2023年3月31日金曜日

ガードレールが付いた

                     
 雨の3月第3土曜日、18日。「おや、やっとガードレールが付いたか」。それから8日たった同26日の日曜日も雨だった。夏井川渓谷にある隠居からの帰り、車を止めてカメラを向けた=写真。

 いわき市平の市街からいうと夏井川渓谷の入り口、小川町高崎地内で県広域農道が県道小野四倉線と接続する。まだ利用はできない。

同農道は、四倉町玉山地内を起点、小川町高崎地内を終点とする延長10キロほどの天空のハイウエーだ。

県道と、民家をはさんで並走するJR磐越東線には橋が架かる。跨道橋はだいぶ前にできたが、その山側の跨線橋はどうか。グーグルアースではまだ線路が見える。

私が若いころ取材を担当した市議会でも、この農道が議論になっていた。そのころのイメージは、いわき市内の中山間地を縫う大規模農道だったが、現実の農道はかなり短い。

私が夏井川渓谷の隠居へ通い始めたのは、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件のあった平成7(1995)年の5月だ。

隠居からの帰り、小川町の平地で橋を渡り、夏井川の右岸道路を通ったり、左岸の二ツ箭山中腹の山道を利用したりした。

その山道が広域農道だった。とはいえ、通行可能なところはほんのわずかで、四倉との境に設けられた「上岡トンネル」は、平成15(2003)年10月に完成したあとも通行止めになっていた。

遅々として進まなかった事業が震災を機に動き出す。終点部の高崎では平成30(2018)年夏、田んぼに土砂が運び込まれ、やがて県道のそばに「新しい農道を造っています」「【復興】広域農道整備3003工事」の看板が立った。

さらに翌年秋、上岡トンネルが通れるようになったと聞いて、隠居へキュウリを採りに行った帰り、初めてトンネルをくぐった。そのときの文章がある。

――小川の平地から国道399号を駆け上がって二ツ箭山腹の広域農道に出る。トンネルを抜けると、もう四倉分だ。右手下方に小集落が見える。橋を渡る。道路はゆるやかにカーブし、アップダウンしながら高度を下げる。やがて、平地に下りて県道八茎四倉線に合流した。四倉町と小川町の丘陵を結ぶ「福島県広域農道」の全ルート約10キロがやっと頭に入った――。

残るは国道399号から西側、終点部までの整備だ。小川町福岡地内までは道路ができている。その先に加路川がある。ここもグーグルアースで見ると橋が架かり、磐東線の近くまで道路ができていた。

 令和4(2022)年2月、県道の跨道橋~取付道路の間にあった仮設信号機が撤去された。そのとき、こんなことを書いた。

――始まりから終わりまで足かけ4年、毎週のように見てきた工事現場はほかにない。しかも、今度はこの新しい道路を利用して自宅と隠居の間を行き来できる。いよいよ開通が近い?――

いやいや、ガードレールが付くまでだって時間がかかったのだ。期待しないでゆっくり待つことにしよう。

2023年3月30日木曜日

手すき紙のノート

                      
   シャプラニール=市民による海外協力の会から、カミサンに設立50周年を祝う記念品が届いた=写真。

フェアトレード商品であるネパール産の「ドリップパック珈琲」と、「手すき紙のノート  レオ」が入っていた。

添え状には、これからもシャプラニールはバングラデシュ、ネパール、日本で、すべての人々が豊かな可能性を開花する、貧困のない社会を目指して活動を続けていく、とあった。

会の活動は、独立直後のバングラデシュに日本の若者が農業支援のために派遣されたことに始まる。

帰国後、有志がシャプラの前身である「ヘルプ・バングラシュ・コミティ」を立ち上げる。そのメンバーの一人がいわき出身の朋友だったので、どんな活動をしているのかは最初期から承知していた。その後、カミサンが会員になり、私がマンスリーサポーターになった。

東日本大震災では初めて国内支援に入った。いわきを拠点に、5年間にわたって交流スペース「ぶらっと」を開設・運営し、原発避難者や津波被災者の心のよりどころになった。

甚大な被害が出た令和元年東日本台風のときも、シャプラはいわきで飲料水の緊急支援を行い、「みんなでいわきボランティアツアー」を実施した。

シャプラは、①子どもを支える②災害に強い地域をつくる③社会からの孤立を防ぐ④市民同士のつながりを促す――を大きな柱に、さまざまなプロジェクトを展開している。

フェアトレード活動もその一つだ。ネパール産のコーヒーについては、「誇りを持って働ける場づくり」が農村地帯に育てば、危険な出稼ぎが減るのではないか、という思いから、持続可能な農業を目指したコーヒー栽培を支援している。

それが、環境と生産者に寄り添い、日本の消費者とつながる優しい「ドリップパック珈琲」になった。

「手すき紙のノート レオ」は、クラウドファンディング支援者、「鉄腕アトム」の手塚プロ、シャプラ、現地バングラデシュのフェアトレード団体の協力で生まれたという。

漫画家手塚治虫の著書『ガラスの地球を救え』に収められたメッセージを体現したフェアトレード商品で、ブランド作りにシャプラが協力した。

商品説明には、バングラデシュの特産品であるジュート(黄麻)の端切れを集めて作られた、地球に優しい手すき紙のノート、とあった。表紙には「ジャングル大帝」の「レオ」が描かれている。

いわきでの活動をじかに見てきた人間としては、今度もまた同じような感慨を抱いた。人と人とのつながりや当事者の主体性を大切にする――この変わらぬ「愚直さ」に、やはり引かれる。

2023年3月29日水曜日

帰っていったウルトラマン

   もう2年半前のことになる。店の壁際に、ウルトラマンのフィギュア(人形)が並んでいた=写真。カミサンが一種のディスプレイとして飾った。

最初、このフィギュアは孫の父親が子どものころに集めたものと思っていた。そうではなかった。孫2人が小さいころに集めたものだという。

ネットの年表によると、ウルトラマンが初めてテレビに登場するのは昭和41(1966)年。高専生だったので、テレビとはほとんど無縁だった。

東京からJターンをしていわき民報社に入ったのが、昭和46(1971)年。旧城跡のアパートに入った。

すると、大家さんの孫(5歳くらいの女の子)が「帰ってきたぞ、帰ってきたぞ、ウルトーラマン」と歌うのが聞こえた。この年の春、「帰ってきたウルトラマン」の放送が始まった。

日曜日の夕方になると、その女の子と平駅(現いわき駅)の跨線橋(平安橋)まで、電車を見に出かけた。ウルトラマンが好きな女の子は成人して結婚した。一度、お母さんと一緒にわが家へ来たことがある。「お兄ちゃん」のことをはっきり覚えていた。

