜が明けてから。万一の断水に備えて風呂に水をため、プロパンガスが使えることを確認して、寝床に戻った――。

今度も浜通り北部などで停電や断水などが相次いだ。宮城県では東北新幹線の高架橋が破損し、走行中の「やまびこ」が脱線した。幸いけが人はなかった。常磐道も南相馬―山元インターチェンジ間が通行止めになった。

3・11から10年という区切りの年に再び大きな地震が襲い、今年(2022年)また追い打ちをかけられる――。自然災害とはいえ、相馬などに住む人々の気持ちを思うと胸が痛む。

県紙によると、専門家は1年前の地震と「双子のような地震」と評している。「昨年の地震で壊れずに残った半分が、1年遅れで破壊された可能性がある」という。

福島県沖は地震多発地帯だ。いわきから見ると、去年、今年と規模の大きな地震が福島県北部の相馬沖で起きた。しかし、福島県南部のいわき沖で、つまり目の前の海できょう大きな地震が起きても不思議ではない、そんな思いになる。

私は去年と違って、今年は風呂に水をためることをしなかった。階段の本の崩れ具合から、そう決めた。

ただ、一つだけ、ポッと明かりがともるようなことがあった。カミサンが店の一角を地域図書館「かべや文庫」として開放している。そこに柱時計がかかっている。もう5、6年前から動かなくなっていた。故障の張り紙もしてある。

 一夜明けた17日、カミサンの声に促されて文庫へ駆けつけると、振り子がチックタックやっている=写真。柱時計が激しくゆすられて長い眠りから覚めたのだった。

2022年3月18日金曜日

「雀のお宿」

        
 対の掛軸=写真=と知って、やはり親を呼ぶ雀の子だったと確信した。ひょうたんを利用した「雀のお宿」である。

 最初、床の間に飾られたのは左幅だけだった。ひもでつるされたひょうたんがある。ひょうたんは下のふくらみがカットされ、中に1羽、心細げな表情の雀がいる。落款(らっかん)はあるが、作者が誰かはわからない。

ひょうたんと雀を絵柄にした作品をネットで検索すると、戦前の京都画壇で活躍した日本画家竹内栖鳳の「すずめのお宿」があった。

こちらもひょうたんの下のふくらみに穴があいていて、そこから雀が1羽、顔をのぞかせている。稲穂らしい植物もひょうたんの穴に差し込まれている。

昔の西洋絵画が聖書の物語を主題にしていたように、この絵もなにかの物語を主題にしているのではないか。

ひょうたん、稲、雀――。これらをキーワードにして検索を続けると、神戸・禅昌寺の「すずめのお宿」が目に留まった。本堂前にひょうたんの「すずめのお宿」をつるしたお寺として有名だったらしい。

さらに、そのつながりで古典の「宇治拾遺物語」に、民間伝承の説話「雀の恩返し」があることを知る。

子どもが石を投げてけがをした雀をおばあさんが介抱し、元気になって飛び去ったあと、雀はひょうたんの種をおばあさんに持ってくる。

種を植えると大きな実がたくさん生(な)ったので、おばあさんはひょうたんを村人に分けてやった。

何個かを乾燥させたら、なかから続々と白米が出てくる。おばあさんはそれで大変な財産家になった(以下略)――。

もう片方、右幅が床の間に掛けられたのは3月16日。私が、左側の雀は子どもだといったのを、カミサンが覚えていた。どこから手に入れたかはわからないが、手元にある掛軸を探したら、右幅が出てきた。

左幅の子雀が鳴いて親を呼ぶ。右幅の2羽の親雀がひょうたんの巣をめがけて舞い降りる。対になることで全体の構成がわかり、左右が響き合うような関係になった。

対である証拠に、左側の絵と落款は左端に、右側の竹笹の絵と落款は右端に寄っている。ちなみに、「竹に雀」は取り合わせの良いことの例えで、日本画の画題でもあるそうだ。

ひょうたんの色は土色に近い。禅昌寺の関連写真に丹波立杭(たちくい)焼のひょうたんがあった。絵と同じように下のふくらみがスパッと切られている。

絵のひょうたんも陶製ではないか。最初はそう思ったが、立杭焼には厚みがある。絵のひょうたんは皮が薄い。比較すれば本物のひょうたんだとわかる。郷土民芸かどうかは不明だが、絵と同じ図柄の土人形もネットにアップされていた。

ひょうたんと雀は、ある意味では「雀の恩返し」を下敷きにした「雀のお宿」の定番だろう。であれば、創意も工夫もあまり必要がない。子雀の描き方が稚拙な感じを受けるのは、たぶんそのため。

