2021年8月31日火曜日

日曜日の海岸道路

                     
 私だけでなく、カミサンも小名浜地区に用ができた。そのつど行き来するのは面倒だ。同じ日にまとめて用を足すことにした。

 日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。今はキュウリを摘むのと、草を引くのが仕事だ。そこで前日、隠居へ出かけてキュウリを収穫した。草引きは1週間遅らせてもいい。というわけで日曜日(8月29日)、海岸道路を利用して小名浜地区をめぐった。

 私の用事はひとつ。泉の奥、渡辺の農村景観を写真に撮ること。曇天だから、予行演習のようなものだ。時間的にはいつでもいい。

カミサンの用は、泉ケ丘のギャラリーいわきで開かれた「寺川真弓染織展」。その日が最終日だった。

もうひとつは、小名浜の私の知人宅からダンシャリをした本や衣類を引き取ること。引き取った本や衣類はカミサンがさばく。必要な人に橋渡しをする。前にも連絡がきて、本を引き取りに行った。

わが家から小名浜へは、夏井川の下流域に架かる六十枚橋を渡って、そのまま県道小名浜四倉線を南下すればいい。でも、せっかくの小名浜行きだ。六十枚橋を過ぎたらすぐ左折して堤防を河口へ向かい、海岸道路(県道豊間四倉線)に出た。

夏井川では上流の小川町から河口付近まで、立木伐採と土砂除去工事が行われている。六十枚橋から下流はどんな様子か、工事の進捗状況を確かめた。

海岸道路に出ると、白バイ2台が後ろからやって来た。スピード違反と一時停止違反でパトカーにサイレンを鳴らされたことを思い出す。途中で別の道へそれるまで、ちょくちょくバックミラーで白バイを確認した。

薄磯海岸に入ると、ごみ袋を手にした若い女性が堤防の内側を歩いていた。海岸を清掃するグループの一員だろう。グループに若い知り合いがいる。この日が活動日だったことを、あとで彼のフェイスブックで知る。

灯台下に新しい切り通しができた。開通して間もないことも若い知り合いのフェイスブックで承知していた。初めて通った=写真。ま、ショートカットといったところだろうか。

そのまま海岸寄りに、豊間から江名へと続く旧道を進む。大正中期、豊間村に開設された結核療養所「回春園」は戦後、国立緑ケ丘病院となり、やがていわき病院と改称される。東日本大震災で津波被害に遭い、小名浜野田に新築・移転した。病院の建物はきれいになくなっていた。

江名に入ると坂の途中に人だかりができている。道路左側の空き地には、祭りの装束をした子どもたち。道路の反対側には江名諏訪神社がある。

やはり別の若い知り合いのフェイスブックで、同神社の祭りが行われたことを知る。アップされた情報では、今年(2021年)も中止になると2年の空白ができる。継承のリスクを避けつつ、保護者や関係者が協力してコロナ対策をとりながら、三匹獅子舞を挙行したということだった。

小名浜までざっと30分。たまたま海岸道路を選んだのだが、それぞれに土地のいぶきのようなものを感じることができた。

江名では、歴史研究家の故佐藤孝徳さん宅で浜料理をごちそうになったことがある。近くを通ると、いつもその情景が思い浮かぶ。今度もそうだった。

2021年8月30日月曜日

渓谷にもシンテッポウユリが

                     
 横向きの白いユリの花があちこちで咲いている。タカサゴユリという人もいるが、タカサゴユリとテッポウユリの交雑種、シンテッポウユリだろう。

 タカサゴユリは台湾が原産で夏に咲く。テッポウユリは南西諸島に自生し、春~初夏に咲く。同じ白い花でも花期が違う。

 いわき地方でこの花が目につくようになったのは、私が40代のころだった。つまり、ざっと30年前。実際はその前からあったかもしれない。8月も後半に入ると、新しいバイパスや高速道路ののり面がこの白い花で埋め尽くされた。なんとも表現しようのない壮観さだった。

「新風景」の出現をどう見たらいいのか。植物に詳しい知人に問い合わせると、タカサゴユリという認識だった。

 タカサゴユリの花には赤褐色の筋がある。ところが、赤い筋のないものもある。タカサゴユリとテッポウユリのハイブリッド(交雑種)、シンテッポウユリという人もいた。要するに、タカサゴユリとシンテッポウユリの両方が生えているのだと考えればいい、ということだった。

しかし、どうもしっくりこない。「園芸種」のタカサゴユリが持ち込まれたのは1924年、同じ園芸種のシンテッポウユリが野生化したのは1970年代。園芸種のタカサゴユリが野生化できる性質を持っていたとしたら、もっと早く広まっていたのではないか、という研究者の疑問が腑に落ちた。私は、今ではシンテッポウユリ一本で考えている。

 以来、この花には引かれながらも距離をおくようになった。増えすぎたらどうなるのか、在来種に影響はないのか――そんな思いがずっと付いて回る。

 その花がじわじわと暮らしの場にも侵入しつつある。わが家では5年前(2016年)に初めて、生け垣のたもとにシンテッポウユリが芽生え、花を咲かせた。翌年も同じところから芽を出した。ほかの場所からも生えてきた。

