2013年12月31日火曜日

1年が終わる

1年が終わろうとしている。きのう(12月30日)午前、行政区内約340世帯に配る「広報いわき」1月号と回覧資料を振り分け、役員宅に届けた。その間にカミサンはわが仕事場(茶の間)の掃除をし、正月の飾りつけをした。床の間にかがみもちと花が飾られ、掛け軸が大黒さまの縁起物に代わった。午後は年賀はがきの文面を考え、プリンターで印刷した。

今年はいつになく忙しく過ごした。去年の師走に体調を崩して、3カ月ほど自宅に“入院”した。4月には2年先延ばしにしてもらった区長兼行政嘱託員の仕事が始まった。それと並行して、4~7月まで週一回、待ったなしの仕事に追われた。ペースをつかめるようになったのは、6月後半になってからだろうか。

それとなく見守ってくれる人たちがいる。15歳で出会った朋友たちもそうだ。3月、いわき市常磐の白鳥山温泉で快気の宴を開いてくれた。5月、夏井川渓谷のわが隠居(無量庵)に集結した。7月には京都・奈良の“修学旅行”を楽しんだ。お茶屋で舞妓さんとじかに話し、奈良では東大寺の大仏様=写真=に手を合わせた。それだけではなかった。11月にも会津・芦ノ牧温泉につどった。いい息抜きになった。

体調を崩してから6月までの間、ブログはとどこおりがちだった。朋友の一人から、朝・昼・晩、アップしているかどうかチェックしていたといわれて、7月からは以前のように毎日書くことにした。朋友たちには「生きているよ」というメッセージになる。晩酌のあとに文章を打ち、朝に整理して投稿するという一日のリズムが戻った。

さて、日々の暮らしの中でときどきかみしめる言葉がある。一つは、宮沢賢治の「農民芸術概論・序論」にある<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>だ。3・11を経験して世界がガラリと変わった。賢治の言葉が理想ではなく、現実の目標になった。

もう一つは、ウージェーヌ・ギュヴィックというフランスの詩人の短詩。10代のときにノートに書き写しておいたものだ。「生命は増大すると/ひとがぼくらにいうとき、それは/女たちの肉体がもっと大きく/なることではない、木々が/雲の上に/そびえはじめることではない、/ひとが花々の最も小さなものの中へ/旅行できることではない、/恋人たちが愛の床に幾日も/とどまっておれるということではない。/それはただ単に/単純に生きることが/むつかしくなるということだ。」

それから半世紀。介護保険料を払わないといけない年齢になってみると、意識せずとも暮らしは単純なものになっていた。やることが絞られてきた。それは時間が矢のように過ぎるからだ。比喩ではない。開き直って、シンプル・イズ・ビューティフルと言ってみる。そうだったらいいかな、という気になってくる。では、よいお年を!

2013年12月30日月曜日

すべてのことはメッセージ

きのう(12月29日)、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ出かけた。カミサンが玄関に「りんぼう」を飾り、床の間にモチを重ねて正月を迎える準備をした。私はその間、隣にある「錦展望台」のガケ、道路側溝の直下にできた“しぶき氷”=写真=の撮影に集中した。

そこはV字谷にある小集落の下流側の入り口。集落には何枚か田んぼがある。それを潤すために、夏井川の支流・中川から集落の田んぼ、そして道路に沿って夏井川へと用・排水路がのびている。

この冬初めてできたしぶき氷だ。写真を撮りながら、じっくり氷を観察した。排水口の周りに、細い枯れ草が密生している。その枯れ草に絶えずしぶきがかかっている。気温が下がる夜間、草に付いたしぶきが凍り、肥大し、やがて氷柱(つらら)状になったり、ナイフ状になったり、球状になったりしたのだろう。氷はまだ赤ちゃんなのか透明だった。

自然は絶えずこうして流動し、変化している。夏井川渓谷に限ったことではないが、自然に身をおくたびになにか発見がある。「本を読む」だけでなく、「自然を読む」面白さを知ってからは、意識して「いわきという書物」を読んできた。今はさらに「いわきというメディア」という言い方をしてみたくなっている。

およそ40年前に発表されたユーミンの歌「やさしさに包まれたなら」に、「目にうつるすべてのことはメッセージ」という1行がある。まともに歌詞とむきあったのはつい先日。で、森をめぐっているときに感じていたのはこれだったと、遅まきながら気がついた。

自然はメッセージに満ちている。そこに赤松があれば大工は家の材料を思い、愛菌家はマツタケを思い、画家はかたちと色を思い、カメラマンは光の方角を思う。同じものを見てもとらえ方は人それぞれだ。逆に言えば、赤松は、いや自然は無限のメッセージを発しているメディア(媒体)になる。排水口のしぶき氷だって、寒さが早いか遅いかのバロメーターにする人がいるかもしれない。

ユーミンの歌に先行して世に知られた言葉にマーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」がある。それにひっかければ、メッセージを発しているメディア、つまりいわきの自然はいわきのメディアということになる。マスではない「いわきというメディア」という切り口でいわきを読み直してみるのも面白いかな。

2013年12月29日日曜日

キノコの話を食べる

いわきキノコ同好会(冨田武子会長)の総会・勉強会・懇親会がきのう(12月28日)夜、平・レンガ通りの田町平安で開かれた=真。約20人が出席した。今年1年、いや体調を崩して去年は総会を欠席したから、この2年間のキノコ事情を知るにはいい機会になった。

懇親会ではあいさつ担当ということで、3・11後、口にする機会が減ったキノコの代わりに、キノコの話を食べて楽しみたい、と呼びかけた。20人の体験談から、いわきの海岸から阿武隈高地までの菌界の様子が“3D”になって浮かび上がってきた。

だれもが気になるのはキノコの放射線量だ。同じ場所でも種によって測定値が異なり、同じ種でも場所によって極端に値が違ってくるから、一般化して論じるわけにはいかない。以下は、体験談の個別・具体例(単位は省略して話しているので、キロ当たりと推定)。

