2013年11月30日土曜日

自己防衛

きのう(11月29日)、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行ったら、だれもいない。29日から「全体除染」を行うという話だったが、どうしたのだろう。集落を巡って了解した。空き地をはさんだ隣家の入り口に、「除染作業中」の紙を張った赤いカラーコーンが置かれていた。庭にトラックがあって、作業員もいた。予定より作業が遅れているのだ。

紅葉が美しいV字谷である。震災3年目の秋を迎えて、週末を中心に行楽客が戻ってきた。JR磐越東線江田駅前の空き地には、食のテント村ができた。カエデを除く木々があらかた葉を落とした今は、テントもたたまれ、老アマチュアカメラマンが時折、三脚をかついで現れるだけになった。

道路に立っていると、近くのKさん夫婦が車で戻って来た。「お茶飲みに来たら」。言葉に甘えることにした。集落の除染の話になった。Kさんの家では、山を背負った裏の軒下の土のはぎとり・客土だけですんだ=写真。いわゆる「部分除染」だ。

Kさんは震災後、裏山の杉の木を伐採した。自己防衛策として、放射線量を下げるために緩衝帯を設けたのだという。伐採幅は10メートル以上に及ぶだろうか。自己防衛策がもうひとつ。毎日、落ち葉かきをしている。集めた落ち葉は自分の山に捨てる。「最も効果的な除染が落ち葉かき」なのだとか。

V字谷の集落の真ん中を、線路と道路(県道小野四倉線)が突っ切っている。Kさんの家はそこから山側に、わが隠居は谷側にある。山を背負ったKさんの家より、空き地に囲まれたわが隠居の方が、線量が高い。空気が滞留するせいなのかどうか、隠れ里のような小集落では、全体除染はわが隠居だけだ。

現場監督には会えなかったが、夜、自宅に電話がかかってきた。「作業がずれこんでいるので、来週の火曜日(12月3日)からになります」。当然ながら現場は応用問題だらけ、計画通りに事は進まない。

2013年11月29日金曜日

美容室の「2:46」

同級生の車に同乗して、福島県・中通りの中央部を東西に貫く“肋骨道路”(天栄村の国道118号だったか、平田村の国道49号だったか)を走っていたときだ。

家が並ぶ集落の1軒の軒下に、美容室の看板時計がかかっていた。田舎の美容室は床屋と同じく、住まいの一角を店舗にしている例が多い。床屋なら赤白青の回転看板、美容室なら店名の入った看板時計――山里に生まれ育った古い人間にはなじみのデザインだ。その1週間ばかり前、双葉郡富岡町で同じ看板時計を見た=写真。傾いて止まった針の位置がありありと思い出された。

11月2日に、首都圏からやって来た“ダークツーリズム”の一行十数人に同行して、いわき市の北、広野・楢葉・富岡各町を巡った。富岡では内陸部のほかに沿岸部へ足を運んだ。海の見えるJR常磐線富岡駅に通じる商店街で、ずれて斜めに傾いた美容室の看板時計に出合った。

美容室は内部がガランとしていた。店の奥に空が見えた。時計の針は「2:46」をさしたままだ。大地震のあとに大津波が来た、すぐ原発避難を余儀なくされた――マスメディアやネットでなじみの、3・11を象徴する看板時計だった。

富岡駅前にパトカーが止まっていた。津波で駅に流されてきたと思われる自動車をチェックしていた。どこから来たのか、代表者の名前は? 一行が着くと質問を始めた。空き巣予防の“見える警備”でもある。

富岡町は今年3月25日、避難指示区域が解除され、日中の出入りができる避難指示解除準備区域と居住制限区域、立ち入りができない帰還困難区域に三分された。富岡駅周辺は一般の出入りが可能で、私たちのほかに何組かのツアー客がいた。同じようにおまわりさんから声をかけられていた。

それはさておき、美容室の看板時計は“震災遺品”のひとつには違いない。生業・暮らし・人々の息遣い・不安と恐怖……。その時計のある空間に立つことで、あの日そこで何が起きたかを想像することができる。秘められたメッセージを読み取ることもできる。ツアーの目的はたぶんそこにある。

2013年11月28日木曜日

渓谷の除染始まる

夏井川渓谷(いわき市小川町)の小集落で除染作業が始まった。仮置場が決まったことが大きい。汚染物を入れた黒いフレコンバッグが仮置場に運び込まれるようになって、わかった=写真

集落のひとつ、牛小川のわが隠居(無量庵)も、明11月29日、「全体除染」の作業が始まる。おととい(26日)、市から事業を受託した共同企業体の現場監督と、わが家で最終的な打ち合わせをした。庭は芝もすべてはぎとってくれて結構、水道管には注意を――こちらからはその2点だけを伝えた。

牛小川には家が10軒ほどある。全体除染は無量庵だけだという。敷地の放射線量を調べたところ、地上1メートルで1時間当たり平均0.24マイクロシーベルトあった。年間1ミリシーベルトの目安は、計算式に従えば毎時0.23マイクロシーベルト。それを0.01だけ超えた。

ほかの家は、たとえば1平方メートルだけの部分除染で終わり、というところがある。逆に、要望を受けて庭を再測定した結果、除染範囲が広がった家もある。コンクリートの庭と、土の多い庭の違いだろう。わが隠居はほとんど土のうえに、庭が天然芝かコケで覆われている。そのへんが影響しているようだ。

除染に税金を投入することに批判的な人がいる、意味があるのか、無駄ではないのか、と。もっともなことだ。が、これは人災で、緊急を要する作業のために行政が東電に代わってやっているのだ(いわゆる代執行)と、私は認識している。

「山のおうち」に孫が遊びに来ない。家庭菜園の楽しみが消えた。キノコと山菜採りができない。春のアカヤシオの花、夏の万緑、秋の紅葉、冬の雪――四季を通じて得られる眼福、自然享受の権利が奪われた。

少しでも事故前の状態に戻してもらいたい。そのための除染である。 問題にしなければならないのは、税金ではなく、事故の責任と、いったん事故が起これば人間の手に負えない巨大システムの是非ではないだろうか。未来に続く“見えない空襲”におびえて暮らさざるをえない人間はそう考える。