そのままにしておくと、庭が白い花だらけになる。そうならないよう、今では初夏、若い茎が庭に現れると根ごと引っこ抜く。

 奄美地方では希少種のウケユリを守るために、シンテッポウユリを「外来種駆除対象種」にしている。環境省の「生態系被害防止外来種リスト」でも、「その他の総合対策外来種」に指定されている。つまり、シンテッポウユリは侵略植物、そういうふうに意識が変わってもいい時期にきているのではないか。

 夏井川渓谷はさいわい、まだ侵略されていない。そう思っていたのだが、おととい(8月28日)の土曜日、キュウリを摘みに隠居へ行ったとき、江田地内の道路ののり面にこの花が咲いていた=写真。「ヤマユリ街道」にもとうとう現れたか。

 隠居の庭や近辺で咲いていたら、とりあえず切り花にする。花が散ったところですぐごみ袋に入れる。なにより種子ができないようにすることが一番、と私は思っている。

2021年8月29日日曜日

『アメリカ彦蔵』を読む

                      
 会社を辞めたあと、いわき地域の新聞の歴史を調べる過程で、日本の新聞の歴史に目を通した。わが国最初の民間新聞は、米国に帰化した日本人、ジョセフ・ヒコ(日本名浜田彦蔵)が元治元(1864)年に発行した手書きの「新聞誌」だった。

羽島知之編著『新聞の歴史――写真・絵画集成1(新聞の誕生)』(日本図書センター、1997年)ほかで知った。

翌年5月には「海外新聞」と改題、木版印刷(一部は手書き)に切り替えて、慶応2(1866)年まで26回発行した。ヒコが横浜入港船から外国新聞を入手し、最新の海外ニュースを和訳して、岸田吟香・本間潜蔵(清雄)がわかりやすい日本語に練り直した。

横浜開港資料館の館報「開港のひろば」などによると、江戸時代末、播磨の少年彦太郎(のちの彦蔵)の乗った船が遭難・漂流し、米国船に救助される。

彦太郎は米国で教育を受け、洗礼を受けて「ジョセフ」の名を与えられる。キリシタン禁制の母国へは、そのままでは戻れない。帰化して、横浜の開港とともに米国領事館の通訳として帰国する。その後、貿易商に転じて日本語の新聞を発行した。

このヒコを主人公にした小説がある。吉村昭の『アメリカ彦蔵』(新潮文庫)=写真。いつ、だれのダンシャリだったかは覚えていないが、引き取った本の中にあった。第23章でヒコと新聞のかかわりを詳述している。吉村昭は綿密な調査・取材を重ねたことで知られる。史実を作家の想像力が補う。それがさえわたる場面――。

ヒコは13歳で日本を離れたためにちゃんとした日本語の文章にする力がない。正確でわかりやすい文章を書く人間が必要だった。その期待にこたえたのが三河拳母(ころも)藩の儒官を経験した浪人岸田吟香だった。眼病治療を機に宣教師で医師の米国人ヘボンと知り合い、ヘボンの和英辞書(和英語林集成)編集に協力していた。

「吟香は、外国新聞の和訳文をつづることに興味をいだき、力を貸して欲しいという彦蔵の申入れを即座に承諾した」

彦蔵が和訳を読み上げる。吟香と潜蔵の2人が筆で書き留める。互いの文章を照らし合わせて明快な文章に練り上げる。「これを新聞誌としましょう」という吟香の言葉に、彦蔵はいかにも「ニュースペーパー」にふさわしい名称だと納得する。

ただ、米国と違って新聞を購読する意識は日本人の中にはなかった。請われるままに新聞を手渡した。定期購読料を払ってくれたのは2人だけだった。

ヘボンの和英辞書が完成し、上海で印刷するため、ヘボンに従って吟香が渡航する。「筆記者を失った彦蔵は海外新聞の発行を中止した」

ヒコに始まる日本の新聞は短期間に全国に広がり、明治初期には早くもいわきで発行されるようになる。それが官製の「磐前(いわさき)新聞」(明治6年10月創刊)だった。

ちなみに、画家岸田劉生は吟香の四男。吟香はさらに、ヘボン直伝の目薬の製造・販売を手がける。いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の建設工事中に、磐城平城外堀跡から吟香が販売した目薬「精錡水」の荷札が出土している。人気商品だったらしい。

2021年8月28日土曜日

キジの子の散歩

        
 若いころからいわきの自然を丸かじりしたい、という思いがあった。人間のことは、いやでも仕事を通して考えさせられる。いわきという風土の中で、人間は自然と関係し、影響しあって暮らしている。いわきを知るには、人間だけでなく自然も知らねばならない――そう思って、鳥を、花を、キノコを見てきた。まだまだ知らないことがいっぱいある。

自然を学ぶフィールドが、昔は石森山(平)だった。今は日曜日に出かける夏井川渓谷だ。コロナ感染を避けるために極力外出を控えている今は、街への行き帰りも自然をながめるいい機会になる。

