2023年9月30日土曜日

クジラ学者の本

                               
 月に1回、移動図書館がやって来る。カミサンが図書館と住民をつなぐ地域図書館を運営している。その本の入れ替えが行われる。

 自分の好みで借りる本と違って、思いもよらない本が並ぶ。「老い」や「女性」、「料理」……。自然科学系の本もたまにある。

 田島木綿子著『海獣学者、クジラを解剖する。――海の哺乳類の死体が教えてくれること』(山と渓谷社、2021年)=写真。これはまた意想外な本だ。

 「解剖」「死体」とくれば、沿岸に漂着して死んだ(あるいは死んで漂着した)クジラを思い出す。

今年(2023年)の大型連休中(5月3日)に、いわき市平沼ノ内地内の海岸にマッコウクジラの子どもが漂着した。その記憶がよみがえる。ぜひとも読まねば――。

ネットに残るニュース記事によると、同日早朝、沼ノ内の海岸にクジラが1頭打ち上げられていると警察に通報があり、アクアマリン(小名浜)の獣医師が死んでいるのを確認した。

その時点では、性別は不明。やせ細っており、病気でえさを食べられずに衰弱した可能性がある、ということだった。

翌日、国立科学博物館や大学などの研究者が調べたところ、体長は約7メートル、10歳以下の若いオスで、死因は特定できなかったという。

その際、筋肉と下顎骨が試料として採取された。アクアマリンも同じように、試料として胃などの内臓を採取した。クジラはその後、同海岸に埋められた。

田島さんは国立科学博物館に勤務するクジラ学者で、「世界一クジラを解剖している女性」だそうだ(同書)。

今度も現地に来たのかもしれないし、調査のための連絡調整に携わったのかもしれない。以下は、本を読んで強く印象に残ったこと。

クジラなどの海洋生物が浅瀬で座礁したり、海岸に打ち上げられたりする現象を「ストランディング」という。英語の動詞「ストランド」(座礁する)からきているそうだ。

このストランディングが、クジラやイルカなどの海の哺乳類に限っても、国内では年間300件ほどある。

ストランディングの原因としてわかっていることは、①病気や感染症②えさの深追い③海流移動の見誤り――などで、大型個体になればなるほどその大きさと重さが問題になる。

「水中にいる間は浮力のおかげでその巨体も難なく動かすことができるが、いったん陸上に上がってしまうと、重力の影響で自らの体重を支えることができず、肺などの臓器が押しつぶされ、そのまま放置されれば、瞬く間に死に至ってしまう」

赤ちゃんクジラの胃からプラスチック片が見つかった例もあるそうだ。

直径5ミリ以上のプラスチックごみを「マクロプラスチック」、それ以下を「マイクロプラスチック」という。

近年、プラスチックごみによる海洋汚染が世界的に問題になっている。沼ノ内にストランディングした若いクジラはどうだったか。

死因を調べることで海洋の環境もわかる、という意味では、このストランディングを無駄にはできない。

2023年9月29日金曜日

あれが菊竹山

                     
 月遅れ盆は、カミサンの実家を訪ねて焼香するだけに終わった。新盆で田村市の実家へ帰ったために、時間がなかったこともある。それで、この秋の彼岸はカミサンの実家の墓に直行した。

 戦国時代は岩城公の城下町。近世になると同じ小丘陵の反対側に、今の中心市街地と重なる磐城平藩の城下町ができる。

 寺のある丘陵は、字名でいうと平の大館~好間の大舘だ。カミサンの実家の寺は大舘にある。

小高い丘の墓地の北西からは好間の市街と水田、背後に小丘陵、その奥に閼伽井嶽~水石山の稜線が見える。

 見晴らしがよくなったのに気づいたのは去年(2022年)の月遅れ盆。ふもとに家のある急斜面で防災工事が始まった。それで視界を遮っていた樹木が伐採された。

1年前は西方にある「好間のⅤ字谷」に見入ったが、今年は市街~丘陵~閼伽井嶽のラインが目に留まった=写真。

あれが菊竹山だな――。とんがった閼伽井嶽の手前、お腕(わん)を伏せたような緑の小丘陵の中腹で開墾生活を送った詩人がいる。山村暮鳥の盟友、三野混沌(吉野義也)。短編集『洟をたらした神』を書いた吉野せいの夫だ。

混沌がこの地で開墾生活に入ったのは大正5(1916)年。その経緯をせいが著した『暮鳥と混沌』(彌生書房、1975年)から拾うと――。

平の郊外、平窪村曲田の農家の三男に生まれた混沌は、磐城中学校を卒業後、定住の地を求めて近辺を放浪する。いよいよ壁にぶち当たり、師走に閼伽井嶽の「竜灯場」にこもる。

夜は寒さが身を刺し、やがて体がだるくなって目がかすむ。6日目。むなしい思いで下山していると、「もうろうと白く輝く湖」が目に入った。菊竹山だった。

現実には、そこはススキの原で、龍雲寺の所属地のために買い取ることはできない。混沌は小作開墾に入り、ナシの木を育て、小名浜の若松せいと結婚する。

菊竹山での開墾生活は苦闘の連続だった。『洟をたらした神』はその半世紀に及ぶ記録といってもいい。

混沌の生家(曲田)から開墾地まではどのくらいあるか、前に車で測ったことがある。およそ3キロだった。

歩くのが当たり前の大正時代。生家の曲田から見ても、菊竹山はすぐ西の小山の一角にある。人里離れたユートピアではなく、俗世間と隣り合わせの山の原だった。

では、閼伽井嶽と菊竹山の間はどうか。グーグルマップで測ると、直線で4~5キロ。大舘の墓から菊竹山までは2キロ前後だった。道なりに歩いたとしてもそう遠い距離ではない。

