2022年8月31日水曜日

シンテッポウユリ

 細く長く清楚な白色。しかし、爆発的な繁殖力も持ち合わせている。シンテッポウユリ=写真。いわき地方では月遅れ盆の前後から目立つようになる。

 テッポウユリ(九州南部や沖縄などに分布する在来種)とタカサゴユリ(台湾原産の外来種)の交雑種だという。

初めて気づいたのはいつだろう。35年はたつのではないか。5年前に書いた文章があるので、それを抜粋する。

――山を削って道路ができる。と、8月中旬以降、切り通しに白い花が咲き出す。その数がハンパではない。わが生活圏では平・草野の農免道路、常磐道、国道6号常磐バイパス(現国道6号)。最近では近所の道端、側溝、住宅の庭や生け垣でも見られるようになった。

 ある意味では侵略的な植物だ。見つけたら抜き取り・刈り取りをするのが基本だが、つい白花の清楚さに惑わされて見守ってしまう。すると、花が咲いたあとにものすごい数の種が風に飛ばされ、あちこちで根づき、花が咲いてまたものすごい数の種を散らす。

そうして日本列島を北上しつつあるのだろう。福島を通り越して宮城県まで分布の範囲を広げている。

異常な繁殖力に気づいて、旧知の植物研究者に聞いたことがある。「タカサゴユリは8月の下旬から9月にかけて開花する」。その性質を受け継いでいる。

「翼を持つ種が風にのって多数飛散し増え続け、飛んできた種子が根をおろして球根を形成し何年もその場所で咲き続ける。広範囲に一斉に開花し見事な景観を呈する」

 今は「何年もその場所で咲き続ける」意味が少しわかってきた。「何年かはそこで咲き続けるが、やがては姿を消す」ということでもある。平・草野の農免道路の切り通しでは、今はほんの少ししか見られない。

“連作障害”が起きて、球根が枯死するらしい。そのころには木々や在来の草も茂るから、新しい種が飛んできても根づく環境ではなくなっているのだろう。「旅するユリ」といわれているそうだ。

 わが家でも、2016年、生け垣のたもとにシンテッポウユリが芽生え、花を咲かせた。翌年も同じところから芽を出した。ほかのシンテッポウユリは地べたから30センチくらいのところで咲いているのもあるが、わが家のシンテポウユリは背が高い。九つあるてっぺんの蕾まで2メートル30センチはあった。花が咲いたらすぐ切って部屋に飾り、しおれたらごみ袋に入れて始末する――。

 さて、今年(2022年)はわが家の庭からシンテッポウユリを駆逐することにして、芽生えたらすぐ引っこ抜く作戦に出た。

 ところが、家(米屋)の前の「犬走り」で丈の低いシンテッポウユリが咲いていた。カミサンは「きれいだから」とそのままにしている。南隣の義弟の家の玄関前にもシンテッポウユリが咲いている。そちらまでは目が届かなかった。店の方は蒴果ができかけたので、根ごと引っこ抜いてごみ袋に回収した。 

2022年8月30日火曜日

雨の日曜日

                     
 日曜日(8月28日)の天気予報は「雨」「夕方から晴れ」「ところにより昼前まで雷を伴う」だった。

 このごろは「超」がつくほど早寝・早起きになった。日曜日もそれで4時過ぎには起きた。夏至から2カ月余り。部屋も外も暗い。季節は間違いなく秋に移っている。

 雨はやんでいた。ところが、4時53分ごろに雷鳴がとどろいたと思ったら、また降り出した。庭の車も激しく雨に打たれている=写真。

 5時27分、頭上で一発ドカンと鳴った。どこかに雷が落ちたようだ。それからはずるずると、降ったりやんだりが夕方まで続いた。

 日曜日は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。雨ではそれができない。行くのをあきらめた。

午後には行政がらみの行事がある。こちらは雨が降ろうと降るまいと、憂き世の義理として参加しないといけない。

雨が降らなければ、午前中は隠居で過ごし、午後の早いうちに街へ戻る――そんな予定を立てていたのだが、しかたがない。

 それでも、気持ちの上では余裕があった。理由は簡単だ。前日の土曜日、しかも午前。所属しているいわき地域学會の“仕事”を終えたからだ。

 9、10月の市民講座案内はがきを印刷し、宛名ラベルを張って投函する。原稿づくりは私。パソコンを動かして印刷するのは若い仲間だ。

金曜日に「8月27日にやるか、1週間後の9月3日にするか」聞くと、8月27日の「午前10時から」という答えだった。実はその日なら午後、1週間後でも間に合うと考えていたので、この「前倒し」はうれしかった。

それで土曜日の昼前には印刷・ラベル張りが終了し、近くのポストに投函することができた。当面の宿題が済んで、土曜日の午後はたっぷり自分の時間になった。

それとは別に、気がかりなことが一つあった。新しいパソコンの起動に時間がかかりすぎる。ボタンを押しても一発で画面が現れない。

息子に連絡してきてもらったのが金曜日。「シャットダウンをしないのがよくない」という。で、そのつどシャットダウンするようにしたら、一発で起動するようになった。

その延長での雨の日曜日だったので、午前中はもっぱら他人の文章読みに費やした。毎日それを続けているので、ようやく先が見えてきた。ゴールまであと少し。

なんでもそうだが、地道に少しずつ、しかない。そのなかで「先送り」になりがちな仕事が「前倒し」で終わった爽快感が、意外と長く胸中に残った。

そして、翌月曜日。朝から晴れたため、一日遅れで夏井川渓谷の隠居へ出かけ、1時間ほど土いじりをした。これだけでも気持ちに落ち着きが生まれる。

2022年8月29日月曜日

「国家と私」

           
 今はヤルタ・クリミア・ウクライナ、だろうか。クリミア半島のヤルタは黒海に臨む保養地として知られる。そこで1945年2月、「ヤルタ会談」が開かれた。

 アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が、第二次世界大戦の終戦処理問題を話し合った。

 その結果、ナチス・ドイツの分割、連合国諸国の占領地区が決められ、ポーランド、ユーゴスラビア、東南ヨーロッパに新しい国境線が引かれた。

 さらに、ソ連は対日宣戦布告をする代償として、満州の鉄道、樺太・千島列島を取り、極東アジアへの支配権を手に入れた。

 評論家の『鶴見俊輔コレクション3・旅と移動』(河出文庫、2013年)=写真=の中に、「国家と私」というエッセーが収録されている。

 冒頭の内容を含む「国家と私」を読んで、ソ連による南樺太占領、シベリア抑留がヤルタに発していることを再認識した。

 「国家と私」はしかし、国家指導者の「病気」と「悪」が主題といってよい。まずは、病気。ルーズベルトは当時、「アルヴァス病」(この病名が判明するのは1970年)にかかっていた。

 彼は脳の動脈硬化症が進行中だった。脳の小動脈瘤が繰り返し破裂していた。そのつど言語障害がおこったり、一時的に意識がもうろうとなったり、筆跡が変わったりした。

 これに注目したのがスターリンだった。ルーズベルトとの首脳会談を延ばしに延ばし、とうとう自分たちの領地であるヤルタでの会談を決める。

 チャーチルを含めた三巨頭会談では、ルーズベルトは会議の合間にしばしば居眠りをした。チャーチルが書類を回しても、読みもしなかった。結局、ルーズベルトは大事な結論をすべてスターリンに譲ってしまったという。

