2010年12月31日金曜日

曲がりネギと一升漬け


紅葉が見ごろになると、田村郡小野町のNさんが夏井川渓谷へやって来て、曲がりネギや長芋、白菜などを直売する。Nさんは、ネギ苗を郡山市阿久津町から手に入れる。「三春ネギ」だ。これについては何度か書いた。

「小野町の直売所にも出してます」とNさん。師走最初の日曜日、渓谷の無量庵から車を飛ばした。直売所がどこにあるかまでは聞いていない。頼りになるのは小野町の和菓子店に嫁いだ小中学校の同級生だ。郡山寄りといわき寄りの郊外2カ所に直売所があることを教えられた。

郡山寄りの直売所をのぞいた=写真。曲がりネギがあった。Nさんのネギではない。レジで「三春ネギか」と聞くと、「いや、須賀川だ」という。須賀川といえば、「源吾ネギ」(千住ネギの合黒系らしい)だ。同じ曲がりネギでも郡山市の阿久津曲がりネギ(加賀ネギ群)とは系統が違う。どちらにしろ小野町では普通に曲がりネギを生産しているようだ。

小野町は中通りと浜通り南部との交通の要衝である。郡山・三春との往来だけでなく、須賀川との往来も濃かったのだろう。「種のくる道」「苗のくる道」は、小野町の場合、郡山・三春だけでなく、須賀川からの道も想定される。小野町の直売所での経験からそう思った。それがまた、阿武隈高地の分水嶺西側の地形や交通の要衝としての位置からして自然なことだ。

直売所では漬物も売っている。「一升漬け」を買った。田村地方ではポピュラーな冬の食べ物だ。作り方は省略するが、シソの実一升、青唐辛子一升、麹(こうじ)一升、醤油一升をカメに入れて漬け込むから、「一升漬け」だとか。あるいは、青唐辛子にナスやミョウガ、キュウリを加えて一升とすることもあるという。

先日もこの直売所を訪ねた。曲がりネギはなく、普通の長ネギがあるだけだった。そのネギのほかに「一升漬け」も買った。先に買った「一升漬け」はミョウガ入り。今度の「一升漬け」はキュウリ入りとナス入りの2種類。キュウリ入りの方が口に合う。シソの実の香ばしさと甘いたまり漬け風味のキュウリの歯ごたえがいい。

さて、この師走は「ネギのくる道」について思いをめぐらせることができた。「一升漬け」にも出合えた。「羅漢ラーメン」のコッテリ系を何年ぶりかで食べた。目的を絞って行くには面白い町だ、小野町は。

2010年12月30日木曜日

丘灯至夫生誕の地


田村郡小野町の目抜き通りを車で走っていたら、信号が赤になった。ちょうど車が止まったあたり、右斜め前方の道端に標柱が立っている。「丘灯至夫生誕の地」と書かれてあった=写真。<ここか、丘灯至夫の生家は>。

実は先日、小野町ふるさと文化の館に開設されている「丘灯至夫記念館」を訪ねた。略年譜に、大正6年2月8日、小野新町(現小野町)の西田屋旅館に西山亀太郎・モトの6男として生まれる、とあった。記念館をのぞいたあと、町の郊外にあるという直売所を目指した。そのときは生家がどこにあるかわからず通り過ぎてしまったのだった。

丘灯至夫は「高校三年生」で知られる作詞家だ。西條八十の弟子で、「東京のバスガール」「山のロザリア」(ロシア民謡)「智恵子抄」など、心に残る作品を手がけている。テレビアニメの「ハクション大魔王」「みなしごハッチ」も彼の作品。なかでも「高原列車は行く」は、私が最初に覚えた歌謡曲で、「何か一曲を」と言われたらたいがいこの歌を歌う。

丘灯至夫と同じ田村の産。彼には前から親近感を抱いていた。昨年の逝去後、夫人から遺品が寄贈された。展示スペースを拡充し、11月3日にリニューアルオープンをしたというので、小野町に用があったついでに記念館をのぞいた、というわけだ。

記念館でかかっていた歌は、乗り物シリーズの最後を飾る「霊柩車はゆくよ」だった。ユーモラスな人間だったことを、あらためて知る。

2010年12月29日水曜日

「鳥小屋」づくり


「いわきの人間になってよかったこと」と聞かれたら、「二つある」と答える。月遅れ盆の「じゃんがら念仏踊り」と、正月の「鳥小屋」だ。同じ福島県でも、中通りと会津、浜通りとでは、盆と正月のかたちが違う。中通りで生まれ育った人間には、「じゃんがら」も「鳥小屋」も驚きだった。

「じゃんがら」は人のなかに眠っているダンスとリズムの本能を覚醒する。「鳥小屋」は人のなかにひそんでいる火つけの欲望を解き放つ――。

先日(12月26日の日曜日)、平・下平窪で「鳥小屋」をつくっているところに出くわした=写真。私の住む平・中神谷でも田んぼに「鳥小屋」ができた。新聞・テレビで報じられたので分かった。こちらは随分早くつくったものだ。

下平窪の「鳥小屋」は、支柱に孟宗竹、囲いに枯れヨシを使っている。平らな屋根は何でつくるのか。何年か前、あるところで見たのはブルーシートだった。冬の嵐が通り過ぎたあと、あわててシートで覆ったのだった。雨除けにはいい。が、火を放つ前に取りはずしたことだろう。

中神谷の「鳥小屋」がある行政区(中神谷西区)から、同じ中神谷に住むほかの行政区(私の住むところは南区)に、1月4日の鳥小屋行事への招待状が届いた。区の役員をしているので、そのコピーを区長さんからいただいた。それによると、鳥小屋では次のようなことが行われる。

火入れ式は12月26日(テレビで放映された)。12月31日・自由参観。年が明けた1月4日が招待日。午後3時からの自由参観時間帯に出かけることになる。この日は午前10時から、「鳥小屋」で民話を聴く会、近くの公民館で餅つきが行われる。5日、6日は自由参観。最終日、7日は午前6時半に「お焚き上げ」。つまり、「鳥小屋」に火が放たれる。

今年は「お焚き上げ」に一歩遅れた。遠くから立ちのぼる煙を見て帰った。今回はいいチャンスだ。じっくり「鳥小屋」の内外を見ようと思っている。

2010年12月28日火曜日

キノコ談議


いわきキノコ同好会の総会・勉強会・懇親会が日曜日(12月26日)夕、平・旧城跡の平安荘で開かれた。懇親会でのキノコ談議が楽しかった。

夏は猛暑。秋のキノコは期待できなかった。それが、9月の秋分の日以降、前線が停滞して、めったにないキノコ大豊作になった。「先憂後楽」である。こんな年は初めてだ。勉強会では映像を見ながら、今年のキノコの特徴を学んだ。

ざっといえば、①毒キノコのクサウラベニタケが異常発生した②同じキノコでも異種・変種が見られた③見慣れているキノコが巨大化した――などだ。キノコも今年の気象には振り回されたのだろう。