街からは夏井川の堤防をゆっくり戻る。いつのまにか、私のなかでランクができていた。①季節の変化=ツバメやハクチョウの飛来、ウグイスの初鳴きなど②生態の確認=ミサゴの狩猟や雄キジの母衣(ほろ)うちなど③想定外の出合い=コクチョウやコブハクチョウの出現など――。①より②、②より③の方が、驚きの度合いは大きい。

先日は堤防の高水敷にニワトリ大の茶色っぽい鳥が群れていた=写真。キジの子どもだった。自分のランクでは②だが③でもあった。

キジが子育てをしているのはわかっている。が、めったに姿を見せない。その子どもたちが大きくなって何羽も現れた。驚いた。そして、うれしくなった。堤防をはさんで人間の暮らしとキジの暮らしがつながっている。

夏井川の河川敷ではあらかた立木が伐採された。土砂除去工事も進む。そこだけは少ししか手が入っていない。堤防の上から高水敷までは草が刈られたが、残りの半分は岸辺まで草が茂るにまかせている。背丈が2メートルを超える草がほとんどだ。その繁みに巣があるのだろう。

おととし(2019年)6月初旬の夕方、下流でキジの母子に遭遇した。そのときのブログの抜粋。

――堤防のてっぺんの草むらに沿ってキジの雌が歩いている。と、そばの草むらからひなも現れた。そこでは前に何度か雄を見ている。その奥さんと子どもたちだろう。

 母子がいるということは、巣もこちら側の河川敷にあるということだ。河川敷にはサイクリングロードが設けられている。ときどき草刈りが行われる。人が近づかずに安全なところといえば、ヨシ原?

雄は、堤防沿いの畑や岸辺でちょくちょく見かける。しかし雌は、この10年間で2回だけ。対岸の岸辺の砂地に雄と、あるいは単独でいた、という程度で、子連れの雌を至近距離で見たのは初めてだ――。

まず、雌のキジを見ること自体珍しい。母子連れとなるとさらに珍しい。3年前のキジの子は、それこそよちよち歩きのひなだった。今回の子たちはそれから3カ月後の姿をしている。母親と同じくらいの大きさだ。6羽いた。母親もいたかもしれない。としたら子どもは5羽。親と全く区別がつかないほど育った。

不要不急の外出は控える。このご時世、それはしかたがない。でも、リアルな自然には感動がある。リアルな社会もそうだろう。用があって外出したら、ついでに自然にも触れる。そのことを忘れないようにしないと――

2021年8月27日金曜日

ミョウガの子を初収穫

                      
 庭のミョウガは年に2回楽しめる。春、「ミョウガタケ」が芽生えてのびる。初秋、「ミョウガの子」が茎の根元に現れ、花を咲かせる。どちらも汁の実や薬味にする。

まずは4月下旬。カキの木の下でミョウガタケの発生を確かめる。その芽が5月の連休明けには10センチほどに伸びる。それをカットする。

ミョウガの子は8月中旬が目安になる。月遅れ盆が終わると同時に、茂ったミョウガの根元をチェックする。つぼみが現れたら花が咲く前に摘む。

ミョウガの子は、この10年の記録を見ると出現時期が遅れ気味だ。去年(2020年)は1カ月以上遅れて、9月末に摘んだ。

 朝、歯を磨きながらチェックする。月遅れ盆のころは、影も形もなかった。今年も出現が遅れるのか――。1週間ほどたった8月下旬になって、白っぽい花が咲いているのを見つける。周りを探すと、もう一つ。二つをねじりながら摘んで水洗いした=写真。

ほんとうは花が咲く前に摘むのがいいのだが、このごろは目がかすんで花が咲かないと見つけにくくなった。ともかくも今年の初収穫だ。

スーパーなどでは春のミョウガタケも売られているのだろうが、買ったことはない。なにしろ庭に次々と新芽が現れる。

栽培物のミョウガの子は早い時期からスーパーに並ぶ。それを我慢して、庭にミョウガの子が出るのを待つ。待ちきれないときには、近くの直売所から買う。先日は4個で100円だったという。初収穫は2個だったから50円か。

 汁の実と薬味以外にどんな食べ方があるか。甘酢漬けがある。てんぷらがある。和え物がある。

簡単に自分でできるものをと、糠漬けにしたことがある。イマイチだった。浸透圧がよくはたらかないのか、しんなりしない。味もしみこまない。

皮をむかないで入れたウドがそうだった。皮をむいたとたん、ウドはしんなりと漬かってうまかった。ミョウガは皮の連続だから、むくわけにもいかない。いや待て、縦に四つ割りにしたらどうだろう。今度それを漬けてみるか。

 糠漬けよりも即席漬けがいい。それを思い出した。まずは初夏、カブとキュウリの一夜漬けに、風味用として庭のサンショウの木の芽とミョウガタケをみじんにして加え、だし昆布も入れる。即席漬けとはいえ、風味・旨みが出る。これが最も好きな食べ方だ。