 トップがそんな状態だったのに、国民と各国政府には、これらの決定は「きわめて熟慮された誤りないもの」だと伝えた。

 「政府・官僚が一体となって、指導者の決めたのは無謬の政策であるというしきたりができている。それは社会主義国になろうが、資本主義国であろうが、どちらも変わりなく進めているという事実を、私は問題にしたい」

 「国家と私」は1978年の講演を文字起こししたものと思われるが、40年余りたった今も、この見解は有効だと私には思われる。

 それと、もう一つ。指導者の悪について。これこそが「国家」と「私」の違いでもある。「私には彼ら国家指導者ほどの悪をなしえない」。その最たるものが戦争だろう。

 この違いはどこからくるのか。一つは「使えるカネの規模」、もう一つは「使える物理的暴力の規模」。今起きているロシアのウクライナ侵攻を考えればよくわかる。

そのために、「かれら国家指導者たちはラジオやテレビを最大限に利用して、ひたすら宣伝効果を高めようとする」。平時からメディアに干渉するのも、根は同じだ。「無謬」を盾に言論は統制される。その実例を私たちは目の当たりにしている。

2022年8月28日日曜日

柿の木が垂れる

                              
 わが家の庭の柿の木は、今年(2022年)、生(な)り年だ。枝の先まで青い柿の実をびっしりつけている。

 手入れも何もしないので、毎年、実がたくさん生るということはない。1年おきに実が「少し」「いっぱい」を繰り返している。

 前に書いたが、今年は下生えのミョウガやホトトギスその他の草がびっしり生えている。樹下だけでなく、樹上もにぎやかだ。

 その柿の木の枝が1本、折れて宙ぶらりんの状態になった=写真。正確にいうと「折れて」よりは「裂けて」に近い。朝起きて見ると、垂れさがっていた。枝先には青柿がびっしりついている。

 これまで庭木が突然おかしくなることは、ないわけではなかった。何年か前、爆弾低気圧が通過したとき、わが家の南隣にある義弟の家の庭木が傾いた。根が浮いたので始末した。

 庭のプラムの木も、二股に分かれている幹の一方がサルノコシカケ系のキノコに冒されたため、分かれ目から切断した。

 柿の枝がなぜ裂けたのか。原因はわからない。大風が吹いたわけでもない。雷? もちろん、落ちなかった。

 すると――。小さな行為が大きな現象を引き起こす、とでもいうか。「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか」という気象学者の問いかけを思い出した。「バタフライ効果」とかなんとかいわれているのを若いときに読んだ記憶がある。

それに似た妄想。2年前、後輩が庭の木を剪定してくれた。さっぱりした。去年はそれで生長が抑制された。そして生り年になった今年。

前からあった細い枝にエネルギーが集中し、枝の耐性ぎりぎりまで実が生って重くなった。そこへ、地中に眠っていたセミの幼虫が次々に地上に現れて羽化し、アブラゼミかミンミンゼミの1匹がたまたまこの枝に止まった結果、耐性の限界を超えて枝に亀裂が入って折れた――。

むろん、これはバタフライ効果の借り物にすぎない。が、妄想は妄想なりに、いかにもそれらしく書いたら、ちょっとした物語になるかもしれない。ショートストーリーとか童話とかは、そんな発想から始まったりするのではないか。

垂れた枝の葉は、3週間がたった今もあおあおとしている。樹液の通り道は切断されていないようだ。

繁茂する下草に圧迫感を感じたのか、カミサンが先日、茶の間に近いところを刈り払った。勝手に生えてきたシソの葉が主だったが、今年の梅雨は雨がごく少なく、それで葉が硬いため、摘んで食べても歯ごたえがイマイチだった。

おかげで風通しと見通しがよくなった。垂れた枝を取り除くのは、葉が枯れてからでもいいだろう。

2022年8月27日土曜日

ウクライナ戦争の小説

                                
 日本人の高2少女を主人公に、ロシアのウクライナ侵攻を題材にした小説がある。松岡圭祐『ウクライナにいたら戦争が始まった』(角川書店、2022年)=写真。

 図書館の新着図書コーナーにあったので、借りて読んだ。ロシアの侵略直前、そして直後の状況を生々しく描いている。

 少女は瀬里琉唯(せり・るい)。福島県南相馬市で暮らしていた。中2の妹(梨央奈=りおな)がいる。

 父親は電力会社に勤務している。ウクライナのチェルノブイリ博物館で福島第一原発事故の企画展示が行われており、その担当の一人として現地に長期出張中だ。

 姉妹は2022年の3学期だけ私費留学をすることになり、母親とともに1月前半、ウクライナへ渡った。

首都キエフの郊外、ブチャ市に父親の住まいがある。そこで暮らし始めて間もなく、ロシアが仕掛けた戦争に巻き込まれる。

 琉唯は東日本大震災がおきたとき、6歳だった。妹は2歳。避難所で押し寄せる津波を目撃している。それから11年後。今度は空爆や地上戦、戦争避難を体験する。

 どこかの日本人ではない、浜通りの少女だ。原発も絡むとなれば、ヒトゴトではない。ぐっと身近な人間の物語に変わる。避難するのに車のガソリンがない、といったシーンでは、1Fの事故が思い浮かんだ。

 二度読み返し、三度目に一日単位のドキュメントとして整理してみた。小説自体、時系列で進む。2月27日のブチャの戦いが小説のヤマ場になっていることがわかる。

 戦争へは、こんな経過をたどる。1月24日:スクールバスが交差点の手前で急停止する。なにかと思ったら、装甲兵員輸送車両が横断して行った。

 2月11日:午前中で学校の授業が終わる。同16日:午前の便で退避するため、空港で搭乗手続きをすると、妹のコロナ陽性(疑い)が判明、自宅へ戻らざるを得なくなる。

 そして、2月23日:ウクライナ全土に非常事態宣言が出される。同24日:ブチャ市が空と陸から攻撃される。

 さらに激しい攻撃が行われるのが2月27日。その描写が事細かに続く。「ほんの一秒のできごとだった。空に稲光のごとく閃光(せんこう)が走った。落雷も同然の轟音が耳をつんざく。赤煉瓦の家の屋根が吹き飛ぶ瞬間を、わたしはまのあたりにした。瓦が粉々に飛び散り、熱風が押し寄せてくる。薬品のような強烈な異臭が鼻をついた」

 路上ではロシア兵が容赦なく銃撃を続ける。「防寒着姿の市民が次々と倒れていく。子連れだろうと銃弾が見舞われた。人体に被弾するたび血飛沫があがる」。さらに、略奪、殺戮が繰り返される。

 琉唯たちも戦いの混乱の中で一時、離散を経験する。一家を含め、パスポートを持たない外国人が捕虜として大型バスに乗せられる。バスは西の国境のマチ、リヴィウに着く。ロシアへ向かうところを、いつの間にかウクライナ兵が乗っ取って救出したのだった。

