2013年1月29日火曜日

暮鳥と洋物店


カミサンの知人の家の前を通ったら、隣が更地になっていた=写真。ほぼ100年前、日本聖公会の牧師山村暮鳥一家が暮らしていたところだ。大正時代の家がそのまま残っていたとは考えにくい。建て替えられたにしても、かなり古びた感じのする家だった。「東日本大震災」後に取り壊されたか。

津波に襲われ、家の基礎部分だけになった沿岸部とは別に、いわき市の内陸部では至る所に更地がみられるようになった。震災で「全壊」や「大規模半壊」の判定を受けた家屋が1万5185棟ある。それらの整理が進んでいる証拠だろう。

震災処理は家だけでなく家財・家具などにも及ぶ。住まいが「半壊」のわが家では、しばらく中断していていた本のダンシャリを再開した。ほぼ毎日、カミサンが縁側に単行本や雑誌を積み上げる。それをより分ける。

いわきをフィールドにした地元出版物は捨てがたい。先日は、「週刊カメラ」(A4サイズ、16ページ)が出てきた。昭和58(1983年)7月1日付創刊号で、山村暮鳥を特集している。企画・製作は常磐下湯長谷町の「週刊カメラ社」。主として暮鳥研究家の故里見庫男さんが筆を執った。雑誌創刊にも深くかかわったと思われる。

なかに暮鳥の生身の姿を伝える談話が載る。平・三町目2番地に「十一屋洋物店」があった。そこへ暮鳥が来て、大番頭さんとよく話しこんでいたのを、お手伝いさんが目撃している。お手伝いさんが語るエピソードを、「週刊カメラ社」のMY(吉田光之?)氏が書き留めた。

大番頭さんは読書や文学が大好きな人だった。二人は、ひまを見つけては近くの洋食屋「福寿軒」へ通った。「カツレツ、牛ドンが二十五銭の、懐かしいよき時代でした」

「十一屋洋物店」では店頭を種物売りの「猪狩ばあさん」に貸していた。ある日、暮鳥とばあさんが話していたと思ったら、しばらくして大番頭さんから「種物売りばあさん」の詩を見せられ、「わけもわからず、ただ、みんなでふき出した」。

大正時代、平・三町目1番地には洋食屋「乃木バー」(現在は佐川洋服店)があった。「十一屋洋物店」はその隣ということになる。「乃木バー」は開業年がよくわかっていない。「十一屋洋物店」については全く知らなかった。“宿題”が増えた。

2013年1月27日日曜日

大根おろし


大人の足の親指ほどの太さに育ったのが、精いっぱいだったか=写真。秋に辛み大根の種をまいた。通常の大根よりは1カ月余り種まきが遅れた。出来は期待できない。先日、初めて収穫したら、やはり未熟なものが多かった。

それよりなにより、冬は畑の表土が凍る。夏井川渓谷では、厳寒期には凍土の厚さが5センチにもなる。アイスピック代わりにスコップを下ろしてもはね返される。そこをガチガチやって凍土にひびを入れ、はがして、辛み大根を引き抜く。ほんとうはそうなる前に収穫できるよう、種まき時期を遅らせてはいけないのだ。

まずは大根おろしだ。醤油をたらしたのを口に含む。ひとくち、ふたくち目はあまり辛さを感じない。みくち目あたりから舌が驚く辛さに変わった。なるほど辛み大根だ。残りの未熟な根と葉は? 浅漬けにする。ご飯にまぜれば「菜飯」になる。口に入れたらいつまでも根が硬くてこりこりしている。こちらは、歯が丈夫でないと難しい。

このがんこな大根は会津が産地だという。会津から知人のもとに届いた種が回ってきた。播種~栽培~収穫~採種~保存~播種のサイクルに、人と人とのネットワークが結びついて、「種の道」ができる。逆に、サイクルの一部でも切れると種は途絶える。

種は強くて、危うい。いわき市はそこで、市民の力を借りて「昔野菜」の栽培・採種拡大策を展開している。

あさって(1月29日)、中央台公民館で3回目の「いわき昔野菜フェスティバル」が開かれる。イベントの締めは「種子配付会」だ。この種子配付のおかげで、家庭菜園でいわきの昔野菜を栽培している人が増えた。辛み大根の種をくれた知人もその一人だ。再会したら、まずはお礼を言おう。

2013年1月25日金曜日

双葉町民の思いは?