実は『暮鳥と混沌』の原形(本文66~92ページ)ともいうべき、せいの原稿「北風の通信」が、いわき市立草野心平記念文学館の長谷川由美さんの手で翻刻された。

『いわき市教育文化事業団研究紀要』第20号に掲載され、本人から抜き刷りの恵贈にもあずかった。

彌生書房版との表記の違いを「註」で詳細に紹介している。暑さもやわらいできたので、これからじっくり、註を手がかりにせいの内面を追ってみることにする。

2023年9月28日木曜日

行旅死亡人

                              
   現代の死を考える。若いときは観念でしかなかった死が、年をとった今は現実となって目の前にある。

たまたま武田惇志・伊藤亜衣著『ある行旅死亡人の物語』(毎日新聞出版、2023年第4刷)=写真=を手に取ったとき、二つのことが頭をよぎった。

 珍しいテーマに挑戦したな、というのが一つ。著者は共同通信大阪社会部の若い記者2人だ。

もう一つは、現代人の死は家族がいても限りなく行旅死亡に近いものになりつつある――そんな思いを抑えきれなかった。

 行旅死亡人とは「病気や行き倒れ、自殺等で亡くなり、名前や住所など身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す法律用語」(同書)であり、地元自治体の首長名で、死亡人の身長・服装・発見場所などの情報を官報に布告し、引き取り手を待つ。

 それを転載した民間ウェブサイトがある。「行旅死亡人データベース」で、時折、ここにアクセスしていた竹田記者が、兵庫県尼崎市で、遺体で発見された女性の所持金が3482万余円という大金だったことに着目する。

 それから同僚記者を誘い、1年をかけて身元を突き止め、半生を明らかにする稀有なルポルタージュだ。

 現代の死者は永眠できずにさまよっている――東日本大震災と原発事故以来、いちだんとその思いが強くなった。

理不尽にも家と土地を追われ、帰ることがかなわなくなった人々がいる。彼らの胸中には、ふるさとに残してきた死者(先祖)に対するすまなさ、墓参りも埋葬もできないいらだち、悲しさが募る。それを解消するためにやむを得ず、避難先に墓を移転するという話を聞いた。

先祖伝来の田畑と家がある農山村だけではない。土地を買ってマイホームを建て、そこで一家を構えたとしても、次の世代はよそにマイホームを建てるか、マンションを求めるかして根づいてしまう。古い住宅団地ほど過疎化・高齢化が著しい。

三世代家族が普通だった時代から核家族の時代に移り、さらにひとり親が増えただけでなく、非正規雇用が主流になる、といった厳しい社会・経済環境に変わった今、永遠の眠りに就くべき墓は求めようもない。

家族葬が増え、永代供養墓(樹木葬や合葬、納骨堂利用など)、散骨と葬送スタイルが多様化しているのも、その表れだろう。

 半世紀も前、「存在の危機」という言葉が核家族化と同時に語られようになった。その延長で、遺影を、墓を通して「死者として生きる」ことが当たり前だった時代は去り、死もまた生者とは切れた孤独なもの、忘れられたものに変わりつつあるのかもしれない。

 『ある行旅死亡人――』の「あとがき」にこうある。孤独死や無縁死は珍しくない現象であり、「しばしば自分が死ぬときのことを考えた。誰かがそばにいてくれるだろうか。死後、自分のことを思い出してくれる人はどれぐらいいるだろうか」。死んだとき、そしてそのあとのことを、やはり考える。

2023年9月27日水曜日

初めての青パパイヤ

                   
 外出から戻ると、カミサンが新聞紙に包んだものを差し出した。「モノをくれる友」である後輩から届いたという。青パパイヤだった=写真。

 パパイヤは南国のフルーツ。オレンジ色に完熟した果肉を、さいころ状にカットしたものしか思い浮かばない。

 青パパイヤは、その意味では未熟果だ。東南アジアや沖縄ではこれを野菜として利用するという。

 後輩が持って来たレシピのコピーを参考に、ネットで青パパイヤの食べ方を検索する。タイのサラダ料理に「ソムタム」がある。細切り(せん切り)を生のまま食べる。

 下ごしらえはこんな感じらしい。青パパイヤを縦に二つに割って未熟な白い種を取り除き、ピーラーで皮をむく。

 用途に合わせて細切りや薄切りにする。水に10分ほどひたしてアクを抜き、水気をふき取る。あとはサラダや炒め物のレシピに従えばよい。

 さっそく薄切りの炒め物が晩酌のおかずになって出てきた。おもしろい食感――。これが青パパイヤを口にしたときの第一印象だ。

 とにかく歯ごたえがある。そのうえ、しなやかだ。熱いうちは弾力性が際立つが、冷めると少しかむ時間が長引く。サラダのような生食は細切りがいい、というのがうなずける。

 さて、いつものことながら、それ以外の食べ方はないものか――。頭に糠床を思い浮かべながら検索すると、味噌汁やカレーの具にもなる、とあった。さらに検索を続けると、やはり糠漬けを試した人がいた。

 パパイヤはウリ科ではないが、未熟果は食べ方が似ている。例えば、ハヤトウリ。糠漬けをもらって食べたことがある。つくったこともある。

ある年の春先、三和町の「ふれあい市場」でハヤトウリのみそ漬けを買った。これをごはんにのせて口にしたときの、みその香ばしさ、ハヤトウリの味と歯ごたえが忘れられない。

 ハヤトウリが生(な)るのは秋だから、糠漬けもみそ漬けも秋以降の食べ物ということになる。

私は、ハヤトウリを栽培したことはない。インゲンやキュウリと同じく、ハヤトウリも旬がくると一気に生る。あちこちから「食べて」と届く。みそ漬けまでは頭が回らなかった。

マクワウリもそうだ。やはり後輩から完熟果が届いた。さっぱりした甘さに舌が喜んだ。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出てくる「瓜(うり)もみ」は、いわば「青マクワウリ」を刻んで塩でもみ、やわらかくしたところへ刻んだ青ジソを添え、酢などで調味した夏の食べ物だろう。

 それはさておき――。一番小さい青パパイヤを下ごしらえに従って縦に四つに割り、皮をむいて糠床に差し込んだ。

12時間後に取り出すと、まだ全体に硬い。さらに12時間、つまり1日後、再び取り出したが、先端部が少しやわらかくなっただけだった。

その部分をカットし、薄切りにして試食する。硬い。浸透圧がよく働かないのか、外側はかなりしょっぱい。よし、これからだ、あれこれ考えるのは。

2023年9月26日火曜日

「遠山の金さん」の父親

            
 図書館から板坂耀子編『近世紀行文集成』(葦書房、2002年)の第1巻を借りた=写真。「蝦夷篇」で、遠山景晋(かげみち)の紀行文「未曾有後記」が収められている。

 景晋は幕臣で、長崎奉行や勘定奉行を務めた。テレビドラマで有名な「遠山の金さん」の父親でもある。

寛政11(1799)年と文化2(1805)年、同4年の3回、幕命によって蝦夷地を見分している。「未曾有後記」はその2回目の旅日記という。

 ほんとうは3回目の旅日記「続未曾有後記」を読みたかったのだが(それはこのシリーズの第6巻「東北篇」に収められているのだが)、図書館には第1巻と第2巻しかない。残念といえば残念だが、しかたがない。

