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2018年2月6日火曜日

テレサの番組は見てしまう

 日曜日(2月4日)、いわき昔野菜フェスティバルが開かれた。夜の懇親会にも出席した。帰ると、「(田村市の)実家から電話があった、63歳のいとこが亡くなったって」とカミサンがいう。
 きのうの朝、実家の兄に電話して確かめる。亡くなったのは叔父の子ども(小名浜の日本水素の社宅で生まれ育った三姉妹の末っ子)だ。土曜日の夜に目を閉じた。ガンだった。彼女はどう思っていたかわからないが、私にとっては妹のような存在だ。2歳上の長女は姉さん、1歳下の次女は学業のライバル。高専に入って、ときどき、社宅を訪ねた。6歳下の小学生の末っ子がニコニコして迎えてくれた。
 
 なんで一番下が?――と思いながらも、実家の兄との会話がリフレインしてならなかった。「胃ガンの系統だからな」。叔父がそうだった。私の姉も、それで亡くなった。ほかにも祖父などがガンで亡くなっている。
 
 彼女の魂は小名浜へ戻ってきただろうか。戻ってきたとしても、社宅はとうにない。遠浅の海も松林もない。臨海工場群を見て行き惑うだけだったのではないか。叔父夫婦、つまり両親も退職後、長女のもとに移り住んで都会の人になった。墓もそちらにある。
 
 夜、BS朝日の「テレサ・テン~歌声は国境を越えて」を見た。毎年、どこかのBS局がテレサの特集番組をやっている。同工異曲だが、哀愁を帯びた透明な歌声に引かれて、たいがいはチャンネルを合わせる。還暦を機に始まった海外修学旅行で台湾へ行ったこと、仲間の一人がテレサの大ファンだったことが大きい。
 
 午後6時から9時までの3時間、テレサと同じ丸顔の末っ子の顔を思い浮かべながら見続けた。「ふるさとはどこですか」=写真=の歌になったとき、そのふるさとをなくした人間がいるのだと、少し心が湿った。

2017年10月16日月曜日

70歳の再デビュー

 土曜日(10月14日)は午後、二つのイベントに参加した。吉野せい原作の「洟をたらした神」上映会&トークショー(いわきピット)が終わるとすぐ、「まちなかアートフェスティバル玄玄天2017」の開幕に合わせたトークイベント「いわきの現代美術の系譜~緑川宏樹編~」(アートスペースもりたか屋)に合流した。
 日曜日は朝8時から、地元の公民館まつりでテーブルやいすを出したり、テントで物売りの番をしたりした。館内外でイベントが行われた。区長協議会が実行委員会の軸になっている。要は裏方だ。

 曇天のまま終わるかと思ったら、11時前から雨になった。園庭で行われた芸能発表は、舞台が屋根付きのトラック。その前にいすを用意したが、プログラムの3分の2が終わったところで観客はテントと玄関口に引っ込んだ。雨でテントの片づけができないため、予定より1時間早く解散した。
 
 家に帰って一休みしたあと、街へ出かけた。前日の玄玄天トークイベントのとき、玄玄天に作品を発表した高木武広さん(小名浜)から「ぜひ作品を見てほしい」といわれた。
 
 彼とは、昭和40年代半ばから10年間、いわきの美術シーンをリードした草野美術ホールで知り合った。今年(2017年)5月、阿部幸洋新作絵画展が平のギャラリー界隈で開かれた。スペインに住む阿部も、草野美術ホールの“同窓生”だ。そこで、四十数年ぶりに高木さんと顔を合わせた。

 作品5点がアリオスの1階東口ウォールギャラリーに展示されていた。作品を発表するのも四十数年ぶりではないだろうか。確か、私より1歳年上のはずだから70歳の再デビューということになる。結婚して商売を始め、子育てを終え、店を閉じた。あとは好きな美術に没頭しよう、となったのだろう。

 作品のひとつ、「時の移ろい」=写真=は5センチ大の標本箱風仕切り648個で構成されたミクストメディアで、それぞれの標本箱には貝、石、棒、平面の色絵などが配されている。
 
 若いころの作品は忘れたが、若い人たちの玄玄天にふさわしい挑戦的で実験的な作品だ。個々の小宇宙で構成された大宇宙=画面全体になにか仕掛けがありはしないか。たとえばだまし絵とか、別のなにかが浮かび上がってくるとか……。目を凝らしたが、なにかが見えてくることはなかった。
 
 草野美術ホールの“同窓生”は、もう何人も鬼籍に入った。松田松雄、緑川宏樹、山野辺日出男、同年代のK、後輩のH、S……。生活者としての時間を全うした高木さんの若々しい再始動に胸板が共振した。

