2020年5月31日日曜日

「新聞折込が激減」

 活字メディア(新聞)に身を置いてきたので、新聞販売店を含む業界情報には鈍感ではいられない。
 全国紙の販売店が集金時に「読者の皆様へ」と題するチラシを置いていった=写真。2月からの新型コロナウイルスの影響で新聞折込が激減し、深刻な状況になっている。このままでは販売店の経営維持が厳しいので、経費節減に取り組んでいる。その一環として、集金時に配っていたごみ袋などのサービスを中止する。ご理解・ご協力を――という内容だった。

新聞販売店の経営の根幹をなすのは発行本社と分け合う購読料と、チラシの折込料金だ。その折込がコロナ禍で急激に、大幅に減った。毎日、宅配される新聞を手にしたときの感触でも、それがわかる。常連だったパチンコ店の折込は3月10日あたりから消えた。緊急事態宣言が解除された今も、パチンコ店と一部のスーパーのチラシは復活していない(追記・スーパーは6月1日に復活)。

2007年秋に会社をやめたあとは、一読者として、あるいは“折込ウオッチャー”として新聞に接している。元日には新聞に折り込まれたチラシの枚数を数えて、その年のスタートの景気を測る。2014年は1紙平均53枚、5年後の2019年は同48枚だった。2018年は同53枚だったから、年頭の折込に関してはそう極端に減っているわけではない。

 コロナ禍による折込の急減を受けて、毎朝、チラシの数を記録している。4月下旬には全国紙・県紙とも1~2枚だったのが、5月に入ると少し数を増やし、月の前半までは多くて5枚、宣言解除後は少し増えて8枚という日もあった。それでも、ピーク時に比べるとまだまだだろう。

折り込む新聞が決まっている月刊のフリーペーパーは減ページになり、6月休刊を予告するものも出た。飲食店は広告を出すどころではない、そんな状況を反映しているようだ。

 各種行事や団体の集まりなどが相次いで中止・延期されたことから、地域紙や県紙も記事が減って紙面を埋めるのに苦労している。そうしたなかで、拙ブログと古巣のいわき民報とのコラボレーション(協働作業)が始まった。

ネットで公開した拙ブログが何日か後に活字になる――これは、私自身が前から願っていたことでもある。ネットと無縁の実年世代にも読んでほしい、という希望と、コロナ禍で新聞づくりに苦労している後輩たちの思いが一致した。

5月中旬に掲載が始まると、すぐ反応があった。それによってまた新しい知見が得られるという、デジタルとアナログのコラボ効果を実感している。このコロナの時代、どこでも、どの業種でも手をこまぬいてはいられない。

2020年5月30日土曜日

アオスジアゲハが現れる

 庭のイボタノキの花が満開だ。この花にはハナアブたちのほかに、毎年、アオスジアゲハが吸蜜に(きゅうみつ)に来る。快晴のおととい(5月28日)昼前、そろそろ来るかな――と思いながら花の下に立つと、ドンピシャのタイミングでアオスジアゲハが現れた。
急いで家からデジカメを持ち出し、スポーツモードに切り替えて連写した。動きの速い蝶(ちょう)で、撮れた6コマのなかでピントが合っていたのは、これ=写真=ともう1コマだけ。データを拡大して細部を見た。やっぱり美しい。

アオスジアゲハは、いわきの平地では普通に見られる。幼虫の食樹はクスノキ・タブノキ・シロダモなどで、照葉樹の北限でもある東北南部が分布の北限といわれていたのが、温暖化の影響で生息域を北へ広げているという。

 2年前の2018年11月、昆虫が専門の仲間がいわき地域学會の市民講座で講演した。それによると、いわきは北方系の寒地性生物と南方系の暖地性生物がともに生きる混交地域だ。いわきの平地・里山・山地、河川・池沼・湿原などの四季に息づく昆虫・動物たちを観察・撮影していると、暖地系の北上・山地から平地への寒地系の適応など、混交度合いがいちだんと進んでいることがわかる、ということだった。

 講演のなかで、モンキアゲハ、ツマグロキチョウ、ウラギンシジミ、ムラサキシジミ、ツマグロヒョウモン、ホソバセセリ、チャバネセセリなどとともに、アオスジアゲハが年々、北上していることにも触れた。

10年前、やはり同じ地域学會の先輩(元高校教諭)に聞いた話では、浜通り北部の相馬あたりでもアオスジアゲハが見られるようになった。日本自然保護協会の「自然しらべ2011 チョウの分布 今・昔」報告書によると、すでに太平洋側では岩手県南部以南に分布し、日本海側では秋田県境に近い青森県沿岸地域で確認されている。

 コロナ禍の影響で家にいる時間が増えた。行政区の役員をしているので、年度初めの4~5月は小学校の入学式に始まって、各種団体の総会・役員会などが続く。手帳を見たら、去年(2019年)は計23回、3密の場に顔を出している。今年はそれがない。

おかげで、在宅ワークの合間にちょくちょく庭へ出ては草木を眺めるようになった。念ずれば花ひらき、蝶もくる――。満開のイボタノキの花を見上げ、アオスジアゲハを思い浮かべたその瞬間、ホンモノが現れるという“奇跡”が起きたのだった。

2020年5月29日金曜日

元検事総長の回想録

 カミサンの同級生がダンシャリをした。「本があるけど」というので、引き取りに行った。古着・古本・食器などを必要な個人や団体に渡すリサイクルの中継基地のようなことを、カミサンがやっている。もちろんボランティアで、だ。私は運転手。黙って従うだけ。
 カミサンの同級生の本の中に、伊藤栄樹『秋霜烈日――検事総長の回想』(朝日新聞社)があった。同級生は中南米音楽の店をやっている。客層はさまざまだ。どんな話題にも対応できるよう、硬軟取り混ぜて本を読んできたのだろう。人をそらさないための努力の一端が垣間見えるようだ。(『秋霜烈日――』は手元に置くことにした)

 そのころ、元サンケイスポーツ記者で作家の本城雅人が書いた小説『傍流の記者』(新潮社)を睡眠薬代わりに読んでいた。こちらは最初、タイトルがピンとこなかったが、読み進めていくうちに新聞社内部の主流・傍流の意味だとわかる。政治部が主流、社会部が傍流――。保守系メディア「東都新聞社」の社会部同期6人(うち1人はすでに人事部長)の出世競争物語だ。