社会人になりたてのころ、街の食堂などでテレビを見る時間が増え、ウルトラマンシリーズが人気だったことは知っていた。

ウルトラマンには兄弟がいっぱいいる。ウルトラセブン、ウルトラマンタロー、ウルトラマンレオ……。私は区別がつかなかったが、子どもたちはレオも、タローも、セブンも一目でわかるほど熱中した。

「帰ってきたウルトラマン」は団次郎(時朗)が主役だった。団は最初、資生堂の男性化粧品「MG5」のモデルとしてメディアに登場した。

ヘアリキッドやアフターシェーブローションを宣伝した。ちょうど大人になりかけた「団塊の世代」などがターゲットだったのではないか。

その彼が3月22日に亡くなった。享年74。彼もまた団塊の一人だった。死亡記事に「帰ってきたウルトラマン」の主役だったとあるのを見て、自分の星に帰っていったのだと、反射的に思った。

 団次郎はやがて団時朗になる。前々からテレビに出ていたとはいえ、BSプレミアムで京都の伝統と文化を取り上げたドラマ仕立ての「京都人の密かな愉しみ」を見たときには、役柄を含めて驚き、納得した。

年齢を重ねた貫禄というのか、英国人の文化人類学者で洛志社大学教授のエドワード・ヒースローを軽やかに演じていた。

整髪料、ウルトラマン、そしておよそ半世紀を経たあとのヒースロー先生。ふだんは忘れていても、メディアに登場すると、すぐこちらの記憶がよみがえる。その意味では、彼もまた同じ時代を生きる人間の一人であることに違いはなかった。

 肺がんで亡くなったという。肺がんと診断されたのは平成29(2017)年夏で、「京都人の密かな愉しみ」のセカンドシリーズの放送と重なる。闘病しながらの出演だったか。

2023年3月28日火曜日

雨のアカヤシオ

                     
 今年(2023年)、アカヤシオ(岩ツツジ)の開花を確認したのは3月18日だった。夏井川渓谷の集落で寄り合いがあり、それに参加したとき、対岸の岩場に淡いピンクのかたまりが1カ所、目に入った。

 それから8日後の同26日午後、渓谷にある隠居へ出かけた。18日も、26日もあいにくの雨だった。26日は対岸の斜面(前山)がピンクの花で点描されていた=写真。隠居の庭から傘を差して「花見」をした。

 以下は3月21日付の拙ブログ「『三春』以上」と重なるので、ご了承を――。とにかく、今年は木々の花が早い。まだ3月だというのに、一気に春がきた。

 春のシンボルは桜のソメイヨシノ。地方気象台がそれぞれの標本木をチェックし、5輪以上花が咲いていれば「開花」を発表する。

 小名浜測候所が無人化されて以来、小名浜の桜の開花発表は地元の小名浜まちづくり市民会議が、市内在住の気象庁OBの協力を得て実施している。今年は3月23日に開花が発表された(22日午後に開花を確認)

福島地方気象台が担当する福島市では翌24日に開花が確認された。小名浜と1日違いというのは、たぶん観測史上初めてだろう。ともかくも、いわき市は「東北で最初に春が訪れるまち」という面目を保ったかたちだ。

 今年は標本木のソメイヨシノはもちろん、街なかのそれも、庭のプラムも、レンギョウも早々と咲き出した。

夏井川を軸にした下流のわが生活圏でも、専称寺の裏山から続くなだらかな尾根筋では、ヤマザクラが開花した。

これにはちょっと驚いた。というのも、木々の開花には「順序」がある。ヤマザクラはソメイヨシノのあと、という「経験則」が今年は通用しない。

はっきりいうと、いわきの桜開花は、ほかの木々の開花にまぎれて、一歩も二歩も遅れをとった――そんな印象がぬぐいきれない。

その代わりかどうか、SNSでは遠近問わず、各地の桜情報が随時アップされる。小川諏訪神社のシダレザクラが見ごろだというので、26日の午後、渓谷の隠居へ行く途中、車の中から様子をうかがった。雨で人は少なかったが、境内を彩るピンクがはっきり見えた。

平地のヤマブキは、経験則ではソメイヨシノの花が散ったころに咲き出す。これも小川諏訪神社の近くで咲いていた。

渓谷ではアカヤシオだけでなく、ヤマザクラも花をつけ始め、木々も芽吹いてきた。すでに葉を開いたカエデもあった。

わが家の庭も日ごとににぎわいを増している。プラムの花はとっくに満開だ。地面からせりあがり、うなだれるように白い花を咲かせているのはスノーフレーク。

サンショウはと見れば、木の芽を吹いている。これは例年並みだろう。渓谷の住人はこの木の芽を好む。かむと舌が軽くしびれる。さんしょう味噌と佃煮、あるいは料理に添える。もう少したったら、何枚か摘んで食卓に出そう。

2023年3月27日月曜日

今年も「白樺水」が届く

                      
 川内村の「獏原人村」で採れた「白樺水」が今年(2023年)も届いた。たまたま手元に役所の会議で出た「天然水」のペットボトルがある。二つを並べてみた=写真(左が白樺水、右が天然水)。

 白樺水は、天然水ほどには透き通っていない。樹液だから当然だろう。この樹液を口に入れるとほんのり甘い。去年初めて味わったときの感動がよみがえる。

 白樺水を届けてくれたのは、獏原人村で鶏を飼って生計を立てている風見正博さん。毎週金曜日、ほかの人の分も含めてわが家へ卵を持って来る。

 去年、白樺水をちょうだいしたときにも書いたことだが、私が見聞した各地の白樺について、おさらいを兼ねて再掲する。

 白樺が自生する北海道では、春に白樺樹液まつりを開く。白樺の幹から樹液を採取して飲ませたり、カレーをつくったりする、ということをネットで知った。

北海道の北方、サハリン(樺太)にも白樺は自生する。道路をつくったり、山火事が起きたりすると、真っ先に生えてくる。

7年前の夏、同級生4人でサハリンを訪れ、オホーツク海側の道路を北上した。道の両側は白樺の林だった。今の時期、サハリンでも白樺の樹液採取が行われていることだろう。

いわき市を含む阿武隈高地には、白樺は自生しないといわれている。三和町の芝山(819メートル)にある小さな白樺林は植栽されたものらしい。川前町の「いこいの里鬼ケ城」レストハウス周辺にも白樺が何本かある。これも植栽だろう。

いわき市平中神谷地内から阿武隈高地の峰々を越えて山形県南陽市に至る国道399号沿いはどうか。

今は十文字トンネルが開通したので、隣の川内村へはわりと簡単に行けるようになった。以前は標高700メートルほどの峠(十文字)が立ちはだかっていた。

峠を下ると、すり鉢の底のような戸渡(とわだ)地区に出る。戸渡に旧小川小戸渡分校の建物が残っている。校庭と道路をはさんだ南側に、白樺が数本、少し間隔を置いて並んでいる。配置具合からして、これも植栽されたものだろう。