 前書きに「状況と日時、発生場所に関し、現在までの情報を可能な限り網羅し、帰国者の証言などを併せ、できるだけ正確を期した」とある。臨場感がすごい。

2022年8月26日金曜日

長距離ランナー

                     
    朝、新聞を取りに玄関を開けると、フヨウの花=写真=が一輪咲いていた。この夏初めての開花だ。

新聞は県紙と全国紙。ちょっと古い話だが、土曜日(8月20日)の県紙は、全国中学校体育大会陸上競技の男子3000メートルで、増子陽太選手(鏡石)が大会新記録で優勝したことを1面トップで伝えていた。

増子選手については、7月に孫の父親から聞いていた。早くも大輪の花を咲かせたかと感じ入った。

7月上旬に県中総体陸上が開かれた。上の孫が400メートルリレーに出場したが、予選で敗退した。同月下旬には全日本中学校通信陸上競技福島県大会が開かれた。孫は100メートルに出場し、これも予選落ちをした。

増子選手は、総体では3000メートル、通信では1500メートルに出場し、いずれも大会新で優勝した。持久力とスピードを兼ね備えた逸材であることがよくわかる。

8月10日に東北中学校陸上大会が青森市で開かれた。増子選手は3000メートルで日本中学新を出して優勝した。これには仰天した。

このレベルになると、才能と努力、その両方が飛び抜けているとしか言いようがない。努力以上に才能がものをいう。しかし、努力をせずに才能を伸ばすことはできない。

若いときに陸上競技をやりながら、凡タイムの周辺でうろうろしていた人間は、つくづくそう思う。

阿武隈のふるさとに、400メートルで全国トップだった人がいる。いや、いた。若くして亡くなった。

小・中学校の先輩で、私が夏休みに母校(中学校)のグラウンドで自主練をしていると、やはり同じように自主練に現れた。確か、大学生だった。全国ナンバーワンというのは承知していた。

体がそう大きいわけではない。400メートルを全力で走るのを見て驚いた。脚が自転車の車輪のように回転する。

富士山に例えると、トップランナーはもちろん、頂上にいる。その下に、9合目、8合目……と人材がひしめいている。5合目あたりをうろちょろしている人間には、頂上への道は黒山の人だかりで見えない。

しかも、陸上競技のおもしろさはタイムがすべてを物語る、ということだ。孫を相手に「ジイジはこうだった」といっても通じない。

中3の孫は100メートルが12秒ちょうどだった。練習を続ければ、11秒台は可能だろう。私は高専時代、100メートルは遅い方だったので、1600メートルリレーに回った。100メートルの記録は孫より劣る。

将来はマラソンランナーに――。増子選手には陸上関係者が期待を寄せている、という話を聞いた。次の目標は5000メートル、1万メートル、そして高校駅伝、大学駅伝か。陸上ファンの一人として彼の今後を見続けようと思う。

2022年8月25日木曜日

大阪さくさくワッフル

 フィリピン人のエド君が彼女を連れてやって来た。エド君は、歩いて十数分のところにあるラーメン屋で働いている。

大型連休が始まって間もない日の宵、にわか雨になった。すると、わが家(米屋)にエド君が飛び込んできた。びしょぬれだった。「傘、ありませんか」。あったら売ってほしいということだった。

カミサンが応対した。だれかが置いていった「コンビニ傘」がある。そのなかの1本を進呈した。

そのとき、カミサンがいろいろ聞いたらしい。名前はエド、32歳。ラーメン店の近くにアパートがある。歩いてスーパーのマルトへ買い物に来た帰りだった。「また来ます」といってわが家を出た。

それから1週間後、エド君が顔を出した。そのとき、ドライマンゴーを置いていった。包装紙には「金呂宋」や「芒菓乾」の漢字のほかに、「グァダルーペ」「フィリピン」 「セブ」といった英語が印刷されている。「呂宋」はルソン、「芒菓」は「芒果」、つまりマンゴーのことだった。

セブ島でつくられた「グァダルーペ」という商品名のドライマンゴー、ということらしい。ドライといっても硬いわけではない。しんなりしている。味も濃い。甘さがしばらく口に残った。

そして、3回目。今度は私も会った。ドライマンゴーをお礼に持って来たとき、ブログでその顛末を書いた。すると、エド君の知り合いだという人がブログにコメントを寄せた。

 「突然のコメントで失礼します。エドくんと知り合いのものです。こちらのブログと偶然出会い、彼に教えてあげました。とても感動していましたよ」

 ドライマンゴーを持って来たのが5月。コメントが入ったのが7月。それからざっと1カ月余りたってからの再々訪だ。

しかも、今度は彼女と一緒である。大阪土産の「大阪さくさくワッフル」=写真=までちょうだいした。

エド君は4月からいわきで、彼女は5月から大阪で働いている。マニラ首都圏の南にエド君の家が、北に彼女の家がある。いわきを例に、「勿来と仙台くらい離れている」という。

彼女は大阪で介護の仕事をしている。第一印象は日本人、そう思うほど顔立ちが日本人によく似ている。

それで、施設利用者も日本人と勘違いするらしく、なにかというと「わからへんの?」とくるそうだ。

 東北人のわれわれさえ大阪人は「わからへん」のだから、フィリピン人の彼女が「わからへん」のは当然というと、大笑いになった。

  たった1本のコンビニ傘が取り持つ縁で、いいカップルと出会うことができた。晩酌のときに、さくさくワッフルを食べた。とてもさわやかな味がした。 

2022年8月24日水曜日

昭和46年の準優勝

        
 このところ毎日、人の文章を読み続けている。夕方には目がかすみ、頭が重くなる。毎年、月遅れ盆が過ぎるころにはそうなる。400字詰め原稿用紙換算でどのくらいだろう。2000枚ははるかに超えるかもしれない。

 月曜日(8月22日)も朝から文字の海を漂っていた。午後には高校野球の決勝戦が行われる。ふと気づいて、文字読みを中断してテレビをつけた。

聖光学院(福島)を破って決勝に進んだ仙台育英が4-1と下関国際をリードしていた。そのあと、背番号14番が満塁ホームランを放ち、8-1となる。結局、そのまま下関国際を突き放し、東北勢としては初めての優勝を飾った。優勝が決まった瞬間、なぜか目頭が熱くなった。

 昭和46(1971)年、磐城高校が決勝まで進み、惜しくも準優勝に終わった。優勝旗は勿来の関を越えることはなかったが、平・本町通りのパレードを見て、熱狂の渦に巻き込まれた。

 いわき民報社に入社して4カ月ちょっと。まだ戦力にもならない新米記者だった。当然、高校野球の取材はノータッチ。オープンカーのパレードを一市民として見物するだけだった。

 ブログでときどき“古新聞シリーズ”をやってきた。前回からどうやら4年はたっている。久しぶりに古巣のいわき民報の記事を読み返してみた。新聞自体、大変な熱狂ぶりだったことがわかる。