2階に上がるだけで息が切れる、めまいがする――。持病(不整脈)のほかに貧血がみられるというので、年明け後に胃カメラをのんだ。大腸も調べた。血液をサラサラにする薬のせいで消化器官からじわじわ出血したのが原因かもしれないという。新たに鉄分補給の薬が加わった。

大腸の内視鏡検査を初めて経験した。リーフレットには「検査は簡単」とある=写真。その通りだが、内視鏡が大腸の奥へ入っていく際、痛くて何度か歯を食いしばった。検査5時間前から2時間をかけて、水で2リットルにした洗浄液を飲んだ。10回余りトイレへ駆けこんだ。こうして腸管をきれいにしなくてはならないのが大変といえば大変だった。

ドクターの説明を受けながら、モニターに映る自分の腸管を“旅”した。「これは憩室(けいしつ=くぼみ)です」「知事は大腸憩室出血でしたね」「退院したんでしたっけ」「きょう(23日)から公務復帰じゃないですかね」。ミリ単位のポリープもいくつかあった。それらは1年後にまた見ればいい、ということだった。

報道によると、知事は1月13日、「体がふらつく」ため福島県立医大に検査入院をした。20日には双葉町長が体調不良を訴えて郡山市の病院に検査入院をした。23日、知事は公務に復帰し、町長は退院して町議会事務局に辞職届を出した。翌24日、町長が解散した町議会の議員選挙が告示された。

体調不良が引き金になったのか、前から町長辞職を決めていたのか、そのへんは知るよしもない。が、双葉町民は2月3日町議選、3月10日町長選と続けて投票しなくてはならなくなった。同町は埼玉県からいわき市に役場機能を移すことを決めている。市内に避難している町民も多い。知り合いになった双葉町民はどんな思いでいるのか。

同じ時期に体調不良を訴えた知事、町長の健康を念じつつ、双葉町の動きに無関心ではいられない。

2013年1月24日木曜日

また自損事故!


間もなく正午、という時刻――。茶の間でテレビを見ていたら、表の方で突然、重機のようなエンジン音がした。ガシャッという鈍い金属音も飛び込んできた。やがて近所から帰ってきたカミサンが、家の前で事故が起きたことを告げる。

慌てて表に出ると、向かいの家のブロック塀に乗用車が接触していた=写真。重機のようなエンジン音は、斜めに縁石をまたぎ、歩道をふさぐようにして塀にぶつかったときの音だった。車には4色のクローバーマークが張られていた。

運転していたのは80代と思われるおばあさんだった。おばあさんの話では、わが家の隣のコインランドリーへ洗濯に来た。途中で車に乗り、道路へ出て右折しようとしたら曲がりきれずに縁石に乗りあげたらしい。車の左前部が塀にめり込むようにへこみ、タイヤもパンクしていたところをみると、アクセルの踏み込みがかなり強かったのではないか。

おばあさんは時折、胸をさするようなしぐさをした。ハンドルで打ったという。近所の人が救急車を呼ぶというのを断ったので、「必ずあとで医者に診てもらってくださいよ」と念を押すと、うなずいた。

おばあさんは高齢のために自分の車を手放した。で、ご主人の車でコインランドリーにやって来た。たまたま自転車で事故の現場を通りがかり、事故をご主人に伝えに行った近所の人が、自分の車にご主人を乗せてやって来た。ご主人も高齢のために事故の現場まで歩いてくるのが容易ではないのだった。