2013年11月27日水曜日

白菜を干す

日曜日(11月24日)に、いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」で白菜を2玉買った。月曜日は曇雨天だったため、一日おいて小春日のきのう、八つ割りにして干した=写真

けさ、朝めし前に白菜を漬けこんだ。一日干しの白菜は、手に持った感じで約5キロ。実際に量りにかけたら、4.9キロだった。使う食塩は重さの3%と決めている。つまり、150グラムだ。それで十分漬かる。

夏の糠漬けと冬の白菜漬けは、手が塩梅(あんばい)・加減を覚えている。糠床がゆるくなれば水を抜き、糠と食塩を追加する。白菜の水の上がりがすんなりいかないときには重しを増やすか、食塩を追加する。つまり、手塩にかける。それと同じで、「塩梅」も、「手加減」も料理からきていることばだ。

食塩のほかには昆布、トウガラシ、ユズを使う。昆布は旨味のために、ユズは皮を細かく刻んで風味を添えるために。トウガラシには殺菌効果があり、白菜に載った赤く小さな輪が食欲をそそる

トウガラシは「道の駅ひらた」で1連(10個)100円のものを2連買った。ユズはタイミングよく知人から届いた。放射線量を測ってもらったら、1キロ当たり20ベクレルと基準値内だったという。

食塩は、小名浜に工場のある日本海水の「塩屋埼の本塩」。「暖流と寒流がぶつかり/潮目の海と呼ばれる/福島県いわきの海からくみ上げた/海水を丹念に煮詰めてつくりました」と袋にある。つまむときめが細かい。にがりを含んだ昔からのしっとり感、溶けやすさ、塩かどのとれたマイルド感が特徴だそうだ。順調にいけば、12月1日あたりには最初の白菜漬けが食卓にのぼる。

今年の夏の猛暑は、糠床にはこたえた。一時、セメダイン臭がした。発熱して腐敗しそうになったのだ。明るい台所から北側の階段の下に糠床の甕を移し、糠と食塩を足して朝晩2回、かきまわしつづけているうちに元気が回復した。

漬物づくりは、震災・原発事故の前から続く大事な生活の営みのひとつだ。負けない・あきらめない・へこたれない――ときどき唱える“呪文”だが、漬物づくりでそれを実証しようという思いがある。師走がきて、最初の白菜漬けを口にしたら、ゆっくり糠床を休ませてあげよう。

2013年11月26日火曜日

小川の「白鳥おじさん」

日曜日(11月24日)の朝8時過ぎ。いわき市小川町の夏井川・三島橋上流左岸に、コハクチョウがひしめいていた。そばを走る国道399号から水面までは、5メートルはあろうか。近くの男性がガードレールのそばから「おはよう、おはよう」とハクチョウたちに大声で呼びかけながら、えさのクズ米をまいていた=写真

路肩に車を止めて写真を撮ったあと、男性と少し話をした。ハクチョウの数はざっと50羽。それにオナガガモ、マガモが交じる。朝晩の2回、彼らにえさをやっているのだという。クズ米はだれかがえさ置場に持ってきてくれる。

以前は右岸でえさを与えていたが、砂にまみれて食べづらそうだったため、左岸擁壁の上からまくようにした。

水の流れは結構速い。川床はコンクリートでできていると思ったら、平らな岩盤だという。ハクチョウたちはそこで必死に水をかきながら、空から降ってきたえさをついばむというわけだ。水中に首を突っ込む個体もいる。ハクチョウが「おはよう、おはよう」に反応して、大きな羽ばたき音を立てながら近寄るさまは壮観だ。

えさ場からすぐ下流に、磐城小川江筋の取水堰(斜め堰)がある。堰で少し流速が落ち、流れが平らかになるためにハクチョウたちが舞い降りるようになったのだろう。食事のとき以外は右岸の浅瀬で羽を休めている。

夏井川は阿武隈高地の最高峰・大滝根山の南面を源流に、南東して、いわき市で太平洋に注ぐ。夏井川渓谷を過ぎると扇状地が広がる。その平野部、平・中平窪に、次いで下流の平・塩~中神谷に、さらに小川・三島にハクチョウが飛来して越冬するようになった。三島で越冬が始まったのは、そう古いことではない。

それぞれの越冬地にえさをやる「白鳥おじさん」がいる。鳥インフルエンザの問題が起きたときには、中平窪でえさやりを中止した。塩~中神谷ではMさんが行政の自粛勧告を蹴って世話を続けている。Mさんは対岸、平・山崎に住む。今シーズン、私は早朝散歩を中止しているので、Mさんとは会っていない。元気だろうか。三島の「白鳥おじさん」については全く知らなかった。

「これからどこへ、セドガロ(背戸峨廊)?」「いえ、夏井川渓谷です」「写真は(撮るなら)午前より(日が差す)午後だね。行ってらっしゃい」。小川の「白鳥おじさん」はなんとも気さくな人だった。

蛇足ながら、「背戸峨廊」の読みは「セトガロウ」でも、「セトガロ」でもない。「セドガロ」だ。小川の夏井川支流に加路(かろ)川がある。ひとつ山を越えたV字谷を江田川が流れる。加路川流域の人々には、裏山の江田川は「背戸(せど)のガロ」(後ろの加路川)だ。「セドガロ」と地元の人が呼び習わしていた川の名に、詩人の草野心平が「背戸峨廊」の字を当てた。

さらにいうと、夏井川渓谷と背戸峨廊はイコールではない。夏井川渓谷は本流、背戸峨廊は支流で、本流に沿ってのびる磐越東線からは見えない。見えない奥に息をのむような景観として存在するからこそ価値がある。

2013年11月25日月曜日

山里の道の駅

11月9~10日の日程で、会津・芦ノ牧温泉で高専のミニ同級会が開かれたあと、いわき組は奥羽山脈越えの国道118号~同49号経由で帰ってきた。

途中、石川郡平田村の49号沿いにある「道の駅ひらた」=写真=でそばを食べ、復興支援コーナーにあった宮城県産の「乾のり焼」を買った。「焼きのり」ではなく、「乾しのり」とあったので、思わず手が出た。味噌汁に散らすとパッとひろがり、のりの香が立った。

道の駅の近く、49号の上に跨道橋が架かっている。磐越道小野IC(インターチェンジ)から福島空港IC~東北道矢吹ICをつなぐ「あぶくま高原道路」だ。有料の県道だと思っていたが、それは一部分だけだった。