去年、初めて白樺水をちょうだいしたとき、獏原人村の白樺は自生か植栽かわからないと書いたら、風見さん本人からコメントが寄せられた。「白樺の木は3本ある、誰かが植えたようだ」

自生であれば、阿武隈高地の低山帯から白樺の林が見られるはずだが、それがない。阿武隈の白樺は植栽という確信を持てるようになった。

なにはともあれ、白樺水は春先限定の貴重な森の恵みだ。白樺水でコーヒーを淹(い)れたらおいしかったと、北海道の人がネットで報告していた。

では、焼酎の「白樺水割り」はどうか。これも後味がよかったらしいので、すぐ試してみた。まず焼酎を口に含む。次に、チェイサーとして白樺水を流し込む。なんというか、白樺水の甘い後味が際立つように感じられた。春の新しい楽しみ方には違いない。

2023年3月26日日曜日

年度末の回覧

                             
 行政嘱託員をしているので、月に3回、隣組に配る回覧資料が届く。それを行政区内の隣組ごとに振り分け、行政などから届いた大型封筒を再利用して担当役員さんに届ける。

 私自身も担当の隣組がある。戸建て住宅と公営の集合住宅がある。前は集合住宅8棟に2~3人の区役員がいた。

体調不良などでやめたあとは役員のなり手がいない。しかたがないので、集合住宅の周辺にいる役員さんが代行している。

前は、階段を上がってじかに班長さん宅に資料を届けたが、加齢とともにそれがきつくなった。数年前、自室ではなく1階の郵便受けに差し込む旨を回覧で伝え、それを実行している。

年度末は、ある意味では配布の正念場だ。新年度用の行政資料が届く。全戸配布の「ごみカレンダー」は、袋(封筒)が郵便受けに入るのでまだいい。同じく全戸配布の「保健のしおり」=写真=はかなりの厚みになる。

まずは袋詰めだ。「しおり」といっても65ページある。隣組の世帯数は平均すると10前後。最大でその倍近い。平均的な隣組でさえ、A4サイズ用の角形2号封筒では間に合わない。それより一回り大きいB4サイズ用の角形0号が必要になる。

今回はたまたま角形0号が残っていたが、過去には捨てずに取っておいたレジ袋や、大きな紙袋まで利用した。レジ袋が有料化された今は、こちらを当てにすることはできない。

一つの班だけでも厚く重いので、郵便受けのすき間には入らない。カギのかかっていない郵便受けもあるが、容量が小さいので収まらない。

ちょうど年度末なので、市から隣組の班長さんに班長手当てが支給された。集合住宅を中心に、年度前期と後期で班長さんが交代する班がある。

こちらは1階の郵便受けに入れるわけにはいかない。自室のドアボックスに差し込むことになる。

私が担当する集合住宅は6棟の計9班。班長さんの住まいは1階から4階までばらけている。前期の班長さんの住まいも含めると、上り下りを何回繰り返しただろう。

全体ではざっと300世帯、30班。ふだんは30分もかからずに区内を一巡できるが、今回は階段の上り下りが加わった分、15分ほどよけいにかかった。

やはり中層住宅の上り下りはきつかったが、たまたま今回は1階に住む班長さんが何人かいたおかげで、そのつど息を整えることができた。

回覧の配布を終えて、予備の「保健のしおり」をじっくり読む。予防接種・成人健診・母と子の健康・救急医療など7項目にわたって「知って得する」情報が載っている。「塩分チェックシート」で合計点を計算したら、12点、「減塩に向けてもう少し頑張りましょう」という結果になった。

2023年3月25日土曜日

『いわき諷詠』

                               
 先行例としては、朝日新聞に連載された詩人大岡信さん(故人)の「折々のうた」、日本農業新聞に連載された作家草野比佐男さん(故人=いわき市三和町)の「くらしの花實」がある。

 いわき市泉に住む中山雅弘さんが今年(2023年)1月まで4年半、「折々のうた」や「くらしの花實」と同じ形式でいわき民報に「いわき諷詠」を連載した。先行2例は毎日だが、「諷詠」は週1回だ。

 その「諷詠」が新書サイズの本になった=写真。『いわき諷詠――今届けたいふるさとの詩歌』(歴史春秋社、2023年)で、先日、恵贈にあずかった。

 著者によると、いわきの風土や歴史・人物を豊かに詠(うた)った詩歌を紹介するもので、いわき出身・いわきゆかりの作家のほか、いわきを詠んだ作品も取り上げた。

 その数は江戸時代から現代までの118作品で、ジャンルとしては江戸俳諧・近代俳句・川柳・短歌・現代詩・歌詞と多岐にわたる。それをジャンルごとに名字の「あいうえお順」で紹介している。

中山さんはいわき市教育文化事業団に勤務し、遺跡の発掘調査などに携わった。いわき地域学會の仲間でもある。考古と歴史が専門分野だが、根底には文学が息づいている。20代で詩を、50代で俳句を始めたと、著者略歴にある。

その根っこの部分で「いわき諷詠」が始まり、生業(なりわい)を通して得た具体的な知見も踏まえて作品の解釈と解説を試みた。

たとえば、内藤風虎「突くや鯨親子の別れ中之作」については、こんな解説がつく。「いわきの捕鯨は磐城平藩内藤氏時代の慶安4年(1651)に紀州から伝えられ元禄年間(1688~1704)まで大規模に行われていた。この時代の捕鯨の様子を描いた絵巻がいわき市指定文化財(「紙本着色磐城七浜捕鯨絵巻」)となっている」

風虎は「磐城平藩主内藤義泰の俳号。風山・風鈴軒とも称した」。その息子が内藤露沾で、松尾芭蕉と交流があった。

震災詠も20篇近く取り上げた。忘れられないのはカミサンの高校時代の同級生、吉野紀子さんの短歌だ。「ペットボトルの残り少なき水をもて位牌洗ひぬ瓦礫の中に」

その解説から当時の惨状がよみがえる。「東日本大震災を経験した私たちの心に沁みる歌だ。津波で壊滅した海辺の街。一か月にわたる断水。放射性物質の降る中での給水。ガソリンの枯渇。(略)当時、紀子は小名浜に在住。掲歌はその年の第二十八回朝日新聞歌壇賞に選ばれている」