2017年10月10日火曜日

小名浜・リスポへ

 体育の日のきのう(10月9日)は、カンヅメになってキーボードをたたき続けた。午後3時前、文章があらかた仕上がったので、気分転換を兼ねて出かけることにした。
 四倉の道の駅? いや、若い人たちが主催している小名浜本町通り芸術祭をのぞこう。といっても、行ったら終わっていた、では話にならない。ネットで確かめると、午後5時までやっている。さあ行くぞ――カミサンに声をかけて出かけた。
 
 来年(2018年)1月15日に閉館するタウンモールリスポ(旧小名浜名店街)を会場に、いろいろやっているらしい。中に入ると、たまたま主催者の一人がいた。つかまえて話を聴く。小名浜の巡検結果をジオラマ化した「学歩(まなぼ)」特別編が展示されていた=写真。リスポスケッチ展、シオカゼマルシェ、フクシノワ活動展も行われていた。
 
 近くの小名浜・本町通りでも、空き店舗のシャッターを利用した小名浜昔写真展などが開かれていた。
 
 通りが人と車でにぎわっていたころの、半世紀以上も前の小名浜の記憶――。叔父が日本水素(現日本化成)に勤めていた。市街地の西郊、藤原川に近い弁別に社宅があった。小学校入学前から低学年生のころまで、阿武隈の山里から祖母に連れられてよく泊まりに行った。今なお脳裏に鮮明なものが三つある。
 
 本町通りに面した「国華堂」という店で、生まれて初めてソフトクリームを食べた。やわらかくて甘かった。
 
 平からトレーラーバスに乗り、水素前で降りて、弁別方面行きのバスを待っていたときだったか。昼間から酔っ払ったおっさんがフラフラ歩いているうちに、ヘドロのたまった側溝に頭から突っ込んだ。バタバタもがく姿が今も鮮やかだ。おっさんは周りの人に引っぱり出されたはずだ。
 
 もうひとつ。従妹に連れられて社宅の前の海で、生まれて初めて海水浴をした。寄せては返す波にめまいを感じて砂浜にしゃがみこんだ。臨海工場群が林立する前、昭和20年代後半の記憶。松林が伸び、砂浜が東へと湾曲して広がっていた。
 
 若い人たちがいろいろ仕掛けて、街に人を、活気を呼び込もうとしている。少なくともリスポはその仕掛けが効いて「名残のにぎわい」があった。
 
 そうだ、もうひとつ思い出したことがある。上の子が生まれて7カ月のころ、小名浜名店街か、隣接してあった小名浜ショッピングセンター(現駐車場)のどっちかで、ときどき飲みに押しかけた友人の若い叔父さん夫婦とばったり会った。「星の王子様だね」。奥方のサチコさんにいわれた。「星の王子様」は、今は2人の男の子の父親だ。これも忘れがたい小名浜体験。

2017年9月10日日曜日

吉野せいを朗読と邦楽器で

 いわきの「百姓バッパ」、吉野せい(1899~1977年)が書いた短編集『洟(はな)をたらした神』が昭和50(1975)年、大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。
 宝生あやこの劇団手織座がこの作品を劇にして平で初演したのが翌51年7月。さらに翌年11月、せいが亡くなった直後に、せいの生まれ故郷・小名浜で追善公演が行われる。このとき、主催者から益金が市に寄付され、市はこれを基に、文学の新しい才能を顕彰する「吉野せい賞」を創設した。今年(2017年)で40回を迎える。

 吉野せい賞40周年を記念して、きのう(9月9日)、いわき芸術文化交流館アリオス音楽小ホールで、朗読と邦楽器による「吉野せいの世界」が開かれた=写真(リーフレット)。第1部は磐城桜が丘高校放送局員による作品朗読、第2部ではいわき三曲連盟と邦楽ユニット「びかむ・トリオ」の演奏が行われた。

 子どもがヨーヨーを自作する「洟をたらした神」と、9カ月で亡くなった次女を鎮魂する「梨花」が朗読された。それに先立ち、「吉野せいの生涯について」と題する拙文が紹介された。原稿を提出したあと、2~3カ所直したいところが出たが、高校生の朗読を聴くとそうは気にならなかった。逆に、思ってもいなかったところで浮いた感じの言葉があった。ま、「内部」を「内側」にする程度のことだが。

 主催したのは同賞運営委員会といわき市。運営委員長は理科系の教授だが、弓道でも知られた存在だ。邦楽の世界にも通じている。奥さんは三味線を、本人は尺八を演奏する。あいさつを聞く限りでは、ピコ太郎がペンとパイナップルとアップルをくっつけて世界に衝撃を与えたように、委員長もそのネットワークを生かして文学と朗読・邦楽の相乗効果、俳句でいう「二物衝撃」を狙ったようだ。