 いわき民報は夕刊だから締め切りは午後2時前。ところが、8月16日午後の決勝戦は新聞発行を遅らせて結果を1面で報じた。

 急行列車で凱旋帰郷した同18日午後も同じく締め切りを遅らせて、勿来駅で下車し、そこからパレードに出発するまでを報じている=写真。

急きょ、いわき市主催で、平市民会館で歓迎会が開かれることになった。そのためのパレードが、勿来の関に近い勿来駅からスタートし、旧市内5市をめぐって歓迎式の会場まで続いた。私が平・本町通りで見たのはパレードのほんの一部にすぎなかった。

 8月17日のいわき民報は、パレードと歓迎会の中身を詳しく報じている。それによると、ハワイ遠征の監督・選手を除く12人が7台のオープンカーに分乗し、白バイとパトカーに先導されて、勿来~磐城~常磐~内郷~平の順にパレードした。

 高校のある平地区だけのパレードではなかった。丹念に旧5市を回っている。仮に優勝したとしても、それ以上の凱旋パレードはできなかっただろう。その意味では優勝並みの歓迎ぶりだった。コロナ禍下とはいえ、仙台市の熱狂は推して知るべし、か。

詩人の田村隆一は、「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」と書いた。その通りだった。初の白河の関越えから、51年前の勿来の関越えの熱狂を思い出した。

2022年8月23日火曜日

お福分けがドッサリ

                     
 土曜日(8月20日)のブログに、オクラとミョウガの和え物の話を書いた。伏線として、キュウリなどの漬物の話も加えた。漬物があるからこそ副々菜の和え物が生きる――そんな趣旨だった。

 表のテーマは和え物、裏のテーマは漬物、といったところだろうか。漬物がないと味気ない。気持ちも落ち着かない。そうしたことも長々とつづった。

 すると土曜日午後、四倉に住む知人が自分で栽培している野菜をどっさり持って来てくれた=写真。

私は外出していなかった。カミサンに「けさのブログを読んで」といっていたそうだ。ブログは毎朝6時前にはアップする。

 平成19(2007)年秋に夕刊を発行する会社を辞めて、やっと「締め切り」のない生活を楽しめると思ったのも束の間、年が明けると次第に落ち着かなくなった。

 ちょうどそのころ、若い仲間から「ブログをやりましょう」と声がかかった。アナログ人間なので、デジタルの知識・技術にはうとい。「全部セットします、文章を打ち込むだけでいいです」というので、翌平成20年2月下旬、「新聞コラム」の感覚で「ネットコラム」を始めた。

 一日に1回は自分に「締め切り」を課する。一日をその「締め切り」を軸にして編集する。そうして、夏井川渓谷の隠居に泊まったときや、旅行をしたとき以外は毎日アップしてきた。満14年がたった今、記事は5000本を超えた。

それはさておき、ちょうだいした野菜は長ナス(紫色)・白丸ナス(緑色)・万願寺とうがらしのほかに、昔野菜(伝統野菜)っぽいキュウリがあった。

お礼を兼ねて本人に確かめると、「昔きゅうり」は有名な種苗店から仕入れた「相模半白」という固定種だった。

いわきにある昔野菜の「小白井きゅうり」も半白系だ。ただし、相模半白よりはややずんぐりしている。

夕方、相模半白を糠床に入れて、翌朝取り出した。小白井きゅうりは塩湯を冷まして漬ける「どぶ漬け」が基本だが、とりあえず糠漬けにしてみた。皮は薄いがやや硬い。中身は軟らかくてみずみずしい。

なるほど、そういうことか。どぶ漬けは適宜、皮をむいて漬ける。糠漬けの相模半白も皮をむいたら、中身のやわらかさとみずみずしさが際立った。

万願寺とうがらしは京野菜の一つ。辛くない。「食べるとうがらし」だ。焼いて食べた。ナスも同じように焼いて食べた。それが、土曜日の夜。

翌日曜日は午前中、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、山を越えて三和町のふれあい市場へ出かけた。

梅干しその他を買った。三和町産の「昔きゅうり」があったので、試しにこれも一袋買った。

こちらは最初から皮をむいて糠床に入れた。皮がないので漬かりが早いかと思ったが、5時間程度では半漬かりだった。やはり、朝漬けて夕方取り出す、というのがいいらしい。

2022年8月22日月曜日

市民講座再開

        
 いわき市のコロナ感染者が爆発的に増えている。月遅れ盆が過ぎた8月18日は931人と、千人台に迫る勢いだった。7月以降、上昇カーブを描いている第7波は、まだヤマが見えない。

 そうしたなかで、いわき地域学會の令和4年度の市民講座が始まった=写真。基本的には月1回、年度10回の開催だが、コロナ感染状況をにらんでのスケジュール組み立てなので、予定通りにはいかない。

 今年度(2022年度)も一堂に会しての総会は断念し、総会資料を郵送して、6月末を目途に書面審議をしてもらうやり方に替えた。

 書面審議が終わったあと、コロナ禍の中、2、5、6月と中止した市民講座を再開した。初回7月は夏井芳徳副代表幹事が「磐城平藩・松賀族之助(やからのすけ)と内藤義英(露沾)」と題して話した。

会場はいわき市文化センターの大講義室で、隣り合う長テーブルは交互に1人、2人となるようイスが制限されている。

夏井副代表の場合だと、常に40~50人は聴講に訪れる。しかし、「3密」防止が浸透したためか、ほぼ定員の30人前後だった。通常の定員(114人)のざっと4分の1だ。

 地域学會が利用していた部屋は視聴覚教室だが、ここは14人(定員58人)で、平均20~30人が聴講する場所としては狭い。

そこで1階の大講義室や2階の大会議室を会場にしている。8月は会場が31人利用可能な大会議室(定員124人)だった。私が担当した。「大本営発表と『暗黒日記』」と題して話した。

東日本大震災に伴う東電の原発事故が起きたとき、メディアは政府・東電の発表をそのまま伝えるだけだった。「大本営発表と同じではないか」。メディア批判がわきおこった。

ちょうどいわき明星大(現・医療創生大)でマスコミ論(のちにメディア社会論)を始めるところだったので、講義の一つに大本営発表を取り上げた。

 太平洋戦争当時、総合雑誌への執筆を禁じられていたジャーナリスト・外交評論家清沢洌(きよし)の日記も併せて紹介した。

 戦争には古いも新しいもない。苦しむのは一般の庶民だ。その一端を日記から探ることができる。作家高見順の『敗戦日記』、ドイツの作家エーリヒ・ケストナーの『終戦日記』しかり。

『田辺聖子十八歳の日の日記」も図書館から借りて読みたかったが、「貸出中」で市民講座には間に合わなかった。

ロシアがウクライナに侵攻して以来、ロシアでは「大本営発表」が続いている。それも今回、地域学會の市民講座で話すきっかけになった。

いつでも、だれでもコロナに感染しかねない状況下では、市民講座も開催見合わせ、あるいは延期といったことを視野に入れておかないといけない。悩ましい日が続く。

2022年8月21日日曜日

樺太と台湾

               
 樺太(サハリン)に一度、台湾に二度、同級生と旅をして以来、なにかと両島のことが気になる。

 図書館に両島関係の新しい本が入れば、借りて読む。上野幹久編著『日本統治時代 ある校長の樺太・台湾旅日記』(梓書房、2022年)=写真=も、そうして読んだ。サブタイトルに「祖父の記録から読み解く『領土』と先人の努力」とある。

