2023年4月30日日曜日

4月の冷やし中華

                       
 早い春が過ぎて、山野はすでに初夏の装いに変わった。気温も上昇しつつある。とはいえ、朝晩は暦通りに冷え込むことがある。年寄りは体調管理が難しい。暑いからと言って、すぐ半そでには切り替えられない。

 そうしたなかで、昼に冷やし中華そばが出てきた=写真。4月の冷やし中華は、たぶん初めてだ。

 ありがたいことに、わが家では朝・昼・晩とカミサンが食事を用意してくれる。ある同級生は定年退職後、昼は奥さんの手をわずらわせないように、散歩に出て近くの公園でコンビニの弁当を食べる、と言っていた。

 たまたま昼前、図書館などへ出かけたときには、「コンビニで食べ物を買って来て」と言われる。そういうときには、コンビニのサンドイッチとコーヒー牛乳で昼食をすませる。

かつ丼やラーメンライスが普通だった若いときに比べると、量的には半分になった。出てきた冷やし中華そばも、年寄りの食欲からいうと「大盛り」だ。

盛り付けされた中央にマヨネーズがグルグル巻きになっている。「紅ショウガは?」「要らない」。マヨネーズをかける前に声がかかった。カミサンの冷やし中華にはマヨネーズの下に紅ショウガがかたまって載っていた。

マヨネーズがないと冷やし中華ではない――。いわき市民なら、たぶん「そうだ」と言ってもらえる。マヨネーズと冷やし中華そばの関係を書いた、11年前の拙ブログがある。それを要約・再掲する。

 ――昼食は冷やし中華だという(わが家の話です)。マヨネーズが用意されてある。いわきの人間にとっては、冷やし中華にマヨをかける、というのは当たり前のこと。カミサンが皿に麺を盛り、キュウリその他をトッピングした。そこへマヨを円を描くようにかけた。

しばらく前、郡山に本社がある近場のラーメン店へ行って冷やし中華を注文した。お昼どきで、客が次から次に入ってくる。テーブルに届いた冷やし中華を見て思わずうなった。「マヨが付いてない。郡山流か、ここは」

しかたがない、食べたが舌と気持ちがぼそぼそしていけない。麺がするっとのどの奥に入っていかない。いわきの人間には、マヨをからめない冷やし中華は冷やし中華ではないのだ。マヨを添えるいわきバージョンをつくってほしいよ、まったく。食べながらそう思った。

日曜日の昼、わが家の近所の中華料理店で冷やし中華を食べた。マヨが添えられていた。地元の店だから当然だ。マヨがあることで落ち着いて食べられた。

食文化は一律ではない。土地によって異なる。チェーン展開には単一の味が効率的かもしれないが、メニューによってはそれになじまない人・地域もある。「マヨがない」とぶつぶつ言いながら、冷やし中華を食べたくない――。

 ラーメンのチェーン店は、今はどうなのだろう。やはり、昔のままマヨネーズなしなのだろうか。

2023年4月29日土曜日

春の食菌

                     
 夏井川渓谷の隠居の庭は除染が済んだので、そこに発生するキノコや山菜は普通に採取する。

 とはいっても、福島県内では浜通りと中通りを中心に、野生キノコの出荷制限が続く。隠居の周辺は食菌の宝庫といってもいい。が、原発事故以来、森を巡る楽しみが消えた。

年に1、2回、対岸の「木守の滝」の前に立っても、その下流に続く遊歩道を行き来することはなくなった。代わりに、庭だけは丹念に見て回る。

 腐朽菌(アラゲキクラゲやヒラタケ、エノキタケ)が隠居の庭の枯れ木に発生する。生きた木と共生する菌根菌(アミガサタケやアカモミタケ)も地面に現れる。

 アミガサタケは、隠居の庭では4月下旬、シダレザクラの樹下に発生する。西日本ではもっと早いようだが、やはりここは東北の南端だ。

 今年(2023年)は異常に春が早かった。それに合わせてアミガサタケも――と、隠居へ行くたびに目を凝らしたが、発生はいつもの4月下旬だった。

 日曜日(4月23日)朝、隠居に着くと、真っ先に残花と新緑のシダレザクラの樹下に入った。腕を後ろに組んで地面を見つめる野良の宮沢賢治よろしく、草の生え始めた樹下を西から東へ、北から南へ、あるいはその逆をたどる。

 最初に歩いたときに4個を採った。2個は地面からニョキッと現れているのでわかった。それを摘んで足をずらすと、1個が転がっていた。草に隠れて見えなかったのを靴のかかとで倒したらしい。踏みつぶさずにすんでよかった。その草陰にもう1個が生えていた。

 草、といってもあらかたはスギナだが、それが15センチほどに伸びてきた。スギナが視線を遮るので、位置を何度も変えないと見落としてしまう。そうやって、残る1個を見つけた。

まずは水につけてごみと土を取る=写真上1。それをわが家に持ち帰り、バター炒めにしてもらった。欧米では春のキノコとして喜ばれる。それは日本でも同じ。こりこりして、くせもない。晩酌のおかずが一つ増えた。

同じころ、ハルシメジも発生する。こちらはもう何年も食べたことがない。その現物が、いわきキノコ同好会の仲間から届いた=写真上2。

 ハルシメジは梅や桜などのバラ科の植物と共生する。新しい図鑑では「ウメハルシメジ」という和名に切り替わっている、とネットにあった。

 「これって、ハルシメジ?」。渓谷の隠居の庭で春に発生したキノコを見て、そう思ったのは、もう何年前だろう。

 現物のハルシメジは知識を深める材料だ。まずは、毒キノコとどこが違うのかをチェックする。有毒のクサウラベニタケは柄が中空だが、ハルシメジはこれが充実している。柄を半分に切る。中が詰まっている。OK。それに、クサウラが出現するのは夏から秋だ。この二点から食菌のハルシメジと確認できた。そのあとは……。ともかくいい勉強になった。

2023年4月28日金曜日

糠漬けはカブから

                    
 早い季節の巡りに合わせて、糠漬けも4月に入ったら再開しようと思っていたが……。結局、いつもよりはちょっと早い4月下旬に糠床の冬眠を覚ました。

 年中、糠漬けを絶やさない家がある。それが普通かもしれない。が、わが家では、夏場は5月あたりから糠漬け、冬場は12月あたりから白菜漬けに切り替える。

 冬は毎日、糠床をかき回す代わりに、塩のふとんをかけて休ませる。理由は、とにかく糠床が冷たい、それに尽きる。

 糠床の眠りを覚ましたあと、最初に漬けるものは決まっている。カブだ。大根よりも早く漬かり、ほんのり甘みもあってやわらかい。いつの間にか体が覚えたルーティンではある。

 日曜日(4月23日)にスーパーへ買い物に行くと、突然、糠床に入れるカブが頭に浮かんだ。カートを動かすだけの人間でも、こんなときにはカミサンより早く買い物かごに欲しいものを入れる。

 糠床は生きている。乳酸菌と酵母菌のバランスを保つために、糠床をかきまぜる。これを怠ると腐敗が進む。

糠床の目を覚ました以上は、朝起きるとすぐ、糠床をかき回す。とはいっても、塩のふとんと古い糠味噌の一部をはぎとり、新しい小糠を投入したばかりなので、糠床は去年までの水気とまじってねっとりしている。

