2019年1月31日木曜日

再び野生ネギについて

きょうで1月が終わる。振り返れば、師走~正月とキノコの本ばかり読んできた。途中で野生ネギに関する本も加わった。
  野生ネギに絞って書く。3週間近く前、BSプレミアムのドキュメンタリー番組「シルクロード 謎の民 大峡谷に生きる」に、野生ネギが登場した。昔野菜の「三春ネギ」を栽培しているので、ネギの文化史には興味がある。ネギに関する文献がわかって、図書館にあれば、必ず当たるようにしている。テレビを見て、野生ネギの「今」を知りたくなった。

ネギの原産地は中国西部~中央アジアあたりで、西へ向かってタマネギになり、東へ向かって長ネギになった――そう思っていたが、甘かった。“知層”としてはまだ浅い。掘り起こし方が足りなかった。

3000メートル級の山々に囲まれた中央アジアの大秘境。羊を飼い、キノコや野生ネギなどを採って暮らす家族。シルクロード交易を支配したソグド人の末裔――。ドキュメンタリー番組に刺激を受けて、ネットで野生ネギの情報を探したら、藤木高嶺・元朝日新聞記者の仕事を紹介する文章に出合った。

新聞にパミール高原のネギの話を書いた。同高原は中国名・葱嶺(そうれい)。「ネギの生える嶺」だ。学者から『ネギは中国西部が原産地といわれているが、野生種のネギは未発見だ。葱嶺のネギが野生種だったら、植物学上の大発見だ』という連絡を受けた。

再び現地に出かけ、標本を持ち帰ってみてもらったら、中国名「太白韮(たいはくにら)」に最も近い。つまり、ネギではなくてニラだった(詳しくは、半月前の拙ブログ「タジキスタンの“野生ネギ”?」をどうぞ)。

その流れのなかで、中国の古典『礼記(らいき)』や三蔵法師の『大唐西域記』にネギの記述があることを知る。まずは図書館から本を借りてきて、「文献」として該当個所を探した。

『礼記』は「少儀 第17」に、葱の文字が出てくる=写真上・左。読み下し文は「葱若(ねぎも)しくは大薤(おほにら)を切りて之(これ)を實(い)れ、醯(す)にして以て之を柔(やはら)ぐ」。現代文では「ネギやオオニラは切って、酢に入れて柔らかにする」となる。ネギやニラの調理法、つまりピクルスのことか。

『大唐西域記』にはこうあった。インドからの帰路、「ここより東して葱嶺(パミール)に入る。(略)崖なす嶺は数百重となり、深い谷は嶮峻である。年中氷雪を戴き、寒風は烈しい。多く葱を産出するから葱嶺と言い、また山の崖が青々としているので名としたのである」。葱嶺の注釈に「堅い葱が多く野生しているのは事実である」という1行が付け加えられていた。

三蔵法師が通った葱嶺の景色とドキュメンタリー番組「シルクロード 謎の民 大峡谷に生きる」が重なる。「絹の道(シルクロード)」は「ネギの道」でもあった。

ほかにも藤木氏らの本を読んだが、それらは「ネギをめぐる冒険」とでも呼べるものだ。きょうはとりあえずネギに関する最古の文献の紹介にとどめる。

2019年1月30日水曜日

突然、客がやって来た

 月曜日(1月28日)は夕方、街の帰りにいつもの夏井川の堤防ではなく、対岸・山崎の県道を通った。ちょうどハクチョウたちが東方の田んぼから戻って来るところだった=写真。助手席のカミサンに頼んで写真を撮ってもらった。
車を運転していると、どうしてもシャッターチャンスを逃してしまう。帰るとすぐ、ハクチョウの写真を確認して晩酌を始めた。銚子が底をつこうという夜7時半ごろ、いわき地域学會の若い仲間から電話が入った。「これから飲みに行ってもいいですか、A君ともう一人の3人で」

 去る者は追わず、来る者は拒まず――で、もちろんOKした。慌てたのはカミサンだ。酒はあるが、つまみがない。電話をかけてきたのはW君。A君はインターネット古書店主。わが家に着いてから、A君がコンビニへ行って自分の好きなつまみとアルコールその他を買って来た。

残る一人は……。ネット古書店とは別に、A君は昨年夏、平・本町通りにリアル古書店を開業した。その店に、その日、たまたま現れた若い女性だった。日米の血が混じっている。「お・も・て・な・し」の滝川クリステルさんに似ている。日本語は流暢だ。

名刺に上智大学客員研究員とあった。アメリカのコロンビア大学で文化人類学を専攻し、博士課程にある学者の卵だ。原発事故に遭った双葉郡、そのなかでも主に大熊町の人々について調査・研究をしているという。いわき市南部にアパートを借りて住んでいる。

そうか、そうか。東京あたりからたまにやって来るのではなく、“現地”に住んでフィールドワークを続けるというのは、共感できる。それに、「非日常」(ニュース)を追うのは熱心だが、「日常」には弱いジャーナリズムと違って、避難者の暮らしや心の変化を継続的に調べている姿勢には、好感が持てる。

それはそれとして、たまたま入った古書店からW君の車で拉致(らち)されるようにわが家へ連れてこられたのだから、めんくらったのではないか。でも、「たまたま」から人はつながっていくのだ。詩人の鮎川信夫が晩年の日記に記していたように、「人生(ライフ)においては。あらゆる出来事が偶発的(インシデンタル)な贈与(ギフト)にすぎない」のだから。

今でこそ古書店主だが、A君は関東地方の大学に通っていたとき、運転免許を取るのにいわきで集中合宿をした。たまたま自動車教習所の周辺をぶらついたとき、わが家(米屋)に俵その他の藁製品や民具が飾られているのを見て、訪ねて来た。カミサンが応対した。以来、いわきの住人になり、三番目の息子のようなつきあいが続く。

そのA君の古書店にたまたま彼女がやって来た。20年ほど前のA君がそうだったように、今度も「たまたま」が「必然」になれば、それはそれでおもしろい。知りあいになった原発避難者を紹介したり、ゲストハウスに泊めたりするくらいのことはできる、ということを、いつもの倍は焼酎を飲んだ頭で考え、話した。

2019年1月29日火曜日

鎮魂の「じゃんがら和紙人形」

 いわき地方に「じゃんがら念仏踊り」、略して「じゃんがら」というものがある。月遅れ盆に青年会が新盆家庭を巡り、〈チャンカ、チャンカ〉と鉦(かね)をたたいて唄い踊り、死者を鎮魂する郷土芸能だ
〈チャンカ、チャンカ〉はいわきの音。じゃんがらのリズムはいわきのリズム。じゃんがらの歌はいわきの歌。いわきを代表する音・リズム・歌のすべてをじゃんがらは含む。いわきの人間は母親の胎内にいるときから、じゃんがらの鉦の音とリズムと歌をゆりかごにして育つ。