「いわきでエゾハリタケを初めて確認した」「クサウラベニタケを塩蔵することで無毒化を試みている」「ツキヨタケを採って家に持ち帰り、夜、部屋の明かりを消したら光った」。会員の“キノコ愛”は深い。

ツキヨタケ=写真=は今秋、私も久しぶりに見た。写真を撮るだけにとどめた。闇に光る特性、それを確認するために採取するという想像力は、はたらなかった。「新聞紙にくるんでもボワッと光った」。間接照明ではないか。いやあ、話は聞いてみるものだ。ツキヨタケは、来年は発生すれば採取して、そうしたい。それを写真に撮りたい。

2010年12月27日月曜日

ラジオ放送


夏井川渓谷の無量庵ではラジオを聴く=写真。テレビはない。テレビを見る場合は、共同アンテナを利用しなくてはならない。何も溪谷まで来てテレビを見なくてもいいだろう――そういう思いもある。

ラジオは「ながら聴取」だ。が、結構、耳に入ってくる。きのう(12月26日)は全国高校駅伝の実況放送を聞いた。途中で昼寝をしたので、初めと終わりしか記憶にない。男子はスローペースで始まった。最後はトラック勝負になった。

鹿児島実業の選手が世羅(広島)の選手に追いつき、そのまま並走して競技場に入り、残り300メートルで一気に世羅の選手を突き放した。初優勝だという。追いつき、そのまま並走したのは相手の疲労度を測り、トラック勝負に出るため、という解説者の読みが当たった。すごい戦いになったものだ。

映像がない分、ラジオには言葉に集中して状況を想像しようという意識がはたらく。当然、福島県代表の田村の名が出てくるまで耳を澄ます。女子は29位、男子は8位。男子は今年も入賞を果たした。

記憶に残る最初のラジオ放送は、NHKの「一丁目一番地」だったか。昭和30年代に毎晩(月~金?)、放送された。確か、小柳徹という子役が出演していた。彼はのちに交通事故で亡くなっている。無量庵でラジオを聴いていると、そうしてラジオにかじりついていた小学生のころを思い出す。きのうもそうだった。

2010年12月26日日曜日

タヌキとカラス


夏井川渓谷への行き帰り、道路に野生動物が死んで横たわっていることがある。前にも書いたが、フクロウ、ウサギ、テン、コジュケイ、イタチ……。なんでもありだ。街中では、たびたびネコの死骸を見る。犬も冷たくなっているときがある。交通事故死がほとんどだろう。

なかでも一番多いのはタヌキ。秋の初めのある早朝、またまたタヌキの死骸を見た。今年だけで3匹目だろうか。

夏井川に沿って車を走らせていた。平地から少し高い台地に移り、さらに一段と高い渓谷へ入る手前、夏井川第三発電所付近だ。カラスが3羽、群がっていた=写真。タヌキの死骸を見つけたばかりらしい。

カラスはまんべんなくいる、夏井川下流のサケのやな場にもあらわれる。やなの下流で息絶えたサケの目が空洞になっている。カラスは真っ先に眼球を狙う。タヌキもそこが目当てなのだろう。

テレビのネイチャー番組をよく見る。草食動物を仕留めたライオンはまずやわらかい内臓を食べるのを、それで知った。カラスは眼球だ。くちばしとキバの違いか。

自然のオキテだろうか。タヌキが死んで、カラスが舞い降りて、「とむらい」をする。おのずと厳かな気持ちになる。「自然はいつも教科書だ」という思いが浮かぶ。

2010年12月25日土曜日

フユノハナワラビ


夏井川渓谷は、広葉樹の葉が散ってすっかり景色が変わった。道路から谷底がよく見える。対岸の急斜面も、ごつごつした“岩肌”をさらけだしている。

無量庵の玄関わきにあるウワミズザクラ、ホオノキ、エゴノキ、コバノトネリコ、カエデたちも、同じように冬の眠りに入った。溪谷に自生する木々たちだが、何本かは苗木のころに植えられたに違いない。密生しているからだ。

庭木のあるスペースは八畳間くらいだろうか。最後に葉を落とすカエデが地面を覆っていたころ、ひっそりとフユノハナワラビが顔を出していた=写真

フユノハナワラビは冬に生長する。夏はじっと地中で眠っていて、秋になると芽を出す。落葉樹の庭は、夏は葉に覆われていてフユノハナワラビの寝床になり、冬は葉が落ちて日が差し込み、フユノハナワラビの温床になる。

ときどき、このフユノハナワラビと「会話」する。といっても、じっと見ているだけだが。なぜ厳しい冬を選んで生きるのか。――答えはない、いや、いらない。そこにフユノハナワラビがある、と思うだけで少し心が温まる。

2010年12月24日金曜日

海保ヘリ


太平洋側を通過する冬の低気圧が狂暴化している――。おととい(12月22日)のいわき民報で、いわき市錦町の鮫川河口付近(須賀海岸)に貨物船が座礁したという記事を読み、あらためてそんなことを思った。

きのう(12月23日)は県紙で遭難の詳細を知った。海保のヘリが乗組員の救助活動を繰り広げている写真も載った。貨物船座礁と同じ日、「尖閣」映像流出問題で、海上保安庁の職員が書類送検され、トップの長官以下24人の処分も発表された。

長官はいわき出身。駆け出しのころ、あるところで彼のお母さんを紹介され、以来、新聞情報ていどだが、着実にキャリアを積みあげていく息子さんに、一種のエールのような感覚を抱いてきた。みずから減給処分を下した今も、その気持ちに変わりはない。

いわきは海に接している。座礁事故だけでなく、海水浴客の遭難、船の衝突、転落といった海の事故が絶えない。9月初旬、私が住む地域の小学校を会場に地区の体育祭が行われた。偶然、会場の上空を海保のヘリが通過した。それをパチリとやった=写真。なにか事故があったのだろう。

で、座礁した貨物船の乗組員の救助に向かったのはこのヘリか――。県紙の写真に写っているヘリと、私が9月に撮ったヘリとを比較してみた。ヘリの足が違う。9月のヘリは足が棒状、座礁船乗組員救助のヘリは足が車輪だった。

棒でも車輪でもいい。海保の職員たちはこうして時々刻々、海の安全のために命を張って活動している。

2010年12月23日木曜日

鉄道作業車


場所は、いわき市小川町上小川字片石田地内の磐越東線。時間は平日の午前10時半ごろ。夏井川渓谷の無量庵へ行った帰りだった。

山を下りると、急に平らかな風景が広がる。溪谷から扇状地に変わるのだ。その平坦な風景の中に「機関車」が1台止まっていた。作業員も何人か立っている。その先にも見たことのない2両連結の「機関車」がいた。<こんな時間になんだ、事故か?>

線路と道路は田んぼとナシ園をはさんで並行している。そのあいだ、ざっと200メートル。車から真横に見えるところまで道路を進んだときに了解した。2両連結の「機関車」はゆっくり動きながら、中央部でなにか白いキバのようなものを上下させている=写真。どうやら線路の保守作業をしているらしい。