ときどき山里の直売所を“はしご”したくなる。きのう(11月24日)がそうだった。いわき市小川町・夏井川渓谷~田村郡小野町~平田村~いわき市三和町と、阿武隈高地の、ひと山はさんだこちらとあちらの山里を巡った。

JR磐越東線江田駅近くでは露地売りの曲がりネギ(小野町産)を買い、小野町では小中学校の同級生が嫁いだ和菓子屋「くさの」に寄り、買い物ついでにいわき市のハワイアンズで開かれた中学校の同級会の様子を伝えた。ここで、あぶくま高原道路を使えば平田まで5分、しかも無料であることを教えられた。

片側1車線のあぶくま高原道路を走るのはむろん初めてだ。平田ICで下りるとすぐ国道49号に出る。その交差点の先に目当ての道の駅があった。同級生が言っていたとおり、所要時間はわずか5分ほど。対向車は10台に満たなかった。後続車両はなかった。

駐車場も、道の駅のなかも混雑していた。駐車場から道の駅へ向かおうとしたら、人ごみの中に別の駐車場へ向かう知った顔がいた。芦ノ牧温泉のミニ同級会の幹事のひとりだった。郡山市に実家があり、最近、茨城県からいわき市に転勤してきた。「ヨッ!」と声をかけると、びっくりして立ち止まった。いわきのアパートへ戻る途中、昼食に寄ったのだった。

道の駅では、「乾のり焼」のほかに、カミサンがいろいろこまかいものを買いこんだ。このあと三和町へ移動し、49号沿いの「ふれあい市場」で白菜と大根を買った。

同じ49号沿いに知人のNさんが「柏の里直売所」を開いている。平田から行くと、冬の難所・長沢峠をはさんで「ふれあい市場」の手前にある。震災後、初めて立ち寄った。白菜はなかった。「ふれあい市場にあっかどうか、電話してみます」と店番のオヤジさん(ご主人?)。「これからそこへ行くので」と電話は遠慮した。

山里の白菜は平地の白菜より甘い。寒冷な気候がそうさせる。震災前、Nさんが「近所に用事があったので」と、わざわざ自宅へ白菜を届けてくれたことがある。漬けたら甘かった。食が進んだ。以来、できるだけ山里の白菜を買って漬けるようにしている。

最終的には白菜が目的の“買い出しドライブ”だった。しかも、「あぶくま高原道路」を“発見”したので、同じ時間でも今までより広く、大きなルートを回ることができた。次は平田の先、母畑温泉あたりまで行ってみようかな――無料の“高速道路”を使えば、今まで考えてもみなかったドライブが可能になる。そんな楽しみが生まれた。

2013年11月24日日曜日

白菜漬け

先週のNHK朝ドラ「ごちそうさん」で、西門家に大量の青梅が登場した=写真。家族はバラバラ。みんなで梅のへたを取ったりする「梅仕事」をきっかけに仲良くできないかという、ヒロインめ以子の魂胆だった。梅干しはもちろん、梅シロップ漬け、梅ジャム、梅酒にするという。

小姑(義姉・和枝)の嫁(め以子)いびりがすさまじい。それだけに、合間に出てくる料理や食べ物のシーンが輝いてみえる。とりわけ梅ジャムの話には「むむむ」となった。

震災前は、夏井川渓谷の隠居(無量庵)に植えた高田梅の木から、青梅をもぎって梅ジャムをつくるのを楽しみにしていた。梅ジャムを心待ちにしてくれる人もいた。それが、今は枝を剪定しても梅をもぎる気にはなれない。「ごちそうさん」の梅仕事から、懐かしさと、ある種の喪失感が胸にしみた。

今はしかし晩秋、梅ジャムよりも白菜漬けだ。気温が下がって、糠床の乳酸菌の活動がにぶくなってきた。冷たい糠床を手でかきまわすのも、冬にはこたえる。もうすぐ師走。糠床には塩のふとんをかけて眠らせ、代わって白菜漬けが食卓にのぼる時期を迎えた。

きのう(11月23日)、富岡町から近所に避難しているおばさんが、自家製の白菜漬けを持ってきた。初物だ。そろそろ山の直売所から白菜を買ってこよう――そう、夫婦で話し合ったばかりだけに、いい刺激になった。

きょうはこれから夏井川渓谷へ出かける。JR磐越東線江田駅近くの県道沿いで田村郡小野町のNさんが曲がりネギを売っていれば、それを買う。山を越えて国道49号に抜け、平田村の「道の駅」や、隣接するいわき市三和町の直売所ものぞいてみよう。

目当てはもちろん白菜だが、一升漬けや梅干しも見たい。気分転換を兼ねて、ときどき敢行する“買い出しドライブ”だ。震災後は通過するだけになっている、49号沿いの専業農家Nさんの個人直売所にも立ち寄ってみるか。

2013年11月23日土曜日

テレビ中継車

午後6時台のNHK福島「はまなかあいづ」。11月20日に、避難者のための<まちの交流サロン「まざり~な」>を取り上げるというので、2時過ぎにはテレビ中継車がわが家(米屋)へやって来た=写真。本番のおよそ4時間前だった。

中継車は、あらかじめ許可をもらっておいた隣のコインランドリーの駐車場に陣取り、屋根のアンテナを南方の空に向けた。通信衛星に電波を発射するためだが、ちょうど小学生の下校時間に重なった。登校時にはなかった特殊な車に、子どもたちは興味津々といった様子。かくかくしかじかで生中継されることを“広報”すると、「エッ」と声をあげ、目を輝かせた。

スタッフは、マイクを握るいわき市内郷出身のキャスター宮沢結花さんのほか、スケッチブック(カンニングペーパー)を持った指示役(福島局のアナウンサー若月弘一郎さん)、カメラマン、ライトマン、生中継の技術者、運転手で、事前に連絡・調整の労を取ったいわき支局のY記者も立ち会った。

これに「出演者」である富岡町と楢葉町から避難してきた利用者のおばさん2人とカミサン、「まざり~な」活動を始めたNPOの代表が加わった。

本番までが大変だった。リハーサルはもちろん、少しでも映りがいいようにと、よけいなものを片づけ、店のクモの巣を払った。本番直前には掛け時計の針を止め、固定電話の受話器をはずし、ケータイの電源を切った。Y記者は店の前に立って、客が来れば一時足止めを願う、という役目を買って出た。それもこれも生中継に“雑音”を入れないための工夫だ。

