2023年7月31日月曜日

車外気温38度

                     
 「危険な暑さ」が続く。屋外だけではない。家の中でも熱のこもる場所がある。わが家では茶の間だ。

 何度も書いているが、6畳(西側)と4畳半(東側)の仕切りをなくし、西側に座卓やテレビ、カウチを置いている。そこで一日の大半を過ごす。

 店から帳場、そして東側の4畳半は玄関と直結しているので、南北に風が抜ける。ところが6畳の茶の間は、西側に押し入れと床の間、北側に壁があって、熱の逃げ場がない。南側からは庭の輻射熱が背中をあぶる。とにかく扇風機をかけっぱなしにするしかない。

拙ブログの記録によると、平成27(2015)年8月1日、外出から帰った夕方、茶の間の室温が電波時計で35度を示していた。わが家の室温が35度になったのは、いや35度に気づいたのは、近年ではたぶんこのときが初めてだ。

同30(2018)年8月25日も午後1時半ごろ、室温が35.3度に達した。このときは思わず北隣の部屋に退散した。午後3時過ぎには遠雷とともに、雨が大地をたたきつけ、32.6度まで室温が下がった、とブログにある。

しかし、なんといっても驚いたのは、令和2(2020)年8月11日。これもブログの記録だが、早朝からクラクラする暑さになった。ときおり、電波時計の気温をメモした。

9時過ぎ、室温はすでに30度を超えて32.3度に。2時間後の11時近くには34.2度。正午前には35度を超えた。

その後も小刻みに上昇し、2時半になると、たぶんわが家では初めて、36.0度に達した。3時直前に36.1度になったのがピークだった。

 暑さだけではない。セミの鳴き声も耳を射る。これも前に書いた文章をなぞると、こんな感じになる

わが家の庭では6月下旬から8月下旬にかけてセミが鳴き続ける。蝉しぐれのピークは7月下旬。早いときには、未明の4時過ぎに鳴き出す。最初はミンミンミーとつつましい。やがて日が高くなるとつんざくように、ミンミンミンミンミー、ミンミンミンミンミー……

合間に、ジリジリジリジリジリのアブラゼミ。闇に包まれたあとも、思い出したようにジリジリジリジリと鳴いたり、茶の間に迷い込んだりする=写真。

さて、もう一つ。去年(2022年)の晩秋、車をフィットからアクアに替えた。中央のメーターにいろんな表示が出る。その一つに、車の「外気温」がある。このごろは、車に乗るとまず、この気温表示に目がいく。

7月27日は午前中、市庁舎で会議があった。昼前に終わって、車に乗り込んで外気温の表示を確かめると、「38度」だった。

アクアの外気温センサーはナンバープレートの後ろ、地上30センチのところにあるらしい。アスファルトの駐車場だから、輻射熱が外気温をそこまで高めたのだろう。

暑さはこれからが本番。車の外気温表示が40度なんてことにならないといいが。とにかく意識して水を飲むようにしている。

2023年7月29日土曜日

やっぱり目には緑

                     
   眼鏡はだいぶ前から遠近両用だ。本を読むときには眼鏡をはずす――というのは、60代前半までの話で、今は眼鏡なしでは新聞も読めない。

 起きて寝るまで、日中はたいていノートパソコンを開いてなにかやっている。調べものと原稿入力。この二つだけで毎日、何時間にも及ぶ。これに読書が加わる。

 その間ずっと眼鏡をかけている。ときどき目の疲れを自覚する。そんなときには眼鏡をはずして、気分転換を兼ねて庭に出る。

 すると、不思議なことに目の緊張がほぐれる、庭木の緑を眺めるだけで目の疲れが癒される、そんな思いがわいてくる。

 この緑の効用は、日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行くと、よりはっきりする。畑で土いじりをする。眼鏡はかけない。体が疲れると対岸の森=写真=に目をやる。

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(山口素堂)という江戸時代の俳句がある。この句が示す初夏のころから、緑の森はいくら眺めても飽きない。そして、疲れない。

疲れないどころか、目の疲労がとれていくような感覚になる。夏は、やっぱり目には緑、これを実感する。

 その理由は――。ネットで答えを探ると、すぐウェザーニュースの解説が現れた。それを引用する。

 光の性質の一つに波長がある。人間の可視光線は380~780ナノメートル(色でいうと、紫・青~赤・オレンジ)の範囲の波長で、緑色はその真ん中あたりになる。

波長の長さが中間にあることが、緑色が目にいいとされる理由の一つだとか。波長の長いものや短いものより、目に負担をかけずに知覚できるのだそうだ。

目の仕組みも、もちろん関係する。人間は物を見るとき、「水晶体」(カメラでいえばレンズ)の厚みを変えることでピントを調節する。そのとき使われるのが「毛様体筋」という筋肉だ。

たとえば、近くの物を見るときには毛様体筋を収縮させて水晶体を厚くし、遠くの物を見るときには毛様体筋を緩めて水晶体本来の厚さに戻す。

スマホやパソコンを見続けたあと、外に出て庭木を見ると目が楽になったように感じるのは、この毛様体筋が緩むからだった。毎日、夏井川の堤防を散歩していたころ、こんなことをブログに書いた。

――パソコンの画面、つまり短い距離を見続けていると、目がぼやっとする。画面を見ているときには目をむいている、まばたきも少ない。これでは目が疲労を超えて過労になる。だから、翌日もぼやっとしているのだろう。

それで分かったことがある。散歩は、最初はメタボ対策だったが、眼球の疲れをほぐすためでもあるらしい。散歩を終えると、少しは頭がすっきりする。遠くを見ること、見る距離をさまざまに変えることが大事なのだ――。

 どうやら緑を眺めるのは、目の疲れを取ろうとする人間の本能なのかもしれない。そう、日曜日に渓谷の隠居へ出かけ、緑の世界に身を置くのも、半分は目を休めるためなのだ、きっと。

2023年7月28日金曜日

河川改良復旧事業

                     
 火曜日(7月25日)は、午前も午後も行政がらみの会議があった。午後は、夏井川水系河川改良促進期成同盟会の総会が、いわき市文化センターで開かれた。

 対面での総会は4年ぶりだ。「令和元年東日本台風」が襲来し、いわき地区は夏井川水系を中心に甚大な被害に見舞われた。関連死を含めると、死者は14人に上った。

 同2年からは新型コロナウイルスが猛威を振るう。対面での総会は中止になり、書面審議に切り替わった。

 総会のあとには、夏井川を管理する県いわき建設事務所が同川の改修事業について説明するのが恒例になっている。

 今年(2023年)は、テーマが「夏井川・好間川改良復旧事業について」で、令和元年東日本台風被害の復旧工事の概要を初めて、じかに聞いた。

 夏井川下流の平中神谷に住んでいるので、いわき駅前へ行くと、帰りは鎌田・平神橋~下神谷・夏井川橋間の堤防を利用する。

右岸を中心に、伐木、土砂除去が行われ、河川敷が運動場のように広がっているところがある。工事中のところもある。

そこだけではなく、上流・小川町までの夏井川も、支流の好間川も、毎週のように目にしている。

 ネットではそのつど、建設事務所のホームページを開いて事業の内容をチェックしてきた。伐木は字の通りなのでわかるが、掘削と除去となると、違いは何か、はたと困惑する。自己流の解釈が入り込んでしまう