食菌のウラベニホテイシメジは、地表よりやや深いところから出てくるので、ベクレルはわりあい低い。地上から株になって現れるセンボンシメジ(シャカシメジ=いわき市川前町産)は200、土壌は5000ベクレルあった。

いわき市北部のマツタケは、2011年70、12年90、13年200ベクレルと、年々高くなっている。70ベクレルあったコウタケを塩ゆでして一晩おき、測り直したら数ベクレルまで低くなった。それをさらにゆでて測ったら値は検出されなかったが、コウタケの命である香りは失われた。

その関連で、ネットで全村避難を継続している葛尾村の広報紙12月号に出合った。村内のキノコなどの線量が載っている。たとえば、イノハナ(コウタケ)。「生」で最大8115、「ゆで」で最大1287、「乾燥」で2万1772とあった。

遅まきながらわかったのは、単位の1キロという「分母」の違いだ。「乾燥」が1キロになるには「生」の何倍もの量が必要になる。当然、キロ当たりのベクレルは「生」より「乾燥」が高い。1本1本の線量は変わらないのだから、乾燥したら凝縮されたとか、線量が高くなったとかではないのだ。「分母が違う」という話に、蒙が啓(ひら)かれた。

ある会員は、わがふるさと・田村市常葉町の仕事先で、採種された大量のイノハナ(コウタケ)に出合い、キノコに目覚めた。砂浜に発生する珍菌ケシボウズタケの実物を持参した会員もいる。市街地の公園にキタマゴタケとヤマドリタケモドキが発生していたことも報告された。灯台下暗しで、都市公園もキノコ観察地としてバカにできない。

多くの「キノコ目」がとらえた阿武隈高地の、平地の、海岸のキノコたちがいとおしい晩になった。

2013年12月28日土曜日

対向車線で事故

ふだんは自宅周辺と、いわき駅周辺の市街地を行ったり来たりするだけ。双葉郡に通じる国道6号の新・旧道を主に利用する。ときどき国道で、その枝葉の道でおまわりさんが事故処理をしている現場に遭遇する=写真(2013年5月21日、平六町目・イトーヨーカドー平店付近)。

3・11以来、いわき市は相双地区からの原発避難者、原発事故収束のための作業員などが加わって、交通量が増えた。それに伴い事故も増えていることは想像がつくが、わが生活圏ではその実感はない。

もともと交通事故の多い地区だ。セスナ機でも下りられそうな、片側2車線の広い道路(国道6号=新道)がまっすぐ延びている。道路横断中にはねられて亡くなるのは地域住民、自損・衝突で亡くなるのはよその地区の人というパターンがある。サンダルで出かけられる範囲なのに、死者を悼む花束が置かれた場所を4カ所も知っている。

わが生活圏の旧道でも軽い事故はよく起きる。あるときなどは、お年寄り運転の軽自動車が縁石を乗り越え、歩道を暴走して、電柱に衝突して止まるといった自損事故が起きた。事故の態様からしてブレーキとアクセルを間違えたとしか思えない。小学生の下校時間と重ならなかったのが不幸中の幸いだった。

先日、いわき市南部で母子3人が亡くなる痛ましい事故が起きた。人は交通事故で死んではいけないということを書いた。きのう(12月27日)昼すぎ、交通事故を目の当たりにしたので、あらためて自戒の意味を込めて書いておきたい。

知人の車に同乗して山里へ行き、平地に戻ってベッドタウンを移動中だった。右手にスーパーが見えてきたところで突然、事故が起きた。

対向車両が1台左折してスーパーに入るとすぐ、後続車が直進して来た。そこへスーパーから車が飛びだした。頭と頭がゴッツンといった感じで、2台が接触して止まった。反射的にわれわれの車も急停止した。

直進車両には、ぶつけられた側の助手席におばあさんが乗っていた。頭や体をうった様子はなかった。運転者の表情をみてもけがをした様子はない。物損事故ですんだようだった。

対抗車両がスピードを出していたら、はずみでこちらに突っ込んでいたかもしれない。けが人が出たかもしれない。重大事故になるかどうかは、こうして紙一重、間一髪の差でしかない。しかも、ちょっとした不注意から事故が起きる。車にはやはり「かもしれない運転」が必要だ。

2013年12月27日金曜日

「防風林」のあと

おととい(12月25日)の「荒ぶる海」の続き。連休最後の日(天皇誕生日)、自宅から車で5分ほどの新舞子海岸へ荒れた海を見に行った。

海に沿って黒松の防風・防潮林が延びる。前にも書いたが、大津波をかぶって松がだいぶ枯れた。今度通ったら、松林がスカスカになっている。林内には伐採・切断された黒松が点々と積み重ねられてあった=写真

写真を撮った場所は、かつて「防風林」という喫茶店があったそば。ときどき家族で、その後は夫婦でコーヒーを飲みに出かけた店だ。喫茶店はのちに解体されて消え、黒松が密生する林は“疎林”に近い状態になった。「防風……」と読める板切れが草の生えた空き地に転がっていた。

いわき地域学會の会報「潮流」第39報(2012年発行)、折笠三郎さんの論考「東日本大震災の大津波と防潮保護林」によると、江戸時代初期、上総から磐城平に入封した内藤の殿さまが、海岸近くの田畑を守るために植林に力を入れた。新舞子の黒松林だけではない。街道に松並木を植栽した。

防潮林は以後、歴代の領主・幕府代官が保護し、明治2年の版籍奉還で国有林に編入された。

街道の松並木を含めて、地域の人々は黒松林を「道山林」と呼んできた。「道山」は殿様・内藤政長の法名「悟信院養誉堆安道山大居士」からきている。

東日本大震災では、砂丘・海岸堤防・保安林・県道・横川(夏井川と仁井田川をつなぐ)・河川堤防などが大津波の減災効果を発揮した。その代償が黒松の流失・枯死だった。

防潮林再生の事業が進められている。NPOや銀行のプロジェクトも動き出した。実際、苗木が植えられたところもある。

それはそれとして思うのは、植生は単一でない方がいいのではないか、ということだ。海岸からざっと30キロ内陸にある夏井川渓谷の天然林と向き合ってきた。渓谷には実に様々な木が共存している。「緑の民主主義」が展開されている。