お年寄りの自損事故は2011年9月にも起きている。近所の郵便局から出てきた車が左折しきれずに反対車線の縁石に乗り上げ、歩道を暴走してコンビニ前の電柱にぶつかって止まった。このときもアクセルの踏み込みがきつかったのが原因と思われる。

どちらの事故でもけがをしたのは、運転をしていたお年寄り本人だけ。事故に巻き込まれた人がいなかったのは幸いだった、というより偶然だった。

2013年1月22日火曜日

オオハクチョウが飛来


日曜日(1月20日)午後、夏井川の岸辺でハクチョウを観察した=写真。前日夕、久しぶりに夏井川の堤防を車で通ったら、川がハクチョウで埋め尽くされていた。ざっと300羽、いや500羽近くはいたかもしれない。それに刺激されてのウオッチングだった。

福島地方気象台のデータ(1981~2010年の30年間)によると、小名浜の1月の平均気温は3.8度。中通りの福島は1.6度、会津の猪苗代は氷点下2.4度で、いずれも1年のうちで一番低い。

北国の川や湖に飛来したハクチョウたちは、真冬になって水面が凍れば南に移動する。極寒期の1月後半になると、夏井川(平塩~中神谷)のハクチョウたちの数が増すのはそのため。より北で越冬するオオハクチョウがコハクチョウに交じるようになるので、それがわかる。そのオオハクチョウが飛来した。北国が厳しい寒気に見舞われているあかしだ。

夏井川のハクチョウたちは、数の上では今がピークではないだろうか。夕方、新川との合流点から下流へ、中洲を中心に延々と羽を休めていたのは圧巻だった。ところが、翌日は数が半減していた。日中は枯れ田などにちらばっていて、夕方、どこからともなく集まるのだろう。オナガガモを主とするカモ類もハクチョウを盾に数を増した。

2013年1月20日日曜日

花眼


前回の話の続き。昭和61(1986)年の早春、詩集『村の女は眠れない』で知られる草野比佐男さん(1927~2005年)が、ワープロを駆使して限定5部の詩集『老年詩片』をつくった。秋には、秋田から豆本が出た=写真。本の整理をしていたら、二十数年ぶりにこれらが出てきた。どちらもご恵贈にあずかったものだ。

短期間に、集中的に書いたと思われる作品20編が収められている。「作品一」の第1行。「老眼を<花眼>というそうな」。「花眼」という言葉をこのとき初めて知った。老いて焦点が合わなくなった目と言わずに、すべてが美しく見える目としゃれる――漢字の国の人間のセンスは嫌いではない。

2行目以降。「視力が衰えた老年の眼には/ものみな黄昏の薄明に咲く花のように/おぼろに見えるという意味だろうか」と、草野さんは<花眼>の意味について考える。「あるいは円(まど)かな老境に在る/あけくれの自足がおのずから/見るもののすべてを万朶(ばんだ)の花のように/美しくその眼に映すという意味だろうか」

そのあとの展開がいかにも草野さんらしい。「しかしだれがどう言いつくろおうと/老眼は老眼 なにをするにも/不便であることに変わりはない」「爪一つ切るにも眼鏡の助けを借り/今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」。(この詩集は1編が4連4・4・3・3行、計14行のソネット集だ)

26年前、草野さんは59歳、私は38歳。「老眼」の現実には思いが至らなかった。「花眼」の言葉を胸の引き出しにしまっただけだった。そのころ、薬を何種類も飲むお年寄りを冷ややかな目で見ていた。

26年後の今、<幸い>が<辛い>に見えるどころか、<妻>と<毒>の区別がつかなくなった。薬だって何種類も飲む。それでも、生涯学習に励む人たち(たとえば、いわき地域学會市民講座は最高齢96歳)の中に入ると、まだまだ洟垂れ小僧にすぎない。

2013年1月18日金曜日

最後のダンシャリ


わが家の南隣に義弟の家がある。20年以上も前のことだが、一部屋を借りて書庫にした。東日本大震災から1年10カ月、本は無事か。無事だった。あの大揺れになだれ落ちることもなかった。