 昼は『秋霜烈日――』を、夜は『傍流――』を読んでいるとき=写真=に、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=ツイッターなどの会員制交流サイト)で検察庁法改正案への猛抗議が起き、直後に、渦中の東京高検検事長が産経記者2人、朝日元記者1人と賭けマージャンをしていたことが、週刊文春に報じられた。高検検事長はあっという間に辞職した。マージャンはやらないが、やる人には魅力というか、なにかのめりこんでいく魔力のようなものがあるのだろう。

 今度の法改正案には検事総長などを経験した検察OBも危機感を覚え、法務省に意見書を提出した。ネットで元最高検検事がまとめた意見書の全文を読んだ。

首相が国会で「検察官にも国家公務員法が適用される、と従来の解釈を変更した」と述べたことに対して、意見書は「フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕(ちん)は国家なり』との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢」と断じた。

『秋霜烈日――』に、法務大臣の指揮権発動にからんだ文章が出てくる。「検察権は、三権のうちの行政権に属する。だから、内閣がその行使について国会に対して責任を負う。一方、検察権は司法権と密接な関係にある。検察権の行使が政党内閣の恣意(しい)によって左右されることになれば、ひいては、司法権の作用がゆがめられることになる」

 検察の扱う事件が政党内閣の恣意に左右されてはならない、政党内閣の都合で検察幹部の人事がゆがめられてはならない――改正案に反対する理由がここにあるのだと、地域の片隅で暮らす人間もやっと合点がいった。

 若いときに警察・裁判所回りをした。全国紙・県紙の記者たちと田町へ飲みに行くと、検事がいた。記者も検事も転勤族だ。他紙、特に全国紙の記者は東京で、あるいはよその土地でまた顔を合わせるかもしれない。全国紙の記者は検事とそうしてつながっていくのかと、妙に納得したのを覚えている。

高検検事長と記者の賭けマージャンから、遠い日々の記憶がよみがえった。同時に、「密着しても癒着するな」という他社の先輩記者のことばを骨に刻んだことも。

2020年5月28日木曜日

フランスギクが繁殖

 種をまいたわけでも、苗を植えたわけでもない。なのに、庭の生け垣のへりに、真ん中が黄色くて周りが白い花がびっしり咲いている=写真。最初、マーガレットかと思ったが、そうではない。花がよく似ているフランスギクだった。ネットの花図鑑によると、マーガレットは葉が羽状で切れ込む。これに対して、フランスギクは茎につく葉がヘラ形で互生している。それでわかった。
 自分の2年前のブログにフランスギクの記述がある。そのころすでにわが家の生け垣と庭でも、勝手に生えて花を咲かせていたことになる。実際にはそれより前から生えていたのだろう。

種と地下茎で増えるそうだ。庭に生えている株を掘り起こしたら、地下茎はなかった。去年(2019年)、どこからか飛んできた種が活着したらしい。

 名前の通り、原産地はヨーロッパ。日本の侵略的外来種ワースト100の中に入っている。寒冷地生まれの植物なので、亜高山や北海道では厄介者扱いをされているようだ。

「あー、きれい」。由来を知らない分にはそう思う。しかし、なんという名前なのか、なぜそこに生えているのか――といったことがわかると、見方が変わる。喜んでばかりはいられない。

 4月のナガミ(ノ)ヒナゲシ(オレンジ色)、5月のフランスギク、6月のオオキンケイギク(黄色)――。いわきでも、市街地の生活道路や国・県道沿いに群生していてよく目立つ。オオキンケイギクは2006年、特定外来生物として栽培・譲渡・販売・輸出入などが原則禁止された。

同じ特定外来生物にアレチウリがある。秋口になると花を咲かせ、部分的に夏井川の堤防を覆い尽くす。在来のクズを覆い、河川敷の樹木をすっぽり覆う。樹木は光を遮られて衰弱する。

道路ののり面、河川敷にはイタチハギ、ニセアカシア、休耕田にはセイタカアワダチソウ。わが生活圏だけでも外来種は数多い。イタチハギは、上流の夏井川渓谷でのり面緑化に利用されたことから、その存在を知った。下流の河川敷にも生えている。ということは、上流から種が流れてきたか。

去年10月12日、台風19号が襲来した。夏井川水系で甚大な被害が出た。いわき市北部浄化センター近く、同川河川敷のサイクリングロードが流木その他のごみで50メートル近くふさがった。半年たった今は、その「災害ごみ」の山から草が生え出ている。なかに外来種が根づいているかもしれない。

外来種は在来種を駆逐し、生態系をかく乱する。家の周りだけでもその根を絶たないと――。

2020年5月27日水曜日

いのちをつなぐスプーン

 NHKとEテレの番組表には「――選」と銘打った過去番組が並ぶ。コロナ禍で、「3密」になる撮影ができない。朝ドラ「エール」も、大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」も同じで、6月には撮影済みのストックが切れるという。緊急事態宣言が解除された今は、一刻も早い撮影再開が待たれる。
 同じNHKの「ファミリースト-リー」にも「選」が付いている。月曜日(5月25日)はお笑い芸人のケンドー・コバヤシ。ネットで確かめたら、2016年10月に放送されたものだった。

 晩酌しながら、見るともなく見ていたら、彼の祖父がソ連に抑留され、ウズベキスタンで鉄くずなどを使ってつくったという金属のスプーンがアップされた=写真上。祖父は小学校の先生。日本へ帰還して復職し、最後は校長を務めた。収容所の食事は黒パンとスープだけ。いのちをつなぐためには、スープを一滴も残さない、そのための自作のスープだったそうだ。

 金属のスプーンを見ながら、いわきにも同じようにシベリアへ抑留されて、木のスプーンをつくった人がいることを思い出した。

東日本大震災の2年前、2009年6月――。いわきフォーラム’90主催のミニミニリレー講演会で、平のごく狭い地区に住む複数の人が聴き語り形式でシベリア抑留体験を伝えた。そのとき、バッグや靴とともに自作のスプーンが展示された=写真右。

過酷な労働と粗末な食事、仲間の衰弱死、望郷……。講演当時85歳の体験者3人と、亡くなった1人の奥さんの計4人が淡々と、ときに嗚咽(おえつ)を抑えながら語る体験談に聴き入った。

立花隆の『シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界』(文藝春秋)に、<再録「私のシベリヤ」>が収められている。若く無名だったゴーストライターの立花(当時29歳の東大哲学科の学生)が香月にインタビューし、香月の名前で本になった。やはり、木のスプーンの話が出てくる。

「伐採した松の枝を少しへし折ってきて、収容所に帰ってから、スプーンをこしらえた。ハイラルにいるころ、立派な万能ナイフを拾ったことがある。(略)ネコババしてシベリヤまで持ってきていた。何度かの持物検査でも、無事に隠しおえてきた。このナイフとノミで形をつくり、後は拾ってきたガラスの破片で丹念に磨いて仕上げた」