このため、カブの葉やキャベツの表皮などを「捨て漬け」にして水気を足し、糠床が味噌レベルのやわらかさになるのを待つ。煮物の残り汁なども加える。これをやっているうちに、小糠がこなれてきて味噌のやわらかさに近づく。

捨て漬けの大根に続いて、スーパーから買ってきたカブを漬けた=写真。今のところは「試食」用だ。捨て漬けだけでは、糠床の塩味がわからない。

冬眠中にかなりの塩分が糠床にしみ込んだ。これに新しい小糠を加えることで塩分を調整する。塩分の状態を知るには試食が一番だ。

朝、カブを入れて夕方に取り出す。あるいは、夕方に入れて朝、取り出す。この「半日漬け」でカブの漬かり具合と塩分を確かめ、小糠を、あるいは食塩を加えるかどうかを決める。

大根は、捨てようと思ったが、もったいない。一日たつとしんなりしていた。しんなりするのが少し早い気もする。食べるとやはり塩味が強めに移っていた。まだ小糠が足りないようだ。カブはほどほどに漬かったが、やはり塩味が強いようだ。

では、キュウリは? 試食を重ねたあとは「糠漬けの定番」キュウリに移る。カミサンの用事で街へ出かけた帰り、スーパーへ寄ってキュウリを買った。これも26日の夕方、試食用に漬けて翌朝取り出した。

取り出すとしんなりしている。塩味が強そうだ。包丁を入れてひとかけらを口にする。やはりそうだった。

ボウル1杯の小糠を加えて糠床をかきまぜた。味や風味がどうのという前に、塩分を調整しないことには始まらない。ここ何日かはそのための試食が続く。

2023年4月27日木曜日

続・牛小川の石碑

                               
 去年(2022年)の12月2日に「牛小川の石碑」というタイトルで、夏井川渓谷にある不思議な石碑の話を紹介した。これはその続編。

元中学校長先生の調査が進んで、『牛小川の石碑――五行相生(そうしょう)』と題する手製の報告書がまとまった。まずは、前に書いた「牛小川の石碑」の要約から。

――私が現役のころ、勤めていたいわき民報に「アカヤシオの谷から」というタイトルで、渓谷(牛小川)の自然と人間の話を連載した。36回目(2000年3月7日付)に、陰陽道にからむ石碑の話を紹介した。

その石碑を、元校長先生が去年10月、地元のKさんに案内されて見た。その後、石碑の拓本を取り、図書館や神社、寺などで調べたが、よくわからなかった。

そうこうしているうちに、図書館のレファレンスサービス担当者から、私がいわき民報に書いた連載コラムを教えられた。それからさらに調べを進めて、中間報告書をまとめた。

石碑は先端がとがった自然石(高さ約2メートル、中央部幅約75センチ)で、夏井川に注ぐ支流・中川の橋のたもとにある。そばをJR磐越東線と県道小野四倉線が走る。

元校長先生の調べによると、石碑は、前は磐越東線の計画地にあった。線路を敷設する際、そばの民地に移された。

石碑の中央には「木火土金水」、その両側にも字が彫られている。私がわかったのは大きな5文字だけだった。陰陽五行説と関係があるのではないか。そこまでは私も推測できた。

元校長先生は、そこからさらに調べを進めた。向かって左側の石碑の文字は、干支(えと)の「乙未」と「八朔」(8月1日)。さらに、その下にあるのは「正命」。大病や大けが、飢えなどで死ぬのではなく、天寿を全うすることを願ったものだろうという。向かって右側の方は、土中のも含めて9~10文字あるが、今のところ解読が困難だとか。

「木火土金水」を彫った石碑は、いわき市内ではほかに存在が確認できない。国内では、なんと沖縄市にあるだけだ。こちらは琉球王朝時代の明暦3(1657)年、「鳩目銭」の鋳造を記念して建碑された、とネットにある――。

 最新の報告書では、不明文字が解読され、沖縄市「池原の石碑」の詳細が紹介されていた。新たにわかった文字は「心頭在為 月明万心 似士并二」=写真。いわき地域学會の仲間が解読した。意味は残念ながら解説するまでには至っていない。

 「池原の石碑」については、沖縄市の図書館や地元公民館、小学校の助けを借りて、写真と市史のコピーを手に入れたという。

 石碑は湧水をせき止めた井戸の真上にある。鳩目銭を鋳造するにあたり、「井戸の水を使い、山の木を伐り出して木炭を作るなどしたため、アミニステックな自然の神々を慰撫する必要があったのであろう」と、沖縄市史の筆者は推測する。

 いずれにせよ、元校長先生の探求心には舌を巻く。文献を読み解くにしたがって、地元の伝説の人物「江田の伴四郎」とのかかわりを意識するようになったという。

2023年4月26日水曜日

海を渡った日本文学

                                
 川端康成(1899~1972年)がノーベル文学賞を受賞したのは昭和43(1968)。私が学校をやめて東京へ飛び出したのは、その1年前だった。新聞でニュースを知ったとき、世界的にはローカルな日本文学が評価されたことに不思議な思いがした。

「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えた」のが授賞理由だった(ウィキペディア)

 川端の『雪国』や『伊豆の踊子』はもちろん読んでいた。国内的には「文豪」として評価されていることも承知していた。

 20歳になったばかりの「文学青年」的な興味からいうと、これで三島由紀夫の芽はなくなった、反射的にそう思ったことを覚えている。

 日本文学を世界文学の土俵で考えるようになったのは、このときが初めてではなかっただろうか。

 私自身、10代後半で現代フランス文学、いわゆるアンチ・ロマンとかヌーヴォー・ロマンといわれる文芸思潮と作品に引かれ、フランス文学を学ぼうかと思ったほどだ。

 要するに、明治維新に始まる「脱亜入欧」(戦後はアメリカ文化の流入)の流れのなかで、外国文学に影響を受けてきた、とはいえる。

 それから半世紀――。今や日本文学は、村上春樹や多和田葉子、小川洋子をはじめ、さまざまな作家の作品が翻訳されて、世界のあちこちで読まれるようになった。

 堀邦維(くにしげ)『海を渡った日本文学――「蟹工船」から「雪国」まで』(書肆侃侃房、2023年)=写真=は、海外で日本文学が受容されていく歴史を、翻訳者を介して論じる。

 川端がノーベル文学賞に決まったとき、半分は翻訳者のエドワード・サイデンステッカー(1921~2007年)のものだ、と述べたそうだ。翻訳者がいなければ川端の作品は世界へと開かれた文学にならなかった。

 その意味では、サイデンステッカーと同じ道を歩んだドナルド・キーン(1922~2019年)の存在も大きい。

 『海を渡った日本文学』によると、1925年、アーサー・ウェーリー(イギリスの東洋学者)が英訳した『源氏物語』の最初の巻が出版される。サイデンステッカーとキーンはそれぞれ、この英訳『源氏物語』から日本文学研究の道に入った。さらに2人とも、太平洋戦争を機に日本語を本格的に学ぶようになる。

 戦後もサイデンステッカーは東大で、キーンは京大で日本文学を学んだ。この留学時代に2人は親交を深めた。

 日本文化と文学への深い理解と愛情から、サイデンステッカーは晩年、日本に移り住んだ。キーンもまた、東日本大震災を機に日本国籍を取得し、永住した。

 多和田葉子さんの場合は、原発事故を起こした1Fの取材で福島に入り、知り合いが案内した関係で、たまたま食事会に加わったことがある。生身の作家を前にしたことで、彼女の作品がより身近なものになった。