写真をパソコンに取り込み、拡大したら、メーカー名がわかった。オーストリアの線路工事用重機メーカー「プラッサー&トイラー社」製の「重機」だった。

たぶん、枕木の下のバラス(砕石)をつき固めて線路の凸凹をならし、列車がスムーズに走行できるよう、補修作業をしていたのだ。白いキバのようなものを上下させていたのが、それだった。所有者は「センケン」(仙建)。

鉄道マニア、いわゆる「撮り鉄」はこういった「重機」も見逃さないだろう。初めて線路工事用の「重機」を見て、少し興奮したくらいだから、マニアには格好の被写体になる。

にしても、通常ダイヤの間隙をぬって作業をするわけだから、時間のやりくりには神経を使うに違いない。午前の最後の列車が通過したあと、午後の最初の列車が通過する前に作業を終えて、どこか、たとえば最寄りの小川郷駅で列車を回避する、といったことをしなくてはならない。

JRやセンケンの人間でもないのに、しばしそんなことに思いをめぐらした。

2010年12月22日水曜日

久之浜ミカン


何年前だろう。いわき市の「産業祭」で二、三個、実のなっている温州ミカンの苗木を買い、夏井川渓谷の無量庵の庭に植えた。

同じ集落のTさんが、ユズは福島市の信夫山が北限と聞いて、牛小川で実をならせることに挑戦した。実がなった。いわきの平地からみたら、夏井川流域で一番標高が高く、寒いところにあるユズかもしれない。

Tさんの「遊び心」に刺激されて、ともかく温州ミカンの苗木を植えてみよう、そう思って実行したのだが、見事に失敗した。実がならない。常緑の葉も真冬には“風邪”を引いて色が落ちる。

思惑通りにはいかない。が、仮に実がなるようなことがあれば、地球温暖化が進んだ「あかし」になる。無量庵のミカンの木はそのためのセンサーだ――と開き直って、実がなるのをあきらめた。

そんなところへ、“久之浜ミカン”が届いた=写真。元同僚が栽培していて、前にも一度、もらった記憶がある。やや酸味があるものの、甘くておいしい。皮はしっかりしている。固くて厚い。

久之浜はいわき市の海岸部にある。それで暖かい。ミカンがなる。ミカンはいわきの北の双葉郡でもとれる。いわきの平地では、今やミカンは普通の柑橘(かんきつ)類だ。

“久之浜ミカン”は無農薬。食べたあとは皮を捨てずにとっておく。天日に干して、白菜を漬けるときに、風味用として加えるのだ。ユズとはまた違った上品な香りになる。

2010年12月21日火曜日

今年最後の満月


きょう(12月21日)の夕方、晴れていれば「皆既月食」が見られる。それを、おとといの新聞で知った。今年最後の満月でもある。

きのうの午後3時半すぎに散歩へ出たら、すでに東の空に“満月”が浮かんでいた。バックの空は青。「皆既月食」を撮影するウデは持ち合わせていない。前日の“満月”を撮ることにした。

夏井川の堤防を歩いているうちに、「満月と雲」「満月とダンプカー」「満月とハクチョウ」といった組み合わせが頭に浮かんだ。

月の近くに雲が浮かんでいる、堤防の上をダンプカーがそろりそろりと走っている、ハクチョウが“満月”をかすめるように飛んで行く――撮ってはみたものの、デジカメのモニター画面を見る限りはことごとく不出来だった。

さあ、どうしよう――。さらに“満月”に向かって歩いて行く。国道6号のバイパス終点近く、夏井川にかかる橋の下をくぐるとき、ふっと「満月と橋」を撮ろうという気になった。撮った。が、つまらない。

橋の先にいわき市北部浄化センターがある。ボイラー室かなにかの煙突らしく、先端から避雷針のようなものが天に伸びている。ちょうど“満月”を避雷針が支えるような、あるいは“満月”を今にも避雷針が刺して破裂させようとしているような――そんな「だまし絵」的写真を撮りたくなって、パチリとやったのがこれ=写真

きょうの夜明けは快晴。しかし、天気は西から崩れつつある。いわき地方も夕方から曇ってくるらしい。月食は見られるか。

2010年12月20日月曜日

東京が遠くなる


数日前、全国紙の「声」欄に「ダイヤ変更で東京が遠くなる」という投書が載った。投書の主は、いわき市の北、双葉郡大熊町に住む主婦だ。

JR東日本が2年後の2012年春、常磐線の上野―仙台間の直通列車を廃止する、と発表した。特急は特急でも、上野―いわき間の特急と、いわき―仙台の特急に分ける。で、上野まで行くいわき以北の人はいわき駅で、同じホームながら乗り換えなくてはならない。

その間「数分」とはいえ、「体にハンディを持つ人やお年寄りにはつらいことだと思います。青森まで東京から3時間20分で行ける時代になった今、私たちの住む地域から東京はますます遠くなると感じずにはいられません」と、主婦は思いをつづっている。

ドキッとした。いわき以北の人たちは心理的に“常磐線離れ”を起こしつつあるのではないか。それが現実になると予測されるから、逆に直通列車の廃止に踏み切ることにしたのではないか。

というのは――。大熊町だか富岡町だか、とにかくいわきとはそう離れていない地域なのに、東京へ行くのに常磐線ではなくて東北新幹線を利用する人がいる、そんな話を聞いたばかりだったから。

マイカーで山に向かい、国道288号に出て阿武隈高地を越え、郡山から新幹線に乗って東京へ行く。途中、わがふるさとの鎌倉岳=写真(2009年2月撮影)=をちらりと横目にしながら、車を飛ばす、ということになる。大熊・富岡町から郡山までは車で2時間強か。

なぜ新幹線か。遅くまで東京にいられるからだという。常磐線なら、いわきまでの「ひたち」は上野発最終が午後8時半(いわき着同10時50分)。ところが、郡山に止まる「やまびこ」の最終は上野発午後9時50分(郡山着同11時7分)だ。そこがいいのだそうだ。

すると浜通りの北部、相馬の人たちは仙台に車を走らせ、そこから新幹線で東京に行く、というような動きをしてもおかしくない。いや、そのうちいわきの人間まで郡山へ車で行って、新幹線を利用して東京へ行く――いやいや、そんなことは考えないようにしよう。

2010年12月19日日曜日

えさはないよ


毎朝8時前後にわが家の上空をハクチョウが鳴きながら通過する。夕方、夏井川の堤防に出ると、海の方から小グループが夏井川に沿って飛んで来る。朝、鳴きながら飛んで行くのと、夕方、海から戻って来るのとでは、どうも方角が違う。単に「空の道」を往復しているのではない。いろんなグループかいろんなところに散らばっているらしい。

鳥インフルエンザの問題が起きてから、ハクチョウと人間の間に距離ができた。夏井川の越冬地の一つ、平・塩~中神谷地内では、岸辺にネットを張るようなことはない。ただ、左岸でも土砂除去工事が始まった(右岸は間もなく終了するようだ)ために、立ち入りを禁止するロープが堤防の縁に張られている。