「開かずの間」に眠っていた本の“救出”を兼ねて、最後のダンシャリが始まった。カミサンがわが家の縁側に本を積み上げる。それを選り分ける。

なかに、いわきの作家・詩人草野比佐男さん(1927~2005年)の詩集『老年詩片』と『飛沙句集』、高校教諭・詩人吉田真琴さん(1933~87年)の詩集『二重風景』と『薄明地帯からのメッセージ』があった=写真。3・11後、ずっと探していた本だ。一緒に出てきた草野さんの手紙とはがきがそのへんのいきさつを語る。

手紙の消印は昭和61(1986)年3月8日。草野さんは、親戚から借りたワープロをたたいて限定5部の詩集と句集をつくる。「1冊余ったので、さて、どうしようかと考えていたら、なぜかあなたの名前が思い浮かびました」「ワープロの出現は、表現の世界の革命といえるんじゃないか」。今やパソコンがその機能を受け継ぐ。

そして、同年9月2日の消印のあるはがき。「吉田真琴詩集を作りました」「作品に見るべきものがあったら、(略)紹介いただけるとありがたいと思います」。写真に見える『二重風景』のことだ。『薄明地帯のメッセージ』は「二重風景」全編を含む吉田さんの遺稿集で、吉田さんの一周忌を前に、草野さんら友人の手で編集・刊行された。

吉田さんは反原発の立場を貫いた。3・11後、全国紙に紹介された詩がある。その一部。「<真実>はいつも少数派だった/今の私たちのように/しかし原発はいつの日か/必ず人間に牙をむく/この猛獣を/曇りない視線で看視するのが私たちだ/この怪物を絶えず否定するところに/私たちの存在理由がある」(「重い歳月」)

詩はこう続く。「私たちがそれを怠れば/いつか孫たちが問うだろう/『あなたたちの世代は何をしたのですか』と」。孫たちの未来を汚してしまった今、ことここに至るまでの無知・鈍感・安逸を反省するほかない。

2013年1月17日木曜日

人生の“伴走”曲


年が明けてからの死亡記事で思わず黙祷した人がいる。歌手の岡本敦郎さん、享年88。昭和29(1954)年発売の「高原列車は行く」が大ヒットした。そのとき、私は6歳。軽快なメロディーと明るく朗らかな歌声が骨にまで響いたせいか、今になってもマイクを向けられるとこの歌を歌う。

作詞は田村郡小野町出身の丘灯至夫、作曲は福島市出身の古関裕而。丘さんの生家である旅館の前には「丘灯至夫生誕の地」の標柱が立つ=写真。とはいえ、作詞・作曲コンビが共に福島県人と知るのはずっとあとだ。まずは歌手の名が、歌声がラジオを通して体にしみこんだ。

昭和30年4月に、小学校に入学した。その年の前後も含めてはやった歌を断片的ながら覚えている。

鶴田浩二「街のサンドイッチマン」、春日八郎「お富さん」「別れの一本杉」、菅原都々子「月がとっても青いから」、宮城まり子「ガード下の靴みがき」、三橋美智也「リンゴ村から」「哀愁列車」……。なぜか「高原列車は行く」だけはすらすら覚えて歌えた。

そのころ、新入児童のいる家では同じ年ごろの子を招いて入学祝いの宴を開くのが習わしだった。その席で、おだてにのって「高原列車は行く」を歌った記憶がある。

生まれて初めて覚え、生まれて初めて人前で歌った歌謡曲――それがのちのち、わが人生の“伴走”曲になる。単純といえば単純な話だが、それもこれも岡本敦郎さんの美声と福島県人コンビの軽やかな詞と曲が溶け合ってこそ、だった。あらためて岡本さんと、阪神・淡路大震災の犠牲者に合掌。

