2021年9月30日木曜日

渓谷の迂回路が復活

        
「令和元年東日本台風」で道路が損壊し、通行止めになってから1年11カ月。夏井川渓谷の江田と山を越えた横川を結ぶ母成(ぼなり)林道がやっと再開通した。

 同林道は、落石が絶えない渓谷の道路(県道小野四倉線)が通行止めになったときの、左岸唯一の迂(う)回路だ。東日本大震災のときにはこの迂回路が機能していたため、平市街から国道399号を利用して二ツ箭山のふもとを通り、横川から江田に入って渓谷の隠居へ行くことができた。

 令和元年の台風19号では、県道も、母成林道もダメージを受けた。県道はなんとかすぐ通れるようになった。林道は――。

「母成林道の奥に行ったらハゲ山だった。“山抜け”が心配だ」。台風襲来の1年半前、地元住民が懸念していたような事態になった

渓谷に友人夫妻が住む。台風19号の直後、街の旧宅から帰るのに、途中で県道をUターンし、国道399号まで戻って母成林道に入った。

そのときの様子――。皆伐された山側から沢へとガンガン水が流れていた。その水がアスファルト路面から滝のように落ち、アスファルトが沢に崩れていったという。

 江田の林道入り口には通行止めの看板が立った。その林道が先日、再開通したことを、やはり友人のフェイスブックで知った。日曜日(9月26日)、隠居からの帰り、母成林道~広域農道を利用して草野の魚屋へ直行した。

私が母成林道を通るのは、台風19号襲来直前の日曜日以来だ。友人が伝えていた通り、皆伐された沢の近くの護岸が復旧していた=写真。皆伐された山肌はこの2年間で草に覆われたが、路面自体は折損木が散乱し、開けたところでは生い茂った草が車に「うらめしや~」をしていた。

道路中央にたまった土の帯が、生えた草で緑色になっている。これなどは2年間、車の通行が止まっていたあかしのようなものだろう。

道路も住家と同じで、使い続けていれば傷んだところは補修が行われる。使わなければそのまま荒れ果てる。

こういうときにいつも思い出す言葉がある。「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」(民俗学者宮本常一)。農村や山村の景観は、人間が自然にはたらきかけることで維持されているのだ。

 夏井川渓谷は両岸に沢が連続する。小川エリアでは左岸・県道、JR磐越東線の山側に4カ所ほど、土石流の危険個所がある。わが隠居は「下の沢地区」の土砂災害警戒区域に引っかかり、友人宅は同特別警戒区域内に含まれる。

 それはしかし、人家や農地があるから線が引かれているのであって、人が住んでいないところでも(それが多いのだが)、土石流発生の危険は常にある。

迂回路の復活が教えるのは、温暖化による気象災害の激甚化だ。だからこそ自然が発する声を聞きのがしてはいけない、ということなのだろう。

2021年9月29日水曜日

渓谷のチョウたち

                            
   草野心平に「魚だって人間なんだ」という短い詩がある。「たらふくエサをやればいいといふもんぢゃあない。/二日も三日もエサをやらないのもいけない。/向うの身になって。/向うの食欲を考へること。/たまにはキャベツやコーンフリーもいい。向うの好き嫌ひも考へること。/魚だって人間なんだ。」

 相手の身になって考えること、それが人間だけでなく、いきもの全般、いや鉱物にも及ぶところに心平の詩の特質がある。

文芸評論家で、いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄さんは、それを「対象との共生感」と呼ぶ。

人間の命も、ほかの命も等価。力の強弱、体の大小を超えて、全身で相手と向き合う。そこに豊かな共生感が生まれる。

 日曜日に夏井川渓谷の隠居で過ごすようになって四半世紀。最初はまちに住む人間の気分転換の場(機会)くらいにしか考えていなかったが、絶えず小さな生きものたちと接しているうちに、「対象との共生感」が芽生えてきた。

 そこに住んでいる人間を含めて、動植物のすべてが太陽や風や雨と関係し、影響しあって渓谷の環境をかたちづくっている。私はたまたま、日曜日だけそこに加わる。スズメバチやマムシには緊張するが、チョウやトンボには慰められる。それこそ危険な生きものも含めて、みんな同じ共同体の一員――という考えに変わった。

 名前の知らない生きものが多い。写真に撮ったものは、データを参考にして調べる。その積み重ねが渓谷の「生物記」になる。

 9月後半は2週続けて庭の草引きをした。前の週は、その草の中にクロコノマチョウの幼虫がいっぱいいた。1週間後、今度は幼虫のひとつが蛹になっていた=写真上1。大きさは約2センチ。緑色で、成虫のかたちが透き通って見えるようだ。

成虫は、翅が樹皮の色をしていて地味だが、緑色の幼虫は黒く縁取りされた顔がおもしろい。なぜチョウやガは生まれて死ぬまで、このように大きく変化し、姿を変え続けるのだろう。