沿岸もそうだろう。宮脇昭横浜国立大名誉教授が提唱する、震災ガレキを生かした「いのちを守る森の防潮堤」づくり、これは「緑の民主主義」の海岸版にちがいない。タブノキは、津波をかぶっても枯れずにすっくと立っている。森の防潮堤にはぴったりの樹種だ。そうした樹種をまじえてこそ未来への確かな贈り物になる。

2013年12月26日木曜日

ユズ・昆布・トウガラシ

この冬2回目だ。きのう(12月25日)朝、白菜を小さな甕に漬けた。食塩のほかにユズ・昆布・トウガラシを加えた=写真。正月には新しい白菜漬けが食べられるだろう。

白菜は2玉。1玉は夏井川渓谷の牛小川産だ。フランス人の若い女性写真家が森を歩きたいというので、溪谷にある隠居(無量庵)で待ち合わせ、対岸の林を案内した。あとで近所の家を訪ねたら、おばさんがみんなをわきの畑に連れて行った。白菜と大根をいただいた。そのときの白菜が1玉残っていた。

残りは12月21日の「ぶらっとクリスマス会」で豚汁をつくったときに余った半割りと四つ割りだ。

元の形からすると八つ割りにしたものを、一日、縁側で天日干しにした。その日の夕方に漬けてもよかったのだが、さぼった。で、翌日、朝食後にすぐ下ごしらえをした。

トウガラシと昆布は細かく切る。今まではそのままキッチンバサミを入れていた。かけらがあちこちに散らばった。

ひらめいて、買い物袋のなかでハサミを入れた。トウガラシの皮も種も、昆布も、ちゃんと袋の中で細かくなった。あとで台所をきれいにする必要がない。袋の底に残ったトウガラシの種と昆布のかすは甕の底にまいた。袋をひっくり返せばいいだけだ。

今まで袋を使う知恵が浮かばなかったのは頭で漬物をつくっていたからだ。“主婦”になりきっていなかったからだ。

ついでにいうと、素手でトウガラシを扱うときには、そのまま口や鼻や目をこすってはいけない。ましてや、小のトイレは要注意だ。粘膜が刺激されてヒリヒリする。

2013年12月25日水曜日

荒ぶる海

日曜日の晩のわが家の定番は刺し身。初夏から秋の終わりまでカツオ一辺倒になる。途中からサンマの刺し身が加わる。カツオが途切れ、サンマが終われば、翌年の初ガツオ水揚げまで魚屋さん通いは中断、というのがパターンだったが、今年は白身の魚に目覚めた。

師走最初の日曜日、「カツオも、サンマもない」というので、勧められるままにヒラメと皮をあぶったサワラの刺し身=写真=を食べた。

11月中旬に初めて口にしたホウボウのほのかな甘みに刺激されて、師走になっても魚屋さん通いが続く。ヒラメのえんがわのコリコリ。イワシの濃厚な甘み。白身の刺し身の目録が少しずつ増えていく。

今年最後の連休と重なった22日は「タコの頭か、ビンチョウ(マグロ)しかない。海がシケて漁に出られないので、市場に魚が入って来ない」のだという。しかたがない、両方を“マイ皿”に盛ってもらう。

そのときの雑談。「新舞子の海岸道路が通行止めになったそうですが、なんでしょうかね」。初耳だ。それに、海のことならこちらより詳しいのではなかったか。考えられるのは震災で地盤が沈下し、海が陸地に近づいたこと。そこへ、南岸低気圧が通過したことだ。海が荒れて、すぐそばを通る道路が利用できなくなったのだろう。

翌朝、フエイスブックで「新舞子海岸はすごい波、道路までしぶきがかかっている」ことを知る。昼前、様子を見に行った。道路に沿って延々と波消しブロックが続いている。そのブロックに次々と白い波が襲いかかり、しぶきをあげていた。道路がぬれるほどではなかったが、朝は、そして前日はものすごい波しぶきが上がっていたのだろう。

荒ぶる海――。いや、この程度の海はあの大津波からみたら、コップの中のさざなみにすぎない。

先日見たNHKスペシャル「宇宙生中継 彗星爆発 太陽系の謎」のなかで、国際宇宙ステーションに滞在中の若田光一宇宙飛行士が「荒ぶる宇宙」という言葉を使っていた。

水の惑星は「ダイナミックに動いている荒ぶる宇宙」の一点だ。その一点でさえ、人間の知と想像力をはるかに超えたダイナミズムに満ちている。畏怖を抱かずにはいられない。

『原発ホワイトアウト』ではないが、「荒ぶる地球」はまたいつか必ず牙をむく。次から次に押し寄せる白波をながめていると、海中で泳いでいるイワシたちへの食欲だけでなく、自然への畏(おそ)れもまたわいてくるのだった。

2013年12月24日火曜日

ねんぱらこんぱら

何年かに一度、<これぞ「いわき語」>という言葉に遭遇する。「きっつぁし」(よそからいわきに来て住みついた人間)には当然、意味がわからない。

そんなときには、平成11~14年度に実施された市教委の『いわきの方言(調査報告書)』に当たる。今年1月に出版された夏井芳徳いわき地域学會副代表幹事の『いわき語の海へ』(歴史春秋社)も大いに参考になる=写真。前者はいわき語辞典、後者はいわき語が使われる情景(用例)のエッセーと辞典の2本立てだ。

ふだんから共通語といわき語を併用している。いわき語は語尾が「~ぺ」「~べ」になる。「そうだっぺ」(そうだろう)「行くべ」(行こう)「そうげ」(そうですか)などは、無意識に使っている。

今から40年以上前、いわきの中心地・平で「ぺぇべぇ」というタウンマガジンが発行された。いわき語の語尾の「~ぺ」「~べ」からタイトルを取った。地の言葉ながら、おしゃれな響きがしたものだ。