2013年1月15日火曜日

日曜日は「さすけねぇ」


日曜日は、宵の6時からBSプレミアムを見る。大河ドラマ「八重の桜」が地デジより2時間早く放送される。鶴ケ城=写真=などを思い浮かべながら、登場人物のやりとりを追う。初回6日、そしておととい13日。福島の人間としてはまず、方言がどう扱われているか気になった。

「待ってくなんしょ」(待ってください)「おっつけ戻る」(間もなく戻る)「さすけねぇが」(大丈夫か)「なじょすんだ」(どうするんだ)「ほだげんちょ」(そうだけど)「にし」(おまえ)……。

違和感はない。「おっつけ」は「あまた(だ)」(たくさん)などと同じで、方言というよりは地方に残る古語だろう。それも含めて意味が通じないということはなかった。(個人的には耳になじんでいた「さすけねぇ」が好きだ。語感がラテン系なのがいい)

福島県は西から会津・中通り・浜通りの三地域に分けられる。風土や文化、気質の違いを端的に表す言葉は、「~だろう」ではないだろうか。会津「~だべした」、中通り「~だばい(べ)」、浜通り「~だっぺ」と、それぞれの地域を仕切る山脈を越えて東へ向かうごとに語尾がきつくなる。

中通りで生まれ育った人間には、会津の言葉はふんわりしていてやわらかく、浜通りの言葉はとんがっていて荒っぽい、と感じられたものだ。実際、15歳でいわきの学校に合格したとき、「~だっぺ」の世界に入っていくのかと緊張した覚えがある。

話は変わって、八重の子役には引き込まれた。大河ドラマでは、「梵天丸もかくありたい」(「独眼竜政宗」)「わしはこんなとこ、来とうはなかった」(「天地人」)といった子役のセリフが耳の底に残る。八重の子役はせりふより演技、きりりとした表情が印象深かった。

2013年1月12日土曜日

メジロが庭に


この1カ月余、家の中で過ごすことが多かった。外出すると言っても、近所の郵便局へ年賀はがきを出しに行くか、街まで用があったときに車で出かける程度。極寒期を迎えつつあるから、庭に出て空を仰ぐことも、霜枯れた地面の緑を見ることもなかった。

病院へ出かける朝、庭に出てなんとなく家の周りを眺めていたら、マサキの生け垣にメジロがやって来た。すぐ車からカメラを取り出して、生け垣にレンズを向ける。が、マサキは常緑。メジロの体の色が葉の色に同化してどこにいるかさっぱりわからない。柿の木に移ったところをやっと撮影した=写真

マサキは葉の上部から赤い実をのぞかせていた。メジロの身には余る大きさだ。が、実は十字に裂けている。ちぎりやすい。軟らかい実と硬い実がある。軟らかい実を噛んでみた。甘みはなかった。でも、メジロがこの実をつつきに来たのは確かだろう。

わずか数分間のできごとだったが――。運よくメジロをウオッチングすることができた、カメラに収めることができた、というだけで、二日連続で病院へ向かう気鬱が晴れた。朝晩上空を行き来するハクチョウがそのとき現れたら、もっと元気が出たに違いない。「病牀六尺」でさえ広い世界、庭はその何倍も大きなワンダーランドだ。

2013年1月10日木曜日

ランドマーク消える


いわき市の中心市街地への行き帰りに国道6号を利用する。平・塩地内の道路沿いに大きなケヤキがあった。通勤・通学生には一種のランドマークになっていた。そのケヤキが、年が明けるとすぐ伐採され、丈の低い常緑樹だけになった=写真

所有者の知人の話では、年末に伐採の予定だった。が、業者がやって来たのは年の瀬も押し詰まってから。いくらなんでも遅すぎるので、作業は年明けに延期された。

日曜日(1月6日)昼前、知人の家の前を通ったら、作業員が大ケヤキの周りにいる。業者にとっては、それが“仕事始め”でもあったか。次の日に通ったら、大ケヤキは切断されて片隅に横たわっていた。