 いわき地域学會の第377回市民講座が先日行われた。会員の中山雅弘さんが「松井秀簡とペリー来航」と題して話した。

 秀簡は、ペリーが幕府に提出したアメリカ大統領国書の和訳を書き写した。そのへんのことは先にブログで紹介した。

 「未曾有後記」の解題によると、文化4年、蝦夷地で反乱が起こったといううわさが流れ、事実を確認するために景晋が蝦夷地へ派遣される。そのときの旅が「続未曾有後記」の題材になった。

 「続未曾有後記」に、景晋が部下とともに見たいわき地方の海岸線の様子が記されている。中山さんは秀簡が書き写した国書のほかに、このくだりを自ら翻刻して解説した。

「続未曾有後記」は受講者にとってはおそらく初めて見る資料だろう。日本近海に出没する外国船に対処するため、東北地方の東海岸を南下しながら、海防状況をチェックした。物見遊山の旅ではないにしても、景晋の性格がそうさせるのか、「紀行文学」としても読める。

 日記スタイルをとっているのは「未曾有後記」と同じである。文化4年の陰暦何月かは定かではないが、某月の12日、「上新田村大野川の落口を船わたし下新田村下神谷村夏井川の落口を舟渡し……」と続く。

「落口」は河口、「大野川」は仁井田川だろう。大野川の河口を舟で渡り、さらに夏井川の河口も船で渡った。そのあとは岬と砂浜が繰り返す、いわゆる「磐城七浜」の記述が続く。

江名村の「左の岬を三角山」といい、そこに「遠見番所」があった。遠見番所は中ノ作にもあり、この日は同地に泊まる。

翌13日は永崎村から下神白村を通り、小名浜に出る。三崎には内藤公時代、遠見番所があった。

「遠見番所再建すへ(べ)き岬なりとて県の官司出会ひて地理を語る」。小名浜は幕領、代官所の役人と再建話をしたということだろう。

そのあとさらに南下する。勿来の関に関する記述は、「未曾有後記」の解題にあるので、それを紹介する。

景晋は「歌枕の名所勿来の関を見に行きたいとは思いながらも、日程として無理で皆に迷惑をかけると判断して代わりに部下の一人に見に行かせて話を聞くことで満足」した。なかなかできた人物、しかも風流人だったことが、このエピソードからもわかる。

2023年9月25日月曜日

やっと秋風が

                     
 「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、彼岸に入ると半そで・半ズボンでは寒いくらいになった。

 寝床もタオルケット2枚では足りない。朝方、ひんやりするときがある。秋分の日の夜はとうとう、カミサンが押入から綿の入った薄い布団を取り出した。

 翌日曜日(9月24日)は寺へ直行し、カミサンの実家の墓参りをしたあと、いつものように夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 朝から晴れて綿雲がいっぱい浮かんでいる。風は冷気を含んでいる。9月も後半。体が覚えている「農事暦」に従って、「10月10日」に種をまく三春ネギの苗床をつくった。

 といっても、スペースは畳1枚分だ。草をむしって、石灰をまく。翌週の日曜日には肥料をすき込む。そして、翌々週の連休(10月8~9日)に、冷蔵庫で保管していた種をまく。

 そんな段取りを頭において庭の畑に立つと……。メヒシバがネギのうねとネギの古い苗床(苗がまだ数十本残っている)の周りを覆っている。まずは草むしりをしないことには始まらない。

 フィールドカートに座り、三角のねじり鎌を手に、根っこごと土を引っかきながら、少しずつ、少しずつ草を払っていった。

 この夏は草引きらしい草引きができなかった。いや、しなかった。

7月以来、酷暑が続いた。直射日光にさらされながら土いじりをすると、たちまち汗みどろになる。

 水をガブ飲みしながらやっても、30分しかもたない。熱中症を避ける意味もあるが、体力的にも無理がきかなくなってきた。

 7月下旬、後輩が庭の草を刈ってくれた。が、週1回、それもわずかな時間の草むしりでは、緑の暴力的な繁殖は抑えきれない。

 高田梅の木を中心に見ると、ネギうねはその南側、北側にはネギの古い苗床、そしてうねの西側に辛み大根の“自生”スペースがある。そのへんだけでも土に光が当たるようにしたい――。

 24日は青空ながら、いい具合に涼しい谷風が吹き渡っていた。天然のエアコンのおかげでほとんど汗をかくこともなく、作業が進んだ。

 この夏は暑すぎて、ほんのちょっと土いじりをしたあとは隠居で朝寝をし、昼食後は昼寝をする、その繰り返しだった。

 しかし、24日は「お昼―」の声がかかるまで草をむしり、昼寝をしたあともまた同じ作業を続けた。

やっと遅れを取り戻せた。といっても、ネギ以外は何も栽培していない。遅れも何もないのだが、草むしりに関しては、ようやく宿題の半分くらいはすませた、そんな思いになった。

しかも不思議なことだが、この日は夏以降、一番働いたのに疲労感が全くない。仕事がはかどったことも、理由の一つなのだろうか。

それはさておき、辛み大根はメヒシバを引っこ抜くと、虫に食われてボロボロになっていた=写真。これがちゃんと育ってくれればいうことなしだ。

冬にはずんぐりむっくりの「アザキ大根」になるか、それとも交配が進んでいるので、青首大根のようなものになるか。そのへんは収穫してのお楽しみでもある。

2023年9月23日土曜日

林芙美子と樺太の旅

          
 前に台湾の現代作家、楊双子の小説『台湾漫遊鉄道のふたり』(中央公論新社)を読んだ影響かもしれない。

ノンフィクション作家梯久美子さんの『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』(角川書店)を読み返した。