さて、これまでに“衝撃”を受けたいわき語は、というと――。まず、「ぐるりもっけ」(周辺。周囲。周囲全体)がある。家の周り、近隣、地域全体と、身近な“公共圏”まで包含できる言葉ではないだろうか。コミュニティの問題を考えるうえで、一つのキーワードになると思っているのだが、どうだろう。

次は「おげはぐ」。『いわき語の海へ』には「お世辞。追従。へつらい。『御敬白』が変化したものとされる。『あの人はおげはぐ上手だからなぁ、俺には到底、真似でぎねぇ』」とある。

そして、先日、近所の人から出たのが「ねんぱらこんぱら」だった。用事があってわが家に来たのだが、「ねんぱらこんぱら」に気を取られて、用意の方は上の空になった。言葉の前後から意味はなんとなくわかるのだが、定かではない。

「いわきの方言」を見る。「ねちねちと話してはっきりしないこと」とあり、用例として「あの男はねんぱらこんぱらしていで、とっても好ぎんにぁなれねなあ」とあった。夏井本には「長々と。くどい。いつまでも結論を出さないこと。ぐずぐずしていること」とあり、用例として「あいづの話はねんぱらこんぱらで、しびれ切れっちまった」とある。用事とはまさに近隣の人間関係に関するものだった。

2013年12月23日月曜日

クリスマス会

交流スペース「ぶらっと」主催のクリスマス会が土曜日(12月21日)、好間公民館で開かれた=写真。借り上げ住宅で暮らす浪江・双葉・大熊・富岡町と、いわき市の被災者・避難者・ボランティアなど約130人が参加した。

ウクレレバンドいずみ(いわき)の演奏、富岡町の女性2人によるよさこいソーラン、山元彩子さん(東京)のインド舞踊、長野県小諸市の音だまくらぶによる演奏を楽しみながら、料理に舌鼓を打った。ビンゴゲームも行われた。

料理のチヂミ、豚汁、まぜご飯のおにぎりは、双葉と富岡から避難しているグループ、「ぶらっと」のボランティアが準備した。会場設営・飾りつけにもボランティアが協力した。

「ぶらっと」はシャプラニールが運営している。国際NGOの草分けだ。国内外に広いネットワークをもち、震災支援のためにいわき入りしてからも地元団体などと関係を深めてきた。

そのつながりでパルシステムやライフケア、LUSH JAPAN、JT,とちぎ暮らし応援会事務局、星の宮幼稚園、ぶらっと折り紙グループなどの企業・団体がクリスマス会に協力した。赤い羽根の災害ボランティアNPO活動サポート募金も活用した。

音だまくらぶは震災後、定期的にいわきで演奏活動を続けているという。山元さんも震災の年の秋、小名浜の冷泉寺本堂でインド舞踊を披露した。ボランティアのなかには東京からやって来た女性、仙台に住む神学博士の牧師さんもいた。いわきを気にかけている人たちの思いが結集したクリスマス会になった。

写真撮影班の一人として、公民館内をうろちょろした。「写真、撮って」。カメラを向けると、おばさんたちが小学生のようにVサインをした。冬至は翌22日だったが、一日早く「一陽来復」の気分にひたった。

2013年12月22日日曜日

川柳披露

ある場所での一コマ――。男性は将棋を、女性は雑談をしていた。将棋を指していたお年寄りが別のお年寄りと交代し、雑談の輪に加わった。川柳愛好家らしく、自分の作品を披露した。「嫁どのの黄色い声が支配する」。人間ではなく、ヒヨドリ=写真=の姿が思い浮かんだ。ときどき、ヒヨドリがわが家の庭にやってきては「ピー、ピー、ピー、ピー」と甲高い声で鳴く。

続けて2句。「補聴器がなくてもわかる嫁の声」「こういえばああいう嫁の世話になる」。“鬼嫁”という言葉がちらつくが、人間の顔はイメージできない。

川柳氏は、いわき市内には川柳会がいくつかあること、学校の元校長さんらが会を仕切っていることなども教えてくれた。

「嫁って、奥さんのこと?」。私が質問すると、女性陣も「奥さんでしょ?」とたたみかける。お年寄りが首を振った。「いや、嫁さん。奥さんだったら妻と書く」

妻ではなく、嫁を風刺したところが珍しい。今の福島県の状況を考えるとなおさらだ。家族がバラバラになっているのに、この川柳では嫁が同居して義父いびりに近いことをしている。にしても、月並みなにおいが消えない。

皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる
手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる

江戸時代中期の俳人横井也有(1702~83年)の狂歌だ。昔は「大げさな」と思っていたが、現実はだんだんこれに近づいている。「未知との遭遇」だ。私なら嫁さんではなく、こうした自分自身の老いを詠む。その方が、独創性が高い。

2013年12月21日土曜日

交通死亡事故

白い実線・破線・点線、黄色い実線などのほか、さまざまなマークが道路に標示されている。わが家の前を東西にのびる通称「旧道」(旧国道6号)でも、ちょっと離れたところだが、あるとき、7本の白い線が引かれた=写真

わが家の前はどうか。道路中央と両側の縁石のそばに計3本、白線が引かれていたはずだが、今はほとんどかすれて見えない。そちらも事情は同じだったろう。

白線のゾーンができたのにはわけがある。1年2カ月前、そこで交通死亡事故が起きた。

小雨が降って薄暗くなった夕方、小1の男児が道路を渡ろうとして車にはねられた。その直後にたまたま車で現場を通った。縁石のそばに男児が横たわり、かたわらで若い男性がケータイを耳に当ててかがんでいた。男児は事故から約20時間後に亡くなった。5歳の孫に体つきが似ていた。

事故の新聞記事を切り抜いて、手元に置いてある。ときどき、読み返す。肉親が、友人・知人が、地域の住民が、ある日突然、この世から拉致(らち)されるように逝ってしまう。それはあってはならないことだ、人は交通事故で死んではいけないのだ、という思いをあらためて胸に刻むために。

駆け出し記者のころ、毎日のように交通事故の記事を書いた。追突事故を起こしたトラック運転手が、荷台の木材に押されてひしゃげた運転席とハンドルにはさまれ、意識を失ってぐったりしているところも見た。彼はついに息を吹き返すことはなかった。今もその光景が忘れられない。

