2024年4月26日金曜日

巨岩のような人だった

                      
 「百姓バッパ」の吉野せいさんはさておき――。著名な文学者とじかに接したのは2回。いわき出身の詩人草野心平さんと、彼と親交のあった文芸評論家粟津則雄さんだ。

 私がいわき民報社に入るとすぐ、編集長が試すように言った。大黒屋デパートで心平さんが個展を開いている、会って話を聞いてこい。

 まだ取材のイロハも知らない人間には、何を聞いたらいいのかさっぱりわからなかった。女性秘書が取り次いでくれたが、心平さんは結局、一言もしゃべってはくれなかった。

 それから二十数年がたって、いわき市立草野心平記念文学館が開館し、粟津さんが初代館長に就いた。

 いわき地域学會の初代代表幹事でいわき湯本温泉の老舗旅館古滝屋の社長だった故里見庫男さんが毎月、同旅館を会場に異業種交流の飲み会を開いた。たまたま粟津さんと席が向かい合い、文学の話をしたことがある。

 「文化と福祉のボランティア団体」であるブッドレア会も、里見さんが中心になって発足した。例会で粟津さんが講師を務めたことがある。アリオスで開かれた朗読コンサートにも出演した=写真。

 粟津さんが4月19日に亡くなった。96歳だった。訃報に接して古滝屋での懇親会と講演、アリオスでのコンサートを思い出した。

平成20(2008)年のブログに講演とコンサートの記録が残っている。粟津さんをしのんで、それを要約・再掲する。

【ブッドレア会講演】粟津さんは「日本人の心とことば」と題して、心とことばの奥深いところ(つまりは詩、と私は解釈したが)で結びついている個人的な体験を主に語った。

最初は小学校へ上がる前に見た「赤黒く恐ろしい夕焼け」の記憶。その夕焼けが、心とことばの奥深いところと結びついた一番早い出合いだったという。

中学生でアルチュール・ランボーを知り、旧制高校時代に枝垂れ桜の怖さ、すごさを知って、「梅好き」から「桜好き」になった。

詩人(たとえばランボー)に助けられた――とも語った。戦争末期の暗い時代、粟津さんはランボーに支えられて「時代にはむかう牙」を磨いた。

そして、宮沢賢治の「永訣の朝」を読んだときの衝撃。草野心平、小林秀雄との出会い。「永訣の朝」は、粟津さんにとっては「事件」だった。草野心平、小林秀雄は「決定的な存在」となった。

【朗読コンサート】コンサートの後半は、粟津さんがピアノ伴奏にのせて草野心平の詩を朗読した。「秋の夜の会話」から「噛む」まで、粟津さんが心引かれてやまない心平の詩10篇を朗読した。

「秋の夜の会話」はやさしい声音と野太い声音を使い分けて、いかにも会話をしている雰囲気を出す。

「カエル語」でつづられた「ごびらっふの独白」はフランス語風、そのうえシャンソン調。そして、「わが抒情詩」の重く暗いため息。役者顔負けの演技力だ。

「知的巨岩」ないし「知的ブルドーザー」とでも形容したくなる人が、きめこまやかに心平の詩を朗読した。

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