ま、それはさておき、掛軸がもともとの対になったことで、背後にある物語も、雀の情愛も見えてきた。すると、初めての経験だが、掛軸そのものにも愛着がわいてきた。

2022年3月17日木曜日

キノコが好きな人々

 去年(2021年)2月以来の、真夜中の震度5強(いわき)。肝を冷やしました。棚からいろいろ物が落ちました。2階ほかの片付けはこれから、ということで本題――。

 全国紙の日曜コラムを読んでいたら、ロシアと国境を接するウクライナ北東端の村人の話が出てきた。国境の向こうに松林があって、良質のキノコがたくさん採れる。

「ソ連が崩壊し、ウクライナとロシアがともに独立した後も、村人は時々勝手に越境してキノコ狩りをしていた」

キノコ好きのスラブ人、という言葉が思い浮かぶ。ウィキペディアによれば、「スラブ人」というのは「民族」ではなく、「言語学的な分類」だそうだ。

それに従えば、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの人々は「東スラブ人」、スロバキア、チェコ、ポーランドの人々は「西スラブ人」、クロアチア、セルビア、ブルガリアなどの人々は「南スラブ人」となる。

ウクライナの村人も「ウクライナ人としての誇りを持つ一方で、ロシア語を母語として話し、ロシアに親近感も抱いているように見えた」。なるほど、東スラブ人には違いない。

キノコと人間の関係に興味がある。菌類研究は専門家にまかせて、もっぱらキノコが登場する小説やエッセーなどを読んできた。キノコ関係のニュースやコラムが新聞に載れば切り抜く。冒頭のコラムも切り抜いた。

きっかけは11年前の原発事故だ。いわきを含む福島県の広範な地域で野生キノコの摂取と出荷が制限された。キノコは「採る・調べる」から、「撮る・読む」に変わった。チェルノブイリ原発周辺に戻った村人とキノコの話も頭にあった。

以来、人種や言葉は違っても、キノコを介してその国の暮らしや人々の心情を理解することはできるのではないか――勝手に“文化菌類学”と称して、キノコ文学を読んでいる。

チェルノブイリ原発事故は昭和61(1986)年4月に起きた。セシウム134はその2年後に、セシウム137は平成28(2016)年4月に半減期を迎えた。

そのころ、福島とチェルノブイリ周辺で被ばく調査を続けている独協医科大の木村真三准教授に東京新聞の記者が同行して記事を書いた。

それによると、人々が暮らす村で食べ物や土壌を採取して調べた結果、何を食べたかで数値が極端に上下した。主な原因はキノコだった。

令和元(2019)年にノーベル文学賞を受賞したポーランドのオルガ・トカルチュクに『昼の家、夜の家』という作品がある=写真。「西スラブ人」らしくキノコが重要な道具になっている。

ロシアの作家ミハイル・プリーシヴィンの『裸の春 1938年のヴォルガ紀行』には、「茸の話」が収められている。同じロシアのニコライ・スラトコフの『北の森の十二か月』にもキノコが登場する。

原発震災後に書かれた黒川創の連作短編集『いつか、この世界で起こっていたこと』には「チィェーホフの学校」)が入っている。キノコ好きのチェーホフの話にチェルノブイリ原発と東電福島第一原発の事故を重ねた。

  ロシアの侵攻が苛烈さを増している今、東スラブ人の住む大地が再び汚染されぬよう、キノコ食文化が破壊されぬよう、ただただ祈るばかりだ。 

2022年3月16日水曜日

100年フード

                     
   「100年フード宣言」。文化庁が新たに打ち出した食文化のPR制度だという。先日、いわき民報が詳しく報じていた=写真。

同庁は一昨年4月、食文化専門の部署を設置した。その部署が行った事業の一つが「100年フード宣言」だとか。

 同庁によると、わが国では豊かな風土や歴史に根差した食文化が存在しており、特に歴史性のあるものは文化財として登録する取り組みが行われている。

 一方で、比較的新しいことを理由に文化財として登録されていない食文化であっても、世代を超えて受け継がれ、長く地方で愛されてきたものが多く存在する。

そうした食文化を「100年フード」と名付け、地域の関係者や自治体が100年続く食文化として継承することを宣言する取り組みを推進することにしたという。

 部門は①伝統(江戸時代から続く郷土料理)②近代(明治・大正に生み出された食文化)③未来(目指せ100年!)――の三つで、いわきからは市が申請した「メヒカリの唐揚げ」のほか、「サンマのみりん干し」と「サンマのポーポー焼き」「あんこうのどぶ汁」の3品が③に認定された。

サンマは小名浜水産加工業協同組合・小名浜さんま郷土料理再生プロジェクトが、どぶ汁はいわき観光まちづくりビューロ―が申請した。

平成7(1995)年3月、『いわき市伝統郷土食調査報告書』が刊行された。市観光物産課(当時)がいわき地域学會に調査・編集を委託した。報告書のなかから100年フードに認定された料理や魚種についての記述をピックアップする。