 編著者は福岡県の元小学校長。祖父もまた同県の小学校の校長を務めた。校長職にあった昭和6(1931)年8月、「樺太夏期大学~国境安別の実地踏査」に参加し、24日間の旅日記「樺太紀行」を大学ノートにつづった。41歳だった。

 さらに、4年後の同10(1935)年10~11月の21日間、台湾の研修視察旅行を続けて、やはり大学ノートに「台湾旅行記」と題して日記をつづった。

 樺太も台湾も昭和20(1945)年の終戦までは日本の領土だった。つまりは日本の「国内」。北緯50度に近い北の島と、北回帰線が通る南の島と、自然が違えば人間の暮らしも違う。

 樺太編にこんなくだりがある。8月12日、弟の住む東海岸の知取(マカロフ)に泊まる。夕方、「知取川に行けば、川を上るおびただしい樺太鱒(小型のサケ)と、釣り人たちの群れ。『引っ掛け』(ルアー)というのか、釣り方は針で引っ掛けて釣るやり方だ」

 私たちが樺太を訪れたのは平成28(2016)年8月2日だった。樺太には3泊し、そのあと対岸のシベリア大陸に渡って、ウラジオストクに2泊した。

 終戦当時、同級生の父親が知取の南隣、元泊(ボストチヌイ)の村長をしていた。そこを訪ねるのが主目的だった。

 日本語が堪能でサハリンの自然に詳しいガイドの提案で急きょ北上し、元泊村内の樫保(カシホ)川河口の岸辺に立った。

 ワゴン車の運転手がルアー釣りをしてみせた。たちまち樺太鱒がかかった。大きさは50センチ前後。この魚が川にひしめいていた。

知取川はそれから30キロほど北にある。時期的にもほぼ同じ。群れをなす樺太鱒の姿が目に浮かんだ

 台湾編では編著者の解説がやや物足りなかった。日清戦争のあと台湾を領有し、日本の植民地政策が始まる。児玉源太郎が第4代総督になり、後藤新平を民生長官に起用したあたりから成果が表れる。

有能な人材、たとえば新渡戸稲造(製糖など)、八田與一(灌漑事業)などを紹介しながらも、同時期に力を発揮した「台湾医学衛生の父」高木友枝(いわき出身)には言及していない。この点が残念だった。

同級生たちは、台湾へは三度出かけている。私も三度目の台湾行に参加するつもりでいたが、いわきでの行事がからんで断念した。

三度目は台湾の東海岸ルートだった。この本では、特に「タロコ渓谷」、そして北緯23度の北回帰線の記述に引かれた。先の台湾の旅では、北回帰線を意識することがなかったから。

2022年8月20日土曜日

オクラとミョウガ

                      
 漬物が切れると、食事が急に味気ないものになる。夏はなんといってもキュウリだ。キュウリの糠漬けがあれば、落ち着いて食事ができる。

 その糠漬けが1~2日、食卓から消えた。正確にいうと、ショウガの味噌漬けはある。大根の味噌漬けと同じ袋に入っていたのが、ショウガだけ残った。で、ほかの漬物がなくなったために、ショウガの味噌漬けが出てきた。

 ショウガだから、味噌漬けになっても、食べると刺激が強い。消化器には食べ過ぎはよくない。直感としてそれがわかる。

 というわけで、これを漬物と見るわけにはいかない。で、キュウリだが、今年(2022年)は栽培を見送った。去年の古漬けが残っている。今年も「お福分け」が届くはず――ときどき、その通りになった。

キュウリが手に入ればまとめて糠床に入れ、浅漬け(朝、糠床に入れたら、夕方、取り出す)と、古漬け(3~4日糠床に入れたままにする)をつくる。数が多いときには、生でみそを付けて食べる。とにかく水分がたっぷりあるうちに食べるか、漬けるかすることだ。

浅漬けはキュウリのあおさを楽しむ。糠床の古漬けは逆に黄色っぽくなったところを小口切りにして水につけ、塩分を抜く。

浅漬けはシャキシャキ、古漬けはパリパリ。夏場はこれがあれば、日に三度の食事に問題はない。ショウガの味噌漬けは口にしなくてもいい。

夜はこのほかに、オクラとミョウガの和え物が出た=写真。おかずのおかず、副々菜のようなものだ。

オクラは湯がいて小口切りに、ミョウガの子も同じく小口切りにして、しょうゆで和えた。オクラのねばねばがミョウガも包んで、面白い味になった。

別の日には生のオクラとミョウガの和え物が出てきた。オクラがちょっと青臭い感じがした。やはり、湯がいた方がよさそうだ。

キュウリの糠漬けが切れて、副菜がこれだけになったとき、なんとなく味気ない気持ちになった。副菜の漬物があって初めて、副々菜の和え物が生きることを知った。

やはり、漬物が欲しい。去年つくった塩漬け(古漬け)のキュウリがまだ冷蔵庫に残っていることを思い出す。

塩漬けの方は、白菜漬けができるまでの冬の保存食用だが、けっこうな量が余った。これを取り出して、キュウリの糠漬けができるまでしのぐことにした。

ちょうどその日の夕方、カミサンが急に言い出した。「近所のマルトまで買い物に行こう」。ほかの野菜も切れたようだ。

スーパーでは、私はキュウリとナメコ、キムチを買い物かごに入れた。味噌汁のナメコと白菜のキムチ、糠漬けのキュウリがあれば、気持ちは落ち着く。夜、これにオクラとミョウガの和え物が加われば、なおけっこうというものだ。

2022年8月19日金曜日

カメムシタケ

 知人がある集まりの場にカメムシタケを持って来た=写真。家の庭の近くで見つけたという。どうやら毎年発生するらしい。

 カメムシタケは冬虫夏草の一種だ。カメムシを母体にしたキノコといってもいい。キノコ自体を探しに行かなくなって久しい。そんなときに冬虫夏草が向こうからやって来た。久しぶりに目の保養になった。

 ネットにアップされている研究機関の解説によると、菌が生きたカメムシの皮膚に感染し、血液の中で増殖する。宿主(しゅくしゅ=カメムシ)が死ぬと体外に菌糸を伸ばして子実体をつくる。夏から秋によく見られる。

 この「死ぬ」という表現はちょっとやさしすぎる。より正確に言えば、死を待つのではなく、絶好のタイミングで宿主の命を奪う、といった方が正しいようだ。

このため、多くのキノコが植物と「共生」関係を持つ中、冬虫夏草は宿主から一方的に栄養を奪うだけの関係で、「殺生(さっせい)」と呼ばれる。

いわき駅の北方に石森山がある。林内に遊歩道が張り巡らされている。40代のころは、休日と平日の昼休みを利用して年に100回近く、この遊歩道を巡り歩いたものだ。

最初は野鳥、次いで野草、そしてキノコと、観察する対象を広げていった。キノコは冬も夏も、春も秋も発生する。その意味では、同山は1年を通して菌類を観察するには絶好の場所だ。