ミョウガの子が現れる今の時期は、キュウリとナスに、やはりみじんにしたミョウガを加えた浅漬けがある。

 香味の正体は「α―ピネン」と呼ばれるもので、物忘れどころか集中力を高める効果があるそうだ。加熱すると香りは大きく減じるというから、やはり浅漬けが一番か。

ミョウガの子は花が出る前に食べるのがよろしいといっても、せっかくの「エディブルフラワー」(食用花)だ。花も、捨てずに食べれば供養になる。

2021年8月26日木曜日

護岸工事始まる

                     
 JR磐越東線と並走するかたちで夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線は、いまだに大型車両が通行できない。

 令和元(2019)年10月12日、台風19号の影響でいわき市は同川流域を中心に甚大な被害が出た。下流域では床上・下浸水が5000棟近くに及び、12人が亡くなった(直接死8人、関連死4人)。ほかに1人が犠牲になっている。上流域でも河川の護岸崩落・洗掘や路肩とのり面の崩落などが相次いだ。

 夏井川渓谷の小集落に隠居がある。日曜日は朝から午後まで、土いじりをして過ごす。拙ブログによると、台風19号が襲来した直後はこんな様子だった。

――渓谷はところどころ山から土砂が流れ出して路面が茶色くなっていた。ロックシェッドから500メートルほど行った山側の沢では小規模な土石流が発生したらしい。江田の集落では山側から土砂が流れ出し、道路が小石まじりの砂利道と化している。

籠場の滝の手前およそ500メートル、磐越東線直下のS字カーブで土砂崩れが起き、木々がなぎ倒されて土石が山となっていた。地元の住民が応急的に倒木を切り、普通車1台を通れるようにした。

滝の上流では駐車場の護岸がえぐられていた。隠居の手前に錦展望台がある。その山側、道路をくぐって夏井川に排水する水路が倒木と土石で埋まり、行き場を失った水が大小さまざまな石で覆われた路面を流れていた――。

 当初、渓谷の入り口、高崎(小川町)地内の県道片側に通行止めの柵が設けられた。それが間もなく、道端の看板「9km いわや旅館以降は大型車両通行不可」に替わった。

渓谷の住民はもちろん、私のような半住民も渓谷の家へ行くには、「オウンリスク(自己責任)」で通るしかない。東日本大震災のときもそうだった。

看板のほかに、渓谷には何カ所か土砂の詰まったフレコンバッグで“関所”が設けられた。関所は普通車1台が通過するだけのすきましかない。

あとで上流の川前まで行ったとき、大型車両が通れない「現場」がわかった。小川と川前の境をなすJR磐越東線大滝踏切の先、次の山前踏切に差しかかる手前に「幅員減少」の看板とカラーコーンがあった。

山側は切り立った崖で沢になっている。谷側はじかに夏井川と接している。もともと狭隘な道だ。そこに山から土砂が流れ落ち、谷の濁流が護岸をえぐったのだろう。

 台風襲来から間もなく2年。ここでもようやく護岸工事が始まった。山前踏切を越えた先でも護岸工事が行われている。谷側に工事用の取り付け道路を設けての作業だ。道幅が狭いV字谷だけに、難工事になるのはまちがいない。

宇根尻(川前)から差塩(三和)へ駆け上る県道川前停車場上三坂線の宇根尻橋直下でも、護岸工事が始まった=写真。

いわきのヤマにも台風19号の爪痕が至る所に残っている。下流部の大規模復旧工事があらかた終わったことから、周辺へと復旧工事の重点が移ってきたのだろう。

江田から横川(小川)へ抜ける母成林道も通行止めになった。ここは渓谷が通行止めになったときの「う回路」だが、その役目が果たせないでいる。渓谷が陸の孤島化しないためにも早い復旧が待たれる。

2021年8月25日水曜日

同年代作家の死

        
 つきあいのある書店から毎月、岩波書店のPR誌「図書」が届く=写真。7月号の巻頭言は作家梨木香歩さんの「蛇の末娘」だった。

庭の片隅に突然、マムシグサの仲間のムサシアブミが出現した。「東北地方ではマムシグサのことを蛇の末娘(ばっこ)と呼ぶのだと教えてくれた方があった」という書き出しで、「蛇の末娘」から想起されるあれこれ、「名づけ」と結びついたイメージが産み出す「物語」に言及したあと、こう結ぶ。

「創る者も読む者も、人は人生のそのときどき、大小様々な物語に付き添われ、支えられしながら一生をまっとうする」

 若いときから名前を知っている同年代の作家高橋三千綱さんが亡くなった。死因は肝硬変と食道がんだった。訃報に接して梨木さんの文章の結語をかみしめている。

高橋さんは、この「図書」にがんの闘病記を連載した。それをずっと読んできた。始まりは2017年4月号の「食道がんだな、といわれた日」。それから翌2018年3月号の「自分が持っているものを好きになる」まで、毎月、医師とのやりとり、症状、自分の思いなどを克明に、赤裸々につづった。

大の酒好きで、糖尿病と肝硬変になる。さらにがんが見つかる。「アンモニア、脳に乱入」「ところで、今度は胃がんがみつかりました」……。闘病にも無頼派的な生き方が反映される。満身創痍(そうい)。壮絶。凄惨。そういった言葉を思い浮かべながら読み続けた。これらの連載は『作家がガンになって試みたこと』(岩波書店)という単行本になった。