 彼女が海外で評価されていることもあって、日本文学が世界に開かれる、あるいは他国の文学が日本に届くためには、翻訳が、翻訳者がいかに重要かを再認識した。サイデンステッカーとキーンは、やはり飛び抜けた存在だった。

2023年4月25日火曜日

もう初夏の装い

                             
 4月23日の日曜日は、2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。少し風はあったものの、晴れてさわやかな一日になった。

 渓谷を縫う県道はもちろん、険しい尾根筋まで新緑に覆われていた。4月下旬だというのに、渓谷はもう初夏の装いだ。

 アカヤシオ(岩ツツジ)とヤマザクラの花は終わった。隠居の庭にあるシダレザクラも花を散らす一方で葉を広げてきた。

 週末、渓谷とその小集落を循環する時間のなかに身を置くようになって四半世紀。1年の季節の巡りのなかで、アカヤシオが咲くと次はシロヤシオ、庭のシダレザクラが咲き出すと樹下には春のキノコのアミガサタケが――といった自然の順番と連環が見えるようになった。

 23日はまず、新緑の対岸に白い点々がないかどうかをチェックした。中腹の枯れ松のそばや、緑と緑のあわいに、その白い点々がある。双眼鏡で確かめると、やはりシロヤシオのようだ。

 シロヤシオは毎年、花を咲かせるとは限らない。が、例年、春の大型連休が終わるころから花が目立つようになる。

 渓谷で最初にシロヤシオの花に気づいたのは、むろん隠居へ通うようになって1~2年たったあとだ。

冬枯れの斜面にアカヤシオのピンクの花が咲く。これが、渓谷に春がきたしるし。すると、周りの木々が芽吹いて、一帯は淡い緑を中心にした水彩画のような世界に変わる。

ピンクの花は、土地の方言で「岩ツツジ」(そのころ、和名が「アカヤシオ」であることを知らなかった)。この花しか頭になかった人間には、新緑をバックに咲く白い花は、アカヤシオ以上に衝撃的だった。

シロヤシオは、幹が松肌に似て、葉が5枚ある。それで、別名「ゴヨウツツジ」。さらに、土地の人は「マツハダドウダン」と呼ぶ。

過去のブログを読むと、この木も少しずつ開花が早まっている。一昨年(2021年)は4月中旬に開花を確認した。私が渓谷に通い始めてからでは最速だった。

シロヤシオの開花を見極めるには格好の「標本木」がある。隠居から歩いて5分ほど下流の対岸に、渓流へとこぼれそうなくらいに枝が垂れさがっている。車で行き来している分にはわからない。散策を兼ねて歩いていると、目に入る。

隠居からの帰り、山際に車を止めてチェックした。木の間越しにのぞくと、七分咲きくらいになっていた=写真。2年ぶりに清楚な花の雰囲気を味わった。

今年はどうやらシロヤシオの「咲き年」だ。早すぎる春がきて、初夏になった。その花の見ごろが、人間の世界の大型連休と重なる。その意味では、今年はシロヤシオを撮影する絶好の機会かもしれない。

2023年4月24日月曜日

豆腐に納豆まで

   地域社会は中央からみると末端だ。しかし、政治や行政ではなく、生活の視点に切り替えると、地域社会は時代の先端になる。そこで今、起きていることの一つがこれ――。

地域社会は隣組と、それを包括した区内会(自治会)でつながっている。それだけではない、人は大人も子どももさまざまなコミュニティと関係している。

私の場合はいわき地域学會、いわきキノコ同好会、いわき昔野菜保存会などと、カミサンもまたシャプラニール=市民による海外協力の会や国際交流協会、同級生や趣味を同じくする人々とつながっている。

 それとは別に、ものを介したつながりも暮らしの中に織り込まれている。注文した食品がコープや団体、自営業者から届く。あらかたは宅配だが、その場で注文した品物を届ける移動販売、いわゆる「御用聞き」に近いものもある。

 豆腐は後者の方だ。毎週、同じ曜日にやって来る個人商店の移動販売車から買う。運転手でもあるおばさんがわが家の戸を開けて声をかける。すると、カミサンが「豆腐3丁、油揚げ2枚」と応じる。

そのやりとりを長年、聞いているうちに私もすっかり覚えてしまった。カミサンがいないときには、私が「豆腐3丁、油揚げ2枚」を注文する。

 この週1回のルーティンが暮らしに溶け込んで何年になるだろう。近所のスーパーへまとめ買いに行っても、豆腐はカゴに入れた記憶がない。かなり前から豆腐は移動販売に頼ってきた。

その移動販売が終了することになった。高齢が理由だという。高齢ドライバーの交通事故がたびたび報じられている。それも決断の理由のひとつになったのかもしれない。

 納豆=写真=も月に1回、ボランティア団体から届く。障がいがあっても明るく元気に暮らしていける地域社会づくりを――と、市民による団体が結成された。そのいわき方部の活動資金に充てるため、値段は少し高いが宮城県のメーカーの納豆を販売している。

方部長がわが家に何軒かの分を持って来たのを、あとでカミサンがそれぞれの家に配る(アッシー君を頼まれる)。取りに来る人もいる。

 活動を始めてからすでに40年を超えるという。先日、納豆が届いた時点で、方部長から活動終了が告げられたという。

 それを知らせるチラシには、所期の目的がおおよそ達成されたこと、会員も高齢化が進んだことなどから、活動に終止符を打つことになった、とあった。

 だいぶ前から少子・高齢化の問題がいわれ、山間部では小・中学校の統廃合が進んだ。市街地でもこれらの問題が顕在化しつつある。

 豆腐の移動販売も、納豆の宅配も、人がつながっているからこそ成り立つささやかな経済だった。いろんなつながりが「高齢」を理由に、こうして一つ、また一つ消えていく。

「地域社会という時代の先端」にいるからこそ、暮らしにくさや生きにくさ、つまりは困難な状況が見えてくる。そして、その困難の要因は高齢だけではない。少子化に伴う問題もまた地域社会を直撃している。

2023年4月23日日曜日

初タケノコ

                      
 カミサンの実家から小糠(こぬか)が届いた。実家は米屋の本店、わが家は支店だ。本店には精米設備がある。毎日、小糠が出る。

 糠漬けを再開するには新しい小糠が要る。早すぎる春の訪れに、4月に入ったら糠漬けを再開しないと――。そう思ったものの、ついずるずると先延ばしにしてきた。

 もう4月下旬、大型連休が視野に入ってくるようになった。こうなると待ったなしだ。なにがなんでも糠床の眠りを覚まさないといけない。

 思いはカミサンも同じだったようだ。というより、しびれを切らしたカミサンが「実力行使」に出た? いや、違う。ちょっと前に小糠が必要な話をした。催促はしなかった。それを思い出して、実家に電話をしたのだろう。

 いよいよ糠床を開封するぞ、と覚悟を決めたとたん、カミサンの知り合いから電話がかかってきた。「採りたてのタケノコがある」という。

 この知り合いからはたびたびお福分けの電話がかかってくる。そのつどアッシー君を務める。車で5分ほどのところに住んでいる。すぐもらいに行った。

タケノコはむろん、今年(2023年)初めてだ。袋に8本入っていた=写真。まだはしりらしく、思ったよりは小さく、ほっそりしていた。

タケノコの時期を迎えると、決まって思い出す光景がある。子どもが小さいころ、裏山に竹林を抱える友人の家の庭で、毎年、「タケノコパーティー」を開いた。

 早い時間から数家族が集まり、庭でたき火をしたり、遊びまわったりした。大人はたき火を囲んで、切ってきた青竹に酒を入れて飲み、カツオの刺し身をつつきながら、日が暮れるまで談笑した。