このじゃんがらを題材に、平・旧城跡の馬目美喜子さんが始めた「じゃんがら和紙人形」も、今や工芸品として広く知られる存在になった。

 大津波で壊滅的な被害に遭った平・薄磯地区で、去年(2018年)10月11日、カフェ「サーフィン」が再オープンした。新年になってからは初めて、おととい(1月27日)の日曜日、昼食をとりに出かけた。

 インテリアを兼ねて、ママさんやその知人がつくった小物がたくさん展示されている。前はなかったケース入りのじゃんがら和紙人形もあった=写真。聞けば、男性が、大津波で亡くなった薄磯の人たちのためにと、馬目さんに発注し、店に贈った。男性は店の常連だったのかもしれない。

 いわきでは行方不明者を含めて450人近い人が亡くなった。うち、薄磯では120人が犠牲になり、10人前後が不明のままだ。

 あと1カ月ちょっとで、あの日から満8年になる。薄磯に限らないが、津波被災地は風景が一変した。沿岸部で生まれ育ち、暮らした人たちにとっては、「ふるさと」は胸中にしかない。しかし、その胸中には今も亡くなった人、行方不明の人の顔が浮かんでは消え、消えては浮かんでいるのだろう。

 薄磯で亡くなった人たちのために――。じゃんがら和紙人形も、ただの工芸品ではなく、生き残った人のまごころを宿したものになった。祈りの対象になった。

そんなことを考えていると、内陸の中央台から年配の女性がコーヒーを飲みにやって来た。ママさんとは旧知の間柄だ。震災前は薄磯に住んでいた。津波で家が流されたという。「花すすき誰も悲しみもち笑顔」。またまた故志摩みどりさんの俳句が思い浮かんだ。

2019年1月28日月曜日

除雪車が出動したようだ

 いわきでも、山間地では除雪車が出動する。道端の雪のかけらでそれがわかる、ということを――。
 土曜日(1月26日)未明に降った雪は、いわきの平地ではあっという間に消えた。雪によるスリップ・追突事故がなくてよかった。とはいえ、山地では、そして平地と山地の中間の渓谷では、雪が残っているはずだ。

 翌日曜日、つまりきのう、夏井川渓谷の隠居へ様子を見に行った。平地から渓谷に入ると、道路の両側に雪が残っていた=写真上。ところどころ雪のかたまりがある。土曜日の何時かはわからないが、除雪車が出動したのだろう。おかげで、アスファルト道路は乾いていた。

隠居に着く。庭は真っ白だ。ん! 雪の上に動物の足跡がある=写真下1。谷側の土手から庭に上ってほぼ一直線に家の玄関の方へ向かっている。隠居の濡れ縁や玄関先にテンらしい動物がフンをする。テンか? あとで、ネットでチェックしたら、テンではない。キツネの足跡に似る。これだから、渓谷通いがやめられない。
 先日、三春ネギの苗床に寒冷紗をかけた。そちらはどうか。雪の重みでたわんではいたが、ネギ苗を押しつぶすほどではなかった。

冷たい風が吹いて、雪がふっかけていた=写真下2。こんな日にはなにもすることがない。が、綿帽子をかぶった白菜、枝に雪が残って白と黒のストロークのようになっている裸の木々、道ばたの雪のかたまり……。めったにないシャッターチャンスだ。
しばらく動き回っていると、カミサンが「雪の写真を撮ったんだから、もう帰ろう」という。滞在わずか20分そこらでマチへ戻った。

上流の川前町は、渓谷のほかに山地に集落が点在する。そちらは一面の雪野原だろう。スタッドレスタイヤをはいていても、いわきの“雪国”を走り回る自信はない。

いわきは、大きくはハマを含む平地と山地の二つに分けられる。面積的には山地が圧倒的に多い。渓谷は山地でもあり、平地の地続きでもある。

この四半世紀は渓谷を“現場”に、いわきの平地と山地の違いを見てきた。同じ夏井川流域ではあっても、平地と山地のつながりは渓谷を媒介にした「非連続の連続」だ。だから、雪が降って、平地ではすぐとけた、やれやれ――という感覚にはなれない。少し雪が残っている渓谷、根雪になった山地の姿が見える。

ついでながら――。先日も紹介した永澤義嗣『気象予報と防災――予報官の道』(中公新書)にこんなくだりがあった。気象予報士や新聞が「上空の寒気が入り込んだ影響で、各地で雪が降り……」といったり書いたりするのは間違い。雨になるか雪になるかは地上の気温が重要であって、表現としては単に「寒気が入り込んだ影響で雪が降り……」でいいのだという。

地上の気温からいっても、いわきのハマやマチには「光の春」が訪れつつあるが、いわきのヤマはまだまだ「寒さの冬」のなかにある。

2019年1月27日日曜日

ホウボウの刺し身とアラ汁

 日曜日の晩は刺し身と決めている。初めてホウボウの刺し身を食べたのは、2013年師走最初の日曜日だった。行きつけの魚屋さんとのやりとりを記した拙ブログを参考にすると、ホウボウとの“初顔合わせ”はこんな具合だった。
 2012年までは夏場の「カツ刺し」オンリーだった。冬になると、魚屋さんから足が遠のく。ときどき、思い出したようにタコかイカの刺し身を食べる程度だった。2013年も、秋にカツオの刺し身からサンマの刺し身に替わり、それも品切れになって、白身の魚中心になった。

そろそろ打ち止めかと思いながら、師走に出かけると、ヒラメとホウボウ、皮をあぶったサワラの刺し身があった。サワラとホウボウは初めてだ。盛り合わせにしてもらった。ホウボウの甘みに引かれた。白身も捨てがたい。で、次の日曜日はヒラメも加えてもらった。ヒラメのえんがわがコリコリしてうまかった。

冬には冬の刺し身がある。生カツオ以外の刺し身のうまさを知って、1年を通して刺し身を食べるようになったのは、ざっくりいって震災後だ。初めての刺し身はもれなくブログで書いてきた。ブログにアップしなくても、日記には何の刺し身を買って来たか、味はどうだったか、くらいはメモしておく。「刺し身週記」だ。