 隠居へ舞い込んできたチョウにも、カメラを向ける。連写モードで飛んでいるところを1枚=写真上2。これはウラギンシジミらしい。長押(なげし)の上の飾りに止まったのはルリタテハ=写真下。どちらも撮影データから検索してわかった。

 クロコノマチョウも、ウラギンシジミも、ルリタテハも、隠居の隣人。風呂場の軒下にソフトボール大の巣をつくった厄介な同居人、キイロスズメバチはその後、どういうわけか姿を消した。巣がサッカーボール大にまでなっていたら、今の時期が一番怖い。刺される恐れがなくなっただけ、安心して土いじりができる。

2021年9月28日火曜日

持って来る人/持って行く人

        
 日曜日(9月26日)の夕方、帰宅すると、玄関わきに青ジソが置いてあった。2株だがいっぱい枝分かれして盛り上がっている。だれが持って来たのだろう。Aさんか、Bさんか。Aさんなら連絡をくれるはず。すると、Bさん?

 その日はそこへ置いたままにして、翌月曜日、朝めし前に穂ジソを摘んだ。たちまちかごいっぱいになった=写真上1。朝めし前にとりかかったのは、直前にイヤな気分になったからだ。

 週明けの月曜日早朝はやることがある。家(米屋)の前がごみ集積所になっている。燃やすごみの日なので、生ごみが外から見えるような出し方をすると、すぐカラスにつつかれる。それを防ぐためにごみネットをかける。金~日曜日は収集がない。ネットを引っ込めてわが家で保管している。

 朝の6時前後、店の雨戸を1枚開けてごみネットを出したら、また閉める。店を開けるまでには1時間以上ある。

 いつもは店から一段下の犬走りに、背もたれのない緑色のベンチが置いてある。それを避けるように、そろりそろりと雨戸に沿って移動する。

ベンチは日中、古着の入った袋の置台になる。そのベンチが消えていた。どういうことだ。カミサンが動かしたのか。家の周りを確かめたが、ベンチはどこにもない。カミサンに聞くと、「あれれ、せちがらいこと」。だれかが持って行ったのだ。

口に入った苦虫を吐き出さないと――。はさみを握って、かごに穂ジソを切り落としているうちに、体がシソの香りに包まれた。

さて、このままでは古着の袋を並べられない。カミサンがどこからか、壊れて残ったボックス型の物置の扉とプラスチック箱を引っ張り出して置台をつくった=写真上2。

物置は近所から中古品を譲り受けて使っていたもの、プラスチック箱も大熊町から避難して近所に住んでいたおじいさんからのもらい物だ。廃物利用だからカネはかからない。ベンチを持ち去った人間には腹が立つが、次の手を考えないことには前に進まない。

私も穂ジソの仕事がある。とりあえず、塩漬けにすることにした。ネットでつくり方を検索し、メモを取る。それに従って、穂を指でこそげ取る・もみ洗いをする・水を切ってごみと砂を取る・熱湯でさっとゆがく・ザルにあける――ここまでをやって、塩のまぶしと瓶詰めはカミサンに頼んだ。

穂ジソは、食卓では脇役の脇役。一瞬の香りを楽しむくらいでいいのだが、それも塩漬けになっていればこそ。ご飯や湯豆腐に散らしたり、和え物にしたりするといいかもしれない。お福分けをした知人から、てんぷらもいい、といわれたそうだ。

晩酌にそれが出てきた。塩を振って食べた。ま、終わりがうまかったので差し引きプラスとするか、そんな気分になった。

2021年9月27日月曜日

初物と終わり初物

        
 フェイスブックにいろんな「グループ」がある。私は「きのこ部」や「山菜きのこを採って(撮って)食べる会」などに加わっている。毎日、さまざまな写真と情報がアップされる。

キノコについていえば、何がいつごろ発生するのか――ほぼリアルタイムで知ることができる。といっても、場所は日本のどこか、あるいは南半球や北半球のどこか、だ。

大げさにいえば、地球規模の視野で自分の足元、つまりはいわきのキノコの生態を考えることになる。そこがSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=会員制交流サイト)のおもしろいところだ。

私は、今は夏井川渓谷の隠居の庭をキノコのフィールドにしている。東日本大震災と原発事故が起きる前は、渓谷の森全体がフィールドだった。谷に沿って巡り、あるいは尾根へと急斜面を這いあがった。

放射線量の問題が起きてからは森を巡るのをやめ、たまに対岸へ渡ってキノコに出合っても、写真を撮るだけにしている。

そうしたなかで、隠居の庭の除染が行われた。新しい土になってからは、食菌に出合えばありがたく採取する。

春はシダレザクラの樹下にアミガサタケが発生する。梅雨どきには地表にマメダンゴ(ツチグリ幼菌)が現れる。それを地中にあるうちに採る。秋はモミの木の根元にアカモミタケが、立ち枯れの木にヒラタケが出る。