高木俊明「月明(げつめい)や土台ばかりの四百戸」や、駒木根淳子「海見えぬ堤防聳(そび)ゆ冬かもめ」も、一読、津波被災地の「その後」を伝える。

「じゃんがら衆海に真向かひ鉦(かね)鳴らす」は、須賀川市在住の俳人永瀬十悟の作。高専の後輩で、震災前、須賀川の市原多代女と交流のあった一具庵一具(平・専称寺で修業した幕末の俳僧)について、わが家で話したことがある。

そのほか、生前に交流のあった俳人、今も交流を続けている先輩・知人らの作品も収録されている。折に触れて手に取るには格好の書といえよう。

2023年3月24日金曜日

葉痕は「森の妖精」

                      

  先日、夏井川渓谷の集落で年度末の寄り合いがあった。日曜日に渓谷の隠居で過ごす私も参加した。会議が終わって、ちょっと遅い昼食をとりながら雑談した。

寄り合いではこの雑談が勉強になる。渓谷の自然、人間の暮らし、水力発電所や磐越東線、県道・林道のこと……。いちいちメモを取るわけではないが、自然と結びついたトピックが記憶に残る。

長く造園会社に勤めて、退職とともに独立した住人がいる。渓谷の動植物やキノコのことならこの人に聞け、というくらいに詳しい。

集落では、苗字ではなく名前で呼び合っている。それにならってKさんと呼ぶ。Kさんが長倉小(常磐)の植樹式に招かれて植え方を指導し、少し自然の話もしたという。

自然の話というのが、オニグルミの葉痕のことだった。オニグルミの葉痕はおもしろい。前にブログで取り上げたことがあるので、それを抜粋する。

 ――冬の夏井川渓谷を巡る楽しみの一つに、冬芽と葉痕観察がある。わが隠居の畑は、午前中は表土が凍ったまま。生ごみを埋めるにしても、しばらくはぶらぶらしているしかない。
 で、朝はだいたい森に入ったり、家の前の県道を歩いたりしながら、あれを見たりこれを見たりして過ごす。

幼児が体を動かしながら次々と興味・関心を切り替えていくように、途切れることなく見る対象を変えていく。渓流・樹形・野鳥・雲・キノコ・滝……。それらがアドリブの音符となって歌を構成しているような感覚に包まれる。
 その中でも見飽きないのがオニグルミの葉痕だ=写真。葉痕は一つひとつ違う。枝の尖端に頂芽をいただく葉痕は「かぶとをつけたミツユビナマケモノ」、その下にある葉痕は「モヒカン刈りの面長プロレスラー」、左右に伸びる枝のすぐ上の葉痕は「目覚めたばかりのヒツジ」。
 葉痕だから直径は1センチにも満たない。意識してみなければ、それとは分からない。葉痕の中に散りばめられた維管束痕が哺乳類の目・鼻・口を連想させる。なんとなくとぼけた味が漂う。

当然、オニグルミ以外にもさまざまな形の葉痕がある。フジは困って眉を寄せた肥満顔。アジサイは長い頭巾をかぶった三角顔。ナンテンは三角錐だ。パンダ顔のクズ。下向きの冬芽の上に仏の顔を浮かべたシダレザクラ。サンショウは十字架を背負った殉教者のよう。
 葉が開き、花が咲いているときにはさっぱり識別できなかった木も、冬に葉痕で特定できる場合がある。恋する人の名前を知りたいためにあの手この手を使うのと似る。冬はルーペが欠かせない――。

Kさんが出かけた小学校の行事にも触れておこう。京都の醍醐寺などが連携して東日本大震災の翌年から、「京の杜プロジェクト~桜でつなぐ架け橋~」に取り組んでいる。立命館小学校の児童が苗木を育てている。

その苗木「太閤千代しだれ」が長倉小に届き、3月16日に植樹式が行われた。新聞記事にもなったが、簡略すぎてよくわからなかった。

同小のホームページで経緯を確認した。子どもたちはKさんが紹介した木の枝、つまり葉痕に興味津々だった、ともあった。

2023年3月23日木曜日

火発の取水口だったのか

                     
 いわき市の中心市街地・平の東はずれを夏井川が流れる。対岸は旧神谷(かべや)村。「平神(へいしん)橋」が両地区をつなぐ。

 夏井川はわがふるさとの大滝根山南麓から発する。今住んでいるいわきとふるさとをつなぐ川――と知ったのは、30歳になるかならないかのころだった

 以来、現役時代は朝夕、平神橋を渡るたびに上・下流を“チラ見”した。それだけではない。今は街からの帰り、平神橋の東詰めを右折して夏井川の堤防に出る。ちょっと気取っていえば、川と人間、川と動植物の関係を「観察」のテーマにしている。

令和元(2019)年10月12~13日、台風19号がいわき市を直撃し、好間川・新川を含む夏井川水系に大きな被害をもたらした。

その復旧・防災工事が小川町から下流域で進められている。それで、平野部の夏井川は河川敷の立木が消え、土砂が除去されて、狭い川が広く感じられるようになった。

平神橋のすぐ上流にはJR常磐線の鉄橋が架かる。鉄橋から上流はしばらくそのままだった。そこでも土砂除去工事が始まった。

3月中旬だからちょっと前のことだ。平神橋を渡るとき、いつものように上・下流を“チラ見”したら、鉄橋の上流側に「レンガ造りの階段」状のものが見えた。

浸食・運搬・堆積の「河川の3作用」が頭に浮かんだ。岩石が侵食されて岩くずになり、土砂とともに流され、流れがゆるやかになった下流にそれらが堆積する。

夏井川の堤防から土砂除去工事を眺めて、河川敷にたまる土砂の量はハンパではないことを痛感していた。

たとえば、中神谷の調練場には大水のたびに土砂が堆積する。令和元年東日本台風では、堤防寄りのサイクリングロードが、部分的に1メートル前後土砂で埋まった。1回でそうなるのだから、何十年もの間に堆積した土砂の量は推して知るべし、だろう。

「レンガ造りの階段」状のものが何なのかは、3月20日付のいわき民報でわかった。常磐炭田史研究会の野木和夫会長が「旧平字手掴にあった平火力発電所のこと」と題して寄稿し、火発の取水口が出現したことを伝えた=写真。これだった。

同地には昭和52(1977)年まで、常磐炭礦の平火力発電所があった。もちろん、炭鉱の石炭掘削用である。

広大な敷地の一角には同炭礦の子会社である常磐紙業の工場が稼働していた.野木さんはこの会社に入社した――そんなことがつづられている。

発電所の従業員と話すこともあった。「発電所は夏井川から取水しているが、取水口の金網にウナギが何匹も何匹も、べだーっと張っ付いて困っちまう」

夏川渓谷の住民から、対岸にある水力発電所の導水路でウナギやカニを捕ったという話を聞いたことがある。取水口の維持管理には苦労しながらも、ウナギたちはいい食材になったのではないか。