 今年(2019年)はハガツオ、そして先週がホウボウ=写真上=だった。ハガツオは初めて、ホウボウは5年ぶりの対面だ。ホウボウはアラももらった。ヒラメやホウボウのアラ汁をすすってからは、カツオのアラ汁は急速に頭から消えた。ホウボウのアラをすまし汁=写真下=にすると、上品ですっきりさっぱりした味になる。砂糖を入れないのに甘みさえ感じられる。これが、たまらない。
 同じ阿武隈の山里出身、発酵学者の小泉武夫さんが“アラ汁小説”を書いた。新聞が取り上げていた。『骨まで愛して 粗屋五郎の築地物語』という。城卓矢の「骨まで愛して」という歌謡曲が大ヒットしたのは昭和41(1966)年。私は18歳、小泉さんは23歳だった。大人になった小泉さんには、歌が骨身にしみたのかもしれない。

“アラ汁小説”は図書館にあるが、「貸出中」になっている。そちらはしばらくがまんするとして、きょうは朝、いつものように車にマイ皿を積んで出かける。夕方、帰宅する前に魚屋さんへ寄る。どんな刺し身が待っているのか。拙ブログに当たると、3年前のちょうど今ごろ、イワシとヤリイカの刺し身を食べた。イワシもいいな。

2019年1月26日土曜日

紅梅と義家像

 4時過ぎ、天気が気になって起きた。静かだ。玄関を開けて新聞を取ると、雪が降っていた。庭も車の屋根も白くなっている。ぼたん雪ではなくて、細雪(ささめゆき)。手のひらで受けると、すぐ消える。積もるのか積もらないのか、判断に苦しむが、5時前に再度見ると、小降りになって、半月がおぼろに輝いていた。
 さて、日曜日(1月20日)に、いわき市南部の勿来関(なこそのせき)文学歴史館を訪ねたときのこと――。

 近くの吹風殿(すいふうでん)駐車場を中心に、人がたくさんいる。最初は吹風殿でなにかイベントがあるのかと思ったが、そうではなかった。みんなスマホを見ている。例のあれか。人はうろついていても、同館で開かれている企画展「いわきの雛(ひな)の吊(つる)し飾り――塩屋呉服店の『おつるし物』」には興味がない、いや知らないようだった。

 企画展を見たあと、少し周囲を歩いた。館の隣の広場に紅梅の花が一輪落ちていた=写真上。紅梅はどこに、と見れば、海側の斜面に植えてあるのが満開だった。紅梅の花の向こうに海が見えた。

 ウミ、ウメ……ウメハラの連想がはたらいた。哲学者の梅原猛さんが2週間前の1月12日に亡くなった。若いときに宮沢賢治などを論じた『地獄の思想』(中公新書、1967年)を読んだだけで、「梅原日本学」には縁がなかったが、およそ30年前にいわきで講演したことは覚えている。

当時、いわき民報で書いていたコラムから、講演のポイントを紹介する。梅原さんは、和魂洋才を踏まえて「縄魂弥才(じょうこんやさい)」という言葉を使った。縄文は変わらない、変わらないものの中心に宗教がある。弥生は変わる、外来の知識や技術を取り入れて新しくなる。

梅原さんは講演後、沼ノ内の国指定史跡「中田横穴」を見学して、打ち上げパーティーに臨んだ。その席上、中田横穴の「三角文様」から、同じような装飾横穴を持つ九州地方といわき地方を結ぶ「海上の道」を想定し、「あの文様は波を表しているのではないか」と、梅原的直観を披露した。

関の公園にある源義家の銅像=写真下=と、JR勿来駅前の義家像も見た。公園に義家像が立ったあとだったように思う。ときどき夫婦で尊顔を拝しに出かけた彫刻家の故本多朝忠さん(平)=平・松ケ岡公園の安藤信正像制作者が、「あの銅像はおかしい、兜(かぶと)の紐(ひも)が上あごにない」と憤慨していた。
  兜がずれて窒息しないように、紐は下あごと上あごの両方にかけて結ぶものだと、本多さんから教えられた。勿来の関公園に来たついでにそれを確かめてみたくなった。義家像には上あごに紐がない。いや、下あごにも紐があるようには見えない。彫刻家のいうように、時代考証とは無縁の義家像なのだと理解した。

2019年1月25日金曜日

いわきは晴れっぱなし

 新しい年になって雨が降った日は? 福島県の浜通り南端、つまり東北最南端の太平洋側に位置するいわきは、冬場、西寄りの季節風に見舞われるものの、晴れた日が続く。「サンシャインいわき」と自賛するゆえんだ。
とはいえ、「五風十雨」の言葉があるように、何日かに一度は雨(たまに雪)が降る、はずなのに……。福島地方気象台のホームページで確かめると、いわき市小名浜では昨年(2018年)12月23日に1.5ミリの降水量を記録して以来、きのう(1月24日)まで1カ月も雨がない。

会津と中通りの境に奥羽山脈が、中通りと浜通りの境に阿武隈高地が、南北にのびる屏風のように立ちはだかる。それが福島県の風土と文化をかたちづくる。いわゆる「はま・なか・あいず」。大陸からの季節風が日本海を渡って来るうちに雪雲になり、日本海側と会津に大雪をもたらす。中通りにも残りの雪を降らせると、もう浜通りでは乾いて冷たい風だけになる。

それが福島県の冬の気象パターンだが、ここまでいわきで雨が降らないと、かえって心配になる。

夏井川渓谷の隠居で昔野菜の「三春ネギ」の苗を育てている。極寒期の風緩和策として寒冷紗をかけた=写真上1。ネギは乾燥に強い。でも、たまには雨が降ってくれないと、追肥の効果も上がらないのではないか。

そのうえ、暖冬だ。おととい(1月23日)、去年定植して掘り取ったネギの溝跡に生ごみを埋めた。スコップが楽に入っていく。今の時期なら、凍土の厚さは5センチ以上になってスコップは歯が立たないのに、まだ「遅い秋」のようだ。

暖冬かどうかは渓谷の滝をチェックすればわかる。隠居の対岸にある「木守の滝」は、両端に白い帯のようなものができていた。しぶき氷だが、落水の勢いは変わっていない。全面凍結には程遠い。
夏井川本流の「籠場の滝」は、しぶき氷が一部、かすかに岩盤を覆っているだけだ。その滝の少し下流、左岸の「ヤマベ沢」の滝からは勢いよく水が落下している。渓谷で一番小さい橋が架かっている。改修時に展望スペースができた。そこから、つまり真上から滝の落水を見た=写真上2。ここもしぶき氷ははしっこに少しできているだけだった。

いわきの極寒期は立春(2月4日)あたりまでで、あと10日くらいこんな状態が続くと、異常気象ということになるのではないか。あした(1月26日)は「北の風、雪か雨、昼過ぎから曇り」の予報だ。雨でも雪でもいい、インフルエンザを抑えるためにもお湿りがほしい。