今回のイラスト付きの説明でようやく整理がついた。河川断面図に「伐木・堆積した土砂の掘削」とあった。一般に土砂除去と考えていたところも掘削ととらえていいことになる。

 そして、この災害復旧助成事業の助成区間は、①夏井川=新川合流点から上流の小川町・両郡橋までの14.9キロ②好間川=夏井川合流点から新町田橋上流約1キロまでの6.6キロ――計21.5キロだという。

 「おや?」と思ったのは、街からの帰りに利用する堤防が、新川合流点を境に「助成区間」(上流)と「助成区間外」(下流)に分かれることだ。

市民にとっては一体的な河川工事と映るが、行政的には予算の関係で区別する必要があるのだろう。

 助成区間の北白土側は河川敷に畑が広がっていた。岸辺のヤナギの大木が切られ、畑の土砂が取り除かれた。あるときには畑の跡に軽トラが現れて驚いた=写真。

 それに先だって行われた新川合流点から河口まで、助成区間外の工事は、やはり伐木と掘削が主だった。今は右岸・山崎地区で護岸工事が行われている。

 左岸の塩地区は河川敷も狭く手つかずだが、ここも令和6年度以降、掘削工が行われる予定になっている。今回やっと、わが生活圏の事業の概略が頭に入った。

2023年7月27日木曜日

十六ささげのよごし

                     
 ありがたいことに、あちこちから季節の「お福分け」が届く。いわき市内だけでなく、双葉郡楢葉町の知人も自家栽培野菜を持って来る。昔野菜の「十六ささげ」と「小白井きゅうり」は、カミサンが関係している施設からのおみやげ。

 いわき地方の月遅れ盆に、新盆の家を回って慰霊する「じゃんがら念仏踊り」がある。その歌に「盆でば米のめし おつけでば茄子(なす)汁 十六ささげのよごしはどうだい……」というのがある。「よごし」はつまり、「ごまよごし」(ごま和え)。

 さっそく「十六ささげのよごし」=写真=が出てきた。ささげは、とにかくやわらかい。ごまは、カミサンがちょっといいものを買っておいた。それもあって、いちだんと香りが高い。

小白井きゅうりは、皮をむいてどぶ漬け(関西では糠漬けのことをいうようだが、福島県では塩水に漬けることをいう)にするのが一般的だ。が、すぐ食べたいので、皮をむいて小口切りにしてもみ漬けにしたものが出た。これも水分がたっぷりで口に合う。

 前に小白井きゅうりを糠漬けにしたことがある。どうもうまくいかなかったので、手に入るともみ漬けにする。

 楢葉のナスとピーマンは炒めものになって出てきた。これも採りたてなのでやわらかい。やわらかいことがおいしい要素の一つだと知る。

 トウモロコシも1本届いた。トウモロコシにはいろんな品種がある。どんなタイプなのかはわからないが、ゆでたのを三つに切って、いったん床の間に供えてから、夫婦と義弟の3人で食べた。小粒で甘かった。

 以上は「食べる人」としての話。夏の糠漬け、冬の白菜漬けは私がつくる。で、キュウリが届くと、すぐ糠床に入れる。そうしないと、キュウリのおいしさの基である水分が蒸発してしまうからだ。

 今の時期は半日で漬かる。3人だけなので消費量は限られる。まとめて漬けたときには、パックに入れて冷蔵庫で保管する。しかし、保管が長引くと味が落ちる。

 そのワケは……。糠床は毎朝、私が起きるとすぐかき回す。そうしないと、表面に白く産膜酵母が張る。ところが、糠床の状態によっては、かすかなシンナー臭がしたり、キュウリがそれに染まったりして後味が悪くなるときがある。

 それと同じ原理だろうか。つまり、キュウリに糠味噌が付いたままパックに入れていたので、保管が長引くにつれて糠味噌が腐敗し、味が劣化した?

 糠床そのものだったら、糠と食塩を加える、かき混ぜる回数を増やす、唐辛子を投入する、といったことで、なんとかしのぐことができる。

 パックで保管するだけなら、水で糠味噌を洗い流す――。残った2本をそうして保管したら、少し味の劣化が止まった感じがする。

 糠漬けは保存食ではない。今度まとめて漬けたときには、糠味噌をきれいに洗い流してパックに入れるとするか。

2023年7月26日水曜日

バトンタッチ

                      
 いわき地域学會の代表幹事に就いたのは、平成22(2010)年2月だった。翌年3月、東日本大震災と原発事故が起きる。直前に地域学會の定時総会が開かれた。

鹿児島県霧島市にある新燃岳(標高1421メートル)の噴火が収まらなかった。東麓には宮崎県高原町(たかはるちょう)がある。

総会後の懇親会で義援金を募り、後日、同町が開設した義援金受付口座に郵便局から振り込んだ。

それからほどなく、東北の太平洋側が大震災に見舞われる。沿岸域は大津波に飲まれ、福島県浜通りでは相双地区を中心に原発避難を余儀なくされた。

地域学會の活動も秋まで休止した。活動再開後は、「地域を総合的に研究する」目的に、新たに「地域復興に協力する」が加わった。

その延長で、『高久・豊間地区総合調査報告書』(2013年3月)や『熊川稚児鹿(しし)舞が歩んだ道――福島県双葉郡大熊町』(2015年3月)が刊行された。

『高久・豊間――』は最初、高久地区だけだった調査範囲を豊間地区まで拡大、新たに「東日本大津波が新舞子浜海浜植物に与えた影響」「東日本大震災津波被害報告」「私記録(日記)『私の東日本大震災と避難所生活』「いわき市平・豊間の獅子舞」の、震災関係論考4本を加えた。

『熊川稚児鹿舞――』は、夏井芳徳副代表幹事(当時)が原発事故で全町避難を余儀なくされた大熊町の伝統芸能に焦点を当て、その歴史や保存会の組織・活動などを調査し、併せて原発事故に伴う休止・復活までの足跡を追った。どちらもサントリー文化財団の助成を受けた。

大災害はその後も続く。「令和元年東日本台風」がいわき市を襲う。さらにその翌年からは新型コロナウイルス感染症が流行し、日本でも3年にわたって「パンデミックの嵐」に巻き込まれた。

地域学會の活動の柱は年10回開催する市民講座だが、会場の公共施設が閉鎖・再開を繰り返すのに連動して、これも延期・中止を繰り返した。

それでも、ようやく「ウィズコロナ」の見通しがたつようになった。今年(2023年)は4年ぶりで対面の総会を開き、役員改選で代表幹事のバトンを夏井副代表幹事に渡すことができた。