きのう(9月26日)、後輩が早朝から隠居の庭の草刈りをしてくれた。私はこの日、昔野菜の「三春ネギ」のうねに土を寄せ、苗床をつくった。合間に、昔野菜の「小白井きゅうり」と市販のキュウリを摘んだ。たぶん、これが最後。渓谷の住人は最後に収穫した物を「終わり初物」と呼ぶ。花をつけたミョウガの子も終わり初物だ。

昼食をはさんで、後輩は下の庭の草を刈り、私は上の庭を巡ってキノコを探した。道路に面した庭木のなかにモミがある。根元にアカモミタケが一つ、別のモミの根元にも同じくアカモミタケが一つ生えていた。

やっと出たか、という思いになったが、これはむしろ走りのアカモミタケだろう。つまりは、初物。過去の記録の通りなら、10月に群生する(はずだ)。

アカモミタケは、震災前の記憶では庭に発生することはなかった。今思えば、発生に気づかなかっただけかもしれない。

「モリオ・メグル氏」を自称していたころは、庭に生えるキノコにはあまり関心がなかった。原発事故が森から人間を遠ざけた。その代償行動として隠居の庭を森に見立てるようになったのだろう。

アカモミタケ自身からいいダシが出る。炒め物もいいが、わずか2個しかない。ここは吸い物にして味わうことにする。

秋の初物と夏の終わり初物と=写真。いよいよ土いじりも、夏から秋・冬に合わせたものに切り替わる。当面の楽しみは、モミの木の根元に目を凝らすこと。そして、三春ネギの収穫をいつ始めるか、指折り数えること。

2021年9月26日日曜日

頭までそろった抜け殻

        
 カミサンは「ヘビ」と聞いただけで飛び上がる。道に落ちている縄もヘビに見える。そのカミサンが夏井川渓谷の隠居でヘビの抜け殻を見つけた。

茶の間の隅、柱をはさんで長押(なげし)が交わる角から、抜け殻の一部がのぞいていた。「早く取って、どっかわからないところへ持って行って」。長押と壁の間にすき間ができている。長押から長押へとまたぎながら脱皮したのだろう。

イスに上がって抜け殻をつかむと、けっこう長い。尾の方は切れていたが、90センチ近い見事な抜け殻だった=写真。

隠居は、ふだんは人気がない。そのため、ときどきノネズミが臨時の居場所にしている。黒い粒状のフンが落ちているのでわかる。ネズミをえさに、どこからかヘビ(たぶんアオダイショウ)が侵入し、ついでに脱皮をした、といったところだろうか。

ヘビの抜け殻を見るのは、これで3度目だ。最初は9年前の平成24(2012)年7月。隠居の庭の木の枝におよそ1.5メートルの抜け殻が引っかかっていた。樹上で脱皮したのだろう。

2度目は翌25(2013)年9月下旬。20日未明、震度5強の地震が起きた。その1時間後、元草野美術ホールオーナーの草野健さんが95歳で亡くなった。告別式が9月24日、平で行われた。通夜の前日早朝、隠居の様子を見に行くと、玄関のたたきに蛇の抜け殻が落ちていた。それもアオダイショウだったように思う。

今回は頭部をじっくり観察できた。うろこのデザインが精緻で美しい。透明なプラスチックを思わせる質感だ。眼球の表面がそのままのかたちで残っている。ちょうど凸レンズのように光を反射していた。

目と目の間にある3枚のうろこは、中央が将棋の駒のようなかたちをしている。両脇の2枚は、それをひっくり返したように下が狭い。

頭部だけではない。胴体もそれぞれのかたちを保ちながらつながり、ヘビ特有のくねくねを伝達する仕組みになっているわけだ。

アオダイショウは農家や米屋の守り神だ。米を食い荒らすネズミを退治してくれる。カミサンはそういうふうに親から言われ、実際に家でアオダイショウを見ながら育った(はずなのだが)。

「ヘビの抜け殻を財布に入れておくと金運がよくなる」ともいわれる。よくなったためしはないが、なんとなく前に向かっていくエネルギーがわくような気はする。

わが家の神棚に「へびのぬけがら」とかかれた紙箱がある。下の子が小学生のころ、どこからか拾ってきたのを入れていた。ありがたがって神棚に供えて置いたら、中身がバラバラになっていた。茶色い粉末状のものが少しあるだけだった。分解してしまったのだろう。

今度も「生物コレクション」としてどこかに保管しておきたいのだが、そして金運アップを期待したいのだが、カミサンが許さない。見るのも触るのも、ましてやどこにあるか分かっているのもイヤ、と言っている。いい保管場所がないものか思案中だ。

2021年9月25日土曜日

「REVISIT」展

                               
    REVISIT(リビジット)=再訪・再考だという。なにを再訪・再考するのか。いわき市立美術館がどういう経過をたどって誕生したか――それを振り返る企画展のようだ。

「REVISIT――コレクション+アーカイブに見る美術館のキセキ」展が10月1日から24日まで、いわき市立美術館で開かれる。

 当初は9月11日~10月24日の予定だったが、コロナ禍の「感染拡大防止一斉行動」に「まん延防止等重点措置」の期間延長が加わり、臨時休館が長引いて開催期間が延期・短縮された。