2019年1月24日木曜日

いわきの雛の吊るし飾り展

いわき市勿来関(なこそのせき)文学歴史館で3月19日まで、企画展「いわきの雛(ひな)の吊(つる)し飾り――塩屋呉服店の『おつるし物』」が開かれている=写真(図録表紙)。
 塩屋呉服店は、今はない。平を代表する豪商・塩屋の分家で、明治6(1873)年から大正15(1926)年まで、呉服店を営業した。

 その子孫の民俗学者・山崎祐子さんが、塩屋呉服店の暮らしと年中行事を2冊の本にまとめた。1冊は『明治・大正 商家の暮らし』(岩田書院、1999年)、もう1冊は編著『雛の吊るし飾り』(三弥井書店、2007年)。

前著は、山村暮鳥その他、大正ロマンを生きた平の詩人たちの足跡をたどるうえでおおいに参考になる、私の「座右の書」だ。「吊るし飾り」の本は、カミサンのアッシー君をしているうちに、興味がわいて読んだ。おかげで、今、メディアで取り上げられる「吊るし雛」とは、分けて考えられるようになった。吊るし雛は、いわきの歴史のなかでは新しいイベントだ。

図録からピックアップする。①山崎家の吊るし飾りは全部で97点、うち77店は押し絵②明治から大正初期にかけてつくられた③製作者は10人いて、5人は従業員――。

震災前の2008年4月、好間のギャラリー「木もれび」で「押し絵」の作品展を見た。カミサンの知り合いの「ぴょんぴょん堂」さん(平)がお弟子さんと開いた。

当時の拙ブログによると、押し絵はちりめん細工の一種。絹織物ならではのやわらかな質感、豊かな色と紋様を利用して、作品をつくる。「ぴょんぴょん堂」さんの創作の原点という、生家(西村屋薬局)の「雛のつるし飾り」が展示されていた。

芽吹いて間もないヤナギの枝に、動物や兵士や、江戸時代の若者や娘や、やっこなどの押し絵がつるされて飾ってあった。平の商家では昔、仕事を終えた夜、人が集まって雛祭りに飾る押し絵をつくったという。立派な雛段がセットされたわきに、花瓶にヤナギの木を生け、枝に押し絵をつるした。

塩屋呉服店の吊るし飾りも、同じようにしてつくられた。展示されたものを見ると、みな「押し絵」だ。そこが、今の吊るし雛とは違う。

2019年1月23日水曜日

カラスが道をふさぐ

 ごみ集積所をめぐるカラスと人間の知恵比べはエンドレス――つい、そうグチりたくなる。
 わが家の前の集積所は、私がごみネットを出す。毎日ではない。月曜日早朝に出して、カミサンが木曜日に引っこめる。わが地区の場合、週末3日間はごみ収集がない。この間だけでも歩道に黄色いごみネットがないほうが、景観的にいい。紫外線を浴びない分、ネットの寿命ものびる。

 あるとき、黄色がカラスに対して有効だというニュースが流れた。たしか、石原知事のときの東京都の実験だった。以来、急速に黄色いごみネットが普及した。わが行政区内もあらかた黄色いごみネットに替わった。それでも、カラスの被害はなくならない。色に関係なくカラスは生ごみの入ったごみ袋に群がる。

前にも書いたことだが、カラス研究の第一人者、杉田昭栄・宇都宮大学名誉教授の『カラス学のすすめ』(緑書房、2018年)にこうある。「今でもカラスは黄色が嫌いだと思っている方もいるようですが、(略)カラスに嫌な色はありません。あくまでも紫外線遮断効果がないと効果はないことを、この場でお伝えしておきます」。色ではなく、紫外線カットができるかどうか、なのだという。

生ごみ散乱の問題は、カラスではなく人間の問題だ。ごみの出し方、ごみネットのかぶせ方がいいかげんだと、たちまちカラスに狙われる。ネットから袋がのぞいていると、1羽がネットをくちばしで持ち上げ、別の1羽がごみ袋を引っ張り出してつつくといった連係プレーまでやる。

 カラスは学習する。人間が新たな手を打てば、新たなやり方を考える。今年(2019年)はまだ被害はない。が、よそのところではさっそく、ごみ散乱の憂き目に遭った。

 おととい(1月21日)昼前、街へ行った帰りに見た光景だ。カラスの集団(およそ20羽)が道をふさいでいた。そばにごみ集積所がある。シートからごみ袋がのぞいていたらしい。

生ごみの入った袋を二つ引っ張り出してつつきはじめる。それを見守るカラスがいる。周囲を見張っているカラスがいる。車で近づいても、飛ぶ気配がない=写真。なんてことだ。車の方が減速し、わきをそっと通らなければならないなんて。

 集積所には集積所の個性がある。戸建て住宅の集積所、アパートの集積所、両方混在の集積所……。高齢世帯、若い家族、独身世帯、留学生でもごみの出し方が違う。

生ごみ狙いのカラスが絶えず現れる。「翼をもった隣人」の存在を頭に入れておかないと、たちまちスキを突かれる――自分の集積所の“教訓”に、この惨状を記録しておく。

2019年1月22日火曜日

投げもちと散華

 1月15日前後の日曜日は、小名浜・徳蔵院の「初観音」へ出かける。檀信徒、というわけではない。境内で「かんのん市」が開かれる。住職の奥さんとカミサンが国際交流のイベントで知り合って以来、カミサンがかんのん市で「シャプラニール=市民による海外協力の会」のフェアトレード商品を展示・販売するようになった。
 前は品物とカミサンを送り届け、家に戻って2時間後に迎えに行く、というパターンだったが、2回も往復するのはめんどうだ。ここ数年は、寺の駐車場にとどまって行事が終わるのを待つことにしている。

運転席にいると、車内が“サンルーム”になって、いつのまにかトロンとしてしまう。

今年(2019年)はざっと1週間前の1月13日に開かれた。晴れて北西の風が吹き荒れる年もあったが、今年は快晴、無風。“サンルーム”で本を読み始めるとすぐ、まぶたがくっついた。

 11時半には祭りのしめくくりに、お坊さんたちが境内に立つ観音像を巡りながら読経し、散華ともちを撒(ま)く。これまでは写真を撮るのに忙しかったが、今年はその私の前にもちが飛んで来た。カミサンは、横笛を吹く天女と踊る天女が描かれた散華を拾った=写真上1。少子高齢化が影響しているのか、駐車場は満パイでも人の数は少しずつ減っているようだ。
 と、書いてきて、もうひとつ、定点観測をしているものを思い出した。今年もマンサクが咲き始めていた=写真上2。毎年、初観音に境内で咲いている木の花をチェックしている。ロウバイは満開。ヤブツバキも咲いている。