私が代表幹事を引き受けたときには61歳だった。それが今は74歳だ。41歳から54歳、あるいは51歳から64歳と違って、心身の衰えは否めない。

事務局はこれまで通り拙宅に置く。会への書類などはその都度、新代表幹事に連絡する。ということで、先日、新代表幹事の市民講座が開かれ、新年度の第一歩を踏み出した=写真。

「相談役」になったとはいえ、今まで通り事務局の補助として動くことには変わりがない。これも仲間の「生涯研究」に触れていたい、という思いがあるからだ。

2023年7月25日火曜日

朝めし前

                      
 日曜日だけが暑いわけではないが……。6月後半から日曜日になると、酷暑が続く。東北南部の梅雨が明けた7月22日、カミサンと相談して、翌日の日曜日23日は起きるとすぐ夏井川渓谷の隠居へ出かけ、「朝めし前」には家に戻ることにした。

 早朝、隠居で土いじり。帰宅して家事。そのあと、ゆっくり図書館と美術館へ――。そんな予定を立てて、朝6時半に家を出た。やはり、この日も快晴だった。

 隠居へは7時に着いた。定植してからほぼ1カ月になるネギに最初の追肥と土寄せをする。が、ネギ苗がどこかわからないくらいに草が繁茂している。そのおおかたはイネ科のメヒシバだ。

 この草がメヒシバとわかったのは、おととし(2021年)の秋、やはりうねにはびこったこの草を引っこ抜いていると、地面に緑色の芋虫が丸くなって転がり落ちた。

チョウの幼虫は食草が決まっている。緑色の体、黒い角、その角とつながる顔のへりの黒色を手がかりに検索すると、クロコノマチョウ(黒木間蝶)の幼虫だった=写真。この幼虫からメヒシバと特定できた。

繁殖力がすさまじい。5月に後輩が畑を含む庭をきれいに刈ってくれた。そのとき、メヒシバはどこに生えているのだろう、と思うくらい目立たなかった。

それからわずか2カ月で上の庭にある菜園の周りはメヒシバに覆われた。とにかく暴力的に繁殖する植物の一つにはちがいない。

ひとまずネギのうねのメヒシバを引っこ抜き、日当たりと風通しをよくする。それから畑の日陰に移動して生ごみを埋め、予定の作業を終了した。

ざっと1時間。汗がうっすらにじんだが、日中のようにシャツがグショグショになるほどではない。8時には隠居を離れた。

わが家へ戻るとすぐ風呂につかり、着替えて朝食をとる。いつもの日曜日だと、そのころ、隠居へ出かけるのだが、23日はそのまま家にとどまり、カミサンは家事、私は原稿を入力して一休みした。

図書館と美術館へは午後3時に出かけた。図書館のあるラトブへ向かい、銀座通りから地下駐車場へ入ろうとすると、歩行者天国が行われていた。車は通れない。

では予定を変更して、先に美術館へ――。平中央公園向かいの駐車場に近づくと、公園と地続きのアリオスで何かイベントがあるらしく、交差点も歩道も人の動きが激しい。駐車場は? やはり満パイで、入り口にカラーコーンが立っていた。

美術館は断念し、ラトブに戻って、今度は大通り側から駐車場にもぐりこむ。図書館はいつもの日曜日、しかも夕方に近い時間だというのに、親子連れでにぎわっていた。そうか、夏休み最初の日曜日だったのだ。

アリオスのイベントは何だったのか。あとで調べると、水樹奈々ライブが午後4時から行われた。彼女は声優・歌手・女優とマルチなタレントらしい。

たまたま開館時間と重なったために、アリオス周辺は人でごった返していた。「ウィズコロナ」の世の中はとにかく動いている。

2023年7月24日月曜日

平年より2日早い

                     
 梅雨入り・明けは季節現象として、ほぼ毎年、拙ブログで取り上げる。結果的にデータの蓄積になる。

 今年(2023年)の東北南部は、入りが「6月11日ごろ」、明けが「7月22日ごろ」と発表された。

 いずれもメディアの報道で知った。明けの表現で「おやっ?」と思った。「平年より2日早い」。これだけだ。いつもだと、平年のほかに昨年との比較が加わる。

 ニュースになった季節現象については、必ず気象庁のホームページで確かめる。昨年との比較がないワケは、ホームページを見てわかった。

ニュースで知る梅雨入り・明けは「速報値」だ。気象庁は、この速報値とは別に、秋になって実際の天候経過を踏まえて「確定値」を出す。去年の明けは「6月29日ごろ」(速報値)から、「特定できない」(確定値)に変わっていた。

去年はあまりにも明けが早いのに驚いた。そのときのブログを要約・再掲する。

――いやはや大変なことになった、という思いが強い。東北南部の梅雨が6月29日に明けたとみられる、と仙台管区気象台が発表した。6月の梅雨明けは観測史上初めてという。梅雨の期間もわずか14日間だ。

これまでの最短期間は2011年の18日間だった。というので、拙ブログで書いていないか確かめたら、同年7月12日付(「短い梅雨だった」)で取り上げていた。

やはり2011年のときも、梅雨の期間の短さに、「梅雨はなかったのではないか」と、2022年と同じ感慨を抱いている――。

ウェザーニュースは今年の梅雨明けについて、より踏み込んだ解説をしていた。それによると、多くの年は、太平洋高気圧が本州付近への張り出しを強め、梅雨前線が北上することで梅雨明けとなる。

一方で今年7月22日の場合は、梅雨前線が本州南部に南下して移動性高気圧に覆われることで晴天になった。

梅雨前線は7月23日ごろにいったん不明瞭になり、その後も前線の影響を受ける日が少ないとみられ、梅雨明けの発表になった。という。

梅雨とはいいながら、真夏のような天気が続いた。晴れて=写真、午後には雷雨がくる。個人的には、梅雨はとっくに明けたも同然だった。

東北南部で明けが特定できなかった年は、1951年以降では、1993年、1998年、2003年、2009年、2017年、2022年の6回ある。

さて、テレビだけでなく、活字メディアも平年との比較で終わっただけだが、夕刊いわき民報は「昨年は6月29日に観測史上最も早い梅雨明けが出されたが、9月に『特定できず』と改めた」と、昨年の経緯にも触れていた。

異常に早い昨年の梅雨明けを記憶している市民もいるので、こちらの記事がより親切ではある。

2023年7月22日土曜日

認知機能検査

        
 「高齢者講習等通知書」が6月中旬に届いた。ついに「あの検査」を受けるときがきた。

 72歳のときには、座学と実車指導だけで運転免許が更新できた。しかし75歳になると、「認知機能検査」が加わる。

 通知書には、75歳以上の免許更新までの流れとして、自動車学校に日時を予約し、認知機能検査と高齢者講習(座学と実車指導)を受ける、とあった。

 去年(2022年)5月、一定の違反行為をした75歳以上の高齢者は、実車指導の代わりに「運転技能検査」を義務付けられることになった。

こちらは「指導」ではなく「合否」が判定される。改正道交法の施行後、違反がなかったから、こちらの検査は免れた。

 誕生日の5カ月前に届いたので1カ月近く放置していたら、さすがに落ち着かなくなった。先日、若いときに免許を取りに通い、72歳の更新時にも利用した最寄りの自動車学校へ予約の電話を入れた。