朝の散歩を休んでいるので、えさをやっているMさんに会うことはなくなった。今も早朝、えさをやっているのだろうか。えさをやっているとしても、8時前後に現れるハクチョウは、えさにはありつけないだろう。

夕方、というより遅い午後(4時前)、夏井川の堤防を歩く。冬至が近い。いよいよ夕暮れが早くなった。薄暮の中を歩くのは、どうも気持ちのいいものではない。で、まだ明るいうちに夏井川へ向かう。ハクチョウが三々五々、海の方から戻って来る。それを写真に撮る。

そうして戻ってきた一団が夏井川にいた。川岸のサイクリングロードに立つと、ハクチョウたちが近寄ってきた=写真。人の姿を見ると、えさをもらえるものだと思っている。私は、えさはやらない。しばらくすると、一団はあきらめてまた川の中央に戻った。

北陸で公園のコブハクチョウが死に、山陰でコハクチョウが死んだという。どうも、今度は軽く考えない方がよさそうだ。それなりに距離を保とうと思う。

2010年12月18日土曜日

湯本川


先日、いわき市常磐湯本地区をフィールドにいわき地域学會の巡検が行われた。午前中は石炭・化石館を見学し、午後は湯本温泉街の「三函座(みはこざ)」や「童謡館」を巡った。石炭・化石館から温泉街へは歩いて移動した。間に国道6号がある。

湯本川は国道をくぐって左側に沿い、やがてまた国道をくぐってJR常磐線に並行して流れる。巡検のときの、湯本川でのできごとだ。

石炭・化石館から横断歩道を渡ろうとしたら、ハト大の鳥が目に入った。チョウゲンボウだった。湯本川から隣接する調節池の方へと旋回して消えた。<こんなところにチョウゲンボウがいる>。野鳥に詳しい仲間も驚いた。

湯本川は、床上浸水対策特別緊急事業として河川改修事業が行われ、去年(平成21年)3月、竣工した。ふだんはからっぽの大きな「水の容器」(調節池)ができた。チョウゲンボウが姿を見せたということは、そこで自然の形成が進み、えさになる小動物が生息し始めたことを意味する。

横断歩道を渡ったあと、石炭・化石館の先、八仙の立体橋の手前で直下の湯本川をのぞいたら、大きなコイが4匹、悠々と泳いでいた。ウグイだろう、コイにまじって小魚の大群もいる=写真。水量は少ないが、流れは透明だ。<カワセミがいてもいいな>。そう思った瞬間、だれかが叫んだ。「カワセミだ!」

湯本川は両岸がコンクリート護岸で、雨水をすばやく流すつくりになっている。土砂の堆積した川底は、流れそのものが細い。それでもコイがすみ、ウグイがすんでいる。小魚を目当てにカワセミがやって来る。

チョウゲンボウにカワセミ。この二つが、調節池付近における湯本川の「自然度」をはかる物差しになる、といってもいいだろう。

2010年12月17日金曜日

凍る畑


きのう(12月16日)朝、「三春ネギ」を取りに夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせた。いわき総合図書館で開かれている企画展「いわきの農業――伝統農産物を次世代へ」に合わせ、あした、同図書館で三春ネギにまつわる話をする。実物を見てもらった方が早い、と考えてのことだ

遠くの山並みが灰色にけむっていた。平野部では小雨、山間部では雪らしい。小川町の扇状地を過ぎ、渓谷に入ると小雨が小雪に変わった。

南北にのびる阿武隈高地の東側を2階建ての家にたとえると、いわきの平野部は1階のリビングルーム。目の前には庭が広がる。庭の東側は池(太平洋)。無量庵のある夏井川渓谷は1階と2階の中間、階段の真ん中よりやや下あたり。2階は田村郡小野町、そして田村市滝根町。水源の大滝根山はそれを覆う屋根だ。屋根は波型スレート(小溪谷)でできている。

要するに、福島県の浜通りの川には、大地の隆起による「大きな渓谷」と、水源の「小さな溪谷」の二つがある。

それはさておき、夏井川渓谷は人の住む谷あいが標高300メートルに満たないものの、平地の感覚でいると“けが”をする。雨かと思ったら雪になって、ノーマルタイヤの車では制御ができなくなってしまうことがあるのだ。

きのうは、道路はともかく、畑がうっすら白くなった=写真。長居は禁物。すぐネギの掘り起こしにかかったら、スコップがすんなり入っていかない。表土が凍結していた。無量庵の室内にある寒暖計では氷点下4度、外はもっと低かったろう。30分も外にいると、耳たぶが痛くなり、鼻水が垂れた。

今年の三春ネギの出来はどうか。素人栽培だから、プロのつくるようなわけにはいかない。白根が人間の大人の親指大まで育ったのがA級品だとしたら、人さし指大のB級品だ。自慢できる代物ではない。が、そのことも含めて正直に失敗談を語ろうと思う。

2010年12月16日木曜日

書道展


茨城県天心記念五浦美術館できのう(12月15日)、書の展覧会が始まった。一つは書道香瓔会の「全国1万人展参加福島浜通り展」。併せて5回目の「書法探究展」も開かれている。会期は19日までの5日間だ。いわきの「書法探究」の人たちの作品を見たい、しかし週末には行けない――というわけで、初日午後に出かけた。

1人180円(夫婦で360円)で所蔵品展「煌(きら)めく屏風絵の世界」を見たあと、奥の書道展の世界に足を踏み入れた。書道展はいつものことながら、「字が読めない」ので「絵として見る」ことにしている。一字一字を見、その字の集合体を見て、たいがい感心する。自在に筆を操ることができるのと、紙が「キャンバス」になっていることに。

「書法探究」の人たちのなかでは、最もつきあいの古い田辺碩声さんの作品=写真左側=に圧倒された。脇に、どんな字なのか、なぜそれを取り上げたのか、を書いた紙が張ってある。

確か、そうした「解説」は初めはなかった。ただわけもわからず作品の前に立つだけ、作品にはねかえされるだけ――そんな印象は薄れて、「字を読めない人間」もそれぞれの作品と向き合う時間が長くなった。

で、<楚竹書>と題された田辺さんの作品だ。「春秋戦国期の新出土竹簡、とくに楚の竹簡が秘める鮮烈な生命躍動の筆相のイメージに魅かれた」とある。取り上げた漢字は23字。「魯荘公将為大鐘。型既成矣。曹沫内見、曰、昔周室之邦。魯東」。字が間違っていたらごめんなさいだが、片隅に人がいる。そこから「超大作」と知れるはずだ。

ほかの人たちも力のこもった作品を発表している。お互いに刺激しあい、切磋琢磨をする関係にあるのがうらやましい。

2010年12月15日水曜日

火の番


カミサンの実家(米穀店)で餅つきの手伝いをした。師走恒例の作業で、つきたての餅はお得意さんや知人に贈られる。歳暮は別に準備するから、「歳暮のようなもの」だ。

臼と杵でぺったんぺったんやったのでは間に合わない。蒸籠(せいろう)で蒸したのを台形の餅つき器に入れて餅にする。それを量りにかけてナイロン袋に詰める。

朝9時に着いたときには、すでに作業が始まっていた。去年も書いたが、ドラム缶を利用したマキ釡の火の番・湯の番をする。「カマジイ」だ。

マキは毎年、庭の剪定木を切って一年ねかせたのを使う。焚き口=写真=をのぞきながらマキを補給する。昼食の時間に少し休んだだけで、それを夕方4時すぎまで続けた。去年よりは時間がかかった。