収容所ではいかにスプーンが大切だったか、をうかがわせるエピソードでもある。ケンドー・コバヤシの祖父を通して、「いのちをつなぐスプーン」がまたひとつ、心に刻まれた。

2020年5月26日火曜日

味噌かんぷら

きのう(5月25日)は、晩酌のつまみに小芋(いも)の「味噌(みそ)かんぷら」が出た。油でギトギトした感じがなく、さっぱりした甘味噌が小芋にうまくからみ合っていた。
「かんぷら」はジャガイモ。花が咲きそろったばかりだから、収穫にはまだ早い。といっても、もう何年もジャガイモを栽培していない。日曜日、夏井川渓谷の隠居の菜園で、片手三角ホーを使って草むしりをしていたら、土のなかからころがり出てきた。“ふっつぇ”だ。

いわき市教委『いわきの方言』調査報告書(平成15年刊)によると、「ふっつぇ」は「どこからともなく種が飛んできて、知らぬ間に自然に生えること」をいう。こぼれ種から生えるシソやミツバはまさしく「ふっつぇ」だ。

 ジャガイモは、種ではなく、種芋で増える。が、栽培時、地中に取り残された小芋がある。それが毎年、芽を出す。葉を残しておくと、6~7月に小芋がとれる。この何年かは、それを「味噌かんぷら」にして楽しんでいる。今年(2020年)は大人の親指~小指大の小芋30個余がとれた=写真。「味噌かんぷら」にちょうどいい分量だ。

 自分のブログで調理の仕方を確かめる。①小さなジャガイモを、皮をむかずによく水洗いする。大きなものは二つ割りにする②鍋に食用油を多めに入れ、ジャガイモをよく炒(いた)める③そこへ砂糖・味噌を入れ、多めに水を差してよく煮る④汁気がなくなるまで煮込む――。

調理時間を短縮するにはこんなやり方もある。小芋を皮のままレンジで2回「チン」したあと、食用油でさっと小芋を炒め、味噌と砂糖、醤油(しょうゆ)を加えて味を調える。今回は時間がないので、「解凍」ボタンを押して小芋を温めたそうだ。

 ここからは付けたり――。「味噌かんぷら」は福島県の郷土料理ということだが、似たようなものに、山梨県の『せいだのたまじ』(ジャガイモの味噌煮)がある。いわき地域学會の先輩に教えられた。ほかにもあるのでは?と検索したら、飛騨・高山にジャガイモの小芋を使った郷土料理「ころいもの煮付け」があった。

 江戸時代、甲斐国(山梨県)や小名浜、飛騨でジャガイモの栽培を奨励した幕府の代官がいる。中井清太夫。その赴任地とそれぞれの郷土料理が重なる。

2020年5月25日月曜日

桐の“花畑”

 土曜日(5月23日)の午後、冷たい雨がやんで、少し気温が上がった。若い仲間と1時間ほどいわき地域学會の総会資料づくりをした。終わって、茶の間で休んでいると、目の前を飛び回る虫がいる。「そろそろ来るな」。この日夕方、今年(2020年)初めて蚊に刺された。
わが家では毎年5月20日ごろ、蚊が現れて人を刺す。その“要注意週間”だった先週は、どんよりした天気が続いた。雨も降った。雨がやんだら現れる、と踏んでいたとおりになった。

寒暖を繰り返しながらも、季節は夏へと向かっている。蚊の出現がそれを教えてくれる。低温と雨のあとの日曜日、きのう、いきなり夏の暑さが戻ってきた。

夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。朝10時前に着いて菜園を見ると、トウガラシとナス、カブのうねが紫色の花で覆われていた=写真上1。そばに桐(きり)の木がある。見上げると花が満開だった。

うねの草むしりをした。その間にもポトリ、ポトリと桐の花が落ちてくる。肩に、膝に、地面に。花だから痛くはない。が、落下した瞬間に大きな音がする。

カブは古い種をまいた。芽が出なくてもいいや、と思っていたら、けっこう双葉が出てきた。双葉にとっては、桐の花は障害物だ。日光が遮られる。それもあわせて取り除く。

隠居の前で草むしりをしていたカミサンが菜園にやって来たとたん、歓声を上げた。「きれい! こんなに咲いてる桐の花を見たのは初めて。しあわせー」。(きれい? うねの野菜の邪魔になるだけではないか)
 カミサンは花を拾い集めて、母屋と風呂場の間の坪庭に置かれた大皿(ちょうず鉢のようにいつも水を張っている。大久の新谷窯製で、へりが欠けて道路沿いの進入口に置かれていたのを譲り受けた)に浮かべた=写真上2。あとで見たら、これは確かにきれいだった。

午前だけでなく、午後も桐の花をわきによけながら草むしりをした。手に持ってじかに鼻に近づけたわけではないのに、ほのかに甘い香りがする。見た目でざっと150~200個も落ちていれば、おのずと地面から匂い立つのだろう。

午後3時には土いじりを切り上げて街へ戻った。緊急事態宣言が解除されて最初の日曜日ということもあってか、渓谷の狭い道路でたびたび車とすれ違った。ふだんの日曜日は1台か2台だが、15台はあったとカミサンがいう。

夏の余韻は夕方以降も続いた。また茶の間で蚊に刺された。前の日は夕方5時前、きのうは同6時前だった。いよいよ蚊取り線香の夏である。

2020年5月24日日曜日

たまには海を見たい

夏井川河口を起点にすると、太平洋からわが家までは直線でおよそ4キロ。いわき市四倉町の沿岸にある道の駅よつくら港で買い物をしてから四倉図書館へ寄り、海岸道路(県道豊間四倉線)~夏井川河口~堤防を経由して帰った。
行きは旧国道を北上した。そんなときには、国道6号を南下して帰る。その逆もある。しかし、ステイホーム(巣ごもり)が続いたために、気分転換を兼ねて海岸道路へハンドルを切った。車を運転しながら、前方視界に入ってくる海を見て、河口を見て、遠く西から北に連なる阿武隈の山並みを見た。大きく開けた風景のなかに身を置くだけで、なにか救われたような気持ちになる。

どんよりした日が続いている。海もどんよりした色だ。つまらない海もある、と思いながら、河口近くで海岸道路と接続する市道に折れ、夏井川と支流・仁井田川を結ぶ横川の橋を渡り、夏井川の堤防に上がると、そばの空き地に道路ができていた=写真。県道と市道が交差する角に、水門をつくっている旨の看板が立っていた。いよいよ始まったか――。