 企画展の関連行事として、若い人たちによるオープニングトーク「これからの地域とか、文化とか、アートとか」が10月2日に開かれる。翌3日の日曜日はクロストーク「いわきの文化と美術館を振り返る」で、佐々木吉晴前いわき市立美術館長と私が話す。

 先日、担当の学芸員Oさんから企画展の図録が郵送されてきた=写真。展示作品(抜粋)のほかに、今年(2021年)で開館38年目に入った同美術館の年表が収められている。

5年前(2016年)の秋、「いわきの現代美術の系譜」と題するシンポジウムが平・大町のアートスペースエリコーナで開かれた。6人の登壇者の1人として参加した。

 テーマは、市立美術館の建設へとつながった市民団体「いわき市民ギャラリー」の活動と、その推進力になった画家松田松雄の人と作品を振り返り、いわき現代美術黎明期の熱を次世代に伝えていく、というものだった。

「市民ギャラリー」がヘンリー・ムーアやロダンなどの一流の展覧会を誘致し、成功させる。それが行政を動かして、現代美術を主に収集するユニークな美術館の開館につながった。つまり、奇跡に次ぐ奇跡がうねりとなって美術館の建設という大波を生んだ、という軌跡。シンポジウムのテーマがそのまま「REVISIT」展に引き継がれた、といってもいいだろう。

 企画展のタイトルにある「キセキ」が片仮名なのは、この「軌跡」に「奇跡」の意味をもたせたからにちがいない。

私の役目は、図録にない市民ギャラリーと美術館の「前史」を語ることだと思っている。つまり、私自身も出入りする人間の一人だった草野美術ホールや喫茶店「珈琲門」について。そこで画家や詩人、書家、演劇人その他もろもろの人間が交わった。そのつながりがやがて「市民ギャラリー」を生むエネルギーになった、と私は思っている。

 5年前のシンポジウムや「市民ギャラリー」などをテーマにしたノンフィクション作品がある。「熱源~いわき市民ギャラリーとその時代」(木田修作)。第40回吉野せい賞準賞を受賞した。市内の同人誌「風舎」の第12号(平成30年3月発行)に載る。

もはやここに収められている記録の方が私の記憶より正確だ。クロストークを控えて「熱源」を読み直し、忘れていたあれこれを思い出している。

2021年9月24日金曜日

墓巡り

                      
 いつもは「彼岸の中日」前後の日曜日に墓参りをする。今年(2021年)の秋分の日は木曜日だ。9月19日の日曜日では早すぎる。26日の日曜日では遅すぎる。結局、木曜日にカミサンの実家の墓参りをした。

 墓は好間町下好間字大舘の長興寺にある。いわき駅裏の物見ケ岡から西の下好間へと丘陵が続く。その丘に寺が密集する。平分は「大館」、好間分は「大舘」。地名の漢字の違いはともかく、一帯は「寺町」だ。

 表の参道ではなく、裏の山道を利用すれば、ほかの寺の墓へも行ける。それはしかし若いときの話で、今はそれぞれの寺の駐車場に車を止めて墓参りをする。

「最初に大宝寺へ行こう」。こちらは平・大館分だ。アッシー君としては黙って従うしかない。生前、親しくしていた老彫刻家がいる。その墓に焼香したあと、近くに眠る磐城平藩士の家々の墓を巡る。

それで急に思い立った。墓参りだけでなく、墓巡りをしよう。同じ磐城平藩士で明治の歌人・天田愚庵の家の墓もある。こちらはやや離れたところから見て黙礼する。

 カミサンの実家では菩提寺の墓のほかに、この寺にも墓がある。なぜお参りする墓が2カ所なのかはわからない。こちらは戊辰戦争のころ、亡くなったのだとか。

 そうこうしているうちに、どこかで見たことのある少年が小走りにこちらへ向かってくる。下の孫だった。親と一緒に墓参りに来て、駐車場で私の車を見つけたのだろう。

父親、つまり長男に、実家とはどういう関係の墓なのか聞かれたが、カミサンもよく分からない。

今回はたまたま墓参りと墓巡りをしているうちに、孫と一緒に先祖に関係する墓の前に立つことができた=写真。それはそれでいい思い出になった。

 孫たちと別れたあとは別の寺へ移動し、好間出身の詩人が眠る墓や、知人の先祖の墓の前に立って黙礼した。いろいろ調べものをしているときに、どちらも出てくる。「これからもよろしくお願いします」。神頼み、いや仏頼みだ。