火が発する力なのだろうか。マキを焚き口に投入し、ときどき炎の具合を確かめていると、囲炉裏に転げ落ちて左手をやけどしたこと(3歳)、町が大火事になったこと(7歳)などが、脳裏をかすめる。揺れ動く炎にとらわれてそこから離れられなくなる。ガストン・バシュラールに『火の精神分析』なる本があったことも思い出す。中身はとっくに忘れたが。

火に関する記憶で大火事の次に鮮明なのは、家からマッチ箱を持ち出し、家並みの外側に連なる田んぼの土手に穴を掘り、杉の枯れ葉や柴を詰めて火をつけ、煙が立ちのぼったところへ大人が通りかかり、「コラッ!」と大声でどなられた瞬間、ガキどもがクモの子を散らすように逃げたことだ。町が大火事になる前の、記憶に残る最初の「悪さ」。

身を焦がすほどの目にあい、火をつける快感にふるえ、しかしそうした出来事を今は遠く回想するところにいる。マキの炎は、静かに、ゆっくりたゆたっていた。

2010年12月14日火曜日

続・湯本巡検


きのう(12月13日)の続き――。いわき地域学會の巡検が土曜日、いわき市の常磐地区で行われた。午前中は石炭・化石館を見学し、昼食をすませたあと、湯本温泉街を巡遊した。国の登録有形文化財である「三函(みはこ)座」をのぞき、温泉神社を経て、野口雨情記念湯本温泉童謡館を見学した。最後は童謡館隣の広場で「足湯」につかった。

「三函座」へは初めて足を運んだ。通りから奥に入るのだとは聞いていても、どこから入るのかがわからなかった。白石菓子店のわきの細道を進むと、奥に映画のセットを思わせるような、大きな建物が見えてくる。それが、明治30年代に芝居小屋として建てられ、大正7年から映画館に変わり、昭和57年に閉館した「三函座」だ=写真

中は真っ暗。足元がおぼつかない。この歴史的建造物を利用して、12月24日(クリスマスイブ)午後、現代アートフェスティバル「三函座物語」が開かれるそうだ。多彩なイベントで「三函座」の空間は師走のひととき、「空虚」から「充実」に変わる。

「三函座」の建物は、今は白石菓子店の所有物になっている。旧知のご主人にあいさつし、帰りに再度店を訪ね、修学旅行生よろしく集団で「かりんとうまんじゅう」と「みそまんじゅう」を食べた。歩きながら食べたかったが、そこは我慢して、店の前でもぐもぐやった。うまかった。街歩きの楽しさでもある。

童謡館では、野口存弥著『野口雨情 郷愁の詩とわが生涯の真実』を買った。日本図書センターが刊行するシリーズ「人間の記録」172で、今年1月に出た。雨情の子息の存弥さん(近代文学研究家)が編集した。

なかに、「茨城少年社 野口英吉」(雨情)から東京の抒情詩社主内藤鋠策にあてた、大正9年2月15日消印の書簡がある。前年の8年6月、雨情は詩集『都会と田園』を刊行し、詩壇復帰を果たした。旧知の内藤が水戸を訪れ、雨情に上京を促す。その上京間際の様子を伝える。

梅が満開になったら知らせるから観梅にどうぞ――。「長久保君もゼヒにと申してお待ち致して居ります。太田、椙本(すぎもと)両氏も健全であります。椙本氏は相変らずです」。「長久保君」とは茨城民友社を興し、雑誌「茨城少年」を発行していた長久保紅堂で、雨情は雑誌の童謡欄の選者を務めた。「茨城少年社」はつまり、茨城民友社のことだろう。

「太田、椙本両氏」は同僚か。このうち「椙本氏」は、のちに東京日日新聞平通信部記者になる「椙本氏」と思われる。「椙本」記者は、いはらき新聞平支局に入った荒川禎三記者に、水戸時代、雨情と職場を共にしたことを明かしている。ただし、荒川氏の文章では、職場は常総新聞社であって茨城民友社ではない。雨情の書簡でそのどちらか、さらに雨情推理の幅が広がった。

2010年12月13日月曜日

湯本巡検


いわき地域学會の巡検がおととい(12月11日)、常磐地区で行われた。参加したのは十数人。石炭・化石館に集合し、見学したあと、国道6号、湯本川、JR常磐線をはさんだ反対側、温泉街に徒歩で移動した。古滝屋で昼食をとったあとは「三函(みはこ)座」をのぞき、温泉神社を訪ね、野口雨情記念湯本温泉童謡館を見学した。

地域学會の巡検の面白さは、どこへ行っても即座に会員(参加者)が適切な説明をしてくれることだ。巡検担当者は化石や岩石に通じている。石炭・化石館では、彼が事細かに展示物を解説した。途中、石炭採掘の模擬坑道では別の参加者(会員)から詳しい説明を受けた。

クジラにも耳石がある。壁面に展示された400万年前の「イワキクジラ」の化石の前で、彼が「これ」と指さした。耳石はテニスボウルほどの大きさだ。そのそばの天井に現代のニタリクジラの骨格が展示されている。今も骨から脂が滴るのだという。見ると、骨の一部が茶黒く濡れている。指摘されなければわからない事実だ。

前にも書いたが、石炭・化石館の売りは実物の翼竜化石があること。この化石を見るために、海外から研究者がやって来る。「ザ!鉄腕!DASH」でTOKIOのメンバーが掘り出し、寄贈した首長竜の化石も展示されている。

本館からフラガール資料館のあるウッドピアいわきの前庭が見える。「岩石庭園」=写真=だ。石の配置になにか決まりがあるのか、ただ置いただけなのか――女性たちとそんな会話をしたあと、庭へ出た。ちゃんと理由があった。いわきの地図をイメージしたつくりになっていて、石の置かれたところがその石の産地になっているのだという。なるほど。

いわきの大地のなりたち、現在のすがたを、石炭と化石から再認識した。

2010年12月12日日曜日

ネズミモチ


散歩コースのなかに「草野の森」がある。国道6号の常磐バイパス終点、「神谷(かべや)ランプ」に設けられた“森林公園”だ。いわきの平地の潜在植生である照葉樹が植えられてある。大きいものでは3メートル前後にまで生長した。

阿武隈高地で育った人間には、知らない木ばかりだ。むろん、長くいわきに住んでいるので、タブノキ・アカガシ・アラカシ・ハマヒサカキといった名前は承知している。が、具体的なイメージが形成できない。ときどき、「草野の森」と向き合い、標識盤と照らし合わせて実物を目に焼きつける。