県議会でのいわき選出議員の質問によると、平成18(2006)年秋、台風と風浪によって仁井田川の河口が開口し、夏井川の河口が閉塞(へいそく)した。同23(2011)年3月、東日本大震災による地盤沈下と津波の影響を受けて、夏井川河口の閉塞と横川への逆流が常態化した。

さらに、その影響もあってか、平成28(2016)年夏の豪雨では、横川の水位が上昇し、流域に避難勧告が出された。

夏井川水系では、河口の閉塞と横川の水害対策が大きな課題になっている。夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会でも毎年、福島県いわき建設事務所が夏井川の改修工事について説明する。関係する流域の行政区長が同盟会の会員になっている。街への行き帰り、冬のハクチョウ観察に夏井川を見続けている人間としては、流れが行き着く先の河口と横川の問題に無関心ではいられない。

県は専門家による技術検討会で決定した方針に基づき、平成30(2018)年度から抜本的な治水対策を実施している。ポイントは①横川の築堤・護岸②夏井川左岸河口部の築堤・護岸③横川合流部の水門設置――などだ。

以上のようなことを見聞きしていたので、いよいよ始まったか――と、工事用の仮設道路を見て思ったのだった。

ただ、自然は思い通りにはならない。以前、横川との合流点に“石のダム”ができた。それで夏井川河口の閉塞を打ち破ろうとしたのだとしたら、あえなく失敗した。流れは石のダムを超えて滝のように横川へ逆流した。今度はそこに鉄とコンクリートの水門ができるわけだ。

横川には四つ手網を楽しむ小屋がある。一度、そこで仲間とカニ漁をしながら酒盛りをしたことがある。自然の威力は常に人知を超える。流れを遮断したらしたで、今度は違った問題が起きないともかぎらない。水門の効果に期待をかけながらも気がもめる。

2020年5月23日土曜日

茶の間を夏に模様替え

茶の間では冬場、電気マットを敷き、こわれたこたつを座卓代わりにしている。南のガラス戸を背に、座いすの左側には本と資料、右側にはプリンター。この半年、新しく集めた本や資料がたまって3列になり、4列になって、足の踏み場もなくなった。
4月から5月にカレンダーが替わったとたん、塹壕(ざんごう)と化した茶の間の一角でキーボードをたたいていると、こたつに熱がこもって足が蒸れるようになった。反対側のカバーをめくって通気をよくする。とはいっても、熱は半分も逃げない。夏はさらに熱気が部屋にこもり、庭からの照り返しが背中を焼く。

まずは本と資料の整理、そしてこたつカバーの取りはずし――。毎年、大型連休の前後になると、声がかかる。「なんとかして!」。今年(2020年)は5月中旬のある日、初夏の陽気に誘われて重い腰を上げた。

電気マットを片づけるには、本と資料をよけないといけない。その整理にはけっこう時間がかかる。ごちゃ混ぜにならないよう、資料を確認しながらわきに移す。用済みの本と資料は2階に持って行く。こたつの上の小物、文具入れなどは、置いた場所を忘れないように必ず指差し呼称をする。

こたつを動かし、電気マットをはずして掃除機をかけ、きれいになったところで、再び座卓代わりのこたつを戻し=写真、小物・文具入れを載せる。必要な本と資料をまたわきに置く。こたつには薄いカバーが1枚。通気はいい。こうして半日がかりでやっと茶の間が夏に模様替えをした。

ところが、5月は寒暖の変動が大きすぎる。夏に近い暑さと冬に近い寒さが交互にやってくる。茶の間の模様替えに合わせて石油ストーブも片付けようかと思ったが、そのままにしておいた。正解だった。ズボンやシャツを薄手のものに替えたから、よけいに足や背中が冷える。ここ数日はそれでストーブをつけっぱなしにしている。

水曜日(5月20日)にはマスクをして、行政区の役員さんに回覧資料を届けた。北東からの風が冷たかった。オホーツク海に高気圧がある。そこから列島に向かって「ヤマセ」が吹いてくる。首筋がスース―した。マフラーがほしいくらいだった。きょう(5月23日)はさらに、梅雨のような雨。

暑い日にはガラス戸を開ける。寒い日には石油ストーブをつける。1年で一番好きな5月なのに、一番体のコントロールが難しい。コロナ禍の今、風邪をひいて熱を出すようなことだけはしたくない――それだけを念じている。

2020年5月22日金曜日

図書館再開

 いわき市の図書館や美術館がきのう(5月21日)、再開された。コロナ禍で4月18日に休館してからほぼ1カ月。たびたび図書館を利用してきた身としては、やっとモヤモヤが晴れた。
 大型連休を中心にステイホーム(巣ごもり)をしているあいだ、戊辰戦争時、笠間藩神谷陣屋の奉行だった武藤忠信について勉強した。

勉強すればするほど読みたい本が出てくる。図書館は休み、となれば、どこにその本があるか、思いをめぐらせる。カミサンの実家にあったかもしれない。近くの公民館の本棚で見たような気がする――。青少年育成や体協など地域活動の事務局でもある公民館に顔を出したついでに本棚を見たらあったので、借りて読んだ。

 読みたい本はそれだけではない。自分のなかに生まれては消える興味・関心がある。NHKの土曜ドラマ「路(ルウ)~台湾エクスプレス~」を見て、原作(吉田修一『路(ルウ)』文藝春秋2012年刊)を読みたくなった。

 図書館のホームページで確かめると、総合図書館は「貸出中」、四倉図書館にあるのは借りられる。

きのう朝、カミサンに「四倉図書館へ行く」というと、ナメコと木下醸造元(平下神谷)のみそ漬けを頼まれた。そこでつくっているみそ漬けのキュウリがうまい。要は、道の駅よつくら港で買い物をして来て、ということだ。ついでに昼食用の弁当も買った(私はいつも「ほっき飯」にする。コロナで休業する前はもっとほっきの身があったような気がするのだが……目の錯覚か)。

それから四倉図書館へ寄った。1カ月前に総合図書館から借りた4冊を返却し、『路(ルウ)』と、本多徳次著『四倉郷土史』『四倉の歴史と伝説』の3冊を借りた=写真。神谷陣屋管轄の笠間藩分領研究では第一人者だった人の本だ。明治維新後の陣屋関係者の、四倉での事績がわかる。

図書館のホームページによると、当面は貸出・返却しかしない。開館時間は短縮された。貸出冊数はこれまでの倍の30冊、貸出期間も同じく倍の28日になった。ゆっくり、じっくり読んでください、ということなのだろう。その代わり、新聞・雑誌の閲覧や調査研究・勉強のための閲覧席の使用などはできない。