川をウオッチングしている身としては、あらためて河川の3作用の威力を実感するとともに、30年後、50年後に岸辺がどうなっているか、おおよそ見当がつくような気がした。

2023年3月22日水曜日

墓参りの功徳

                      
 タイミングがいいのか悪いのか。今年(2023年)は春の彼岸の入りが土曜日の3月18日だった。

 この日、たまたま夏井川渓谷の集落で寄り合いがあったため、雨の中を出かけた。2日続けて隠居へ行くのはちょっと、というわけで、日曜日はアッシー君になってカミサンの実家へ出かけ、あとで墓参りをした。

 カミサンの実家は平・久保町にある。戦国時代、高台の平・大舘には大名の岩城氏が住んでいた。北麓にある久保町は城下町だった。その一角で義弟が米屋を営んでいる。

 顔を合わせると、私がいわき民報に連載(ブログをそのまま転載)している「夕刊発磐城蘭土紀行」の話になった。

カミサンの実家で使っていたムシカマド(蒸しかまど)が渓谷の隠居にある。早稲田の院生がこれを調査に来た。彼が調べてわかったことをブログで紹介した。

 ムシカマドに特許番号が刻印されている。特許情報から、実家で使っていたムシカマドは「赤松式改良ムシカマド」、考案者は「福島県磐城郡」(正確には「石城郡」)の「赤松源二」だった。

最後に、「この人物を知る手がかりは今のところない」と書き添えたら、久保町に住む人が実家の義弟に「あそこにあったのではないか」と情報を寄せた。

久保町周辺は「寺町」だ。平の大舘と好間の大館が隣接し、好間・大館の方に寺が集中している。

その一つ、某寺の前に民家があって、空き地(工場跡)が今はアパートになっている。そこだろう、という。カミサンの実家から歩いて10分ほどのところだ。とにかく近い。

カミサンも、そこで瓦をつくっていたような記憶があるという。これは朗報だ。いずれ院生に連絡することにしよう。

そのあと、カミサンの実家の菩提寺を訪ね、墓参りをした。やはり、某寺とは同じ道沿い、同じ好間の大館にある。

石段の山門をくぐると、また石段が続く。そばには坂道がのびる。先行するおばさんがいた。杖を持っている。付き添いの若い女性とともに、石段を上っていく。

私はカミサンの後に従って、坂道をジグザグに上る。息を切らせながら本堂の前に着くと、左手の林から「ホーホケキョ」の声が届いた。今年初めて聞くウグイスのさえずりだ。ああ、来てよかった――そう思った。

それからほどなく墓に着く。カミサンが墓の掃除をしている間、北西に広がる阿武隈の山並みを、オノで断ち切られたような好間のV字谷を眺めていると、視界の隅にカラス大の鳥が現れた。

とっさにカメラを向ける。腹面が白っぽい=写真。オオタカではないか、そう思ったが、むろん断定はできない。タカはゆっくり旋回しながら、やがて高みへと溶けるように姿を消した。

赤松式改良ムシカマド、ウグイス初鳴、タカの旋回。墓参りの功徳というか、ラッキーな出来事が続いて足取りが軽くなった。

2023年3月21日火曜日

「三春」以上

                      
 3月12日の日曜日は午後、いわき新舞子ハイツで防災研修会が開かれた。自主防災組織の代表や「登録防災士」が参加した。テーマは「地域防災力向上研修――東日本大震災・福島第一原発事故を振り返って」だった。それで、夏井川渓谷の隠居へ行くのは中止した。

 次の週は土曜日(3月18日)、渓谷の集落で寄り合いがあった。それに出た。ほぼ2週間ぶりの渓谷行だ。あいにくの雨で、土いじりも、ブラブラ歩きもできなかった。

 が、隠居までの道沿いには春の息吹が感じられた。家々の庭に花をつけた木がある。白梅は残花。通り過ぎるだけなので、黄色っぽい花が何なのか、ピンクの花が何なのかは、定かではない。

 とにかくこの2週間のうちに、大地のそこかしこから春が立ち上がってきた、そんな感じを受ける。わが家の庭をみると、それがよくわかる。

 植物たちが地面から生え出て、日ごとに緑の領域を広げている。スイセン、ヒメオドリコソウ、ホトケノザ、スミレ、クリスマスローズの花が咲き、パセリの葉がこんもりしてきた。

 渓谷ではヤブツバキの赤が燃え、ヤシャブシとキブシが花を垂らしていた。マンサクはもう満開のようだった。

 気になるのはなんといっても、渓谷の春を象徴するアカヤシオ(岩ツツジ)。日曜日(3月19日)のブログにも書いたが、土曜日の寄り合いの際、対岸の急斜面に1カ所、アカヤシオのピンクの花が目に入った。

アカヤシオは、渓谷ではおおむね4月に入ってから開花する。最も早いときで「春分の日」あたりに咲くという。その意味では、今年(2023年)は最速の部類に入る。

滝桜で知られる田村郡三春町の「三春」は、梅・桃・桜が一緒に咲くことに由来する。冬枯れの山野が、里が春になると花でいっぱいになる――いかにも桃源郷的なイメージだが、その場合の桜は、ソメイヨシノではなくてヤマザクラだろう。

 二十数年前、渓谷へ通いはじめたころ、集落の長老に教えられた。「ここは『五春』だよ」。梅、ハナモモ、アカヤシオ、ヤマザクラ、ソメイヨシノが時を重ねるようにして咲く。「三春」以上というわけだ。

 今は気象庁が標準木にしているせいか、ソメイヨシノが春のシンボルに変わった。が、渓谷では真っ先に急斜面を彩るアカヤシオが「春を告げる花」だ。これは昔も今も、もちろん未来も変わらないだろう。

 平地ではすでにハクモクレンが咲き、木によっては花を散らしている。わが家の庭のプラムはどうか。土曜日の夕方、雨上がりに見ると、つぼみが膨らみ、白い花弁をのぞかせていた=写真。

 アカヤシオやソメイヨシノと違って、庭のプラムは身近すぎていつもノーマークだったが、早いと3月下旬には咲き出す。まさに開花直前というところだ(20日夕方に見ると、3輪が開花していた)。

三春・五春・十春、いや、おおげさにいうと「百(もも)の春」。温暖化もあるので、単純には喜べないが、春は駆け足でやってきた。

2023年3月20日月曜日

パック入りの寿司

                      
 これは知人から聞いた話。子どもを寿司店に連れて行ったら、「回らない寿司」と驚いた。なかなかの「名言」ではないか。

 「回る寿司店」で若者が悪ふざけする動画がSNSに投稿され、拡散されて大きな問題になる、ということが続いた。

 ネット時代に限らない。それ以前も、若者は仲間内だけのノリで偽悪的なふるまいに走ることがあった。私も、人からひんしゅくを買うようなことをしなかった、と言い切る自信はない。