小高木のネズミモチも、そうしてやっと頭にイメージが浮かぶようになった。そもそも名前の由来が分からない。初夏に白い花をいっぱいつける。それはこの目で確かめている。今は黒っぽい果実がわんさとついている=写真

この果実がネズミのフンに似ていることから、さらに葉の質感がモチノキに似ていることから、「ネズミモチ」という和名がつけられたという。

それにしてはずいぶん大きな「フン」だ。小豆大である。夏井川渓谷の無量庵にはノネズミが出没する。畳の上に残る黒いフンは楊枝の先端2ミリくらいの小ささだ。

その比較から、ネズミモチの名前のもとになったネズミのフンの排泄主はドブネズミではないのか。昔は人家の内外にすんでいた。よく目撃された。その連想からだが――。どうってこともないことが、いつも気になる。その一つがネズミモチだった。

2010年12月11日土曜日

「迎い酒」


筑摩書房で草野心平の担当編集者だった晒名昇さんが、のちにたずさわった『草野心平日記』(全7巻・思潮社)にからんで、2004年の「現代詩手帖」6月号に掲載された鼎談のなかでこんなことを言っている。

「先生の独特の声と少し尻上がりのイントネーションは、まさしくいわきのイントネーションなんですね。/『え』と『い』の入れ違いがいわき方言だろうと思いますが、これを直してしまうと標準語みたいになってしまう。日記では『迎え酒』が八割以上『迎い酒』なんですね。しかも迎えるだけではなくて、『向かい酒』というのもある」

「迎い酒」は正しくは「迎え酒」なのか。心平と同じ福島県の人間として、「迎い酒、迎い酒」と何の違和感もなく言ってきたのだが――驚いた。いわき市立草野心平記念文学館=写真=の「年報」によれば、同文学館での講演でも晒名さんは同じような意味のことを語っている。

で、辞書に当たったら、辞引きとしては「迎え酒」しかなくて、「二日酔いの気を発散させるために飲む酒」(広辞苑)とあり、「迎い酒」は「ともいう」程度の二次的な扱いだった。別に間違いではない。が、「正」と「副」くらいの違いはある、そういった認識は必要だ、ということなのだろう。

先日、何年ぶりかでほんとうの朝帰りをした。カミサンが言うには、午前6時ごろ(東の空が白み始めていたが、まだ薄暗い)の帰還だったらしい。寄り合いがあり、知人と2次会に行き、そこに別の知人がいて、同じ寄り合いに出た愚息があとから合流した。

一人は電車の時間だからと言って午後10時前に帰り、残る3人で議論が始まった。そこからあとの記憶がない。

翌日は一日中、こたつにもぐって本を読んでいるふりをした。完全な二日酔いだ。宵になったので酒に向かうことにしたら、冷たい視線に射抜かれた。が、「向かい酒」をやったおかげで、不快感はほぐれた。単に頭をマヒさせるだけでも気分的にはプラスになるので、「迎い酒」はやめられない。

わがいわき市の若い市議が酒気帯び運転で事故を起こし、現行犯逮捕をされた(のちに辞職)。そのニュースに接して、「『体調不良』を理由に開会中の師走議会を休めばよかったのだ」と思ったが、それでは議会軽視になる。やはり、議会開会中の深酒はまずい。自覚が足りなかった。

2010年12月10日金曜日

田村地方の方言


乃南アサの書き下ろし長編小説『地のはてから』(上下2巻)=写真=を読んでいたカミサンが、「田村地方のことばのようだよ、『神俣(かんまた)駅』も出てくるし」と言って、移動図書館から借りた本を差し出した。

大正6年早春、「福島県の神俣」=現田村市滝根町神俣=から、ある一家が夜逃げをして北海道へ渡る。そのとき3歳だった幼女「とわ」が主人公で、大正から高度経済成長期前の昭和33年までの「とわ」の半生が描かれる。両親が田村地方の方言を使っているから、「とわ」も当然、同じ方言を話す。一家の「田村弁」が見事なほど正確に表現されている。

「とわ」の父親「作四郎」は農家の四男坊。家業をろくに手伝いもせず、結婚してからも落ち着かない。家を空けがちな「作四郎」に対して不安がる「とわ」の母親「つね」に、義兄嫁が語って聞かせる。まだ「とわ」が生まれる前、神俣で暮らしていたときのこと。

「あの人(しと)は昔(むがし)がら、何しゃでもかぶれやすいどごあっから、んだげんとも、おなごのけつぺだ追っかげるっちゅうわげでもねぁんだがら、あんまり気に揉まねぁで、うっちゃっておぎんせぁ」

小説に登場する最初の「田村弁」だ。同じ田村地方で生まれ育った私の母の顔が脳裏に浮かんだ。母は大正4年生まれ。「とわ」よりは1歳年下ということになるが、母の同世代の人たちは確かにこんなことばを使っていた。今も使っているだろう。

郡山市在住の方言研究家に力添えをいただいたと、あとがきにあった。大変な努力をして小説がなったことが分かる。

大正時代の北海道移住といえば、いわきの詩人猪狩満直もその一人だ。義父との確執を抱えていた満直もまた、夜逃げ同然に家族を連れて北海道へ渡った。北海道の厳しい自然とよく闘った、しかし敗れた――としかいえないような、40年の短い生涯。

阿武隈高地を挟んでいわきと田村は向かい合う。「神俣」の架空の一家の運命に、満直の生涯が重なる。

2010年12月9日木曜日

冬の眠り


11月は夏井川渓谷で、週末ごとに用事や行事があった。7日は吉野せい賞の表彰式がいわき市立草野心平記念文学館で行われた。その帰りに、選考委員の一人を渓谷の無量庵に案内した。14日は「紅葉ウオーキングフェスタ」の案内人として、20~21日はミニ同級会の幹事の一人として、渓谷で過ごした。

ミニ同級会は「紅葉を愛でる会」が建前。でも、紅葉がどのくらい残っているか心配だった。7日には確かに、無量庵の対岸は錦に染まっていた。14日は、まだ紅葉が輝いていた。20日はだいぶ紅葉が散り、しかしカエデが燃え上がるほどではなかった。そのカエデも、28日になると散り始め、12月5日にはあらかた散っていた。

夏井川渓谷は冬の眠りに入ったといえるだろう=写真。となれば、景色はいよいよ単調になる。常緑樹のアカマツとモミ、これが黒っぽい緑色を線描しているとしても、葉を落とした森の印象は草木灰を塗りかためたように殺風景だ。いや、それこそが渓谷の冬のやすらぎの象徴なのだ。光は林床に注ぐ。視線は遠くまで届く。木々は静かに眠る。

「春から夏にかけて/芽を出し、枝をひろげ/花を咲かせた樹木が/いま、別れを告げようとしている。/生命の奔流は丘をくだり/黄昏の寒い灰色の/死の季節がやってくるから/自分自身と世界とに別れを告げるときがきた、/生命の一循環を終えたのだから/生れかわるためには、死なねばならないと、/根が考え、幹が感じている。/そうして、秋風に身ぶるいして/落葉の雨を降らせている。」