そうしたもろもろが、人は交通事故で死んではいけない、という思いに結びついている。

おととい(12月19日)の夜、いわき市渡辺町で軽乗用車がセンターラインをはみ出して大型トラックと衝突し、若い母親と幼い子ども2人の計3人が亡くなった。事故のむごさに言葉もない。と同時に、取材した後輩記者の胸の内に触れて、若いときの自分と、身近なところで起きた去年の交通死亡事故を思い出したのだった。無性に孫を抱きしめたくなっている。

2013年12月20日金曜日

関東大震災の揺れ

わが家では冬、糠床に食塩の布団をかぶせて眠らせる=写真。来春までお役目ご苦労さんというところだが、NHKの朝ドラ「ごちそうさん」では、そうはいかない。糠床がナレーターを務める。“糠床小説”(梨木香歩『沼地のある森を抜けて』)があるくらいだから、糠床がしゃべってもおかしくはない。

今週は、関東大震災で大阪に避難してきた被災者と主人公め以子らのやりとりが中心だ。家族を失った髪結いが食事を拒んで倒れる。いよいよ入院という段になって、七輪で焼かれるサンマのにおいに反応し、泣きながらかじりついて生きる力を取り戻す。避難所を去ろうとするすし職人には、め以子から小さな糠床が手渡される。

さて、関東大震災が起きたときのいわきの様子だが――。朝ドラでは、大阪は人がしゃがみこむほどの揺れとして描かれる。大阪は東京から西にざっと500キロ、いわきは北に約200キロ。震源に近い分、大阪より揺れが大きかったようだ(ネットで検索すると、大阪で震度4、福島で5)。

いわきの中心・平の北隣の四倉で地震に遭遇した12歳の少年の記憶。「昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」(吉野熊吉著『海トンボ自伝』)。著者はのちに、東京・深川の船宿「吉野屋」の主人になる。

浮世絵と川柳研究で名をなした、小高町(現南相馬市)出身の俳人大曲駒村(おおまがりくそん=1882~1943年)に『東京灰燼記――関東大震火災』(中公文庫)がある。駒村が見聞した惨状の記録と新聞記事などの資料からなる。

浜通りから見舞いに駆けつけた人間のことが書いてある。「九月四日、即ち大震第四日目の朝、夜警の疲れで床の中に倒れていると、ドヤドヤと福島県の田舎から見舞の人が遣って来た。相馬の旧友たち六人である。(略)六人が六人とも、大きな荷物を重そうに背負っていた。中には白米五升は勿論のこと、種々の罐詰、味噌、松魚節(かつおぶし)等が這入っているという」

平の人間にも遭遇した。「午後から新宿を訪なうこととした。(略)牛込まで来る途中、平からやって来た遠縁の者二人に逢う。いずれも大きな布袋を背負うてウンウン唸って歩いていた。この体で川口から四里半も歩いて来たので、疲れ切ったと言う」

首都圏に住む親類の消息を尋ね、あるいは窮状を知り、食糧を持って各地から上京する人たちがいた。朝ドラの建築士や貧乏作家ではないが、相馬と平の知人・縁者の例からも、そんな人が群れをなしていたことがわかる。

詩人山村暮鳥の、磐城平時代のネットワークに連なる比佐邦子(1897~1937年)は、関東大震災で家と夫を亡くした。子どもがいなかったこともあっていわきに帰郷し、平の磐城新聞社に入社する。いわき地方の女性記者第一号(推測)として健筆をふるった。

90年前の関東大震災と、今度の東日本大震災とでは何が違うだろう。道具としてのメディアは段違いに進歩し、多様化した。虐殺事件が起きなかったのはそのおかげだろう。が、文明の進歩が原子力災害という人間の手に負えない“悪霊”をも生み出した。これは否定できない。

2013年12月19日木曜日

コザ騒動から43年

22歳だった。昭和45(1970)年の師走、パスポートを持っていわき出身の朋友と2人、沖縄本島を旅した。行き当たりばったりの素泊まりか民泊頼みで、2週間が過ぎるころには朋友がカメラを質入れするところまで窮した。もう本土へ帰るしかない――そう決めて、コザ市(現沖縄市)から那覇市へ移動した夜、「コザ騒動」がおきた。

別件で当時のノートを繰っていたら、コザ騒動を報じる12月21日付琉球新報と沖縄タイムスの見出しが目に留まった=写真。泊まった旅館で新聞を読み、衝撃を受けてノートに書き止めたのだった。(ノートはどこかにまぎれこんでいた。震災後、ダンシャリを繰り返すなかで出てきた)

騒動は、19日から20日に日付が変わったばかりの午前1時ごろ、米軍兵士が沖縄人をはねた交通事故をきっかけに起きた。われわれがコザ市から那覇市へ移動した19日の真夜中だ。新聞の報道は20日の夕刊が最初で、朝刊としてはまるまる1日遅れの21日になった。

琉球新報は「10面のうち約6面をコザ事件の記事にあてる」と、ノートにある。夕刊の第一報を踏まえた見出しになっている。1面:コザ反米騒動 政治問題に発展、2面:限界にきた県民の怒り、3面:コザ反米騒動 本土の反響、7面:“反米”で燃えるコザ(写真特集)、8~9面:くすぶる一触即発の危機 起こるべくして起こった――。

沖縄タイムスは計7面を使ってコザ騒動関連記事を掲載した。見出しの一部に「火を噴いた“25年のうっ積”放火・投石で激しく抵抗」「人権無視への反発」「主婦れき殺事件も底流に」「怒り狂った基地の町 深夜、市街戦さながら」とあった。

沖縄放浪と、それをしめくくるコザ騒動以来、沖縄人の親切と心の痛み・怒りがわが胸底に残響するようになった。東日本大震災の直後、沖縄の人たちは東北の惨状をわがことのように悲しんだという。その話を聞いて、沖縄人だからこそ被災者の心がわかるのだと、あらためて感銘を受けたものだった。