ある年の秋、小さな池のそばでヤンマタケを見つけた。これも冬虫夏草の一種だ。ナツアカネだった。水辺の小枝に止まったところで内部に潜んでいた菌が電撃的に宿主の息の根を止めた。つまり、トンボは今しがた枝に止まった状態で、節々から子実体を出していた。

その後、夏井川渓谷の隠居へ通うになると、食菌だけでなく、ヤンマタケその他の冬虫夏草も探すようになった。渓谷は虫の王国。“冬虫夏草”もいっぱいある。

冬虫夏草に詳しい某新聞社の支局長がいた。私と同年齢で。いわきで定年を迎え、そのままいわきの山里で第二の人生に入った。会うと、いつも菌類の話になった。それで教えられたことがある。
 「夏井川渓谷は冬虫夏草の宝庫だと思うよ。いろんな昆虫が生きてたときの姿のままで死んでる、節々が白くなって。この前はカマキリがそうだった」

すると、支局長氏は「ン?」といった表情になって、「それはムシカビじゃないのかな」という。冬虫夏草とムシカビの違いは菌類でいう「柄」があるかないか、だという。
 そういえば隠居の庭で見たカマキリには柄がなかった。木の幹に止まったまま死んでいたゴマダラカミキリにも柄はなかった。

   夏井川渓谷にある隠居の庭では、カマキリのほかに、イナゴ、ガなどのムシカビも見つかっている。唯一、トンボだけは節から「柄」が出ていたから、冬虫夏草のヤンマタケ(不完全型)だった。 

2022年8月18日木曜日

工事見積書

                      
 7月初めに夏井川渓谷の隠居と道路を仕切る柵(囲い塀)が壊された。朝早く、近所のTさんから電話があった。「車が突っ込んだようだ」。朝食前に夫婦で出かけ、様子を見た。

番線(針金)と笠木を渡した丸太の支柱十数本がなぎ倒されていた=写真。どこのだれが事故を起こしたのかは、むろんわからない。が、遺留品があるはずだ。柵に沿ってチェックすると、敷地内の草むらに車の左サイドミラーが落ちていた。

 警察に連絡をし、日曜日に現場検証が行われた。交通警官はサイドミラーなどを回収し、Tさんからも話を聞いた。

 「ここらへんで防犯カメラがあるところ、というと?」「市の川前支所にあるかどうか」。防犯カメラがあれば捜査がしやすい。なくても、必ず事故を起こした車を突き止める、時間はかかるかもしれないが――安心して結果を待つことにした。

 それからざっと3週間。またTさんから電話があった。事故を起こした女性がTさんの家を訪ねて、わが家の連絡先を聞いた。「電話番号を教えてもいいか」という。「どうぞ、どうぞ」

 ほどなく女性から電話がかかってきた。「警察が来てコトの重大さを認識した。イノシシが急に現れてハンドルを切ったら、柵にぶつかった。すぐ家を訪ねたが、空き家だった」

 確かに日曜日以外、隠居はもぬけの殻だ。空き家には違いない。でも、「日曜日はいる」。さらに「柵はそちらの責任で直してもらうから」という話をして電話を切った。

 それから少したって、警察と保険会社から連絡がきた。内容は偶然、同じだった。「工事見積書が欲しい」

 前に柵の工事をした知り合いの大工氏に見積もってもらい、まず保険会社にファクスで見積書を送信した。

 諸物価が高騰している。8月着工ならこの値段だが、遅れるとまた材料が値上がりする――と言われていたので、ファクスでは大工氏のケータイ番号を添えてその旨付け加えた。

 すると、さっそく大工氏のもとに連絡があったそうだ。あとは大工氏と保険会社が直接やりとりをすることになる。

 警察に連絡すると、もう一方の当事者である私から「供述調書」をとらないといけないので、工事見積書はそのときに――という回答だった。

アカヤシオ(岩ツツジ)が咲く春と、紅葉が美しい秋は、行楽客が絶えない。なかには敷地に勝手に入り込んで写真を撮る。私有地であることをわかってもらう意味も込めて、だいぶ前に柵を設けた。

柵は丸太を支柱に、一番上を笠木でつなぎ、太い番線を3本、横に張ったものだ。たぶんイノシシだって柵をくぐることも、飛び越えることもできないだろう。

イノシシが出没する話は聞くが、まだ目撃したことはない。よりによって山側から道路に現れて、女性が驚いてハンドル操作を誤ったということになる。それを信じるしかない。

2022年8月17日水曜日

精霊送り

精霊送りがすんで、月遅れ盆に区切りがついた。行政区の役員をしているので、8月15日の夕方には精霊送りの準備をしないといけない。翌16日の早朝は当番制で各家から出た供物を受け取り、ごみ収集車を待つ。片付けをすませて初めて、お盆から解放されたことを実感する。

精霊送りの準備を終えた終戦記念日の夜、晩酌をしていると、アオスジアゲハ=写真(何年か前の昼間、庭に飛来したところを撮影)=が茶の間に入ってきた。このときだけ、なにかの霊が迷ってやって来たのではないかと、お盆らしい気分になった。

準備は「前例踏襲」ながら、その場で変更を余儀なくされることもある。わが行政区の精霊送りの場所は県営住宅集会所前の庭。スペースとしてはざっと3メートル四方。草を刈り、四隅に竹を立て、なかに座卓3脚を並べて供物の受け台にする。

平成28(2016)年には受け台正面の位置を道路側に替えた。それまでは道路に並行して正面を設けた。正面に立つには石段を三つ上らないといけない。足の不自由なお年寄りは手すりにつかまり、やっとの思いで焼香台の前に立つ。それを見ていた役員の発案で正面を90度ずらし、道路からじかに焼香できるようにした。

集会所前の道路は路駐が絶えない。このため、14日になると、「駐車自粛」の看板を立てる。これまではこの立て看が効いてか、15日になると路駐がなくなった。ところが、今年(2022年)は予定の場所をふさぐように、1台がずっと止まったままでいる。

急きょ、今までの庭の南端から反対側の北端に場所を移した。たまたま作業を始めるとき、そこに駐車しようとする車があったので、運転手に「バツ」のサインをし、移動してもらう。

というわけで、受け台を設けても路駐されたら元も子もない。前に立て看を置いて車を止められないようにした。

おかげで16日は和やかな気分のなかで供物の受け取りができた。ゴミ収集車もすんなり横付けすることができた。

ホオズキと杉の葉も前と同じではない。赤く熟したホオズキは、会計さんがスーパーから買ってくる。栽培農家が減って値段が高くなった。

以前は四方に張った縄全体にホオズキと杉の葉を飾ったが、ホオズキが高騰したとき、ネットで文献を探したら、正面だけに飾っている江戸時代の絵を見つけた。

一昨年(2020年)からはそれを参考にして、正面だけを飾ることにした。杉の葉も「右へ倣(なら)え」で、数を減らした。

杉の葉はカミサンの実家の庭にある木から調達した。太さが親指ほどの竹は、私が役員になってからは、わが家の向かいにある故義伯父の家の庭の竹を切って使っている。

   精霊送りが終われば、頭は夏から秋に切り替わる。あとは8月20日の夏井川流灯花火大会があるだけ。平の、いわきの夏の催事はこの灯籠流しで幕を閉じる。 

2022年8月16日火曜日

墓参り

        
 台風一過というより、台風が予想より南の関東で太平洋へ抜けたため、いわき地方は暴風雨の影響を受けずに済んだ。

 おかげで静かな一夜が明けると、次第に雲が消えて青空が広がり、午後にはうんざりするほどの暑さになった。

 それが月遅れ盆2日目の日曜日。朝、近所の新盆の知人宅を訪ねて焼香したあと、カミサンの実家の墓参りをした。

いわき駅裏の物見ケ岡から西の下好間へと丘陵が続く。その丘の西方に寺が密集する。いわゆる「寺町」だ。地名でいうと、平字古鍛治・大館~下好間字大舘。同じ「オオダテ」でも漢字が異なる。実家は平・久保町、寺は下好間・大舘にある。