台湾、南樺太は先の敗戦まで日本の植民地だった。『台湾漫遊――』の主人公は、作家林芙美子がモデルだという。芙美子は樺太だけでなく、台湾も訪ねていた。

樺太へ、台湾へ、そして満州、シベリア、パリへと、芙美子は作家活動のかたわら旅を続け、紀行文を発表した。

東日本大震災の前、野口雨情記念湯本温泉童謡館(常磐)で月に1回、童謡詩人を調べて紹介したことがある。

サトウハチローを取り上げることになって、ハチローの弟子の菊田一夫の評伝などを読んでいたら、一夫と芙美子が交流していることを知った。

あとは芋づる式で資料に当たった。『放浪記』はさすらいのどん底暮らしを描いていた。街を、男を放浪しながらも、しかし文学への希望を失わない。

作中に芙美子が20歳のころ書いた詩が挿入されている。『放浪記』はそもそも、芙美子が書いていた「詩日記」が原型だという。

「さあ男とも別れだ泣かないぞ!/しっかりしっかり旗を振ってくれ/貧乏な女王様のお帰りだ」

「矢でも鉄砲でも飛んでこい/胸くその悪い男や女の前に/芙美子さんの腸(はらわた)を見せてやりたい」

開高健流にいえば、崖のへりに立たされながらも破れかぶれ、開き直って野原を行くような小気味よさがある。

梯さんは平成29(2017)年11月と翌年9月の2回、サハリンを旅した。その成果が2部構成の『サガレン』になった。

第1部「寝台特急、北へ」は、サハリン東部の鉄道の旅を描く。芙美子の紀行文「樺太への旅」が収められている『下駄で歩いた巴里』(岩波文庫)がお供だ=写真。第2部「『賢治の樺太』をゆく」は、樺太での宮沢賢治の足跡を車でたどった。

『下駄で歩いた巴里』が図書館にあったので、それも手元に置きながら「サガレン』を読んだ。なかに、芙美子が楽しみにしていた北緯50度線の国境見物を断念するくだりがある。

芙美子は昭和8(1933)年8月、東京・中野署に拘留されたことがある。その半年前、築地書で小林多喜二が虐殺されている。

豊原(ユジノサハリンスク)の宿に泊まった朝、中野署にいたという巡査から電話がかかってくる。

さらに樺太庁へ行き、役人と話していると、この巡査が入って来て、なれなれしく芙美子に接する。

巡査の「侮蔑的な態度と暴言に芙美子はついに泣きだし、こんなところにはいたくないと、早々に北海道に戻ることまで考える」(『サガレン』)

梯さんは、芙美子が国境行きを断念したのは「樺太でも監視されているのではないかと思ってショックを受けたからではないか、という。

「樺太への旅」は知人にあてた手紙の形式で書かれている。彼女一流の小気味よさが感じられないのは、そのためだったか。

2023年9月22日金曜日

ポポーの実

                    
   後輩がポポー(ポーポー、ポポ)の実を持ってきた。さっそくカミサンが二つに割って夜の食卓に出した=写真。ねっとりした濃密な甘さが口中に広がった。

あとで自分のブログを読んで、5年前に初めて食べたときの記憶がよみがえった。それを要約・引用する。

――友人からポポーの実をもらった。常磐の知人の家の庭にあるポポーが、台風の影響で落果した。そのお福分けだという。見た目は、黄色いアケビ。香りは、かなり強い。

 ポポーは、春に腐肉臭のする紫色の花をつけ、秋に黄緑色の薄い外果皮をもつ果実をつける。

完熟すると木から自然に落ちる。それから数日後、香りが強くなったときが食べごろだそうだ。

果肉はやわらかく、甘い。外観がアケビ、種が柿に似るため「アケビガキ」とも呼ばれる、とネットにあった。

何日か冷蔵庫に入れて“追塾”し、果皮が黒ずんできたところで、皮をはがしてがぶりとやった。確かにやわらかい。甘い。種は? これもいわれるように柿の実のかたちをしているが、それよりは大きくて厚い。

味の表現には迷う。真っ先に「ソフトクリーム」を連想した。味というよりは舌触り、これが最初に脳を刺激した。ネットには「マスクメロン」、あるいは「森のカスタードクリーム」といった比喩が並ぶ。

後日、やはりポポーのお福分けがあった。前のポポーと違って、緑がかっている。前は卵型、今回は細長いムラサキアケビ型だ。大きさが違う。ポポーにもいろいろ種類があるのだろうか。

手に取るとすでに熟しているのか、やわらかい。すぐ皮をむいて食べた。甘い。が、前のときよりはあっさりしている。追熟すればもっと濃い味になるのか、それともそういう味の品種なのか。

ポポーは見るのも食べるのも初めてだった。が、庭木としてはけっこう知られているらしい。カミサンの実家にも、昔、ポポーの木があったという――。

 付け足すことはない。が、新たに情報を探ると、ポポーは北アメリカ原産、耐寒性が強く、日本国内ではほとんどの地域で栽培が可能、とあった。

 すでに明治時代には栽培が始まり、1940年代まではポピュラーな果樹だったとか。カミサンの家のポポーは、その意味では時代の名残のようなものだったのだろう。

 姿を消したのは、日本人の舌が多様化したためということのようだが、最近また復活しつつあるのも、もしかしたら同じ理由からかもしれない。

若い人を中心に、ケーキやプリンなどの甘い菓子が好まれるようになった。スイーツとか、パティシエとかいった言葉も子どもの間では普通に使われる。

高齢者には懐かしい果実でも、若い人には新しい果実と受け止められているとしたら、それもまた時代のなせるワザだろう。

2023年9月21日木曜日

アマガエルが同乗

                      
 まだ夏の猛暑が続いている。夕立もハンパではない。バケツでは足りない、ドラム缶をひっくり返したように降る。

 この夏、わが家の土の庭には車のタイヤの轍(わだち)ができた。雨が降ると、そこを中心にたちまち水がたまる。その繰り返しで轍が深くなった。

 そのため、車を同じ庭の離れ(物置)の跡に止めて、轍が乾くのを待つ。しかし、朝のうちは日光が差すのだが、昼近くになるとそばの柿の木が日陰をつくる。

 やっと庭の轍が乾いたかと思うころ、また夕立が来る。庭が水浸しになる。9月19日午後の雷雨もそうだった。常磐・内郷方面でまた土砂崩れや冠水被害があった。

 轍だけではない。少し黄色味を帯びた渋柿の実が時折、庭に落下する。樹下に使わなくなった犬小屋がある。そのトタン屋根に実が当たって、ものすごい音を出す。

 車をいつものところに止めておくと、真上から柿の実が落ちて、車の屋根がボコボコになりかねない。

 それがイヤで、夏の初めに車の真上にある青柿をあらかたたたき落とした。しかし、やはり見落としていた実がいくつもある。

 朝起きて庭に出ると、ときに半分熟した実が何個も轍に転がっている。車を止めていたら、屋根に当たって「ボコッ」と大きな音を出したことだろう。

 これは、そんな状況のなかで起きた「珍事」というほかない。日曜日(9月17日)の朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけるために車を動かしたら、フロントガラスに小さな生き物が張りついていた=写真。