結局、カミサンの実家の墓にたどり着いたのは、最初の寺を訪ねてから小一時間あとだった。そこでもカミサンの親戚に会い、私も知人と会った。

 彼岸の中日に墓参りをするということは、あちらへ渡って仏になった肉親に会うだけでなく、こちらで生きている人にも会うことなのだと了解した。

 それからカミサンの実家へ行き、店番をしている義妹と3人で雑談する。どこの墓へ入るか、という話になった。これも一種の「終活」だ。

私は山寺に「ついのすみか」がある。そこで眠るつもりでいる。が、残された者は車がないと行けない。

どこの墓に入るにしても、次の世代には経済的な負担をかけられない、今から準備をしておかねば――という点では一致した。

それと、これは単なる老化なのだが、駐車場に車を止めて山門をくぐり、本堂の前を通って墓に行くだけでも、石段がこたえるようになった。墓はそこにあるのに遠い。墓に入る話の前にきつい現実が待っていた。

2021年9月23日木曜日

渡辺町の大沢隧道

                     
 夜は、あした何をするか、メモをして寝る。手帳に予定が書いてある。アッシー君の行く先を言われることもある。

 3連休明けの火曜日(9月21日)は、予定がなかった。手帳も真っ白、アッシー君も言われていない。朝から晴れていた。日・月曜と晴天で、メモしたことは全部やった。火曜日も晴れとなれば、これはもう「おまけ」だ。

 渡辺町の田園風景を撮りに行かねば。ついでに「大沢隧道」をくぐってこよう――。10時前に思い立って家を出た。

 わが家から国道6号(旧バイパス)経由で40分ほどだろうか。泉駅前から跨線橋を渡って田園地帯に入る。渡辺小学校を過ぎて県道釜戸小名浜線に折れたあと、稲刈りの始まった田んぼを前景に、釜戸川沿いの屋敷林と背後の丘陵を撮った。

 そのあとは、丘陵のふもとをくりぬいてつくられた「大沢隧道」の“探検”だ。丘陵の反対側に隧道開鑿の記念碑がある。それも写真に撮る。

 昭和52(1977)年に発行された『渡辺町史』(同町史編さん委員会編)に大沢隧道の記念碑が紹介されている。工事の端緒がおもしろい。「本道路の開鑿は、明治19年高木直枝翁が自費を投じて山頂に道を開きたるに始まる」。そういう1行から碑文が始まる。

 この高木直枝の弟に、台湾で「医学衛生の父」と呼ばれた友枝がいる。その友枝が昭和14(1939)年の碑文建立に関係していた。「従三位勲二等医学博士高木友枝閣下書」とある。

 友枝は医学者。ペスト菌を発見した北里柴三郎の一番弟子で、師の指示で日本が統治していた台湾に渡り、伝染病の調査や防疫など公衆衛生に尽力した。総督府医院長兼医学校長、総督府研究所長などを務めたほか、明石元二郎総督時代には台湾電力会社の創立にかかわり、社長に就いた。

 ま、それはさておき、この隧道は歴史的な土木遺産といってもいい。開鑿したあとが生々しいかたちで残っている=写真。碑文によれば、長さは100メートル。私にはそこまでの感覚はなかったが、壁面の凹凸から内視鏡で検査したときの大腸壁を連想した。

 文字起こしされた碑文によれば、隧道は渡辺町松小屋にある。丘陵の陰の大沢と結ぶ。大沢には共有林がある。その開発のためには隧道に頼らざるを得ない。

 もう12年前になる。同級生たちと北欧を旅行した。スウェーデンの地下の駅だか、道路のトンネルだかを通ったとき、壁面が凹凸の岩盤だったことに驚いた。

北欧は巨大な一枚岩の上に薄く堆積した土壌を利用して人間の暮らしが営まれている。岩盤に守られながら、岩盤に阻害されている。そのためにダイナマイトが発明されたという。真偽はともかく、話としてはおもしろい。

大沢隧道ではどうだったのか。「青の洞門」のようにコツコツとやったのだろうか。この歴史的な土木遺産の経緯、工法などを調査したレポートがあれば読みたいものだ。

2021年9月22日水曜日

川と川が出合うところ

                      
   いわき市内の平地の川、なかでもわが生活圏を流れる夏井川は支流の好間川・新川を含めて、日々、変容している。「令和元年東日本台風」で流域が甚大な被害を受けた。その復旧と防災工事が続く。

10年半前の「東日本大震災」では、ハマが大津波に襲われた。その復旧・復興のなかで沿岸部の大改造が行われた。海と川でつながる内陸部でも、河川敷の立木伐採・土砂除去といった大改造が進む。

平市街の北を夏井川と好間川が、南を新川が流れる。新川は平南白土地内で、好間川は好間町川中子(かわなご)地内で夏井川に合流する。川中子は、川にはさまれた土地、を意味する地名だろうか。

川と川が出合うところは土砂がたまりやすいのだろう。新川合流部では令和元年の前から、重機が入って土砂採取が行われている。ハクチョウの越冬地としても知られる。なにより視界を遮るものがない。

そばの右岸丘陵には名刹・専称寺がある。夏井川左岸の堤防を行き来する人間には、ビューポイントのひとつだ。

上流の好間川と夏井川の合流部はどうか。夏井川左岸に竹林が広がっているために、堤防からは合流部がまったく見えなかった。今度の大改造で、その竹林が消えた。

先日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、街から平橋を渡り、幕ノ内で夏井川左岸の堤防に出た。そのとき初めて、好間川が夏井川に出合うところを見た=写真(午後、隠居からの帰りに撮影)。