「7、8月は学生で込むので、10月になります」。それでもかまわない。「日時が確定したら連絡します」というので、とりあえずホッとする。

それから2日後、10月どころか1週間後はどうですか、という連絡がきた。最初に提示された日時には用事が入っていた。次の日は? なにもない。それで急きょ、7月20日に受検することが決まった。

通知書には①複数の絵を見て、覚えて、答える検査②検査当日の年月日と時間を答える検査――の二つを実施する、とあった。それだけではイメージがつかめない。ネットで検索をした。

すると、それぞれ16種類・4パターンのイラストに出合った。兵器や楽器、体の一部、電気製品、昆虫、動物……などが、4種類ずつ4枚の紙に表示され、全体で16種類の絵を記憶することになる。

そのあとはいったん別の課題をこなし、再び絵に戻って、覚えている限り16種類の名前を書き出す。これが検査の主目的といっていい。

 警察庁のホームページにはイラストが公開されている。といっても、4パターンあるから、どれが出題されるかはわからない。とにかくパターンが四つあることを頭に入れておく。

 さて、検査当日――。自動車学校へ行くと、運転免許を取ろうというヤングとは別に、実車指導待ちのシルバー集団がいた。

 75歳以上の講習時間は認知機能検査を含めて3時間と告げられていたから、午前と午後に分かれて講習が行われたか。

 私のグループは8人だった。それぞれに交通安全読本が配られた=写真。あとでじっくり読んでほしいということなのだろう。

 認知機能検査が済むと座学に入り、併せて動体視力・夜間視力・水平視野の検査が行われた。自分の目が客観的にどんな状態にあるかを知るもので、結果は若い世代に比べると「劣っている」だった。

 とりあえずあと3年は運転ができる。日曜日の渓谷行き、アッシー君、米や回覧資料の配達などはこれまで通りだ。それができる暮らしを大切に思う。

2023年7月21日金曜日

谷側の道路が陥没

                      
 川の流れからいうと、山地の夏井川渓谷を過ぎて、平地の扇状地へと抜ける、その接続部といってよい。

 段丘にできた小さな平地の右岸に沿って夏井川が流れる。左岸域には水田と県道小野四倉線、JR磐越東線。そして、道路と線路のすき間に何軒か家が連なる。

水田の上流側は、いわき市四倉町から延びる福島県広域農道の終点部に変わった。まだ利用はできない。

 同市小川町上小川字高崎――。文字通り、段丘上の先端を示すような地名ではある。山は迫るが、渓谷の急な崖と谷はゆるくなり、尾根が低くなって平地に滑り込む。

 とはいえ、一部、渓谷の名残というのか、谷側の県道が何メートルものコンクリート護岸で守られているところがある。

その護岸を残したまま、道路の一部が陥没し、谷側の車線に転落防止柵と仮設の信号機が設置された=写真。

 それに気づいたのは7月前半の日曜日、夏井川渓谷の隠居へ出かけたときだ。その1週間前の日曜日には何ともなかったから、わずか数日の間に異変が起きたことになる。

 異変の原因は雨だろうか。データの分かる上流・川前、下流・平でも7月上旬は、それぞれ3日ほど軽い雨が降った程度だ。

 平地区では6月下旬(29日)、豪雨に見舞われた。この雨が小川町の高崎あたりまで及び、やがて道路が陥没する誘因になった、とはどうも考えにくい。

 ただ素人目にも不思議なのだが、谷側に設けられたガードレールと路肩はなんともない。道路からは見えないが、コンクリート護岸のどこか、下の方が破損して道路内部の土砂が流失したか。しかし、それもよくわからない。

 県道小野四倉線は渓谷の幹線道路である。山側は崖、谷側も崖になったり、川と同じ高さで並走したりしているため、絶えず落石や倒木、冠水、路肩崩落などの危険がある。

 東日本大震災が起きたときにはしばらく通行止めになった。隠居へは国道399号の横川地区から江田地区へと、母成(ぼなり)林道を迂回して出かけた。

 さらに、令和元年東日本台風では、小規模な土石流や落石、土砂崩れ、路肩崩落などが相次いだ。

 なかでも狭隘なのが、高崎から「地獄坂」を駆けあがり、江田へと向かう一帯だ。山側の急斜面には一部、ロックシェッドが設けられ、ワイヤネットが張られている。

そこの谷側に1カ所、路肩が崩れて何年か前からカラーコーンが置かれているところがある。最近工事が再開されたが、いまだにカラーコーンはなくならない。

そのうえ、高崎で陥没事故が起きたと思ったら、また1カ所、16日の日曜日に県道を通ると、竹ノ渡戸の隣、香後地内で谷側のガードレールが大きくへこんだところがあった。

最初、交通事故かと思ったが、車がぶつかったにしてはへこみが激しい。山側のガードを越えて大きな落石があったとしたら、痕跡があるはずだが、よくわからない。

怖いのは、気象災害が年々苛酷になっていることだ。渓谷の「小事故」がやがて「大事故」につながる「前兆」ではないことを祈るばかりだ。

2023年7月20日木曜日

たまねぎおろし

                     
 カツオの刺し身は、若いときにはにんにくおろし醤油で食べた。今はにんにくおろしにわさびを混ぜる。わさびの代わりに、しょうがとにんにくのおろしで食べる、という人もいる。

 先日、フェイスブックに知人がたまねぎおろしでカツ刺しを食べた話を載せていた。たまねぎおろしもありか――。

 7月に入るとほどなく、カミサンの知人から自家栽培をしている夏野菜のお福分けが相次いだ。インゲン、ピーマンなどのほかに玉ネギもそろったので、カミサンがてんぷらにした。

 てんぷらには大根おろしが付き物――。ところが、あいにくそれがない。「おろしはないけど」というので、「玉ネギをおろしたら?」。料理に詳しい知人のSNSで仕入れたばかりの情報を伝えると、「それもいいか」という。

 おろしに使った玉ネギは淡路島産とかで、また別の人からのお福分けだった。見た目は、少し黄ばんだ大根おろし、というところだろうか=写真。

 おろしそのものを口に含むと、甘い。同時に、生の玉ネギの辛みも口中に広がる。大根おろしとはやはり違う。が、味に深みと奥行きが出たような感じがする。

 麵つゆにとけ、てんぷらそのものの味にまぎれて、生のタマネギの辛さは薄れたが、消えたわけではない。

ネギの仲間、例えば春にノビルを味噌で生食したときの、のどの奥に残る刺激感、それと似たようなものがしばらく残った。

いつかは知人のように、たまねぎおろしでカツ刺しを試してみようと思う。最初はたまねぎおろしだけ、次はにんにくおろしも混ぜて。

それだけではない。今まで大根おろしで食べてきたキノコのあれこれ、例えば除染した隠居の庭に出る春のアミガサタケや秋のアカモミタケなどもたまねぎおろしとの相性を確かめたい。