知人の話だと、大ケヤキは推定樹齢140年。明治維新から間もないころに植えられたらしい。2本あったが、1本は台風で折れ、目の前の国道に倒れた。さいわい車や人間に被害はなかった。その二の舞を恐れた。原発事故も影響した。

落葉樹は、3月にはまだ枝や幹をさらしたままだ。そこに濃淡はあるが、放射性物質が付着した。雨が降れば、雨とともに放射性物質が幹を伝って根っこに集まる。根っこの線量は時間がたつごとに高くなる。

大ケヤキが「風景画」の中のワンポイントとして存在感を示していたのは「帰路」だ。特に夏場、車道に面した家並みの間に大きな緑のかたまりが見えてくる。直近では、写真の中を横切っている電線ほどの高さがあった。

「塩の大ケヤキ」があるからこそ、その「風景画」は締まって見えた。緑の美しい大木だった。しばらくは喪失感が続きそうだ。(きょうはこれから磐城共立病院へ行く。診断によっては入院もあり、らしい)

2013年1月9日水曜日

自然享受権


スウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国には「万人権」というものがある。その土地の所有者や生態系に損害を与えないという条件つきながら、だれでも他人の土地に立ち入って自然環境を享受できる権利のことである。

一般の書物では、「万人権」というより「自然享受権」という言葉で紹介されている例が多いようである。具体的には夏のベリー摘み、秋のキノコ狩りをはじめ、ハイキングやスキー、水浴、釣り、野営などがそれに当たる。

原発事故が起こる前はいわきでも、市民は春の山菜採り、秋の木の実・キノコ狩り=写真(2010年秋、いわきキノコ同好会の観察会)=を楽しんできた。

ところが、放射性物質によって自然も、人間も少なからぬ影響を受けた。山菜好きや愛菌家は今も、山野に分け入り、緑の酸素を吸い、自然の恵みをいただくことができない――という精神的苦痛を強いられている。

いわき市某支所管内の、2012年4月20日~11月30日までの測定データがある(単位はベクレル/㎏)。

イノシシ肉3540、クリタケ2246、ハツタケ1432、イワナ1233、サクラシメジ1163。これがワースト5で、以下コウタケ1019、アカモミタケ923、シイタケ542、クロカワ303、アカヤマドリタケ290、タケノコ251、コシアブラ237などと続く。マツタケも100を超えた。

野生キノコを採って食べるだけの人間はともかく、自分のシロを巡って採取・出荷するマツタケハンターは、精神的苦痛のほかに経済的損失を被ったに違いない。ゆえに、自然享受権に基づく損害賠償もありではないか――年頭、キノコ好きの人間はストレスが高じてそんなことに思いをめぐらすのだった。

2013年1月7日月曜日

「アジア跳ぶ」


日本経済新聞の元日付1面は連載「アジア跳ぶ」の第1回。なかに、ベトナムに関するこんな文章があった。「12年1月、ベトナムの携帯電話の輸出額が繊維・縫製品を抜き、首位を奪った。立役者は韓国サムスン電子。09年に始めた携帯の生産は年間11億台を突破。キヤノンは同国最大の輸出企業の座を譲った」

2012年9月にベトナムのハロン湾を観光した。ハノイの空港からハロンへ向かう途中にサムスン電子の工場があり、キヤノンの工場があった。ホテルのテレビはサムスン、私たちを乗せたマイクロバスは韓国のヒュンダイ(現代)。日経の連載記事ではないが、アジア経済の牽引力がどこにあるかを思い知らされる旅だった。

その道すがら、私はどこまでも広がる水田風景を眺めながら、貧弱な送電鉄塔をカメラに収めた=写真。車中で語ったベトナム人ガイドの言葉が耳に残ったからだ。

「ベトナムでは、水稲は南部では3期作、北部では2期作。田植えが終わると、台湾・韓国・日本などへ出稼ぎに行く例が多い」

「若者の農業離れが起きている。農村から都市部の工場に勤め、週末になると帰宅する」(日曜日夕刻の幹線道路は、農村からハノイへ戻るバイクの群れであふれていた)