いわき民報が平成7(1995)年に連載した「しんかわ流域誌」に、いわき地域学會の中山雅弘さんが「戦国大名岩城氏と城下町」と題して書いている。

「岩城氏が戦国大名になると、拠点を白土から大館に移します。現在、大館はいわき市平の大館と好間町の大館と二カ所が隣接していますが、岩城氏一族が主に住んでいたのは平の大館で、好間町・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)です」

『歴史の道 岩城街道 本宮―平』(福島県教育委員会、昭和60年)によると、久保町は岩城氏の居城の城下町だった。近世の磐城平藩時代にも、長橋・鎌田とともに城下の出口で、「三方出口番所」のあった要地だという。

 今、平・大館には墓地が広がっている。山道でつながっている寺もある。が、カミサンの実家の寺は「大館」のそば、「大舘」の小丘にポツンとある。昔は峰続きだったのだろうか。

すでに実家の義弟が墓参をすませているので、私らの墓参りはおまけのようなものだ。花も線香もほんの少しだけにした。

山門前に車を止め、石段と斜面を上ると墓地に出る。年々、この石段の上りがきつくなっている。

息を切らせながら墓地に出ると、なにか風景が変わっている。遠望が利く。西~北を囲むように延びる林の西側が伐採されていた=写真。眼下に水田と好間の市街、小丘の奥に閼伽井嶽と水石山が連なっている。

たまたまやって来たカミサンの親戚の話だと、墓地の西側斜面が一部、崩落した。それで、防災工事が行われることになったのだろう。

それはともかく、崖のそばから見える好間の風景は、戦国時代に岩城の殿様や家臣が見たのと同じにちがいない。写真には写っていないが、やや左手には好間を代表するV字谷がくっきりと見える。このV字谷は当時も、特異な印象を与えていたことだろう。

振り返って墓地を見れば、中心部が少し空いている。前はそこにも墓があったはずだ。少子高齢化の時代、「墓じまい」をするケースが増えつつあるということか。墓地の風景も変わる――そんなことを感じさせる墓参りになった。

2022年8月15日月曜日

フィッシングベスト


 夏場は、家ではTシャツと半ズボンで過ごす。近所のコンビニへも、たいていその格好で行く。

 街へ行くときには、さすがに長ズボンにはき替える。Tシャツの上にはポケットがいっぱい付いたベスト=写真=を羽織る。

 夏井川渓谷の隠居で土いじりをするときも、このベストを着る。胸ポケットに眼鏡、両脇のポケットにスマホと手帳。まず、この三つを収納できれば問題はない。

 Tシャツに胸ポケットがあれば、ポケットのいっぱいあるベストは必要ない。ズボンのポケットにスマホと手帳、胸ポケットに眼鏡、で事足りる。

 しかし――。眼鏡は遠近両用。近くを見るときには眼鏡をはずすことが多い。かけたりはずしたりするので、眼鏡収納ポケットが必要なのだが、Tシャツの胸ポケットだと、かがんだときによく落ちる。

 予想もしなかった場面で眼鏡を落としたら大変だ。前はケータイをシャツの胸ポケットに入れて、風呂の水を抜くのにかがんだら、ポロッと落ちて水没した。眼鏡をトイレに落としたこともある。以来、ポケットのあるベストが手放せなくなった。

 ベストは三つある。いずれも買った記憶はない。カミサンが米屋のかたわら、古着のリサイクルステーションのようなことをしている。

「使わなくなったから」と衣類を持ってくる人がいる。「欲しいものがないか」と探しに来る人がいる。その両方にわが家も加わる。ベストはそうして手に入れた。

このベストが「フィッシングベスト」だということを、つい最近知った。要するに、釣りをする人の必需品だ。

夕方、晩酌をしながらテレビの情報番組を見ていたら、若者の間でこのフィッシングベストが流行していることを取り上げていた。

原宿などでフィッシングベストを着ている若者の姿が見られる。同地の洋服店の話では、このベストの売り上げが今年(2022年)は去年の2~3倍になった。人気の理由は「収納力」だという。

本来は釣り師のベストで、若者の志向するファッションには縁遠い。が、収納性が魅力、というのはよくわかる。私自身、収納力に引かれて夏場はこのベストが手放せない。つまりは実用性。

番組ではほかにも、土木作業に使われる足袋のような靴が機能性と個性的なデザインから、若者の間で話題になっていることを伝えていた。よくよく見れば、「足袋」とは「地下足袋」で、それを応用した靴ということになる。

   つま先が二つに割れ、親指とそれ以外の指が分かれて収まるので、着地したときの安定感はありそうだが、そちらまでは必要性を感じない。 

2022年8月14日日曜日

セミとアブ

        
 台風8号は伊豆半島に上陸したあと東進し、茨城県南部で太平洋に抜けた。きのう(8月13日)の予報からはずいぶん南を通過したことになる。14日午前3時現在、いわき市の東方はるか沖を北上中だという。静かな夜が明けたことに、まずはホッとする。

 さて、普通に暑い日々は家の窓と戸を全開する。さすがに夜は不用心なので、寝るときに1階の窓と戸を閉める。2階は開け放したままだ。

寝床では電気スタンドをつけて本を読む。といっても、ほぼ毎日、明かりを消す前に睡魔が降りてくる。みごとなほど早くくる。

朝まで熟睡する体力はない。3~4時間たつと、いったん目が覚める。明かりはついたままだ。本を読みながら、また睡魔が降りるのを待つ。

というわけで、寝床の電気スタンドは明かりがともっている時間の方が長い。蚊取りマットがあるので、蚊に悩まされることはない。が、それをものともしないコガネムシや蝉がどこからともなく現れ、スタンドの周りで羽音を響かせる。額に止まったり、腕をはいずり回ったりする。

あるときは、アブラゼミが現れて枕元に積んだ本の上に止まった。すると、次にシオヤアブの雄がやって来た。こちらは最近知った肉食性のアブだ。

このごろ、昼間からちょくちょく茶の間の蛍光灯に来て、笠や蛍光管に触れてバタバタやっている虫がいる。尾っぽの先端に白い毛束がついている。

写真を撮って、ネットで検索したら、シオヤアブの雄とわかった。雌には12年も前に、夏井川渓谷の隠居で出合っていた。先日、そのときのブログを紹介した。

やはり今ごろ、土いじりを切り上げて隠居で休んでいたら、アブらしいものが二ホンミツバチを押さえつけ、背中から太い針を差し込んで体液を吸い尽くした目撃記録だ。

そんなことを思い出しながら、夢うつつのままシオヤアブの動きを追っていると、一瞬、アブラゼミの背中に乗っかったように見えた。「セミの体液を吸う肉食アブ」の写真が撮れたら「大スクープ」だ。