 今年の初タケノコは形状からしてやわらかそうだった。カミサンが皮をむき、小糠を加えてゆでたのが、さっそく晩酌のおかずになって出てきた。見立てたとおりにやわらかい。とにかくやわらかい。若いのでえぐみもない。

 こうなったら、次は糠床だ。小糠を届けてもらったそもそもの理由がこれだから。翌朝、冬眠していた糠床を引っ張り出し、食塩のふとんをおたまではぎとったあと、新しい小糠を加えてかき回し、捨て漬けのキャベツの葉を入れた。いよいよこれから毎朝、起きると糠床をかき回す作業が加わる。

 ついでに、これまた始末せずに放置していた白菜漬けの甕を洗い、晩秋まで台所の隅にしまっておくことにした。

 タケノコは、皮が付いたままではあげにくい。小糠も添えないといけない。「ゆでてあるので、あとは調理するだけ」。そこまでやって電話をかけると、「もらう、もらう」となる。

確かに、若い世代と違って、タケノコを食べてきたお年寄りは下ごしらえに時間がかかることを知っている。それでつい、ゆでてえぐみもない「半食品」歓迎、ということになるのだろう。なにしろ、すぐ煮物やみそ汁の具になるのだから。私らも、もらう側だったら、その方がいい。

2023年4月22日土曜日

ガン・カモ調査

                     
 環境省主催の全国一斉ガン・カモ類調査が1月8日に行われた。いわき市内では、日本野鳥の会いわき支部が南部・北部・中部に分かれて、15カ所でガン・カモ類をカウントした。

 同支部の元事務局長Tさんから、その調査結果と支部報「かもめ」第158号(4月1日発行)、個人的に親しくしているという同会筑後支部(福岡県南部)の支部報コピーなどが届いた=写真。

 Tさんからは節目、節目で支部報の恵贈にあずかる。今年(2023年)は、Tさん自身が東日本(いわき支部)と西日本(筑後支部)のガン・カモ調査結果を比較・分析した資料も同封されていた。それを参考に話を進める。

まず、ハクチョウ。筑後ではオオハクチョウも、コハクチョウもゼロだった。いわきではオオハクチョウ73羽、コハクチョウ818羽がカウントされた。

 いわきの夏井川では3カ所にハクチョウが飛来する。平窪(平)、三島(小川)、塩・新川(平)で、それぞれの観察数は35羽、255羽、365羽だった。

 私は堤防から塩・新川のハクチョウを、日曜日にはそばの国道から三島のハクチョウを眺めて通る。

三島は小川江筋の取水堰上流で羽を休めている。ピーク時には200~300羽という感じだった。

塩は「塩~中神谷」と表記した方が正確かもしれない。秋から冬、新川合流点から1キロほど下流にサケのやな場が設けられる。日によってはそちらに大集団が飛来していることがある。そのエリアは、いわば「点」ではなく「線」。それらも含めての数字だったか。

ほかに、いわきでは南部・鮫川の沼部、北部・仁井田(立場)にも飛来した。立場は下神谷の地名だ。四倉の仁井田川と夏井川をつなぐ横川の近くにある。そのへんに夏井川「第4の越冬地」ができたのだろうか。

Tさんはいわきのハクチョウの飛来数の増減について、次のように言っている。2005年1478羽、2006年1420羽と、かつては1400羽を超えていたのが、最近は勢いがない。考えられるのは平窪での給餌自粛。そして、暖冬で南下する個体数が減ったことかもしれない、と。

ついでながら、平窪と塩(新川)では河川敷から土砂を撤去する工事が行われている。ハクチョウはなにかと落ち着かなかったことだろう。

筑後地方に飛来して、いわきでは見られないカモがいる。ツクシガモだ。有明海に多数飛来するという。その数、1717羽。

ほかに、ヨシガモ、オオヨシガモ、スズガモがいるが、この3種類については前年までいわきでも観察された。

なぜだろう、どうしてだろう……。考える材料が増えれば増えるほど、地域を深く知る手がかりが増えていく。そして、それはいいことなのだと、北へ帰ったハクチョウたちを思い浮かべながら、自分に言い聞かせる。

2023年4月21日金曜日

コゴミを食べる

                      
 コゴミ(クサソテツ)は毎年、大型連休のころ、夏井川渓谷の隠居の近くで採る。20個も摘めば十分だ。

 令和元年東日本台風の大水で自生地が冠水し、土砂に埋まった。それが影響してか、春の芽生えがいまひとつ冴えない。

 そばに小流れがある。石垣のへりに沿ってしみ出た水が集まり、通路の暗きょを直角に曲がって川へ流れ落ちる。その出口部分、小さな湿地にコゴミが生えている。

暗きょの先の小流れは、下流側から上流側へとヨシが侵略を続けている。それだけではない。石垣のへりがイノシシによるラッセルで埋まったこともあって、空き地に新しい小流れができた。

 それでも春がきて、対岸の斜面にアカヤシオ(岩ツツジ)が咲き、木の芽が吹き始めると、小流れをチェックする。

 今年(2023年)は春が早いので、4月9日に確かめた。コゴミの姿はなかった。今年はあきらめるしかないか――。そう考えていたところに、義弟とカミサンの友人からコゴミが届いた=写真。

 義弟が持って来たのは三和町で採れたコゴミだった。これはゆがいてマヨネーズ和えにした。カミサンの友人からもらったコゴミはごまよごしになった。

 コゴミはゆですぎない方がいい。癖がないので、さっとゆがいて、シャキシャキした食感を楽しむ。一度目はゆですぎたようだ。シャキシャキが消えて、しんなりしてしまった。

 コゴミもほかの草木と同様、例年より芽生えが2~3週間は早い。いつもの感覚で、大型連休のころにチェックしたら、すでに葉は展開していた、ということになっていただろう。

 前にも書いたが、今年はどうも春の速さを素直に喜ぶ気にはなれない。むしろ、季節が狂い始めているのではないか、そんな思いがふくらむ。

 いわきは、海も山野も、南と北の動植物が混在する、多様性に富んだエリアだ。それを、海の場合は「潮目」と表現している。

相双を含む潮目の海でイセエビやトラフグが獲れる異変が続いている。陸地でもまた、同じような現象がみられる。南方系の動植物が北上している。

ということは、北方系の動植物は北へ後退している? そのうち、進出と後退がはっきりしてくるのではないか。

私はキノコの世界に遊ぶのが好きで、ときどき菌類の本も読む。これら専門家の知見を頭に入れて地域の実態をあれこれ想像する。

平成30(2018)年9月、いわきキノコ同好会の観察会が小川町の山中で開かれたとき、南方系のアカイカタケが見つかった。アカイカタケは「極めて珍しい種」で、「今回のいわき市での発見は、国内14番目」ということだった。

それが南東北まで北上してきた、つまり地球温暖化の影響が菌界にも及んでいる、ということなのだろう。

すると山菜だって、採れるものと採れないものが出てくる、といった事態が起きかねない? まさかそうはなるまいが、頭の中ではそれがだんだん現実味を帯びてくるのを否定できないでいる。