「ベトナムは農業国から工業国へと向かっている。電気が足りないので、ロシアと日本の協力で原発をつくることを決めた」

野田前首相が一昨年暮れに原発事故の「収束」宣言をしたのは、ベトナムなど海外の「顧客」向け(不安一掃作戦)でもあったかと、今にして思う。

2013年1月5日土曜日

連続記録途切れる


ほぼ1カ月ぶりに夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。遅まきながら床の間に正月のもちを供えて気持ちを新たにした。極寒期へ向かっている今、台所と洗面所の水道管が無事であることを確かめたら、あとはすることがない。畑の表土は凍っている。対岸の森に雪が残っていれば、動物の足跡=写真=を探しに行くのだが、雪はない。

無量庵で家庭菜園を始めてから16年余になる。現役のころは毎週末、無量庵に泊まって野菜を栽培しながら土づくりをした。その一環として自宅から生ごみを運び、畑に埋め込む。夫婦二人きりの生活。日々、台所から出る生ごみは大した量ではない。それでも、10日ほどでバケツにいっぱいになる。

なにも満杯になるのを待つ必要はない。毎週末、車で無量庵へ生ごみを運んだ。リサイクルすることがそのまま有機肥料投入になる。その回数は年に45~50回、最近は行く回数が減ったから、これまでに計750回前後か。

今回も生ごみを運ぼうとしたら、暮れに「燃やすごみの日」に出したから、ないという。理由は簡単だ。師走の中・下旬、体調を崩して家にこもりきりになった。無量庵へ出かける前にバケツが生ごみでいっぱいになった。それこそ16年余ぶりに「燃やすごみ」の中に生ごみが入れられたことになる。

逆に言えばこの16年余、収集日に生ごみを出さないのがひそかな自慢だった。鉄人衣笠祥雄さんや金本知憲さんと比べるのはおこがましいが、生ごみリサイクルの連続記録が途切れたのは痛い。痛い以上に悔しい。

2013年1月3日木曜日

初もうで


1月2日。カミサンの実家へ行くのに、いわき駅前経由で岡を越える揚土~八幡小路ルートを利用した。いわき駅前の「ラトブ」は午前10時に初売りが始まる――カーラジオ(FMいわき)がそう告げていた。初売りの様子を見なくてはと、平坦地を行くルートを変えた。開店30分以上前だったためか、客は入り口にかたまっている程度だった。

お城山の西、八幡小路に飯野八幡宮がある。門前の車道に駐車の列ができていた=写真。これがあるので、例年は岡越えルートを避ける。元日には初もうで客がつめかけ、終日ごった返した。息子一家が午後遅く出かけたら、参拝の行列ができていた。「拝むのに1時間もかかるので帰ってきた」という。

飯野八幡宮はいわきを代表する神社だ。にしても、夕方近くになっても参拝の行列が途切れなかった、というのはすごい。

神社の先、岡を下りた道路沿いにカミサンの実家がある。例年、正月三が日は初もうでの車の往来が絶えない。二日目のきのうもそうだった。初もうで客の多さが話題になった。「今年は天気に恵まれたから」。それだけか。

3・11後、被災地では神や仏に願い事を託すことが多くなったのではないか。私も胸中で祈ることが増えた。放射線量の低下が第一、そして事故を起こした原発の冷温状態持続を、それに加えて最近は持病の安定を。

放射線量でいえば、いつも初もうでをしていた社寺に足を運べなくなった人は少なくないだろう。双葉郡からの原発避難者はいつもの社寺へ出かけたのだろうか。いわき市内の社寺で参拝を済ませた、という人もいるのではないか。飯野八幡宮の込みようは、そんなことも反映しているように思えてならない。

いずれにしても生きにくい困難な時代、初もうでは1年の始まりの、自分に対する景気づけ、元気づけでもあったろう。