川に挟まれた土地の先端は舳先(へさき)のようにとがっていた。川中島ではないが、パリのシテ島を連想した。好間川は新川より流路が長い分、水量も川幅もある。

この川中子で詩人の猪狩満直(1898~1938年)が生まれた。大正元(1912)年、日本聖公会の牧師で詩人の山村暮鳥が磐城平に着任する。5年余りの短期間だったが、暮鳥はキリスト教のほかに文学を“布教”した。暮鳥の文学が磐城平で開花し、暮鳥のまいた詩の種も磐城平で発芽した。

三野混沌(吉野義也)や、のちに混沌と結ばれる若松せいが暮鳥ネットワークに属していた。満直もその一人だった。

混沌は、川中子とは夏井川をはさんで目と鼻の先の下平窪字曲田で生まれ、その西方、好間川の左岸、菊竹山の麓で、せいと梨農家として生きた。

満直は妻子を連れ、移民として北海道へ渡るが、やがて帰郷し、信州へ働きに出たあと、病を得て実家で亡くなる。

吉野せいは『洟をたらした神』所収の「かなしいやつ」で満直を回想している。菊竹山は曲田同様、川中子からも3~4キロしか離れていない。満直がまだそこに根を張っていた若いころ、たびたび山を訪れた。自産の野菜などを携えて。

「筍の節は筍を、真夏は水々しい胡瓜や茄子を、氷雨の降る日にヒゲ根の生えた赤いにんじんと白茎の長い葱の一束をどさりと雨のもる土間に投げ出してくれ」た。

川中子で栽培されるネギは有名だった。洪水が運んだ砂地だからこそネギはよく育つ。「川中子ネギ」。シテ島のような土地を眺めていると、その豊穣を思い、そこを飛び出さざるを得なかった骨肉の葛藤を思う。そして今度また(2年前)、台風19号の被害に遭った家があることも。

2021年9月21日火曜日

梨のコイン自販機

        
 毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、国道399号と県道小野四倉線を利用する。

 上平窪(平)の坂を越えて下小川(小川町)に下ると、道路沿いに農家の庭先直売所がある。近年はその先、同じ道路沿いの関場に梨のコイン販売機がお目見えした。

 おととい(9月19日)朝、販売機のロッカーに袋詰めの梨があるのを確認した=写真。あとで検索したら、販売機には名前が付いていた。「朝市くん」。山形県天童市のメーカーが製作している。

 一帯には梨畑が多かった。今も道路沿いに何カ所かある。この道路を行き来していると、梨農家の1年がわかる。芽かきや摘蕾・摘花・摘果作業があり、収穫がすめば晩秋~冬の剪定作業が待っている。

 庭先直売所はたまに利用する。コイン販売機はまだだ。隠居で土いじりをした帰り、初めて販売機から梨を買うことにした。

 ちょうど午後3時ごろだった。いつもその時間に補充するのかどうか、奥の家から若い女性が袋詰めの梨を運んできた。カミサンが販売機からではなく、直接、女性から梨を買った。今は「豊水」が出回っている。4個で300円だった。名前の通り、水分がたっぷり含まれていた。

 いわきの梨が出回るようになると、決まって思い出す人間がいる。「百姓バッパ」を自称した作家の吉野せい(1899~1977年)と、夫の詩人三野混沌(吉野義也=1894~1970年)だ。好間の菊竹山で、主に梨を栽培して生計を立て、子どもを育てた。

 混沌は、中国から導入された最晩生の「来陽慈梨(ライヤンツーリー)」に魅せられ、かつて静岡にあった興津園芸試験場に何度も懇望して分けてもらった穂木(ほぎ)を、梨の成木を倒して割り継ぎし、1反歩余りの中国梨畑に切り替えた――。そんなエピソードが、せいの作品集『洟をたらした神』の「公定価格」に載る。

「公定価格」そのものは、戦時下、梨を公定値から少し高く売ったら、警察が来て呼び出しをくらい、始末書を書かせられたという、せいの反骨を描いたものだ。

平成11(1999)年にいわき市立草野心平記念文学館で開かれた「生誕百年記念―私は百姓女―吉野せい展」の図録に、四男の吉野誠之さんが書いている。

「母の生涯の仕事の中で、その全てが梨と共に――五十年近く梨作りに情熱を燃やしつゞけたと云っても過言ではないでしょう。せん定や、玉すぐり、理にかなった栽培法で父親以上の腕前でした」

1歳にも満たずに亡くなった次女に「梨花(りか)」と名づけた。それほど梨の花が好きだった。誠之さんは、母親は「どうしたら梨花に対して償いを、又昇華させることが出来るだろうかと晩年迄思いつゞけ、創作となって梨花と共に生きつゞけたのかも知れない」としめくくる。