わが家は店舗兼住宅で、店の一角に地域図書館「かべや文庫」がある。21日の小欄でも書いたが、昔は子どもたちのたまり場、今は奥さんたちのしゃべり場だ。

震災後は、空いていた近所のアパートや戸建て住宅に、主に原発事故でふるさとを追われた人たちが入居した。周りに知った人はいない。米屋で、塩・醤油を売っている、しゃべり場がある、パッチワーク用の布(きれ)も置いてある、とくれば、カミサンとなじみになるお年寄り(主婦)も出てくる。そうして、被災者の支援活動をしているNPOによる「まざり~な」活動が始まった。

その「まざり~な」を映像化するには利用者が必要だ。しかし、午後6時台である。夫のいる主婦が外出できるような時間帯ではない。楢葉町のT子さんには理由を説明しないで(すると断られる)時間を空けてもらい、富岡町のT子さんには“テレビ出演”の話をして来てもらった。下準備の段階では、キャスターが「きょうは特別に集まってもらった」ということを言うはずだったが、本番ではどこかに吹っ飛んでしまった。

どうにかこうにか無事に生中継が終わったとたん、福島市と郡山市から電話がかかってきた。近所の子どもも2人、祖父に連れられてキャスターの宮沢さんに会いに来た。翌日、知人からは「まざり~な」活動に協力する旨の連絡をいただいた。

ニュースになりやすいイベントなどとは無縁の、日常的な、地味な取り組みだが、「あつれき」報道を超えるマスメディアの新しい仕事になったのではないだろうか。確かな反響が感じ取られる生中継だった。

2013年11月22日金曜日

Nさんの曲がりネギ

紅葉シーズンになると、週末、JR磐越東線江田駅近くの県道沿いで田村郡小野町の農家Nさんがネギと長芋を直売する=写真。江田駅直下にも焼きそばなどのテント村ができる。地元の農家のおばさんたちも露地で野菜などを売る。

人が集まれば市(いち)が立つ。物の交換・売買が始まる。品物を載せる見世(みせ)棚が発展して店になる――そんな原形を見るような、晩秋の峡谷のにぎわいだ。

山が赤く染まり出すころ、冬ネギの収穫・出荷が始まる。Nさんのネギは曲がりネギだ。「阿久津曲がりネギ」として知られる郡山市阿久津町からネギ苗を調達する。4年前の会話を思い出す。

「この曲がりネギは『三春ネギ』?」と私。「そうです、小野町でつくってますけどね」。「『阿久津曲がりネギ』と『三春ネギ』は同じだと思うんだけど」と私。「そうです、阿久津からネギ苗を買って来るんですよ」

伝統野菜の「三春ネギ」は、加熱すると甘くやわらかくなる。「阿久津曲がりネギ」もそうだ。白根も青い葉も甘く、やわらかく、とろみがある。須賀川にも曲がりネギ(源吾ネギ)がある。こちらも加熱すると甘い。やわらかい。風味もある。とろみは、「阿久津曲がりネギ」ほど濃厚ではないが、さっぱりしている。

「三春ネギ」は夏井川渓谷の小集落・牛小川で栽培されている。わが隠居(無量庵)に小さな菜園を開いたころ、住人から苗と種を分けてもらい、3年ほど失敗を重ねながら、やっと自前で採種・播種ができるようになった。冷蔵庫で種を保存するようになってから、発芽が安定した。いわきの平地では春に種をまくが、三春ネギは秋にまく。そこが一番の違いだ。

今年は三春ネギの栽培に失敗した。前にも一度、失敗している。週末だけの菜園だから、手をかけられる時間が少ない。3・11後は、役員をしている行政区の仕事が忙しくなって、さらに足が遠のいた。原発事故に意欲がそがれたことも少しはある。

間もなく無量庵の全面除染が始まる。庭では菜園を含め、土のはぎとり・客土が行われる。すべてはそれが終わってから、“新規蒔き直し”だ――Nさんの曲がりネギを口にしながら、わが三春ネギの再生を心に刻まないではいられない。またまた牛小川の住人の隣人愛にすがってのことだが。

2013年11月21日木曜日

5分間の生中継

ゆうべ(11月20日)のNHK福島「はまなかあいづ」で、「この人に聞きたい」がいわきから生中継された。NPO法人「みんぷく」(みんなが復興の主役!=正式には3・11被災者を支援するいわき連絡協議会)の長谷川秀雄理事長が、<まちの交流サロン「まざり~な」>を紹介した。生中継の場所がたまたま「まざり~な」第1号のわが家(米屋)になった=写真

いわきでは、交流スペース「ぶらっと」(シャプラニール運営)や「小名浜地区交流サロン」(ザ・ピープル運営)、「なこそ交流スペース」(なこそ復興プロジェクト運営)、「ぱお広場」(いわき自立センター運営)などが、避難者と避難者、避難者と市民を結ぶ拠点になっている。さらにきめ細かく、被災者・避難者の身近に交流サロンを――というのが「まざり~な」の狙いだ。

「みんぷく」は、いわきで活動している市内外のNPOと個人による被災者支援ネットワークとして組織された。緊急支援から生活支援、そして心のケアへと、取り組む中身が変わりつつあるなかで、<まちの交流サロン>づくりプロジェクトが始動した。

カミサンの実家が米屋で、その支店に住んでいる。カミサンは店番を兼ねながら、地域図書館「かべや文庫」を開いている。昔は子どものたまり場、今は主婦のしゃべり場だ。震災後は、近所のアパートや借家に住む避難者もやって来て、おしゃべりをするようになった。シャプラニールいわき連絡会として、交流スペース「ぶらっと」にも関係している。そういう経緯があって「まざり~な」を引き受けた。

店には「まざり~な」のステッカーが張ってあり、こんな文章のチラシが置いてある。「いわきの町にずーっと住んでる人も、新しく住み始めた人もみんながなかよく交流できる場所として、まちの交流サロン『まざり~な』が始まりました。あなたの町のお店などに貼ってある丸いステッカーが目印! 買い物ついでに立ち寄っておしゃべりでもしていきませんか?」