沖縄からやっと帰ってきたあと、私は東京からJターンをしていわきで新聞記者になった。朋友は独立したばかりのバングラデシュへ農業支援に出かけ、ヘルプ・バングラデシュ・コミティという市民団体を立ち上げたあと、週刊誌記者になった。ともに記者の道を選んだのは偶然にすぎない。

ヘルプ・バングラデシュ・コミティはやがて国際NGOのシャプラニールへと進化し、今度の大震災で初めて国内支援に入った。いわきの交流スペース「ぶらっと」は、シャプラニールが運営している。(タレントの藤岡みなみさんが書いた『シャプラニール流 人生を変える働き方』が最近、出版された。鹿島ブックセンターに平積みされている。よかったら手に取ってください)

コザ騒動から43年がたつ。沖縄県民の“25年のうっ積”はそのまま積もり積もって“68年のうっ積”になった。福島県民もこれから、原子力災害という終わりの見えない“うっ積の歴史”を重ねることになるのだろう。

2013年12月18日水曜日

長寿介護課発

65歳になる前後から、市役所の長寿介護課発の郵便が相次ぐようになった。年金天引きが始まるまでの介護保険料の自動振替案内、納入通知は、まあしかたないとして、きのう(12月17日)届いた「基本チェックリスト調査票」=写真=には少しムムムッとなった。

たとえば、<暮らし>。「バスや電車で1人で外出していますか」「日用品の買い物をしていますか」「預貯金の出し入れをしていますか」など5項目(全体では28項目)について、「はい」「いいえ」いずれかに〇をつけてください、とあった。厚労省が定めた全国統一の内容だと断っているが、カチンとくる“若い人”もいるのではないか。

<歯や口>には「お茶や汁物等でむせることがありますか」、<こころ>には「(ここ2週間で)以前は楽にできていたことが今ではおっくうに感じられるようになった」といった問いも。のどの筋肉が衰えているのは自覚できる。しかし、「ここ2週間」の心の変化はなにを、どんな人を想定してのことだろう。

同じ郵便がカミサンにも届いていた。ここは隣にいる“先輩”に聞くのが一番。「ウッチャバッテオク(ほうっておく)」そうだ。つまり、現時点では介護予防教室への参加などは遠慮します、という無言の意思表示でもある。

相撲の番付でいえば、序の口に名を連ねたばかり。ここは「便りのないのはいい便り」でいこうかな。いやいや、長寿介護課の幹部の顔がちらついていけない。最初は素直に従うか。

2013年12月17日火曜日

平地の除染説明会

いわき市の住宅除染は北部4地区(久之浜・大久、四倉、小川、川前)から始まった。次は人口が集中している平・好間地区というわけで、該当行政区の区長を対象にした説明会がきのう(12月16日)、市文化センターで開かれた=写真

わが隠居(無量庵)は先行除染地区のひとつ、小川の夏井川渓谷(牛小川区)にある。先日、敷地の全体除染が行われた。交流のある隣接・江田区の好意で、同区に設けられた仮置場に汚染物が搬入された。これはまれというか、奇跡というか、とてもありがたいことだ。

仮置場がなければ、自分の家の敷地内に保管するしかない。平・好間の汚染物はそうなるようだ。庭に穴を掘って土をかぶせる地下保管か、汚染物を土嚢で囲う地上保管になる。土で覆うことで放射線量は98%遮蔽できるとはいえ、汚染物の詰まったフレコンバッグが敷地に残る。精神的にはあまりよろしくない。

平中神谷にあるわが行政区では2011年晩秋、区の役員や子どもを守る会、住民などが参加して通学路や公園の除染作業を実施した。その後の雨風などによるウエザリング効果と、セシウム134が2年の半減期を過ぎたこともあって、空間線量は低減した。

わが家の庭の中央でも、地上1メートルで毎時0.15マイクロシーベルトくらいと、除染の目安(0.23超)を下回っている。除染対象外だ。むろん、地域や場所によっては空間線量の高いところもあるだろう。個別・具体でいくしなかいのだが、わが行政区の住宅群はわが家と似たり寄ったりではないか。

スケジュールとしては、まず隣組の回覧網を通して広報し、2014年4月にモニタリングを実施したあと、該当住宅の除染が行われる。住民の暮らしに直結した問題だけに、予定時間を過ぎても質疑応答が続いた。区長としての当事者意識がビリビリ感じられる説明会だった。

2013年12月16日月曜日

代替わり

取材エリアが生活エリアと重なる地域新聞の記者にとっては、取材対象は人間だけではない。地域の自然、歴史もまた重要な対象になる。いや、その地域の歴史を知り、自然を知らないと、その地域の出来事は正確にはとらえられない――そう思って、考古・歴史・地理・民俗・動植物その他の研究者とつながりながら、仕事をしてきた。

いわきの自然を知るとっかかりとして、冬に子どもを連れてバードウオッチングを始めたのは30歳前後のことだった。野鳥から始めて野草へ、さらに菌類へと興味が広がっていった。今もこの三つのウオッチングを欠かさない。なかでも秋に飛来し、翌春に北へ帰るハクチョウ=写真=は身近な存在だ。

ある日、2人いる孫のうち下の方が父親に連れられてやって来た。母親と上の子は急性胃腸炎にかかってダウンした。カミサンはたまたま、イトーヨーカドー平店2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」へ出かけて留守だった。

3世代の男3人(65歳、40歳、4歳)だけではやることもない。三輪車に乗って一人遊びをしていた孫に父親が言った。「(車で)サンポに行くか」。「バアバはヨーカ堂にいるよ、夏井川にはハクチョウがいるよ」と私。すると、孫は「ハクチョウ」と父親に答えた。バードウオッチャー3代目が誕生したようだ。

きのう(12月15日)、近所のスナックで飲み会があった。バードウオッチングと並行して通い始めた店だ。アルコールがまわったころ、ママさんが耳打ちした。「この前、息子さんが来たよ。幼稚園のPTA仲間と」。同じスナックに通う2代目が誕生した。