 離れの跡に車を移してからは、車内の温度を下げるために窓を開けておく。それで車に乗り込むとすぐ、ヤブカが現れる。

 黒いハンドルが直射日光でやけどするくらいに熱くなっている。それを避けるためにハンドルにタオルを掛けておく。

それだけではない。車のそばに生け垣のアオキがある。ニホンアマガエルがそこで暮らしている、アオキの枝から車のフロントガラスに飛び移ったのだろう。

 気づかずにそのまま発進した。が、やはり視界の片隅にアマガエルがちらつく。カミサンは「ワイパーを動かさないで!」という。

ちょうどワイパーに乗っかったところで、それを動かすと、アマガエルがねじれるようにひっくり返って姿を消した。カミサンが悲鳴を上げた。

 つぶしたか? ほどなくまたワイパーに飛び移ってきた。「よかった」。カミサンの声を受けて、ひとまずはホッとする。

 こうなったら、田んぼ道のそばの林に置いていくしかない。10分ほど走ったころ、いつものルートから一本、山際に入り込んでアマガエルにバイバイした。

 庭のアマガエルは、その1匹だけではなさそうだ。台所の東側の出窓を開けておくと、そばの生け垣から飛び込んで来るものがいる。

 えさはハエやアブラムシなどだという。ヤブカも食べるだろう。いわば、人間にとっては益虫だ。今しばらくは人間だけでなく、車とも共存してもらうしかない。

2023年9月20日水曜日

松井秀簡とペリー来航

        
 いわき地域学會の第377回市民講座が9月16日、いわき市文化センターで開かれた。同会の中山雅弘さんが「松井秀簡(しゅうかん)とペリー来航」と題して話した=写真。

 中山さんはちょうど1年前、「松井秀簡~非戦を貫いた泉藩士~」と題して話している。まずはそのときの拙ブログを要約・引用して、秀簡の人となりを紹介する。

――泉藩郡奉行・松井秀簡(1826~68年)は幕末の動乱期、藩論が二分する中で非戦を唱えて自刃する。

中山さんによれば、秀簡は少年のころから頭脳明晰だった。藩から派遣されて磐城平藩の学者、神林復所(1795~1880年)のもとで学んだ。

さらに、三春藩に召し抱えられた最上(さいじょう)流和算家、佐久間庸軒(1819~96年)のもとで、町見術(測量して田畑の面積を出す)や水盛術(水準を出す)などを修得した。

秀簡は三男だったが、殿様に同じ松井の「別家」として取り立てられ、小頭、徒士、徒士小頭を経て、29歳で代官(新百姓取立掛)になった。

つまり、新田開発の担当者というわけだが、これには和算の知識(年貢取り立て、田畑の面積の計算など)を買われてのことだったようだ。

新田開発に伴い、越後・蒲原郡から家族ごと農民をスカウトする事業にも取り組んだ。そして、慶応4(1868)年、41歳で郡奉行になる。

奥羽越列藩同盟と新政府軍の戦いが始まるなかで、非戦論者の秀簡は6月22日、自刃する。

背景にはなにがあったのか。秀簡は水戸の会沢正志斎に兵学を学んだ。会沢は開国論者だった。

そのため、秀簡は世界情勢にも通じていた。領民の苦労もわかっていた。幕府側の遊撃隊・純義隊が領民から軍資金を調達しようとしたことへの抗議だったか、と中山さんはいう――。

今回は、日本近海に外国船が出没するようになった江戸時代後期の海防問題を背景に、幕末のペリー来航と秀簡に焦点を当てた。

嘉永6(1853)年6月、黒船4隻が浦賀沖に現れ、ペリーがアメリカ合衆国大統領フィルモアの「国書」を幕府側に渡した。

時の老中、阿部正弘は国書ほかの和訳を作成し、諸侯に示して意見を募る。秀簡はなぜか、その和訳国書を書き写している。

藩主を介してか、あるいは別ルートでかは、定かではない。それはともかく、中山さんは秀簡自筆の国書の内容を解説した。

捕鯨船の燃料(石炭)と食料の供給、難破船の船員の保護などは、一般に知られているものだが、ペリーの肩書に注意を促した。

中山さんは国書の原文も示しながら、ペリーの肩書は「大佐」であって、議会の承認を必要とする「アドミラル」ではなかった。たまたま東インド艦隊を指揮するために「コモドア」(代将)に任命された。国書にはコモドアとある。

隣国・清朝では最高位の武官を「提督」といい、黒船船団のトップだから幕府は「水師提督」と「誤訳」したらしい。

秀簡は和訳を書き写しながら、アメリカやペリーについてどんな思いを抱いたことだろう。

2023年9月19日火曜日

秋の祭礼

        
 曇天というだけで、ホッとする。9月17日の日曜日は、あらかた灰色の雲に覆われた。朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけて、1時間ほど土いじりをした。蒸し暑かったものの、直射日光が遮られている分、ネギうねの草むしりがはかどった。

 この日は午後、渓谷で寄り合いがあった。週末だけの「半住民」だが、集落全体(常住7軒、その他2軒)の集まりには連絡がくる。

 9月に入ると、各地で秋祭りが開かれる。わが住む地区でもこの日、神社の例大祭が開かれた。

 4年ぶりの通常開催が予定されていたが、規模が縮小されたため、来賓としての出席が見合わせとなった。

 その神社に近い田んぼ道を抜け、国道399号(兼県道小野四倉線)を進むと、夏井川に架かる三島橋(小川町)の交差点で、山側からみこしを載せた軽トラが現れた=写真。荷台には「熊野神社」ののぼりが立っていた。