マンサクは去年、一昨年に比べると、花の数が少ない。暖冬だから早い、厳冬だから遅い――とは、単純にいえないのか。それとも、たまたまなのか。毎年見ていると、そんなことも気になってくる。

2019年1月21日月曜日

起震車で震度7を体験

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(震災名=東日本大震災)では、いわきは震度6弱だった。当時の拙ブログで状況を再現してみる。
                  ☆
3月11日午後2時46分ごろ、大地が揺れた。揺れて、波うって、今にも大地に亀裂が入るのではないか、と思われるほどの大地震になった。

 茶の間で横になって本を読んでいた。だんだん揺れが大きくなった。<ただごとではない>。庭に飛び出して車の屋根に手を置いた。車がぼんぼんとびはね、前後する。二本の足では立っていられない。

 1分、いやそれ以上、揺れていたのは何分だろう。揺れが収まった時点で家に入る。本棚が倒れ、食器が落ち、テレビが倒れている。2階も足の踏み場がない。

 ここは、いわき市平中神谷地内。カメラを手に家の前の道路に出る。ちょうど小学生の下校時間だ。低学年の女の子が隣の駐車場にぺたりと座り込んで泣いている。石のかけらが頭にぶつかったという男の子がいた。見ると、歩道そば、民家の石塀が崩れて歩道をふさいでいた。このかけらが頭に当たったのだという。

 となりは元コンビニ。駐車場が広い。子どもたちはそこにひとかたまりになって、大人になだめられていた。ざっと見たかぎりでは、子どもたちは無事だった。近隣住民にもけが人などはいなかったようだ。地震からおよそ1時間たつが、とぎれることなく余震が続いている。津波が心配だ。
                  ☆
 地震直後に書いてアップした。「津波が心配だ」と書いたときには、すでに大津波がいわきのハマにも押し寄せていた。次は、その翌日のブログ。
                  ☆
福島県の浜通りには原発がある。その原発がおかしくなった。日本で、福島県で、浜通りで、起こってほしくない事態が起きた。放射能漏れが起きた可能性があるという。菅首相がヘリで原発を見に来るという。何のために?

 いわき市は原発立地町の南にある。浜通りというくくりでいえば、原発をかかえたエリアに入る。原発からの避難指示が3キロから10キロに拡大された。それがさらに拡大されて、いわきまで避難指示の範囲に入るのかどうか。(中略)ただただ原発が怖い。
                   ☆
 なぜ、当時のブログを再掲したかというと、きのう(1月20日)午前、起震車で震度7を体験したからだ。6弱どころではない。7の揺れで年寄りはたたきつけられ、はねとばされてけがをするだろう――そう感じた。

いわき市消防本部で平地区の自主防災会リーダー研修会が開かれた。市河川課の職員が土砂災害をテーマに講話したあと、起震車で震度7の揺れと、消火器による初期消火を体験した。

震度7はすさまじいものだった。普通の家でいうと、食卓だ。4人がいすに座る=写真。地震波が届く。揺れ始める。縦にも横にも激しく揺れる。いすがずれ動く。テーブルにつかまっていないと倒れそうになる。体が激しく上下する――これでは古い家はつぶれる、腰に持病のある人は体験しないほうがいい。

 震度7は、1995年の兵庫県南部地震(震災名=阪神・淡路大震災)で初めて観測された。そのあと、2004年の新潟県中越地震、2011年の東北地方太平洋沖地震、2016年の熊本地震、去年(2018年)の北海道胆振(いぶり)東部地震でも観測されている。日本列島はたしかに大地鳴動の真っただ中にあるようだ。
 
研修会で8年前の災厄を思い出し、苦難の歩みを振り返ったせいだろう。夕方、別件の用をすませて帰宅したら、全国都道府県対抗男子駅伝で福島県チームが初優勝した、とテレビが伝えていた。日本一に思わず「ウオーッ」と叫ぶ。こちらは震度7以上の衝撃だった。

2019年1月20日日曜日

刑務所の作業製品展示即売会

 カミサンと私とでは興味・関心が違う。土いじりは2人とも好きだが、私は野菜派、カミサンは花派。花が野菜のうねの邪魔をしたり、うねのつもりで耕したらスイセンの球根が出てきたり、ということがある。こんなときには多少、火花が散る。
 木曜日(1月17日)、「刑務所作業製品展示即売会(矯正展)」のチラシが新聞に折り込まれていた。17~19の3日間、内郷コミュニティセンターを会場に、全国の刑務所でつくられた小物や家具製品を展示・即売するという。

記者的な興味はあったが、のぞいてみようとは思わなかった。カミサンは興味があるとすぐ行きたくなる。声がかかった。初日、オープン直後に出かけた。車の中で待つのもシャクなので、同行した。

主催したのは福島刑務所と公益財団法人矯正協会刑務作業協力事業部。刑務所で、矯正の一環としてつくられている革靴・革ベルト・ポーチや木工製品などが展示された。まな板(秋田)・和紙便箋(府中)・細うどん(横浜)・槐(えんじゅ)のコースター(網走)を買った=写真。

それで気がすんだわけではなかった。翌日、また行きたいという。チェスト(収納箱)の引き出しの表面に「こぎん刺繍」が施されている。チェスト自体も無垢(むく)材でできている。購入希望者がいたようだが、まだ残っていれば買いたいという。「こぎん刺し」にえらく感心したらしい。

こぎん刺しは栃木(女子刑務所)で、チェストそのものは黒羽(男子刑務所)でつくられたそうだ。ネットで確認すると、どちらも矯正作業に伝統工芸を取り入れている。

マイカーのフィットには入らないので、刑務所の職員にトラックで運んでもらった。家に置くと、思った以上に大きい。重厚感もある。

正札はけっこうな値段(5万~10万円の間)だった。それを「高い」といえる立場ではない。還暦に始めた海外修学旅行に、福沢諭吉が何十枚も消えている。買ったら、2割ほど安かった。傷があったり、ゆがみがあったりしたからだが、無垢材が部分的に膨らんだり縮んだりするのは当たり前らしい。

今年(2019年)の年賀状にこういうのがあった。カミサンの親友からで、「夫唱婦随」の逆のことが書いてあった。そう、「婦唱夫随」でいれば、わが家は平穏だ。

2019年1月19日土曜日

ハガツオの刺し身

いわきも極寒期を迎えた。生カツオの刺し身は晩春までおあずけだが、たまに西日本のカツオが市場に届く。行きつけの魚屋さんが手に入れると、「カツオ、あります」といってくれる。早ければ2月にはカツ刺しが食べられる。
日曜日の晩は刺し身、と決めているのは、「カツ刺し」を食べたいからだ。カミサンもそのときだけは家事から解放される。もう40年近い習慣だ。