マスクをして、出入り口にある消毒液で手を消毒して、滞在時間は30分以内に――。借りたらすぐ帰ってくださいね、ということだが、3密を避けるにはそれもやむをえない。

2020年5月21日木曜日

ドラマ「路~台湾エクスプレス~」

 土曜日(5月16日)の夜、NHKの「路(ルウ)~台湾エクスプレス~」を見た。台湾新幹線建設事業に恋をからめた全3回のドラマだ。原作は、台湾に魅せられた作家吉田修一の小説『路(ルウ)』。
 2009年9月、学生時代の仲間と還暦を記念して海外修学旅行を始めた。2年目の2010年秋は、台湾高鐵(新幹線)に乗って南の高雄(カオション)へ行き、港から南シナ海に沈む夕日を見よう、ということになった。

 台北(タイペイ)に着いた翌朝、台風が襲来した。日本でいえば台風11号、アジア名は凡那比(ファナビ)」。テレビは凡那比」の特番に替わった。新幹線は動かない。予定を変更して、台北市内の温泉につかり、烏来(ウーライ)・野柳(イェーリュウ)・九份(チゥフェン)と観光名所を巡った。

 それから半年後に東日本大震災が起きた。台湾から200億円以上の義援金が寄せられた。台湾高鐵への思いと「謝謝!台湾」の気持ちが募って、2015年2月、旧正月前の台湾を再訪した。高雄で南シナ海を見るという念願がかなった。

 このときもいろいろあった。台北市内の松山(ソンシャン)空港を離陸したばかりの小型旅客機が近くの川に墜落した直後だった。東京はさらに雪の予報。いわき組は夕方のスーパーひたちで出かけ、羽田空港近くのホテルに前泊した。さいわい飛行機は遅れることも、運休することもなかった。

高雄へ向かう途中、台中(タイツォン)駅で下りて日月潭(リーユエタン)を巡った。標高748メートルの湖の直下に水力発電所がある。そこからの送電線だろう、バスから鉄塔が見えた。

鉄塔を見た瞬間、渡辺村(現いわき市渡辺町)出身の医学者高木友枝(1858~1943年)を思い出した。高木は、台湾では「医学衛生の父」と呼ばれる。

 高木はペスト菌を発見した北里柴三郎の一番弟子で、師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫などの公衆衛生事業に尽くした。総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などのほかに、みずから社長になって台湾電力を創設した。台湾電力会社が最初に手がけたのは、日月潭を利用した水力発電だった。
 
 台中駅で初めて高鐵の先頭車両を見た=写真。白い顔にオレンジ色のくちばしが印象的だった。

 土曜ドラマを見ながら、「台湾の誇り」高鐵の淵源には高木の電気事業がある――そんなことも考えたりした。NHKと台湾のPTS(公共電視台)の共同制作だという。2回目は今度の土曜日(5月23日)に放送される。

 いわきの図書館は本の貸し借りに限って、きょう(5月21日)午前10時、再開される。原作の『路』は、総合図書館では「貸出中」だ。四倉図書館にもあるから、買い物ついでにそちらで借りるか。


2020年5月20日水曜日

キジとゴジラと緊急地震速報


 きのう(5月19日)の午後1時13分――。遅い昼食のあと、BSプレミアムを見ていたら、画面に突然、「緊急地震速報」の字幕が表示された。同時に、「ピャラン、ピャラン」というチャイム音が鳴り始めた。スマホは沈黙している。字幕に表示された地図は中部地方。ほどなく文字が表示されて、長野県中部との県境に近い岐阜県・飛騨地方が震源とわかった。最大震度は高山市の4だった。
 その1時間前の午後零時17分――。いきなりドドッときた。スマホは鳴らなかった。震源は福島県沖。浜通り北部は震度4、南部のいわきは3だった。

 ガラケーからスマホに切り替えて3カ月弱。ざっと10日前の5月11日午前8時58分、突然、スマホが「ピャラン、ピャラン」と鳴り出し、「緊急地震速報」の文字と絵が表示された=写真。

スマホでは初体験だったので、チャイム音に驚いて身構えた。画面の文字を読む余裕はなかった。写真に撮ったのを確かめたら、「茨城県で地震発生。強い揺れに備えて下さい(気象庁)」とあった。揺れることは揺れたが、身構えていたほどではなかった。茨城でも最大震度は3だった。

結婚したばかりのころ、戸建て・庭付きの古い市営住宅に住んでいた。隣家でキジを飼っていた。地震が来る直前、キジは決まって「ケンケン」と鳴く。その繰り返しから、「突然、キジが鳴けば地震!」と身構えるようになった。

なぜ直前にキジが地震を察知するのか。地震が起きると、大きな揺れ(S波=横波)に先行して小さな揺れ(P波=縦波)が来る。キジは人間と違って、この初期微動(P波)を感知する能力が優れている、ということなのだろう。その意味では、緊急地震速報はキジの「ケンケン」と変わらない。ちなみに、Sはセカンダリー(2番目の)、Pはプライマリー(最初の)の略だそうだ。

チャイム音もどう表現したらいいか迷う。一般に「チャラン、チャラン」と表記される。しかし、私には「チャ」というやさしい音ではなく、「キャ」あるいは「ピャ」と鋭い音になって耳に飛び込んでくる。鳥でいうと、スズメではなくてヒヨドリ。

――NHKによる緊急地震速報の解説、一般のネット情報で知ったが、あの独特のチャイム音は伊福部達(とおる)東京大学名誉教授が作成した。音響学と電子工学、医療工学の境界分野で活躍してきた人で、「身の回りですでに使われている効果音やアラーム音などに似ておらず、聴覚に障がいのある人や高齢者などにも聞こえやすい音」を選んだ。

 ゴジラ音楽の伊福部昭は叔父さんだという。子どものころに見た最初のゴジラ映画の「ジャジャジャン、ジャジャジャン、ジャジャジャジャジャジャジャン」がおどろおどろしかった。不安と恐怖をかきたてられた。

叔父さんの作曲した交響曲「シンフォニア・タプカーラ」の第3楽章冒頭のメロディーを援用した、ということだった。こちらもゴジラの「ジャジャジャン」を連想させるような音だ――。この部分は前に書いたブログの抜粋)

実際の音選びでは、ゴジラのテーマソングは避けたという。ゴジラ映画から喚起される不安・恐怖を避けるためだ。が、「ピャラン、ピャラン」も東日本大震災以来、不安・恐怖を増幅する音になった。スマホで初めて聞いてゾッとしたのも、その後、テレビで放送された「緊急地震速報」体験と関係しているようだ。