 三島橋の上流はハクチョウの飛来地だ。その左岸・山側の上平(うわだいら)地区には熊野神社がある。その神社の祭礼なのだろう。

 日曜日に渓谷へ通い続けていると、途中の地区の祭礼などをなんとなく見て覚えている。上平の熊野神社については、7年前(2016年)にこんなことを書いていた。

――いわき市議選が9月11日に行われた。9月第一日曜日に決まっていたわが地区の体育祭は、雨天延期を想定して8月28日に1週間前倒しされた。

 市議選から1週間。曇天の夜明けから間もなく雨が降り出し、7時には本降りになった。土砂降りでは土いじりもできないな。でも、行けば気分転換にはなる――そんなことを考えながら、朝食をすませて夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 平上平窪の坂を下って小川町へ入ると、上平熊野神社の例大祭を告げるのぼりが立っていた。

近くの集会所では支柱を寝かしたままのテントが並び、カバーをしたみこしを前に神官が祝詞をあげていた。雨中の本祭りになった。

 隠居では、カミサンが部屋の掃除をした。私は、土いじりができないのを口実に、「雨読」に徹した。

 翌19日は曇天だが、データ放送でいわきの天気を確かめると、夜から翌日にかけては雨、週間天気も22日午後と25日午後が晴れのほかは、前半少し雨、あとは曇りの予報だ。

8月後半からこのかた、台風も重なって、カンボジアかベトナムの雨季後半のような日が続いている――。

7年前もそうだったが、今も天気が頭から離れない。カンボジアが出てきたのは、還暦後、同級生と海外修学旅行を始め、アンコールワットを見に行ったからだ。

そのとき(やはり9月だった)、次から次に雨がやんでは降った。「線状降水帯」という言葉を知ったとき、カンボジアでの雨の経験を思い出した。

 それはともかく、今年(2023年)の秋祭りはどこでも残暑との闘いだったか。渓谷での寄り合いも、飲み会を兼ねていた。缶入りのノンアルがほてった体に心地よかった。

2023年9月18日月曜日

ハンドルが熱い!

                      
 7月からの暑さが9月に入っても続いている。「暑さ寒さも彼岸まで」という。秋の彼岸の中日(9月23日)まであと5日。ほんとにそうなってほしいと思う。

 何度も書いているが、エアコンのない「昭和の家」なので、暑い日は戸と窓を全開し、朝から扇風機を最強にする。

 区内会や所属する団体の用事がないときには、たいていこんな感じで一日を過ごす。朝食をすませると、1~2時間かけて翌日のブログ(兼新聞コラム)の骨格をつくる。そのあとは家の用を足しながら、午後の早い時間に原稿を仕上げる。

 コロナ禍以来、ブログを古巣のいわき民報に転載するようになってから、一日のサイクルが「現役」時代と同じものに変わった。

 「ネットにアップするブログ」というより、「新聞に載せるコラム」という意識が強くなり、それに合わせて、夜ではなく、日中に文章をつくるクセがついた。

 合間に座いすを倒して本を読んだり、昼寝をしたりする。宵には晩酌をやりながら、次のブログの下書きをつくる。

 という意味では、体は全く動かさないのだが、それでもこの夏は汗がにじみ、読み書きに苦労した。

 それだけではない。車を庭に止めている。日中、用事があってハンドルを握ると、やけどするくらいに熱い。運転するどころではない。

で、最近は朝からハンドルにタオルをかけている=写真。それでやっと、「アチチチー」がなくなった。

9月15日の夜は、この夏初めて、扇風機なしで寝た。朝晩は確かに、涼しさを感じることがある。しかし、日中はまだまだ夏の暑さが続いている。

どのくらい暑かったのだろう。同8日の線状降水帯による大雨被害とは別に、7月から9月14日までの75日間の最高・最低気温チェックすると、やはり大変なことになっていた。

 テレビでいわきの気温として報じられるのは、海岸部の小名浜だ。ここに測候所があったことによる。その気温を見る。

 75日間のうち、最高気温が30度を超えた「真夏日」は42日、最低気温が25度以上だった「熱帯夜」は26日。

 やや内陸の山田町は、真夏日こそ小名浜より多い59日だったが、熱帯夜は6日にとどまった。

 小名浜は涼しい――。ハマから離れたところに住んでいる、そう思ってきた。ところが、データの上では3日に一度くらい、寝苦しい夜になった。これは海面水温が高いからだろう。

 いわき市の中心市街地がある平は、気象台の公式記録がない。それで、体感に近い気温は「いわき・小名浜」ではなく、「山田町」の記録で推し量る。

 とにかく暑かった。「思考限界指数」は、わが家では室温28度。真夏日どころか、それに近い温度になると、頭は働かなくなる。

 このごろはやっと朝の1~2時間、扇風機なしで過ごせるときがある。が、日中はやはり蒸し暑い。ほんとうに彼岸までには暑さが去ってほしい、毎日そう念じている。

2023年9月16日土曜日

みこし渡御

                     
 平の東部地区に移り住んで40年以上になる。「会社人間」から地域と向き合う「社会人間」になってからは、ほぼ15年。

 今は中心市街地の近郊住宅地だが、もともとは江戸時代から続く「浜街道」の一農村といっていい。

区内会レベルならなんとか地域の歴史も語れるようになったが、ムラ全体となると、分からないことが多い。

 地域内に大きな神社が二つある。一つは5月に、もう一つは9月に例大祭が行われ、通りをみこしが巡行する。

 どちらの氏子でもない。が、区内会の役員をやっているので、例大祭が近づくと神社から式典への招待状が届く。

この3年間はコロナ禍のため、規模を縮小して祭りが開催された。来賓は出席見合わせが続いた。

 今年(2023年)は例年通りの開催に戻ったため、5月には来賓として例大祭の式典に出席した。

 9月も同じように、4年ぶりの出席を予定していたが、あとで規模を縮小して開催するという連絡が入った。

 大雨が上がった土曜日(9月9日)の早朝、東の方で花火が揚がった。隣のムラに小川江筋を開削した沢村勘兵衛をまつる神社がある。その祭礼だろうか。

 午後には隣から太鼓の音が聞こえてきた。窓からのぞくと、トラックにみこしが鎮座し、白と黒の正装に近い人々が集まっていた=写真。「サカムカエ(酒迎え)」という行事なのだろう。

小川江筋と沢村勘兵衛について書いた拙ブログがある。理解を得やすいようにそれを要約・引用する。

――小川町・三島地内に夏井川のカーブを利用した多段式、木工沈床の七段の「斜め堰」がある。最も好きな水の風景のひとつだ。今からざっと350年前の江戸時代前期に築造された。