2023年4月20日木曜日

人生の選択

                     
 もう50年以上前になる。東京からJターンをし、就職先を探しているときにいわき民報社を紹介してくれた「姉さん」がいる。

 就職が決まり、平・旧城跡にアパートが見つかると、近くの姉さんの家に、よく風呂をもらいに行った。両親ときょうだいがいた。たまに夕飯もごちそうになった。その家とはいつの間にか、家族の一員のようなつきあいが続いた。

 やがて姉さんの両親が亡くなり、きょうだいも1人、また1人と彼岸へ旅立ち、結局、いわきで顔を合わせるのは姉さんだけになった。

 ボランティア精神に富んでおり、定年退職後は公民館や施設などで語り部のような活動を続けている。

 出会ったばかりのころ、姉さんは私より5~6歳上とばかり思っていた。実際は一回りも年長だった。つまり、今は80代後半だ。

 それでも、気持ちは若々しい。時事問題などにも関心が深いので、会うといろいろ話題がころがっていく。

その姉さんから、自分の家を引き払って施設に入ると聞いたのは、この春、街でばったり会ったときだ。

 福祉施設には違いない。が、文化活動で動き回っているくらいだから、一般の介護施設ではないだろう。

 ネットで検索すると、有料老人ホームには「住宅型」や「健康型」(介護サービスの必要がない人が対象)といったものがある。

 住宅型は、食事提供や掃除・洗濯などの生活支援サービスが付いた高齢者向けの施設で、介護が必要になった場合、本人の選択によって地域の訪問介護やデイサービスなどの介護保険サービスを利用しながら、施設での生活を続けることができる、とあった。

 どのタイプかは、あえて聞かなかった。が、家を引き払うとなるとダンシャリが必要になる。後日、姉さんから電話がかかってきて、夫婦で出かけた。

 姉さんとカミサンの話を聞いていると、リサイクルに回していいもの、わが家にとどめて置いてほしいものと、ものによって愛着の度合いが異なる。

茶道具などは後者の方だった。体重計は欲しい人に回してもいいが、わが家にあるのが壊れたので、手元に置いて使うことにした。

とりあえず、車のトランクと後部座席に積めるだけ積んで持ち帰った=写真。何日かあと、また要らなくなったものを引き取りに行った。

 私も含めて人生の日暮れを生きている。いつまで元気に独り暮らしを続けられるだろう――あれこれ思いをめぐらした末の結論が施設への入居だったにちがいない。

 マイホームからマイルームへと、生活空間は劇的に変化しても、自分のしたいことは継続できるはずだ。潔いくらいに新しい暮らし方を選んだ、その強さに感服した。

2023年4月19日水曜日

ギョウジャニンニクが届く

                     
   ギョウジャニンニクが届いた=写真。下の息子が夏井川渓谷の隠居に泊まった翌日、旧知の消防OB氏が立ち寄って置いていったという。

ギョウジャニンニクは北海道の代表的な春の味だ。別名「アイヌネギ」。農文協の『聞き書アイヌの食事』(1992年)などで承知はしていたが、現物を見るのは初めてだ(と最初、思っていた)。

本州でも山深いところには自生する。しかし、阿武隈高地に分布するという話は聞いたことがない。近年、栽培物が流通しているというから、それかもしれない。

 栽培物は収穫まで3~5年はかかるという。種をまくか、株分けをして増やすが、これも時間がかかるそうだ。

どこで、だれが育てたのだろう。そんなことを考えながら、ギョウジャニンニクについて検索を続ける。

葉は鳥の羽のように長い。根元は赤みを帯びている。これが特徴らしい。似た形状の山菜にウルイ(オオバギボウシ)がある。こちらは、茎は白い。

調理法も調べる。醤油漬けというものがある。ギョウジャニンニクをよく水で洗う。生かゆでたものを刻んで容器に入れる。醤油・みりん・酒を煮たてて冷ました調味液を加えて、冷蔵庫に一晩おくと食べられる。

ほかには、てんぷら。ゆでたギョウジャニンニクを適度な大きさに切ってキムチに和えるのもいいそうだ。

 それよりなにより、まずはおひたしだ。かつお節を加え、醤油をかけて食べた。今まで経験したことのない変わった風味が口内に広がる。茎には甘みがある。歯ごたえも含めて,ニラに近いといえばいえようか。

カミサンが夜、消防OB氏にお礼の電話を入れた。奥さんの実家が川前町にある。そこで栽培しているギョウジャニンニクだという。

 川前は、いわきでは山間高冷地に入る。平地よりはギョウジャニンニクの栽培に向いている。とはいっても、ギョウジャニンニクは半日陰を好む。乾燥を嫌う。それを上手に育て上げれば貴重な山菜、いや高級食材になる、そんなイメージが膨らむ。

 念のために、拙ブログでギョウジャニンニクを取り上げていないか、チェックする。と、9年前の今ごろ、お福分けを食べていたことがわかった。すっかり忘れていた。そのブログの一部を要約して再掲する。

――近所に原発事故で双葉郡から避難してきた老夫婦がいた。奥さんがわが家(米屋)へ買い物に来て、いつのまにかカミサンと仲良くなった。

「これ、つくったから」と煮物や漬物を持ってくる。近くの直売所で買った野菜も持ってくる。パック入りのギョウジャニンニクも届いた。

ギョウジャニンニクの第一印象は、スズランの葉に似てるなぁ、だった。野草図鑑や山菜図鑑ではなじんでいたが、現物を見るのは初めてだ。一度は食べたいと思っていた山菜だ。

 ギョウジャニンニクは、老夫婦と出会わなかったら、たぶん永久に食べられなかった。その意味では、老夫婦は新しい“口福”をもたらしてくれる隣人だった――と過去形にしたのは、今はいわきからふるさとに戻ったからだ。

2023年4月18日火曜日

ライスワーク


 最初は「誤植?」と思ったが、そうではなかった。「ライスワーク」。「ライフワーク」の対語として紹介していた。

 ノンフィクション作家沢木耕太郎さんのエッセー集『旅のつばくろ』(新潮社、2020年)に、作家井上靖を回想した小文「雪」がある。

 井上と交流のある知人と酒を飲んだとき、井上が合流した。深夜、井上に誘われて彼の自宅へ移動する。

 井上は帰宅するとすぐ寝室に入って出てこなかった。酒肴の用意をした奥さんが、夫のライフワークの話をする。言外に「井上を連れ回すな」「大事な時間を奪うな」という意味がこもっていると、沢木さんは受け止めた。

 そんなエピソードを彼が思い出したのは、岩手県北上市の日本現代詩歌文学館を訪れたときだ。井上は同館の名誉館長だった。館内の記念室には遺品の「雪」が展示されている。

 その遺品を目にして、深夜、井上宅をみんなで訪れたとき、奥さんから言われた「ライフワーク」という言葉がよみがえる。同時に、友人が「食べるための仕事」を「ライスワーク」と自嘲したことも思い出す。ライフワークとライスワーク――。そこから沢木さんは考えを巡らせる。

 「眼の前にある仕事を、ただ手を抜かずに書いてきただけだ。たぶん、私はどんな小さな仕事、どんな短い文章でも手を抜いたことがないはずだ。あるいは、手を抜かないと思い決めた瞬間、ライスワークがライスワークでなくなっていた、のかもしれない」