 委員長と尺八でつながるユニット「びかむ・トリオ」が、この日のために創作した「固い木の実」を演奏した。『洟をたらした神』のあとがきで、せいが言っている。

「ここに収めた十六篇のものは、その時々の自分ら及び近隣の思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみです。口中に渋い後味だけしか残らないような固い木の実そっくりの魅力のないものでも、底辺に生き抜いた人間のしんじつの味、にじみ出ようとしているその微かな酸味の香りが仄かでいい、漂うていてくれたらと思います」

 この「固い木の実」からインスピレーションを得たのだろう。『洟をたらした神』は、向き合えば向き合うほどなにかを放射してくる。私も自分の“総合学習”の教材として、『洟をたらした神』を座右に置いている。そのときどきに発見がある。今度の邦楽との融合もそのひとつだった。

2017年7月22日土曜日

海から吹いて来る風

 朝、すでに室温が30度近くある。日中は、扇風機をかけても31~33度まで上がる。茶の間がそうなので、在宅ワークどころではない。昼寝もできない。
 肝心のノートパソコンが、うなりをあげて熱を発している。室温が高いところに、パソコン自体が熱くなるためか、この10日の間に2回、使用中に突然、電源がオフになった。若い人にみてもらったら、バッテリーの寿命が尽きつつあるらしい。しばらくおいて熱が引いたあと、電源をオンにすると復活する。が、いつパソコンの“心臓”が止まるかわからない。若い人のアドバイスに従って、バッテリーその他を買い替えることにした。

 で、在宅ワークは朝5時前後に起きて、できるだけ“朝めし前”にすませるようにしている。昼はときどき、メールやフェイスブックのメッセージをチェックするだけ。日中はパソコンの状態が安定しないので、“ナマケモノ”になることにした。

 とはいえ、この酷暑だ。昼寝ができないのがこたえる。昼寝は一日に二度生きるための頭のビタミン剤だが、それができないと夜の9時ごろには思考力が落ちて眠くなる。

 きのう(7月21日)は午後、我慢ができずにわが家の道路向かい、駐車場をはさんだ奥にある故義伯父の家に移動した。

 わが家から海までは5キロほど。昔は海からの風が吹きぬけたものだが、今は周りに家が建て込んだために、屋根をかすめて通り過ぎる。
 
 故義伯父の家は南面に空間が広がっている。海からの風が家並みを越えて吹きこんでくる。ガラス戸のカーテンの揺らぎが心地いい=写真。直接風を受けていると、風邪を引きそうだ。上半身を障子戸で隠し、足だけを風にさらして横になった。

 東北南部の梅雨はまだ明けない。平均するとあした(7月23日)が梅雨明けの日だが、今年は体感的にはカラ梅雨、いや梅雨はなかったのではないかといいたくなるほどの酷暑続きだ。

 テレビでは、小名浜の気温がいわきの気温のように報じられる。とんでもない。涼しい海風の吹くハマの気温でしかないのだ。内陸の山田では7月、きのうまでに真夏日が計11日あった。山田の気温がいわきの気温を代表している、といってもいい。きょうとあしたは曇りで、午後には雷雨になるとか。涼しくなるなら、そしてパソコンが落ち着くなら、曇りでも雷雨でもかまわない。が、けさも太陽が顔を出している。

2017年6月25日日曜日

澄子は元気か

 5年おきに中学校の同級会が開かれる。9年前の還暦同級会では、配偶者と離別、あるいは死別したと語る同級生がいた。でも、一様に「いろいろあったが、元気でやっている」と明るかった。こういうときに決まって思い浮かぶ句がある。「花すすき誰もかなしみもち笑顔」。作者はいわき市の俳人・故志摩みどりさんだ。
 きのう(6月24日)も朝ドラ「ひよっこ」を見ながら、「誰もかなしみもち笑顔」を舌頭でころがしていた。登場人物がそれぞれに心配や悩みを抱えて暮らしている。主人公の谷田部みね子自身、父親が行方不明のままだ。ラストでみね子が、どこにいるかわからぬ父親に向かって語りかける――お父さん、みんないろいろあっけど、笑って生きています。
 
 みね子は「奥茨城村」の出身。高校を卒業すると、東京・向島のトランジスタラジオ工場に就職したが、オリンピック景気の反動で会社が倒産する。一緒に働いていた乙女寮の仲間たちは帰郷、あるいは転職する。みね子の妹分、「小名浜中」卒の青天目澄子(なばためすみこ)は、両国のせっけん工場へ。