来陽慈梨は戦前の話で、戦後は「二十世紀」や「新高」を栽培した、と図録にある。いわきの梨を口にするたびに、「いつかは来陽慈梨を」という思いがわく。

2021年9月20日月曜日

暑い秋の一日に

        
 日曜日(9月19日)は久しぶりに晴れて暑くなった。「暑さ寒さも彼岸まで」という。秋分の日(9月23日)が近い。夏井川渓谷の隠居で土いじりをしていると、熱中症になるのではないかと思うほど汗をかいた。合間に水をガブガブ飲んだ。

 今はとにかく、菜園にはびこっているメヒシバを中心にした雑草を引き抜くこと。そうでないと、「三春ネギ」の種をまく苗床を確保できない。

 三春ネギの種をまく日は決まっている。10月10日。20年以上前、家庭菜園を始めたときに、隠居のある小集落の住民に教えられた。

今年(2021年)はたまたま日曜日だ。それから逆算して、石灰をまく、肥料をすき込む、という作業がある。そのための草引きだった。

 1週間前は三春ネギのうねの周りの草を引いた=写真。今度も、フィールドカートに座り、ねじり鎌で疊2枚ほどのスペースをきれいにした。それだけでもけっこうな時間がかかった。

「年寄り半日仕事」という。昼食をとって一休みしたあとは、草引きをやめて隠居の庭をウオッチングした。

雨が降ったりやんだりのじめじめした天気が続いた。ネギは湿気に弱い。とりあえず様子を見る。盛り土が足りずに倒伏した3本を直したほかは、異状はなかった。

あとはキノコ、花、虫、その他なんでもいい。庭にあるものを見る、食べられるものがあれば採る――といった感じでブラブラした。

敷地はそばの県道に沿って横に長い。15メートル×45メートルくらいある。広さだけは小さな分校の校庭並みだ。隠居をはさんで上流側は菜園、下流側は庭木と駐車場で、土地の境には木が密生している。

そこを歩くだけでも「発見」がある。隠居と風呂場の間に「坪庭」がある。カエデの若木とウツギがくっつくように生え、周りをクサソテツなどが覆っている。木の根元に名前のわからないキノコが点々と、円を描くように生えていた。

地面から生えるキノコについては、もうキノコ単独で存在しているとは思わなくなった。そばに木があれば、その根と共生している。つまりは菌根菌。そういう視点からキノコを見る。

カエデ、あるいはウツギがそれに該当するかどうかはわからない。とりあえず調べる。見ることが調べることにつながるところがおもしろい。

ま、それはともかく、この日の目的はモミと共生するアカモミタケが出ているかどうか、だった。去年までの記録を見ると、10月中旬に庭から採取している。やはりまだ早かった。

この日は行楽客が昼前から渓谷にやって来た。シルバー世代だけではない。家族連れや若いカップルもいた。久しぶりの快晴、しかも9月20日の「敬老の日」と合わせて、3連休の真ん中だ。遠出したくなるのは当たり前か。渓谷の行き帰りに「杉並」や「湘南」ナンバーの車を見かけた。

隠居の庭につかつかと入ってくる女性もいた。行楽シーズンになると、たまにある。「ここは普通の民家です。そば屋ではありません」と冗談ぽくいうと、「あらっ」といった表情になった。そば屋でなくてもなにかの店のように思ったらしい。そこから会話が始まればいいのだが、たいがいはすぐ背を向けて出ていく。これは、コロナ禍の「3密」とは別の問題だ。

2021年9月19日日曜日

河口の防潮水門

        
 太平洋が一望できる展望大浴場「流木の湯」を売り物にした宿泊施設、いわき新舞子ハイツが滑津川河口にある。フットボール場や体育館などのスポーツ施設も併設されている。

 海岸林をはさんで太平洋に面しているため、東日本大震災では屋内温水プールとともに、津波の直撃を受けた。併設のソフトボール場(現在は駐車場)は一時、震災がれき置き場になった。

 スポーツ施設はその後(2016年)、多目的グラウンドがオープンし、ハイツも含めて「いわき新舞子ヴィレッジ」として生まれ変わった。

そのハイツで先日、会合があった。会津に住む後輩と一緒に参加した。駐車場に着いたら、後輩が「まだ時間がある、海を見たい」という。確かに早く着きすぎた。

ではと、また車を走らせ、海岸道路に出て防潮堤に立つ。およそ3週間前、海岸道路を利用して小名浜へ出かけた。海を見るのはそれ以来だ。

全天鉛色、海の色も冴えない。時間はまだある。ついでに塩屋埼灯台のふもとまでドライブした。後輩は、灯台を見るのは中学生以来だという。そのころ、彼は双葉郡楢葉町に住んでいた。灯台のふもとに美空ひばりの歌碑がある。映画「喜びも悲しみも幾歳月」は記憶にあるが、「みだれ髪」は初めてだという。

会津の人間になった今は、福島県の、いわきの海を、全く意識することなく暮らしている。夏井川河口から5キロほど上流に住む私も同じだ。ふだんはハマのことを全く忘れている。