 ライスワークは、初めて聞く言葉だ。ネットで検索すると、特別な生きがいを感じている、いないにかかわらず、「ご飯を食べるための仕事」とあった。

 ライスとライフを比較して、ライスワークはご飯を食べるための活動、ライフワークは夢や自分の好きなことを追い求める活動、というのもあった。

 朝食=写真=をすませたあと、沢木さんと同じように自分の仕事を振り返ってみる。子どものころから「書く」のが好きだった。大人になってからは地域新聞で書き続けてきた。仕事を離れた今も毎日、ブログを書いている。

私は、詩人山村暮鳥が種をまいたいわきの詩風土に興味がある。同時に、暮鳥ネットワークと交差しながら独自の文学を生み出した、作家吉野せいの『洟をたらした神』の注釈づくりをライフワークにしている――そんなことも書いてきた。

これはたぶん、調べることと書くことを融合させたライスワークが生んだ「知る愉(たの)しみ」のことだろう。つまりは生涯学習。それをライフワークといっていいのかどうかは、今は自信がない。

新しい朝ドラ「らんまん」が始まった。主人公は槙野万太郎。植物学者牧野富太郎がモデルだ。

最初の2週間は万太郎の子ども時代に焦点があてられた。幼いころから、ライスワーク(造り酒屋の跡取りとしての仕事)を超えて、ライフワーク(植物研究)にのめりこむ様子が描かれる。

  ライスとライフの間で揺れ動いてきた人間には、「草」にすべてのエネルギーを注入する万太郎がうらやましい。いや、希望と同時に突っ走る怖さも感じるのだった。 

2023年4月17日月曜日

近代の新聞

                                
 福島県歴史資料館(福島市)から収蔵資料展のチラシが届いた=写真。「報道の時代―近世の風説から近代の新聞へ―」がタイトルで、4月15日に同館で始まった。7月9日まで。

 明治の自由民権運動をリードした一人に、三春町出身の河野広中(1849~1923年)がいる。今年(2023年)は没後100年の節目の年に当たる。彼は福島県の新聞誕生に深くかかわったという。

 「戊辰戦争から自由民権運動を経て政党政治家として活躍した彼の生涯は、新聞とともにあったと言っても過言ではありません。当時最先端のメディアであった新聞を通じて、河野は自らの主張を世間に問い、理想の実現を目指しました」

 そこから「河野の人生と新聞の歴史をたどりつつ、福島県の事件や出来事」を振り返る企画が生まれた。

前にいわきの新聞の歴史を調べたことがある。時代が重なるので、それを拙ブログから要約・再掲する。

――明治4(1871)年7月に廃藩置県の詔書が発令されると、いわき地方は短期間に磐城平県平県磐前(いわさき)県と変わる。磐前県の範囲は現在の浜通りと田村郡、石川郡、白川郡(現在の東白川郡)で、平に県庁が置かれた。

磐前県は明治6年、布告類の迅速な配布・周知を徹底するため活版印刷機を導入し、5月から活版印刷の県布告を発行する。

さらに、同年10月には「磐前新聞」第1号を県庁内の新聞紙局で印刷・発行した。これが、官製ながらいわきで最初に発行された新聞だ。

2年前、たまたま「磐前新聞」第1・2・3号の現物を見ることができた。大きさは縦220ミリ×横160ミリほどの、和紙二つ折りの冊子タイプだった。第1号は14ページ、第2号(同7年3月)は16ページ、第3号(同年4月)は14ページ+二つ折りの挿し絵1枚。第3号にだけ表紙の欄外に「定価1銭8厘」とあった。

官製新聞であっても、行政ネタよりは社会ネタが多い。「髪の毛の真っ白な赤ん坊が生まれた」「三本足のひよこが孵った」といったトピックも載っている。

いわき地方初の民間新聞「いはき」は明治40(1907)年5月に創刊された。平の吉田新聞店主吉田礼次郎(1870~1933年)が発行した――。

「磐前新聞」から「いはき」までの三十数年の間には、自由民権運動の深化と政党新聞から商業新聞への変容があった。

「報道の時代」展で紹介されている地元紙のうち、「福島民報」には「明治25年8月に河野広中らが福島自由党の機関紙として創刊した新聞です。のち、政友会系の新聞として県内言論界の一翼を担いました」というコメントが付されている。

「福島民友新聞」も、「明治32年11月に東北民を改題した新聞です。自由党系から離脱した河野広中陣営の機関紙として、福島民報に対抗しました」とあった。

河野はわがふるさと(現田村市常葉町)の戸長を務め、全国に先駆けて民会を開いたことで知られる。それもあって、なにかと気になる存在ではある。

2023年4月16日日曜日

エビネが開花

                              
 庭の木が芽吹き、草が芽生えるこの時期、朝と夕方、勝手に「芽むしり仔撃ち」と名付けた作業をする。

 「芽むしり仔撃ち」は先日亡くなった大江健三郎さんの小説のタイトルだ。作品の中身とは関係なく、春がくると「芽」をむしり、「仔」を撃つ(虫を退治する)。

 具体的には、生け垣にからみつくヤブガラシを芽のうちに摘み、生け垣のマサキの新芽を食害するミノウスバの幼虫を退治することを指す。毎年春、大型連休をはさんでのルーティンワークでもある。

ちょうど同じころ、地植えのエビネが咲き出す。拙ブログからそのへんの状況を要約・再掲する。

 ――朝は庭に出て、歯を磨きながら地べたに目を凝らす。つる性植物のヤブガラシが次々に赤い芽を出す。大事になる(ほかの植物にからまり、葉を覆って枯らす)前に芽を摘む、と決めた。摘んでも、摘んでも出てくる。負けられない。

 ついでに、エビネの花を眺める。チラッと目をやるだけでも心が洗われる。ホームセンターからポットに入ったエビネを買ってきて、花が終わったあとに庭に植えた。地植えにしたのは増殖を期待してのことだが、そうは問屋が卸さなかった。花茎を数えたら6本。それだけでよしとするしかない――。

 これが4年前の大型連休中の状況だった。まだ4月中旬、つまりこの年より3週間早いというのに、もうエビネが咲き出した=写真。

 それだけではない。庭木の間にクモが糸を張るようになった。「クモの巣を嫌って、庭に花を植えない家がある」。知り合いがフェイスブックに投稿していた。それを読んで「なるほど」と思ったことがある。

花が咲けば、蜜を吸いに虫が来る。虫がいれば、それをえさにするクモが現れる。そのクモや虫を狩るハチもやって来る。小さな庭の世界にもちゃんと食物連鎖が成り立っている。

近所の家に、自然石と常緑の木を配した日本庭園風の庭がある。築山はないが、枯山水風の空間が広がる。花のある庭に比べると、ここにやって来る虫は少ないだろう。

彩り豊かな庭の食物連鎖を知って以来、近所のその家ではもしかしたらクモの巣やハチを避けるために、和風の庭をつくったのではないか、などと空想するようになった。

今年(2023年)は異常に春が早い。生け垣のマサキも、ヤブガラシ同様、新芽を吹いた。それに合わせてミノウスバの幼虫も孵った。

季節が早いと、どうしても「温暖化」という言葉を思い浮かべる。季節の遅速や寒暖の波とずれはこれまでにもあった。しかし最近は、それが次の段階(温暖化の影響)に移ったのではないか、という危機感を伴うものになってきた。庭の定点観測からでさえ、早い春を喜んでばかりはいられない、という思いが募る。