親から子へ、子から孫へ。地域ではこうして静かに代替わりが進むのだろう。飲み屋通いはともかく、孫がハクチョウに興味を持ったことをうれしく思った。(にしても、自然に対する記者たちの感度は落ちていないか。ハクチョウ飛来の写真付き記事はいまだにない)

2013年12月15日日曜日

公園みたい

夏井川渓谷にあるわが隠居(無量庵)の除染作業が終わった(のだと思う)。除染を始めるという連絡はあったが、終わったという連絡はない。作業開始日が2回延びて、12月4~7日に実施することになった。8日の日曜日に出かけたら、庭が公園みたいになっていた=写真

それから4日後の木曜日(12日)、再び状態を確かめに行く。日曜日のそれと変わっていない。やはり、7日で作業が終了したのだ。

作業が終わったということは、空間線量の計測も済んだということだ。こちらは「除染の結果、こうなりましたよ」というデータを知りたい。そこまでやって初めて「終わりました」ではないのかと気をもむのだが、まだ整理中なのか。

しかたない。“公式”のデータが届く前に自分で確かめよう。メジャーできっちり地上1メートルの位置を測ったりはしない。自宅のある行政区の仕事として、1年前まで区内10カ所の“定点観測”を担当した。1メートルの高さを体が覚えている。線量計でのデータの取り方も市主催の除染講習会で学んだ。あくまでも目安としての“私的”な数値確認だ。

事前の説明では①庭園部の草木は全部除去②芝はすべてはぎとり③土壌は5センチはぎとり、山砂を入れて転圧――をする。この結果、地上1メートルで平均毎時0.23マイクロシーベルト(基準値)を少し超えていた空間線量を基準値以下にする、ということだった。

“公式”のデータは同じ地点でのビフォー・アフターになるのだろうが、“私的”には任意に選んだ10カ所余でデータを取った。敷地境界部、東のヤナギその他の木と西のヒノキ群の樹下を除き、庭は0.2マイクロシーベルトを切った。4カ所ある雨樋の吐きだし口の数値もかなり下がった。除染の効果はあったということだ。

それはそれとして、ビフォー・アフターの落差があまりにも大きいのに驚いた。庭から雑多なものが消えた。きれいになった。いや、きれいになりすぎて立ちすくんでしまった。道路からすんなり庭に下りられる。公園みたいだという反応はそこからきている。

やがて春になって庭で菜園を再開するころ、対岸の斜面全体にアカヤシオの花が咲きだす。行楽客がどっと“公園”に入り込む――いちおう境界に柵をつくった方がいいだろう、ということになった。杭を打って竹を横につなぐか、緑色にテーピングされた針金を架けるか。しばらく柵のデザインを空想して楽しむことにした。

2013年12月14日土曜日

アパート建設

タンタンタン、タン、タンタン、タンタンタン、……。わが家の裏手から乾いた音が響く。畑のあとにアパートが建つ、その“建設のつち音”だ。見ると、クレーン車でつり上げられた資材を作業員が束になって組みたてている=写真

茶の間で仕事をしている身には、朝から夕方まで続く“ピストル音”が多少耳にさわる。これは“遠花火”だ、夜なら大輪の花が咲いている――花火の音とみなせば気もまぎれるかと思ったが、そうは問屋が卸さない。ガマン、ガマン。きょうは土曜日(12月14日)だが、タンタンタンが続くのだろうか。

新旧国道の間に、家並みにはさまれて畑が残る。その一部、義弟の家を含むわが家の裏手の畑がアパートに変わると聞いたのは、昨年(2012年)の夏の終わりだった。境を接しているので、秋に地主の代理の業者が説明に来た。建設同意書に署名した。

畑はかなり広い。そこに2階建てのアパートが4棟建つ。若いファミリー向けが3棟、独身者向けが1棟ということだった。畑の一部を入居者の家庭菜園用に残すという。

それからがスローモーだった。年が明けても工事の始まる気配がない。工事が始まっても、ぱたっと動きが止まる。「いつ建つんだろうね」と近所の人たちがささやき合っていた。

いわき市は市街化区域内に多くの未利用地を抱えていた。震災後、住宅地にある、そうした土地(田畑)が宅地化された。道路沿いの駐車場で工事が始まったと思ったら、たちまちアパートが建つ。引き渡し前から各部屋のガラス窓には「予約済」のステッカーが張られる。

行政書士の友人は「とにかく農地転用の手続きで忙しい。人を雇いたいが、忙しいのもあと1年。今のままで乗り切るしかない」という。けさの新聞折り込みに「住宅完成見学会」のチラシが4種類入っていた。消費増税前のラストチャンスと銘打ったものもある。不動産・宅建バブルが続く。

建設中のアパートとは別に、近所で1棟、地震で被害を受けた家の解体・新築工事が行われた。完成まであと少しという段階で足踏み状態が続いた。「ちょっとでも文句を言うと業者が来ないんだ」と建て主がこぼしていた。

避難生活が長引くにつれ、いわきに土地と建物を求める原発避難者が増えてきた。それでいよいよ建築業者が強気になっている。「ローンで建てる被災市民の家より、現金で建てる原発避難者の家を優先する」。そんなささやきも聞こえるきょうこのごろだ。

2013年12月13日金曜日

移動販売車

夏井川渓谷には小集落が点在している。その一つ、牛小川区にわが隠居(無量庵)がある。集落の“定点観測”を始めて18年。当初8人ほどいた子どもたちは、今は1人か2人に減った。隣の集落は中高年ばかりになったのではないか。街から離れた山里、郊外の農村、街の古い住宅団地などで進んでいる少子・高齢化のひとコマだ。

それでも、山里に住むお年寄りは元気だ。毎日、畑仕事をする。周囲の自然から季節の恵みをいただき、加工して保存する。肉や魚、果物などの生鮮食品は移動販売車=写真=から調達する。あるいは自分で町に出かけたり、子どもたちの力を借りたりして、必要な品をととのえる。