 みね子の新しい職場は、父親も客になったことがあるレストラン。そばのアパートから通う。このアパート「あかね荘」の管理人も住人も個性的だ。

 あしたからの第13週「ビートルズがやって来る」は、もちろん昭和41年6月29日~7月3日のビートルズ来日公演を下敷きにしている。私が数え18歳のときで、高専の学生寮でも後輩たちが大騒ぎしていた。1人はチケットを手に入れて武道館へ聴きに行った。今から51年前の、忘れがたい青春のひとコマ――。

 おっと、いつの間にか「あかね荘」ほかの新しい人間に引っぱられて、乙女たち、なかでも青天目澄子のことを忘れかけていた。澄子は元気か。

 もう半月余り前になる。いわき民報が6月8日付1面に、青天目澄子役の女優松本穂香さんのインタビュー記事を載せた=写真。本人は大阪出身。いわき弁でしゃべるのが難しかったという。「平らな調子で話すことを意識」した。好きな言葉は「ひゃっこい」(冷たい)。ますます青天目澄子が身近に感じられるようになったのだが、再登場はいつのことやら。

2017年5月16日火曜日

寒暖差アレルギー?

 あの、夏のような暑さはどこへ行ったのだろう。好天のゴールデンウイークから一転、ぐずついた天気が続いている。“青嵐”にも見舞われた。
 ゴールデンウイーク後半に風邪を引いて、2日寝たら治ったと思ったのだが……。鼻水・せき・痰(たん)が止まらない。マスクをすると、鼻水もせきも治まる。熱はない。テレビのニュース番組で知った「寒暖差アレルギー」か。

「神谷(かべや)耕土」がゴールデンウイークを境に、あらかた青田に替わった=写真。山野も若葉・青葉に染まった。

 拙ブログで何度も紹介しているので恐縮なのだが、草野心平の詩に「五月」がある。

 前半8行は「すこし落着いてくれよ五月。/ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。//樹木たちが偉いのは冬。/そして美しいのは芽ばえの時。/盛んな春の最後をすぎると夏の。//濃緑になるがそれはもはや惰性にすぎない。/夏の天は激烈だが。/惰性のうっそうを私はむしろ憎む。」。

 詩の後半。「五月は樹木や花たちの溢れるとき。/小鳥たちの恋愛のとき。/雨とうっそうの夏になるまえのひととき五月よ。/落着き休み。/まんべんなく黒子(ほくろ)も足裏も見せてくれよ五月。」。この5行が好きで、5月の後半になると、いつも「早く行かないでくれよ、5月」という思いになる。
 
 若いときも5月の天気は同じだったはずだが、年をとった今は5月の寒暖の差がこたえるのかもしれない。ゴールデンウイーク中には半そでにしようかなと思いつつ、夜になると冷えるので、長そでのままでいる。おととい(5月14日)、きのうと、車は暖房、こたつもオンにしている。
 
 13日朝、茨城県鹿島沖で捕れたカツオが小名浜港に初水揚げされた。きのうの月曜日(ふだんは日曜日だが)、いつもの魚屋さんへ行くと、「小名浜に入ったカツオです」という。食べたら身がしまっていてうまかった。漁場が近い分、鮮度がいい。こたつに入って、鼻水をすすりながら、地元初水揚げのカツ刺しをつつく。お湯割りの量がいつもより増えた。「目には青葉」の「初鰹」に、「山ほととぎす」が加わるのも間もなく。

2017年4月7日金曜日

プラムの花が咲く

 小学校の入学式に来賓の一人として参加した。校庭のソメイヨシノはまだつぼみだった。
 去年(2016年)は、おととしは?――あとで、拙ブログで様子を確かめる。去年「満開のソメイヨシノが迎えるなか、新1年生が親に連れられて学校の門をくぐる」。おととし「ソメイヨシノが満開のなか、小中学校の入学式が行われる」。さきおととし「学校敷地の境界にあるソメイヨシノはほぼ満開だった」。今年は極寒の時期があいまいで花芽の「休眠打破」が遅れたのだろう。

 入学式から帰ってノートパソコンを開く。と、フェイスブックで旧小名浜測候所の標本木(ソメイヨシノ)が開花したことを知った。小名浜まちづくり市民会議といわき観光まちづくりビューローがきのう(4月6日)、確認した。いわきの、つまり東北の桜開花宣言だ。平年並みだというから、過去3年は開花が早めだったわけだ。