 が、食事については「ご飯粒は残すな」ときつく親に言われて育った世代だ。食べ物を粗末にすると罰が当たる、という意識が強い。それをいたずらの材料にする発想は、だからちょっと理解できない。

 アナログ社会とデジタル社会の違いもあるのだろう。仲間内でのいたずらの交歓と思っていても、デジタル社会では仲間内を通り越して、愚行がたちまち外部へ拡散する。

その結果、一方では経済的な損失が発生し、当人も責めを負わされる。軽い始まりが重い結果を迎える。

 昔は、寿司は「高級食」の代名詞のようなものだった。私が独身のころは、大先輩に「回らない寿司店」に連れて行ってもらった。しかし、自分から食べに行ったことはあったかどうか。記憶をたどると、一人で出かけたことはまずない。

 同業他社氏と、酔った勢いで「回らない寿司店」に行ったことはある。店の名前も覚えている。が、それはしかし寿司ではなく、アルコールを飲むためだった。

 「回る寿司店」が地方にも進出してきたのはいつごろだろう。結婚して、子どもができると、街の喫茶店へ、ということはあったが、「回る寿司店」の記憶はむしろ、孫ができてからの方が鮮明だ。

 それ以外は、寿司とは無縁というわけではない。なにかあると、カミサンが「マルトへ行って、寿司を買おう」という。

 先日も急に「合格祝い」ということで、近くのマルトまで車を走らせて、「パック入りの寿司」を買った。

 「パック入りの寿司」には、「回らない寿司」と違って、ワサビが付いていない。このごろ、そうなった。だから、わさび袋を好きなだけもらい、寿司を食べるときに具の上にちょこんと載せる、というふうに食べ方が変わった。

 雰囲気だけは「回らない寿司店」の雰囲気に近づけるため、知り合いの焼いた長い皿などにそろえたのが出てくる=写真。

 「回らない寿司店」のような、ほのかな「しゃり」(酢飯)のぬくもりは期待できない。が、寿司ネタはそれなりに新鮮だから、けっこう食が進む。

 というわけで、ある日の晩は酒のおかず代わりにパック寿司を食べた。ほんとうは「回らない寿司店」へ、と言いたいところだが、そこはカネとは無縁の人間の習性で、行ったつもりにすぐなれる。年を重ねると、そういうことも可能になる。

2023年3月19日日曜日

「洗車日和」?

                     
 3月14日夕方のNHKローカルで「あすは晴れて、『洗車日和』でしょう」と、気象予報士がコメントした。

 「洗車日和」?とは初耳だ。さっそくネットでチェックする。「洗車日和」とか「洗車指数」とかいう言葉が、確かにある。

 さらに情報を探ると、晴れや雨、強風の日ではなく、「曇り空で風のない日」が一番の洗車日和だという。

放送のあった13日は曇りから雨になった。それで、「あすは雨がやんで」というところを、「あすは晴れて」となったのだろう。

一般社団法人日本気象協会が運営する天記予報専門サイトに「tennki.jp」がある。このサイトにいろんな指数が紹介されている。

通年指数では、洗濯・服装・紫外線・お出かけ・星空・傘・体感温度・洗車・睡眠などの11種類、そして現在はこれに冬季限定(10~3月)の水道凍結・うるおい・風邪ひき・暖房・鍋もの・寒暖差肌荒れの7指数が加わる。

まずは日本列島の北海道、東北、関東・甲信などの大枠で、マークと数字で指数を表示し、さらに別項で都道府県内各地の指数が見られるようになっている。

「洗車」については「洗車に適した天気かどうかをお知らせします。数字が大きいほど洗車日和となっています」と欄外に注釈が入る。晴れだった3月16日のいわきは、洗車指数は「10」(福島県内すべてが10)と洗車には「不向き」だった。

13日の雨は、もしかしたら車の花粉を流してくれるかもしれない、そんな期待があった。翌14日朝、庭に出て車を見ると、屋根は前日までとそう変わらなかった=写真。フロントガラスなどは、前よりはきれいになっていた。

洗車日和が気になったのは、今年(2023年)、異常にスギ花粉が飛散しているからだ。ついでに「花粉飛散情報」もチェックする。雨の日はさすがに少ない。

コロナ禍によるマスク着用は、13日から「個人の判断で」というふうに変わった。3年も続いた習慣はそう簡単には解消されない。花粉症もあって、これまでどおりマスクを着用する人がほとんどだ。

ま、ゆるゆると、着けたりはずしたりしながら元に戻る、というのがいいのではないか。大震災に伴う原発事故以来、12年、いわきを含む福島県内ではマスクを意識した暮らしに切り替わっていたのだから。

ところで、14日に東京でソメイヨシノの開花が発表された。統計開始以来、最速タイだとか。「tennki.jp」によれば、いわき市小名浜の桜開花予想日は3月22日、福島市は同27日と、平年よりは早い。

すると、夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)も……。渓谷のアカヤシオと平地のソメイヨシノはほぼ同時に開花する。渓谷の隠居へ通っているうちに学んだ経験則だ。

朝から雨になった18日、渓谷で寄り合いがあった。アカヤシオは?と見れば、1カ所が淡くピンク色に染まっている。

アカヤシオの最速開花日は「春分の日」だという。それより今季は早い。街のソメイヨシノも、もう咲き出したのではないか。

2023年3月18日土曜日

甕の中の白い膜

                      
 この冬は11月下旬に白菜漬けを始めた。いつもよりはちょっと早かったかもしれない。まずは山間部の三和の白菜を――というわけで、国道49号をかけあがり、ふれあい市場で2玉を買った。それから差塩(さいそ)~川前と山越えをして、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをした。

 帰りに、田村郡小野町のNさんが晩秋だけ開くJR磐越東線江田駅前の直売所に寄ると、曲がりネギだけでなく白菜も売っていた。ここでも2玉を買った。

 小野町と、隣接するいわき市三和町では、標高はそう違わない。まずは小野町の白菜を漬けた。1玉を8つに割る。2玉では16割りだ。

一切れが1日で消費されるときもあれば、2日持つときもある。2玉でだいたい3週間は持つ。進呈したものもあるので、この冬は、今食べているものも含めて11玉を漬けた。

 そのうちの1玉は巨大白菜だった。いわきの平地でカミサンのいとこがつくったものだという。普通の白菜より見た目で3割は大きい。

8つ割りにしただけでは甕(かめ)に収まらない。全体を10に割り、さらに幾つかは外側の葉と内側の葉を2つに分けて漬けた。

試食すると、意外や意外、やわらかくて甘い。平地の白菜のイメージを越えている。収穫したのは11月下旬。師走の寒気で糖分が増したわけではない。もともと糖分が高い品種だったか。