2020年には「あ、酒を飲んでしまった」(2月号)「ある日、突然食道狭窄(きょうさく)に襲われた」(5月号)など、不定期で「図書」に続編が載った。2021年1月号の「あれは奇跡だったのだろうか」が、「図書」では最後の文章だった。

食道狭窄の話は生々しかった。本人のツイッターにも「食道はミルクも通りません」とあった。食べ物はもちろん、飲み物ものどを通らないほどにふさがってしまう。具体的な描写を通じてその過酷さが強く印象に残った。

私自身、年齢を重ねるごとに、ドクターと病気と患者の「三者会談」が増えた。慢性の不整脈、高血圧、高尿酸を抑えるために、何種類かの薬を飲むようになった。肝臓はなんとか元気だから、糖分・プリン体ゼロの焼酎をなめている。

そう、私は医師との関係では羊のような患者だが、高橋さんはそうではなかった。医師を批判する、当然「返り血」を浴びる。それでも「好きなように生きる」を貫く。死を見つめるというよりはにらみつけるような姿勢。だからこそというべきか、彼の闘病記には鬼気迫るものがあった。

梨木さんの文章に重ね合わせれば、病気と闘いながらも、病気に付き添われ、支えられて「物語」をつむぎだした。彼の闘病記は、読む人におのずと生きる覚悟をうながす。

2021年8月24日火曜日

農家そば屋へ

                     
 日曜日(8月22日)は朝8時半ごろ、夏井川渓谷の隠居に着いた。街では5時台にちょっと雨が降った。渓谷も雨上がりだったのだろう。尾根が霧に包まれていた。谷からもうっすらと霧がわいていた。

 庭の草むしりが追いつかない。キュウリを収穫したあと、支柱の周りの草を引いた。長靴を履いていないとズボンがびしょびしょになる。それほど草が伸び、雨粒をまとっていた。

 フィールドカートに腰を下ろし、右手にねじり鎌、左手は草を握って土をほぐしながら根をはがす。と、匍匐枝(ほふくし)も一緒にはがれる。

 イネ科で匍匐枝があって、そこから根を下ろして増えるものといったら、メヒシバだろうか。とにかく同じ草がびっしり生えている。

 キュウリの周りをきれいにするだけで1時間はかかった。とりあえず風通しがよくなったことでよしとする。

 あとはカメラを首からぶら下げて庭のあちこちを見て回る。落ち葉につく微細なキノコに子嚢(しのう)菌の「コッコミケス属」というのがあるそうだ。フェイスブックにアップされているのを見て知った。庭の落ち葉をひっくり返したが、それらしいものには出合わなかった。もっとよく勉強しないと見えてこないのかもしれない。

 昼食は小野町か平田村で――。いつものマイクロツーリズム(山里巡り)が頭をよぎったが、市境を超えるのは避けて山の陰、三和町下永井の「いこいの学校 長居小」で買い物をし、近くにある「農家そば屋」で十割そばを食べることにした。長居小も、農家そば屋も土・日だけの営業だ。

過疎と高齢化が進む山間部のひとつ、三和地区では2015年春、小中学校の再編が行われ、5小学校が三和小(旧沢渡小)1校に、4中学校が三和中1校に統合された。

「長居小」は旧永井小だ。廃校施設利活用事業にNPO法人のMOCCS(モックス)」が手を挙げ、2019年11月、「いこいの学校 長居小」としてオープンした。

そこからやや差塩寄りの上永井に古民家を利用した「農家そば屋」があった。谷あいの宇根尻(川前町)から差塩(さいそ=三和町)へと山道を駆け上がり、上永井へ下る。年に1~2回はこのルートで農家そばを食べに行った。

古民家での営業が終わったあとは、そばを打つおじいさんが自宅の倉庫を改造して十割そば屋を開業した。まだ入ったことはない。

「長居小」で「ねぎみそせんべい」などを買い、スタッフと話していると、おじいさんにそば打ちを習っているという。「長居小で教えてもらって来た、といってください」というので、そのとおりにした。

前の店もそうだったが、ここでも野菜てんぷらそば=写真=を食べた。野菜は朝採れ。鮮度は抜群だ。私らも含めて、街から食べに来る人がけっこういるようだ。

 ちょうど食べようかというとき、地の底から突き上げるようにドドドドときた。福島県沖が震源だった。浜通り北部は主に震度4、いわきなどの南部は3だったが、この10年の経験からいうと上永井は4に近かった。

ま、野菜天そばを食べ終わるころには、味に意識が集中して地震のことはすっかり忘れていたが。

2021年8月23日月曜日

きゅうりもみ

                      
 この夏、酷暑が続いたときには「きゅうりもみ」=写真=をよく食べた。それなりに水分補給にはなったように思う。

 キュウリ苗を定植したのは5月下旬。それから3カ月がたって、「お役目ご苦労さん」の日が近づいている。

 今年(2021年)は種苗店からポット苗3本を買った。いつもだと2本だから、1本分多く収穫できる――そうもくろんでいたところへ、さらに在来作物の「小白井きゅうり」が加わった。