2020年5月19日火曜日

こうもり傘をナス苗の日よけに

 日曜日(5月17日)は盛夏のような暑さになった。風も強かった。午前10時すぎ、夏井川渓谷の隠居へ着くとすぐ、1週間前に植えたキュウリとトウガラシの苗に水をやった。ナス苗用のうねもたっぷり湿らせた。
 夫婦2人が食べるだけだから、数は少ない。キュウリは3本、トウガラシは2本。ナスも2本。

ポットからナス苗を取り出し、植えつけた。時間的には最悪だった。午後2時ごろのピークに向かって、気温が上昇しはじめる昼前。谷風が吹いているとはいっても、少し動くだけで汗がにじむ。

現役のころは週末、ひとりで隠居に泊まったから、日差しが弱い夕方、あるいは未明に野菜の苗を植えつけた。根が活着する時間的なゆとりがあった。

真っ昼間では、太陽がぎらついている。根から水分を吸い上げるより、葉から蒸散する量が多いのか、見る間に2本のうち1本の葉がへりから内側へと丸まり気味になった。

直射日光を避けないと――。ずいぶん前にキュウリ苗を植えつけたとき、パラソルを立てた。それにならって、そばの梅の木にこうもり傘を縛りつけ、弱りかけたナス苗に日陰をつくってやった=写真上1。

太陽の運行に伴ってこうもり傘の影も移動する。苗からはずれたらしかたがない、あとは苗自身の生命力にまかせるしかない。

水は井戸からモーターでポンプアップしている。風呂場からホースをのばして、たっぷり水をやり続けた。
その間、隠居で昼飯を食べ、昼寝をした。チクッ。左手の甲に痛みを感じて目が覚めた。なにかいる。手で払ったら畳に落ちた。ムカデだった=写真上2。“選手交代”だ。家の中で冬眠していたカメムシたちは次々に外へ去った。そして今度は、外からアブやブユ、蚊が入って来る季節になった。ムカデもどこからか侵入してきたのだろう。

 いわきの平地のわが家では、毎年5月20日ごろ、蚊が現れてチクリとやる。「初めて蚊に刺された日」をメモし続けてわかったことだ。先に植えつけたキュウリ苗も、虫にやられて葉がスカスカになっている。日光と雨と風と虫たちの助け合い・せめぎ合い、そして人間と虫との攻防が始まった。

2020年5月18日月曜日

甘い食べ物

 これは、直接にはコロナ禍とは関係がないかもしれない。が、カミサンが午後2時半からBS日テレの海外ドラマ「オスマン帝国外伝」を見るようになったのは、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)による「外出自粛」が始まったあとだ。
 午後2時半からの番組で、途中で「3時のお茶」になる。カミサンが店のわきの「文庫」で友達と茶飲み話をしているときには、「おやつ」も口にしていたらしい。私は奥の茶の間でパソコンのキーボードをたたいたり、本を読んだりしている。3時のお茶もおやつも、たまに「文庫」から届く以外は縁がなかった。

テレビは茶の間にある。カミサンがそばで「オスマン帝国外伝」を見るようになってから、3時前後にお茶と菓子が出ることが増えた。それでつい、甘い物も口にする。

先日はいわき市常磐の和菓子店「久つみ」の「あまびえどら焼き」=写真上1=を食べた。餡(あん)のなかに「求肥(ぎゅうひ)」(粉にしたもち米に水と砂糖を足して火にかけ、練って粘りを出したもの)が入っている。もちのような食感だが、もちと違って歯切れがいい。生地には抹茶が練り込まれている。もう1種類、金時豆クリームもある。コロナ退散を願って新発売をしたという。
それからほどなく、同じ職場にいた若い仲間が平柏屋(本店・郡山市)の「薄皮饅頭(うすかわまんじゅう) 宇治抹茶」を持ってきた=写真上2。朝ドラ「エール」に、主人公の古山裕一がみやげに福島県の饅頭を持って、やがて妻となる愛知・豊橋の関内音の家を訪ねる。福島県内の人間はすぐピンときた。饅頭は薄皮、郡山駅のホームで買ったか。

「あまびえどら焼き」と同じく、この春に新発売された。店はコロナ禍で営業時間短縮が続いている。それで会社が休みの土曜日、ようやく買うことができたという。

外出自粛と時を同じくして、甘い食べ物を食べる機会が増えた、糖尿病ではないが、年に2、3度、かかりつけの医院で採血検査をする。血糖値の数字が高めのときがある。そろそろ採血か、というときには、甘い食べ物を自粛しないと……。

2020年5月17日日曜日

ヒミズの死

 夏井川渓谷の隠居ではジネズミがうろついているらしい。畳の上に黒く小さな糞(ふん)が転がっている。
 2年半前の2017年12月には、空っぽの浴槽で1匹が死んでいた。ネズミっぽい。が、ネズミにしては鼻先が細く長い。尾はひも状で頭胴長は7センチほど。似た大きさのいきものにヒミズがいる。こちらは、前足がやや大きい。耳はあるかないかわからないくらいに小さい。尾はブラシのようになっている。細長い鼻先からして、浴槽で死んでいたのは、ヒミズではなくジネズミと思われた。

 そんな“事件”をすっかり忘れていた今年(2020年)の4月初め、隠居の庭に黒く小さないきものの死骸(しがい)が転がっていた=写真上1。大きな前足とブラシのような尾っぽから、ヒミズだろうと推測がついた。

 これはネットからの受け売り――。ヒミズは低山域の森林にすむ。コケや草本に覆われた場所なら、岩場や砂礫(されき)の多いところでも生活できる。モグラは地中にトンネル網を張り巡らせる。ヒミズは主に落ち葉層をえさ場にしており、地上に出ることも多い。繁殖期は2~5月で、生後約1カ月で成獣と同じ大きさになる。
 2010年10月後半のある日曜日、隠居の庭の草刈りに疲れ、外のテーブルの長いすで休んでいると、足元をちょろちょろ動く黒い小動物がいた=写真上2。

テーブルは、丸太の脚4本に角材を渡して厚めの板3枚を載せただけの簡素なものだ。長年、風雨にさらされて腐朽が進んだ。その脚の底から、小動物がとがった肉色の鼻をひくひくさせながら、苔(こけ)のあいだにできたジグザグ道を行ったり来たりしている。絶えずおどおど、びくびくしていて、カメラのシャッター音にも驚いてすぐ脚の底に引っ込む。そこに巣でもあるのだろう。