後輩に「堤防はあそこからかさ上げしたのか」と、防潮堤の下部を指されても、「いや、違う。もっと上」。あいまいに応じるしかなかった。あとで、いろいろネットで確かめた。

滑津川の河口に防潮水門が設けられている=写真。福島県いわき建設事務所の広報資料によると、県は防潮堤を1メートルかさ上げして7.2メートルにした。その高さに合わせて防潮水門が建設された。

県がつくったいわき市内の防潮水門は四つ。北から滑津川(平下高久)、弁天川(平沼ノ内)、神白川(小名浜下神白)、中田川(錦町吉原=鮫川河口右岸)で、それぞれ背後に集落や農地が広がる。四倉町の道の駅よつくら港そばにある境川水門と永崎海岸にある天神前川水門は、市が施工した。

津波警報が発令されると、消防庁のJアラートが発信され、自動で水門が閉まる――。天神前川水門見学会に参加した地元・江名中学校の校長さんが学校のホームページに書いていた。なるほど。

防潮堤はサイクリングロードも兼ねる。市は防潮堤や既存の道路などを活用して、自転車で海岸線を走れるようにルートを設定した。今年(2021年)3月下旬、「いわき七浜海道」として運用が始まった。

南の勿来の関公園から北の久之浜防災緑地まで、およそ53キロ。新舞子ハイツの玄関前に新しい平屋の建物があった。「新舞子サイクリングステーション」というそうだ。七浜海道の休憩所であり、自転車のレンタルもするらしい。

会合の帰りは防潮林を縫う海岸道路を利用した。津波をかぶった黒松が塩分の浸透圧を受けて枯れ、新たに植えられた松苗が育ちつつあることを、車中で説明する。あらためて沿岸の津波被害と復旧具合を確かめるドライブになった。

2021年9月18日土曜日

瓶の宅配牛乳

        
 週に2回、2本ずつ瓶の牛乳が宅配される=写真。先日、瓶による製造が中止される、ほかの瓶の牛乳に切り替える、よければそのまま継続を――という内容の「お知らせ」が牛乳箱に入っていた。いつもの2本のほかに、見本の1本もあった。

 本社が郡山市の「酪王牛乳」を宅配で飲むようになった経緯はよく覚えていない。最初はいわき市に本社のある「岡田牛乳」を飲んでいたのではなかったか。牛乳業界の再編・統合といった事情が影響して、岡田牛乳が「あぶくま牛乳」になり、やがて酪王牛乳に切り替わった。手短にいえば、そういうことではなかったか。

 東日本大震災と原発事故が起きるとすぐ、福島県内各地でしぼりたての牛乳の廃棄処分が行われた。そんなニュースが今も記憶に残る。一方で、米もそうだが、検査して安全が確認されたものだけが出荷されている。牛乳も同じだ。宅配をやめたことはない。

「お知らせ」が入った直後、NHKがローカルニュースで瓶の酪王牛乳が9月いっぱいでなくなることを報じていた。銭湯で湯上がりにコーヒー牛乳を飲む、お決まりのポーズをとったあと、記者が経緯をレポートした。

県紙の記事なども参考にすると、瓶商品は宅配と自販機が主力だが、原発事故後、首都圏を中心に販売不振が続いた。コロナ禍で自販機のある銭湯や温泉施設などが営業を休止した。さらに、老朽化した製造ラインを更新するには多額の投資が必要だが、更新しても採算は見込めない。そういったことが重なって、瓶による牛乳製造の終了を決めたという。

 ときどき昼にコンビニからサンドイッチと牛乳を買ってくる。酪王のコーヒー牛乳(紙パック)があれば、必ずそれにする。コーヒー牛乳といえば酪王、それが若いときから頭に刷り込まれている。

 私は、浜通りと中通りの分水嶺、阿武隈高地の西側で生まれ育った。大きくは郡山の経済圏だ。向こうではどこでも「酪王」に出合った。浜通りで目にするようになったのは、コンビニができてからではなかったか。味はもちろんだが、「懐かしさ」意識も手伝って、サンドイッチには酪王のコーヒー牛乳、これが私の中で定番化した。

 きのう(9月17日)、会津から高速バスでやって来た後輩を、いわき駅前へ迎えに行った。一緒に昼でも、と思ったが、すでにすませたという。途中、コンビニに寄って、サンドイッチと酪王のコーヒー牛乳を買い、わが家で食べながら近況を報告し合った。

 すると突然、後輩がコーヒー牛乳を見ながら、酪王の話を始めた。なんと、夫婦で朝、瓶の酪王牛乳を宅配しているのだという。

牛乳といえば瓶、それが当たり前の世代だ。瓶の牛乳が消えるというので、ここ一両日、酪王の情報を求めてネットを渡り歩いていた。「瓶でなきゃダメだという人がいる」。それでお得意さんも減ったという話に、「なるほど」とうずきながらも、暗澹とした思いになった。