いわき市内で避難生活を続ける市民、相双地区の住民は合わせて3万人を超える。応急仮設住宅、雇用促進住宅、アパートなどの借り上げ住宅に住むが、時間の経過とともに不安感や孤立感を深めている人が少なくない。そういう人のために「まざり~な」が少しでも役立てば――という思いが関係者にはある。

6時38分から約5分間の生中継だったが、準備には何時間もかけた。番組を深化させるためのやりとりも入念に行われた。テレビカメラが動いている同じ屋根の下でテレビを見る不思議。テレビメディアの番組づくりの実例をつぶさに観察したので、いずれ感想をお伝えしたい。

2013年11月20日水曜日

杜のアトリエ次友環

夏井川渓谷には小集落が点在しいている。下流から江田・椚平・牛小川、これは小川分。その先、川前地区にも点々と小集落が張りつく。いずれも県道小野四倉線とJR磐越東線沿いにある。

江田駅の近く、田畑をはさんで江田と隣り合う椚平に、知人夫妻が実家を利用して焼き物とガラス器の工房を構えた。「杜のアトリエ次友環」という。11月16~17日に教室生らとの展示会が屋内外で開かれた=写真

牛小川にあるわが隠居(無量庵)への途次、「展示会場」の看板を見たので、あとで出かけた。何年か前に一度、訪ねた記憶がある。ごく普通の農家の庭先がすっかり様変わりしていた。広い敷地内にお母さんが住んでいた母屋があり、窯場があり、陶芸とガラス工芸の教室がある。テーブルといすを配した庭園もある。

ふだんはひっそりした山里の、道路に面したごく普通の民家の奥の奥に、こうしたアートな空間が広がっているとは誰も思わないだろう。そのうえ、広い敷地内にいっときとはいえ、展観者があふれているとは。

マスメディアには連絡をしなかったという。V字谷のために駐車スペースがない。詰めかけたマイカーが路上駐車をすると近所に迷惑をかける。というわけで、案内状を出すだけにとどめた。隣組の人の土地を借りて、入り口に小さな臨時駐車場を設けた。それで正解だった。初日だけで300人もの人が詰めかけた。日曜日の分も含めると、かなりの数にのぼったのではないか。

陶芸やガラス工芸を楽しむ人たちの裾野の広がりを実感したが、それは夫妻の人柄による部分が大きいだろう。

それよりなにより、空き家と耕作放棄地が広がる山里に、こんな家の使い方、土地の使い方もありますよという、いい見本になっている。夫妻の生き方に触発されたかどうかはわからないが、隣家の人は渓流に面した地続きの斜面に「バラ園」をつくっている。

工房があり、バラ園があり……、なにか少しずつ山里に変化があらわれてきているのではないか。「自産自消」の農の営みは営みとして、それ以外にも山里の環境を生かした暮らし方、仕事の仕方がある。山里には無限の可能性がある。そんなことを知人の話を聴きながら思った。

2013年11月19日火曜日

カエデ撮影スポット

紅葉の大トリはカエデ。夏井川渓谷のカエデが赤く染まってきた。渓谷のどまんなか、いわき市小川町上小川字牛小川地内の幹線道路(県道小野四倉線)は絶好の撮影スポットだ。11月17日の日曜日は朝9時前から、三脚をかついだアマチュアカメラマンでにぎわっていた。

カメラマンが吸い寄せられるカエデの木がある=写真。岩をかんで白く泡立つ眼下の渓流を背景に、紅葉したカエデを目の高さで撮影できる。いわきのアマチュア写真展で見かけるカエデの紅葉は、この木であることが少なくない。

震災から3回目の秋。ようやく渓谷に行楽客が戻ってきた。震災前は路上にびっしり駐車し、片側通行がやっとだった。そこまでは回復していないが、一昨年よりは昨年、昨年よりは今年と、人の群れが多くなりつつあることを実感する。

県道に並行してJR磐越東線が走る。アカヤシオが開花する春と、紅葉の燃える秋に列車の徐行運転が行われる。新聞で知ったのだが、11月9日には「サイクルトレイン」が実施された。いわき駅から田村市滝根町の神俣駅を目指して自転車で夏井川渓谷を駆け上がり、神俣駅から列車でいわき駅へ戻る、というきついイベントだ。

かねがねその逆、ヒルクライム(登り)ではなく、ダウンヒル(下り)なら団塊の世代も参加できる、そんな列車が運行できないものかと思っていただけに、次はぜひダウンヒルの企画を立ててもらいたいものだ。むろん、競技ではなく楽しみとして。

アマカメラマンにまじって、風を切って県道を駆け下ってきた若いサイクリニストが、カエデの写真を撮っていた。ダウンヒルだからこそできる“道草”だ。ヒルクライムでは、紅葉を撮影する余裕などないだろう。

そうしてカエデに集まる人たちを写真に収めたあとだった。軽乗用車とパトカーのカーチェイスが目の前で行われたのは。いや、田村市船引町から延々と続く逃走・追跡劇の最終場面に出くわしたのは。

きのうも書いたが、このカーチェイスを“追体験”してみる(ルートはあくまでも推測)――。

17日午前10時20分ごろ、福島民報では双葉郡葛尾村の路上で、福島民友新聞では田村市船引町上移地内で、警察車両を見て不審な行動を取った車があった。上移と葛尾は隣り合っている。要するに、わがふるさとの山々、鎌倉岳~殿上山~移ヶ岳の北麓を東西に走る県道浪江三春線の葛尾~上移あたりでカーチェイスが始まった。(10年に一度くらいはその道を通る)

高速Uターンをした乗用車が県道を西に疾走し、道なりに国道349号に出て南進する。やがて国道288号と交差するが、そのまま突っ切って南進し、磐越道の下をくぐるとすぐ、T字路になる。磐城街道だ。(そのあたりが、車が水田に突っ込んだ田村市船引町門沢)

運転していた男(49歳)は門沢の民家から軽乗用車を奪って磐城街道=国道349号を疾走し、田村郡小野町で(偶然だろうが)夏井川を下る県道に入りこんだ。そして午前11時20分過ぎ、行楽客でにぎわう夏井川渓谷の籠場の滝付近で接触事故を起こし、ついに御用となった。