 当時はモグラの一種くらいにしか思わなかったが、今はジネズミとモグラの中間の存在ともいうべきヒミズと断言できる。しかし、なぜ4月のヒミズは苔の上で死んでいたのだろう。

ヒミズの天敵はキツネ、イタチ、家ネコなどで、幼獣の死骸には肉食動物の咬傷(こうしょう)らしい出血や骨の折損が見られるそうだが、素人にはよくわからない。ただ異様に毛並みが乱れていること、肌が一部のぞいていることから、イタチかなにかにかみ殺された可能性は否定できない。

当たり前といえば当たり前なのだが、次の日曜日に隠居へ行くと、ヒミズの死骸はなかった。自然のなかでは死もまた別の生のエネルギーになる。その意味では無駄がない。

2020年5月16日土曜日

輝くキュウリの糠漬け

暖冬のなかで立春を迎えたばかりのころ、こんなことを書いた。3回目の白菜漬けにも白く産膜酵母が張った。白菜の量が半分以下になったところでタッパーに回収し、冷蔵庫に保管した。白菜の漬け込みはもう終わり。2月後半には例年より1カ月半早く、糠床(ぬかどこ)を復活させよう――。
そのあと腰を痛め、勝手口で冬眠している糠床の甕(かめ)を台所に上げることができなかった。3月が過ぎ、4月もやり過ごして、結局、例年とそう変わらない5月の大型連休に糠漬けを再開した。

 糠床の表面を覆っていた“塩のふとん”をはがし、新しい糠を入れる。甕の底まで塩がしみ込んでいるので、さらに糠を加えながら塩梅(あんばい)をはかる。キャベツその他の葉物を捨て漬けにする。サンショウの木の芽や乾燥トウガラシを入れる。カレーや肉汁の残りを足す――。そうして新しい糠がなじんできたころ、食卓に最初の糠漬けを出した=写真。

 キュウリが輝いて見える。糠袋で廊下を磨くとピカピカになる。それと同じで、糠の油分がキュウリの表面をコーティングしてくれるのだろうと、最初は思った。が、糠床をかきまわす手も油分でコーティングされる。どうやら糠だけではない。カレーや肉汁の油分も作用して輝いて見えるのだ。

カレーや肉汁の残りを糠床に加えるようになったのは、夏目漱石の孫、半藤末利子さんの随想集『夏目家の糠みそ』を読んだのが大きい。

半藤家の糠床をテレビ局が取材にきた。作家の嵐山光三郎さんが糠漬けのカブをぽりぽりやりながら、糠床の歴史を聞く。「100年は続いている訳ですね」「いいえ、もっと。300年以上は続いていると思いますよ」

曾祖母、祖母、母、本人と、江戸時代から途切れることなく続く夏目家伝来の糠床だ。糠床の栄養分としてカレーの残りや煮汁、塩サケの食べ残しなどを加えるので、独特の滋味、風味、こくが生まれる――。

この「滋味、風味、こく」をつくりたくて、食卓の残りもののなかからこれはと思ったものを糠床に加えている。

 糠床の冬眠を覚ましてから半月近く。キュウリは夜に漬けると、翌日の昼には食べられるようになった。室温がさらに上がればもっと早まり、朝漬けると夜には食べられるようになる。ごはんのおかずが主だが、私は特にこの時期、青葉の5月には糠漬けをつまみに晩酌をするのが好きだ。

 毎年糠床の眠りを覚ますときに思い浮かぶのがカブの糠漬け。大根よりはしんなりしてうまい。甘みさえ感じられる。とはいえ、いくら食べてもあきないのはキュウリだ。

きのう(5月15日)も朝、街へ行った帰りに鮮場へ寄ってカブとキュウリを買い、すぐ漬け込んだ。夕方にはキュウリが少ししんなりしてきたので取り出した。ちょっと味は薄かったが、まあ晩酌のおかずにはなった。カブはこれからチェックして、しんなりしているようだとけさの食卓に出す。

2020年5月15日金曜日

再び7冊の本

 いわき市立草野心平記念文学館の学芸員長谷川由美さんから、「ブックカバーチャレンジ」のバトンを受け取った。5月3日に、江頭宏昌・山形大農学部教授からバトンを受けて、手元において読み返しているいわき地域学會関係の本から7冊を紹介した。それでも「ぜひ」というので、目の前の本棚から任意に7冊を引っ張り出してみた=写真。今回もだれかを指名することはしない。
★『残丘舎遺文 八代義定遺稿集』(八代義定遺族会、2001年)
大正時代、牧師として磐城平に赴任した詩人山村暮鳥の理解者・協力者である八代の遺稿集。考古・歴史研究家で、地元・鹿島村(現いわき市鹿島町)の村長も務めた。吉野義也(三野混沌)と若松せいの結婚の労をとった。遺稿集には、八代所蔵のクロポトキン『パンの略取』などを借りたい――といった内容の、せいの手紙が収録されている。

★佐藤久弥『山村暮鳥と磐城平』(鏃出版、1992年)
いわき市内の高校教師をしながら地域文化の研究、とりわけ磐城平時代の山村暮鳥、同時代の詩人猪狩満直を研究した。20代後半に出会って40年。1年に何度か酒席を共にする、あるいは職場に電話がかかってくる、という程度のつきあいだったが、会えばいわきの文学について語り合い、教えられた。

★詩集『阿武隈の雲』復刻版(詩季の会、1994年)
吉野せいの夫、詩人三野混沌(吉野義也)の詩集。開拓農民として、いわき市好間町の菊竹山で一生を終えた。

★堀川正美『枯れる瑠璃玉 詩集1961―1970』(思潮社、1971年再版)
堀川の詩には生物がしばしば登場する。蝶(ちょう)でいうと、アイノミドリシジミやキマダラルリツバメ、ヒメジャノメなど。単に一般名称の「蝶」や「チョウ」ではなく、個別・具体の種名が並ぶ。植物も、動物も――。

この詩集は家の中でなぜか消えては現れ、現れては消える、ということを繰り返している。東北地方太平洋沖地震で家の本棚から本が雪崩を打ったとき、どこかにまぎれこんでいたのが出てきた。断捨離をして、本棚に戻し終えたら、またどこかへ消えた。

 それが、今年(2020年)元旦、茶の間の押入から出てきた。「ムラサキフウセンタケのとぶ胞子」「暗い菌類の帝国はつづく」「菌が 闇のなかであかるむ ほのかにまたたく」「すると八月/タマゴタケのきのこ/たちあがる第一日」といった菌類関連の詩句に出合う。“文化菌類学”の関連図書の1冊として、目の前の本棚に据えた。