食べ物、というより食べ方、料理は常に創造力が発揮される分野でもある。ドレッシングがそうであるように、おろしの世界も、私たち素人が参加できる、可能性に満ちた分野にはちがいない。

少しだけ、消費者ではなく生産者の方へ、あるいはその中間に立つ調理人の方へ踏み出して食べ方を考える。

『第三の波』を書いた未来学者アルビン・トフラーのいう「生産消費者(プロシューマ―)」と、これは響き合うかもしれない。

週末に土いじりを始めてから、自分を「生産消費者」と位置づけるようになった。「生産もする消費者」である。それを意識することで、プロの生産者、あるいは料理人の思いにも、純粋な消費者の思いにも共感できる回路ができたように思う。とにかく試してみる、それに尽きる。

2023年7月19日水曜日

日曜日は休む

                    
 平成19(2007)年秋にいわき民報社を辞めて3カ月がたったころ、若い仲間に誘われてブログを始めた。「新聞コラム」のインターネット版という認識で、「とにかく毎日、一本は書く」と決めた。

 以来14年余、旅行に出かける、夏井川渓谷の隠居に泊まる、といったとき以外は毎朝、ブログをアップしてきた。その数はだいぶ前に5000本を超えた。

 東日本大震災と原発事故が起きたときには、時をおかずに地震直後の様子をアップした。それから何日かは原発避難をした。体調を崩してしばらく休んだこともある。

 そういう大災害・病気はともかく、「一日に1回締め切りを持つ」のが習慣になってからは、日曜日も祝日も普通の一日になった。

この3年間、新型コロナウイルス感染症が世界的に流行し、日本でも緊急事態宣言が出された。いわきでは感染防止一斉行動がとられ、公共施設の休館や行事の中止・延期が繰り返された。

すると、主に地域の出来事を伝えるコミュニティペーパーは紙面を埋める記事が激減した。それを補うために、令和2(2020)年5月中旬、古巣のいわき民報で私のコラム「夕刊発・磐城蘭土紀行」が始まった。

古巣のために新しく書くことはできないが、ネットのブログをコラムとして紙面に転載することはできる――。つまり、ネットと活字の融合企画がスタートした。

しかし、いや、やはりというべきか、活字になったブログを読んでいるうちに、意識の逆転が起きた。ネットのブログを新聞のコラムに、ではなく、新聞のコラムとして書いたものをブログとしてネットに載せる。

会社へは行かないものの、新聞社の勤務体系に沿って、午前中に翌朝のブログを仕上げる癖がついた。

 いわき民報は日・祝日が休みだ。記事があふれるときには、「夕刊発――』ははずれる。いつしか、「日曜休刊」のシステムがこちらにも伝染するようになった。

 そのうえ、この危険な暑さだ。まだ梅雨は明けないのに、酷暑の青空が続く=写真。コロナ禍で休んでいた地域の行事も4年ぶりに再開されて、ブログを書くための時間がとれないときがある。

こうしたことが重なって、7月2回目の日曜日、ブログを休んだ。16・17日も暦に合わせてブログを連休した。

すると、火曜日の朝、故郷の兄から電話がかかってきた。「ブログを毎日読んでる。けさはアップされていたが、2日間載らなかったので……」。熱中症にでもなったのかと、心配したようだ。

熱中症はもちろんだが、シルバーの自覚も前より強くなってきた。とにかく無理をしない。かといって、休んでばかりもいられない。「日曜休筆」は、むしろリフレッシュできるいい機会、と考えている。

2023年7月18日火曜日

シルバー川柳

                                
 カミサンがシルバー川柳の本を読んでいた。すぐ読み終えたようなので、あとからパラパラやってみた。

 みやぎシルバーネット+河出書房新社編集部編『笑いあり、しみじみあり シルバー川柳 丘を越えて編』(同書房新社、2022年)=写真。

 仙台市で発行されている高齢者向けのフリーペーパー「みやぎシルバーネット」に、「シルバー川柳」欄がある。その投稿作品から構成されている、ということだった。

 年をとれば体のあちこちにガタがくる。なかでも、目や耳、歯を詠んだものはストレートに気持ちが伝わる。

・美女歯科に行く時いつもモンダミン(69歳)

・起きてから寝るまでおしゃべり口腔ケア(85歳)

・補聴器を耳栓したかという夫(71歳)

 歯は「親知らず」が1本欠けただけだが、若いときに何カ所か虫歯治療をしている。これ以上虫歯が増えないよう、朝だけでなく夜も歯を磨くようになったのは70歳を過ぎてからだ。

 右の耳は若いときから難聴気味だった。先日、カミサンが「セミが鳴いてる」といったが、右耳では感知できなかった。

五七五にはしないが、現実に「シルバー川柳」に投稿したいくらいの自ネタはある。でも、それをやるとたぶん、おかしくなるのでやらない。70年以上生きていると、いろいろあるのだ。

 ま、それはさておき、『シルバー川柳』には「昭和」の時代を伝える特集もある。シルバーにとっては少年・少女、あるいは青春まっただなかだったころの「真実」でもある。

・オーモーレツ テレビに近づきのぞいたよ(74歳)

・思い出すミッチーブームで沸いた日を(93歳)

・この足でおどった昔なつかしむ(92歳)

 昭和30年代、田舎の家庭にもテレビが普及する。きっかけは現・上皇夫妻の御成婚だった。そのころ高校生だった女性は「ミッチー」と呼んで熱狂した。私はまだ9歳。熱狂もせず、熱狂を理解することもなかった。

 しかし、その後、10代後半には、「ツイスト」という踊りを覚えた。「この足でおどった」のは、社交ダンスかツイストか。たぶん、ツイストだと思うのだが。

 さてと、「シルバー川柳」の延長で、「シルバーポエム」のようなものも紹介しておきたい。といっても、本人は詩を意識していたわけではない。自分のライフワークを語るとき、ついポエムに近づく。