わがふるさとの阿武隈高地で、反時計回りに1時間にわたって行われたカーチェイスだった。道々の風景、曲がりくねりなどを体が覚えている。人がはねられなくてほんとうによかったと思う。

2013年11月18日月曜日

パトカー集結

夏井川渓谷の名勝・籠場の滝の少し上流、道端に駐車帯のある県道小野四倉線にパトカーが集結していた=写真。警官が上流側の車をUターンさせている。その先で“なにか”があったのだ。

捕り物がらみの交通事故にちがいない。その車が当事者だとしたら、起こすべくして起こしたのだ。

紅葉目当ての行楽客でにぎわう渓谷を、1台の軽乗用車が猛スピードで駆けぬけて行った。「なんだ、今のは?」。行楽客が車の去った方を見ていると、すぐサイレンが聞こえてきた。「道を開けてください、道を開けてください」。緊迫したおまわりさんの声が拡声器から響く。パトカーもまた猛スピードで通り過ぎて行った。

きのう(11月17日)、午前11時20分すぎのこと。カエデの紅葉を写真に収めて、わが隠居(無量庵)へ戻る途中に遭遇した“追跡劇”だ。

それからおよそ30分後、下流の集落にある知人のアトリエへ車で出かけると、籠場の滝の手前で、冒頭に書いた通行止めによる渋滞に巻き込まれた。

その先に事故現場があるとしたら、それは籠場の滝の先、ヤマベ沢の橋だ。対面通行のできる道路はそこで、砂時計のくびれのように急に狭くなる。行楽客の車がやって来る。パトカーもはさみうちにしようと待っている。走り抜けられるわけがない。

あまりの車の多さに、いつまでも通行止めにはしておけない。そう判断したのだろう。すぐ片側通行になった。案の定、ヤマベ沢の橋の手前に左前部が壊れた緑色の軽乗用車が止まっていた。橋を越えたところにも1台、前部の壊れた乗用車があった。橋が交通事故の現場だったのだろう。

けさの福島民報で、車を運転していたのは49歳の自称除染作業員と知る。「刃物で脅し車奪う/自称除染作業員 銃刀法違反容疑で逮捕/船引」。かなり荒っぽい行動を取った。見出しからはしかし、夏井川渓谷で逮捕されたことはわからない。

報道によると、男は最初、双葉郡葛尾村で千葉県ナンバーの車を運転し、警戒中の警察車両を見て高速で方向転換をした。不審に思った警察が付近一帯を捜索していたところ、田村市船引町内の国道を猛スピードで走行中、水田に突っ込んだ。このあと、72歳の女性の軽乗用車を刃物で脅して奪い、いわき市の夏井川渓谷まで逃走して事故を起こし、御用になった。

渓谷の空に県警ヘリが舞う、阿武隈高地を舞台にした“大捕り物劇”だった。さいわい人的被害はなかったようだ。続報が待たれる。

2013年11月17日日曜日

クロマツは脱水して枯れた

いわき地域学會の第291回市民講座がきのう(11月16日)、いわき市文化センターで開かれた=写真。講師は理学博士の湯澤陽一同学會顧問で、プロジェクターを使って、「東日本大震災に伴う大津波が福島県の海岸植物に与えた影響について」話した。

地域学會には自然部会がある。年に1回、市民講座を兼ねて阿武隈山地研究発表会を開いている。今年は阿武隈の大地の東端に生育する海岸植物に焦点を合わせた。湯澤さんは東日本を襲った津波の高さ、地震による地盤沈下、海岸林・絶滅危惧種への影響などを、わかりやすく解説した。

相馬・松川浦のコハマギクは津波で流失した。いわき・三崎海岸のハマギク、同・小浜海岸の崖に生えていた珍種ヒメオニヤブソテツも同じように消失した。

それだけではない。いわき市の新舞子海岸が唯一の自生地だったマツバラン、津波前に確認される産地は松川浦だけだったハマハナヤスリ、松川浦・四倉町(仁井田)・新舞子浜(藤間)からの記録があったハマカキランも、津波で消失した。新種のハッタチアザミは自生地2カ所のうち、1カ所が津波で消失した。

津波をかぶった海岸のクロマツはやがて茶髪になり、立ち枯れた。そのメカニズムは、という質問に、湯澤さんは塩分の浸透圧の問題をあげた。津波が運んできた塩分を過剰に摂取したために、クロマツが脱水症状をおこしたのだ。

糠漬けと原理は同じだろう。キュウリを糠床に入れると、塩分の浸透圧が作用してキュウリから水分が抜け、代わりに酸味・風味がキュウリにしみ込む。陸前高田市の「奇跡の一本松」も、そうして次第に枯れたのではなかったのか。

タブノキは、そのへんは強いらしい。一部枝が枯れるものもあったが、幹の途中から芽を出すなどして回復している。ツワブキもそうだ。

より詳しく、正確に津波と海岸植物の関係を知ろうと思ったら、いわき地域学會の『高久・豊間地区総合調査報告書』(2013年3月発行)を手に取ってほしい。湯澤さんのチームによる調査研究報告が載っている。

2013年11月16日土曜日

小春日の産卵

その虫に気づいたのは11月2日昼、首都圏からの被災地ツアーの一行を自宅前で待っていたときだ。すぐ家の周りの生け垣をチェックすると、いた。3センチほどのミノウスバの成虫が盛んに飛び交い、マサキの枝先に卵を産みつけていた=写真

ミノウスバは「蓑薄翅」と書く。胴体が黒とオレンジ色、翅が半透明の小さなガだ。幼虫はマサキやニシキギ、マユミなどの新芽を食べる。ニシキギ科の植物にとっては厄介なガだ。わが家の生け垣では毎年、小春日のころ、ミノウスバの交尾・産卵がみられる。

マサキの枝先に産み付けられた卵はそのまま冬を越し、新芽が膨らみ始める春の終わりごろに孵化する。幼虫は最初、かたまって新芽を食べているが、成長するにつれて木全体に散らばり、さらに激しく新芽を食べる。やがてマサキを離れ、石の裏などに繭をつくって蛹化し、晩秋に羽化して成虫になり、再び産卵が始まる――というのが、このガの生活環だ。

義父が生きていたころは、生け垣の手入れも行き届いていた。人間の背丈ほどに刈り込まれていた。今は2階のテラスに触れるまで伸びている。家の主が剪定を怠ければ怠けるほど、ミノウスバには都合がいい。