 夏井川渓谷の隠居に菜園がある。夏はそこでキュウリを育てる。市販キュウリを定植しようと隠居へ出かけたら、玄関前に「小白井きゅうり」のポット苗5本が置いてあった。地元のKさんからのお福分けだった。

 隠居では市販キュウリ2本・小白井きゅうり4本を、残り各1本は自宅の台所軒下に植えた。

毎日、軒下のキュウリを観察する。生長は市販キュウリの方が早い。葉は小白井きゅうりの方が大きい。花もそう。この花の大きさが、やがてずんぐりむっくりの実になる――などと思いながら、日曜日に出かける隠居のキュウリの生育状況を想像する。6、7月はそうして過ごした。

 今年は、梅雨の期間が短かった。真夏になると酷暑が続いた。月遅れ盆が近づくと一転、梅雨が復活したような日々に変わった。酷暑続きのときは、隠居へ行くたびにキュウリに水をやった。軒下のキュウリにはもちろん、毎朝、潅水した。

 初収穫は6月下旬。軒下の市販キュウリが最初に実を結んだ。7月に入ると、次々に花が咲き、実が生(な)るようになった。

 実が生りだしたら、週に2回は隠居へ行く――と決めていたのだが……。暑くてこれを怠った。結局、日曜日だけの週1回になった。

 すると、市販キュウリは生長しすぎて最大40センチ、そこまでいかなくても30センチ前後の大物が続出した。

 糠漬けは甕(かめ)の直径からして20センチ未満の未熟果が最適だ。これを超えたらきゅうりもみにするしかない。

 冒頭に、酷暑続きできゅうりもみをよく食べたと書いたが、実際はこうだった。肥大しすぎてきゅうりもみにするしかない、それがたまたま酷暑の日と重なった。もともとキュウリは9割以上が水分でできている。暑い夏の水分補給にはぴったりの野菜だ。

 市販だけでなく、小白井もきゅうりもみにした。糠漬けはどうも合わない。産地の川前町小白井では「どぶ漬け」にする。どぶ漬け、つまりは塩水漬け。いわきの昔野菜図譜によれば、塩水を一度沸騰させ、冷ましてから漬け汁にする。

きゅうりもみや糠漬けにしても、余るときがある。お福分けも届く。その場合は、ホーローのキッチンポットに塩をいっぱい振ってキュウリを井形に組んで重しをのせる。やがて、キュウリからしみだした水分が空気を遮断する。その水をあとで煮沸していたが、最初からどぶ漬けにすればよかったか。これが今年の反省点でもある。

2021年8月22日日曜日

『ひまわりの文化誌』

                                 
 6月末に後輩がアーティチョークの花を持って来た。花瓶に飾ったら、ゴッホの「ひまわり」の絵を思い出した。ネットで検索して、どちらもキク科の植物であることがわかった。いわき昔野菜の「おかごぼう」もキク科の植物で、アザミに似た花を咲かせる。アーティチョークは和名がチョウセンアザミ。花がアザミに似ているのは当たり前――そんなことを、前に書いた。

 そのあと、いわき総合図書館の新着図書コーナーに、スティーヴン・A・ハリス/伊藤はるみ訳の『ひまわりの文化誌』(原書房)=写真=があったので、借りた。

臨時休館に入った8月7日が返却日だった。とりあえず図書館が再開するまで手元に置いて再読、三読することにした。

 タイトルからしてヒマワリが中心の文化誌だが、アーティチョークも登場する。見た目で結びつけていた植物が系統的につながっていた。おもしろい。勉強になる。

 ブログ(7月7日付)では「キク科の花たち」というタイトルにした。『ひまわりの文化誌』は、キク科「ヒマワリ属」の花たちを「生物学、生態学および文化的な側面から探求」している。

 ヒマワリ属の基本的な構造、ヒマワリの仲間、進化の過程、人間との関係(薬用・食用)などを明かす。といっても、ヒマワリとその仲間(キク科植物)の話だから、ヒマワリ属にはとどまらない。現に、アーティチョークはチョウセンアザミ属、ゴボウはゴボウ属、アザミはアザミ属だ。

 ウィキペディアによると、ヒマワリの原産地は北アメリカ西部と考えられている。先住民族の食用作物として重要な位置を占めていた。16世紀初め、スペイン人がヒマワリの種子を持ち帰り、マドリード植物園で栽培した。それから100年近くたってフランスに、次いでロシアに伝わる。ロシアは食用ヒマワリの主要生産国になった。国花までヒマワリだ。

 若いころ、「ネアンデルタール人も死者に花を手向けた」という記事を、自然科学系の雑誌か何かで読んだ記憶がある。旧人類にも死を悲しむ感情があったのかと、心を揺さぶられた。そのこととつながる記述がある。

「その骨の近くから(略)キク科の花の花粉が見つかった。考古学者は付近の状況からみて、その花粉を残した花はネアンデルタール人の埋葬儀式に使われたものか、もしくは医薬品として使われたものではないかと推測した」