 今年はソメイヨシノより庭のプラムの開花が早かった=写真。いや、プラムの花は毎年、今ごろ咲く。気づくと満開だった。

 それで、思い出した。近所の家の庭にソメイヨシノの大木があった。今年の冬、伐採された。理由は? 根っこが隣家に延びたためらしい。そこにあって、風景にどっしりとした安定感を与え、春には花をまとう大きな木が消えた。間もなく満開になる――幻の桜の花を空に思い浮かべてもしようがないことだが……。

2016年11月22日火曜日

震度5弱

 目の前の時計を見たら、6時だった。最初はカタカタ、やがてガタガタ、ドドドドときた。周りの小物が落下する音がした。あわてて玄関の戸を開けて外へ飛び出した。地面がかすかに波打っている。震度5弱だという。東日本大震災のときほどではないが、しばらく忘れていた大揺れだ。
 テレビの緊急地震速報は間に合わなかった。そのあとの画面=写真=で事態が深刻なことを知る、福島県の沿岸に津波警報が出された。高さは3メートル。「すぐにげて!」の表示。
 
 震源地は福島県沖、いわきから東北東に約60キロのところだという。そのあと、余震が断続的に続いている。
 
 テレビのアナウンサーの声が穏やかなものから切迫したものに変わった。「東日本大震災を思い出してください」「いそいで逃げてください」「津波の予想の高さは3メートルです」……。
 
 座卓のそばの防災ラジオが飛んで畳に落ちた。それを元に戻してしばらくすると、自動的にスイッチが入り、警報音が鳴った。これまでに2回、防災訓練に合わせて「これは訓練放送です」と断りが入ったうえで警報音が鳴った。今度が初めての本警報だ。
 
 カミサンがひとり暮らし老人宅に電話をかける。連絡が取れた人は全員無事だった。
 
 6時49分、小名浜港で60センチの津波(第一波)を観測したとテレビが伝える。この間も余震が繰り返している。テレビから目が離せない。

2016年10月27日木曜日

小名浜代官中井清太夫

 今年(2016年)親鸞賞を受賞した、澤田瞳子の小説『若冲』(文藝春秋、2015年)=写真=を読む。後半、幕府・勘定所の下っ端役人、中井清太夫が重要な役で登場する。
 清太夫は天明8(1788)年から寛政3(1791)年までの3年間、幕領の小名浜代官を務めた。カミサンが移動図書館から借りて読み、「中井清太夫って人が出てくるけど」というので、がぜん、興味がわいた。

 小名浜へ転勤する前は、甲斐国(山梨県)の上飯田や甲府、石和・谷村の代官職にあった。天明の大飢饉対策として、幕府の許可を得て九州から馬鈴薯を取り寄せ、村人に栽培させたという。のちに当地では馬鈴薯を「清太夫芋」(あるいは「清太芋」)と呼ぶようになる。小名浜でも「清太夫芋」の栽培を奨励した。

 世は田沼時代、舞台は京都――。現代の東京では「豊洲市場」問題がテレビの視聴率稼ぎに貢献しているが、京の「錦高倉市場」は“もぐり”ではないかとそしられ、商売敵から役所に営業差し止めの訴えが出されていた。そこへ江戸からやって来た清太夫がからむ。窮地に立たされた若冲(青物問屋)らが清太夫のアドバイスで活路を見いだし、市場が存続する。
 
 作家のインタビュー記事によれば、史実として①清太夫が禁裏(皇居)の財政を預かる「口向役人」(朝廷に仕えた役人)の不正摘発にかかわった②錦市場の騒動を記した伊藤(若冲)家の史料に清太夫の名前が出てくる――ことから、特捜検事のような清太夫像を造形した。しかも、若冲の絵のファン、という設定で。
 
 清太夫の小名浜代官時代はどのくらい解明されているのだろう。『いわき市史』や『新しいいわきの歴史』を読んでも、「清太夫芋」の話が出てくるだけだ。小説では「田沼さまご隠居後は、それがしも相役たち同様、些細な罪咎(つみとが)を問われ、小名浜代官の職を追われましてな」と、後年、若冲の妹に語るくだりがある。作者は、清太夫解職に田沼後の松平定信の「寛政の改革」が影響した、とみているようだ。
 
 今年4~5月、若冲生誕300年を記念して東京都美術館で若冲展が開かれた。待ち時間が最大5時間余と、連日、大変なにぎわいだった。すっかり若冲ブームになった。これまで何度かテレビの特集を見てきたので、美術館行きは最初からあきらめていた。そうしたメディアの余熱のなかで『若冲』を読んだ。
 
 小説の醍醐味はやはり、作者の想像力による「あり得たかもしれない非日常の世界」の構築にある。