夏井川渓谷の殺風景のなかに身を置き、鮎川信夫の短詩「落葉樹の思考」を思い浮かべる。その一方で、平地のわが家では歌舞伎俳優をめぐるテレビのワイドショーから目が離せない。なにかがこわれかけているのではないか――。言葉にはならない,「前意識」とでもいうべきところで、身ぶるいするようなものを感じている。

2010年12月8日水曜日

シロシメジ


「ヒラタケがいっぱいあるよ」。日曜日(12月5日)朝、無量庵(夏井川渓谷)の庭をめぐったカミサンがいう。半信半疑ながら、カメラを手に押っ取り刀で“現場”へ向かう。

庭木はすべてチェックしておいた。ヒラタケは出ていなかった。見落とした木があるのだろうか。「ここ」と教えられたところは、わが菜園のそばの地面だ。確かに、キノコがいっぱい生えている。が、ヒラタケではない。ヒラタケ同様食べられるが、地上性のシロシメジ=写真=だ。食菌でなかったら……(怒っていたかもしれない)。

灯台下暗し。無量庵の庭に発生するキノコはそう多くはない。が、この15年余の記録をみると、結構な種類になる。食菌だけでいえば、ヒラタケ、アミガサタケ、ツチグリ(幼菌)、エノキタケ、アカモミタケ、オオチャワンタケ、ヒトヨタケ。ハルシメジかな、と思っても手が出なかったものもある。

シロシメジは地面を破り、落ち葉をかぶりながら、枯れ草にまみれて菌列をつくっていた。と、自信をもって言っているように聞こえるが、師走にシロシメジを見るのは初めてだ。シロシメジを採ったことはない。もらって食べたことが一度、現場で教えられたことが二、三度あるだけ。

採って、ごみを取り、ゆでて水にさらし、少し炒めて食べた。その前に、根元がじくっと膨らんでいること、ひだが密で湾生していることを確かめた。ゆでて水にさらしたので苦みはそう気にならない。歯ごたえがある。それが持ち味らしい。思わぬ初冬の贈り物だった。

2010年12月7日火曜日

カメムシめ!


カメムシとテントウムシは、ふだんは人がいないのをいいことに夏井川渓谷の無量庵で大量に越冬する。1週間に一度しか雨戸を開けないために、真冬になると、雨戸と溝のすきまにテントウムシがびっしりひそむ。が、今はまだ室内に散在しているだけ。どこにいるかはむろん、分からない。

ふとんを干す。物置のゴザを表に出す。寒ければ石油ストーブに火をつける――と、カメムシがぼろぼろ現れる=写真。いつの間にか、室内にある座布団や押し入れのなかのふとんにしのびこみ、あるいは物置のゴザのすきまに群れて眠っているのだ。

「虫の王国」に人間が入り込んだのだから、それはしかたがない。と、思いつつも、なんだこの数は! 多すぎる。<こらっ>なんて軽くやってしまうと、大変だ。たちまちカメムシは「ヘクサムシ」に変身する。しばらく手に悪臭が残る。

カメムシを見たら、できるだけほうきで外に出す。というのは、上品な方だ。そんな余裕はない。手ではじく。足でさらう。悪臭の噴射を避けるにはそれしか手がない。

師走最初の週末は快晴だった。カメムシも汗ばむ陽気に元気が出たのだろう。無量庵に入り込んでいた1匹が荷物にまぎれこんでいたかして車にしのびこみ、平地のわが家について来た。日曜日(12月5日)夕方、あがりかまちの小さなマットにしがみついている。招かざる客だ。すぐ出てってもらった。

2010年12月6日月曜日

街中朗読会


先週の金曜日(12月3日)午後、いわき市の「アリオス」音楽小ホールでいわき絵本と朗読の会の「第7回街中朗読会」が開かれた=写真。親しくしている知人が2人出演するので、夫婦で出かけた。3部構成で、1部は<「吉野せい」の文学――魂を揺さぶる百姓女」>。2部は<夫と妻と>、3部は<郷愁>だった。

朗読会に先立ち、テープからCDに再録された吉野せいの肉声が披露された。せいが『洟をたらした神』で田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのは昭和50年。その年、高校の女子生徒が吉野せいにインタビューをした、その記録だ。

生徒が質問する。せいが答える。<生活は貧しかったが、環境はよかった。山村暮鳥をはじめとする人たちに恵まれた>。「環境」とは、暮鳥その他の「人のつながり」のことをさしている。

インタビューそのものが35年前、その時点でせいが60年近く前、現在の時間からいえば90年以上前のことを語っている。キレのいい言葉で、よどみなく。

同じ年、私も仕事で会って話を聴いた。外見は「百姓バッパ」だが、言葉は若々しく張りがあった。明晰だった。いや、それ以上に「古武士」のように凛としていた。この人はすでに少女時代から社会に対して鋭い認識をもっていたのだ、とCDを聴きながら思った。

2010年12月5日日曜日

雨過天晴


陶磁の理想の色は「雨過天晴雲破処」にあるという。<雨過ぎて雲破れる処>に青空がのぞく。その青はうっすらと緑がかっていたり、明るい水色だったりする。青磁はそこから生まれた。

詩人の佐々木幹郎さんのエッセー集『雨過ぎて雲破れるところ――週末の山小屋生活』(みすず書房)を読んで以来、雲の切れ間の“青磁色”が気になりだした。「青の青磁」より「緑の青磁」が好きなので、雨上がりには雲の切れ間に「緑の青磁色」を探す。

なかなかそんな色には出合わない。出合えばカメラを持っていなかった、あるいはカメラを持っていても車を運転中、といった具合で、これぞというものをパチリとやったことはない。移りゆく自然を相手にするわけだから、ただひたすら待つだけだ。

この秋、台湾へ出かけた折、国立故宮博物院を見学した。若い観光ガイド君の熱のこもった解説に感心しながら、名品の数々を見た。陶磁器のコーナーでは、「雨過天晴雲破処」の逸品に出合った。青磁の最高峰だという。

あとで故宮博物院のHPをのぞいたら、「青磁無紋水仙盆」の解説にこうあった。「湿潤で趣深い色合いは、正しく宋人が求めてやまなかった、雨上がりの空の青の如く明るく静けさに満ちた美しさである」

さて、冬の低気圧が暴風雨をもたらした12月3日午後、雲の切れ間にうっすら緑がかった青空がのぞいた。ちょうどカメラを手に街を歩いていたので、撮影した=写真。写りはいまひとつだが、私の腕ではこんなものだろう。むろん、いい青磁色が現れるならば、これからも写真は撮り続けるつもりだ。

2010年12月4日土曜日

冬の狂風


冬の低気圧がおかしい。台風並みに発達してあちこちに被害をもたらす。それだけではない。日本でもこのごろは、「竜巻」がたびたびニュースになる。きのう(12月3日)も、新潟市の高校が突風に見舞われ、それは竜巻だろうが、窓ガラスがビシビシ割れてけがをした生徒がいた、とテレビが伝えていた。