2023年4月15日土曜日

杉を伐採したあとは

                     
   3月中旬に夏井川渓谷の小集落で年度末の寄り合いがあった。隣組=区内会の総会のあと、昼食をとりながら雑談をした。

そのなかで、杉の木を切ったら「花見山」にしようというアイデアが披露された。「どこを花見山にするの?」「そこの杉林」

山を背負った寄り合いの会場(個人の家の物置を改装した『談話室』)へ行くとき、小さな棚田のそばを通る。その奥、山からの稜線が尽きるあたりに杉が植わってある。

 そこで伐採作業が始まり、4月の初旬には杉の木が消えた=写真。稜線の陰には夏井川の支流・中川をはさんで田畑と家がある。杉林はいわば、夏井川を望む家々と、中川を望む家々を分ける「衝立」のような役割を果たしている。

 これがいったん更地になった。そこを、今度はヤマザクラなどを植えて花見山にしよう、というわけだ。

 私が渓谷の隠居へ通い始めて二十数年。かけがえのない自然景観と環境に対する土地所有者の考え・行動がなにか新しいステージに入ったように感じることがある。

 最初は展望台づくりだった。震災前、隠居の隣にある古い家を所有者のS・Tさんが解体し、谷側の杉林を伐採して「夏井川渓谷錦展望台」と名付けた。

夏井川渓谷で紅葉ウオーキングフェスタが行われたとき、この展望台が集散会場になった。主催は同フェスタ実行員会、事務局は小川町商工会。地元・牛小川の住人が「森の案内人」として加わった。私も誘われて初回から案内人を務めた。

S・Tさんは令和2(2020)年師走に亡くなった。今は地元に住む親戚のA・Kさんが展望台の管理をしている。

 展望台ができて程なく、県道小野四倉線とJR磐越東線の間に植えられた杉の苗木を、所有者のS・Kさんが整理した。その結果、列車の乗客も将来にわたって杉に邪魔されることなく景観を楽しめるようになった。

そのS・Kさんが家の裏山で「シャクナゲ増殖10年計画」を始めた。裏山に案内されて、増殖計画を聞いたのは3年前の夏だった。

裏山は杉林だが、その一部を間伐してシャクナゲの苗木を植え始めた。薄暗い杉の林内をシャクナゲの花で明るくする。そんな決意をあっさり口にする。

渓谷で暮らすということは、日々、自然にはたらきかけ、自然の恵みを受ける、ということでもある。

その一方で、自然をどうなだめ,畏(おそ)れ、敬いながら、折り合いをつけるか。その折り合いのつけ方が、今回はシャクナゲ増殖計画となってあらわれた。

翌年の4月、S・Kさんのあとについて裏山へ行き、シャクナゲの花が咲いているのを確かめた。林床は前より明るくなっていた。

そして今度は、杉林から花見山への転換だという。自然に根ざした小集落の魅力づくりが少しずつ進められる。それを街から通いながら確かめる。こうして定点観測を続けていると、景観を通して住民の心意が見えてくる。

2023年4月14日金曜日

「名もないおかず」


  『土井善晴さんちの名もないおかずの手帖』(講談社、2010年)=写真=の前書きに、「『名もないおかず』とは、身近な材料で作る毎日のおかずのこと」とある。料理名ではなく、素材から始まる料理づくりの本だとか。

 過日、夏井川渓谷の隠居で、カミサンが親友を誘ってアカヤシオ(岩ツツジ)の花見をした。アッシー君を務めた。親友はちらしずしや手製の漬物を用意した。

 その漬物は、土井さんの本にある「キャベツの和風ピクルス」だった。ご飯のおかずだけでなく、晩酌のつまみにも合う。後日、カミサンがレシピを参考に、似た漬物をつくった。

 レシピのポイントは、①キャベツを食べやすい大きさに切り、塩を振って30分ほどおく②合わせ酢(米酢、水、砂糖)を混ぜ合わせる③キャベツの水気を軽く絞って容器に入れ、合わせ酢と細切り昆布、赤唐辛子を加えてまぜあわせる④冷蔵庫に入れて一日おく――。

 カミサンの「キャベツの和風ピクルス」は、手元にある材料を組み合わせた、それらしいおかずだった。1回目は酢の味が強すぎた。2回目も甘みとすっぱみが少し目立った。カミサンの親友がつくったおかずからはちょっと遠い。でも、それでもかまわない。

 土井さんの父親はNHKの「きょうの料理」などに出演した人気料理研究家の土井勝。そして、その息子の土井さんもまた、料理研究家としてテレビではおなじみの人だ。

 土井さんの『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫、2022年第5刷)もわが家にあった。だれかのリサイクル本のようだ。

家庭料理のレシピも入っているが、なぜ一汁一菜でいいかを繰り返し述べている。たとえば、最初の小項目「食は日常」。

「暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ることだと思います。その柱となるのが食事です。一日、一日、必ず自分がコントロールしているところへ帰ってくることです」

それには「一汁一菜」だという。「一汁一菜とは、ご飯を中心とした汁と菜(おかず)。その原点を『ご飯、味噌汁、漬物』とする食事の型です」

「家庭料理はおいしくなくてもいい」の小項目にはこんなくだりがあった。「商売をやっている家庭や、親が働いている家庭では、一緒に食卓を囲めないのは当然で、親が用意した汁を自分たちで温めて、子どもだけで食べる。そんな家庭はたくさんあると思います」

私が子どものころはまさにこれだった。両親が床屋をやっていたので、親子が夜、一緒に食卓を囲むのは店が休みの日くらいだった。

それからざっと半世紀以上たって、「一汁一茶」は別の意味で「団塊の世代」の食事を象徴する言葉になった、と私は思う。

シンプルな料理こそ年寄りの舌になじむ。かつ丼やラーメンライスなどをむさぼるように食べていた20、30代と違って、今は食事の中身が文字通り一汁一菜に近づいてきた。

栗原はるみさんらの料理番組もシルバー向けのレシピが増えているような気がする。団塊の世代の興味と関心に対応した番組や出版は、団塊が彼岸へ渡るまで続く? そんな感慨がよぎるのだが、どうだろう。

2023年4月13日木曜日

水道が止まらない

                              
 このごろは夫婦そろって朝が早い。夜の8~9時になると寝床にもぐりこむのだから、当然といえば当然か。

朝の6時前、カミサンが味噌汁と卵焼きをつくったあと、流しの水道を開けたら水が止まらなくなった。

呼ばれて行くと、激しい勢いで蛇口から水が流れている。蛇口を全開したのと同じ状態だ。しかも、蛇口のハンドルが途中までしか閉まらない。さて、どうしたものか。

とりあえず「いわき市水道局 漏水」で検索すると、夜間の連絡先(水道局)が表示された。電話をかけると、当直らしい職員が出た。

状況を説明する。「蛇口のパッキンが原因ですね、メーターの元栓を閉めてから、業者に連絡してください」

アドバイスに従って、家の東側軒下にある量水器の鉄製のふたを開け、メーターの手前にある元栓を閉めると、家から「止まった」という声がした。

この間、20分ほど。排水管からあふれた水が軒下にあふれ、通りの側溝へと流れ出していた=写真。

次はパッキンの交換だ。少し早いと思ったが、わが家の「水道のホームドクター」(高専の同級生)に電話を入れて、用件を録音する。

7時前に彼から電話がかかってきた。彼への電話は、大半が夏井川渓谷の隠居での水道管トラブルだ。たとえば7年前にはこんなことがあった。

 ――真冬の室温は氷点下5度になる。隠居へ通い始めて20年余りの間に、洗面所と台所の温水器が計6回ほど凍結・破損し、床を水浸しにした。それに懲りて、冬は水道のホームドクターのアドバイスに従って、洗面所の水道の元栓を閉め、台所の水道管に接続してある温水器の水を抜くようにしている。