 しかし、異説もある。リスやネズミが花を保存食としてそこに蓄えたのではないか――。供花であれ、薬用であれ、小動物の食用であれ、広く深く想像することには意味がある。

 おもしろいことに、ゴッホの「ひまわり」の絵については、「芸術としてはすばらしいが、科学的な植物画としての価値はない」のだとか。つまり、植物細密画(ボタニカルアート)ではないのだと。確かにそうかもしれない。が、美術を科学の目で見てもしようがない。美術は美術として楽しめ、ということでいいのではないか。

コロナが巣ごもりを強いる今、本を読む気になればいくらでも読める。『ひまわりの文化誌』を読み返すたびに、なにか新しい発見があるかもしれない。

2021年8月21日土曜日

平・田町のブランコ

        
 来年(2022年)、喜寿を迎える知人が友達(高校の同級生)を連れてやって来た。友達はカミサンの友達の妹だ。

 カミサンと知人の友達は平一小・一中を卒業し、同じ高校で学んだ。1歳違いだから、カミサンとは先輩・後輩の間柄ということになる。

 知人の友達はいわき市最大の繁華街、平・田町で育った。今の田町からは想像もできないが、昔の田町にはまだ普通の暮らしを営む家々があった(むろん、今もある)。

 いわき駅を中心にした平市街は、江戸時代には磐城平藩の城下町だった。いわき駅裏の高台に城があった。ふもとは、掘割で武家と町家が区分けされていた。

フェイスブックにアップされたいわき市の「いわきの『今むがし』――平字田町」=写真=によると、明治の世になって掘割が埋め立てられ、常磐線が開通した。石炭景気と平駅(現いわき駅)の開設が経済の活性化と街のにぎわいを生み、大正へと時代が進むなかで田町に花柳界が生まれた。

江戸時代からある本町通り(南側=町家の道路)と並木通り(北側=武家地の道路)の間に、南から「紅小路」「新田町通り」「仲田町通り」ができた。紅小路~新田町通りの間は、元は掘割だったという。その通りをあでやかな芸妓が行き交った。

 そうした街の歴史を背景にして、同じ時代の空気を吸い、同じ風景を見ていた人間が思い出話に花を咲かせる。「それは昭和20年代のことですか」。まだ喜寿には遠い人間が聞く。「いや、30年代前半」。つまりは、高度経済成長時代が始まるか、始まったころのことらしい。

強く印象に残ったのは、田町のど真ん中に遊園地のような空間があったことだ。カミサンたちの記憶によると、場所は紅小路から入ったところで、一区画だけ新田町通りまで空き地になっていた。そこにブランコと滑り台があった。

「田町のブランコ」。とっさにキーワードが浮かんだ。今では考えられないことだが、ブランコと滑り台があるくらい、田町にも子どもたちの歓声が絶えなかった、ということだろう。

現に高台の陰、中世の古い町に生まれ育ったカミサンには、田町育ちの同級生が何人もいた。

ひととおり子どものころの思い出にひたったあとは、切実な現実の話になった。生老病死(しょうろうびょうし)。知人の友達は去年、年下のご主人を亡くしている。新盆だった。

そこから家族葬が多くなった、今年はジャンガラ念仏踊りの鉦(かね)の音を聞かなかった、親しくしている「お姉さん」から、妻は夫に先立たれてもなんとかなるが、夫はそうはいかない、だから「あなた、先に死ぬのよ」と“忠告”された話などをした。

思い出の田町は、コロナ禍の今、閑古鳥が鳴くどころか、いなくなったように寂しい。ま、お迎えがくるまでは精いっぱい生きましょう――最後はすっきりした気分で解散した。

2021年8月20日金曜日

アブラゼミとハエトリグモ

                     
 来春の就職を決めた大学生の疑似孫が、試運転を兼ねて、母親を乗せて車でやって来た。祖父の車を譲り受けたという。「タカじいの送り迎えもするよ」。母親のおなかの中にいるころから知っている子が、そこまで成長した。

 近況報告を終えると、突然、「庭にセミはいるの?」と聞く。それに呼応するように、ツクツクボウシがささやき、アブラゼミが鳴き出した。

 セミは苦手、触ることができない。でも、苦手を克服したい、という。たまたまアブラゼミやミンミンゼミ、タマムシの死骸を飾り皿に安置していた。それではダメだという。「生きているセミに触りたい」

 ではと、庭の柿の木に止まって鳴いているアブラゼミを観察する。捕まえるにはちょっと高いところにいる。疑似孫が一歩近づくと、セミがいきなり幹から飛び立った。「キャー」。大声を上げて、はじけるように戻ってきた。生け捕りにして触る作戦はちょっとムリのようだ。

 茶の間に戻ると、疑似孫のバッグにハエトリグモがいた。体長は5ミリちょっと。ハエトリグモは屋内にもいて、小さな虫を捕まえる。益虫なので、わが家ではそのままにしている。てのひらにのせると、ぴょんとはねて逃げた。