とたんに、ガバッと起き上がって、茶の間へカメラを取りに行く。寝床に戻ると、アブラゼミに焦点を合わせてパチリとやった。

ん、シオヤアブは? 最初、薄暗くてよくわからなかったのだが、シオヤアブはアブラゼミの背中にはいなかった。結局、アブラゼミがじっとこちらを見ている写真を撮っただけだった=写真。

一連の様子をカミサンが見ていたらしい。自分の寝床にカメラを持ち込んで何をしているのだろう、とうとう始まったか――。朝になってそんなことを言われた。

大スクープ写真は幻と消えたが、アブラゼミの「つぶらな瞳」とじっくり向かい合い、記録に残すことができたのはよかった、そういう無駄を積み重ねないと特ダネにはたどり着けないのだと、自分に言い聞かせながら、また睡魔がくるのを待った。

2022年8月13日土曜日

「山の日」からお盆へ

                      
   残暑が続く。台風が近づいている。なんとなく落ち着かないなかで、国民の祝日「山の日」が過ぎ、月遅れ盆を迎えた。

頭では、8月11日は「山の日」で祝日、とはわかっていた。が、その日になるといつもの平日の木曜日でしかなかった。

若い知り合いが訪ねて来た。有休をとったのか――最初はそう思ったが、雑談しているうちに思い出した。「きょうは世の中全体が休みなのだ」

カミサンも似たような調子だった。朝食をとりながら、「きょうは何の祝日?」と聞く。「『山の日』。『海の日』があるから、『山の日』もできた」

とはいってみたものの、うろ覚えでしかない。ネットで確かめる。「『海の日』があるのに、どうして『山の日』がないのか」。そんな声を受けて、『山の日』が平成28(2016)年に制定された。山=写真(二ツ箭山)=に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日だという。

最初は月遅れ盆(8月13~16日)と連動して、8月12日が有力だったそうだ。が、昭和60(1985)年8月12日、群馬県の御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落、乗客乗員520人が亡くなったことから、反対意見もあり、一日ずらして8月11日に決まった。

今年(2022年)はお盆休み直前の木曜日ということで、金曜日に有休をとれば、1週間近く休みが取れる。

しかし、それができるところは限られる。わが家(米屋)は、日曜日以外は祝日でも店を開けている。「きょうは何の祝日?」となるのは、そんな心理が作用してのことかもしれない。

さて、そんなことより月遅れ盆の天気だ。この夏、いわき地方はたまたま会津や山形県、青森県などのような大雨被害を免れている。

ところが、熱帯低気圧から発達した台風8号が東日本をうかがっている。福島県にはきょう(8月13日)の夜遅くから翌14日未明にかけて最接近する。大雨警報。洪水警報が発表される予定だという。

なにごともなくサッと過ぎてくれればいいが、15,16日までずれこむと「精霊送り」に影響が出かねない。

わが行政区では8月16日早朝、県営住宅集会所前の庭に臨時の祭壇を設けて、盆の供物を受け取る。それが終わる9時ごろ、ごみ収集車がやって来る。いわき市では環境美化の観点からそうしている。

祭壇は前日夕方に設ける。四隅には細い竹を立て、縄を張り、杉の葉とホオズキを前面につるす。少なくとも15日夕には台風が北へ去って、青空が戻っていてくれないと困る。

台風が直撃した場合、精霊送りはどうなるのか。精霊送りどころではないから、供物は「燃やすごみ」として、通常のごみ回収日に出してもらうしかない。その旨、行政が発行する回覧にひとこと書き加えてもらわないと――。そんなことを考えているうちにお盆がきた。

2022年8月12日金曜日

翅をもった隣人・下

        
 わが家は店(米屋)と住まいがつながっている。家の玄関と店の戸を開けると、風の通り道ができる。風だけではない。ハチが現れる。チョウが、セミが現れる。ときには、スズメやヒヨドリが迷い込む。

 鳥には、すぐにでも出てもらう。そのために、あちこちの窓を開けて逃げ道をつくる。ハチは自分から庭へ出ていくのを待つ。

 ときどき、風の通り道で虫が死んでいる。先日はクロアゲハが店に転がっていた。翅の表面は真っ黒。ひっくり返すと、後ろ翅の縁に赤班が並んでいる=写真上1。

 雄には後ろ翅前縁に白い帯が見られるそうだ。表面の前翅を開くと、後ろ翅の付け根に白い帯があった。ネットの図鑑で照合すると、クロアゲハの夏型の雄らしかった。

クロアゲハに似たガにアゲハモドキがいる。形や色が似ている。こちらの触覚は櫛のようになっている。念のために死んだチョウの触覚を確かめる。モドキではなかった。

 ジャコウアゲハとアゲハモドキもまちがいやすい。といっても、ジャコウアゲハを見たのは2年前の初秋が最初だった。

四倉・薬王寺を訪ねたとき、参道沿いの草むらにアゲハチョウの仲間が止まっていた。キアゲハにしては開いた翅の色が薄い。銀色がかっている。白い紋様も独特だ。写真に撮ってデータをパソコンに取り込み、ネットで検索したら、ジャコウアゲハの雌だった。ジャコウアゲハは毒蝶だそうだ。

 ほかに、わが家の庭でどんなアゲハチョウを見たか。アオスジアゲハ。キアゲハ。拙ブログによれば、モンキアゲハらしいものもいた。

 13年前の今ごろだ。「クロアゲハかな」。カミサンが庭から呼んだ。急いで庭に出ると、大きな黒いチョウがホトトギスの葉に止まっていた。カメラのシャッターを2,3回押したら、ヒラヒラ空に舞い上がった。黒い翅に白い紋がある。図鑑に当たると、モンキアゲハらしかった。

そのときの文章。――庭は狭い。そこに種々雑多な木が植わってある。カキ・プラム・ニシキギ・カエデ・ムラサキシキブ・ビワ・サンショウ・フジ・ミツバアケビなどのほか、生け垣代わりのマサキとサンゴジュが隣地との境界を仕切る。

これにホトトギスやミョウガ、シラン、イカリソウその他の草花が密生する。混植が過ぎて緑自体が窒息しそうなくらいだ――。

モンキアゲハは本州の関東以西、四国、九州、南西諸島に分布するという。いわきは東北と言っても北関東圏とそう変わらない。いわきに迷い込んで来たのか、定着したのかはむろんわからない。

3週間ほど前、台所の軒下にあるパセリの葉と花を食べるキアゲハの幼虫2匹の話を書いた。先端の花に迫る幼虫=写真上2=を見たのが最後だった。

 2匹はそれから1~2日後、姿を消した。どこか庭木の葉陰に移動して、さなぎになったのだろう。時期的にはもう羽化して、そのへんをヒラヒラ飛んでいるかもしれない。