 ところが、そうしていても、厳寒期、台所の蛇口をひねったら、急に水が細くなり、断水した。ポンプのパッキンが劣化して空気が入るからではないか、という。ポンプを交換すると、前以上に勢いよく水が蛇口からほとばしり出た――。

水道のホームドクターは今回も隠居のトラブルだと思ったらしい。「今回はわが家」。ホームドクターの家からも近い。水道局とのやりとりと症状を説明すると、「あとで行く」。

元栓を閉めてから3時間弱、8時半には工具を持って現れた。蛇口をはずすと黒い液体がこぼれ出た。パッキンの劣化が明らかだった。

すぐ新しいパッキンに取り換える。指示に従って量水器の元栓を開けると通水した。蛇口の開け閉めも前よりは少しきつめにしてもらった。

修繕費用は? 「いいよ」。というわけで、いずれ飲み会とか、なにかの機会に張り込むことになる。ありがたい。とにかく早朝、突然のトラブルは解消した。人間同様、家もあちこちでガタがきているようだ。

2023年4月12日水曜日

草野駅が様変わりしていた

                      
 わが家は、JR常磐線いわき駅と草野駅の間の旧道沿いにある。地理的には草野駅に近い。が、この駅を利用したことはない。

 いわき駅前は平市街、つまりいわきの中心市街地だ。駅前大通りをはさんで西に田町、東に白銀(しろがね)の飲み屋街がある。

 職場が田町にあったので、よく田町で飲んだ。帰りはタクシーを利用した。電車で帰る発想はなかった。

 草野駅で降りたとしても、30分近くは歩かないといけない。酔って気が大きくなった人間には、とにかくタクシーで帰宅する選択しかなかった。電車も10時を過ぎるとないから、おのずとそうなった。

 年金生活の今も、いわき駅前で飲み会があるとバスで出かける。草野駅まで歩いて、そこから電車に乗るということは考えたこともない。

 草野駅まで客人を送ったことはある。客人を迎えに行ったこともある。めったにないことなので、鮮明に覚えている。

 県の出先機関の職員が、夏井川の上・下流をつなぐ企画を立て、私が勤務するいわき民報社と紙面でコラボした。

 この職員は高専の後輩だ。年齢が離れていたので、学校で直接顔を合わせたことはない。実家は双葉郡内にある。わが家を訪ねたあと、実家へ帰るというので、草野駅まで車で送った。

 客人を迎えに行ったのは3年半前。スペインに住むいわき出身の画家阿部幸洋と親子のようにつながっている青年の弟夫妻だった。

 彼はスペインの大学で日本の歴史を教えている。夏休みを利用して来日し、日本のことをいろいろ勉強した。3年目の令和元(2019)年は、わが家の近く、故義伯父の家にホームステイをした。

 月後れ盆の8月15日から24日まで、そこを拠点にいわき市内を歩き回った。問題は初日にどうやってわが家へ来るか、だった。

 いわき駅からだと思っていたのが、草野駅で降りるとメールにあった。いわき駅発19時25分、草野駅着同30分の広野行きの電車があった。

あわてて草野駅へ車を走らせたが、駅には車も人もいない。駅員に尋ねると、「外国人の男女が降りた」という。

すでに夜である。道は暗い。それらしい歩行者を探しながら、ゆっくり戻ると、草野駅とわが家の中間あたりを、大きなトランクをガラガラ引いて進む2人が目に入った。時間にすると小一時間、気をもんで、もんで、もんだ末にやっと2人をピックアップした。

 当時、草野駅には職員がいた。それから3年半、フェイスブックでつながってはいるが、会うのは初めての、高専の別の後輩(小高出身)を草野駅まで迎えに行った。午後2時前だった。

駅舎がガラリと変わっていた。列車の時刻表などが壁に表示されている=写真。内郷駅も、磐越東線の川前駅も改築したことを思い出しているうちに、電車が着いた。

けっこうな数の高校生が降りる。その中に何人か大人がいた。すぐわかった。わが家に戻って2時間ほど話をした。学生時代は列車で通学したという。当然、そのころの常磐線の話も出た。

2023年4月11日火曜日

「シダレがきれいですね」

                     
 「春は馬車に乗って」は作家横光利一の小説のタイトルだが、今年(2023年)は馬車どころか、列車に乗って駆け抜けた感がある。

 まだ4月初旬の9日だというのに、夏井川渓谷の県道沿いは新緑の装いに変わった(ただし、この日は風が冷たかった)。

 渓谷の隠居の対岸に自生するアカヤシオ(岩ツツジ)はあらかた花を散らし、ヤマザクラも赤みを帯びた葉を広げている。そのなかで、隠居の庭にある対のシダレザクラが満開になった=写真。

 なぜ対かというと――。知人から苗木2本をもらったとき、バラバラではなく、幹にハンモックをかけられるようにと、少し距離を置いて植えたのだった。それが20年ちょっと前。対のシダレは順調に育って、今では見上げるほどに大きくなった。

花の順序からいうと、まず対岸のアカヤシオが咲き、ヤマザクラが谷から尾根まで淡いピンク色を点描するころ、県道沿いの隠居のシダレザクラがやはり鮮やかなピンク色に染まる。

アカヤシオの花が目的で渓谷を訪ねたのに、あらかた散ったあとだった、という行楽客が毎年いる。県道を歩きながら、わが隠居のシダレを目に留め、カメラを向ける。そばで土いじりをしていると、よく声がかかる。「シダレがきれいですね」

この時期は庭に入り込む行楽客も後を絶たない。あいさつされれば「どうぞ、どうぞ」となるのだが、だいたいは黙ったままだ。

ある年には、押し花を教えているという女性とカミサンが満開のシダレザクラの下で話をしていた。同じ街の米屋が実家と知って、話がはずんだ。

「あのう、ここは何をやっているところですか」。ためらいがちに声をかけてきたアマチュアカメラマンもいる。「そば屋です」といいたいところだが、「ただの民家です、どうぞ、どうぞ」。そこからしばらくシダレザクラの話をした。

渓谷の住人で造園の仕事をしているKさんは、隠居のシダレは対になっているので競って花を咲かせるのだという。植物自身の「生きる力」が競り合うことでプラスに作用するということなのだろう。それはともかく、私ら夫婦も対のシダレが満開になるとつい見ほれてしまう。

その一方で、私は満開の花の下に入り、地面を丹念に見て回る。春のキノコのアミガサタケが発生するからだ。ところが、この2~3年は出現が思うほどではない。花は満開なのに……。9日も空振りだった。

今年(2023年)、シダレザクラの花を一番喜んだのは、その下で眠るネコだろう。下の息子が飼っていた「裕次郎」というネコが1月下旬に死んだ。25年も生きたというから、人間の年齢でいえば100歳を超えている。

シダレザクラの枝の外縁部に、息子が穴を掘って「裕次郎」を葬った。満開の花が今、優しく墓を包んでいる。これ以上の供養はない、そんな思いもよぎる。