 疑似孫は、ハエトリグモは平気だという。スマホでクモの動きを追い、私のデジカメでパチパチやった。テレビの画面に、逆さに取りついた画像が鮮明だった。拡大してもちゃんとピントがあっている=写真。

八つある目のうち、前方の目に光が入っている。体表の毛も1本、1本はっきりしている。肢もそう。模様もよくわかる。ちょうどいい具合に、テレビの画面が鏡のようになって腹が映っている。2匹が向かい合っているような構図だ。

わずか5ミリちょっとのいきものが、10倍、いやもっと大きくなって見えるのだから、デジカメはおもしろい。

 あとで疑似孫が撮った動画がフェイスブックを介して届いた。名前がわからないことには始まらない。この動画とデジカメの画像を手がかかりに、種類を特定することにした。

まず頭部と腹部の模様をスケッチし、動画で口の先に伸びた触肢の動きを確かめる。触肢はボクシンググローブのように先端がふくらんでいる。それをやはり、ボクサーのように交互に動かしている。ボクシングをするクモか、おまえは。

「ハエトリグモ」プラス「模様」「色」などをキーワードに調べること2時間。「ミスジハエトリ」の雄らしいことがわかる。決め手になったのは前頭部のオレンジ色と、そこから腹部まで伸びるT字形の白い筋だ。白い筋を黒い筋が囲んでいる。最後に「ミスジハエトリ」そのものの検索を続けて裏を取った。

これは付け足し。デジカメにはいろんなボタンが付いている。私は二つか三つの機能しかわからない。疑似孫はこれらをカシャカシャやってデータを見た。老いては子に、いや孫に学べ――すっかり感心して見ていた。

「ピンぼけを修正する機能は?ないか」。最後に疑似孫がつぶやくと、わきから母親が声をかけた。「タカじいが使えなくなるようにしないでね」。それは大丈夫だった。

2021年8月19日木曜日

「白鳥おばさん」と話す

        
 いわき民報に「夕刊発磐城蘭土紀行」を連載している。拙ブログを活字化したものだが、このごろは活字になって残る怖さがよみがえり、頭にアルコールが入っていない日中、原稿を仕上げるようにしている。

 いわき市小川町三島地内の夏井川に、1羽、けがをして残留したコハクチョウがいる。町内のおばさんが毎朝夕、えさ(玄米)をやる。

 それを知ったのは6月中旬。日曜日の早朝、夏井川渓谷の隠居へ行くのに、いつもより1時間以上早く家を出て、8時ごろ三島に着いた。ガードレール越しに眼下の残留コハクチョウを見ているおばさんがいた。えさをやり終えたばかりだという。コハクチョウに「エレン」という名前も付けていた。カミサンがいろいろ話を聞いた。その顛末をブログに書き、「夕刊発――」に載った。

その後も、エレンが夏の暑い盛りに姿を消したこと、しばらくたってまた視界に戻ってきたことなどを書いた。

 きのう(8月18日)早朝、隠居へ出かけてキュウリを摘み、少し土いじりをして谷を出た。エレンのいる三島地内には7時15分ごろに着いた。

 川は増水して濁っている。隠居へ行く途中、左岸にエレンがいることを確かめた。帰りは久しぶりにエレンの写真を撮ろう、そう決めていた。

エレンのいる夏井川そば、山側の道端に、シルバーマークの軽乗用車が止まっている。その反対側、川岸にはガードレールに手をついて眼下の流れを見ているおばさん。

「白鳥おばさん」だ。この2カ月の様子を聞くいい機会でもある。近づいてあいさつする。と、振り向いて目が合った瞬間、「吉田さん?」という。ビックリしながら、「そうです」と答える。

なぜ、名前を知っているのか。おばさんが問わず語りに説明してくれた。小川町で夕刊を取っている知り合いがいる。「いかりがわ(碇川)商店」「私も知ってます」。その奥さんからエレンがらみの掲載紙が届いたのだそうだ。

「夕刊発――」は、タイトルと私の名前が一つのカットのなかに収まっている。それで名前を覚えたのだろう。

「写真を」というと断るので、「後ろ姿だけにします」。それで撮ったのがこれ=写真。足元には玄米がある。川が濁っているので、パンくずだけにしたという。

地域紙の記者は読者と同じ地域に住んでいる。顔の見える関係をベースにして、ニュースを発信している。つまり、地域紙はニュースペーパーであると同時に、コミュニティペーパーでもある。この両義性がめぐりめぐって、読者であるかどうかを抜きにして、私と白鳥おばさんをつないだ、といってもいい。

ソーシャルディスタンスを取りながらも、エレンを介したおばさんと私の距離はぐっと縮まった。

あの夏の酷暑が続いたときには、エレンは上流の竹やぶで暑さを避けていた。これは想像していた通りだった。「エレンちゃ~ん」。新聞で名前を知った人が声をかけることもあるという。

別れ際に、「奥さんによろしく」といわれる。これにも驚いた。なんだろう、この浮き浮きするような感覚は。

コロナですっかり憂鬱になっている気分がいっとき晴れて、「記者冥利」に尽きる、いや「早起きは三文の徳」とはこれか――そんなことを思うのだった。