 朝ドラ「らんまん」のモデル、植物学者の牧野富太郎の「語録集」を読んで、そんな印象を受けた。

「言葉と植物」編集班編『「好き」を貫く牧野富太郎の言葉』(青春出版社、2022年)を図書館から借りて読んだ。

 「もうこんな年になったとて/老人ぶることは私は大嫌いで、/何時(いつ)も書生のような/気分なんです」「家にたてこもっている人では/とてもこの学問ができっこない」

 植物研究はともかく、「老人」ではなく「書生」の心でいる、家に立てこもらない、というような覚悟は、なんとなくわかる。

別の言葉でいえば、「こどものような好奇心」を持ち続ける――それに尽きるのかもしれない。

2023年7月15日土曜日

軒下の小自然

        
 「こがねちゃん」が消えた。台所の軒下、地上70センチあたりに網を張り、やがて190センチほどのところに網ごと移動したコガネグモのことだ。

 6月28日にこの引っ越し行動をブログに書いたら、翌29日、コガネグモはさらに東側の屋根の下に移動していた。

 あまりに暑い日が続き、台所のガラス戸を開け閉めするようになると、網が緩んだり、元に戻ったりする。戸に網の一端をつないでいたためで、これでは「こがねちゃん」も居心地が悪い。

 引っ越して何日もたたないのに、今度はガラス戸の影響を受けない軒先に引っ越しを余儀なくされた。

ところが、試練はそれで終わらなかった。再度引っ越した日の午後2時ごろ、猛烈なにわか雨に見舞われた。福島地方気象台の記録によると、いわき市平では2~3時台に計23.5ミリの雨が降った。

雨上がりに軒下の「こがねちゃん」を見ると、姿がない。翌日も、翌々日も見たが……。どこかに網を張っている様子はなかった。

 それから何日かたって、カミサンから声がかかった。「こがねちゃん」が最初、網を張ったそばにパセリが植えてある。それを摘みに行ったら、異変に気付いた。「虫がいる!」

 パセリ、虫――とくれば、キアゲハだ。急いでパセリを見ると、やはりキアゲハの幼虫だった=写真。 

一昨年(2021年)の11月下旬、台所の軒下にパセリのポット苗を定植した。あまり手をかけなくても増えるというので、カミサンが重宝し、ときどき葉を摘んでは料理に使うようになった。

夏になると、花茎を40センチほどのばし、先端に小さな花をいっぱいつけた。すると、キアゲハの幼虫が卵からかえって葉を食べるようになった。それに気づいたのが、やはり去年の今ごろ。

そのとき、奇妙な動作に遭遇した。写真を撮るために、撮影の邪魔になる花茎をよけてカメラを近づけると、幼虫の頭部からニュルッとオレンジ色のツノが現れた。なんだ、これは?

すぐネットで調べ、さらに図書館からチョウの専門書を借りてきて読んだ。アゲハチョウ科の幼虫には、「臭角(しゅうかく)」という、通常は内部にしまわれている防衛器官がある。

身の危険が迫ったと感じたとき、このツノを内部から出して悪臭を発し、「敵」を遠ざけるのだという。つまりは、自分のそばまで接近してきた私の指に対して防御本能がはたらいたわけだ。

去年は、2匹の幼虫が葉を食べつくした。花も消えたから、あとは枯れるだけかもしれない。そんな思いがよぎったが、パセリはちゃんと生き残った。今年も立派に葉を茂らせた。

幼虫は最初、4匹だったのが、あとから順次かえったのか、計6匹になった。今は姿を消した「こがねちゃん」に代わって、キアゲハの幼虫を観察している。

大きいのは間もなく蛹になるとしても、まだ2センチほどの幼虫はどうなるか。蛹になる前にパセリの葉がなくなってしまわないか、少し心配だ。

2023年7月14日金曜日

キュウリのお福分け

                     
 家庭菜園でもキュウリの収穫が始まったようだ。まだ梅雨は明けない。が、連日の酷暑と雷雨で、インド・シッキム地方原産のキュウリはぐんぐん生長している。SNSでも収穫を始めたという情報が載り始めた。

 それを裏付けるように、同じ日に3人からキュウリのお福分けが届いた。近所の奥さん、カミサンの実家、そして車で5分もかからないところに住むカミサンの友達。

 本数はかぞえなかったが、合計すると10本以上はあったろう。これにスーパーから買ってきたばかりの数本が加わる。

 キュウリを栽培し、糠漬けを続けて“発見”したキュウリのうまい食べ方は、とにかく摘んだら(買ったら)「すぐ」糠床に入れる、あるいは「すぐ」料理に使う、だった。

拙ブログでもたびたび書いていることだが、同じ糠漬けでも大根とキュウリでは扱い方が異なる。

あるとき、冷蔵庫に置き忘れて水分が飛んだ大根を「捨て漬け」にした。一夜明けると、大根がしんなりしている。捨てるのはもったいない。食べたら、いい感じだった。

夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めたばかりのころ、食生活研究家でミュージシャンの魚柄仁之介さん(1956年~)の本を読んだ。

水分の飛んだ大根が台所にあった。それを漬物にした。たくわんをつくるとき、大根を干す。原理は同じ。水分が飛んでいる分、簡単に、しんなり漬かる――。以来、大根については、魚柄流糠漬けを実践している。

キュウリは大根とは逆に、水分を保った状態で漬ける。水分が飛ぶと、中が綿のように白っぽくなる。こうなると、食べてもまずい。

さて、目の前にドンと並んだキュウリをどうするか。私は5本を一度に糠床に入れた。あとはカミサンがいろいろアレンジした。

糠漬け=写真=は毎回食べる。これは、私が用意する。肥大したものは透き通るくらいの小口切りにしてキュウリもみにする。味噌汁にも入れる。ワカメとの酢の物も出た。

小さいものはざくっと切って、ニンニクと醤油、味醂で味付けをする。これは冷やすと、いい酒のつまみになる。生をスティックにして味噌で、あるいはマヨネーズで、というのはまだやっていない。

古漬けも今年(2023年)はまだ2、3本しか口にしていなかった。理由は簡単だ。自分でキュウリを栽培していないので、お福分けがあっても食べ切ってしまう。余らない。

浅漬けはキュウリのあおさを楽しむ。古漬けは逆に、あめ色になったところを小口切りにして水につけ、塩分を抜く。

浅漬けはシャキシャキ、古漬けはパリパリ。とにかく味に変化をつける。そうでもしないことには飽きがくる。次は何が出てくるだろう。

2023年7月13日木曜日

午後は雷雨に

                      
 酷暑が続く。7月12日には福島県にも「熱中症警戒アラート」が発表された。今年(2023年)初めてだという。その中を、マスクをして歩いて事業所周りをした。

 4年ぶりに地区の体育祭が再開される。事業所から協賛広告を募り、競技の最後に大抽選会を開く。

開催は9月最初の日曜日だが、プログラムのチラシ製作・配布から逆算して、この日に事業所周りをしないと間に合わない。

 区内会の会計さんとともに、前回、協賛広告を出してくれた事業所を訪れる。その場で協賛金を出してくれるところもあるが、だいたいは1週間後、また訪ねて集金するようになる。

 日差しが強いうえに、道路からの輻射熱が体を射る。事業所を訪ねたついでに小休止をしたり、建物の日陰で汗をぬぐったりした。冷たいお茶を出してくれるところもあった。

 ざっと1時間、20カ所ほどを回り終えると、着ているものがぐしょぐしょになった。こんなときには水風呂につかり、体のほてりを冷まして着替えをする。そして、とにかく水を飲んで横になる。