最初はその大きさを持て余したが、漬けて食べてみたら引かれた。来シーズンはもっと食べたい、そんな思いがふくらむ。

さて、問題は産膜酵母である。白菜から上がった甕の水の表面が次第に白くなる。その発生が遅れるように、家の中で一番冷え込む階段下に甕を置く。猫を飼っていたとき、真夏にそこらへんで昼寝をしていた。それにヒントを得た。

今季は水分をたっぷり含んでいたためか、どの白菜も水の上がりが早かった。塩分の浸透圧もそれなりにうまくいった。

が、やはり何日かすると水の表面が白く濁ってくる。塩分濃度が低かったり、室温が高かったりすると発生しやすいというから、これはしかたがない。甕から取り出してサッと水で産膜を流せば、普通の白菜漬けとして食べられる。

白菜自身も乳酸発酵をする。古漬けが好みのカミサンは、酸味が加わった白菜漬けがうまいという。

3月になると、暖かい日も多くなる。もう糠床に切り替えようと思ったが、糠味噌の冷たさが頭をよぎった。

それで自分にムチを入れて、最後の白菜漬けをつくった=写真。これもすぐ水が上がったので、しんなりした段階でタッパー2つに入るだけの白菜を移して、冷蔵庫に保管した。

産膜酵母で白くなることはなかったが、発酵中の泡のようなものがタッパーにしみ出た水の中にあった。冷蔵庫に入れていても、時間とともに酸味は増すらしい。どうやら糠床に切り替えるときがきたようだ。

2023年3月17日金曜日

捜索活動

                     
   いわき中央署で先日、若手署員を対象に、ベテラン警察官による震災体験伝承活動が行われた。

いわき民報に記事が載った=写真。「ガスや電気がない中で、さまざまな状態の遺体を一刻も早くきれいにして遺族の元に返すため、必死に被災者と向き合った」

現刑事官の話に触発されたものがある。一つは、石井光太著『遺体―震災、津波の果てに』(新潮社、2011年)。医師や歯科医師らにインタビューをして、岩手県釜石市の遺体安置所をめぐる約3週間の出来事を描いた。

「遺体はどれも濡れていたり、湿っていたりしており、艶を失った髪がべっとりと白い皮膚に貼りついている。/しゃがんで顔をのぞき込んでみると、多くの遺体の口や鼻に黒い泥がつまっていた。目蓋の隙間に砂がこびりついていることもある」(釜石市医師会長)

 もう一つは、元いわき市歯科医師会長中里迪彦さんからいただいた、『2011年3月11日~5月5日 いわき市の被災状況と歯科医療活動記録』(2012年)のコピーだ。

 中里さんは平成27(2015)年5月、いわき市文化センターで開かれたミニミニリレー講演会でも「東日本大震災、福島第一原発事故に被災したいわきの現実―地震・津波・原発事故・風評被害の中で」と題して話している。拙ブログから内容を振り返る。

 ――いわきの歯科医師会は震災直後の3月15日から4月3日まで、水道が復旧した市総合保健福祉センターで救急歯科診療を続けた。

警察の要請で身元不明遺体の歯の状況を記録し、他県(富山・岐阜・和歌山・大阪)チームによる避難所での巡回診療にも協力した。

 歯科医師会が遺体の歯の調査にかかわったと知ったのは、中里さんと街でバッタリ会ったとき。3・11の話になって、歯科医師会の活動を教えられた。「メディアは報じてなかったですね」「そうなんです」

講演前に中里さんから資料をいただき、後日、自宅を訪れて別の資料もちょうだいした。

「中里レポート」は警察からの要請と数字だけを淡々と記す。「3月18日。平にある市民プールの管理棟に設置された遺体安置所で遺体の身元確認作業に協力。身元不明の遺体29体。歯科医12人が参加した」。遺体確認に関する最初の記述だ。

 3月29日以降は、いわき東署からの依頼が続く。巡視船が海上で遺体を収容した、という記述もあった――。

 警察・消防・医師・歯科医師だけではない。自衛隊も最前線にいた。原発事故のあと、といっても少し落ち着いてからだが、早朝6時の散歩を再開した。夏井川の堤防へ出るには国道6号を渡らないといけない。信号待ちをしていると、原発事故の収束、大地震・大津波による災害支援、行方不明者捜索などのために、自衛隊の車両が何台も北へ向かっていた。3・11がめぐってきて、そんなことも思い出した。

2023年3月16日木曜日

ワカメが届く

                     
 岸辺のヤナギが芽吹いたと思ったら、ハクチョウが姿を消した。いちだんと春の気配が濃くなっているのだが……。夏井川の堤防を通っても、まだ対岸・山崎からウグイスのさえずりが聞こえない。

 ブログにウグイスの初音の記録が残っている。平成21(2009)年には同じ堤防で2月26日に聞いた。まず「谷渡り」(「ケキョ、ケキョ、ケキョ」)が響き、すぐ「ホー、ホケキョ」が届いた。

   2月中に初音を聞くのは珍しい。東北で一番早く春が訪れるいわき市とはいえ、ウグイスがさえずり始めるのはおおむね3月になってからだ。同20年がそうだった。同じ場所で3月7日に初音を聞いた。

小名浜測候所に職員がいて、「生物季節観測」をしていたころは、小名浜でのウグイス初鳴日(平年値)は3月17日だった。

今は少し早くなっている印象がある。夏井川渓谷に住む友人は今年(2023年)、3月12日にウグイスの初鳴を聞いた。もう渓谷まで「ウグイス前線」が到達したのだ。

なぜ、夏井川の平・塩~中神谷地内では遅いのか。対岸の平・北白土~山崎地内で盛んに河川敷の土砂除去工事が行われているからだろう。

岸辺にヤナギが茂り、草で覆われていた河川敷は、どこもグラウンドのように土がむき出しになっている。

なかでも中神谷字調練場の対岸、山崎字小才内では護岸工事が進められている。河口までおよそ5キロという平野部なので、川はあちこちで大きく蛇行する。ここも右岸(小才内)は堤防のすぐそばでカーブし、左岸(調練場)には広大な砂地が広がっている。堤防の方に土砂が寄せられているところを見ると、護岸の基礎を強化する工事が行われているようだ。

というわけで、里の春を告げるウグイスも岸辺には近づけないのだろう。このままいくと、わが生活圏ではウグイスの初音よりツバメの初見が早いかもしれない。

 それはさておき、今年はハマの春には恵まれた。後輩がマツモを持って来てくれた。先日はワカメが届いた。

いわき地域学會が市から委託されてまとめた『いわき市伝統郷土食調査報告書』には、マツモは冬から春によく繁殖する早春の出始めが美味磯のちょっと高い岩場に生息する――とある。