生カツオのない冬場は、ほかの魚の刺し身を経験するチャンスでもある。これまでに食べた刺し身はサンマ・タコ・イカ・ヒラメのほかに、メジマグロ・ブリ・タイ・メバチマグロ・サワラなど。親戚や知り合いからもらって、自分で刺し身にしたものでは、スズキ・ヒラマサ、浜の知人の家でごちそうになったものではアイナメ・マンボウ・アワビなど。いわきは“刺し身天国”だ。

この冬、わが“刺し身目録”に新しい魚が加わった=写真。ハガツオという。カツオと同じスズキ目サバ科だ。サバ科は、歯が小さくて目立たないものが多いが、この魚は違う。目立つうえに、カツオに似ている。で、「歯鰹(はがつお)」。日本では南部の太平洋に生息しているそうだ――。以上は、あとでネットから得た情報。

師走最後の日曜日、行きつけの魚屋さんへ行くと、「ハガツオがある」といわれた。サクどりした身はピンク色で、メジマグロに近い。くせのない味だった。年明け2回目の日曜日(1月13日)には、ためらわずに切ってもらった。

夏場は、マイ皿を出せば、黙ってカツオを切ってくれる。冬場は、まずは「何があるの?」で始まる。若だんな(といつも書いているが、先代はすでに彼岸へ渡った。でも、先代は記憶のなかで生きている。で、つい若だんなになってしまう)が、「〇×があります」と応じる。それで食べたい刺し身をしぼる。

先代がそうだったように、若だんなもよく、魚や業界の話をしてくれる。そこがモノを並べただけの大型店とは違う。食べ方(ニンニクがいいか、わさびがいいか)も教えてくれる。ハガツオはわさびだけにした。

2019年1月18日金曜日

オーロラと「氷窒素」

 20歳前後からしばらく、宮沢賢治にハマった。今も片足くらいはハマっているかもしれない。新婚旅行はイーハトブ(岩手県)だった。還暦に始めた高専同級生との“海外修学旅行”では、賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得た樺太(サハリン)を訪ねた。
 それとは別に、賢治の詩に出てくる「氷窒素」がオーロラに関係する、と知ってからは、いつかは“輝く窒素”を見たいと思うようになった。2009年に仲間と北欧を旅行した。ノルウェーのフィヨルドに感動した。しかし、北極圏までのしてオーロラも、という発想には至らなかった。オーロラは“極北”の現象という思い込みがあった。

 賢治の「氷窒素」は詩集『春と修羅』の<序>に出てくる。「……気圏のいちばん上層/きらびやかな氷窒素のあたりから/……」。新聞記者になりたてのころだった。全国紙の文化欄にオーロラの研究者が随想を寄せ、賢治の「きらびやかな氷窒素」をオーロラにからめて論じていた。<氷窒素はオーロラのことか>と納得した。

先の3連休2日目(1月13日)、いわき芸術文化交流館アリオスで「オーロラ上映&トークライブ」が開かれた。この日は日中、二つの用事があって見に行くことはできなかった。映像を見た知人がフェイスブックで感動を伝えていた。

実は年末の12月25日、つまりクリスマスの晩、NHKが「天空のスペクタクル~オーロラ・四季の絶景」を放送した。カナダの夜空におどるオーロラに息をのんだ。

さっそく、オーロラの本を図書館から借りてきて読んだ。太陽から勢いよく飛び出してくるプラズマ(太陽風)が地球の磁気圏に入ると加速し、大気中の酸素や窒素と衝突する。そのとき、発する光がオーロラ、ということだった。

色は下から紫・緑・赤。それにも理由がある。紫やピンクは窒素との衝突によって生じる。窒素は酸素より重い。オーロラに紫色の部分があらわれたら、下層で窒素とぶつかった証拠だ。酸素の密度が濃ければ緑色、プラズマのエネルギーが小さいときには酸素の薄い上層では赤くなるという。

クリスマスのテレビでは、「世界・ふしぎ発見」でミステリイー・ハンターをしている白石みきさんがリポーターになった。現地で先住民からオーロラにまつわる話を聞く。「オーロラは死者の魂。先祖の魂がわれわれを守ってくれる」。それを行く先々で聞かされる。

何度目かのオーロラを見て、彼女は2年前に亡くなった母親を思い出して涙ぐむ=写真。「お母さんが会いに来ているように感じる」。オーロラには、人の魂をゆさぶる力と美しさがあるようだ。

師走の初旬、Eテレ「日曜美術館」でノルウェーの画家ムンクの「叫び」を見たときから、脳内にオーロラが出現していた。あの背景の流動的な色合い、あれはオーロラではないか。オーロラではないにしても、ムンクはオーロラを意識していたからこそ、ああいう流動的な背景になったのではないか――。「きらびやかな氷窒素」を、一度はこの目で見たいものだ。

2019年1月17日木曜日

「長生きしてね」

「今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく」。きのう(1月16日)昼前、たまたまテレビをつけたら、NHKが歌会始を中継していた。皇后さまの歌に引かれた。今しばらく生きよう――そう、年寄りにはこの気概が大切なのだと、平成最後の歌に元気づけられた。天皇退位後は、お二人とも歌会始に歌を寄せることはないらしい。
 前日、皇后さまと同年齢という“お姉さん”がやって来た。去年(2018年)秋、ご主人が亡くなった。ドクターだった。入・退院を繰り返し、最後に入院したときには、自分の症状を“診断”して「もう退院はない」、亡くなるときには「『あと2~3時間だな』といって、そのとおりに息を引き取った」そうだ。

「最後まで医者だった。(妻としては、それが)つらかった」。そのうえ、「(夫が亡くなった今は)寂しいものよ」。そういうと、突然、「長生きしてね」と、視線をカミサンからこちらに向けた。「えっ? まあ」。“お姉さん”の激励が身にしみた。

 ドクターの通夜へ出かけた晩、夏井川渓谷の隠居で高専時代の仲間とミニ同級会を開いた。飲み過ぎて足を取られ、ろっ骨を折った。“お姉さん”の娘の夫が開いている整形外科医院へしばらく通った。全治50日だった。

 通院中、古希祝いを兼ねた中学校の同級会が郡山市の磐梯熱海温泉で開かれた。そのときの記念写真が年末、福島民報の折り込み情報紙に載った=写真。ずいぶん年を重ねたものだと思っていたが、“お姉さん”にハッパをかけられ、美智子さまの「今しばし生きなむ」の覚悟に触れて、あらためて「19歳の老少年」でいこう、と力がわいた。