この堰によって左岸の小川江筋に水が誘導される。磐城平藩内藤家の郡奉行沢村勘兵衛が江筋の開削を進めた。

勘兵衛は、本によっては、のちに切腹を命ぜられた、あるいは追放となった、とある。正しい事績は謎に包まれているという。

明治になって勘兵衛の霊をまつるため、農民らの手で隣のムラに沢村神社がつくられた。

小川江筋の堰を研究した専門家は論文で「約300年以上にわたり大規模な改築もせずに、その機能を十分に果たし、自然景観と調和した美しいたたずまいを醸している」と、高く斜め堰を評価している。

ここを起点にした用水路は終点の四倉まで全長30キロ。現在はいわき市北部の夏井川左岸の水田約970ヘクタールを潤している――。

近隣の農家にとっては大事な神社であることがわかる。聞けば、この神社の「みこし渡御」は4年に一度だとか。コロナ禍で飛ばした年があるので、今回は7年ぶりの渡御だったそうだ。

オリンピックの年に合わせて行うので、来年もまたみこし渡御が行われるという。やはり、よく聞かないとわからないムラの行事がある。

2023年9月15日金曜日

『アカシヤの大連』

          
 詩人清岡卓行(1922~2006年)は、人生の後半には小説を書いた。富岡多恵子(1935~2023年)もそうだった。

 10代後半から10年ほどは、夢中になって現代詩を読んだ。最初は「荒地」派の鮎川信夫や田村隆一、吉本隆明ら。次いで、清岡、飯島耕一、大岡信、富岡らを。

同年代の金井美恵子(1947年~)は20歳前には視野に入ってきた。彼女は昭和42(1967)年、小説「愛の生活」で太宰治賞次席になり、一連の投稿詩で現代詩手帖賞を受賞した。

 「愛の生活」は同賞主催者の筑摩書房が発行する雑誌「展望」に掲載された。それを読んで、今までにない新しい文体に引かれた。

 と同時に、文中に引用された清岡の詩行が強く印象に残った。「待ちあぐねて煙草(たばこ)に火をつけると/電車はすぐ来る。」。詩「風景」の一部で、日常の一コマをさりげなく表現している。

 以来、清岡の格調高い詩を、引かれながらも敬遠し、敬遠しながらもまた近づく、といった距離感のなかで読んできた。

 わが家に箱入りの『アカシヤの大連』(講談社、1970年)=写真=がある。清岡の妻が病死したあと、初めて書いた小説がこれだった(1969年芥川賞受賞)。

 どこかの家のダンシャリで出た本を、いつか読むかもしれないと、取っておいた。それが、本棚の片隅でほこりをかぶっていた。

 たまたま本をパラパラやると、「朝の悲しみ」という作品も入っている。「アカシヤの大連」になぜ「朝の悲しみ」が?

 主人公の「彼」(大学教師)は40代で妻を亡くした。2人の子どもはまだ成人には達していない。その子どもを抱えて、シングルファザーになった……。

老境を迎えて配偶者が亡くなり、独り暮らしの物寂しさを耳にしたばかりだったので、なんとなく気になって「朝の悲しみ」を読み始めた。

妻が病死したあと、妻の夢をよく見るようになった。朝、目覚めるとしかし、妻はいない。その悲しみを基調にした作品である。

まだ若いので、再婚の話が持ち上がる。現実の問題もある。「それは、勤め先の仕事の忙しいときや、体のぐあいが悪いときに感じる家事のどうしようもない煩わしさである。そのようなとき、彼は妻の手の有難さをしみじみと」思い出すのだった。

 「アカシヤの大連」は、その妻と出会った「ふるさと・大連」での、彼の生い立ちから青春までの思い出の記録、つまりは亡妻へのレクイエムといってもよい。それで、2作が収録されている意味が分かった。

 70代でも、40代でもたぶん、妻を亡くした人間の心情は変わらない。「2人で1人」だったのが、「ほんとうの1人」になってしまった。

そういう「不在」を、現実味をおびて想像するトシになった――。「朝の悲しみ」を通して、あらためてそんなことを思った。

2023年9月14日木曜日

河口が抜けた

                      
 日曜日(9月10日)の夕方、いつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行くと、前々日の大雨の話になった。

 次々に雨をもたらす「線状降水帯」が発生し、しかも夜が更けるにつれて雨量が増した。それで主に内郷の宮川、新川流域で家屋の浸水被害が相次いだ。

金曜日から土曜日に日付が変わるころ、本川・夏井川の鎌田(平)、中神谷(同)の水位が6メートルを超えた。

河川の水位には平常水防団待機氾濫注意避難判断氾濫危険の5段階がある。「氾濫注意」水位を超えたところで水位が落ち着き、やがて低下に転じたために、やっとノートパソコンのふたを閉めた。

ライブカメラで小川町や平窪、鎌田の夏井川の様子もたびたび確かめた。鎌田は平神橋の橋脚の上部がかすかにのぞいている程度まで水位が上がっていた。

そんな不安な一夜の記憶をお互い振り返ったあとに、若だんなが付け足した。「朝、犬を連れて散歩に行ったら、夏井川の河口が抜けていました」。それは「事件」だ。

家に帰って、河口のライブカメラをのぞくと、磐城舞子橋の端から端まで水が流れ、太平洋と直結している。翌11日も水の勢いは変わらなかった=写真。

ふだんはあらかた「砂の壁」に覆われているのだが、河口らしい風景に変貌している。翌日、河口を見に行った。やはり、水の勢いは続いていた。せいせいするくらいに川幅が広かった。

前にも拙ブログで何度か夏井川河口の閉塞(へいそく)問題について書いている。それを引用する。

――同川の最後の支流は仁井田川。平成18(2006)年秋、仁井田川が台風と風浪で太平洋と直結し、夏井川の河口が閉塞した。

両川の間は横川でつながっている。同23(2011)年3月、東日本大震災による地盤沈下と津波の影響を受けて、夏井川河口の閉塞と横川への逆流が常態化した。

河口を開こうと、震災前から手が打たれてはきた。同20(2008)年には夏井川と横川との合流部に“石のダム”ができた。しかし、それでも逆流はとまらなかった。

震災後は、本流の堤防のかさ上げが行われた。仁井田川河口では東舞子橋が架け替えられた。

次は横川。“石のダム”の代わりに鉄とコンクリートの水門ができる。同時に、横川の築堤・護岸、夏井川左岸河口部の築堤・護岸工事も行われる。

夏井川河口の閉塞とそれに伴う横川右岸域の浸水問題は、記録で知るかぎり100年に及ぶ――。

夏井川は流路が67キロと短く、川としての力も弱い。横川の水門は仁井田川への逆流を防ぐものだが、工事中とはいえ、それが、河口がじかに抜ける要因になったようだ。遠くからみてもそれらしい形になってきたのがわかる。