 午後になると、今度は雷雨がやって来た。このところ、連日、雷注意報が発表される。朝からカッと照りつけていた太陽がいつの間にか雷雲に隠れ=写真、たちまち雨を降らせる。

 平では10日、夕方から宵にかけて雷雨になり、11日も午後2時、3時台に雷雨が来た。そのつど、カミサンと手分けして1階と2階の窓を閉める。11日には2階の物干し場に干してあった布団の取り込みを忘れて濡らしてしまった。

 翌12日。カミサンから「物干し場もちゃんと見て!」と念を押される。「夕立」には早い午後1時過ぎ、やはりいきなり降り始めた。物干し場のふとんを取り込んだが、少し雨に濡れた。

 雷雲が現れると、パソコンで福島地方気象台のホームページを開き、「防災気象情報」をクリックして、「雨雲の動き」を見る癖がついた。

 いわきの上空に雨雲が来ているかどうかをリアルタイムで確認し、おおよその見当をつける。いったん雨脚が弱まったと思っても、次の雨雲が控えている。そんなときには、閉めた窓をすぐには開けない。

 前にも書いたことだが、私が小学校低学年のころ(つまり昭和30年代前半)、阿武隈の山里では夏、よく夕立がきた。

夕立は夏休みの記憶と結びついている。川で水浴びをして家に帰ると、たびたび雷雨がやって来た。

すると、店をやっていた両親に代わって、祖母が孫を指図して家の雨戸を閉めさせ、電気を消して蚊帳のなかに避難するようにいった。

仏壇の線香立てを廊下に持ち出し、線香に火をつけて雨戸のすき間から煙を外へたなびかせる。「雷様(らいさま)」よけのまじないだった。

 このごろの雷雨続きに、子どものころの夕立を思い出したが、もうまじないを信じるトシではない。代わって、雷鳴を気にしながらパソコンで「雨雲の動き」を見る。そんなふうに変わった。

2023年7月12日水曜日

外来のカメの話

                     
 日本野鳥の会いわき支部の元事務局長・峠順治さんから、支部報「かもめ」第159号(2023年7月1日発行)と、峠さんがアカミミガメに関してまとめたレポートのコピーをいただいた=写真。

 支部報に、いわき地域学會の仲間でもある鳥海陽太郎さんが「ミナミメガダカ」について書いている。

 メダカはメダカではないのか。ミナミメダカって? まずはミナミメダカの情報を探る。アクアマリンふくしま(小名浜)に「BIOBIOかっぱの里」がある。そこにミナミメダカが展示されている。

 解説によると、日本国内に分布するメダカは長い間1種類とされていた。しかし、遺伝子レベルの研究が進み、形態の違いから「キタノメダカ」と「ミナミメダカ」の2種類に分けられた。福島県内には両種が分布する。

アクアマリンは小名浜にある。で、BIOBIOかっぱの里ではいわきのメダカのミナミメダカを展示している、というわけだ。

 鳥海さんは、ミナミメダカが環境省では絶滅危惧Ⅱ類、ふくしまレッドリストでは絶滅危惧ⅠB類にランクされている希少種であることを紹介しながら憂慮する。

「いわきの水辺は、卵胎生熱帯メダカ『グッピー』が温泉地の水域に拡散した経歴のある土地柄なので、いわきの『ミナミメダカ』の遺伝子汚染はすでに始まっている?」

 峠さんは、鳥海さんの文章に触発されて、アカミミガメによる在来生物への影響について振り返った。

 2001年6月に発行された支部報「かもめ」第48号に、定例探鳥会の報告が載る。そのとき、夏井川河口に隣接する後背湿地に体長20センチと30センチのミシシッピーアカミミガメがいた。

福島県は今年(2023年)3月、県内に生息している外来種をまとめて公表した。「ふくしまブルーリスト」という。

リストに掲載された動植物は641種にのぼる。そのうち、自然環境への影響が大きい「県侵略的外来種」は101種だ。

この101種は影響度の高い順から、緊急対策外来種18種重点対策外来種49種その他の総合対策外来種21種産業管理外来種13種――に分けられる。ミシシッピーアカミミガメは緊急対策外来種に入る。

2001年の時点で、峠さんらは2匹のアカミミガメは雌雄と思われる、家庭でペットとして飼われていた個体が逃げ出したのか、飼育に飽きるか手に負えなくなって放されたものだろうとしつつ、こう警鐘を鳴らした。

「この貪欲な肉食性の外来のカメが、いわきの自然を豊かに残すあぶれ沼で繁殖しようとしているのは、由々しき問題である。早急な対策が望まれる」

それを起点に、白水阿弥陀堂の池のハスとアカミミガメの関係、新川で特定外来生物のカミツキガメが捕獲されたことなどを紹介した。

カミツキガメに関する拙ブログを一部引用していることから、こちらにもコピーが届いたというわけだ。身の回りには植物も含めて外来生物があふれている――そのことをあらためて思った。

2023年7月11日火曜日

危険な蒸し暑さ

                     
 7月9日の日曜日は、夜明けに雨が降ったあと、曇ったり晴れたりしながら気温が上昇した。朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけたが、風がそよとも吹かない。これにはこたえた。

 日陰になっている畑のへりに生ごみを埋め、周囲に繁茂している草を少し引っこ抜くと、たちまち汗みどろになった。

 時間にして1時間弱。井戸水を飲みながらの土いじりだが、どうも今までとは暑さが違う。午前中はこれで終わり、あとは午後に――と決めたものの、午後もそのまま隠居の中で過ごした。

大気の底面(宮沢賢治のことばでいえば、「気圏の底」)、つまり人間が暮らしている大地の表面が、この日は朝から蒸し風呂のようだった。

土いじりを少ししただけで隠居にこもったものの、室温も30度弱だ。谷風が吹けば、扇風機代わりになるが、その風がない。扇風機をかけても、熱があまり逃げない。結局、横になっても睡魔は下りず、目をつぶっているだけだった。

「そろそろヤマユリが咲き出すかも」。朝、わが家から隠居へ向かいながら、頭にヤマユリの花が思い浮かんだ。

今年(2023年)は植物の目覚めが早い。渓谷の「花ごよみ」も例外ではない。4月のアカヤシオが3月に咲き、5月のシロヤシオが4月に咲いた。

渓谷を縫う県道小野四倉線沿いのヤマユリは例年、7月後半に咲き出す。ほかの植物同様、ヤマユリも早めに咲くのではないか。そう期待しながら進むと、ハクチョウが越冬する夏井川(小川町)の山側で一輪、ヤマユリが開花していた。