きょうは平成7(1995)年に発生した阪神・淡路大震災の日。美智子さまが皇居のスイセンを花束にして、ガレキの上にそっと置かれた映像が思い出される。あとで読んだ本によると、スイセンの数は17本。1月17日にちなんだものだったのだろう。

2019年1月16日水曜日

「光の春」と「寒さの冬」

 夏井川渓谷の隠居のスイセンは、暮れのうちに咲き出した=写真。暖冬気味とはいえ、ちょっと早いのではないか。
冬至から1カ月弱。心なしか日脚がのびてきたが、来週あたりからいわきでも厳寒期に入る。きのう(1月15日)は小名浜で最低気温が氷点下2.8度だった。しばらくは「光の春」と「寒さの冬」の綱引きが続く。

 図書館から新着図書=永澤義嗣『気象予報と防災――予報官の道』(中公新書、2018年)を借りて読んでいる。「光の春」の由来が記されていた。ロシア語からきているという。「気象キャスター」で知られた元鹿児島地方気象台長・倉嶋厚さんが日本に紹介した。ロシアに限らず、「厳冬期、伸びはじめた日あしに最初に春の兆しを感じる2月頃の季節感をよく表している」言葉だ。

この言葉はすっかり日本人の暮らしのなかに溶け込み、俳句の季語にもなった。私も毎年、年明けから春がくるまで、冒頭のように綱引きに例えて使う。まだ小名浜測候所に職員が常駐していたころ、職場に届く広報資料を愛読しているなかで「光の春」を知り、「寒さの冬」との綱引きを知ったように記憶している。「熱帯夜」も倉嶋さんの造語だそうだ。

本には気象予報官の仕事や天気予報の実際などがつづられている。予報はなによりも言葉の「定義」から始まる。その定義(言葉)と、一般市民の言語感覚がずれている場合もある。

基本の基本は、朝や日中、夜といった時間の定義と呼び方だろう。気象庁は一日24時間を3時間ごとに8区分する。その呼び方は、0~3時:未明、3~6時:明け方、6~9時:朝、9~12時:昼前(11~13時:昼頃)、12~15時:昼過ぎ、15~18時:夕方、18~21時:夜のはじめ頃、21~24時:夜遅く、となる。日中は9~18時、夜は18~24時だ。

真夜中、日が替わっても暗いうちは「未明」、明るくなりかけたら「明け方」とざっくり認識している人間からすると、明け方が3時から、夕方が15時からというのは、なじみにくい。本には書いてないが、「西の風」と「西よりの風」の区別も難しい。「西より」は「西から」ではなく、北西から南西まで45度の角度内で風がばらついているときに、おおむね「西に寄った」風という意味で使うらしい。

で、さっそくきのう「夜のはじめ頃」の18時台に、ローカルテレビの気象情報をチェックした。NHKは8区分に従った予報、TUFは未明と明け方を省略した6区分の予報だった。なるほど、この本を咀嚼すれば気象情報番組を“批評”することもできそうだ。

本はまだ半分しか読んでいない。が、いわきにも関係するくだりを紹介する。

「天気を支配する気象現象のエネルギー源は太陽である。地球が太陽から受け取るエネルギー量は緯度によって差があり、季節によっても異なる。このため地球上では、エネルギー分布にアンバランスが生じている。このアンバランスを解消するために起きる現象こそ『気象』にほかならない。(略)収支がバランスする緯度は(略)30度から40度あたりである」

いわき市は北緯37度あたりに位置している。気象上のエネルギー収支が安定している地域だ。住みやすいワケがこれか。

2019年1月15日火曜日

タジキスタンの“野生ネギ”?

 土曜日(1月12日)の夜、BSプレミアムの「シルクロード 謎の民 大峡谷に生きる」を見て、うなった。ただし、本筋ではなくキノコと“野生ネギ”に、だが。
 3000メートル級の山々に囲まれた中央アジアの大秘境で暮らす人間を追ったドキュメンタリー番組だ。昔、シルクロード交易を支配したソグド人の末裔といわれる「幻の民」だそうだ。父親は羊を飼っている。大きい子ども2人はまちの学校へ行っている。その2人が休みで帰って来る。家の仕事を手伝う。自給自足に近い暮らしだから、自然の恵みを最大限に利用する。

父子が斜面を歩いていると、草むらに白いキノコがあった。食菌らしい。子どもがそれを採る=写真上1。地面からニョキッと生えている。柄は短い。写真を拡大すると、傘がゴツゴツ・ギザギザしている。傘裏は管孔かもしれないが、ひだのような“筋”にもなっている。日本の図鑑には載っていないキノコだ。ネットでも確認できなかった。
父子は次に、“野生ネギ”を刈り取る=写真上2。丈は短い。切り口は空洞になっている。“葉ネギ”だ。映像を見る限りでは、“野生ネギ”は株になって群生していた。斜面一帯が“野生ネギ”で覆われている。その場面でテロップが流れた。「もう十分採れたから終わりにしよう」=写真下。
 ネギの原産地は中国西部・中央アジアとされている。NHKはいとも簡単に“野生ネギ”というが、それがほんとうに野生ネギだったら、大ニュースではないか。

野生ネギの存在を裏付ける情報はないものか――。20年近く前、同じNHKの取材班に、解説者として同行した藤木高嶺大阪女子大教授(元朝日新聞記者)=当時=を紹介する文章に出合った。“野生ネギ”の話が出てくる。

 まだ現役の記者だった1981年、藤木さんはある登山隊に同行取材をした。4200メートルのベースキャンプに近い草原で寝転んでいたら、ネギの匂いがした。「10センチを越える野生のネギが群生していた。引き抜くと、白いところが10センチぐらい」あった。

 藤木さんは帰国して、新聞に「秘境のキルギス――シルクロードの遊牧民」と題する連載記事を書いた。パミール高原=中国名は「葱嶺(そうれい)」=のネギの話も紹介したのだろう。「蔬菜(そさい)に詳しい植物学者K氏から、『ネギは中国西部が原産地といわれているが、野生種のネギは未発見だ。葱嶺のネギが野生種だったら、植物学上の大発見だ』という連絡を受ける。(パミールが「葱(ねぎ)の生える嶺」とは、イミシンだ)

 藤木さんはその後、再び現地を訪れる機会があった。同じ場所に“野生ネギ”が群生していた。紫紅色の美しい花までつけていた。標本を集めて持ち帰り、K氏とともに植物学の権威(東大名誉教授)を訪ねて調べてもらったら……。中国名「太白韮(たいはくにら)」に最も近いということだった。つまり、ネギではなく、ニラ。

その伝でいうと、BSプレミアムの“野生ネギ”も、ニラの仲間、かもしれない。ネギ坊主のかたちを見ると、チャイブに近いような……。チャイブもネギの一種には違いないが。