ワカメについてはこうあった。「マツモは成長しすぎると味が落ちる。代わって登場するのはワカメである。枝のない一葉ワカメと浜で呼ぶ小さなワカメは、マツモと同様、味噌汁・酢味噌和えに向いている」

さっそく湯がいて酢の物にした=写真。軟らかい。別の日にはもちろん味噌汁、そしてうどんの具になって出てきた。これもまたハマの春の味だ。そんなときに、ウグイスが庭に現れて、「ホー、ホケキョ」とやってくれれば最高なのだが……。

2023年3月15日水曜日

地域の小窓

                     
 新聞休刊日には、世の中の出来事はテレビとネットで確かめる。といっても、それは全国紙と県紙のこと。地域紙は、それとは別に昔から日・祝日を休刊にしている。ぎりぎりの人数で新聞をつくっているので、そうせざるを得ないのだ。

全国紙や県紙の休刊日は月1回で、月曜日がほとんどだ(今年は10月だけ火曜日になる=月曜日が祝日「スポーツの日」のため)。朝刊が休みの日は、いわき関連のニュースは夕刊のいわき民報で知る。

3月13日がそうだった。「きょうからマスク着用緩和」が1面トップに載った。「個人の判断にゆだねる」という政府方針を受けて、市内の状況を報じている。

集客施設は、やはりスタッフはこれまで通りマスク対応、出入り口での体温測定やアルコール消毒などを継続するという。これはまあ当然だろう。

社会面=写真=では、「大野中、76年の歴史に幕」がトップだった。この日、公立中学校で卒業式が行われたことを伝える。隣の行政区に住む私の孫もその一人で、昼過ぎ、父親に伴われてわが家へ報告に来た。

大野中は四倉町にある。最後の卒業生は3人。式のあとに行われた閉校式では、リーディング劇「おしまいの詩(うた)」を披露した。

「昨年10月の文化祭『御城祭』で演劇に協力した劇作家、演出家の永山智行さん(宮崎県)の書き下ろし」作品で、同校のシンボルである“御城の松”を題材にした内容だという。

同校卒業生の1人が毎週、わが家に顔を出す。断片的な話は聞いていたが、こうして記事になったのを読むと、学校と地域のかかわり、歴史などが見えてくるように思えるのだった。

今年1月、山田町の民家で殺人事件が起きた。その容疑者がこの日、逮捕された。75歳の内縁の妻だった。

四家啓助元市長の葬儀の記事もあった。2人の弔辞が紹介されている。新聞折込の「おくやみ情報」に載ったとき、「元いわき市長・県議・市議」といった肩書はなかった。「花輪・生花・供物・香典はご辞退申し上げます」ともあった。

知人は「喪主の考えなのだろう」といっていたが、少なくとも故人をしのぶ際にはこのことが思い浮かぶにちがいない。

というわけで、3月13日の朝刊休刊日は夕刊を読んであれこれ考えた。夕刊は地域を知るための小窓。窓は小さいが、地域に開かれている。窓には地域を考えるヒントが映っている。

山田町の容疑者逮捕から、勿来町の強盗殺人事件に思いが至り、もう一つ大きな事件があったことを思い出す。

平成30(2018)年7月21日、土曜日。わが行政区から三つ先の行政区で殺人事件が発覚した。

翌日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、ふだんは通らない現場の前の道路を利用した。検問が続いていた。

その日のメモ――。「職質。若いおまわり。『ここを昨夜通ったか』『通らない』『いつも通るのか』『通らない。ニュースで知って来た』」。事件は未解決のままだ。

2023年3月14日火曜日

防災ワークショップ

                      
 土曜日(3月11日)は東日本大震災12年の節目の日。新聞の特集、テレビの特番が続いた。それを読んだり、見たりしただけで「あのとき」を思い出して胸がざわついた。

 この何年かはいつもそうなる。トラウマというほどではないにしても、できるだけいつもの日のように過ごす、そう思いながらも、記憶の底にはまだうずくものが残っているようだ。

 今年(2023年)は翌日曜日、自主防災組織の代表や「登録防災士」を対象にした研修会が新舞子ハイツで開かれた。テーマは「地域防災力向上研修――東日本大震災・福島第一原発事故を振り返って」だった。

 自主防災組織はわが行政区の場合、区の役員がそっくりそのまま役員を兼ねる。地域の高齢化が進んで、役員の重複が避けられなくなった。とてもじゃないが、高齢役員に受講をお願いする環境にはない。結局、私が受講した。

 登録防災士の参加は初めてだ。市は去年8月、市内在住の防災士で、市の総合防災訓練に参加したり、災害時にさまざまな被災者支援活動に協力したりする登録防災士の制度を創設した。2月28日現在で登録者数は197人にのぼるという。

 自主防災組織も、登録防災士もまずは「自助」、そして「共助」を担う。それを踏まえて、10のグループに分かれて研修した。

 テーマがテーマだけに、ここは「あのとき」とまっすぐ向き合わないといけない、そう決めて受講すると、胸のざわつきが消えた。

 「あのとき」と向き合うには、やはり覚悟がいる。覚悟して話を聞くと、次々に「あのとき」の自分の心と行動がよみがえった。それを受け止め、教訓にする場でもあった。

 研修会は2部構成で行われた。1部は全体で東日本大震災、福島第一原発事故の現状について学んだ。

 2部は自主防災組織と登録防災士制度について知識を深めたあと、それぞれのグループでワークショップを実施した。テーマは、①東日本大震災時の対応を振り返る②自主防災組織・登録防災士・行政に期待すること――の二つ。

 それぞれが3・11体験を振り返った。絶えず余震がきた。大津波が沿岸部を襲い、甚大な被害をもたらしたことは、内陸部の人間なので少しあとになってわかった。

いわきの北にある東電の原発が事故を起こす。そこから一気に不安が広がった。原発からの避難指示が半径3キロから10キロ、さらに20キロに拡大される。いわき市北部を含む半径20~30キロ圏内に屋内退避の指示が出る。

わが家の1階では、本棚が倒れ、棚から皿などが落下した。2階はそれ以上にひどかった。電気は大丈夫だったが、水が止まった。カミサンがコンビニに駆けつけ、氷を買ってきた。解かして水にした。

そんなことを思い出しながら、付箋(ふせん)に書いて用紙に張り付けていく=写真。沿岸部の親類を亡くしたという参加者もいて、あらためて地震・津波・原子力事故という複合災害の苛酷さに思いがめぐったのだった。