【メヒカリ】戦前はハマの人だけが食べる大衆魚だったが、今や高級品に格上げされた。

【サンマ】伝統料理のようで新しいのがサンマ料理。戦後、棒受け網漁によってサンマが大量に獲れるようになった。不漁続きのイワシに代わってサンマみりん干しを安川市郎が開発し、加工業者を救った。ぽうぽう焼きは、もともとは船上料理だった。

【アンコウ】ハマの料理に鍋料理の「直煮(じきに)」がある。これに水を多くしたものを「どぶ汁」という。体を心から暖めてくれるので、冬には欠かせない。

同書によれば、いわきの食文化の特色は浜の料理が多彩で豪華なことだが、それも目の前に広がる海が豊かであればこそ、だ。

伝統食はその土地の第一次産業、産物と結びついたものだから、その産業がすたれ、産物が手に入らなくなると、食の技も食習慣も消滅する。伝統食だから盤石、などということはない。

 伝統食は創意工夫のなかで絶えず生みだされるものでもある。盛衰を繰り返しながら、過去から未来へと伝統食は姿を変えて受け継がれていく。「100年フード宣言」とはつまり、絶えざる創意工夫と継承の覚悟を示したものと受け取ることもできる。

それと、もう一つ。哲学者の内山節さんが行政の計画について書いている。「5年から100年に時間軸を延長すれば、“何をつくるか”から、“何を残すか”という計画にかわる」。「100年フード宣言」に触れて、まず思い浮かんだのがこの言葉だった。

2022年3月15日火曜日

「梅前線」がやっと渓谷へ

                      
   真冬はロングタイツ(もも引き)をはき、下着とシャツの間に薄手のタートルネックを着て過ごす。

3月も中旬。こたつに入って“在宅ワーク”をしていると、足首の周りに熱を感じるようになった。首の周りにも熱がこもる。

 土曜日(3月12日)の午後、カミサンが街へ出かけた。帰ってくるなり、いわき駅前の気温表示板が「22度」だったという。

おっ、20度を超えたか! 朝晩はまだ肌寒いが、日中の暖かさに服装を合わせないと――。翌日曜日は朝のうち曇りで、風はなかった。思い切ってロングタイツとタートルネックを脱ぎ、シャツの上に毛糸のチョッキを着た。

それはしかし、あくまでもヒーターや石油ストーブのある屋内用で、外へ行くときにはまだジャンパーが必要だ。

ジャンパーを羽織って夏井川渓谷の隠居へ出かけた。庭に立つと首の周りがひんやりした。やはり渓谷は少し寒い。シャツの一番上のボタンを閉めたら、ひんやり感が消えた。

「梅前線」もようやく渓谷に到着した=写真。渓谷の下流、小川町高崎までは満開だ。渓谷に入ると、家々の庭先にある梅が白い花をまとい始めた。

とまあ、これは渓谷の直近の光景だが、日曜ごとに渓谷に身を置くことができるのは、ほんとうは「奇跡」的なことなのかもしれない、そんな思いもある。

3月11日をはさんで気持ちがざわついていた。ロシアのウクライナ攻撃が拡大している。それも影響していたようだ。

自然災害や原発事故、戦争は人々の日常を破壊する。平凡な日常こそ実は奇跡そのもの、人々が守らなければならない大切なものだ――それを私たちは3・11で学んだ。ウクライナからのニュースと11年前の原発避難体験がどうしても重なる。

日常はしかし、どうってことない出来事でできている。たとえば、ある日の私――。前夜、灯油が切れたので朝食前に買いに行く。土・日と比較的暖かい日が続いた。それで油断した。まさに、油断が油を切らした。それから銀行へ行ってカネを下ろし、ついでに図書館から本を借りてきた。

日常は雑事で組み立てられている。雑事の一コマ、一コマが途切れることなく続いて一日が過ぎる。

なかでも日常に一番影響を与えているのは天気だろう。日曜日に土いじりをするので、日々の天気や季節ごとの気候がいつも気になる。

ちょうど季節の変わり目でもある。三寒四温のなかで、こんなこともだらだらと考えた。白菜漬けをもう1回つくるか、やめて糠漬けに切り替えるか。しかし、糠床はまだ冷たいし、白菜漬けにもすぐ産膜酵母が張るし……。結局、糠漬けを再開するまではほかの漬物で代替することにした。

きのう(3月14日)はいわきの山田町で気温が22.3度まで上がった。いよいよ春である、と書けるような日常がなんとか続いているありがたさをかみしめる。