予防策は簡単だ。産卵が終わったころを見計らって、その部分だけを剪定する。しかし、毎年、いつかやろう、いつかやろうと思いながら、忘れてしまう。

で、春の大型連休のころ、生け垣の新芽が食い荒らされて初めてミノウスバの孵化に気づく。幼虫がかたまりになっているうちは枝先を切るだけですむが、木全体に散らばったら手に負えない。何年かに一度は大発生し、丸裸にされる。

人がいてもこうなのだから、人の気配が消え、手入れが行われなくなった家のマサキの生け垣、庭のニシキギは、ミノウスバの格好の温床、食堂になるだろう。被災地ツアーは、そうした細部に宿る変化にも目がいくと、より深く、重く、豊かなものになるにちがいない。

2013年11月15日金曜日

寒波到来

なんとなく予感がした。きのう(11月14日)午後、街からの帰りに夏井川の堤防を利用した。いるわ、いるわ! ハクチョウ=写真=がざっと100羽、新川との合流点で羽を休めていた。

夏井川は阿武隈高地の主峰、大滝根山の南面が源流だ。石灰岩地帯からしみ出た水は南東へ67キロ下って太平洋に注ぐ。その下流域、いわき市にはハクチョウの越冬地が3カ所ある。上流から小川・三島、平・中平窪、平・塩~中神谷で、真ん中の中平窪が越冬地としては最も古い。

ここ何日か、朝8時前後になると、わが家の上を、つまり中神谷の里を「コー、コー」と鳴きながら、ハクチョウが通過していく。かなりの数が本拠地・中平窪に飛来した証拠だ。

とはいえ、日中、夏井川の堤防を通ると1羽もいない。河口、あるいは四倉の仁井田浦へ向かったのか、灯台に近い南の滑津川を目指したのか――過去に羽を休めていたところを思い浮かべるが、確かめるためだけに車を飛ばすほどヒマでもない。

この秋、塩~中神谷の夏井川にハクチョウが飛来したのは、10月10日だった。飛来初期のハクチョウは落ち着かない。以後、姿の見えない日が続いた。初飛来から1カ月後、今週に入ってすぐ会津と中通りに初雪が舞った。寒波が到来した。ハクチョウたちが一気に飛来した。

この冬初めてのマガモ、この冬初めてのツグミ、この冬初めての……。鳥見人(トリミニスト)には楽しみ多い季節になった。

同じ冬鳥、ジョウビタキの雄の「ヒッ、ヒッ」は、11月2日、旧警戒区域の双葉郡富岡町の内陸部、主要地方道いわき・浪江線(山麓線)そばの農家の庭で聞いた。頭上には留鳥のオオタカと思われる猛禽が舞っていた。人の気配が消えた双葉郡ではネズミが繁殖しているという。それを狙っていたのだろうか。

ともあれ、ハクチョウが大挙飛来したことは、白菜を漬ける季節になったということでもある。そろそろ糠床を眠らせよう。

2013年11月14日木曜日

全体除染

夏井川渓谷にある隠居(無量庵)=写真=の除染作業が間もなく行われる。2月中旬に、いわき市から業務を受託した業者が放射線量を測定した。4月中旬には、データとともに除染計画作成のための範囲確認をしたことを告げる「事前調査報告」の文書が、玄関のすきまから差し込まれていた。それが始まりだった。

ほぼ半年後の10月上旬、作業を実施する共同企業体からの「お知らせ」が無量庵に届いていた。今は月に1~2回行くだけだから、半月~1カ月遅れで文書を見ることになる。市役所に用事があったついでに、原子力災害対策課を介して自宅に連絡をくれるようお願いした。

間もなく担当者がわが家へやってきて、除染作業の中身を説明した。それによると、庭の土のはぎとり・客土、雨樋の清掃、植栽の剪定・除草、芝刈り、コンクリート構造物と側溝・水路の高圧洗浄、砕石のすきとり・入れ替えをする。

無量庵は義父が土地を借りて、平の街なかにあった他人の家を譲り受け、解体・運搬して再建した。建物の所有者のほかに地権者の同意が必要だという。それはそうだ。

10月末には、仮置場利用開始のめどが立ったので、日程などの打ち合わせに来たが留守だった、連絡を――という文書が無量庵に差し込まれていた。だから、自宅の電話番号を教えたのではないか、と文句をいってもしかたがない。11月中~下旬に作業を予定している、とあった。それと前後して地主さんの同意をもらい、自分でも同意した。

10戸ほどある溪谷の集落では、「全体除染」が行われるのは無量庵だけである。ほかの家は「部分除染」にとどまった。敷地の放射線量が平均で毎時0.24マイクロシーベルトと、年間1ミリシーベルトの目安になる0.23マイクロシーベルトをわずか0.01超えたための措置だ。

折からいわき市議会10月定例会が開かれ、一般質問のなかで市北部4地区(久之浜・大久、四倉、小川、川前)の除染状況が明らかになった。無量庵は小川にある。

新聞報道によると、対象住宅約8500軒のうち①地上1メートルで住宅地内の平均が毎時0.23マイクロシーベルトを超える全体除染は約2600軒②0.23以上の地点が1カ所でもみられた部分除染は約4600軒――で、9月末までに除染が完了したのは約800軒(11%)にすぎない。

渓谷には小集落が点在している。昔から交流のある隣の行政区が仮置場の設置を了承し、さらに除染物の搬入を認めてくれたからこそ、作業が進められる。感謝しないといけない。

2013年11月13日水曜日

縦型信号機

会津へ行って最初に気づくのが、交通信号機が縦長になっていることではないだろうか=写真。信号機は横長だけではないのだ、と教えられる。

2年前、東山温泉でのミニ同級会へ出かけたときが、そうだった。土曜日(11月9日)、同じように仲間の運転する車で磐越道から会津若松市内の一般道へ下りて、そのことを思いだした。

5年前の春には鶴ヶ城の隣にある県立博物館へ出かけている。そのときにも縦型の信号機を見たはずだが、記憶はあいまいだ。高速バスで行ったからかもしれない。いや、単に記憶が溶けただけか。