なんだろう、この狂暴さは――。北半球だから、台風は南から来る。低気圧は西から来る。南から来る台風には、それなりの備えができる。それが縄文・弥生、あるいはそれ以来の「歴史的警戒心」になったはずだ。が、この4、5年、いや10年かもしれないが、西から来る低気圧が過激になった。

狂暴化する冬の低気圧については、前にもこの欄で書いた。で、こんなことも思う。まさか北半球から台風が孵化して南に向かうようなことはないだろうな。地球の自転による西から東への天気の流れ、例えば冬の気圧配置「西高東低」が「北高南低」にならないだろうな……(地球温暖化による、そんな気象の崩れを、昔、本で読んだ)。

きのう夕方、低気圧が通過して晴れた合間に、夏井川を見に行った。街への行き帰り、夏井川の堤防を利用する。散歩にも利用する。街からの帰りに増水した夏井川を見、それを確かめに散歩へ出たのだ。

サケのやな場が水没していた=写真。水かさは増していたが、台風のときのようにアップアップするほどではない。要は風だ。冬の風が狂暴になってきたのだ。竜巻に注意しなければならなくなった

2010年12月3日金曜日

落ち葉の色


少しずつ「積ん読」本のチェックを続けている。捨てるのではない。読み直そうという気になったのだ。何日かおきにそんなことをしている。私が買った本は、一部を除いてわが家に埋没している。1階、2階、離れ、階段……。息子に片づけられたり、カミサンが物を置いたりして、寝室と階段を除いてほとんど本が見えなくなった。

そんな状態だから書斎などあるわけがない。いつも茶の間でキーボードをたたいている。でも、もう限界だ。本を救出しなくては、と思い立ったのだった。

すると、ある本に昔のメモが挟まっていた。1992年11月15日の日付がある。18年前ということは、夏井川渓谷の無量庵へ通い始める前だ。わが家の近くに石森山がある。そこへ足しげく通っていた。石森山で紅葉の色を“取材”したときのメモらしい。

本の題名は忘れたが、色の事典を携えていたはずだ。いちいち事典と照らし合わせて、紅葉あるいは黄葉に近い色を書き込んだ――そんなことを思い出した。

たとえば、ヤマボウシ・ソメイヨシノ・カエデ=海老(えび)色、クヌギ=櫨(はじ)色、ニシキギ=緋(ひ)色、ユリノキ=黄金色、といった具合。草の色も書き留めてある。「草の一種」(名前を知らないから)として、バーミリオン、深紅、赤、茜色、雄黄(ゆうおう)色……。

個別・具体の即物精神、つまり「事実」に徹しようとすれば、そういうことが必要になる。40代前半の私は自然に学ぶのが楽しかった(今も楽しい)。

――5日前、夏井川渓谷の無量庵へ出かけた折、濡れ縁の浅鉢にどこからかカエデが飛んできて水に沈んでいた。カミサンが「きれい」といって、私のカメラで写真を撮った。それは削除して撮りなおしたのがこれ=写真

瓦の葺き替え工事を頼んだのはいいが、雨樋の工事がいい加減だったために2カ所から水が垂れる。雨のときはひどい。霜も朝日に照らされると、チッタン、チッタンやる。で、雨垂れ対策に濡れ縁にバケツと浅鉢を置いてあるのだ。

その浅鉢に着水した鮮やかなカエデの葉だ。昔のメモが出てきたときに、ふと5日前のカエデの葉を思いだした。人間はいかに自然からインスピレーションを受けていることか。そんなことをあらためて思ったのだった。

2010年12月2日木曜日

週末農家


きのう(12月1日)のNHK「クローズアップ現代」(“週末農業”200万人 変えるか日本の農)を見て、溜飲が下がった。

11月下旬に夏井川渓谷の無量庵で「ミニ同級会」を開いた。飲むほどに、酔うほどに話が展開して、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)のことも話題になった。

私は週末だけの家庭菜園、つまり「趣味としての農の営み」しかしていない=写真(ある年の夏の収穫物。キノコは除く)。が、その裾野の広がりはだいぶ前から実感している。統計に載らない、こうした「趣味としての農の営み」が「業としての農の営み」をカバーできるはず――私はこの20年近く、そう思って文章にもしてきた。

「TPPには反対、日本の農業がつぶれる」。私が言うと、すかさず同級生から反論された。反論の中身は覚えていない。飲みすぎて、翌日きれいに忘れたので。要は、私の論理は通用しない、ということだったのだろう。

菅首相がTPPを言い出したときには、「それ、何? あんたがそんなことを言うの」と違和感を抱いた。市民運動の「出自」を忘れてしまったのか、と。

わが同級生が反論したのは、たぶん菅首相同様、グローバルな思考が身について「しまった」からだと思う。大手企業、つまりあらかた輸出産業のなかで生きてきた。それが、思考の根っこの一つにあるに違いない。日本の経済の本質を考えよ――。だが、食糧自給率も考えよ。これは経済を超えた問題だろう。

産業としての農の営みではなく、生き方としての農の営みを少しでも経験していれば、また違った反応があるはず。

業にはならない営みが推計200万人のレベルになれば、業を支え、さらには新たな業を生む、ということも知った。「ミニ同級会」以後、ぐずぐずしていた思いが「クローズアップ現代」を見て晴れたどころか、間違いないという確信を持ったのだった。

2010年12月1日水曜日

ムクドリ


私の住むまち(いわき市平中神谷)には、ムクドリのねぐらになるような街路樹はない。が、ねぐら入りをする前にみんなで集まって一休みしよう、という場所はあるようだ。

夕方、散歩をして家に戻りかけたとき、ムクドリが一本の電信柱をめがけて現れ、次々に電線に止まった=写真。止まり方が、まるで定規で計ったように等間隔だ。こういう生きもののデザイン性にいつも感心させられる。

ムクドリは、わがウオッチングの範囲内ではいわき駅前のケヤキ並木がねぐらだ。夕方になると、「空飛ぶイワシ」よろしく、大群が続々と現れ、飛びながら「トマト」の形になったり、「スイカ」になったり、「キュウリ」になったりしたあと、わらわらとケヤキに舞い降りる。よくもぶつからないものだ。

ケヤキにまだ茶色がかった葉が密生していたころの話――。たまたま孫を連れていわき駅前の「ラトブ」に入り、2階からペデストリアンデッキに出たら、ムクドリの大乱舞が見られた。「見ろ、あれ。ムクドリだ」と3歳の孫に言ったが、むろん分かるわけはない。孫はちらりと見ただけだった。

が、その「ちらり」が幼児には刻印されるらしい。後日、孫の守りをしていたとき、「ラトブ」の話になった。「いっぱい鳥が飛んでいたね」と言ったのには驚いた。大人が思う以上に、幼児は深く事象を記憶している、ということだろう。

ラトブの前の歩道にあるベンチは「フン害防止」のため、座れないようにカバーがしてある。わが家の近所では「フン害」の話は聞かない。

それより、電線に密集したムクドリたちをながめているうちに孫の言葉を思い出して、<幼児といえどもごまかせない、いいことも悪いこともちゃんと見ている>と自分に言い聞かせたのだった。