平地で咲いているなら渓谷でも――。つぼみが白く変色し、今にも咲き出そうとしているヤマユリがあった。咲き出したばかりのヤマユリもあった=写真。

やはり、早い。きょう(7月11日)はそれから3日目。もう至るところで花が咲き出し、「ヤマユリ街道」になったことだろう。

ヤマユリの花からエネルギーをもらったのはいいが、あまりの蒸し暑さだ、じっとしているだけでも頭が重い。思考力が落ちている。

夜も蒸し暑くてよく眠れなかった。頭がモワッとしているのはおそらく睡眠不足だからだろう。結局、扇風機をかけてじっとしているだけで一日が終わった。

危険な蒸し暑さ――。若いときは、そんな認識はなかったが、加齢と温暖化が進んだことで、今はそれを実感するようになった。

「福岡県と大分県に大雨特別警報」。月曜日は朝からNHKが特番で九州北部の大雨情報を伝えた。最近、よく耳にする「線状降水帯」、これが発生しているということだった。

いわきでも「令和元年東日本台風」の際、初めて大雨特別警報が発表された。山間部の三和地区では、2日間で総雨量448.5ミリを記録した。主に夏井川水系で被害が続出し、9人が亡くなった。

九州北部ではいくつもの河川で氾濫が起こった。テレビが伝える龍のような濁流を見ながら、あのときの記憶がよみがえった。

2023年7月10日月曜日

『ラジオと戦争』

  図書館の新着図書コーナーでその本を見たとき、内容は想像がついた。アジア・太平洋戦争が起きると、新聞とラジオは「大本営発表」を垂れ流すようになる。そのラジオ版だろう――。

 『ラジオと戦争――放送人たちと「報国」』(NHK出版、2023年)=写真=が、本のタイトルだ。著者は大森淳郎。名前に記憶があった。

東日本大震災と東電福島第一原発事故が起きた直後、放射線量による汚染状況が全くわからなかった。

 事故が起きるとすぐ、NHKのETV特集取材班が学者とともに調査・取材に入る。そして、事故から2カ月後、ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送される。人々はこのとき初めて具体的な汚染状況を知った。

のちに取材班の仕事は『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年刊)にまとめられた。

 取材班の一人だった大森さんはその後、仙台放送局に移り、そこでもドキュメンタリー番組を作り続けた。

 あのとき――。飯舘村の南隣にある浪江町赤宇木(あこうぎ)の住民は、高濃度に汚染されながらも、ほったらかしにされたままだった。

たまたま通りかかったNHKのETV特集取材班によって、高濃度汚染が集会所に避難している人々に伝えられた。

 その縁もあって、大森さんは、突然、「帰還困難区域」になった赤宇木の取材を続ける。平成27(2015)年には、<東北Z>で「100年後の誰かへ――浪江町赤宇木(あこうぎ)・村の記憶」戦前編、同戦後編が放送された。最後に流れる製作スタッフの字幕に大森さんの名があった。

 さて、本題。大森さんが『ラジオと戦争』で取り上げた放送人の一人に多田不二(1893~1968年)がいる。

多田は詩人でもあった。茨城県生まれで、学生時代、磐城平の山村暮鳥と文通した。暮鳥の仲間の萩原朔太郎、室生犀星らとも交流があった。免疫学者で能作者の故多田富雄の大叔父でもある。終戦をはさんでNHK松山放送局長を務めた。

ラジオは大正14(1925)年に放送が開始された。日本放送協会の前身、東京放送局がそれで、翌15年3月、新聞記者経験のある多田が入局し、講演・講座番組を担当する部署に配属された。

NHK博物館などに残る資料から、戦時下、組織人として「国策放送に同化してしまった」多田の仕事が明らかにされる。

「多田不二は戦争協力詩を書かなかった稀有な詩人である。だがそれは、多田が戦争に協力しなかったことを意味しない。ラジオ講演によって『一億国民の精神的団結を計り、長期の総力戦を遂行させ』ようとしたのであり、それは一編の『戦争に協力する詩』以上に国民を戦争に動員する力となったことだろう」

 詩人としての多田と日本放送協会職員としての多田の葛藤はあったとしても、結局は時流に沿う道を選んだ。人間はかくも弱い。いや、国策は人間の良心をも飲み込むのだと知る。 

2023年7月8日土曜日

御蔵島のシイタケ

                      
 7月7日の続き――。御典医桂川家に生まれた今泉よねが幕末の江戸の様子や自分の家族、出入りしていた洋学者らを回想した『名ごりの夢――蘭医桂川家に生れて』(平凡社ライブラリー、2021年)から、御蔵島のシイタケの話を。「みくら島」の章=写真=に出てくる。

 同島は伊豆七島の一つで、都心からは南へ約190キロ離れた太平洋上にある。その島と桂川家にいつのころからかつながりができた(「みくら島」には経緯が語られているが省略する)。

 「秋の風情になって来ますと、いつも思い出すのは御蔵島です。(略)その島の人が年にたしか一度江戸表へ出てきまして、島にはない物を買っては、島の物を売って帰りました」

 その折、桂川家へは「薪とか椎茸とか、時には他の産物を置いてまいりました。こちらからはその代わりにお膏薬をもらって帰りましたが、その椎茸のやわらかで肉が厚くおいしいことといったら、今はもうとうてい味わわれない味です」。

 生シイタケとも、干しシイタケとも書かれていない。やわらかくて肉厚なことから、生シイタケを連想するのだが、収穫から荷積み、海上輸送の時間を考えると、干しシイタケの可能性もないわけではないだろう。

 阿武隈高地でも江戸時代、シイタケ栽培が行われていた。いわきでは、先進地の伊豆半島から出稼ぎ人がやって来て、栽培を指導した。二ツ箭山の奥、戸渡(小川)にはシイタケ山があった。

川内村には値段の記録が残っている。『川内村史・資料篇』によると、同村ではシイタケとコウタケを江戸へ出荷した。

安政7(1860)年3月時点での相場は、シイタケ1両当たり1貫550匁、コウタケ2貫400匁とシイタケの方が高かった。シイタケはささかご・むしろ包みにして平城下から、コウタケは箱に入れて送った。

慶応2(1866)年12月には、1両当たりシイタケ中級品500匁、シシタケ(コウタケ)1貫400匁と、3~2倍にはね上がる。

というわけで、生産する側の情報はある程度探ることができる。しかし、江戸に住む消費者の声に触れたのは初めてだ。

「三尺四方もあろうかと思われる大きなかぶせ蓋の箱――分厚な板で頑丈にこしらえた大箱(略)に、ぎっしりと椎茸がつまってあとから方々へ分配するのにも困ったほどですし、邸でも当座は椎茸ぜめの有様」だった。ということは、やはり生シイタケだったのか。いや、でも――という思いは残る。

シイタケはニューギニアからサハリン(樺太)まで分布する。南洋上空に漂っていたシイタケの胞子が、台風の背中に乗って北へ、北へと運ばれた――そんな空想も許されるだろう。

阿武隈高地は、東日本大震災に伴う原発事故が起きるまでは、シイタケ原木の一大供給地だった。原木シイタケ栽培農家も多かった。「みくら島」を読みながら、シイタケにまつわるあれこれを思い出した。