2023年9月13日水曜日

ナマコには目・耳・脳がない

                              
 図書館の新着図書コーナーに変わったタイトルの本があった。一橋和義著『ナマコは平気!目・耳・脳がなくてもね!――5億年の生命力』(さくら舎、2023年)=写真。

 ナマコといえば、「このわた」。腸を材料にした塩辛を思い出す。江戸時代から「天下の珍味」として知られる。

何年か前、小料理屋で初めて口にした。塩辛は好まないのだが、こりこりした舌触りが口に合った。磯の香りもした。なるほど「天下の珍味」だわい、と思った。

家に、磐城平の専称寺(元・浄土宗名越派総本山)で修行した出羽国出身の俳僧一具庵一具(17811853)の掛軸(句幅)がある。

「梅咲(き)て海鼠腸(このわた)壺の名残哉」。春を告げる梅が咲いた、壺に入っていた「このわた」も減ってこれが最後か、名残惜しいなぁ――とでもいう意味だろうか。

初代のいわき地域学會代表幹事・里見庫男さん(故人)から、「研究の材料に」と古書市場で入手した一具自筆の掛軸をいただいた。

生地の山形県村山市で発刊された村川幹太郎編『俳人一具全集』(同全集刊行会、昭和41年)も届いた。

全集を参考に一具の字を読み解いたこと、実際に「このわた」を口にしたことなどを思い出すと同時に、ナマコの本に手が伸びた。

タイトル同様、本文も変わった構成だ。「ナマコの魅力をお伝えすべく、物語ふうにし、解説を取りこむ形に」したら、擬人化した軽妙な会話文体になった。

 ま、それを読んでわかったことを、ほんの一部だけ紹介すると――。①本のタイトルにもあるように、ナマコには目・耳・脳がない②ストレスを感じると、内臓をすべて尻から出す(「吐臓」という=内臓はやがて再生される)③「マナマコ」は夏になって水温が20度近くまで上がると、深い場所にある岩の窪みなどにもぐって、「夏眠」をする――のだとか。

 このナマコが中国では殊の外好まれる。「いりこ」(干しナマコ)が中国で高く売れるというので、東南アジアやオーストラリア、朝鮮、日本などではナマコ漁が行われ、ゆでて中国へ輸出した。

 それだけではない。ヨーロッパの国々も参入した干しナマコを扱う「ナマコ経済圏」が生まれ、ナマコを中心とした国際的取引、交渉が発展し、多くの干しナマコが中国に運ばれていたという記録もあるのだとか。

 さて、今度の東電の「処理水」放出にからんで、中国は日本産の水産物を全面的に禁輸した。農水省の統計を引用した報道によると、2022年、中国への農林水産物・食品の輸出額は2782億円、うち水産物は871億円に上った。

主な品目では、ホタテ貝が467億円、ナマコ(調整)が79億円、カツオ・マグロ類が40億円だという。

ナマコの本には、こうした輸出増加を受けて「沖縄本島や石垣島、周辺離島の近海に多く生息していたナマコが近年激減」したとある。ナマコの目になると、日本(特に北海道)、そして中国の風景が違って見えてくる?

2023年9月12日火曜日

「21世紀の雨」の怖さ

                     

9月8~9日の大雨は、本川(鮫川や夏井川)よりも、平地の山際の支川などで避難指示が出されたり、越水したりして大きな被害をもたらした。

いわき市によると、家屋被害は内郷地区を中心に全壊1棟、床上浸水1151棟、床下浸水227棟に及んだ(11日午前10時現在)。

 熱帯低気圧に変わった台風13号の影響で、千葉・茨城・福島(浜通り)に線状降水帯が発生したのが原因だった。

 「線状降水帯」という言葉は、20世紀には聞いたことがなかった。「21世紀の雨」といってもいい。ネットで用語の定義や解説をチェックした。

まずは気象庁の定義から。次々と発生する、発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することでつくりだされる、線状に伸びる長さ50~300キロ程度、幅20~50キロ程度の強い降水帯を伴う雨域、のことだという。

同庁が1995~2009年の集中豪雨を解析した結果、台風を除く261例中168例、つまり約3分の2で線状の降水域が確認された。

で、2014年8月に広島県で発生した集中豪雨から、「線状降水帯」という言葉が使われるようになったという。

前々からあった気象現象だが、観測体制が充実し、データ分析手法が高度化したことで、発生報告が増えたとされる。

しかし、発生そのものが増えているとしたら、それは地球温暖化による海水温の上昇に伴う水蒸気量の増加と、気温の上昇による飽和水蒸気量の増加が要因とも考えられる、という。

そうしたことを頭に置きながら、9月10日の日曜日は、いつものように夏井川渓谷の隠居へ出かけた。途中、水田や道路などがどうなっているか、チェックしながら車を走らせた。

平窪地区では、小川江筋沿いの道路の土手が何カ所かで崩れていた。小川町・高崎では、先に県道小野四倉線が陥没し、8月28日から9月9日までの13日間の予定で補修工事が行われたはずだが、9月に入って雨が降ったため、15日まで延期になっていた。

渓谷に入ると、道路がところどころ泥まみれになっていた。ブルドーザーで泥を路肩にかき出した跡もある。重機が出て、盛んに土砂を除去しているところがあった=写真。

県道は、雨量が120ミリを超えると交通止めになる――。そんな看板が高崎地内に立っている。このため、高崎~五味沢(川前)間が一時、通行止めになった。9日午前7時半に通行止めが解除されたのをネットで確認して、翌10日に隠居へ出かけたのだった。

倒木は磐越東線の上小川トンネル・磐城高崎街道踏切の近くで1本、それ以外はこれといった異変はなかった。

風より雨。ただただいくつもの沢が滝のように雨を集め、土砂を道路に吐き出し続けたのだろう。