自給自足とまではいかなくとも、毎日の暮らしはこうしてつつがなく営まれていた。少なくとも原発事故が起きるまでは。

渓谷で除染作業が進められている。無量庵でも行われた。その作業の前・途中・後と、日曜日だけでなく平日にも様子を見に行った。それで、移動販売車に出合った。集落の暮らしに欠かせない“ミニスーパー”である。いつかは撮りたいと思っていた写真をものにすることができた。

車には野菜・果物などの生鮮食品や保存食品が積まれており、お年寄りが買い物をしていた。3・11後は自然の恵み、たとえば天然キノコの採取・消費の自粛が言われている。その分、買う量が増えたのではないか。

それからざっと2週間後の12月10日、イトーヨーカドー平店がいわき市内で移動販売を始めたというニュースに接した。テレビで見る限りは、大きなトラックだ。渓谷にやって来る移動販売車の3倍、いや4倍はあるのではないか。

ネットにアップされた広報資料によると、経済産業省の「地域自立型買物弱者対策支援事業」を活用した移動販売で、ヨーカ堂としては東北初の「あんしんお届け便」の運行だ。山里と同様、少子・高齢化が進んでいる街の住宅団地も含めて、田人(貝泊、荷路夫)・遠野(入定)・三和(下永井)・明治団地の4地区5カ所を日替わりで回る。

「買物弱者」対策として、こうした移動販売が各地で行われるようになった。NPOも大きな住宅団地で移動販売を手がけている。少子・高齢社会の到来、なかでも団塊の世代が65歳以上の高齢者層になだれ込みつつある今、移動販売は可能性のある商売には違いない。

山里には移動販売車を必要とする理由がある。スーパーにも移動販売に打って出る理由があるはずだ。表向きは経産省の制度活用といっても、売り上げは少子・高齢社会の到来で頭打ち、いや下向きになるのは目に見えている。「待って売る」だけではなく、「出かけて売る」ことも必要になった。自営業、NPO、大型スーパーと、うまくすみわけができるといいのだが。

2013年12月12日木曜日

65歳以上は無料

いわき市暮らしの伝承郷=写真=で「塩谷美江作品展 こぎん刺しの世界」が開かれている。2014年1月20日まで。初日のきのう(12月11日)、カミサンが見に行くというので、運転手を務めた。作品も見た。

観覧料320円が必要な企画展だが、無料の年齢(65歳)に達した。出かける以上はその制度を利用したい、という気持ちがはたらいた。

いわき市は、①身体障がい者手帳・療育手帳・精神障がい者保健福祉手帳のいずれかを持っている人②市内の小・中・高・専修・高専生(土・日だけ)③65歳以上の市内在住者――を対象に、美術館や文化センター(プラネタリウム)、草野心平記念文学館、石炭・化石館、暮らしの伝承郷、勿来関文学歴史館、アンモナイトセンターの観覧料を無料にしている。

年金暮らしのお年寄りには結構な制度だと、条例ができたころには思っていたものだが……。今回初めて“パスポート”(運転免許証)を見せて入館した。堂々と、しかし多少はトホホといった気分になって。

「堂々」にはわけがある。わが家(米屋)の店頭には美術館と文学館、それに茨城県天心記念五浦美術館のポスターが張ってある。お返しに無料の券やチラシが届く。今まではそのサービスを利用してきたからだ。「トホホ」はもちろん社会的にも「高齢者」と認知されるようになったからだ。その証拠に、きのうの夕方には介護保険料納入通知書が市役所から届いた。新たな支出の発生だ。

朝にはカミサンがハムエッグを焦がした。夕方には私が一日早く通夜に出かけた(葬儀場は事務室をのぞいて真っ暗だった)。同じ日にいろんなことが起きた。夫婦2人でやっとそれぞれが一人前――きのうもそんな思いを強くした。

こぎん刺しの話に戻ろう。塩谷さんは小名浜出身で、青森市に住む。こぎん刺し、すなわち伝統的な「刺し子」に魅せられて10年ほどになるという。

刺し子と聞いて私が思い浮かべるのは、よろいのような防火服と柔剣道・空手着だ。斬新なデザインの作品が並んでいる。男の目にも集中と根気が必要な手仕事であることがよくわかった。

2013年12月11日水曜日

「町に戻らない」

地震・津波、原発事故の被災・避難者のための交流スペース「ぶらっと」=イトーヨーカドー平店2階=に、情報コーナーが設けてある。浜通りの自治体の広報紙や支援NPOの情報紙、イベントの告知チラシなどがそろっているので、一般の市民にも重宝だ。

コーナーにある自治体の広報紙をよく読む。正確には、中に収められた特別紙面、「浪江のこころ通信」「TOMIOKA桜通信」「KIZUNAおおくまふれあい通信」「ふるさと絆通信FUTABA」を=写真。原発事故で役場ごと避難した自治体が、苦心して編み出した“きずな”のかたちだ。

「浪江のこころ通信」は、町と東北圏地域づくりコンソーシアム推進協議会が協働して編集している。大学やNPOなどの大きなネットワークの中で取材が進められる。「KIZUNAおおくまふれあい通信」は、南相馬市の印刷所の記者がインタビューを担当している。

4つの「通信」すべてが一人称で構成されている。震災と原発事故による避難の様子、今なにをして、なにを思っているのか――。全国に離散した町民=「私」あるいは「私たち」が伝えるナラティブ(物語)は、いつ読んでも生々しい。この個別・具体のことばが、「双葉郡の人たちは」とか、「原発避難者は」とかと、ひとくくりにしてしまいがちな心を少しはもみほぐしてくれる。

復興庁の最近のアンケートによると、双葉、大熊町では「町に戻らない」と決めた避難町民が7割近くに達した。浪江でも4割近くに上昇した。

それを象徴するようなエピソードを、きのう(12月10日)の宵のNHK福島「はまなかあいづ」で知った。最初は「浪江のこころ通信」の取材をOKしていたものの、断ってきたケースが2件あったという。

「町に戻らない」と決めた人の中には、違う自治体の住民として暮らす決意をした人もいるのだろう。個人としての絆は継続しても、町民としての絆は断ち切るしかない――そう判断しての「取材NG」だったのではないか。時間の経過とともに、避難町民の意識も変化し、複雑になってきた。