現地の人たちにとっては、ネギでもニラでもかまわない。身近なところで得られる自然の食材だ。が、ネギのルーツを知りたい人間には、「おおっ!」と「そうかな?」の間で揺れ動く番組だった。

2019年1月14日月曜日

映画「喜びも悲しみも幾歳月」

 映画「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」は、昭和32(1957)年に公開された。阿武隈高地の山里で見たのは、公開から1年ないし2年たってからではなかったか。
 昭和30年に小学校に入学した。年に1回か2回、「映画鑑賞教室」(たぶんそういう名称だった)が開かれた。児童が隊列を組んで町の映画館へ出かけ、映画を見た。ディズニーの漫画映画「空飛ぶゾウ ダンボ」は低学年のときに、「喜びも悲しみも幾歳月」は高学年のときに見た記憶がある。

町に映画館が2館あった。実家は床屋で、知り合いの映画館主から頼まれて店にポスターを張っていた。おかげで、学校の映画鑑賞教室とは別に、小学校の高学年のときには、ちょくちょく映画を見に行った。東映時代劇の若いスター、中村錦之助のファンになった。

「喜びも悲しみも幾歳月」は別の映画館で上映された。主演の高峰秀子・佐田啓二と、錦之助の弟で息子役の中村賀津雄の名前を脳裏に刻んだ。

 映画の原作は、田中きよさんの手記「海を守る 夫とともに二十年」。夫がいわきの塩屋埼灯台長だった昭和31年、雑誌「婦人倶楽部」に掲載された。これが映画監督木下恵介の目に留まった。田中さん夫妻は退職後、いわきをついのすみかに選んだ。各地の灯台を勤務したうちで、いわきが一番住みやすかったからだった。

 その映画がきのう(1月13日)、いわきPITで上映された。劇場へ出かけてこの映画を見るのは、それこそ60年ぶりだ。いわきロケ映画祭実行委員会が「イワキノスタルジックシアター」第3弾として企画した=写真(チラシ・チケットなど)。第1弾「洟をたらした神」のときに実行委員会に加わった縁で、詩人山村暮鳥と塩屋埼灯台の小文を書いた。招待を受けて夫婦で見に行った。

 夫婦愛、家族愛の究極の姿を描いているだけではない。戦時下の総動員体制を描写することで逆に平和の大切さをも説いている――今度、それを痛感した。先の太平洋戦争で殉職した職員を、灯台の映像とともに追悼するシーンがある。塩屋埼灯台がこのときだけ、空撮で映し出された。映画の最後のシーンのような記憶があったが、違っていた。2部構成のうち、1部の終わりのころのシーンだった。

塩屋埼灯台は明治32(1899)年12月15日に初点灯をした。今のようにまっ白い「一本の指」(暮鳥)ではなくて、下から白・黒・白の縞模様だった。

 この灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体される。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20(1945)年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。

 そして、東日本大震災。大地震でガラスが全壊するなどの被害に遭い、応急的にLED灯器で小さな光を届けていたのが、およそ9カ月後の11月30日夕に復旧した。

初点灯をしてから、今年(2019年)でちょうど120年。偶然にも、ノスタルジックシアターで「喜びも悲しみも幾歳月」の上映企画がかたまった段階で、灯台を管理する福島海上保安部とコンタクトがとれたという。

 上映会では冒頭、同海保の次長氏があいさつを兼ねて灯台の色や「埼」という字のミニ解説をした。

塩屋埼灯台の「埼」が、なぜ「岬」や「崎」の字ではないのか。海図では「埼」に統一されている。呼び方も濁らない。つまり、「塩屋埼灯台」は「しおやさきとうだい」と呼ぶという。灯台の色が縞模様だったりするのも濃霧のときにわかりやすくするためだとか。塩屋埼灯台は確かに夏場、霧に包まれることが多い。初代の灯台が縞模様だったわけが理解できた。この“豆知識”だけでも見に行ったかいがあったというものだ。

田中さん夫妻の三女、作山葉子さんが塩屋埼灯台の受付をしている。映画終了後、作山さんにインタビューした特別映像「ロケ地の今を巡る“イワキノスタルジックリポート”」が流された。この映像で、映画が、田中さん夫妻がよりいっそう身近なものに感じられた。

2019年1月13日日曜日

白菜栽培は失敗

 自分でつくった白菜を漬ける――。そうもくろんで、去年(2018年)8月最後の日曜日(26日)、「耐病黄芯耐寒性大玉80日」の種をまいた。「師走には白菜漬けにしたい」と言ったら、種屋さんが薦めてくれた品種だ。
ところが、結球した、いやしかかったのは2玉だけ。外葉の先端が凍って変色し始めたので、1週間前の日曜日(1月6日)、根元から切り取り、外葉をはがして収穫した=写真。

 東北地方太平洋沖地震の大津波で原発事故がおき、放射性物質が飛散した。2013年初冬、夏井川渓谷にある隠居の庭が全面除染され、代わって山砂が敷き詰められた。長年かけてつくった菜園の土がはぎとられ、砂浜のように白くなったとき、家庭菜園を続ける気が失せた。

でも、昔野菜の三春ネギだけは種を切らしたくない――その一点だけで土と向き合っているうちに。また小規模・多品種栽培に挑戦してみよう、という気持ちがわいてきた。二十日大根から始まって、2016年にはキュウリの栽培を再開した。2017年にはキュウリのほかに、ナスとトウガラシをつくった。

で、去年、白菜を――という気になった。白菜はこれまでに3、4回つくっている。前に栽培したのは2009年だ。震災をはさんで9年ぶりに種をまいた。「耐病黄芯耐寒性大玉80日」というからには、11月下旬には結球していいはずだが、肥料が足りなかったのか、さっぱり育たない。師走になって白菜らしくなったのは2玉だけだった。

しょうがない。白菜漬けはあきらめる、ヒヨドリのえさと菜の花をつくっているのだ、と観念した。これまでの経験だと、1月後半にはヒヨドリが襲来してやわらかな葉をつつく。それで残ったものが春に花茎をのばして菜の花を付ける。これはぜいたくな食材だ。

収穫した白菜は押さえてもやわらかい。しまりがない。カミサンが白菜鍋にするという。その日、スーパーへ買い物に行った。ナメコ・マイタケ・ブナシメジ・キクラゲを買った。どうせなら、キノコ汁に――。醤油味の白菜鍋になった。

うーん――。白菜はやわらかい。未熟だから、それはそれでいい。しかし、キノコたちはどうだ。歯切れはいいが、味が淡白すぎる。野生の濃さがない。同級生が集まったときにつくった天然のキノコ汁が懐かしく思い出された。