★松田松雄『四角との対話』(回無工房、2015年)
 松田が昭和54(1979)年、いわき民報に「四角との対話」という題で1年間、週1回連載した。画家としての内面の軌跡を吐露した私小説的美術論。松田が出稿する前、担当ではなかったが、個人的に彼と対話しながら原稿の事前校正をした。それから36年後の2015年、娘の文さんが電子書籍化した。頼まれて、「あとがき」を書いた。オンデマンドで紙本も出版された。

★林香里『オンナ・コドモのジャーナリズム ケアの倫理とともに』(岩波書店、2011年)
 東日本大震災の直前に出版された。「マスメディア・ジャーナリズムとは異なった、より局地的で、かつ人間の関係性を基本に相対的な視点からつくられていくような“コミュニケーション的ジャーナリズム”を本書では『オンナ・コドモのジャーナリズム』と名づけ」る。震災の年から足かけ7年、いわき明星大(現・医療創生大)でマスコミとメディア社会について学生に話した。そのとき、参考書として勧めた1冊。

★NHK ETV特集取材班『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年)
原発事故から2カ月後、ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送され、総合テレビで再放送されるほど大反響を呼んだ。市民はこの番組で初めて、被曝の実態を知った。

2020年5月14日木曜日

飛んでるチョウを撮った

 デジタルカメラでコケの花(胞子嚢)を接写した話を、きのう(5月13日)書いた。きょうはスポーツモードで飛んでいるチョウを連写したら、初めてピントが合った、という話を――。
 ベニシジミがハルジオンの花に止まって吸蜜(きゅうみつ)したり、ヨモギの葉の上で休んだりしている。それに焦点を合わせ、飛び立つ瞬間を待った。

翅(はね)を休めているチョウはたびたび撮っている。ホバリングしながら吸蜜しているアオスジアゲハの写真もある。飛んでいるチョウの写真はまだない。ベニシジミが飛びたつ瞬間を撮るにはいいチャンスだ。じっと待つ。待ちきれないと思いながらも、さらに待つ。

と、そこへ別のシジミチョウが現れた。ベニシジミの近くをヒラヒラ飛び回っている。それを連写したら、2匹が写っていた=写真。

チョウは翅の表と裏では色・模様が異なり、雄と雌、季節によっても違いがある。種の同定が難しい。今度も1匹がわからない。自分で撮った写真をスケッチし、翅の色や裏翅の斑点の位置・数などを描いて、ネットにアップされている画像と照合した。

似ているチョウにルリシジミとヤマトシジミがいる。ルリの表翅は「全面水色」、ヤマトは「薄い水色」だという。たまたま表翅がはっきりしているとはいえ、光の加減で「全面水色」なのか「薄い水色」なのかが判然としない。翅のへりの黒っぽい模様も含めて、ほかのネット写真を眺めて推定ヤマトシジミ、ということにした。が、4割はルリシジミの気分でいる。あるいは、ルリでもヤマトでもないかもしれない。そんな疑問が脳内を漂っている。

野鳥や昆虫の写真を撮るには、なによりも「待つ」という耐久力が要る。それができない。いつも行きあたりばったりの撮影になる。「行きあたりばったり」もほんとうは大切なのだが、ひとり車を運転しているときには、つい「あとで」となる。

鳥は、あとにはいない。雲は、あとには変化している。助手席にカミサン、あるいは孫がいたら、カメラを持たせて「あれ」「これ」とやる。二度と出合えないからこそ「一期一会」なのだと自分に言い聞かせて――。

2020年5月13日水曜日

「化粧してから撮る」

 きのう(5月12日)は早朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけて、キュウリの苗=写真下=に水をやった。8時過ぎには家に戻った。
 4月下旬、平のホームセンターからポットのキュウリ苗3本を買って植えつけた。ところが、4日後の日曜日に見たら、2本の葉がしおれて黄色くなっている。

 買う前の中旬、同じホームセンターで見たときにはシャキッとしていた。買いに行ったらみすぼらしい苗しか残っていなかった。葉に白っぽい点々ができていた。活着したのは小さく未熟な苗だけだった。その苗も極端に育ちが悪い。

 新しく植えないといけない。日曜日(5月10日)、同じホームセンターへ寄ってキュウリ苗2本、「激辛」「大辛」のトウガラシを各1本買った。

植える前後にたっぷり水をやったとはいえ、翌日は真夏を思わせる暑さ(いわき市山田町で最高気温28.1度)。土が乾いてキュウリ苗があえいでいたら大変だ。気になって出かけた。キュウリ苗もトウガラシ苗も元気だった。

ネギと違って、キュウリは湿気を好む。風呂場からホースを伸ばして潅水を始めたらやることはない。水やりを終えるまで小一時間、カメラをぶらさげて庭をうろつく。

シダレザクラの樹下のアミガサタケは、もう発生が終わった。もしかして、と思いながら見たが、やはりなかった。それでは、コケの花(胞子嚢)を接写するか――。

3日前の日曜日にもはいつくばって、花のように茎をのばした胞子嚢を撮った。が、パソコンにデータを取り込んで拡大したら、カエデの落ち葉などがコケにからまっている。そうだった。あるがまま、ではだめなのだ。「化粧」が必要なのだ。

いわきキノコ同好会が発足して間もないころ、キノコ写真の第一人者伊沢正名さんを講師に、撮影の勉強会を開いた。伊沢さんはキノコだけでなく、コケなどの隠花植物の撮影も得意にしている。「コケの一念」で博士号を取ったコケ研究の第一人者、湯沢陽一さん(いわき地域学會顧問=私たちの元「山学校」の先生)のつながりでやって来た。

そのときにいわれたのが、「化粧してから撮ること」だった。キノコの傘についているごみを取る、周りの落ち葉なども払う――。図鑑に載っているキノコやコケの胞子嚢がきれいなワケをふと思い出した。
 今度は小さな落ち葉やごみを取ってから地面に横たわり、顔だけ斜めに上げて、手でカメラを支えて撮った。その1枚がこれ=写真上。やはり、ごみを取りきれていない。カメラが微妙に傾いていたらしく、コケの花も真っすぐ写っていない。背後にうす汚れたものが見える。それらに邪魔されてコケの花に視線が集中できない。プロの写真家とは撮るまでの下準備が完ぺきな人をいうのだと、あらためて知る。

「スマホで撮らないの?」。前に100円ショップから「魚眼」と「広角・接写」レンズを買った。なぜそれを利用しないかと、撮影データを見たカミサンに言われる。スマホからパソコンへのデータの取り込み方を頭に入れなければならないのに、先延ばしにしている。「コケの一念」がまだ足りない。