雪国仕様なのだろう。横長だと、雪が積もって信号が見えにくい。折れやすい。それで、着雪量が少なくなるよう縦型にしている、とネットにあった。

会津、雪――とくれば、浜通りからの原発避難者を思い出す。2年前、双葉郡の老夫婦が会津から近所の戸建て住宅に引っ越してきた。会津では借り上げ住宅(アパート)に住んでいた。うるさかった。ひと夏過ごしたが、背中が焼けるように暑かった。冬は1メートルも雪が積もる、と聞いて、秋のうちにいわきへ移り住んだ。今は地域に溶け込んで暮らしている。

きのう(11月12日)は冬型の気圧配置になった。いわきでも気温が上がらなかった。鼻水がこぼれた。きょう未明の空には星が輝いていた。オリオンが頭上にあった。風も少し吹いていた。

会津に住む避難者は、これから3度目の雪かき、雪道歩きが始まる。順応しやすい子どもたちはすっかり「雪国っ子」になったか。

冬は、鉛色の空が続く会津と違って、浜通りの空は晴れて明るい。こちらの信号機は横長ですよ――などと呼びかけてみたくなるような季節を迎えた。

2013年11月12日火曜日

国道118号

国道118号は起点が水戸市、終点が会津若松市だ。福島県南の矢祭町や棚倉町、石川町などを北上し、須賀川市から西へ向かって奥羽山脈を越えると、会津若松市の南方・下郷町に出る。

11月9~10日の会津・芦ノ牧温泉でのミニ同級会では、いわき組は初日:いわき~磐越道~国道118号~芦ノ牧温泉、2日目:大内宿~国道118号(下郷町=写真・岩瀬郡天栄村・須賀川市)~同49号~いわきと、行きと帰りで違うルートを利用した。

ふだん自分でそうしているように、「違う道を帰ろう」などとハンドルを握る同級生に言うわけにはいかないが、今回は国道118号を利用して郡山市へ帰る同級生がいた。それに引っ張られるようにして、天栄村・須賀川市と未知の山越え道路を通ることができた。

南会津は山が深い。須賀川へ抜ける道路沿いの山も深い。渓流から一気にせり上がっている。V字谷である。しかし、片側の斜面がなだらかなところもある。氷河でえぐられたノルウェーの山里に似る。派手な色の別荘が立ち並べばおとぎの国――目が喜ぶと思った。

名前がユニークな「蝉トンネル」を抜けると、間もなく天栄村の岩瀬湯本温泉の看板が見えた。「湯本」の名がつく温泉は岩手、福島(いわき、岩瀬)、栃木(那須)、神奈川(箱根)、山口(長門)の6カ所だろうか。いわき湯本温泉にからめて一度調べたことを思い出す。

某政党機関紙の日曜版に、天栄村を舞台にした田舎暮らしの漫画「今日もいい天気」が載った。作者は山本おさむさん。面白かった。その続編が去年、同じ日曜版に連載された。自身の原発事故体験と村の稲作農家の取り組みをつづっていた。毎回、待ちわびるようにして読んだ。

新聞やネットで知ったが、各地で上映されている長編ドキュメンタリー映画「天に栄える村」も、同じ稲作農家の取り組みを追った作品だ。

浜通りの双葉郡にある原発を起点にすると、東の阿武隈高地が放射能雲に対して最初の壁になり、西の奥羽山脈が2番目の壁になる。その壁がどう影響したかはもちろん、地形や風向き、雨雪の有無によって異なる。車の助手席に体を沈め、国道118号沿いに広がる村の風景を眺めながら、阿武隈高地の西側にあるわがふるさと(田村市常葉町)の僥倖を思った。

けさ(11月12日)、福島県内道路のライブカメラをのぞくと、国道118号・天栄村鳳坂峠は路肩が雪で白くなっていた。フエイスブックによると、田村市でも11日夜には初雪が舞った。会津も初雪。山の向こうのそのまた向こうでは、紅葉から銀世界へと風景が変わりつつあるようだ。

2013年11月11日月曜日

紅葉の会津へ

会津若松市の芦ノ牧温泉で一夜、同級生7人が酒杯を傾けた。東日本大震災から8カ月後、「風評被害に苦しむ観光地を支援しよう」と東山温泉を訪れた。ちょうど2年ぶりの会津行だ。ホテルの対岸の紅葉が見事だった=写真

いわきからは私と幹事役の2人、あとは郡山市と首都圏からの参加だった。いわき組は磐越道を利用し、翌日、全員で大内宿を再訪したあと、国道118号(須賀川市)~国道49号経由で帰ってきた。

前にも書いたことだが、震災前と後とでは風景が違って見える。風景はいつも“情報”で満たされているのに、それに気づかないか、鈍感だった――その典型が送電鉄塔だ。

福島県南部の阿武隈山中には、何系統か東電の送電鉄塔が立つ。いわき市三和町。頑丈な鉄塔に支えられた送電線が磐越道をまたいでいる。今は双葉郡にある原発からの送電線だと、はっきり認識するようになった。

大内宿。丘の中腹から宿場を見下ろしたら、その奥のスカイラインに送電鉄塔が見えた。こちらはJパワー(電源開発)のものだろうか。近世と近代が同じ視野のなかにある矛盾にとまどった。

今回も車の運転は幹事まかせだった。助手席でのんびり景色を楽しんだ。初日夕刻、会津若松市内に入るとすぐ大熊町の応急仮設住宅の表示が目に入った。そうだ、大熊町の人たちが避難しているのだ。町役場の後輩もここで頑張っていたのだ――ゆるんでいた気持ちがシャンとなった。

奥羽山脈の東側、須賀川市では「除染」の表示が飛び込んできた。須賀川の除染問題は、浜通りにはほとんど伝わってこない。県南でも放射能に苦しめられている――そのことを痛感した。

地震にも遭遇した。11月10日朝7時38分。温泉のホテルで朝食の時間を待っていると、“めまい”がした。仲間も同じだったらしく、すぐ地震だと知る。かすかだが、長い揺れが続いた。とっさにいわき市の、そして原発の様子が気になった。震源は茨城県南部、筑西市で震度5弱だった。

帰宅してそのときの様子を聴くと、「怖かった」という。「心配になったけど、テレビで震度2と知ってホッとした」「なに言ってんの、心配ならなんで電話をくれなかったの」。地震の怖さは一人でいると倍になり、夫婦でいると半分になるらしい。